火曜日, 5月 13, 2014

相模・宮ヶ瀬散歩;河川争奪の地を訪ね宮ヶ瀬湖から串川を下る

いつの頃だったか、津久井城を訪ね城山を南へと下ったとき串川に出合った。深く刻まれた谷が印象に残り、流路を上流に向かうと発達した河成段丘が広がっていた。ささやかな流れに比べてあまりにもアンバランスな深い谷・発達した段丘面が気になりチェックすると、はるか昔、串川は現在とは異なり「大河」であった、よう。上流の宮ヶ瀬辺りで丹沢の水を集めた早戸川が串川に注ぎ、水量豊かな「大河」として深い谷を刻み、発達した河岸段丘を創り上げた。 その串川であるが、いつの頃か、はるか昔のことではあろうが、早戸川の流れは中津川に奪われ、上流からの「水源」を絶たれた串川は現在見るささやかな流れとなったという。
河川の流路を別水系の流れがその流路を奪うことを「河川争奪」と言う。早戸川が中津川にその流路を奪われたのは地形の隆起とか、断層のズレのためとも言われるが門外漢にはいまひとつよくわからない。
河川争奪の要因はわからないが、早戸川がその流路を中津川に奪われ合流した地点は宮ヶ瀬である。が、現在その合流点は宮ヶ瀬湖の湖底に沈む。一方、早戸川の流れを奪われた串川はその宮ヶ瀬湖底の合流点のすぐ北を東へと流れる。地形図で見るに、かつて早戸川と串川が合流していた地点であろう辺りより、少し下ったところは、現在の串川に比べてアンバランスに大きい平坦地が広がっている。
早戸川と中津川が合流した地点は湖底で見ることはできないだろうが、それぞれの川が丹沢山塊から下り合流する谷筋の景観、そしてかつての串川と早戸川の合流点辺りの地形を見てみようと宮ヶ瀬湖に向かう。合流点から後のルートは時間の許す限り串川の流れに沿って、流路の周囲に拡がるかつての「大河」の痕跡でも見てみようと、晩春の週末、「河川争奪」の地に散歩に出かけることにする。

本日のルート;愛川町半原>半原水源地>石小屋ダム>石小屋跡>津久井導水路取水口>大沢の滝>宮ヶ瀬ダム>やまびこ大橋>熊野神社>宮ヶ瀬湖畔園地>虹の大橋>鳥居原園地>串川の風隙>道場>御屋敷>東陽寺>諏訪神社>地震峠>光明寺>国道412号・関交差点>青山神社>長竹三差路>串川橋>根古谷中野バス停




愛川町半原
通い慣れたる小田急線・本厚木駅より半原行きのバスに乗り終点の半原に向かう。半原を最初に訪れたのは数年前。武田信玄と小田原北条氏が戦った三増合戦の地を訪ねて志田峠を越え、折り返し国道412半原バイパスを半原の地に戻って以来のことである
。 半原は明治から大正、そして昭和にかけ「撚糸の町」として知られていた。戦前は陸軍飛行場、現在は工業団地となっている中津原段丘面は一面の桑畑であったようで、半原は相模三大養蚕地帯のひとつでもあり、中津川により四季を通して一定の湿度が保たれる、八王子という生糸の集散地・絹織物の生産地に近い、といった地の利、また養蚕地帯故に家庭で糸を扱うことに馴れた村人も多いといった人の利も相まって撚糸業が興った、と言う。
半原の撚糸業は文化4年(1807)、群馬の桐生でつくられた「八丁式撚糸機」を導入したのがそのはじまりと言われる。電気のない当時、動力源に水車を利用し糸を撚るこの撚糸機を動かすため、半原では水量の安定した中津川の水を活用することとし、明治20年(1887)には川の両岸に水路を設け、半原にある半原水源地(横須賀軍港貯水池)の取入れ口より下流の田代まで、およそ300機もの木製水車があったと伝えられる。その後動力は鉄製タービン水車なども加わり、昭和24年(1949)には全国の絹縫糸の生産量の80%を占めたとのことであり、その後、ナイロンを素材とした合成繊維の生産、ポリエステル縫糸、織物・ニット用撚糸の生産などを経て、現在は綿や麻との合繊撚糸の生産が行われているとのことである。

 因みに、撚糸(ねんし)とは「糸に撚(より)をかけること」。早い話が「捻(ねじ)り合わせる」ことである。その目的は、繭からほぐした糸は細く、何本か束にしなければならないが、そのままでバラバラして扱いにくいため生糸の束を軽く捻り合わせ、丈夫な一本の糸とする。そうすることによって生地に光沢といったものも出てくるとのこと。ついでのことながら、「腕に撚りをかける」とか、「撚りを戻す」ってフレーズは、この糸を撚ることから来ているようである。

半原水源地
現在も合繊撚糸の生産が行われている、とはいうもののそんな気配はあまり感じられず、工場は海外に移転したのかと思うほど静かな町を横須賀軍港へと水を送った水源地である半原水源地へ向かう。
バスで台地から半原の町に下る時、バスの窓から目視しており、バス停から日向橋の南詰に向かい中津川右岸を少し上流に進み、途中、若宮八幡にお参りし半原水源地に。
柵で囲まれた水源地の中には幾つかの沈殿池があり、この水源地の上流500mほどのところにある取水口から取り入れ沈殿池の砂利などで濾過した後、およそ53キロ離れた横須賀の逸見浄水場に自然流下で送られていたようだが、平成19年(2007年)4月より送水は休止中とのことである。

石小屋ダム
半原水源地から宮ヶ瀬ダムへは石小屋ダム経由で進む。地図を見るに中津川右岸から進む道はないようであるので、国道412号に架かる橋を渡り中津川左岸をしばし進む。半原水源地への取水口など見えないものかと注意しながら進むと、木々に遮られ定かには確認できなかったが、中津川右岸にそれらしき柵が見えた。幅1,2m,高さ1,9mの取水口 このことである。
先に進むにつれ深い谷を塞いだ堤高156mの宮ヶ瀬ダムが姿を表す。ほどなく石小屋の石碑があり、その先に石小屋ダム。正式には宮ヶ瀬副ダムと称する。水位が低下したときには、宮ヶ瀬ダム建設時、中津川の水を上流で堰止め、2キロに渡り中津川右岸に通した工事用排水管の排水口が見えるようだが、今回は水量豊かなために見ることは叶わなかった。
案内によると石小屋ダム建設の目的は大きく3つ。第一は宮ヶ瀬ダムの放流水の勢いを弱め、下流での洪水被害を防ぐ、第二は津久井導水路導水路の水位確保、そして第三は発電(愛川第二発電所)の水位確保、とのこと。
第一の目的は芦ノ湖に匹敵する水量を貯めた宮ヶ瀬湖の水を堤高156mもある宮ヶ瀬ダムからの放水による急激な水量による弊害を避けるため。 第二の津久井導水路導水路とは宮ヶ瀬ダムの水を城山ダム(津久井湖)に導水するおよそ5キロの隧道。城山ダムの上流の道志川に水を送り、相模川本川が水不足で中下流の磯部頭首工、相模大堰、寒川取水堰などで取水が困難になりそうになった時、津久井湖に水を供給するためのものである。ふたつのダムが連携し水資源の有効活用を図るというわけである。第三の愛川第二発電所は石小屋ダムの左手下に見える。
このような目的で、「副」とは言いながら堤高35m弱という本格的な石小屋ダムは宮ヶ瀬ダムと共に建設が開始され、2000年(平成12年)に宮ヶ瀬ダムと共に完成した。

○相模導水

導水路といえば、宮ヶ瀬ダムには相模導水があり、この場合は津久井導水路とは逆に道志川の水を宮ヶ瀬湖に送る。集水面積は小さいが貯水容量の大きい中津川水系の宮ヶ瀬ダムと、逆に集水面積は大きいが貯水容量の少ない相模川水系の城山ダムや相模ダムが連携しての水資源の活用を行っている。

石小屋跡
石小屋ダムのすぐ先に大岩が重なる。そこが石小屋跡。石小屋とは三つの巨石が重なり、ふたつの石が支柱となりちょっとした空間ができ丁度「小屋」のようになっている。伐採した木材を流す「木流し」職人なども夜を過ごしたのだろうか、いつしか「石小屋」と呼ばれるようになった、とのこと。

○中津渓谷
ところで、宮ヶ瀬ダムができる前はこの石小屋から宮ヶ瀬・落合地区までの3キロは渓谷美で知られ中津渓谷と称された。当時は数件の旅館もあったようである。中津渓谷に架かる石小屋橋は少し上流、現在の宮ヶ瀬ダムの少し手前辺りにあったようである。

津久井導水路取水口
石小屋ダムの右の台地上には愛川町役場郷土資料館や神奈川県立あいかわ公園などがあり、その台地の道を辿るとダムの天端にのぼれるようだが、圧倒的なダムを見上げながら天端(てんば;ダムや堤防の一番高い部分)に上るべく先に進むと石小屋ダム脇に白い箱型の施設。そこが津久井導水路取水口であった。

大沢の滝
アーチ型の新石小屋橋でダムの右岸に渡り先に進むと岩肌から下る滝が目に入る。大沢の滝である。案内には「目の前の岩山をつたい流れる「大沢」は、これより奥、高取山からの一尾根を挟んで出ている「屏風沢」と「夕日の沢」を源としている。この沢が中津川に入る少し手前で岩を噛む数段の滝となる。地元ではこれを「大沢の滝」と呼び親しんでいる(愛川町商工観光課)」とあった。

