水曜日, 2月 21, 2024

讃岐 金毘羅参詣道:伊予・土佐街道 ①:四国中央市の遍路別れから金毘羅宮へ

讃岐の金毘羅参詣道も、丸亀街道多度津街道、高松街道()を歩き終え、今回は伊予から琴平に向かう伊予・土佐街道を歩くことにした。伊予・土佐街道と称される所以は伊予からの金毘羅参詣道は伊予と讃岐の県境、四国中央市の旧川之江で土佐から四国山地を抜けてきた土佐北街道と合流し讃岐へと進むためである。
県境を越えた参詣道は観音寺市から三豊市を抜け仲多度郡琴平町に向かう。その距離おおよそ40キロ弱といったところだろうか。厳しい峠越えもなく、唯一の峠、といっても標高150mほどなのだが、その伊予見峠のあたりの旧道にちょっと藪を抜けるところはあるが、基本は里歩き。余裕をみて1泊二日の予定で散歩に出かけた。
メモは2回に分ける。今回は四国中央市の遍路分れから観音寺市白坂交差点まで。この交差点は伊予・土佐街道が多度津から丸亀、高松方面に向かう往還(所謂「伊予街道」)と金比羅さんへと向かう参詣道の分岐点である。
尚、今回も愛媛県および香川県の「歴史の道 調査報告書(以下「調査報告書」)」の金毘羅街道や伊予・土佐街道を参考にトレースする。



本日のルート;

伊予から讃岐へ
四国中央市中之庄の遍路分かれ>今宮神社参道口の常夜燈>井関川東詰めに常夜燈など>三島陣屋跡>三島神社>興願寺の三重塔>大王製紙工場>金生川の大江橋西詰め
海岸通りの参詣道:三島神社>川上但馬守遺跡>国道から逸れ北に向かい八綱浦橋へ>関中佐の墓>村松大師堂に道標2基>三宝荒神社の常夜燈道標と地蔵尊>東宮石遺跡>大江橋西詰め
大峠地蔵尊>橘地蔵尊・道標>大師堂>土佐北街道と合流し北進し右折した先に常夜燈>川之江八幡>相模橋の南詰めに道標・北詰めに相模橋の親柱>塩竈神社・純信堂>一里塚跡・芭蕉句碑>西行庵>余木崎
讃岐
箕浦港の金毘羅燈籠>一字一石供養塔>七福神社の常夜燈>関谷橋袂の観音堂と常夜燈>大平木地蔵>豊浜神社>三又に道標を兼ねた金毘羅燈籠>薬師堂の道標>大道橋東詰めに常夜燈と地蔵尊>「すぽっシュ豊浜」傍の常夜燈と道標>白坂交差点



■伊予から讃岐へ■

四国中央市中之庄の遍路分かれ
出発点の国道11号バイパスと県道126号が交差する四国中央市中之庄の通称「へんろ分かれ」に向かう。
遍路別れの所以は、遍路道と併用して北東してきた金毘羅参詣道がこの地で分かれるため。松山から今治を経て札所を辿る遍路道と、松山から桜三里を抜けてきた金毘羅街道が西条市で合流し、国道1号に沿って進んだ道筋が、旧土居町(現四国中央市)で県道126号となり、中之庄の交差点で分かれ、遍路道は65番札所三角寺へと山麓へと向かい、金毘羅参詣道は海岸線の予讃国境余木岬へと向かう。 なお、この地点を始点としたのは伊予の金毘羅道を松山郊外の川内から桜三里を越え西条市まで、その後、西条市から三角寺までの遍路道を既に歩き終えているためである(四国の遍路道散歩は東部るログ「時空付箋」をご覧ください)。
茂兵衛道標
遍路分かれ交差点の県道126号西側角には茂兵衛道標が立つ。「前神寺九里 三角寺五十丁 奥ノ院百八丁」と共に、「左 金ぴらへ九里」と刻まれる。
はしくら道の道標
交差点東の遍路休憩所脇に「右 はし久ら道」と刻まれた大きな道標が立つ。昭和58年(1983)再建とある。11号バイパスは昭和57年(1982)に工事が開始され、昭和59年(1984)に一部が開通。川之江に抜けるルートが未完成の状態である。「右 はし久ら道」の道標はこのバイパス工事に際し再建されたものだろう。
昔の写真を見ると町中を通る道の左右に箸蔵寺への道標と茂兵衛道標が並び立つ。バイパス工事によって景観が大きく変わっている。
箸蔵寺
「はし久ら道」とは金比羅宮の奥の院とも称される箸蔵寺へと向かう道。東進し伊予と阿波の国境の境目峠を抜け三好市池田街の箸蔵寺へ向かう。箸蔵寺へは土讃線財田駅から箸蔵道を歩いたことがある()

今宮神社参道口の常夜燈
遍路分かれ交差点で遍路道は県道126号を東進するが、伊予道・金毘羅参詣道は遍路休憩所の駐車スペース西端から北へ向かう。少し進むと今宮神社参道口に「金毘羅大権現永代常夜燈」と刻まれた金毘羅常夜燈が立つ。
元禄2年(1698),宇摩郡の十八の村が今治藩領となり、三島に代官所が置かれることになった。それまで寒村であった三島村は発展する。金毘羅街道が三島へと向かうのもそれも一因だろう。

井関川東詰めに常夜燈など
妙法蓮華経書写塔
古き家並の残る道筋を進み、JR踏切りを越え井関川に。小さな川の東詰めに石造物。川傍に常夜燈、中央に地蔵尊座像とその前にも石仏、東端には「妙法蓮華経書写塔」が並ぶ。
常夜燈は享保13年(1728)に奉納されたもの。妙法蓮華経とは法華経の正式名。石塔に戒名らしき文字が読める。供養のため法華経を書写あるいは経文を一字一石に刻み埋めたことを記念した石塔なのだろうか。



