土曜日, 2月 26, 2022

予土往還 土佐街道・松山街道 ;久万高原町の三坂峠から越ノ峠を繋ぐ②

先回三坂峠から越ノ峠へと向かったが、途次雪がパラツキはじめたこともあり、三坂峠から4キロほどのところ、旧土佐街道が国道33号に出たところで撤退した。 今回は国道33号に出たところにある常夜灯からはじめ予定通り越ノ峠までを繋ぐことができた。
ルートは先回と同じ久万高原遊山会(以下「遊山会」)のトラックログをGPSにプロットし、そのログを忠実に追っかけた。そのルートはしばらく国道33号を進んだ後、国道の右や左へと耕地の畦道などを歩き、七里の里程石から先は旧国道筋を、これも右や左へと逸れ乍ら久万高原町の中心地を抜け、越ノ峠へと上る県道153号まで進む。
県道153は越ノ峠(こしのとう)へと緩やかに上り、有枝川の谷筋にある菅生・中野の集落を繋ぐ完全舗装の道。その上りの途中、県林業県研究センターへの道を越えたその先、山裾の土径に「旧土佐街道」の標識がある。いつだったか岩屋寺へのバリエーション遍路道を歩く途次偶々みかけたこの標識が予土国境を越えて高知を繋ぐ予土往還歩きのきっかけとなったもの。
「旧土佐街道」ってどんなルートで進むのだろうとお気楽に出かけたのだが、単独車行のため常にピストン往復。通常の倍の時間がかかるため高知まで12回に分けて辿ることになった。途中激しい藪で下山途中日没。夜間彷徨といった嬉しくない体験もした。
それはともあれ、「旧土佐街道」の標識の立つ土径も県道153号に分断されており、県道の右に移り沢に沿って少し進んだ後、県道に出てそのまま直ぐ越ノ峠へ到着する。
本日の行程は8キロほどだろうか。三坂峠から越ノ峠までは合計で12キロほどとなる。国道、畦道、生活道、県道とほぼ里道を歩く、のんびり・ゆったりの散歩であった。
で、この行程での思わぬ副産物は旧遍路道が比定できたこと。久万高原町から三坂峠までは、千本峠を越え仰西渠の辺りに出た後は、国道33号を三坂峠へと記していた。が、今回歩いた旧土佐街道は遍路道でもある。当該遍路道ブログに追加修正記事が必要となった。
とはいえ、歩き疲れたお遍路さんが距離も延び、藪漕ぎも必要な旧遍路道を歩くとはとても思えないのだが、それはそれとして、まずは越ノ峠へに向かう旧土佐街道のメモを始める。

赤が実行トラックログ、青が想定トラックログ
本日のルート;
県道153号へ
常夜灯>牛頭天王社>国道33号を左に逸れる>国道33号を越え再び畦道を進む>新大橋手前に遍路標石>高殿神社>国道に出る>仰西渠>水路脇に仰西渠の案内>遍路道合流点にも「仰西渠」の案内>水路は沢を潜る>新四国三十三札所案内標石>水路は国道を潜り右手に移り溝へ落ちる>川の手前で国道に出る>遍路標石と久万新四国七十二番>七里の里程標石>伊勢大神宮>水路にあたる>遍路標石>遍路標石の直ぐ南で国道を左に逸れる>久万小学校の先で旧国道を右に逸れる>旧国道を左に逸れる>旧国道と合流>牛市場跡と市場開祖碑>遍路標石
旧国道と県道153号合流点から越ノ峠へ■
久万川手前の民家軒先に遍路標石>県道左手、石垣の前に遍路標石>旧土佐街道標識>県道153号を横切り旧街道へ>越ノ峠

土佐街道ルート図;赤が実行トラックログ、緑が想定トラックログ


国道33号合流点から旧国道と県道153号との合流点まで

牛頭天王社
先回の終了地点、土佐街道が国道33号に出るところに立つ常夜灯から少し国道を進むと、道の右手に大きな石碑が立つ。石碑に天王社と刻まれる社は牛頭(ごず)天王社。
牛頭天王と言えば京都の八坂神社の元の祭神。明治に八坂神社と改名する以前は祇園社とも祇園感神院と呼ばれていたわけだが、牛頭天王は祇園精舎(釈迦が説法をおこなった聖地)の守護神。日本では神仏混淆の代表的な神さまとなる。
明治元年(1868)の神仏分離令において、「中古以来某権現或ハ牛頭天王之類其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候何レモ其神社之由緒委細ニ書付早々可申出候事」と、権現と天王の神名が付く社はすべて改名すべしとの名指しのお達しにより、祇園さんは社のある地名より八坂神社と改名。祭神も本地垂迹では牛頭天王を本地とするスサノオを祭神とし、全国の祇園社も右へならえと八坂神社としたようだ。
真偽のほどは不明だが、明治期、(牛頭)天王>天皇との連想より、天皇復権の時代ゆえか不敬にあたると考えたといった記事を目にしたことがある。また、疫病退散の神として庶民信仰に深く根付いた天王さんが、天皇神格化を目する新政府にとって目障りな存在であったゆえとの記事もあた。
とはいうものの、政府の締め付けにもかかわらず地域に根付いた天王信仰が、お上の御触れだけで消えるわけもなく、現在でも牛頭天王を祀る社の数は稲荷、八幡、伊勢、天満宮、熊野、諏訪に次いで7番目に多いという。この社もそのひとつかも。

国道33号を左に逸れる
此処で国道を左に逸れ
畦道を抜け右に折れ国道に出る
国道をしばらく進むと「遊山会」のトラックログは、国道を左に折れ、直ぐ右へ折れ少し進んでは右に折れ国道を横断する。
トラックログに従い細路を左折し、右折する箇所は耕地の畦道。とりあえず耕作地に足を踏み入れないように注意しながら畦道を進み、突き当りの細い道に下り右に折れ、ログに従い国道33号に戻る。

国道33号を越え再び畦道を進む
国道を越えた先も畦道を左折・右折・左折し
国道手前で民家を迂回し国道に出る
国道を横断したトラックログは左折・右折・左折を繰り返し再び国道に出る。ログに従い進むと農道を進んだ後、畦道を左折し細路に出ると右折、また直ぐに左折し畦道を進む。
「遊山会」には「天王から先は耕地区画、排水路、農道整備といった圃場整備の影響を受け痕跡らしきものはほとんど残っていない」とある。それが畦道を歩くということになっているのだろう。
畦道を進むと国道手前で民家に当たる。直進すると民家の庭先を進むことになるため、少し右手へと迂回し国道に出る。

