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月曜日, 8月 21, 2006

目黒区散歩 そのⅡ;碑文谷から羅漢寺川を歩く

先日、駒沢陸上競技場に出かけた。娘の競技会のビデオ撮影のご下命を受けたため。で、競技終了後、ちょっと目黒を散歩する。いつもの行き当たりばったりの散歩とは異なり今回は準備万端、である。
競技会のビデオ班ご下命はたまにある。ために、以前競技会に来たとき、空き時間を利用して目黒区の郷土資料館を訪れていた。五本木の目黒区守屋教育会館内にある郷土資料館で『目黒区文化財地図』『みどりの散歩道 コースガイド』など資料を既に入手していたわけだ。

競技会が終わったのが午後の4時。夏場でもあり、6時過ぎまで歩けるだろう、とコースを探す。さてどこに向かうか、あれこれ地図を眺める。五百羅漢寺が目に留まる。なんとなく前から気になっていたお寺。江東区散歩のとき、出会っていた。このお寺、どういった経緯か忘れたのだが、目黒不動の近くに移っている。それともうひとつ、碑文谷八幡。この神社も前々から気になっていた。 -->
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

ということで、ルートは駒沢陸上競技場から碑文谷八幡、その後は羅漢寺川緑道 に沿って「林試の森」などを経由し、五百羅漢寺まで歩くことに。『目黒区文化財地図』を眺めると、途中に結構由緒ありげなお寺とか神社もある。果たして日没までにどこまで、とは思いながらも陸上競技場を後にした。(月曜日, 8月 21, 2006のブログを修正)


本日のルート;
①碑文谷・羅漢寺川ルート;駒沢競技場>(八雲)>呑川駒沢支流緑道>東光寺>金蔵院>八雲氷川神社>常円寺>北野神社>環七・柿の木坂>(碑文谷)>すずめのお宿>碑文谷八幡>高木神社>円融寺>正泉寺>法界塚馬頭観音・鬼子母神堂>稲荷大明神>清水池公園>羅漢寺川緑道>都立林試の森公園>成就院(たこ薬師)>瀧泉寺(目黒不動尊)>五百羅漢寺>山手通り>目黒川>太鼓橋>行人坂>JR目黒駅

②郷土資料室散歩ルート;駒沢競技場>駒沢通り>柿の木坂>八雲1丁目>目黒中央図書館>呑川柿の木坂支流緑道>柿の木坂上・環七通り>駒沢陸橋>駒沢通り>学芸大駅北>東急東横線交差>十日森稲荷>祐天寺>古本屋>駒沢競技場


駒沢通り
駒沢通りを東に。東京医療センター前交差点を越える。東京医療センターって、昔の「国立小児病院」。仕事で伺ったなあ、など昔を思う。交差点を越えると、駒沢通りを離れ南に下る。

衾(ふすま)町公園
八雲5丁目。落ち着いた住宅街。立派な邸宅が並ぶ。衾(ふすま)町公園。江戸時代はこのあたり、現在の環七通りの西南あたり一帯は衾(ふすま)村、と呼ばれていた。衾の地名の由来は、村の地形が衾=寝るときにかけた衣、に似ていたから、とか、このあたりは官牧(政府の牧場)や私牧が多く、その餌である衾=小麦をひいたときに残る皮、の産地であった、とか、例によっていろいろ。



呑川駒沢支流緑道
さらに下る。緑道に当たる。「呑川駒沢支流緑道」。川筋跡を地図でチェック。北に上った緑道は、駒沢公園の中を進み「東京医療センター」の北端に沿って北東方向に上っている。源流点は国道246号線の「真中交差点」の南にあった池、あたり、とか。
一方、南方向への「流れ」は、八雲学園の東を通り八雲2丁目で「呑川緑道」に合流する。これって呑川の本流跡。



呑川
昨年だったか、呑川を河口部近くの蒲田駅から歩いた。「池上通り」と交差>池上本門寺脇を進み>第二京浜を越え>東海道新幹線を越え>中原街道を越え>大岡山の東京工業大学脇に。ここで開渠は終わり暗渠となる。
先回は、そこから北に、東工大構内を分断する緑道を少々歩いた。が、川筋がここまで、つまりは八雲あたりまで続いているとは知らなかった。東工大から先の流路をチェック;大岡山>東横線・都立大駅西>「目黒通り」を越え西に向きを変え>八雲学園の南を西に>深沢1丁目あたりから北西に>「駒沢通り」を越え>深沢3丁目で国道246号と交差>その後桜新町。そのあたりまで水路跡が見える。世田谷区新町の旧厚木街道下からの湧き水が源流とのこと。
「新編武蔵風土記稿巻之三十九荏原郡之一」より呑川のメモ;「水源は郡中世田谷領深澤村より出て、わつかなる流なれと、衾、石川、雪ヶ谷の三村を歴、道々橋村に至て千束溜井の餘水合して一流となり、池上堤方に至る、この村内にて市倉村の方へ分流あり、すへて水源の近き處より此邊に至まて、深澤流といへり、是より下蒲田の方に至て呑川と唱ふ、下蒲田村にて六郷用水の枝流合し、又一流となり、御園、女塚、新宿、北蒲田、下袋の村々を経て、北大森村にて海に入」、と。

