水曜日, 12月 18, 2013

愛媛・銅山川疏水散歩 そのⅢ;重石川水路橋から新長谷寺までの銅山川疏水を再訪

戸川公園から辿った銅山川疏水散歩。しかし、途中の重石川から先は、まったく水路橋などに当たることはなかった。少々の未達感も残り、流路を調べ直し、再度疏水を辿ることにした。
図書館にいけばなんとかなるだろうと、新居浜市の図書館に行くも、『銅山川疏水史』といった疏水成立までの経緯をまとめた大作はあるも、流路に関する資料は皆無。それではと、伊予三島、今の四国中央市の図書館に行けば疏水の地元であり、なんらかの資料があるだろうと訪ねるが流路に関する資料はなかった。
さてどうしたものかと。WEBに掲載されていた「農林省 疎水百選・銅山川用水;銅山川疎水の歴史探訪」のページを見直し、どこか連絡先でもないものかとチェックすると問い合わせ先として愛媛県四国中央市農林土木課(実際は水産課)が掲載されていた。仕事の邪魔をして申し訳ないかとは思いながらも、他に手段が考えられず電話をかけ、疏水担当の紀井正明氏に直接お会いしお話を聞くことができた。
その資料をもとに、重石川までの水路橋などの施設名称、重石川から先の山中を進む隧道が沢を越えるときに現れる水路橋の場所などをお教え頂き、戸川公園から西に向かう銅山川疏水の施設名と位置が確認できた。散歩の時は単なる水路橋としかわからなかったものに名称をつけてメモすることができたるようになった。深謝!
で、今回の散歩は未達区間である重石川水路橋から新長谷寺までの水路橋を辿ることにする。紀井氏に教えて頂き地図上に施設マークがあるので、万全と思いきや、先回の散歩でメモしたように、楠谷川水路橋のある沢が完全に頭から抜け去っていたため、結構大騒動となってしまった。ちゃんと地図を読むといった基本を思い起こすためにも、ドタバタの顛末も含めメモを始める。



本日のルート;新長谷寺>長谷川水路橋>沢遡上>小倉川堰堤の先の沢遡上>楠谷川水路橋>楠谷川分水口>大倉川水路橋>小倉川サイフォン>新長谷寺

新長谷寺
実家のある新居浜市から車で新長谷寺に。駐車場に車をデポし散歩開始。まずは再度境内の水路を訪れる。仁王門近くの橋から水路に下りるのは難しそうであり、一度仁王門を出て、水路へのアプローチを探し境内に。水路は上流から3段になって流れているのがよくわかる。これは水量による水争いを避けるため水量を上流から三段階でならす工夫とか。
水路は境内で3つの水路に分かれ、さらに分岐をしながら西寒川地区の生活水として流れていたようである。何度かメモしたように、この地区の特徴である発達した扇状地の厚く堆積した砂礫故に地下水位が深く、井戸を掘るのが困難であり、生活用水は河川の谷口、扇状地の扇頂から取り入れた水路を頼りとせざるを得ないため、各家庭は水路の水を「くみじ」を設けて引き込み、上水道が完備するまでは飲料水としても利用していたという。「くみじ」は長さ1.5m、幅70~80cm程度の長方形の水溜であり、水路の一角であったり、屋敷内に引き込んだりして造り、そこで汲み上げられた水は水瓶で濾過されて飲用された、とある。

長谷川水路橋
境内を離れ、長谷川から新長谷寺への水路取水口を見やりながら先に進むと、水槽らしきタンクが見える。銅山川疏水の長谷川水路橋はその少し先にあった。水路橋を隧道出口を見るために渡っているとモミジ見物の人たちから何を酔狂な、といった面持ちで見咎められた。結構堂々とした水路橋であった。
水路橋はここから西は再び隧道に入り、西谷川の川筋で再び姿を現す。長谷川水路橋から西の疏水と、戸川分水工から東の川之江方面に向かう銅山川東部幹線は次回帰省のときのお楽しみとする。

沢遡上
長谷川水路橋から次の目的地である「小倉川水路橋」に向かう。実はこの段階で前回からメモしている通り、楠谷川の沢筋が完全に頭に無く、結果的にそれから西の沢が一筋ごとずれてしまっていた。つまりは、小倉川を大倉川、大倉川を楠谷川と思い込んでいたのである。
で、結果として堰堤のある小倉川である川を大倉川と思い込んだ結果、そこまでの間に「小倉川」を見つけ出さなければならない。ということで、何とか沢筋がないものかと進むと、山からの落水により人がひとり通れるかどうかといった「沢」を見つけ、そこに這い上がる。山から流れる水によって、誠に狭いながらも「沢」とはなっており、その狭さ故に「小倉川」と呼ばれるのであろうと妄想し、沢をよじ登る。
道から15分ほど、比高差で30mほど沢を這い上がるが、水路橋など何も見当たらない。結局あえなく撤退。次の大倉川(本当はこれが小倉川)で堰堤の先を進み水路橋を見つけ、そこから「小倉川水路橋」へのあたりをつけようとの思惑である。

小倉川堰堤の先の沢遡上
道路に戻り、先に進みヘアピンで右に入る道に入り堰堤に。この段階で、水路橋は堰堤の先にある、と思い込んでいた。先回同様に、高巻きして堰堤に上り、堰堤脇から酷い藪を川筋に下りる。
堰堤での標高112m,時刻12時10分に沢を上り始める。途中、沢が分かれたり、水が切れたりするも、ひたすらに沢筋を這い上がる。が、いくら登っても水路橋は見つからない。ここで見つけないことには、と思うあまり、標高から考えても、疏水がこんな高いところを通るはずはないのはわかっていながらも、先に見えるものがすべて水路橋と見える有様。
ほとんど意地になって沢を這い上がった結果、気が付けば標高300m。40分近く沢を上っていた。結局この沢も水路橋をみつけられないまま撤退。下りは転びつつ、まろびつつといった有様で足元は泥だらけとなって堰堤まで下り、少々悔しい思いをしながら道に戻る。道に戻ると時刻は13時15分となっていた。1時間ほど山中の沢を彷徨ったことになる。
それでも、なんとなく納得できず、紀井氏から頂いた地図のをみると、道から南東に上る道が水路橋あたりまで続いている。辺りをうろうろすると、ひとつそのような道があるがその道はすぐに川筋に辺り行き止まり(実は、この先に小倉川サイフォンがあったのだが)、それではと、その西にある墓地の山側にある柵に沿って道があるのだろかと這い上がるが、とても先に進めるようではないので元に戻る。はてさて。

楠谷川水路橋
さてどうしたものかとiphoneのGoogle Mapを見ていると、楠谷川のある沢筋が目に入った。何度かメモした、八皇子社に立ち寄った折に完全に失念した谷筋である。で、紀井氏にiphoneで撮らせてもらった地図を見ると、楠谷川水路橋の場所と完全に一致。また、楠谷川筋と思っていた妻鳥庵の西の川は大倉川、そして、今まで大倉川と思って山中を這いずり回った川筋は小倉川であることが判明。いままでの苦労は一体なんだったのか、とは思いながらも、ちゃんと地図を読むことを改めて心に刻む。
で、気分も新たに、ということで楠谷川から西に順に水路橋を辿ろうと、喜蔵川左岸に。川に沿って先に進むと楠谷川水路橋が現れた。ここさえ先回きちんと辿っておれば本日のドタバタは無かったかとも思うが、後の祭りである。

楠谷川分水口
楠谷川水路橋を渡り、お教え頂いた資料にある楠谷川分水口に向かう。水路は暗渠となるも、水路らしき道筋を辿るとささやかな祠の先に分水口らしき構造物が現れる。北方向に下る水路も見えるのでこれが楠谷分水口ではあろう。

