月曜日, 7月 18, 2016

奥多摩沢上り;小川谷の支流、倉沢本流で沢登りを楽しむ(再訪)

この夏の最初の沢入りは、退任前の会社の仲間と倉沢本谷に。沢仲間のTさん、2012年以来、沢にハマった沢ガール2名、そして沢デビューのSさん。はじめて沢を経験する人がいる場合は、ほぼ倉沢と決めているし、既に何度も遡行しているのだが、なにせ早朝から出掛けることが「かなわん」と、いつものんびり出掛けるため、最終地点の魚留橋まで行ったことがなく、そろそろ最終地点をクリアしないと洒落にならんとの思いもあり、倉沢本谷に向かうことにした。
早く出掛け、早く戻るが基本のTさんの段取りで、8時30分発東日原行のバスに乗り倉沢橋で下車、9時過ぎには入渓谷。戻りは2時56分、倉沢橋発であるから、林道を戻る時間を考慮して2時前に遡行終了との計画。4時間強の遡行時間であればなんとか最終地点まで行けるだろうと倉沢に向かう。

以下、倉沢本谷遡行のメモをするが、今までバスの時間との関係上、常に引き返し地点となっていた「美しい釜をもった3m滝」までは2012年9月22日に行ったときのメモを一部手直ししながら再掲し、「美しい釜をもった3m滝」より先を最後に付記する。


2012年9月22日;最初の倉沢7本谷沢遡行


2012年9月22日、会社の仲間と倉沢の沢上りを計画した。いつだったか、倉沢谷に沿った林道を進み、魚留橋から棒杭尾根を這い上がり三ツドッケへと山行を楽しんだことがある。そのとき、倉沢谷脇の林道を歩きながら、そのうちにこの美しい沢を遡上してみたいと思っていた。
今年の夏、7月に会社の仲間と古里・寸庭橋辺りの多摩川なk合流点から越沢バットレスキャンプ場(現在は休業中)まで越沢の沢遡上を楽しんだ。その時、沢ガール、沢ボーイデビューをした会社の仲間が、思いのほか沢登りにフックがかかり、再びの沢登り企画と相成った。そしてその沢候補としたのが件(くだん)の倉沢である。今回のパーティは越沢で沢ガールデビューしたうら若き女性2人と沢上りの経験豊かな中年(?)男性、そして、なんちゃって沢ボーイである還暦をはるかに過ぎた私の4人パーティ。

当日はあいにくの曇り。前日の雨の影響もあり、それまで続いた猛暑と言うか、残暑とは打って変わった涼しい朝。男性陣ふたりは、水の冷たさに恐れを成し、はやくも及び腰。沢登りを止めて、高尾山から日の出山を経てつるつる温泉でのんびりと、とか、鳩ノ巣から海沢渓谷で滝を見ようか、などとそれらしき代替案を出すも、沢ガールの無言ではあるが、強烈なる「沢へ」との目力に負け、結局は倉沢谷に。もっとも、ロープやハーネス、そして沢シューズ、着替えといった沢登りグッズで一杯のリュックを背負っての山行も大変だ、というのは男性陣二人の共通した思い、でもあった。

本日のルート;奥多摩駅>倉沢停留所>入渓>八幡沢合流>鳴瀬沢合流>釜をもった美しい3mの滝で終了>倉沢停留所>

倉沢橋停留所
倉沢橋奥多摩駅から東日原行きのバスに乗り、倉沢で降車。そこは倉沢谷が日原川に合わさるところ。谷は深く切れ込み、谷に架かる倉沢橋は橋下の高さが61m。東京都内にある1200強の橋のうちで一番高い橋、と言う。





倉沢谷に下りる
倉沢谷に沿った林道に入る。少し進むと駐車スペースがあり2台車が止まっていた。先に進み、林道脇にある標識の少し先辺りで倉沢へと下るルートを探す。切り通しの先、ガードレールが切れている辺りに、沢へと下れそうなルートがある。林道から沢までの比高差は50mほどあるだろうか、かすかに下に倉沢の流れが見えている。











ガードレール直下は足元が危うそう。念のため、ガードレールにスリングを架けて、慎重に林道から急斜面に降りる。急斜面でもあり、杉にロープをかけて安全に、とも思ったのだが、なんとか倉沢谷まで下りることができた。




入渓
2012年はハイキング姿の沢ガールも
入渓準備。沢ガールには念のため、スリングをふたつ合わせカラビナで固定した簡易ハーネスをつくり装着。10時少し前に入渓する。





2段5mの滝は高巻き
2014年8月にはヘルメット。ハーネス。
渓流シューズに
入渓点は広々としていたが、その先に深そうな釜があり2m滝左岸を高巻き。その先は沢に入るも、すぐにすぐさま2段5mほどの滝となり、再び左岸を小滝もまとめて高巻き。足元が危ういこともあり、安全のため一応ロープを張ってクリア。降りたところは小さな沢が合流し沢が急角度で曲がっていた。


「ゴーロ」を進む
2012年9月22日
2015年7月17日
その先にある釜はスリングでサポートしながら右岸をへつり、やや大きめの岩がゴロゴロする「ゴーロ」を水に打たれながら進む。枝沢が注ぐ先にある2m滝は釜があり右から巻く。

大岩の間の滝を上る
2916年には「釣り上げ」る必要もなく
2012年はほとんどスリングで
「釣り上げて」いたのだが
先に進むと大岩の間に滝がある箇所があり、水を浴びながら岩を右から巻く。前日の雨故か、急流に耐えられず、足元を掬われ転びつ・まろびつの沢ガールではある。








S字状の岩場を抜けると釜と3m滝

左岸から注ぐふたつの枝沢を越えた先のS字状の岩場にはふたつの小滝と釜。ここは沢筋を直進する。S字状の岩場を抜けると先に釜と3m滝があり、少々厳しそう。時刻も知らずお昼となっており、休憩を兼ねて昼食をとる。いつもの散歩ではメモが結構長くなるのだが、沢のメモは、至極短い割りには時間は結構たっている。2時間近くかかっただろう、か。











鳴瀬橋
2014年8月31日
休憩を終え、3mの滝は左岸の岩場は安全のためロープを使い、岩を這い上がる。岩場をクリアすると八幡沢が右岸から入るが、その先には2mの滝。右から巻いて進むと前方に大きな橋がみえてきた。鳴瀬沢にかかる鳴瀬橋である。







