水曜日, 12月 17, 2008

甲州街道を歩く そのⅢ:上野原から鳥沢に

先回、大月の岩殿城跡散歩の折、猿橋から鳥沢まで旧甲州街道歩いた。その道筋は現在の国道20号線に沿ったもの。トラックの風圧に脅えながらの道行き。とてものこと、風情を楽しむ、といった趣はない。
国道から離れた旧街道の道筋でもあれば、相模から甲斐の国境をのんびり歩くのもいいか、とチェックする。裏高尾の小仏峠から相模湖に抜ける道、大月の先から笹子峠を越えて勝沼に抜ける道、そし上野原から鳥沢への道筋。このあたりが現在の国道から大きく離れ、山間を進む道筋となっている。であれば、この3箇所を歩こう、と。先回の散歩の続き、というわけでもないのだが、第一回は上野原から鳥沢に向かって歩くことにした。
現在の甲州街道・国道20号線は桂川(相模川)の川筋を進む。一方、旧甲州街道(甲州道中)は山間の道を進む。大雑把に言えば、中央高速に沿って山地を上り、談合坂サービスエリアの北を迂回した後、鳥沢に向かって一気に下っていくことになる。道路建設工事の技術が発達した現在では川筋に道が続くのは当たり前だが、昔はそうはいかない。雨がふれば土砂崩れなどで道がつぶれる。街道ともなれば、そんな不安定な川筋を通す訳にはいかない。ということで川筋を避け、山間を進む道となったのだろう、か。ともあれ、JR上野原に向かう。


本日のルート;JR上野原駅>上野原宿>鶴川橋>鶴川宿>中央高速・鳶ヶ崎橋>大椚一里塚>吾妻神社>長峰の史跡>野田尻宿>荻野一里塚>矢坪>座頭転がし>犬目宿>気味恋温泉>恋塚の一里塚>中野>下鳥沢
JR上野原駅
上野原一帯は桂川によって形づくられた河岸段丘がひろがる。河岸段丘って川に沿って広がる階段状の地形のこと。上野原の駅も河岸段丘の中段面にある。ホームを隔て南口は一段下。北口は一段上といった案配。駅前もわずかなバス停のスペースだけを残し、崖に面している。街中は段丘面の上。石段を上り進むことになる。上野原の由来は段丘上の原っぱにあったから、って説も大いに納得。
それにしてもこの桂川、というか相模川水系の発達した河岸段丘には散歩の道々で驚かされる。先日、津久井湖のあたりを歩いたときも、一帯の段丘の広がりに感激した。城山を隔てて津久井湖の南に流れる串川一帯の発達した河岸段丘にも魅せられた。
河岸段丘の形成は、川が流れる平地(川原)が土地の隆起などにより浸食作用が活発になり、川筋が低くなる。で、低地に新たに川原ができ、以前の川原は階段状の平地として残る事に成る、ということ。このあたり富士山による造山活動が活発で、土地の隆起も激しく、いまに残る見事な河岸段丘が形成されたのであろう、か。

上野原宿
駅から上野原の街中に進む。階段を上り、道なりに北に。途中、中央高速を跨ぐ陸橋をわたり国道20号線・甲州街道に。上野原の駅は標高200m弱。国道20号線は標高250m強といったところ。
旧甲州街道(甲州道中)は鶴川への合流点の手前までは国道20号線とほぼ同じ。国道に沿って、雰囲気のある民家もちらほら。上野原宿跡であろう。三井屋などといった、いかにも歴史を感じるような看板も目につく。上野原宿は相模から甲斐にはいった最初の宿。絹の市でにぎわった、と。東京から74キロのところである。