金蔵院・氷川神社

散歩に戻る。八雲学園の東に金蔵院と氷川神社。金蔵院は氷川神社の別当寺。十一面観音や不動明王で知られる。氷川神社は衾村の鎮守様。癪(しゃく;腹痛)封じの霊験あらたか、とか。境内に枯れたアカガシの巨木の株。癪封じのご神木。皮をはぎ煎じ薬として使う人が引きもきらず。ために、枯れてしまった、と。また、おなじく「くずれ地蔵」が境内に。患部と同じ部分をなでると病が癒える。ということで、あまりに多くの人に触られ、お地蔵様が崩れてしまった、とも。
八雲の地名の由来は、この神社の祭神であるスサノオノミコト、から。八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときに詠んだ「八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」から。

東光寺・常円寺
氷川神社の東に東光寺と常円寺。東光寺は貞治4年(1365年)、世田谷城主・吉良治家が夭逝した子息の菩提をとむらうため建立。吉良治家は奥州探題・吉良満家の子。上州から世田谷郷に移り覇をとなえる。豪徳寺の近くにあった世田谷城址がその主城址。貞治4年にはこのあたり衾・碑文谷も所領に加えた。このお寺、出城の役割ももっていたようだ。
隣に常円寺。本堂前の大イチョウは区内有数の巨木として知られる。常円寺の東は坂道。天神坂と呼ばれている。

北野神社
坂の東に北野神社、つまりは、天神様=菅原道真公がまつられているから。坂の上は都立大学の跡地。先日の散歩のとき、坂の上の八雲中央図書館に訪れた。あのときの道筋の先は、こうなっていたんだ、と、つながった「襷」がつくる風景を思い描く。

呑川柿ノ木坂支流緑道

北野神社を東に進む。再び緑道。「呑川柿ノ木坂支流緑道」。駒沢通りまで北にのぼり、そこからは北西に進み「東京医療センター」の北にある東根公園の北あたりまで水路跡が見て取れる。そのあたりで「呑川駒沢支流緑道」と合流。源流点は国道246合線の上馬交差点南、世田谷・目黒区境あたりの、よう。
ちなみに、呑川には、もうひとつ支流がある。九品仏川がそれ。九品仏で名高い浄真寺を取り巻く湿地の水が集まって、世田谷との区境を東流し、大井町線緑が丘駅南側で呑川に注いでいる。ここは昨年散歩済み。

先 回の散歩のとき八雲中央図書館を訪れたとメモした。中央図書館に行けば郷土資料があろうか、と思った次第。が、そこにはなく、東横線・祐天寺近くの五本木に郷土資料館がある、という。で、中央図書館から東に進み、「呑川柿ノ木坂支流緑道」を駒沢通りまで上る。環七・駒沢陸橋を越え、駒沢通りを東に進む。東横線と交差したあたりで駒沢通りをそれて北に折れ、五本木の目黒区守屋教育会館内にある郷土歴史資料室を訪れた。

目黒通り・柿の木坂
が、今回は、北に上ることなく、すぐ南を走る「目黒通り」に進む。環七との交差手前は「柿の木坂」。東横線と目黒通りが交差するあたりから結構な坂となる。名前の由来は、坂に大きな柿の木があった、から、というのが妥当なところか。例によってあれこれ説がある。この環七・柿の木坂陸橋あたりは複雑な地形。カシミール3Dで作成した地形図を見ると、環七は尾根道を進んでいる。呑川のふたつの支流は明らかに谷地を進んでいる。

すずめのお宿緑地公園

環 七・柿の木坂陸橋を越える。環七から東に目黒通りは台地を下る。ダイエー碑文谷店の手前を南に下り「すずめのお宿緑地公園」を目指す。目黒は昔、筍(タケノコ)の産地で有名。ということは竹林が多くあった、ということ。この緑地公園も今に残る数少ない竹林のひとつ。所有者の角田セイさんが国に寄贈。後に区の緑地公園となる。
昭和の初期まで、この竹林には数千羽のすずめが生息していたのが、名前の由来。竹林の一隅には古民家。衾村の旧家・栗山家の母屋を移転したもの。江戸時代半ばの姿が復元されている。



碑文谷八幡
緑地公園の隣に「碑文谷八幡」さま。碑文谷の鎮守さま。創建は鎌倉とも室町とも。境内に「碑文石」。碑文、つまりは、大日如来とか勢至菩薩、観音菩薩を表す梵字(サンスクリット文字)が刻まれた石がある。これが碑文谷という地名の由来、とも。鎌倉か戦国時代の板碑の一種と言われている。
碑文谷って、なかなか渋い地名。地名の由来が表すように、目黒区内での古い歴史をもつ地域。江戸時代は目黒六カ村、つまりは、上目黒村・中目黒村・下目黒村・三田村・碑文谷村・衾村のひとつ。隣の衾村と合併した明治には碑衾村と呼ばれていた。
郷土資料室でもらった資料の昭和7年の碑文谷八幡あたりの写真を見ると、一面の畑地、そして民家が点在する。農村地帯であったこのあたりは、大正12年の関東大震災で家を失った人がこの地に移りすみ、また大正12年の目蒲線の開通、昭和2年の東横線の開通などにより、次第に宅地となった。とはいうものの、昭和7年の写真を見る限りでは、まだまだ牧歌的風景が広がっている。