宮ヶ瀬ダム
愛川第一発電所脇を進みダムの直下に。堤高156mはさすがに圧倒的。ダムを見上げると上部と低部に「吐口」が見える。案内によると、上部の吐口(高位常用洪水吐)は洪水時と観光放水時に使用するゲート。低位(低位常用洪水吐)の吐口は急速に水位を低下する場合に使用される,とあった。
また、目には見えないがダムの堤の内側には「選択取水設備」があり、「水温、濁りに配慮した放水をおこなうため、さまざまな水深からの取水を可能としている」との説明があり、イラストでその選択取水設備から愛川第一発電所と「利水放水設備」へと水管が続いていた。「利水放水設備」とは「灌漑、水道用水、工業用水等の利水利用のための放流設備」。相模川水系、酒匂川水系とともに神奈川を潤す。特に上にメモしたように、相模川水系とは水の「貸し借り」をしながら連携して効率的な水資源利用を図る。

○インクライン
ダムの天端に上るべくルートを探す。ダムの中津川左岸側には天端(てんば;ダムや堤防の一番高い部分)までステップが続いているが立ち入り禁止のよう。天端に上るにはエレベーター(無料)か工事の時使用したインクラインを活用したケーブルカー(有料)しかないようだ。折角のことでもあるのでダムのスケールを実感すべくインクラインのケーブルカーに。
最大斜度35度というインクラインは建設工法を重力式とする宮ヶ瀬ダム建設時、大量に必要となるセメントを積載トラックごと運び上げたという。建設当時の写真を見るに、中央に直線が二本、左右に斜めにそれぞれ一本のツリー型のインクラインが見える。電力を多く使うインクラインの電力負荷を軽減するためカウンターウエイトのラインを設けていた、とのことである。上りと下りを同時に動かし、上りの負荷を軽減したのだろう、か。

○重力式ダム
重力式ダムとは、コンクリートを大量に使い、その質量をもとに自重で水圧に耐えるダムの建設工法。他にアーチ式ダム、フィル式ダムなどがある。アーチ式ダムはダムをアーチ型にし、左右の堅い岩盤に水圧を分散させる工法。重力式ほどコンクリートを必要としない。また、フィル式は岩石や土砂を積み上げてつくる工法。岩石を積み上げるダムはロックフィルダムと呼ぶ。

宮ヶ瀬ダムの天端
ダムの天端に立ち中津川下流を眺める。かつて渓谷美を誇った中津川渓谷の深く刻まれた景観が一望のもと。逆にダム湖側を見るに、その貯水量が芦ノ湖と匹敵するほどと称される湖面が拡がる。灌漑用水、水道用水、工業用水、発電にと多目的に遣われる宮ヶ瀬湖の水ではあるが、特に上水道は横浜市・川崎市・横須賀市等神奈川県全体の2/3の地域、県人口の90%に供給している、とのことである。

○宮ヶ瀬湖建設までの経緯
宮ヶ瀬湖建設までの経緯を簡単にメモすると、昭和22年(1947)には相模川水系の相模ダム(相模湖)が完成、また昭和45年(1970)にはその下流に城山ダム(津久井弧)完成。そして昭和47年(1972)には相寒川取水施設(寒川取水堰(せき))も完成し、相模川水系の水資源の活用が図られた。
酒匂川水系においても、昭和54年(1079)に三保ダム(丹沢湖)が完成。飯泉取水施設(飯泉取水堰(ぜき))も造られ酒匂川の水利用も推進された。
しかしながら、水需要の増大は当初の計画以上と想定される状況に至り、その対応として中津川水系の水資源総開発が計画。当初は相模川、酒匂川水系と同じく県営事業として中津川ダム建設が計画されたが、最終的にはその規模を各段に大きくした宮ヶ瀬ダムが建設大臣直轄事業として実施されることになる。
平成10年(1998)に宮ヶ瀬ダム本体と津久井導水路が完成し、平成11年(1999)4月より、上でメモした宮ヶ瀬ダムの一部運用に伴う既設ダム群との総合運用を開始し、平成13年(2001)4月からは宮ヶ瀬ダムの全面運用に伴う本格的な総合運用を開始。相模取水施設(相模大堰(ぜき))のほか既存の寒川取水施設(寒川取水堰(せき))等も暫定的に使用して宮ヶ瀬ダムの水を有効活用している。

やまびこ大橋
次の目的地は中津川が宮ヶ瀬湖に流入する山峡を遠望できるであろう「やまびこ大橋」へと向かう。ダムまでは愛川町、ダムから西は清川村宮ヶ瀬地区に入る。宮ヶ瀬湖南岸に通る県道514号を進む。交通量が多い県道を幾つかのトンネルを通り抜け、結構長い宮ヶ瀬トンネルを通り抜けた後、湖に突き出た舌状丘陵の奥に入り込んだ湖水に架かる橋を渡り、舌状丘陵の切り通しを過ぎると「やまびこ大橋」に到着。橋から南を眺めると、中央に湖に突き出す山容の左が川弟川の谷筋。右が中津川の谷筋である。

○中津川
丹沢山地のヤビツ峠付近にその源を発し、4キロほど北流しタライゴヤ沢合流点辺りまでは藤熊川、その合流点から更に北に3キロほど北流し本谷川との合流点辺りまでは布川戸呼ばれる。その合流点から下流は中津川となり、大山を水源とする唐沢川などを集め宮ヶ瀬湖へと注ぐ。

○宮ヶ瀬ダムと宮ヶ瀬村
昔の川筋は湖底に沈み見ることはできないが、おおよその流路は「やまびこ大橋」の下を通り、北西へと進み、やまびこ大橋の北の宮ヶ瀬湖の中央部分で南下してきた早戸川と合流し、合流点でその進路を東へと大きく変え、宮ヶ瀬ダム方向へと向かってゆく。
ダムの底に沈んだ中津川や、中津川に合流した早戸川、そして宮ヶ瀬村の姿を「ふるさと宮ヶ瀬;ふるさと宮ヶ瀬を語り継ぐ会(夢工房)」をもとに以下メモする。現在芦ノ湖ほどの広さをもつ宮が瀬湖であるが、昭和41年(1966)、県営事業として中津川水系の利水開発、所謂「三点ダム構想」が発表されたときは、中津川(宮ヶ瀬字一之瀬;唐沢川との合流点の下流)、早戸川(宮ヶ瀬字落合上流)をロックフィルダムで堰止めて調整、自然流水を石小屋から津久井湖に導水し、既存の県営利水設備に機能させ水需要に対応しようというものであった。しかし3年かけて準備してきたこの計画は昭和44年(1069)、建設省によって発表された巨大ダム構想に取って代わられる。その結果、県営事業では想定していなかった宮ヶ瀬村が湖底に沈むことになった。
当時の宮ヶ瀬村は240戸ほど。交渉の結果、昭和44年(1069)宮ヶ瀬ダム計画を受け入れた住民は補償金とともに代替地に移転することになる。いくつかの候補地の中から厚木市中荻野(現、宮の里)に200戸、宮ヶ瀬(現在の水の郷、宮の平)におよそ30戸、その他の町村に残りの村民が移住した。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)
■北集落
川弟川が中津川に合流した下流左岸。現在のやまびこ大橋の西詰めの南、宮ヶ瀬村の氏神が鎮座する熊野神社の東の湖底に沈む。この熊野神社も水没を避け移築したものである。北集落の少し北、現在の「やまびこ大橋」の辺りには、中津川を渡る「宮ヶ瀬橋」が架かっていた。 ■馬場集落
川弟川が中津川に合流した下流左岸。地名の由来は、昔、津久井郡青根村から入植した人がはじめて馬を飼ったところ、から。宮ヶ瀬村の中心であり大正4年(1915)には宮ヶ瀬小学校、昭和22年(1947)には中学校が出来た。 ○異人館と唐人河原
この地には異人館があり、幕末から明治初年にかけて横浜居留地の外国人がこの地を訪れた。安政5年(1858)諸外国と締結された「修好通商条約」によって外国人は十里四方以遠への旅行を制限されており、この宮ヶ瀬が横浜から旅行できる山紫水明の地として重宝されたのであろう。写真家のベアトやヘボン式ローマ字のヘボン氏などがこの地を訪ねている。集落から川を隔てた対岸は「唐人河原」と呼ばれていたようである。
いつだったか飯山観音を訪れた時、幕末の報道写真家、フェリックス・ベアトが宮ケ瀬への途中、庫裏橋を撮った写真があった。藁だか萱だかで葺いた屋根の民家。橋の袂に所在なさげに座る人。その横で箒をもつ人。掃き清められ清潔な風景が切り取られている。素敵な写真である。その時はなぜ宮ヶ瀬に?と思っていたのだが、これでその時の疑問が解決した。
■久保の坂集落
馬場集落の南。中津川左岸の川辺であり、急坂の両側に集落があった。この集落には湧水があり伊勢原、厚木への往還、大山参りの人の渇きを潤していた。
■南集落
久保の坂集落の南。中津川上流の札掛に向かう道筋であり、丹沢への登山口への道筋でもあった。札掛は中津川の上流、藤熊川沿いにある地名。樅(モミ)の原生林や欅(ケヤキ)の大木などが繁る森は、江戸幕府の御料林であり、杉・ひのき・モミ・ツゲ・ケヤキ・カヤは「丹沢六木」称され建材としてとして厳重に保護されていた。札掛の由来は役人が欅の大木を見回り、掛けた札による。 御用林は明治に皇室の御料林となり、昭和6年(1931)には県有林となった。
■和田集落(川弟川方面)
煤ヶ谷方面、土山峠付近より北上する川弟川が中津川に合流した右岸。中津川の堆積土上に集落があった。対岸の久保の坂集落とは「宮ヶ瀬大橋」で結ばれていた。
■上村集落(川弟川方面)
和田集落の皆南、中津川がつくた河成段丘上に集落があった。和田村を上村に対し下村と呼んだり、前和田・奥和田と称したり、ふたつの集落を合わせて「川前」とも称したようである。また、対岸の集落を「向かい」と呼んだ。
■向落合・前落合集落(早戸川方面)
馬場から津久井方面に2キロほど北に上り、早戸川が中津川に合流する少し上流、早戸川の左岸に向落合、右岸に前落合の集落があった。両集落で70戸ほど。この集落から少し南に下った日陰横根で早戸川は中津川に合流し、記念橋(関東大震災を記念した橋)が架かり、津久井には橋を渡り、愛川へは日陰横根から右に折れて中津川に沿って下っていった。

