月曜日, 2月 22, 2016

杉並 窪地・水路跡散歩:桃園川を養水する窪地の水路跡を辿る

先回、神田川の谷筋から青梅街道の通る台地の尾根筋に上る途中、思いもよらず窪地に出合った。そこには如何にも水路跡といった道筋が通っている。神田川の谷筋と青梅街道の尾根筋までは上りだけ、途中に窪地、しかも水路があるなど想像もしておらず、どうなっているのか、その「正体」を確かめるべく窪地を辿った。
結局その窪地は小沢川の沢筋であったのだが、そのメモをするに際し、カシミール3Dで数値地図5mメッシュ(標高)を読み込むと、見事に小沢川の沢筋が窪地として表示されていた。
それはそれで結構感激したのだが、地形図を眺めていると、窪地はその他にも善福寺川の谷筋から青梅街道の尾根筋に北に切り込むもの、桃園川の谷筋から青梅街道の尾根筋に南から切り込むものなど、いくつもの窪地がある。
青梅街道の尾根筋に南や北から切り込む窪地は大半が名も無き沢ではあろうが、阿佐ヶ谷や荻窪あたりから桃園川の谷筋に向かう窪地は、桃園川の水源を補う養水路跡とのこと。

いつだったか桃園川を辿ったことがある。その時はささやかな水路であるなあ、などとお気楽に考えていたのだが、天沼の弁天池を水源とするだけでは天沼・阿佐ヶ谷村の田圃を潤すには水量が足らず。千川上水を練馬の関町で分け青梅街道の尾根筋を通した六ヶ村分水や、善福寺川から青梅街道の通る尾根を掘り抜き、桃園川に水を通していたわけだ。 ということで、今回は桃園川への養水の流路となっていた阿佐ヶ谷や荻窪あたりの窪地を辿ることにする。

本日のルート;
堀ノ内支流
武蔵野橋>本村橋へと南下する道筋とクロス>妙法寺から東京立正学園へと続く道筋とクロス>荒玉水道道路とクロス>水路跡の案内と奇妙な車止め>源流点に到着
●五日市街道・大法寺>青梅街道を東京メトロ・南阿佐ヶ谷駅に
天保・新堀用水
胎内堀り出口>馬橋児童遊園>阿佐ヶ谷にしはら公園>馬橋通りとクロス>阿佐ヶ谷駅から東京メトロ東高円寺へ南東に続く道とクロス>桃園川・旧東橋に合流
桃園川緑道
旧東橋>旧内手橋>旧馬橋>旧宮下橋>杉並学院南の「桃園川流路図」>桃園川緑道入口


堀ノ内支流を辿る

阿佐ヶ谷の窪地を彷徨うべく、杉並・和泉の自宅を出る。家を出て青梅街道に進むに際し、ついでのことでもあるので、先日の小沢川散歩の際に造った地形図でちょっと気になっていた、妙法寺の西側を善福寺川から弧を描く窪地を辿ることにした。特に名前はないのだが、窪地の谷頭辺りに堀ノ内小学校があるので、「堀ノ内支流」とでもしておこう。
堀ノ内支流跡(仮称)と思われる、ゆるやかに弧を描く道筋は善福寺川の武蔵野橋近くに下っている。武蔵野橋は、昔の富士銀行のグランド、現在の済美山運動公園の北、善福寺川が北に大きく半円を描き荒玉水道道路が川を渡る東にある。

済美山運動公園
永福北通り商店街を方南通りに抜け、斜めに入る道を進み崖の坂を下る。この坂を大正寺坂と称する。左手の済美山運動公園は、かつて日本済美学校が建っていた。地名が堀ノ内にも関わらず、済美小学校、済美養護学校など「済美」を冠した学校が残る所以である。
西に進み善福寺川にあたる。現在は流れは一本化されているが、メモの参考にと杉並郷土資料館で購入した『杉並の川と橋』を詠んでちょっと驚いた。その昔は現在の善福寺川と済美山運動公園の間の低地には3本の水路が流れている。河川改修工事が行われる前の自然の川は、通常本流と左とひだりの、3つの流れになることが多いと言われるが、その通りの姿である。済美山運動公園脇を下る大正寺坂には大聖寺橋までかかっている。現在の済美小学校の辺りには「清明が池」と呼ばれる池もある。明治40年(1907)に日本済美学校が設立されたとき、水田を池に造成したとのことである。
現在は民家の立ち並ぶこの地は、かつては田圃と湿地、池、そこを3本の水路が流れる、今の姿からは想像できない野趣豊かな一帯であったようだ。

