月曜日, 12月 24, 2018

埼玉 古利根川散歩;元荒川を岩槻から中川合流点へ そのⅡ

先回は久しぶりに利根川旧路を下る散歩を再開し、岩槻から越谷市袋山まで辿った。春日部で大落古利根川から分かれた、かつての利根川流路・古隅田川が元荒川に注ぐ岩槻から下ったわけである。
メモの過程で偶々知ることとなった国土地理院の「治水地形分類図」のおかげで、今は消え去った旧利根川(古隅田川・元荒川)をはっきり確認することができた。また、その地形分類図で岩槻城の縄張りも、台地・自然堤防・後背湿地といった地形から読み解くこともできた。地形分類図を知るまでは、地形から見て何となく台地では?自然堤防では? などと想像するだけであったので、これは結構嬉しい発見であった。 今回は、日暮れ終了となった越谷市の東武伊勢崎線大袋駅から越谷市街を抜け、元荒川が中川に合流する地点まで進もうと思う。


本日のルート; 東武東上線・大袋駅>水路を辿り元荒川堤防に>宮内庁埼玉鴨場>元荒川堤桜並木>逆川>天嶽寺>久伊豆神社>建長元年板碑>逆川伏越の吐口>瓦曽根溜井>谷古田用水・東京葛西用水・八条用水取水堰>道標付き庚申塔>瓦曽根堰>堂端落し>大聖寺>日枝神社>久伊豆神社>八坂神社>大成排水機場>元荒川・中川合流点>武蔵野線・吉川駅

東武伊勢崎線・大袋駅

国土地理院・利水地形分類図をもとに作成

先回の散歩終了点である東武伊勢崎線・大袋駅に向かう。元荒川筋から駅に向かう途中で偶々みかけた土手が、かつての元荒川筋が造った自然堤防であり、河川改修により直線化工事される以前の元荒川は、大袋駅やそのひとつ北の千間駅を囲むように大きく蛇行していた。
また、昭和36年(1961)の国土地理院空中写真には、未だ宅地が密集していないこともあり、蛇行する元荒川の旧流路、自然堤防上に並ぶ民家が見事に移されていた。
どうせのことなら、駅から元荒川筋へは旧流路跡をトレースしょうと地図をチェック。駅の近辺はそれらしき道筋が見えないが、国道4号を渡った先から元荒川に向かって、如何にも流路跡のようなゆるやかな蛇行の道がある。そこに向かって成り行きで進む。

水路を辿り元荒川堤防に
国道4号の袋山交差点をわたり、地図にあるゆるやかに曲がる道筋に。北は道路わきに水路跡らしき煉瓦敷の歩道がある。南に進むと車止めがあり、その先は水路暗渠といった小さな歩道が南に続く。
ポンプ制御盤も歩道脇に立つ。水路跡に間違いないだろうと思った先、歩道脇に小さな水路が現れる。水はないが途中木橋なども置かれた道を進むと元荒川に出る。元荒川へと合流した先の堤防には排水ゲートといった施設があった

宮内庁埼玉鴨場
堤防を進むと緑の森が前方に見えてくる。越谷梅林公園を左下に見遣りながら堤防に立つ、かつては「立ち入り禁止」の用をなしていた(?)石柱の間を抜けると、左下に宮内庁埼玉鴨場がある。敷地はフェンスで厳重に守られている。 明治41年(1908)、元荒川の旧河道を利用して造られた、という。国土地理院の治水地形図には氾濫原と色分けされていた。
鴨場それ自体には特段の興味もないので、さらりと流すが、鴨場脇を抜ける元荒川の土手の景観は落ち着いた風情で、誠に美しいものであった

元荒川堤桜並木
元荒川左岸を進むと前方に桜波木が堤防上に並ぶ。国土地理院の治水地形分類図をみると、右岸文教大のキャンパスのある辺り、元荒川がS字に大きく蛇行する左岸に自然堤防が描かれる。
昭和36年(1961)の国土地理院の高級写真には自然堤防上に民家が建ち、現在民家が密集する氾濫原は畑地となっている。自然堤防には洪水を避けて人が住むという地形と人の関わり合いの基本の姿が見てとれる。
堤防上の道を進む。堤防は人手で盛り土したとのこと。堤防内側と段差が有るところ、無い所がある。当時はその違いはなんだろう?と思いながら歩いたのだが、件(くだん)の地形分類図をみると、段差があるのは氾濫原、段差がないのは自然堤防と接しているようにも思える。なお、この自然堤防の内には北越谷河畔砂丘があるとのことだが、宅地にその痕跡を認めるのは困難だろうとも思う。
桜並木
堤を先に進むと「元荒川堤桜並木」の解説がある。まとめると;
「万葉集には梅が110首、桜が43首詠まれている。外来種の梅が主流であり、桜が主流になったのは元禄(17世紀末)のころ。
天海僧正が上野のお山に吉野と同じく吉野桜、山桜、八重桜を植え、江戸一番の名所となる。八代将軍吉宗も王子の飛鳥山に1270本を植え、自らも宴を催す。その他隅田河畔の木母寺と寺島の間の大堤、品川の御殿山にも植樹され花見の名所となった。
越谷では日露戦争〈1905〉の戦勝記念に、瓦曽根溜井から寺橋(私注;天嶽寺橋。現在の久伊豆神社参道前に架かる宮前橋)までの土手道に植樹されたが、瓦曽根溜井の埋め立や道の拡張工事により昭和30年頃には姿を消した。起源2600年〈1940〉には、越谷町年団が寺橋から東武鉄道鉄橋まで戦意高揚のため「興亜の桜」として植樹したが、今はない。
現在の桜並木は、昭和30年(1956)、地元有志による桜苗木1200本の寄送、および植樹奉仕により元荒川両岸に植えられたものである」とあった。
河畔砂丘
「関東地方では旧利根川流域にのみ見られる、自然堤防上に堆積した砂。形成された時期は年代順に3つの時期に分かれる。
第一期は平安時代に形成されたもの;古墳時代榛名山の噴火により利根川に流された火成岩の砂が火山性堆積物の自然堤防を造る。平安時代の寒冷期季節風により吹き飛ばされた砂が自然堤防上に河畔砂丘を形成した。
越谷の袋山、この北越谷河畔砂丘がこれにあたる。 第二期は鎌倉時代;平安時代の浅間山の噴火、鎌倉期の寒冷期季節風による。羽生や加須で見た河畔砂丘はこの時期のもの
第三期は室町期以降のもの;浅間山の噴火物が室町以降に自然堤防に堆積したもの、とのことである。(越谷市郷土研究会の資料より」

