水曜日, 10月 31, 2007

多摩丘陵西端の川筋を歩く:奈良川・恩田川から境川へ

先日、鶴川からJR横浜線・中山に向かって下った。途中、奈良川、そして恩田川に出会った。奈良川源流あたりの谷戸ってどんな景観だろう。また、恩田川流域は鶴見川に負けず劣らず、宅地化が急激に進んだところ、という。これまた、どのような景観が開けるのだろうか。ということで、今回は多摩丘陵西端近くを開析するふたつの川筋、奈良川と恩田川を巡る。そして、そのあとは丘陵西端を越えて相模原台地に進むことに。(2007,210月のブログ修正)


本日のルート;小田急線・玉川学園前>南口>玉川学園7丁目>奈良町第三公園>奈良町第二公園>奈良川源流部>協和緑病院>奈良町第四公園>奈良保育園前>鶴川街道・こどもの国西口交差点>こどもの国駐車場南を西に>奈良川・こどもの国線交差>奈良1丁目・奈良山公園南端>T字路>尾根道に上る>尾根道を北に>奈良5丁目・成瀬台4丁目>成瀬台4丁目>東玉川学園2丁目>昭和薬科大学・町田キャンパス>キャンパス南端を西に>かしの木山自然公園>南大谷中学>恩田川>恩田川自転車歩行者専用道路>小田急線交差>桜橋>稲荷坂橋>恩田川分岐>日向山公園脇>本町田東小学校脇>親水公園>今井谷戸>鎌倉街道を南に>木曽団地東交差点を西に>恩田川分流の源流・湿地帯・調整池>本町田小学校脇>町田街道>境川橋>JR横浜線・古淵駅

小田急線・玉川学園前駅
少々の雨模様の中、奈良川の源流点に近い、小田急線・玉川学園前駅に。南口に下りる。駅前に台地が迫る。谷戸・丘陵の広がるこの地を開発したのは玉川学園の創設者。地価の安い「原野」を開発し、駅をつくり地価を上げ宅地を売り出し、学園建設資金にまわした、という。たしか、駅の建設費用も学園が負担したとか、しないとか。阪急電鉄の小林一三翁といった電鉄会社の経営手法が頭によぎった。
で、ふと何故「玉川学園」なのか気になった。創設者は小原さん、ということだし、玉川という言葉との関連は?小原さんって、世田谷の成城学園にも関係していた方である。世田谷には二子玉川など、「玉川」が多い。それが学園命名の由来だろう、か。
それにしても、そもそも何故「玉川」であり、「多摩川」でないのだろう?「玉川」と「多摩川」の違いは?気になりチェック。大きな思い込み・勘違いがわかった。大河・多摩川のその存在の大きさ故に、多摩川が「本家」で「玉川」が分家、と思っていたのだが、どうもそうではないらしい。「多摩川」は明治になるまで「玉川」と呼ばれていいたようだ。多摩川の羽村で取水され、江戸まで引かれた上水が「玉川上水」であり、「多摩川上水」でない理由がよくわからなかったのだが、江戸時代、「多摩川」はなく「玉川」が流れていた、とすれば、至極あたりまえのことである。
玉川が多摩川となった経緯は定かではない。が、思うに、明治26年、多摩三郡(北多摩、南多摩、西多摩)が神奈川から東京に移管されたことがきっかけ、ではなかろうか。そもそも三多摩の東京への移管は、東京の上水地の水源である、とも言われる。水源地である多摩郡に「敬意」を払い、玉川を多摩川としたのではないか、との説もある。玉川って、玉=清らかな・宝のような川、である。玉川学園、って、そういった清らかな大河、に由来するのだろうか。まったくの根拠なし。

奈良川の源流域
駅前の台地を上る。玉川学園7丁目あたりの台地上の道を進み、玉川学園の敷地方向に。敷地に沿った車道を台地から下り、奈良川の源流点に向かう。源流点とはいうもの、車道の周囲は住宅街である。前方は奈良北団地、学園奈良団地の高層マンションであろう。
坂を下り奈良町第三公園で左折、宅地に入る。先に進み奈良町第二公園。その先は深く落ち込んでいる。典型的な谷戸の景観。坂道を下る。細い水路が流れている。奈良川の源流域、であろう。水路は北に向い玉川学園のほうに続いているのだが、フェンスに囲まれよく見えない。少し北に進むが、学園にそって急な石段が続く。どうも、これ以上進めそうもない。源流点さがしはここでストップ。Uターンし、奈良川を下ることに。

土橋谷戸
奈良町第二公園あたりまで戻る。道は川筋から少し離れる。いい風景。里山、というか穏やかな谷戸の景色が広がる。「土橋谷戸」と呼ばれているようだ。しばらく歩くと「緑協和病院」。道は五差路となる。奈良町第四公園脇を奈良川にそって下る。東の台地上はTBS緑山スタジオ。奈良保育園前交差点を越え、奈良小学校を西に見ながら進み鶴川街道・こどもの国西側交差点に。奈良保育園前交差点を西に進めば、先ほど奈良川源流に向かって下ってきた玉川学園脇の坂道に続く。

国西側交差点・鶴川街道

こどもの国西側交差点からはしばらく鶴川街道を進む。歩道が整備されていないので、通過する車が怖い。こどもの国駐車場、こどもの国線・こどもの国駅を越える。西に奈良山公園の緑。西に向かって川を越えたいのだが、なかなか橋がない。また、橋があっても線路で行き止まり。結局、住吉神社手前まで、引っ張られることに。住吉神社前交差点を西に折れ奈良山公園の南端に沿って進む。少し歩くと、大きな道筋。先ほどの「こどもの国西側交差点」から南に下る道筋である。先に進むと、先日歩いた恩田町の「子之辺神社」の西に通じている。

奈良尾根緑地

宅地開発されたばかり、といった街並みの中を南に下る。西に台地が見える。なんとか台地に上りたい、とは思えども道がない。結局、奈良3熊ケ谷公園あたりまで歩くことになった。西に通じる車道が通る。交差点を折れ、台地方向へと向う。道は台地下のトンネルをくぐる。トンネル脇に台地に上る道。迷うことなく台地上に続く細路に進む。坂をのぼると尾根道に。いい感じの散歩コースになっている。尾根道を南に進めば「成瀬山吹緑地」、北に進めば「奈良尾根緑地」に続く、と。この尾根道は青葉区と町田市成瀬との境界線、南のあかね台から北の奈良町まで続いている。
北に上るか、南に下るか、どちらに進むか結構迷う。で、結局、北に向かう。あとからGoogle Mapの航空写真でチェックすると、南方向は先日歩いた「子之辺神社」の西を通り、あかね台の県道140号線あたりまで緑が続いている。少々惹かれる。そのうちに歩いてみたい。ともあれ、北に進む。しばらく歩くと、木立の中の散歩道はなくなり、東は台地端、西は住宅地の続きとなる。

奈良5丁目と成瀬台4丁目境・奈良尾根緑地の北端
どこだったか、一度台地を下り、車道を渡り再び台地に上る。もう、尾根道というよりも、台地端に迫る住宅街の道を歩く、といった状況となる。この車道は「こどもの国駅」あたりから西に通る車道ではないか、と思う。更に先に進む。大きな車道を跨ぐ陸橋に。すぐ先に奈良北団地交差点。このまま進めば、「スタート地点」に戻ることになりそう。北に進むのを止め西に向かうことに。奈良5丁目と成瀬台4丁目の境、こどもの国西側交差点の少し南から、西に向かって続く車道が大きく湾曲するあたりで陸橋を下り西に道をとる。次の目標は「かしの木山自然公園」。目印は東玉川学園3丁目にある昭和薬科大学、である。

昭和薬科大学

成瀬台から東玉川学園の住宅街を進み、薬科大学町田キャンパスに。構内を抜ける道もありそうだが、残念ながら構内通行不可。仕方なく、キャンパスの縁を南に進み、南端で西に折れる。塀にそって台地を上る。台地の頂上付近から雑木林。雑木林を下り、テニスコート脇の竹林を抜け、峠道に当たると、そこは「かしの木山自然公園」の入り口、となっていた。

かしの木山自然公園
かしの木山自然公園。東の成瀬台、西の南大谷、高ケ坂地区の境に位置する。緑豊かな5haほどの公園。園内にはわずかな距離ではあるが、鎌倉古道も残る。園内に入り、鎌倉古道を歩く。が、あっという間に終了。コナラやクヌギの林の中を進むと「シラカシの森」がある。かしの木山自然公園の名前の由来、である。
シラカシはシイやカシ、そしてツバキなどとともに(常緑)照葉樹と呼ばれる。太古武蔵野を覆っていた植物群である。その後、人が住むようになり、原野を切り開く。焼畑で焼き払われた後には3,4年たつと、一面のススキ。 それが15年くらいでススキの間からクヌギやコナラといった落葉広葉樹が伸びてくる。これがいわゆる雑木林というものである。江戸が大都市になるにつれ、燃料としてこういった落葉広葉樹が必要になるわけで、人工的にも「雑木林」が増える。これが武蔵野の雑木林。
武蔵野の雑木林・落葉広葉樹も、管理することなく放置しておくと、百年ほどで林床に芽生えた(常緑)照葉樹にとって替わられる。落葉広葉樹は日当たりのいい所ではよく育つのだが、(常緑)照葉樹が増えると日当たりが悪くなり、消え去る。そして最後には極相とよばれる、植物遷移の最終段階の「シラカシの林」となるわけである(『雑木林の四季;足田輝一(平凡社カラー選書)』)尾根道を進み公園の西端近くに。恩田川によって開かれた谷筋が下に見える。散策路を歩き、南口に。台地を下り、西に進むと恩田川にあたる。

恩田川

尾根道を進み公園の西端近くに。恩田川によって開かれた谷筋が下に見える。散策路を歩き、南口に。台地を下り、西に進むと恩田川にあたる。
恩田川。町田市の七国山、というか今井谷戸あたりが源流。長津田の北で奈良川と合流。横浜線・中山駅の西、中原街道・落合橋あたりで鶴見川に合流する。いつだったか、源流点・今井谷戸あたりを歩いた。谷戸とはいうものの、鎌倉街道などの主要車道が交差しており、とてものこと、谷戸とか里山の面影など感じられなかった。川を遡れば、それなりの開析谷の景観が見えるか、はたまた、新百合丘で見たような強烈な宅地化が待ち受けているのか、ともあれ、源流点・今井谷戸に向かって歩きはじめる。

今井谷戸交差点
恩田川の川筋には自転車歩行者専用道路が整備されている。南大谷中、南大谷小脇を進む。小田急線と交差。桜橋、大谷一号橋、本町田団地を過ぎると稲荷坂橋。その先で鶴川街道と交差する。鶴川街道を少し西に行けば菅原神社。少し進むと恩田川はふたつに分かれる。西に向かえば町田街道・滝の沢。このあたりも恩田川の源流のひとつ。北に進む。里山の景観もなければ、インパクトのある宅地が広がることもない。
少し歩くと、また恩田川がふたつに分かれる。西に進み川筋は、鎌倉街道のすぐ西にある町田木曽住宅あたりまで続いている。鎌倉街道に沿って北に進む。日向山公園、本町田小学校を越える。川筋は消え、親水公園といった人工水路になる。今井谷戸交差点の東を鎌倉街道のあたりまで川筋を探す。結局人工の水路しか見当たらなかった。で、源流点チェックはこのあたりで終わりとする。結局、里山の景観もなければ、インパクトのある宅地が広がることもなかった。

木曽団地交差点
今井谷戸交差点を離れ、境川を越えて相模の国に進む。鎌倉街道に沿って南に下る。鎌倉街道、といっても車の多い幹線道路。先ほど恩田川に沿って上った道を戻る感じ。今井谷戸から西に進む道筋もあったのだが、なんとなく上りとなっていたので敬遠した、次第。この鎌倉街道は、南に道なりに進むと鶴川街道に合流。そこを鶴川街道に乗り換えれば町田の駅近くに達する。が、今回は町田ではなく、なんとなく、西に進みたい、と思った。
木曽団地交差点で鎌倉街道を離れ、西に折れる。少し歩くと町田木曽団地の前に調整池。人工の調整池、というよりも、湿地帯をそのまま残している雰囲気。地図をみれば、恩田川の支流水路が、このあたりまで続いている。昔は恩田川の水源のひとつ、だったのではないか、と。