崖を下りる
2012年は簡易ハーネス・プールジックで
2016年にはハーネス・8環で懸垂下降で

鳴瀬橋の先で倉沢は右に曲がる。曲がるとすぐに釜があり、右岸をへつり、岩によじ登る。岩の降り場の足場は悪く、残置スリングと簡易ハーネスをカラビナで結び、慎重に降りる。












巨岩
2014年8月31日
降りると今度は2m滝。左岸の岩場をロープでサポートしながら這い上がる。這い上がった先には巨大な岩が現れる。














釜をもった美しい3mの滝
大岩の先の滑滝を、水を浴びながら進む。その先は左岸の岩場を、ロープを使って這い上がる。と、その前には釜をもった美しい3mの滝が現れる。釜は結構深そうである。









ここで時刻は2時前。倉沢バス停発2時50分頃のバスの便を逃すと、4時過ぎまで便はない。本日の沢遡上はここでお終いとする。沢用の上下で完全武装の中年の沢ボーイは名残にと釜を泳ぎ、滝に取り付き、残置スリングを支えに滝上に這い上がり、滝を滑り落ちて本日の締めとした。私は、眺めるだけで十分。

林道に上る
急斜面を林道に這い上がり、人目を少々気にしながら着替えを済ませ、30分弱歩き倉沢バス停でバスに乗り、一路、家路へと。

















●倉沢本谷の所見

倉沢谷に沿って林道が通るので安心
倉沢遡上は、誠に楽しかった。倉沢谷は日原川に注ぐ一支流であり、合流点は深い谷を形成している。倉沢谷に沿って林道が通っており、いざという時にエスケープできるのは心強いし、通常の沢遡上では源流まで進むと、後は尾根を這い上がり、別の尾根を下ることになるが、倉沢谷は、帰路は林道を戻ればいいわけで、誠に気が楽である。

入渓地点は深い谷に下って進むが、上流に進むにつれて林道との比高差が減る

倉沢橋近くの入渓地点は深い谷に下って進む事になるが、上流に進むにつれて、倉沢谷と平行して通る林道との差がなくなってくる。今回は時間切れで辿れなかったが、魚留橋のあたりでは、倉沢谷と林道との比高差はほとんどなくなる。このことも初心者中心の我々沢登りパーティには心強い。

多くの小滝と釜で初心者でも十分楽しめた
沢自体も、それほど大きな滝はなく、多くの小滝と釜が現れ、また滝を直登しなくても左右の岩場を巻いて勧めるので、初心者でも楽しく沢上りが楽しめた。




次回は魚留橋を越え、その先の長尾谷とか塩地谷まで遡上したい
今回は当初目標としていた倉沢鍾乳洞の先にある魚留橋まで辿ることはできなかった。来夏は今回の到達点からはじめ、魚留橋を越え、その先の長尾谷とか塩地谷まで遡上してみようと思う。







●2016年7月17日

釜をもった美しい3mの滝から魚留橋へ



2016年に初めて倉沢に入って以来、毎年一度、多い時には二度ほど倉沢に入渓していたのだが、すべて上記「美しい釜をもった3m滝で時間切れとなっていた。今回、早く行動したこともあり、3m滝から魚留橋手前の倉沢鍾乳洞跡の橋跡まで進んだ。


釜をもった美しい3mの滝を左岸高巻き
釜前でお昼休憩し、行動開始。Tさんは一度遊び半分に釜を泳ぎ、3m滝を這いあがったのだが、今回は高巻きとする。右岸林道に上がるのは何だかなあ、ということで左岸で高巻きできる地点を探すと、釜付近は絶壁で登れそうにないが、少し下流に戻ったところから這い上がれそうなルートを見つけ、崖を高巻きし水線に戻る。




4m滑状の滝
水線に戻ると4mの滑状の滝。その先にも小滝が続く。









大岩
その先に大岩。大岩2m滝は左手の滑状の小滝を進む。その先は大岩の間に小滝が見える。リードするTさんは迷わず大岩を潜る。段差はそれほどないが結構なシャワークライム。水を浴びながらもメンバー一同楽しそう。








45m滝左岸を巻く
美しい渓相の滑状の小滝の先に5mほどの滝。ここは左岸を巻く。









4mほどの滑滝が続く
滝を巻いた先には5mほどの滑状の滝が2本続く。1本目は滝の左端を上り、2本目は結構な水勢の中、シャワークライムが楽しめる。









5m滝
その先には5m滝。ここは左岸を巻く。









石垣状堰堤
石垣状の堰堤は下部に開いた流水口を通り抜ける









倉沢鍾乳洞跡の橋跡
石垣状堰堤の先は、砂が堆積した為だろうか、一瞬平坦地となり、そろそろ終わりか、と期待するが、林道との比高差は結構ある。案の定、その先は岩場となるが、ほどなく橋の石組み土台跡。今は閉鎖されているが、倉沢鍾乳洞への橋跡であった。
時刻は2時前。着替えや林道をバス停に戻る時間を考えたらそろそろ終了の時間。その先に魚留め橋が、とは思えども、ここで終了。倉沢鍾乳洞の橋に続いていた石段を上り林道脇で着替えし倉沢橋バス停に戻る。

今回はじめて「美しい釜をもつ3m滝」の先に進んだのだが、これがバリエーション豊富で結構面白いルートだった。
当日は曇りで泳ぐ、という雰囲気ではなかったが、猛暑に泳ぎ中心で倉沢に入ろうと思う。

金曜日, 7月 08, 2016

伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅦ:旧東予市内(一部丹原)の河野氏ゆかりの地を辿る

宿敵細川氏との和議も整い、外敵侵入の怖れから解放され、一時の平穏を取り戻した河野氏であるが、今度は家督相続を巡る一族間の抗争が勃発。河野一族間の抗争には、河野惣領家には管領畠山氏、対する予州家には細川氏が支援するなど、中央政界の勢力争いも絡み、伊予は内戦状態に陥ったという。
伊予守護も惣領家、予州家と中央政界の勢力図に応じて交代するなど混乱を極めるが、畠山氏の衰退により庇護を失った惣領家は威を失い、予州家が細川氏の庇護のもと伊予を制圧することになる。
予州家を尖兵に伊予の支配を目した細川氏であるが、予州家を外し直接伊予の支配を目するにおよび、予州家は大内氏と結び細川氏と対峙することになる。 このような状況の中、室町幕府の管領である細川氏と山名氏が対立し応仁の乱が勃発。河野惣領家は細川氏、予州家は山名氏に与し国元でも相争うも、内乱終結後、予州家当主で河野家第34代当主・通春没後、惣領家が勢を回復することになる。100年におよぶ一族間の抗争は惣領家の勝利に終わるが、この抗争のため河野氏は疲弊し、戦国大名として名をなすことができなかった。と言う。

