水曜日, 12月 20, 2006

秩父 秩父観音霊場散歩 Ⅴ;第二回秩父札所巡り(2)

宿でのんびりしながら、翌日の予定をどうしたものかと、少々真面目に話し合う。当初の予定では、最初に長瀞に向かい、それから西武秩父へ成行きで戻り旅、などと考えていた。地図を見る。宿は語歌橋の近く。5番札所・語歌堂も直ぐ近い。ということは千体仏の4番札所金昌寺もその先に。ということは、先回の札所散歩のとき、時間切れで行けなかった1番、2番札所は、そのもう少々先にある。宿から西武秩父まで歩くのであれば、とっとと、1,2番札所に進むべし。 で、黒谷の和同開珎の露天掘り跡を経て長瀞へというコースに、急遽というか、計画しておけば当たり前というか、の段取りですんなり決定。(水曜日, 12月 20, 2006のブログを修正)



本日のルート;語歌橋>5番札所・語歌堂・長興寺>4番札所・金昌寺>2番札所・真福寺>1番札所・四萬部寺瑞岩寺>和同開珎>秩父鉄道・黒谷駅>上長瀞駅>長瀞>宝登山神社>西武秩父

朝、宿を出立。交通量の多い県道・11号を避け、一筋東に入った道を歩く。5番札所語歌堂前を通り、先回パスした5番札所の納所・長興寺にちょっと立ち寄り、先に進む。織姫神社。昔、このあたりに織物工場があり、織物にちなんだものではあろう。が、秩父夜祭、って秩父神社の織姫さまと武甲山の龍神さまの年に一度の逢瀬のとき。こちらのコンテキストで考えるほうが、なんとなく落ち着きがいい。

織姫神社のところを東に入り、4番札所・金昌寺の門前をかすめ、先に進む。山の端をしばらく歩き二番札所の納経所・光明寺に立ち寄り、2番札所真福寺に向かう。大棚地区の山道を進み、九十九折れ・急勾配の峠道を越えると木立に囲まれた真福寺に着く。4番札所・金昌寺から、50分程度の歩き。途中の峠あたりか らの武甲山など、山々が美しい。

2番札所・真福寺
観音堂は、屋根・向拝や彫刻も美しく、風格ある趣き。本尊の聖観音立像は一木造りで室町時代の作。長享の頃というから15世紀の末、水害に遭い札所からはずされていたようだが、信者からの復活要望も強く34番目の札所として再登場。現在の場所に移ったのは江戸時代初期のこと。当時はもっと大きな規模であったようだが、万延元年(1860)火災により焼失した、と。本堂の左手に注連縄を張った社というか小祠。春日神社、諏訪神社などがまつられている。ちなみの、長享頃って、どんな時代だったか、ということだが、室町幕府、将軍・足利義尚の子治世。加賀の一向一揆の門徒が、守護・富樫氏を攻め自刃においやった、といった時代である。
ご詠歌;「巡りきて願いをかけし大棚の誓いもふかき谷川の水」

真福寺を離れ山道を下る。結構急勾配。この道を上るのは大変であろう、と思いながら歩いていると、サイクリング自転車に乗った御仁が急勾配をものともせず上がり来る。脱帽。坂道を30分程度下ると四萬部寺に。

1番札所・四萬部寺
山門をくぐり中へ入ると、正面奥に観音堂。元禄の頃の建築。紅葉が素晴らしい。いい雰囲気。寺伝によれば、昔、性空上人が弟子の幻通に、「秩父の里へ仏恩を施して人々を教化すべし」と。幻通はこの地で四萬部の佛典を読誦して経塚を建てた。四萬部寺の名前はこれに由来する。本尊の釈迦如来像が明治の末に、行方不明になったことがある。その後、70年をへて都内で発見され、現在この寺に収まっている、と。本堂の右手に施食殿の額のかかったお堂。お施食とは、父母、水子等があの世で受けている苦しみを救うための法会。毎年、8月24日に、この堂で行われる四万部の施餓鬼は、関東三大施餓鬼のひとつと。大いに賑わう。ちなみにあとふたつは「さいたま市浦和の玉蔵院の施餓鬼」、「葛飾・永福寺のどじょう施餓鬼」。
四萬部寺が札所一番になったいきさつは、上でメモしたように、江戸からのお客様対策。繰り返しになるが、江戸からの巡礼道としてもっともよく使われていた「川越通り(川越から小川、東秩父を経て粥新田峠(かゆにたとうげ)>三沢>曽根坂峠>秩父大宮)」にしても、熊谷方面からの「熊谷通り(中仙道>熊谷>寄居>釜伏峠>皆野>秩父大宮)」にしても、秩父へのゲートウエイとしては、結局はこの四萬部寺がベストロケーション。粥新田峠から皆野町三沢地区に下ると、四萬部寺までは県道82号(長瀞・玉淀自然公園線)の一本道。釜伏峠から下って来ても三沢地区で同じ県道に出る。ということは、川越通り、熊谷通りのどちらを歩いても、この寺が一番近い秩父札所ということ。
ご詠歌;「有難や一巻ならぬ法(のり)の花 数は四萬部の寺のいにしえ」

瑞岩寺
四萬部寺を離れ次の目的地・黒谷の和同開珎露天掘跡に向かう。野道を20分程度進み、国道140号線の手前あたりに瑞岩寺。秩父十三仏霊場のひとつ。裏山は岩肌の露な魅力的な風情。ツツジの名所とか。ツツジの季節に来てみたい。この岩山、戦国時代大田道潅と戦った長尾景春の居城跡と伝えられる。
長尾景春って結構面白い。室町から戦国時代初期にかけ、関東を戦乱・混乱に巻き込んだ立役者。ことの発端は、関東管領・山内上杉憲実の家宰・長尾景信の跡継ぎ騒動。景信は景春の父。景春はてっきり自分に家宰の跡目が廻ってくる、と思っていた。が、管領・上杉憲法は跡目を景信の弟・忠景に継がせた。怒り狂った景春は寄居の鉢形城に立てこもり上杉家に戦いを挑む。これが「長尾景春の乱」のはじまり。一時は上杉軍を破り、上杉・管領家は上野に退却。ここで扇谷上杉家の家宰・大田道潅の登場。道潅は景春に復帰を呼びかけるが不調。で、合い争い、結局景春は破れ再び鉢形城に籠城。上杉軍が鉢形城を包囲。景春は上杉と争う古河公方・足利成氏に支援要請。なぜ古河公方か。簡単に言えば、といっても、簡単には説明できないのだが、関東管領・上杉氏と犬猿の仲であった、ということ。もとは鎌倉において鎌倉公方であったのだが、公方の補佐役・管領上杉家と争い、結局は鎌倉から追い出され、古河に本拠地を構える。古河公方と呼ばれる所以。で、鎌倉の公方(堀越公方)・上杉管領家と関東を二分した争いが続く。
本題に戻る。成氏動く、との報に接し、上杉軍は包囲を解き足利軍に備える。結局、上杉と足利は停戦成立。取り残された景春に対し、大田道潅は鉢形城を攻め景春を秩父へと追放した。瑞岩寺の景春の居城跡、って、このとき拠点としたところだろう、か。 その後のこと:道潅死後は再び秩父から出兵し、群馬・渋川市にある白井城を拠点に上杉家と戦い続け、最後は小田原・北条早雲と同盟を結ぶことになるが、あくまでも上杉家と戦い続けた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

和銅露天掘跡
瑞岩寺から30分程度の歩きで秩父鉄道黒谷駅。駅を越え、再び山地に向かう。30分程度登り、ちょっと沢に下ると「和銅露天掘跡」。秩父市と皆野町にまたがる蓑山(587m)につくられた「美の山公園」の麓。蓑山って、秩父唯一の独立 峰、ってことをどこかで見たような気がする。ともあれ、ここは秩父古生層と第三紀層の大きな断層崖が形成された地。この露頭壁に走る自然銅の鉱脈を、露天掘りによって採掘したのであろう。この地で採掘された「にぎあかがね」・自然銅は精錬銅に対して熟銅とも言われる極めて純度の高いものであった、とか。慶雲5年(708年)、秩父から自然銅が元明天皇に献上される。天皇大いに喜び、詔を発布し年号を「和銅」と改元した。で、その銅をもとに日本での最初の流通貨幣「和同開珎」がつくられた。銅は秩父の広い範囲から産出されたが、和銅にちなむ名前が多いこの黒谷をもって昭和61年「和同開珎の碑」が建てられた。
秩父の歴史は古い。縄文遺跡は市内に五十ヶ所、弥生式文化も数ヶ所から出土している。「チチブ」という名が現れたのは旧事記、国造本紀の中で「崇神(すじん)天皇の時代、知知父国造(ちちぶくにのみやつこ)が任命された」がはじめて。この「知知父」が「秩父」に改まったのは元明天皇の和銅六年、国、郡等の名を二字の好字に定めたことによる。で、古い歴史をもつこの秩父が歴史上有名になったのは、なんといってもこの黒谷の和銅を天皇に献上したときであろう。なにせ、改元したほどであるわけだから。大赦もするわ、臣下や百官を昇進させたり、老いた人にはモミを配ったり、徳の有る人を表彰したり、武蔵国にはその年の庸(よう)、秩父郡は庸・調(ちょう)等の租税を免除した、というし、いやはや、国を挙げての一大行事であったのだろう。
和銅露天掘跡に登る道すがら、「聖神社」という趣のある社があった。時間がなくなり、気になりながらもパスしたのだが、この神社って採掘された自然銅を御神体にした神社。神社創建の式典には天皇からの勅旨が派遣され、その際「銅のムカデ」が授けられ、神社の宝物となっている、とか。「ムカデ」の意味合いは、渡来人との関連で考えるのがわかりやすい。渡来人の王・若光王をまつる「白髭神社」の神のつかいはムカデ。フイゴ祭りには藁でつくったムカデをまつる風習もあるし、ムカデの油漬けは火傷の薬としても効果ある。精錬・鍛冶・金工といった、一連の作業に関係するムカデの霊力をまつる行為は渡来人の間でおこなわれていた祭祀のひとつ。和銅の採掘には金上金上无(こんじょうむ)等、渡来人のもつ技術なくしては不可能であり、渡来人の信仰の対象であった「ムカデ」を天皇が記念に贈ったのであろう。この神社をパスしたのは少々残念。散歩の鉄則として、「とりあえず行く」の精神を再確認。

