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日曜日, 4月 28, 2019

古利根川散歩;八潮から古隅田川分岐点まで

埼玉と東京の境となる八潮市から、足立区・葛飾区境を画する利根川の旧流路・古隅田川の分岐点まで歩く。
平成29年(2017)の5月、古隅田川を歩き、それが利根川東遷事業により銚子に瀬替えされる前の利根川旧流路の末であることを知った。で、どうせのことなら東遷事業前の利根川の旧流路を繋いでみようと,背替え前の南流点である埼玉県羽生市の旧利根川・会の川から歩きはじめた。
直線距離で70キロほど。曲がりくねった流路を勘案しても80キロもないとは思うのだが、6回に分け1年半ほどかかった。川筋歩きは基本、川に沿って歩けばいいわけで、なーんにも考えず、ひたすら歩きたい時の定番であり、とすれば、1年半の間になーんにも考えたくない時が6回あった、ということだろう。
それはともあれ、今回は繋ぎ散歩の仕舞。これで古利根川の繋ぎ散歩の大団円となる。距離は7キロほど。のんびりと歩き古利根川の流路をカバーし終えた。

本日のルート;つくばエクスプレス八潮駅>一号調整池>八潮南部配水場>垳川>垳川排水機場>稲荷下樋菅>神明六木遊歩道>垳川・葛西用水交差部>葛西用水水路跡>花畑運河>葛西用水親水公園>新広橋>六木水門>常善院の六面幢(どう)地蔵>飯塚橋>鹿浜線中川水管橋>中川水再生センター>中川水管橋>水元給水線・送電線鉄塔>常磐線鉄橋>古隅田川分岐点>JR小岩線送電線鉄塔>JR常磐線・金町駅

つくばエクスプレス八潮駅
先回の散歩の終点、葛西用水が垳川に合流する箇所の最寄り駅・つくばエクスブレス八潮駅に向かう。この駅が平成17年(2005)開業したことにより、埼玉で唯一鉄道駅のない市であった八潮市に鉄道駅ができ、市の発展にも大きく寄与することになったようだ。 実際、90年代の約7.5万人をピークに減少傾向にあった人口も平成30年(2018)には8.9万人に増えたという。
駅の南に出る。駅周辺は平成27年(2015)より都市計画事業の施行により、如何にもといった景観の街並みを示す。

一号調整池
国土地理院「治水地形分類図」
駅前から垳川に向かい成り行きで道を進む。大瀬5丁目に大きな調整池がある。一号調整池と呼ぶようだ。八潮市は西を綾瀬川、東を中川、南を垳川(かつての綾瀬川)に囲まれ、かつては川沿いの自然堤防上に人々が住み、後背湿地、氾濫原を開墾して開けていったわけであろうし、標高も1mから4mといった一帯。先回の散歩でも都市開発事業地域にいくつもの調整池があった。低湿地故の水対策が必要ということだろう。国土地理院の「治水地形分類図」を見れば、八潮が自然堤防・後背湿地・氾濫原からなることが一目瞭然である。
国土地理院の「治水地形分類図」
国土地理院「治水地形分類図」
八潮市の「治水地形分類図」を見ていて、ちょっと気になることが出てきた。中川筋が現在の流れとは異なり八潮市の潮止橋の上流から南に流れ、現在の大場川に合わさる旧流路が描かれる。通常行政境界は山や川筋で区切られることが多い。確認してみると、現在の中川左岸、旧流路と現在の流れに囲まれた古新田地区は八潮市となっていた。

中川旧流路の変遷
国土地理院「今昔マップ首都1944-1954」
ついでのことではあるので、この旧流路が現在の流れに変わる過程を「国土地理院今昔マップ首都」でチェックすると、「国土地理院今昔マップ1917-1924」には旧流路のみ、「今昔マップ首都1927-1939」から「今昔マップ首都1944-1954」には現の直線化工事が施された流路と旧流路が共に描かれており、「今昔マップ首都1965-1968」になって旧流路は消え、現在の中川筋のみが描かれている。
つまりは、大正13年(1924)まで中川は大場川筋に入る旧流路を流れており、それ以降昭和2年(1927)までに現在の流れである直線化工事が実施され、昭和29年(1954)から昭和40年(1965)の間のいつの頃か、旧流路が閉ざされ現在の流れだけになっている、ということだ。旧流路跡には暗渠が続くとのことである。





中川というか、古利根川の流路変遷
上にかつての中川筋は大場川に合流したとメモしたが、中川が完成したのは大正5年(1916)から昭和4年(1929)にかけて外周河川である利根川、江戸川および荒川の改修に付帯して実施された開削・整備によるものであり、江戸の頃に現在の中川筋はない。この流路はかつての利根川(古利根川)の一つの流れである。流れは東に向かい現在の江戸川(当時の太日川)に注いだ。

利根川東遷事業の頃の利根川の流れをまとめると、文禄2年(1593),利根川東遷第一次の工事として伊奈忠次は当時の会の川を川俣地点で締切り,浅間川筋に落とし、川口(加須市川口地内)の地で二流に分ける。その主流は渡良瀬川の水も合わせ東へと、現在の中川の川筋(当時中川という川は、ない)である島川・権現堂川、庄内古川を流れ、金杉で太日川(現在の江戸川)に落とした。
またもう一つの流れ、川口から南に下った古利根川(現在の大落古利根川)は西遷事業(寛永6年;1629)施行以前の荒川(現在の元荒川)と越谷で合さり、これも小合川を経て太日川に落とした。この小合川が現在の大場川から小合溜井へと向かう川筋である。川口で分かれたかつての利根の流れがこの地で合わさった。
宝永元年(1704年)、この古利根川が溢れた。江戸川(かつての太日川)の大増水により、古利根川に逆流した暴れ水が八潮市と葛飾区の境、現在の大場川と中川の合流点あたりの堰(猿ヶ俣・八潮市大瀬間の締とめ切り堰)に押し寄せ、堤防が決壊。葛西領と江戸下町一帯が大水害に見舞われた。
上に利根川の旧路は小合川(現在の大場川)筋の合流点から太日川(江戸川)に流れたとメモしたが、正確にはこの合流点から流路は東西に分かれており、太日川とは逆、現在の中川筋(当時の綾瀬川)筋とも通じていた。実際、往昔の綾瀬川の流れは南に下る流れとともに、小合川を経て太日川に注いていたとも言われる。
それはともあれ、大場川と中川の合流点あたりの堰(猿ヶ俣・八潮市大瀬間の締め切り堰)とはこの綾瀬川に設けられた亀有溜井の上流部の堰ではないだろうか。利根川東遷事業の目的のひとつは江戸に流れ込んだかつての利根川を背替えし、江戸を洪水から守ることとも言われるが、次いで、東遷事業の大きな目的のひとつでは新田開発。この目的で最初に設けられたのが「亀有溜井」であり、水源は荒川西遷事前で水量豊富な綾瀬川に求め葛飾区新宿で水を溜めて葛西領を潤すことになる。おおよその流路を現在の川に合わせると、綾瀬川>桁川>中川(昔の古利根川)>亀有ということだろう。亀有溜井の上流・下流の堰は享保14年(1729)まで締め切られていた、と言う。
太日川(江戸川)の水が古利根川・綾瀬川筋に逆流したということだが、それでは当時のそれぞれの河川の水勢はどのようなものであったのだろう。
チェックする;かつての太日川は、元和7年(1621)に開削された赤堀川により銚子への流れへと瀬替えされた利根川と結ぶべく寛永12年(1635)から寛永18年(1641)にかけ上流部を開削。洪水のおきた宝永元年(1704年)の頃には既に利根川と結ばれており、水量も多くなっていたことだろう。
一方逆流した辺り、小合川(現在の大場川筋)へと流下する旧流路は川口から南下した古利根川と元荒川の水が合わさったものであるが水量は多いとは思えない。古利根川は利根川東遷事業で廃川となった利根の川筋であり、元荒川も荒川の西遷事業(寛永6年;1629)で水量は激減している。実際、この川筋は葛西用水の溜とされるが、その水量が乏しく、元荒川に設けられた越谷の瓦曽根溜井(慶長19年(1614)完成)は寛永18年(1641)にその水源を太日川に、松伏溜井(寛永11年(1633))もその水源を太日川・江戸川に求めている。
また、現在の大場川と中川の合流点あたりに西から合流していた綾瀬川も天和2年(1683年;(延宝8年(1680)との説もある)には現在の垳川合流点から南に直線化工事がなされており、古利根川筋への水量は多くはないだろう。
要は決壊箇所あたりの流れが、逆流を押し返すほどの水量がなかったということもその一因だろうか(これは妄想)。
ともあれ、この大洪水に懲り、江戸を洪水の被害から防ぐため、将軍吉宗の命により、享保14年(1729年)井沢弥惣兵衛の手によって治水工事が開始された。井沢弥惣兵衛は見沼通船堀、見沼代用水などを差配した治水・利水工事のスペシャリストである。享保14年(1729)に小合川筋の古利根川は小合川との合流点と江戸川合流点手前に堰を設け溜井をつくった。これが「小合溜井」である。
一方、猿ヶ俣・八潮市大瀬の堰(享保14年には締切を解く)以南の川筋、古利根川の細路・流路を開削し広い川筋を設けた。垳川が古利根川(現在の中川)に合流する箇所の堰も享保14年(1729)締め切っている。
こうして江戸川に東流していた古利根川の流れが、かつての綾瀬川(現在の中川筋)へと流れるようになったわけである。

