金曜日, 6月 10, 2022

阿波・讃岐の遍路道 大坂越え;白鳥神社より大坂越えを経て第三番札所金泉寺へ

先回は切幡道と白鳥道の分岐点からはじめ、八丁坂、中尾峠を越え、湊川水系入野山地区の川に沿って寛四地区に。遍路道はそこで二つに別れるが北に道をとり、四国総奥の院與田寺を経由し白鳥神社まで進んだ。
今回は白鳥神社からはじめ、古代律令時代の官道筋でもあり、また源平合戦の屋島檀の浦奇襲に際して義経が越えたという大坂峠を越え、第三番札所金泉寺までの遍路道をトレースする。このルートは 『四国遍礼名所図会(寛政十二年;1800)』に、「白鳥町、本社白鳥大神宮末社、社家、 塩屋川、引田町、此所二て一宿。閏四月廿七日[日和吉出立]。引田町[浜辺をとふる]、通念島 [壱里斗沖に二ツ並ぶしまをいふ也]、川[小川也わたる]、馬宿村[浜辺とふる]、坂本村[是より坂に懸る]、逢坂、不動尊 [坂中に有、滝あり]。讃岐・阿波国境[坂の峠にあり]阿波板野郡、大師堂 [坂の峠にあり]。峠より徳島城・麻植郡南方一円に見ゆる。大坂村[番所有り切手改む]、大寺村、此所ニ荷物置霊山寺?行、是迄戻ル」と記されるルートであろう。金泉寺の南東、吉野川傍に大寺の地名が残る。
ルートの概要は白鳥神社から大坂越えの取りつき口である坂元の集落までおおよそ8キロ強、大坂越えの下り口である大坂御番所跡まで4キロ強、そこから金泉寺まで6キロ弱、走行程20キロ弱といったもの。阿讃を隔てる大坂越えも比高差360mほど。おおよそ2時間強で越える。取り立てて言うほどの険路もなく、「四国のみち」として整備され道に迷うこともなく快適に歩くことができた。
大坂越えから先は大坂谷川に沿ってひたすら県道1号を歩き吉野川の河岸段丘と山地が接するところに建つ第三番札所金泉寺を目指すこことになる。

ちょっと残念だったのは、本来の大坂越えの道は「四国のみち」筋ではなかったこと。「四国のみち」は明治8年、牛馬が通れる道として開かれたものであり、本来の大坂越えの道は「四国のみち」の東の沢を上っていたようだ。それがわかったのは「四国のみち」の途中にあった案内板に旧旧道としてルート図が記載されていたため。メモの段階でチェックsると、その道筋にはいくつもの丁石も残るという。国道傍には古道案内標識と三丁石も立つとのこと。

当日はその古道は道筋案内程度のものと思い、歩けるなど考えていなかったのだが、地元の方がボランティアで整備されているよう。いつものことながら最低限の事前準備・行き当たりばったりの旅ゆえの後の祭りとなってしまった。どの程度の荒れ具合・整備具合か歩き直したい気もする。 ともあれ、今回は現在お遍路さんが歩いている大坂越えのメモを始める。



本日のルート;白鳥神社>伊座の新池北に白鳥神社鳥居と標石>森権平庵>森権平愛馬の墓・中山池の不動尊>塩屋観音堂案内と標石>三叉路に茂兵衛道標>東海寺>国道11号・県道1号分岐点;大坂越え分岐点>県道1号と大坂越え遍路道分岐点に標石>高徳線を潜り左折し土径に入る>県道1号に出る>>直ぐ県道一号に出る>「四国のみち」指導標>「大坂峠みち」案内板>「四国の道」指導標>不動尊>県境標識>四国のみち」の円柱標識と階段>>遍路墓・「四国のみち」円柱標識>「四国のみち」円柱標識・分岐点に「四国のみち」指導標>大坂峠休憩所>県道1号に出る>再度県道1号とクロス>水呑み場と常夜灯>里に下りる>大坂御番所跡>丁石と三庚燈>阿波大宮駅>中村地蔵堂>県道1号を左に逸れ讃岐街道に入る>亀山神社前を抜け金泉寺へ


 ■白鳥神社から大坂越え取り付き口の坂元集落へ

白鳥神社
国道号逸れ讃岐街道へ(中央)
白鳥神社を離れ大阪越えに向かう。参道口ヨリ国道11号をしばらく東に進み、県立白鳥病院を越えた先の交差点を右折、更に直ぐ左折し旧道に入る。地図には讃岐街道と記される。 
讃岐街道 


徳島藩政時代に整備された阿波五街道の一つ。徳島城鷲の門から佐古、蔵本などを経て、徳命の渡し(藍住町)で吉野川を渡る。大寺(板野郡板野町)から大坂峠を越えて香川県側に入り、馬宿(東かがわ市引田)に至る。大寺では撫養と池田を結ぶ撫養街道(川北街道)と交差していた。藩政期は出入国を取り締まる関所が大坂峠にあった。のちに国道11号が海沿いのルートをとると、大坂峠経由の交通量は激減して廃れてしまった。現在の徳島県道・香川県道1号徳島引田線と一部重なる(Wikipedia)。 