惣領家と予州家のは終結するも、国内外の危機的状況に対応する力は河野氏にはすでになく、毛利氏と同盟。毛利氏の支援も得て内外の敵に対するが再び家督相続が勃発。来島村上家の村上通康を後継者と目する河野通直(第36代)と河野家重臣が対立。抗争の末和議が成立するも、国内の叛乱勢力に苦慮し河野氏の疲弊は続く。
こうした状況の中、秀吉の四国攻めがはじまる。進退の結論もまとまらず、結局は秀吉勢の先鋒である毛利の小早川の勧めで降伏し、歴史ある河野氏は滅亡することになる。





室町時代

河野氏は、惣領家と予州家に一族分裂し、伊予は内戦状態に。
100年余にわたる一族の抗争により河野氏は衰退し、
戦国大名へと成長することはなかった


河野通之(第31代)・通久(第32代)・教通(第33第);河野家内紛の火種

第30代当主・通義の逝去にともない、弟の通之(予州家の租)に家督が譲られ、義満からも伊予守護職に補任される。第31代当主となった通之であるが、通義の嫡子が湯築城で元服するとともに通之から家督、伊予守護職を譲られ、応永16年(1409)、第32代通久(当初は、持通)となる。しかしながら、このことが通久の家督相続に不満をもつ通之の嫡子・通元との対立の火種となる。
通久は、豊後の大内氏の内乱での反幕方の追討に出陣するも討死。河野家の家督は嫡子・教通(第33代)が継ぐ。教通は永享の乱、嘉吉の乱など幕府の命に従い討伐軍として出兵した。この頃までは幕命に従い中央に出兵する力をもち、かつての南朝方の勢力を配下に入れ細川氏と和睦を保ちながら一応守護大名としての力を保っていたようである。が、伊予国内では惣領の座を狙う予州家の通元や、その嫡子通春との対立が深まる。この惣領家と予州家の対立により、伊予国内は内戦状態にあったとされる。
永享の乱
永享の乱(えいきょうのらん)は、室町時代の永享10年(1438年)に関東地方で発生した戦乱。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発する、室町幕府6代将軍足利義教が持氏討伐を命じた事件、戦いである(「Wikipedia」より)。
嘉吉の乱
嘉吉の乱(かきつのらん)は、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。嘉吉の変(かきつのへん)とも呼ばれる(「Wikipedia」より)。


予州家・通春(第34代当主);細川氏の庇護で勝利するも、細川氏の「通春外し」対策で大内氏と結ぶ

教通は室町時代の永享10年(1438)、鎌倉公方と関東管領の間で発生した戦乱に室町幕府6代将軍足利義教の命をうけ討伐軍として出陣、赤松氏が足利義教を暗殺した嘉吉の乱(嘉吉10年;1441)に赤松氏討伐軍として出陣するなど中央政界でも活躍。細川氏との和睦を保ちながら、伊予の守護大名の体制を整えていった。
しかしながら、伊予ではこの間も宗家と予州家の抗争が続く。嘉吉の乱の後幕政の実権を握った細川氏と畠山氏の両管領家は、予州家・通春には細川氏、宗家・教通には畠山氏が支援するといった「代理戦争」の様相も呈する。 文安6年(1449年)に予州家の通春(第34代当主)は伊予守護に就任するも、翌年に教通に交替。享徳2年(1453年)には、再び守護職に補任されるといった混沌とした状況が続く中、享徳4年(1455年)には畠山氏の衰退に乗じ細川勝元が「強引に」伊予守護職になる。結局予州家を先兵とし細川氏が伊予を支配し、「四国管領」を実現することになる。
畠山氏の庇護を失った惣領家・教通は威を失い、伊予国内は予州家の通春が影響力を強める。教通は京で守護職回復の嘆願をしていた、と言う。細川氏の庇護のもと伊予を事実上制圧した通春であるが、次第に細川氏と敵対するようになる。
寛正4年(1463)、重見・森山・南・得能・和田氏が細川氏と結び、細川軍を伊予に引き入れる。このとき、通春は惣領家と講和を結び細川勢に対抗する。細川氏と予州家の通春の手切れの理由は不明だが、細川勝元は通春を排除し、大野・森山・重見氏と結び、伊予の直接支配を目したのがその因との記事もある。 河野氏は伊予に侵攻した勝元の軍勢のため危機に陥るが、通春は細川氏と対立関係にある大内教弘の援軍を受けて細川氏を撃退する。畠山・細川の対立の図式から、今度は細川・大内の伊予を巡る対立図式に模様替えの様相を呈する。 伊予の勢力は、細川・大内氏といった大名間の対立抗争に翻弄されながら、応仁の乱へと向かうことになる。

応仁の乱後の惣領家と予州家の抗争
第34代河野家当主・通春は、応仁元年(1467年)からの応仁の乱では山名宗前の西軍に与したが、通春の在京中に東軍についた河野惣領家の教通が、細川勝元死後の文明5年(1473年)に伊予の守護職となり、伊予における基盤を固めてしまう。通春は、乱後に伊予に帰国し文明9年(1477年)に4度目の伊予守護に任じられ、翌文明10年(1478年)には教通と和気郡にて戦ったが、敗れている。
文明11年(1479年)、阿波から侵攻してきた細川勢に対しては、宗家・教通(通久と改名)と一時的に和睦し撃退している。応仁の乱で教通が在京のため阿波・讃岐の兵を率い侵入した細川義春に対し、教通の弟通生が指揮をとり、その子の勝生に世田山城(「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅤ」でメモ)を守らせた。また、通春も宗家の危機を憂いその子通篤に命じ大熊城(「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅡ」でメモ)を守らせた。
文明14年(1482年)は通春が病没した。予州家の家督は子の通元(通篤)が後を継ぐ。