大倉川水路橋
楠谷川を離れ、次は妻鳥庵の西の川筋にある大倉川水路橋に。この川筋も先回川筋のチェックを忘れたところ。堀子川を渡る時、松山自動車道の北側に移り、橋を渡り再び南側に移ったとき、うっかり忘れてしまったこともさることながら、銅山川疏水は松山道に沿って暗渠となって進んでいるのだろう、と思い込んでいたのだろう。今回は大倉川水路橋の地図も確認し、妻鳥庵から山に入る道を進むと大倉川水路橋が現れた。苔むした橋と竹林の姿は美しかった。

小倉川サイフォン
次は小倉川水路橋。地図で確認すると、大倉川と思い込んでいた堰堤のある川筋の堰堤手前にある。水路橋が堰堤の下にあるなど、水量が多いときに物騒でありえないと思い、堰堤の先の沢に這い上がり泥まみれになったのだが、教えて頂いた地図ではどう見ても堰堤の下にある。堰堤に進む道を先に進み、お墓の手間に左上へと登る道に入る。先回もこの道はチェックしたが、すぐに川筋に当たるため引き返した道でもある。
道を進むと護岸工事された川筋となり、そこを水路橋を求めて堰堤下まで進むがそれらしき橋は見つからない。堰堤下で引き返し、護岸工事の川筋を戻る途中、ちょっと気になる構造物が川筋の左右にある。ひょっとしたら水路橋ではなくサイホンでは。勝手な想像だが、堰堤ができるときに、その下流に架かる水路橋をサイフォンとして川筋の下を潜り、大水の被害を受けないようにしたのではと思う(後日、紀井氏より、平成16年(2004)、護岸工事の際、水路橋では洪水に耐え切れないとの理由でサイフォンとなった、との連絡を頂いた)。後からチェックするとWEBの「農林省 疏水百選・銅山川用水;銅山川疏水の歴史探訪」のページにも「小倉川サイフォン」となっていた。

新長谷寺
これで重石川以西の未達水路橋もすべてクリア。2回ほどとんでもない沢筋を這いずり回ったりしたものの、結果オーライということで気持ちも軽く車をデポした新長谷寺に戻り、本日の散歩を終える。次回は、新長谷寺以西の銅山川疏水西部幹線と、戸川の東西分水工から東の東部幹線を辿ろうと思う。


火曜日, 12月 17, 2013

愛媛・銅山川疏水散歩 そのⅡ;戸川公園から新長谷寺まで銅山川疏水西部幹線を辿る


銅山川疏水散歩のスタート。先回のメモに書いた通り、戸川公園がスタート地点であることははっきりしており、その先も重石川辺りまでは水路跡を辿ればなんとかなりそうなのだが、その先の新長谷寺までは隧道に入るのか、山裾の途切れ途切れの水路がその流路なのか、はっきりしない。
が、常の通り、成り行きで進むことにして、大体の段取りを考えるに、田舎の新居浜から車で、今回の終点予定地である新長谷寺の最寄りの駅である予讃線寒川に。そして駅の辺りに車をデポし、列車で予讃線伊予三島まで進み、駅から戸川公園に成り行きで進み、その先は水路跡を探しながらの散歩とする。とは言うものの、始まりから段取りが狂うことになり、また、重石川から先は全く水路の手がかりなしの散歩とはなってしまった。


本日のルート;予讃線寒川駅>予讃線伊予三島駅>滝神社>戸川疏水公園>銅山川疏水分流点>柱尾分水口>境川水路橋>小広尾川分水口>小広尾川水路橋>古川水路橋>野々首分水口>琵琶谷川水路橋>琵琶谷川分水>岡の坊水路橋>岡の坊分水口>不老谷川分水口>不老谷川水路橋>余水吐>古池分水口>サイフォン>石床橋水路橋>的の尾分水口>スクリーン>大谷西分水>大谷川サイフォン>山田川水路橋>山田分水口スクリーン>桶尾谷川水路橋>重石川水路橋>八皇子宮>妻鳥庵>新長谷寺>予讃線寒川駅>予讃線伊予三島駅

予讃線寒川駅
寒川駅発9時24分の列車に乗るべく、8時半過ぎに自宅を出て9時過ぎには伊予寒川駅に到着。無人の駅でこれといった駐車場は付近に無い。駅前には十分な駐車スペースはあるのだが、なんとなく駐車するには躊躇する。付近の方に駐車場を聞くに、駅の北の海岸近くには駐車場があるとのことだが、そこに行けば列車の時刻に間に合いそうにない。伊予三島駅近くには市営駐車場がある、とのことであるので、当初の寒川駅デポの予定を変更し、車を伊予三島駅前デポとすることに。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

寒川駅には今まで幾度となく通過というか、停車しているのだが、単線の予讃線故の対向列車待ちの駅との認識しかない。ついでのことであるので、寒川の地名の由来をチェックする。
その昔、大和の長谷寺に納める観音さまの試作仏を、行基菩薩が浪速の浜から流すと、その観音さまがこの地の浜に流れ着いた。ために、長谷寺の前を流れる神川の名前をとり神川とし、その神川が寒川と記されるようになったとの話がある。この地に行基菩薩創建と伝わる新長谷寺もあり、それはそれなりに縁起としては辻褄が合うのだが、なんとなくしっくりしない。
もう少し深堀りすると、香川県に寒川町(さんがわ)というところがあり、その町の「大蓑彦神社」(おおみのひこじんじゃ)の縁起によれば、祭神の大蓑彦命も大水彦神も水の神であり、その子達が寒川比古命、寒川比女命の兄弟神であり、どちらも水に関わる神様とされる。付近は洪水の起きやすい地形であり、この社は治水の神として勧請されたとの説がある。
場所が変わって、相模の高座群寒川町(さむかわ)には相模の一宮である寒川神社がある。その昔は関八州総鎮護の神として信仰され、現在は厄除けの神社として名高いが、この神社の祭神は水に縁の深い寒川比古命、寒川比女命の兄妹神である。水の縁といえば、寒川神社のすぐ横を相模の大河・相模川が流れる。丹沢山系を水源とする急流・相模川は、大昔は相当の暴れ河であったらしく、周辺地域に度々大水害をもたらしたという。相州・寒川神社は相模川の治水ために勧請された神様との説がある。
さらに場所が変わり、伊勢市の傍の玉城町・外城田地区に伊勢神宮の摂社「御船神社」が祀られる。その御船神社の社殿の内に「牟弥乃神社」(ミムノジンジャ・皇大神宮・末社)が同座され、祭神は寒川比古命、寒川比女命であり神社の東を流れる川は別名、寒川と称される。この地域も低湿地帯であり、水害に悩まされ、故にこの川を「寒川」と名付けられ御船神社を奉じたという。  思うに、全国にある寒川と称する地名は、水に縁が深く、特に洪水などの水難を避けるため「寒川」と名付けられたところが多いようである。この地の寒川が長谷寺の縁起以上のなんらかの由来がないものかと妄想を逞しくしてみた。単なる妄想。根拠なし。
因みに、相模や安房に寒川比古命、寒川比女命といった水の神をもたらしたのは 先日散歩した阿波の忌部族との説がある。古代の讃岐地方(隣国・阿波も含む)に覇を唱え、その後黒潮に乗って房総半島へと海を渡り、土地を開発するに際し湿地・水害を避けるため水の神である寒川比古命、寒川比女命を勧請した、と。相模の寒川神社だけでなく、千葉市中央区寒川町にも「寒川神社」が存在し、「寒川比古命、寒川比女命」を祀っている。