日本済美学校
明治40年(1907)、今井恒郎によって創設された私立校。全寮制の少人数教育をもとに、自然の中で働き、かつ学ぶことを重視した教育を実践したとのこと。校舎は済美山運動公園のある台地(「小屋の台」、済美山と呼ばれた)に、台地から善福寺川の本流までの間は学校の水田や池があったようである。戦後校舎と用地が杉並区に寄贈された。障害児教育にも取り組んだようで、それが現在の済美養護学校に繋がるのだろう。

堀ノ内支流の善福寺川合流点・武蔵野橋
成り行きで善福寺川まで進み、川に沿って整備された遊歩道を少し上流に向かうと、親水公園といった造作で整備がされている済美公園があり、その先に武蔵野橋がある。平成2年(1990)3月完成の歩道専用橋である。
橋の下に結構大きな排水口がある。窪地からの水の吐きだし口であろう、か。武蔵野橋辺りを窪地からの沢筋の終点との予測はそれほど間違ってなかったように思う。

荒玉水道から分かれ南下し本村橋へと南下する道筋とクロス
武蔵野橋を渡り、如何にも水路跡といった弧を西に向かって描く道筋に入る。車止めもなく、一部片側が高くなっているといった水路跡を思わせるような道を進む。
西北に向かって緩やかな弧を描く道は荒玉水道道路に最接近した辺りから東北に向かい、比較的大きな車道とクロスする。


この道は荒玉水道道路から分かれて南下し、武蔵野橋の下流にある本村橋に向かう道筋であるが、このクロス地点から見る道路の南北は、水路跡地が窪地であることをもっとも実感する場所であった。北側から下り坂となり、水路跡と道路がクロスする地点がボトムとなり、そこから南へと緩やかに坂が上っている。





妙法寺から東京立正学園へと続く道筋とクロス
車道とクロスした水路跡は、今度は東に向かって弧を描いて進む。民家の間の道筋を進む。車止めといった水路跡を示すサインはない。道を進むと妙法寺から東京立正学園方向へと東西に延びる車道に出る。車道を越えると、道筋が狭くなり車止めが現れる。ちょっと心配ではあったのだが、これで水路跡であることをほぼ確信。





荒玉水道道路とクロス
細くなった水路跡を進むと荒玉水道道路とクロス。この道も北から緩やかに下り、水路跡とのクロス地点をボトムとして南は緩やかに上ってゆく。

荒玉水道道路
荒玉水道とは大正から昭和の中頃にかけて、多摩川の水を砧(世田谷区)で取水し、野方(中野区)大谷口(板橋区)に送水するのに使われた地下水道管のこと。荒=荒川、玉=多摩川、ということで、多摩川・砧からだけでなく、荒川からも水を引く計画があったようだ。が、結局荒川まで水道管は延びることはなく板橋の大谷口で計画中止となっている。
野方と大谷口に合った給水塔は、現在その機能を終え、野方給水所は、災害用給水槽として、また大谷口給水塔は大谷口配水所として災害非常の給水施設として使われている、と。配水系統も野方は野方大谷口線から導水され、大谷口配水所は朝霞浄水場の配水系とつながっているようである。 砧給水所(現在は砧浄水場となり世田谷区の一部に給水しているようだ)からこの杉並の妙法寺あたりまで一直線に延びている10キロほどの道筋を荒玉水道道路、と呼ぶ。


水路跡の案内と奇妙な車止め
人ひとり通れるような水路跡を進む。水路跡には車止めが乱立し、中には道の真ん中に水路跡と平行な車止めが続く。どういった意図なのだろう?人や自転車は通れるが、バイクは通れないスペースを造っているのだろうか。




先に進み、片側が少し高くなった水路跡の名残を見遣りながら進むと、そがの先には極端に狭くなった箇所があり、そこを抜けると「水路跡にバイクを乗り入れないでください」といった案内がある。水路跡に間違いなし。 その先に、今度は柵のようなものが水路跡の真ん中に置かれている。何だろう?


