月曜日, 5月 11, 2020

阿波 歩き遍路:那賀川筋大井からはじめ第二十一番 太龍寺を打ち第二十二番 平等寺へ;太龍寺道・いわや道・平等寺道・大根峠ルート ②

先回のメモは、那賀川筋の大井から第二十一番札所太龍寺までをメモした。今回は第二十一番太龍寺から第二十二番札所平等寺までの遍路道をメモする。全行程12キロほどだろうか。
ルートは太龍寺から阿瀬比の集落に下り、その後尾尾根峠を抜けて平等寺に向かう。太龍寺から阿瀬比の集落までのルートはふたつある。ひとつは黒河道。太龍寺仁王門の東にある遍路道分岐点から加茂谷川の谷筋に下り、黒河の集落を経て県道28号に合流し南に下り阿瀬比に向かう。誠に狭いながらも太龍寺への唯一の車参道だが、標石・丁石といったものは残らなようだ。
全体ルート図(Google Earthで作成)
もうひとつは太龍寺から加茂谷川の谷筋を隔てた南の稜線部を辿り阿瀬比の集落に下りるもの。このルートは「いわや道・平等寺道」と呼ばれ、標石や舟形丁石も残ると言う。標石を目安に旧遍路道をトレースするスタンスでの遍路道歩きであり、迷うことなく「いわや道・平等寺道」ルートを採る。 太龍寺からは山稜部を巻き気味に麓の集落・阿瀬比まで続く「いわや道・平等寺道」はその距離6キロほど。比高差は350mほど。
阿瀬比の集落に下りた後は大根峠を越えて平等寺までおおよそ6キロ。大根峠は、峠といっても取り付き口からの比高差は100mもない。それほどキツクはないだろう。普通に歩けば2時間もあれば十分ではあろうが、平等寺道の下りで膝が完全にダメになり3時間ほどかかってしまった。
実のところ、当日は阿瀬比の集落で膝がアウトになった時に備え、念のため阿瀬比集落を通るバスをチェックしていた。午後に2便(2時46分、4時26分)JR牟岐線の駅に繋がるバスの便を確認していたわけだが、なんとか騙しだまし平等寺までたどり着いたといった為体(ていたらく)ではあった。
以下、一応ポイント毎に当日の時刻表示はするが、そういった事情でのコースタイムであり、特に平等寺道の急坂以降のコースタイムは実際はもっと早く進めるかと思う。 メモをはじめる。


本日のルート;
那賀川筋水井橋から太龍寺道を第二十一番札所太龍寺へ
水井橋>地蔵座像と標石>中尾多七標石>10丁>11丁>12丁>休憩所>14丁>16丁>中尾多七奈標石1>17丁>中尾多七標石2> 中尾多七標石3 >遍路墓>19丁>20丁>21丁>23丁>24丁>25丁>尾根>27丁>21番太龍寺
第二十一番札所太龍寺からいわや道・平等寺道を阿瀬比集落へ下る
太龍寺>1丁石>舎心嶽>石仏と丁石〈4丁?)>茂兵衛道標>角柱標石>7丁>6丁?>9丁?>破損石仏>遍路墓>笠付標石>12丁>13丁>14丁>15丁>16丁>17丁>18丁>>19丁>20丁>阿瀬比3㎞>22丁>24丁>遍路墓>25丁>いわや道・平等寺道分岐点>阿瀬比集落1.6km>急坂>39丁>標石>平等寺5km>茂兵衛道標(169度目)
阿瀬比集落から大根峠を越えて第二十二番札所平等寺へ
中尾多七標石>標石2基>倒れた標石>大根峠>地蔵立像>角柱丁石(20丁)>休憩所>石仏群と15丁石>石仏群と11丁石>真言供養塔>岩戸橋北詰2基の標石>22番平等寺