境川
道は上りが続く。多摩丘陵を越え、境川に向かって「下る」というイメージとは真逆の地形。いつ、下りになるのだろう?しばらくすすむと「町田街道」に。交差点を越えると、心持ち下る道筋。しかし前方には丘の高まりが見える。あれ?一体どうなっているのか?少々混乱。少し進むと境川。武蔵と相模の境となる川筋。昔は相模川の一支流、であったよう。堺川を越えると、丘に向かっての上り坂。横浜線・古淵駅は、坂を上りきったところにあった。さっぱり訳がわからなくなってしまった。多摩丘陵をグンと下り、境川へと、と思っていたのが、今井谷戸、というか恩田川から先は、下りというより、ずっと上り、といった地形であった。
電車に乗る。窓から地形を見る。が、線路の東に台地の高まりは見えない。平坦な台地上を走る。多摩丘陵の高まりが遠くに見えたのは、相模原だったか、橋本だったか、ともあれ、結構北に走ってからであった。
家に帰って地形図でチェック。城山湖(本沢湖)付近を源流とする境川は多摩丘陵下に沿って下っている。おおよそ桜美林大学のあるあたりまで。その先で、堺川は丘陵下を離れ、南東に相模原台地を下っている。で、多摩丘陵の西端のラインだが、相原駅>多摩境駅>桜美林大学>恩田川流路、を結んだ線。当初恩田川は、多摩丘陵の中の開析谷を流れている、と思い込んでいたのだが、どうも、恩田川って、多摩丘陵の西端下を流れる川であった、ようだ。
思うに勘違いの主因は、本日歩いた成瀬台、であり、長津田のある台地にあったように思う。地形図を見ると、成瀬台は多摩丘陵が西に突き出た舌状台地。そして相模台地面を隔てて長津田の丘陵地が広がっていた。多摩丘陵散歩の仕上げとして、多摩丘陵を相模台地に下る、といったイメージを描いていたのだが、「かしの木山自然公園」を恩田川に向かって下った段階で、多摩丘陵を下り相模台地に入っていた、ということ、であった。ともあれ、一見落着、である。

火曜日, 10月 30, 2007

鶴見系水系散歩;後北条氏の防御ラインの城址を辿る

後北条氏の防御ライン:鶴川の沢山城址から中山の榎下城址に
(2008年10月2回に分けて掲載)

先日来、数回に渡って多摩丘陵の南端、というか東南端を歩いた。きっかけは川崎市麻生区にある新百合丘という小田急線の駅。なんとなく、この名前に惹かれ、「戯れに」はじめた多摩丘陵南部の散歩であった。が、これが思いのほか魅力的な散歩となった。丘陵や開析谷といった地形の面白さ、古墳から中世城址といった歴史的史跡、里山そして尾根道といった心地よい散歩道などにフックがかかり、結局、幾度か足を運ぶことになった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

この散歩でカバーしたところは、川崎市の宮前区・多摩区・中原区、そして横浜市の青葉区・都築区といった地域である。勢いに任せて多摩丘陵の南端を越え、下末吉台地・鶴見にまで足を運ぶことになった。で、気がつけば、あと「ひと山」、というか「ひと丘」を越えれば多摩丘陵の西端、である。ついでのこと、というわけでもないのだが、どうせのことなら、多摩丘陵の西部一帯を歩き、多摩丘陵を西に越えようと思う。丘の向こうは相模原台地。境川という、文字通り武蔵の国境を流れる川を越えれば相模の国、である。
多摩丘陵西部の地形図をつくりチェックする。奈良川とか恩田川によって開かれた谷地が見て取れる。そこには、かならずや美しい里山・谷戸が残っているのであろう。はてさて、どこからはじめるか。取り付く島として、『多摩丘陵の古城址;田中祥彦(有峰書店新社)』を眺める。と、小田急線・鶴川駅近くに沢山城跡がある。駅近くには鶴見川が流れる。南に下って、横浜線・中山駅近くに榎下城がある。その間は奈良川、そして恩田川で繋がる。更に恩田川下れば鶴見川に合流。少し下った新横浜駅近くには有名な小机城跡もある。いすれも小田原北条氏の出城である。ということでコース決定。鶴見川水系に並ぶ北条氏の城跡を訪ねることにした。


本日のルート;小田急線・鶴川駅>鶴見川交差>(岡上地区)>(三輪町)>高蔵寺>**古墳群>沢谷戸自然公園>熊野神社>沢山城址>三輪中央公園前交差点>鶴川緑山交差点>三輪さくら通り交差点>子どもの国西口交差点>(奈良町)>住吉神社前交差点>な奈良川交差>徳恩寺>子ノ辺神社>鍛冶谷公園(遊水地)>(あかね台)>東急車輛工場>恩田駅>中恩田橋交差点>田奈小交差点>恩田川・浅山橋交差点>(長津田2丁目)>長津田駅>国道246号線・下長津田交差点>いぶき野中央交差点>東名高速交差>環状4号・十日市場交差点>三保団地入口>榎下城址・奮城寺>JR横浜線交差>円光寺>恩田川>杉山神社>横浜商科大学キャンパス入口>東名高速交差>梅が丘交差点>藤が丘小下交差点>田園都市線・藤が丘駅

小田急線鶴川駅

鶴川駅で下車。駅前は予想に反して、のんびりとした雰囲気。とはいうものの、一日の乗降客は7万人程度いるようで、小田急線の駅の中でも、十位台。結構大きな駅である。で、いつものことながら、鶴川の由来が気になった。チェックする。明治の頃に付近の8つの村(大蔵、広袴、真光寺、能ケ谷、三輪、金井、野津田、小野路)が集まり旧鶴川村ができた、とある。が、もとの村には鶴川という村は、ない。はてさて、地図を見る。鶴川駅近くを鶴見川が流れている。ということで、鶴川は鶴見川の短縮形、とか。ちなみに

、鶴(つる)って、「水流(つる)」=水路、から。鶴見は、つる+み(廻)=水路のあるところ、ということ。ついでのことながら、鶴川駅のある町田市能ケ谷であるが、これは紀州の「尚ケ谷」から神蔵・夏目・鈴木・森氏がこの地に移りすんだ、から。「尚ケ谷」が、後に「直ケ谷」、そして「能ケ谷」となった、ということ、らしい。

鶴見川
駅の南口に出る。駅前は未だ再開発されておらず、素朴なる趣き。鶴川は鶴見川により開かれた谷地である。四方は丘陵によって囲まれている。駅を南に少し下ると鶴見川。町田市北部、多摩市に境を接する緑豊かな小山田地区に源をもち、真光寺川、麻生川、真福寺川、黒須田川、大場川、恩田川、鳥山川、早渕川、矢上川の水を集め、鶴見で東京湾に注ぐ。それぞれの川 については、じっくり歩いたり、ちょっとかすったりと、その濃淡はあれど、川沿いの風景が少々記憶に残る。水源の湧水の池もなかなかよかった。ともあれ、睦橋を渡り、南に進む。南前方に丘陵が見える。目指す沢山城跡は、その丘の上。

岡上神社
丘に上り、岡上地区に。地形通りの地名。岡の上を鶴川街道が走る。岡上駐在所前交差点を少し南に歩き、岡上神社に立ち寄る。剣神社、諏訪神社、日枝山王神社、宝殿稲荷社、開戸(開土)稲荷社の五社を集め、岡上神社とした。明治42年のことである。 まことに岡の上にある。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)








高蔵寺
岡上駐在所前交差点に戻り 東に進む。沢山城跡、といっても地図に載っているわけでもない。目印は高蔵寺。鶴川街道より一筋東の台地に進む。わりと大きい道路道に出る。道が丘を下る手前あたりに高蔵寺があった。

三輪の里
沢山城跡を求め、お寺の脇を高みに向かって東に進む。案内もなにもない。沢山城は荻野さんという個人の所有物、という。個人の好意で保存して頂いているわけで、案内などないのは、当たり前といえば当たり前。道を進むと荻野さんの表札。道の南にみえ

る緑の高地が城跡なのだろう。ちなみに、このあたりの地名・三輪の由来であるが、元応年間(14世紀初頭)大和国城上郡三輪の里より、斎藤・矢部・荻野氏がこの地に移り住んだことによる。沢山城跡を護ってくれている荻野さんは、その子孫なのだろう。
白坂横穴古墳群
道を進む。が、北に入る道は見当たらない。成行きで進む。道は下りとなる。崖面 に古墳跡。多摩丘陵でよく見た横穴古墳。白坂横穴古墳群、と。案内;「この土地は、むかし沢山城(後北条時代における重要な出城の一つ)のあったところで、白坂は「城坂」の意であるともいわれます。この白坂には古くから横穴古墳が十基ちかく開口しており、未開口のものを含めると十数基になります。昭和三十四年にそのうちの二基を発掘しましたが、内部には五センチから十センチぐらいの川原石が敷きつめられており、数体の遺骨、須恵器などが発見され、これらの横穴は七世紀ごろにつくられたものと推定されました。この地域は多摩丘陵のなかでも横穴群の集中しているところですが、白坂横穴群は最も充実しているものの一つであると考えられます」、と。

沢谷戸自然公園

道を進む。どんどん下ってゆく。谷は深い。峠道を下る、といった趣き。とりあえず先に進む。どこが城跡への道筋がさっぱりわからない。結局谷地まで下りてしまった。谷地は「沢谷戸自然公園」として整備されている。昔は鶴見川河畔に繋がる谷戸ではあったのだろうが、現在は古の面影は何も無い。調整池として使われているような運動場、というか多目的広場が目に入る。小さい池にかかる木造の散策路を進む。北の台地上が城跡なのだろうが、上りの道はなし。西端まで進む。昔は谷戸の最奥部だったのだろう。現在では台地に上る階段が整備されている。とりあえず台地に上る。

沢山城址
台地上は結構大きな車道。先ほど歩いた高蔵寺前を通る道筋である。道を北に戻ると熊野神社。少し先に東に入る細路がある。とりあえず入って見る。先に進むと畑地に当たる。畦道といった風情の踏み分け道を進むと杉林の中に。更に進むと神社の祠

。七面社。このあたりが城跡、櫓があったところと言われる。『新編武蔵風土記稿』;三輪村、「七面堂」の項:「今その地を見るにそこばくの平地あり、東より南へ廻りては険阻にして、
西北の方は塀平地続きたり、そこには掘りあととおぼしき所見ゆ、且此辺城山などと云う名あれば、かたがた古塁のあとなるべし」、と。七面社のあたりをぶらぶら歩く。空堀に囲まれた郭っぽい雰囲気が残る。
この沢山城は戦国盛期(16世紀中頃)、後北条氏により築城ないしは改修されたもののようだが、詳しいことは分かっていない。北条氏照印判状には、「馬を悉く三輪城(沢山城)に集めて、筑前(大石筑前守)の部下の指示に従い、御城米を小田原古城に輸送するよう」とある。氏照は八王子城の城主なのだから、この城が八王子城の支配下にあり、小机城・榎下城などとフォーメーションを組んだ後北条氏の防御ラインであったのではあろう。実際、東南小机城からの道は沢山城北端の白坂(城坂)に続いていた、とのことである。
城跡への道筋がわからず、結局台地を一巡したわけだが、なるほど結構攻め難い立地のように思える。台地の北側下は鶴見川が西から東へと流れており、往古は低湿地であったの、だろう。鶴見川は外堀の役割を果たしていたものでもあろう。城の両側には細長い支谷が食い込んでいる。特に東側の谷は城の南、現在の沢谷戸自然公園のところまで入り込んでおり、台地上との比高差40mもある。台地全体が城域であったのだろう
し、要害の地にある、城であったのだろう。ちなみに城址への道は、道路側からのアプローチだけでなく、高蔵寺側の道からのものもあった。荻野さん宅の西側から進むが、案内はないので、見過ごした。

椙山神社
お を離れ台地東端に。鶴見川の低地を見ながら坂をくだる。途中に結構大きな社。椙山神社。神社のある山、というか岡が、奈良の三輪山に似ているため勧請された、との説もある。創建877年のことである。椙山神社って、19世紀のはじめ頃、武相に70余社ほどあった、とか。鶴見川、帷子川、大岡川水系で、多摩川の西の地域だけ、とはいうものの、現在の旭区にはなにもない、といった誠にローカルな神様。杉山神社が歴史に
登場するのは平安の頃、9世紀中頃。『続日本後記』に「武蔵国都筑郡の枌(杉)山神社が霊
験あるをもって官弊に預かった」、とか、「これまで位の無かった武蔵国の枌(杉)山名神が従五位下を授かった」とある。また10世紀の始めの『延喜式』に、都筑郡唯一の式内社とある、当時最も有力な神社であったのだろう。が、本社はどこ?御祭神は誰、といったことはなにもわかっていない。ちなみにほとんどが杉山で、椙山と表記するのはこの社、だけ。

西谷戸
椙山神社を離れ、台地下の低地を歩く。谷戸の風景が美しい。谷地を隔てて南に立つ丘陵地をまっすぐ進めば「寺家ふるさと村」に出る。のどかな里山の風情が思い出される。そのまま真っすぐ進みたい、といった気持ちを押さえ、鶴川街道方面に。途中に広慶寺。車道から続く参道の両側に羅漢さまが並ぶ。その先、台地に上る坂の手前に西谷戸横穴墓群。古墳時代後期の古墳。坂を上り切ると一転し、新興住宅街。瀟洒な住宅地が開発されている。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