新大橋手前に遍路標石
国道に出ると直ぐ久万川に架かかる新大橋手前、道の左手に遍路標石と小さな石仏が並ぶ。遍路標石には「浄るりじ道 三り四丁半 いわやじ江 四り」と刻まれる。
また「遊山会」の資料には、此の地が「槻ノ沢、畑野川を経て岩屋寺へ行く道の分岐点となっている」とある。
遍路道
遍路標石に「いわやじ江 四り」と刻まれ、「槻ノ沢、畑野川を経て岩屋寺へ行く道の分岐点となっている」との記述は、この標石は松山の47番札所浄瑠璃寺から久万の46番札所岩屋寺へと向かう、所謂、逆打ち遍路道の案内ということだろう。 何時だったか歩いた順打ちの遍路道は45番札所大宝寺を打ち終えた後、畑野川筋河合を経て46番札所岩屋寺へ向かう。
岩屋寺を打ち終えた後、河合まで打ち戻りその先で千本峠越えの山道に入り、高野の集落を経て槻ノ沢の集落に出る。そこからは後に訪れる仰西渠の辺りにでたのだが(千本峠越え前半部千本峠越え後半部)、「遊山会」の資料では槻ノ沢からこの標石へと繋ぐとの記述となっている。
実際歩いた印象では、槻ノ沢から標石への道筋には大除城址のある山に大きな採石場があり、山裾を進めそうもなく、道なりに仰西渠辺りに出たのだが、ひょっとすると砕石場の西端を抜けこの標石の地まで歩けるのかもしれない。

高殿神社
新大橋を渡った土佐街道は直ぐ国道を左に逸れ簡易舗装された道を進む。久万川を隔てたその先には特異な形をした山が見える。大除城址があるという。なんとなく気になる山容。いつか上ってみたい。
道を進むと社叢が見え、そこに高殿神社が鎮座する。「こうどの」神社と呼ぶと偶々出合った地元の方に教えて頂いた。
本殿は立派。社に彫られた彫刻もなんだか、いい。縁起をチェックすると「神代の昔、明神右京が日向の高千穂にあった高殿神社の神様(高御産巣日神;たかみむすひのかみ)の分霊をお持ちしてお祭りした。後に明神右京の霊をも合わせ祭った。 明治43年東明神本組にあった村社三島神社をも合わせ祭った。本殿を飾る彫刻は郡内随一で宝物の随神、鰐口は町指定の文化財である」とあった。
明神右京
明神右京には遍路歩きの途次、久万高原町にある第44番札所菅生山大宝寺の縁起で出合った。寺の縁起によれば、「その昔、明神右京・隼人という兄弟の狩人がこの地で十一面観世音菩薩を発見し奉持、安置したのが大宝寺のはじまり、とか。また、大宝元年(701)百済の僧が渡来し、この地にお堂を建て、奉持した十一面観世音像を安置したのが始まり」とあった。大宝寺の本尊は十一面観世音菩薩である。
狩人
空海と狩場明神(「弘法大師行状図絵」
何故に「狩人」が唐突にも登場するのか?少し気になりチェックすると、四国八十八カ所の縁起には「狩人」が登場するケースがいくつかある。そしてそれは、熊野権現御垂迹縁起に関係ある、との説があった(『巡礼と遍路;武田明(三省堂選書)』)。
熊野権現御垂迹縁起によると、「唐の国から、九州の弥彦、四国の石鎚などを経て熊野本宮の大湯原の大木に天下った熊野権現は、獲物を追ってきた狩人の前にその姿を現した、と言う。
熊野権現御垂迹縁起の影響なのかどうか定かではないが、弘法大師・空海にまつわる高野山開創伝承にも狩人が登場する。『金剛峯寺建立修行縁起』によれば、空海が修行の地を求めて探し歩いていたとき、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)で、犬をつれた狩人に出会う。空海は狩人に告げられるまま犬の後を追うと、紀伊国天野(現在の和歌山県かつらぎ町)で土地の神である丹生明神(にうみょうじん)が現れる。
空海は丹生明神から高野山を譲り受け、伽藍を建立することになったというストーリーだが、この狩人は実は狩場明神であり、山の神である丹生明神を祀る祭祀者であった、とのこと。高野山では狩場明神(高野明神とも)と丹生明神とをその開創に関わる神として篤く敬っているとのことである。聖なる山に異国の神である仏教伽藍を創建するに際し、地元の山の神に「礼を尽くした」ということではあろう。ともあれ、狩人の「謎」は少し解決。
大除城址
遍路道歩きの途次、後に訪れる仰西渠の近くにあった「大除城址」の案内に拠れば、「大除城址は中世の山城である。標高694m、麓からの比高は約150m、南北に流れる久万川が裾野をめぐり、土佐街道(現国道33号)が膝下を通る要害の地にある。
遺構は、中予地方を代表する城に相応しく、大規模で堅牢である。三方の険しい地形にそびえ立ち、北方のみが尾根によって背後の山と続いている。本丸跡と推定される最頂部の郭(郭Ⅰ)は、長辺約30m、短辺約18mの方形をなし、周囲は石垣によって固められている。郭Ⅰから南西方向に数mずつの段差を隔てて郭Ⅱ、郭Ⅲに続くが、これら郭の側面にも石積の跡を確認することができる。
郭Ⅱの下の郭Ⅳには東側に小規模な空間があり、虎口であったと考えられる。 郭Ⅰから南東方向には三角形の腰郭(郭Ⅴ)が設けられ、その下に郭Ⅶがある。 郭Ⅶの北側石積から北東斜面に上り、石垣が続いている。郭Ⅰから北方に降って背後に続く尾根道の鞍部には堀切が設けられて守りを固めている。
「予陽河野家譜」には、土佐一条氏の侵入を防ぐために河野氏が築城し、喜多郡宇津城主(私注;小田村、現在の内子町)大野安芸守直家に守らせたと記されてある。築城年代は明らかではないが、文亀元年(1501)前後であるとも推定されている。寛正五年(1464)に久万山入道というものが築城したという庄屋記録があることから、小規模な砦の跡へ築城したとも考えられる。
天文年間には直家の子利家が河野氏にそむいて小手ヶ滝城、大熊城(ともに川内町)の戒能氏を攻め、永禄年間には土佐一条氏が久万山に侵入したのを、利家の子直昌が防いだという(予陽河野家譜)。
直昌は武勇にすぐれ、土佐長曾我部氏に対抗する山の手の旗頭として河野氏の重鎮であった。その幕下は48騎、41箇城といわれ、大除城を中心に、三重の円陣を描き予土国境に向かって展開していた」とあった。
大野氏
大野氏は旧小田町、現在の内子町といった土佐国境地帯に勢力を持つ「山方衆」の有力武将であり、守護である河野氏からも半ば独立したスタンスを示していた。一族には河野氏と敵対する宇都宮氏や長曽我部氏と結ぶものあり、また、河野氏の勢威が盛んで、権益が侵されないときは臣従するも、河野氏が弱体すすると上述の如く、山を下り河野氏に叛乱をおこすこともあった、とか。 その中で、直昌は河野氏の宿将として、土佐一条氏、毛利氏、三好氏、伊予宇、宮氏、長宗我部氏などの侵攻をたびたび撃退し、衰退した河野氏を支えたとのことである。