太龍寺からいわや道・平等寺道・大根峠越え経由平等寺ルート

第二十一番札所太龍寺からいわや道・平等寺道を阿瀬比集落へ下る

太龍寺を離れいわや道、平等寺道を経て阿瀬比の集落へと向かう。地形図を見ると、太龍寺の建つ山稜の南、加茂谷川を隔てた山稜の稜線部を巻き気味に進み、阿瀬比の集落へと降りてゆく。南舎心嶽あたりから始まる「いわや道」は平等寺道分岐までおおよそ3キロ、そこから阿瀬比の集落までの「平等寺道」はおおよそ2.5キロ。6キロ弱歩くことになる。

太龍寺ロープウエイ乗り場;午前10時46分
境内に立つ「舎心ヶ嶽680米」の標石の手印に従い境内を左に逸れる。ほどなく太龍寺ロープウエイ山頂駅。舎心ヶ嶽への道は山頂駅脇を太龍寺山〈618m)方向へと向かうことになる。
太龍寺ロープウエイ
by 四国ケーブル〈株)
山麓駅から那賀川を跨ぎ山頂駅まで2,775m。西日本一の長さと言う。開業は平成4年(1992)と結構新しい。上述Wikipediaに「戦後は山中の山寺ゆえに困窮の時代を迎えたが、1992年に太龍寺ロープウェイ が運行するようになったため容易に参拝できるようになり、遍路ブームの到来もあって隆盛時を迎えた」とあった。
山中の山寺ゆえロープウエイが運行されるまで、太龍寺の困窮は大変なものだったのだろう。龍の窟の地は石灰鉱山会社に売却され、取り壊されてしまったと言うし、三重塔も四国中央市の興願寺に売却されたと聞く。また車参道といってもその黒河道は狭路・難路であり、気軽に参拝できるようには思えない。ロープウエイのおかげで太龍寺参拝は身近になったようだ。 運営は四国ケーブル〈株)。八栗ケーブル、雲辺寺ロープウエイ、箸蔵山ロープウエイ(現在は分社化)も運営しているとのこと。

1丁石;午前10時50分
南舎心ヶ嶽への道に入る。道に沿って四国88箇所霊場の本尊石仏が並ぶ。結構新しい。ほどなく舟形地蔵。「一丁」と刻まれる地蔵丁石が現れる。




南舎心ヶ嶽;午前11時2分
等高線500mに沿って少し進み、30mほど高度を上げると。不動明王などの小祠と「聖跡 舎心ヶ嶽」の石碑が立つ。「聖跡 舎心ヶ嶽 弘法大師二十四歳の時著された『三教指帰』にも「阿國大滝の獄にのぼりよじ、土州室戸の崎に勤念す。谷響を惜まず明星来影す」と記されており、この地において見事悉地成就なされ青年時代の思想形成に重要な役割を果たしたことは疑えない事実であります。
平成五年大師入山千二百年を記念し「求聞持法御修行大師像を造立致しました。虚空蔵菩薩の化身とされる東方の明けの明星(金星)を拝されている御姿です。「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おんありきゃ まりぼりそわか」百万遍 建立協賛者 河内金剛講」とある。
谷側の岩上に求聞持法御修行大師像が座す。説明の如く古き仏さまではないようであり、鎖場をちょっと上ることはパスし、道から拝礼。

石造物と丁石:午前11時5分
舎心ヶ嶽の先で、ストンと10mほど高度を落とし平場に下りる。坂の途中「IWATAMICHI 22」の案内。「22」は第22番札所平等寺を指すのだろう。
平場には石造物6基。左の3基は摩耗し文字は読めない。その横は五輪塔の宝珠部分だろうか。宝珠(?)隣に坐像石仏、右端は自然石の丁石。上部が欠け「*四丁」の文字が読める。