こどもの国

鶴見川グリーンセンターに沿って進むと、道は「こどもの国」の北端に当たる。突き当りを西に折れ、三輪さくら通り公園をぐるっと迂回し南に折れる。「こどもの国」の敷地に沿って進む。あまり人も通ることが少ないのか、少々ごみっぽい。「こどもの国」の外周道路としては、少々興ざめである。道を下ると鶴川街道・こどもの国西側交差点に合流する。
こどもの国、って昔は子供を連れて幾度か来た。少々懐かしい。東京都町田市と横浜市青葉区が境を接するこの丘陵地は戦前・戦中には弾薬庫があった。田奈弾薬庫。正式には「東京陸軍兵器補給廠田奈部隊」という。薬莢に火薬を装填した弾丸を製造・保管していた、と。散歩の都度、陸軍の施設跡に出会うことが多い。大体は公共機関・施設となっている。逆に言えば、病院・大学などが密集しているところは大体陸軍施設・ 

用地跡と考えてもいいかもしれない。典型的な場所は、世田谷の三軒茶屋の南一帯、北区の赤羽台、松戸の駅前台地上、といったところが思い浮かぶ。ともあれ、軍事施設が現在では公共施設・こどもの国となった、ということだ。

奈良町
鶴川街道を南に下る。このあたりの住所は横浜市青葉区奈良町。由来はよくわからないが、鶴川の三輪町が、大和の国・三輪の里から移り住んだ人たちが、この地の景観が三輪山に似ている、ということに由来する。とすれば、この奈良町も、大和の奈良に由来するのか。はたまたは、『吾妻鏡』にこのあたりの御家人として登場する奈良氏に由来するのか、はてさて、どちらでありましょう。道に沿って流れる川は奈良川。TBS緑山スタジオ裏手、玉川学園裏手あたりを源とする鶴見川の支流。水源のひとつでもある、本山池(奈良池)といった源流域には「土橋谷戸」「西谷戸」といった緑地が残る、という。いつだたか奈良川の源流域を歩いたことがある。それなりの風景ではありました。

住吉神社

道を進む。「こどもの国線・こどもの国駅」を越えると住吉神社前交差点。住吉神社は交差点東、多摩丘陵南端の上にある。標高はおよそ60m。豊かな緑に惹かれて台地をのぼる。神社は、徳川三代将軍家光の時代に、領主・石丸石見守が大阪の住吉神社から勧請したもの。石丸石見守は大阪の東町奉行を歴任。名奉行であった、げな。
住吉神社は全国に2000余りある、という。住吉三神は「底筒之男神、中筒之男神、上筒之男神。で、「筒」とは星のこと。航海の守り神。ちなみに、読みは、古くは「墨江・住吉」と書いて「すみのえ」と読んだ、と(『神社の由来がわかる小事典;三橋健(PHP新書)』)

中恩田橋交差点

交差点を越え南に進む。恩田地区に「子の辺神社」。名前に惹かれてちょっと寄ることに。奈良川を徳恩寺あたりで西に折れ、台地の際を少し進むと、台地の中ほどに小さい祠。由来などは書いていない。神社でUターン。台地南に鍛冶谷公園。調整池といった雰囲気。このあたりは昔、谷戸であったのだろう。東に進み、こどもの国線・恩田駅に。駅の南には東急の車両工場。付近に橋はない。もと来たところに戻り、奈良川を渡る。南に下ると成瀬街道・中恩田橋交差点。成瀬街道って町田市の本町田から川崎市川崎区南町まで走る県道・140号線。この地の西の台地が成瀬台。その地名に由来するのだろう。ちなみに、成瀬の名前は、町田あたりを治めた横山党の武将・鳴瀬某に由来するとか、恩田川の流れの音=鳴る瀬>成瀬となったとか、例によってあれこれ。

恩田川

この交差点で鶴川街道を離れ、奈良川に沿って南に下る。樋の口橋を過ぎ、日影橋のところで恩田川に合流する。恩田川の源流を地図でチェック。町田市本町田の今井谷戸交差点付近のようだ。いつだったか、鎌倉古道を辿り、町田の七国山とか薬師池公園などを歩いたとき、今井谷戸交差点付近に足を運んだことがある。そのときは東に進み、台地に上り、鶴川街道から玉川学園へと進んだわけだが、南に鎌倉街道を進むと恩田川の源流点あたりに出会えた、ということだろう。恩田とは日陰の田圃という意味であるようだ。
長津田駅
鶴見川と恩田川の合流点から南の台地に上る。恩田川段丘崖。どうも長津田駅って、台地上にあるようだ。長津田3丁目、4丁目と進み長津田駅に。田園都市線・JR横浜線、こどもの国線が集まる。昔より、矢倉沢往還=大山街道、と横浜道が交差する交通の要衝。大山街道の宿場町でもあり、道脇に大山街道の常夜灯が残る。長津田はまた、横浜開港後は、八王子で集められた上州・信州・甲州の絹を輸送する中継地として発展。JR横浜線も、もともとは生糸を横浜に運ぶため明治41年につくられた、とか。ちなみに、長津田の地名の由来は、長い谷津田が続く地形から来た、とされる。谷津田とは谷津にある田=湿原。長津田を通る大山街道に沿って延々と湿原=田が続いていたのであろう。


十日市場

長津田駅を北口から南口に抜ける。JR横浜線に沿って成行きで進む。下長津田交差点で国道246号線・厚木街道を渡る。横浜線に沿って大きな道ができている。いぶき野中央交差点を越え、東名高速下をくぐり、十日市場交差点で環状4号線と交差。十日市場って名前は古そうだが、道の周辺は宅地開発され、宝袋交差点あたりで、横浜線と最接近。台地下の眺めが美しい。恩田川が開いた谷と、そこにひろがる水田、そしてその向こうに見える台地の高まり。なかなかの眺めである。

榎下城跡

新治小入口交差点を越え、恩田川の支流を跨ぎ、三保団地入口交差点に。交差点を西に折れ、道の南にある台地に向かう。榎下城跡は、この台地の上・舊城寺の敷地内。田圃だったか、畑だったか、いづれにしても農地の中の道を進み台地を上ると境内に着く。山門のあたりが虎口。本堂裏手の少し小高くなっているあたりに主郭があった、とか。
この城は室町初期、上杉憲清によってつくられた。その子憲直は鎌倉公方・足利持氏に仕える。で、永享の乱の勃発。室町幕府と鎌倉公方の軋轢。鎌倉公方・持氏と管領・上杉憲実の対立、である。持氏敗れる。榎下城主・上杉憲直は持氏と運命を共にする。その後この城は山内上杉家の所領となった、とか。その後、廃城となるも、戦国時代となり、小田原北条氏が小机城、沢山城とともに江戸城の太田道潅への押さえとして修築。現在の遺

構はその当時のものである。城は、それほど高い台地でもない。南から北へとゆるやかに下る台地の端である。要害性には欠けるが、荏田城をへて府中に至る鎌倉道中の渡河地点を押える役割を果たしたのではないか、といわれている。

田園都市線・藤が丘駅
城跡を離れる。予定ではここから恩田川を5キロ弱下り、小机城へ、と考えていた。が、日が暮れてきた。小机城自体は一度歩いたこともある、ということで予定変更。最寄りの駅に戻ることに。恩田川の向こうに見える台地の上に田園都市線・藤が丘駅がある。先ほど眺めた美しい風景の方向である。即ルート決定。


台地を下り、鶴川街道・恩田川支流との交差点まで戻る。横浜線のガード下をくぐるとすぐに円光寺。畑の中の道を進む。恩田川に交差。橋を渡り、再び畑の中を進み台地下の車道に。道を北にとり極楽寺、杉山神社前を少し進むと横浜商大みどりキャンパスへの入口。台地の上り道を進み、大学脇の道を進むと東名高速にあたる。丁度港北パーキングエリアのところ。台地を一度下り、東名高速のガード下をくぐり、再び台地に向かって上る。梅ヶ丘交差点、藤が丘小交差点を越え、しばらく進むと田園都市線・藤が丘駅に到着。本日の予定はこれで終了。
散歩の後から気がついたのだが、今日歩いた道筋って、昔の鎌倉街道。鎌倉街道中ツ道と上ツ道をつなぐ。中ツ道の通る中山と上ツ道の道筋である鶴川方面を結んでいるわけだ。鶴川に城があった理由も、ちょっとわかった。「いざ鎌倉」の早馬がこの道筋を駆け巡ったのであろう。





小机城から篠原城に
前回の散歩では鶴川からはじめ、中山にある榎下城跡まで下った。今回は、中山からスタートし、恩田川・鶴見川筋を下り小机城を経て、新横浜駅近くにある篠原城へと進む。おおよそ8キロ程度の散歩である。縄文海進期の地形をで言えば、多摩丘陵が海と接する海岸線を小机まで進み、そこからは「海・小机湾」の中にある新横浜へ「泳いでいく」、といったもの。戦国期に想いをはせると、中山の東に広がる恩田川・鶴見川流域は一面の低湿地帯。中山の榎下城も、小机の小机城も低湿地に突き出した舌状台地の先端に位置する。小田原北条の前線基地として、東からの敵に備えていたのではあろう。さてと、往古の地形を思い浮かべながら散歩に出かける。


本日のルート:横浜線・中山駅>大蔵寺・長泉寺>落合川・鶴見川合流点>鴨居>小机城>多目的遊水池>亀甲橋>新横浜駅>篠原城跡

横浜線・中山駅
渋谷から田園都市線で長津田。そこで横浜線に乗り換え中山駅に。先日の散歩で、この中山にある榎下城を訪ねた。この城は、鶴川の沢山城、小机の小机城とともに小田原北条の前線基地。東の地、江戸城から攻め寄せる太田道灌に備えた。とはいうものの、中山はどうみたところで、それほどの要害の地といった風情は、ない。なにゆえ中山の地、かと少々気になりチェックした。で、結論としては、この地が交通の要衝であった、ということ。

鎌倉街道中ノ道。鎌倉街道上ノ道、山ノ道などとともに「いざ鎌倉」への道。鎌倉から二子玉川、板橋、川口、栗橋、古河、小山を経て宇都宮から白河の関へと進むのが「中ノ道」。この中ノ道が中山を通る。北鎌倉の勢揃橋(水堰橋)を出た道筋は、柏尾川と並走し、東戸塚を越え相鉄線・鶴ケ峯駅あたりで二俣川を渡り、この中山に。中山からは恩田川を渡り川和、江田、宮前平、溝口をへて二子玉川を渡り、板橋へと上っていく。鎌倉武士の鏡・畠山重忠が討ち死にしたのは中山から鎌倉街道中ツ道を4キロ弱南に下った二俣川。源頼朝の奥州征伐の道筋も、この中山を通り川和、江田を経て二子ノ渡しに進んだとされる。幾多の武将がこの中山の地を駆け抜けたことであろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

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大蔵寺・長泉寺
中山駅の近くには由緒ある寺も点在する。駅を挟んで東には大蔵寺。鎌倉武士・相原一族の菩提寺。頼朝の菩提をとむらう。相模原には「相原」の地名が残る。西には長泉寺。木食僧・観正が開く。木食僧とは米穀を断って木の実を食べて修業する僧のこと。江戸期の文化・文政のころ流行した。観正の他、木食僧としては徳本などのが知られる。ちなみに、木喰像で知られる木喰五行上人とは別人。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
長泉寺の隣、というか同じ敷地には杉山神社。神仏習合の名残であろう。それにしても、この近辺には杉山神社が多い。杉山神社もそうだが、散歩をしていると「地域限定」の神様に時に出合う。元荒川流域の久伊豆神社、古利根川流域の鷲宮神社など。もう少し広い地域でみると、荒川の西を祭祀圏とする氷川神社、東の香取神社なども、ある。
杉山神社は武蔵国総社に勧請された六所宮のひとつ。社格の高い神社ではあったのだろうが、実態はよくわかっていない。本社の場所も特定されていない。ともあれ、7、8世紀の頃、この神様を「氏神」とする集団が鶴見川などを伝ってこの地域に進出。しかし、なんらかの理由でその先に進む歩みを止め、この地域にとどまった、ということではあろう。ちなみに、このあたり、少し小高い丘となっているのだが、そのことが地名「中山」の由来、とか。