立会川緑道
碑文谷八幡の参道を東に。境内を出たところに緑道が。「立会川緑道」。緑道を進む前に、少し寄り道。ちょっと南に高木神社。小さな社。江戸時代には「第六天」と。高木神社となったのは明治になってから。立会川緑道に戻る。

この立会川も前々から気になっていた川。もちろん、今は川跡、ではある。源流は碑文谷公園の碑文谷池と清水公園の清水池。この湧水を集めた池からの細流が、碑文谷八幡あたりから区を東に進み、目蒲線・西小山駅付近に。そこから「立会道路」が中原街道と交差するところまで南東に下る。これって、いかにも川跡って感じ。
昭和大学病院あたりで中原街道を交差した川筋は東急大井町線・荏原駅あたりを越えて東に進む。第二京浜を越え、横須賀線・西大井駅に。そこから北東にのぼり大井町駅に。東海道線を越えた川筋は線路に沿って南にくだる。しばらく進むと、開渠になっている、ように地図では見える。近いうちに一度歩いてみよう。

円融寺

散歩に戻る。立会川緑道を東に少し進むと少し北に円融寺。まことに立派なお寺さん。平安初期というから9世紀の中頃、天台宗の高僧・慈覚大師がこの地にお寺を建てる。当時は法服寺と呼ばれた。その後13世紀の後半に日源上人によって日蓮宗に改宗。法華寺となる。
世田谷城主吉良氏の庇護も受け大寺院に。が、日蓮宗以外の人からの供物を受けない、施しもしない、といった「不受不施」の教義のため、徳川幕府と対立。弾圧を受け元禄11年(1698年)に取り潰しにあう。再び天台宗の寺となり、名前も円融寺、と。境内には室町初期の建立といわれる釈迦堂が。品がいい。国の重要文化財。大いに納得。久しぶりに美しい建物を見た。また、山門の黒仁王さまも、江戸時代、「碑文谷の黒仁王」として多くの参詣者を集めた、と。

正泉寺
円融寺を離れ、少し東に。正泉寺。浄土宗のお寺さん。戦国時代に千葉に建てられたのがこのお寺のはじまり。その後、移転を繰り返し、明治になり港区の三田からこの地に移る。式亭三馬や羽倉簡堂のお墓が。式亭三馬は江戸の戯作者。「浮世風呂」で名高い。羽倉簡堂は江戸後期の儒学者。天保の改革を推進した水野忠邦に重用される。

法界塚と鬼子母神堂
正泉寺を出て、東に進む。少し大きな通りを北に進む。不規則な5差路。そのうちひとつは弧を描いて進む。交差点の少し北、平和通商店街の端に法界塚と鬼子母神堂。昔は樹木生い茂る一帯だったのだろうが、今は、道路脇に少々寂しげに佇む。法界塚は経塚なのか古墳跡なのか定かならず。少し戻り、弧を描く道を北に進む。いかにも川筋といった雰囲気。先に清水池公園がある。ということは、この道は立会川の支流・清水池からの川筋ではなかろうか、と。

清水池公園
清水池公園。1699平方メートルの池。区内唯一の釣堀がある公園ということで、多くの釣り人で賑わっている。目黒区では、目黒台と呼ばれる平坦な台地を浅く刻む支谷の谷頭部(谷の先端)には湧水点が多い。清水池もそのひとつ。立会川の源流でもあり、今から進む羅漢寺川の源流でもある。

品川用水
道を東に。目黒通りから武蔵小山駅方面に向かう補助26号線にあたる。このあたりには「品川用水」も交差している。品川用水は、武蔵野市で玉川上水を分流し、品川領戸越あたりまで流れている。そのうち流路をチェックして歩いてみよう。全長7里半というから、結構大変そうではある。

羅漢寺川緑道
補助26号線を越えたあたりから「羅漢寺川緑道」がはじまる。羅漢寺川は先ほどメモしたように、清水池からはじまり目黒川に合流する目黒川水系の支流のひとつ。羅漢寺川の下る道筋は人ひとり歩けるか、どうかといった細路。

林試の森

少し進むと道の南に「林試の森」。目黒と品川にまたがる都立公園。もとは国の林業試験場。時間があれば公園内を歩きたいのだが、如何せん時間切れ。日暮れが近い。

目黒不動商店街
緑道を進む。道の北には昔、「目黒競馬場」があった、とか。緑道が「林試の森」から離れるあたり、南は「石古坂」、北には「三折坂」。南に進み石古坂の手前を東に進む。目黒不動商店街。