 伊予三島駅
当初の予定を変更し、車で伊予三島駅を目指す。が、駅の周辺には月極めの駐車場はあるものの、コインパーキングといったものは見当たらない。教えてもらった市営駐車場といったものもすぐには見つからない。仕方なく駅員さんに、付近の駐車場を訪ねると、窓から東を見下ろし、市営駐車場に一台空きがある、と。指示通り、ぐるりと東に回り教えられた駐車場に。ひと安心して駐車場を離れようとすると、「駅の利用者用で長時間は遠慮ねがいたい」とのコメントがあった。こんなことなら寒川駅にデポしたほうがよかった、などと少々悩むも、今回はお許し願うことにして、そのまま車をデポし散歩にでかけることにした。関係者の皆様ごめんなさい。
ついでのことであるので、何故に三島・川之江で製紙業が発達したのかチェック。愛媛県生涯学習センター データベース「えひめの記憶」によれば、その歴史は今から宝暦年間(1751-1764)に遡る。銅山川流域に自生する楮と川之江に注ぐ金生川の水が製紙に適した良質な軟水であったことが大きな要因である、と。天保2年(1841)には三島に紙役所が置かれるまでになった、と言う。同時に美濃や越前の先進地から熟練工を招き品質の向上につとめ、合わせて京阪という大消費地と瀬戸の海で結ばれており、マーケットの拡大に都合がよかったようである。
大正年間には機械漉きの機械が導入され、さらに昭和初期には洋紙生産も開始され発展を遂げるが、戦後の著しい発展の大きな要因としては銅山川からの分水と電力の供給といった水資源の開発に拠るところが多いと言われる。ここでも銅山川分水が登場してきた。
因みに、三島の地名は奈良の時代から見える古名であり、古くは「三嶋」とも記され、三島神社に由来するとの説があるようだ。

四国電力三島変電所
三島駅から疏水散歩のスタート地点の戸川公園へと向かう。距離はおおよそ4キロほど。成り行きで南東へと進み、宮川を渡り、国道11号を越え、三島東中の南を進んでいると、グラウンドで部活中の学生さんから、こんにちは、の挨拶。道で歩いているときに学生さんから挨拶されることは多いのだが、グラウンド中から練習の手を止めてまで挨拶されることに少々感激。
気持ちもよく足取りも軽い。その東中学校の南には四国電力三島変電所。送電線で送られてきた高圧の電気を家庭で使える電圧に変えるところ。四国電力の送電線を見るに、送電線で送られてきた50万ボルトの電圧を土居の東予変電所で18万ボルトに変え、そこから三島変電所まで送電線で送られる。三島変電所では電圧を6万ボルト以下に変へ送電線で6万ボルト変電所のある寒川や川之江に送り、そこから家庭に送電しているようである。

瀧神社
三島変電所の北東端で海岸寺川を渡り、成り行き忌進むと瀧神社に出合った。祭神は素盞鳴命(すさのをのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)、大己貴神(おほなむちのかみ)。社名の由来は滝の宮古墳という前方後円墳の上に、神社が造営されているためとのこと。室町時代、細川頼之の命により創建されたと伝えられているが、正確な年などは不詳。現在の社殿は貞享3年(1686)に再建されたもの、と。
細川 頼之(ほそかわ よりゆき)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての武将。政治家として足利尊氏(たかうじ)、義詮(よしあきら)、義満(よしみつ)に仕え、北朝の武将として、阿波、讃岐、伊予など四国地方における南朝方と戦い武功をあげ、讃岐および土佐両国の守護として領国経営をおこなうとともに、後には四国管領として一族を統括し、阿波・淡路・伊予(二郡)の経営も併せておこなった人物。その後室町幕府の管領ともなっている、この社の創建は讃岐守護の時代とも伝わる。

富郷配水管理事務所
さらに松山自動車道と赤之井戸川を目安に道なりに進み、松山自動車道と赤之井川がクロスする地点に到着。水量が激しい。地図を見ると、川傍に四国中央市水道局給水課富郷配水管理事務所脇から大量の水が放水されていた。WEBの資料などで見ると富郷配水管理事務所は富郷ダムから取水する工業用水の給水作業と柳瀬ダムから取水する工業用水の一部の給水作業を行い同時その取水・配水記録の整理などを行うところあり、その西に富郷着水井(ちゃくすいせい)と書かれた調整池があった。
着水井って、上水場や配水池に水を入れる前に流量を調整するところのようだ。頃は冬、灌漑用水である銅山川疏水も6月6日から10月5日まで通水するが、それ以外は水田用水は流れないとのことであるので、余水を吐き出しているのだろか。素人の妄想。根拠なし。
なお、「富郷配水管理事務所」となっているのは、銅山川分水の主役は柳瀬ダムであり、その隧道も柳瀬ダムから続いているのだが、先回のメモで述べたように、吉野川総合開発計画により、柳瀬川の下流に新宮ダム、上流に富郷ダムができ、富郷ダムがこの3つのダムの流量調節の「主役」となったことによるのではないだろうか。これまた素人の妄想。根拠なし。

戸川公園:疏水記念公園
さてさて、やっと銅山川疏水散歩のスタート地点である戸川公園;疏水記念公園に。公園を歩き、何か銅山川疏水の流路に関する案内などないものかと公園内を彷徨う。「疏水記念公園;戸川公園」の案内」;「4年に1度大干害に苦しめられてきた農民にとって、銅山川からの疏水は百年前からの夢であった。疏水実現のため努力を重ねた松柏村村長森実盛遠氏をはじめ多くの人の願いがみのり、昭和12年よりトンネル工事が始まり、昭和28年柳瀬ダムが完成し、多年の夢であった銅山川の水が戸川に絶え間なく流れ落ちてきた。この水は電力をはじめ農業用水、工業用水や飲料水として広く利用せられ、郷土の産業発展と市民生活の向上に多大の恩恵をもたらした。時の村長村上栄作氏は、ながく先人の偉業を伝えるため、この地に頌徳碑を建立し桜を植えこの疏水記念公園を設置された。園内には、四国遍路者を供養した文化5年の一石一字塔や光明真言宗二百万篇を記念した弘化4年の道しるべ、四国西国供養塔、水害で殉職された福田武太郎氏や松柏発展に尽力された村上栄作氏の銅像があり、市民いこいの地となっている」との案内。しかし期待した銅山川疏水流路の案内はどこにもない。

銅山川疏水散歩

柱尾分水口
Google Mapでこの辺りから出ている水路らしきものをチェックすると銅山川発電所の北に富郷接合井といった場所があり、その北に水路が見える。なにか手がかりがないものかとその場に向かうが、少し東に進んだところで水路が途切れる。
はてさて、他に水路はないものかと再びGoogle Mapでチェックすると、発電所の南に上ったところ、2本の水路鉄管の脇から東に延びる水路があった。 とりあえず行ってみようと、田圃の中を上に延びる坂道を上ってゆくと、薄いブルーの柵の間にささやかな溝といった水路が現れた。はたしてこれが銅山川疏水西部幹線?などと想いながら、水路にそって発電所の水圧鉄管へと西に向かう。
と、水路鉄管の少し手前、南へ分岐する水路の隅に、誠にささやかな標識ではあるが「柱尾分水口」の標識。銅山川疏水散歩の唯一の資料である「農林省 疎水百選・銅山川用水;銅山川疎水の歴史探訪」に記されていた疏水標識である。やっと銅山川疏水が見つかった。ひと安心。

水圧鉄管

柱尾分水口の少し先に発電所に落ちる2本の水圧鉄管。隧道出口からの落差を利用し最大出力10,700kWを発電し、発電に利用された水は、伊予三島、川之江地区の水道用水及び製紙工場の工業用水として利用される。それにしても、豪快な眺めである。


