日曜日, 5月 17, 2015

狛江道散歩 そのⅢ;狛江の古墳と水路跡を辿る

先回の散歩で調布から狛江道を狛江駅まで辿り、荏原群衙の道と品川湊への品川道への分岐点である世田谷区喜多見の慶元寺まで歩き終えた。泉龍寺で思いもかけず美しい鐘楼門や緑豊かな弁財天池緑地を堪能し、狛江道散歩を終えたわけだが、散歩の途中で出合った泉龍寺の湧水池からの流れの行方、六郷用水の名残を残す橋名、そして、幾度となく出合った如何にも水路跡といった緑道のことが気になっていた。
水路跡をチェックすると、それは六郷用水からの分水であり、また用水開削に拠って切り離された「旧野川」の流路跡であった。かつて野川は現在の流れより西を流れており、現在の野川の流れは、かつての「入間川」の川筋であったようである。
多摩川の取水口から開削された六郷用水は「旧野川」の水を集め、さらに東に向かい入間川をも繋ぎ、用水路として南に下った。 六郷用水によって流れを切られた「旧野川」の川筋は岩戸川(岩戸用水)と名前を変え、狛江から喜多見一帯を潤した。泉龍寺からの湧水も六郷用水の分水を集め「清水川」として南東に流れ、「岩戸川・岩戸用水」に繋がれた、とも。
 現在入間川は野川に合流し、かつての入間川の流路は野川と称される。六郷用水が使われなった後、旧野川の瀬替えを行い入間川に繋いだわけだが、合流点の下流を「野川」とした。少しオーバーではあるが、人工的な「河川争奪」がおこなわれた。入間川の流路が野川に奪われたわけである。

そして古墳。当日は調布でふたつほど古墳に出合い、また狛江でも亀塚古墳など幾つかの古墳を訪ねたので、その時は気にもならなかったのだが、よくよく考えてみれば、往昔「狛江百塚」と称されたほど狛江である。
先日の散歩で出合った古墳だけではないだろうとチェックすると、狛江駅周辺だけでもいくつかの古墳が残ることがわかった。実際、先回歩いた道筋である、伊豆美神社脇とか、駅前、そして泉龍寺のすぐ北にも古墳があったのだが、知らず。その前や横を通りすぎていたようだ。
ということで、先回の散歩から日も置かず、狛江を訪ね水路跡と古墳を辿ることにした。


本日のルート;
古墳
■狛江地区;駄倉一号墳>東塚古墳>松原東稲荷塚古墳>飯田塚古墳>白井塚古墳>兜塚古墳>田中塚古墳・田中稲荷塚古墳>経塚古墳>亀塚古墳
■猪方地区;前原塚古墳
■喜多見築地区;天神塚古墳>第六天神塚古墳>稲荷塚古墳

水路
■清水川;田中橋交差点>六郷用水取水口>水神社>猪方用水の分流点>相の田用水分岐・鎌倉橋>清水川公園>揚辻稲荷>清水川が南に折れる
■岩戸川・岩戸用水;岩戸川緑地公園>岩戸川の清水川の合流点>岩戸川緑道:岩戸川せせらぎ>岩戸川南公園>喜多見緑道>喜多見公園>荒玉水道>喜多見したこうち緑道>開渠地点>暗渠そして開渠>新井橋・野川合流地点
■六郷用水路;次太夫掘公園>滝下橋緑道>小田急小田原線・喜多見駅

小田急小田原線・狛江駅
狛江駅で下車。ルートを想うに、まずは狛江駅周辺の古墳を辿り、その後、多摩川用水の分流、泉龍寺からの湧水の水路、そして、六郷用水開削によって下流部を切り離された、野川の旧流路を辿ろうと思う。

狛江駅周辺の古墳

駄倉一号墳
最初は駅傍、先回の散歩で歩いた、かつての「品川道」が都道11号に合わさった箇所。角の石垣の上に木が茂る塚ではあるが、古墳跡と言われなければ、とてもわからない。 この古墳、古墳かどうか、といった議論もあったようだが、周溝から円筒埴輪が出土したことにより、確認された、とか。
築造は5世紀後半、直径40m前後の円墳であると推定される。現在は、南は宅地で削られ、北と西は道路で削られて石垣が組み上げられ往昔の面影はない。現地に案内もなく、石垣上の土盛に祠らしきものが見えるのみ。