落合川・鶴見川合流点

長泉寺を離れ、中原街道・宮の下交差点を北に折れる。横浜線を越えると鶴見川にかかる落合橋に。橋の少し上流が恩田川と鶴見川の「落ち合う」ところ。鶴見川は多摩丘陵、小山田の里の湧水を水源とし、鶴見で東京湾に注ぐ43キロ弱の川。恩田川は町田市本町田の今井谷戸の北あたりを水源とする13キロ程度の川、である。
いつだったか、それぞれの水源を訪ねたことがある。鶴見川の水源は小田急線・唐木田駅の南、尾根道幹線の通る尾根道を南に下った美しい里山の中。豊かな湧水池があった。一方恩田川の水源である今井谷戸は、なるほど「谷戸」といった地形の名残は留めるものの、交通量の多い交差点となっていた。特段の水源は見あたらなかった。
『都市と水;高橋裕(岩波書店)』によれば、落合川を含めた鶴見川水系って、戦後の宅地化が最も激しかったところ、と言う。実際、麻生川にそった新百合ケ丘あたりを歩いたとき、その宅地開発の激しさには少々驚いた。耕して天に至る、ではないけれど、全山すべて住宅といった有様。事情は恩田川上流域もまったく同じであった。鶴見川全流域では55年までに流域の10%しか宅地化していなかったが、75年には60%、85年には75%が市街地化された、と(『都市と水;高橋裕(岩波書店)』より)。
鶴見川って言えば、一昔前まで、「洪水氾濫」の代名詞と行った印象がある。鶴見川は昔は海であった沖積低地を蛇行して流れているわけで、ただでさえ洪水に見舞われやすい。そのうえ、上流の激しい宅地開発。本来ならば土地に吸い込まれていた水が、舗装され、行き場をなくし、すべて川に合わされ下流に流れ込む。で、自然環境、社会環境が相まって、鶴見川は治水の難しい川の一つになっていた、と(『都市と水;高橋裕(岩波書店)』より)。鶴見川は、75年から実施された全国14河川の総合治水対策の先駆的役割を果たしたとのことである。下流に進むにつれ、治水事業の有様など散見できるであろう。
鴨居

落合橋より、鶴見川に沿って堤を歩く。川の東側には近代的な工場群が続く。横浜線が川筋に近づく。2キロ強進むと鴨居駅。この駅の鶴見川東岸も近代的工場群が見える。鴨居の地名の由来は、カムイ=神が居る、とか、文字通り近くに鴨場があった、とか例によって諸説あり。そういえば、障子などの上部の横木を「鴨居」と言う。対する物として、足下の横木を「敷居」と言う。「鳥居」などの表現もある。鴨居も敷居も、鳥居の横木からのアナロジー、とも言われる。で、鳥が居たので「鳥居」、ということで、鴨がいたので鴨居、鴫(シギ)がいたのでシギイ>敷居、ということにした、との説も。
新川向橋手前で、JR横浜線が川筋に急接近する。台地の崖と川の間を走り抜ける。このあたりは洪水で水位が警戒水位に達するたびに、運転見合わせとなっていた、とか。新横浜近くにある日産スタジアム周辺での多目的遊水が整備される、状況は大幅に改善された。
小机城
川 向橋より先は川沿いの道が切れる。前方に第三京浜の高架。その道筋により南北に分断された山が小机城の城山。川沿いの道を離れ、高架下を進み小机の町に。東にはUFOっぽい形をしたサッカー競技場・日産スタジアムが聳える。台地の緑を眺めながら山裾を道なりに歩く。なかなか城山への上り道が見つからない。局台地をぐるっと廻り、台地の南側、JR横浜線が城山トンネルから出てくる辺りまで歩く。民家の脇に「市民の森」への案内。民家の間の細路を上ると、城 山への入口。
竹林の道を上る。ほどなく本丸広場。野球場となっている。深さ10mほどの空堀が本丸の廻りに残る。二の丸曲輪に進む。井楼櫓には土塁が残る。有名な城の割には、それほど大きくない。第三京浜によって分断されてしまったためだろう、か。つい最近旧東海道を歩き箱根越えをしたとき、箱根峠から三島に下る途中の山中に山中城を訪ねた。その規模の壮大さを思うにつけ、小机は少々つつましい。
この城、有名な城ではあるが、はじまりはよくわかっていない。15世紀中頃の永享の乱の頃、関東管領上杉氏によって造られた、ともされる。永享の乱って、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉家が相争った戦乱のことである。小机城が歴史に登場してくるのは15世紀も後半の頃。関東管領山内上杉氏の家宰職の相続を巡り、長尾景春が寄居・鉢形城で挙兵。武蔵五十子城の上杉の居城を攻める。関東を戦乱・混乱の巷に陥れた長尾景春の乱のはじまりだ。石神井城主・豊島泰経が長尾景春に呼応。扇谷上杉氏の家宰・太田道灌と江古田・沼袋で戦う。道灌の勝利。豊島泰経は武蔵平塚城(JR山手線上中里近く)を経て、小机城に敗走。道灌追撃。で、この地で豊島一族を助ける小机弾正、矢野兵庫らとともに、2ヶ月におよぶ合戦。道灌の勝利。その後、小田原北条氏の城となる。猛将で有名な北条氏綱の重臣である笠原信為などの城として、秀吉の小田原征伐による北条氏の滅亡まで続く。江戸期は廃城。

多目的遊水池

小机城を離れ、鶴見川へと向かう。横浜線の小机駅の南にはお寺が点在。雲松寺は俳優内野聖陽さんの実家、とか。今回はパス。畑越しに小机の城山をみやりながら交通量の多い車道へと。新矢之根の交差点あたりで鶴見川の傍に。川幅が異様に広く、川床には野球場や運動広場が見える。いかにも遊水池、といった雰囲気。鶴見川に面した堤防の一部が低いのは越流堤。洪水時にここから鶴見川の水を遊水池に流入させる。で、洪水がされば排水門から鶴見川に水を戻す。実際2004年の台風22号のとききは、この湧水池が一面の湖となった、とか。
多目的遊水池は鶴見川方面だけではない。車道の南に広がる新横浜公園、日産スタジアム、病院などの敷地全体が遊水池。洪水時のため、スタジアムや病院の床は高床式となっており、また、平時には駐車場となっている1階も、増水時には遊水池に変身す

る、という。

亀甲橋

道を進み、新横浜公園交差点に。鶴見川にかかる橋は亀ノ甲橋。橋の向こうに
見える小高い山、というか台地が亀ノ甲山であろう。亀ノ甲山は豊島泰経を追撃し、この地に攻め寄せた太田道灌が陣を張ったところ、という。道灌が部下を勇気づけるために詠った「小机はまづ手習ひのはじめにて いろはにほへと ちりぢりになる」は有名。小さな机で習字をはじめるこどもは、いろはにほへと、あたりまではちゃんと書けるが、その後はむちゃくちゃになる。子供相手の戦くらい簡単に勝てる、といった意味、か。

新横浜駅
少し道を進み、労災病院交差点に。ここで道を南に折れ新横浜駅方面に向かう。すぐ鳥山大橋。鳥山川にかかる。地図で源流を辿ると保土ヶ谷の横浜国立大学、羽沢農地あたりまで続いている。橋を道に沿って真っすぐ進めば新横浜駅につく。いまでこそビルが建ち並ぶ一帯となっているが、縄文時代まで遡れば、このあたりは海の中。もう少し上流にある川和町あたりが鶴見川の河口とする入り江。先ほど歩いた小机や新横浜駅の南の篠原地区の台地がかろうじて陸地。入り江を挟んで北の日吉、東の末吉が小高い台地として存在していた、とか。
時代が下って、江戸の頃でも、湿地と田畑が点在する一帯。勾配の緩やかな低地であるため、川の流れが蛇行し頻繁に流路を帰る。洪水時の水はけが悪い。そのうえ、満潮時には新羽橋あたりまで潮が上ってきた、言う。この状況が改善されたのはそれほど昔のことではないようだ。昭和の頃も一面の田畑。その地を買い占めたのが西武グループの堤次郎。で、新幹線の路線地として国鉄に転売し巨大な利益を得る。ちなみに、新大阪駅前一帯も西武グループが買い占めていた、と。やれやれ、といったことを想いながらビル街を抜け、駅をと降り抜け次の目的地・篠原城跡に進む。山道といった風情の坂道を台地上に。
篠原城跡
新横浜駅の南に出る。駅のすぐ近くまで台地が迫る。それにしても、北側の再開発と比較して、民家が軒を連ねる南側のコントラストは激しい。道路も狭く、対向できないところも見受けられた。いかなる事情によるものなのだろう。チェックすると、市と住民や地権者との対立があるようだ。とはいものの、北の再開発にまつわる、土地買収の歴史などを思うと、事情はわからないが、対立があったとしても、それほど違和感は感じない。


篠原城跡を探す。正覚院の裏山あたり。寺の南側の坂を上る。台地上まで進も、裏山には辿り着けない。
元の道に坂を下り、今度は寺の北にある細路を台地に上る。城跡への入口を探しながら台地上の道を進む。民家が軒を連ねる。案内も何もないのだが、なんとなく台地最上部の緑に向かう細路に折れる。民家の間の細路を上る。民家と畑の間に上部に進む道が続く。民家の敷地のような雰囲気で、なんとなく気後れするのだが、ともあれ先に。右手のブッシュは市有地の案内があり、フェンスで囲われている。空堀跡っぽい気がする。先に進む。最上部で行き止まり。城跡といえば城跡なのだろうが、素人には郭がどれかなどわかるはずも、ない。
篠原城。別名、金子城。小机城の支城としてつくられた、とか。戦国期は小田原北条氏の家臣である金子出雲守の居城。金子氏って、武蔵七党・村山党の流れ。埼玉の入間に本拠地があった。金子十郎の旧跡を訪ねて金子丘陵を歩いた事が思い出される。北条滅亡後、金子一族は菊名一帯に土着した、とか。
鶴川からはじめた鶴見川水系・小田原北条の出城巡りもこれにておしまい。新横浜から一路家路に。

日曜日, 9月 16, 2007

秩父 秩父往還を辿る ; 釜伏峠越え

寄居から釜伏峠を越え、日本水源流点に
釜伏峠を越えた。過日、秩父往還を実感しようと川越道・粥新田峠を歩いたのだが、釜伏峠も秩父往還・熊谷道。そのうち歩いてみようと思っていた。

で、先日、寄居散歩のとき、県道294号線脇に「釜伏峠」そして「名水日本水源流点」の案内を見つけた。秩父往還への強き思いもさることながら、川とか源流点とか清水、というだけで嬉しくなる我が身としては、はやる気持ちを抑えがたし、といった按配であった。



本日のルート;東武東上線・寄居駅>関所跡>釜山神社>奥の院から日本水源流地点>日本水源流点>日本(やまと)の里>秩父鉄道・波久礼(はぐれ)の駅>少林寺

東武東上線・寄居駅

土曜日。9時起床。ちょっと遅いかとも思いながら釜伏峠行きを決める。池袋より東部東上線小川町行き急行に乗る。急行とはいいながら、川越から各駅停車。小川町で寄居行きに乗り換え。到着したのがお昼過ぎ、であった。 秋山・釜伏峠への分岐点 駅前の観光案内所でパンフレットを手に入れる。が、釜伏峠方面の地図はしっかりしたものがない。仕方なし。駅前から県道294号線・登山口への分岐までタクシーを利用。3キロ以上もあるし、先回歩いた道筋でもあるので、カットしようと思った次第。タクシーで鉢形城公園脇を走り、秋山の釜伏峠への分岐点に。ここから峠に向かって上ることになる。登山道、とはいいながら、この道は車道。峠に上る車も結構走っている。
中間平
曲がりくねった道を上っていく。およそ2.5キロ程度進むと「中間平」。別方向から中間平に登ってくる道がある。これって、本来の熊谷道かもしれない。あれこれ調べてみると、熊谷道って、現在の八高線が荒川を渡るあたりに「渡し」があり、そのあたりからこの中間平に向かっていたようだ。
中間平には緑地公園もある。公園には行かず、展望台で小休止。車やバイクで登ってきた人達も幾人かいた。寄居の町が眼下に。車山、荒川にかかる正喜橋などが見える。素晴らしい展望である。 少し休み、釜伏峠へと進む。およそ2.7キロ、と。「中間平」とはよく言ったものである。勾配も心持ちきつくなった、よう。峠から降りてくる車も結構多い。途中、「ポピーの花、咲いてました?」などとドライバーに聞かれたりする。まったくもって、花を愛でる情感が少々乏しい我が身には、何のことやらさっぱりわからず。

関所跡
少々汗をかきかき峠へと進む。途中「関所跡」。説明によれば、この関所は他の関所とは役割が違ったようだ。通常関所って、「入り鉄砲 出女」の監視といったものである。が、ここは険路であるこの釜伏峠を上る旅人・巡礼者を助けるためのものであった、よう。関所を越えてしばらく進むと釜伏峠に。
釜伏峠
峠道には車が多い。粥新田峠近くから、「ふれあい牧場・秩父高原牧場」、二本木峠を経て尾根道を進む県道361号線が釜伏峠に続いている。また、国道140号線のバイバス・皆野長瀞ICあたりから三沢川を上り、芳ノ入からこの峠に登る車道、それと、秩父鉄道・波久礼方面から風布地区を通りこの峠に上る道、この三つの車道がこの釜伏峠で合流している。
道路が交差するところにある道案内をチェック。大雑把な道案内であり、はてさて、日本水(やまとみず)へのルートがよくわからない。釜山神社が近くにあるようで、その近くに日本水源流点があるようで、といった、心もとない案内図。EZナビで「日本水 寄居」で検索。ヒット。ナビをたよりに歩を進める。