 伊座の新池北に白鳥神社鳥居と標石
讃岐街道を南東に少し進むと新池にあたる。そこに鳥居と標石が立つ。この鳥居は先回の記事でメモした白鳥神社境内外に建つ5つの鳥居の一つ。伊座の新池北の鳥居。標石には「是白鳥宮道 天保庚子(かのえね)五月八日建」と刻まれる。
白鳥神社の境内外5つの鳥居 
白鳥神社の境内外5つの鳥居は、この 伊佐の新池北の他、白鳥神社参道口・国道11号直ぐ南、神社裏参道、国道318号久詰池北(田の口薬師東照寺近く)、 湊川を渡る11号線の一筋海側・湊橋の西に建つ。往昔の讃岐街道は国道11号の南を通っており、一ノ鳥居がここにあっても違和感はない。また、伊佐の新池北、湊川西の鳥居も讃岐街道上にある。 

 森権平庵
森権平庵
森権平庵対面の森権平墓
讃岐街道を進むと道の左手に巨大な草鞋が吊るされたお堂がある。お堂の扁額に「森権平庵」とあった。権平庵の道を挟んだ対面、石垣で組まれた一段高い構えがあり、上り口に「森権平墓」といった文字が読める。石段を上がると森権平を供養する五輪塔と庚申塔が祀られている。
案内には「白鳥町指定史跡 森権平の墓 平成元年二月二十七日指定
天正十二年(一五八四)七月十九日、主佐の長宗我部元親が大窪を越えて田面(さぬき市大川町)に陣し、引田城を攻めようとしたため、豊臣方の仙石秀久は、引田中山で迎え討った。
森権平は、仙石秀久の武将であったが、元親の家臣稲吉新蔵人と、ここ中山口で一騎打ちとなり、権平の乗馬が湿田に脚を踏み入れて倒れ、権平もまた深田に脚をとられてついに討死した。享年十八歳、紅顔眉目秀麗の若武者であった。
それにしても、千石勢の一隊の将であったとはいえ、何故に森権平がこれほどまで篤く供養されるのだろう。足腰の病に霊験あらたかとされるが、それにしても?

森権平愛馬の墓・中山池の不動尊
森権平愛馬の墓
中山池の不動尊
道を進むと左手に再び森権平ゆかりの地。石碑には「森権平愛馬の墓 昭和五十五年二月二十六日定 この墓は、森権平の愛馬紅梅鶴毛の墓である天正十二年(一五八四)七月十九日、このあたりで土佐の長宗我部元親と仙石秀久が戦ったとき、仙石の武将森権平はよく戦い数々の戦功を立てたが、愛馬の脚が深田に踏み込み、進退の自由を失敵に討ち取られた。馬も共に傷つき倒れたので、人々は愛馬を哀れみ、この地に葬って墓を建てたものである。 東かがわ市教育委員会」とあった。森権平だけでなく馬までも。
讃岐街道はその先で国道11号に合流する。その直ぐ先、道の左手、中山池の畔にお地蔵さまと不動尊。祠に祀られる不動尊は彩色が残り、けっこう、いい。

塩屋観音堂案内と金毘羅標石
塩屋観音堂案内と金毘羅標石
「牛の霊」の文字が読める
小海川を和たると讃岐街道は国道11号を左に逸れる。小海川左岸を進み塩屋橋を渡り右岸に出ると直ぐ、案内板と標石。案内には「塩屋観音堂 塩屋観音堂の由来は定かでありませんが、近くにあった円福寺という寺院に関係があるとされています。
円福寺は、室町時代に引田城の城主であった四宮氏が翼山の山麓に建てた寺院で、聖観音像と不動明王像をまつったといわれています。 やがて円福寺は廃れ無住となり、聖観音像をまつる観音堂のみになったと考えられます。
無住といえども観音堂は自島方面から引田への出入り口にあたることから、旅の僧や巡礼などが 立ち寄ることもあったと伝えられています。
幕末には徳念という僧が観音堂に住み、子どもたちに読み書きを教えるとともに、観音堂を再建しました。 徳念は観音堂の再建だけでなく、慶応2年(1868) に、この裏山に西国三十三観音写霊場も建てました。この石仏は引田や小海・吉田など周辺の人々の寄進により建てられました。現在は観音堂の庫裡を塩屋会館に改築し、祭壇を設けて、聖観音像と弘法大師像をおまつりしています。
左端が塩屋観音堂
また、塩屋橋のたもとには、金比羅・白鳥への道しるべや明治15年(1882)に建てられた牛の墓があり、交通の歴史を身近に感じることができます。 東かがわ市教育委員会」とある。
で、観音堂は度何処?橋を渡り返すと橋詰めに塩屋会館と書かれた建物があり、その左端に観音堂の木札が架かっていた。
「塩屋観音堂」の案内左手に金毘羅道標。「右 こんひら 志ろとり道 これよりこんひらへ十五里」と刻まれる。案内右手には自然石の石碑と舟形地蔵。自然石の石碑には「明治十五年八月十九日 牛の霊」といった文字が読める。案内にある牛供養塔なのだろう。舟形地蔵は風化はげしくなにも読めない。

三叉路に茂兵衛道標
茂兵衛道標
引田の町並みを進む讃岐街道
右岸を進み小海川から引田の町へと折れる角に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「大窪寺 金毘羅 第三番金泉寺 明治十一年十一月吉辰」と刻まれる。茂兵衛165度目の四国遍路巡礼時のものである。 引田はかつて大阪への海運の湊として栄え、問屋や商家が軒を並べたという。その面影の残る町中を讃岐街道が抜ける。