東塚古墳
都道11号を少し北に向かう。道脇に竹藪の生い茂る、それらしき場所があるが、個人の敷地内のため、その竹林の中に東塚古墳があるのだろう、と想うのみ。






松原東稲荷塚古墳
都道11号から成り行きで「品川道」の道筋に戻る。松原通りに向かう途中、塀の北に猛烈な竹藪がある。そこが松原東稲荷塚古墳のようだ。
本来は径約33m、高さ約4mの円墳と推定されている。河原石による葺石や、また円筒埴輪片が出土している、と言う。
西側にアパート建ち、墳丘は削られているとのこと。アパート脇から墳丘に入れそうにも思えたが、ここも個人敷地とのことで断念した。

飯田塚古墳
東松原古墳から東に「品川道」を東に向かい、松原通りを南に少し下ると豪壮なお屋敷がある。表札には「飯田」とある。その南にアプローチできる小径があり(個人の所有地のよう)、ちょっと進むと赤い木の鳥居がある。
その先の緑の中に飯田塚古墳があるようにも思えるのだが、個人の敷地のようであり、竹藪に入ることは断念する。



白井塚古墳
先回の散歩で訪れた伊豆美神社を出た先、これも先回の散歩で出合った「道標」手前の道を北に進む。道の右手に鬱蒼とした緑の塚らしきものが見えるのだが、これも白井さんという個人のお宅の敷地内にあり、道から眺めるのみ。
資料によれば、直径36m、高さ4m弱の円墳であり、周囲を約10mの周溝で囲んでいたとのこと。古墳は西側が半分弱、南側も四分の一ほど削られているようではある。




兜塚古墳
伊豆美神社の南東のすぐ近く、柵で囲われ保護されている。狛江の古墳散歩をスタートし、はじめて、古墳らしき「古墳」に出合った。墳丘の形はよく分かる。直径約30メートル、高さ約4メートルの円墳であった、よう。
墳丘からは円筒埴輪、朝顔形埴輪などが出土しており、墳丘の周囲には周濠がある、とのこと。また墳丘には河原石による葺石が敷かれていた、と言う。

田中塚古墳・田中稲荷塚古墳
都道114号・田中橋交差点の東南隅にささやかな高千穂稲荷が佇む。そこが田中塚古墳・田中稲荷塚古墳跡。径10mほどの円墳ではあったようだが、現在は数十センチ程度高くなった敷地に小祠があるだけで、古墳があった、といわれても、といったものであった。
古墳はともあれ、ここ田中橋交差点は六郷用水の水路跡であり、今回の水路歩きにフックが掛かった地でもある。そこに田中橋が架かっていた。稲荷小祠脇には「田中橋」と刻まれた石柱が残っていた。

経塚古墳
かつての六郷用水路であった都道11号(多摩川堤の水神社から田中橋交差点までは都道114号)を少し東に戻ると、泉龍寺の北に経塚古墳がある。古墳は柵で塞がれているが、マンションの管理人、または泉龍寺に許可を取れば中に入れる、とある。
それほど「古墳萌え」でもない我が身としては、古墳の南、さらに裏にぐるっと廻って北からも眺めるだけで十分。大きなマンション(狛江ガーデンハウス)に挟まれて、少々窮屈そうであった。実際、墳丘の北側は削られており、西や南も裾部がケ削られ往昔の半分程度の規模になっているようで
ある。
柵内にあった案内には「経塚古墳は5世紀後半ごろの築造と推定される円墳で、当時直径40m以上の墳丘に、幅10m以上の周溝がめぐっていました。以前は、墳丘上に、中世13世紀から16世紀にかけての板碑が、約30基ほど林立していました。そのうち、10数基はいまも泉龍寺などに保管されています。また墳丘から常滑の蔵骨器も出土しています。中世墳墓として再利用されたのでしょう。
さらに、経典を埋めたという伝承があり、泉龍寺を開創した奈良時代の良弁僧正の墓とする伝承もある複合的な遺跡です(攻略)」とあり、その説明の横には『江戸名所図会(1834刊)』の経塚古墳の絵があり、「墳丘上の松の木の下に、よくみると板碑が立っているのがわかる」とのコメントがあった。
この経塚古墳は狛江の古墳群において前述の「兜塚古墳」、次にメモする「亀塚古墳」に次ぐ規模を有していた可能性が高いとのことである。

亀塚古墳
経塚古墳から、先日の散歩でも訪れた元和泉1丁目にある亀塚古墳に向かう。田中橋交差点まで引き返し、南東へ弧を描く、いかにも水路跡(六郷用水の分水である「相の田用水堀」)といった道を「鎌倉橋」跡を見遣りんがら進み、最初の角を南に下り、道なりに進み道、建て込んだ民家の塀に「亀塚古墳」の案内を目印に民家に間の狭い通路を進む。
塚に上る数段の石段を上ると塚の上に「狛江亀塚」の碑が建っていた。周囲は民家で囲まれている。この塚は破壊された古墳(前方後円墳の後円部)の残土を盛って復元されたもの、という。