蛸薬師
少し進んだところに成就院。通称「蛸薬師」。慈覚大師の創建。本尊は薬師如来。蓮華座の三匹の蛸が支えている。ために、「蛸薬師」と。何故ゆえに蛸?慈覚大師が中国から帰朝の途中、嵐を鎮めるべく薬師を海中に。が、その薬師が蛸に連れられて漂着した、とか。境内には二代将軍・秀忠の側室・お静の方に由来する「お静地蔵」が。お静の方はあの名君保科正之の母。信州高遠藩3万石の藩主からはじまり、会津23万石の藩主までに。わが子の栄達を祈ったお静の方が大願成就のお礼に奉納したのが「お静地蔵」。保科正之を主人公にした中村彰彦さんの『名君の碑』、また読み返してみようか、な。

五百羅漢寺

さてこの先は。目黒不動は先回の散歩で訪れた。で、今回の目的地である五百羅漢寺に。成就院前の道を北に。目黒不動の東端といったところに五百羅漢寺。予想に大きく反して近代的ビル、といった有様。もっともすでに開館時間は過ぎており、外から眺めるのみ。
このお寺、もとは本所五つ目、というから、現在の江東区大島3丁目にあったもの。江戸・元禄時代、松雲禅師が開山。もとは仏師。出家後、大分耶馬溪の五百羅漢に触発され羅漢像の制作に没頭。10年の歳月をかけ530余体の羅漢像を作り上げる。幕府の庇護もあり、本所に寺が創建。が、明治に入って寺は荒廃。明治41年この地に移る。こんど、開いている時間に、訪れるべし。

海福寺

五百羅漢寺の隣に海福寺。開山は隠元禅師。「インゲン豆」にその名を留める。もとは、深川に。が、明治43年水禍に遭い、この地に移る。山門が面白い。四脚の門。境内に永代橋の大惨事の供養等。文化4年(1807年)、深川・富岡八幡の祭礼に押し寄せた群衆の重みに耐えかね、永代橋が落ちる。多くの人が亡くなった、と、どこかでメモしたように思う。
インゲン豆は将軍・家綱の招きで来日した宇治・万福寺の開祖、隠元禅師が日本にもたらす。インゲン豆はもともとは中南米が原産地。インディオが食べていたものだが、大航海時代にトウモロコシやカボチャなどとおなじく欧州に伝わり、その後アジアにも広まった、もの。

蟠竜寺(ばんりゅうじ)

東に進み山手通り。少し北に進むと通りから少々奥まったところに蟠竜寺(ばんりゅうじ)。山手七福神のひとつ・「岩屋の弁財天」がまつられている。また、境内には「おしろい地蔵」が。江戸の頃、お地蔵さんの顔におしろいを塗り、残りを自分の顔につけると美人になると評判をとる。現在は戦火に見舞われ少々崩れてまってはいる。

JR目黒駅


今回の最大の目的であった五百羅漢は時間切れで見ることはできなかった。次回ということにして、山手通りを進み、目黒通りを渡り、太鼓橋、行人坂、と、先回の散歩と同じ道を戻り、JR目黒駅に。一路帰路につく。
今になってきになることが出てきた。羅漢寺川という川。五百羅漢寺がこの地に移ってきたのは明治。ということは、それ以前はどんな名前の川だったのだろう。五百羅漢寺がこの地に移る前に。それっぽい名前の川があるとも思えない。そのうちに調べておこう。
参考資料;『みどりの散歩道 コースガイド』

月曜日, 12月 19, 2005

目黒区散歩 そのⅠ;駒場東大前から目黒へと

休日、代官山で仕事があった。仕事といっても、「ご苦労さん」、って顔を見せるだけ。であれば、ということで、駒場東大前から代官山まで歩き、顔見世の後は、再び代官山から目黒の国立自然教育園に。しばし紅葉見物の後は時間次第で目黒不動方面に足を伸ばすことにした。(月曜日, 12月 19,2005のブログを修正)


本日のルート;駒場東大前駅>淡島通り交差>池尻大橋・246号線>目黒川>中目黒駅>旧山手通り・鎗ケ崎交差点>目黒川に戻る>茶屋坂>恵比寿ガーデンプレース>白金・庭園美術館>行人坂>大円寺>太鼓橋>大鳥神社>目黒不動>目黒駅

井の頭線駒場東大前
井の頭線駒場東大前下車。駅前の古本屋で『江戸東京学事始め;小木新造;筑摩書房』購入。散歩を始めて、地理・地形の本を結構買うようになった。
駒場の歴史は江戸時代、この地、駒場野に薬草を栽培していた御用屋敷から始まる。八代将軍吉宗が鷹狩を行って以来将軍の鷹狩場に。ちなみに鷹は必ず獲れるように演出がされており、その役職は綱差(つなさし)として代々受け継がれた、とか。幕末に徳川幕府はフランス人の軍事教官の建白に基づき、この地を軍事演習場とする計画を出した。が、周辺農民の起こした駒場野一揆により、実現せず。明治維新を迎え、駒場農学校が現在の東大駒場キャンパスの地に開校。鷹狩場がそのまま学校の用地となっている。