疏水分流点(東西分水工)
水圧鉄管を見ながら、それにしても銅山川疏水の基点はどこにあり、そこからどのようにして、柱尾分水口のある「溝」へと流れてくるのだろう。散歩の当日は全くわからず水圧鉄管のどこかで分流しているのかなあ?などということで??のまま終えていた。
メモに際し、あれこれ調べると、「法皇山脈をくりぬいた全長二七八三mの第二隧道を通って上柏の馬瀬谷上の調圧水槽に達する。標高二九三mの調圧水槽からは、土居町方面へ伸びる延長約一三・五㎞の西部幹線水路と川之江市方面へ伸びる延長約五㎞の東部幹線水路に分水され、その受益面積は一二四六haで六五〇万立方mに達している」という説明があった。が、いまひとつ場所やそこから今立っているところまでの経路、東西の幹線水路への分水工よくわからない。
そこで、メモに際し、前述の愛媛県四国中央市農林水産課 疏水担当の紀井正明氏にお聞きすると、地図上で疏水分流点(分流工)は2本の水圧鉄管が大きな一本線となり、その先で短い線と長い線が併設されているところがあるが、そこが隧道を抜けたところで発電用水と農業用水(疏水)の分岐点である、と。そして、短い管の方が農業用水で、その北側に四角になっているところには、疏水を一時、貯水する「減勢水槽」なるものがあり、また、その横には、水利管理のための施設(流量やバルブの開度や通水時間などをコントロールするコンピューターが設置されています。)と。
そして、その「減勢水槽」からは発電用の水圧鉄管の東の尾根を下り、地図上で水路のように見える場所を下り、その水路途中から北に真っ直ぐ延びる水路を進み、ほどなく流路を北西に緩やかに曲げ、水圧鉄管をクロスし、クロスし終えたことろから水圧鉄管に沿って少し下り、柱尾分水口から水圧鉄管へと線を伸ばしたところまで続いている。そこが「東西分水工」であり、そこから土居町方面へ伸びる延長約一三・五㎞の西部幹線水路と川之江市方面へ伸びる延長約五㎞の東部幹線水路に分水されることになる、とお教え頂いた。Google Mapで見ると、上記流路に沿ってかすかな痕跡が見てとれる。これでもやもやも消え、そのうちに減勢水槽あたりから下ってみようとも思う。

境水路橋
散歩の当日は銅山川疏水の東西の水路幹線の分水工とも知らなかった水圧鉄管の傍から離れ、銅山川疏水を東へと向かう。が、水路というか溝はほどなく消える。水田脇にひっそりとごみ除けの柵があるだけのものであったので、それが隧道に入り込む入り口とも思えず、写真も撮らなかったほどである。
ともあれ、消えた疏水が姿を現すであろう場所をiphoneのGoogle Mapでチェックすると三島公園の東に沢が見える。位置からみて、沢のどこかに水路橋があるのでは、と先を進む。
道なりに進み、三島公園に一度上り、公園で楽しむ家族の姿を見ながら沢を探し、三島公園の東端にある公園へ至る車道を下る。と、車道の横に沢が見える。沢筋を注意しながら道を下ると、如何にも水路橋らしきものが目に入った。 沢端まで藪を進み確認すると水路橋に間違いなし。沢に下りる場所を探すのだが、なかなか適当な処が見当たらない。結局、少し上流まで戻り沢に入る。足元も悪く水路橋に着くまで少々難儀したが、銅山川疏水散歩ではじめての水路橋に出合った。コンクリート造りといったもので、少し新しいもののようにも思うが、結構嬉しく、橋を西へ東へと数度渡ったりもした。
因みに水路橋の名前が境水路橋とわかったのは、前述の愛媛県四国中央市農林水産課 疏水担当の紀井正明氏に地図上に記載された名称をお教え頂いたおかげである(以下の施設名も同様である)。

小広尾川水路橋
境橋を離れ、三島公園を下り松山自動車道に沿って三島公園のある丘を迂回し、中田井川とクロスするあたりで川に沿って山へと折れる。しばらく進むと小広尾川水路橋が現れる。水路橋から東に進み、三島公園下を流れてきた疏水の 出口を確認。

古川水路橋
隧道出口を確認し、水路に沿って小広尾川水路橋を越え西へと進む。Google Mapには水路が切れていたのだが、いつ水路が切れるかと思いながら水路に沿って進むと、開渠は切れることなく続きミカン畑の丘の中に吸い込まれていった。
上に古川水路橋とメモしたが、散歩のときは水路上と言うか、水路の中を進んでおり、小さい沢を越えたであろう古川水路橋は見逃した。ミカン畑の丘の隧道に入る手前の沢に古川水路橋が架かっていたのがわかったのは、前述紀井氏に教えて頂いた後でわかったことである。

中曽根中高区配水場
Google Mapで隧道西出口を見るに、丘を越えた中曽根中高区配水場辺りから先に水路らしきものが見える。ミカン畑の丘の中に吸い込まれている隧道入口辺りから、丘を直線に上る道がある。とりあえず坂を上る。登り切った先で道が切れるが、藪漕ぎで先に進み下りはじめてはみたのだが、藪とはいいながら足元がさっぱりみえない。
少々不安になり元に戻ると、丘の中腹を巻いて先に進む作業道らしきものがあった。その道を進むと丘の西側へと下る道に続いており、道なりに進むと中曽根中高区配水場の傍に出た。
銅山川疏水は配水場のすぐ北から続いていたのだが、ここで何を錯乱したのか、配水場の南に見える水路へと向かい、水路を求めて進んだ結果、水路は暗渠となって激しい藪漕ぎ状態となり、結局は元の丘の中腹を巻く道に戻ってしまった。で、ふたたび同じ道を下り中曽根中高区配水場に。

琵琶谷川水路橋
水路を探すと、配水場の北側フェンスの脇に水路がみえた。水路に沿って先に進むと水路が川を越える。そこが琵琶川水路橋。後から前述の紀井氏に教えてもらいわかったことだが、途中に野々首分水口があったようだが見逃した。 水路橋の欄干(?)を歩くのは少々怖いので、丁度通水が行われていない時期ということもあり、用水路の中を進み橋を渡る。

琵琶谷川分水口
用水路の中を進むと進行方向右側に分水口があり、横に琵琶谷分水口との標識があった。そのすぐ先で疏水は民家脇とミカンの木の間に吸い込まれていった。この先、疏水はどちらに進むのか?地中に吸い込まれる方向からみて、松山自動車道の北側に進むように思える。とはいうものの、同じ標高を維持しないことには、一度下った水は高みに戻れないわけだから、それほど北に下るとも思えず、松山自動車道脇あたりを目で辿ると、次の川筋に水路橋らしきものが見えるので、根拠はないものの。そこを目安に進むことに。

岡の坊水路橋
松山自動車道に沿って進む。この辺りは丘陵部が舌状というほど鋭くはないが、松山自動車道の北に出っ張っている。疏水は隧道となって進んでいるのだろうと想像しながら歩いていくと丘が切れ、川筋が見えるところに水路橋が現れた。岡の坊水路橋である。橋のすぐ北に民家が建っているのが、なんとなく面白い。 水路が地中に入り込む手前に岡の坊分水口があったようだが、これまた紀井氏にお教え頂いた後のことであり、散歩のときは見逃した。

国道319号
隧道に入った水路の先をGoogle Mapでチェックすると、国道319号が不老谷川に最接近する辺りに如何にも疏水路らしき水路が見える。松山自動車道脇の道を進み、ほどなく右に分岐する道に入り先に進むと国道319号とクロス。
国道319号は四国中央市と坂出を結ぶ国道。四国中央から法皇山脈のトンネルを抜け、銅山川に沿って下り土讃線阿波川口辺りで吉野川と合流する地点に到る。そこから先は国道32号や国道11号と重複し順走することになる。

不老谷川分水口
国道から水路をみると橋が架かる。不老谷水路橋である。その手前には不老谷分水口と記された標識もあった。水路に沿ってミカン畑の中を先に進む。

古池分水口

水路はほどなく暗渠となる。暗渠を進むと分水口らしき構造物があった。近くにサイフォンもあったようだが、気が付かなかった。先に進むと、古池の南を通る農道近くで暗渠も途切れ、一度農道に出て進み再び水路が開渠となって農道の右に見えるところで農道を離れる。ほどなく開渠は消えるも豚舎らしき建物の脇の進み石床川にクロスする。
古池は不老谷の造る扇状地に立地し水の取得に苦しむ中曽根集落に、不老川の谷口から引かれた用水ととものに灌漑用・飲料水用の水として求められたとのことである(愛媛県生涯学習センター データベース「えひめの記憶」)。