以下は先回のメモをコピー&ペースト;塚の上にあった案内には「狛江市南部を中心に分布する狛江古墳群は、南武蔵でも屈指の古墳群として知られています。これらは「狛江百塚」ともよばれ、総数70基あまりの古墳があったとされています。そのそのなかでも、亀塚古墳は全長40mと狛江古墳群中屈指の規模を誇り、唯一の帆立貝型前方後円で、5世紀末~6世紀初頭に造られたと考えられています。昭和26・28年に発掘調査が行われ、古墳の周囲には、周溝があり、墳丘には円筒埴輪列が廻らされ、前方部には人物や馬をかたどった形象埴輪が置かれていることがわかりました。
人物を埋葬した施設は後円部から2基(木炭槨)、前方部から1基(石棺)が発見され、木炭槨からは鏡、金銅製毛彫飾板、馬具、鉄製武器(直刀、鉄鏃など)、鈴釧や玉類などの多数の副葬品が出土しました。特に銅鏡は中国の後漢時代(25~220年)につくられた「神人歌舞画像鏡」で、これと同じ鋳型でつくられたものが大阪府の古墳から2面見つかっていることから、この古墳に埋葬された人物が畿内王と深く結びついていた豪族であったと考えられています。また、金銅製毛彫飾板には竜、人物、キリンが描かれていて、高句麗の古墳壁画との関係が注目されました。
現在は前方部の一部が残るのみですが、多彩な副葬品や古墳の規模・墳形などからみて、多摩川流域の古墳時代中期を代表する狛江地域の首長墳として位置づけられます(平成14年3月 狛江市教育委員会)」とあった。
説明版と一緒にあった昭和26年の亀塚古墳は、破壊される前の巨大な古墳威容を示していた。なお、亀塚古墳からは高句麗系の影響の見らえる遺物が出土しえているともいう。 

前原塚古墳
次の古墳は前原塚古墳。場所は小田急線の和泉多摩川と一駅先ではあるが、写真では古墳の姿を留めているので、古墳らしき古墳を目にしようと、ちょっと足を延ばす。
成り行きで和泉多摩川駅まで南に下り、東に向かうと、畑の中に緑の繁る古墳らしき塚が現れた。場所は畑の中にあり、近づくことは遠慮する。記録に拠れば、径約18m、高さ2.1 ~2.6 mの円墳で、墳丘上には葺石と考えられる挙大の円礫が散在しているようである。周溝は、内径約23.5m、外径約31.5m。墳頂部には竪穴式の主体部が2基存在するとされる。

狛江市猪方1丁目には清水塚古墳があり、比較的形状を保つと言うが、それらしき場所に行っても、はっきりとした塚が残っているようにも思えないので、古墳巡りを切り上げ、原点である狛江駅まで戻る。

往昔、「狛江百塚」と称されるほど、多くの古墳があったとされる狛江ではあるが、現在遺っているのは13基ほど。昭和26年(1951)の亀塚古墳の写真を見るにつけ、それ以降、猛烈な宅地開発が進み、塚が削りとられたのだろう。現在、原型を留めるのは数基に過ぎないようである。
それにしても、古墳が個人の宅地内にあるものが多かったのは、予想もしていなかったので、興味深かった。検索すると古墳が個人宅内にあるのは、ここ狛江に限ったことではないようではあった。


六郷用水と狛江の水路跡

田中橋交差点
古墳散歩を終え、水路跡歩きをはじめる。最初は「六郷用水」跡を知るきっかけとなった、田中橋交差点へと、狛江駅から都道11号を西に向かう。

六郷用水
「六郷用水」とは、稲毛・川崎領(神奈川県川崎市)の代官・小泉次太夫の指揮により開発された農業用水路。慶長二年(1597)から15年をかけて完成した。多摩川の和泉地区で水を取り入れ、世田谷領(狛江市の一部、世田谷区・大田区の一部)と六郷領(大田区)の間、約23kmを流れていた。世田谷領内を流れる六郷用水は、小泉次太夫の名を冠し「次太夫堀」と呼ばれていた。
現在の六郷用水(次太夫堀)は、次太夫堀公園、そして丸子川として、大田区の一部に親水公園といった主旨で残っているだけであり、その他は埋め立てられるか、雨水対策の下水道となっているようである。

六郷用水は、いつだったか、丸子川からはじめ大田区の用水路跡は数回に分けて()歩いた。また、これもいつだったか、狛江から喜多見を歩いたとき、狛江の水神社辺りが六郷用水の取水口であるということで、そこを訪ねたこともある。その時は、「田中橋」といった地名にも気付くことなく、水神社辺りの取水口から、これも、いつだったか訪ねたことがある「次太夫堀公園」に保存(再現?)されている水路と繋がっているのだろう、などと思って、それ以上深掘りすることはなかった。
が、今回「田中橋」がきっかけとなり、多摩川堤の水神社から「丸子川」の開渠までのルートをチェックする。