鶴川橋
国道を西に進む。棡原(ゆずりはら)を経て小菅や檜原に向かう県道33号線を越えるあたりから国道は鶴川の川筋に向かって下ってゆく。坂の途中、国道20号線が南に大きくカーブするあたりに鶴川歩道橋。旧甲州街道はこの歩道橋で国道と分かれ、北に進むことになる。
国道から離れるとすぐに旧甲州街道の案内図。大ざっぱな道筋を頭に入れ、先に進む。道は鶴川に向かって下る。眼下の鶴川、南に続く中央高速など、誠に美しい眺めである。大きく湾曲する車道の途中からショートカットの歩道を下り鶴川橋に。四方八方、どちらを眺めても、誠にのどかな景色の中、鶴川が流れる。
鶴川は奥多摩の小菅村あたりに源を発し、上野原市の山間を下り、桂川(相模川)に合流する。鶴川橋の少し北で仲間川が、少し南で仲山川が鶴川に合流する。地図を見ると、旧甲州街道はこの二つの川の間の尾根道を野田尻まで進んでいる。甲州街道ができるまでは、上野原から大月方面・鳥沢に抜ける道は、仲間川と仲山川(八ツ沢)の沢道、そして桂川に沿った道といった三つのルートがあった、と言う。上にもメモしたが、川沿いの道は崖崩れなどといった不安定要素も多く、また、そもそもが峻険の崖道でもあったであろうから、公道には比較的安定した尾根筋を選んだのではなかろうか。我流の解釈。真偽のほど定かならず。 ちなみに、桂川の南側に慶長古道が残る、という。慶長古道、って幕府によって整備された五街道の影に埋もれてしまったそれ以前の道筋、である。

鶴川宿

橋を渡ると鶴川宿の案内。甲州街道唯一の徒歩渡しがあった、とか。とはいうものの、冬には板橋が架けられた、という。尾根に向かって台地に上る。街並は落ち着いた雰囲気。町中に鶴川神社。長い石段を上り、牛頭天王にお参り。天王さま、ということで信仰されていたのだろうが、明治期に天王=天皇、それって畏れ多し、ということで、鶴川神社といった名前に改名したのだろう、か。これまた我流解釈。真偽のほど定かならず。
先に進むと三叉路。「鶴川野田尻線」という案内に従い左に折れ、上り坂を進む。台地の北には仲間川の低地。尾根道を歩いている事を実感する。四方の眺め、よし。本当にいい景色である。この数年いろんなところを歩いたが、大勢の仲間とハイキングするにはベストなコースのひとつ。広がり感が如何にも、いい。
中央高速・鳶ヶ崎橋
しばらく進むと中央高速に架かる鳶ヶ崎橋に。旧甲州街道はここから当分中央高速に沿って進む。というか、中央高速が旧甲州街道の道筋に沿ってつくられた、というべきだろう。道を通すにはいい条件の地形であった、ということ、か。

大椚(おおくぬぎ)一里塚
中央高速を越えちょっとした坂道を台地上に。広々とした台地上に大椚一里塚。塚はなく、江戸から19番目という案内板が残る、のみ。先に進むと大椚の集落。 歩きながら、南の地形が気になる。少し窪んだあたりが仲山川筋だろう、か。その向こうの高まりは御前山であろう、か。御前山の向こうには桂川がながれているはず、などと、あれこれ見えぬ地形を想像する。如何にも楽しい。 

吾妻神社 
ゆったりした集落を歩いてゆくと吾妻神社。境内脇に大椚観音堂がある。神も仏も皆同じ、神は仏の仮の姿、といった神仏習合の名残をとどめているのだろう。境内には大杉が屹立する。吾妻は「あずまはや(我が妻よ、もはやいないのか)」、から。日本武尊(やまとたける)が妻の弟橘姫を想い嘆いた言葉。先日足柄峠を歩いたときも日本武尊のあれこれが残されていた。足柄峠を越えて東国を平定に来た、ということらしい。

長峰の史跡

吾妻神社を越えると道は北に曲がり、中央高速に接する。しばらく中央高速に沿って進むと長峰の史跡。戦国時、このあたりに砦があった、よう。周囲を見渡せる尾根道。狼煙台としてはいいポジションである。道脇にあった説明文の概要をメモする;
長峰の史跡;長峰とは、もともとは鳶ケ崎(鶴川部落の上)から矢坪(談合坂上り線SA)に至る峰のことであった、が、戦国時代、上野原の加藤丹後守が出城といった砦をこの地に築いたため、いつしか、このあたりを長峰と呼ぶようになった。丹後守は武田信玄の家臣。甲斐の国の東口で北条に備えた。
当時、この地は交通の要衝。要害の地。また、水にも恵まれる。砦の北側は仲間川に面した崖である。南面には木の柵を立て守りを固めていた。柵の東側に「濁り池」。その西北部に「殿の井」と呼ばれる泉があった。濁り池は、100平方メートルの小池。いつも濁っていたのが名前の由来。殿の井は、枯れることのない湧水。殿が喉を潤したので、この名がついたのだろう、と。現在この史跡の真ん中を中央高速が走っている。