通春没後もその子通元(通篤)と惣領家の通直(教通の改名)・通宣の対立は続く。明応9年(1500)、通直(第33代・教通が改名)は湯築城(松山市)で没し、その子の通宣が家督を嗣ぎ第35代当主となる。その後も、20年ほど宗家・通宣と予州家・通篤との対立が続けられたが、通篤の勢力はしだいに衰退し、ついに敗れて防州宇部に去り、予州家は没落していった。

通春(予州家)と教通(河野宗家)の抗争は一応の終結をみるも、100年余りに渡る予州家と宗家の抗争は河野氏の衰退を招き、河野氏が守護大名から戦国大名へ成長できなかった一因となった。



河野通之(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)

兄通義の病死の直前、夫人が懐妊中の子が男子であれば成長後に家督を継がせることを条件に家督を譲られたが、死後に生まれて成長した通久に家督を譲った。細川頼之より「之」を賜る。
応永元年(1394)、桑原摂津守通興(のちに壬生川氏と改める)に鷺の森城を築かせた。
続柄;通義の弟
家督:応永元年(1394)-応永16年(1409)
関係の社・寺・城:鷺の森城(東予市)

河野井戸

応永元年(1394)11月(南北朝合一後3年目、伊予国守護職河野六郎通之、その一族桑原攝津守通興をして鷺の森に城を築かせた。その後桑原氏は姓を壬生川と改めた。
此処はその頃「仕出しの館」といって鷺の森の出城であった。また口碑によると鎌倉時代、丹生川豪族井門五郎氏(河野家の一族)の館跡で、この屋敷には名泉があった。人々これを「河野井戸」と呼び愛用した

河野氏ゆかりの地を辿る

河野井戸;西条市壬生川196‐1(辺り)

通之ゆかりの地である鷺の森城は、第27代・河野通盛の項で神社を勧請し大杉を植えたとあった説明を受け、その地を訪れ、後世通之の時に城を築いたとメモした(伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅣ)。鷺の森城のメモはそれに譲るとして、小冊子にあった「河野井戸」を訪ねることにする。
場所は鷺の森城跡から今治街道・国道196号を越え、壬生川小学校の南、住所ははっきりしないが西条市壬生川196‐1辺りにあった。
井戸自体はうっかりすると見逃しそうなものではあるが、道脇に上にメモした案内があり見つけることができた。


河野通久(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)

父、通義病死のあと出生。幼少の時は叔父の通之が河野家を継承したが、成人したあと、通之から家督をついだ。
大友氏を討つため豊後へ出兵し、姫嶽城の戦いで討死。
綾延神社(丹原町)に通久の安堵状が残されている。
続柄;通義の子
家督;応永16年(1409)-永享7年(1435)
関係の社・寺・城:綾延神社(丹原町)



河野氏ゆかりの地を辿る

綾延神社

河野通久ゆかりの綾延神社については、「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅢ」の第26代河野通有の項でメモしたので、ここでは省略する。








河野教通(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)

父、通久戦死ののち河野家の家督をつぐ。文明11年(1479)細川義春が伊予に侵入したが、弟の通生や通生の子である勝生・明生らの活躍により反撃を受け敗走した。
教通は子の通宣(刑部大輔)が家督をついだあとも補佐して実権をにぎる観念寺文書に壁書がある。
続柄;通久の子
家督:永享7年(1435)-長禄元年(1457)
関係の社・寺・城:観念寺(東予市)


河野氏ゆかりの地を辿る

観念寺
伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅣ」の第27代当主・河野通盛の項目でメモしたので、ここでは省略。









河野通生『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)

通久の二男で、兄の教通を助けて河野家を守る。
文明11年(1479)細川義春が伊予に侵入したとき、一族を率いて世田山城にこもり、激戦の末細川軍を撃退した。義春は「二度と伊予には攻め入らぬ」と言った。報恩寺を創建し、当寺には寄進状が残されている。
続柄;通久の子
家督
関係の社・寺・城:報恩寺(丹原町)、世田山城(東予市)
墓や供養塔;報恩寺(丹原町)


河野氏ゆかりの地を辿る

報恩寺;愛媛県西条市丹原町高知甲589

得能通綱氏の項(「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅣ」)でメモした常石山の少し北、丹原町高知地区の高縄山地の裾にある。小振りではあるが、石垣と白い塀が印象的な臨済宗東福寺派のお寺さま。
小冊子の説明にあるように、第33代河野家当主・教通の弟である通生の創建。在京することが多かった兄の教通に代わり河野惣領家のため戦った。軍略知略優れた武将で敗れた戦は一度もなく、河野惣領家を護った。ささやかな境内の本堂向かって左手に通生が眠る。


通生ゆかりの世田山城は「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅤ」の 河野通朝(第28代)の項でメモしたので、ここでは省略。








河野明生『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)

続柄;通生の子
家督
関係の社・寺・城:瑞巌寺(丹原町)、常石城(丹原町)、興隆寺(丹原町)
墓や供養塔;瑞巌寺(丹原町) 
通生の三男で、父の通生、兄の勝生とともに、文明11年(1479)の細川氏の侵入を激戦の末に敗走させた。
得能の常石城を居城とし、瑞巌寺を再建し菩提寺として信仰。
西山興隆寺とも縁があり、禁制状、懸仏、宝篋印塔など信仰の深さがわかる。


河野氏ゆかりの地を辿る

瑞巌寺;愛媛県西条市丹原町得能550

得能通綱の居城・常石城の登山口の少し北、常石山の北の支尾根の山裾にある。堂宇ひとつのささやかなお堂、といった趣。お堂の前には「東予周桑新四国霊場第三十一番札所」の石碑が建つ。
境内にあった案内は、手書きで結構古くなっており、読める範囲を簡単にメモする。「開基:河野秋生公(又明生とも書く)。報恩寺開基通生公の三子(常石城に居る)。天文13年没。
勧請開山:観念寺鉄牛大和尚。永正9年(1512)興隆寺懸仏寄進。(注;続く説明はつながりがわからない)観念寺25世霊仙和尚の頃兵火にかかり灰燼となり小宇を結ぶ。天明7年(1787)修理一新。然れども鐘なく、村内の善男発願し小鐘鋳造。「之を懸ぐ」として寛政4年(1792)吉祥日として明記されている。 境内に「蚊帳懸杉」があり周り10メートル、高さ60メートルもあったが、明治17年(1773)の台風で倒れた」とある。