淡島通り

駅から淡島通りへとゆったりとした坂を登る。淡島通りと交差。先日会社のスタッフが結婚式を挙げた駒場エミナース前に。横の道を南に。都立芸術高校、駒場東邦学園、第三機動隊官舎に沿って歩く。

このあたりは昔、近衛輜重兵大隊があったところ。その西・筑波大学付属中学・高校のあたりは騎兵第一連隊、またその北には陸軍の練兵場広がっていた。ちなみに、目黒区の駒場、大橋、東山、世田谷区の池尻、三宿、下馬といったあたりは陸軍の施設が数多くあった。これらの地域に学校、病院、団地、自衛隊施設が集中しているのは軍用地を転用しているわけだ。




国道246号線・目黒川


国道246号線に向って結構下る。下ったあたりが東邦大学大橋病院。このあたり10m以上の標高差があるだろうか。246号線を渡って目黒川に。烏山川と北沢川が三宿池尻あたりで合流したものが目黒川。都の清流事 業にのっとり、落合下水処理場で高度処理された水が流れ込む。


西
郷山公園
川に沿った遊歩道を歩く。目黒橋で山手通りと交差。西郷山公園・菅刈公園下を進む。菅刈とは、往時このあたり、目黒区から世田谷区にかけて菅刈庄と呼ばれた荘園であったため。

駒沢通り
遊歩道に沿って西郷山下、千歳橋、宿山橋を越え、東横線と交差。往時、目切坂から宿山橋をとおり東西に伸びる旧鎌倉街道が続いていた、とか。日の出橋を過ぎ駒沢通りに。駒沢通りを恵比寿方面に少しのぼる。

鎗ケ崎(やりがさき)交差点

旧山手通りとの合流地点、鎗ケ崎(やりがさき)交差点手前で少々のお仕事。しばしの間歓談。再び散歩に出かける。時間は午後3時過ぎ。どこまで行けるだろうか。

目黒川・田楽橋

目黒川沿いの遊歩道に戻り田楽橋。昔の舟入場。海運物資の集積地だったのだろう。中里橋を左折。清掃工場と金属材料研究施設、防衛庁官舎の間を登る。



茶屋坂
茶屋坂、新茶屋坂。目黒区教育委員会の「茶屋坂と爺々が茶屋」の由来書;茶屋坂は江戸時代に, 江戸から目黒に入る道の一つ。大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下るつづら折りの坂で 富士の眺めが良いところであった。

この坂上に百姓彦四郎が開いた茶屋があって, 3代将軍家光や8代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄って休んだ。家光は彦四郎の人柄を愛し,「爺,爺」と話しかけたので, 「爺々が茶屋」と呼ばれ広重の絵にも見えている。以来将軍が目黒筋へお成りのときは立ち寄って銀1枚を与えるのが例であったという。また10代将軍家治が立ち寄った時には団子と田楽を作って差し上げたりしている。こんなことからこの「爺々が茶屋」を舞台に「目黒のさんま」の話が生れたのではないだろうか、と。

国立科学博物館付属自然教育園

茶屋坂脇の紅葉が結構美しい。坂を登りきり、少々雑然とした民家のあたりを通り三田橋でJRを越える。恵比寿ガーデンプレースに。ウエスティンホテル東京と三越の間を通り、社会教育館交差点、恵比寿3丁目交差点に。右折し白金6丁目から外苑西通りを上り、松岡美術館を越えたあたりの信号を右折。国立科学博物館付属自然教育園に沿って法連寺、台北駐日経済文化代表処前を進み、目黒通りに。右折し国立科学博物館付属自然教育園の入口に。4時を過ぎており閉館。幸運にも隣の庭園美術館は午後6時までオープン。この美術館、昭和3年に建てられた旧朝香宮邸。紅葉結構美しい。ゆったりとうす暗がりの中散歩。思わぬプレゼント、って感じでありました。
(後日自然教育園を訪れたことがある。江戸期は高松藩下屋敷。明治期には陸海軍の火薬庫。大正期は白金御料地。湧水や極相林など、豊かな自然が残されていた)

行人坂

時刻は5時を過ぎている。あたりは真っ暗。とはいうものの、目黒近辺の「見所」は歩き終えておこう、ということで、行人坂に向う。目黒駅を越え、JRの線路を跨ぎ、すぐ左折。行人坂へ。坂を下る手前に富士見茶屋跡の由来書。富士山の眺めを楽しめる茶屋があった、とか。「江戸名所図会」にも、富士が見えるさま「佳景なり」と。行人坂に。坂の途中にある大円寺前を太鼓橋まで下る急坂。「江戸名所」に「行人坂とは白金台町より西の方目黒に下る坂をいう。寛永のころ、羽州(出羽)湯殿山の行者(行人)ここに大日如来堂を建てたる所なり、とある。