長峰砦の案内もあった。概要をメモ;長峰砦;やや小規模な中世の山城。この付近は戦国時代、甲斐と武蔵・相模が国境を接するところ。この砦は、当時、こういった国境地帯によく見られる「国境の城」と呼ばれるもの。周辺の城と連携をとり、国境警護の役割を担っていた。砦は、何時頃、誰によって築かれたか、といったことは不明。が、中央高速の拡張工事に際し調査した結果、郭、尾根を切断した堀切、斜面を横に走る横堀跡などが見つかった。
また、長峰と呼ばれていた尾根状地形のやや下がったあたりに、尾根筋を縫うように幅1m余りの道路の跡が断続敵に確認された。これは江戸期の「甲州街道(甲州道中)」に相当するものと見られる。
長峰砦跡は、歴史的全体像を把握するにはすでに多くの手がかりが失われている。が、この地には縄文時代以来の活動の跡も断片的ではあるが確認できる。ここが 古くからの交通の要衝であったということである。当然戦国時代にはこの周辺で甲斐の勢力と関東の諸将たちとの勢力争いが行われうことになる。ために、交通を掌握し戦略の拠点の一つとするための山城、すなわち長峰砦が築かれた、と。その後、江戸時代になると、砦の跡の傍らを通る山道が五街道の一つの甲州道中として整備された、と。

長峰砦もそうだが、このあたりには南北に砦や狼煙台が連なる。北から、大倉砦、長峰砦、四方津御前山の狼煙台、牧野砦、鶴島御前山砦、栃穴御前山砦である。大倉砦は鶴川、仲間川筋からの敵に備える。この長峰砦は尾根道筋に備え、四方津御前山の狼煙台と牧野砦は仲山川(八ツ沢)筋の敵に備え、桂川南岸の島御前山砦、栃穴御前山砦は桂川筋に備える。そしてこれら砦・狼煙台群の前面にあって上野原城が北条に備えていた、と言うことだろう。丁度遠藤周作さんの『日本紀行;「埋もれた古城」(光文社)』を読んでいたのだが、そこに群馬の箕輪城の記事があった。この城も支城群があるそうな。主城だけでな

く、支城・砦・狼煙台といった防御ネットワークを頭に入れた城巡りも面白そう。

野田尻宿

中央高速脇の側道を進み、高速に架かる新栗原橋を渡り、高速の北側を少し下り加減に進む。ほどなく野田尻の集落となる。江戸から20番目の宿場。ゆったりとした、いい雰囲気の街並である。本陣跡には明治天皇御小休所址が。明治13年の山梨巡行の折のこと。それに備えて街道の拡張・整備が行われた、ってどこかで読んだことがある。
町中に大嶋神社。由来などよくわからないが、大嶋神社って、宗像三女神の次女でる湍津姫神が鎮座する宗像の大嶋からきているのだろうか。奥津島神社って書かれる神社も多い。集落の北には仲間川、南は中央高速が迫る。

荻野一里塚

集落のはずれに西光寺。9世紀はじめに開かれた歴史のあるお寺さま。あれこれとメッセージの書かれたボードが、あちこちに掛かっている。お寺の手前に「お玉ヶ井」の石碑。旅籠で働く美しい娘が恋の成就のお礼に野田尻の一角に湧水をプレゼント。この娘、実は長峰の池の竜神であった、とか。
西光寺の手前に南に進む道。すぐ先に高速の橋桁が見える。旧甲州街道はこの道ではなく、西光寺の北の三叉路から南に廻りこむように進む。直進すれば仲間川筋に出て、源流への道筋が続いているようだ。
西光寺の裏の坂道をのぼってゆく。中央高速を越えると杉林の道。これはいいや、とは思うまもなく舗装道路に。ゆるやかな上り。しばし進むと道の擁壁の上に荻野一里塚の説明。案内だけで一里塚は残っていない。