石床川水路橋
石床川に架かる水路橋を渡り車道に出る。道の西側には再び水路は開渠となって先に延びる。石床川水路橋からすぐ先に「的の尾分水口」があったようだ散歩の時は見逃した。
耕地を上下に分けて緩やかにカーブしながら続く疏水の姿は結構美しい。ほどなく水路は地下に潜るが入り口辺りに「スクリーン」があると前述の紀井氏に教えて頂いたが、地下に潜る入口にある除塵柵がそれなどではあろう。スクリーン箇所から道を進むと、前面に光明寺の緑が見えてくる


光明寺
素朴な趣の仁王様が護る山門をくぐり境内に。境内にある案内によれば、「光明寺(山田薬師堂);持福寺末寺のひとつで薬師堂を安置しているので、土地の人々は薬師堂と呼んでいるここは願いごとがよくかなえられ、近在の人々の香華が絶えず「山田の御薬師さま」と親しまれている。寛政11(1799)木喰上人82才の時、この寺に1カ月滞在し、2体の仏像を4日間で彫上げた。それが本堂に安置している木喰仏2体である」と。

本堂脇にも木喰仏の案内。上のメモを補足すると、「この中之庄を訪れた木喰五行菩薩行道上人が彫った2体のひとつは如意輪観音で一木造り。高さ86cm。長いずきんをかぶり右手を耳にあてた姿に見えるので耳の観音様として信仰さえ、耳が治ったひとは石に穴をあけてお供えした。もう一体は庭に聳える槇の大木に彫り込まれた子安観音像で、子供を守る生き木の神様として信仰された。 木喰上人は甲斐の人で、54才のとき木喰の修行に入った。五穀を食べず、肉食をせず、冬も着物一枚で過ごす厳しいもので、やがて全国に千体の仏像をつくりひとびとを救おうと決心して全国をまわった],と。
また山門の仁王像には三島神社本殿の彫刻を手掛けた三島の彫刻師松本新助の作で、持福寺にあったものをここに移した」とあり、その後に、「薬師堂の前には、むかし田に水を引く時に使用した日時計の石板もある」との記述。
用水フリークとしては、この最後のフレーズにフックがかかり、境内を探すことに。境内の中、薬師堂の表や裏を探す。確証はないものの、それらしき生垣の木立の中に見つけた。石を見てもよくわからないし、上のメモでは何のことかさっぱりわからない。あれこれチェックすると「愛媛県生涯学習センター データベース「愛媛の記憶 東予東部 四 扇状地の集落立地」にこの日時計の説明があった。

日時計
記事をかいつまんで引用すると、日時計は各集落へ配水する時間を計るために使われたもの。この地域の人々は,時計のなかった頃からこの日時計で時間を計り,「大谷水持分表」と呼ばれる水の管理表に従って各田に水を入れていたとのこと。花崗岩の台石に目盛を刻み、中央に建てた棒の影の長さによって時刻を計った、とのこと。曇天や雨天時には日時計ではなく、抹香時計が利用された。抹香時計は紐状にした木くずを燃焼させ、その燃焼部分の長さによって時間を計った。明治末年ころからは時計が計時用に使用されるようになたった、とのこと。
その背景にあるのは、宇摩地方の水不足。前回のところでもメモしたが、伊予三島市の地形は、海岸ぞいに帯状に平地がひろがり、その背後に険しい法皇山脈が聳える。中央構造線に沿う断層崖の地形としても有名な法皇山脈の北側斜面は切りたった急崖が連続し、その断層崖を流れ下る河川は急流でもって平野に流入するたけ、谷口を頂点に多量の砂礫を堆積し、それらが互いに重なり合い、複合扇状地の地形となっている。
そして、その扇状地は砂礫が厚く堆積しているので、中之庄、中曽根、そして具定といった集落は地下水位が深く、水不足に悩まされていた。中之庄の扇央部では地下30mから40mも井戸を掘らなければ水を得ることができない状態であった。中之庄は水不足に悩む宇摩平野のなかでも特に水不足に悩まされた集落で「中之庄のような水に不便な村へは嫁にやれぬ、夏の畑田はお月さんでも焼ける」といわれた、と。夏季に干魃のおこるたびに、大谷川の源に聳える翠波峰頂上に鎮座する翠波大権現に、翠波念仏踊を奉納しては雨乞いをくり返したという。
ために、宇摩の人々は灌漑用水、飲料水は谷水から求めざるを得ず、中之庄集落では大谷川が伏流水となる前の谷口、中曽根集落では不老谷川が伏流する前の谷口で水路として取り入れた。このようにして谷口や遊水地から集めた貴重な水は厳重に管理され、各集落の水田へと配分されたとのこと。 夏の灌漑時斯になると、夜も満足にねむれず灌漑作業に追われていた宇摩地区の集落の住民が、水不足から解放されたのは、昭和二九年銅山川疏水が開通して以降である。銅山川疏水の賜物である。

山田川水路橋
光明寺の境内辺りに銅山川疏水の「大谷西分水」があるとのこと。が、これ、も後日紀井氏より教えて頂いたもので、散歩のときはなにもわからず、何気なく撮った石の構造物がそれであろうか。確信はない。
さて、光明寺から先の水路をiphoneのGoogle Mapでチェックするとお寺さまの西を流れる大谷川を越える水路が見える。寺脇の道を進み大谷川に。しかし、水路橋らしき構造物は見当たらないが、川を越えて用水路が続く。これまた後から教えて頂いたものだが、銅山川疏水は大谷川をサイフォン(大谷川サイフォン)で潜っているようである。

山田分水口・スクリーン

水路を辿り先に進むと川を跨ぐ橋が現れる。山田川水路橋である。水路橋を越えると、疏水は山田団地の南を進み、団地の西端の手前で地中に潜る。「山田分水口・スクリーン」がここだろう。

松山自動車道を潜る
「山田分水口・スクリーン」で一時地中に潜った水路は松山自動車道の少し手前で一瞬姿を現し、その先に松山自動車道を潜るトンネルが見える。Google Mapを確認すると、松山自動車道の先に水路が見えるので、雑草が茂り歩きにくいが、水路に沿ってトンネルを潜り先に進む。

樋之尾谷川水路橋
松山自動車道下をくぐり、開渠として続く水路を辿ると樋之尾谷川水路橋に。結構深い谷筋ではあったが、水が流れていない時期でもあったので、用水路の中を歩き安全に川を渡る。

重石川水路橋
水路の中をミカン畑の中を進み、山裾に沿って用水を辿ると重石川水路橋。対岸には竹林が繁り、趣のある水路橋である。橋を越えると銅山川疏水は地中に潜る。
ここから先の流路の情報は全くない。Google Mapでチェックすると、山裾を松山自動車道に沿って水路が見える。これが銅山川疏水の流路だろうか?それとも、山中を隧道で進むのだろうか。わからない以上、成り行きで進み、どこかで何らかの手がかりに出遭うことを願いながら先に向かうことに。
とりあえず松山自動車道に沿って見える水路に向かうことにして、重石川水路橋東詰めから川に沿って道を下る。道の途中には石組みやコンクリート造りの構造物跡が残る。何となく用水に関するような施設跡かと思うのだが、不詳。