水神社から丸子川までの六郷用水のルート
水神社から丸子川までのおおよその六郷用水のルート;水神社傍で多摩川から水を取り込んだ六郷用水は都道114号の水神前交差点から都道を西に進み、西河原自然公園を経て田中橋交差点に至る。古墳のところでメモしたように、交差点脇の高千穂稲荷脇にあった田中橋の石標は、六郷用水に架かっていた橋石である。
用水はこの田中橋交差点から道なりに西に進む都道11号を少し進み、泉龍寺バス停あたりで都道11号から離れ、右に分岐し、小田急小田原線・狛江駅の北をを進み、南西に弧を描いて世田谷通り・一の橋交差点に。
世田谷通り・一の橋交差点から世田谷通りを西に進み「二の橋」交差点を辺りで都道から離れ、狛江市と世田谷区の境の先で右に分岐する現在の「滝下橋緑道」を進む。そこからは現在の野川を東に越え、世田谷通りの手前を緩やかに弧を描いて再び現在の野川を西に戻り、次太夫堀公園に残る水路跡に出る。 次太夫堀公園を出た水路は、多摩堤通り・次太夫堀公園前交差点を東に進み、現在の野川に沿って下り、東名高速の南にある永安寺前の如何にも水路跡といった道筋を進み、仙川傍の丸子川親水公園に繋がっていたようである。

六郷用水にともなう河川争奪
これで、今まで「空白」であった、六郷用水の取水口と丸子川が繋がったのだが、上でメモしたように、このルートチェックの過程で六郷用水開削に伴う、人工的ではあるが一種の「河川争奪」が見えてきた。
誠に興味深く、かつまた、先回の散歩で狛江駅から慶元寺まで歩く道筋の折々に登場する、如何にも水路跡といった緑道が一体「何者なのか?」、といった疑問も解消したこともあり、すこしまとめておく。







野川・入間川の旧流路
河川争奪の登場するのは野川と入間川、そして六郷用水。野川が入間川の川筋を「奪い取った」わけだが、そのきっかけは六郷用水開削。かつて野川は現在の川筋よりずっと西、狛江駅の少し東辺りを流れていた。一方、現在の入間川の川筋は調布市入間町で「野川に合流」し、その下流は「野川」となっているが、往昔はその合流点から下流は入間川であった。










六郷用水開削にともない野川・入間川は六郷用水に組み込まれる
その状況が変わったのは六郷用水開削。上でメモしたルートで開削した六郷用水は、そのルート途中で南北に流れる野川の水を取り入れ、その下流を切り離した。また、六郷用水は入間川の水も取り込み、下流を切り離すことにした。野川も入間川も六郷用水によって下流部が切り離された分けである。

六郷用水廃止に際し、野川は瀬替えを行い旧入間川に繋ぐ 

この状況が300年ほど続いたわけだが、再び状況に変化が起きる。1950年代となり、この辺り一帯が都心近郊の宅地としての開発が進むにつれ、農業用水である六郷用水が活用されなくなってきた。水神様から狛江駅辺りまでは1960年代の中頃には暗渠となり、それ以外の水路も昭和46年(1971)頃にはすべて暗渠となってしまったようである。
ここからが、ちょっとオーバーではあるが「河川争奪」の過程であるが、戦後野川の旧流路で洪水が多発したといったこともあり、野川を入間川の川筋に付けかえる「瀬替え」工事が1960年代の始め頃から始まる。この工事は昭和42年(1967)に完成するが、入間川に瀬替えされた川筋は、入間川ではなく「野川」と称するようになった。これが「河川争奪」と言うか、野川の瀬替えの経緯である。

六郷用水によって切り離された野川下流部
ところで、六郷用水によって切り離された旧野川の下流部であるが、大雑把に言って、現在の岩戸川緑道(狛江市)と、その緑道が世田谷区に入ると「喜多見まえこうち緑道」と呼ばれる緑道がその流れ跡と言われる。
往昔は六郷用水の用水堀の一翼を担い活用されたのではあろうが(実際岩戸川とも岩戸用水とも称される)、この用水も昭和52年(1977)頃までには暗渠・緑道となっている。
先回の散歩で狛江駅から慶元寺まで歩く道筋の折々に登場した如何にも水路跡(岩戸緑道)といった緑道が一体「何者なのか?」、といった疑問は、六郷用水によって切り離された旧野川の下流部であるということで一件落着。