●車止め
Wikipediaに拠れば、「棒状に地面から突き立っていて、歩道や公園などへの自動車の進入を防ぐといった目的で用いられる車止めはボラードと呼ばれる」とある。ボラード(英語: bollard)は、元々は岸壁に設置して船を繋留する目的のものであったようだ。
今ははやらないが、岩壁でマドロスパイプをくわえ、肩にいなせに服をかけ、片足を乗っけている船員姿の銀幕のスターの写真を良く見たが、足を乗っけている係船柱がぼらーどであった。



源流点に到着
その先で、水路跡は民家に行く手を阻まれる。民家の間に細路があるが、その先には車道があり、それ以上先に進むことはできない。このあたりが窪地の谷頭であろう。『杉並の川と橋』には、その昔、この辺り、堀之内小学校の裏手に低湿地があり、そこが源流点との記載があった。民家が密集する一帯に低湿地の面影はなにも、ない。
これで堀ノ内支流の窪地散歩は終了。次の目的地である、阿佐ヶ谷駅南の青梅街道から桃園川に続く窪地へと向かう。

五日市街道筋・大法寺
源流点に建つ民家の間の細路も通れそうではあるのだが、なにせ個人の敷地といったものであり、南に下り民家を迂回して車道に出る。源流点跡に建つ民家の東の車道は緩やかに弧を描き五日市街道へと続く。
先に進むと青梅街道から五日市街道を越え、堀之内の妙法寺へと北東に下る車道を越えたあたりから、道は細路となり、ほどなくお寺さまに囲まれた小径に続く。華徳院と大法寺の間の道を進み五日市街道に出る。
道の左手には先回歩いた小沢川に水を補う。千川上水・六ヶ村分水の分水点が見える。堀ノ内支流の源流点からこの大法寺まで続く道筋も、千川上水・六ヶ村分水から堀ノ内支流への養水路とする記事も見受けられたが、記録として残るものはなにもない。

寺町
妙法寺から北、青梅街道との間の堀ノ内や梅里地区にはいくつもの寺が集まり寺町をつくっている。いずれも明治の末から大正にかけて都心から移ってきたもの。堀ノ内って、中世の武士や在地領主の館のこと。館の周囲には堀を巡らしていたので、この名前がついたのだろう。梅里は梅が多くあった、というわけではなく、青梅街道に近い、というだけのことのようだ。

大法寺
案内には、「松栄山大法寺は、日蓮宗の寺で本尊は、慶安2年(1649)大願主当寺開山「利生院日善」銘のある日蓮上人坐像です。
当寺は、寛永8年(1631)に現在の新宿区牛込榎町で開創されましたが、寛文3年(1663)と江戸時代末期の2回の火災にあい、その後明治42年、現在地に移転したものですが、現本堂は昭和55年に新築されたものです。
開山は、利生院日善、開基は、旗本浅香伝左衛門直良といわれています。 当寺は、寛文3年の火災後、元禄5年(1692)に2世日堯が、檀家である旗本浅香安右衛門直武および、その子である幕府御植木奉行・御畳奉行等を勤めた伝左衛門直良の土地寄進により再興したものといわれています。
なお、当寺の境内には、江戸時代の戯作者・松亭金水(文久2年1862没)、女団十郎といわれた女優の市川九女八(大正2年没)等の墓があります。杉並区教育委員会」とある。

華徳院
「当寺は、称光山長延寺と号する天台宗の寺院で、本尊は閻魔王像です。「文政寺社書上」によれば下野国佐野(現栃木県佐野市)の地に、天台座主第3世慈覚大師により開創され、理正院と称していました。その後、武蔵国霞ヶ関(現千代田区)に寺地を拝領し、閻魔堂の別当となり、本尊を閻魔王としました。
寛保3年(1743)大寺格となり、延享年間(1744-1748)寺号を改め、大檀那堀丹後守直時(寛永20年1643年没)の法号に因み華徳院としました。
当寺の本堂には、運慶蘇生の作といわれた丈六仏の本尊・閻魔王像を中に、右には本尊と同木でやはり運慶の作といわれた奪衣婆像、左には聖徳太子作といわれた本地化馬地蔵尊が祀られ、「蔵前の閻魔堂」と呼ばれていました。また、「江戸三閻魔」の一つにも数えられ、地獄の釜の蓋もあくといわれた正月と7月の16日の大斉日には参詣人で大いに賑わったといわれています。
しかし大正12年の関東大震災によりこれら仏像も伽藍とともに焼失してしまい、その跡には日光輪王寺より閻魔王を迎え、境外堂としてお堂が建てられました。 伽藍は大正2年より区画整理のために墓地を現在地に移していたことから、移転先を現在地と定め、昭和3年本堂を再建し、牛込千手院行元寺の閻魔王像を本尊として迎えました。
蔵前のお堂は昭和20年の戦火により焼失しましたが、閻魔王像は焼失を免れ、当寺に安置されています。 杉並区教育委員会」と案内にあった。