「和同開珎の碑」を離れ、秩父鉄道・黒谷に向かう。次の目的地は長瀞であるのだが、膝のガタもさることながら、時間が少々タイト。電車を利用し、上長瀞駅に。昨年紅葉の季節の見た、上長瀞駅近くの県立自然博物館付近の紅葉の美しさを再び、と思った次第。紅葉の中を長瀞駅までのんびり歩き、これも昨年食べた「田舎饅頭」の味を再び、と。なんとなく子供の頃、なくなった祖母がつくってくれた「饅頭」の味を思い出す。お土産に、「田舎饅頭」を買い求め、最後の目的地・宝登山神社に向かう。

宝登山(ほどさん)神社

秩父鉄道・長瀞駅から一直線に参道が。白大鳥居が目に付く。結構歩いた。山麓に宝登山(ほどさん)神社。秩父神社、三峯神社とともに秩父三社のひとつ。ここにも日本武尊が登場する。寺伝によれば、三峯とおなじく景行天皇の御世、その皇子である日本武尊がこの山に登る。突然の山火事。一面火の海。いずことのなく現れた「お犬さま」が奮闘し鎮火。危機一髪の難を逃れる。お犬さまは日本武尊を山頂に案内し、再び何処とも無く立ち去る。「お犬さまは、神のお使い」と感謝。この山を「火止山(ほどやま)」と命。山頂からの美しい眺めに神の山にふさわしい、と「神日本磐余彦尊(かみやまといわれひこのみこと;神武天皇のこと)」「大山祇神(おおやまづみじんしゃ;山の御神霊)」「火産霊神(ほむすびのかみ;火の御神霊)」の三柱をまつる。その後、火止山は霊場として続き、弘仁年中に宝珠が光り輝き山上に飛翔する神変。ために「宝登山」と称し、仏教、特に修験場として栄える。山麓には玉泉寺(真言宗)も開基され、神仏習合の宮として明治の神仏分離令まで続く。日本武尊伝説にちなみ防火、災難消除の神として信仰厚い神社となっている。

この神社の御眷属は三峰神社と同じく「お犬さま」、というか狼。御眷属、というか、神様のボディガードと言うか、神様の使いもバリエーション豊富。伊勢神宮はニワトリ。天岩戸の長鳴鳥より。お稲荷様は狐。「稲成=いなり」より、稲の成長を蝕む害虫を食べてくれるのがキツネ、だから。八幡様はハト。船の舳先にとまった金鳩より。春日大社はシカ。鹿島神宮から神鹿にのって遷座したから。北野天満宮はウシ。菅原道真の牛車?熊野はカラス。神武東征の際三本足の大烏が先導した、から。日枝神社はサル。比叡に生息するサルから。松尾大社はカメ。近くにある亀尾山から。といった按配。それぞれに御眷属としての「登用」に意味はあるわけだが、その決定要因はさまざま。いかにも面白い。

石神井川散歩の東伏見稲荷のところでメモしたのだが、それぞれの神社が祭祀圏を広げるに際し、キャンペーンガールならぬマスコットをつくりあげ、市井の民にわかりやすい形を組み上げたうえで勢力拡大・販路拡大を図ったのであろう。巧みなマーケティング戦略ではありましょう。

予定では、ケーブルに乗り、奥宮へと考えていた。が、残念ながら、時間切れ。ケーブルもほぼ最終便といったところで、宝登山への登りはあきらめる。後から、宝登山から眺める武甲山の美しい姿などをおさめた写真を見るにつけ、あと一歩、先に進んでいたら、などとの思いもあり。が、今回は、時間が時間だけに景色もほとんど見えなかったはず、と思い込み、次回のお楽しみとする。
2回にわけて歩いた秩父札所。まだ半分ほど残っている。はじめた以上は全部クリアを、ということで、年明け、厳冬の秩父を歩こうと、同僚諸氏と話す。それより、個人的には、川越通りにそって、峠越えにて秩父へと歩いてみたい。春には決行、と。

火曜日, 12月 19, 2006

秩父 秩父観音霊場散歩 Ⅳ;第二回秩父札所巡り(1)

9月の第一回秩父行きに引き続き11月の末、会社の同僚と男ふたりで再び秩父に向かう。紅葉の頃である。1泊2日。初日は三峯神社。二日目は成り行きで札所を巡り、長瀞で紅葉見物。そして宝登山神社で締めくくるって段取り。先回の秩父神社と合わせ、三峯神社・宝登山神社を巡れば秩父三社におまいりしたことにもなる、と同僚の言。時空散歩というか、時=歴史、空=地理には大いに興味はあるものの、神や仏にそれほど思い入れのない我が身ではあるが、秩父といえば三峯でしょう、ということで少々のワクワク感は否めず。(火曜日, 12月 19, 2006のブログを修正)


本日のルート;西武秩父>三峯山>三峯神社>妙法ケ岳・三峯神社奥宮>西武秩父

朝8時半の池袋発の西武特急に乗り、西武秩父に。通常は秩父鉄道で三峯口まで行き、バスで大輪まで。で、ケーブルで登山、ということではあるが、現在は運行停止中。来春まで続く、とか。ということでもあり、西武秩父から三峯神社行きの西武直通バスにのり、神社を目指す。140号線・彩甲斐街道を進む。影森>浦山口>武州中川>武州日野>白久>そして三峯口と、秩父鉄道の駅と付かず離れず道は進む。

バスはさらに進み、大輪>大滝村を越えると秩父湖。二瀬ダムにより荒川を堰きとめてできた人造湖。ちなみに140号線ってどこに続くのか辿ってみると、秩父湖の先から南西に下り、全長6625mの雁坂トンネルを越え、山梨の西沢渓谷、そしてその先は塩山市。恵林寺のあたりに続いていた。秩父往還・甲州道とほぼおなじコースであろう。ついでのことながら、この恵林寺、織田信忠軍による武田方の武将の引渡し要求を拒否。焼き討ちにあった。その際の快川和尚が燃え盛る山門の上で「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と偈を発したことは、あまりに有名。

三峯神社は秩父湖からは10キロ程度。曲がりくねった道をどんどん上る。秩父湖の標高は600m。三峯神社は1060mであるので、400mほど一気に駆け上がる感じ。11月後半の紅葉の見ごろ、でもある。昨年は紅葉を求めて、鎌倉や高尾など歩き廻ったが、結局見事な「赤」の紅葉は秩父・長瀞でしかお目にかかれなかった。今回の秩父への旅も長瀞の紅葉を、などと思っていたのだが、思いがけなく、この秩父湖のあたりで美しい紅葉を見ることができ、大いに満足。大滝村営駐車場でバスを下りる。石段を上がり三峯神社に向かう。

三峯神社
最初に本殿に。イザナギノ尊、イザナミノ尊をまつる、と。春日造りのこの本殿はおよそ340年前に建てられたもの。神社の歴史は古く、いまから1900年ほど前、日本武尊が景行天皇の命により東征のおり、この地に赴き、その美しき景観を愛で、美しき国産みの神様であるイザナギノ尊、イザナミノ尊の二神をまつった、とか。三峯の名前は神社東方にそびえる雲取山(2017m)、白岩山(1921m)、妙法嶽(1329m)の三つの峯が美しく連なることから名付けられた。寺伝によれば、景行天皇が日本武尊の足跡を偲び東国を巡行されたとき、上総国(千葉)で、この三峯が美しく連なることを聞き、「三峯山」、そして社を「三峯宮」と名付けた。
神話の時代は所詮、神話。時代を下り「歴史時代」の三峯神社をチェックする。天平時代。国々に厄病が蔓延したとき、聖武天皇は勅使として葛城連好久公をこの宮に遣わし「大明神」号をさずける。平安時代になると、修験道の開祖・役小角がこの地で修行し、山伏の修験道場となる。伊豆からこの地を往来した、と。役小角って、いろんなところに現れる。実際この地に来たのかどうか知らないけれど、それはそれとして、黒須紀一朗さんが書いた『役小角』、『外伝 役小角』は真に面白かった。
天平17年(745)には、国司の奏上により月桂僧都が山主に。更に淳和天皇の時には、勅命により弘法大師が十一面観音の像を刻む。三峯宮の脇に本堂を建て、天下泰平・国家安穏を祈って宮の本地堂とした。こうしてこの三峯宮は次第に佛教色を増し、神仏習合の社となってゆく。
三峯山の信仰が広まった鎌倉期には、鎌倉武士の華・畠山重忠もこの宮を篤く祟敬した、と。
東国武士を中心に篤い信仰をうけて大いに賑わった三峯宮も、その後に不遇の時代を迎える。正平7年(1352)新田義興・義宗等が、足利氏を討つべく挙兵。戦い敗れて三峯山に身を潜めたわけだが、そのことが足利氏の怒りにふれて、社領を奪われる。こういった状態が140年も続く。再興されるのは後柏原天皇の文亀二年(1503)になってから。修験者月観道満は27年という長い年月をかけて全国を行脚し、資金を募り社殿・堂宇の再建を果たした、という。天文2年(1533)には山主が京に上り聖護院の宮に伺候。「大権現」の称号を授かり、坊門第一の霊山となる。以来、天台修験の関東総本山となり観音院高雲寺と称する。札所巡りで、今宮坊が聖護院の系列である、ということと、ここでつながった感じ。
江戸時代には享保5年(1720)日光法印が各地に三峯信仰(厄除け)を広め、今日の繁栄の基礎を築く。「お犬様」と呼ばれる御眷属(ごけんぞく)信仰が遠い地方まで広まったのもこの時代。三峯神社の神の使い・眷属は狼。狼・山犬は不思議な力を持つと信じられ「大口真神(おおくちのまかみ)」とも呼ばれ、山里では猪鹿除け、町や村では火ぶせ(火難)よけ・盗賊よけの霊験あらたかと信仰も篤く、この「お犬さま」の霊験を信じる多くの人が講をつくり、このお山に登ってきた、と。以来隆盛を極め信者も全国に広まり、三峯講を組織し三峯山の名は全国に知られる。その後明治の神佛分離により寺院を廃して、三峯神社と号し現在に至る。
社殿前には青銅の鳥居。塩原太助の名前もある、とか。塩原太助も散歩をはじめ各地でお目にかかった。亀戸天神、江東区の塩原橋、そして足立だったか、太助のお墓。いろんなところで足跡に触れる。祖霊社、国常立神社、摂末社へと境内を進む。境内より少し下ったところに仁王門。随身門と称す。200年前に作られた、と。表参道からここを通るのが古来の正参道。表参道とは、ケーブルなどができるまで、麓の大輪から神社までおよそ2時間半ほどかけてのぼってきた道。随身門から見て少し小高い場所にある遥拝殿の脇にその道が続いている。で、遥拝殿。展望が美しい。ここは三峯神社奥宮を遥拝するところ。近くには日本武尊の銅像のほか、「朝にゃ朝霧、夕にゃ狭霧(さぎり)秩父三峰霧の中」と詠う野口雨情の歌碑がある。で、本日のメーンイベント、奥宮・妙法嶽への散歩を始めることにする。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