逆川
東武東上線が元荒川を渡る鉄橋下を潜ると逆川の呑口がある。この辺りはいつだったか一度訪ねたことがあり、ちょっと懐かしい。それはともあれ、「呑口」と書いたのは、逆川は伏越しで元荒川下を潜っており、左岸はその水を「呑み込む」口であるため。逆川が伏越で元荒川を潜る辺りの景観は美しい。
逆川
逆川は元荒川への加用水として開削された人工の川である。寛永9年(1629)、荒川の背替え(荒川西遷事業)により源頭部を失い廃川となった元荒川は水量が減少。西遷事業以前に元荒川筋に設けられていた溜井は水不足に陥る。この地にも少し下流に瓦曽根溜井があるが、元荒川の背替え、さらには先回訪れた末田須賀堰(大戸の堰)での堰止めなどにより水不足に直面した。
その対策として水を利根川(大落古利根川)に求め開削されたのが逆川。古利根川の松伏溜井から開削し、新方川を伏越し(現在は古利根堰で伏越しで潜っているが、開削当時は新片川が潜っていたようだ。新方川が大きくなり逆転させた)で抜け、この地で元荒川に注ぎ、瓦曽根溜井への加用水とした。
開削当時は元荒川に注いでいた逆川が現在伏越しとなっているのは、葛西用水・八条用水・谷古田用水を分水する瓦曽根溜井の水質汚染を避けるため。葛西用水の流路の一部となっていた大落古利根川の水を通す逆川は、元荒川を伏越しで抜け、元荒川と逆川の流れを切り離され瓦曽根溜井へと加水し下流域へ水を供したようである。分離工事は昭和42年頃(1967)と言う。
逆川の由来は時に逆流した故だろう。開削当初,非灌漑期や増水時に,水が元荒川から古利根川に逆流したことに由来すると云う。両川の標高もほとんど同じようなものであり、溜井の水位が上がることにより容易に逆転したのだろう。
かつて伏越し下流に逆流止門樋があった、と言う。逆川はそこから元荒川に流入していたというから、水位の上昇した瓦曽根溜井水が、逆川が逆流することを防止するためにも設けられたのだろう。

天嶽寺
逆川の呑口施設を越え、注連縄の張られる久伊豆神社参道手前に天嶽寺がある。参道入り口正面及び参道に沿って並ぶ石塔群を見遣り境内に。いつだったか越谷を訪れた時は久伊豆神社に気が急きパスお参りすることはなかったのだが、山門、楼門などの構えのある立派なお寺さまであった。本堂にお参り。
境内あった解説には、「天嶽寺は浄土宗の寺で、山号を至登山遍照院と称し、文明十年(一四七八)専阿源照の開山と伝えられている。
古くは小田原北条氏の城砦に用いられたといわれ、北条氏により寺領寄進状を蔵していたと伝えられる。天正十九年(一五九一)十一月、徳川家康より高十五石の寺領寄進朱印状が交付されている。徳川家康は越谷宿をしばしば訪れているが、二代将軍の秀忠、三代将軍家光は狩猟のついでにこの寺にたちよっている。
なお、天嶽寺は雲光院、法久院、遍照院、美樹院、松樹院という五か寺の塔頭があり、格式の高い寺院であった。
また、入口には庚申塚と呼ばれた小高い丘があり、ここには延宝元年(一六七三)の文字庚申塔や元禄八年(一六九五)の青面金剛彫像庚申塔など、数多くの庚申塔が建てられている。また、参道にそった庚申塚の下にも「かハしも二郷半、川かみかすかべ」などと道しるべが付された大供養塔や猿田彦大神塔などが並んでいる。このほか境内には方言学の祖といわれる越ヶ谷吾山の句碑などが建てられている。
天嶽寺の本尊は阿弥陀如来であるが、釈迦仙の涅槃像(寝仏)も安置されている。これは珍しい金仏として越谷市指定の文化財となっている」とあった。
庚申塔道標
解説にあった参道に沿った庚申塚は、参道入口右側に6基並ぶ。道しるべのある供養塔とは、六十六部供養塔のこと。「かハしも二郷半、川かみかすかべ」が読める。また、左端の猿田彦大明神と記された石塔の基部にも文字が刻まれる。「南 こしがや 北 のし間 い王(わ)つき 東 志めきり ま久り かす可べ」。「志めきり」は地名にないが、大袋での元荒川旧流路が蛇行していた辺りに〆切橋が架かる、この石塔が文化四年(1808)k建立と言うから、既に直線化された(普請は宝永3年;1706)元荒川に架けられた橋だろう。尚、道標の示す方角は実際と合っていない。とこからか移されたものだろう。

久伊豆神社
注連縄を潜り久伊豆神社の長い参道に入る。この社は二度目。いつだった、東の香取神社、西の氷川神社の祭祀圏に挟まれ、この元荒川一帯のみに祀られる社ってどのようなものだろう、久伊豆神社の名前の由来は、との好奇心から訪れた。その時思いがけなく、境内で地元の方手作りの「柴餅」、サルトリ茨の葉で包んだ田舎饅頭が売られており、子供の頃の祖母の作った懐かしい味を今一度と期待したのだが、残念ながら今回は見当たらなかった。
原植生のスダジイが茂る社叢に覆われた参道を進む。途中社寺でしばしば目にする力石の案内、美しい池の庭園などを見遣りながら社殿にお参り。
当日は知る由もなかったのだが、メモの段階で久伊豆神社は大きく弧を描いて曲がる元荒川の自然堤防上に鎮座していた。
元荒川の旧流路
国土地理院・治水地形分類図をもとに作成
国土地理院・治水地形分類図をみると現在は直線化されている伊豆神社前を流れる元荒川は、往昔大きく弧を描き蛇行し、久伊豆神社は祖の自然堤防上に鎮座する。 直線化工事は寛永6年(1629)に実施されたものと言うが、昭和36年(1961)の航空写真にも未だその痕跡が見て取れ、川筋跡らしき影、自然堤防上に並ぶ民家が視認できる(下記、瓦曽根溜井の写真参照ください)。

三ノ宮卯之助銘の力石
「力石とは力仕事を人力に頼らざるを得なかった時代において、力くらべをしたり、体力を鍛えるために用いられた石のことである。
三ノ宮卯之助は江戸時代後期に、三野宮村(現在の越谷市大字三野宮)出身で、力石や米俵などの重量物を持ち上げる興行を行いながら全国各地を回り、日本一の力持ちと言われた人物である。興行先であったと考えられる神社などには、「三ノ宮卯之助」の銘が刻まれた力石が残されている。
越谷市内では越ケ谷久伊豆神社に1個、三野宮香取神社に4個、三野宮向佐家に1個の計6個が確認されている。久伊豆神社の力石には「奉納天保二辛卯年(1831年)四月吉日 五十貫目 三ノ宮卯之助持之 本庁 會田権四郎」と刻まれており、卯之助が24歳の時に、五十貫目(約190kg)の力石を持ち上げたとされる文字が刻まれている(境内解説)」
久伊豆神社の藤
「この藤は、株廻り七メートル余り、地際から七本にわかれて、高さ二・七メートルの棚に枝を広げています。枝張りは東西二〇メートル、南北三〇メートルほどあり、天保八年(一八三七)越ヶ谷町の住人川鍋国蔵が下総国(現千葉県)流山から樹齢五〇余年の藤を舟で運び、当地に移植したものといわれています。樹齢およそ二〇〇年と推定されます。
花は濃紫色で、枝下一・五メートルほど垂れ、一般に”五尺藤”と呼ばれています。花期は毎年五月初旬が最も見ごろで、毎年このころに「藤まつり」が盛大に開かれます。
フジはマメ科に属する蔓性の落葉樹で、日本、中国、アメリカ、朝鮮に少しずつ異なったものが自生しています。わが国のフジは、大別して、ツルが右巻きで花は小さいが花房は一メートル以上になるノダフジと、左巻きで花は大きいが花房は二〇センチメートル前後のヤマフジとがあります。当神社の藤は前者に属し、基本胤は本州、四国、九州の山地に自生しています。(境内解説より)」。
由緒
境内にあった由緒には;「久伊豆神社は、祭神として大国主命、事代主命など五柱が祀られ、例祭は毎年九月二十八日である。
当社の創立年代は不詳であるが、社伝によると平安末期の創建としい、鎌倉時代には武蔵七党の一つである私市党の崇敬を受けたという。古来、武門の尊崇を集めて栄え、室町時代の応仁元年(一四六七)に伊豆国(静岡県)宇佐見の領主宇佐見三郎重之がこの地を領したとき、鎮守神として太刀を奉納するとともに社殿を再建したと伝えられる。江戸時代には、徳川将軍家代々の信仰が厚かった。
当社は、災除招福、開運出世の神として関東一円はいうまでもなく、全国に崇敬者がある。また、家出をしたり、悪所通いをする者に対して、家族の者が”足止め”といって狛犬の足を結ぶと必ず帰ってくるといわれている。
境内には、県指定史跡となっている幕末の国学者平田篤胤の仮寓跡や、篤胤の門人が奉納したといわれる県指定天然記念物の藤の老樹が枝をひろげている。
なお、当社は昭和五十九年度に県から「ふるさとの森」の指定を受けている」とあった。