東海寺
馬宿川を越え国道11号に合流し、馬宿地区を進む。国道の少し南に東海寺がある。源平合戦で屋島檀の浦を奇襲した義経軍が最初に宿営した地と言われる。ちょっと立ち寄り。


「源氏有縁 多田(源)満仲公復興  屋島合戦 源義経一党宿営」と刻まれた石柱の立つ山門を潜り境内に。義経が鞍を掛けた「鞍掛松」、馬足を洗った「馬洗池」、鐘楼傍には「多田満仲公御再興 弘法大師御巡錫 源義経宿営の寺」と刻まれた石碑などが境内に残る。
案内には「真言宗 海藏院東海寺 略縁起
寺号休亀海山 本言坊 海藏院 東海寺上と言う
寺伝によれば「奈良時代初期 養老五年(七二一年)開基。平安時代 弘法大師空海 四国八十八方所開創定の折、当山、巡錫 再興四国番外靈場。
源満仲(源満仲清和源氏の祖)公 弘法大師 信奉 寺領寄進再興に尽力。当初寺域広大 七堂伽藍外据りを巡らしたる大寺なり。又聖武天皇とのゆかり**
寿永四年 源平屋島の 合戰時、源義經、弁慶らの一党一夜当山一夜宿営、史跡『鞍掛 の 松』 『馬足 池』。戰国乱世、天正の兵火に羅り伽藍消失、後寺城狭して再興今日に至る
江戸期 久米通賢先生の菩提寺(日本で初めての 塩田開発)
近 世 南原繁先生ゆかりの寺(元東大総長文化勲章授章)
。本尊七佛藥師如来(病い封じ厄除*)
。 諸尊普賢大菩薩 (延命*)
・白龍大辨在天祖神(開運智恵、福德*)
・鬼子母神(訶梨帝母)(子授 安産むの神)」とある(注;写真撮影ミスし文面不完全)
馬宿
律令制の時代、官道として整備された南海道は阿波から大坂峠を越えて讃岐に入る。その讃岐最初の駅屋(うまや)である刈田駅はこの地、馬宿の地とされる。官道は白鳥、三本松、丹生を経て次の駅屋である松本駅(現しさぬき市大川町田面)へと続いた、と言う。



大坂越え取り付き口・坂元集落から大坂越えを経て大坂御板書跡へ

大阪越え;坂元集落から大坂御番所へ(緑は本来の大坂越え推定ルート)


国道11号・県道1号分岐点;大坂越え分岐点
国道11号を右折すると直ぐ標石
「右 大阪越え・・」といった文字が読める

馬宿に建つ東海寺を離れ国道11号に戻る。高徳線讃岐相生駅を越えるとほどなく国道11号から県道1号が右に逸れる分岐点。大坂越えの遍路道はここを右に折れ、坂元集落を抜ける県道1号に入る。坂元は大坂の始まりと言った意味だろう
県道1号へと右に折れると直ぐ、道の左手に標石。「右 大坂こえ 三ばんふり逆て 四里半 左 うたづこえ 一ばん 大麻宮をへて 三里り余り」と刻まれる。
「うたづこえ」とは卯辰越え(峠)、大麻宮は阿波国一之宮大麻比古神社。卯辰越えの遍路道は今から上る大阪越えの途中からベタノ谷に下り、徳島県道41号筋にある卯辰越えを経て大麻比古神社に下り、霊山寺に進むルートが知られるが、この標石によれば別の卯辰越えルートもあるのだろう(国道11号を進み折野から県道41号が卯辰峠を越えている)。

県道1号と大坂越え遍路道分岐点に標石
県道1号と遍路道分岐点
遍路道は右の案内
県道1号と遍道の分岐点に標石 標石を少し進むと県道1号との分岐点。分岐点には標石と遍路道案内がある。標石には「右 へんろ道」と刻まれ、遍路道案内も「右へ大坂峠遍路道」と書かれる。案内に従い県道1号を逸れ右の道を進む。 県道1号は等高線に抗うことなくヘアピン・蛇行を繰り返しながら大坂越えを上ってゆく。

高徳線を潜り左折し土径に入る
高徳線を潜ると直ぐ左折
道の左手に舟形地蔵尊が祀られる祠、地主神社の鳥居を見遣りながら坂元集落の道を進み、高徳線の高架を潜る。左手に「四国のみち」の指導標。「県境」を示す左折指示に従い径に入る。
後でわかったことなのだが、現在遍路道として使われるこの「四国のみち」は明治7年(1874)着工、明治8年(1875)完成に完成した道。この道ができる以前の道は、坂本集落の少し東側から「四国のみち」となっているこのルートの東側を上ってきたようだ。

県道1号をクロス
よく踏まれた道を石仏を見遣りながら進む
ほどなく県道1号とクロス
土径を進むと舟形地蔵が佇む。風化が激しく文字は読めない。よく踏み込まれた道を10分強歩くと蛇行しながら上ってきた県道1号に出る。道路脇に「四国のみち」指導標が立ち、道をクロスする方向を示す。この間、尾根筋に入るが等高線の間隔が広く、割と緩やかなスロープ。