茂兵衛道標;午前11時7分
左手に大師坐像の刻まれた角柱石。その直ぐ先、道が太龍寺山の尾根道の左右に分かれる箇所に、多くの道案内と茂兵衛道標が立つ。
左を指す案内には「22」、「ふだらく山 中山道」、「いわや道」、そして「阿波遍路道 いわや道」。右を指す案内には「北地」とある。
茂兵衛道標には「平等寺 明治二十一年」といった文字が刻まれる。茂兵衛100度目巡礼時のもの。臼杵陶庵の詠む「山中で嬉しきものは道教え」の添歌も。誠にその通り。
「ふだらく山 中山道」・「北地」
「ふだらく山 中山道」ってなんだ?唐突に現れた。チェックすると中山は太龍寺山の南、中山川の谷筋の集落。中山道とはこの辺りの集落の人が太龍寺にお参りする参詣道。集落にある地福寺から支尾根稜線部を上り太龍寺山南の峠から太龍寺山頂を経由して「いわや道」に下りてきたようだ。途中には自然石の丁石が並ぶ、と言う。
太龍寺山頂上には観音堂があり。阿波秩父観音霊場十一番札所であったよう。ために太龍寺山は通称「補陀落山」と称された、と。「ふだらく道」の所以である(WEBにあった「大瀧嶽記(奈佐和彦)」を参考にさせて頂きました)。
また、「北地」は中山川が那賀川に合流する辺り、太龍寺ロープウエイ山麓駅のある辺りの地。

中山道分岐点に角柱標石:午前11時9分
いわや道へと左に折れると道の右手に立つのは遍路墓のなのだろうか。その直ぐ先、道は上下に分かれる。その角に「へんろ道」と刻まれた角柱標石。
上段の道は前述の「中山道」。遍路道は下段の道を進むことになる。中山道の案内は特になかったように思う。

舟形地蔵;午前11時15分
等高線500mに沿って少し歩くと舟形地蔵(午前11時15分)。丁石だとは思うのだが摩耗激しく文字は読めない。






丁石2基
直ぐ舟形地蔵丁石(午前11時16分)。「丁」は読めるのだが数字は読めない。更に舟形地蔵丁石 (午前11時19分)。これも「九丁」のよう読めるのだが、確信はない。



破損石仏
数分歩くと道の左手、大岩の上に石仏台座が残る(午前11時22分)、なんとなく、いい。次いで遍路墓(午前11時25分)らしき苔むした石柱が立つ。




笠付道標・12丁
等高線480m辺りをほぼ水平に通る遍路道を少し進むと笠付道標(午前11時28分)。「右 ふだらく山道」のように読めるのだが、前述「ふだらく山』の刷り込み故だろうか。自信はない。 その先に舟形地蔵丁石(午前11時30分)。「十二」の文字がはっきり読める。


13丁・14丁
「十三丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前11時33分)。傍に「よみがえった歴史の道 阿波遍路道」の案内。直ぐ先に「十四丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前11時35分)。



15丁・16丁
山側に「十五丁」の舟形地蔵丁石(午前11時38分)。次いで谷側に「十六丁」の舟形地蔵丁石(午前11時40分)。





17丁・18丁
山側に「十七丁」の舟形地蔵丁石(午前11時44分)。同じく山側に「十八丁」の舟形地蔵丁石(午前11時47分)。





19丁・20丁
山側、平たい岩の上に「十九丁」の舟形地蔵丁石(午前11時50分)。岩も仏も苔むした「二十丁」の舟形地蔵丁石(午前11時54分)。




阿瀬比3㎞の案内: 午前11時58分
「国指定史跡 阿波遍路道(阿瀬比集落まであと3km)」(午前11時58分)の案内の先、左手谷側が開ける。谷を隔てた山稜に鉄骨構造の建屋がかすかに見える。太龍寺あたりだろうか。


22丁・24丁
「二十二丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前11時59分)。次いで「廿四丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後12時3分)。丁数の表示形式が異なる。




25丁
遍路墓らしき石造物(午後12時8分)の先に「廿五丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後12時10分と続く。