妙法ケ岳・三峯神社奥宮
杉並木の中、舗装された道が続く。南斜面に60戸ほどの集落。江戸時代までは神領村として、年貢を神社に納めていた。古風な神領民家は最近まで使われていた三峯の民家を移築、復元したもの。先に進むと「一の鳥居」。ここで舗装は終わりになる。20分程度歩いただろうか。本当のところを言うと、奥宮、とはいうものの、おだやかな舗装道の参道を歩いていくものだと、勝手に思っていた。それが、とんでもなかったのは後の祭り。「一の鳥居」をくぐってから、しばらくは雲取山への縦走路を歩くことになる。参道ではなく、これって登山。
15分程度歩くと「二の鳥居」。ここが妙法ケ岳への分岐点。雲取山への縦走路を離

れ、杉並木の中、きつい登りを進む。登りが一段落したところにベンチがあり休憩できる。これから先がもっと厳しい登り、となる。片側が急斜面のところもあり、高所恐怖症の我が身には少々厳しい。30分程度の苦行のあと、「三の鳥居」に到着。東屋もある。鳥居をくぐり尾根筋を進み、アップダウンを繰り返しながら進む。岩場も出始める。やがて小さい木の鳥居。鳥居があるたびに、奥宮か、などと甘い期待を裏切られながら進む。険しさの増す岩場が続く。山頂までは3つの岩峯越えとなる。急な階段もあり、傷めた膝には少々厳しい。
階段を下り、少し歩くと今度は急な登り階段。険しい登り。階段の上場は岩場であり、鎖にすがって登る。「三の鳥居」から20分程度。登りきったところが山頂。標高1392m。三峯神社奥宮が鎮座する。奥宮の創建は寛保元年(1741年)。小さな社ではあるが、風格がある。両脇には「お犬さま」が控える。山頂からは両神山(1723m)など奥秩父の山々、西上州の稜線が一望のもと。

三峰山博物館
少々休憩し、下山開始。下りは膝にきつい。艱難辛苦の末、三峯神社になんとかたどり着く。本来であれは、遥拝所脇から大輪に下る「表参道」を歩きたかったのだが、なにせ膝が限界。午後1時半の後は3時半まで無いバスを待つ。待ち時間を利用し、秩父宮記念「三峰山博物館」に。三峯講社の登拝・参籠に関する資料、三峯神社が修験の山として栄えていた別当・観音院時代の宝蔵・資料が展示されている。もちろん、秩父宮家ゆかりの品が展示されているのはいうまでもない。また、世界で7例・8例目のニホンオオカミの毛皮も展示されている。

三峯講についての資料に惹かれる。山里では猪鹿除け、町や村では火ぶせ(火難)よけ・盗賊よけの霊験あらたか、という三峰の御眷属・「お犬さま」の霊験を信じる多くの人が講をつくり、このお山に登ってきた、と上でメモした。この記念館にはその道筋がパネル展示されていた。江戸からの道は、「熊谷通り」、「川越通り」、そして「吾野通り」。これら江戸からの道は観音巡礼でメモした。そのほか三峯詣でには上州、甲州、信州からの道がある。上州からの三峯詣・「上州道」は出牛峠>吉田・小鹿野>贄川>秩父大宮からの道筋にあたり、52丁の表坂(表参道)を三峯に上る。「甲州道」と呼ばれる甲斐からの道筋は秩父湖のメモのところで辿った道筋。三富村の関所>雁坂峠かみ>武州>栃本の関所>麻生>お山に、となる。「信州道」は信州の梓山>十文字峠(長野県南佐久郡川上村と埼玉県秩父市の境、奥秩父にある峠)>白泰山の峠>栃本の関所>麻生>お山に。
三峯信仰は17世紀後期から18世紀中期にかけて秩父地方で基盤をつくり、甲斐や信濃の山国からまず広がっていった、とか。まずは、作物を荒らす猪鹿に悩まされていた山間の住人の間に「オオカミ」さまの力にすがろうという信仰が広まった、ということだろう。農作物に被害を与えるイノシシやシカをオオカミが食べるという関係から、農民にとっての益獣としてのオオカミへの信仰がひろまった、ということだ。
山村・農村に基盤をおいた三峯信仰も、次第に「都市化」の様相を示してゆく。都市化、という意味合いは、山里では重要であった「猪鹿除け」が消え去り、「火ぶせ(火難)よけ・盗賊よけ」が江戸をはじめとした都市で三峯信仰の中心となってくる、ということ。都市化への展開要因として木材生産に関わる生産・流通の進展が大きく影響する、との説もある(三木一彦先生)。江戸向けの木材伐採が盛んになった大滝村で三峯山が村全体の鎮守、木材生産に関する山の神としての機能が求められたことを契機にして、三峯信仰が浸透したと言う。秩父観音霊場の普及は秩父の絹織物の生産・流通と大いに関係ある、ともどこかで見たような気もする。信仰って、なんらかの政治・経済的背景があってはじめて大きく展開する、ってことは熊野散歩のメモで書いたとおり。

都市化された三峯信仰の例は散歩の折々に出会った。千住宿・氷川社末寺もそのひとつ。縁起には「宿内信心の講中火災盗難為消除、御眷属を奉拝」と、「猪鹿除け」は消えている。「白波は三峰山をよけて打ち」って川柳があるほど、だ。これって、歌舞伎の白波5人衆、泥棒5人組み、のことである。泥棒は三峯山(お札)を避ける、って意味。江戸時代後半以降、三峯講が盛んとなり、各地で講が組織される。組からは毎年2人ほどが代表となり参拝し、お札をもらってくることになるわけだが、講の加入者に渡される札は火防・盗賊除け・諸災除けの3枚、であり農作業に関わる願意は見られない。

信仰の都市化の傾向は江戸だけではない。島崎藤村が小諸市を舞台に描いた『千曲川スケッチ』の中で、村落部に張られたお札は「盗賊除け」と。時代・世相・生産基盤の変化に応じ、願意も変化していったのであろう。それに応じて、霊験もきっちりと変化していった、ということだろう。マーケティング戦略であろう、か。マーケティングの話のついでに、お札の話。社寺で宝物でもあれば、江戸で出開帳でもすれば大きな利益もでようものを、三峯にはこれといった宝物もない。ということで、講をつくり、あれこれとご利益のあるお札を配布し普及していった、とか。

現在の三峯講は代参・団参あわせて4000余社、崇敬社は20
万人以上といわれている。そういえば亀戸・香取社にも三峯神社があった。世田谷のどこだったか、にもあった。講といえば富士講が有名だが、富士講、白山講、そして三峯講も、現在、どの程度の規模でどのようにおこなわれているのだろう。そのうちに調べてみたい。
あれこれしているうちにバスの時間。西武秩父についた頃には日も暮れた。宿に向かい、本日の予定終了。温泉というか鉱泉で痛む膝を癒し明日に備える。


月曜日, 12月 18, 2006

秩父 秩父観音霊場散歩 Ⅲ;第一回秩父札所巡り(3)

2日目は横瀬地区を中心とした札所巡り。横瀬町には5番から10番までの札所がある。秩父市街からは台地で隔てられ、横瀬川によって切り開かれた地域。ガイドブックには東丘陵などと紹介されている。横瀬川は秩父連山の武川岳や二子山といった800mから1000m級の山地にその源を発す。いくつもの支流の水を集めながら芦ヶ久保地区を西に流れ、横瀬地区では平坦部を北に進み、秩父線・黒谷駅近くで荒川本流に合流。全長19キロ程度の荒川の支流。(月曜日,12月 18, 2006のブログを修正)


本日のルート;9番札所・明智寺>8番札所・西善寺>7番札所・法長寺>6番札所・ト雲寺>5番札所・語歌堂>4番札所・金昌寺>3番札所・常泉寺>10番番札所・大慈寺>11番札所・常楽寺>西武秩父駅

西武秩父線・横瀬駅

さてさて、横瀬地区札所散歩は西武秩父線・横瀬駅からはじめる。武甲山が美しい。散歩のはじめに少々気になっていた武甲山についてメモする
武甲山;昨年はじめて秩父を訪れたとき、御花畑から見たこの山の印象は強烈であった。秩父といえば三峯山、という程度の智識はあったので、てっきり三峯山と思い込んでいた。で、この武甲山、山容がいかにも猛々しいのはさることながら、これまた、いかにも切り崩されたような白い山肌に強く惹かれた。後からわかったのだが、それって石灰を切り出したためにできたもの。明治になってセメントの原料として採掘が進められ、特に1940年以降の採掘はすさまじく、山容が変貌。北斜面の崩壊が著しく、少々の衝撃を受けたのはこの崩壊した斜面であったわけだ。標高も明治期に比べて30mほど低くなっている。山頂部が削り取られたから、という。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
武甲山の名前の由来だが、日本武尊が東征のとき、甲を奉納したから、とか。しかし、これは江戸・元禄の頃に、なにが要因か しらないが、こういった伝承が伝わり、今に至る、というだけ。山の名前はあれこれ変わっている。武甲山資料館の資料によれば、最初は単に「嶽」とか「嶽山」と世ばれ、神奈備山(神のこもる山)として崇められてきた。はるか昔のことである。
次に、「知々夫ヶ嶽」とか「秩父ケ嶽」と呼ばれるようになる。秩父神社のメモで書いた、知知夫彦命が知知夫の国造に任命され、ご神体としてこの山をまつった頃のこと。その次の名前は「祖父ヶ嶽」。大宝律令が制定(701年)され、武蔵国初代の国司として赴任した人物/引田朝臣祖父の名前を冠した名前となった。平安時代には「武光山(たけみつ)」。山麓に武光庄という荘園があった、ため。武光とは荘園開発者であろうか、と。次は妙見山(ミョウケンヤマ)。これも秩父神社のところでメモしたが、1235年秩父神社は落雷炎上。再興に際し、秩父平氏の流れを汲む武士団が信仰した妙見大菩薩を習合し、名前も「秩父大宮妙見宮」と変わった。ためにお山の名前も「武光山」から「妙見山」に。で、最後が江戸になってからの武甲山、と。山の名前も、それがありがたい山であるがゆえに、信仰・政治的背景によって変わってきた、って次第。
はじめからの寄り道が、結構長くなった。散歩にでかける。最初の目的地・明智寺に向かう。横瀬の駅から線路にそって南方向に下り、のんびりとした田舎の風景を眺めながらすすむと目的の寺。