小冊子の案内にあるように、河野明生公の開基のお寺さま。開山は観念寺中興の僧・鉄牛和尚。鉄牛は越智郡か桑村郡の菅氏の一族と伝わり、京で臨済宗東福寺での修行の後、元に渡り10年滞在し、正慶元年(1332)帰国の後、ほどなく観念寺に迎えられ臨済宗の名刹としての基礎を築いた。
「興隆寺懸仏寄進」とあるが、「懸仏」とは、銅などの円板に仏の姿を鋳たもので、堂宇に懸けて礼拝した、と言う。観念寺25世の霊仙和尚の頃兵火にかかかり灰燼に帰すとあるが、年代は不明。鉄牛和尚の観念寺開山は14世紀初頭の頃と言うから、それから25世ということは、百数十年後、文明11年(1479)細川義春が伊予に侵入したとき、常石山を居城とした通生・明生が、細川軍と激戦を繰り返した折のことだろうか。

その他小冊子に説明された通明ゆかりの常石城は「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅣ」の得能通綱の項で、興隆寺は「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅤ」の第28代当主・河野通朝の項でメモしているので、ここでは省略する。





戦国時代

一族間の抗争は終結するも、国内外の危機的状況に対応すべく毛利氏と同盟。
毛利氏の支援も得て内外の敵に対するが再び家督相続が勃発。 
衰退した河野氏は秀吉の四国征伐で滅亡する


河野通宣(第35代);一族間の抗争は終結するも、内憂外患に対応するため毛利氏と同盟を結ぶ

長く続いた河野惣領家(教通―通宣)と予州家(通春―通篤)との対立抗争は終わり、河野氏は宗家通宣(第35代)によって統率せられる時代となった。Wikipediaに拠れば、「通宣が家督を継いだ頃の河野氏は、家臣の謀反や豊後国の大友氏、土佐国の一条兼定の侵攻を受け、国内では宇都宮豊綱とも対立し、領内はまさに危機的状態にあった。
重臣の村上通康や平岡房実が遠征を繰り返し、鎮圧に及んだが、もはや国内を独力でまとめる力もなかった通宣は、以前より姻戚関係であった中国地方の雄・毛利元就と従属的同盟を結び、小早川隆景を中心とする毛利軍の支援によって、土佐一条氏や伊予宇都宮氏を撃退している(毛利氏の伊予出兵)。
しかし、伊予国内への相次ぐ侵略や家臣団の離反など、内憂外患が続き心労がたたったのか、通宣は病に倒れる。嗣子が無かったため、1568年に家督を一族の河野通直(第36代)に譲って隠居し、天正9年(1581)に死去した。ただし、近年の研究によるとその死は永禄13年(1570年)頃ではないかとも言われる」とある。
宇都宮氏
出自については諸説あるが、下野宇都宮郷を本貫とする地方豪族であったことは間違いない。源平争乱記に軍功は記録として見られないが、鎌倉幕府開幕後、有力御家人として重きをなし、守護・地頭の制度施行時に伊予の守護であった佐々木氏の後、13世紀前半頃に伊予の守護職となる。後鳥羽上皇の討幕挙兵である承久の乱における軍功故とも云われる。鎌倉幕府滅亡までその職にあった、と。
伊予に移ったのは14世紀の前半。伊予宇都宮氏は大洲を拠点に戦国時代まで続き、天正13年(1585)土佐の長曾我部氏によって滅ぼされることになる。

●村上通康:来島村上氏については「伊予 高縄半島海賊衆の古跡散歩()」や 「伊予・来島群島の歴史散歩()」で数回にわけてメモした。そちらを参照してください。

平岡房実
Wikipediaをもとに、簡単にメモする「平岡 房実(ひらおか ふさざね、永正10年(1513年) - 元亀3年(1572年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。河野氏の家臣。浮穴郡荏原城城主。
平岡氏の出自についての詳細は不明であるが、徐々に浮穴郡を中心に15世紀後半から勢力を伸ばしたようである。また、房実は婚姻関係をもとに周辺勢力との連携強化にも努めていた。
房実が家臣になった頃の河野氏は、家臣団の離反や大友氏などの侵攻で衰退していたが、房実は智勇兼備の武将で、斜陽化する河野氏に最後まで忠義を尽くし、村上通康と並んで軍事・政治の両面において活躍した。


河野通宣(刑部大輔)『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)

続柄;通教の子
家督:寛正5年(1464)‐永生16年
関係の社寺:善光寺(東予市)
通宣(刑部大輔)が通堯、西園寺公俊両君公の霊を祀ったのが善光寺(安川)である。当寺には両氏の位牌が残されている。
また、本尊の薬師如来は北条恵良城内医王堂の本尊であったが、落城の後に当寺に持参したといわれている。
永生5年(1508)に善光寺を建立し、通宣(刑部大輔)の位牌も当寺にある。

善光寺
天授5年(1377)の佐々久原の戦いで、細川頼之に敗れた河野通堯、西園寺公御霊を祀るため建立された寺である。本堂に祀られる両公の位牌は近郊例を見ない大きなものである。本尊薬師如来像は風早(北条市)の恵良場内薬師堂に祀られていたもので、戦火に遭ったためこの地に移し祀られたものと伝えられる。


河野氏ゆかりの地を辿る

善光寺:愛媛県西条市安用甲1044  

善光寺は「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅥ」の第29代当主・河野通暁の項でメモしたので、ここでは省略。









河野通直(第36代):来島村上氏を巻き込んだ家督騒動が勃発

通直(第36代)は通宣の嫡男、永正16年(1519)父の跡を受け、大いに家運の隆昌を図ろうとした。しかし大永3年(1522)、享禄3年(1530)には鷹取山(今治市玉川)城主正岡経貞、府中石井山(近見山の別称)城主重見通種など国内の恩顧の武将の相次ぐ反意に苦慮することになる。
ここに至り、河野家の重臣として来島村上氏が登場。重見勢討伐に勝利する。また、隣国からの侵攻も続き、讃岐の細川氏、防州大内氏など、内憂外患の状態であった、よう。
通直の晩年に河野家の相続争いが勃発する。通直には嗣子がなく、一族老臣らは評議して予州家の惣領通政(第37代)を迎えることを進言するも、通直はそれを聴かず、妾腹の娘の聟、来島城主村上通康を嗣子とし、湯築城に入れた。老臣たちは、あくまでも通政を擁立し、通康を討ち、通直を湯築城から追放の盟約を結び、通政を奉じて湯築城を囲んで、烈しく攻め立てた。
通直に従う者は少なく、通康の家臣のみで防戦するも、村上通康の居城である来島城に逃れ帰った。通政は諸将とともに、湯築城に入り、来島城攻略を命ずるも、堅固な要害の城を落とすこと叶わず和議となる。交渉の結果は、河野家惣領は通政とし、村上通康を家臣の列に下げる代わり河野姓と家紋の使用を許すという条件で和談が成立した。これによって通直・通康は湯築城に帰還して事件は落着した。