三島陣屋跡
常夜燈から東、と言うか北東に向かって道なりに進むとT字路。金毘羅道は左に折れ直ぐ右に折れて進むが。右に折れる角に建つ広島銀行の前に「陣屋遺跡」と刻まれた横長の石碑がある。「浜8軒、上8軒」 とよばれていた寒村であったが、元禄11年(1698) 今治藩領となり代官所がおかれ、このあたりの中心地となっていったようである。
地図を見ていると、少し北に「今治藩お台場跡」のマークがある。ちょっと立ち寄り。
今治藩の替地
宇摩郡の16の村が今治藩の替地となった理由は、元禄11年(1698)に今治藩が関東にあった領地5千石を幕府に没収された代わりに、宇摩郡の天領(幕府直轄領)の一部を与えられため。今治藩は元々4万石の大名であったが、2代藩主の定時が嗣子の定陳に遺言として、定陳の弟の定直に関東領地のうち5千石を分与するよう残したため、3万5千石となっていた。関東領地の没収は、幕府が関東の大名に対して行った上地(領地の一部を幕府に納めること)の強化策の一環であった。
今治藩お台場跡
反甫(湊)は埋め立てられ昔日の面影はない
11号線の海側、三島川之江港の東に広場があり、その東に社があり金毘羅神宮とある。お台場はこの辺りにあったようだ。昔の写真を見ると、社の周囲は反甫(湊)となっている。寛政11年(1671)今治藩はここに東西約88m、南北約45m、深さ約3.6m(満潮時;干潮時は1.2m)の湊をつくったとある。これにより大型帆船の出入りが可能となった。
嘉永6年(1853) ペリーの来航を継起として、幕府は各藩に命じ海防を強化させた。 三島でも今治藩の代官の命令により、 村民を動員し反甫の北側に土を盛り、 石を積み、村々の鐘や銅製品を集めて大砲をつくるよう指示した。大砲は発射されることなく明治を迎えたとのことである。

三島神社
三島陣屋跡のある広島銀行の南の県道123号を北東に進む。古い家並の中を進み宮川に架かる朱に塗られた橋を渡ると三島神社。門前に金毘羅道標。「こんぴら大門より九里」と刻まれる。文政四年(1841)建立の随身門を潜り境内に。拝殿にお参り。
Wikipediaには「奈良時代初期、越智玉澄が宇摩の大領に任じられ、上柏町御所に新館を建て住し、毎月大山祇神社(愛媛県今治市大三島町)に参詣していたが、年老い出来なくなったので、養老4年旧8月23日に大山祇神社の神霊を八綱浦三津名岬加茂川上冠岡の地に勧請したのが始まり」とあった。
元の本殿
拝殿右手に鳥居がありその奥に社が建つ。ちょっと気になり鳥居を潜る。社伝によるとこの社は延徳2年(1490)建立され、明治35年(1902)に現本殿ができるまでは本殿であった。昭和60年(1985)、解体修理復元された。三島の地名由来ともなった社である。
小林一茶の句碑
境内に小林一茶の句碑。小林一茶のもの。傍の案内には「一茶句碑 文化文政時代の俳人小林一茶が若いころの寛政七年二月二十八日に当社を参詣されこの句を残されました。
冥加あれや日本の花惣鎮守
この碑文は現存する一茶直筆の寛政紀行より拡大したものです(以下略)」とあった。「冥加あれや」は「より美しく加える」といった意味。「日本の花」は一茶は日本の美しい自然のシンボルとしてよく使っている。「惣鎮守」はこのコンテキストでは「あらゆる神社」。ということで、この句は「日本の各地に美しい自然や文化が広がっており、その中でも特に日本の神社は美しく、心を落ち着かせる存在であるということを表現している。
境内には古い絵図があり、社の北は直ぐ海。海岸線に沿って細い道が描かれる。 
なお、境内には古代祭祀がおこなわれた盤座、予讃の国境の海中にあったとされる龍門石などがあったようだが見逃した。盤座の辺りには福嶋正則奉納の灯籠もあったようだ。

興願寺の三重塔
地図に三島神社の南東に興願寺の三重塔が地図に記される。ちょっと寄り道。三重塔は興願寺が経営していると思われる三島幼稚園の運動場に建っていた。塔の前を園児が駆け回っている。
この三重塔は元は阿波の21番札所太龍寺にあったものだが、昭和28年(1953)から昭和34年(1959)にかけて興願寺に譲渡された。両寺の住職が同窓の縁もあり、老朽化したお堂が興願寺に移されたようだ。
●仁王門
三重塔の西に興願寺の本堂が建つ。立派な仁王門を潜り境内に入り本堂にお参り。お寺様は承応元年(1652)の開基。仁王堂の案内には「享和元年(一八〇一)建立 桁行三間 梁間二間 三間一戸楼門 初層は角柱、頭貫の木鼻は唐草の絵様を残して刳(く)り抜く高度な技法を見せる。 上層は円柱で、唐様の木鼻と台輪を持ち、組物は出組である。中備は蓑束て、中央間は組物とさらに両脇に蓑束を加える。軒は二軒繁垂木である。
虹梁(こうりょう)及び上層の木鼻や実肘木(さねひじき)の絵様は刻線が細くて浅く、江戸中期の古式を基調としながら、木鼻に新時代の技法を混入させている。明治以降の建築に見られるような華美に陥らず、質実な意匠で纏められており、蟇股や蓑束などの細部も古雅を見せ、造形的に美しい。江戸時代の華美の規制もうかがえ歴史資料としての価値も認められる。
天保元年(一八三〇)に北向きから東向きに移築している。昭和五十三年解体修理に際し、本瓦葺から本瓦葺形の銅瓦葺に改められた」とあった。
●山頭火歌碑
また境内には自由律俳人である山頭火の歌碑。案内には「放浪の自由律俳人、種田山頭火(明治十五年山口県生まれ。昭和十五年松山一草庵にて歿 享年五十九)は昭和十四年十月十四日、死の一年前、最後の四国遍路の途上、興願寺に一泊して二句詠んでいる。
ゆふやみ、御佛はかがやいてしずかな
静かな秋の夕暮れ、最晩年の山頭火の清澄なこころが詠んだ美しい句である。
もう一句は、
水かとぼしいといふ風呂のあっさは
山頭火は酒と温泉(風呂)を愛した。行乞の旅の疲れを何よりも癒してくれたからだ。同年は西日本一帯を襲った大旱魃で井戸水も枯れかかっていた。右の句は、貴重な水を使って沸かしてくれた熱風呂に身を浸した山頭火の、感謝と喜びがあふれでた句である。
文字は直筆原稿「句日記」よりとった。 平成二十二年八月 興願寺」とあった。