熊野神社
やまびこ橋を渡り、中津川左岸に渡る。県道沿いに熊野神社。水没した北集落にあったものを移したもの。祭神は伊弉諾命( いざなぎのみこと ) 、伊弉冊命 ( いざなみのみこと )。摂末社の八坂神社は須佐男命 ( すさのおのみこと ) を祀る。その他大六天社も。
境内にあった案内をまとめると、「古くは諏訪神社として勧請。当初の守護神であった。しかし、延文3年と言うから14世紀の半ば、武蔵の国・矢口の合戦に敗れた新田義興の郎党矢内入道信吉がこの地に落ち延び、村を隔てる一里余の平地の中津川畔に館を構え、更に遡る布川・塩水川合流点直下に奥野権現を祀り氏神として深く信仰していた。しかし、賊徒の凶刃に斃れ一族滅亡。祭主を失い、荒廃した社を村人が村内に移し、社号を熊野神社と改め明暦元年古社(私注;これが諏訪神社のことを指すのだろう)と合祀した。
時がたち、宮ヶ瀬ダム建設のため氏子の住居とともに水没することとなり、長年鎮座の地より八坂神社とともに当地に移し再建。さらに当地より移転した厚木市宮の里地区に分社を造営。在落落合郷第六天社稲荷神社を春の木丸地区に、更に旧村内各部落祭祀の小社を覆殿に移し、祭っている」とあった。

上で水没する村民は厚木市中荻野(現、宮の里)に200戸、宮ヶ瀬(現在の水の郷、宮の平)におよそ30戸が移転したとメモした。確かに厚木市宮の里には熊野神社が鎮座する。また、宮ヶ瀬地区の移転先である宮ヶ瀬湖畔園地・水の郷(上の案内にある春の木丸:正確には「B代替地;商業地」)の売店脇には水の郷第六天社が鎮座している。因みに宮ヶ瀬・宮の平とは正確には「北原地区(A代替地;住宅地)であり、熊野神社の南にある宮ヶ瀬北原交差点近くにある住宅地のことであろう。

宮ヶ瀬湖畔園地
熊野神社から県道64号を離れ、水の郷大つり橋を渡り、宮ヶ瀬湖畔園地をぬけて鳥屋方面へと向かう。整地された湖畔園地内には宮ヶ瀬水の交流館、水の郷観光案内所、丹沢登山やハイキングのサポートセンター県立宮ヶ瀬ビジターセンターがあった。また上でメモしたようにこの公園の南の住宅地、西側の県道脇の売店は友に水没した村民の移転先でもある。
公園内を進み、県道脇の売店群の北にある水の郷第六天社にお参りし園地を離れ、再び県道に戻る。

虹の大橋
湖に細長く北に突き出た台地上の県道の切り通しを抜けて進むと「虹の大橋」に出る。台地を通る県道64号の東は宮ヶ瀬、西は相模原市緑区鳥屋(とや)、そして「虹の大橋」の中央を境に、鳥屋と宮ヶ瀬に分かれる。
橋から西に見える山峡が早戸川の谷筋である。

○早戸川
早戸川は丹沢山の北麓にその源を発し、しばし北流した後、その流路を東に変え宮ヶ瀬湖に注ぐ。早戸川は「虹の大橋」の中央真下を通り東に進むが、虹の大橋を渡った県道64号が湖畔を離れ北に大きく方向を変える辺りの南でその流路を急激に南方向へと向け、中津川に合流していた。
おおよその場所は、北に大きく方向を変える県道64号の南で湖に向かって突き出る台地の先といったところである。また中津川との合流点はそこから少し南、現在の地形で言えば、虹の大橋に向かって湖に突き出した台地の付け根あたりと、やまびこ大橋を越えた先にあった湖に突きだした台地から線を伸ばしクロスした辺りではあろう。

鳥居原園地

今回の目的は早戸川・中津川・串川の河川争奪の名残を感じる散歩。ポイントは早戸川が急激に流路を南に帰る辺り。その場所はおおよそ予測できたので、そこから串川の流れまで、現在どのような地形になっているか辿ることにする。

虹の大橋を渡り、北東へと緩やかに曲がる県道64号が北へと下るところで県道と離れ、そのまま直進すると「鳥居原園地」がある。「鳥居原ふれあいの館(いえ)」などが整備された総合観光施設である。この園地からの宮ヶ瀬湖、やまびこ大橋、宮ヶ瀬湖畔園地、虹の大橋、そして宮ヶ瀬湖の奥に聳える丹沢の山容が一望のもと。左端の土山峠、その横に辺室山、最奥部に聳える大山、右端に蛭ヶ岳と有名どころの山々も案内写真の助けで遠景を楽しめる。

○湖底の早戸川と中津川合流点


宮ヶ瀬湖に突き出ている鳥居原園地のある台地の少し南の湖底には、早戸川がその流路をグイっと南に変え、中津川に合流していた記念橋も残っているのだろうか。記念橋からは早戸川に沿って北上し、前落合集落から早戸川の右岸を進めば早戸川の源流方面進む。一方、宮ヶ瀬から津久井へと進む道は、前落合集落で落合橋を渡り早戸川左岸の向落合の集落の九十九折れの道を北に進み、鳥居原園地のある台地の東、湖が入り込んでいる台地に沿ってぐるりと回り、鳥居原園地いの台地に至り現在の県道64号沿いに北に向かったようである。その前落合集落も向落合集落も、この鳥居原園地の先に沈む。

串川の風隙
鳥居原園地から道路を隔てた北に小さな丘が見える。標高337mのこの島のような丘は、はるか昔の川の流れによって堆積した段丘の名残と言う。この河成段丘面の北は扇型に平坦な地が北の串川の谷筋に向かって下る。この平坦な地は河川争奪によりその流路を中津川に奪われた串川の流路跡とも言われる。水の絶えた谷合の水路跡を「風隙」と称する。
串川の谷底低地に向かって緩やかに下る山間に広がる平坦な地を下る。平坦な地の西端に、途中から唐突に谷筋が現れるが水は無い。左右、南北の景観を眺めながら串川の流れる谷底低地に下り道場の集落に。




道場・串川の谷底堆積地
道場の集落を流れる串川は、ささやかな流れである。そしてそのささやかな流れに比して、串川周囲の谷底堆積地のスケールが大きく、誠にアンバランス。地形図で彩色するに、山間に平坦地が大きく広がっている。これははるか昔、早戸川が串川に合流していた頃の「大河」の名残とのことである。
串川の周囲の平坦地は、鳥居原園地の風隙から下ってきた道場の集落の上流にある御屋敷集落の周囲にも大きく広がっている。早戸川を巡る串川と中津川の河川争奪は構造線の横ずれと上下運動によって形成された、と言う。このような地殻変動が数度に渡って行われ、流路も変遷を重ねたのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

御屋敷
串川のさらに上流がどのようなものか、御屋敷集落辺りまで、ちょっと行ってみようと先に進む。御屋敷って興味深い地名。詳しい由来はわからないが、この地名に関わる伝説が残る。昔々、道場(堂場とも)に住む若者が得意な笛を吹きながら串川を川上へと進み美しい女性に出会う。この女性は御屋敷御殿の姫君。二人は恋に落ち、若者は母の形見の櫛を贈る。都へと出向き若者と会えなくなった姫君は、川面に彼の姿を認め手を伸ばしたとき、大切な串を川に落とす。必死になって串を探す姫の姿を痛ましく思った地元の民は、この悲恋(串を落とした日に若者は亡くなっていた)の櫛に因み、この川を「櫛川」>「串川」と称するようになった、と。
櫛を川に落とした姫君の由来譚もそれなりに面白いのだが、実際は、地形から名づけられたものであろう。『相模川歴史ウォーク;前川静治(東京新聞出版局)』によれば、「くし」は海岸線や河川などの屈曲部のところを指す、という。

東陽寺
先に進み東陽寺で串川は南北から合流する。東陽寺は室町時代の開創。臨済宗建長寺派のお寺さま。関の光明寺と深い法縁をもつ、と言う。
本流は北からの流れであったのだが、あまり調べず成り行きで進み南の宝樹沢に進んでしまった。しばらく進み、水も絶えた辺りまで行ったところで本流ではないことに気が付き元に戻る。