再び県道一号に出る
県道合流部より右に上る
県道1号合流部の標石
県道をクロスすると「四国のみち」の案内板。このルートは「山里のみちコース」と呼ばれるようだ。「山里のみち」は讃岐相生駅をスタートし、山裾を進み坂元集落の地主神社前に出て、大坂越えを経て阿波大宮駅までのコース。現在の遍路道と重なっているように思える。
案内板の「直ぐ先でヘアピンで曲がって来た県道1号に出る。道の山側に「四国のみち」指導標と標石。標石には「二.〇八三米 /金泉寺 九.一粁 霊山寺 金泉寺経由十三.四粁 卯辰峠経由十三.三粁」と記される。
金泉寺経由は今から辿るルート。卯辰越えは前述のように、大坂越えの先で左に別れベタノ谷筋に下り、その先現在県道41号の走る卯辰越えを経て霊山寺に向かうように思える(ルート詳細未確認)。 県道1号山側には右に上る土径が見える。道をクロスし土径を上る。

「四国のみち」指導標
「県境1.1km」と示す指導標

踏み込まれた道には遍路タグも吊られる
県道クロス部から5分ほど歩くと「四国もみち」指導標。「県境1.1km/ 讃岐相生2,3km」と記される。 当日は曇り、若干小雨模様でありガスっていたが、晴れていれば木々の間から左手に里や海がみえたのではないだろうか。
道は等高線に抗うことなくゆっくりと斜めに進み、北に突き出た尾根筋はぐるりとを巻いて進む。ゆったりとしたスロープで道もしっかり踏まれており至極快適。

「大坂峠みちの移り変わり」案内板
「大坂峠みちの移り変わり」案内板
県境1.1キロポストから15分ほど歩くと「大坂峠みち」案内板が立つ。案内板には「大坂峠みちの移り変わり あなたが今歩いてきたこの道は、明治七年着工し、明治八年完成したものです。それまで険しかった山道が、とても平坦で良い道になったと「大坂峠改修碑」には書かれています。
それは「歩荷;ぼっか」( 人が荷物)を運搬する)の道から、駐荷(牛馬によって荷物を運搬する )や車の道に大改修されたのです。「歩荷の道」から「駄荷や車の道」への発展は、阿讃の物流の増大が直接の原因であり、阿讃両国それぞれの産業経済の発展がその遠因をなしているのです。
この地図ではじめて本来の大阪越えルートを知る
ここから、この旧道を約五百メートル上ったところの、道の右側には「不動尊が祀られ、そこから更に百五十メートル程行くと県境に達します。県境付近が峠となっています。 峠には段々になった平地があり、そこに、昭和十年三月、高徳全線開通さるまで営業していた「豆茶屋」がありました。豆茶は一説によると「半搗(はんつき)米と大豆を一晩水につけたものを蒸し塩味を加味したものに、谷間の清水を煮立てて入れたもの」だそうです。
これが、峠を往来する人々に重宝がられ、豆茶屋は憩いの場所として、春などは、近郷の人々の「おへんろさん」接待の場として賑っていたといいます、県道、国道の開通と共に道行く人の姿もなくなり、今は草木が生い茂るにまかせて、その跡形もありりません」とあり、説明分の横には地図があり、旧旧道(最も古い道)、旧道(四国のみち)、新道(県道)のルート地図が県境・大坂越えの辺りまで掲載されていた。徳島側がないの行政区域が違うということだろう。
旧道(最も古い道)
常の如く最小限の事前準備で行き当たりばったりの旅ゆえ、後の祭りとなることが多い。ここもそう。地図に拠れば本来の大坂越え、遍路道は今歩いてきた「四国のみち」ではなく、「四国のみち」の少し東を沢筋に沿って上ってきている。当日は古道ルート図は「資料」としてのものだけ、とおもっていたのだが、その道筋には丁石が残り、国道からの取りつきくちには「古道」の案内標識が残る。また、地元の方がボランティアで古道整備もなさっているよう。もう少し前もって調べておけば古道を辿ることができたのに、と常の如くの後の祭り感。

「四国の道」指導標
通念島?
大坂峠案内板から5分ほど歩くと左手が開け海が見える。小雨も止んできた。地図でみると坂元の集落から香川と徳島の県境辺りの海のように思える。ひとつ島が見える。沖合に並ぶ三つの島、毛無島、通念島、松島のどれだろう。
その先数分で「四国のみち」指導標。「展望休けい所** 讃岐相生駅3.1km /県境**」。県境までの距離は読めないが先ほどの「四国のみち」指導標から0.8km進んでいるので、県境まで9,3kmではないだろうか。因みに展望台はその方向からして、北に突き出た尾根筋を巻くことなく、稜線筋を上ったところにあるように思う。

不動尊・「文化庁選定 讃岐街道大坂越 歴史の道百選」案内
不動尊
往昔の大坂越えは沢をのぼりこの辺りに
出ていたのだろう
「四国のみち」指導標から5分ほど歩くと道の右手に不動尊が立つ。先ほどの「大坂道案内」にあった地図を見ると、旧旧道はこの不動尊の辺りへと上ってくる。旧旧道はなんとなく沢筋を辿っているように見えた。
不動尊から数分で道の左手に「文化庁選定 讃岐街道大坂越 歴史の道百選」と書かれた木の標識。結構な痛み具合。その時はなんでここにこんな標識、と思ったのだが、先ほど見た「大坂峠みちの移り変わろ」のルートを勘案すると、この標識は旧旧道(古道)がここに出ることを案内をしていたのではないだろうか。
その傍に「讃岐山脈ロングトレイル」と書かれた木の札が吊るされる。
讃岐山脈ロングトレイル
川之江で愛媛の県境を越えた先,余木崎より讃岐と伊予を画する山稜に取りつき、次いで阿讃県境を東へ進み、香川と徳島の県境の長浜に下りるまでおおよそ130キロ。少なくても5泊6日はかかるよう。街道歩き、遍路道歩きを楽しむため、仕方なく峠越えをするために山入りするわが身には想像もできない。因みに今回の遍路道歩きで訪れた境目がルート途次に記されていた。チェックすると今回歩いた日開谷川筋の四つ足堂から長野の集落をへて八丁坂を越え境目に至るまでがルートに含まれていた。山を下り、てょっと一息といった箇所可とも思う。