矢坪
中央道の遮音壁に沿って進み、矢坪橋で再び中央道を越えて北側に。中央高速はこのあたりで南西に大きく曲がる。直進すれば山塊に当たるわけで、山裾を縫うように下ってゆく。一方旧甲州街道は山へと直進する。なぜだろうと地形図をチェック。山の裾には多くの沢が見える。沢越えを避けるため、沢筋の影響のない山の道を進むのではなかろうか。
矢坪橋を渡るとすぐに右に上る小道が分かれる。この道は戦国期の古道とか。旧甲州街道は県道の道筋のようだが、どうせのことなら舗装道路より山辺の小道がよかろうと右に折れる。入り口に旧古戦場の案内;「長峰の古道を西に進み大目地区矢坪に出て、さらに坂を上ると新田に出る。この矢坪と新田の間の坂を矢坪坂と言い、昔古戦場となったところ。享禄3年(1530)、北条氏縄(綱の間違い、かなあ?)の軍勢が矢坪坂に進軍、待ちかまえるは坂の上の小山田越中守軍。激しい戦いが行われたが多勢に無勢、小山田軍は敗退して富士吉田方面に逃げた」という。武田と北条のせめぎ合いが、こんなところまでに及んでいたか、と感慨新た。
座頭転がし
急な小道を上る。武甕槌(たけみかづち)神社入口の案内。少々石段が長そうなのでお参りはパス。なにせ家をでたのが少々遅く、日暮れが心配。先を急ぐと民家が。まことに大きな白犬に吠えられる。恐る恐る民家の庭先といった道を抜け、森を進む。ほどなく道が開ける。下に県道が見える。20mほどもありそう。柵があるからいいものの、なければ高所恐怖症のわが身には少々怖い、ほと。
柵が切れてフェンスになったところに「座頭転がし」。県道の工事で山肌を削りもとの地形より険しくはなっているのだろうが、それでも座頭が転んでもおかしくは、ない。先に進むとほどなく県道に合流。安達野のバス停。新田の集落に出る。

犬目宿

県道をどんどん進むと犬目宿。落ち着いたいい雰囲気の町並み。標高は510m強。桂川筋が標高280m程度であるので、330mほども高い位置。安定した街道を通すには、険峻な谷筋、入り組んだ沢筋を避け、ここまで上らなければならなかったのであろう。
義民「犬目の兵助」の生家の案内。概要をメモ;天保四年(1833)の飢饉に引き続き、天保七年(1836)にも大飢饉。餓死者続出の悲惨な状況。代官所救済を願い出ても門前払い。万策窮し、犬目村の兵助などを頭取とした一団が、米穀商へ打ち壊し。世に言う、『甲州一揆』。
このとき兵助は四十歳。家族に類が及ぶのを防ぐための『書き置きの事』や、妻への『離縁状』などが、この生家である『水田屋』に残されている。一揆後、兵助は逃亡の旅に出る。秩父に向かい、巡礼姿になって 長野を経由して、新潟から日本海側を西に向かい、瀬戸内に出て、広島から山口県の岩国までも足を伸ばし、四国に渡り、更に伊勢へと一年余りの逃避行。晩年は、こっそり犬目村に帰り、役人の目を逃れて隠れ住み、慶応三年に七十一歳で没した、と。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)  

君恋温泉

集落の外れは枡形の道。城下町などに敵の侵入を防ぐ鍵形の道がここで必要なのかどかわからないが、ともあれ、道脇の寶勝寺、白馬不動尊などを見やりながら先 

に進む。道は心もち上りとなっている。いくつかのカーブを曲がり歩を進めると君恋温泉。いい名前。名前の由来は「君越(きみごう)」から。日本武尊(やまとたける)が妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)を想いつつ、この地を進んだ、とか。日本武尊が「君越(きみごう)」から振り仰いだ山が裏にそびえる扇山(仰ぎ山)、ということだ。とはいうものの、仰ぎ見たと伝えられるところはあちこちにある。日本武尊、大人気である。このあたりが今回の標高最高点550m強あるようだ。近くには恋塚って地名もある。その恋塚に進む。


恋塚の一里塚

君恋温泉からはやっと下りとなる。少し進むと道脇にこんもりとした塚。恋塚の一里塚。日本橋から21里。一里塚って箱根八里越えのとき、はじめて見たのだが、道の両側に土を盛った塚をつくる。わかりやすいとは思うのだが、大きさ9m、高さ3mほどの塚。そこまでする必要があるのだろうか、少々疑問。とはいうものの、遠くから距離の目安がわかるのは有難い、か。

中野
道をどんどん下る。途中、馬宿地区には40mほどではあるが、石畳の道が残っていたそうだが、分岐の細路を見逃した。馬宿から山谷へと進むと開けたところから富士山が見えてくる。美しい。山谷の集落の大月CCへの入口を見やり、どんどん下る。日暮れとの勝負といった按配。10分強歩くと中野の集落。ここまで来れば一安心。