水路散歩スター
旧野川、六郷用水の水路、六郷用水によって切り取られた下流部の流路、また、六郷用水から分水したであろう用水掘。少々ややこしいので(上に)地図にまとめた。そして、少し頭を整理した上で、田中橋跡からはじめ、狛江、そして世田谷に続く水路を散歩する。
水路巡りの要点は、先回の散歩で気になった、昭和30年末頃まで和泉・岩戸・猪方・駒井・喜多見・宇奈根の水田を潤したと言う泉龍寺の弁財天池からの水路と、六郷用水によって切り取られた旧野川の下流部とされる緑道(岩戸川)を辿ることにある。


清水川を辿る
まずは、泉龍寺の弁財天池からの水路巡りをはじめようと、あれこれチェックすると、この水路は「清水川」と呼ばれたようである。そしてこの川は弁財天脇の「ひょうたん池」からの湧水だけでなく、六郷用水の分水である「相の田用水掘」からの養水も合わせている、とのこと。
「相の田用水掘」は多摩川から取水した六郷用水から分水した「猪方用水」の支線とのこと。その「猪方用水」は多摩川取水口の少し東にある「西河原自然公園」の小高い丘を切り崩し、六郷用水から分水している、とある。 ついでのことでもあるので、緒方用水も辿ってみようと、六郷用水のスタート地点である多摩川堤の取水口へ向かう。

六郷用水取水口
田中橋から西に都道114号を進み、多摩川堤に。ここに来たのは何年前だろう、などと想いながら、取水口に向かう。堤下に取水口らしきものがあったのだが、これはどうも先日歩いた根川の多摩川への合流点だろう。
因みに、上の六郷用水開削時の分水用水に「三給用水」を描いているが、この用水は六郷用水の分水ではなく、根川からの用水である。この用水は六郷用水を樋で越えてこの地を潤した。

堤手前に「六郷用水の取り入れ口の碑」があり、昭和初期の取水口の写真があった。これを見ると、多摩川の堤を掘り割って水路をなしている。ということは、取水口は完全に埋め立てられた、ということだろう。

水神社
取水口の碑の傍に小さな祠。水神社とある。由来書には「水神社由緒「此の地は寛平元年(889年)九月二十日に六所宮(明治元年伊豆美神社と改称)が鎮座されたところです。その後天文十九年(1550年)多摩川の洪水により社地流出し、伊豆美神社は現在の地に遷座しました。この宮跡に慶長二年(1597年)水神社を創建しその後小泉次大夫により六郷用水がつくられその偉業を讃え用水守護の神として合祀されたと伝えられる。 明治二十二年(1889年)水神社を改造し毎年例祭を行って来ました。昭和三年(1928年)には次大夫敬慕三百四拾二年祭を斉行 もとより伊豆美神社の末社として尊崇維持されて来ました。伊豆美神社禰宜 小町守撰」、とあった。

猪方用水の分流点
水神社から東に戻り西河原自然公園に。分流点は「大塚山を切り崩し」とあったので、公園の中に小高い辺りを探し、その先に流路らしきものがないかチェックする。と、公園と民家の間に微かに水路の名残が感じられる小径がある。 公園を越えた先にも、草に覆われた道というか「隙間」が民家の間を進む。あまりに民家に接近しているので、少々躊躇いはあったのだが、宅地内ではないようであり、草を掻き分け先に進む。

相の田用水分岐・鎌倉橋
道は小田急線の複々線工事に伴い移築した、江戸時代後期の古民家が数件立つ「むいから民家園」の南を抜けると南北に通る道がある。この通りで猪方用水は南に下り、支線の「相の田用水」がそのまま東へと進む。道なりに進むと道脇に「鎌倉橋」と刻まれた石橋があった。古墳散歩で亀塚古墳に向かう途中で出合った橋跡である。

日本水道狛江浄水場跡
「相の田用水」は泉龍寺の南を進む。この一帯を「相の田」と呼んでいたようだ。水路跡は、この先で泉龍寺の「ひょうたん池」から流れ出す清水川に合わさる。その水路跡はほんの僅かな痕跡を残し、現在の小田急線の東に下っていたようである。

駅の東側に移るに、泉龍寺から真南に下ったところにある狛江第三中学当たりに日本水道狛江浄水場跡があったようである。水路辿りの「流れ」でちょっと寄り道する。そこは古墳散歩で亀塚古墳から猪方地区にある前原塚古墳に向かう途中に通り過ぎた道筋でもあった。
学校の周辺を彷徨うに、そのような構造物は見つからない。どうも場所は狛江第三級学校の構内、というか、浄水場跡に狛江第三中学が建ったのだろう。