青梅街道を阿佐ヶ谷に

五日市街道を越え、少し北の青梅街道の東京メトロ丸の内線・新高円寺駅前に出る。ここから青梅街道に沿って、地下鉄一駅分、京メトロ丸の内線・南阿佐ヶ谷付近まで進む。
道を進み東京メトロ・南阿佐ヶ谷駅手前に青梅街道から北西に斜めに入る道があり、入り口に「すすらん」との商店街看板がある。
青梅街道
現在の青梅街道は、新宿から青梅市、奥多摩、小菅村を経て柳沢峠を越えて山梨県甲府市に至る道であるが、そもそもは、慶長11年(1605年)、大久保長安が、青梅の成木・小曾木の石灰を江戸に運ぶために整備した道である。江戸城の白壁の材料につかう漆喰を運んだ街道ではある。当時は成木街道と称された。 当然、道筋も江戸から青梅というか成木村までである。現在のように東京と甲府が車道でつながったのは昭和になってから。奥多摩湖建設の資材運搬道路を延ばし山梨と繋がった。
山梨と東京を結ぶ道路建設については、明治の青梅街道・青梅廃道散歩にメモした。


天保・新堀用水の通る窪地を辿る

胎内堀りの出口
「すずらん」通りを進み、その先に「阿佐ヶ谷パールセンター」商店街のアーケードがはじまる手前に右に折れる道がある。この道筋が桃園川を養水する天保・新堀用水の水路跡である。弁天川とも呼ばれたようである。道を曲がったすぐのところにコインランドリーがあるが、そのあたりが青梅街道の下を素掘り(胎内堀)で通した天保・新堀用水の出口のようだ。

天保・新堀用水
天保新堀用水の水源は青梅街道の南を流れる善福寺川である。天沼の弁天池を水源とする桃園川は水量が乏しく、千川上水・六ヶ村分水からの養水で水量を補っていた。しかしこの養水では天沼村・阿佐ヶ谷村は辛うじて潤うものの、更に下流の馬橋・高円寺・中野村には十分な水が届かず、その解決策として、水源を水量豊かな善福寺川に求めることにした。
取水口は現在の大谷戸橋付近。そこから善福寺川に沿って矢倉台を迂回し、途中胎内堀り(素掘り)で進み、現在の都立杉並高校の北にある須賀神社辺りの弁天池に貯め、そこから先は、再び青梅街道の走る台地の下4mから5mに、高さ1.3m、幅1.6mの地下トンネルを穿ち(胎内堀り、と称する)、青梅街道の北、桃園川に下る窪地に水を落とすことにした。この窪地には用水開削以前から新堀用水と呼ばれる自然の水路が流れていたようである。
天保11年(1840)9月に貫通した天保新堀用水であるが、その2カ月後には善福寺川に沿って迂回していた田端・矢倉台付近の土手が崩壊。その原因は「カワウソ」であった、とか。
この対応策として川筋迂回は止め、大谷戸橋付近から弁天池にほぼ直線に進む水路を計画。途中の矢倉台は550mを胎内堀りで抜ける工事を再開。天保12年(1841)のことである。
胎内堀りは馬橋村の水盛大工である川崎銀蔵が五百分の一という極めて緩やかな勾配を掘り進め、新堀の窪地と繋げた。この用水の完成により、馬橋・高円寺・中野の村は、大正の頃までその地の田圃の半分ほどをこの用水で潤した、という。

馬橋児童遊園
右に折れるとすぐにコインランドリーがあるが、そこが胎内堀りで青梅街道の尾根を抜けた水が、新堀用水の窪地に落ちたところ、と言う。
水路跡を進むと「馬橋児童遊園」との案内がある。水路跡を児童遊園としているようだ。道は北側が高い段差となり、高い塀や数段の石段、石垣など、水路跡の名残を残す。

道の真ん中にいくつもブランコや滑り台が整備された遊園には、サイドから児童遊園へのバイクなどの侵入禁止を警告する車止めが建つ。例によって、杉並区内の古い小川や用水路などを暗渠化し遊歩道として整備したことを示す「熊に跨った金太郎」のイラストである。