旭橋で左折し海岸寺川を渡る
旭橋で海岸寺川を越える
金毘羅道に戻り北東進すると海岸寺川にあたる。川に架かる海岸寺橋の西詰で右折し、川の左岸を少し上流へ向かい旭橋で左折し海岸寺川を渡る。道なりに進むと県道123号にあたる。県道123号の左手は製紙工場の施設が連なる。
紙の町
四国中央市の旧三島市,川之江市は紙の町で知られる。現在紙製品の出荷額は15年連続日本一位という。その歴史は宝暦年間というから18世紀中頃に遡る。北に聳える四国山地・法皇山脈の南麓で金生川の水質(洗浄。漂泊に適する)と楮をもとに紙漉きが始まったとされる。土佐の紙漉き技術を伝習したとも伝わるがはっきりとした資料は残らない。文政年間の19世紀前期には駿河からもたらされた三椏を使った半紙の製造も始まったという。
三島に今治藩の代官所が設けられ、安永7年(1778)、今治藩の代官は馬立村(法皇山脈を南に越えた新宮町の南)で紙楮の運上を命じたり、天保12年(1841)、紙役所を設けたとのことだが、保護奨励はそれほど熱心ではなかったようである。
19世紀中頃から後半から幕末にかけて金砂村(新宮町の西、銅山川流域の村;現在は四国中央市)や新宮村(現四国中央市)で楮や三椏の栽培が盛んになったようであるが、とはいえ、幕末から明治に入った頃の製糸紙業者はわずか20数戸程度。明治4年(1871)になって80戸になったといった規模ではあった。
この地区の製紙業が発展し始めるのは明治になってから。明治5年(1872 )上文村(旧川之江市;現四国中央市)の薦田篤平氏の研究努力もあり、製造量が倍増。愛媛では大洲に継ぐ生産規模となる。更に改良を重ね明治27年(1894)には愛媛の生産額の48%までとなり、この頃からこの地の製紙業は家業から専業化に変わってゆく。明治34年(1901)にはその生産量は愛媛県下の60%を越えるまでとなったようだ。
また同時期35年頃より篠原朔太郎氏が技術革新に務め効率化がアップするとともに住治平氏らが同業組合を組織し販路を全国に広げることになる。こうしてこの地の紙業発展の基礎がつくられた。明治39年(1906)には製紙業者の数は643戸に達したとのことである。 その後大正から昭和にかけて技術革新と企業化が進む。篠原朔太郎氏の努力により原料を三椏や楮に頼ることなく、パルプなどを原料として製造が可能となるなとの技術革新を進め、同時に製紙業の発展に併せて紙加工業をはじめ関連産業を派生し、一大製紙業地の形成をなすことになる。
特筆すべきは昭和25年(1950)に通水が開始された銅山川の分水。法皇山脈を穿ち嶺南の銅山川の水を嶺北に導水するという構想は既に江戸期にはじまったというが、念願の通水が実現。大量生産時代に入り製紙産業に不可欠な用水を確保できたことは今日の発展の最大の要因でもある。
因みにこの地区一帯は独特の臭いが漂う。紙を製造する過程であるパルプを漂白する時に使う次亜塩素酸ナトリウムが原因の煙が出ているためである。特に巨大な大王製紙の工場付近は独特の匂いがある。

金生川の大江橋南詰め
左右に製紙工場を見遣りながら赤之井川に架かる松島橋を渡り、川茂川を越える。「調査報告書」には川茂川を越える辺りに常夜燈があると記すが、現在では見当たらなかった。
その先で県道33号をクロス。この辺りが旧三島市と旧川之江市の境となる。その先に阿波街道分岐点。さらに北東に進み契川に架かる平木橋を渡ると国道192号と交差。ここも阿波街道分岐点。国道192号を東に進み境目峠を越えて阿波にはいっていくのだろう。
街道は少し東で県道123号を逸れ北進し国道11号をクロスし金生川に架かる大江橋の南詰に出る。ここは三島神社から海岸に沿って進んだもうひとつの金毘羅参詣道との合流点でもある。
海岸通りの参詣道●
三島神社にあった古い絵図
三島神社を浜側に出た街道は現在の国道11号を北東に進む。三島神社の古図に描かれていたように、松並木が続き、八綱浦と称される風光明媚なところであったが、現在は製紙工場により周囲は埋め立てられている。




〇 川上但馬守遺跡
少し進むと赤之井川に架かる赤之井橋。橋の西詰に「川上但馬守遺跡」。川之江城主。長曾我部の軍と戦い八綱浦で討たれたと伝わる。


〇国道から逸れ北に向かい八綱浦橋へ
川の左岸を進み
八綱浦橋で右岸に移る
その先川茂川にかかる橋の東詰めで国道から逸れ川の左岸を北東に向かう。ほどなく八綱浦橋。橋を渡り右岸に移ると一帯に墓地が広がる。地図を見るとその一画に関中佐の墓の案内がある。

〇関中佐の墓
「故海軍中佐關行男之墓 大正十年八月二十九日  西条市に生まれ海軍兵学校を経て 大東亜戦争に 参加 神風特別攻撃隊敷島隊長として昭和十九年十月二十五日 レイテ島沖敵航空母艦に突入散華す」とあった。
関行男大尉は、レイテ沖海戦でアメリカ海軍の護衛空母セント・ローを撃沈した武功で知られる。戦死後に二階級特進で海軍中佐になった。
とはいうものの、関大佐の出身地は西条市。それが何故四国中央市に?チェックする。母・サカエは 戦中は「軍神の母」として遇されるも戦後は一転、不遇の中で生活し息子の墓を建てることもできなかった、という。昭和28年(1953)母は没。関行男大尉の関係者が関中佐を顕彰するために、慰霊碑の建立を出身地西条に実現しようと努力したが、西条市の反対に遭うことになったようだ。翌29年(1954 )にこの村松大師堂の墓地にお墓が建てられた。その経緯は不明。
その後石川梅蔵氏は、西条市の楢本神社の宮司と話をし、昭和50年(1975)3月に伊予の青石で作った慰霊碑を神社の境内に建立することになる。

〇村松大師堂に道標2基
街道に戻り北東に進むと直ぐ村松大師堂。村松大師は「のぎよけ大師」と呼ばれ、のどや腹に飲み込んだ異物を取りのぞくに霊験あらたかとか。
昔、村松村の関五左衛門の所に泊まった僧が、お礼に、のどにささったとげを取る方法を伝えた。この僧は弘法大師の化身とされ、以来、人々は、村松大師を念じ茶碗に水を入れ箸を十文字にかけて飲み干すと、必ずとげがとれると信じ、この大師堂にお参りするようになったとのこと。大師堂右手に立つ「遺跡五左衛門大師」とある。
大師堂の入口に2基の道標。大きい道標には「前神寺 三角寺」と刻まれる。明治24年(1891)建立のもの。また小さな道標には「左 こんぴら道」と刻まれる。この道が金毘羅参詣道であることの証左でもある。
ここに遍路標石?あれこれチェックすると、空海は三角寺にて十一面観音像、不動明王を刻み、護摩供養をしたと伝わるが、その拠点はこの村松大師堂であり、ここから三角寺や奥の院の仙龍寺へと足を運んだといった記事もあった。その遍路道は松山道の川之江・三島インターの少し南にある山神社より三角寺へと上ったともあった。