東の香取神社、西の氷川神社の祭祀圏に挟まれ、この元荒川一帯のみに祀られる久伊豆神社については、先回散歩の折、岩槻久伊豆神社であれこれ妄想した。そのメモを再掲する。


久伊豆神社・香取神社・氷川神社
『幻の江戸百年:鈴木理生(ちくまライブラリー)』
久伊豆神社の名前をはじめて知ったのは、鈴木理生さんの『幻の江戸百年:鈴木理生(ちくまライブラリー)』を読んだとき。関東における神社の祭祀圏がクッキリとわかれ描かれていた。利根川から東は香取神社。利根川の西の大宮台地・武蔵野台地部には氷川神社。この香取・氷川の二大祭祀圏に挟まれた元荒川の流域だけに80近い久伊豆神社が分布する。
大国主
香取神社の祭神はフツヌシノオオカミ(経津主大神)。荒ぶる出雲の神・オオクニヌシ(大国主命)を平定するために出向いた神。氷川神社の祭神はスサノオ・オオナムチ(オオクニヌシ;大国主命)・クシナダヒメといった出雲系の神々。が、この久伊豆神社の由来はよくわからないと書かれていた
。 未だによくわからないのだけれど、以下妄想:この社の由緒には御祭神は出雲の神・オオクニヌシ(大国主命)とある。これでは氷川神社の出雲系の神を祖先神として武蔵国に入った部族と違いがよくわからない。違いのヒントは?と、由緒に出雲の土師連の創建とある。
土師連
出雲の土師連創建といえば、鷲神社の系の由来と同じである。久伊豆神社の祭祀圏とほぼ同じ(東西に少しはみ出してはいるが)元荒川流域に鷲宮神社、大鷲神社、大鳥神社などと言う名で祀られる。土師宮とも称される鷲神社系の祭神は天穂日命とその子の武夷鳥命、および大己貴命。天穂日命って、アマテラスの子供。大国主を平定するために出雲に出向くが、逆に大国主に信服し家来となり、出雲国造の祖となった、とか。土師連創建の久伊豆神社が大国主命を御祭神とするのはこういった事情だろう。
なんだか面白い。氷川、香取、久伊豆、これらすべて核に大国主命がいる。大国主を祖先神とする氷川、大国主を平定しようとする香取、その間に大国主を平定しようとするが逆に信服した久伊豆。国津神(国造系)の氷川、天津神(天孫系)の香取、天津神から国津神(天孫系から国造系)となった久伊豆と読み替えてもいいかもしれない。
国津神系(国造)と天孫系(中央朝廷)の間に位置するのが、天孫系から国津神系となった久伊豆創建の土師連の祖先神。が、ここでもうひとつひねりがあるようだ。土師連の「連」とは天孫族であることの証明といったもの。もとは土師臣(天皇直属の部;技術者集団)であったものが、ある時期から「連」のカバネとなっている。ということは、土師氏の祖先神は天孫系から国津神系に一度はなったが、最終的には天孫系に戻ったと、と言える(?)かもしれない。国津神系の氷川祭祀圏と天孫系の香取祭祀圏の間に、国津神系と天孫系の間をとりもつような久伊豆や鷲神社系の神を祖先神とする部族がいたということだろうか。すべて素人の妄想であるが、それなりに結構面白い。
私市党
我流解釈、妄想ではあるが土師連と久伊豆神社の関係は上述の通りであるが、この越谷久伊豆神社の由緒には「鎌倉時代には武蔵七党の一つである私市(きさい・きさいち)党の崇敬を受けた」とある。同じくその勢力範囲をほぼ同じくする武蔵七党のひとつ・野与(のよ)党の崇敬を受けた、とも言う。私市党と野与党の勢力範囲はほぼ重なるが、抗争したとの記録はない。勢威の時期がずれており、私市党の威が衰えた頃に野与党がそれに代わった、とも言う。
久伊豆神社の命名
それはともあれ、私市党・野与党と土師連の関連はよくわからない。が、チェックの過程で面白い話が登場してきた。以下、妄想の極みではあるがちょっとメモする;
江戸後期に編まれた『新編武蔵風土記稿』に、「延喜式神名帳に載る所、埼玉郡四座の内、玉敷神社祭神大己貴命とありて、今いずれの社たるを伝へず。岩槻城内に久伊豆社あり、其餘郡内所々に久伊豆社ととなふるものあれども、何れもさせる古社とも思はれざれば、若しくは『式』に見え『東鑑』にも沙汰あるは当社(玉敷神社)ならんか。
されど、千百年の古へを後の世より論ずれば如何にといいがたし。久伊豆と改めしは騎西郡内にありて騎西、久伊の語路相通ずれば唱え改めしといえど、これも付会の説とおぼしく、社伝等には據なし」とある。
江戸の頃には既に何故、久伊豆となったかわからなくなっており、騎西が久伊(きさい>ひさい)と転化したとする話はちょっと強引としている。因みに、騎西(きさい)は私市(きさい)党が拠を構えた地(加須市騎西)であるが、これもどのようなプロセスで表記が変わったかわかっていない。
騎西が久伊となるという話はともあれ、私市党の拠点である騎西町〈現在加須市騎西〉に何かヒントは?チェックするこの地に久伊豆神社の総本社とされる玉敷神社がある。江戸の頃までは久伊豆大明神と称された。
そしてその社の北東近くに久伊豆大明神の旧宮跡を持つ龍花院がある。源頼朝の創建とされ、山号を伊豆山正音寺と称する。ために「伊豆堂」とも称されたようだ。「伊豆」というキーワードが登場した。
私市党は頼朝を戴き武家政権樹立に努めたわけだが、その頼朝は伊豆殿と称された。であれば、創建者の伊豆(殿)が「いさ久しく」、という願いから社を「久伊豆」大明神とした、というストーリーは?
『新編武蔵風土記稿』には、久伊豆の社はいくつもあるが、どれもそれほど古い社ではない、という。とすれば、土師氏と私市氏の関係は不明ではあるが、拠点に鎮座していた古き社を久伊豆と名付け、私市党の勢力範囲に各地に勧請し、私市党の勢力範囲を引き継いだ野与党も武蔵七党としてその久伊豆の社勧請を引き継ぎ、現在の久伊豆祭祀圏として残ったというストーリーも面白い。妄想の際たるものではあるが、自分なりに結構納得。