国道に出る
国道に出る先、集落はない。
丘陵の土径を歩き、国道に戻る
「遊山会」の資料には「高殿神社の東側を通り、国道を横切り、西側の集落の中の新四国三十三札所案内標を抜けて再び国道に合流する」とある。
が、国道を抜けた先は丘陵が国道へと突き出し、集落といったものは見当たらない。偶々出合った地元に方も見たことがない、とのこと。
とりあえず丘陵斜面を進み、鳥居があるが社殿の見当たらない社跡の石段を国道に下りる。再度資料を見ると記述はこの通りであるが、地図にプロットされた新四国三十三札所案内標は、この地より少し先にある。その地に後述の如く当該標石が立っていた。

仰西渠
仰西渠之碑
取水口
国道33号を進むと、道の左手,一段高いところに「仰西渠之碑」と刻まれた石碑が立つ。傍にある案内には「仰西渠(コウサイキョ) 仰西渠は、江戸時代の明暦(1655ー1658)から寛文年間(1661ー1673)のころ久万川の上流、天丸川に沿って安山岩の岩盤を掘削して造られた用水路である。その長さ57メートル、幅2メートル20センチメートル、深さ1メートル50センチメートルで、川水を取り入れて下流の水田25ヘクタールを潤している。
旧久万町村の商家山田屋の山之内彦左衛門が私財を投じて掘ったもので、彦左衛門の号「仰西」にちなんで、水路を仰西渠と名づけた。
導水路の先に手掘隧道
隧道出口
当時の久万町村・入野村は用水域に乏しく、西明神村の天丸川に堰をもうけ樋をつないで取水していたが、破損しやすく経費と労力を空費していた。そこで彦左衛門は恒久策として水路の斬り開きを計画し、石のみと槌だけで三ヶ年かけて完成した。
多くの人を雇い、岩を砕いた岩くず一升に米一升を交換して励まし、工事のために私財をほとんど無くしたという。現地の丘に明治10(1877)年「仰西渠之碑」が建立され徳をたたえている。 昭和25年(1950)10月24日 愛媛県指定史跡 久万高原町教育委員会」とあった。いつだったか遍路歩きの途次この地を訪れ、そのとき見た案内と記述が異なっているが概要は同じ。
実際の水路を見るため記念碑脇にあるステップを下り久万川へ。下りたところには岩盤を掘りぬいた水路トンネルがあるが、取水口はその少し上流。岩を乗り越え取水口、途中の岩を削った余水吐けなどを確認し元に戻る。

散歩をはじめていくつの手堀りの用水に出合っただろう。箱根の深良用水荻窪用水、足柄の山北用水、愛媛でも丹原の劈巌透水路志川堀抜隧道、つい最近では高知での野中兼山通した本山町の上井・下井行川井筋など枚挙に暇ない。水を求める先人の努力は散歩をはじめるまで、全く知らなかったことである。
また、農民、商人普請の用水開削の記録は残らず、あまつさえ罪を問われるケースが目についた。お上としては農民・商人のその功を認めたくなかったのだろうか。

水路脇に仰西渠の案内
「遊山会」の資料には、「ここ(仰西渠)から「土佐街道」は「仰西渠」に沿って延びている。旧国道と現国道が分岐するところで西に入り南に振って細い道をいくと遍路標識と馬頭観音や地蔵群が見えてくる」とあり、トラックログも国道に沿って左手、その後右手を進み新旧国道分岐点を越え、川を渡った先で国道に合流している。
トラックログに従い水路を進む。途中、仰西渠の案内があり、「ここを流れる用水路が造られた江戸時代は、米は年(税)として武士におさめる大切なものでした。人々は、とても重い税のために、なんとかして水田を広げて、コメのとれ高を増やそうと努力しました。
入野地区のような、やや高いところへ水を引くには、久万川のずっと上流のこの地から用水路を引くしかありません。
最初、人びとは、川の上流に堰を造り、固い岩山のところは筧(かけひ)をつかって水を引こうとしたようですが、筧は台風や大雨、強風などでこわされたり、流されたりすることが多かったようです。修理する費用や時間もなく、水がなければ稲が育たなくなってしまいます。人びとの暮らしは大変苦しいものだったようです。 人びとの苦しい生活を見かねた山之内仰西は、用水路を造り、入野地区まで水を引こうと考えて、かたい岩山を切り開く工事にとりかかりました。
はじめは、仰西や石工だけで行っていましたが、「石粉一升、米一升」のアイデアにより村人の協力がえられました。そのうちに米をめあてにしていた人も、心から水を求めて仕事に取り組むようになり、ついに用水路は完成しました。この後は、コメの取れ高も安定し、暮らしはずっとよくなったそうです。
その後、人びとは、この用水路を「仰西渠」と呼ぶようになりました。「仰西渠」は山之内仰西や地域の地人々の「郷土を思いやる心」がひとつになって、造ることができた用水路です」とある。
仰西渠が潤した入野の地が記される
説明は状上述記念碑で見たものと特段の違いはないのだが、案内と一緒に仰西渠用水地図があり仰西渠が潤した入野の地域が描かれ。そこは国道と久万川に挟まれた一帯であった。
ここでちょっと疑問。「仰西渠之碑」の案内に、仰西渠の長さが57mとあったが、取水口から計ると大岩を掘りぬいたあたりで57mを越えている。とてもではないが、地図に描かれた入野の耕地まで届かない。チェックすると、「仰西渠」とは13メートルの手掘水路トンネルを含めた安産岩を穿ったところを指し、そこから先は「仰西井手」と呼ばれる水路となって流れていたようだ。納得。