釜山神社
歩き始めると、すぐそばにいかにも神社らしき雰囲気の空間。釜山神社って、もっと道からはなれた山に入らなければ、と思っていたので、予想外の展開。ナビを切り、神社参道に。
釜山神社の起こりは不明。伝説によると、紀元504年、第九代開花天皇の皇子が武蔵を巡幸したとき、この地で国家安康を祈った、とか、紀元770年頃、日本武尊がこの地に立ち寄り、神に供する粥を釜でたき、その釜を伏せて祈った。ために、釜伏山であり、釜山神社である、と。別の説もある。この山の形が釜を伏せたように見えるから、とも。
神社の狛犬はここでは山犬というか狼。これって、秩父の三峰神社の流れ、か。火災除け・盗難除けに効能あり、とするのも三峰神社に同じ。
それにしても秩父には日本武尊の話が多い。先般の粥新田もしかり。また粥新田峠からこの釜伏峠の途中にある二本木峠は、日本武尊が地面に突き刺した箸が木になったから、と。秩父と日本武尊の関係をそのうちに調べてみよう、と思う。

奥の院から日本水源流地点
お参りを済ませ本殿脇を見ると「奥の院から日本水源流地点」への案内図。車道を通る道ではなく、山道コースのよう。本殿のペンキ塗りをしていた地元の方に道を尋ねる。「先に進みT字路を右に行けばいい」、と。途中に、「ハイキングスタイル必須」といった案内。軽く考えたのが大間違い。
山頂に向かってどんどん登る。結構な岩場。予想外の展開。グングン、上に上にと引っ張られる。痛めた膝にこれでもか、といった負荷がかかる。結局奥の院って、山頂に鎮座していた。石の祠、であった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

急峻な下り道

奥の院・山頂から先はまさしく急降下、といった急峻な下り道。岩場に鎖やロープがある。とんでもないところに来たものだ、と少々弱気に。釜山神社に寄り道せず、車道を下っておれば、などと考えながら、とりあえず直滑降で下る。しばらく悪戦苦闘の後、「日本水源流点へ40m」の案内。ほっと一安心。

日本水源流点へ40m
案内板をチェック。岩盤崩落の危険あり、と、立ち入り禁止のお知らせ。釜山神社の日本水への案内板に、それらしきことが書いてあった。が、それは、日本水へ向かうルートに通行禁止のところがある、といった程度にしか読めなかった。ここに来て「不可」とは殺生。それも40m先に目的地がある、という。

日本水源流点
少し悩んだ。が、結局どういう状態かちょっと入ってみよう、ということにした。危険であれば即引き返す、といことで進む。日本水の源流点はすぐ着いた。百畳敷岩とよばれる垂直に切り立った巨大な岸壁。その間から流れ出している水をペットボトルに入れ、即撤収。

尾根道ルートを下ることに
元に戻る。案内板をチェック。道は2ルート。日本水源流点を経て下に下る。これが、逆に言えば車道から入ってくるルートなのだろう。それと、尾根道を下るルート。どちらにしようか、と少々悩む。結局尾根道ルートにしたわけだが、これがなんともはや、といったルートであった。

道に迷う
尾根道ルートには途中、風布だったか、どこだったか、ともあれ里まで750mといった案内があった。それを目安に道を下る。次第に道がわかりにくくなる。が、なんとか先に道は続く。しばらく進むと道筋が全くわからなくなった。ここで引き返すか、もっとよく道筋を調べればよかったのだが、なんとかなるだろう、と力まかせで下に進む。
杉の木立に赤いリボンが結ばれている。どう見ても、道などないのだが、リボンを目安に下ればなんとかなるかと思い、とりあえず進む。次第に状況は悪くなる。リボンも見当たらなくなった。勾配もきつくなる。斜度45度以上と思えるほどの急峻な山肌をころびつつ、まろびつつ「落ちる」。少々パニック。
状況はますます悪くなる。先に進もうにも木立、ブッシュが前を遮る。木立を折り、ブッシュを掻き分け進む。どうなることやら。気持ちは焦る。ひょっとしたら、にっちもさっちも、いかなくなる、との怖れ。が、先に進むしか術はなし。 直滑降で真下に進む。先は谷地。行き止まり。谷があれば川があろうと、谷筋に沿って川下に向かう。木立を掻き分け、ブッシュをなぎ倒し、とりあえず先に進む。気持ちが焦る。何度転んだかわからない。秩父で遭難って洒落にならん、と思えども、携帯も繋がらないし、こんなところで人が迷っているなど、誰も思わないだろうし、家族にはどこに行くとも言っていないし、どうしたもんだ、と、頭の中はパニック状態。
里が見えた
と、下のほう、木立の間に、すこし屋根のようなものが見えた。実際は屋根でもなんでもなかったのだが、力任せにそこに向かう。突然、里が見えた。木立を折り、なんとか里に出る。汗びっしょり。言葉が出ないほど消耗。畑のむこうに車道が見える。あとからわかったのだが、国道140号線バイパス寄居・風布IC入口付近。寄居で一度トンネルに入ったバイパスは、この地で一度開け、再びトンネルに入る。バイパスのトンネルの上で悪戦苦闘をしていたのであろう、か。


里に下りる
それにしても、ほんとうにこの尾根道って、登山ルートであったのだろう、か。案内にはそのように書いてはあったと思うのだが、この道は絶対道に迷う。実際、HPなどでルートをチェックしてみると、「地図をもっていなければ迷う」といったコメントもあった。そんなところを案内するのは如何なものであろうか。ともあれ、自然に手を合わせる。神仏にマジ感謝。
ほとんど呆けた状態でフラフラ歩く。しばらく歩くと少し大きな車道。この道は、釜伏峠から下る道。本来であればこの道を下ってきたのだろう。釜山神社に寄り道しなければ、この道を楽しく下ってきた、はず。が、今となってはあとの祭り。

日本(やまと)の里

このあたりは「日本(やまと)の里」、と。日本武尊との由来があるのだろう。が、当面、何を見る気力もなし。しばらく進むと休憩所。食事ができる。実も世もないといった状態でお店に。うどんを注文。人心地ついた。うどんがおいしかった。腰がある。秩父うどん、って、あなどれない。
また、ここに田舎饅頭があった。ゆっくり、じっくり休み、気持ちを鎮め、お土産に饅頭を買い求め店を出る。お店で茶飲み話をしていた地元のおばあさんに、遭難するところでしたよ、などと笑いながらも少々の同感を求め訴えるも、一笑に付される、のみ。なにが嬉しくて、また、なにが悲しくて、薮の中を歩き廻るのか、私達にはわからない、といった顔つきでありました。

釜伏川を下り、秩父鉄道・波久礼(はぐれ)の駅
休憩を終え、川に沿って下る。風布川かと思っていたのだが、釜伏川であった、よう。2キロ弱歩き荒川にかかる寄居橋に。川の流れはない。玉淀ダムの貯水池となっている。秩父鉄道・波久礼(はぐれ)の駅は近い。よっぽどこのまま電車に飛び乗り家に帰ろうか、とも思ったのだが、最後の締めは、五百羅漢の少林寺としようと、もうひと頑張り。橋の袂から2キロ弱、といったところ。








少林寺
国道140号線を進む。車の通行量すこぶる多し。歩道がはっきり分かれているといったところが、あったり、なかったり。その都度、少々怖い思いをする。しばらく進むと、国道から離れる。一安心。末野地区を進む。

山間に進むと少林寺。本堂自体はそれほど大きくはない。このお寺に来たのは、五百羅漢さまに会いたいため。境内のどこに、と探す。本堂脇から裏手も山にのぼる道が。
山道を進むと道脇に石つくりの仏様。荒削りの小さな羅漢、道にそって絶えることなく続く。九十九折れの山道を羅漢様のお顔を見ながら進む。夕暮れとなり、日蔭の道は薄暗く、どうとも、思わず手を合わせてしまう。本日の遭難寸前といった状況に対し、思わず知らずご加護を感謝する、といった思い。それほど信心深いわけではないのだけれども、まかり間違えば、といった状況から運良く、ほんとうに運がよかったということであるのだが、その幸運に対して大いに感謝する。

五百羅漢さま

道端の羅漢像は山頂まで続く。円良田湖とか、鐘撞堂山へのルートもあるが、時間もないので本日はこのあたりで散歩を終える。それでも、先回の寄居散歩のとき少林寺の羅漢様を見ようと途中まで歩いたのだが、日没のため中止。少々心残りでもあったが、これで十分満足。本日の予定はこれで終了。
寄居の駅に向かって歩き、一路家路へと急ぐ。ともあれ、本日は結構危なかった。気をつけなければ、と。そして、せめては、どちら方面に行く、といったことは家族に伝えて出なければ、と反省しきり。





土曜日, 9月 15, 2007

秩父 秩父往還を辿る ; 粥新田峠を越え

秩父観音霊場34札所もすべて歩き終えた。最後の締め、というわけでもないのだが、秩父往還・川越道を歩き、一番札所に至る道筋を辿ろうと思った。江戸の人達が、どういう道筋、峠道を通り観音霊場を訪れるのか、実際に体験してみたい、と思ったわけだ。
 秩父往還には大きく分けて3つのルートがある。ひとつは吾野道。飯能から吾野、そして芦ヶ久保へと続く、現在の正丸峠を通る道。次いで、熊谷道。荒川が秩父盆地を離れ、武蔵の平野に入る辺りの寄居から、釜伏峠を経て秩父に入る道。
そして、今回歩いた川越道。小川町から山間の道を進み、粥新田峠を越えて秩父に入る。 川越道は江戸時代に最も多くの人が往還した道、と言う。また、この道がポピュラーになったため、川越道を下った栃谷の四萬部寺が一番札所となった、とか。それ以前は何番札所だったか忘れたが、江戸からはるばる歩いてきてくれたお客様に、どうせのことなら、一番札所から秩父観音霊場巡りを始めてもらおう、といった心配りであろう。江戸の人達と同じ風景を眺めながら、秩父観音霊場・一番札所へと歩を進めることにする。



本日のルート;東武東上線小川町>橋場バス停>粥新田峠>秩父高原牧場・彩の国ふれあい牧場>榛名神社>秩父往還・釜伏道に合流>曽根坂一里塚の阿弥陀塔>秩父観音霊場1番札所・四萬部寺


東武東上線小川町
東武東上線小川町に。駅前から白石車庫行・イーグルバスに乗る。川越に本社をもつこのバス会社は、もともとは企業や学校の送迎とか観光バスを中心に事業をおこなっていたが、路線バス事業に乗り出した、ということらしい。1時間に1本のサービス。電車が到着したのは、発車10分程度前。乗り遅れたら大変、ということで、街を見物することもなくバスに飛び乗る。 小川町をバスは進む。古い家並みがところどころに見え隠れする。県道11号線を進む。この県道は熊谷市から小川町をへて、定峰峠方面へと登る。峠からは栃谷の四萬部寺近くに下り秩父市に至る、およそ48キロの道。

橋場バス停
バスは進む。下古寺というか腰越地区のあたりで槻川が接近。この川は武蔵嵐山で嵐山渓谷に流れ込んでいた川筋である。山間の道を北西に進み、東秩父村役場を越え、落合橋で大内沢川を渡ると県道は南に下る。落合橋から1キロ弱進むと橋場バス停。峠道に最短のバス停はここであろう、と当たりをつけて下車。

峠道を進み栗和田集落に
バス停から西に上る車道がある。これが峠へと続く道であろう。峠道を進む。もっとも、峠道とはいっても完全舗装。車の往来も多い。走り屋には有難い道の、よう。しばらく進むと道脇にハイキング道の案内。これが旧道。車道を離れ森の中を進む。 杉林の山道を上る。林を抜け景色が開ける。大霧山であろうか、奥秩父というか外秩父というのか、ともあれ秩父の山並みが眼前に開ける。山並みを楽しみながらブッシュを進むと車道に出る。このあたりは栗和田集落。ハイキング道はおよそ500m程度であった。ワインディングロードを避けた直登ルートといったものであろう、か。

杉林の中を粥新田峠に
しばらく車道を進む。比較的農家が集まる栗和田地区のメーンストリートのあたり、左に入る道筋。「関東ふれあいの道」の案内。「粥新田峠」「皇鈴山CP」といった案内。CPって何だ?チェックポイントのことであった。 旧道を進む。農家が途切れるあたりから舗装もなくなる。杉林の中を進む。見晴らしはよろしくない。が、こういった道を昔の人々も歩いたのか、と思うだけで結構嬉しい。しばらく進むと舗装された林道に合流。粥新田峠に到着する。バス停からおよそ1時間で到着した。予想よりはやい展開であった。

粥新田峠
粥新田峠。「粥仁田峠」とも書かれる。坂上田村麻呂が蝦夷征伐の途中、この地でお粥を食べたとか、日本武尊が粥を食べたとか、名前の由来はあれこれ。標高は540mほど。秩父困民党が東京の鎮台軍と戦い敗れたところでもある。 峠の「あずま屋」でちょっと休憩。あずま屋脇には、大霧山への登山道。標高767mの山頂まで1時間程度、とか。大霧山から定峰峠へと抜けるルートが定番のようだ。少々惹かれはするのだが、本日は巡礼道巡り。奥秩父の山登りは別の機会とすべしと、はやる心を静める。