中川
中川は羽生市を起点とし、埼玉の田園地帯を流れ東京湾に注ぐ全長81キロの河川。起点をチェック。羽生市南6丁目あたり。宮田橋のところで葛西用水を伏越で潜り、宮田落排水路(農業排水路)とつながるあたりが起点、とか。
結果としてこのような概要とはなっているが、葛西用水と同じく、中川も元からあった川ではない。利根川東遷・荒川西遷事業により「取り残された」川を治水・利水のために繋いで結果的に出来上がった川である。
ために、中川には山岳部からの源流がない。低平地、水田の排水を34の支派で集めて流している。源流のない川ができたのは、東遷・西遷事業がその因。江戸時代、それまで東京湾に向かって乱流していた利根川、渡良瀬川の流路を東へ変え、常陸川筋を利用して河口を銚子に移したこと。また、利根川に合流していた荒川を入間川、隅田川筋を利用して西に移したことによって、古利根川、元荒川、庄内古川などの山からの源流がない川が生まれた。このことは幾度か触れた。

現在の中川水系一帯に「取り残された」川筋は、古利根川筋(隼人堀、元荒川が合流)と島川、庄内古川筋(江戸川に合流)に分かれていた。幕府は米を増産するために、この低平地、池沼の水田開発を広く進め、旧川を排水路や用水路として利用した。が、これは所詮「排水路」であり「用水路」。「中川」ができたわけではない。
中川水系の水田地帯を潤し、そこからの排水を集めた島川も庄内古川も、その水を江戸川に水を落としていた。が、江戸川の水位が高いため両川の「落ち」が悪く、洪水時には逆流水で被害を受けていたほどである。低平地の排水を改善するには、東京湾へ低い水位で流下させる必要があった。そこで目をつけたのが古利根川。古利根川は最低地部を流れていた。島川や庄内古川を古利根川つなぐことが最善策として計画されたわけである。実際、江戸川落口に比べて古利根川落口は2m以上低かったという。
この計画は大正5年(1916)から昭和4年(1929)にかけて外周河川である利根川、江戸川および荒川の改修に付帯して実施された。島川は利根川の改修で廃川となった権現堂川を利用したうえで、幸手市上宇和田から杉戸町椿まで約6キロを新開削して庄内古川につながれた。庄内古川は松伏町大川戸から下赤岩まで約3.7キロして大落古利根川につながれた。こうして「中川」ができあがった。
渡良瀬川
近世以前には佐波から、江戸川が現在の利根川から分かれる辺りまで川筋はなかった。ということは、現在権現堂川辺りで利根川に合流している渡良瀬川も近世以前は利根川の支流ではなく、この河川も関東平野を南に下り江戸湾に注いでいた。 そのルートは権現堂川筋を下り、加須市川口で合わさり東に島川筋、権現堂川筋へと向かった「会の川」と「浅間川」の流れを合わせ、庄内古川筋を下り、松伏町金杉で現在の江戸川(当時の太日川)に合流したようである。

江戸川
江戸川は、もとは松伏町金杉付近に源頭部を持ち渡良瀬川の下流に合わさる流れであり太日川と呼ばれていた。旧利根川の主流のひとつとして江戸湾に流れていた。
寛永12年(1635)から寛永18年(1641)にかけ、この太日川の上流部、松伏町金杉付近の源頭部から北の関宿に向けて開削工事がはじまった。およそ18㎞に渡るこの開削工事によって、元和7年(1621)には赤堀川が開削され、銚子へと流れることとなった現在の利根川とつながり、利根川の水を取り入れることになった。太日川の呼称も江戸川となる。 享保13年(1728)には下流部も野田橋の近く、金杉あたりから18キロにわたって関東ローム層の台地を掘り割って下流部も延ばしたともいう。
この江戸川の開削は利根川・渡良瀬川水系の治水対策でもあったようだ。瀬替え、堰の締め切りなどにより、権現堂川から庄内古川に集中することになったかつての利根川・渡良瀬川水系の流れを、新たに東へと水路(逆川)を開削し江戸川と結んだ。沖積低地上の庄内古川利根川・渡良瀬川水系筋を流れていた利根川の水を、関東ローム台地の中に導水し治水につとめた、ということ、である。
寛永20年(1643)には庄内古川筋は閉じられた。この庄内古川筋は後に中川となって整備されることになる。

八潮南部配水場
偶々出合った一号調整池をきっかけに結構話が広がった。先に進む。調整池から南に延びる水路に沿って下る。大正第一幹線都市下水路と呼ばれるようだ。通りも「大正通り」とある。
水路の左手、垳川との合流点手前に八潮南部配水場。平成8年(1996)から稼働し、中央浄水場と共に水道水を供給するが、八潮市の水道水の大半は三郷市の新三郷浄水場に拠る、とのことである。

垳川
水路は垳川に合流。垳川はかつて綾瀬川の本流であった。流路定まることのない暴れ川であった綾瀬川治水のため、江戸の頃には既に垳川筋が綾瀬川本流と切り離されている。天和2年(1683年;(延宝8年(1680)との説もある)頃と言う。洪水対策のため垳川との接続部下流が直線化工事を施され、綾瀬川は南に下る。
綾瀬川との接続部は閉じられた。その後、これも江戸時代、享保14年(1729)に中川との接続部も閉じられ、垳川は川ではなく川筋のほぼ中央部で北から合流する葛西用水の「溜め」となっていたようである。往昔綾瀬川接続部からこの水門までの「溜め」を「垳小溜井」と称した。「古溜井」とも記される。
綾瀬川
Wikipediaに拠れば、「綾瀬川は戦国時代の頃、荒川の本流であった。太古の頃には荒川は利根川の支流として熊谷辺りで利根川に合わさっていたようだが、共に流路定まらぬ川筋であり、次第に別の流れとなっていったようだ。
江戸の前の頃、当時の荒川は、今の綾瀬川源流の近く、桶川市と久喜市の境まで元荒川の流路をたどり、そこから今の綾瀬川の流路に入った。現在の元荒川下流は、当時星川のものであった。戦国時代にこの間を西から東につなぐ水路が開削されて本流が東に流れるようになり、江戸時代に備前堤が築かれ(慶長年間;1596‐1615)綾瀬川が分離した。この経緯により、一部の地図には綾瀬川(旧荒川)の括弧書きが行われる事がある」とある。
地図を見ると久喜市、桶川市、蓮田市が境を接する辺りにある「備前堤」から南に綾瀬川、東に元荒川が流れ、その元荒川は東に進んだ後、久喜市飛地で星川に合流している。上述Wikipediaの説明を元に推測すると、この備前堤から東に流れる元荒川は「戦国時代に開削された西から東へつなぐ水路」であり、星川との合流地点の下流は、現在は元荒川ではあるが、かつては星川の流れであり、元来の元荒川は備前堤から南に下る綾瀬川筋であった、ということだろう。
国土地理院の「治水地形図」を見ると、いつだったか歩いた古綾瀬確川筋から毛長川合流天あたりまで、見事に乱流している。流路定まることのない、「あやし川」と呼ばれた所以である。この乱流路も古綾瀬川から下流は上述の如く、江戸の頃直線化工事がなされている。
垳川
「がけかわ」と読むこの名の由来は?垳地区を流れるからであろうが、そもそも「垳」の意味は。この漢字は本来中国からもたらされた漢字ではなく、峠などと同じく日本で造られた国字とのこと。
「土」+「行(く)」>土が行く>土が崩れる>水がカケ(捌け)る様子が起源となり、水が流れるとき「土」が流されて「行」く、といった意味があるようだ。 現在、所謂「がけ」には崖という感じがあてられるが、江戸時代中期までは一定でなく、「崖」の他、「峪」、「岨」、「碊」などの漢字があてられたという。「垳」もそのひとつであったよう。「崖」と言えば切り立った斜面のイメージがあるが、土が削り取られた結果としての形と思えばそんなに違和感はない。
垳という字は、垳川と垳という地名以外に使われることはないようだ。
「垳」がこの地に残る故、当用漢字として残されているが、「青葉」という地名に変わる可能性もあるとのこと。暴れ川の綾瀬川によって土が流された、といった地形のニュアンスを伝える地名が消え去るとすれば、ちょっと残念ではある。

垳川排水機場
垳川左岸を東に向かい中川筋に。中川との合流点に垳川排水機場がある。昭和57年(1979)に完成した。現在は「溜め」となった垳川の水を、増水時にポンプで中川に水を流している。
旧小溜井排水機場・垳川排水機場
垳川の両端、綾瀬川との接続部に旧小溜井排水機場(平成7年(1995)に閉鎖された)、中川との接続部に垳川排水機場がある。排水機場と言う以上、垳川の水を両河川に排水していたことになる。これってどういうこと?
チェックすると垳川は中程にある葛西用水の合流点あたりが最も標高が高かったとのこと。垳川の水は東西に分かれ、両排水機場を通して両河川(綾瀬川と中川)に排水されていたようだ。
平成7年(1995)に旧小溜井排水機場閉鎖された。葛西用水合流部が最も水位が高いとすれば、東に流れる垳川の水は垳川排水機場のポンプ、また排水機場近くの稲荷下樋管の自然流下により中川に排水されるだろうからいいものの。葛西用水合流部から西、旧小溜井排水機場までの間は水が滞留し水質が悪くなる。実際その滞留環境の溜井には生活排水などが流れ込み水質が悪化したようだ。
その対策として平成20年(2008)より水質改善の実験的取り組みが行われ、潮の干満による水位差を利用して綾瀬川から垳川に通水、浚渫などが実施された。平成26年度(2014)からの本格的運用に際しては、通水量の問題、またそもそもの綾瀬川の水質の問題などが取り上げられているようである。

稲荷下樋菅
中川排水機場の南傍に稲荷下樋菅がある。中川の土手に立つ操作室は煉瓦造り。垳川の水を自然流下で中川に流すとのことだが、水門は閉じられていた。稲荷下樋管がいつの頃できたかの資料は確認できなかったが、理屈からいえば八潮市の都市化の進展に伴い、自然流下だけでの排水では洪水対策が不十分となり、垳川排水機場がつくられたのだろう。
大場川水門
中川の対岸に大場川水門が見える。かつて小合川合流点で東西に分かれた古利根川が、綾瀬川筋に注いだ箇所あたりだろうか。現在小合川筋には大場川が流れる。
大場川は吉川に源流を発し、かつては江戸川に注いでいた。天明3(1783)年の浅間山噴火以来、江戸川の河床が上昇し排水条件は年々悪くなり、二郷半領の悪水落としのため寛政4(1792)年新たな堀を開削したとのことであるから、そのころまでには大場川は現在の流れ、小合川筋へと下る流れとなっていたのだろう。