とはいうものの、頼朝創建>「伊豆山」の山号>「伊豆殿」>「久伊豆」の類推など、誰にでもできそうなわけで、それが久伊豆神社の由来としてどこにも登場しないのは、それなりの理由があるのだろう。不明である。

建長元年板碑
久伊豆神社を離れ宮前橋を渡り逆川伏越の吐口に向かう。上述桜並木の説明にあった寺橋(天嶽寺橋)は宮前橋の旧名。
橋を渡り道を右に折れ、元荒川右岸を少し上流に進みむと道脇に板碑が立つ。解説には「建長元年板碑 越谷周辺で発見されている板碑は、秩父の緑泥片岩で造られている。板碑は、塔婆の一種であることから、板石塔婆とも呼ばれている。この板碑は、板碑初発期にあたる鎌倉時代の建長元年(1249)銘の年号が刻まれたもので、市内で発見された板碑の中では最古のもである。しかも高さ155cm、幅56cmに及ぶ最も大きな板碑である。種子(仏をあらわした梵字。しゅじと呼ぶ。)は弥陀一仏で、その彫りは深く、初発期板碑の特徴が現れしている」とある。

板碑が何故この地に?何らかの歴史的事象と関連があるのでは、とは思いながら当日は先に進んだのだが、メモの段階でチェック;この地は越谷の開発土豪、野与党の一派である古志賀谷氏の館のあった所では、といった記事も見かけた。真偽のほどは不明だが、結構納得。
因みに、古志賀谷は関東管領上杉氏と古河公方と抗争に際し、古河公方に与したが上杉勢に敗れ一族の事績はほとんど残らないようである。
越ケ谷の由来
「越ヶ谷」は「越(腰)の谷」の意で、「こし」は「山地や丘陵地の麓付近」の意、「谷」は「低地」の意であると思われる。つまり、「大宮台地の麓にある低地」を指す地名であると推測される(Wikipedia)。

逆川伏越の吐口
元荒川の下を潜った逆川伏越の吐口に。上述の如く伏越工事は昭和42年(1967)に実施された。下流の瓦曽根溜井の水質汚濁対策のためである。吐口から下る逆川を見遣る。
越ケ谷御殿跡
伏越の吐口に「越ケ谷御殿跡」の石碑が立つ。今は御殿町という地名のほか何の痕跡も留めないが、当時は6ヘクタールもの規模であり、元荒川上流、東武野田線手前の大沢橋あたりまでその敷地があったようだ。国土地理院・治水地形分類図を見ると、南側に氾濫原が描かれる。御殿は氾濫原を避け元荒川に沿った自然堤防御上に築かれたのだろうか。
御殿の築造は慶長9年(1604)、当地の土豪会田氏の敷地内に築かれたとのこと。家康、秀忠が鷹狩の折訪れたようだが、明暦3年(1657)江戸城焼失に際し二の丸に移された。

現在は前面が元荒川、真ん中に逆川が流れ少々窮屈な感があるが、築造当時は未だ元荒川の直線化工事がなされておらず、天嶽寺や久伊豆神社と地続きであったろうし、当然の如く伏越しの吐口から流れる逆川もないわけで、元荒川を見下ろす、ゆったりとした地形ではあったのだろう。
会田氏
上でこの地に古志賀谷氏の館があったのでは、とメモした。古志賀谷氏は関東管領上杉氏により滅びたわけだが、それでは会田氏の館ができるまでのいきさつは?チェックする;信州会田郷出自の氏族。武田信玄の侵攻により信州を逃れ越谷に移り、岩槻城主太田資正に仕える。太田資正は関東管領上杉氏の武将。上杉氏により滅びた古志賀谷氏の後に入ったということ?
その後上杉方から離反し、敵対する小田原北条勢となった大田氏のもと、天正18年(1590)小田原征伐の秀吉勢に敗れ岩槻城落城。会田氏は越谷に隠れ住む。家康関東入府。鷹狩の地を求める家康に拝謁し家臣となり屋敷の一部を提供した。

瓦曽根溜井
逆川を下る。元荒川との間には背割堤が築かれ両川を画する。堤は昭和42年(1967)の逆川と元荒川の分離(合流を伏越しに変え両川を分離)の際に築かれたものだろう。




国土地理院・昭和36年(1961)空中写真

昭和36年(1961)、両川分離前の航空写真でみると、堤防もないし、それ以上に西側に大きく溜井が広がっている。治水地形分類図でチェックすると、現在の越谷4丁目は、ほとんど埋め立地・盛土によってつくられたようだ。埋め立てや中央の背割堤がない。昭和36年(1961)、両川分離前の空中写真に写る姿が瓦曽根溜井であった。
先回この地を訪れたときは、元荒川と画された逆川の流れの下流に広がる堰の辺りが瓦曽根溜井と思い、なんだか狭いよな、などと思っていたのだが、大いなる勘違いであった。

葛西用水と溜井
逆川の説明でこの人工的に開削された水路・逆川は、松伏溜井と瓦曽根溜井を結ぶ葛西用水の流路であるとメモした。現在では行田市下中条の利根大堰(昭和43年;1968)で取水され、東京都葛飾区まで延びる大用水であるが、これははじめから計画されたものではない。新田開発が進むにつれ、不足する水源を、上流へと求めた結果として誕生したものであり、その歴史的経緯の転換点に溜井が登場する。溜井が葛西用水を特徴づけるとする所以である。「江戸の米倉 江戸の礎を築いた葛西用水」をもとに、瓦曽根溜井を含め、葛西用水と溜井の関係をまとめておく。
溜井
溜井とは、灌漑用貯水池と遊水池を兼ねたもの。江戸の川普請に度々登場する伊奈氏の「関東流」治水開発モデルでもある。その特徴とするところは、上流の排水を下流の用水として使用する「循環型」の思想、また洪水対策も霞堤とか乗越堤といった名の通り、河川を溢れさすことで洪水の勢いを制御するといった思想である。
こういった「自然に優しい工法」が関東流の特徴である。しかし、それゆえに問題もあり、なかでも洪水の被害、そして乱流地帯が多くなり、新田開発には限界があった、と言われてもいる。因みに関東流に対するものが見沼代用水に見られる井沢弥惣兵衛為永を祖とする紀州流と呼ばれるものである

第一フェーズ;亀有溜井
そもそも、葛西の地をはるか 離れた地・埼玉の行田から延々と葛西の地に下る用水を葛西用水とするのは、この用水のはじまりが葛西領を潤した亀有溜井をもってその嚆矢とする故である。
文禄2年(1593),利根川東遷第一次の工事として伊奈忠次は当時の会の川を川俣地点で締切り,浅間川筋に落とし、川口(加須市川口地内)の地で二流に分ける。その主流は渡良瀬川の水も合わせ東へと、現在の中川の川筋(当時中川という川は、ない)である島川・権現堂川、庄内古川を経て金杉で太日川(現在の江戸川)に落とした。
また西遷事業(寛永6年;1629)施行以前の荒川(現在の元荒川)の水も、川口から南に下った古利根川(現在の大落古利根川)と越谷で合さり、これも小合川を経て太日川に落とし、江戸の町を直接利根川の水害から守るという、利根川東遷事業の当初の目的は果たした。
次いで、東遷事業の大きな目的のひとつである新田開発であるが、この目的で最初に設けられたのが「亀有溜井」。水源は荒川西遷事前で水量豊富な綾瀬川に求め葛飾区新宿で水を溜めて葛西領を潤すことになる。
おおよその流路を現在の川に合わせると、綾瀬川>桁川>中川(昔の古利根川)>亀有ということだろう
綾瀬川
Wikipediaに拠れば、「綾瀬川は戦国時代の頃、荒川の本流であった。当時の荒川は、今の綾瀬川源流の近く、桶川市と久喜市の境まで元荒川の流路をたどり、そこから今の綾瀬川の流路に入った。