八皇子宮
松山自動車道に沿って山裾の道を進むと水路はあるのだが、用水路といった雰囲気ではない。どうも山の中を続いているようである。それとも暗渠となって進んでいるのであろうか?はっきりしない。
Google Mapで先を見ると、松山自動車道の北脇に八皇子宮がある。水路もはっきりしないので、気分転換もかね立ち寄ることに。松山自動車道南から北側に移り、喜蔵川を渡り八皇子宮に。社は自動車のスクラップ場の手前の少々趣に欠けるところにあった。ささやかな社にお参り。散歩で結構多くの社を辿っているが、「八皇子宮」って名称は初めての社である。
境内にある案内によると、「八皇子社(別名八皇寺)この神社には白蛇が祀られる。時代は不詳だが昔、寒川の里に貧しいが正直で働き者の漁師がいた。ある日、浜辺で働いても楽にならないと呟いたところ、どこからともなく声が聞え、足元にいる白蛇を連れて帰り、食事を与えて白蛇を太るにつれ金持になる、と。漁師は祠をつくり、毎日、白蛇さまと唱え食事を供えたところ、ある日、祠の前に瓶が一個。不思議に思い中をあけると大判小判が一杯。お告げの通り、漁師は村一番の大金持ちになった。それから数百年、子孫に良く深い人がいて、お供えを止めると白蛇は次第に痩せ、それにつれ漁師のお金もなくなり、ある夜、大きな音がして祠の戸が開き、白蛇が消え去り、漁師も再び貧乏になった」とあった。

大倉川
気分転換のつもりで尋ねた八皇子社であるが、これが結構段取り狂いの元となった。社に向かったとき、喜蔵川を渡ったのだが、八皇子社を離れ先に進むとき、既に川の東側に渡っているのをうっかり忘れ、そのまま松山自動車道に沿って先に向かってしまった。本来なら、川筋に沿って沢に上り隧道から出る水路橋を探すのだが、全く呆けてしまい、そのまま先に進んだ。この沢を進めば「楠谷川水路橋」があったのだが、結果的に見逃した。そしてこの沢を見逃したことは次回の水路橋探しに結構大きな影響を及ぼすのだが、それは先の話ではある。
道を進み、道脇にある妻鳥庵を越え、大倉川に。ここでも、川の西側で松山自動車道を北に移り橋を渡って川の東側に移った時に、これまたなにがどうなったのか、沢を上ってチェックすることなく先に進んでしまった。沢を上れば「大倉川水路橋」に出遭ったはずである。考えるに、どうも、銅山川疏水は山裾に流れる水路とつかず離れず、暗渠となって進んでいるものであろうと意識下で思い込んでいたのかもしれない。

小倉川堰堤
道を進むと長谷川の支流があり、その手前から山に入る作業道がある。なんらか水路橋の手掛かりないものかと進むと堰堤があった。堰堤の下に橋など危なくてないではあろうと、堰堤の先になにか見えないかと、堰堤の脇の山道を高巻し堰堤上に立ち、それらしき橋の姿はないものかと眺めるが、特段それらしき構造物は見当たらない。
結局、堰堤上から引き返すことになったこの長谷川の支流は「小倉川」であったのだが、先ほど「楠谷川橋」の沢が完全に意識から抜け落ちたばかりに、後日2回目の散歩の折、沢を一筋ずれて地図を読み間違い「大倉川」と思い込んでしまった。このため、2回目の散歩は結構ドタバタになるのだが、それも後の話ではある。

新長谷寺
先に進むと趣にあるお寺さまが見えてきた。仁王門も独特な風情がある。中国風と言うか、禅寺風と言うか、取ってつけたような上屋と下構造との組み合わせが面白い。どうも戦乱で兵火に燃え、寛永12年(1639)に伽藍が再興される時、財政乏しき故をもって、社殿を移築し急場を凌いだことも、この一種アンバランスな魅力の因かもしれない。
仁王門から境内にはいると、激しい水勢の音。小橋を跨ぎながら水路を見ると、上部は段状となり、その下流は石で水を二流に分け、更にその一流は橋の北で更に二流に分けられている。水路を辿ると、水は長谷川から取水しているようである。
その時は、疏水とか用水でよく見られる用水路や隧道から一度川筋に水を流し、再び川より取水し再び用水として流れているのだろうと思い、この水路が銅山川疏水の流路かとも思っていた(実際は間違い)。
地域住民の信頼の篤いお寺さまの中で水を三つの流れに分け配水管理をおこない、諍いが起きないようにしたのだろうか、などと想いながら、水路を跨ぐ小橋を渡り、その先に見える急な階段を上り本堂にお参り。高野山真言宗のこのお寺さまは行基開基とのこと。縁起によれば、養老5年(714)、奈良県の長谷寺の本尊を造る際に、仏師、稽分会(けいぶんえ)・稽首勲(けいしゅくん)により、試みに造られた6尺2分の十一面観世音菩薩がこの寺の本尊とのこと。 この試みに造られた観音像は、行基の手によって霊地に流れ着くよう祈願し浪華の浦より小舟に乗せて流したところ、この地の寒川江之元の黒岩海岸に漂着。村人たちはこの観音像を山腹に奉祀した。その後、行基がこの地を訪れた際に自らが流した観音像に驚かれ、「観世音菩薩の霊地なり」と宮中奏上。その後、神亀6年(724)、勅命により寒川の地に一大伽藍が造立された。
モミジの美しい境内を下り、銅山川疏水の手掛かりを求めて周囲を彷徨うが。これといった手掛かりもなく、新長谷寺を後にした。実のところ、長谷川を少し遡ったのだが、境内を流れる水路が銅山川疏水であろうと思いんでいたので、長谷川から境内への取水口辺りだけをチェックしたのだが、長谷川をもう少し先に進むと銅山川疏水の水路橋があった。それがわかったのは後の話である。

伊予寒川駅
結局は重石川水路橋から西は、ほとんど銅山川疏水の流路にあたることなく、少々の未達感を感じながら、本日の銅山川疏水散歩を終えることにする。後日図書館などで流路を調べ再度のリベンジマッチを想いながら成り行きで道を進み伊予寒川駅に向かう。
歩きながら、このあたりの地形は、急崖が連続する断層崖を流れ下る急流が平野に流入し、谷口を頂点に多量の砂礫を堆積した扇状地であるとメモしたように、谷口から平地、つまりは扇頂から左右に広がる扇端にむかって結構急な傾斜になっている。谷口の標高は50m程度であり、扇端の海までの距離は1キロ弱であろうから、結構な勾配である。
国道11号線を越え、伊予寒川駅に到着。高松方面への列車に乗り伊予三島駅に。そこで駅前にデポさせてもらった車に乗り込み、一路実家へと向かい本日の散歩を終える。