尾根道散歩
休憩のあと、尾根道をちょっと歩こう、と思った。当初、粥新田峠からは秩父、また小川方面・外秩父の眺望が楽しめる、と思っていたのだが、まったくもって見晴らしが利かない。南へのルートは大霧山への登山ルートであり、尾根道散歩といった雰囲気ではない。地図をチェックすると、北に「秩父高原牧場・彩の国ふれあい牧場」のマーク。北に向かって展望のいいところまで進むことにした。 峠からもと来た道を少しくだり、「二本木峠」「皇鈴山CP」の案内方向に進む。舗装道。ドライブを楽しむ人もときに見かける。しばらくは見晴らしよくない。が、少し歩き、牧場が近づくあたりから眺望が開ける。西は秩父の山並み、東は外秩父の山並み。山が深い。豊かな眺めである。

秩父高原牧場・彩の国ふれあい牧場
牧場のあたりから、三沢方面に下る道がある。その道を越え、500mほど北に進むと「秩父高原牧場・彩の国ふれあい牧場」。売店もある。実のところ、喉がカラカラであった。駅で買い求めた水をどこかで落とした。なんとか水を補給したいと少々焦っていたので一安心。 売店で水を買い、新鮮な牛乳を飲み、さらに食堂で「うどん」を食べる。これが、結構「こし」があり美味であった。お勧めである。眺望を楽しむ。大霧山の山麓、だと思うのだが、山肌がゴルフ場のように下刈りされているのは、牧場敷地であろう、か。 秩父高原牧場の敷地は広い。山稜の西の秩父郡皆野町三沢地区、東の東秩父郡坂本および皆谷地区にまたがり、二本木峠の北にある愛宕山から粥新田峠の南の大霧山稜線上に位置する。標高は270mから767m、広さは270ヘクタール、というから西武ドームの270倍にもなりという。

峠道を下る

少し休憩し、粥新田峠に戻り峠道を下ることにする。峠から100mほどはちょっとした登り。その後は、牧場脇の道をグングン下る。結構膝にくる。牧場用に保存している牧草地が美しい。それにしても秩父は山が深い。秩父市街まで幾重にも尾根が見える。秩父市街の眺望を遮るのは、蓑山であろう。標高587m。先日黒谷の和銅遺跡を訪ねたとき途中まで登った山地である。ちょっとした丘陵地程度と思っていたのだが、蓑山は結構な山容であった。

榛名神社
坂を下ると次第に人家が見えてくる。広町の家並み、か。南にいかにも武甲山といった山容の山。霞みがかかって見づらいのではあるが、武甲に間違いないだろう。途中に榛名神社。案内;室町時代の昔からこの粥新田峠は、秩父と関東平野を結ぶ主要な峠であった。この榛名神社はその中腹に祀られ、上州(群馬)榛名神社の本家とも、または姉君の宮ともいわれている。

秩父往還・釜伏道に合流
峯地区をとおり里に下りる。広町。川越道と熊谷道が分岐するこの地は、宿場町として賑わったようだ。県道82号線に合流。長瀞玉淀自然公園線と呼ばれるこの道は、昔の秩父往還・釜伏道。長瀞から、蓑山と外秩父の山々の間の谷筋、三沢川の谷筋を進み、栃谷を越えると西に折れ、大野原で国道140号線に合流する。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

曽根坂一里塚の阿弥陀塔
県道を南に進む。道の脇に「曽根坂一里塚の阿弥陀塔」。碑の中央に「南無阿弥陀仏」と刻んである。塔の左右に「みキハ大ミや」、「ひだり志まんぶ」と。右へ行くのが大宮(秩父市)道で、左が、四万部(札所一番)道、ということ。この阿弥陀塔は「道しるべ」でもありる。塔の建てられた年号は「元禄一五年」(1702)とある。江戸からの秩父巡礼の始まったのは、このころだった、とか。 道を進むと峠に差しかかる。蓑山からの稜線と外秩父の稜線が再接近するところ。湾曲した峠道を下ると秩父観音霊場1番札所・四萬部寺に到着。


秩父観音霊場1番札所・四萬部寺

山門をくぐり中へ入ると、正面奥に観音堂。元禄の頃の建築。いい雰囲気。寺伝によれば、昔、性空上人が弟子の幻通に、「秩父の里へ仏恩を施して人々を教化すべし」と。幻通はこの地で四萬部の佛典を読誦して経塚を建てた。四萬部寺の名前はこれに由来する。本尊の釈迦如来像が明治の末に、行方不明になったことがある。その後、70年をへて都内で発見され、現在この寺に収まっている、と。 本堂の右手に施食殿の額のかかったお堂。お施食とは、父母、水子等があの世で受けている苦しみを救うための法会。毎年、8月24日に、この堂で行われる四万部の施餓鬼は、関東三大施餓鬼のひとつと。大いに賑わう。ちなみにあとふたつは「さいたま市浦和の玉蔵院の施餓鬼」、「葛飾・永福寺のどじょう施餓鬼」。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


この四萬部寺、現在は一番札所である。が、昔は24番札所。札所番号が変わったのは時代状況の変化に即応した、というとことだろう。初期の札所1番は定林寺(現在17番)、2番松林寺(現在15番)、3番は今宮坊(現在14番)といった秩父市街からはじまっている。
その理由は、設立当初の秩父札所は秩父ローカルなものであったから、だろう。秩父在住の修験者を中心に、現在の秩父市・当時の大宮郷の人々のために作られたものであり、西国観音霊場巡礼や坂東観音霊場巡礼に、行けそうもない秩父の人々のためにできたから、であろう。
その後、江戸時代に、札所の番号は20番を除いてすべて変わってしまった。その理由は、秩父ローカルなものであった秩父観音霊場が、江戸の人をその主要な「お客様」に迎えることになったため、であろう。
豊かになった江戸の人たちがどんどん秩父にやってくるようになった。信仰と行楽をかねた距離としては、1週間もあれば十分なこの秩父は手ごろな宗教・観光エリアであったのだろう。秩父札所の水源は江戸百万に市民であった、とも言われる。
秩父にしっかりした檀家組織をもたない秩父観音霊場のお寺さまとしては、江戸からのお客様に頼ることになる。お客様第一主義としては、江戸からの往還に合わせて、その札番号を変えるのが、マーケティングとして意味有り、と考えたのであろう。
この栃谷の四萬部寺が1番となった理由を推論。江戸時代は「熊谷通り」と「川越通り(小川>東秩父>粥新田峠)」を通るルートが秩父往還の主流。で、このふたつの往還の交差するところがこの栃谷であったから。江戸からはるばる来たお客様に、どうせのことなら、1番札所から始めるほうが、気分がすっきりする、と考えたのではなかろうか。
栃谷からはじまり、2番真福寺を通り、山田>横瀬>大宮郷>寺尾>別所>久那>影森>荒川>小鹿野>吉田と巡る現在の札番となった理由はこういった、マーケティング戦略によるのではなかろう、か。我流類推のため、真偽の程定かならず。 粥新田峠を越え、秩父往還・川越道を秩父観音霊場一番札所に歩き、江戸の人たちの巡礼と言うか、行楽気分をちょっとシェアし、本日の散歩を終える。

金曜日, 9月 14, 2007

秩父観音霊場散歩 Ⅶ:江戸巡礼古道を辿る

秩父札所巡りもほぼ歩き終え。あとは、皆野町の33番札所、吉田の里の34番札所、そして長尾根丘陵上の24番札所、25番札所を残すのみ。なんとか今回で終わりにしよう、と同僚と作戦会議。今回のメーンエベントは長尾根丘陵の江戸巡礼古道を歩くこと。少々不便な33番、34番をカバーし、残り時間で丘陵地帯を歩くにはバスでは少々心もとない。如何せん便数が少なすぎる。ということで今回は車を使い、東京を離れ秩父に向かった。
秩父市街に入り、国道140号線を北上。皆野町役場のあたりから国道を離れ、荒川方面に左折。栗谷瀬橋を渡り、荒川西岸に。少し南に戻り、国神交差点で県道44号線に移る。日野沢川に沿って皆野の町を北東に進む。深沢橋、根古屋橋を越え、どんどん進む。国神交差点から5キロ弱程度だろうか、34番札所・水潜寺に着く。ちなみに根小屋って、先日津久井湖散歩のとき案内版でわかったのだが、山城の裾野の広がる武家屋敷のこと。このあたりもなにかそれらしき館でもあったのだろうか。少なくとも秩父の横瀬町の根古屋は北条氏の根古屋城があった、とか。(金曜日, 9月 14, 2007のブログを修正)




本日のルート;34番札所・水潜寺>33番札所・菊水寺>24番札所・法泉寺>25番札所・久昌寺

34番札所・水潜寺
百観音の結願寺。百観音って、西国33観音霊場、坂東33観音霊場、そしてこの秩父34観音霊場を合わせて百観音、とする。元々は秩父も33観音霊場であったわけだが、34霊場となったことをきっかけに、百観音というマーケティング戦略に転換した、ということだろう、か。
本堂の前に結願の「御砂ふみ」がある。百観音御砂と掘られた足形。「足形のうえで祈れば、百観音の功徳あり」ということ、だ。観音堂は寛政の頃、というから、18世紀末、江戸の人々の寄進により再建された。「檀家をもたない秩父の札所は江戸でもつ」と言われる所以である。観音堂の右奥に岩の絶壁。岩屋があり清水が湧く。「長命水」、と。巡礼を終えた人が水垢離をとる。水潜りの岩屋と呼ばれる。これが寺名の由来。
讃仏堂内に、オビンズルさま。十六羅漢のひとつ。オビンズル様こと、ビンズル尊者には散歩の折々に出合った。撫で仏様として坐っていることが多かったように思う。赤ら顔の飲ん兵衛がキャラクターイメージ。放蕩の末、反省し仏弟子となった、はず。十六羅漢とは、仏を護持する16人の佛弟子のこと。本堂の右手に子育て観音像。本堂下参道脇に六地蔵。六道能化のご利益。六道能化とは六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)のそれぞれの衆生を救うお地蔵様。讃仏道の左には七観音。七観音って、野坂寺でメモしたのだが、六観音が真言系と天台系では少し異なる。聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、如意輪観音までは同じであるが、あとひとつが真言系では准胝観音(じゅんていかんのん)、天台系では不空羂索観音。これがいつのまにか、すべて合わさって七観音になった、とか。
ご詠歌;萬代のねがいをここに 納めおく 苔の下より いづる水かな

34番を終え33番に向かう。これが結構遠い、今回車を使うしかないだろう、となった工程である。ルートは一旦、国神まで戻る。国神交差点からは荒川西岸を大渕まで進む。大渕交差点からは荒川を離れ、赤平川の北を進む。国神交差点から5キロ程度走ったところで左折。奈良川橋を渡り、赤平川の南側に移る。奈良川橋から2キロ程度赤平川に沿って進み、番戸大橋で赤平川の支流を越える。橋を渡るとすぐに南に折れ、2キロ弱進むと33番札所・菊水寺に。時間があれば吉田の里、秩父困民党の決起した椋神社などに寄りたいのだが、何せ時間がない。またいつかの機会、この吉田の里から札立峠を越えて34番札所・水潜寺へと歩く、2・5時間の峠越えをするときにでも寄ることにしよう。

33番札所・菊水寺
正面に観音堂。本尊は聖観音。藤原時代の作。井上如水が奉納した「子がえしの絵図」。生活苦から子供をあやめることを諌めたものである。芭蕉の句碑:寒菊やこぬかのかかる臼のはた。菊水寺の名前の由来は、菊水の井戸から。山賊が雲水の法力で非を悔い改め身を清めた井戸が菊水の井であった、とか。また山賊が行基の教えに改心したといった説も。
ご詠歌;春や夏 冬もさかりの菊水寺 秋の詠めに おくる年つき

江戸巡礼古道散歩
さてさて「僻地」の札所を車でさっと廻る。歩きではないので、少々のウシロメタさもありメモもあっさりにならざるを得ない。が、これからが今回のメーンエベント・江戸巡礼古道散歩となる。
スタート地点は23番音楽寺あたりからはじめよう、と。江戸巡礼古道自体は21番札所・観音寺の少し南あたりにのぼり口はある。が、そのあたりは先回の散歩で長尾根丘陵を横切って国道299号線に降りていったとき、少々の雰囲気を感じてはいる。また、いつだったか、23番札所・音楽寺から22番童子堂に下るときに、これも少々の古道の雰囲気などを感じてはいる。で、観音寺から音楽寺までの巡礼道散歩は「まあ、いいか」となった次第。
スタート地点の23番札所・音楽寺へのアプローチはどうするか。音楽寺の駐車場に車を停めるって案もあるのだが、歩いた後にまた車を取りに戻らなければならない。少々ウザったい。西武秩父からシャトルバス・ぐるりん号が音楽寺まで出ていたような気もする。西武秩父駅に行けばなんとかなるだろう、と言ったこれまたアバウトな確信で車を置きに西武秩父に。
道を南に下り、泉田交差点で国道299号線に。先回の32番札所・法性寺からバス停のある国道299号線までは、結構きつかった、と少々の思い出に浸る。車は東に向かい、道なりに秩父ミューズパークに向かって進み、公園のある長尾根丘陵を越え、荒川を渡り西武秩父駅に。車は秩父市役所横、秩父市民会館の駐車場に停める。秩父に日参したおかげで、どこに車を停めることができるか、ってことも分かるようになっている。
市民会館に車を置き、西武秩父駅に。それほど遠くにない。駅前のバスターミナルで「ぐるりん号」の時間をチェック。残念ながら全然便はない。1日に数便といったもの。どうしたところで、利用できる便はない。あきらめて、タクシーで23番札所・音楽寺に行くことにする。