諏訪神社
串川に沿って下る。流路の周囲は結構広々としている。西門集落を越え、宮ノ浦に鳥屋諏訪神社。御神木の大杉が残る。社殿(覆殿?)が特徴的。これが本殿かと思ったのだが、本殿はこの中に鎮座している。案内によれば、「本殿の桁行、梁行とも1.3mで、一間社宝形造、屋根は柿(こけら)葺き、四方に千鳥破風を置き,正面には軒唐破風を付ける珍しいもの。また、向拝社は全体に昇竜の彫刻を施すなど彫刻による装飾が非常に豊かなのもこの本殿の特徴。本殿内の棟札に安永4(1775)年の再建年代及び大工の名が記されている。本殿は毎年8月の祭礼の時に開帳される。相模原市の指定文化財である」とあった。
歴史は古く、仁治2年(1241)に菱山肥後守入道隆頼公が菱山氏菩提のため、清真寺を此の地(鳥屋中学の西)に建立したと同時に山内鎮守として勧請、享禄3年(1530)に現在地に遷座された(菱山肥後守の詳細はわからない)。
境内前に石仏群。中央に六字名号塔、左右に馬頭観音や廿三夜塔が配置されている。道路拡張等により、ここに集められたものだろう。六字名号塔とは「南無阿弥陀仏」が刻まれた石塔のこと。

地震峠
やまびこ大橋から共に進んだ県道64号は諏訪神社脇で串川を離れ、道志みち・国道412号へと北上する。かわって串川に沿って県道513号に乗り換え、道脇に地区を示す道標を見やりながら先に進む。
「ここは中上 標高274m」 、「ここは中下 標高271m」、「ここは渡戸 標高267m」と続いた後、切り通しといった道の南側擁壁の上に「鳥屋 地震峠」の案内があった。案内には関東大震災の全体の説明に続き、「・・・当津久井郡内では、死者三十三名、負傷者十六名、全壊棟数百二十戸、半壊棟数四百二戸となっているが、この内ここ馬石では、死者十六名、埋没棟数九戸で、死体が確認されたのは八人のみ、ある家では六人家族全員が埋没死したのである。当時の串川は現在の県道よりもずっと南側を流れていたが、山津波のために串川がせき止められ、上流五百メートル位まで湖のようになってしまったという。・・・昭和六十一年三月 津久井町教育委員会」とある。
南の山地側の斜面が地震の時崩壊し土砂が押し寄せ、人家を埋め串川を堰止めたのだろう。現在切通しとなっている県道は崩壊土砂を切通して通しているが、串川は崩壊土砂を避け利用に左側に大きく迂回している。
地震による山地斜面の崩壊、河川の閉塞、流路の変更、切り通しとなった道など、自然による地形の変化のサンプルがこの峠に現れている。

光明寺
馬石橋を渡り、「ここは馬石 標高257m」の標識を見やり桜野を越え、串川の流れに沿って進む。県道が国道412号・道志みちに合流する関交差点の手前、串川が鳥屋の山地を抜けた辺りに光明寺。臨済宗建長寺派の古刹。もとは「桐ケ谷宝積寺」と号し、台蜜禅兼学にて七堂伽藍と坊舎を有するお寺さまであったが、永禄十二年(1569)年武田軍と北条軍による三増合戦のとき、兵火によって堂塔と坊舎を焼失。武田軍は炎上する寺院の明かりで、甲州に向かった、とも。本尊は運慶作と伝わる延命地蔵菩薩(本尊)。像高66cm座高25㎝台座巾76cmなど多くの寺宝を有する、と。

国道412号・関交差点
光明寺を越え関の交差点に。この関の交差点から東への国道412号も、交差点から北西へと相模湖方面へと向かう国道412も既に一度歩いている。三増合戦散歩の一環として、信玄退却路を辿り志田峠から串川橋に下り、この国道を相模湖まで辿った道である。
関の交差点から東の国道412号は、津久井城から成り行きで串川の谷筋に下り、深く刻まれた串川の谷に沿って串川橋をへて辿った道である。深い谷と進むにつれて現れたささやかな串川の流れ、そして深い谷に代わって現れた発達した川成段丘。そのアンバランスが気になってチェックした結果が今回の河川争奪の散歩に繋がったわけである。

青山神社
関交差点のすぐ東に青山神社が鎮座する。諏訪社、諏訪宮、諏訪大明神と呼ばれていたが、明治6年(1873年)、八坂神社(天王宮)と御岳神社(御岳宮)を合わせ、青山神社と改称された。青山とは地区の名称である。
境内に「咢堂桜」。尾崎行雄(咢堂)が東京市長のとき、日米友好を記念し、ワシントン市に贈った桜が里帰りしたもの。尾崎行雄がこの津久井出身と言うことで、この津久井に戻ってきた桜の苗木が32本のうちの一本。尾崎行雄は憲政の父。

長竹三差路
東に向かうと国道412号に相乗りしていた県道513号は、長竹三差路交差点で北東へと分岐し相模湖方面の中野へと向かう。長竹三差路は三増合戦に登場する地名。津久井湖畔の中野から下る道、相模湖へと向かう道、串川沿い、または半原へと南に下る道が交差する。『八王子南郊 史話と伝説;小泉輝三郎(有峰書店新社)』によれば、津久井城から出撃するときは、三増峠に進もうが、半原・志田峠を目指そうが、必ずこの長竹三差路を通らなければならなかった、と。
三増合戦の時、長竹と言えば、武田方の遊軍・山県勢5千に先立ち、津久井城の押さえのため進軍した小幡尾張守信貞の部隊が「長竹」に伏せたと伝わる。1200名の軍勢が、中峠から韮尾根に下り、串川を渡り、山王の瀬あたりの窪地に隠れ、津久井城の北条方に備えた、と。戦略的立地からして、この「長竹」って、その長竹三差路のあたりでは、なかろうか。

串川橋
長竹三差路辺から右手が次第に開け、台地下を流れる串川が見えてくる。水路の規模と比して、発達した河成段丘がつくられている。道は緩やかに下り串川に架かる串川橋で串川右岸に移る。
このあたりは、三増合戦のとき、武田軍が津久井城の北條方への抑えとしていたところ。『八王子南郊 史話と伝説;小泉輝三郎(有峰書店新社)』によれば、その場所は、山王の瀬の下、と。確かに串川橋の南に山王社がある。 この串川橋には2度ほど訪れている。一度は三増合戦の跡を辿り、志田峠を越え、突如眼前に広がる、高原といった景観を呈する緩やかな傾斜の扇状地に下り、国道412号・韮尾橋を経て串川橋まで下った。2度目は上でメモしたように、津久井城山から串川の谷に下り、深く刻まれた谷筋が次第に発達した河成る段丘へと姿を変える景観を見やりながら上ってきた。 2度目の散歩が、串川をめぐる河川争奪を知るきっかけとはなったのだが、1回目の韮尾根の扇状地にも河川争奪の痕跡が残る、と言う。

 ■韮尾根の河川争奪と風隙 現在、志田峠から南流する流れは山裾をぐるりと回り、国道412号の「真名沢」を経て半原の日向橋の少し下流中津川に注いでいる。往昔、志田峠からの流れは「韮尾根」の扇状地を下り串川に注いでいた、と言う。なんらかの理由により、串川に注いでいた流れは、中津川へと下る流れの浸食によりその流路を奪われてしまった。現在の韮尾根の谷は水のない風隙と呼ばれる地形となってしまった、とのことである。




根古谷中野バス停
御堂橋で串川を渡り直し、道脇にある春日神社にお参りし先に進むと三増峠へと続く県道65号が南に分かれる。バスの時間を気にしながら小走りで串川に架かる中野橋から渓谷の眺めをチェック。根小屋バス停で橋本駅行のバス乗り、深い串川の渓谷を眺め、相模川近くで圏央道の工事を見ながら、相模川に架かる小倉橋を渡り橋本駅に向かい、本日の散歩を終える。

日曜日, 5月 11, 2014

相模・中津川散歩;中津川の環流丘陵を訪ね田代へと

先日、八菅修験の行場を八菅山から4番行場である塩川の谷へと辿った()途中、半僧坊で知られる勝楽寺の対岸、中津川が大きく湾曲する田代地区に環流丘陵が残ることを知った。好奇心に駆られながらも、そのときは塩川の谷に有るという金剛瀧や胎蔵瀧探しのことで頭は一杯。とてもではないが環流丘陵を辿る気持ちの余裕はなかった。
で、今回気分も新たに田代地区の環流丘陵を見に出かける。環流丘陵とは流路の変化によって取り残された丘陵のこと。地形図でチェックすると、成るほど、田代地区の沖積地の真ん中に独立した丘陵がぽつりと残る。山地の谷間を蛇行する流れを「穿入蛇行」と呼ぶが、この地において何らかの原因による流路の変更によって旧流路と新たな流路の谷の間に丘陵が取り残されたのではあろう。 アプローチは環流丘陵を俯瞰できればと、中津川の崖面上の中津原台地から田代地区へ下るべし、といった大雑把なルートを想い散歩にでかける。


本日のルート;小田急線・本厚木駅>愛川バスセンター>県道65号>県道54号>桜坂>姫の松>地神社>横須賀水道道路・半原系統>角田八幡神社>市杵島神社>中津川台地の高位段丘面>中央養鶏場>辻の神仏>三増合戦記念碑>志田南遺跡出土遺物>首塚>胴塚>田代の環流丘陵>船繋場跡>「水道みち」の石碑>平山橋>中津神社>馬渡橋>木戸口坂>清雲寺