〇三宝荒神社の常夜燈道標と地蔵尊、石碑
村松大師堂でクランク状に曲がる。元の村松大師堂はこのクランクの西側にあったとも言う。クランクを曲がり街道は北東に進み県道33号を越え川茂川と契川が合流した箇所に架かる契橋で渡ると、道の左手に三宝荒神社がある。道に面した常夜燈は道標を兼ね、「左 金ひら道 新浜中」と刻まれる。新浜はこの辺りの地名。地元の講中が奉納したものだろう。
西国三十三観音霊場の石碑
結構広い境内には寛政二年(1790)建立の地蔵菩薩座像もある。また境内には丸い石があり、よく見ると「廿五番 播磨國清水寺 千手観音」と刻まれ「あはれみや」から続く文字が刻まれる。清水寺の御詠歌は「あはれみや普(あまね)き門(かど)の品々(しなじな)に なにをかなみのここに清水」であり、御詠歌が刻まれているのだろう。
二十五番清水寺は西国三十三観音霊場。なぜここに?また本尊は十一面観音である。千手観音って?よくわからない。

〇東宮石遺跡
先に進むと道の左手、民家の脇に東宮石遺蹟の案内があり、「東宮石遺跡 東宮山古墳に関係あるといわれる、木梨軽太子が川之江に流されたときに、この石に舟をつないだという、伝説がある。 ここから金生川一帯にかけて、当地方唯一の砂丘遺蹟であり、昔はこのすぐ先が汀であった。
昭和五十五年(一九八〇)以川之江市教育委員会が、この下を発掘調査した。地表から一・七メートルの間に敷石の層が十二層あり、多数の土器片が出た。なかでも、耳状飾付壺は、県下でも例を見ない弥生土器である 平成二年四月吉日 川之江市教育委員会」とあった。
□東宮山古墳
松山道三島川之江インターの直ぐ北、法皇山脈の独立丘陵である東宮山にある古墳。円墳とも前方後円墳とも言われる。被葬者は定かではないが第19代允恭天皇皇子木梨軽皇子といれている。
Wikipediaには「『古事記』によれば、允恭23年立太子するも、同母妹の軽大娘皇女と情を通じ、それが原因となって允恭天皇の死後に廃太子され伊予国へ流される。その後、あとを追ってきた軽大娘皇女と共に自殺したといわれる(衣通姫伝説)。また『日本書紀』では、情を通じた後の允恭24年に軽大娘皇女が伊予国へ流刑となり、允恭天皇が死去した允恭42年に穴穂皇子によって討たれた」とある。 〇大江橋西詰で町中を進んだ参詣道と合流
道標
「大師道」と刻まれた道標
北進し大江橋南詰に
その先、倉庫にあたるところで右折し、更に道なりに左折する角に比較的新しい道標が立つ。手印と供に「大師道」と刻まれる。村松大師堂を指すのだろうか。
道は金生川左岸にあたり、右折し大江橋の西詰に出て、海岸通りの街道は町中を進んできた街道に逗留する。
□金生川
金生川は元は川之江港の方へと下っていたという。その流路は現在の国道11号に近いという。瀬替えされ現在の流路となった。度重なる洪水氾濫の治水事業とのこと。金生川は砂金が採れたことがその由来と言う。

●合流点から先に進む●

大峠地蔵尊
金生川を越え道なりに大峠へ向かう。大峠といっても城山と南の井地山に挟まれた標高30mほどの鞍部である。緩やかな坂の先に城山に建つ川之江城を見遣りながら進むと鞍部に。そこの道の左手に文化十二年(1825)建立の地蔵尊がある。大峠地蔵尊と刻まれた石碑が立つ。
川之江城
幾度となく訪れており今回はパス。
伊予・讃岐・土佐・阿波を結ぶ交通の要衝である川之江の鷲尾山山頂に位置し、南北朝時代から戦国時代にかけての城であり、別名仏殿城といわれるように本来は仏閣であった。藩政期川之江は天領となり陣屋が建てられた。天守を構える城ではあるが、これは川之江市制施行30周年を記念して建設されたもので史実に即した城ではないようだ。天守は犬山城を模したとも言われる。
城は歴史を踏まえたものではないが、伊予・讃岐・土佐・阿波を結ぶ交通の要衝であり、南北朝から戦国時代にかけて山城、というか砦が築かれていたようである。
南北朝時代、南朝方の河野氏の砦が築かれた。その後北朝方、四国の守護と称する讃岐の細川頼春氏の攻撃を受けて落城するも、その後もこの城をめぐる攻防が幾たびかあり、河野氏の所領に復する。
河野氏の所領に復した川之江城は、元亀3年(1572年)に阿波の三好勢の攻撃を受けている。その後、、川之江城を預かる河野氏重臣は土佐の長宗我部氏へ寝返るが、河野勢の攻撃を受けて落城。が、天正13年(1585年)に土佐の長宗我部氏の攻撃を受けて、川之江城は再び落城する。
長宗我部氏の攻略からわずか数ヶ月後、豊臣秀吉の四国平定軍が四国へ侵攻を開始(四国攻め)。川之江城も豊臣軍による攻囲を受け、長宗我部氏は降伏し川之江城は開城となった。 以後の川之江地方は小早川氏、福島氏、池田氏、小川氏と目まぐるしく領主が変わり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に伊予国に移封された加藤嘉明が川之江を領すると、慶長7年(1602年)に城を織豊系城郭へと改築した。しかし、嘉明が居城を伊予松山城へ移すと川之江城は廃城になった。
一柳直家が寛永13年(1636年)に川之江藩を立藩し、城を再築しようとしたが、寛永19年(1642年)に死去。領地は収公され、以後の川之江は天領になったため再築されることはなかった。

橘地蔵尊・道標
緩やかな坂を下ると道の左手に八坂神社。その西側少し奥まったところに地蔵尊。橘地蔵尊と石碑にあった。天明元年(1781)の建立とある。
街道は八坂神社の所を左に折れ北進する。直ぐに四つ辻。そこに道標が立つ。手印と共に「松山道 こんぴらみち」と刻まれる。明治四十二年の建立。
旧街道はこの四つ辻の少し北で右折し、金生川(現在は国道11号)を渡り土佐北街道に合流していたとのこと。が、現在は住宅で全く道筋は残っていない(「調査報告書」)。