阿佐ヶ谷にしはら公園
馬橋児童遊園は阿佐ヶ谷にしはら公園の一筋西の通り辺りで終えるよう。その先の民家の間の道を進むと「阿佐ヶ谷にしはら公園」の南に出る。大正15年(1926)の阿佐ヶ谷近辺の地名であった、東京府多摩郡杉並町の大字馬橋の「小字」に西原という地名があるので、その名残の公園名ではあろう。
公園の南を過ぎると、「金太郎」の車止めのついた道となり、民家の間を進む。

馬橋
馬橋の地名の由来は、これまた例によってあれこれ。ひとつは、桃園川が馬で一跨ぎする程度の小さい川であった、という説。また、昔々、桃園川の湿地帯を馬の背を橋のかわりにして軍勢が押し渡ったため、といった説もある。真偽の程は定かならず。

馬橋通りとクロス
杉並第六小学校の一筋南の道を進むと、車道とクロス。馬橋通りと呼ばれるこの道は早稲田通りと青梅街道を一直線で結んでいる。入り組んだ道筋の多いこの一帯に、一直線に下るこの道に「人工的」な何かを感じチェックすると、中央線の駅開設を巡る顛末が登場してきた。この道は、幻となった「馬橋駅」開設を前提にし開いた道筋であった。

馬橋通り
大正8年(1919)のこと、当時の中央線には中野と荻窪の間に駅はなかった。 吉祥寺まで電化され、交通の便として欠かせないものとなった、中央線の中野と荻窪間に駅を設けるべく、阿佐ヶ谷村と馬橋村は誘致活動を始める。鉄道省の方針としては、中野・荻窪間4キロの中間点に駅を設置する意向。
となれば、馬橋村が有利、ということで見切り発車ではあるが、馬橋駅と北の早稲田通り、南の五日市街道、青梅街道を連絡する道を開設した。それがこの馬橋通り(当時は馬橋中央通り、と呼ばれたようだ)。
が、その目論見は頓挫する。原因は馬橋駅候補地であった馬橋通りと中央線が交差する辺りの村民が土地を売ることを拒み、馬橋駅は幻と消える。
ここで勢いづいた阿佐ヶ谷村。阿佐ヶ谷駅開設を陳情するも、中間点でない、ということで鉄道省は難色を示す。困った阿佐ヶ谷村は阿佐ヶ谷在住の政治家に相談。その解決策として登場したのが、中野・荻窪間に等間隔に二駅をつくる、というもの。鉄道省もこの案を受け入れ、阿佐ヶ谷駅と、高円寺村に駅を開設する。
こうして期せずしてできたのが高円寺駅。そして、見返りを求めない政治家にせめてもの御礼として、駅から屋敷まで道を開いたのが現在のパールセンター商店街の道筋、とのことである。中央線が休日に阿佐ヶ谷と高円寺を通過すると思うのだが、それは、こういったことが遠因だろうか?単なる妄想。根拠なし。

阿佐ヶ谷駅から東京メトロ東高円寺へ南東に続く道とクロス
緩やかに蛇行する水路跡の道を進むと、阿佐ヶ谷駅から東京メトロ東高円寺へと斜めに下る道とクロスする。この道は国土地理院の今昔マップ1896にも記載されている古くからの道筋のようである。関東平野迅速地図にも記載されている。青梅街道から天沼そして練馬へと抜ける道であったのだろうか。後からメモするが、阿佐ヶ谷から練馬へと抜ける「子の権現道」への高円寺方面からのバイパスのように思える。これも根拠なし。
車道を越え車止めのある水路跡を進むと、広い車道に出る。

桃園川・旧東橋に合流
車道を少し北に進むと桃園川の緑道とクロス。道脇に「旧東橋」と刻まれた石柱。新しい石柱であり、緑道整備のときに造られたものだろうか。
ともあれ、ここで桃園川に水を補うため善福寺川で取水し、青梅街道の下を素掘り(胎内堀り)で穿ち、新堀用水の流路に落とした天保・新堀用水の水路跡である窪地をカバー。
次は青梅街道を下った千川上水・六ヶ村分水が、青梅街道の阿佐ヶ谷駅の南西から阿佐ヶ谷駅辺りを経て桃園川に水を補った水路跡の窪地へと向かうことにする。
千川上水・六ヶ村分水
千川上水・六ヶ村分水は、練馬区関町で本流から分かれ、青梅街道に沿って台地上を下り、上井草・下井草・下荻窪・天沼・阿佐ヶ谷の六つの村に水を送る用水路。乏しい水量の桃園川への養水の役割を担った。
なお、先日歩いた小沢川にも千川上水・六ヶ村分水が高円寺で分水したというし、流れは更に中野坂上まで流末が届いていた、といった記事も目にしたことがある。真偽のほど定かならず。