遍路道合流点にも「仰西渠」の案内
槻ノ沢からの遍路道の下を潜る
「仰西渠」と言うか、既に「仰西井手」となった水路を進むと、いつだったか千本峠から高野、槻ノ沢の集落を経て久万川(天丸川)を渡り国道に出た遍路道筋にあたる。前述遍路標石の案内に拠れば、遍路道はこの地におりることなく大除城址のある山裾を進み遍路標石のあるところに出る、とあった。
遍路道を越え水路は進む
遍路道は国道に繋がる
遍路道筋にまたまた「仰西渠」の案内。「手づくりの水路“仰西渠” 仰西渠は、元禄年間。(1688-1703)に山之内彦左衛門(後に仰西という)が私財を投じて寛政させた注目すべき水路で、青の洞門(大分県耶馬渓)にも匹敵するといわれております。この水路のおかげで、農業用水の確保に苦しんでいた農民が、どんなに助かったか言うまでもありません。長さ57m・幅2.2m・深さ1.5mのこの水路は、現在も当時の姿のまま、利用されています。昭和25年10月10日県の史跡に指定されています」とある。
水路は石で組まれた水路トンネルを抜け国道33号直ぐ下を先に進む。水路はコンクリート補強されており、古き趣は残っていない。

水路は沢を潜る
国道下を水路は進む。これが土佐街道筋
コンクリート補強された沢の鉄板下を潜る
国道33号直ぐ下を進む水路はほどなく沢筋に至る。よく見ると水路の上を鉄板が覆い、沢水はその鉄板を流れ、水路は鉄板下を潜り先に進んでいる。鉄板の沢を越えたところに水門が設けられている。時に応じ余水を沢に落としているのだろうか。 以下は妄想であるが、この水路が往昔の「仰西井手」であれば、否、この水路が往昔の「仰西井手」でないとしても、沢がある以上、「仰西井手」を流れてきた水は一度沢に落ち、その下流部の堰止より水路を流して久万川右岸の入野の地を潤していたのではないかと思える。
新四国三十三札所案内標石
新四国三十三札所案内標石
標石の先、沢筋手前を国道に出る
水路をそのまま進み沢を渡るには少し水が多すぎる。で、沢の手前で国道に一旦出る。そういえば、前述、「遊山会」資料記述とは異なり地図上にプロットされた新四国三十三札所案内標石がこの沢筋、国道の少し上流にある。国道を少しり、「遊山会」の記述の通り集落に入り、沢筋へとグルリと廻り込む道筋に新四国三十三札所案内標石が立っていた。「三十三ヶ所 観世音 十五番札所へ 寛政三辛亥(かのとい)」とある。ミニ三十三所観音霊場だろう。観世音菩薩は三十三の姿(十一面観音や千手観音など)に変身し衆生を救済するゆえの「三十三札所」ではあろう。
寛政三辛亥(かのとい)
前回もメモしたのだが、自分への確認のため元号と並べ表記される干支(えと)についてメモする。
辛亥(かのとい)は干支と呼ばれる60を周期とする数詞の48番目。古代中国にはじまる暦法上の用語であり、暦を始めとして、時間、方位、ことがらの順序などに用いられる。干支は十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類)と十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類)の組み合わせよりなり、甲子よりはじまり、乙丑 ,丙寅,丁卯,戊辰,己巳,庚午,辛未,壬申,癸酉,甲亥、と十干と十二支がひとつずつずれる組み合わせで進み、60番の癸亥で一巡する。ぱっと見には10と12であれば120のようにも思えるが、61番は最初の組み合わせに戻るため60通り。そういえば10と12の最少公倍数は60だ。
で、前々から干支が元号(この場合は寛政三)とペアで並ぶのは?と思っていたのだが、よくよく考えれば、お上の都合でころころ変わる元号では経年がわからない。
寛政の三つ前の元号は明和だが、例えば明和五年と寛政三年までは何年あるかこれだけではわからない。が、干支と合わせは、明和五年(1768)は戊子(つちのえね)で干支の25番目。寛政三年(1791)は辛亥で干支で48番目。48-25=23。1791-1768=23。これなら商人も10年でいくら利子をつけて、といった商いも安心してできるかも。
因みに、干支(えと)は通常十二支とするが、本来は十干と十二支の組み合わせであり上述の60の組み合わせを言う。また還暦を61とするのは暦としての干支が一巡し元に還ることに拠る、と。

水路は暗渠・開渠となって進み国道を潜る
沢を越えてた先は暗渠
その先、開渠となって進む
沢を越えた水路は暗渠となり、また開渠となって集落の中を流れ、その先草叢となった辺りを進み国道にあたり、国道下を潜り国道の西側に移る。



国道を潜り集落を抜け、水は溝に落ちる
国道に沿って少し進み
国道一筋西、集落の中を抜け
国道西側に出た水路は、国道に沿って溝となり少し進んだ後、国道の一筋西側の集落の中を流れる。




国道に接近した後も南に流れ
突然溝に落ち込み水路はここで消える
一旦国道に最接近するも、その先も細い溝の中を流れ川の手前で先を遮る溝に落ち込む。溝は久万川なのか、前面の川なのか地中に潜り不明だが、水路はここで切れる。



川の手前で国道に出る
トラックログは直進するが、そこは藪
川の手前、廃屋庭の藪を抜け国道に出る

「遊山会」のトラックログはその先も川に向かって進む。が、もう道はなく草叢。トラックログは川を渡るが、先に橋はなく藪も激しい。橋の手前、廃屋の庭の藪を漕ぎ国道に出る。
国道に出た先に橋。その先に旧国道が左に逸れている。ここが前述、「遊山会」の資料に「旧国道と現国道が分岐するところで西に入り南に振って細い道をいくと遍路標識と馬頭観音や地蔵群が見えてくる」とある、西に入り南に振って...の箇所であろう。

遍路標石と久万新四国七十二番
「遊山会」の資料にある「旧国道と現国道が分岐するところで西に入る」道を探す。「遊山会」のトラックログが示す旧土佐街道は激しい藪から先、国道に出ることなく川を渡る。橋がない時代、渡河し対岸に出たのだろう。その渡河地点を地図で見ると、橋を渡って直ぐ国道を右に折れる細路を少し進めばいいようだ。
細路に入ると水路が延びるが、土佐街道は直ぐに水路を離れ左折し土径を進む。少し進むと土径の右手に少し新しい風情の石仏が佇み、更にその先、道の右手に石の祠があり五体の仏が祀られる。その前に「久万新四国七十二番」と書かれた木の標識がある。さきほどの新四国はミニ観音霊場巡礼、こちらはミニ四国遍路巡礼。ふたつのミニ巡礼道があるのだろう。
その石の祠の右、石の祠とコンクリートブロックに挟まれて遍路標石が立つ。風雨に晒され文字は読めない。また、遍路標石の前には馬頭観音があるとのことだが、それは崩れて原型をとどめていなかった。