9番札所・明智寺
安産子育ての観音様として知られ、明智寺というより、「九番さま」との愛称で呼ばれる札所。縁起によれば、目のみえない母親の回復を祈り、日夜この観音堂におまいりする孝行息子の前に老僧が現れ、「無垢清浄光・慧日破諸闇」を唱えるべし、と。お堂にこもりこの二句を唱え続ける。と、明け方内陣より「明るい星の光」が親子を照らし、母の目が見えるようになった。ために、このお堂は「明星山」と。「明智」はこのお寺を開いた明智禅師から。なお、観音堂は平成になってつくりかえられたもの。
境内左手に小さな祠。女性の願いを納めたといわれる「文塚」と地蔵尊が祀(まつ)られている。文塚には「宝永元甲申年」の文字。1704年に建てられたもの。「ひだり十番」の文字も刻まれており、かつては道標を兼ねていたらしい。「文塚」って、女性の願いを埋めている、とはよく言われる。が実際は、それだけではないようだ。有名な文塚では「小野小町の文塚」がある。ここには深草少将をはじめとした千通にもなる恋文が埋められている、というし、平安期の三十六歌仙のひとり・能因法師の「文塚」には自作の和歌の草稿を埋めた、とか。
ご詠歌;「巡り来てその名を聞けば明智寺 心の月はくもらざるなん」

明智寺を離れ、南に進む。三菱マテリアル横瀬工場。いかにも石灰を切り出し、セメントをつくる、って雰囲気の工場。工場脇を進み西武秩父線を越え、線路に沿って続く道筋を進む。武甲山の麓といったところに西善寺。

8番札所・西善

秩父への巡礼道として飯能>旧正丸(秩父)峠を越える「吾野通り」を歩くと最初たどりつくのがこのお寺。この寺をはじめとして札所を巡った人も多かったのだろう。江戸時代、竹村立義が表した紀行文「秩父巡拝記」によれば、竹村は8番>9番>7番>10番と巡り、10番以降は札番の順に巡っている。江戸期は川越通りからの往還がメーンルートとメモした。とはいうものの、どの往還を選ぶかは人次第ではある。当たり前、か。
このお寺、古い正丸峠越え(665m)の苦労に報うだけの品のいい寺さま。境内に枝をひろげるモミジの巨木は、樹齢500年とも600年とも。紅葉の頃は、さぞ美しいことであろう。モミジの下に如意輪観音さまや六地蔵。如意輪観音は、「文字どおり」、意のままに願いが叶う仏さま。
お地蔵さんは「六道能化の地蔵尊」とも呼ばれる。六道とは「仏教で衆生が輪廻の間に、それぞれの業の結果として住む六つの境涯(広辞苑)」。地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天の六つ。お地蔵さんとは、釈迦入滅後、弥勒が出現するまでの間現世にとどまり、衆生を救い、また、冥府の救済者。つまりは、この世で困っている人なら誰でも助けてくれる仏さま。ここまで活動範囲が広ければこの六道すべてに関係から、六道能化の地蔵尊と。六地蔵とはこの六つの世界をそれぞれ表しているのだろう、か。六地蔵は六道能化の本尊は恵信僧都の作と言われる、十一面観音。秘仏のため拝観叶わず。
ご詠歌;ただ頼めまことの時は西善寺 きたりむかえん弥陀の三尊
次の目的地・法長寺に向かう。少し秩父方面に戻ることになる。西善寺を離れ、北に下る道筋を進む、途中に「御嶽神社」。この里宮は武甲山頂に鎮座する御嶽神社の遥拝所。もっとも、石灰の採掘により削られ、山頂が30mほど低くなった、とメモした。山頂の御嶽神社も移された、って、こと。
地図を見ていると、御嶽神社の西のほうに白髭神社がある。これって、高麗王若光をまつるもの。吾野通りを下った高麗の里は霊亀2年(716年)、甲斐・駿河・相模・上総・下総・常陸・下野など七カ国の 高句麗人 (高句麗からの渡来人)、1799人を武蔵国に移し、 高麗郡(こまぐん)としたところ。高麗王若光をまつる高麗神社や聖天さまがある。
秩父は渡来人の里とも呼ばれる。吾野通りを通り、正丸峠から芦ヶ久保そして横瀬、大宮郷と帰化人たちも歩いてきたのだろう。秩父に絹織物の技術を伝えたもの、和紙の製造技術を伝えたもの、そして黒谷での和銅の採掘技術を伝えたもの渡来人。そういえば、この芦ヶ久保のあたりは706年に高麗羊太夫が芦ヶ久保村楮久保で、和紙の製造をはじめたというし、近くの根古屋って、絹織物の産地として有名。白鬚神社があって当然、か。西武秩父線を越え、生川交差点で国道299号線を秩父方面に。横瀬橋交差点近くに法長寺がある。

7番札所・法長寺(牛伏堂)

山門に菊水の紋。「不許葷酒入山門」葷とはニンニク、ラッキョ、ネギ、ニラといった野菜。その強い臭いが他人に不快感を与えるため。酒はいわずもがな。お寺の中では葷酒はだめ、ということ。本堂は間口10間の堂々とした構え。秩父ではもっとも大きい構えを誇る。本尊は十一面観音。江戸期の作。本堂の前に牛の石像。寺伝によれば、ある牛飼いが餌の草を刈っていると、一頭の牛が現れる。が、その牛、その場から動こうとせず、やむなくその地で一夜をあかす。と、夢に僧が現れ、「我は観音の化身なり。この地に草堂を結べば、この世の罪贖を取り除いてくれん」と。夜があけ、草の中からでてきた十一面観音をまつった、とか。「牛伏堂」と呼ばれる所以である。この牛伏堂は当時、横瀬の牛伏地区にあったらしいが、江戸時代にその堂が失われこの法長寺に札所が移された、と。本堂の虹梁の文様は平賀源内図と伝えられる
ご詠歌;「六道をかねて巡りて拝むべし 又後世(のちのよ)を聞くも牛伏」

横瀬橋を東に丘陵に向かう。畠にそって道を登る。境内に登る坂の途中に小さな祠。「お願い地蔵」がまつられている。竹林を背景にしたお堂の風情はなかなかいい。「日本百番霊場秩父補陀所第六番荻野堂」、と書かれた石標が入口に。正面に武甲山が美しい。

6番札所・ト雲寺;(ぼくうんじ;荻野堂)

このお寺、もとは別の場所にあった荻野堂が江戸時代にこの地にあったト雲寺に移されたもの。ト雲寺の名前の由来は、開山の嶋田与左衛門の法号が「ト雲源心庵主」である、から。本堂は、間口6間、奥行4 間。寺宝に、清涼寺形式の釈迦像、荻野堂縁起絵巻そして山姥歯等がある。荻野堂縁起絵巻が有名。
が、山姥の歯とは、少々面妖。縁起によれば、行基菩薩がこの地を訪れる。武甲山に山姥が棲み、里人を食う、という話を聞く。で、武甲山頂の蔵王権現にこもり山姥退治の祈願。この神力呪力によって山姥も降参。遠国へ立ち去るべし、と。山姥は悔い改め、再び里人を食わ誓いの証として前歯1枚、奥歯2枚を折り、献じて何処ともなく去ったという。もっとも、棄て台詞ではないだろうが、立ち去るとき「松藤絶えろ」と叫んだため、武甲山には松と藤が育たなくなった、とか。 本尊の聖観音は行基菩薩の作、と。蔵王権現にまつられていたもの、とか。
こんな話もある。とある禅師が庵を結んでの修業三昧。と、どこからともなく、「初秋に風吹き結ぶ 荻野堂 やどかりの世の 夢ぞさめける」という御詠歌、が。荻野堂の名前の由来がこれ。
ご詠歌;「初秋に風吹き結ぶ荻の堂 宿かりの世に夢ぞ覚めけり」

ついでのことであるので「清涼寺形式の釈迦像」について。清涼寺のことをはじめて知ったのは、江戸の出開帳の記録を見ていたとき。成田山などとともに出開帳ベストテンに入っている。で、清涼寺についてチェックした次第。京都嵯峨野にあり、通称、嵯峨釈迦堂と呼ばれる。ここに伝わる国宝の釈迦像は請来されて以来、藤原摂関家以下朝野の尊祟をあつめた。ために、模刻が盛んにおこなわれ、これを「清涼寺形式の釈迦像」、と。つい最近、紅葉の嵯峨野を歩いたのだが、この嵯峨釈迦堂、拝観料を惜しみ、かつまた夕暮れ、雨模様という状況もありパス。残念。

ついでのことなので、もうひとつ寄り道。蔵王権現について;武甲山に蔵王権現がまつられていた、とメモした。観音霊場の起こりのときも、性空上人さまと13権者のひとりとして巡礼に従った、と。で、蔵王権現って、宮城というか山形というか、その蔵王のお山での信仰から、かと思い込んでいた。チェックしてみた。と、この神というか仏というか、ともあれ「仮の姿で現れた神仏」は日本固有のもの。インドに起源をもたない日本独自のほとけさま。役小角が吉野・金峯山で修行中に感得したという修験の神であり、釈迦・観音・弥勒の三尊の合体したもの、とか。で、蔵王山のことだが、これは古くから山岳信仰の対象ではあったが、平安の頃、空海の両部神道を奉じる修験者が修行の山とし、吉野の蔵王堂より蔵王権現を勧請し、お山の名前を「蔵王」とした、と。想像と順番が逆であった。

ト雲寺をはなれ、丘陵地帯をゆっくりくだり平地に下りる。県道11号線と横瀬川が交差する語歌橋に。県道11号線って、熊谷から小川町をへて秩父にいたる埼玉で一番長い地方道。約48キロある。11号線から少し南というか、東にはいったところに語歌堂がある。

5番札所・語歌堂(長興寺)