桃園川緑道を辿る

桃園川緑道を上流に向かう
整備された桃園川緑道を上流へと歩き、阿佐ヶ谷駅へと向かう。旧内手橋、旧馬橋、旧宮下橋を越え民家の間の緑道を進むと杉並学院あたりで道の周囲は開ける。学院運動場に接して進む緑道には「桃園川緑道」の詳しい案内があり、本流・支流が入り乱れる桃園川の流路がよくわかる。


水路図の全体を写真に撮り、この先ルートを確認し、旧西原橋を越え先に進むと、中央線手前で緑道は切れる。中央線を越えた北に「けやき公園」があるが、水路はこの公園の周囲を幾筋も流れている。地形図を見ると、この「けやき公園」の周囲は中央線から北西に向かって窪地となっている。水路が集まる所以である。
ここからは中央線に沿って千川上水・六ヶ村分水の桃園川への養水路の流離である阿佐ヶ谷駅南の川端通り商店街へと向かう。

桃園川
いつだったか桃園川を歩いたことがある。きっかけは高円寺駅から南に下る商店街をクロスする暗渠道に出合ったこと。この水路跡は何だ、ということで上流に向かうと当時は西武グループ、堤義明氏の邸宅となっていた辺りが源流であった。源流点の弁天池は当時邸内にあったのだが、数年前偶然その地をかすめたときは、区の公園として整備されていた。
一方、下流へと下ると桃園川の名前の由来ともなった「桃園」があった中野駅辺りを経て、大久保通りの南を進み山手通りを越え、大久保通り・末広橋で神田川に合流する。
カシミール3Dで数値地図5mメッシュ(標高)を読み込み作成した段彩図を見ると、誠にささやかな流れである桃園川に比べて、桃園川の開析した谷筋は結構大きい。気の遠くなるような時をかけて開析していった痕跡であろうか。
因みに、武蔵野台地は多摩川が押し流した氾濫原である砂利・礫層と、その後の火山活動で積もった火山灰である関東ローム層から成る、と言う。通常、武蔵野台地を流れる川は、この台地を削りってできたとされる。ただ、上述『杉並の川と橋』には、武蔵野台地を流れる河川は、火山灰が降る以前、水によって刻まれた多摩川氾濫原=「多摩川の名残り」である、と言う。
礫層を流れていた川筋には、その後の火山活動による火山灰は積もることなく流され、水がながれていない場所に火山灰が積もり関東ローム層となり、現在の凸凹の地形を造りあげた、と説明されていた。なんとなく納得。




千川上水・六ヶ村分水からの桃園川への養水路
①阿佐ヶ谷川(仮称)の窪地を辿る

かわばた通り・川端商店街
「けやき公園」脇から中央線の高架の北に沿って阿佐ヶ谷駅に。先ほど杉並学院のグランド南の桃園川緑道にあった水路図を頼りに養水路筋に。そこには「かわばた通り」との看板があった。如何にも水路の名残を留める通りの名前である。



阿佐ヶ谷川
桃園川緑道にあった水路図には、この桃園川への養水路も示されており、それによれば、杉並第七小学校辺りで青梅街道から分かれた千川上水・六ヶ村分水は、杉並第七小学校の北でふたつの流れに別れ、ひとつは阿佐ヶ谷駅の西に向かい、中央線に沿って東に流れ、阿佐ヶ谷駅の東にある「くぬぎ公園」辺りで本流に水を注ぐ。
もう一方の流れは杉並第七小学校の北から現在の川端通り商店街の少し南を阿佐ヶ谷駅の南に進み、駅の南で北に流れを変えて中央線に沿って東に向かい「くぬぎ公園」で本流に合わさる。

釣り堀や石の暗渠蓋
商店街を抜けると釣り堀がある。大正13年(1024)には営業をはじめていたと言う。その先には石の暗渠蓋。水路の名残であろう。道を左右に区切り石蓋が続く。