明和9年(1772年)、大円寺から出た火が折からの強風にあおられ、白金から神田、湯島、下谷、浅草まで江戸八百八町のうち六百二十八町を焼き尽くした。特に江戸城のやぐらも延焼したので、以降80年近く大円寺は再建を許されなかった、とか。この火事は振袖火事、芝・車町火事と並んで江戸三代火事のひとつ。行人坂火事と呼ばれている。
大円寺の石仏群はこの大火の供養のために、五十年という歳月をかけてつくられた。ちなみに、大円寺は八百屋お七の恋い焦がれた吉三郎が僧となって、処刑されたお七の菩提を弔った、と言われるお寺。吉三郎は行人坂を改修、さらには太鼓橋をかけた、とも。

太鼓橋

で、坂を下りきると目黒川にかかるのが、その太鼓橋。広重の江戸名所百景「目黒太鼓橋夕日の岡」。一面の雪景色。傘をさし橋を渡る人の影。江戸の昔に思いを馳せる。ちなみにこの橋、大正時代の豪雨で流されてしまった、とか。

権之助坂

太鼓橋を渡り右折。目黒通りを権之助坂から下りてくる目黒新橋方面に。権之助坂の由来は例によって諸説あり。総じて、菅沼権之助という名主の威徳を偲んで名づけたとか。

大鳥神社

目黒通りに。左折し山手通り大鳥陸橋・大鳥神社の交差点。渡りきったところに大鳥神社。目黒最古の神社。「日本武尊の御霊が当地に白鳥としてあらわれ給い、鳥明神として祀る。」とあり、大同元年(806年)社殿が造営された、との社伝あり。

目黒不動

真っ暗の中、もうひと頑張り。最後の目的地、目黒不動に向う。大鳥神社に沿って目黒通りのちょっとした坂を登りきったあたりを左折。住宅街に入る。角には目黒寄生虫館が。進む。森というか林にそって下ると滝泉寺・目黒不動。本尊は不動明王。往古より不動信仰の地として多くの人々の信仰を得る。
開山は808年天台座主慈覚大師円仁。不動明王の夢のお告げにより建立とのこと。徳川家光の信仰篤く、諸堂宇を再興し、山岳寺院配置の伽藍が完成。戦災により大半が焼失したが、戦後は仁王門、本堂などが再建され、現在にいたっている、と。

目黒区教育委員会の解説文には;境内は台地の突端にあり、水が湧き老樹が茂り、独鈷(とっこ)の滝や庭の池が美しく、庶民の信仰といこいの場所でした、と。 境内に独鈷の瀧(とっこのたき)。江戸名所図会では次のように描かれている;『当山の垢離場(こりば)なり。往古承和十四年〔八四七〕当寺開山慈覚大師入唐帰朝の後、関東へ下りたまひし頃、この地に至り独鈷杵(とっこしょ)をもてこの地を穿ち得たまふとぞ。つねに霊泉滑々として漲(みなぎ)り落つ。炎天旱魃(かんばつ)といへども涸るることなく、末は目黒一村の水田に引き用ゆるといへり、と。台地から湧き出る水は、何処で見ても神秘を感じる。本日の予定はこれで終了。山手通りから目黒通りの権之助坂を登り目黒駅に。 


月曜日, 8月 01, 2005

目黒散歩:呑川を歩く

目黒散歩:呑川を歩く
先日の散歩で出会った(?)「呑川」、「立会川」。ノミガワ、タチアイ、って名前も気になるし、これらの川、昨日の散歩道の複雑な地形にも大いに関係しているとのこと。目黒区の広報ページの資料(「めぐろの文化財・みどりの散歩道」)によれば、
「目黒区が坂の多いまちだといわれるのは、起伏に富んだ特異な地形に関係がある。それは、台地と台地をきざんで流れる目黒川・立会川・呑川の浸食作用による地形の変化が、坂をつくってきた。
目黒川の浸食は、上流部では浅く、下流部では深い谷を作り、深いところでは台地面から20メートル以上もある。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

立会川は、深さ2,3メートル位の幅広いくぼ地をつくって流れ、呑川は、川の西側を浸食して深さ10メートルぐらいの谷をつくっている。。。。」、とのこと。
「呑川」、「立会川」に行かずばなるまい。で、地図を見ていると、呑川沿いに、池上本門寺とか足洗池とか、よく聞く場所もある。そうだ、「呑川」に行こう。京急蒲田から遡るルート、下流から上流へ。(月曜日, 8月 01, 2005のブログを修正)


京急蒲田駅
京急蒲田下車。ホーム入構直前に呑川が見えた。呑川遊歩道をJR蒲田方面へ。さすがに水は美しくは無い。遊歩道の掲示板に、旧呑川と新呑川のルート説明があった。
新呑川は京急蒲田から羽田空港、整備場北の方面に流れ込むが、旧呑川は北糀谷から大森南を経て、昭和島の辺りに流れ込む、とのこと。また、都営浅草線の工事による湧水も流し込んでおります、といったメッセージもあった。