小田急線・本厚木駅
小田急線に乗り本厚木駅下車。バスは半原行きか、愛川バスセンター行のどちらか成り行きで乗ろうと本厚木バスセンターに向かうおうとすると、丁度本厚木駅前のバス停に「愛川バスセンター」行きが来た。
愛川バスセンターといえば、先日、金剛瀧や胎蔵瀧のあると言う塩川の谷の大椚沢や小松沢に冠する資料(「あいかわの地名 半原地区)を求め訪れた愛川図書館の近く。とりあえず終点までバスに乗り、そこから中津川方面へと向かうことにする。

○木売場
本厚木駅を出たバスは中津川水系の小鮎川と荻野川が合流した流れに架かる橋を渡る。その先、国道129号とクロスする手前には「木売場」といったバス停もある。厚木の地名の由来は木材を集める「アツメギ」との説もある。かつて水量豊かであった中津川水系の半原や宮ヶ瀬から筏を組んで流した木材をこの地で集めていたようである。

○才戸橋
国道129号に合流したバスはすぐに左に折れ、北西に向かって中津川と荻野川に挟まれた沖積地を進む。先に進むと沖積地から鳶尾山の山裾へと進み、宿原で右に折れたバスは山王坂を下り、睦合北公民館前から再び中津川に沿った沖積地を北上し、「才戸橋」を渡り中津川と相模川に挟まれた中津原台地へと入る。

現在の才戸橋の辺りに、往昔「才戸の渡し」があった、とのこと。「才戸の渡し」は北は武蔵国八王子から南は大住郡矢名村(現秦野市)をつなぐ矢名街道の渡しのひとつであり、矢名街道にはこの他、相模川を渡る「上依知の渡し」があり, 江戸時代には大山参詣道として大変な賑わいをみせたとのことである。 「才戸」の由来は、はっきりとはしないのだが、「サイト」は「斎灯」と書き、「サイトバライ」に拠る、との説もある。「「サイトバライ」こと、左義長(とんど、とんど焼き、どんど、どんど焼き、とんど(歳徳)焼き、どんと焼き、さいと焼)は、小正月に行われる火祭りの行事のことを意味する、とか。どんと焼き、さいと焼が行われていた場所であったのだろう、か。

愛川バスセンター
中津川台地へと移ったバスは、美しく弧を描いた崖線下の中津川氾濫原を進むが、坂本のあたりから台地へと上る。その地点は大きく分けて3段からなる中津原段丘面の中位面である。ハスは先日八菅神社を訪れた折りに下車した「一本松」バス停を越え、終点の相川バスセンターに到着する。

■中津原台地
相模原台地の西端、相模川と中津川に挟まれた中津原台地は高位面、中位面、低位面の3段階の段丘面よりなる。高位面は愛川町三増(海抜約150m)、中位面は中津から上依知あたりまで。内陸工業団地が立地する一帯である。下位面は下依知から国道129号と246号がクロスする金田(海抜約30m)。台地の東西端、台地が相模川・中津川に臨むところは急崖であるが,段丘面はおおむね平坦で、おおよそ南北10キロを細長くなだらかに下る。この3段の段丘面は3回に渡る土地の隆起によるものと言われる。





○相模原台地
相模原(相模野)台地は、多摩丘陵と相模川に挟まれた地域に広がる台地。相模川中下流部の左岸に位置し、主に相模川の堆積作用によって形成された扇状地に由来する河成段丘である。大きく分けて3~5段、詳細には十数段の段丘面に区分される。台地の大部分は古い順に相模原面群(高位面)、中津原面(高位面)、田名原面群(中位面)、陽原(みなはら)面群(低位面)に分けられる。(中略)台地上は相模川によって運ばれた堆積物だけでなく、富士山や箱根山などからの噴出物を中心とする火山灰層(関東ローム層)によって覆われている(Wikipediaより)。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)


桜坂
終点の愛川バスセンターから中津原段丘面と中津川とのギャップを感じるべく県道65号を北に少し進み、箕輪交差点を左に折れ県道54号を台地端の崖線に向かう。成り行きで西に向かうと崖線上から中津川へと下る坂道に出る。崖下の下之街道に下る坂は結構急勾配の坂道である。比高差も20m以上もありそうだ。
その坂道の取っ付き部に案内板。この坂道の名は「桜坂」とのこと。説明板によると古くは「刺坂」と呼ばれていたそうで、刺はあて字で本来は焼畑耕作を意味する「サス」とのことです。その昔、字蔵屋敷あたりは焼畑地であり、そこへ通じる坂道ということで「サス坂」となった。
また、小沢城の姫が落城に際し、身をはかなみ坂下の大沼に投身した。そのおり、悲嘆にくれた供の者がここで胸を刺して自害した。それで刺坂の名が起こったのだと言う伝説もあるそうです。傾斜の急なこの坂は古来より人や馬が災禍をこうむることが多かったので、不吉な刺坂の名を忌み、明治36年桜坂に改称されました。愛川町教育委員会」とあった。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

姫の松
坂を下ると道脇に合掌タイプの双体道祖神が祀られている。程よく風化しいい感じのお地蔵様となっている。手を合わせて道を進むと高峰村役場跡の石標があり、その斜め前に「姫の松」の碑が立っていた。

説明板によると、「かつてここは底なしと呼ばれた大沼で岸辺には姫の松という老松があったそうです。遠い昔、相模川べりの小沢城には美しい姫がいて、戦国乱世で落城した際、悲運にみまわれた姫は侍女ともども城を出て、ここまで逃れてきたが身の行く末をはかなんで自ら大沼に身を投げて果てたとのこと。姫の松はそのとき岸辺につきさしてあった姫の杖が根付いたとも、姫の死を憐れんだ土地の人が植えたものとも伝わる。現在の松はその遺名を継ぐ樹である (愛川町教育委員会)」とあった。

○高峯村
高峰村(たかみねむら)は、かつて愛甲郡にかつてあった村である。明治22年(1889)4月1日 - 町村制が施行され、角田村と三増村が合併し高峰村となったが、昭和30年(1955)1月15日に愛川町(旧)と合併し、愛川町となった。

○小沢古城
相模川中流域、県道54号に架かる高田橋が相模原市田名と愛川町を結ぶ愛川側の丘陵上に小沢城と小沢古城がある。この地は八王子と小田原をむすぶ街道の相模川渡河地点であり、街道監視の要衝として重要な地点であった。
小沢古城は平安末期に横山党の小沢氏が館を築いたことに始まる。松姫は小沢古城の主、小沢太郎の息女とのこと。その小沢氏は和田合戦において横山党とともに滅び、その後を大江氏が領したとのこと。室町になると小沢城は長尾景春の家臣金子掃部助がこの城に入り、扇谷上杉氏の太田道灌と戦い落城。その後北条氏が街道監視の出城として機能した、と。
時代はずっと下って戦後。農地解放で沼が小作人に田圃になる。が、その持ち主のひとりが怪我をすると、占いによりその因が松姫の供養が足らない故とのこと。既に沼がどこにあったかも不明であるため、碑をたて松を植え松姫を供養することになった、とか。

地神社
松姫の碑から少し進んだところに地元の案内の地図があった。そこに「地神社」といった社が目に入った。「地」などと素朴な名称の社が如何なるものかと訪ねることに。崖下の畦道を進もうとしたのだが、なんとなくアプローチが不安になり、結局桜坂を上り直し台地面から下ることに。
坂を戻り、ヘアピンの急坂をくだり「地神社」に。予想以上のしっかりした構えの社であった。案内によれば、「神社改築の誌:昭和47年(1972)、集中豪雨により裏山が土砂崩れ。中宮大破。人畜に被害なきは地神さまのご加護、犠牲によると箕輪地区の住民感謝。裏山の砂防工事を3年に渡り完成。その後も再建の声高く浄財をもとに、昭和50年5月本格的に再建着手。9月に完成」とあった。
縁起など不明のためチェックすると、「地神社」という社は全国にあるようだ。社の祭神は埴山姫命(はにやまひめのみこと)。伊邪那美命の大便から生まれたとされる。「埴」は粘土、それも祭具を造る土であるが、大便から赤土を連想した命名であろう、か。とはいうものの、埴山姫命は『日本書紀』での表記であり、『古事記』には「波邇夜須毘売神」と表記される。ともあれ、土の女神、ひいては、田畑の神、陶磁器の神とされる。
神社の脇の坂に「宮坂」と刻まれた石碑。地神社から箕輪辻付近に至る坂であり、名前は神社に由来する。