いわや道・平等寺道分岐点;午後12時13分・標高430m
直ぐ先で道が上下に分かれる。分岐点に「左 へんろ道」の標石。標石に従えは遍路道は左、下段の道だが、通行止めのバーが道を塞ぐ。道も荒れている。
一方、上段の道には「国指定史跡 阿波遍路道「平等寺道」(阿瀬比集落まで2.5km」とある。特に案内はないのだが、ここが「いわや道」と「平等寺道」の分岐点であった。
で、当日は標石の指す遍路道って何?と少々??を感じながら、ここで平等寺道に乗り換えたのだが、メモの段階でチェックすると、この下段道は「いわや道」であった。往昔はこの道を辿り「龍の窟」へと向かったようだ。ここではじめて「いわや道」の由来がわかった。「龍の棲む岩屋」故だろう。 前述の如く、「龍の窟」の地は売却され。石灰岩の採掘によりその面影は既になく。採石場もあってか危険なため道は閉ざされているようだ。
この分岐点はほぼ中間、3キロほどを1時間、高度を40mほど下げたことになる。稜線巻道をゆるやかに高度を下げてきた。
いわや道のルート
往昔のいわや道は龍の窟を経てどちらに向かったのだろう?あれこれチェックすると、現鉱業権者であるヒロックス〈株)太龍鉱山(元の鉱業権者は住友石炭工業株式会社)へのアプローチ道が、県道28号に合流する地点に35丁の舟形地蔵丁石が立つ。丁数から考えて、ここに出たとしても違和感はない。
因みにこの丁石はあたりをつけてGoogle MapのStreet Viewでチェックし見つかった。



阿瀬比集落1.6km:午後12時29分
等高線430mに沿って稜線を巻くこと10分程、道は稜線鞍部に乗る。「阿瀬比集落1.6km」の案内を見遣り先に進む。ここから先は阿瀬の集落に向かって下ることになる。



急坂案内;午後12時40分
少し進むと「急坂」の案内。急斜面には虎ロープが張られている。那賀川筋から歩きはじめておよそ5時間。急坂を前に大休止。痛めた膝を休める。
休憩しながら地形図チェック。支尾根稜線をほぼ等高線と垂直に比高差250mを下ることになる。膝が心配。休憩を終え午後12時40分坂に向かう。

39丁;午後13時4分・標高250m
虎ロープを握り膝をかばいながら急坂を150mほど高度を避げると舟形地蔵。「三十九丁」と刻まれる。平等寺道ではじめての丁石。というか、結局平等寺道に残される丁石はこれだけであった。 ここまで150mほど高度を避げるため25分もかかっている。ふつうであればその半分程度で下れるだろう。




「平等寺5km」の案内:午後13時?分
39丁石より50mほど高度を下げると、木々の間から右手下に道路、その先に川が見えてくる。地図で確認すると中山川上流部の支流のひとつのようだ。川筋まで下りてくると「山道おつかれさまでした 阿波遍路道 平等寺まであと5km」の案内。里に下りてきた。案内の右手には廃屋が建つ。

薬師庵;午後13時31分
里道を10分ほど歩くと、県道28号合流手前に一堂宇。「薬師庵」とあったり、WikipediaやGoogle Mapには「あせび観音堂」とあったりはっきりしない。上述「大瀧嶽記(奈佐和彦)」に「集落が近くなると成就院専念寺がある。成就院は太龍寺の七支院の一つで太龍寺の境内にあった。その後ここにうつされ、専念寺もこの地に創建された。成就院の本尊は虚空蔵菩薩で、不動明王、弘法大師を脇仏として祀っている。専念寺の本尊は薬師如来だ」とあった。薬師庵であれば納得できるが、観音堂と結びつくエビデンスは見つからない。

自然石標石;午後13時34分
遍路道は県道28号を右折。直ぐ先、県道から左に逸れる分岐角に納屋のような建屋。その道角に丸い自然石。何気にみると、手印が線彫りされており、「右 へんろ道」の文字も読める。印象的な標石だ。






中山川と加茂谷川の分水界
自然石標石あたりから周囲の景観を楽しんでいると、県道28号の東に小川が流れる。山を下るときに見た中山川上流部の支流だろうと地図をチェックする。と、この小川は北に流れ加茂谷川に合流し那賀川に注いでいる。一方、中山川支流は県道28号手前でグルリと廻り、支流を集め中山川となって西に流れ那賀川に注ぐ。県道28号が両水系の分水界となっていた。
分水界となる県道28号筋を挟んだ両水系の距離は100mも離れていない、標高差もほとんどない。両河川の最接近部からの上流部は加茂谷川筋が圧倒的に長い。加茂谷川筋が洪水などで流れを少し西に変えれば中山川の上流部は河川争奪され、中山川筋に流れることなく、加茂谷川となって北に下っただろうな、などと一時妄想にふける。