現在の元荒川下流は、当時星川のものであった。戦国時代にこの間を西から東につなぐ水路が開削されて本流が東に流れるようになり、江戸時代に備前堤が築かれ(慶長年間;1596‐1615)綾瀬川が分離した。この経緯により、一部の地図には綾瀬川(旧荒川)の括弧書きが行われる事がある」とある。
地図を見ると久喜市、桶川市、蓮田市が境を接する辺りにある「備前堤」から南に綾瀬川、東に元荒川が流れ、その元荒川は東に進んだ後、久喜市飛地で星川に合流している。上述Wikipediaの説明を元に推測すると、この備前堤から東に流れる元荒川は「戦国時代に開削された西から東へつなぐ水路」であり、星川との合流地点の下流は、現在は元荒川ではあるが、かつては星川の流れであり、元来の元荒川は備前堤から南に下る綾瀬川筋であった、ということだろう。
第二フェーズ;瓦曽根溜井
慶長19年(1614)には新田開発を上流に伸ばし、荒川(現在の元荒川)本流を越谷の瓦曽根で締切り瓦曽根溜井を築堤し、下流域を潤した。
寛永6年(1629)に伊奈忠治は,荒川の西遷事業を開始。これにより元荒川は,水源を失い,瓦曽根溜井の水は枯渇していくことになる。このため幕府は寛永7,8年頃から,元荒川の加用水として水源を太日川に求め、寛永18年(1641)になると太日川を北に掘り抜いた現在の江戸川開削後は,江戸川に圦樋を移し用水を引いた。
中島用水
流路ははっきりしないが、幸手市中島で江戸川の水を取水し、椿・才場・大塚・不動院野・八丁目と下り古利根川に落ちた、とする(落口はもっと上流との記事もあり、はっきりしない)。
第三フェーズ;松伏溜井
中島用水は,現在の春日部市八丁目で古利根川(現在の大落古利根川)に落とされることになる(異説もある)が,下流松伏村に松伏溜井が造られる。ここで堰き止められた水は、その一帯を潤しながらも、その流量のほとんどは松伏溜井の末流大吉村から元荒川までの問に新たに開削された逆川用水に流され,瓦曽根溜井まで送水された。この一連の工事の完成は寛永11年(1633)とされる。
また,この一連の工事により,荒川の瀬替えにより水量が激減していた綾瀬川を水源とする亀有溜井への加用水も可能となる。瓦曽根溜井から一帯を潤していた用水・悪水落を延長し瓦曽根溜井から綾瀬川(古綾瀬川)へと落とす水路(葛西井堀)が完成し、亀有溜井は瓦曽根溜井・松伏溜井と繋がった。
第四フェーズ;川口溜井
承応3年(1654)には利根川東遷による関東平野の治水と利水が一応の安定を得る。それにともない新田開発が一層推進されることになるが,古利根川左岸から旧庄内川の右岸一体、水源を池沼にゆだねていた幸手領(幸手市,杉戸町,春日部市,鷲宮町)においては用水不足をきたすようになる。
その水源として求めたのが東遷事業の完了した利根川である。万治3年(1660)に古利根川本川の本川俣地点に圦樋を設けて南東に水路を開削し,会の川の旧河道を流し,川口地点に川口溜井(加須市川口地内)を造り,権現堂川(島川)筋の加用水として北側用水を開削した。
この川口溜井は葛西用水の水路というわけではなく、幸手領の灌漑のためのものである。
第五フェーズ;琵琶溜井
さらに,川口溜井から水路を開削して古利根川の河道につなげられ、琵琶溜井(久喜市栗原地内)も造成された。そこに中郷用水と南側用水の2用水が開削され流域の灌漑に供する。
琵琶溜井には幸手用水の余水流しに圦樋が設けられ,青毛堀,備前堀等の悪水と一緒に古利根川(現在の大落古利根川)に落し,下流の松伏溜井への加用水として供した。これをもって幸手領用水とした。

葛西用水の成立
その後,宝永元年(1704)の大洪水の際に中島用水が埋没したため,享保4年(1719),関東郡代伊奈忠蓬は,幸手領用水の加用水として新たに本川俣の少し上流の上川俣の利根川本線に圦樋を設け,幸手領用水に接続させ,川口溜井と琵琶溜井では圦樋を増設して水量を確保した。以来,本川俣および上川俣の利根川取水から葛西井堀末端までを「葛西用水」と称するようになり,ここに関東地方切っての大用水が形成された。

以上、溜井のまとめをしながら、結局は葛西用水成立の歴史ともなった。葛西用水は利根川の東遷事業、荒川の西遷事業と密接に関連しながら、廃川となった荒川(元荒川)や利根川(大落古利根川)の川筋跡を活用し、上流へと延びる新田開発に伴い下流から上流へと水源を求め、最終的に利根川にまでたどり着いた、ということであろう。

谷古田用水・東京葛西用水・八条用水取水堰
逆川(葛西用水水路)の右岸を進む。右手に市役所や中央市民会館が建つ。この辺りも埋め立てにより造成されたところである。中央市民会館から先は川に沿って遊歩道を進む。先に取水堰が3つ見える。一番手前が谷古田用水、次いで東京葛西用水、最後が八条用水である。瓦曽根溜井に堰止められた水を下流へと供する。
谷古田用水
取水堰から堤防上の道路を渡り用水出口に向かう。道脇に案内があり道路から一段下ったところに取水堰からの用水出口があり、煉瓦で組まれている。傍にあった案内には、「谷古田用水元圦煉瓦樋管 明治24年に完成した日本最古の煉瓦水門」とあった。
道路に戻る手前にも解説があり、まとめると「谷古田用水は、1680年(江戸時代延宝8年)に開削された農業用水で、その名前は谷古田領(草加市)に由来する。当時、越谷から草加にかけては湿潤地で、安定的なコメ作り・治水には農業用水が必要であった。用水の長さは6220m。越谷では三ケ村にまたがることから:さんが(さんがわ)」、草加地区では五ケ村にまたがることから「五ケ村用水」と呼ばれていた。
幅は2.7mと広く、豊富な水量と受益面積の広さから地域の基幹用水として機能した。 現在は草加では農業用水として使う地域もあるが、越谷では農業用水としては使われず、用水路敷を利用してこの公園から3.8キロ、谷古田河畔緑道として整備されている」とある。
谷古田用水は綾瀬川より越谷市蒲生のあたりで取水していたが、延宝8年(1680)に綾瀬川に堰を設けるのが禁止されたため、水源を瓦曽根溜井に求めたようだ。備前堤防により元荒川と分離され綾瀬川の水量が減ったためであろうか。