県境標識
県境標識
阿讃山脈鞍部に



「讃岐街道大坂越」の標識から数分、道が切通しのようになっている。地形図でみると阿讃山脈の鞍部のようだ。そこに「県境 四国のみち」の木の標識が立つ。高徳線を左折した大坂越え取り付き口(標高24m)からおおよそ1時間弱、県境箇所の標高は270m。高度を250mほど上げたことになる。
等高線に抗うことなく、尾根筋を巻き、等高線を斜めに少しづつ上ってきたため、険路という道ではなかった。明治の頃の道建設の趣旨が牛馬の通れる道にするということであり、当然といえば当然か。

「四国のみち」の円柱標識と階段
円柱標識。道は直進のように見えるが

右の階段に遍路案内
切通しを抜けると道は県境尾根に沿って右に曲がる、その直ぐ先に「四国のみち」の円柱標識。直進方向の道とその右手に階段がある。円柱標識が指す方向は今一つわかりにくい。よく見ると階段上り口の木に遍路タグが吊るされている。






遍路墓・「四国のみち」円柱標識
階段を上り数分歩くと道の左手に気になる自然石が目につく。近づいてよく見ると「明治十一年 寅 道照信女」といった文字が読める。遍路墓のように思える。
遍路墓から10分ほど歩くと分岐点に「四国のみち」円柱標識。道を示す方向が今一つわかいにくい。取り敢えず南方向へ進む。

「四国のみち」円柱標識・分岐点に「四国のみち」指導標
右は稜線直登。左遍路道
大坂口御番所跡と大坂峠休憩所分岐点
馬の背を越え数分歩くと「四国のみち」円柱標識。標識は右を指すが、標識傍の木に遍路タグが括られ、直進道を進む。地図を見ると、「四国のみち」が示す方向は稜線部を直登、遍路道は巻き道のようだ。
階段状の巻き道を5分ほど進むと分岐点に出る。分岐点に「四国のみち」指導標。「大坂口御番所 跡/県境」への距離案内と「大坂峠休憩所0.2km」の案内がある。雨は止んだが曇天。見晴らしはいいとは思えないが、ついでのことなので寄り道。
k
大坂峠休憩所
休憩所。展望効かず
句碑

四阿で一休み。予想どうり、ガスって見通しは効かない。平場となった休憩地には石碑や歌碑が立つ。 石碑には「二千六百**」といった文字が読める。太平洋戦争で日本軍がシンガポールを陥落した年、「紀元は二千六百年」と歌う歌詞を思い出した。歌碑は「*馬酔木 あがたをへたておる峠 康子」と読める。*は季語に花馬酔木がる。「花」かもしれない。検索したがヒットしなかった。馬酔木は春の季語。「あがた」は「県」。東の龍王山(標高475m)など、このあたりは馬酔木の名所のようだ。 

 県道1号に出る
分岐点に戻り大坂口番所跡に向かって県境尾根筋を進む。良く踏まれ、遍路タグも木に吊るされ道に迷うことはない。東に突き出た尾根筋の突端手前より等高線に垂直に下ることになる。 途中「四国みち」指導標を見やりながら坂を下ると舗装道が見えてくる。分岐点から20分ほどで県道1号に出る。

再度県道1号とクロス(「四国のみち」の指導標と2基の標石)
「右 へんろ」と読める
県道クロス部の標石
「四国のみち」指導標に従い県道をクロス。その先急坂。濡れた階段を滑らないよう擬木の手摺を掴み慎重に下る。5分強下ると大きく迂回してきた県道1号に再び出合う。
遍路道とのクロス箇所には「四国のみち」の指導標と2基の標石。1基は新しい。手印と共に「卯辰経由 従是 霊山寺 一〇.八粁/ 金泉寺 六.五粁」とある。県道を少し東に進み、どこかで「ベタノ谷」筋へ通り、卯辰峠へと向かうのだろう。
もうひとつは古い標石。「右へんろ ちか/大正五年五月」といった文字が読める。 「四国のみち」の指導標には「大坂御番所1.0km /大坂峠休憩所「0.7km」と書かれ、遍路タグも貼られる。その傍には「馬酔木の径」と書かれた木の標識も立っていた。
卯辰経由道
Google Street Viewでチェックすうると、曲がりくねりながらも東進した県道1号が南に下る辺りの分岐点に「四国のみち」標識が立っていた。ここを左折、少し進んで右折しベタノ谷に下りるのかとも思う。




水呑み場と常夜灯
簡易舗装された道を下るとその先石畳。スリップが怖い。県道クロス部から10分強、竹林が見え始め里に近づいた辺りに石造物。「*人水のみば」の文字が刻まれる。牛馬の水呑み場なのだろう。その直ぐ先には常夜灯も立っていた。