新幹線と交差
新幹線をくぐったあたりから前方に小高い丘が見え始めた。荏原台の流れでもある、池上本門寺の丘である。標高は22m程度か。ただ最初に目に入ったのは十字架。近くに来てわかったのだが、この丘には住宅地もある。学校もある。そしてキリスト教会もある。お寺だけではないよう。

池上本門寺
緑道からはずれ、堂脇の階段を上る。110段あった。丘の上を歩き、五重塔、大堂などを散策。地形図によれば、ちょっとした外輪山のようなこの丘、盆地(?)を散歩。上がったり,下がったり。低地の弁天池をチェックして,道に迷いながら、三門に。三門脇に日蓮聖人像。説明書きには「もともとは星亨の像があったのだが、替わってもらった」と。東京市長もした明治の政治家、いろいろ毀誉褒貶のある政治家ではあるが。。。

井町線緑ヶ丘駅
高台から下を眺め、階段を降り、呑川緑道へ。右手前に小高い丘。環七が通っている「尾根道」といったところか。横須賀線・東海道新幹線との交差下をくぐり、池上線の石川台に向かう道は、ちょっとした谷道。両側に丘がせまる。で、昨日歩いた、大井町線緑ヶ丘駅近くの、呑川の開口部、暗渠から開放された流れのスタート地点に到着。

大岡山
昨日は、ここから「呑川本流緑道」を北へ都立大へと向かったが、今日は右に折れ、東工大のある大岡山に。坂を上り、駅前に。

洗足池
ここからは本日の最終目的地の洗足池に下りていく。丘に囲まれた低地、千束の谷にある洗足池には地形図を頼りに下りていく(少々オーバー?)。池に続く、いかにも湧水ルートっぽい流れを見つけ、ちょっと北に戻る。すぐに暗渠となり、あきらめたのだが、この先、池上線を越えて北千束1丁目まで行けば、洗足池に流れる遊水地、清水窪湧水があったようだ。千束の谷の最奥にあるこの窪地は、崖からは豊富なが湧き出て、「清水窪」と呼ばれた、とのこと。
気になることがある。地名が「千束(せんぞく)なのに、なぜ「洗足(せんぞく)」?
中世からのこの辺り一帯の地名は「荏原郡千束郷」。千束分の稲が貢祖から免ぜられていたところから名付けられたというのが定説。その、「千束」が「洗足」となったのは、日蓮上人が池上に向かう途中、ここの大池で足を洗ったと、いう伝説によるもの。この伝説とともに、広く流布し、いつのころからか、「千束の大池」が「洗足池」と呼ばれるようになった、という。

池上線の旗の台駅

洗足池からは、複雑な丘陵、中原街道を環七に登る地形のうねり、北から中原街道に交差する環七方面の尾根道、といった地形をイメージしながら中原街道を通り、池上線の旗の台駅に到着。駅近くに立会川児童公園の標識。思いがけなく「立会川」が現れた、学芸大学でみた「立会川緑道」に続くのだろう。ちなみに、「立会川」の名称の由来。諸説あるようだが、源平合戦の際に、源氏軍が平氏との「戦い・立ち会い」に備えて陣を築いたことによる、との説も。ついでに、駅名旗の台の由来。これもいくつかあるようだが、源義家が奥州征伐の際に源氏の白旗を立たため、といった説もあるようだ。本日の予定は旗の台で予定終了。

日曜日, 7月 31, 2005

目黒散歩:東急東横線を渋谷から自由が丘まで歩く

目黒散歩:東急東横線を渋谷から自由が丘まで歩く
地形が気になってから、地理というか地形というか、この領域に関する本をいくつか読んだ。『東京の自然史』(貝塚爽平著、紀伊国屋書店\1,650)もそのひとつ。その中でちょっと気になる箇所があった。「東急東横線の渋谷から多摩川まで乗ってみれば、高い台地・低い台地、そしてそれを刻む谷底低地からなる山の手台の地形がわかりやすい」とのこと。東急東横線を渋谷から自由が丘まで歩いてみることにした。(日曜日, 7月 31, 2005のブログを修正)


渋谷駅
渋谷駅をスタート。246号を越え、セルリアンタワーの脇を南平台の住宅街に入り、お屋敷街の丘を登っていく。セルリアンの意味が気になり調べる。cerulean{紺碧;こんぺき}(の)、ということ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


西郷山公園
丘を登りきり、旧山手通りを渡ると、西郷山公園。江戸時代には豊後の岡(竹田)城主中川候の抱え屋敷。明治になり、西郷隆盛の弟・従道(明治時代の軍人(元帥)・政治家)別邸であったとのこと。
崖上のこの公園からの眺めはいい。このあたりは淀橋台(目黒川と神田川で刻まれる山の手台地の「高い」台地)の西の端。丘の下の目黒川・山手通りのある低地(目黒川沖積地)との高低差は20メートルくらいだろうか。低地の向こうには目黒台の丘(山の手台地の「低い」台地)が見通せる。