横須賀水道道路・半原系統
地神社を離れ往昔、中津川の氾濫原ではあったであろう耕地を中津川方面に出る。そこには一直線の道。「横須賀水道道路」である。横須賀の海軍工廠をはじめとする海軍施設や艦船の補給水として用いられた。
Wikipediaによれば、「日露戦争後の軍備増強の結果、走水系統では供給が間に合わなくなった。海軍当局は、愛甲郡愛川町半原石小屋地区の中津川に取水口を設け、約53km離れた横須賀まで20インチの鋳鉄管を使用し、落差約70mの自然流下による半原系統の建設工事を1912年(明治45年 / 大正元年)に着手、1918年(大正7年)10月に通水開始した。(中略)
今日この水道管が埋設されている土地は横須賀水道道、横須賀水道路、横須賀水道みち、あるいは単に水道みちと呼ばれ、国土地理院の地形図にも「横須賀水道」として表示されている。ただし水道専用橋の上郷水管橋を始め、至る所で通行不能な場所が存在している。
この半原系統の経路は詳細な市街図で以下のように容易に辿ることができる。 愛川町の宮ヶ瀬ダム近くにある半原浄水場から中津川沿いを通り、内陸工業団地のそばを経由して厚木市に入り、国道129号・国道246号をほぼ一直線に横切り、向きを変えて相模川を上郷水管橋で渡る。
海老名市に入るとアツギの敷地を切り取り海老名SAの北側(吉久保橋)を通り、綾瀬市まで起伏の上下に関わらずほぼ一直線に通り、藤沢市に入るといすゞ自動車の敷地内を通り抜けて、国道1号を越えるまで藤沢市内を再びほぼ一直線に通る。鎌倉市に入り由比ヶ浜駅の前を通り水道路交差点を過ぎたあたりから横須賀線と並走して逗子市を通り、横須賀市の逸見浄水場に至る。なお、この半原系統の取水は2007年(平成19年)より停止されている」とある。
説明を補足すると、走水とは京急・馬掘海岸駅近くの走水海岸の辺りにある湧水池。また、半原系統の取水は年平成19年(2007)より停止されている、とあるが、半原取水口、半原沈殿地や逸見浄水場は現存しており、大正10年完成の逸見浄水場内には、平成17年(2005)7月12日、国指定の有形文化財に登録された施設が残っている。

○水道坂・弁天坂
横須賀水道道に立ち、一直線の上流と下流を眺める。下流の上熊坂方面には上りの坂が見える。水道坂と称する。また、上流の「中の平」方面にも弁天坂が上る。上の説明で横須賀水道道は自然流下での通水とあったが、このようなアップダウンがあるところはどのようにしているのだろうとチェックすると、開水路では順勾配(ずっと下り)である必要があるが、管路(管水路)の場合は入口より出口の方が低ければ良い、ということで、通水途中での多少のアップダウンは問題ないようである。
巷間伝わるに、中津川の水は道志川の水とともに、「赤道を越えても腐らない」水であった、とか。ために日本海軍が重宝し、この軍港水道ができたとのことであるが、同様の話が横須賀と同じく海軍拠点となる鎮守府の呉にも伝わるようである。

角田八幡神社
水道道を進み、崖線下を湿地を避けて通していたのであろう下之街道が右手から合流する辺りを越え、弁天坂を上ると「中の平」の集落に角田八幡神社がある。鳥居をくぐり、ケヤキ、カゴの木、銀杏の巨木、また、愛川町天然記念物指定のタブノキ(途中で折れている)などの巨木の繁る境内に。神仏集合の名残か鐘楼も残る。
社殿にお参り。社の祭神は誉田別命 ( ほむたわけのみこと )。15代応神天皇のことである。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると角田村の鎮守で、神体は銅像および円石で、天正19年(1591年)に社領二石の御朱印を賜ったとのこと。東照宮が境内摂社にあったが、御朱印と関係あるのだろう、か。

それはそれとして、この社の裏手には江ノ島の岩屋に繋がる穴があると伝わる。穴がどこにあるのか案内もなく不明であるが、八菅修験の行者道でメモしたように、大山修験の行所である塩川の谷には、江ノ島の洞窟と繋がるとの伝説がある。中津川の川底には洞窟があり江ノ島の洞窟と繋がっており、江ノ島の弁天さまが地下洞窟を歩き、疲れて地表に出て塩川の滝の上流の江ノ島の淵まで歩いていった、との話であるが、この穴も弁天様が疲れて地表に出た縁起の一環ではあろう、か。軍港水道道に突然「弁天坂」が登場したものこの縁起に関係したものだろう、か。
ついでのことではあるが、軍港水道道は八幡さまの先で道から離れ、一度台地の方に向かい、少し進んで角田大橋の少し先で再び水道道路に戻る。昔は道路もなく、地盤も弱かったため水管は迂回して通したとのことである。

○福泉寺
境内北端にはお堂があり福泉寺とあった。曹洞宗のお寺さま。愛甲郡制誌には開創は文禄2年(1593)とある。入口に石標があり、ここには角田学校(養成館第一支校)跡とのこと。明治6年(1873)に寺の建物を借りて開校、明治27年(1894)高峰小学校に統合しまた。境内片隅には地蔵菩薩と光明真言供養塔が並んでいる。

市杵島神社
角田大橋を越え弁天坂を下った辺りに市杵島神社。ささやかなる祠が祀られる。 祠の脇の案内には、「伝説 弁天社と弁天淵 ここの裏手の中津川の淵底は、江の島の弁天さまの岩屋まで穴で通じているうえ、なお、その穴は西にのび、半原、塩川滝上の江の島淵の底まで至っているという。
むかし、江の島の弁天さまが、岩屋から穴伝いに江の島淵に向われたとき、あまりにも疲れたので、ひとまずここの淵に浮かびあがりからだを休めた。そのおり、弁天さまのお姿を見つけた村人たちは「もったいないことだ」と伏し拝み、淵の上の森に社をたててお祀りしたという。これが、今の弁天社で、裏手の淵を弁天淵と呼ぶようになった。
また、この淵が江の島に通じていることから、満潮のときには海の潮がここまでさしてくるといわれている。(愛川町教育委員会)」とあった。

上で角田八幡の縁起でも江ノ島の弁天様の逸話をメモしたが、どうやらこの社が弁天様縁起の本家本元のようである。市杵島神社(いちきしまじんじゃ)、または市杵島姫神社(いちきしまひめじんじゃ)は、宗像三女神の市杵島姫神を主祭神とする神社であり、市杵島姫神は仏教の弁才天と習合したことから、通称で弁才天(弁財天、弁天)と呼ばれている神社が多いと(Wikipedia)言うことであるから、筋は通っている。弁天坂の由来も、角田八幡ではなく、こちらの社のものかとも思い直す。江ノ島から歩いてきた弁天様は一度この地の「弁天淵」で姿を現し、再び中津川の川底に続く洞窟を塩川の谷の「江ノ島淵」まで辿っていったのだろう。

○江ノ島の弁天さま
弁天様は七福神のひとりとして結構身近な神として、技芸や福の神、水の神など多彩な性格をもつ神様となっているが、元々はヒンズー教のサラスヴァティに由来する水の神、それも水無川(地下水脈)の神である。弁天様が元は地下水脈の神であったとすれば、江ノ島の弁天様が中津川の川底を歩いてきたという話はそれなりに筋の通った縁起ではある。
この縁起の意味するところは何だろう?チェックすると、弁天さまって、我々が身近に感じる七福神とは違った側面が見えてきた。弁天様って二つのタイプがあるようで、そのひとつは全国の国分寺の七重の塔に収められた「金光明最勝王経」に説く護国鎮護の戦神(八臂弁才天)であり、もう一つは、空海が唐よりもたらした真言密教の根本経典である大日経に記され、胎蔵界曼荼羅において、琵琶を奏でる「妙音天」「美音天」=二臂弁才天。いずれにしても結構「偉い」神様のようである。
江ノ島に祀られた弁天さまは二臂弁才天。聖武天皇の命により行基が開いた、とも。聖武天皇は国分寺を全国に建立した天皇であり、その国分寺の僧の元締めが東大寺。東大寺初代別当良弁は大山寺開き初代住職となる。大山寺三代目住職とされる空海も東大寺別当を務めたことがある。ということで、すべて「東大寺」と関係がある。
で、東大寺で想い起すのが「二月堂」のお水取り。二月堂下の閼伽井(若狭井)は若狭(福井県小浜市)と地下で結ばれ神事の後、10日をかけて地下水脈を流れ二月堂に流れ来る、と。大山寺の初代別当である良弁(相模の出身)は八菅山光勝寺を国分寺の僧侶の大山山岳修行の拠点としたと言われる。東大寺の二月堂の地下水脈の縁起を、江ノ島から中津川を遡った塩川の谷に弁天様が辿るって縁起を整え、その地に修験の地としての有難味を加え、中津川・塩川の谷に大山山岳修験の東口として重みを持たせたのであろう、か。単なる妄想。根拠なし。

中津川台地の高位段丘面
中津原台地の段丘面と中津川によって削られた段丘崖の「ギャップ」を見るため下った中津川沿いの集落で、江ノ島の弁天様の縁起ゆかりの地に出合い、思いがけない幸運に成り行き任せの散歩の妙を感じながら、再び台地上の段丘面に戻る。台地から田代の環流丘陵を見下ろすためである。
地図で確認すると角田八幡神社方向に少し戻らなければ、台地上の段丘面へと上る道はないようである。少し道を戻り、成り行きで道を進み段丘面に。ルートは出来る限り崖線に沿って進むことにする。ついでのことでもあるので、中津川を越えた対岸の「屋形山」の崩れ具合を見ることができるかな、といった想いではある。


八菅修験の第三行所であった「屋形山」は採石場となり消滅している、とのこと。先日の八菅修験の行者道散歩で山裾から、その崩れ具合を見てはいたのだが、対岸の台地上から再度確認してみよう、との思いである。予想通り、採石されている一帯は、周囲と山肌の色は異なり、山容は残っていなかった。