神明六木遊歩道
垳川の南岸に沿って続く神明六木遊歩道を先回の散歩の終了点、葛西用水が垳川に合流する地点に向かう。六木は中川に接する地区名、神明は綾瀬川に接する地区名である。 左手に水車公園などを見遣りながら進み、葛西用水桜通りが垳川を越える「ふれあい桜橋」を潜る。橋を見上げると東京ガスの管が通る。何気に通る橋だが、水道管やガス管といったインフラ設備が川に遮られ地下から顔を出す。

垳川・葛西用水交差部
ふれあい桜橋を潜ると北から葛西用水が流れ込む。垳川の南側から葛西用水の合流部を確認し遊歩道を進むと水路があり水門が設けられている。水門は葛西第一水門という。往昔垳川を越え南に下った葛西用水の水門である。
葛西第一水門
この水門、現在は洪水時の水量調整以外は基本閉じられており、用水には南の花畑運河の水を流している、といった記事もあったが、完全に閉じられているようにしか見えない。南に下る水路の川床は垳川の水面よりずっと高く、錆びついたように見える水門を開けたとしても水が流れようもない。かつての用水路はその機能を終えているように思える。水路には土が積り草木も茂っていた。
小溜井引入水門
葛西第一水門のすぐ傍、葛西用水が垳川に合流する地点のすぐ上流に小溜井引入水門がある。かつては現在のふれあい桜橋のところにあった葛西第二水門で堰止めた用水を、水門より西側の小溜井(綾瀬川接続部からこの水門までの呼称)へと「引き入れて」いたのだろう。現在は基本開けっ放しで水門の機能を果たしていない。撤去の話もある、との記事もあった。

葛西用水
第一フェーズ;亀有溜井戸
そもそも、葛西の地をはるか 離れた地・埼玉の行田から延々と葛西の地に下る用水を葛西用水とするのは、この用水のはじまりが葛西領を潤した亀有溜井をもってその嚆矢とする故である。
文禄2年(1593),利根川東遷第一次の工事として伊奈忠次は当時の会の川を川俣地点で締切り,浅間川筋に落とし、川口(加須市川口地内)の地で二流に分ける。その主流は渡良瀬川の水も合わせ東へと、現在の中川の川筋(当時中川という川は、ない)である島川・権現堂川、庄内古川を経て金杉で太日川(現在の江戸川)に落とした。
また西遷事業(寛永6年;1629)施行以前の荒川(現在の元荒川)の水も、川口から南に下った古利根川(現在の大落古利根川)と越谷で合さり、これも小合川を経て太日川に落とし、江戸の町を直接利根川の水害から守るという、利根川東遷事業の当初の目的は果たした。このことは幾度か述べた。
次いで、東遷事業の大きな目的のひとつである新田開発であるが、この目的で最初に設けられたのが「亀有溜井」。工事施行は文禄2年(1593)。利根川東遷事業の第一次工事が始まった年に伊奈忠次により水田開発事業もはじまったということだ。水源は荒川西遷事前で水量豊富な綾瀬川に求め葛飾区新宿で水を溜めて葛西領を潤すことになる。おおよその流路を現在の川に合わせると、綾瀬川>桁川>中川(昔の古利根川)>亀有ということだろう。
第二フェーズ;瓦曽根溜井
慶長19年(1614)には新田開発を上流に伸ばし、荒川(現在の元荒川)本流を越谷の瓦曽根で締切り瓦曽根溜井を築堤し、下流域を潤した。
寛永6年(1629)に伊奈忠治は,荒川の西遷事業を開始。これにより元荒川は水源を失い,瓦曽根溜井の水は枯渇していくことになる。このため幕府は寛永7,8年(1630、1631)頃から,元荒川の加用水として水源を太日川に求め、庄内領中島(幸手市)より中島用水を開削し、寛永18年(1641)になると、太日川を北に掘り抜いた現在の江戸川開削後は,江戸川に圦樋を移し用水を引いた。
中島用水
流路ははっきりしないが、幸手市中島で江戸川の水を取水し、椿・才場・大塚・不動院野・八丁目と下り古利根川に落ちた、とする(落口はもっと上流との記事もあり、はっきりしない)。
第三フェーズ;松伏溜井
中島用水は,現在の春日部市八丁目で古利根川(現在の大落古利根川)に落とされることになる(異説もある)が,下流松伏村に松伏溜井が造られる。ここで堰き止められた水は、その一帯を潤しながらも、その流量のほとんどは松伏溜井の末流大吉村から元荒川までの問に新たに開削された逆川用水に流され,瓦曽根溜井まで送水された。この一連の工事の完成は寛永11年(1633)とされる。
また,この一連の工事により,荒川の瀬替えにより水量が激減していた綾瀬川を水源とする亀有溜井への加用水も可能となる。瓦曽根溜井から一帯を潤していた用水・悪水落を延長し瓦曽根溜井から綾瀬川(古綾瀬川)へと落とす水路(葛西井堀)が完成し、亀有溜井は瓦曽根溜井・松伏溜井と繋がった。
第四フェーズ;川口溜井
承応3年(1654)には利根川東遷による関東平野の治水と利水が一応の安定を得る。それにともない新田開発が一層推進されることになるが,古利根川左岸から旧庄内川の右岸一帯、水源を池沼にゆだねていた幸手領(幸手市,杉戸町,春日部市,鷲宮町)においては用水不足をきたすようになる。
その水源として求めたのが東遷事業の完了した利根川である。万治3年(1660)に古利根川本川の本川俣地点に圦樋を設けて南東に水路を開削し,会の川の旧河道を流し,川口地点に川口溜井(加須市川口地内)を造り,権現堂川(島川)筋の加用水として北側用水を開削した。
この川口溜井は葛西用水の水路というわけではなく、幸手領の灌漑のためのものである。
第五フェーズ;琵琶溜井
さらに,川口溜井から水路を開削して古利根川の河道につなげられ、琵琶溜井(久喜市栗原地内)も造成された。そこに中郷用水と南側用水の2用水が開削され流域の灌漑に供する。
琵琶溜井には幸手用水の余水流しに圦樋が設けられ,青毛堀,備前堀等の悪水と一緒に古利根川(現在の大落古利根川)に落し,下流の松伏溜井への加用水として供した。これをもって幸手領用水とした。

葛西用水の成立
その後,宝永元年(1704)の大洪水の際に中島用水が埋没したため,享保4年(1719),関東郡代伊奈忠蓬は,幸手領用水の加用水として新たに本川俣の少し上流の上川俣の利根川本線に圦樋を設け,幸手領用水に接続させ,川口溜井と琵琶溜井では圦樋を増設して水量を確保した。以来,本川俣および上川俣の利根川取水から葛西井堀末端までを「葛西用水」と称するようになり,ここに関東地方切っての大用水が形成された。

以上が、葛西用水成立の経緯。葛西用水は利根川の東遷事業、荒川の西遷事業と密接に関連しながら、廃川となった荒川(元荒川)や利根川(大落古利根川)の川筋跡を活用し、上流へと延びる新田開発に伴い下流から上流へと水源を求め、最終的に利根川にまでたどり着いた、ということであろう。

葛西用水水路跡
葛西第一水門から南に延びる水路を進む。少し南に下ったあたりで水が川床から現れる。用水路跡を浄化するため南の花畑運河から水を引き入れているとの記事があった。その浄化水の噴出箇所だろう。噴出箇所が花畑運河まで3か所ほど見かけた。
この浄化のための噴出箇所を見で、花見で知られる目黒川の水が落合浄水場から送られる浄化された下水であることを想い起こした。玉川上水もそう。小川監視所より下流は昭島市の多摩川上流水再生センターで高度浄化処理された水を、玉川上水の浄化のために流している。散歩をするとあちこちで高度処理された下水で浄化がおこなわれる河川・用水に出合う。というか、東京の河川で自然湧水を源流とする河川として印象に残るのは、東久留米市の落合川、国立市の矢川などしか思い浮かばない。

花畑運河
南に下ると葛西用水の水路跡は花畑運河に当たる。水路は花畑運河の手前で地中に潜る。葛西用水はこの運河を「伏せ越し(サイフォンの機能)」で潜るとのことだが、伏せ越しでよく見る「呑口」の施設もなく、橋の意匠を模したコンクリートの下に流れこんでいる。 花畑運河は結構広い。江戸の頃直線化工事された綾瀬川と、中川を結ぶ船運のため昭和6年(1931)に開削された運河だが、現在はその機能を終えているとのことである。
花畑運河
花畑運河は綾瀬川と中川を結ぶ、とあるが何故?また、何故その機能を終えた?Wikipediaでチェックする;花畑運河開削のきっかけとなったのは荒川放水路の開削。明治43年(1910)の荒川大洪水で東京が壊滅的打撃を被る。ために首都の治水対策として荒川が隅田川と名を変える北区岩淵の辺りで新たに水路を開削。1913(大正2年)から1930(昭和5年)にかけて、17年がかりの難工事の末に完成した。
この水路開削の結果、首都の治水は一応の安泰をみるが、中川を活用した船運に支障が出た。工事の結果、中川が分断されることになったわけである。地図を見ると、京成高砂駅の西、高砂橋下流で新中川と分かれ蛇行した流れは木根川地区で荒川放水路により分断され、対岸より旧中川として蛇行して南に下っている。かつての中川舟運は隅田川から向島、北十間川を経て旧中川筋、また隅田川から小名木川を経て旧中川筋に入り、中川本流(かつての古利根川筋)を上下していた。この船運が荒川放水路開削に伴い、放水路に設けられた木下川水門で大渋滞を引き起こすことになった。
その対策のため目をつけたのが綾瀬川と繋ぐこと。この花畑運河を開削することにより、中川(古利根川)から綾瀬川に入り南に下り、船堀の綾瀬水門から出て荒川放水路を横断し、千住曙町の隅田水門から隅田川に入れることになった。距離も16キロほど短縮され、舟運の便が飛躍的に改善されたとのことである。
で、舟運で運ばれたものは?にはWikipedia「当時の舟運は穀倉地帯からの食糧の輸送だけでなく、都心から出された大量の糞尿を農耕地帯へと肥料として送り出しており、最盛期には3,800隻近くの運搬船が行き交っていた」とある。そしてこのことが、花畑運河がその機能を終える因でもあった。
「太平洋戦争の終結でGHQが戦後日本の占領統治に乗り出すと様々な改革事業のなかで、農業の肥料に用いられてきた下肥え(糞尿)の使用が漸次化学肥料へと切り替えられていった。これにより下肥えを運搬していた船の数が激減すると花畑運河の利用価値は薄れ」とWikipediaにあった。