ゆったりとした風景の中をさらに下ると中央高速の巨大な橋桁。深い沢を一跨ぎ。こんな芸当のできない旧甲州街道は、自然の地形に抗うことなく、沢を避け尾根を登り、再び沢を避け尾根を下っている。今と昔の道の違いがちょっとだけ実感できた。

下鳥沢
中央高速の橋桁をくぐり、先に進むとほどなく現在の甲州街道・国道20号線に合流。久しぶりに車の騒音を聞きながら鳥沢駅に進み、本日の予定終了。上野原から17キロ程度の散歩。時間がなかったので3時間強で歩き終えた。


甲州街道を歩く そのⅠ:大月の岩殿城跡を歩く

先日中世の甲州街道を歩いた。山梨の塩山から大菩薩峠を越え、奥多摩の小菅村に抜ける峠道である。で、中央線に乗り塩山に向かう途中、JR大月駅前に聳える岩山に目が止まった。「ひょっとしてあの岩山って岩殿山?」同行の仲間に訪ねた。然り、と。いやはや、偶然に岩殿山に出合った。この岩山には岩殿城跡がある。

関東を歩いていると、折に触れて北条氏の事跡が登場する。岩殿城もそのひとつ。小山田氏の居城である。小山田氏のことをはじめて知ったのは昭島の滝山城散歩の時。碓井峠方面より侵攻した本隊に呼応し、小仏峠の山道を切り開き北条方を奇襲し勝利を収めた。北条方はまさか険路・小仏峠方面から武田の軍勢が侵攻するとは夢にも思っていなかった、と。世に言う廿里合戦である。大菩薩行から数週間を経た晩秋のとある休日、岩殿城を訪れた。


散歩のルート:JR大月駅>桂川>岩殿山城址入口>ふれあい館>揚城戸門>岩殿山頂>七社権現洞窟>葛野川>甲州街道>大月市郷土資料館>柱状節理>猿橋>JR鳥沢

大月駅
JR中央線の各駅停車でのんびり大月に。中央高速ではしばしば目にする地名ではあるが、JRでははじめて。つつましやかなる駅舎である。駅のホームから岩殿山が見える。いかにも魅力的な山容。
駅前もゆったり。観光案内を探すが、見当たらない。とはいうものの、目的の地は眼前に聳えているわけであり、地図もなくてもなんとか行けそう。ということで、のんびりした商店街を進む。
この大月の地には平安時代、武蔵七党横山氏の分流古郡氏が居を構えた、と。その古郡氏が和田義盛の乱により滅亡した後、武田領となり、小山田氏が治めることに。
江戸時代は甲州街道の第20番の宿場町。江戸から93.7キロのところにあった。地名の由来は大槻(ケヤキ)が群生していた、から。その後、美しい月も見える、という地勢故に、いつしか大槻が大月になった。とか。

桂川

駅前の路地を東に進む。このあたりの地名は御太刀(みたち)。やんごとなき方の太刀のあれこれに由来するのだろうか。が、詳細不明。駅のホームの東端の少し先で線路を越え、道なりに岩殿山方向へ進む。大月市民会館交差点を過ぎると高月橋。桂川に架かる。
桂川は相模川の上流部の名称。水源は富士山麓の山中湖。名前の由来は京都の桂川から、といった説もあるが不明。大月から少し下った猿橋のあたりに桂川に合流する川があるのだが、その名前が葛野川。葛=かずら>かつら、との説も。桂って「つる」のことでもあるので納得。
高月橋は、大槻が大月となるきっかけとなった、高く照らす大きなお月さんがよく見えた場所、から、と勝手に解釈。

岩殿山城址入口
橋を渡り山裾を上る県道139号線を進む。道が少しカーブするあたりに岩殿山城址入口の案内。整地された坂道を上ると鳥居があり、そこに岩殿山の由来を述べた案内。概要をメモする;岩殿山は9世紀末、天台宗岩殿山円通寺として開創。10世紀には堂宇並ぶ門前町を形成。13世紀には天台系聖護院末の修験道の中心として栄える。
16世紀には武田、小山田両氏の支配下。岩殿城が築かれ相模、武蔵に備える。1582年、武田・小山田氏の滅亡により、徳川の支配を経て17世紀に廃城となる。
円通寺も明治期に神仏分離政策により廃寺。現在は東麓に三重塔跡、常楽院、大坊跡、また山頂には空堀、本城、亀ケ池といった遺構が残る。