正岡経貞
戦国時代の越智郡の領主。もと風早郡正岡郷(元の北条市。現在松山市)を本貫としたが、のちに越智郡に移ったという。河野氏の重臣。
正岡経貞は大永3年(1523)朝倉村古谷地区の西方、高取山の山頂の鷹取城を居城とする。大永三年(1523)鷹取山城主正岡経貞が一族とともに謀反を企て、近隣を攻略。そこで通直は重見・来島氏らに、その討伐に当たらせた。正岡氏も防戦につとめたが陣に下った。後年経貞は罪を許されて帰城している。
重見通種
重見氏は伊予守護河野氏の一族得能氏の支流で、吉岡殿と称する通宗を祖とするといわれている。重見氏の発祥地は諸説あり不詳。
南北朝期から戦国期に重見氏は、桑村・伊予・浮穴・風早の四ケ郡に分散していたとみられる。河野家の重臣として活躍。戦国期に至っても重見氏は、河野氏の宿老として重きをなした。
享禄3年(1530)、伊予石井山城主の重見通種は河野氏に背いた。しかし、河野通直の命を受けた来島氏に攻められて、敗れ周防に逃れる。
重見氏の家督はもう通種の弟通次が継ぎ当主となった。天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐に際して小早川隆景軍に降伏した。


河野通直;『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)

続柄;通宣の子
家督;永正16年(1519)-天文13年(1544)
関係の社寺城;長福寺(東予市)、世田山城(東予市)
父通宣(刑部大輔)病没のあと家督をつぐ。天文8年(1539)細川晴元が伊予侵入の計画があり、世田山城で戦いの準備をしていたが、細川軍の内紛により戦わすして終わる。通直には嗣子がなく、後継者争いで村上通康をかつぐも、反村上派がかついだ晴通がなる。長福寺文書(書状)に名がある。

河野氏ゆかりの地を辿る

長福寺・世田山城

長福寺は「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅢ」の第26代当主・河野通有の項で、世田山城は「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅤ」の第28代当主・河野通朝の項でメモしたので、ここでは省略する。





河野通政(第37代)・通宣(第38代);家督紛争は解決するも内憂外患が激化

通政は性廉直で武備に長じ、上洛して将軍義晴から名を晴通と賜った。彼によって久しく欝屈していた河野氏の家運も開けるかに見えたが、その期待も空しく、天文12年(1543)四月に早逝した。
その跡は予州家から通政の弟通宣(第38代)が迎えられたが、幼少のため、しばらくは通直(第36代)が後見として政務を見ることになった。これによって、家督の後継をめぐって続いた河野氏の混乱もやっと落ちつくかに見えた。 が、今度は久万山大除城の大野氏や久米郡の岩伽良城主和田通興など国内の対立抗争、さらに豊後大友氏やそれと結んだ土佐一条氏、同じく土佐の長宗我部元親が、しばしば南予の宇和・喜多両郡に侵入し、河野氏の領国を侵す状況に対応を迫られる。


河野通宣(左京大夫):『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)
続柄;通存の子
家督;天文13年(1544)‐永禄11年(1568)
関係の社寺城:長敬寺(東予市)、長福寺(東予市)、観念寺(東予市)、光明寺(東予市)、実報寺(東予市)、十地院(東予市)

兄、晴通に嗣子がなく早世したので。死後その跡を嗣ぐ。通宣(左京大夫)は病気がちなため、仏の救いを求めて血でお経を書くということになったのであろう。
「仏説無量寿経乾」「仏説無量寿経*」「仏説観無量寿経全」「仏説阿弥陀経」四冊、長敬寺(周布)
観念寺文書、長福寺文書の安堵状にその名がみられる。天文2年(1533)光明寺、実報寺、十地院再建。


河野氏ゆかりの地を辿る

光明寺;西条市三芳1603

予讃線伊予三芳駅の南東、大明神川の左岸にある真言宗御室派のお寺さま。両側から伸びたソテツ(?)を潜り本堂にお参り。通宣との繋がりを示す案内は特に見当たらなかった。
◇三芳地区の天井川
光明寺から大明神川を少し下ると、予讃線が天井川となった川床下を走る。流路定まらぬ暴れ川の頃はそうでもなかったのだろうが、永禄年間(1560-1571)に現在の流路になり、それ以降治水工事により流路が固定されると、大雨のとき上流から押し流された土砂が積み上がり、それを掘り上げて堤防を積み上げる。その繰り返しにより堤防そして川床が平地より高くなり、光明寺のある三芳地区より下流では家の屋根より川床が高い天井川ができあがった、と言う。


河野氏ゆかりの地を辿る■

実報寺;西条市実報寺甲758


高縄山地から流れ出し、河原津で瀬戸内に注ぐ北川が山地から平地に出る辺り、実報寺地域の山裾に建つ真言宗御室派のお寺様。風格のある本堂が、いい。 堂宇の前に地蔵菩薩の案内。「実報寺の地蔵菩薩像 市指定文化財 有形文化財彫刻 現在本尊としてまつられている地蔵菩薩像は、木像(材質は楠)寄木造、坐像で一丈(約3メートル)ある。
寺伝では行基菩薩作と言われてきたが、鎌倉初期の作と推定される。厨子の扉は平素閉じられいて三十三年に一度の御開帳法要の時に開かれるしきたりとなっている 西条市教育委員会」とある。県内第一とも言われる高さをもつ地蔵菩薩、とか。土佐の長宗我部軍が乱入した際、この地蔵尊を持ち帰ろうとしたが大しけに遭い、仏像を海に投げ捨てて逃げ帰り、仏像は浜に漂着したといわれている。