葛西用水親水公園
花畑運河にかかる桜木橋を渡る。花畑運河伏せ越しで越えたはずの葛西用水の水は消える。名称も「葛西用水親水公園」となる。ポンプ施設が傍にあったので、時期に応じて水を流すのだろう。その水源が葛西用水か花畑運河のものか不明だが、ともあれ「流れていた」葛西用水の行方を探し、どこで現れるかとりあえず「水気」のある所まで進むことに。
親水公園
ちなみに「親水公園」という名称。いまでこそあちこちに散見する。が、その第一号がいつだったか歩いた江戸川区の古川親水公園であった、とか。汚れた河川は蓋をしたり、埋めたりといった従来の都市河川政策と真逆のこの試み、水と緑に親しめる新しい公園にするこの計画は世界的にも大きく評価される。昭和57年(1982)にナイロビで開催された国連人間環境会議で紹介され、国内外の注目を浴びた。親水公園の第二号は同じく江戸川区にある小松川境川親水公園。

新広橋
この橋の南から突然水が流れる。花畑運河を潜った葛西用水の水は水管でここまで運ばれるのだろうか。現在も伏せ越しの機能が残っているのであればそうではあろうが、確証はない。ともあれ、「水気」を確認し中川筋に戻る。
(なお、これより下流の葛西用水の水路跡は、いつだったか歩いた曳舟川散歩の記事を参照してください。

六木水門
「水気」を確認し中川筋に戻る。ついてのことではあるので、花畑運河の中川接続部の六木水門へ。花畑運河に架かる橋は花見橋とある。綾瀬川接続部の橋名は月見橋、途中には雪見橋といった橋も架かる。
対岸、少し上流に大場水門が見える。

常善院の六面幢(どう)地蔵
中川の堤防をのんびり下る。しばらく歩くと堤防下にお寺さまがある。ちょっと立ち寄り。常善院とあった。山門前の案内に「当寺は、元和年間(1615-1624)宇田川出雲によって創建されたという。江戸時代には、将軍家の鷹狩りの際、御膳所となった由緒ある寺である。 本堂は享和元年(1801)に再建、昭和35年に修復されている。 本尊は、木造不動明王立像、その左に木造金色大日如来像、右に上品上生の阿弥陀如来坐像が安置されている。
境内には、石像物としては非常に珍しい石造六面幢六地蔵をふくむ地蔵群がある。また、高さ25mのイチョウの木は、樹齢およそ三百数十年といわれている。(後略)足立区教育委員会掲示」とあった。
境内に入り本堂にお参り。境内右手に六面幢地蔵。通常の六体並ぶ六地蔵の中央に立つ。先日讃岐の歩き遍路で石の表面に二座ずつ、三段に刻まれた六地蔵に出合ったが、この六面に地蔵名の刻まれた六地蔵もあまり見かけない。
六地蔵は六道輪廻(天道・人道・修羅・畜生・餓鬼・地獄)する衆生を救済するもの。正面に刻まれた法印地蔵は修羅道の担当地蔵さまである。
六面幢地蔵
幢は旗章(私注;旗印し)を意味し,インドではこれを石面に表してストゥーパや仏殿の前に立てた。中国へは唐・宋時代に伝わり,蓮華座の基台の上に《仏頂尊勝陀羅尼経》を刻んだ八角の長い石柱を立て,その上に中台,仏龕(ぶつがん),笠,宝珠をのせた大理石製の石造物をつくることが流行した。日本にもこの形式の石造物が導入されたが,幢柱に経文を刻まず,地蔵信仰と結び付いて幢,仏龕ともに六角につくられ,一見石灯籠に似た小型のものが多くつくられた。(デジタル大辞典)」

飯塚橋
中川筋に戻るとすぐに都道307号・飯塚橋。創架は昭和35年(1955)。現在は二代目の橋。飯塚橋が架かるまでは、この地に「飯塚の渡し」があった。3キロほど下流には中川の渡し(新宿の渡し)があり、そこが正式な佐倉街道であったため、この飯塚の渡しの道筋は、佐倉裏街道とも称された。
所説あるようだが、幕末に新選組が流山に向かう道筋として、この渡しを通った、とも。道筋は足立区綾瀬の五兵衛新田から、北三谷、大谷田を通って飯塚の渡しから水元、三郷へ出て丹後の渡しで江戸川を越えて流山へ向かったとする。流山を抵抗の拠点とするつもりであったよう。
で、飯塚といえば、いつだったかこの地の対岸を小合溜井から歩いたとき、誠に立派な富士塚(飯塚の富士塚)があった。未だにその印象が残っている。

鹿浜線中川水管橋
都道307号・飯塚橋を超えると水管橋がある。鹿浜線中川水管橋とある。葛飾区の金町浄水場から中川を越え、足立区の小右衛門給水場(給水エリアは足立区、荒川区及び台東区 )、江北給水場(整備済:給水エリア;足立区)、北区の王子給水場(整備中)へと水道水を送るようである。
これらの地域には、金町浄水場から一系統で給水していたが、給水エリアが広く、災害・事故などによる断水・濁水の影響が大であり、ために、昭和50年(1975)代から配水区域を5つに分割し、各地域に拠点となる給水所を整備するとともに二系統の受水ネットワークを整備中、とのこと。小右衛門給水場、江北給水場、王子給水場はその拠点配水場。金町浄水場だけでなく、三郷浄水場とも繋がることとなる。
因みにこの水管橋は地震対策の一環として撤去される、とも。

中川水再生センター
少し下ると中川の堤防に排水施設が見える。中川排水樋菅と呼ばれるようだ。昭和57年(1982)竣工。樋菅はどこから繋がっているのだろうと堤防内側を見ると水利施設がある。 そこには「中川水再生センター」とのプレートがあった。地図を見ると堤防端の施設の西側には大きな水再生センターの建物・敷地がある。この排水樋菅にはこの再生センターからの浄化水が流されているのだろうか。
中川水再生センター
処理区域は足立区の大部分と葛飾区の一部(ほぼ常磐線以北)。この区域の大部分は雨水と汚水を別々の下水道管で集める「分流式下水道」となっており、雨水は直接川に、汚水は再生センターで処理し中川に流す。
なお、このセンターでは雨水も集め、ごみや土砂を取り除いた後、ポンプで川に流す、とのことである。

中川水管橋
堤防左手に中川氷川神社を見やりながら進むと、再び水管橋がある。昭和46年(1971)にできた中川水管橋。この水管橋は工業用水を通す、と。水管とキャットウォークの間の小さな管には「おすい」と書かれている。土手傍の中川水再生センター(下水処理場)に集めているのだろうか。
東京都の工業用水
東京都の工業用水のネットワークはどうなっているのだろう?チェックすると、浄水場は板橋区高島平にある三園浄水場と世田谷区玉川の玉川浄水場しか記されていない。基本、三園浄水場で荒川から原水の約9割、玉川浄水場で多摩川から約1割を取水し、三園浄水場の配水池でブレンドし、給水する。
その給水エリアであるが、都域全部ではなく都域の北部と東部となっている。荒川沿いの墨田区、江東区、北区、荒川区、板橋区、足立区、葛飾区及び江戸 川区の8区並びに練馬区の一部であり、大雑把に言って東京の下町地区が中心のようである。
何故?チェックすると、工業用水供給のきっかけが、地下水くみ上げにともなって生じた地盤沈下防止することにあった。地下水の揚水規制に伴う代替水を供給する行政施策として工業用水を供給することになったわけである。
昭和39年(1964)に江東地区(墨田区、江東区及び荒川区の全域と江戸川区及び足立区の一部 )で給水を開始し、昭和46年(1971)には、 城北地区(北区、板橋区、葛飾区の全域と足立区の大部分)でも給水を開始した。その施策により、昭和50年(1975)代以降、地盤沈下はほぼ沈静化し所期の目的は達成された。
工業用水の需要も、昭和49(1974)年度をピークに減少傾向に転じる。国の産業立地政策や各種公害規制の強化による工場の都外への転出、水使用の合理化の進行等がその因である。
施設能力に大幅な余剰が生じたため、昭和55年(1980)に南砂町浄水場を廃止。昭和58年(1983)に三園浄水場の施設能力を縮小、昭和62年(1987)には江北浄水場を休止し、経営改善を図るも経営状況が厳しく、施設の大規模更新時期の到来が間近に迫る一方、今後も需要の増加が見通せないことから、都の工業用水事業は廃止の判断が下される。地盤沈下防止という所期の目的を達成した都の工業用水道事業は平成34年(令和4年)をもって廃止となる。
地盤沈下防止という所期の目的を達成した都の工業用水道事業は平成34年(令和4年)をもって廃止となる。工業用水のネットワークをチェックしていたら、思いがけない政策決定に出会うことになった。