仏法寺北の三叉路
さてどうしよう。成り行きで進み国道11号の一筋東の土佐北街道筋に合流するか、それとも「調査報告書」に「仏法寺の北に三叉路があり、そこには道標があったが、道路工事に際し撤去され、現在は川之江市郷土資料館の庭に保管されている。街道はここで東へ右折し、大師堂東で金生川を渡っていた」とある三叉路、大師堂を経て土佐北街道に合流するか、ちょっと考える。
結局大師堂まで進むことにした。その因は三叉路にあったという道標が気になったから。いつだったか川之江の「四国中央市歴史考古博物館 高原ミュージアム」に行ったことがあるのだが、その庭に2基の立派な道標が置かれていた。「調査報告書」にある郷土資料館って、このミュージアムの前身ではあろう。
で、ミュージアムの庭にある2基の道標の内、一基の道標には(正面)「左 阿ハみち」、(同下部)「うん遍ん寺迄 五里」、(右面上部)「右 とさ」、(同下部)「さんかく寺/於く乃ゐん、道」(=奥の院)、(同最下部)「三十五丁/七十八丁」と刻まれていた。
もう一基のほうは、正面に「左 こんぴら道」らしき文字は読めたのだが右面、左面の文字は読めない。どちらが上述三叉路に建っていたものかっわからないが、ともあれ立派な道標が立っていたことは間違いない。
ということで、道の左手に川之江城の建つ城山、また上述川上但馬守の供養塔のある仏法寺を見遣りながら三叉路らしきところまで進むことにした。


大師堂
入口の左手角に「大師橋跡」石柱
三叉路を右折。国道11号手前に大師堂があった。川之江新四国札所第四十三番明石寺とある。境内の小振りな祠が明石寺ということだろうか。
「調査報告書」には、「街道は大師堂東で金生川を渡っていた。昔は、大師橋という木製の太鼓橋が架かっていたが、昭和二十二年金生川が大江方面へ付け替えられ、以降は旧流路が国道11号となっている」とある。
と、大師堂の玉垣を見ていると、北東角に「大師橋跡」と刻まれた石柱が立っていた。確かに川が流れ橋が架かっていたことを確認し、国道11号を越え土佐北街道筋へと移る。
道筋少し戻ったところには土佐藩本陣跡、川之江陣屋跡などがある(詳しくは土佐北街道散歩のメモをご覧ください)。
一柳直家と川之江陣屋
慶長4年(1599年)、一柳直盛の次男として伏見に生まれる、父の直盛は関ケ原の戦いで戦功をあげ伊勢神戸5万石の所領を賜り、また大坂の陣でも戦功を挙げ寛永13年(1636年)6月に直盛は1万8000石余の加増を受けて伊予国西条に転封される、石高は計6万8000石余。このとき直家は加増分の中から播磨国加東郡内5000石を分け与えられている。
同年8月、西条に向かう途上で直盛が死去。直盛の遺領6万3000石余は3人の子(直重、直家、直頼)で分割されることとなった。
直家が相続したのは2万3600石で、さきに与えられていた磨国加東郡内5000石と合わせ、伊予国宇摩郡・周敷郡にまたがる2万8600石の大名となった。
直家は伊予川之江に陣屋(川之江陣屋)を定め、川之江藩を立藩。播磨国は分領とし小野に代官所を置いた。直家は川之江の城山(川之江城跡)に城を再建する構想もあったようだが、実現しなかった。
翌寛永14年(1637年)に初の国入りが認められるが、同年播磨小野の代官所を陣屋に改めて拠点を移しており(『寛政重修諸家譜』では当初から小野に居したとある)、実質的に小野藩が成立した。
寛永19年(1642年)に死去、享年44歳。直家には娘しかいなかったため、末期養子がまだ許されていなかった事情もあり、家督相続は認められたものの伊予国内の1万8600石が没収されることとなった。これにより小野藩の所領は播磨国内のみとなり、川之江藩はわずか6年で消滅した。その後は天領となり、陣屋跡に川之江代官所が設けられた。
一柳直重と直頼
因みに一柳直盛の死去に伴い、長男の直重は直盛の遺領3万石を継ぎ二代目西条藩主。三男の直頼は小松藩1万石を立藩した。
西条藩の直重は正保二年(1645)に死去し、遺領は二人の息子が分割相続する。兄の直興は西条藩を相続した。弟の直照は5000石を分知され、のちに津根村八日市に陣屋を構えた。旗本一柳家の始まりである。旧土居町(現四国中央市)津根八日市に「一柳公陣屋跡」の碑が残る。
寛文五年(1665)に兄の直興は不行跡により改易となり、領地を召し上げられる。西条藩はその後、徳川御三家の一つ紀州徳川家(紀州藩)の一族(御連枝)が入り、その支藩として廃藩置県まで存続した。
津根の八日市陣屋の分家2代目の直増は、宝永元年(1704)に播磨高木へ移封となり、八日市陣屋もその役割を終えた。因みに、この旗本一柳家9代目が浦賀奉行の直方。 ペリー来航の7年前浦賀軍艦2隻を率いて現れたアメリカのビッドル提督に対応した浦賀奉行である。



土佐北街道と合流し北進し右折した先に常夜燈
土佐藩の参勤交代の道でもあった土佐北街道筋と合流した参詣道は北進し、川之江駅から西に伸びる道をクロスした後、ほどなく右に折れる。かつての農人町と称された道筋を少し東進すると常夜燈がある。「天保十」といった文字が読める。
道はここから北東に弧を描き川之江八幡へと進む。


川之江八幡門前の道標
川之江八幡の門前、道の右手に道標が立つ。結構立派な道標。「こんぴら道」と大きく刻まれ、その下にほぼ消えかかった様で「大門迄八里」と刻まれる。側面には「嘉永七年(1954)」「農人*若連中」といった文字が刻まれる。地元の人による道標のようだ。


川之江八幡
道標の対面、八幡神社の鳥居がある。傍の説明には「「川之江八幡大鳥居 川之江市指定文化財 この鳥居は畠山から現在地に奉遷されたとき、大庄屋三宅七郎右衛門家経が献じたものである。慶安四年〈1651)の作で一石づくりの笠石が特徴となっている。規模、古さともに現存する鳥居としては全国二番目である。型式 明神形 高さ 約5メートル 幅 約3メートル」とあった。
〇太鼓橋
参道を進むと太鼓橋、左手の船囲いに小さな島(亀島)があり、そこに天明六年(1786)建立の太鼓橋が架かる。
〇随身門
随身門を潜り境内に。拝殿にお参り。神社由来に拠れば、この社は推古天皇6年(598)に 宇佐本宮より勧請し、当地切山にお祀りしたのが始まりとされている。その後、源頼義により康平7年(1064)が畠山山頂に遷宮されたが、長宗我部元親の手で焼かれた。現在地の遷宮されたのは正保3年(1646)のことと言う。
畠山って何処にあるのかはっきしないが、予讃線が川之江駅を越えた少し先、海に突き出た丘陵裾の海岸線を走る丘陵に畠山城跡がある。築城年代ははっきりしないが、川之江城の支城であったよう。その辺りだろうか。切山は金生川中流、下川町の北の阿讃山脈の峰にほど近い山中に切山と冠する地名がある。町域は金生町山田井となっている。