阿瀬比集落から大根峠を越えて第二十二番札所平等寺へ

阿瀬比の集落から大根峠まで2基キロ弱、大根峠から桑野川が開いた谷筋に下り平等寺まで4キロ弱。大根峠も取り付き口からの比高差は100mもない。普通に歩けば2時間もあれば十分ではあろうが、平等寺道の下りで膝が完全にダメになり3時間ほどかかってしまった。以下、一応ポイント毎に当日の時刻表示はするが、そういった事情でのコースタイムであり、実際はもっと早く進めるかと思う。

遍路休憩所;午後13時38分
県道28号は国道195号に合流しそこが終点。遍路道は国道を横切り先に進む。国道を渡ると真新しい標石。札所の案内と共に、英語・韓国語・中国語が刻まれる。”We are rooting for you(応援してるよ;頑張って)”と。
その先に遍路休憩所。なんだか素朴な手書き遍路道案内か、いい。少し休憩。

茂兵衛道標(169度目);13時46分
遍路道は遍路休憩所を先に進み、旧国道195らしき旧道をクロスし細路に入る。その角に歩き遍路タグや「22番札所平等寺へ 歩きへんろ道」の案内と共に茂兵衛道標。「平等寺 太龍寺 鶴林寺 明治三十二年」といった文字が刻まれる。茂兵衛169度目巡礼時のもの。


中尾多七標石;午後13時57分
簡易舗装された山裾の道を進むと加茂谷川支流の谷筋に入る。そこに「四国のみち」の木標と共に、上部に刻まれた両端矢印が特徴的な中尾多七標石。「へんろ道」と刻まれる。



標石2基;午後14時8分
先に進み遍路道は加茂谷川支流に架かる小橋を渡り右岸に移る。橋の手前に立つ「四国のみち」の円柱木標の脇に2基の標石。大型角柱標石には「二十二ばん 一里 二十一ばん」といった文字が刻まれる。その横の丸い自然石も標石。「へんろ道 平等寺四十丁」の文字が読める。



倒れた標石;午後14時14分
その先直ぐ右手に逸れる道。その分岐点のシキビに隠れるように倒れた標石。「右 へんろ路*」と刻まれる。
10分ほど歩くと「四国のみち」の木標、「右へんろ道」と書かれた歩き遍路タグ、近年立てられたような標石(午後14時24分)。「へんろ道 大根いやしの道を守る会」と刻まれていた。

大根峠;午後14時37分
標石の直ぐ先、遍路道は山道に入る。取り付き口に擬木。10分ちょっと擬木の敷かれた山道を上ると切通し。「大根峠・阿瀬比1km、大根峠・平等寺2.5km,大根峠・音坊山1km」の案内が立っていた峠の切通しはカラフルな五色の旗が飾られていた。
●音坊山(おとんぼ山)
遍路道とは関係ないのだが、音坊山の案内はあるけど、切通部からそれらしき道はない(なかったように思う)。どうも、峠から右手の尾根筋に上り南西に進むようだ。で、何故に案内が?
地図にも載らない山だが、山頂(333m)からの眺めがいいようだ。城跡(塁)も残るといい、往昔は丹生谷(にゅうだに;現在の国道195号筋の那賀町)を繋ぐ交通の要衝でもあったようだが、その後荒れ果てていたものを、地元の方の尽力で道を整備しといった記事があった(当然、この尾根道とは別ルートだろう)。

地蔵立像;午後14時44分
切通しを抜け下り道に。直ぐ「左 平等寺」と刻まれた標石(午後14時40分)。50mほど高度を下げた平場には石組の祠に地蔵立像。1mほどもあるだろうか。延享2年(1745)のものと言う。