水元給水線・送電線鉄塔
中川水管橋から少し下ると堤防に送電線鉄塔が立つ。川の対岸にも鉄塔。送電線はどこに延びているのだろう?空を見上げても何も見えない。送電線鉄塔も中川堤防の両岸に立つものの他、見つけることができない。どうなっているの?
チェックすると、この送電線鉄塔は水元給水線の鉄塔。送電線は両岸の鉄塔までは地下を潜り、中川に遮られ、この部分だけ架空となってその姿を現す。
中川を渡った送電線は再び地下に潜り、水元給水線(水元給水所変電所に)、葛飾清掃線(葛飾清掃工場変電所に)にわかれるようだ。
中川右岸が2号鉄塔、左岸が3号鉄塔。1号鉄塔は足立区にあり、東亀有線13号鉄塔より分岐する。東亀有線は東亀有線は東京都足立区の青井線8番鉄塔から東京都足立区の東亀有変電所を結ぶ路線であり。。。、と送電線網はとこまでも続くため、このあたりで思考停止としておく。

常磐線鉄橋
更に少し下ると常磐線の鉄橋にあたる。鉄橋が中川を渡った対岸を見ていると、ビルや民家の立て込むところに送電線鉄塔が見える。その周辺には送電線鉄塔も見えず、しかも送電線が斜め下方向に降りている。なんだこれは?民家のど真ん中に降りては危険では? なんだか気になり、古隅田川との分岐点を繋いだ後、その送電線鉄塔まで行くことにする。現場を見れば、なんらかその因がわかるかも、と。

古隅田川分岐点
常磐線鉄橋を潜り、少し堤防を下ると旧古利根川筋の古隅田川の分岐点に。接続部は埋め立てられ水路は見えない。暗渠といった水路跡の名残も見当たらない。排水施設もなく、古隅田川跡と繋いだ、といった実感には少々乏しいが、これで羽生から辿った古利根川筋散歩は終了。スタート時から1年半と結構時間が空いたため感慨もほどほど。
(古隅田川のメモは2回()にわけて歩いた記事をご覧ください)


中川左岸に
古利根川散歩を終えたが、先ほどの奇妙な送電線が気になり、中川左岸に移る。堤防沿いの民家にはMY Approachといった通路が道から玄関へとつながっているものが多い。洪水対策で堤防が高く、低地に建つ民家との高低ギャップがその因だろうか。


JR小岩線送電線鉄塔
送電線が民家のすぐ上に見える
JR新金貨物船踏切からのJR小岩線4号鉄塔
中川堤沿いの道を離れ、民家の上に時に顔を出す送電線鉄塔を追う。成り行きで進むとJR新金貨物線(金町と新小岩を結ぶ)の新宿道踏切に出た。線路の北に送電線鉄塔が見えており、送電線は線路上をまたぐ門型鉄塔に繋がっているように見える。

JR小岩線4号号鉄塔
線路上の門型鉄塔
その送電線鉄塔はどこと繋がっているのだろう。さらに民家脇に入り込み送電線鉄塔に近づくと、JR金町駅傍にある鉄塔と繋がっていた。その先にJR金町変電所があり、常磐線北側に2号、3号鉄塔が立ち、常磐線を跨いで4号鉄塔。これが最初に目にした鉄塔。そこから線路上の門型鉄塔に下り、線路上を東京都江戸川区のJR小岩変電所へと繋がっているようである。
遠くから眺めたとき送電線が斜め下に落ちていたのは、線路の上を進むため。であれば高い鉄塔の必要はない、ということだった。
金町変電所2号鉄塔
JR小岩線3号鉄塔
因みに、JR金町変電所の送電線鉄塔の先に送電線鉄塔は見当たらない。?? チェックすると、線路脇のダクトや地下を潜りJR金町変電所へと送電されているとのこと。武蔵境のJR東源,TEPCOなどの電源が戸田駅構内にある「戸田開閉所(開閉所には、送電線と発電所をつなぐ電気を入・切するスイッチ(開閉器)が設置されている)」に合流し、赤羽駅をダクトで通過し埼京線が東北線、高崎線から分かれるところでダクトから外れ地中に下りて金町へとつながっているようである。

JR常磐線・金町駅
気になった送電線鉄塔の「謎」も解決し、JR常磐線・金町駅へと向かう。金町駅は平成21年(2009)、南に柴又帝釈天に訪れ、北に小合溜井散歩に下車して以来。
金町の地名の由来ははっきりしない。『東京の地名;筒井巧(河出書房新社)』には「 金町は江戸時代の宿場町新宿(理科大の住所)を通る水戸街道が防衛上の理由で鉤の手状に曲げられていたことに端を発する。そこからその道が大工の使う曲尺(カネジャク)に似ていることで新宿の南側が曲金(マガリカネ)と呼ばれるに至る。そこで推測するに金町も曲町(カナマチ)の意から字が変わったのだろう」とある。
何となくそうかな、とも思ったのだが、室町時代1325年の「三浦和田文書」には、既に「下総国金町郷」という地名の記述があり、その由来は不詳との記事があった。江戸よりはるか昔から「金町」の地名があるとすれば、江戸時代の曲金云々由来は次期的に間尺に合わない。結局わからないということ戻ってしまった。

それはそれとして、そもそも「金町」の「町」がよくわからない。金町郷とある以上、現在われわれが抱く、村に対する町=市街といった「町」ではないだろう。Wikipediaによれば「田を区切る畔といった原義から、奈良の頃、都の一区画、職能集団の住む一画を神祇町、木工町と呼ばれ、平安末期になり「区画」から「商業地」を指して「町」と呼ばれるようになった、とのこと。
そして、鎌倉期には町人、町屋といった詞が現れ、都会的な場を「町」と呼ぶようになった」とある。
Wikipediaには「金町は金町は古くは金町郷といい、下総国香取神宮領の中心地として栄え、古利根川沿いの鎌倉街道に面した町屋が形成されていた。その後、金町屋と呼ばれていた時期を経て後に金町村になる」とある。金町の町は「町屋」に由来するように思えるが、今度は「金」の由来は不明。少し寝かしておこう。そのうちわかる、かも。

あれこれ寄り道が多くなった。長きにわたる古利根川散歩の締めくくりとしては少々収まりがよくないのだが、これも基本成り行き任せ、フックがかかったことを深堀りする散歩のスタイル故、致し方なし。とりあえずこれで古利根川散歩の大団円とする。

土曜日, 1月 19, 2019

埼玉 古利根川散歩;中川筋を吉川から八潮へ

利根川東遷事業により瀬替えされた元の利根川本流(古利根川)を辿る散歩も、その東遷事業の嚆矢となる羽生市の会の川締め切り跡(異説もある)からはじめ、東遷事業により源頭部を失った元の利根川(古利根川)の廃川跡、といってもその廃川跡はその後の新田開発のため葛西用水、また葛西用水の送水路として大落古利根川となって整備されているのだが、ともあれ、その廃川跡を春日部まで下り、春日部で大落古利根川を離れ古利根川筋である古隅田川に。古隅田川筋を辿り大落古利根川筋から元荒川筋に移り、越谷を抜け元荒川が中川に合流する吉川市へと下って来た。

で、今回から下る中川であるが、この川は昔からあった自然の川ではない。利根川東遷事業により取り残された河川を利水のために繋いだ人工の川である。大雑把に言って、上流部は利根川東遷事業によって取り残された島川や庄内古川と言った幾つかの河川、下流部は東遷事業以前に江戸に流れ込んでいた利根川本流である古利根川筋を繋いで整備されたものである。
上流部では廃川となっていた権現堂川の河道を整備し島川と繋ぎ、権現堂川筋から庄内古川は新たに6キロほど開削し両河川を繋いだと言う。
下流部では元荒川が中川に合流する吉川の少し上流で、庄内古川と大落古利根川を繋いだ。元は江戸川に落としていた庄内古川の水を、その水捌けの悪さ故に落とし先を大落古利根川に変え、松伏の大川戸から下赤岩までの4キロ弱を開削し両川を繋いだわけである。
これらの工事は大正5年(1916)から昭和4年(1929)にかけて実施されたようであり、中川の誕生はそんなに昔のことではないようだ。
因みに、かつての利根川の主流は春日部から古利隅田川筋に流れていたようであり、古隅田川以南の大落古利根川は支川といったもの、といった記事をどこかで目にしたことがある。ということは、古隅田川との分岐点以南の大落古利根川も庄内古川との繋ぎ分岐点まで、上記工事期間中に開削・整備工事がなされたということであろうか。
それはともあれ、現在では中川となっている古利根川筋を吉川から八潮に向けて下ることにする。

本日のルート:武蔵野線・吉川駅>新中川水管橋>東京電力送電線・小松川線鉄塔>道庭緑地>二郷半領用水>彦糸公民館の庚申塔>七芳弁天社>内田排水樋管>中堰排水樋管(排水機場)>ガス導管専用橋>八潮排水機場傍の石塔>八潮排水機場>中川合流点の綾瀬川放水路・八潮水門>久伊豆神社>八条用水>葛西用水(南部葛西用水)と合流>ふれあい桜橋>葛西第一水門>小溜井引入水門>成田エクスプレス・八潮駅