日本水道狛江浄水場
この狛江浄水場は、関東大震災後、東京都心から離れ郊外に移り住んだ住民の水需要に応えるため、日本水道株式会社によって昭和6年(1931)に工事に着手し、翌昭和7年(1932)から通水が開始された。
原水は多摩川の伏流水と六郷用水からの分水。伏流水は現在水道局の資材置き場・水道局住宅のある当たり(はっきりしないが狛江第三中学の北西の元和泉2-10-1辺り?亀塚のちょっと西)に取水井と取水池があった、との記事があった。また、六郷用水からは、むいから民家園の西にある田中橋児童遊園の辺りから分水された、と言う。
水は世田谷区の一部に送水したようであるが、多摩川の水位低下、六郷用水の廃止などの影響もあったのか、昭和44年(1969)に廃止。その跡地に昭和48年(1973)、狛江第三中学校が建った。

清水川公園
清水川は狛江駅南口ロータリーから南東に下る道を進み、世田谷通りの手前で左に折れていたようだ。現在は暗渠となり、その痕跡を見付けるのは難しい。 さて、どうしたものかと、世田谷通りを彷徨っていると、偶々「清水川公園」といった案内が目に入った。ひょうたん池からの清水川は小田急線を越え、ここに繋がっていたのだろう。

■清水川の水源のひとつ・揚辻稲荷に向かう
なんとか「ひょうたん池」からの清水川の流れ跡が、狛江駅の東の地で繋がった。ここから東に進もうとは思うのだが、清水川には「揚辻稲荷」からの湧水も合流していた、と言う。地図を見ると、清水川公園の世田谷通りを隔てた北西に揚辻稲荷がある。そして、清水川公園の世田谷通りの逆側に、いかにも水路跡らしき「ノイズ」を示す細路がある。
とりあえず、民家の間の道を北東に進む。ほどなく道は切れるが、その先にも草に覆われた、如何にも水路跡といった筋が民家の塀に囲まれて続く。

揚辻稲荷
民家の間でブッシュを踏みしだきながら先に進むと石に囲まれた池跡があった。湧水痕跡はなにもない。池をぐるりと回り揚辻稲荷にお参りし、再び清水川公園に戻る。






■清水川が南に折れる
清水川公園を進むと、南側がちょっと小高丘があり、緑が残る。その先に進むと車止めがあり、そこからは如何にも緑道といった道が先に進む。清水川はこの地で南に折れる、と言う。





岩戸川・岩戸用水

岩戸川の合流点
では、先に進む水路跡は?揚辻稲荷からの湧水は清水川と合流することなく、清水川と平行して流れるとの記述もある。その水路跡だろうか、それとも清水川の一部だろうか。専門家でもないのではっきりしないが、一般的な説明では「清水川は岩戸川(岩戸用水)と合流する」とあるので、清水川水系(ちょっとオーバー?)の水が、六郷用水の開削によって切り離された旧野川の流れである岩戸川とこの辺りで合流するのだろう。



岩戸川緑地公園
で、その岩戸川の流路であるが、先回の散歩で、狛江通りと世田谷通りとの交差点・狛江三差路の辺りで、「岩戸川緑地公園」との案内がある如何にも水路跡らしき細路が南東に進み、その水路跡らしき道はすぐに終わるが、別の水路跡らしき道がその先にも続き、成り行きで進むと「岩戸川緑道;岩戸川せせらぎ」と案内のある親水公園風の場所があり、明静院の南を通る品川道の手前まで進み、そこから右に折れて水路は先に続いていた。
その交差点・狛江三差路の辺りからの「岩戸川緑地公園」の道筋が岩戸川(旧野川)の水路跡かと思う。今回、清水川公園から進んできた水路跡とおぼしき小径は、清水川が南に折れるとされる辺りから先にも続き、成り行きで進むと「岩戸川緑道;岩戸川せせらぎ」に出た。ということは、その途中で岩戸川が清水川を辿ってきた水路と合流したことになる。
合流点を確認すべく、少し戻ると、先日歩いた北から南東へと下ってきた「岩戸川緑地公園」の「出口」がすこし北に見え、南に少し下ると清水川から辿ってきた水路跡の道に繋がる。先回の散歩では、知らず「岩戸川緑地公園=岩戸川跡」から成り行きで「清水川筋」に乗り換えて「岩戸川緑道;岩戸川せせらぎ」に向かっていたわけである。

岩戸川緑道:岩戸川せせらぎ
道を戻り「岩戸川緑道;岩戸川せせらぎ」の案内があったところに復帰する。開水路はおおよそ120mに渡る親水公園といった風情ではある。
この先、岩戸川緑道は明静院と八幡神社前を通む狛江道の南を、南東へと向かって弧を描いて進み、喜多見中学の西で流路を東、そして北東に替えて岩戸川南公園を境に狛江市域を離れ、世田谷区に入る。