七里の里程標石
土佐街道は土径を少し進み国道33号に合流する。合流した国道の左手に里程標石、「松山札の辻から六里」と刻まれる。里程石傍に土佐街道の案内板。
「近世土佐街道(三坂越え)
名称;土佐街道というのは、伊予国から土佐へ向かう街道のことである。時代によって地域によっていろいろな街道がある。この土佐街道は、近世つまり江戸時代のもので、三坂越えと呼ばれている地域のものである。
成立;一六〇三(慶長八)年江戸幕府開始ととも日本橋を起点に諸街道一里塚を築かせ始めていることにより、松山藩も、かなり早い時期に街道整備を始めたものと思われる。一七四〇(元文五)年から一七四一(寛保元)年にかけて一里塚を木製から石製に作り替えた記録が残っている。
路程;松山札の辻を起点に森松・荏原を経て、三坂峠から久万町七鳥・二箆(私注;ふたつの)に至るコースである。
久万高原町内の里塚石は次のようになっている。
六里 東明神、七里久万町村、八里 菅生村、九里 有枝村、十里 七烏村、十一里 東川村、十二里 蓿(私注;しゅく?)川村 以上すべて現存する。
特色と利用
①松山藩の久万山支配の道である。
(松山藩士等人馬の往来の便を図ったもの・中世城館の配列に沿っている)
②人の往来の開けたところである。
(駄賃持ちたちの馬による物流の道であった)
③百姓一揆の道である。
(一七八七年土佐用居・池川の百姓、一八四二年土佐名野川の百姓いずれも大宝寺に逃散)」とあった。
二箆(ふたつの)は予土国境・黒滝峠の手前に二箆山がある。面河川谷筋の七鳥から面河川を渡り山に取り付き、十一里の里程標石を越え、高山通り(山腹に高山の集落がある)の尾根筋を猿楽石をへて予土国境・黒滝峠に至ることを指すのだろう。
里程石
松山城下、現在の市電本町三町目停留所近くのお濠そばに松山藩の高札場があり、その札の立つ場所より土佐街道を予土国境の黒滝峠まで一里ごとに里程石が立つ。
〇里程石の場所
上述、六里 東明神の里程石は先回の散歩で出合った。七里久万町村の里程標はこれ。その先越ノ峠からすぐ八里里程標石(上述、菅生村)、有枝川の谷筋へと向かう色ノ峠手前に九里里程標石(上述、有枝村)、七鳥かしが峠を越え面河川谷筋の七鳥に出ると十里の里程標石(上述、七烏村)、面河川を渡り高山通りの尾根筋手前に十一里の里程標石(上述、東川村)、黒滝峠へ向かう尾根道の猿楽岩傍に十二里(上述、蓿川村) 、黒滝峠には十二里十六丁の里程標石は、昨年の土佐街道歩きですでに確認済。 また遍路歩きの途次、八坂寺の北の遍路道に三里、一遍上人修行の場として知られる窪寺に四里の里程標石に出合っている。
百姓一揆
案内にあった「③百姓一揆の道である。(一七八七年土佐用居・池川の百姓、一八四二年土佐名野川の百姓いずれも大宝寺に逃散)」のうち、一七八七年土佐用居・池川の百姓一揆は予土往還・高山通りの黒滝、また黒滝峠から水ノ峠を経て池川の町でその案内に出合った。その時のメモを再掲する。
池川紙一揆逃散の道 
「池川紙一揆逃散の道 紙一揆とは山間部においては米納の代わりに紙を藩に現物していたわけだが、搾取に苦しみ起こした農民一揆。農民一揆には徒党を組み暴徒と化すもの、強訴に及ぶもの、他国に逃亡する逃散があるが、池川紙一揆逃散の道とは、天明七年(1787)2月26日、土佐藩への貢祖である紙の現物納入に苦しむ池川の農民六百人が逃散を決め伊予に逃亡したもの。
そのルートは寄居の集落から水ノ峠、雑誌山北麓の通称「雑誌越え」を経て黒滝峠で伊予に入る。黒滝峠からは猿楽岩を経て尾根筋を進み七鳥に下る通称「予州高山通り」を進み(七鳥に下る山麓に高山集落の地名が地図にある。高山通りの由来だろうか)、久万の四国遍路第44番札所大宝寺に庇護を求めた。
結局、この寺において帰国後処罰されないことを保証され、3月21日大宝寺を離れ帰国の途につく。帰路は土佐街道・松山街道のもうひとつのルートである、現在の国道494号筋を進み瓜生野峠(サレノ峠?)を経て用居の番所で取り調べを受けた後、池川に戻ったとのことである。
名野川百姓の逃散
「えひめの記憶」には「池川紙一揆が菅生山へ駈け込んでから五五年、天保一三年(一八四二)七月四日土佐名野川郷民三二九人が逃散して来ている。
天保一三年七月四日郷民は仁淀川沿いに越境し、山を伝い中津から、七鳥、更に進んで七月一五日には菅生山に入った。
このたびは一揆の理由が前の紙一揆とは理由がちがっていた。前回の寺院の取扱いは、一人の責任者も出さなかったが、これはその後の藩政の支障となったことを理由に、土佐藩は極力寺院扱いを拒杏し、松山藩との政治的折衝によることに成功。松山藩は、菅生山に土佐郷民の引渡しを申し入れ、七月二五日松山藩から四五○人、土佐藩より六〇〇人の役人を出し、大宝寺を包囲し、一人ずつ帳簿と引合わせて、裏門から呼び出して渡し、直ちに腰縄をかけて引き立て、農民は強制的に帰郷させられて事件はおさまったのである。
大宝寺ではこの事について腹におさまらず嘆願書がでている。(岩屋寺所蔵文書)」とあった。

伊勢大神宮
七里標石の先で国道を左に逸れる
直ぐ舗装された道となり伊勢大神宮に向かう
「遊山会」のトラックログは七里の里程標石の先で国道を逸れる。国道左手、スチール柵手前より砂利道の細路に入ると直ぐ舗装された道となり、民家の間を道なりに進むと前面は社の境内に阻まれる。
「遊山会」の資料に「七里石が建っているのに出会う。このあと、伊勢神宮の裏を通っていたという道は塞がってしまって通ることはできない。いちど旧国道に戻り...」とある箇所であろう。
伊勢大神宮
記述に従い左折し旧国道に迂回。伊勢大神宮にお詣り。
Webにあった社のデータには
「祭神 天照皇大神(あまてらすおほかみ) 豊受大神(とようけのおほかみ)
摂内社 金刀比羅神社(大物主神、山家公頼之霊)
由緒
中世、伊勢神宮崇敬の念が昂って諸国各地に「御師」が滞在し神宮と国民の間を執 持し、祈祷を取次ぎ、神札の頒布を行っていた。
当社は御師の久万山に於ける滞在所であり、明治初年神宮教の久万山布教所となり、同15年あらためて伊勢より天照皇大神、豊受大神の分霊を勧請した。同32年9月本教の解散によって、神宮奉斎会久万支部として発足し、昭和21年神宮奉斎会は解散。同27年宗教法人久万伊勢大神宮として新発足した」とあった。