祐天寺
公園脇の青葉台1丁目の坂道を下り、目黒川・山手通りを渡り、上目黒2丁目あたりからゆるやかな坂を中目黒方面に。東急東横線の高架にあたる。このまま線路脇を祐天寺駅に、とも思ったのだが、なんとなくよく聞く祐天寺というお寺見ておこうと思い、目黒区役所の横を通り、駒沢通りを渡り祐天寺に。徳川家にゆかりの深いお寺であるようだ。

天祖神社
東急東横線に戻る。途中こんもりとした森が目についたので、行ってみる。天祖神社。祭神は天照皇太神。創建の年月ははっきいしていないようだが、境内の老木が多く、かなり古い時代の創建とのこと。神社の横には伊勢脇公園。伊勢脇の森と呼ばれたこの高台から、ゆっくりとした下り坂を東急東横線に。

祐天寺駅
線路に沿って、こんどはゆったりと坂をのぼり、一路祐天寺駅まで。祐天寺駅近くの古本屋で休憩。『幻の江戸百年(鈴木理生:ちくまライブラリー)』『全国名水の旅(南正時;山と渓谷社)』『東京の空間人類学(陣内秀信;筑摩書房)』『千人同心(もりたなるお;講談社)』の4冊購入。たまたま見つけた古本屋をのぞくのも散歩の楽しみのひとつ。

学芸大駅
古本屋を出て、線路沿いに平坦な道を学芸大駅に。学芸大も今は小金井にあるわけだし、何故「学芸大」、って疑問。調べてみると、お隣の都立大も含めて、駅の名前を変えるかどうか、住民アンケートをとっているとのことだった。

立会川緑道
駅近くに「立会川緑道」のサイン。立会川って、京急の駅で降りたこともある。地図で見ても駅近くに流路も見えないし、暗渠が延々とつづくのだろうか。今度調べてみようと思う。

碑文谷池
駅の近くには碑文谷池。立会川の水源のひとつとされる。昔は地名をとって「三谷の池」と呼ばれ徳川将軍の鷹狩り場であったとのこと。

都立大学駅
碑文谷池を超え、線路に沿って環七との交差に近づくにつれ、ゆったりとした登り坂。東急の電車がに眼下に見える。目黒台よりちょっと高い台地、荏原台に近づいたのだろう。山手通りを越えると、ゆっくりと都立大学駅まで下り坂。「呑川によって刻まれた」低地ということのようだ。

呑川
駅前に「呑川柿の木坂支流緑道」「呑川本流緑道」といったサイン。地図によれば、呑川は大井町線「緑ヶ丘」駅あたりまでは、暗渠のよう。上にも書いたが、地形の説明などに「呑川によって刻まれた」低地といった説明を目にする。「呑(のむ)」川、の名前そのままに、昔はこの台地を刻み、「呑み込む」暴れ川だったのだろうか。なんとなく地形学上に大事そうであるので、ちょっと源流だけをチェック。
源流はいくつかあるよう。世田谷・桜新町、清水窪・洗足池の湧水、九品仏・浄真寺池、そして現在最大のものは新宿・落合処理場からの下水高度処理水。東京都「清流復活事業」というのだが。。。

自由が丘
都立大を越え、線路沿いにゆっくりと登り坂。東急線も坂道とともにゆっくり登る。で、あとは自由が丘の低地にゆっくりと下りていく。

九品仏川緑道
今日は自由が丘で終わる予定だったのだが、自由が丘駅前のボードに緑道のサイン。駅前から「九品仏川緑道」が大井町線「緑ヶ丘」に続く。そして「緑ヶ丘」から都立大学までは「呑川本流緑道」が続いている。どうせのことなら緑緑の襷がけを、ということで先に進む。

緑ヶ丘駅
左手に大岡山の小高い丘を意識しながら、「九品仏川緑道」を緑ヶ丘駅まで。ここで、暗渠から顔を出す、呑川の流れを確認。清流復活事業とは言え、落合から導管(?)でここまでもってきているとは、となんとも複雑な思いも残しながら、大岡山の東工大の横を都立大学の駅まで戻り、本日は終了。

地形のメモ
下にルートマップを載せてある。『東京の自然史』37ページ、山の手南部の地形に説明している文章を引用しながらコメントする。「渋谷から多摩川までの東横線は、まず、淀橋台をきざむ渋谷川の谷の中ほどにある渋谷駅にはじまり、淀橋台(注;西郷山公園のあたり)―目黒川沖積地(注;目黒川・山手通のあたり)―目黒台(注;祐天寺から学芸大)―荏原台(この中に呑川のいくつかの支谷がある[注;柿木坂・環七のあたりから自由が丘あたりまで。])を横切り。。。(中略)。いくつかの台地と谷を横切る上に、そのレールは、武蔵野段丘の高さに近い海抜20-30メートルを通るので、地形の高低を車窓から観察するのに都合がいい。(中略)目黒台上の祐天寺―学芸大学間では平坦地の上を走るが、それより高い淀橋台と荏原台では代官山のトンネルと柿の木坂の切通し(学芸大―都立大学間)をとおり、それより低い、渋谷川・目黒川・呑川などの浸食谷では、谷底の沖積低地を見下ろして走る。。。(略)」。まさしくそのとおり。