素朴な雰囲気の仁王様が睨む仁王門をくぐると、観音堂。その昔、この堂を建てたのは本間孫八という分限者。和歌の道に親しむ風流人。ある日一人の僧が訪ね来る。歌道の話に大いに盛り上がり、二人は夜を徹して論じ合う。翌朝孫八が目を覚ました時、旅の僧の姿はすでになく、のちにこの僧は聖徳太子の化身であった ことがわかった。夜を徹し「語」り合い、和「歌」を呼んだ。これが語歌堂の名前の由来。もっとも、旅の人と和歌の道を論じあい、聖徳太子の話に及んだとき、突如消え去る。で、これこそ救世観音の化身と悟った、といった話もある。何ゆえ、聖徳太子であり、救世観音であることがわかったのか、少々疑問?
納経所は近くの長興寺にある。このお堂、秩父事件の中心人物である秩父困民党総理・田中栄助が捕縛・調書に登場する:「五番ノ観音ノ岩窟ニテ夜ヲ明ク時ニ 十一月十二日ナリ」、と。とはいうものの、岩窟など見当たらない、のどかな平地にあるのだが??
語歌堂の本尊は准胝(じゅんでい)観世音菩薩。「菩薩の母」、「仏母(ぶつも)」といわれ。母性を象徴し、子授けの観音菩薩。この観音様を本尊とするのはほかに西国霊場11番・上醍醐寺だけである。

ついでに観音さまについて。観音様のバリエーションは基本となる聖観音のほか、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音をもって六観音と称す。これが真言系。天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。
ご詠歌;「父母の恵みも深き語歌の堂 大慈大悲の誓たのもし」

札所5番から10番までは横瀬町。11号線を北に進むと秩父市に入る。県道から少し丘陵地に入ると金昌寺。

4番札所・金昌寺(新木寺)

二階造りの仁王門。秩父には、村子然とした素朴な仁王さまが多いなか、このお寺の仁王さまは、いかにも仁王然とした力強い形相。口を大きく開いた呵形の金剛、ぐっと口を結んだ吽形の力士である。左右の柱に大草鞋。仁王は健脚の神ゆえの奉納か。金昌寺は石仏の寺として有名。1300余体の羅漢、観音、地蔵、不動、十三仏が寺域に広がる。奥の院には大きな岩。清水が流れ出ていた。
この千体仏、1624年住職古仙登嶽和尚が、寺院興隆のため石造千体仏建立を発願。江戸を中心とする各地を巡り寄進をつのり、7年の歳月をかけて成就。石仏寄進者のほとんどが江戸に集中。全体の7割,武州を合わせると9割。地元秩父の寄進者はわずか5%。秩父札所巡礼という流れに咲いた花であり、水元が枯れればすぐ萎える。その水源は江戸百万市民である、と上でメモした。
このお寺の石仏寄進者の半数以上が江戸の商人。豊かになった江戸の商人は信仰と行楽を兼ね、この地を訪れた。関所通行の煩わしさもなく、鉱泉もある、といえば願ったり叶ったりであった、ことであろう。また、秩父を支配していた忍藩の代官所も巡礼者を保護し、寛延3年1月から3月の3ヶ月には4万から5万の巡礼者があったとか。
ちなみに秩父と江戸の関係でいえば、巡礼を「待つ」ばかりでなく、秩父札所の「出開帳」が江戸でおこなわれている。明和元年、護国寺で開かれた「秩父札所惣出開帳」は、「前代未聞」の賑わい。将軍家治の代参、諸大名、大奥女中、旗本などの参詣があり、秩父札所の名声を高めた、とか。で、この興行の成功に味をしめ、その後も幾度か出開帳をおこなった、よう。境内にオビンズルさま。別名「酒飲地蔵」さま。散歩をはじめて、十六羅漢のひとり、このお地蔵さんに幾度出会ったことか。
ついでのことであるので忍藩。埼玉県行田市に本丸をもつ。開幕のころは家康の四男・信吉。その後、島原の乱の鎮圧の功により川越藩に移る前の知恵伊豆こと松平信綱や、阿部忠秋など「老中の藩」として軍事的・政治的に幕府の重要拠点藩でありました。
ご詠歌;「あらたかに詣りて拝む観音堂 二世安楽と誰も祈らん」

いかにも立派な、また、「秩父は江戸でもつ」ということを実感した金昌寺を離れ、県道11号線に下り、北に恒持神社あたりまで進む。秩父夜祭で冬を向かえた秩父路に春の訪れを告げる山田の春祭りで有名な恒持神社。古く江戸時代から続く。2台の屋台と1台の笠鉾が、勇壮な「秩父屋台囃子」とともに曳行される、とか。春にはお祭りに来てみたい、などと思いながら県道を西に折れ、横瀬川にかかる山田橋を渡って左折。少し歩く。丘陵地帯が前方に広がる。この台地の先は秩父市街。常泉寺はこの小高い山地の麓にある。

3番札所・常泉寺

本堂の石段を上がったところに観音堂。丘の中腹、林の中、といった雰囲気。もとの堂宇は、弘化年間(1844年頃)に焼失したため、1870年秩父神社の境内にあった薬師堂を移築した。本尊は室町時代の作と伝えられる聖観音の木彫像。この堂の向拝と本陣を結ぶ虹梁にある龍のカゴ彫り。江戸時代の彫刻の高い技術を表している。寺伝によれば、ここの住職が重い病に伏せていたとき夢に現れた観音様からお告げ。「境内の水を服用せよ」、と。あら不思議、病気がすぐに治ったと。この長命水が本堂前にある。また本堂の回廊には「子持ち石」。抱けば、子宝を授かる、と。ご詠歌の岩本寺とは、この寺の山号。
ご詠歌;「補陀落は岩本寺と拝むべし 峰の松風ひびく滝つ瀬」

常泉寺を離れ、丘陵地の麓に沿ってのんびり進む。南に戻る。秩父市から再び横瀬町に。語歌橋を越え、県道11号を一筋入ったところに大慈寺。

10番札所・大慈寺
延命地蔵に迎えられ、急な石段を上ると楼門形仁王門。形のいい仁王が構えている。本尊は、恵心僧都の作と言われる聖観音。お賓頭盧さま、も。オビンズル様とは

、十六羅漢中第一の位にあったが、その神通力をもてあそび、酒癖も悪く釈迦のお叱りを受けて涅槃を許されず、釈迦の入滅後も衆生を救いつづけたという白髪・長眉の仏神だったとか。山門からの眺めよし恵心僧都って、あの恵心僧都・源信のこと?天台宗の高僧。極楽浄土の思想をまとめた『往生要集』の著者として知られるが、仏さんを彫ったりもするものだろうか。少々疑問。
ご詠歌;「ひたすらに頼みをかけよ大慈寺 六(むつ)の巷の苦にかはるべし」

県道11号線を進み国道299号線に合流。丘陵地の切れ目なのか、工事によって切り通されたのか、定かには知らねども、秩父市街に向かってちょっとした峠道を進む。秩父側にでたところに常楽寺。今回最後の札所。


11番札所・常楽寺



この寺は秩父市と横瀬町のまたがる山の中腹にある。秩父の市街地や武甲山や長尾根丘陵、両神山まで一望できる。昔は堂々とした伽藍を誇った。が、明治11年の秩父の大火で焼失。その後、明治30年に建てられたのが現在の観音堂。上で秩父札所の江戸での出開帳のことをメモした。常楽寺も享保3年(1718年)、江戸湯島天神で観音堂修復のための出開帳をおこなった、と。本尊は十一面観音。その他、行基作といわれ釈迦如来像も。大正9年、秩父を訪れた若山牧水が、「秩父町出はづれ来れば機をりの 歌声つづく古りし 家並に」と詠んだのは、この常楽寺前の坂道でのこと。
本堂に、元三大師と普賢菩薩。元三大師って、慈恵(じえ)大師良源のこと。天台宗。比叡山中興の祖と言われる実在の人物。命日が正月三日のため元三大師、と。中世以来独特の信仰をあつめ「厄除け大師」として有名。佐野厄除け大師は、弘法大師ではなくこの元三大師をまつっている。普賢菩薩は辰巳の守り本尊。本堂に向かって右手に、新しい六地蔵。座像一本つくりの釈迦如来がある。
ご詠歌;「つみとがも消えよと祈る坂氷朝日はささで夕日かがやく」

1泊2日の秩父札所巡りを終える。17の札所を巡った。信仰心には縁遠く、B級路線まっしぐらの我が身も、辿るとともに、なんとなくの、修行者なる心持も。今回は秩父市と横瀬町が中心。秩父札所の所在地をみると、秩父市22カ所、横瀬町6カ所、荒川村、小鹿野町各2カ所、吉田町、皆野町各1カ所に広がる。次回はどこからはじめようか。

日曜日, 12月 17, 2006

秩父 秩父観音霊場散歩 Ⅱ ; 第一回秩父札所巡り(2)

観音霊場巡礼のなんたるか、についての「理論武装」に少々手間取った。秩父観音霊場散歩をはじめる。今回の散歩は秩父市街と横瀬町を中心とした札所を巡る。 西武池袋線の特急にのり、西武秩父駅に。熊谷方面から来た会社の同僚と駅前にて待ち合わせ、最寄りの札所からスタート。 初日は主に秩父市街の札所巡り。最初の札所は13番札所・慈眼寺。西武秩父駅から続くアーケードを歩き、秩父鉄道・御花畑方向に向かう。団子坂を下り秩父鉄道の踏み切りを越える。この団子坂は秩父夜祭のクライマックスを演出する坂である、と。笠鉾、屋台が急坂を登る、とか。お花畑駅から2分ほど歩く。秩父では「はけっと」とよばれる「はけの下」、つまりは崖の下に慈眼寺はある。崖の下といっても秩父市内の中心部。(日曜日, 12月 17,2006のブログの修正)



本日のルート;西武秩父駅>13番札所・慈眼寺>15番札所・少林寺>秩父神社>14番札所・今宮坊>今宮神社>16番札所・西光寺>23番札所・音楽寺>22番札所・太子堂>17番札所・定林寺>18番番札所・神門寺




13番札所・慈眼寺
市街地をはしる通りにそった入口には、切妻つくりの薬王門。境内には正面に観音堂。左右に鐘楼、経堂と薬師堂。明治11年の秩父大火で焼失する前は、大きな寺域を誇った、という、本尊は行基作と伝えられる聖観音。秩父札所を開いた、十三権者の像が祀られている。十三権者とは先にメモしたように、閻魔大王・倶生神・花山法王・性空上人・春日開山医王上人・白河法王・長谷徳道上人・良忠僧都・通観法印・善光寺如来・妙見大菩薩・蔵王権現・熊野権現。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
このお寺、眼病、厄除けにご利益ある、と。薬師堂にまつられる薬師瑠璃光如来が、目の神様、ゆえか。飴薬師とも呼ばれ、境内には「ぶっかき飴」と呼ばれる飴を売る店がある。眼の手術を直後に控えた我が身としては、「ぶっかき飴」もさることながら、お賽銭も少々はずむことに。境内には幕末から明治にかけ社会救済事業につくした「秩父の聖人」と称えられる井上如常のお墓がある。
ご詠歌;「御手にもつ蓮のははき残りなく 浮世のちりをはけの下でら」