里に下りると「讃岐街道」案内
「四国のみち」指導標を見遣りながら竹林の道を進むと東谷の民家が見えてくる。石畳も消え簡易舗装となった道を下ると里にでる。下り口には讃岐街道の案内板が立っていた。坂元集落の県道1号の遍路道分岐点からおおよそ2時間半で大坂越えを終えた。一部下りに急坂はあるものの、おおむね緩やかな上り道で険路という感はなかった。もっとも現在遍路道となってい「四国のみち」は明治8年(1875)に完成した牛馬の道であり、当然といえば当然かもしれない。それ以前の沢筋を上る「旧旧街道」は結構険しいルートであったろうと思う。
讃岐街道の案内
大宝元年(701) までに行われた律令の制度により、五畿七道が設置され、この讃岐街道は南海道の一部で、都から淡路を経て牟夜 (撫養) の港に上陸し、石濃(現在の堀江町石園)を通り、板野の郡頭の郡衙を十字路の起点として、古野川を渡って阿波の国府に至り、北へ大坂峠を越えて讃岐の国府に通じる官道で、政治街道であった。
仁治4年(1243)高野の学僧・道範が、阿波を経て善通寺へ、中世には文治元年(1185) 2月18日、源義経が阿波から大坂峠を越えて屋島の平家を攻め、天正13年一付き(1585) 四国征伐のため、蜂須賀氏などが讃岐から阿波へ、大坂峠を越えた軍事街道であり、近世の藩政時代には商人街道であり、遍路街道としてにぎわった。
だが、 明治8年(1875) 大坂の登り口より右に新道が完成し、 馬の通る旧南海道は竹藪になり、誰も通らなくなった歴史をとどめている。なお、南海道の撫養街道は養老2年(718) 5月、土佐の国の要請によって出来たものである。 板野町教育委員会」とあった。ここでいう讃岐街道は今回辿った明治に建設された道ではなく、途次の地図にあった「旧旧道」のことではあろう。

大坂御番所跡
下山口から先に進むと曲がり角に「金泉寺5.6km」の文字と左折を示す遍路道案内が貼られた石柱が立ち、そこには「大坂口御番所跡」の文字が刻まれる。その地が御番所跡かと思ったのだか、今来た道を戻る方向を示すような指示もある。はっきりしないが、取り敢えず少し戻ると右手にそれらしき屋根が見える。右折すると直ぐ大坂御番所跡の建物が建っていた。
建物前の古い案内板には「大坂御番所跡 文治元年(一一八九)、屋島の平氏を攻撃するため源義経が超えた大坂峠は大宝元年(七〇一)制定の大宝律令以来、南海道の重要な駅屋であった阿波の郡頭駅から讃岐の馬宿駅を結ぶ官道が通じていた。都から讃岐や伊予に向かう官人たちはみんなこの峠を越えたのだった。
義経の軍勢がこの峠を越えてからちょうど四百年後の天正十三年(一五八五)阿波に入部した徳島藩祖蜂須賀家政はここに御番所を設け、村瀬、久次米の両家がこの御番所を預ることになった。 ここをを通過する旅人のうち武士は通行手形を庶民は檀那寺や地方役人が発発行する住来手形を持参しなければ御板書を通してもらえなかった。また幕末には江戸幕府から大塩平八郎や西郷隆盛らの人相書が御番所に配布され番所役人は非常警戒に当たらなけえばならなかった。

この御番所の幕がおろされたのは明治二年(一八六九) 版籍奉還のときである」とあった。
さらにその傍に印刷物の大坂御番所案内があり、
「●境目番所「大坂口番所」の役割
正保元年(一六四四)、徳島藩は隣の高松藩との国境で、交通の要地にあたる大坂村に「大坂口御番 所」を設けました。このように、阿波と讃岐・伊予・土佐との陸続きの国境には、境目(口留)番所が置かれました。
大坂口御番所では、主に阿波からの藍の持ち出し、百姓の国外への逃亡、隠密の入国などに厳しく目を光らせていました。
大坂口御番所は、徳島藩の領内に配置された番所の中でも、特に重要な番所に位置に設けられており、津田(徳島市)、北泊(鳴門市)、白地(池田町)宍喰浦(宍喰町)に設けられた番所・役所とともに重視されていました。
「入邪宗門に出百姓」
江戸幕府の設置した、江戸周辺の関所では「入鉄砲に出女」の取り締まりを目的にしていましたが、阿波国に設けられた番所では、主に「入邪宗門に出百姓」の取り締まりを行っていました。番所では、キリシタン禁制の高札を掲げるとともに、キリストの像を通行人に踏ませるなどして、キリシタン(邪宗門)の入国の取り締まりを行っていました。
番所に置ける警備
番所には、「刀」「より棒」「なぎなた」「ヨロイ通し」「十手」など、数々の警備道具が置かれていました。大坂口御番所では、人の出入りに対する警備に主眼が置かれており、幕末には、江戸幕府から大塩平八郎や西郷隆盛などの警戒を命じられたこともあったようです。
番所を通った人々
番所を通るためには、武士は通行手形、庶民は檀那寺や地方役人(郡奉行、町奉行)が発行する往来手形が必要でした。手形には、旅行の目的やキリシタンでないことの証明などが書かれていました。 村瀬家に残されている手形によると、四国以外からも、遠くは関東、九州より人が訪れていたことがわかります。
村瀬家と久次米家
番所には、御番役と呼ばれる役人が勤めていました。大坂口御番所には、村瀬、久次米の両家が配され、両家のご子孫は現在も御番所跡のこの地住んでいます。 村瀬家の屋敷には、今でも蜂須賀家定紋の卍の印が入っ瓦が屋根に残っており、当時の御番所の面影をとどめています。 御番所役人はほとんどは世襲制となっていたようです。一つの番所につき一人~四人のの番所役人が配置されました。
「家暦書」によると、村瀬家は、天正十三年(一五八六) 蜂須賀氏の阿波入国以来、徳島城に勤務していましたが、大坂口御番所の設置とともに御番役を仰せつかったとされています。
阿波における番所の設置
江戸時代、徳島藩では、国境や河口・海岸など交通の要所に番所を配して、人や物の出入りを厳重に監視する体制をしいていました。番所は「御陣屋」「御番所」「川口番所」「舟渡番所」「遠見番所」などと、その目的と機能によって、種々の名称が付けられました。当時、徳島藩の領内には五〇カ所ほどの番所が設置されていました。 阿波と讃岐を結ぶ、讃岐街道(阿波五街道の一つ)に設けられた、大坂口御番所は、明治二年(一八六九)までの約二三〇年の間、その役割を果たしました。
御番所の記憶
村瀬家の前に残されている石畳は、御番所が設けられていた当時の姿を今に伝えています。明治二年(一八六九)に廃された御番所は、 写真の竹垣をまたぐように建っていたと言われています:とあった。