杉並第七小学校手前で行き止まり
杉並第七小学校手前で水路跡は狭くなく。この先行き止まり、との案内があったが、とりあえず進むも小学校の塀で行く手を阻まれる。小学校の校庭を通っているようだ。
どこか先に進む道はないものかとチェックするも、完全にシャットアウト。民間が密集する間の細路であり、不審者に見られないかと、撤収し、元に戻る。

青梅街道に合流
杉並第七小学校を迂回し、小学校の南、学校の正面入口のあるあたりから南東に下る道がある。この道が水路跡のようだ。道はほどなく青梅街道にあたる。阿佐ヶ谷川ともよばれる、千川上水・六ヶ村分水からの桃園川への養水路はあっけなく終わった。次は、荻窪駅辺りから桃園川に養水する千川上水・六ヶ村分水の水路跡に向かう。


青梅街道を荻窪へ

青梅街道を東に荻窪に向かう。青梅街道は天沼陸橋で中央線を跨ぐが、千川上水・六ヶ村分水の流路は当然のことながら、天沼陸橋に上ることなく、南側を荻窪駅に向かう道を進み、中央線をクロスし、荻窪駅前で青梅街道の道筋に合流する。

四面堂交差点で環八に上る千川上水・六ヶ村分水
流路と言えば、杉並学院グランド南にあった桃園川の本流・支流の水路図に千川上水・六ヶ村分水の流路もあったのだが、その図には青梅街道の尾根筋を進む流路は荻窪駅西の四面道交差点で青梅街道を離れ環八を北に進んでいた。
何故に?と思いメモの段階で地形段彩図をつくりチェックすると、青梅街道の尾根筋は四面道を越えた西で窪地となり、尾根道はその窪地の北から四面道へと続いている。千川上水・六ヶ村分水は窪地を迂回し、青梅街道の尾根筋を進むべく、一度四面堂交差点の北、現在の環八が通る尾根筋を通っているのだろう。


千川上水・六ヶ村分水からの桃園川への養水路
②天沼口(仮称)からの窪地を辿る

りそな銀行脇から水路跡が北に入る
JR荻窪駅の少し西、りそな銀行の東側に車止めがあり、如何にも水路跡らしき道が青梅街道から北に延びる。







天沼もえぎ公園
水路跡を進むと、右手に「天沼もえぎ公園」がある。先ほどチェックした杉並学院グランド裏手にあった桃園川水路図によれば、桃園川の水源である弁天池からの水はこの地で千川上水・六ヶ村分水からの養水路(仮称「天沼川」)に合わさる。

弁天池
上にもメモしたが、桃園川の水源であった弁天池に最初に訪た時は、西武グループ、堤義明氏の邸宅内にあり池を確認することはできなかったが、その後訪れた時は、区の公園として整備されていた。

桃園川の分流
天沼八幡の南を過ぎ、その一筋東の通りを越えた辺りで、桃園川の本流から北に水路が分岐する(前述「杉並学院裏の水路図」より)。分流は本流と平行に少し北を進み、中杉通り・阿佐ヶ谷北四丁目南交差点の南を越えるあたりから幾筋にも更に別れ、東端の流れは阿佐ヶ谷中央公園北をぐるりと廻り、窪地を「阿佐ヶ谷けやき公園」へと下っている。その他の分流も「阿佐ヶ谷けやき公園」の辺りに向かって下っている。

天沼八幡神社
弁天沼跡から100mほど東に建つ。天正年間(1573~92)の創建といわれる。天沼村中谷戸(なかがいと)の鎮守。弁天池はもと、この八幡様の土地であったが、現在の社殿の建築費用をつくるため売却し埋め立てられた、とか。弁天池の弁天様は現在境内に遷座している、と。境内末社の大鳥神社では酉の市が開かれる。

天沼・本天沼
天沼は桃園川の水源であった弁天池に由来するとの説がある。雨でも降ると水が溢れ、一面沼沢地のようになったのであろう、か。天沼=雨沼との説もある。『杉並の川と橋』にあるように、この辺りは「井荻‐天沼地下水堆」と呼ばれ、地下水面の深さ5m以浅の地域、とのこと。地下水が比較的湧出しやすい地域であり、湿地や沼が多くあったのだろう。
実際、この一帯の地名、井草=「葦(藺)草;水草」、であり、荻窪=荻の生える窪地、ということで湿地帯であったことは間違いないようだ。
天沼の北に「本天沼」って地名がある。もとの天沼村を南北に分けるとき、北が「本天沼」と先に宣言。もともとの地名の由来にもなった地域は「天沼」となっている。
それはともあれ、『続日本紀』に武蔵国「乗潴(あまぬま)駅」って記述がある。諸説ある中でも、その場所はこの天沼あたりではないか、との説もある。「乗潴(あまぬま)駅」は、武蔵の国府のある国分寺から下総の国府のある国府台に通じる街道の「駅家」。官用の往来のため、馬などを常備していた、と。乗潴(あまぬま)駅から、武蔵にあったもうひとつの駅家・豊島(江戸城付近)を経由する官道があったのだろう。ちなみに「潴」、って「沼」の意味。