ふれあい館
鳥居を過ぎ、階段を上る。彼方に富士、眼下の河岸段丘には大月の街が広がる。先に進むと丸山公園。お城の形をした建物・ふれあい館がある。1階は映像ホール、2階は展示室。2階の展示室には小山田氏の説明や大月の紹介ビデオが容易されていた。
小山田氏:桓武平氏の流れをくむ秩父党の出。町田の小山田の地に居をかまえ、小山田氏を名乗る。鎌倉期、頼朝を助け秩父党の重鎮たるも、畠山重忠謀殺の変に巻き込まれ一族のほとんどが滅する。で、かろうじて難を逃れた一派が甲斐の国・都留の地に居を構える。戦国期には武田氏、穴山氏と並ぶ勢力として甲斐の国に分立。後に武田氏に帰属するも、一定の独立性を保っていた、とか。
小山田氏で有名な武将は小山田信茂。信玄のもと、幾多の合戦において猛将の誉れを受ける。上でメモした廿里合戦もこの岩殿城から出撃する。険阻なる小仏峠から高尾へ進出。高尾駅北の台地あたりで北条の軍勢を破った。北条方が戦略上の拠点を昭島の滝山城から八王子城に移したのも、この小山田信茂の進出がきかっけ。小仏峠方面からの武田勢に備えるためである。ちなみに小仏峠越えの先達をつとめたのは岩殿円通寺の修験者であった、とか。
猛将信茂が評判を落としたのが武田勝頼への裏切り。織田信忠を総大将とする織田の軍勢により戦いに破れ、この岩殿城に落ち延びようとする武田勝頼に反旗を翻す。逃げ場を失った勝頼は天目山で自害。武田家が滅亡する。
織田軍の甲斐平定後、信長への伺候のため信忠に拝謁。が、勝頼への不忠を咎められ処刑される。とはいえ、小山田氏は単なる武田の家臣ではなく、一定の独立性を保っていたため、武田の家臣ではないわけで、家臣故の不忠という非難はあたらない、という説もある。

大月案内のビデオを見ながら少々休憩。受付でもらった資料を眺める。見所やコースが紹介されている。JR猿橋駅近くに名勝猿橋がある。大月市の郷土資料館も。そして岩殿山からJR猿橋方面への下りもある。であれば、ということで山頂からは猿橋方面に下ることに方針決定。富士を眺めながら腰を上げる。

揚城戸門
階段を上る。眼下に広がる眺めに感激。歩いては下を眺め、富士を眺め、また歩く。山側を見やると切り立った岩壁が聳える。修験道の修行場としての岩殿山というフレーズに、大いに納得。とはいうものの、高度をあげるにつれ谷側の崖が気になってくる。普通の人にはどうということのない石段なのだろうが、高所恐怖症の気味がある我が身としては少々怖い。何となくへっぴり腰の上りとなる。なんとか早く山頂に着きたいものだ、との思いだけで目を細め、谷川から目をそらし先に進む。
しばらくすすむと巨大な自然石が道の両側に迫る。揚城戸門。自然石が城門として利用されている。先に番所跡。揚城戸を守る番兵の詰所跡である。
さらに進むと尾根筋の先端に案内板。岩殿山西端に大露頭部のあったところ、とか。現在は風化・浸食が進み崩落の危険があるため破砕撤去されたが、もとは西の物見台跡とも、修験場とも言われていた、と。ここまでくると北の山容が目に入る。大菩薩へ峰筋であろう。まことに素晴らしい眺めである。

岩殿山頂
大菩薩行を思い出しながら先に進む。山頂はすぐ。上り口から30分弱といったところ、か。岩殿山の標高は634m。上り口は標高340m程度であるので、比高差300mほど。上る前は650m弱の山っって結構大変かと思っていたのだが、それほどでもなかった。
山頂は平地となっている。東屋や乃木将軍碑も。相変わらず富士は美しい。北も南も一望のもと。逆行であり携帯デジカメでは思うような写真が撮れないのが残念である。眼下に中央高速が大月の河岸段丘をうねっている。桂川って結構深い渓谷である。
岩殿城の案内をメモ;岩殿城は難攻不落の城。南方の桂川下流には相模、武蔵。西側の桂川上流には谷村、吉田、駿河。北方の葛野川上流には秩父などの山並みを一望におさめ、烽火台網の拠点であった。城跡には本丸、二の丸、三の丸、倉屋敷、兵舎、番所、物見台、馬屋、揚城戸のほか、空堀、井水、帯曲輪、烽火台、ば馬場跡がある。また、断崖下の七所権現、新宮などの大洞窟が兵舎や物見台として用いられている、と。
平地の先に最高点。本丸はそこにある。猿橋方面への下り道を確認しながら、馬場跡、武器や日用品を納めていた倉屋敷跡を越え山頂に。本丸跡。とはいうものの、現在はNTTの電波施設に占有されており、これといった趣なし。