境内に河野氏ゆかりの案内でもないものかと彷徨うと桜の木の前に案内。「実報寺の一樹(ひとき)桜 市指定文化財 天然記念物
遠山と見しは是也花一本
寛政7年(1795年)小林一茶が一樹桜を訪ねて来て、この句をつくったことが「寛政紀行」という一茶の旅日記に記されている。 エドヒガンとかウバヒガンと言われるこの種類は、染井吉野に先がけて咲き、その純白の花は実に見事である。同種の古木が境内になお二本ある 西条市教育委員会」とある。本堂前に歌碑があったが、そこには一茶の句が刻まれているとのことである。
実報寺地区
境内には、河野通宣再建といった案内は特になかった。それはそれとして、このお寺さまの周囲の地名も実報寺と言う。お寺様の規模に比して、地域名にその名を残す理由とは?ちょっと気になりチェックすると、このお寺様、結構歴史があるようだ。
山号の聖帝山も舒明天皇の勅願故とのこと。舒明天皇12年(640)の道後湯治の折のことのようである。それが事実か否かは別にしても、当日見逃したが境内には平安期にの寺の住職が書いた「俊盛聖帝来由記」と称される寺の縁起があるようだから、開基はそれ以前ということ。結構由緒あるお寺様であり、一帯に伽藍が建っていたようだが戦乱で焼失し現在の地に移されたようである。


河野氏ゆかりの地を辿る

十地院;西条市旦之上543

大明神川が山地から出て開析した大黒山の裾盆地、河川左岸の旦之上集落にある。山門、一宇の本堂からなる真言宗のお寺様である。
山門脇にある案内には「天武天皇の勅願所として白鳳13年(685)に大黒山の裾盆地(十地院谷といわれる所)に建てられていたが、約150年前の文化2年に現在地に移転建立された。本尊は薬師瑠璃光如来。移転前は七堂伽藍を備えた堂々たる格式の大寺であったという。河野家より寄進された寺宝の仏画が32幅保存されている」とあった。
山門を潜り本堂(薬師堂?)にお参り。堂宇の前に3つの案内。

○「仏画十地院の十二天 市指定文化財 有形文化財絵画
十地院は天武天皇の白鳳13年(685)泰量上人によって大黒山の麓に建立されたが、戦火によって焼失。天保3年(1831)現在地に移った。
立派な仏像・仏画が多数あり、十二天もその一つ。(十二天とは帝釈天など十二の天部で、道場を守護する神である。)
平安末期、牧谿の作と伝えられる。

○「十地院の仏画不動明王像出釈迦弘法大師涅槃図 市指定文化財 絵画 十地院は、大黒山城主旦之上小三郎の祈願寺として河野家より、寺領・仏像・仏画を寄進されたと伝えられている。
諸祈願の本尊である不動明王像は、鎌倉時代末期の作、出釈迦弘法大師像は室町時代中期の作、常楽会の本尊である涅槃図は南北朝時代の作であるといわれており、いずれも見事な仏画である」。

○「十地院聖観音菩薩像 市指定文化財 彫刻
本像は、像高102cm、総丈165cmで、寄木造り、漆箔、玉眼で、左手に持つ未敷蓮華を右手で開く通形の聖観音である。
胴体部分の着衣や肉取りなどには平安時代の様式が見受けられるが、頭部の髷の高さから鎌倉時代初期の作と考えられる。また、その作風には、天台宗の傾向が見られる」

現在は誠にあっさりとしたお寺様であるが、天武天皇の勅願寺として建立され、これも上記実報院と同じく七堂伽藍を誇ったのだろうが、貞治2年(1363年)、第28代河野通朝と細川頼之の合戦の時、細川の軍勢により諸堂が焼き払われたとのことである(「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅤ)。
旦之上村上一族の大祖先
境内に「旦之上村上一族の大祖先」の案内があった。概略をメモすると、「村上頼房の墓石。旦之上の村上一族は明治44年、窪田の村上頼房の墓を十地院境内に移築した。(清和源氏の流れである)旦之上村上一族の大祖先村上頼房は「故あって道前桑村郡旦之上に転住す」とあるが、伊予越智郡大島鳴河図城士であった村上義清の一子である。
父の村上義弘は瀬戸水軍として大活躍し、村上一族の勢力を伸ばし暦応3年(1340)逝去する。
義弘の没後、信州から村上天皇の後胤である北畠帥清が跡目相続にやってきて、義弘の根拠地である大島を急襲。頼房は応戦叶わず、この旦之上に逃げ延びた」とあった。
村上義清については諸説あり、案内は案内としてメモするに留める。



河野通直(第39代);秀吉の四国攻めに抗し、河野氏は滅亡する

伊予の武将の叛乱、土佐などの外敵の侵入などの危機に対し、河野家を預かる病弱の通宣は責務に耐えられず、永禄11年(1568)に隠居し、跡は一族の野間郡高仙山城主(越智郡菊間町種)河野(池原)通吉の子、わずか五歳の牛福丸(通直;第39代)が継ぐ。Wikipediaに拠れば、「村上通康、もしくは河野通吉の子とも言われるが定かではない。 先代の河野通宣(伊予守、左京大夫)に嗣子が無かったため、その養嗣子となって永禄11年(1568年)に後を継いだ。
しかし幼少だったため、成人するまでは実父の通吉が政治を取り仕切った。この頃の河野氏はすでに衰退しきっており、大友氏や一条氏、長宗我部氏に内通した大野直之の乱に苦しんでいたが、毛利氏から援軍を得て、何とか自立を保っていた。
通直は若年の武将ではあったが、人徳厚く、多くの美談を持つ。反乱を繰り返した大野直之は、通直に降伏後その人柄に心従したという。

豊臣秀吉による四国攻めが始まると、河野氏は進退意見がまとまらず、小田原評定の如く湯築城内に篭城するが、小早川隆景の勧めもあって約1ヶ月後、小早川勢に降伏した。この際、通直は城内にいた子供45人の助命嘆願のため自ら先頭に立って、隆景に謁見したという。この逸話はいまだ、湯築城跡の石碑に刻まれている。
通直は命こそ助けられたが、所領は没収され、ここに伊予の大名として君臨した河野氏は滅亡する。通直は隆景の本拠地である竹原にて天正15年(1587年)に病死(隆景が通直を弔った墓は竹原に現存)。養子に迎えた宍戸元秀の子・河野通軌が跡を継いだ」とある。