■大阪御番所跡から第三番札所金泉寺へ■

丁石と三庚燈
3丁石?
三庚燈と刻まれる石燈篭
大阪御番所跡を離れ先に進む。里道を進み高徳線の踏切を越えて直ぐ、道の左手に真ん中が切れた舟形地蔵。風化が激しいが、右手下に「左 三丁」らしき文字が見える。
その先、道の左手に大きな常夜灯と石造物。石造物は風化が激しく文字は読めないが、常夜灯には「三庚燈」といった文字が読める。三庚って何?
三庚
三伏とも言う。「三伏(さんぷく)」とは、陰陽五行説において、夏至以降の三つの庚(かのえ)の日の総称。一般的に夏至後、三回目「庚(かのえ)の日」を初伏(しょふく)、四回目を中伏(ちゅうふく)、立秋後の最初の庚の日を末伏(まっぷく)とする、その初中末の伏の称が三伏。後述するが、「庚」は干支のうち、十干のひとつであり、ということは10日毎に「庚」の日が巡りくる。
五行思想(木=春、火=夏、土=四季それぞれの最後の18日、金=秋、水=冬)で夏は火に、秋は金に当たる。そしてこの三伏の頃は「火の性」である夏が最も盛んな時期(暑い時期)で、この「火の性」は「金の性」にとっては最も苦手な相性の悪い性と考えられている。三伏は夏の勢いがとても盛んで秋の気配を伏する(降伏させる)、というか金(秋)の性が火(夏)の性に伏するということだろう。陰陽五行説の相克の関係において「火は金属を溶かす」とされる所以である。
ではここで何故「庚の日」が登場するのか。「庚」は甲 、乙、丙 、丁、 戊 、己、庚 、辛 、壬癸 からなる十干の7番目。この十干に陰陽五行説の木=春、火=夏、土=四季それぞれの最後の18日、金=秋、水=冬と陽を表す「兄(え)」と陰を表す「弟(と)をあてはめると、甲 (こう・木) 兄= 「木の兄 (きのえ)」、、乙(おつ木) 弟 = 「木の弟 (きのと)」。丙 (へい・火) 兄 = 「火の兄 (ひのえ)」、丁 (てい・火) 弟=「火の弟 (ひのと)」、戊 (ぼ・土) 兄 = 「土の兄(つちのえ)」、己(き・土) 弟=「土の弟(つちのと)」、庚 (こう・金) 兄 = 「金の兄(かのえ)」、辛 (しん・金) 弟 = 「金の弟 (かのと)」、壬 (じん・水) 兄 = 「水の兄 (みずのえ)」、癸 (き・水) 弟= 「水の弟(みずのと)」となる。

つまり、「庚」は庚 (こう・金) 兄 = 「金の兄(かのえ)」となり、金(秋)の勢いがある(陽)日となる。金が火に伏している時期に、威勢のいい金(秋)の性をもつ「庚」の日が登場しては都合がよくない、ということで、火の性の気が激しい季節(夏)の金の性の気が激しい日(庚の日)は季節と日の相性が佳くない三伏日とされ、この日は種蒔き、療養、遠行、男女和合など、全て慎むべき日とされている。 三伏の時期は、7月中旬から8月上旬と酷暑の頃で、「三伏の候」「三伏の猛暑」と手紙の前文に書くなど酷暑の頃を表す言葉として現在も用いられている。?
、年、付、日などを干支に対照する暦は綿々と続いており、西暦から干支を割り出す計算式もあるようだが、散歩とはかけ離れてしまいそうであり、この辺りで思考停止とする。

阿波大宮駅
道を進むと道の左手に「おへんろさん この水は飲料水として使用できます(This]water is safe to drink)」と書かれた案内と水道蛇口。有難い。
高徳線の線路を右下に見遣りながら進むと線路が二つに分かれる。単線ゆえの列車交差のサイン。その先に阿波大宮駅がある。線路、田圃、山並みが一緒になた景観はなかなか、いい。

中村地蔵堂・県道1号合流点に自然石の標石
ほどなく道の左手に中村地蔵堂。お堂は結構新しいが、祠に祀られる2基の仏様の台座には「念佛講中」といった文字が刻まれた古き趣。中村地区ゆえのお名前だろう。
仏にお参りし先に進むと県道1号に合流。合流点には自然石の標石があり、「左へんろちかみち 大正五年五月」と刻まれる。