東京葛西用水〈南部葛西用水〉
流れは、南東にほぼ一直線に草加市・八潮市を貫き、足立区の神明に下る。神明から先は、曳舟川の川筋となり、足立区を南下。葛飾区亀戸からは南西に流路を変え、四ツ木で荒川(放水路)を越え(といっても荒川放水路が人工的に開削されたのは、昭和になってから)、墨田区の舟曳・押上に続いている。
本所上水
葛西井堀として阿曽根溜井と亀有溜井結んだ水路は、綾瀬川(現在の桁川)から中川(当時の古利根川)をへて下流の亀有溜井に下ったとのことであるから、上記ルートの神明から桁川・中川筋(当時中川という川はない)に入っていったのだろう。
神明から南に下る水路は本所上水として開削されたもののようだ。当初は亀有溜井から導水していたが、延宝3年(1675)に亀有溜井が廃止されたため、水を瓦曽根溜井に求めた。葛西用水の東に沿って上水路が設けられ古綾瀬(桁川筋)を掛樋で渡り葛西用を南に下った。
本所上水は享保7年〈1772〉に廃止されるが、葛西領内では農業用水として残り、江戸後期には帝釈天や水戸街道への往来に曳舟が開始される。曳舟川と称される所以である。

八条用水
ここ瓦曽根溜井から南東に、ほぼ葛西用水と平行してくだり、足立区の手前、八潮で葛西用水に合流している。








道標付き庚申塔
説明の便宜上、あとさきが逆になったが、谷古田用水から道路に上がったところに道標付き庚申塔がある、「これより上 じおんじ 三里はん これより左 吉川 壱里はん 大さかみ内 これより右 市川まで五里」とある。
解説には上述本所上水が葛西用水の東側を流れると記載されていた。本日のゴールである吉川まで大さかみ(大相模)を経てあと6キロ。先を急がねば

瓦曽根堰
遠方からも印象的な「しらこばと橋」に。建設省の「ふるさとの川モデル事業」に指定された(元荒川と逆川の分離、瓦曽根溜井の埋め立て故?)この橋は、市の鳥である「しらこばと」と「水郷越谷」のシンボルとして斜帳橋の美しい姿を見せる。
橋の南詰の少し下流に背割堤と右岸を繋げる公園があり、そこに瓦曽根堰が建つ。平成9年(1887)改築されたこの堰で瓦曽根溜井の余水が元荒川に流される。堰の下流、元荒川へと合流するまでの流れの景観は美しい。
公園には大正13年(1924)に造られた瓦曽根堰、通称「赤門」の展示や瓦曽根溜井・堰に関する石碑や葛西用水を含めた流路図があった。流路図は複雑な水のネットワークの確認に誠に役に立つ。
瓦曽根溜井・瓦曽根堰の譜
石碑の表面には、 瓦曽根溜井・瓦曽根堰の譜 「この瓦曽根溜井は慶長十九年頃(1614)徳川幕府が八条領と四ヶ村(瓦曽根、 西方、登戸、蒲生)の地域の水田用水として利用するため、荒川の流れを、この地で堰き とめ溜井としたことが始まりであり、その貯水面積は20㌶余りに及んだ。
この時は荒川の流水を利用していていたが、寛永の年(1629)に幕府の治水対策で荒川の西遷が行われると、元荒川となり、流水が激減し、溜井が枯渇した。そこで水源を庄内領中島の利根川(現在の江戸川)に求め、用水路を開削して古利根川に導水し、松伏堰で堰き上げして、溜井とし、鷺後用水(逆川)によって瓦曽根溜井に送水する、中島用水が翌寛永七年 に造られた。 この後寛永八年には、葛西井堀が開削され、亀有溜井(現在の東京)まで送水されると共に、延宝三年(1675)に、本所上水が引かれ、生活用水として利用された。
瓦曽根堰は水害等で何度となく修改築され、大正十三年これまでの石堰を廃止し鉄筋 コンクリート造り鋼製水門(10門)の堰が築造され、管理の為、塗装した錆止めの色彩が朱色であったため「赤門」と呼ばれ、地域の風景の一部として親しまれていた。
この溜井や瓦曽根堰も時代と共に変貌を遂げることになるが、特にこの堰止めによる、上流の岩 槻市、越谷市の一部地域の排水不良等の改善が求められ、昭和四十一年逆川の元荒川の合流点より瓦曽根堰を背割堤にし、元荒川と瓦曽根溜井の用排水を分離し現在の形が造られ、溜井の規模も縮小した。
更に平成九年には葛西下流地盤沈下対策事業で旧堰を、取り壊し、親堰二門を造成した。葛西用水土地改良区として越谷市では、この地に永年親しまれてきた、溜井と堰の歴史を記し、合わせて先人の労苦と英知を後世に引き継ぐべく、記念の譜 として建立する」平成十五年三月吉日」
瓦曽根為井に係る利水の変遷
石碑裏面には、「瓦曽根為井に係る利水の変遷 慶長19年(1614)為井造成と同時に八条用水と四ヶ村用水が引かれた。
八条用水・・・八条領の32ヶ村で利水(現在の八潮市 草加市 越谷市の一部)
四ヶ村用水・・八条領の4ヶ村で利水(現在の越谷市)
寛永8年(1631)瓦曽根溜井から葛西領の亀有溜井に送水する葛西井堀から引かれ東西葛西領で米造りに使われた。
延宝3年(1675)江戸の本所、深川の生活用水として本所上水が引かれた。
なお、葛西井堀と本所上水は後年、溜井亀有が廃止されると西葛西用水(東京葛西用水)として利用され、その水路の本所小梅から亀有までは、水戸佐倉街道に沿っていたので旅人を船で運ぶ「曳舟川」としても利用された。
延宝8年(1680)谷古田用水が引かれ谷古田領5ヶ村(現在の草加市)の水田に利用された。
瓦曽根堰の移り変わり
草堰 溜井造成のときに築造されたもので、丸太を二列に打ち込み、そだを編み込み間に草を編み込み土俵で押さえた堰
石堰 寛文4年〈1664〉本所上水を引くために改築されたもので、雑石積の堰で上部にかや組の余水流しと水叩きに竹を使った堰
ストニー式鋼製堰 大正13年〈1924〉県営十三河川改修事業で改築された鋼製巻上げ式ゲート十門の堰で、錆び止めで赤く塗装していたので赤門と呼ばれた。
現在 平成9年に葛西下流地盤対策事業で改築された鉄筋コンクリート造り鋼製ローラーゲート二門
葛西用水の成立
享保4年(1719)概に開削されていた幸手領用水(万治3年1660年)の利根川の川俣圦樋が増設され、琵琶溜井、松伏溜井、亀有溜井を連結させた十ヶ領300村、領石高十三万三千石(年貢米)の代用水が成立し、葛西用水と呼ばれた」
既述の内容と重複する部分もあるが、おさらいもかね掲載した。
葛西下流地盤対策事業
この解説もあったので、重複避け簡単にまとめる;
葛西下流地域は、地下水の大量汲み上げにより昭和30年(1955)頃より地盤沈下を引き起こし、昭和50年(1975)頃になると越谷では最大沈下量は130㎝に達する。このため農業用水路は不等沈下を起こし、用水不足・排水不良・堤防沈下により溢水などの問題を生じた。
そのため施設の改善と、八潮・草加・越谷・松伏・春日部への安定的な水の供給をはかるため昭和54年(1979)度より着手し、古利根堰改築・古利根川堤*補強・逆川。八条用水路などの幹線用水路と支線用水路の改修・瓦曽根堰の改築などを行い平成9年に完成した。(私注;不等沈下とは越谷130cmに対し、下流の草加では11㎝であることなどを指す)