秀吉の四国平定と来島村上氏
来島村上の祖とされる村上通康は河野通直(第36代)の重臣として活躍。後継者として指名されるほどの結びつきであったが、宇都宮氏との鳥坂合戦の陣中で倒れ急逝。その後を継いだのが村上通総。元亀元年(1570)頃から河野氏と家督や新居郡を巡る処置などで不和が生じ、二度に渡る木津川口の合戦には毛利・河野方として参戦するも、織田・秀吉の誘いに応じ、反河野・毛利として反旗を翻すことになる。
秀吉の四国平定において、村上三家のうち、来島村上氏のみが豊臣方として動く。来島村上氏は、秀吉の四国平定以前、未だ毛利氏と織田氏が対立していた頃、秀吉の誘いに応じ来島村上氏は河野氏を見限り、織田勢についたことに遡る。その当時は、河野氏と同盟関係にあった毛利の小早川氏に攻められ、この後で訪れる鹿島城に逃げ込んだとも、秀吉の元に走った,ともされるが、四国平定時には、村上三家のうち、ひとり家を存続され得ることになる。
来島村上氏が村上三家や河野氏と分かれた要因は、「永禄年12(1569)、北九州の地で毛利・大友両氏が対陣した時、毛利氏に属して出陣した能島家が、大友・尼子両氏と通じて日和見をしたため来島家が苦戦し、それ以後能島家は元亀3年(1572)まで来島家と対陣して、はげしい攻防戦を繰り返した。
来島家は、能島家と争ういっぽう、河野氏に対しても不穏な態度をとるようになった。その原因は、村上通総の父通康が河野家第36代当主・通直の後継者に指名されながら、重臣団の排斥を受けて失格して以来の怨念が爆発したことにあるといわれる。総通は河野通直の指示にもまったく耳をかそうとはしなかったが、これを武力で討伐する力も、通直にはなかったようである(「えひめの記憶」)」。

伊予大野氏
出自は不明。三河国設楽郷の豪族設楽氏流れである兵頭氏の被官をその祖とする記事もある。経緯は不明ながら、その兵頭氏が喜多郡出海に拠る。そこで被官の大野氏が頭角を現した、と。
その大野氏は国人と言うより幕府との直接の結びつきが強く、河野氏との結びつきは強くなく、独立的な性格をもっていた、と言う。
大野氏が久万へと勢力を伸ばす。その地を所領した美濃守護土岐氏が威を失うに及び、その地の管理を大野氏に願った故のこと、とも言う。
守護である河野氏はその領国支配のため、土佐への抑えとして久万を重視し、熊山に大除城を築城。大野氏の拠点とする。河野氏の重臣として活躍するも、一門は一枚岩というわけでもなく、土佐の長曾我部氏と内通し、河野氏から攻撃を受けることもしばしばであった、と。
秀吉の四国征伐に際し、河野通直とともに、大野氏も河野家とともに軍門に降った。

和田氏
和田通興(わだ みちおき) 河野氏の家臣。和田通俊の孫。伊予国岩伽羅城(いわがら)主。天文23年(1554年)に勢を拡大した通興は主君・河野通宣に従わなくなったため、通宣は棚居城主・平岡房実に通興討伐を命じ、岩伽羅城を攻撃させ岩伽羅城は落城し、通興は自害して果てる。後に一族とされる和田通勝が召し出され、通宣によって岩伽羅城を与えられている。



河野通吉;『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)

続柄;明生の子。
関係の社寺城:鷺の森城(東予市)、甲賀八幡神社(東予市)

通直(牛福丸)の父。通直の後見人。元亀3年(1572)三好伊予侵入に際し、通吉自ら軍を率いて鷺の森城に入る。その夜書かれた必勝の祈願と統制厳守の誓約書が甲賀神社に残っている。戦いは、はじめ三好勢は優勢となり河野勢は鷺の森城へ退くが、油断している三好勢に夜襲を加えて大勝する。
甲賀八幡神社の祈請文
「甲賀八幡神社の祈請文 市指定文化財 有形文化財古文書
元亀三年(1572)阿波讃岐の三好勢が伊予に侵入して来た時、これを迎え討ち戦勝するため、河野一族が甲賀八幡神社に誓詞祈願した願文で、社宝として伝わる古文書である。
同年九月十二日付けの七十五名連判所と十三日付けの二十名連判所の二通が継ぎ合わされ、現在一巻となっている。氏名の下には、それぞれ花押がある 西条市教育委員会」とあった。




河野氏ゆかりの地を辿る

鷺の森城(東予市)、甲賀八幡神社(東予市)

鷺の森城は、「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅣ」の第27代・河野通盛の項でメモ、甲賀八幡の祈請文は「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅥ」の第29代河野通暁の項でメモしたので、ここでは省略。







河野通直(牛福丸);『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)

家督;永禄11年(1568)‐天正13年(1585)
関係の社寺城;観念寺(東予市)、鷺の森城(東予市)
墓や供養塔;長生寺(竹原市)
通宣(左京大夫)が病弱で嗣子がなかったので、通吉の子(牛福丸)が元服したあと家督をつぐ。元亀3年(1572)三好・織田連合軍の侵入に備え、父通吉と共に戦い勝利をおさめる。
天正13年(1585)秀吉の四国征伐のとき、小早川隆景の軍に降伏し河野家の湯築城を明けわたした。
観念寺文書(禁制)に名がみえる。


河野氏ゆかりの地を辿る

観念寺(東予市)、鷺の森城(東予市)

観念寺は、「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅣ」の第27代当主・河野通盛の項でメモ、鷺の森城は、「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅣ」の第27代・河野通盛の項でメモしたのでここでは省略する。





これで『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に掲載されていた河野氏ゆかりの地のメモは終了。伊予と言えば河野氏でしょう、越智氏でしょう、といった処までは分かるのだが、どういった氏族であったのかまるっきり知らず、頭の整理のメモが結構ながくなった。 もとより、歴史家でも。郷土史研究家でもなく、いつものことながら「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター」を頼りに、大雑把にまとめただけであり、事実誤認も多いかと思うのだが、それは素人の散歩メモの補足といったところでご勘弁願いたい。 で、『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に説明のあった河野氏ゆかりの地はほぼ歩きおえた。次は、前々からきになっていた河野氏の本貫地である旧北条市(現松山市)に足をのばし、高縄山の山裾にある河野氏の館跡・善応寺、その館を囲む山城である雌甲山・雄甲山、高穴山、そして河野氏の合戦の折々に登場する恵良山の山城・砦跡を辿ろうと思う。 なお、メモに度々登場する湯築城についても、道後温泉に行くたびに、その名前は目にしていたのだが、誰の城かもわからず足も踏み入れていない。これもそのうち訪ねてみようと思う。