喜多見緑道
小径を進むと「喜多見緑道」の案内。狛江市から世田谷区に入ると緑道は名称を変え、「喜多見見緑道」となる。







喜多見緑道付近の古墳
喜多見緑道の北に慶元寺がある。今回の散歩では、2回目の散歩で既に歩いた慶元寺をパスし、そのまま喜多見緑道を更に下流部へと辿ったのだが、狛江道の終着点であり、荏原郡衙への道と品川湊への道の分岐点でもある慶元寺近辺にも古墳があったので、先回の散歩のメモではあるが、慶元寺やその周辺の古跡をコピー&ペーストしておく。

須賀神社・天神塚古墳
慶元寺の東北傍に須賀神社がある。社は小高い丘の上にあり、吹き抜けの、まるで神楽殿でもあるような社であった。 で、社が建つ丘は天神塚古墳とのこと。径16~17m、高さ1mの横穴式石室のある円墳であったようである。

第六天神塚古墳
須賀神社の南に竹林に覆われた小高い丘がある。そこは「第六天神塚古墳」である。塚脇にある案内には「世田谷区指定史跡 古墳時代中期(五世紀末~六世紀初頭)の円墳。昭和五十五年(1980)と昭和五十六年(1981)の世田谷区教育委員会による、墳丘及び周溝の調査によって、古墳の規模と埋葬施設の規模が確認された。
これによって本古墳は、直径28.6メートル高さ2.7メートルの墳丘を有し、周囲に上端幅6.8~7.4メートル下端幅5.2~6.7メートル深さ50~80センチの周溝が廻り、その内側にテラスを有し、これらを含めた古墳の直径は32~33メートルとなることが判明した。またこの調査の際に、多数の円筒埴輪片が発見された。
埋葬施設は墳頂下60~70センチの位置に、長さ4メートル幅1.1~1.4メートルの範囲で礫の存在が確認されていることから、礫槨ないし礫床であると思われる。
なお同古墳については、「新編武蔵風土記稿」によると、江戸時代後期には第六天が祭られ、松の大木が生えていたとの記載が見られる。
この松の木は大正時代に伐採されたが、その際に中世陶器の壺と鉄刀が発見されており、同墳が中世の塚として再利用されていたことも考えられる。(昭和59年 世田谷区教育委員会)」とあった。

稲荷塚古墳
第六天神塚から慶元寺の境内に沿って北に道を進むと、左手に稲荷塚古墳緑地がある。公園の奥にこじんまりとした塚がある。
塚に近づくと、案内があり、「この古墳は直径約13m、高さ2.5mの円墳で、周囲に幅約2.5mの周濠がめぐっている。
長さ6mの横穴式石室は、凝灰岩切石で羽子板形に築造されている。調査は昭和34年と昭和55年に行われ、石室内から圭頭太刀、直刀、刀子、鉄鏃、耳環、玉類、土師器、須恵器が出土している。出土品は、昭和60年2月19日に区文化財に指定され、世田谷区郷土資料館に展示されている。古墳時代後期7世紀の砧地域の有力な族長墓と考えられる(昭和61年世田谷区教育委員会)」とあった。
狛江だけでなく、この喜多見にも喜多見古墳群と呼ばれる13基ほどの古墳が残るようである。



旧野川の水路に戻る
狛江道の荏原郡衙への道、品川湊への道のクロスロードである慶元寺近辺の古墳のメモはこれまでとし、慶元寺南の喜多見緑道をから下流へと辿ったメモを再開する

喜多見公園
喜多見中学の敷地に沿って弧を描いて進む喜多見緑道は都道11号で切れる。都道の先には喜多見公園がある。水路は公園の中を南東へと向かったのだろうと、公園を彷徨い東側に進むと、なんとなく周辺より低くなった空堀風の道が南に下る。確証はないが、水路跡といった「ノイズ」を感じ、先に進む。






公園先に水路跡
公園を南端まで進み公園を出る。公園横の道は荒玉水道道路であった。水路跡はどこに?と、公園先の草の繁る空き地の中に水路跡らしき金網の柵が南に下る。水路進む方向に荒玉水道を下ると砧浄水場前に出る。そして道が交差する東の角に「喜多見まちがど公園」があり、その南に「喜多見したこうち緑道」の案内があった。水路はここに続いているのだろう。
荒玉水道
荒玉水道とは大正から昭和の中頃にかけて、多摩川の水を砧(世田谷区)で取水し、野方(中野区)と大谷口(板橋区)に送水するのに使われた地下水道管のこと。荒=荒川、玉=多摩川、ということで、多摩川・砧からだけでなく、荒川からも水を引く計画があったようだ。が、結局荒川まで水道管は延びることはなく板橋の大谷口で計画中止となっている。