中央養鶏場
ずっと台地の崖線上を進もうと思ったのだが、台地を削る沢(深掘沢)があり北に進まなければ沢を渡る橋もない。成り行きで北に進むと巨大な養鶏場群の中に紛れこんだ。辺り一帯すべてが養鶏場である。地図には中央養鶏場と記されていた。昭和32年(1957)設立と言うから、50年以上の実績を誇る農業協同組合によって運営されているようである。

辻の神仏
養鶏場の「工場地帯」を抜け、北の山容を眺めると、一度見た景色のように思える。実のところ、思わず知らず、三増合戦の地に足を踏み入れていた。数年前のことになるが、武田信玄と小田原の後北条が戦った三増合戦の地を訪ね、この三増の地から三増峠を越えたり、志田峠を越えたりしたのだが、この地は将にその時に彷徨った一帯であった。
田代の集落から台地を上り台地を横切り、県道65号・三増交差点に向かって東に続く車道に出る。その車道を左に折れ、台地を削る「深掘沢」を越えて少し進むと道の北側に幾つものお地蔵様を祀られていた。案内によると、「辻の神仏 辻(岐路)はそれぞれの地域への別れ道であるため(最寄)の境界となっていることが多い。そのうえ、この境目は民間信仰において季節ごとに訪れる神々を迎える場所でもあり村落へ入ってくる悪魔や邪鬼を追い払う所でもあった。そのため、いつしか祭りの場所としての特殊な考え方が生じ、いろいろな神仏をここへ祀るようになった。この辻にあるのは「馬頭観音」「如意輪観音」「観音地蔵供養塔」「聖徳太子供養塔」「庚申供養塔」「弁財天浮彫坐像」「舟形浮彫地蔵像」などである。平成9年(三増中原町内会。愛川町教育委員会)」とあった。


三増合戦場の石碑
お地蔵様にお参りし、道を西へと向かうと三増合戦場の石碑と案内が現れた。案内によれば、「三増合戦のあらまし 永禄12(1569)年10月、甲斐(今の山梨県)の武田信玄は、2万の将兵をしたがえて、小田原城の北条氏康らを攻め、その帰り道に三増峠を選んだ。
これを察した氏康は、息子の氏照、氏邦、娘の夫綱成らを始めとする2万の将兵で三増峠で迎え撃つことにした。ところが武田軍の近づくのを見た北条軍は、半原の台地上に移り体制を整えようとした。
信玄は、その間に三増峠の麓桶尻の高地に自分から進み出て、その左右に有力な将兵を手配りし、家来の小幡信定を津久井の長竹へ行かせて、津久井城にいる北条方の動きを押さえ、また山県昌景の一隊を韮尾根に置いて、いつでも参戦できるようにした。北条方は、それに方々から攻めかけたのでたちまち激戦となった。そのとき、山県の一隊は志田峠を越え、北条軍の後ろから挟み討ちをかけたので、北条軍は総崩れとなって負けてしまった。この合戦中、武田方の大将浅利信種は、北条軍の鉄砲に撃たれて戦死した。
北条氏康、氏政の親子は、助けの兵を連れて荻野まで駆けつけてきたが、すでに味方が負けてしまったことを知り、空しく帰っていった。
信玄は、勝ち戦となるや、すぐに兵をまとめ、反畑(今の相模湖町)まで引き揚げ、勝利を祝うとともに、敵味方の戦死者の霊をなぐさめる式を行い、甲府へ引きあげたという(愛川町教育委員会:看板資料より)」とあった。

三増合戦のあれこれは、数年前辿ったときの、三増峠越え、志田峠越え、信玄の甲州への帰路の散歩メモを参考にしていただくことにしてここでは省略するが、この三増合戦の碑を目安に志田峠へと向かったことは数年前のことではあるが、はっきりと憶えている。三増峠越えで道を間違い山道を東へと相模川に向かった直後のことであり、果たして志田峠を無事越えることができるものかと不安一杯であったのだろう(実際の志田峠越えは嶮しくもなく、すんなりと越えることができた)。


志田南遺跡出土遺物
三増合戦の碑の脇に「志田南遺跡出土遺物について」の案内があった。「平成10年正月5日、ここから東へ130メートル程の桑畑の中、「塚場」と呼ばれる地点で、人骨及び六道銭が発見されました。この周辺は北条・武田の二大戦国大名が戦った三増峠合戦主戦場ということもあり、戦死者の骨である可能性があります。鑑定の結果、骨の主は筋肉が良く発達した壮年後半の男性であることが分かりました。また、一緒に出土した銭は全て中世の渡来銭でした。地元では「相模国風土記稿」に見える北条氏の家臣間宮善十郎の墓であるとの説もあり、三増合戦場碑の傍らに埋葬することにいたしました」とある。

案内のタイトルを見たときこの地に古墳でもあったのだろうかと思ったのだが、実際は合戦で亡くなった将士を弔う碑であった。昔から畑の中に塚のような土堆が三カ所あり、耕地所有者の願を受けた有志が一カ所に集め懇ろに弔っていたものが、行政レベルまでに到り、「三増合戦まつり実行委員会」の設立にともないこの碑ができたようである。

首塚
台地を下るべく更に西へと道を進む。再び台地を刻む「志田沢」を越える。「志田沢」に沿って進んだ志田峠越えが懐かしい。志田沢を越え先に進むと、道の一段高いところに小祠と案内がある。足を止めて案内を見ると「首塚」とあった。「不動明王を祀る小高い所を首塚という。宝永3(1706)年建立の供養塔がある。このあたりは、三増合戦(1569)のおり、志田沢沿いに下ってきた武田方の山県遊軍が北条軍の虚をつき背後から討って出て、それまで敗色の濃かった武田方を一挙に勝利に導くきっかけをつくったところという。
この戦いのあと、戦死者の首を葬ったといわれるのが首塚であり、県道を隔てた森の中には胴を葬ったという胴塚がある。なお、三増合戦での戦死者は北条方3269人、武田方900人と伝えられる」とあった。

三増合戦の時、志田沢は戦死者の血で染まり「血だ沢」などと称されたとも言われる。ために合戦後、戦死者の首を葬ったこの首塚であるが、江戸の頃幽霊騒ぎが起こり、供養塔を建てたところ騒ぎは収まった、とか。その供養塔は今も首塚のところにあると言う。

数年前、三増合戦の地を辿ったとき、この首塚には出合うことなかった。あれこれ考えるに、三増合戦散歩の際のアプローチは、三増峠越えには本厚木からバスで県道65号を直接「上三増」バス停へと向かいそこから直接北に向かって峠を越え、また志田峠の時も「上三増」バス停から「三増合戦の碑」までは歩いて来たのだが、そこから北へと志田峠へと向かっており、この田代から台地を上がるルートは通っていなかったようである。

胴塚
首塚の説明にあった胴塚を訪ねる。場所は首塚から車道を少し田代方向へと下った志田沢脇にあった。案内には「永禄12(1569)年10月、当町三増の原で行われた「三増合戦」は、甲州の武田、小田原の北条両軍が力を尽くしての戦いだったようで、ともに多くの戦死者が出た。そのおり、討ち取られた首級は、ここから150メートルほど上手の土手のうえに葬られ「首塚」としてまつられているが、首級を除いた遺骸は、すぐ下の志田沢の右岸わきに埋葬され、塚を築いてそのしるしとした。この地では、それを「胴塚」と呼び、三増合戦にゆかりのひとつとして今に伝えている」とあった。

田代の環流丘陵
胴塚から舌状に突き出た上原の台地の坂を南に下り、折り返して崖線に沿って田代へと坂を下る。道の左手には本日の目的地である環流丘陵が田代の集落の中にぽつんと聳える。
坂を下りきり、環流丘陵の周囲を、ぐるっと一周することに。如何にも水路跡らしき道筋をぐるりと一周し、あれこれ思う。環流丘陵とは流路の変更により、旧流路と新流路の間に取り残された、独立丘陵のことを言う。いつの頃か、遙か昔のことではあろうと思うが、丘陵の東、上原の台地との間を流れれていた中津川が、なんらかの原因によりその流れを現在のように丘陵の西を大きく迂回するようにその流れを変え、そのため取り残されることになったわけであろう。


一応本日の目的地はゲットしたのだが、いまひとつ中津川の流れと沖積地としての田代の集落、そしてその中の環流丘陵といった全体の姿が見えてこない。全体を俯瞰することも兼ね、対岸の清雲寺まで足を伸ばし、対岸の丘陵から還流丘陵を俯瞰すことにする。

船繋場跡
清雲寺に向かう前に、先回、田城半僧坊まで足を伸ばしながら準備不足で見逃しが「平山橋」を訪ねることに。
成り行きで道を進むと「船繋場跡」の石碑。「昔はこの近くを中津川が流れており、ここに舟を繋いで出水に備えた。また、非常の時のために、番小屋もあったとゆう」とあった。
この中津川の流れが旧流路のことか、新流路のことか、どちらかわからない。が、流路変更が近世になってからのこととも思えないので、新流露として考えてみるに、現在の流れは「船繋場跡」から少々離れている。
とは言うものの、流れが蛇行するようになれば、流れの外側の流水の速度は速くなり、それゆえに更に侵食が進む。一方、流れの内側は、外側に比べて流水速度が遅くなり、上流からの砂礫が堆積が進むことになる。そのため、河川はさらに大きく蛇行するようになるわけで、結果的に「船繋場跡」と中津川の流れが開いたのかもしれない。単に護岸工事故の理由かもしれず、単なる妄想であり、根拠なし。