熊野神社の東を南に下る道筋とクロス
桃園川故であろうか、「桃色」に彩色された煉瓦風の造りの緑道を進み、熊野神社の東から南に下る道筋と交差。その先の日本大学幼稚園の辺りから、緑道は少し趣を変え、中央部分を水路風にした造りとなる。




天沼熊野神社
緑道から少し北に離れたところにある。旧天沼村の鎮守。明治以前には十二社権現と呼ばれた。創建年代は不明だが、社伝によると「元弘三年(1333)に新田義貞が鎌倉攻めの途次、ここに宿陣し、社殿を納め、戦勝を祈って2本の杉苗を献植した」と。伝承の杉は昭和10年に枯れた。今も伐り株が残っている。

慈恩寺南を進む
その先、昭和10年創建との慈恩寺あたりから緑道は、「桃色ペイント煉瓦風」の道に変わる。民家の間を進む緑道を辿ると中杉通りに出る。中杉通りを抜けた水路跡は弧を描いた後、「阿佐ヶ谷けやき公園」に向かって下って行く。



中杉通り
杉並区の青梅街道脇、杉並区役所付近(東京メトロ丸ノ内線 南阿佐ヶ谷駅付近)から、練馬区千川通りの貫井2丁目付近(西武鉄道西武池袋線中村橋駅付近)を結ぶ道路の名称。杉並区と中野区を南北に貫くのが名称の由来。
中杉通りは、戦前、補助133号線として計画されていたが、昭和20年(1945)、太平洋戦争が激しくなったため、計画道路を防火帯とした。戦後、昭和27年(1952)に整備され都道として開通した。

「子の権現道」
この中杉通りの道筋は、かつての「子の権現道」に重なる部分が多い。「子の権現道」は甲州街道の高井戸から永福、大宮八幡から阿佐ヶ谷を経て、目白通りのそばにある「子の権現」という寺への参詣道であり、江戸の頃は往来が盛んであった、とのこと。その道筋は鎌倉時代に鎌倉と結ばれた鎌倉街道の道筋と重なるようである。

阿佐ヶ谷付近の「子の権現道」
阿佐ヶ谷付近の「子の権現道」の道筋は、青梅街道から「すずらん通り」、阿佐ヶ谷駅へと上り、駅の北、現在の中杉通りの一筋東の商店街(松山通り)を進み、阿佐ヶ谷北六丁目交差点で、現在の中杉通りに合わさったようである。
因みに、戦後中杉通りが整備されるとき、世尊院の境内の真ん中を通った。ために現在本堂は中杉通りの東に、観音堂は通りの西に分かれることとなった。

阿佐ヶ谷駅
中杉通りを桃園川の低地から緩やかな傾斜を上り、駅にある途中の世尊院の観音堂にお参りし阿佐ヶ谷の駅に向かい、本日の散歩を終える。

阿佐ヶ谷
東山道の駅「乗潴(あまぬま)駅」と比定される天沼への道筋故か、阿佐ヶ谷も古くから開けた地域、応永二七年(1420)には武将「あさかや殿」が支配したとの記録が残る。小田原北条の頃は、「大田新六郎」の知行地、江戸時代になると寛永十二年(1635)より山王権現社領(230年間も)となった。
「阿佐ヶ谷」の地名は、桃園川の浅い谷地だったことから、「浅い谷」>「浅か谷」から。明治の頃までは「阿佐ヶ谷村」と呼ばれていたが、現在、地名は正式には「阿佐谷」ではあるが、駅など昔の「阿佐ヶ谷」が使われている。

これで本日の散歩は終了。窪地には確かに水路跡があった。この余勢をかりて、次回は、今回の散歩の最初に歩いた堀之内支流のように、善福寺川に切り込む窪地を辿ってみようと思う。とりあえず、自宅の近くの環七から環八の間の窪地をカバーしてみようかと思う。