〇土佐燈籠・陣屋門
境内には海路の安全をお礼に土佐藩主が寄進した土佐灯籠も立つ。また、境内には新町の陣屋門が移され解体しその材料を使って復元されている。石碑に刻まれた案内には「この建物は旧川之江藩一柳陣屋門」の遺構である。江戸初期に乳児門様式を知る上からも極めて重要で、末永く後世に伝えるものとしてこの度文化庁より登録有形文化財に指定された」とあった。乳児門様式はあれこれチェックするもヒットしなかった。

相模橋の南詰めに道標・北詰めに相模橋の親柱
街道に戻り北進。すぐ相模橋があり、その南詰には「山田井街道」と刻まれた道標、橋の北詰には「さがみ橋」と刻まれた橋の親柱や「三島町一里十八丁」の丁石があった。更に北進すると道の右手に石仏が2基立っている。
●山田井街道
古代官道は観音寺杵田駅から川之江の大岡駅を繋ぐルートとして海岸廻りの余木崎ルートと山越えの山田井ルートを記している。山田井ルートの詳細は富商だが、金生川支流に山田井川があり、北東へと源頭部を詰めると金生町山田井という地名があり、現在その辺りを松山道の山田井トンネル、鳥越トンネルが抜けている。鳥越トンネルの先で里に出る。そこは讃岐。予讃国境の東の讃岐側は難所で鳥しか越せない、とも言われていた。なんとなく鳥越トンネルを越えるルートが山田井街道であったようにも思えてきた。単なる妄想。根拠なし。

塩竈神社・純信堂
街道は道なりに北西に弧を描き、国道11号をクロスする。交差手前右手の山側に塩竈神社。長い石段を上ったところにある。
●純信堂
街道は国道11号越え、国道の海側を国道に沿って少し進むと国道に合流する。合流地点の山側、一段高い所にお堂がある。♪♪土佐の高知のはりまや橋でぼんさん簪買うを見た♪♪で知られる、ぼんさん(坊さん)・純信ゆかりの地。お堂にお参り。
お堂の前に純信がお馬に宛てた手紙の案内板がある。「純信からうまへ  久しく遠々しく候。先ずと先ずとや御無事で御暮しと推し参らせ候。しつむ此節、川之江に寺子五、六十人ばかり世話致し居り候。とうせそもじを連れに参り申すべくと存じ居り候えともなかなか国の諾承り候にむつかしき故、たとい何年かかりても連れに行き申すべく候。左様御承知下さるべく自分に参り申さざる時は、人をやり申すべき故、お待ち下さるべくもし又それまでに嫁入りでもするか、又は心当たりの儀これあり候えばきっと存じ寄りこれあるべくかねて御噂なし置き候。
誠に去年以来そもじが事にて艱難致し候事。又よき便り御座候えば川之江顔役夫婦岩亀吉と申す者のところへ尋ね参り申すべく、須崎より久万の町へ参り候えば、よりより川之江へ二十里ばかり故、どうでもして是非是非まかり越しもうすべく、琴平で金を使い、そもじが参り候わば売るなどといふ悪口に少しも御気ずかいなされまじく早く越し待ち参らせ候。先はあらあらかしこ 八月一九日 うま様 せんなり(禅之=修業時代の純信の名前)事 岡元要」とある。
なんとも恋々とした手紙である。
高知の五台山、竹林寺の学僧、百余名を預る指導僧の純信が寺に出入りしていた鋳掛屋(いかけや)の娘・お馬(当時17才)に想いを寄せる。両想いであった、とも。一説には簪を買い求めたのは純お馬に懸想した学僧であり、それを咎めた純信は学僧を寺から追放。恨みに思った学僧が簪を買ったのは純信用であるとふれ廻り事件となった、とも。
結果、土佐藩の知れるところとなり僧にあるまじき仕儀と、純信は取り調べを受けて謹慎の身となり、お馬も寺への出入りを禁じられる。そこでふたりは安政2年(1855)の夜、駆け落ちをし関所を抜けて讃岐琴平にまで逃れるが、土佐藩が差し向けた追手に捕まり高知へ連れ戻され、高知城下番所前で3日間晒しものにされたあと、お馬は安喜川以東、純信は仁淀川以西へ追放処分となった。
四国歩き遍路の途次、安田・東谷の神峯登り口にお馬が落ち着き奉公した旅籠「坂本屋」の案内があった。
一方の純信は所払いを避け国外逃亡とし、伊予へと逃れた。この時名前を上述手紙にある岡本要と名乗った、とか。純信は伊予国宇摩郡川之江(現・四国中央市)に住む地元の顔役の川村亀吉の世話で寺子屋の教師となり過ごすが、それでもお馬のことが忘れられなかったようで、上述の手紙を書いている。
純信は再びお馬に会いに行き、駆け落ちを試みようとした。が、今度はお馬が承知せず・・・(といった噂だっただけかも)、結局、お馬は場所を移すよう命ぜられ須崎市の庄屋預りの身となった。のちに土地の大工と 世帯を持ち、二男二女をもうけた。お馬の子供達もそれぞれ成長し、明治18年(1885)お馬夫婦は、長男の住む東京小石川に引越し、更に明治21年(1888)に「二男の家で余生を送り、お馬は煙草屋の店先で店番をしていたという。東京都北区豊島で明治6年(1903)六五歳で病没し、北区の西福寺で出かに眠っている。
一方の純信は庇護者であった川村亀吉の死後川之江から消息を断った。いつだったか松山から高知城下を繋ぐ土佐街道を辿ったことがある。そのとき久万高原町、面河川に面した七鳥集落に東光寺があり、純信の過去帳が残るとのことあった。過去帳に「慶応徳念和尚」に「僧禅之」と連記されているとか。この寺の住職をしていたとの記事もある。また更にこの地から東に進み面河川支流の東川を遡った所に僧純信の墓が地図に記されている。
過去帳のあるお寺とお墓が離れているのは?はっきりしないが、元は東川にあった岡本家の菩提寺東泉寺が西光寺と合併し東光寺となったといった記事もあった。そのことと関係があるような気がする。 ともあれ、明治初年には純信は中田與吉(一族のうち純信のみが中田姓名を名乗っている)と名乗り(住職であったかどうかはともかく)この地に住まいしたようだ。お馬が嫁いだことを知る由もなく、お馬が移された須崎により近いこの地に移ったといった話もある。その後娘サダヨに養子岡本實吉郎を迎え、子孫は繁栄していとのことである。
上述の手紙であるが、川之江で知人に託したというが、久万の地が書かれており、川之江で書かれたものか、久万の東川でかかれたものか、どちらなのだろう。ちなみに手紙はその知人が預かったままでおうまに手渡されることはなかった。