武蔵野線・吉川駅
先回散歩の最終地点である武蔵野線・吉川駅に。南口に降り、成り行きで中川筋に向かう。
吉川は葦川(あしかわ)から。葦の生い茂る川。あし>悪し、と語呂が悪いからと、よし(良し)かわ>吉川に。するめ>あたりめ、亀無し>亀梨(なし)>亀有と転化したものと同じ命名パターン。
ついでのことながら、本日の目的地である八潮は八条・八幡村と潮止村とが合併し、両者痛み分けの八潮に。この命名法も市町村合併時によくあるパターンである。
八潮は海抜2m。潮止村は東京湾の潮がここまで遡上してきた故の村名。潮止橋の名が残る、と言う。
武蔵野線
横浜市鶴見区の鶴見駅と千葉県船橋市の西船橋駅を結ぶ。鶴見駅と府中本町間(武蔵野南線)は臨時列車を除き基本貨物専用線、府中本町と西船橋間は貨物・旅客兼用路線となっている。なお、西船橋から京葉線と繋がり東京まで結ばれている。
この路線は元々山手貨物線(現在の湘南新宿ラインが走っている線路)の迂回路線として戦前に企画されたが、戦争で計画は凍結。戦後になり昭和39年(1964)着工、昭和48年(1973)に府中本町・新松戸間が貨物・旅客兼用として開通。昭和51年(1976)には府中本町・鶴見間が貨物専用線として開通。昭和53年(1978)には新松戸・西船橋間が旅客専用線として開通した。
当初の府中本町・新松戸間は貨物線がメーンとしてスタートしたが、貨物輸送の減少・近隣地域の人口の増加に伴い、現在では旅客輸送が増便されている。 一方、府中本町・鶴見間の通称武蔵野南線は基本的に貨物専用である。昭和42年(1967)新宿駅構内でジェット戦闘機用燃料を積んだ貨物列車の脱線・炎上事故が起きた。当時、立川にある米空軍基地のジェット戦闘機用燃料は山手貨物線を経て輸送されていたわけだが、都心での爆発事故の教訓から郊外を走る武蔵野貨物線の完成が急がれたようである。現在では米軍のジェット戦闘機用燃料は武蔵野南線・南武線を経由し拝島から横田基地へ送られているようである。

新中川水管橋
木売地区を進み中川の堤に出る。木売地区から高富地区に下る。上流は武蔵野線の鉄橋、下流には4連続アーチの橋が見える。近づくと橋の両側に水管が見える。水管橋であった。
新中川水管橋と称されるこの橋は、新三郷浄水場から県南東部へ水を送る。左岸吉川市から右岸越谷市側へと水を送るこの水管橋は、人が渡れる人道橋ともなっていた。
地盤沈下を避けるため江戸川より取水した新三郷浄水場の水は、三郷市、吉川市、草加市、越谷市、川口市、八潮市の約110万人に水道水を供する。
木売(きうり)
「地名のおこりは明らかではないが、古利根川沿いの自然堤防にあって早くより開けていたと思われ、一時的な領土の境界が近くにあって、その境としての柵(キ)とか城(キ)があり、ウリを浦(ウラ)と解せば、河や水の引いてあるところ、柵浦(キウラ)とすれば川が境界とするところと解釈ができ、その後に木売の字を用いた説と、舟着き場として木材の集散地として起こった説があるが、両方の説も明らかではない(吉川市のHP)」

東京電力送電線・小松川線鉄塔
高久、中曽根、道庭(どうにわ)と下る。道庭地区の南端、地図に中川に繋がるような水路跡がある。が、その地に至るも中川に排水口とか取水口といったものは見えない。また、水路も見えず柵に囲まれた緑地となっており、そこには一直線に東に延びる送電線鉄塔が並ぶ。逆の中川右岸には、遮るものとてない平野に送電線鉄塔が連なる。
送電線はどこからどこへ続くのだろう。何となく気になりチェックする。東京電力送電線・小松川線鉄塔と呼ばれるようだ。東京電力送電線・小松川線は北葛飾変電所から小松川変電所まで130の送電線鉄塔で電気を送る。??川市にある北葛飾変電所からスタートし、吉川市>三郷市>??川市>(中川を跨ぎ)>草加市>(綾瀬川を跨ぎ)>八潮市>(中川を跨ぎ)>三郷市>東京都葛飾区>(江戸川を跨ぎ)>千葉県松戸市>(江戸川を跨ぎ)>東京都葛飾区>東京都江戸川区>小松川変電所へと続く、とのことである。
小松川変電所のある東京都江戸川区を結ぶには真すぐ南に進めばいいものを、あっちこっちと進むのは、途中の変電所や他線への分岐などがその要因だろうか。
北葛飾
北葛飾変電所の由来は、往昔の北葛飾郡からの命名だろう。古代の下総国北葛飾郡が江戸の頃、利根川東遷事業により利根川の西となり、武蔵国に編入される。さらに明治の頃、その北部の埼玉県域を北葛飾郡、東京府域を南葛飾郡とした、と。
高久(たかひさ)
「地名のおこりは明らかではないが、高久の久を(ク)と呼ぶことによって、潰れる、切れるという意味があるようで、これらを引用すると古利根川の荒れるがままに、たびたび堤防が切れたりすることがあり、久しく高い所であってほしいという語をもって前の地名を高久の字をもって変えたことがあったのではないかと思われるが、前の地名が残されていない現在では地名を想像するしかない(吉川市のHP)」
中曽根
「中曽根のソネの意味には岬の意味があるところからすれば、古くは東京湾がこの近辺まで入り込んでいたころには小さな美しい岬を、あるいは古利根川の流域の変遷による河川の分岐点としての一つの岬をなしていたのではないかと思われる(吉川市のHP)」

道庭緑地
水路は見えず、代わりに送電線鉄塔が並ぶ緑地が気になりちょっと立ち寄る。地図で見れば水路は二郷半領用水と繋がっているように見える。送電線鉄塔が水路上に建つとも思えないが、緑地がどこで切れているのだろう?との好奇心から。 桜並木となっている緑地を進むが、水路が現れる気配はなく、結局二郷半領用水にあたるところまで水路が開くことはなかった。
地理院地図にある水路は?
この緑地は道庭緑地と呼ばれ、吉川市と三郷市の境となっている。それはそれでいいのだが、地理院地図に記されている水路は?地図では二郷半領用水と繋がっているように見えるが、中川に吐口はなかったように思う。
二郷半領用水の支川ではなく、中川堤防側から二郷半領用水に水が流れていたのだろうか?が、明治中期に作成された関東平野迅速図にも水路の記載はない。 地理院の治水地形分類図を見ると、この水路(?)の中頃の南北は自然堤防に囲まれた氾濫原として示されている。氾濫原に溜まる水の吐口・悪水落としの水路だったのだろうか?まったくわからない。
ついでのことながら、送電線鉄塔用敷地としての整備がいつ頃実施されたか定かではないが、地理院の「空中写真〈1984〉」にはそれらしき敷地が見える。
道庭(どうにわ)
「古くはドバと呼んだのを後世に道庭の文字をあてたものと思われる。ドバの意味には平らな地形という意があり、おそらくは古利根川沿いの砂地で流域の変化によってできた自然堤防上の平地をなしていただろうことが推測される(吉川市のHP)」

二郷半領用水
送電線鉄塔敷地は県道67号で途切れるが、その先も武蔵野線辺りまで続く。武蔵野線を越えた送電線鉄塔はその先で北に折れ大場川手前の北葛飾変電所へと続く。
それはともあれ、県道67号と合わさる送電線鉄塔敷地の北に二郷半両用水が見える。用水は緑道となっており、県道を越え緩やかな弧を描き南へ下る。弧を描く理由は?地理院の治水地形分類図には氾濫原と自然堤防の境が弧を描く。用水路はその境に沿って下る。分水を容易にするため、少しでも標高いところを選んだ流路となっているのだろうか。
緑道に「二郷半緑道」の案内。「由来 吉川市や三郷市の二郷半領用水路一帯は、かつて「二郷半領」と呼ばれ、三輪野江地区にある定勝寺にある銅鐘(寛文9年〈1669〉制作)の銘文中に、「吉川、彦成ノ二郷アリ諸邑戸コレニ属ス。而シテ彦成以南ヲ下半郷ト称ス。故ニ二郷半ノ名」とあり、二郷半領の由来が刻まれています。
経緯 この地域は江戸幕府の直轄領であり、早稲米の産地として栄え、収穫したコメを江戸に運ぶため、中川を利用した舟運で大いに賑わいました。
しかし、中川・江戸川に挟まれた低地であるため、度々水害に悩まされていました。このため、幾多の灌漑排水事業を行ったことにより、豊かな穀倉地帯となりました。
この二郷半緑道は、国営利根中央農業利水事業の水路整備に伴い、余剰地を有効に活用し、憩い安らげる場所として整備された緑道です」とあった。
●二郷半領用水の取水口
現在の主取水口は松伏町大川戸の二郷半領揚水機場(平成15年(2003)から)。水源を利根大堰に求め、用水は埼玉用水路、葛西用水路を経由して一旦大落古利根川に注水する。これを大落古利根川に新設した二郷半領用水機場で取水し吉川市、三郷市へと進み、三郷放水路を越え、第二大場川と合流した先で大場川と合流する閘門橋(猿又閘門)へと下る。
寛永年間(1624~43)に開削された当時の二郷半領用水の取水口は、現在の野田橋辺りの江戸川右岸にあった。この地で自然取水されていた用水も、昭和14年(1939)頃から江戸川の水位の低下により取水が困難となり、昭和21年(1946)から26年(1951)にかけて県営かんがい排水事業により中川に渇水時用の機場を設けることになる。
その後、この中川の機場も老朽化のため取水に支障をきたし、昭和42年(1967)に県営事業により、江戸川の取水口の改修をおこない、また揚水機4台を新設し再び江戸川から取水することになった。
しかし、その後も江戸川の河床低下は続き、水位低下により不足する水量は中川の機場を暫定的に使用して補ったようであるが、江戸川から取水する揚水機場の老朽化・施設の廃止もあり、安定的な水源確保のため新たにその水源を利根大堰に求め、現在に至る。
二郷半と三郷
二郷半とは、かつてのふたつの郷(郷はいくつかの村を合わせたもの)と、郷とするには少々戸数の少ない故の半郷を合わせたものとのことであった。
で、二郷半領と三郷、けっこう近い。二郷半領と三郷の関係は?まったく関係なし。昭和31年(1956)に三つの村が合併するに際し、三村からの「三」と、二郷半領であった故の「郷」を合わせて三郷村とした、と。
三郷団地
ゆるやかにカーブする二郷半領用水の東、自然堤防上に三郷団地(現在はみさと団地)が並ぶ。昭和48年(1973)より入居が開始された日本有数のマンモス団地である。ピーク時には2万3千余りの入居者がいた、とのこと。
それはそれでいいのだが、通勤の足。上の武蔵野線のメモで、昭和48年(1973)に府中本町・新松戸間が貨物・旅客兼用として開通したと記した。が、この当時現在の新三郷駅はなく、貨物の武蔵野操車場があった。通勤の足は武蔵野線・三郷駅へのバスであったようである。
駅ができたのは昭和60年(1985)。貨物操車場を廃止したためだが、開業当時の駅は、広大な操車場の南北に分かれ、上下線のプラットフォームは300mも離れていたようだ。世界一離れたプラットフォームとして平成6年(1994)にはギネスに登録されている。上下線がひとつにまとまった駅(北側に合わせる)となったのは平成11年(1999)のことである。現在操車場敷地跡には商業施設が建っている。