15番札所・少林寺(福寿殿)

慈眼寺を離れ、秩父線に沿って少し北に。15番札所・少林寺(福寿殿)に向かう。秩父鉄道を越えると、白塗り白亜の本堂がみえる。このお寺も明治の秩父大火に見舞われ、防火の意味も込めて再建時、木造の外側をすべて白色の漆食塗りで仕上げたもの。少々洋風建築風ではあるが、入母屋つくり・瓦葺といった和風建築の伝統は踏まえたものになっている。この寺は、もともと母巣山蔵福寺といい秩父神社境内にあった。が、明治維新の神仏分離令で廃寺に。札所15番がなくなることを憂えた信者が、市内柳島にあった五葉山少林禅寺をこの地に移し両寺合わせて札所15番を継承することにした、と。
石段を上がった右手のお堂は鎌倉の建長寺の山にある半僧坊からの分霊。半僧坊大権現は、特に火災予防の御利益があると。鎌倉・建長寺散歩のときの半僧坊への急な石段がなつかしい。また、先日歩いた新座の平林寺でも半増坊大祭がある。また京都の金閣寺にも半増坊がある、とか。結構ありがたい権現さま、のよう。静岡にある方広寺開山の祖・無文禅師が留学先の明から帰国するとき、暴風雨に遭い難破しかけたとき、「無事帰国し、正法を伝えるべし」と船を救う。また、後に禅師が方広寺開山のとき、禅師に教えを乞い、山をまもり鎮守となった。で、その姿が半俗半僧であったために、半僧坊と呼ばれるようになった、と。無文禅師は禅の高僧。後醍醐天皇の皇子でもある、とか。
境内のお地蔵さんは「子育て地蔵」。また、境内には「秩父事件」で殉職した警察官のお墓と、両警部補に対し、内務大臣山縣有内務大臣が贈られた碑文がある。秩父事件とは、明治17年11月、生活に苦しむ農民約1万人が蜂起し、各地で戦斗が展開された騒乱事件。
ご詠歌;「みどり子のははその森の蔵福寺 ちちもろともにちかいもらすな

ちょっと脱線。鎌倉の建長寺で半増坊の話が出てきたとき、何ゆえ鎌倉の大寺院の話の中に、半僧坊が登場するのか、いまひとつしっくりしなかった。何ゆえ、という最大の理由は、浜松という、どちらかというと地方都市にあるお寺の神様を、何ゆえ建長寺に関連付けなければならないのか、よくわからなかった。で、このメモをまとめるに際し、半僧坊由来のもととなった人物が無文禅師であり、後醍醐天皇の皇子であったことがわかった。ということは、宗良親王とは兄弟、ということ。浜松というか、浜名湖の北、無文禅師が開山した方広寺のあるあたりは、宗良親王が南朝方の拠点のひとつとして、南朝勢力を回復するため積極的に活動したところ。宗良親王も天台座主をつとめたほどの人物。半僧坊をまつる、方広寺、って、宗教的にも政治的にも大きな力をもつ地域にある大寺院であったのだろう。半増坊への疑問もひょんなところで解決した。あれこれが繋がってくるのも散歩の楽しみのひとつ。

秩父神社
秩父の国の総社。武蔵国より先に開けた知知夫の里を2000年まもってきた。主祭神は八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)、知知夫彦命、天之御中主神。もともとは武甲山を神奈備(かむなび;神の居ます山)として遥拝する聖地としておこったわけだが、知知夫国の国造に任じられた知知夫氏が祖神である主祭神・八意思兼命や知知夫彦命をあわせまつることになった。鎌倉時代に落雷により社殿焼失。再建時には、秩父平氏、つまりは武士団の信仰篤い星の信仰である妙見の信仰・妙見菩薩が習合し、明治の神仏分離令まで「妙見宮」として栄える。名称も本来の秩父神社というよりも、「秩父大宮妙見宮」が通り名となった。「秩父夜祭り」も妙見のまつりとし受け継がれたものである。

徳川時代には徳川家からの信仰も篤く、現在の社殿は家康により寄進されたもの。本殿左手には左甚五郎の作と伝えられる「つなぎの龍」がある。15番札所少林寺あたりの池に棲む龍があばれたとき、この場所に水たまりができた。が、龍をつなぎとめると、その後龍が現れることがなくなった、とか。東・西・南・北の鬼門を守護神「青龍」「百虎「朱雀」「玄武」にのっとり、表鬼門(東)を守る「青龍」であろう、と思ったのだが、南に「亀(玄武)」、北に「北辰の梟(朱雀)」となっており、西には虎ではなく「お猿」さん、とあり、どうも鬼門云々というわけでもなさそうだ。
で、このお猿さん、東照宮は「見ざる・言わざる・聞かざる」と、庚申信仰にのっとった様式であるのに対し、ここのお猿さんは「お元気三猿」。人間の元気の源を司る妙見信仰の影響もあるのだろうか。また、拝殿四面には虎の彫り物。武田信玄による焼き討ちのあと再建した家康が寅の年、寅の日生まれ、ということで虎のオンパレード。その中の子育ての虎は、左甚五郎の作。で、妙見宮も明治の神仏分離令で秩父神社に戻る。そのとき、妙見菩薩の「神様バージョン」が天之御中主神、ということで、この神様が主祭神として登場し現在に至る、って次第。

14番札所・今宮坊

少林寺を離れ、荒川方面に向かって北西に今宮坊に向かう。このお寺のあたり一帯は往古、近くにある今宮神社とともに「今宮坊」と呼ばれる聖護院直末の神仏習合の修験の地。聖護院とは修験道の中心寺院。白河上皇の熊野詣での先達をつとめた園城寺・増誉の開山。先達の功により、熊野三山検校、つまりは、熊野三山霊場のまとめ役となり役の行者創建といわれる常光寺を与えられた。それが聖護院のはじまり。つまりは、修験道者にとっては、ありがたいお寺さま、ということ。何年か前、家族で秋の京都に訪れた際、聖護院の宿坊に泊まった。最近はあまり名前を聞くことがなくなったが、弁護士中坊さんの経営する宿坊であった。
で、この今宮坊、701年役行者が、この境内の池に、仏法を守り水を司る神として八大龍王をまつった。ために、今宮神社は八大宮とも呼ばれている。 現在の札所14番観音堂は、もともとは今宮坊の境内にある一堂宇。巡礼者は八大宮をお参りしたのち参道を通って隣接の観音堂にお詣りするのが通例であった、とか。方形造りの観音堂。本尊は木彫漆箔置き・半跏趺坐像の聖観世音。本堂のすぐ前に、石の後生車。輪廻塔とも呼ばれる。後生の幸せを願い、回すことになる。境内には樹齢1000年を越える古木・龍神木。幹の周囲9mという大ケヤキ。竜神池、今宮弁天堂などがある。
ご詠歌;「昔よりたつとも知らぬ今宮に 詣る心は浄土なるらん」

16番札所・西光寺
今宮坊から北東に少し歩くと西光寺。山門をくぐると正面に本堂がある。堂々とした構え。本尊は千手観音像。堂の東側にはコの字形の回廊。四国八十八ヶ所霊場の本尊を模した木像が並んでいる。ここを廻れば四国お遍路道を歩いたと同じ功徳、と。もとは天明3年、というから、1783年の浅間山大噴火の犠牲者をとむらうためにつくられたもの。
回廊に囲まれた中庭には二つの小さな堂。金比羅堂と納札堂。金毘羅様は戦いの神でもあり、戦時中は出征兵士、最近は受験戦争に勝つべくおまいりするところ、とか。納札堂は、江戸時代には秩父札所の各寺に必ずあったもの。が、今ではこの寺に残るだけ。柱には無数の釘跡。札所を巡拝することを「札所を打つ」という。現在では納札は紙で各札所の納札箱に入れるわけだが、江戸時代の巡礼は、納札をお堂に打ち付けていた、から。
境内には大きな酒樽に草葺屋根をのせたお堂が。酒樽大黒様に。名刺を貼り付けると、お金が増える、とか。そうそう、四国八十八ヶ所をおさめた回廊にオビンズル様がいた。自分の体の悪いところと、オビンズル様(御賓頭盧)。のおなじ箇所をなでると、あら不思議、痛みを癒してくれる、とか。「撫で仏」といわれる所以。サンスクリット語(梵語)の「ピンドーラ」の音訳。東京都内散歩で何箇所かで出会った。最初に出会ったのはどこだったか忘れたが、足立区の関原不動・大聖寺の赤白青の着物・紐に結ばれたオビンズル様だけはなんとなく覚えている。
ご詠歌;「西光寺ちかいを人にたづぬれば ついのすみかは西とこそきけ」

西光寺の次は音楽寺。名前に惹かれる。また、観光ガイドで見た、峠に並ぶ地蔵尊の美しさにも惹かれた。が、場所が市街から少し離れている。荒川を隔てた長尾根丘陵の中腹にある。本日の計画からして往復徒歩は少々無理。ということで、行きはTAXI、帰りは歩きという段取りとする。荒川にかかる「秩父公園橋」を渡り、曲がりくねった道を上る。長尾根丘陵にある広大なレジャーパーク・「秩父ミューズパーク」への道でもあるので、きれいに整備されている。音楽寺に到着。