江戸巡礼古道スタート。音楽寺駐車場から長尾根道・山腹を進む江戸巡礼古道を進むことに。江戸巡礼古道、とはいうものの、江戸時代にこの名称があったわけではあるまい。秩父市観光振興課が作成している観光パンフレット「秩父札所 江戸巡礼古道」によれば、寛延3年(1750)には一番札所のある栃谷村には5万弱、30番札所のある白久村にも5万強の巡礼者が訪れている、と。元禄時代、裕福になった江戸市民の信仰を兼ねた行楽の旅が盛んになった、ということだ。こういった観光客のために、多くの道しるべがつくられた。「右++ 左**」といったもの、である。馬頭観音の石碑もつくられた。で、それをつなげ合わせ江戸の巡礼道を組み上げたのが「江戸巡礼古道」である、と前述のパンフレットにある。秩父市の観光マーケティング施策にまんまと乗せられている、といった思いも残しながら、昔ながらの面影の残る道筋であることを期待しつつ、先に進む。
駐車場を越え梅林に沿って進む。少し下ると駐車場。駐車場を抜けると長尾根道がはじまる。杉林の中を進む。道脇に馬頭観音。杉林をしばらく進むと、「天保9年・二十二夜碑」。ついで、延暦年間・弁才天碑。このあたりからの眺めは美しい。沢を渡る。桜久保沢。念仏坂のあたりには馬頭観音が残る。南は佐久良橋あたりであろう。再び美しい眺め。永源寺跡の脇を進み丘陵を下り、県道77号線近くまで下りる。72号線の一筋東の細路を進む。「江戸時代のみちしるべ石」を越えるあたりで県道72号線に合流。少し進むと24番札所・法泉寺。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

24番札所・法泉寺
長い石段。かなり急な勾配。116段。お堂は仁王門と観音堂を一宇とした造り。本尊は聖観音。室町時代の作と言われる。本堂の左手に六地蔵。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人道・天道の六道を能化する有難い佛様。寺の開基伝説によれば、毘盧遮那の仏勅によって、加賀の白山を勧請した、と。事実『長享二年秩父観音札所番付』では白山別所と記されている。白山系修験者によって奉祀されていたもの、であろう。当時の本尊は十一面観音。白山の本地仏である。本尊が聖観音に変わったのは、勢力強化のために関東を訪れた聖護院門跡道興准后の影響。それを契機に、白山系から本山派に転じて今宮坊の配下となり、さらに聖護院直末となったためであろう、と言われる。白山権現社は、明治期の神仏分離をへて白山神社として現存している。
ご詠歌;天てらす神のははその色かえて なおもふりぬる雪の白山(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

宝泉寺を離れ次の目的地25番札所・久昌寺に向かう。県道を少し進み、「江戸道しるべ石」のあるあたりから、案内にしたがい県道を離れる。北に進むと「酒つくりの森」。酒蔵資料館などもある。地元の酒蔵の経営のようである。すこし中を眺め先に進む。峠道へとのぼる雰囲気。眺めがいい。実にいい。
県道209号の脇の細道を峠へと進む。この県道は小鹿野町に続く。しばらくすると県道を離れ下り道に。案内に従い下ると、「寛政年間のみちしるべ」。眺望良好。東下る。馬頭尊。南に下ればミューズパーク入口あたりだろう。江戸巡礼古道はここから南西に向かう。長尾根道をはなれ「久那みち」となる。
しばらく進み舗装道から離れ脇道に。森というか林の中。沢を渡る。五百(いお)沢。県道72号線と平行に、少し西を進んでいる、よう。久那小学校の西をとおり25番札所・久昌寺に。野面を横切り、沢を渡るといった巡礼道であった。五百沢から25番までの雰囲気がなかなかいい。

25番札所・久昌寺
本尊は聖観音。入口に「御手判寺」の大石柱。このお寺は別名「御手判寺」とも呼ばれる。御手判って、性空上人らが冥土からもたらした石札。閻魔大王の手形石とも。閻魔大王の招きで冥府(めいふ)に赴いた性空上人は、石の手判と石の証文を授かる。その石の証文は西国十四番に、石の手判は秩父札所二十五番に納め置かれた、と。
西国十四番って、近江の三井寺というか園城寺。石柱のすぐ向こうに小さな茅葺の仁王門。観音堂には一木造りの観音さま、が。背後の土手に上ると弁天池。弁財天をまつるお堂がある。武甲山の山容も美しい。ご詠歌にある岩谷堂の由来は、鬼とよばれた母親を大切に孝行したきだてのよい娘が、なくなった母親を岩屋に祠を建てる。その心持にうたれた里人が建てたのがこのお寺のはじまりである、ということだ。
ご詠歌;みなかみは いづくなるらん 岩谷堂(いわやどう) 朝日もくなく 夕日かがやく

秩父鉄道・浦山口駅
荒川を久那橋で渡り、浦山川を常盤橋で渡り、秩父鉄道・浦山口に進み、西武秩父駅に戻り、車に乗り、一路家路を急ぐ。長かった秩父札所巡りもこれで一応結願と相成った。

木曜日, 9月 13, 2007

秩父観音霊場散歩 Ⅵ ;秩父鉄道白久から秩父市街、小鹿野へと

秩父札所巡りのメモもこれで6回目。5回までは昨年11月から12月にかけてメモした。その後、ことしの春先に2回に分けて札所を巡り、秩父巡礼は一応結願とはなっていたのだが、なんとなくメモをする気が起きなかった。理由は、春先の2度にわたる秩父行きは、本来の目的である「のんびり散歩」から少々離れ、スケジュール優先の仕切りとしていたため。歩くことは歩くのだが、段取り優先でバスを使ったり、電車を使ったり、あまつさえ、最終回など、ついに車を使っていた。
1泊2日のスケジュールを含め、秩父には既に延べ6日ほど秩父に来ていたように思う。このままではあと何回かかるやら。秩父地域経済に少々貢献するのはいいのだが、それにしても、なあ、といった気持ちもあった。また、いままでの巡礼道は、それなりに効率的に廻れる道順であったのだが、残された15ほどの霊場は、札所20番代はまだしも、30番代になると、あちらこちらとお寺が点在し、とてものことバスを利用しなければ、いつ結願となるかわからない。そういった事情もあった。ともあれ、なんとか、あと2回くらいでおさめたい。その思いが強く、バスや電車を乗り継いでの「旅」となり、散歩のメモ、というには少々面映い、といった心根ではあった。
そういった折も折り、秩父往還、そしてまた、川越往還を歩き秩父に入ることにした。昔の人と同じく、峠越えをして秩父札所に入る、って体験をしてみたわけだ。この往還のメモも済ませ、ブログにアップ、とは思ったのだが、なんとなく納まりがよくない。抜けている霊場メモが気になった。やはりメモしておこう、と相成った。薄れ行く記憶に抗いながらのメモ。どこまで思い出すものやら、あまり自信がない。ともあれ、散歩のメモをスタートする。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

今回は1泊2日。1日目は秩父鉄道沿いの札所。26番から30番まで。二日目は、1日目の仕上がり次第できめることに。西武秩父駅に到着。そこから秩父鉄道・お花畑駅に。ここには何度きたことやら。で、秩父鉄道にのり、最初の目的地30番札所・法雲寺のある白久駅に。



本日のルート;(初日)30番札所・法雲寺>29番札所・長泉院>28番札所・橋立寺>27番札所・大淵寺>26番札所・円融寺>12番札所・野坂寺>()>19番札所・龍石寺>20番札所・岩之上堂>21番札所・観音寺>
(2日目)本日のルート;31番札所・観音院>32番札所・法性寺

(初日)


30番札所・法雲寺
白久駅から谷津川に沿って歩く。札所は山の斜面を活かしたつくり。正面に「浄土楽園」と呼ばれる庭園。沢の水を引き入れた池。この「心字池」を渡り石段を登る。脇に石仏。観音堂は、この池の後方一段高いところに建つ。本尊は如意輪観音。楊貴妃観音とも呼ばれる。寺伝によれば、1319年(元応元年)鎌倉・建長寺の高僧が、唐の玄宗皇帝が楊貴妃の冥福を祈り彫った像をこの地にもたらした、とか。
ご詠歌;「一心に南無観音と唱うれば 慈悲ふか谷の誓いたのもし」

法雲寺の次は29番札所・長泉院。最寄りの駅は秩父鉄道・武州中川駅。距離は7キロ強。この間を歩くとなると2時間弱かかるよう。スケジュール優先の今回の旅、迷うことなく電車を利用する。

29番札所・長泉院
この寺は石札堂とも呼ばれる。1234年、性空上人が秩父巡礼の折に納めたという古い石札がある、と。性空上人が秩父に来たことはなかったことは、昨年散歩の折にメモしたとおり。伝説は伝説として物語を楽しむべし、と。台座の上に石の延命地蔵。 本堂正面の欄間に、寺宝の一つである板絵額がある。葛飾北斎52歳と署名入りの楼花の絵であるとか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
先日、会社の同僚と信州の川中島を歩いたとき、小布施に行った。小布施は北斎が83歳のときをはじめとして計4回訪ねてきている。江戸で知り合った、小布施の商人・高井鴻山を訪ねてのこと。小布施にある北斎館で印象的であったのは、「天、我をして五年の命を保たしめば真正の画工となるを得べし」という言葉。90歳でなくなったが、100歳まで生き れば、どういった傑作を描き出したのであろう。それにしても改名31回、転居92回、破天荒な人生であった。境内には古木のしだれ桜。本堂の前方に紅葉大権現。豊川稲荷もあった。寺伝によれば、小笹の茂る岩屋の中の観音像を見出し、お堂を建てた、それがこのお寺さまのはじまり、とか。
ご詠歌;「わけのぼりむすぶささの戸 おしひらき 仏をおがむ身こそたのもし」

長泉寺から28番札所・橋立寺には歩いて向かう。山道を進み、浦山川を渡る。山間には浦山ダム。鄙には稀な郷土資料館。ダム建設とのバーターであろう、と。予想通り、郷土資料館でもあり、浦山ダムのあれこれ展示会場でもあった。山道にとりつき先を急ぐ。しばし歩くと、道に沿って、というか、道の下にそれらしきお堂がちょっと見える。道の脇道から岩山を迂回すると橋立寺に

28番札所・橋立寺
朱塗りの観音堂は石灰岩の岩壁の下に建つ。岩壁は高さ65mもあるだろうか。古代、ここに人が住んでいた、とも。ために、岩陰遺跡とも呼ばれる。本尊は馬頭観世音。札所ではここだけ。鎌倉時代の逸品、と。馬頭観音は六観音・八大明王のひとつ。六観音って、聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音。これが真言系。天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。八大明王とは不動・降三世・大笑(軍荼利)・大威徳・大輪・馬頭・無能勝・歩擲の各明王の総称。
堂の右手に馬堂。左甚五郎作という白馬の像がある。ここには県指定天然記念物の橋立鍾乳洞がある。『秩父回覧記』には弘法大師にまつわる縁起が書かれている。 弘法大師が高野山に居た頃のこと。金胎両部の浄土が日本にあるはず、と。ある翁より、「秩父の橋立に行くべし」との御託宣。大師、この地に。再びかの翁が現れる。その案内で洞窟に。金胎の諸仏の姿を感じる。この地が金胎両部の浄土であると確信。馬頭観音を刻んで、堂宇を建立した、とか。この洞窟が橋立鍾乳洞である。ちなみに、金胎両部とは、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅のこと。密教独特の宇宙観のことである。この橋立観音は江戸時代には大宮郷の本山修験である今宮坊の持寺。明治の修験道禁止の頃まで修験道が続いていた。
ご詠歌;霧の海たちかさなるは雲の波 たぐいあらじとわたる橋立