馬場跡付近に井戸があったようだが、残念ながら見逃してしまった。こんな山頂に水が湧くってちょっと不思議、である。この井戸にまつわる行基上人の縁起もあ
 る。修験者がこの山を修験道場としたのも、小山田氏が城をこの岩山に築いたのも、この湧水の賜物であることは言うまでもない。
見てもいないのにあれこれと考えるのはなんだかなあ、とは思いながらも、岩山に水が湧く、その理由が気になる。どこかの岩山で同様の井戸があるという記事を読んだ覚えがある。岩山から地下水路に向かって井戸を掘り抜いた、とのことである。が、この岩山は少々高すぎる。数百メートルも岩盤をくり抜けるとも思えない。思うに、勝手な想像ではあるが、この岩山の湧水って、最高点のある岩盤域と東屋のあった平らな頂上部の岩盤域の境目から湧き出たた水ではなかろう、か。降った雨が山頂に滲み込む。が、下は岩盤。行き場を失った水が岩盤域の境目にそって進み、この井戸あたりで湧き出ているのでは、と。これといった根拠なし。
電波塔の防護柵に沿って山頂を東端に。東端を少し下ったところに空堀跡が残る。落ち葉で滑りやすい坂を少し下り空堀跡に。猿橋方面への下りはあるのだが、なんとなく足下がおぼつかない。怖がりの我が身としては、一も二もなく引き返す。本丸跡を下り、先ほど確認した猿橋への下り口に。断崖などのない、おだやかな道であることを祈るのみ。

七社権現洞窟
道を下る。崖側に柵もあり、また木立が眼下を防いでくれるので、崖への怖さはない。そうとなれは足取りも軽く下る。しばらく進むと「七社権現洞窟2分」の案内。分岐道を洞窟に。倒木が道を防ぐ細路を上ると洞窟に七社権現。少し奥まったところに祠が見える。散歩の折々に登場する聖護院道興(しょうごいんどうこう)が「岩殿の明神と申して霊社ましましける。参詣し侍りて、歌よみて奉りけり」などとして、『あひ難きこ此のいわはどののかみや知る世々にく朽ちせぬ契り有りとは』と詠んだのはこの権現様。
で、七所権現って、伊豆権現・箱根権現・日光権現・白山権現・熊野権現・蔵王権現・山王権現の七社。ありがたや、七カ所の権現様を一堂に祀る。ここをお参りすれば七カ所の権現様からの功徳を受ける、ということ、か。熊野の三所権現がプロトタイプであろうが、この地の先達が伊豆・箱根の権現様の先達も兼ねるようになり五所権現、さらに各地の現様もカバーするようになり七所権現となったのであろう、か。で、現在七体の仏様は岩殿山の東府麓にある真蔵寺におさめられている。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)  

葛野川
七社権現洞窟から元の下り道に戻る。少し下ると舗装道路が見えてきた。岩殿山散歩もこれで終わり。下りも30分弱、というとことか。道路に降りる。すぐ近くに古びた堂宇。傍に円通寺三重塔跡。これといって何があるわけでない。取り急ぎ、次の目的地である猿橋に向かうべく、甲州街道まで進む。
道なりに賑岡(にぎおか)地区を進む。
ゆったり、のんびり歩を進めると前方に中央高速の橋桁が見えてくる。道が橋桁とクロスするあたりに川筋が。葛野川である。この川の上流域をチェックすると葛野川ダム、それとその近くに松姫峠がある。
松姫峠って、先日の大菩薩から奥多摩の小菅村に抜けるときに歩いた牛ノ寝尾根の東端にある峠。
峠の名前の由来は武田信玄の娘・松姫から。武田家滅亡に際し、この峠道を武州・八王子へと落ち延びた、とも。ちなみに、松姫が庇い、共に落ち延びた香具姫って、岩殿城主小山田信茂の娘。八王子に無事に逃れ、松姫によって育てられた。奇しき因縁。奇しき因縁といえば、もうひとつ。武田家を滅ぼした織田方の総大将である織田信忠と松姫は婚約者であった。