「水道みち」の石碑
「船繋場跡」の先の交差点近くに「水道みち」の案内石碑。先ほど角田で出合った、横須賀軍港への水を供給していた水管が埋められている道筋がここに続き、この田代の交差点から上流の馬渡橋へと向かう。

平山橋
田代の交差点から中津川に架かる「平山橋」に。橋脇の案内に「平山橋は、大正2年に全長の3分の1にあたる左岸側のみが鉄製、それ以外は木製の姿で開通しました。全てが鉄製になったのは大正15年のことです。
先の大戦末期には、米軍機の銃撃を受け、構造材の各所に弾痕を残すなど、町域に残る数少ない戦災跡の1つとなっています。下って平成15年1月、「平山大橋」の開通に伴い、幹線道路設置としての任を終え、その後は人道橋として利用されています。
平成8年の文化財保護法改正により、近代建造物保護の制度が新たに設けられました。これにより平成16年11月8日、平山橋は国の登録有形文化財となり、町に残る近代化遺産として保存されることになりました」とあった。

この橋はリベット構造トラスト橋(リベットを使用して、トラスと呼ぶ、三角形をいくつも組み合わせた枠組みの構造でできた鉄橋)。明治の頃によく使用された工法と言う。説明にもあるように、左岸1連の鋼製トラスと右岸2連の木造トラスで開橋し、大正15年(1926)には木造トラスを鋼製トラスに架け替えた、とのことである。
米軍の機銃掃射を受けたという弾痕などを眺めながら、なにゆえこんな山間の地へと米軍機が来襲したのかとのことだが、現在内陸工業団地となっている中津原台地一帯(中津原台地中位段丘面)は昭和16年(1941)に陸軍の相模陸軍飛行場ができたとのことであるので、その飛行場への来襲の余波とでもいったものではなかろうか。

中津神社
平山橋を離れ、清雲寺に向かうべく県道54号を馬渡橋方面へと向かう。と、中津神社があった。県道から続くちょっと長い参道を進み社にちょっと立ち寄り。境内に入り拝殿にお参り。拝殿脇には稲荷社などの境内摂社がある。
鳥居脇に社の案内がある。「勧請年不明なるも、文治の頃より存在すること記録に残る。文治年間は後鳥羽時代で約811年前。その後、この地毛利の庄たり。永亨年中、北条長氏伊豆に興り、その後本州に威なり。弘治3巳卯年本村及び近傍の其臣内藤下野守秀勝の所領となる。依って内藤氏は字上田代富士山麓なる天然の要地を囲み城を築きて居住す。而して本神社を氏神として信仰せられたり。内藤氏居を本地に定めらるるや、次第に住民も増加し、神社の尊厳を高め、祭祀の方法も定まれり。
往時は中津川清流の中心にして、孤嶽をなしており、孤嶽明神と唱え、御祭神は大日?命を祀り、旧田代村の鎮守たり。
境内に東照宮、八坂社、稲荷社、金毘羅社の4社を祀る。東照宮は天正年中(423年前)入国の節、又左衛門外二名なるもの三河国より供仕の由緒により勧請。明治6年示達に基づき部内に存在する八幡神社、日枝神社、浅間神社、蔵王神社の合祀し、祭祀の方法を確立し永遠維持の基礎を定めて中津神社と改称され、殊に合祀社の内、八幡神社、浅間神社は内藤氏の守護神として武運長久を祈願せられ、殊に八幡神社には二石の御朱印を下し賜った。
また当社は中津川流域の中心にし、孤嶽を残し中洲をなして曾て洪水の被害を受けたことなし。中津の称、これより来る。
爾来、諸般の設備ととのい、基本財産確立せるにより、大正4年、神奈川県告示をもって村社に昇格する。戦後昭和21年届け出により宗教法人となる」とあった」とある。
少々長く、かつ明治の頃の説明が相前後してちょっとわかりにくい。毛利の庄は後にメモすることにして、簡単にメモすると、北条長氏こと北条早雲により小田原に後北条が覇を唱える。その家臣である内藤下野守秀勝がこの地を領した。秀勝は上田代、馬渡橋の東岸の要害の地に田代城を築き、この社を氏神とする。その後の「又左衛門外二名なるもの三河より云々」は不詳。
更に、明治の頃の説明に「内藤氏の守護神として武運長久を祈願せられ、殊に八幡神社には二石の御朱印を下し賜った」とは、少々わかりにくい。この説明は明治の合祀の説明の流れではなく、明治に合祀された八幡神社が内藤氏の守護神であり、徳川の御世に御朱印を下賜された、ということだろう。因みに内藤氏は津久井城主の内藤氏の一族であり、三増合戦の折、城は落城したとのことである。また、内藤氏は小田原北条氏の滅亡に順じたと言い、その後の消息は不明である。

○毛利の庄
厚木やその東の海老名の辺りは古代、相模国愛甲郡と呼ばれる。国府は海老名にあった、よう。国分寺は海老名にあった。古代の東海道も足柄峠から坂本駅(関本)、箕輪駅(伊勢原)をへて浜田駅(海老名)に走る。この地は古代相模の中心地であったのだろう。
平安末期には中央政府の威も薄れ、各地に荘園が成立する。この地も森の庄と呼ばれる荘園ができた。で、八幡太郎義家の子がこの地を領し毛利の庄と呼ばれるようになる。12世紀の初頭になると、武蔵系武士・横山党が相模のこの地に勢力を伸ばす。和戦両面での攻防の結果、毛利の庄の南にある愛甲の庄の愛甲氏、海老名北部の海老名氏、南部の秩父平氏系・渋谷氏をその勢力下に置いた。
鎌倉期に入ると相模・横山党の武将は頼朝傘下の御家人として活躍し、各地を領する。頼朝なき後、状況が大きく動く。北条と和田義盛の抗争が勃発。相模・横山党はこぞって和田方に与力。一敗地にまみれ、この地から横山党が一掃される。毛利の庄を領した毛利氏も和田方に与し勢力を失う。
主のいなくなった毛利の庄を受け継いだのが大江氏。頼朝股肱の臣でもあった大江広元より毛利の庄を受け継いだその子・大江季光は姓も毛利と改名。安芸の毛利の祖となったその季光も、後に北条と三浦泰村の抗争(宝治合戦)において、三浦方に与し敗れる。ちなみに、安芸国の毛利は、この抗争時越後にいて難を逃れた季光の四男経光の子孫である。

馬渡橋
道なりに北西に進むと中津川に架かる馬渡橋。橋には中津川を渡る水道管が見える。横須賀水道の導水管である。馬渡橋の由来は、橋を隔てて中津川の両岸の台地に築かれた田代城と細野城の将士が馬で行き来した故とのこと。今でこそ上流に宮ヶ瀬ダムがあり、流れも緩やかではあるが、往昔水量豊かで船運の往来もあったと言うので,人馬の渡河などできたのだろうか。



木戸口坂
馬渡橋を渡ったところにある「馬渡橋バス停」でバスの時刻を確認し、最後の目的地である清雲寺へと向かう。それほど時間に余裕があるわけでもなく、結構の急ぎ足となる。
橋を渡り少し進んだところで県道54号を左に折れる道に入る。折れるとすぐに道は分岐するが、右に上る道脇に「木戸口坂」の石碑。「ここから忠霊塔の脇を経て昔あったという細野城木戸口あたりへ至る坂をいいます」とあった。細野城も田代城と同じく内藤氏の一族の城であったとのことである。

馬渡坂
清雲寺へは左の坂を上る。「馬渡坂」と刻んだ石碑がある。「愛川町町役場半原出張所脇から国道412号に至る坂」とある。国道412号もこのあたりはバイパスとなり半原の町を迂回して台地を上るわけで、それほど昔の道ではない。ということは、この「馬渡坂」も最近命名されたものだろうか。石碑の説明だけからの推測ではあるので全くもって根拠なし。

清雲寺
坂を上り国道412号を越え、急ぎ足で台地上の清雲寺に向かう。入口に六地蔵。境内には豊川稲荷堂や不動堂が祀られる。臨済宗建長寺派の本堂にお参り。開山は鉄叟慧禅師、開基は内藤三郎兵衛秀行とのこと。
内藤三郎兵衛秀行は田代半僧坊の開基の武将でもあり、武田信玄との三増合戦の時には田代城に詰めたと言われる。城が落城した後、秀行は剃髪したとの伝承もあるようだが、そもそも田代城攻略戦が行われたか否か自体が不明である。

○一背負門

境内を台地端へと向かう途中に山門があり。そこに案内板。「神奈川のむかし話五十選 ひとしょい門;むかしむかし、このあたりに善正坊という大力の坊さんがおった。あるとき中津川べりの材木集積場にゆき、山門の材料にする、ケヤキがほしい旨を申しいれたところ「一人で背負えるだけの量なら、ただでやろう」と木流しの役人は心よくその願いを許した。
すると善正坊は山門建立に必要な材木を山のように積みあげ驚き呆れる役人をしり目に、ひと背負いで此の処まで運んできてしまったという。この山門はその材木でつくられたので、いつの間にか「ひとしょい門」と呼ばれるようになった」とあった。

一背負門をくぐり、台地端に向かい田代の還流丘陵を眺める。大きく湾曲する中津川、中津川の流れにる砂礫などにより形成されたであろう田代の沖積地、そしてその中央に緑の丘陵地が一望のもと。これで今回の散歩は終了。急ぎ足で馬渡橋のバス停に向かい、一路家路へと。