月曜日, 12月 16, 2013

愛媛・銅山川疏水散歩 そのⅠ;戸川公園から新長谷寺まで銅山川疏水西部幹線を辿る

数か月前のこと、愛媛の田舎に帰省の折、弟の運転で母と共に四国霊場札所65番三角寺と札所66番雲辺寺を訪ねた。四国中央市の法皇山脈の山中にある四国霊場札所65番三角寺から金生川の谷筋に下り、境目トンネルで分水嶺を越え、馬路川筋に沿って進み、阿讃山脈標高927mの雲辺寺山にある札所66番雲辺寺(徳島県三好市池田町)を訪れたわけだが、その際、四国中央市から三角寺への山道を上る途中で偶然、「戸川公園:疏水公園」に出合った。その公園は銅山川疏水を記念する公園であった。
いつだったか、阿波の忌部神社を辿った時、池田町の池田ダムをきっかけに吉野川総合開発計画のことを知り、そのコンテキストの中で吉野川の水を巡る徳島県と他の四国3県の鬩ぎ合い、池田ダムから阿讃山脈を8キロに渡って隧道を穿ち香川に水を通した香川用水、また、吉野川水系銅山川の柳瀬ダムや新宮ダムから法皇山脈を穿ち、四国中央市に水を通し用水・発電に利用している銅山川分水・疏水のことを知った。戸川公園は法皇山脈の隧道を抜けた銅山川からの分水が、標高293m当たりで発電用水と農業用水(疏水)に分かれて下る麓にあった。
用水フリークとしては偶然の幸せ、Serendipityに感謝し、戸川公園のことをチェックすると、この公園の辺りから東西に用水路が伸びているとのこと。東には川之江の方面に5キロほどの東部幹線が、西には土居方面に向かって14キロほどの西部幹線が伸びている。で、今回は、銅山川疏水の西部幹線を辿ることにした。
ルートを調べるに、WEBにはしっかりしたルート図が見つからない。唯一「農林水産省 疏水百選・銅山川用水;銅山川疏水の歴史探訪」には水路橋などのルート記載があるのだが、地図とリンクしていないため、場所がわからず、ひとり歩きではどうしようもない。
仕方なくGoogle Mapを見ると、戸川公園の辺りから、如何にも用水路らしき水路が途切れ度切れに重石川辺りまでは辿れる。しかし、その先は山中の隧道に入るのか、はたまた松山自動車道傍に途切れ途切れ見える水路に沿って長谷川沿いにある新長谷寺の辺りまで進むのか、ルートは今一つはっきりしない。が、いつもの散歩の基本である成り行き任せ、行けば何とかなるかと疏水を辿ったのだが、案の定重石川から先は、水路がさっぱりわからなかった。
後日、田舎の新居浜の図書館、三島の中央図書館などを訪れ文献を調べたのだが結局疏水流路ついての情報は全く見当たらなかったため、迷惑も顧みずWEBで見つけた「農林省 疏水百選・銅山川用水;銅山川疎水の歴史探訪」のページにあった愛媛県四国中央市農林土木課(実際疏水産課)に勇気を奮って電話。疏水担当の紀井正明氏に親切に応対頂き、その資料をもとに、重石川までの水路橋などの施設の名称、重石川から先の山中を進む隧道が沢を越えるときに現れる水路橋の場所などをお教え頂き、戸川公園から新長谷寺までのルートを辿ることができた。
以下、紀井正明氏のご厚意により作成した銅山川疏水のルートを提示し,銅山川疏水の概要をまとめたあと、2回に渡る銅山川疏水散歩の試行錯誤、ドタバタを反省も込めて時系列にそのままメモする。新長谷寺から土居方面、戸川公園から川之江方面への散歩は次回のお楽しみである。

銅山川疏水西部幹線

銅山川疏水西部幹線ルート;銅山川疏水分流点>柱尾分水口>境川水路橋>小広尾川分水口>小広尾川水路橋>古川水路橋>野々首分水口>琵琶谷川水路橋>琵琶谷川分水>岡の坊水路橋>岡の坊分水口>不老谷川分水口>不老川谷水路橋>世水吐>古池分水口>サイフォン>石床橋水路橋>的の尾分水口>スクリーン>大谷西分水>大谷川サイフォン>山田川水路橋>山田分水口スクリーン>桶尾谷川水路橋>重石川水路橋>楠谷川分水口>楠谷川水路橋>大倉川水路橋>小倉川サイフォン>長谷川水路橋>西谷川分水口>東谷分水口>中井出分水口>豊岡川水路橋>豊岡川分水口>サイフォン>耳神分水口>鎌谷川水路橋>中山分水口>岡銅分水口>隅田川水路橋>長田分水口

通水
「馬瀬に集う人々の顔はみんながみんな喜悦に輝いている。隧道口にしゃがんで水の出を待つ人々の眼は百年もの長い間待ちに待った歴史的な光さえも帯びているようだ。 あっ!水だ!出たぞ、瞬間の歓声で宇摩郡民にとっては正に手にすくい上げては喜び合う人々の顔、歓声のルツボである。一升瓶に詰め込まれ水は黄金の流れだ、手に手各自の家々に持ち帰られるであろうが、この水で、今夜の一家団欒は、一層の賑やかさを醸し出すことだろう」。これは合田正良著『銅山川疏水史』の一節。昭和25年(1950)、銅山川の水が法皇山脈を掘り抜いた2900mの隧道を抜け、宇摩地方に水が流れ出した時のことを描いたものである。
銅山川の水を、峰を越えて分水する隧道工事が開始されたのは昭和12年(1937)のこと。分水とは、水系を越えて他の地域に水を分けることをいう。同年8月に馬瀬谷の分水吐出口切取りよりはじまった隧道工事は断層に遭遇し湧水が多く工事が難航、加えて昭和17年(1942)には戦争により工事中断することになった。
戦後、昭和23年(1948)に工事が再開され、昭和24年(1949)には隧道が貫通。貫通時の様子は「坑内は工事が長くのびた為、資材の腐朽と雨のような湧水の為、計算上残すところ二m以下の筈であったこの坑道内に入る者がない。時に同二四年六月三〇日午前九時であった。仕方なく三人の責任者だけで一二五〇mの奥で腐臭と削岩機の騒音に耐えて作業した。午後一一時四〇分、向うのハッパの煙がこちらの穴へ出た(愛媛県生涯学習センター データベース「えひめの記憶;銅山分水と水資源」)、とある。そして昭和25年(1950))には、仮通水の後、8月に内部仕上げが終結し通水式が行われた、とのことである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

安政2年(1855)に遡る銅山川分水構想
隧道工事が完成し通水されたのは工事開始から23年後のことであるが、銅山川の水を峰を越えて宇摩に通そうとする構想が持ち上がったのは遥か昔、安政2年(1855)に遡る。
安政2年(1855)、宇摩地方は大干ばつに見舞われた。井戸は涸れ、池も底をついた。農民たちは雨乞いをしたが効果はなく、峰一つ越した銅山川に流れている水を引き入れることができればと考えた。そこで、三島・中曽根・松柏・妻鳥の庄屋たちが立ち上がり、連名で三島代官所に「大川河水利用もくろみ書」を差し出した。これはノミと鍬で法皇山脈をくり抜こうとするもので、代官から一蹴されたが、銅山川疏水の着想はこの時が始まりとなった(四国災害アーカイブス;安政2年の干ばつ)。
三島村の庄屋、喜兵衛らが作成した『目論目書』には「宇摩の河川は流域短小かつ勾配急竣なるを以て、降雨あるや直ちに出水し、晴るればたちまち断水し、夏期干天には河底に点滴を止めざる状態にあり、……ニ年ないし五年毎には干害を免るること能わざるも、百姓なるが故に不 安焦慮の中に伝来の天職を継続しつつあり、……しかるに南方にそびゆる法皇の分水嶺を越ゆれば大川なり。よって水源をこの川に求め、法皇の山嶺に隧道をうがち導水して、水田の用水補給を行い、その干害を除去して毎年の損失を除き……」、とある。

宇摩地方の地形的・機構的特徴
『目論見書』にもあるように、地形的特徴としての宇摩地方は、瀬戸内海と法皇山脈とが近接し、海岸から5キロもいかないうちに切り立った山に入り、大河がなく川は細い。その上、中央構造線に沿う断層崖の地形として名高い法皇山脈の北側斜面は、切り立った急峻な崖が連続し、そこを流れ下る河川は急流で平野部に流入する。ために、谷口を頂点として多量の砂礫を堆積し形成された扇状地は地下水位が深く水の取得に困難を極めたようである。
さらに、同地方の気候的特徴は瀬戸内式気候に属する温暖少雨の気象であり、地形・気象的条件が相まって水に苦しむ宇摩地方は峰の向こうを流れる銅山川にその活路を求めることになる(愛媛県生涯学習センター データベース「えひめの記憶」)。

幕末から明治時代
安政2年(1855)に構想され、100年近くかけて実現した銅山川からの分水の歴史を,合田正良著『銅山川疎水史などを参考に』時系列でまとめてみるに、上にメモしたように安政2年(1855)、宇摩の三庄屋が今治藩三島代官所に出した疏水事業の目論見書は幕末の混乱期でもあり、特に進展はなかったようだ。明治期も地元有志や商社の動きはあるものの、具体的な進展は見られず、分水事業が具体的に動きはじめたのは大正に入ってからである。