なお、この解説には葛西用水の流れとして、利根川にある利根大堰(行田市須加地内)より取水し、埼玉用水(羽生市本川俣地無内)を経て葛西用水路へ導かれ、その後川口分水工(加須市川口地内)、琵琶溜井分水工(久喜市栗原地内)を経て大落と古利根川を流下し、古利根堰(越谷市大吉地内)より取水し、逆川・八条用水へ導かれる、とあった。現在の葛西用水の流を把握するのに役立つ思いメモした。
県営十三河川改修事業
大正末期から昭和初期にかけ埼玉県が実施した、中川水系、利根川水系、荒川水系の13の河川改修事業。中川水系は大落古利根川とその支川である青毛堀川、備前堀川、姫宮落川、隼人堀川の5河川と、元荒川そしてその支川星川・忍川・野通川の4河川、そして綾瀬川の計10河川。利根川水系は福川の、荒川水系は芝川と新河岸川の2河川からなる。 同事業は当時の内務省による庄内古川(中川水系)、利根川、荒川の改修事業に合わせて実施された。
事業目的は排水量の増大への対策。食料増産を目し実施された河川改修・水路補修に際し、橋や水路橋、取水堰も改築・建設されており、散歩の折々に出合うことになる。

堂端落し
瓦曽根堰を離れ、元荒川右岸堤防を中川との合流点へと進む。堤防を進むと「堂端落し」と書かれた案内と取水堰がある。堤下には堂端落し排水機場もあった。地図を見ると水路は八条用水へと下っているように思える。
堂端落しの由来でもわかる何かがあるかと、民家の間に隠れた水路に沿って進み左に折れるとH鋼で補強された水路が下り、その東側に十一面観音堂があった。堂端って、このお堂だろうか。

大聖寺
お堂の東にも大きな仁王門をもつお寺さまがある。気まぐれに訪ねた堂端落としから、結構なお寺さまが現れた。
阿吽の仁王様が護る仁王門を潜り境内に。立派な仁王門の構えの割に境内がさっぱりしている。明治の頃焼失した故だろうか。境内にある各種解説を読むと、開基は奈良の頃と言われ、越谷最古の寺であるようだ。
室町から戦国期にかけては関東管領上杉勢の庇護を受け、それ故に岩槻の上杉勢を支配下においた小田原北条が懐柔に務め、大寺としての威を示している。
江戸の頃は家康の庇護を受けている。
こういった大寺ではあったが、最も印象的だったのは東門に並ぶ庚申塔群ではあった。


大聖寺の山門
「大相模の不動様」で親しまれている真大山大聖寺は天平勝宝二年(七五〇)の創建といわれ本尊は不動明王である。古くは「不動坊」といわれ天正十九年(一五九一)徳川家康公遊猟の折、当寺に立寄り、水田六〇石を与えて「大聖寺」と号した。
山門は正徳五年(一七一五)に建立した茅葺き屋根であったが文化元年(一八〇四)瓦葺きとなり、その後破損、明治十七年修繕して銅板葺きが完成し今日に至っている。この山門は鎌倉風建築といわれ正面左右には「阿吽の二王」といわれる一対の仁王尊がある。正面額字「真大山」は寛政時代の老中松平定信の筆である(越谷市教育委員会掲示)」
家康夜具
「天正十八年(一五九〇)関東に入国した徳川家康は、領国統治のため鷹狩りをしながら巡遊した。
はじめ家康の休泊所は、在地の土豪層や寺社がこれにあてられたが、のちに御殿やお茶屋が取立てられていった。大聖寺の家康垢付の寝具は、まだ御殿やお茶屋が設置される以前、家康が大聖寺に宿泊したときその宿泊接待の御礼として置いていったものとみられる。
この寝衣は絹地で、菊を配した柄のほか徳川の紋である三ツ葉葵が所々に配されている。(越谷市教育委員会)」

北条氏繁掟書
「大相模大聖寺に所蔵されているこの掟書は、小田原北条氏一族の氏繁が元亀3年(1572)に大相模不動院(現大聖寺)に与えたもので、市内最古の中世文書である。
この要旨は「大相模不動院は古来より岩付の祈願所として諸役を免除してきたが、只今妄りに横合から、非分を申しかける者がいるそうである。一段と不埒なことである。今より後は、前々のように岩付の祈願所として武運長久の祈願を懈怠なく勤めるよう、さすれば前々与えなかった役も与えるであろう、ならびに横合より非分申しかける者がいたときは申し出るよう、速やかに糺明を遂げるであろう」というものである。
元亀3年〈1575〉頃、当時、越谷地域に大きな影響を与えていた岩槻太田氏は、永禄10年(1567)太田氏資が、里見氏との三船台での戦いで里見氏に敗れた後、岩槻城は北条氏の支配下におかれた。
長い間、太田氏と深い関係にあった岩槻や越谷の土豪層にとっては、北条氏の岩槻進出に対し不満があり、大相模不動院もこうした中で、北条氏に抵抗を示した一勢力であったと思われるそこで、当時岩槻城代であった北条氏繁が大相模不動院を味方にするために発給したのがこの掟書である。これらの歴史の流れを把握し、越谷地域の歴史を知る上で、需要な文書と言える(越谷市教育委員会)」
庚申塔
本堂にお参りし、見事な五葉松を見遣りながら成り行きで東門へ。右手に大きな基壇の上に庚申塔が立つ。手前両脇に侍る猿の顔が削られているように見える。天保9年(1838)建立の青面金剛立像。百庚申供養と刻まれていた。東門への参道両側に多くの「文字庚申塔」が並ぶが、それが百庚申のようだ。




参道左手にも三猿庚申塔、青面金剛立像の庚申塔。百庚申塔が何故このお寺様に。チェックすると、元はお寺近くの元荒川土手にあったものを、河川改修の際この地に移した。平成3年(1991)の頃、と言う。








日枝神社
大聖寺を離れ元荒川の堤防に戻る。不動橋を越え不動排水機場辺りで地図を見ると、自然堤防上に寺社が並び建つ。中川との合流点までは祭祀圏のこともあり、どのような社か立ち寄ることに。
社叢を目安に進むと日枝神社。堤防側から、社殿裏手から境内に。眷属の猿が社殿前に佇む。案内には、「日枝神社の勧請年は不詳であるが、元荒川をひかえた奥州街道に面した古社の一つである。もとは山王社と称され、東光院、利生院、神王院、安楽寺、薬王寺、観音寺の六寺院を配下におさめていた大きな社であった。
その後江戸時代に四寺が大相模大聖寺の塔頭に移され、一寺が廃寺となったが、山王社は西方村の鎮守に位置づけられた。
明治の初年山王社は日枝神社と改称、明治四十年同村の八幡神社、稲荷神社、愛宕社、天神社などを合祀している、現在は大山咋命、素盞嗚尊、菅原道真、大己貴命など十五柱を祭神として祀っている。
境内には古い石塔はみられないものの、神社にほど近いおしゃもじ橋と称された祠堂には、嘉暦三年(一三二八)在銘のものと、元弘三年(一三三三)在銘の弥陀一尊板碑が神体として祀られている(埼玉県・越谷市掲示)」、とあった。
日枝と山王
日枝神社は、日吉山王権現が明治の神仏分離令によって改名したもの。「**神社」って呼び方はすべて明治になってからであり、それ以前は「日吉山王権現の社(やしろ)」のように呼ばれていた(『東京の街は骨だらけ』鈴木理生:筑摩文庫)。その日吉山王権現という名称であるが、これって、神+仏+神仏習合の合作といった命名法、かも。日吉は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた、ということ。
次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開いき、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体し日吉山王権現が誕生した。
権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということ。
おしゃもじ橋を探し、少し彷徨ったが見つからなかった。