喜多見したこうち緑道
緑道を進み道路が交差する地点まではゆったりとした緑道であったが、交差地点から先は細い道筋となって民家と畑の間を進み、その先の道路と交差する地点で道は途切れる。
なお、六郷用水開削以前の旧野川の流れは、この喜多見したこうち緑道あたりから、そのまま東に進み、現在の東名高速を越え南東に下り、多摩川に合流していたようである。



開渠地点
その先はどこ?地図をチェックすると北東に開渠が見える。岩戸川は野川が高速道路とクロスする新井橋辺りに続くとのたであるので、方向的にはそれほどまちがっていないと、とりあえず開渠地点を目指す。開渠はH鋼で補強された水路として現れた。






暗渠そして開渠
この開渠もすぐに地下に潜る。その先は?地図をチェックすると、喜多見小学校の東、多摩堤通りの南に新井橋方向に向かう開渠が見える。道を成り行きで進み開渠地点に。





新井橋脇の野川への合流地点
開渠部に到着。しかし開渠部に沿って道はない。仕方なく多摩堤通りに迂回し、新井橋西詰めに。そこから野川に注ぐ開渠部を確認。野川の流入口はなかなか見つからなかったのだが、新井橋からチェックすると、川床に施設された金属枠で造られた流入口らしき構造物があった。


岩戸川緑道・喜多見緑道・喜多見したこうち緑道と辿った、六郷用水によって切り取られた旧野川の水路跡(実際の旧野川は喜多見したこうち緑道あたりで南に進み多摩川に合流)、その水路は現在、この新井橋で野川に注ぐが、野川の瀬替え工事実施前の水路は、東名高速の直ぐ南に見える野川第二緑地公園へと繋がっていたのだろうか。野川の入間川への瀬替え工事のとき、旧入間川であった現野川の科筋は直線化されており、野川第二緑地公園が旧水路と考えても、あながち間違いではないようにも思う。

次太夫掘公園
日も暮れてきた。そろそろ散歩を切り上げる時間である。地図で最寄りの駅をチェックし、小田急線・喜多見駅に向かうことにする。この新井橋から駅に向かうルートに「次太夫掘公園」とか「滝下橋緑道」があり、帰路の道すがら、どうせのことなら、これら六郷用水の流路跡を辿ろうと思ったわけである。

次太夫掘公園から東に続く水路をみれば、六郷用水は、現在の野川の東を流れていたようにも思うのだが、特段その痕跡もないので、野川の西に沿って上り「次太夫掘公園」から野川に繋がる水路地点に。そこから水路に沿って次太夫掘公園に入る。
既にメモしたとおり、「次太夫」とは、次太夫掘・六郷用水開削の差配をおこなった稲毛・川崎領(神奈川県川崎市)の代官・小泉次太夫のことである。公園内には六郷用水の名残をかすかに留めるささやかな水路とともに、名主屋敷や民家が移築され、江戸時代後期から明治にかけての農村風景を再現しているとのことである。

滝下橋緑道
水路、そして緑道が続く次太夫公園を抜けると、その先は水路跡の痕跡は全く見あたらない。野川に沿って北に向かい滝下橋緑道が野川に合わさるところまで進み、そこから緑道を西に進み世田谷通り・二の橋交差点に出る。500m程の六郷用水跡が滝下橋緑道として姿を現した。


小田急小田原線・喜多見駅
世田谷通り・二の橋交差点からは、成り行きで喜多見駅に向かい本日の散歩を終える。

何気なく取り出した『武蔵古道 ロマンの旅』からはじまった荏原郡衙への道・狛江道散歩。本文では二ページの地図を入れても五ページの記事からはじめた狛江道散歩ではあるが、いつものことではあるが、散歩しながらあれこれお気になることが登場し、三回のメモとなってしまった。 それも、三回目は、本来の荏原郡衙への道そのものと言うより、道の周辺に現れた古墳や、特に水路跡を辿る散歩のメモとなった。狛江道そのものの、最終目的地である慶元寺辺りまで辿り、なにも知らなかった大国魂神社と国府・国衙のあれこれ、府中崖線の上下を行き来する幾多の坂道、古品川道と称される狛江道の道筋と室町期に開かれたという「品川道」などを楽しめた上、古墳や思いがけず出合った六郷用水と、その開削故に起きた野川の瀬替え・上流部を切り取られた旧野川の水路跡など、気になることが次々と現れる実に楽しい散歩ではあった。いつもの事ながら、成り行き任せの散歩の「妙」ではある。