一里塚跡・芭蕉句碑
お堂の西の山側に石造物が見える。何気に寄ってみるとその中に「一里塚跡」と刻まれた石碑が立っていた。
その東側にうっすらと「芭蕉句碑」と読める石碑があり、横に句碑が残る、
此阿多里目耳見由流も能身那涼し
(このあたりめにみゆるものみなすずし)。
句は貞亨5年(1688)、『笈の小文』の旅の帰路、岐阜の油商賀島善右衛門の別邸に招かれた際に詠まれた句。文政7年(1824)、この地の俳人によって建立された。

西行庵
海にせり出した山稜裾、海岸線を進む国道11号を北東に進むと、国道の海側に西行庵がある。庵の辺りは特に何もない。国道の山側の民家の中に枯れてしまった西行松の碑があるとのことだが見逃した。 街道は西行庵の少し先で国道を右に逸れ集落に入る。道なりに進み直ぐ国道11号に復帰。

常夜燈・大乗妙典供養塔
二名港を少し進むと道の右手に常夜燈、その直ぐ先に供養塔が立つ。石仏の両側に石碑が立ち、「供養四国霊場一百箇」とか「供養四国霊場四十五度」と刻まれる。四国遍路巡礼を記念しての供養塔だろうか。石仏の左には「四国秩父坂東百番」の文字が読める。通常、西国33観音札所、坂東33観音札所、秩父34観音札所で百観音とはよく聞くが、「四国秩父坂東百番」ってゆくわからない。石仏右の文字が読めればなにかヒントになるかとも思うのだが、摩耗して読めなかった。

余木崎
その先は予讃の国境余木崎である。「余木」は「伊予」と「讃岐」の境に位置することから、「予」と「岐」をくっつけたものとされる。現在は国道、鉄道が開かれるが往昔は阿讃山脈大谷山の尾根筋が燧灘海せりだし落ちる箇所であり、特に讃岐側は平地のない岩場であったよう。鳥しか通れない鳥越の難所と称された所以である。
余木崎には余木神社が建つ。境内にある案内には「其の昔伊豫園余木の里人は此處余木崎の地に大己貴神(大国主命)を勧請し余木崎神社を建立した。爾来余木の里の守護神として現在に到っている。 附近には西行ゆかりの地があり次の和歌が残されている
忘れては富士かとぞ思ふこれやこのいよの高嶺の峯の白雪」とあった。
社殿のほか何もない。文化六年(1809)には伊能忠敬の測量隊をここで迎えたと「調査報告書」にある。
現在は難所の面影など何処にも見えない余木崎を抜け、伊予から讃岐に入る。距離のわりにあれこれと気になるところも多く結構メモが長くなった。

■讃岐に入る■

箕浦港の金毘羅燈籠
余木崎を越えると観音寺市豊浜に入る。余木崎を抜けると直ぐ街道は国道を南に逸れ、国道の一筋南を東進する。ほどなく国道と合流すると直ぐ先に箕浦港。天正十八年(1590)築かれた港は元禄の頃(1700年頃)改修された掘割式の良港であったよう。港には台座を含むと4mほどになる金毘羅燈籠が残る。余木崎の難所を嫌い、川之江から和田浜(現在の豊浜港)へと船を利用した金毘羅参詣者も多かったようだが、この箕浦で下りる人もいたのだろう。
箕浦港の東には金毘羅まで七里の道標と丸亀藩の境界番所・斥候番所があったようだが、共に今はその跡は見当たらない。

一字一石供養塔
海岸線に沿って進むと、国道11号、旧道、JR、そして県道241号(箕浦と大野原丸井を繋ぐ)が集まる箇所となる。街道は直進し旧道を進むことになる。国道11号から南に逸れる旧道入口に一字一石供養塔が立つ。南面する正面には「南無妙法蓮華経」と刻まれる。明治11年(1878)の建立。小石ひとつに法華経の経典の文字を一字づつ書き埋めたものが一字石一石塔。

七福神社の常夜燈
堀切の集落を北東に進むと道の右手に七福神社がある。箕浦にある神田神社の飛び地に建つ、神田神社の境外末社。文政八年(1825)創建と言う。
道に沿った境内には2基の常夜燈。嘉永二年と慶応二年の建立と言う。見逃したが境内には、綿の栽培を伝えたといわれる関谷兵衛国貞(せきやひょうえくにさだ)の碑があるようだ。国貞が天文元年(1532年)頃に、この地に移り土地を開いたと刻まれている、とのこと。
綿は江戸時代以降讃岐で盛んに生産された砂糖、塩と並び讃岐の三白のひとつとされる。西の関谷港には比較的新しい造りの、わた神社もある。関谷兵衛国貞を祀ると言う。

関谷橋袂の観音堂と常夜燈

社を離れ少し進むと小川に架かる関谷橋の南詰の北側に観音堂。境内に六地蔵が祀られる。文政六年(1823)建立。その脇の石碑には「南無妙法蓮華経」のような文字がうっすらと浮かぶ。
南側には常夜燈。明治12年(1879)の建立。その脇に地中に半分ほど埋められた石碑が2基。1基には「金毘羅六里半」と刻まれた文字が読める、道標となっている。もう1基は摩耗激しく文字は読めなかった。
このあたりが旧箕浦村と和田村の境。明治23年(1890)、豊田郡箕浦村は和田村と合併し和田村となる。明治32年(1899)、豊田郡は三野郡と合併し三豊郡となる。昭和30年(1955)、和田村は三豊郡豊浜町と合併し三豊郡豊浜町に。平成17年(2005)、旧観音寺市、三豊郡大野原町と対等合併し現在は観音寺市となっている。

大平木地蔵
旧和田村の大平木集落を進む。「調査報告書」には、大平木集落の中ほどに金毘羅燈籠が立つとのことだが、見つけることはできなかった。
先に進み吉田川の南詰めに大平木地蔵が祀られる。文政十二年(1829)の建立と言う。

豊浜神社
道なりに進むと豊浜神社。和銅元年(708)創建の古社。この先に流れる白坂川の北の姫浜、南の和田浜、そして今まで歩いてきた和田を氏子とする。
鳥居はないが街道筋から神社境内へのアプローチがあり、社にお参り。西参道に大きな常夜燈があるとのことで国道11号方面へと境内を進む。
西参道の鳥居を潜った先に当地出身の政治家、第68・69代内閣総理大臣大平正芳氏の銅像があり、その先国道11号手前に常夜燈があった。傍にあった案内には「豊浜町指定有形文化財 安永灯篭(当神社所有)
和田浜の藤村喜八郎と和田の庄屋宮武幸右衛門は協力して、巨額の私財と3年の歳月をついやして 和田港築港を完成した。 このふたりの功績を後世に伝えるため、喜八郎の子源右衛門が寛政4年(1792年)今の漁業組合の横にこの灯篭を建立した。灯篭はその後長く海上安全の役割を果たした。 (昭和58年7月1日指定) 豊浜町教育委員会」とあった