角柱丁石(20丁); 午後14時51分
標高200m辺りまで下ると竹林が現れる。里が近づいた。道の右手に角柱標石(午後14時51分)。「二十二番 廿丁 大正九年」といった文字が刻まれる。
その先急坂を100mほど下り沢に架かる木橋(午後15時13分)を渡る。先に休憩所がある、との木柱が立つ。

休憩所;午後15時22分
右手に開けた里の景観を目にしながら歩くと遍路休憩所。傍にコンクリート造りの小堂が建つ。ちょっと休憩。






石仏群と15丁石:午後15時42分
遍路休憩所を離れ中山川に注ぐ小川を渡るとT字路。そこに「音坊山・へんろ道」の案内が立つ(午後14時34分)。音坊山頂まで2.3kmとある案内図には展望台、駐車場も記される。そのルートは地図にはない。大根峠でメモした、地元の方の尽力により開かれた道がこれだろうか。 T字路を左に折れ道を進むと道の右手に地神と標石。「右平等寺 十五丁 文政十五」といった文字が刻まれる。


石仏群と11丁石;午後15時49分
その先東西に通る道に合流する地点に「四国のみち」が立ち、その傍に石仏群と丁石。横長角柱には「二十二番平等寺 十一丁 右太龍寺 大正四年」といった文字が読める。
その横に並ぶ石仏群にも丁石1基。「是より平等寺へ十町 文化四」といった文字が刻まれる、と。



光明真言供養塔;午後15時59分
道が中山川に遮られ東に折れるところ、道の左手に笠付き石造物や地神小祠。笠付き石造物には「光明真言二百六十五萬遍供養塔」と刻まれる真言供養塔、その先田圃の中に少彦名碑。


岩戸橋北詰2基の標石;午後16時4分
少し東に進むと中山川に架かる岩戸橋。北詰に「四国のみち」の木標と2基の標石が立つ。左の標石には「二十一番太龍寺 二里二十四丁 二十二番平等寺六丁」「右轟神社 左へんろ道 大正十三」といったも文字が読める。
右の標石には「平等寺江六丁 天保二」といった文字が刻まれる。標石前にはお花が供えられている。この標石には地元の方の先祖戒名が刻まれており、その子孫が菩提を弔っている、と。
轟神社
轟神社って?ここらか南西、80キロほど離れたところ、徳島県海部郡海陽町に轟神社がある。 天正時代の建立。今もなお御滝を神霊の坐すところとして信仰し、阿波藩主蜂須賀家政侯が、朝鮮出兵にあたり海上安全を祈願したとも伝えられている社。
が、それにしても遠すぎる。ちょっと唐突。と、この橋を渡り桑野川右岸を少し東に向かったところに轟神社が建つ。弘仁5年(814)、奈良生駒の龍田神社を分霊したと由緒にある古社。樟の巨木で知られる、と。『延喜式』にある那賀郡の七座のひとつ、室比売神社がこの地にあった、とも伝わる。この神社を案内しいるのだろうかこの神社を案内しているのだろうか。

第二十二番札所平等寺に;午後16時21分
岩戸橋から中山川脇の道を15分ほど進むと第二十二番札所平等寺にやっと到着(午後16時21分)。

これで2回にわけた太龍寺越えから平等寺のメモを終える。メモは2回に分けたが当日は太龍寺越えから平等寺まで、おおよそ17キロをカバーした。膝を痛めてるということもあり、やっとこさ辿り着いたといった為体(ていたらく)であった。
プラニングの段階では鶴林寺道から一気に平等寺まで、おおよそ22キロをカバーしようか、などと考えていた。実際に当日、平等寺から鶴林寺を越えて勝浦川筋の生名まで歩いてる方にもお会いした。
 膝を痛めていなければどうという距離ではないのだが、もし途中の太龍寺越えで膝がアウトになった場合はどうしよう。阿瀬比の集落で撤退となるが、阿瀬比からバスはある?午後2時46分と4時26分にバスはある。これならJR牟岐線の駅に辿りつけそうだ、などとあれこれ思案してはいたのだが、結局は太龍寺越えから平等寺までを歩くことにした。 で、予想通りではあるが、後半はほぼ膝がアウト。結構キツイ1日となった。