23番札所・音楽寺

名前の由来は、開山の聖が、山の松風を菩薩の音楽と感じたから、とか。この札所のご詠歌の中にある「峰の松風」ってそのこと、か。観音堂は三間四面、銅板葺きの方形造り。堂前に鐘楼がある。秩父事件のときは、秩父困民党の農民が、この鐘を打ち鳴らしながら市街地に攻め込んだ、と。鐘楼近くには「秩父困民党無名戦士の墓」がある。
観音堂の裏手の坂を登る。5~6分歩いた峠・小鹿坂峠に十三地蔵尊。なかなかいい風情。「小鹿坂」の名前の由来は、昔、慈覚大師がこの地で道に迷ったとき一頭の小鹿が現れて大師を案内した、から。秩父市街地や奥武蔵・武甲山など秩父連山が一望できる。
しばしば秩父事件が登場する。メモしておこう;開国以来、最大の輸出産品は生糸。生糸の生産地・秩父は生糸景気で大いに賑わっていた。が、その後のデフレ政策により、生糸の価格が大暴落。そのうえ、世界大恐慌の余波もあり秩父の生糸産業は大不況に見舞われた。その生糸生産農家を救うべく地元の有志がたちあがり、金利据え置きなどの救済策を郡役所に請願。その動きに自由民権運動が合流し「秩父紺民党」を組織。地元の侠客も幹部に加わるなどし、政府に請願を続ける。が、政府は無視。ために武装蜂起を決意。11月1日下吉田椋神社に農兵数千名集結。11月2日、小鹿峠を越えこの音楽寺に。
当初は警官隊を打ち破るなどして郡役所を占拠。が政府が鎮台軍や憲兵をもって鎮圧に乗り出し、結果秩父困民党軍は壊滅。蜂起からわずか9日間であった、と。ちなみに、秩父の自由党員は「自由党党首・板垣退助の命により立ち上がる」といったことを宣言しているが、当の退助は「あれは自由民権運動などではない」、と言った、とか。
ご詠歌;「音楽のみ声なりけり小鹿坂の しらべにかよう峰の松風」

小鹿坂峠から山道を麓に下る。今回はじめての山道。雑木林が心地よい。麓に降り、里の風景を楽しみながら童子堂に。

22番札所・太子堂(童子堂)
童子堂の名前の由来は、昔、子供の間に天然痘が大流行したとき、観音さまを勧請し祈祷したところ、疫病は治まる。以来子供の病気一切に霊験あらたか、ということで名づけられた。入口に茅葺の仁王門。茅葺の山門は秩父でもこのお堂だけ。童子堂と呼ばれる如く、仁王様、いかにも「子供向き」、というか子供がつくったのか、と一瞬間違うほど、まったくもっての、素朴な風情。「童子仁王」と呼ばれている、とか。境内といった仕切りもないようで、仁王門の先の、一見寺域と思われるところに畑があり、農作業をしておりました。
観音堂は方形瓦葺。昔、讃岐国の住人が旅僧の願う一食の布施を断わる。たちまちその人の息子が犬の姿に。この子を連れて西国、坂東、秩父巡礼をしてこのお堂に訪れると、息子は元の姿になったといった話が伝えられている、とか。
ご詠歌;「極楽をここで見つけてわろう堂 後の世までもたのもしきかな」

童子堂を離れ、荒川に沿って秩父公園橋に戻る。この橋はハープ橋と言われる。周りが音楽寺であり、ミューズ(音楽;musicの語源)公園、であるので、てっきり楽器のハープ、からもってきた名前かと思った。が実際は、ハープ形式という橋の種類。斜張橋といわれ、塔から斜めに張ったケーブルで直接橋桁を支える工法。ハープに似ているからこの通称があるのは間違いない。が、世界中にあるわけで、とくに音楽寺やミューズが近くあるから、命名されたわけではないだろう。橋からの秩父市街、秩父の山々の姿は美しい。長尾根丘陵から荒川に向かってゆっくり下り、そして荒川を越えると今度は秩父の山地に向かってゆったりとのぼっている秩父の地形がはっきり見える。地形のうねりフリークとしてはありがたいひと時であった。

17番札所・定林寺(林寺)

ハープ橋を越え、先ほど訪ねた西光寺を過ぎ、再び秩父市街地に入る。市民病院前を北に折れ、しばし進むと定林寺。お寺の名前は、林太郎定元という武家の名前に由来する。東国の武将・壬生良門が寺に雨宿り。接待にあたったお坊さん、実はその昔、この殿様に諫言し暇を出された林定元のこどもであった。で、前非を悔い改めた壬生良門が、林定元の菩提をとむらうためにこのお寺をたてた、と。
どこかで、壬生氏と秩父霊場を開いた性空上人のつながりを書いたコメントを見たことがあるような、ないような。壬生良門って、平将門の係累であるとか、ないとか。そうでもなければ、突然の壬生氏の登場は唐突、か。観音堂は宝形屋根。周りに回廊が囲む。境内には諏訪神社や蚕影神社。蚕影神社は戦前養蚕が盛んだった秩父地方ならではのもの。梵鐘は昭和63年ころ造られたものだが、日本百観音の本尊、そのご詠歌を刻んでい
る。
ご詠歌;「あらましを思い定めし林寺 かねききあへづゆめぞさめける」

定林寺は初期の巡礼札所1番。32番札所・法性寺に残る秩父札所について記された最古の古文書「長享二(一四八八)年秩父札所番付」にその記録が残る。この文書により、室町のこの頃には既に33の札所ができているのがわかる。ただ、札所の番号は20番を除いてみな異なっている。札所1番はこの定林寺(現在17番)、2番松林寺(現在15番)、3番は今宮坊(現在14番)、現在1番札所四萬部寺は当時24番となっている。先回のメモでものべたが、その理由は、設立当初の秩父札所は秩父ローカルなもの。秩父在住の修験者を中心に、現在の秩父市・当時の大宮郷の人々のために作られたもの。西国観音霊場巡礼や坂東観音霊場巡礼に、行けそうもない秩父の人々のためにできたからだろう。
その後札所番号が変わったのは、これも先回メモしたが、時代によって秩父往還の主要道が変化したことによる。室町時代の秩父への往還は名栗>山伏峠>芦ヶ久保>横瀬>大宮郷>皆野>鬼石といった南北路の往還か、飯能>正丸峠>芦ヶ久保>横瀬>大宮郷といった「吾野通り」。ただ、その当時は秩父観音霊場巡礼って、それほどポピュラーであったわけではなかった、のだろう。すくなくとも敢えて札所を変えなくてはならないほどの外部・内部要因がなかった、ということ。
現在の札番号となったのは江戸時代となってから。豊かになった江戸の人たちがどんどん秩父にやってくるようになった。信仰と行楽をかねた距離としては、1週間もあれば十分なこの秩父は手ごろな宗教・観光エリアであったのだろう。秩父札所の水源は江戸百万に市民であった、とも言われる。秩父にしっかりした檀家組織をもたない秩父観音霊場のお寺さまとしては、江戸からのお客様に頼ることになる。お客様第一主義としては、江戸からの往還に合わせて、その札番号を変えるのが、マーケティングとして意味有り、と考えたのであろう。
現在札番では栃谷の四萬部寺が1番となっている。理由は簡単。江戸時代は「熊谷通り」と「川越通り(小川>東秩父>粥新田峠)」を通るルートが秩父往還の主流。で、このふたつの往還の交差するところがこの栃谷であったから。江戸からはるばる来たお客様に、どうせのことなら、1番札所から始めるほうが、気分がすっきりする、と考えたのではなかろうか。栃谷からはじまり、2番真福寺を通り、山田>横瀬>大宮郷>寺尾>別所>久那>影森>荒川>小鹿野>吉田と巡る現在の札番となった理由はこういった、マーケティング戦略によるのではなかろう、か。我流類推のため、真偽の程定かならず。

18番番札所・神門寺

定林寺をはなれ、本日最後の札所・神門寺に向かう。「ごうとじ」と詠む。秩父鉄道を越え、彩甲斐街道・国道140号線近くにこのお寺はある。もとは今宮坊に属する一修験寺。神門の由来も、かつてこの地に神社があり、境内にはえる榊の枝が楼門のようであったから、と言われる。別の説もある。『秩父回覧記』には「神門」ではなく、「神戸」と記されている。神戸=カンベ、とは神社に諸税を収める神領域およびその民を意味する。神門寺の裏にある丘陵には9世紀から10世紀にかけて秩父神社の主祭神となる妙見大菩薩が最初にまつられたところ、とされる。で、現在の神門寺のあたりって、その妙見様の神域である可能性も高く。であれば、その神戸が神門に転化した、という。この説のほうがなんとなく納得感が高い。


観音堂は寛政(1789~1800)のころ焼失、現在の観音堂は天保時代(1830~1843)に再建された、と。堂は宝形銅葺き、名匠藤田若狭の作。正面の破風は秩父屋台・宮地屋台に似ている、と。藤田若狭はその屋台をつくった名匠の子孫であれば、むべなるかな。観音堂の寺額は幕末・秩父出身の彫刻家・森玄黄斉の作。印籠や仏像彫刻で有名。本尊は室町時代につくられた聖観音像。
このお寺には札所三十四ヶ寺の本尊を彫った版木がある。往古これを刷って信者に配ったと。「新編武蔵風土記稿」に、「別当神門寺。神門寺と称するは、寺号と云にはあらねど、神門にありし寺ゆへに、爾が唱来れり、本山修験、同郷の内今宮坊配下なり」と。現在は曹洞宗のお寺ではあるが、明治五年(1872)の修験道禁止まで今宮坊の修験寺として続いてきた。
ご詠歌;「ただたのめ六則ともに大慈をば 神門にたちてたすけたまえる」

本日の札所巡りはこれで終了。秩父鉄道・大野原駅に向かい、御花畑で下車。西武秩父駅に。お宿のある西武・横瀬駅に向かい本日のメモを終える。 



土曜日, 12月 16, 2006

秩父 秩父観音霊場散歩 Ⅰ;第一回秩父札所巡り(1)

秋から冬にかけ、2回にわけ秩父の札所を歩いた。ともに1泊2日。会社の同僚が如何なる信仰心のなせる業か、秩父札所巡りを企画した。昨年秋、紅葉を求めひとりで長瀞を歩いたのだが、札所巡りなど思いもよらず、でもあったので、いいきっかけと話にのった。最初は9月中旬。秩父市街・横瀬町を中心とした17ケ所の観音霊場巡り。二度目は11月末。美しい紅葉の中、三峯山とその奥宮のある妙法ケ岳、そして札所1番と2番、さらに長瀞を巡った。札所巡りということ で、あまりにお寺の数が多く、いまひとつ散歩メモを逡巡してはいたのだが、記憶もすでにおぼろげになりはじめた。思い切って、三峰と19の札所の散歩のメモをはじめることにする。(土曜日, 12月 16, 2006のブログを修正)



観音霊場巡礼のあれこれ
いつものことではあるが、霊場を巡る前には、観音霊場といわれてもなあ、といった程度の認識。そして、これもいつものことではあるけれども、札所を巡るうちにあれこれ問題意識も出てきた。後付けの理論武装ではあるが、散歩を始める前に、観音霊場巡礼についてまとめておく。