橋立堂を離れ、県道73号線を下る。秩父鉄道と交差し、影森駅方向に向かう。国道140号線にそって走る小道を進み、成行きで右折し進むと、大淵寺。

27番札所・大淵寺
この寺の開基伝説にも橋立堂と同じく弘法大師が登場する。昔々、あるお坊さんがこの地に来た。が、病気で足が動かなくなる。たまたま通り合わせたのが弘法大師。観音像を彫って与える。その像を拝むとあら不思議、みるみる病が癒えた、とか。行基と双璧をなす開基伝説の主人公。29番札所・長泉院の性空上人ではないけれど、伝説は伝説として「楽しんで」おこう。本堂前に清水。飲めば長生きするとの言い伝え。境内には不動明王もまつられている。
このお寺には高さ16mもの観音像がある。高崎・大船とともに、関東の三大観音と呼ばれる。左手に蓮華の代わりに剣をもつ。つくられたのが戦前のこと。軍国主義華やかなりし頃のことでもあり、蓮華の代わりに剣をもつ。ために、護国観音、とも。と、見てきたようにメモしたが、実際に見たわけではない。この観音様は、少々山の中にある。20分程度歩くわけで、わかっておれば歩いたのだろうが、どうしたことか、気がつかなかった。大淵寺から護国観音、山腹の岩井堂、琴平神社をへて26番札所・円融寺に抜ける道がある。琴平ハイキングコースと呼ばれ、尾根道散歩が楽しめるとのことではあった。
ご詠歌;「夏山や しげきがもとに露までも こころへだてぬ月の影森」

26番札所・円融寺
大淵寺を離れ、秩父鉄道・影森駅を越え、成行きで右折。円融寺に着く。この寺には、寺宝として守られる鳥山石燕作の「景清牢破りの絵馬」と、石燕の門人石中女が13歳のとき描いたという「紫式部石山寺秋月の図の絵馬」が保管されている。県指定文化財の牢破りの絵馬は、近松門左衛門の浄瑠璃、『出世景清』を題材にしたものであろう、か。景清って、平景清とも藤原景清、とも。俵藤太こと藤原秀郷の子孫。平家方の武将。その勇猛さゆえに悪七兵衛景清と呼ばれる。屋島の合戦でその勇猛ぶりを示すも、壇ノ浦の合戦で破れ、捕らえられ、獄中で断食し果てた、と。が、景清牢破りの段ではないけれど、どういうわけか、全国に景清を巡る伝説が残り、ために、浄瑠璃や歌舞伎でもおなじみの人物となっている。または、浄瑠璃や歌舞伎で有名になったために全国に伝説が広まったのかもしれない。ま、いずれにしても、景清の何が民衆の琴線に触れたのであろう。そのうちに調べてみたい。鳥山石燕は狩野派の絵師。「画図百鬼夜行」といった妖怪絵師として勇名。ユーモアのある石燕の妖怪は水木しげるなどにも影響を与えた、と。
ご詠歌;尋ねいりかすぶ清水の岩井堂 こころの垢を すすがぬはなし

円融寺の次は12番札所・野坂寺。段取り優先の今回の散歩、というか旅のため、影森から秩父鉄道に乗り、西武秩父まで進む。西武秩父でおり、駅前の野坂町を進み、国道140号線に。南に少し進むと西武秩父線と交差。ガードをくぐり、西武線に沿って東に進むと野坂寺に。秩父への行き帰り車窓から何度も眺めたお寺さま、であった。

12番札所・野坂寺
参堂を通ると黒塗りの楼門。明治末期の火災で寺は焼失。山門だけは残る。楼上には阿弥陀・釈迦像・十三仏像が安置される。不動明王、釈迦如来、文珠菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観世音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿しゅく如来、大日如来、虚空蔵菩薩。これが13仏。階下両脇には十王が。地獄を統べる10人の王様。閻魔王が代表的、というか閻魔様以外、我々門外漢にはポピュラーでは、ない。この十王が現れることにより、他界にバリエーションが生まれた、と。この思想は江戸期になって13仏信仰に結実する。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
本堂に安置する本尊は聖観世音。一木造り。藤原時代の作と言われている。昔、甲斐の国の絹商人がこの地で山賊に襲われる。神仏に助けを求め、南無観世音を唱え続ける。と、お守りが輝き、賊どもは眼を射られて退散。観音の功徳をありがたく思い、この地に堂宇を建て、観世音まつった。これがこの寺の草創、と。本堂の正面に童顔の六地蔵。本堂の右手にお堂。子授け観音と、呑龍上人が祀られている。呑龍様は戦国から江戸期の浄土宗の僧。親孝行ゆえに禁を犯した子供を手厚く保護したことから、「子育て呑龍」と呼ばれ民衆から尊敬された。
ご詠歌;「老いのみに 苦しきものは野坂寺 今おもいしれ 後のよのみち」

野坂寺を終え、はてさて次はどこに、と。今夜の宿は寺尾地区。荒川の西岸、札所22番・童子堂の近く。であれば、ということで宿までの道すがら、札所19番から21番までをカバーしよう、ということにした。すでにお昼もとっくに過ぎている。距離的には丁度いいかと。秩父鉄道に乗り、どちらかといえば最寄りの駅、と言えなくもない大野原の駅に。駅をおり、荒川方面に進む。大畑町に19番札所・龍石寺。

19番札所・龍石寺
砂岩の小山の上に観音堂が建つ。本尊の観音様は室町の作、と。ここにも弘法大師にまつわる由来。日照りで苦しむ人々の前に弘法大師が訪れる。雨乞いの儀式。大岩が二つに割れ、龍が天空に舞い上がる。大雨が降り、地が潤い、豊かな作物が、といったお話である。高い台の上には身代わり地蔵も。三途の川の奪衣婆をまつる三途婆堂も。『地蔵十王経』中に、三途の川や脱衣婆が登場するわけで、上でメモした十王信仰という、地獄の王にその慈悲を願う信仰のことである。
ご詠歌;「あめつちを動かすほどの龍石寺 参いる人には利生あるべし」

次の目的地である20番札所・岩之上堂は荒川の対岸。秩父橋を渡り荒川に沿って少し南に下ると荒川を望む崖の上に札所がある。

20番札所・岩之上堂
札所中最古の建物。荒川に臨む崖の上にある。本尊の聖観音は藤原時代の作。札所中最古の建物。堂内に「猿子の瓔珞」が垂れ下がっている。千疋猿とも呼ばれている。くくり猿をたくさんつくり千羽鶴のように紐をとおしたものである。子の健やかなる成長を祈って母親がつくったもの、とか。観音堂の裏の方に熊野神社があった。
ご詠歌;苔(こけ)むしろ しきてもとまれ 岩の上 玉のうてなも くちはつる身を

石段をのぼり、道にでる。寺尾地区を歩き、県道72号線に。小田蒔中学校、小田蒔小学校の前を進むと道脇に21番札所・観音寺。

21番札所・観音寺
平将門が戦勝祈願のため矢を納めたので矢納堂とも呼ばれる。また、もっと古くは日本武尊が東征の折、ここに立ち寄り、鏑矢を納めたから矢之堂、とも。なおまた、八幡大菩薩の放った矢がここに落ちたためこの名がついた、とも。なおなお、またまた矢納村(現児玉)にあったお寺をここに遷座したので村の名を取って矢納堂、それが訛って矢之堂になったという説も。由来縁起は例によって、あれこれ説があり、定説はない。本尊は聖観音。大正12年の火災からも逃れ、ために「火除けの観音様」とも呼ばれる。行基作との伝えあり。またまた行基が登場。境内には延命地蔵、そして八幡様も。
ご詠歌;梓弓(あずさゆみ) いる矢の堂にもうできて ねがいし法に あたるうれしさ

日もだいぶ暮れてきた。県道72号線を南に進む。しばらく進むと県道を離れ荒川岸に。桜ゴルフ練習場あたりから、台地を荒川に向かってくだる。荒川の崖上といった雰囲気の場所にある宿に入り、本日の予定はこれで終了。散歩から少々時間がたっており、記憶も断片的にしか残っていない。メモはとっとと済ますべし、とあらためて思い直す。

宿で一泊。翌日はどこに、と検討。あれこれ地図を眺め、結局は小鹿野地区、というから西北方向。国道299号線を延々と進めば、志賀坂峠を越え佐久の方面に繋がっている。どうしたところでバスを使わなければ行けそうもない。どこからバスに乗るかとチェック。西武秩父に戻るのもなんだかなら、と調べる。根拠はないのだけれども、国道299号に出ればなんとかなろう、と宿から一直線に長尾根丘陵を越えて国道にでることに。で、就寝。

(2日目)
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宿を出て荒川の段丘崖をのぼり県道72号線に。県道を少し北に戻り、長尾根丘陵にのぼる道に。たまに車も通る道。ジグザクの道をのぼり尾根を越え、長尾根丘陵のその先にある風景をはじめて目にする。畑地が広がるのんびりとした風情。蒔田川を越え、国道299号に。運良く尾根から下ってきた道が国道と合流するところにバス停。また、運良く、ほとんど待つ間もなくバスが来る。
バスに飛び乗り、小鹿野に向かう。これが結構長い。10キロほどもあるだろう。山裾を走り、千束峠を越え、山を下り赤平川を渡り、小鹿野用水と交差するあたりで県道を離れ、街中に入る。小鹿野役場、小鹿野車庫を越え、黒海土バイパスで再び国道に合流する。31番札所・観音院への最寄りのバス停・栗尾はすぐ近く。バスの車窓から見える、稜線がギザギザの山は両神山であろう。
バス停から札所まで山道を歩く。4キロ弱はあろうか。山道といっても舗装道。岩殿沢にそって進む。光珠院を越え、しばらく進むと地蔵堂。新しいお寺様であろうかと思う。が、山腹に広がるお地蔵さんには少々圧倒される。トンネルを抜け、百観音の道案内とともに31番札所・観音院に進む。

31番札所・観音院

道路脇に山門。日本一といわれる石の仁王様。4mもあるだろうか。山門からは観音堂に向かって石段を登る。296段あるという。般若心経276字と、普回向20字の合計の数。普回向20字とは「願以此功徳  (がんにし くどく)普及於一切  (ふぎゅうお いっさい)我等與衆生 (がとうよ しゅじょう)皆共成佛道 (かいぐ じょうぶつどう)のこと。お坊さんが言う、「願わくば この功徳をもって普(あまね)く一切におよぼし 我らと衆生と皆ともに仏道を成(じょう)ぜんことを;十方三世一切(じっぽうさんぜいっさい)の諸仏諸尊菩薩摩訶薩(しょぶつしょそんぼさつまかさつ) 摩訶般若波羅蜜(まかはんにゃはらみつ)」のあの台詞である。一段づつ、お経を唱えながら登っていくと、厄除けのご利益があるとも。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
杉林の中を進む。観音堂は昭和47年に再建されたもの。境内には、大岩壁から落ちる滝がある。清浄の滝。滝下には不動明王。弘法大師が彫ったとされる磨崖仏も。西奥の院に石仏群や胎内くぐり、東奥の院には芭蕉句碑とか馬つなぎ跡なとがある。ここは修験者の修行の地であった、とか。
ご詠歌;みやま路を かきわけ尋ね ゆきみれば わしのいわやに ひびく滝つき

観音院を離れ次の目的地・法性寺に。来た道を戻り、小鹿野の市街まで戻る。小鹿野車庫からバスが出ている、と。バス停に着き時刻表をチェック。2時間だか3時間だか、バスが来ることは無い。枝線であり、確か町営バスであったかと。はてさて、どうしたものかと。できれば今日中に33番札所・菊水寺も廻っておきたい、ということもあり、法性院まではタクシーで行くことに。こうなってしまっては、散歩なのか、スタンプラリーなのかわからなくなってきた。メモを書くのを躊躇っていたのは、こういった「歩き」にもとる行動を散歩とすることへの逡巡のため。ともあれ、タクシーで法性寺に

32番札所・法性寺
道脇に鐘桜門。79段の石段をのぼる。本堂には薬師如来。本堂の前に舟をこぐ観音像を描いた額。ために、この寺は、「お船観音」とも呼ばれる。観音堂は本堂から更に上に、100mほど石段というか、岩を削った山道をのぼったところにある。宝永年というから、1707年につくられた。舞台造り。観音堂の背後には大きな岩窟。ここは長享二年(1488)当時、般若岩殿と呼ばれた第十五番札所である。縁起では行基菩薩が観音像を彫っておさめた、と。また寺伝には、弘法大師も登場する。 『大般若経』六百巻を書写し納めたとか。
この札所の寺宝は「長享の札所番付」。33札所までしかない、ということは初期の頃の資料。今回歩かなかったのだが、奥の院のある山上の岩場が大きな船の舳先の形をしている、と。ために、岩船山と。またここに建つ観音様を、岩船観音と呼ぶ。
ご詠歌;ねがわくわ はんにゃの舟にのりをえん いかなる罪も浮かぶとぞきく

法性寺を離れ次の目的地は33番札所・菊水寺。お寺の前まで町営バスは来るようだが、なにせ数時間待ちといった時間帯。とてものこと、待っているわけにもいかない。歩きはじめる。どの程度あるいただろうか、長若交差点に。駒木野方面へのバス停がある。が、これって残念ながら南に進む。菊水寺は国道299号線方面というから、どちらかといえば北方向。国道299号線・松井田バス停に到着。残念ながら日没時間切れ。33番札所・菊水寺は次回に廻す。バス停で西武秩父行きのバスを待ち、一路家路へと急ぐ。