西参道口の常夜灯
この湛甫(たんぽ:湊)の完成により姫浜に魚市場や番所、和田浜に運上所が設けられ、豊浜(豊浜神社から北の姫浜・和田浜)は物資の集散地として栄え、港町として栄えることになる。金毘羅参詣者も川之江から和田浜(豊浜)の港まで船運を利用した。また土佐藩の参勤交代もこの和田浜から三豊市仁尾に進み、初期の頃はそこから船に乗り播磨の室津に向かったようである(後になって更に丸亀まで進み、そこから船出したともある。実際、丸亀には丸亀本陣もあったようだ)。
また、大平正芳氏の銅像の参道反対側に「厳島神社大鳥居朱柱楠出処の地」の案内もあった。社叢の楠が使われたのだろう。

三又に道標を兼ねた金毘羅燈籠
豊浜神社を離れるとすぐ道は三又となる。その分岐点に小振りな道標を兼ねた金毘羅燈籠が立つ。「右こんぴら 左くわんおんじ道」、「左 正八幡宮」、裏面に「中筋講中」とある。観音寺道は左の道をとり、参詣道は右の道をとる。




薬師堂の道標
北に進むと薬師堂。お堂入口左手に元文3年(1738)の宝篋印塔、右手に2基の道標が立つ。左手の道標には、正面に「左 琴弾山 かわぐち」、右面に「右 こんぴら道」、左面には「安政六年」と刻まれ、右手の道標には「こんぴら大門より六里 与列松山浮穴郡東方 大内屋伊太郎」といった文字が刻まれる。
琴弾山は観音寺にあるかつての札所琴弾八幡宮。現在は第68番札所神恵院、69番札所観音寺となっている。観音寺道を案内する。

大道橋東詰めに常夜燈と地蔵尊
直ぐ北に三叉路。「調査報告書」にはこの三叉路に道標があったとする。「調査報告書」も写真を見ると4基の標石が立つ。右のふたつは、文字から見ると薬師堂にあったもの。後年移されたのだろう。左の2基は後程出合うことになる。
三叉路の直ぐ先に大道橋。橋の東詰めに常夜燈と地蔵尊。常夜燈は寛政9年(1797)、地蔵尊は文政12年(1829)建立のものである。大道といい、本町といい、この辺りが綿をはじめとする物産集散地で賑わった和田浜の中心であったのだろう。

「すぽっシュ豊浜」傍の常夜燈と道標
大道橋より道は「すぽっシュ豊浜」の敷地南に沿って東進する。道が予讃線にあたる手前で左折するが、その角に常夜燈が立ち。その右手に地神宮とおぼしき小さな石造仏、左手に頭部の掛けた地蔵尊が残る。
また、右折した直ぐ先、予讃線の線路側に2基の標石。1基は正面「あわ道」、左面「左ことひら道」、裏面「明治三十四年(1901)」と刻まれる。その横の石碑は「施主・願主」「天保五」といった文字が読めるが、道標らしき文字はわからなかった。この2基の道標は「調査報告書」の前述三叉路にあったとする4基の道標の写真の、左ふたつの道標と思える。
旧街道
「調査報告書」によれば、旧街道は現在体育館となっている「すぽっシュ豊浜」の敷地を抜けていたようだ。旧正織工場の跡地のようで、大正8年(1919)に豊浜織物として発足し、昭和30年(1955)頃操業を停止したとある。織物工場ができる前の参詣道は工場敷地を横切り、工場北側で二手にわかれ、東に曼荼峠に通じる「まんだ道(阿波街道)」を分岐し、そこに道標があったとする。またJR線路を越えた北側に埴安姫他を祀る地神宮があったが、道路拡張にともない昭和30年頃、白坂川端に遷宮した、とある。
上述「あわ道」の道標は「調査報告書」に記される「まんだ道(阿波街道)」を分岐したところにあった道標のようにも思える。が、そうであれば「調査報告書」の三叉路にあったという4基の写真に写る道標と矛盾することになる。実際三叉路にあったとする4基の道標は土手らしきところに立ち、三叉路の風情とはほど遠い。妄想するに、ある時期三叉路にあった4基の道標は「すぽっシュ豊浜」傍の現在「あわ道」など2基の道標あるとこころに移され、その後2基が薬師堂に移されたと考えるのが理屈に合っていると思うのだが、確証はない。
また、白坂川端がどこかは不詳だが、これも上述常夜燈脇にあった地神宮らしき石造物なのかもしれない。これまた妄想。根拠なし。

白坂交差点
「すぽっシュ豊浜」の敷地を迂回した参詣道は敷地北側から北東に進むが、予讃線の線路で行く手を遮られる。仕方なく「すぽっシュ豊浜」の北東端まで戻り、踏切りを渡り直ぐ北東へと向かう道をとる。
道を進むと国道377号に合流。白坂交差点と呼ばれるようだ、この地は観音寺市大野原町。国道の少し手前で観音寺市豊浜町から観音寺市大野原町に入る。前述の如く三豊郡大野原町は平成17年(2005)旧観音寺市、三豊郡豊浜町と対等合併し観音寺市となった。
●神風神社に道標2基
この交差点は高松を結ぶ伊予街道と金毘羅参詣道の分岐点。高初街道は北へ、金毘羅街道は東へと進む。この交差点に2基の燈籠を兼ねた道標があった。現在は交差点直ぐ傍の神風神社(伊勢の宮)に移されている。安政7年(1860)、寛政7年(1796)建立の道標は、民家の奥まったところの神風神社の小さな境内にあった。大きな道標には「こんぴら道」「東 丸かめ道」とあるが燈籠ではなかった。もう1基の燈籠には「東 丸かめ道」「こんぴら道」と刻まれた常夜燈を兼ねた道標であった。
〇和田浜からの常夜燈と道標
白浜から国道377号を豊浜港方面に行ったところ、姫浜に金毘羅燈籠と道標がある。金毘羅燈籠には、 正面「いよみ道」右面「金毘羅大権現」左面「正八幡宮 くわんおんじ道」、裏面「文政十年(1827)と刻まれ、道標には。正面「いよ道」、右面「す久川口」、左面「久わんおんじ道」裏面「明治八年(1875)と刻まれる。
余木崎の難所を嫌い、川之江から船で和田浜湊(豊浜港)にむかった参詣者は、この地から東進し白坂の交差点へと向かったのだろう。

今回のメモは伊予・土佐街道が丸亀、高松へと向かうルートと金毘羅参詣道と分かれるこの白坂交差点までとする。次回はこの白坂交差点から金毘羅さんの参道までを繋ぐ。