今回の散歩のスタート地点の大きな石の常夜灯に「天」「金」「石」と刻まれ、金は金毘羅信仰、石は石鎚信仰、そして「天」は天照皇大神宮を指し伊勢神宮の伊勢信仰を示すとメモした。金毘羅巡礼、石鎚巡礼はそれとして、その時はこの地よりお伊勢参りへのリアリティがあまりなかったのだが、この社がお伊勢参りの先達である御師の滞在所であるとのこと。この地より御師に引きられた伊勢講中が伊勢参りに向かう姿が想起し得る。
摂内社金毘羅神社
それはそれとして、説明には「摂内社金毘羅神社(大物主神、山家公頼之霊)」とある。大物主神は神仏混淆の頃の祭神であった金毘羅大権現に替わり、明治期の神仏分離令以降金毘羅さんの祭神になったのでわかるのだが、ここになにゆえ山家公頼之霊が登場するのだろう。
山家公頼
山家(私注;やんべ)公頼(通称 清兵衛)は宇和島藩家老。宇和島の和霊神社の主祭神。家老が神となった経緯は菅原道真を想起する。
公頼は伊達政宗の家臣であったが、元和元年(1615年)政宗の長男・秀宗が宇和島に移封されるのに従い、その家老として藩政を支えた。宇和島はそれまでの領主(私注;戸田勝高)の悪政により疲弊していたが、公頼は租税軽減や産業振興を行い、効果を上げた。しかし、元和6年(1621)、藩主秀宗は公頼を嫉妬する藩士による讒言を信じ、公頼とその息子らを殺害させた(和霊騒動)。
公頼を慕う領民たちは、密かに城北森安の八面荒神の境内に小祠を設けて公頼一族の霊を祀った。その後、公頼殺害に関与した者が落雷・海難などにより次々と変死し、また公頼の無実も判明したため、承応2年(1653年)、秀宗は公頼を祀る神社を創建し、山頼和霊神社と称した。享保20年(1735年)に宇和島市街地の北端、鎌江城跡に遷座した。
和霊信仰
和霊神社に祀られる非業の死をとげた山家清兵衛公頼が和霊信仰として拡がる過程について「えひめの記憶」には、次のように記される。
 「清兵衛が和霊大明神になる過程は、我が国に古くからあった御霊(ごりょう)信仰のひとつの典型である。御霊信仰とは、恨みを呑んで死んでいった者の怨霊(おんりょう)がこの世に崇るという信仰で、……代表的御霊には、藤原氏の陰謀の犠牲になった菅原道真や、反乱を起こして敗死した平将門などがある。
またタタリをしずめるためにその怨霊・御霊を祭祀(さいし)し、祭礼をくりかえす結果、怨霊・御霊は荒ぶる霊からやがて平和な恵みをもたらす守護神すなわちニギミタマ(和霊・和魂)に変化し、かえって霊験あらたかな神となる。この御霊から和霊への変質も、御霊信仰のいま一つの特色である。
この御霊から和霊への変質を経て、祭神山家清兵衛もまた霊験あらたかな神、和霊大明神として広く人々に信仰されるようになったと考えられる。
信仰圏
また信仰圏について「和霊信仰の広がりは、四国、九州、中国地方一円に及び、各地に和霊神社(独立社、境内社)が建てられたり、和霊神社の祭神が合祀されたりした。このように信仰圏が拡大したことについては、①四国巡礼、②宇和島との交易・交通(特に海上交通)の発達、③各地を巡業した人形芝居などが重要な役割を果たしたと思われる(「えひめの記憶」)」とある。

と、山家公頼之霊、和霊信仰についてはちょっとわかったが、Webの資料では「摂内社 金毘羅神社(大物主神、山家公頼之霊)」と金毘羅神社に括られており、金毘羅神社との関連は不明のままである。
和霊様は航海安全や産業振興などさまざまな功徳があるようだが、主に農業・漁業の神様として、瀬戸内海沿岸で金毘羅様に次いで庶民の信仰を集めているという。金毘羅さんと和霊様の瀬戸内沿岸の民間信仰の二強が集えば、怖いものなし、ということだろうか。


県道12号を越えると水路にあたる
伊勢大神宮を迂回し畦道を南進
その先、土佐街道は民家の間を進む
伊勢大神宮に阻まれ旧国道を迂回した土佐街道のルートについて、「遊山会」の資料は「いちど旧国道に戻り、西進して水田はしを通り民家の間を縫うように南に進むと川沿いの道になり、旧国道(現町道)にでる」と記す。
県道12号を越え再び民家の軒下を進むと
コンクリート護岸の川にあたる
社を迂回したトラックログは田圃の畦道を抜けると民家の間を進む細路となり、河合の集落を繋ぐ県道12号を越え、県久万高原土木事務所の東の道を進み、再び民家の軒先を進むとコンクリートで固められた水路といった風情の川にあたる。トラックログに従い少し川の左岸を下流に進み、コンクリート造りの橋を渡り右岸に移る。

旧国道に遍路標石
川を渡り
土径を進むと
水路右岸に移った土佐街道は土径を少し進みT字路を左折し旧国道(現町道)に出る。旧道に出ると立派な遍路標石が立つ。




旧街道に遍路標識。「左へんろ道」の文字も
遍路標石には「左 へんろ道 岩屋寺江九十一丁」「右ぎゃくへんろ道」「當町江うちもどり 嘉永五壬子春二月吉日」と刻まれる。
「左 へんろ道 岩屋寺江九十一丁」が指す方向は第44番札所大宝寺とは真逆。土佐街道を辿ってきたこの場所に大宝寺ではなく岩屋寺江九十一丁(約19m/丁)と刻まれるのは何故?