彦糸公民館の庚申塔
二郷半領用水で折り返し中川筋に戻る。成り行きで中川筋への道を進むと、途中「実相院・東福寺」と記された建物があった。敷地内にはお堂や石仏が並ぶが寺はない。廃寺となり現在三郷市彦糸公民館となっていた。敷地東には七芳弁天社があり、東福寺は七芳弁天社の別当寺とのこと。敷地は東福寺の跡地とも言われる。
境内の観音堂、地蔵堂にお参り。並ぶ石仏の中に青面金剛が刻まれた庚申塔があった。憤怒の形相の青面金剛が多いが、この像は穏やかな顔である。台座に刻まれた三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)がはっきり見える。何故に庚申塔に三猿?またそもそも何故に庚申塔に青面金剛?
庚申塔と三猿
庚申塔と三猿の関係は?庚申(かのえさる)からとも、また庚申の夜、天帝に宿主の罪を告げ口する三尸(さんし)の虫に己が罪を見なかった、聞かなかった、そして告げ口しないで、との願いから、とも。
道教では人には魂(コン)、魄(ハク)、三尸(さんし)という三つの霊が宿る、と言う。宿主が亡くなると魂(コン)は天に、魄(ハク)は地下に戻る。幽霊の決まり文句「恨めしや~、コンパクこの世にとどまりて恨みはらさずおくものか~」のコンパクがそれ。
三尸は宿主が亡くなると自由になれるとされる。自由になりたいがため、宿主がむなしくなることを待ち望むわけだ。この三尸、旧暦の60日ほどで一回というから、年に6,7回巡りくる庚申(かのえさる)の日、人が眠りにつくと宿主の体を抜け出す。天帝に宿主の罪を告げるためだが、そのレポートにより天帝は宿主の寿命を決める、とか。
宿主をむなしくし、はやく自由になりたい三尸に、あることないこと告げ口されたらかなわんと、人は寝ないで朝を迎えた。これが庚申待ち。眠らなければ三尸は体を抜けだすことができないためである。
庚申塔と青面金剛
で、庚申塔と青面金剛の関係は? 道教の天帝を仏教では帝釈天とみなすようであり、青面金剛がその帝釈天の使者であるが故と。また三尸の語呂合わせでもないだろうが、伝尸病(でんし;結核)に霊験あらたかとされるのが青面金剛であった故、とも。

七芳弁天社
彦糸公民館の西隣に七芳弁天社が祀られる。付近には三郷七福神巡りの幟が並んでおり、小振りではあるがこの七芳弁天社がそのひとつであろうかと思ったのだが、どうもそうではないようだ。そこから少し北東、道庭緑地に面した安養寺に弁天社が祀られる。
三郷七福神は3つの地区に分かれており、ここはそのひとつである「彦成巡り」のコースであった。
彦糸
この地区は「彦糸」、七福神巡りは「彦成巡り」。三郷には「彦」がつく地名が多い。地図を見ると彦糸、彦音、彦成、彦名、彦川戸、彦倉、彦沢、彦江などが目につく。おおよそ中川に沿って連なる。
由来は、引く>連なるにあるようだ。中川(元の利根川)と江戸川にはさまれた低地である三郷は、流路定まらぬ河川の氾濫により自然堤防や後背湿地が発達し連なっている。このような連なる自然堤防・後背湿地よりなる〈成る〉という地形から彦成村が出来、その大字として彦を冠した地名がつくられたようである。
自然堤防が連なるところは、この三郷以外にも数多くあるのだが、こういった命名パターンははじめて。何故にこの地だけに?わからない。

内田排水樋管
中川筋に戻り堤防を少し下ると内田排水樋管のプレートがある水門がある。堤防に向かって住宅の間を排水路が通っている。上述の道庭緑地の箇所には吐口がなかったが、ひょっとしてここに落としている?
あれこれチェックすると、埼玉県の作成した「川の国 埼玉はつらつプロジェクト「二郷半領用水地区」」の地図には水路と繋がる内田川という小川が記されている。そこから繋がっているのだろうか。そうであれば、上述の道庭緑地に記された「消えた」水路は、東の二郷半領用水へ水を落とすのではなく、二郷半領用水から分水された水が西へと流れこの地で中川に落とされることになる。
真偽のほどは別にして、あれこれと妄想を巡らすのは結構楽しい。

中堰排水樋管(排水機場)
彦音、彦成と下り県道29号八条橋の手前に中堰排水樋管の水門がある。堤防内部には中堰排水機場も見える。三郷市に限ったことではないのだが、低地部の治水施設はどうなっているのだろう?チェックすると三郷市には47の排水樋管、排水機場、調整池があった。
埼玉県南東部の中川・綾瀬川流域は、利根川、江戸川、荒川 に囲まれ、水がたまりやすい『お皿』 のような地形となっている。そのうちこの三郷市は東側に江戸川、西側には中川が流れ、市内を北から南に大場川さらに第二大場川が流れる。東側を流れる江戸川(の水位)が高く、そこから西側の地形は低いため、中川などの河川が増水した場合、水はけを行うことが難しく、たびたび氾濫が発生していた、とのこと。その治水対策として47もの施設が整備されている、ということだろう。

ガス導管専用橋
県道29号八条橋を渡り中川右岸に。市域は八潮市となる。中川に沿った土径に入り成り行きで進む。釣り人を見遣りながら外環道中川橋梁、それに並走する国道298号潮郷橋を潜り更に先に進むが、ブッシュが激しく撤退。ブッシュの向こうに見える水管橋らしき橋辺りまで行こうとしたのだが、諦めて右岸堤防に上がり県道102号に入ることにした。
メモの段階でチェックすると、ブッシュの先に見えたのは水管橋ではなくガス導管橋とのこと。東京ガスの工場から都市ガスを送る。首都圏には約640キロに渡る幹線が整備されているとのことだが、ガス管が地上に現れるのは結構珍しいのではないだろうか。

八潮排水機場傍の石塔
県道102号を南に下ると綾瀬川放水路にあたる。その手前、八潮排水機場の傍に4基の石塔が並ぶ。左端に青面金剛の彫られた庚申塔、その横に「庚申」と文字だけが刻まれた庚申塔がある。この文字庚申塔は道標ともなっており、側面に「江戸道」、右側面に「野道」と刻まれる。
下妻街道がすぐ傍を通るわけで、とすれば綾瀬川放水路工事の折に、他の2基の石碑と共にここに移されたのだろう。
下妻街道は、千住宿で水戸街道と日光街道と分かれ、荒川、中川、江戸川、利根川、鬼怒川を渡って下妻(茨城県下妻市)に通じる。

八潮排水機場
綾瀬川放水路手前に八潮排水機場。案内には「八潮排水機場は、人工的に開削した綾瀬川放水路と中川の合流点に位置しています。古くより大きな洪水を被っている綾瀬川流域一帯の被害を軽減するため、洪水流の一部を中川に排水等することを目的に建設されました」とあり、続けて「中川流域は、かつて利根川、荒川が、洪水のたびに流路を変え、昔から洪水被害に悩まされてきました。地形的にも利根川、江戸川、荒川の大河川に囲まれ、水がたまりやすい皿のような地形になっています。さらに、河川の勾配が緩やかで水が流れにくい特徴があり、ひとたび大雨に見舞われるとすぐには水位が下がらず、危険な状態が続いていました」との説明が中川・綾瀬川の地形断面図、草加市の洪水被害の写真と共にあった。
この断面図は八潮のあたりではあろうし、その比高差は異なるとは思うが、江戸川の水位は大落古利根川より高い。かつて江戸川に落としていた庄内古川(中川)の水を、水位の低い大落古利根川に落とすべく、現在の中川・大落古利根川合流点まで人工的に開削し中川を造ったということが、この断面図により少々のリアリティをもって感じることができた。




中川合流点の綾瀬川放水路・八潮水門
綾瀬川穂水路を渡り中川合流点へと川筋に向かい、八潮水門・八潮排水樋管を見る。
綾瀬川放水路は草加市の綾瀬川から八潮市の中川を結ぶ。八潮排水機場にもあったが、昭和57年(1982)、61年(1986)に綾瀬川が溢れ水に浸かった草加市域など綾瀬川流域一帯の治水対策事業の一環であろう。
放水路開削は東京外環道の工事に合わせ実施され、外環道の完成した平成4年〈1992〉に外環道に沿って北側水路、平成8年(1996)に南側水路が完成。八潮水門は平成10年(1998)に完成した。