■大正時代
大正時代の分水事業の推進は篤志家を核にした私人・私企業に拠るもののようである。大正3年(1914)には地元民の懇請により岡山在住の篤志家紀伊為一郎氏が分水計画を愛媛県に提出。紀伊氏が川之江出身ということもあり、地元の渇水を苦慮し私財を投げうち事業を推進するも、進展は捗々しくなく、結局は大正13年(1924)には宇摩郡の全町村長、議員連盟で分水計画を内閣に提出、宇摩郡疏水組合結成に到る。篤志家・私企業での事業推進から自治体での事業推進へのシフトと言えよう。

大正末期から昭和25年(1950)の隧道通水まで
大正末期から昭和25年(1950)の隧道完成までは地方自治体・県主体の事業計画推進となる。
大正14年(1925)、宇摩郡疏水組合事業を県営に委譲。銅山川疏水事業期成同盟会結成。法皇山脈を貫く導水事業を行政に働きかける。
昭和3年(1928)、期成同盟の話を受け、愛媛県が柳瀬ダムによる分水計画提出。利水・発電を目論む。
昭和6年(1931)、愛媛県知事、徳島県知事が協議。仮協定の覚書締結。しかし、事前に県会の承認を受ける内務省令の手順を踏まなかったため、徳島県議会は同意せず。
昭和7年(1932)、徳島県議会全会一致で分水反対案を可決。 昭和10年(1935)、疏水組合に替り、愛媛県が徳島県との交渉の主役に。同年,内務省が、愛媛県に計画縮小を指示。発電計画の中止。分水量縮小で両県に斡旋を図る
昭和11年(1936)、第一次分水協定締結。灌漑用水のみ分水、柳瀬ダムの建設、下流放流義務化を合意。
昭和12年(1937)、愛媛県により宇摩への隧道建設着工。柳瀬ダム建設開始。 昭和20年(1945)、戦時下の電力需要により軍需省が発電要請。発電を含めた第二次分水協定締結。
昭和22年(1947)、第三次分水協定締結。内務省は吉野川の治水の必要性から未着工であった柳瀬ダム事業を,洪水調整を含んだ多目的ダムとし、第一次分水協定と同量の下流放水量に戻したものとなる。
昭和24年(1949)、愛媛県の委託で建設省が柳瀬ダム建設に着工。 昭和25年(1950)、仮通水。宇摩地方に水が流れる。安政2年(1855)以来96年ぶりに峰の向うの水が流れることになった。

昭和25年(1950)から吉野川総合開発へ
昭和26年(1951)、柳瀬ダムの完成を待たず、隧道貫通後分水を可能とする第四次分水協定の成立。工業用水利用の道を開く。
昭和28年(1953)、柳瀬ダム完成。銅山川第一発電所竣工。 昭和29年(1954)、銅山川第二発電所竣工。
昭和33年(1958)、ダムよりの責放流を一定とせず、吉野川中流域の流量による調整放流が可能となる第五次分水協定締結。
昭和39年(1964)、分水増量となり川之江へ分水する幹線水路完成。 昭和41年(1966)、吉野川総合開発計画策定。早明浦ダム建設に愛媛県が参加することより、下流への責任放流の義務がなくなる。

以上銅山川からの分水事業の歴史を見るに、基本は分水を求める愛媛県と、それを是としない徳島県の鬩ぎあいの歴史でもある。「分水問題とは分水嶺の遥か彼方に水を持って行こうとするものである。分水は愛媛の農民を助けることかもしれないが、分水のせいで徳島の農民が水不足にあえぐことは認められない。また、愛媛側が水を違法に得ようとした場合、下流の徳島側は絶対的に不利である。一度吉野川を離れた水は二度と戻らない」。これは銅山川分水に反対する徳島県議の発言であるが(『銅山川疏水史;合田正良』)、この基本にあるのは銅山川も含めた吉野川水系全体の分水事業が徳島県に与えるその影響と、その他の愛媛・香川・徳島に与える影響が全く異なることにある。

吉野川水系の徳島に及ばす影響と、その他四国3県の関係
吉野川は四国山地西部の石鎚山系にある瓶ヶ森(標高1896m)にその源を発し、御荷鉾(みかぶ)構造線の「溝」に沿って東流し、高知県長岡郡大豊町でその流路を北に向ける。そこから四国山地の「溝」を北流し、三好市山城町で吉野川水系銅山川を合わせ、昔の三好郡池田町、現在の三好市池田町に至り、その地で再び流路を東に向け、中央地溝帯に沿って徳島市に向かって東流し紀伊水道に注ぐ。本州の坂東太郎(利根川)、九州の筑紫次郎(筑後川)と並び称され、四国三郎とも呼ばれる幹線流路194キロにも及ぶ堂々たる大河である。
吉野川は長い。水源地は高知の山の中。この地の雨量は際立って多く、下流の徳島平野を突然襲い洪水被害をもたらす。徳島の人々はこういった大水のこととを「土佐水」とか「阿呆水」と呼んだとのこと。吉野川の洪水によって被害を蒙るのは徳島県だけである。
また、その吉野川水系の特徴として季節によって流量の変化が激しく、徳島県は安定した水の供給を確保することが困難であった。吉野川の最大洪水流量は24,000m3/秒と日本一である。しかし、これは台風の時期に集中しており、渇水時の最低流量は、わずか20m3/秒以下に過ぎない。あまりにも季節による流量の差が激しく、為に徳島は、洪水の国の水不足とも形容された。
さらにその上、徳島県の吉野川流域の地形は河岸段丘が発達し、特に吉野川北岸一帯は川床が低く、吉野川の水を容易に利用することはできず、「月夜にひばりが火傷する」といった状態であった、とか。
つまるところ、吉野川によって被害を受けるのは徳島県だけ、しかもその水量確保も安定していない。その水系からの分水は他県にはメリットだけであるが、徳島県にとってのメリットはなにもない、ということであろう。銅山川分水をめぐる愛媛と徳島の協議が難航した要因はここにある(「藍より青く吉野川」を参考にさせてもらいました)。

吉野川総合開発計画

この各県の利害を調整し計画されたのが吉野川総合開発計画。端的に言えば、吉野川源流に近い高知の山中に早明浦ダムなどの巨大なダムをつくり、洪水調整、発電、そして香川、愛媛、高知への分水を図るもの。高知分水は早明浦ダム上流の吉野川水系瀬戸川、および地蔵寺川支線平石川の流水を鏡川に導水し都市用水や発電に利用。愛媛には吉野川水系の銅山川の柳瀬ダムの建設に引き続き新宮ダム、更には冨郷ダムを建設し法皇山脈を穿ち、四国中央市に水を通し用水・発電に利用している。
そして、池田町には池田ダムをつくり、早明浦ダムと相まって水量の安定供給を図り、香川にはこのダムから阿讃山脈を8キロに渡って隧道を穿ち、香川県の財田に通し、そこから讃岐平野に分水。徳島へは池田ダムから吉野川北岸用水が引かれ、標高が高く吉野川の水が利用できず、「月夜にひばりが火傷する」などと自嘲的に語られた吉野川北岸の扇状地に水を注いでいる。(「藍より青く吉野川」)。

■現状
以上のような歴史的経緯により銅山川より分水されることになった水は、柳瀬ダムから隧道を抜け、計画高水流量2600m3(毎秒)のうち1200m3(毎秒)の洪水調節を行い、宇摩地方の水道用水として最大0.35m3(毎秒)、工業用水として最大2.55m3(毎秒)、灌漑用水として年間 650万m3を供給し、銅山川第1発電所最大出力1万 700KW、銅山川第2発電所最大出力2600KWの発電を行っている。

銅山川疏水の銅山川分水事業における位置づけなどあれこれ考えているうちにイントロが長くなってしまった。灌漑用水、水道用水、工業用水、発電用水として供給され、宇摩地方の農業、工業、産業、そして日常生活の基礎をなしている銅山川の分水のうち、農業用の灌漑用水として流れる銅山川疏水の散歩に出かけることにする。