44番札所大宝寺への遍路標石
「右 へんろ道」の先に総門が見える
右折すると直ぐT字路があり、そこに弘化五年(一八四八)建立の遍路標石があり、「右 へんろ道」と刻まれる。ここを右折し久万川を渡り総門を潜ると、その先に44番札所大宝寺が建つ。唯一考えられるのは、越ノ峠を越える逆打ち遍路道の標石。46番札所より三坂峠を越え、前述千本峠越えの遍路道をとらず、この地まで進み、ここを左折し越ノ峠を越え、槇谷から尾根筋に上り45番札所岩屋寺を打った後、44番札所まで打ち戻ってくる案内とすれば理屈は合う。

「右ぎゃくへんろミち」
「右 ぎゃくへんろミち」は今辿ってきた道筋を指す。ここに「ぎゃくへんろミち」とあるのは?あれこれと頭を巡らす。と、右折し直ぐに右折する土佐街道に入ることなく、そのまま国道33号を越えると、鶸田峠・下坂場峠への道に繋がる。この峠越えは内子、大洲を経て43番札所明石寺に繋がる遍路道。逆打ちで明石寺へ向かうお遍路さんの標石かとも思う。

「當町江うちもどり嘉永五壬子春二月吉日」」
旧街道面に刻まれるこの文字。最初はちょっと混乱。「うちもどり」は「札所を打って戻ってくる」との意。45番札所岩屋寺を打った後、戻るということ。それはそれでいいのだが、「當町江」がわからない。
と、先ほど七里の里程石の案内に「久万町村」とあったことを思い出した。藩政期この地は久万町村と呼ばれたようだ。あれこれチェックすると、この場合の町は現在の市町村制度の町ではなく、所謂宿場町、市場町、門前町と呼ばれた「町」のこと。この地は街村(がいそん)と呼ばれる、街道に沿い両側あるいは片側に細長く密集して形成された列状村落であり、それは宿場町、市場町、門前町のように街路への依存度が大きく、また商業的機能が高い村落を指すとあった(「えひめの記憶」)。それ故の「久万町村」ではないだろうか。
とすれば、「當町江うちもどり」とは、44番札所大宝寺を参拝し、45番札所岩屋寺を打った後、當町(この久万町村)へ(江)一旦戻ることを意味するように思える。
この「當町江うちもどり」と組み合わせると「左 へんろ道 岩屋寺江九十一丁」のモヤモヤはちょっと解消。
打ち戻りの遍路道
45番岩屋寺は44番大宝寺より峠を越え、河合の集落より有枝川の支流の源頭部へと東に進み分水界を越えた面河川支流の谷筋にある。46番札所浄瑠璃寺は大宝寺のずっと北、三坂峠を下ったところ。四国山地に阻まれ、岩屋寺から直接浄瑠璃寺に向かう道はない。岩屋寺を打った後は、今まで辿ってきた遍路道を兼ねた土佐街道筋まで戻り三坂峠を下りることになる。
通常の遍路道は岩屋寺を打った後、久万町村まで戻ることなく、途中の河合の先より千本峠を越えて高野の集落を経て槻ノ沢から上述、「仰西渠」の北の遍路標石の辺りに下り、土佐街道(遍路道)を三坂峠へと向かう(千本峠越え前半千本峠越え後半)。
また、河合から有枝川に沿って北に進み六部堂越えを経て、先回出合った皿ヶ嶺登山口休憩所に出る遍路道もある(有枝川筋から六部堂越えまでは道は消え現在は藪漕ぎ道となっている)。
いずれにしても、久万町村迄戻ることなく北に進むことが多かったようだが、この遍路標石にあるように、久万町村まで戻り、今まで三坂峠から辿ってきた土佐街道(遍路道)を北へと進むお遍路さんも多くいたのだろう。

遍路標石の直ぐ南で旧国道を左に逸れる
旧国道をここで左に逸れ
家並の中を進み再び旧国道に出る
「遊山会」のトラックログに従い旧国道を左に逸れる。「遊山会」の資料には「嘉永五年の道標から少し東へ入り、おもご酒造の裏に回り南進し、町立病院への道路に出る。ここから五〇メートルほど西へ進み、細い道路を二〇メートルくらい進むと真光寺墓地の前に出る。ここには、すでに述べた山之内仰西と桧垣伸の墓がある」とある。Google mapに「松山街道」と記されるこのルートを進み旧国道に出る。
山之内仰西と桧垣伸のお墓がある真光寺墓地は、旧国道に出た後、現国道に抜ける道の左手にある。お墓の写真は何となく不敬にあたると撮らないことにしている。

久万小学校の先で旧国道を右に逸れる
久万小学校の先で旧国道を右に逸れ
民家の間を進み道なりに旧国道に戻る

一旦旧国道に出た土佐街道は少し南進した後、久万小学校の先で旧国道を右に逸れる。「遊山会」の資料に「旧国道に戻って、久万小学校前で右斜め前の小さい道路を進む。この道を南進して再び旧国道に出、」とあり、この道筋もGoogle Mapに 「松山街道」と記される。民家の間の生活道を道なりに進み旧国道に出る。

旧国道を左に逸れる
ここで旧国道を左に逸れ路地を進む
路地の先は畦道、そして休耕田の藪道
一旦旧国道に出た土佐街道は直ぐ左に逸れる。「遊山会」の資料には「道路を横切って民家の裏を通り、旧国道に出るところで田んぼの横を通り、水路沿いの道を南進する。町営住宅裏で細い道路に出るので、そ
こを南進するとまた旧国道に出る」とある。このルートはGoogle Mapに「松山街道」と記載されてはいない。
久万木材市場への道をクロスし
三界萬霊を見遣り路地を進み旧国道へ
トラックログに従い左に逸れる箇所をチェック。そこは民家ブロック塀に沿った細路であった。細い路地を抜けると砂利の生活道。その先で水路に沿った畦道を抜けると水路は草で覆われる。
足元を注意し、民家脇を流れる水路を進むと久万川傍に広がる久万木材市場への道に出る。その道を越えた先、草は消えコンクリートの溝が露わになった水路に沿って南進し、左手が開けてた辺りを過ぎると道の左右に民家が並ぶ路地に入り、途次三界萬霊の祠を見遣りながら南進すると旧国道に合流する。町営住宅はわからなかったが、トラックログに従い旧道に出た。