久伊豆神社
その先にも社が続く。堤防側から境内に入れない。堤防側が奥州街道の道筋、かとも思ったのだが、一筋南の社殿参道前の道がそれであろうか。境内から社殿に。
案内には「この地はもと大相模郷の東方村で、久伊豆神社はこの村の鎮守社であった。当地は元荒川をひかえた奥州旧街道の道筋にあたり、早くから開けたところで、武蔵七党野与党の一族、大相模次郎能高が本拠とした地と伝えられている。久伊豆神社はもと野与党の氏神といわれ、野与党の武士が居住した地に久伊豆神社が勧請されている。当社は明治四十一年同村の稲荷社、八幡社、天神社、神明社などを合祀し、現在大己貴命、菅原道真、天照大神、与田別命など七柱が祭神として祀られている。
境内入口には樹齢数百年と言われている直径一・五メートルにも及ぶ銀杏の大木があり、太いしめ縄が張られている。また、境内には文化四年(一八〇七)銘の御手洗石などがある。(埼玉県・越谷市)」とあった。

久伊豆神社のあれこれは上述。大相模次老の館はここから少し南の大成二丁目にある、とのことである。

八坂神社
散策ルートになっているのだろうか、社の道案内をもとに東に進むと八坂神社。どういった事情かさっぱりした社となっていた。
案内には「八坂神社は、元荒川の河畔、奥州街道(日光道中)に面した元大相模郷の一村である見田方村の鎮守社で、天王社と称された古社である。
見田方の地は元郷の御田であったとも言われており、早くから開けたところと伝えられる。江戸時代は、忍藩(現行田市)の支配地、柿ノ木領八ヶ村に組み入れられた。
境内には、文化八年(一八一一)銘の改刻塞神塔や文久三年(一八六三)銘の猿田彦大神塔などが建てられている。
改刻塞神塔はもと庚申塔であったが、明治元年(一八六八)、神仏分離令の処置担当者として忍藩に抱えられた平田篤胤の門人木村御綱が、「庚申塔などと申すな。塞神と唱えよ。」と説いて、藩内の庚申塔をすべて塞神塔に改刻させたと言われている。このため、見田方村を中心とする柿ノ木領八ヶ村には、改刻塞神塔が数多く見られる。
また、八坂神社裏手脇にはかつて沼があり、そこに内池辨天が祀られていた。この沼は天明六年(一七八六)の関東洪水の時、元荒川の堤防が崩れてできたと言われており、人々はこの沼を”オイテケ堀”と名付けている。沼の主の大きな白蛇は人が通ると「オイテケ、オイテケ」と呼びかけ、沼に引き込むと言われたことから、人々は決して子供たちを近づけなかったと言われている。
なお、見田方の地からは、昭和四十一年・四十二年の発掘調査により、水稲農耕を営んでいたと推定される古墳時代後期(六世紀後半頃)の住居跡などが確認され、現在、その遺跡は越谷レイクタウン駅前に「見田方遺跡公園」として現状保存されている(越谷市掲示より)」とあった。
八坂と牛頭
天王とは牛頭天王のこと。牛頭天王が八坂神社となったのは明治の神仏分離令以降。本家本元・京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社に改名したため、全国3,000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていたから。ちなみに、明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の 不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。
で、なにゆえ「天王さま」・「祇園さん」と呼ばれていたか、ということだが、この八坂の郷に移り住んだ新羅からの渡来人・八坂の造(みやつこ)が信仰していたのが仏教の守護神でもある「牛頭天王」であったから。また、この「牛頭天王さま」 は祇園精舎のガードマンでもあったので、「祇園さん」とも呼ばれるようになった。

大成排水機場
を東に進むと道脇に用水路が現れる。水路フリークとしては故なく水路に沿って進むことに。国道4号を越え、畑の端などもお邪魔しながらひたすら進み元荒川の堤防に出た。その先には大成排水機場があった。
メモの段階でチェックすると、国道4号の南詰めにある大きな取水堰(レイクタウンにある大相模調整池につながっているようだ)の更に少し上流に取水堰があり、そこからつながっているようだが、この用水路は結局名称がわからなかった。

元荒川・中川合流点
元荒川・中川合流点に到着。長かった。元荒川を下る前はずっと大落古利根川を下ってきたので、大落古利根川と中川の合流点に足跡をとは思うのだが、そこはいつだったか一度歩いているので良しとし、本日の散歩を終えも寄りの駅である武蔵野線・吉川駅に向かう。
中川
中川は羽生市を起点とし、埼玉の田園地帯を流れ東京湾に注ぐ全長81キロの河川。起点をチェック。羽生市南6丁目あたり。宮田橋のところで葛西用水を伏越で潜り、宮田落排水路(農業排水路)とつながるあたりが起点、とか。
結果としてこのような概要とはなっているが、葛西用水と同じく、中川も元からあった川ではない。利根川東遷・荒川西遷事業により「取り残された」川を治水・利水のために繋いで結果的に出来上がった川である。
ために、中川には山岳部からの源流がない。低平地、水田の排水を34の支派で集めて流している。源流のない川ができたのは、東遷・西遷事業がその因。江戸時代、それまで東京湾に向かって乱流していた利根川、渡良瀬川の流路を東へ変え、常陸川筋を利用して河口を銚子に移したこと。また、利根川に合流していた荒川を入間川、隅田川筋を利用して西に移したことによって、古利根川、元荒川、庄内古川などの山からの源流がない川が生まれた。このことは幾度か触れた。

現在の中川水系一帯に「取り残された」川筋は、古利根川筋(隼人堀、元荒川が合流)と島川、庄内古川筋(江戸川に合流)に分かれていた。幕府は米を増産するために、この低平地、池沼の水田開発を広く進め、旧川を排水路や用水路として利用した。が、これは所詮「排水路」であり「用水路」。「中川」ができたわけではない。
中川水系の水田地帯を潤し、そこからの排水を集めた島川も庄内古川も、その水を江戸川に水を落としていた。が、江戸川の水位が高いため両川の「落ち」が悪く、洪水時には逆流水で被害を受けていたほどである。低平地の排水を改善するには、東京湾へ低い水位で流下させる必要があった。そこで目をつけたのが古利根川。古利根川は最低地部を流れていた。島川や庄内古川を古利根川つなぐことが最善策として計画されたわけである。実際、江戸川落口に比べて古利根川落口は2m以上低かったという。
この計画は大正5年(1916)から昭和4年(1929)にかけて外周河川である利根川、江戸川および荒川の改修に付帯して実施された。島川は利根川の改修で廃川となった権現堂川を利用したうえで、幸手市上宇和田から杉戸町椿まで約6キロを新開削して庄内古川につながれた。庄内古川は松伏町大川戸から下赤岩まで約3.7キロして大落古利根川につながれた。こうして「中川」ができあがったわけである。

武蔵野線・吉川駅
中川左岸に渡り、成り行きで武蔵野線・吉川駅に向かい本日の散歩を終える。次回は中川を下る。既に歩き終えて終えている古利根川下流域、足立・葛飾区境を流れる古隅田川には、あと数回歩けば届くところまで下りてきた。