久伊豆神社
綾瀬川放水路から先は中川筋を離れ、八条用水へと向かう。大落古利根川の松伏溜井から逆川を経て元荒川筋に入った葛西用水は、越谷の瓦曽根溜井で南部葛西用水と八条用水に分かれて取水される。南部葛西用水は南下し八潮で垳川(がけかわ)に注ぐが、八条用水は地図上で水路が消え去り、余水吐けがどこに繋がっているのかよくわからない(注:一旦水路が消えるが、メモの段階でよく見ると下流部に水路が描かれていた)。
であれば八条用水の末端部を確認してみようと八条用水に向かう。県道102号を少し南に進むと、道は南西方向に進路を変えるが、直進すると久伊豆神社が ある。どうせのことならと立ち寄り。八潮市の鶴ケ曽根地区に久あるふたつの伊豆神社が一つであった。
何度か久伊豆神社についてメモしたが、再掲。
祭祀圏マップ
鈴木理生さんの『幻の江戸百年:鈴木理生(ちくまライブラリー)』に、古き利根の流れの東は香取の社、西は氷川の社とその祭祀圏がくっきりと分かれ、その間、元荒川流域だけに80ほどの久伊豆神社が鎮座するマップがあった。 香取神社の祭神はフツヌシノオオカミ(経津主大神)。荒ぶる出雲の神・オオクニヌシ(大国主命)を平定するために出向いた神。氷川神社の祭神はスサノオ・オオナムチ(オオクニヌシ;大国主命)・クシナダヒメといった出雲系の神々。が、久伊豆神社の由来はよくわからないと書かれていた。
未だによくわからないのだけれど、また誰が言っているわけでもないのだけれど、ちょっと妄想。
久伊豆神社は出雲の土師連ゆかりの社のようで、土師連の祖先神は天穂日命とその子の武夷鳥命、および大己貴命、と言う。天穂日命って、アマテラスの子供(「連」とは天孫系の氏族を意味する姓)。大国主を平定するために出雲に出向くが、逆に大国主に信服し家来となり、出雲国造の祖となった神さまである。
天孫・天津神系(大和朝廷)の香取と、国造・国津神(出雲族)の氷川の間に、天孫系(大和朝廷)でありながらも国津神(出雲族)の神・大国主と仲良くなった神を祖先神とする部族がいた、ということ、か。なんだか、なんだかおもしろい。

八条用水
県道102号に戻る。八條小学校前交差点で南下する県道102号から県道327号に乗り換え鶴ケ曽根地区から小作田地区へと進む。
吉川市のHPには、曽根(そね)は「岬」とあった。『角川地名大辞典』には曽根は自然堤防とある。川によって運ばれた砂礫の多い荒れ地を古語では「埇(そね)」という字をあてている。そこからの転化だろう。岬も自然堤防の一形状であろう。
小作田は湿地の間にある小さな水田という。国土地理院の治水地形地図を見ると、鶴ケ曽根は自然堤防、小作田は後背湿地となっている。地形を表した地名となっている。
暗渠に
南に下るとほどなく用水は暗渠となる。地図で水路が消えているのはこのあたりだろう。緑町一丁目・二丁目の辺りで暗渠は左に分かれる道筋に沿って進む。 少し下った中央一丁目西交差点で用水は先ほど分かれた県道102号に合わさり、交差点で南に折れる県道の道筋に沿って用水も南に下る。
県道102号が県道54号と交差する中央交番前交差点で用水は県道102号と分かれ、民家の間の狭い路地を下る。
開渠に
民家の軒先を進む。どこに連れていかれるのか、用水の落としを何処で、どうやって処理するのか、ちょっとワクワクしたのだが暗渠は直ぐに開渠となって、開けた道筋を下ることになる。
八条用水の流路をチェックしたとき、地図にあるこの開渠部を見落とし、今回の八條用水末端部探索とはなったわけである。

葛西用水(南部葛西用水)と合流
開渠に沿って下り首都高速6号線の高架を潜ると用水は葛西用水(南部葛西用水)に合流する。散歩当日は地図上で開渠になっていることを見逃しており、八条用水は結構大きく、この余水吐をどこで・どう処理するのかと、末端部へと辿ったのだが、ちょっとあっけない、というか至極まっとうな始末ではあった。

ふれあい桜橋へ
葛西用水に沿って下り新葛西橋に。その先につくばエクスプレスの線路高架があるが、右岸も左岸も用水に沿っては進めない。左岸のふれあい桜橋へと向かう道路に沿って南に進む。
道路と葛西用水の間には、如何にも後背湿地といった箇所が残されていた。一帯は宅地分譲されていたが、分譲地の案内に記された調整池の多さが宅地造成される以前の後背湿地の名残を伝える。国土地理院の治水地形分類図にも、この辺り一帯は中川の自然堤防と綾瀬川・毛長川の自然堤防に囲まれた後背湿地・氾濫原と示されていた。

葛西用水が垳川に合流
橋の北詰にある「ふれあい桜橋」交差点を少し西に進み葛西用水に架かる橋に。右岸も左岸も葛西用水に沿って進めない。橋から葛西用水が垳川(がけかわ)に合流する箇所を確認し交差点に戻りふれあい桜橋に。
この橋は八潮市と東京都足立区の境となっている。古利根川散歩も羽生市から下りやっと東京都。はるばる来たぜ、と小声で叫ぶ(呟く)。



葛西第一水門
ふれあい桜橋を渡り、南詰めから垳川に沿った径・遊歩道に入り垳川の南側から葛西用水の合流部を確認。遊歩道を進むと水路があり水門が設けられている。水門は葛西第一水門という。往昔垳川を越え南に下った葛西用水の水門である。
この水門、現在は洪水時の水量調整以外は基本閉じられており、用水には南の花畑運河の水を流しているようだ。浄化のためだろう。花見で知られる目黒川の水が落合浄水場から送られる浄化された下水であることを想い起こした。玉川上水もそう。小川監視所より下流は昭島市の多摩川上流水再生センターで高度浄化処理された水を、玉川上水の浄化のために流している。散歩をするとあちこちで高度処理された下水で浄化がおこなわれる河川・用水に出合う。 それはともあれ、葛西用水を浄化するという花畑運河から送られた水がどこで用水に落とされるのか、次回の散歩で確認しようと思う。

小溜井引入水門
葛西第一水門のすぐ傍、葛西用水が垳川に合流する地点のすぐ上流に小溜井引入水門がある。これってどういうこと?葛西用水への導水溜井用であったとすれば(現在水門は閉じられているが)合流地点より下流でなければならないわけで、理屈に合わない。
チェックすると、元は綾瀬川の本流であった垳川筋ではあるが、江戸の頃には既に垳川筋が綾瀬川本流と切り離されている。洪水対策のため垳川との接続部下流が直線化工事を施され、綾瀬川は南に下る。
綾瀬川との接続部は閉じられた。その後、これも江戸時代に中川との接続部も閉じられ、垳川は川ではなく葛西用水の「溜め」となっていたようである。往昔綾瀬川接続部からこの水門までの「溜め」を小溜井と称した。
で、件(くだん)の水門であるが、現在は基本開けっ放しで水門の機能を果たしていない、とか。それはそれでいいのだが、その名称の小溜井引入水門の「引入」ってどういうこと?
左;葛西第一水門、中央;小溜井引入水門、右;葛西用水
さらにチェックすると、用水合流点の少し下流、ふれあい桜橋が架かる辺りにかつて葛西第二水門があった、とか。ここで用水を堰き止めれば、小溜井に必要に応じて水を引きいれることができるわけで、「引入」の疑問氷塊。
○旧小溜井排水機場・垳川排水機場
垳川の両端、綾瀬川との接続部に旧小溜井排水機場(平成7年(1995)に閉鎖された)、中川との接続部に垳川排水機場がある。排水機場と言う以上、垳川の水を両河川に排水していたことになる。これってどういうこと?
チェックすると垳川では葛西用水の合流点あたりが最も標高が高かったとのこと。垳川の水は排水機場を通して両河川に排水されていたようだ。
が、平成7年(1995)に旧小溜井排水機場閉鎖された。葛西用水合流部が最も水位が高いとすれば、東に流れる垳川の水は垳川排水機場のポンプ、また排水機場近くの稲荷下樋管の自然流下により中川に排水されるだろうからいいものの。葛西用水合流部から西、旧小溜井排水機場までの間は水が滞留し水質が悪くなる。実際その滞留環境の溜井には生活排水などが流れ込み水質が悪化したようだ。
その対策として平成20年(2008)より水質改善の実験的取り組みが行われ、潮の干満による水位差を利用して綾瀬川から垳川に通水、浚渫などが実施された。平成26年度(2014)からの本格的運用に際しては、通水量の問題、またそもそもの綾瀬川の水質の問題などが取り上げられているようである。
垳川
「がけかわ」と読むこの名の由来は?垳地区を流れるからであろうが、そもそも「垳」の意味は。この漢字は本来中国からもたらされた漢字ではなく、峠などと同じく日本で造られた国字とのこと。
「土」+「行(く)」>土が行く>土が崩れる>水がカケ(捌け)る様子が起源となり、水が流れるとき「土」が流されて「行」く、といった意味があるようだ。 現在、所謂「がけ」には崖という感じがあてられるが、江戸時代中期までは一定でなく、「崖」の他、「峪」、「岨」、「?」などの漢字があてられたという。が 「垳」もそのひとつであったよう。「崖」と言えば切り立った斜面のイメージがあるが、土が削り取られた結果としての形と思えばそんなに違和感はない。 垳という字は、垳川と垳という地名以外に使われることはないようだ。
「垳」がこの地に残る故、当用漢字として残されているが、「青葉」という地名に変わる可能性もあるとのこと。暴れ川の綾瀬川によって土が流された、といった地形のニュアンスを伝える地名が消え去るとすれば、ちょっと残念ではある。

本日の散歩はこれでお終いとし、最寄りの成田エクスプレス・八潮駅に向かう。次回の散歩で、既に歩き終えている足立区・葛飾区の境を流れる古隅田川まで歩き、古利根川筋繋ぎの旅の大団円としたいものである。