旧国道と合流
旧国道との合流点
旧国道との合流点の直ぐ先は越ノ
峠を越える県道153号。この地には第43番札所、西予市明石寺から大洲、内子を経て真弓峠と農祖峠を越えて久万の町に入ったときに訪れている。
この地から「遊山会」の資料のある牛市場跡と市場開祖碑にちょっと立ち寄る。
牛市場跡と市場開祖碑
「遊山会」の資料には「農業共済組合事所を少し過ぎたところで西に向かうと久万の牛市として、日本有数の規模を誇った牛市場跡とその北側に、牛市場開設に功のあった高野幸治を顕彰した市場開祖碑が建っている」とある。チェックするが久万農業共済組事務所は場所を移転したのか、旧国道を戻った久万小学校近くにある。少し場所が離れすぎている。偶々出合った地元の方に顕彰碑の場所をお聞きする。 はっきりとはわからないが、旧国道を少し南に進み、右折して現国道33号に出る道の右手に石碑があるとのこと。
市場開祖 高野幸治氏頌德碑
如何にも国道33号から県道153号を繋ぐために通されてたような道の左手(北側)、国道33号に出る手前に大きな石碑が立っていた。
石碑には
「市場開祖 高野幸治氏頌德碑 大正十三年六月十五日建之 建設企者 上浮穴郡畜?組合 同郡 牛馬商組合野市場後援会」との銘文が刻まれる。
「遊山会」の資料には「碑の石は牛の角を表し、台座は牛の面を造形しているといわれる。
高野幸治は天明年間に生まれ明治六年(一八七三)に没しているが、商才に富んだ人だったようで、一二歳で近所の馬喰白石新七に弟子入りし、十三歳で独立、一人前の馬喰となり、現場の牛や馬を引いて農家を回り個別交渉をするこれまでのやり方を改め、当地の三島神社の秋祭りに「市」を開く方法を採り大盛況を博し、「幸治市」とよばれるようになった。
顕彰碑南の広場。牛市場跡だろうか
その後郡内はもとより中国・九州からまで集まるようになり、「幸治市」は「野尻市」に変わっていった。開設当時から明治の中頃までは馬市が全盛をなしていたが、搬出、輸送、交通の一切が売から車に塗わり始め、日清・日露戦争後の交通機関の発達、道路改良と相まって、明治の末期から牛が大半を占めるようになった。最盛況時は一二〇〇頭の出頭があり開西一を誇るようになった。昭和三〇年代の高度成長期から下火になり、境在は開設されていない」と記される。
石碑対面には広場が残る。牛市場跡だろう。「野尻市」の野尻はこの辺りの地名。
遍路標石
遍路標石。右の横長い石が馬墓?
「遊山会」の資料には、「牛市場跡の少し南にへんろ標がある。「嘉永四年(一八五一)二月」と「右いはやじ江二リ 左すがは山道二十五丁」の銘があり、大宝寺道と岩屋寺道の分岐点であり、松山藩と大洲藩の境界点でもある。隣には倒れた馬の供養をしたと思われる馬墓がある」とする。
この遍路標石には上述遍路道を久万の町に入る途次既に出合っている。今回よくよく見ると、案内方向が岩屋寺、大宝寺共に合わない。右にグルリと180度回転すれば方向は合いそうだ。事情は不明。
遍路道
遍路標石にある「すがは山道」の「すがは」とは第44番札所大宝寺の山号である菅生山のこと。「すがは山道」とは大宝寺への遍路道のこと。道筋は旧国道まで戻り、旧国道を右へ左へと今まで辿ってきた土佐街道を逆に戻り、旧国道に出る。その先少し国道を戻った先にある、前述遍路標石に従い右折し久万川を渡り、総門を潜り大宝寺に至る。
「右いはやじ江二リ」は、久万川を渡り、これから辿る越ノ峠を越え有枝川谷筋の中野に下り、有枝川左岸を少し下った後、槇谷川の谷筋へと左に折れ、槇谷の集落から尾根筋に上り茶屋跡に出る。そこは大宝寺から河合、狩場、そして八丁坂を上りきったところ。両遍路道の合流点からは尾根道をアップダウンを繰り返し岩屋寺へ向かう。所謂越ノ峠越えの遍路道である。
  
旧国道と県道153号合流点から越ノ峠へ■

「遊山会」の資料には、この先「旧国道の三叉路から中野村の方へ進んで橋を渡る前に右折(南)し家の前のへんろ標の横から川を渡り東へ進んでいくのが「土佐街道」である。今は河川改修が行われて、橋もなければ土台もなくなっている。この後、県道を少し通むと林業試験場手前から東に延びる道が「土佐街道」である。現在、この道に沿って道路新設作業が行われており、かなりの部分新道に取り込まれている。この新道を登り切ったところが越ノ峠」とある。
この道筋は上述、越ノ峠を越え中野を経て岩屋寺へと辿った折に一度歩いている。資料にある道路新設工事は既に完了しており、土佐街道は左右に分断され越ノ峠へと続く。

久万川手前の民家軒先に遍路標石
旧国道を進み、県道153号を越えて直ぐ右に逸れる道に入り直進すると久万川手前の民家軒下に遍路標石が残る。はっきりしないが「左 いわや 七十二丁」と刻まれているように見える。
その先は「遊山会」の資料に記されるように橋はなく久万川を渡ることはできない。
県道153号まで一度戻り、標石のあった民家対岸あたりまで入り、そこからそれらしき道を進み県道153号に合流する。


県道左手、石垣の前に遍路標石
県道153号を先に進み、「えひめの記憶」に宮の前集落の外れにあると言う道標に向かう。集落端に県道153号から左に入る土径があり、その分岐点に石垣と同化したような道標が立っている。


旧土佐街道標識
旧土佐街道標識
一度県道に出る
土径を進み、県林業センターへのアプローチ道を越えた先、山裾を進む土径があり、そこに「旧土佐街道」の標識が立つ。
越ノ峠を越えて岩屋寺へと向かう遍路歩きの途次、偶々見かけたこの標識が予土往還を辿ってみようと思ったきっかけの標識。どんなルートを通って土佐に抜けるのだろうと想い、数年をへて越ノ峠より高知へと辿ることになった。
予土往還ということでもあるので、踏み跡でもあるだろうと誠にお気楽に出かけたのだが、道なき藪を延々と進み、あろうことか最も恐れていた日没・山中での夜間彷徨といった有り難くない体験をすることになったのは前述の通りである。

県道153号を横切り旧街道へ
県道右側に移り、林の中を進み
沢を越えた先で県道に戻る

県道左手の土径を少し進むと一旦県道に合流。トラックログに従い少し県道を上った後、右手に逸れる道に入る。杉林の中を沢に沿って少し進み、その沢を渡るとほど、なく県道153号に出る。

越ノ峠
越ノ峠。菅生・中野の谷筋
ここから予土国境の山越え道がはじまる
県道を少し上ると越ノ峠。山入り道は峠東端ではなく、その少し西、舗装された道が緩やかな坂を山へと少し上った先。そこで舗装も切れ、予土国境の山越え道がはじまりる。単独車行のピストン往復のため山越えだけで8回、高知まで結局12回にわけて歩くことになったスタート地点である。

これで2回に分けて三坂峠と越ノ峠を繋いだ。次は松山から三坂峠を繋ぐ。三坂峠からの土佐街道下り道は遍路歩きで46番札所浄瑠璃寺、47番八坂寺へと辿った道筋であるようだが、資料があればチェックし、往昔の土佐街道をトレースしてみようと思う。