甲州街道

中央高速との交差地点から南に下り、桂川を渡ると甲州街道。JR猿橋駅前の交差点を東に向かう。次の目的地は猿橋。日本三奇橋として名高い猿橋を訪ねることに。車の往来の激しい道路脇のささやかなる歩道を進む。いつものことながら、トラックの風圧が少々怖い。1キロ強歩くと、大月市郷土資料館の案内。ちょっと立ち寄ることに。甲州街道を北に折れ、町中にs入る。台地を側に向かて少しくだったところに郷土館があった。

大月市郷土資料館
郷土館の1階は企画展。2階は常設展示。2階に上り大月の歴史をざっと眺める。甲州街道の道筋の説明が目に入る。小仏峠から相模湖への道筋は知っていたのだが、それから先の道筋は知らなかった。展示地図を見ると、現在の甲州街道と離れた道筋は小仏峠から相模湖の道筋以外に、上野原から猿橋のひとつ東の駅・鳥沢まで、それと笹子峠を越える道筋である。大いに惹かれる。近々これらの道筋を歩こう、との思い強し。

柱状節理
郷土資料館を離れ、猿橋に向かう。資料館のすぐ隣に猿橋公園。猿橋への道案内に従い公園内を進む。公園南の崖は富士山が噴火したときの溶岩流が桂川に沿って流れた末端部。溶岩が急速に冷却されたできた柱状節理の形状がはっきりわかる。

猿橋
溶岩の崖に沿って進み、東端から階段を崖上にのぼると猿橋。渓谷に木の橋が架かる。渓谷の幅は30mほど。高さも30mほど。橋桁をかけることができないので、両岸からせり出した四層の支柱によって橋を支えている。
この橋、一見すると木橋のようではあるが、現在の橋はH鋼を木材で覆ったもの。1984年に18世紀中頃の橋の姿を復元した。橋の形も往古は吊り橋であった、との説もあるが、18世紀中頃には現在のような形の橋になっていた、と言う。
橋の歴史は古い。奈良時代、7世紀初頭の推古天皇の頃、百済の人、志羅呼(しらこ)、この所に至り猿王の藤蔓をよじ、断崖を渡るを見て橋を造る、という伝説があるほど、だ。また、室町期、15世紀の中頃には、岩殿山でも触れた聖護院門跡道興がこの地を訪れ、『廻国雑記』に「猿橋とて、川の底千尋に及び侍る上に、三十余丈の橋を渡して侍りけり。此の橋に種々の説あり。昔猿の渡しけるなど里人の申し侍りき。さる事ありけるにや。信用し難し。此の橋の朽損の時は、いづれに国中の猿飼ども集りて、勧進などして渡し侍るとなむ。然あらば其の由緒も侍ることあり。所から奇妙なる境地なり」と述べている。
戦国期は武田方の防御拠点であったろうし、江戸期には甲州街道の往来も多く、広重は「甲陽猿橋之図」を描き、十返舎一九、荻生徂徠なども猿橋を描いている。

橋からの眺めをしばし楽しみ、次いで、橋の下へと続く階段を下る。橋の下の岩場から猿橋を眺める。渓谷美はなかなかのもの。橋の下、川面との中空に架かる橋状のものは水路橋。上流の駒橋発電所で利用した水を下流の発電所で再活用するために通している。昔の写真を見ると、水路の上を機関車が走っている。もともとは、この地を中央線が走っていたのだが、1968年の複線化工事に際し、現在の南回りルートに変わり、鉄路は消えた。

JR鳥沢駅



橋の袂の店で、「山梨と言えば、ほうとう、でしょう」と名物を食す。しばし休憩の後、本日最後の目的地であるJR鳥沢へ向かう。2キロ強、といった道のりである。鳥沢までの道筋は、途中、道脇に先ほどの水路橋からの流路などの少々のアクセントはあるものの、ひたすら車の往来の多い甲州街道を進むだけ。鳥沢に近づくと、昔の宿場町の雰囲気を残す家並もちらほら、と。大月駅から10キロ弱を歩き、JR鳥沢駅に到着。本日の散歩を終える。