県道1号を左に逸れ讃岐街道に入る
太郎橋を渡り讃岐街道に
関柱の庚申塔など
そこから先、大坂谷川に沿って南に下る県道1号・徳島引田線を進む。高徳線の高架を潜り1キロ半ほど進んだ関柱地区辺りで讃岐街道は県道から左に逸れる。大坂川に架かる太郎橋を渡り関柱の集落を南下すると右手に集会所。その前に庚申塔、萬霊地蔵、灯籠、手洗石などが集められていた。

吹田第一踏切を越え亀山神社前に出る
吹田第一踏切
亀山神社

しばらく道なりに進み、高松自動車道手前で左に逸れる細路に入り、吹田第一踏切で高徳線を東に越える。 舗装はされてはいるが左右に草の生い茂る道を進み高末自動車道の高速を潜り、板野小学校前を進み亀山神社前の五差路へ。 
亀山神社 
結構な構えの社。祭神は須佐之男命で、相殿は長慶天皇。さらに春日四柱神、日本武尊、大山祇命、加具槌命、倉稲魂命、船戸神が合祀されている。明治8年(1875)までは八坂神社と称していたが、明治40年(1907)愛宕神社、舟戸神社などとつの神社と合祀され、亀山神社となった。亀山はこの辺りの字名のようだ。 
八坂神社って、牛頭天王社などと呼ばれ祇園精舎の守護神牛頭天王を祀っていた社。牛頭天王と言えば京都と八坂神社の元の祭神。 明治に八坂神社と改名する以前は祇園社とも祇園感神院と呼ばれていたわけだが、 祇園精舎 (釈迦が説法をおこなった聖地)の守護神である牛頭天王は。日本では神仏混淆の代表的な神さまとなり、祇園社だけでなく全国各地に天王さんが祀られた。 
が、明治元年(1868) の神仏分離令において、 権現と天王の神名が付く社はすべて改名すべしとの名指しのお達しによ り、 祇園さんは社のある地名より八坂神社と改名。 祭神も本地垂迹では牛頭天王を本地とするスサノオを祭神として いる。 全国の祇園社も右へならえと八坂神社としたようだ。 
真偽のほどは不明だが、 明治期、 (牛頭) 天王>天皇との連想より、天皇復権の時代ゆえか不敬にあたると考えたとい った記事を目にしたことがある。 また、 疫病退散の神として庶民信仰に深く根付いた天王さんが、 天皇神格化を目す る新政府にとって目障りな存在であったゆえとの記事もあった。 
この社が八坂神社と呼ばれる以前の社の名は検索でヒットしなかたが、祭神が須佐之男命と言うことであれば祇園社のひとつだったのかもしれない(単なる妄想。根拠なし)。 
神社の付近一帯に古墳が散在し、亀山天皇の御陵とも云われる阿王塚が神社の裏山の歓喜天の社に。また金泉寺の裏山に「長慶天皇の御陵」と伝える古墳もある。阿王塚古墳からは画文帯神獣鏡2面が出土している。金泉寺が長慶天皇、亀山天皇の崇拝篤く、山号を亀光山と称しており、それゆえの天皇御陵と伝わるのだろうか。
なにせ上述の如く亀山神社と称されたのは明治40年(1907)であるし、その命名も合祀に際しての字名由来のものとすれば。それなりの「説得力」のある「妄想」かとも思うのだが。 

 第三番札所金泉寺
五差路を南東へと進み直ぐ左折。ほどなく赤い山門が印象的な第三番札所金泉寺に着く。 大窪寺より與田寺、白鳥神社に立ち寄り、大坂越えを第一番札所霊山寺に至る遍路道をメモした。なお、今回の目的地とした第三番札所金泉寺から第一番札所霊山寺までの順路は、「一番札所霊山寺から第六番札所安楽寺へ」の記事を逆廻しでご覧ください。 

大坂越え標石と郡頭案内 
金泉前の撫養街道を南西に進み高徳線踏切傍に大きな石碑と2基の標石。大きな石碑には「右 大阪越 明治十三年」と刻まれる。その横、細長い石柱には「板野町指定史跡 郡頭(こうず) 昭和四十九年二月一日 指定」といた文字が刻まれていた。さらにその横には2基の石碑。1基は「右 大阪」といった文字が読めるが、もう一基の文字は読めなかった。
「板野町指定史跡 郡頭(こうず)」とは前述の如く、古代官道のひとつである南海道の置かれた駅の名前。駅馬五匹が用意されていた。
南海道のルートを大雑把にメモすると;紀州・加太の湊より淡路島の由良の湊に。そこから、淡路の国府である養宣を経て福良の湊より阿波の牟夜(現在の撫養)に上陸。そこから吉野川北岸を撫養街道に沿って西進し、この地郡頭に至る。
阿波の国府へはこの地より南下し吉野川南岸へ。北進すると大阪峠を越えて讃岐国に入り、引田・田面・三谷・讃岐国府へ。そこから更に伊予国へと繋がっていた。古代、この地は交通の要衝であったのだろう。

これで2泊3日の結願の寺第八十八番札所大窪寺から第一番札所霊山寺へと向かうふたつの遍路道である切幡寺道、そそして四国総奥の院織田寺、古社白鳥神社を経て大坂峠を越える白鳥道・大坂峠のメモを終える。