観音霊場巡礼をはじめたのは徳道上人

観音霊場巡礼をはじめたのは大和・長谷寺を開基した徳道上人と言われる。上人が病に伏せたとき、夢の中に閻魔大王が現れる。曰く「世の人々を救うため、三十三箇所の観音霊場をつくり、その霊場巡礼をすすめるべし」と。起請文と三十三の宝印を授かる。黄泉がえった上人は三十三の霊場を設ける。が、その時点では人々の信仰を得るまでには至らず、期を熟するのを待つことに。宝印(納経朱印)は摂津(宝塚)の中山寺の石櫃に納められることになった。ちなみに宝印の意味合いだが、人というものはズルすること、なきにしもあらず、ということで、本当に三十三箇所を廻ったかどうかチェックするために用意されたもの。スタンプラリーの原型であろう、か。

観音霊場巡礼を再興したのは花山(かざん)法皇

今ひとつ盛り上がらなかった観音霊場巡礼を再興したのは花山(かざん)法皇。徳道上人が開いてから300年近い年月がたっていた。花山法皇は、御年わずか17歳で65代花山天皇となるも、在位2年で法皇に。愛する女御がなくなり、世の無常を悟り、仏門に入ったため、とか、藤原氏に皇位を追われたとか、退位の理由は諸説ある。比叡山や播磨の書写山、熊野・那智山にて修行。その後、河内石川寺の仏眼上人の案内で中山寺の宝印を掘り出し、播磨・書写山の性空上人を先達として、中山寺の弁光上人らをともなって三十三観音霊場を巡った。これが契機となり観音巡礼が再興されることになるわけだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
この花山法皇、熊野散歩の時に登場して以来、しばしば顔を出す。鎌倉・岩船観音でも出会った。東国巡行の折、この寺を訪れ坂東三十三箇所観音の二番の霊場とした、と。花山法皇って、何ゆえ全国を飛び廻るのか、少々気になっていたのだが、観音信仰のエバンジェリストであるとすれば、当然のこととして大いに納得。鎌倉・岩船観音をはじめ坂東札所10ケ所に花山法皇ゆかりの縁起もある。が、もちろん実際に来たかどうかは別問題。事実、東国に下ったという記録はないようだ。坂東札所に有り難味を出す演出であろう。
それはともかく、花山法皇の再興により、霊場巡りは、貴族層に広まった熊野参詣と相まって盛んになる。さらに時代を下って鎌倉時代には武家、江戸時代には庶民層にまで広がっていった。ちなみに、播磨の国・書写山円教寺は西の比叡山と称される古刹。天台宗って熊野散歩でメモしたように、熊野信仰・観音信仰に大きな影響をもっている。中山寺は真言宗中山寺派大本山。聖徳太子創建と伝えられる、わが国最初の観音霊場。石川寺って、よくわからない。現在はもうないのだろうか?ともあれ、縁起の中には観音信仰に影響力のある人・寺を配置し、ありがたさをいかにもうまく演出してある。

観音霊場巡礼の最初の記録は1090年
縁起はともかく、記録に残る観音霊場巡礼の最初の記録は園城寺の僧・行尊の「観音霊場三十三所巡礼記」。寛治4年、というから1090年。一番に長谷寺からはじめ、三十三番・千手堂(三室戸寺)に。その後三井寺の覚忠が那智山・青岸渡寺からはじめた巡礼が今日まで至る巡礼の札番となった、とか。園城寺も三井寺も密教というか、熊野信仰というか、観音信仰に深く関係するお寺。熊野散歩のときメモしたとおり。で、「三十三ケ所」と世ばれていた霊場が「西国三十三ケ所」と呼ばれるようになったのは、後に坂東三十三霊場、秩父巡礼がはじまり、それと区別するため。

坂東三十三霊場

鎌倉時代にな り、平氏追討で西国に向かった関東の武士団は、京都の朝廷を中心とした観音霊場巡礼を眼にし、朝廷・貴族なにするものぞ、我等が生国にも観音霊場を、と坂東8ケ国に霊場をひらく。これが坂東三十三霊場。が、この巡礼道は鎌倉が基点であり、かつまた江戸が姿もなかった頃でもあり、その順路は江戸からの便宜はほとんど考慮されていなかった。ために江戸期にはあまり盛況ではなかった、ようだ。

秩父観音霊場の縁起

で、やっと秩父観音霊場についてのメモ:秩父巡礼がはじまったのは室町になってから。縁起によると、文暦元年(1234)に、十三権者が、秩父の魔を破って巡礼したのが秩父観音霊場巡礼の始まりという。十三権者とは閻魔大王・倶生神・花山法王・性空上人・春日開山医王上人・白河法王・長谷徳道上人・良忠僧都・通観法印・善光寺如来・妙見大菩薩・蔵王権現・熊野権現。「新編武蔵風土気稿」および「秩父郡札所の縁起」によれば、「秩父34ヶ所は、是れ文暦元年3月18日、冥土に播磨の書写開山性空上人を請じ奉り、法華経1万部を読誦し奉る。其の時倶生神筆取り、石札に書付け置給う。其の時、秩父鎮守妙見大菩薩導引し給い、熊野権現は山伏して秩父を七日にお順り初め給う。その御連れは、天照大神・倶生神・十王・花山法皇・書写の開山性空上人・良忠僧都・東観法師・春日の開山医王上人・白河法皇・長谷の開山徳道上人・善光寺如来以上13人の御連れなり・・・。時に文暦元年甲牛天3月18日石札定置順札道行13人」、と。
それぞれ微妙にメンバーはちがっているようなのだが、奈良時代に西国観音霊場巡りをはじめた長谷の徳道上人や、平安時代に霊場巡りを再興した花山法皇、熊野詣・観音信仰に縁の深い白河法皇、鎌倉にある大本山光明寺の開祖で、関東中心に多くの寺院を開いた良忠僧都といった実在の人物や、閻魔大王さま、閻魔さまの前で人々の善行・悪行を記録する倶生神、修験道と縁の深い蔵王権現といった「仏」さまなど、観音さまと縁の深いキャスティングをおこなっている。秩父観音霊場巡礼のありがたさを演出しようとしたのだろう。で、この 伝説は、500年以上も秩父の庶民の間に語り継がれた、とのことである。

はじまりは「秩父ローカル」
とはいうものの、縁起というか伝説は、所詮縁起であり伝説。実際のところは、修験者を中心にして秩父ローカルな観音巡礼をつくるべし、と誰かが思いいたったのであろう。鎌倉時代に入り、鎌倉街道を経由して西国や坂東の観音霊場の様子が修験者や武士などをとおして秩父に伝えられる。が、西国巡礼は言うにおよばず、坂東巡礼とて秩父の人々にとっては一大事。頃は戦乱の巷。とても安心して坂東の各地を巡礼できるはずもなく、せめてはと、秩父の中で修験者らが土地の人たちとささやかな観音堂を御参りしはじめ、それが三十三に固定されていった。実際、当時の順路も一番札所は定林寺という大宮郷というから現在の秩父市のど真ん中。大宮郷の人々を対象にしていたことがうかがえる。
秩父ローカルではじまった秩父観音霊場では少々「ありがたさ」に欠ける。で、その理論的裏づけとして持ち出されたのが、西国でよく知られ、霧島背振山での修行・六根清浄の聖としての奇瑞譚・和泉式部との結縁譚など数多くの伝承をもつ平安中期の高僧・性空上人。その伝承の中から上人の閻魔王宮での説法・法華経の読誦といった蘇生譚というのを選び出し、上にメモしたように「有り難味さ」を演出するベストメンバーを配置し、縁起をつくりあげていった、というのが本当のところ、ではなかろうか。
実際、この秩父霊場縁起に使われた性空蘇生譚とほぼ同じ話が兵庫県竜野市の円融寺に伝わる。それによると、性空が、法華経十万部読誦法会の導師として閻魔王宮に招かれ、布施として、閻魔王から衆生済度のために、紺紙金泥の法華経を与えられる、といった内容。細部に違いはあるが、秩父の縁起と同様のお話である。こういった元ネタをうまくアレンジして秩父縁起をつくりあげていったのだろ。我流の推論であり、真偽の程定かならず。

秩父札所巡りが盛んになるのは江戸期になってから

この秩父札所巡りが盛んになるのは江戸期になってから。江戸近郊から秩父に至る道中には関所がなく、また総延長90キロ、4泊5日の行程で比較的容易に廻ることが出来たのも大きな理由。江戸の商人の経済力も大いに秩父札所の支えとなった。秩父巡礼は江戸でもつ、とも言われたほど。そのためもあってからか、江戸からの往還の変更により、巡礼の札番号も変わっている。秩父札所も単に江戸からのお客さまを「待つ」だけでなく、江戸に打って出て、出開帳をおこなっている。「秩父へおいでませ」キャンペーンといったところだ。
秩父札所の宗派については、上でメモしたように江戸期までは修験者が中心だった。その後は禅宗寺院が札所を支配するようになった。宗派の内訳は曹洞宗20、臨済宗南禅寺派8、臨済宗建長寺派3、真言宗豊山派3で、禅宗の多さが目立つ。

秩父が33ではなく、34観音札所になったのは?

秩父が34観音になった時期については、諸説ある。16世紀後半には観音霊場巡礼が全国的になり、西国・坂東・秩父観音霊場をまとめて巡礼するようになってきた。で、平安時代に既に京都に広まっていた「百観音信仰」の影響もあり、全国まとめて「百観音」とするため、どこかが三十三から三十四とする必要がでてきた。霊場としては秩父霊場が歴史も浅かった、ということもあり、秩父がその役を受け持つことに。ために、15世紀はじめ大棚観音こと、現在の第2番札所真福寺を加え、三十四ヶ所と改められた、とか。もっとも、大棚観音が割り込んできたので、その打開策として「百観音」を敢えて提唱した、とか諸説あり真偽の程は不明。
「三十三」って観音信仰にとっては大きな意味がある数字。観音さまが、衆生の願いに応えるべく、三十三の姿に化身(三十三見応現)とされるから,である。その重要な三十三を三十四に変えるって、結構大変なことだったと思うのだが、それ以上に「百観音」のもつ意味のほうがおおきかったのであろうか。なんとなく釈然としないのだが、観音霊場巡礼のまとめを終える。散歩に出かえる前に結構手間取った。散歩メモは次回にまわすことにする。