日曜日, 2月 11, 2018

伊予 歩き遍路;五十九番札所・国分寺から六十番札所・横峰寺を繋ぐ ➂ :中山川を越え湯浪の横峰登山口へ

先回は生木道と香園寺道分岐点から生木地蔵を経て、中山川までの遍路道をメモした。今回は生木道を経て横峰に向かう順打ち遍路道の2回目。中山川を越えて横峰登山口に向かう遍路道を辿る。
Google Earthで作成
途中、県道歩きばかりは味気ないと、馬返しから先、今は誰も歩かず踏み跡もない旧遍路道を辿ろうとしたのだが、これが予想以上の荒れ具合。成り行きで進み、いくつかの地蔵丁石には偶然出合ったのだが、ロープでもなければ少々危険と判断し、一旦県道に下りる。
が、「えひめの記憶」にある旧遍路道に立つ徳右衛門道標はみたいものだと、法面がコンクリート・フェンスで覆われた県道から一カ所だけ開いた取りつき口から岩場を這い上がり、なんとか徳右衛門道標に出合った。徳右衛門道標から左右に道が続いていたが、当日は日も暮れてきたので旧遍路道の完全踏破は先のお楽しみとして、県道に下り湯浪の横峰登山口まで進んだ。
2回に渡ってメモした生木道から中山川を越え、小松の大頭を経て湯浪から横峰さんに上る順打ちルートが歩き遍路の多くの方が歩いている道のようであるが、次回は香園道を経て第六十一番香園寺から六十番札所横峰寺に上る逆打ちコースをメモする。いつだったか歩いた横峰さんへのお参りが、香園寺の奥の院からの逆打ちルートであったため、その上り口までの遍路道を繋ごうとの想いだけではある。



本日のルート
中山川を越え、小松の大頭を経て湯浪の横峰登山口に
大井出川傍の4基の石造物>大頭(おおと)交差点>石土神社>妙雲寺>(妙口薬師堂)>山の神地区の道標>大師堂
□馬返しからの旧遍路道□
旧遍路道入口>地蔵>「四十六丁」の舟形地蔵丁石>「四十四丁」の舟形地蔵丁石>「四十三丁」の舟形地蔵丁石>県道に戻る>徳衛門道標>県道に戻る> 旧遍路道の下り口
□県道を横峰登山口に□
尾崎八幡傍の道標>舟形地蔵>舟形丁石と2基の石碑>舟形丁石が続く>横峰寺登山口


中山川を越え、小松の大頭を経て湯浪の横峰登山口に

先回の生木道を歩き生木地蔵を経て中山川まで辿ったメモの続き。中山川を越え、小松の大頭を経て湯浪の横峰登山口までをメモする。

生木道を辿り、中山川を渡って六十番横峰寺へと順打ちで進む遍路道は、小松に入る。Wikipediaに拠れば、現在の西条市小松町は旧周桑郡小松町。中山川で周桑郡丹原町と境をなし、藩政時代は小松藩1万石一柳家の陣屋が置かれた。もとは塚村と呼ばれたが小松原を開墾した故に小松と改めた、と。町域の南部からの大半は石鎚山系の山々であり、平地は北部、中山川右岸に限られる。
●中山川
中山川(なかやまがわ)は高縄山系と石鎚山系を分ける谷を下り、西日本の最高峰石鎚山系の堂ヶ森・青滝山北方を源流域とする鞍瀬川を合せ周桑平野に出る。「えひめの記憶」をもとにまとめると、「中山川は周桑平野を貫流する第一の河川で、谷口の湯谷口七〇mを頂点とするほぼ三角形の輪郭をもつ沖積平野を形成する。平野の南西隅から東北東方向へ、中山川が貫流し、平野中央の大部分はその堆積物によって形成され、東縁部は北西流して加茂川と複合デルタを形成する。
中央部の中山川流域の低地は、湯谷口を頂点に平野間に大きく扇形に広がる氾濫原をつくる」とある。

大井出川傍の4基の石造物
「中山川上手から幅約2mの農道を南東に500mほど進み、大井出川に架かる橋を渡った右手に、地蔵・橋供養塔など4基の石造物がある(「えひめの記憶」)」との記事を頼りに中山川右岸から成りゆきで進むと大井出川に架かる小橋脇に4基の石造物があった。
なんとか中山川を越えた先のスタート地点を確認し一安心。横峰登山口までの遍路道を辿ることにする。

大頭(おおと)交差点
遍路道は小川を渡り、中大頭の集落を抜ける道を進み国道11号に出る。道は国道を左折し、大頭交差点に。交差点南西角には「60番 横峰寺 9.5km」の木標が立つ。
大頭の由来は不詳であるが、この大頭・妙口村は桜三里を抜け金比羅街道・小松街道沿いにあり、金比羅参りや横峰寺に向かう遍路で賑わったようである。横峰寺に向かう遍路はここに荷物を置き、身軽になって急峻な横峰へと向かったとある。

石土神社
遍路道は県道147号を妙之谷川に沿って進むと、ほどなく石土陣神社の鳥居が見える。参道を進むと巨大なコンクリート製の高燈籠が立つ。昭和6年(1931)の式年祭に合わせ建立された。灯明、電球、蛍光灯と光源は変えながら、常夜灯として道を照らす、と。
本殿にお参り。境内社にはすべて鳥居が建つ。境内の常夜灯には蔵王宮と刻まれる。神社の隣にある妙雲寺とともに神仏混淆の蔵王権現を祀ってきたものが、明治の神仏分離により村社となった。
境内にある案内を読むと、垂仁天皇の御代に忌部宿弥八十彦(いむべすくねやそひこ)が社殿を建造し忌部氏の氏神となり、この地の総社となったとあるが、その他は土佐の長曽我部氏のため兵火に焼かれたとか、河野氏十八将の一人、黒川氏の産土神となるも、秀吉に敗れ、藩政時代は小松藩主一柳氏の庇護を受けるといった趣旨の記述であり、石鎚大権現との関わりは触れられていない。 はっきりとは分からないが、石鎚権現を祀ったのはお隣の妙雲寺が横峰寺の前札所となった頃からのもののようにも思えてきた。


妙雲寺
お隣の妙雲寺に。真言宗のお寺さま。本堂とその隣に大師堂。本堂は香園寺の旧本堂を移したとのこと。「えひめの記憶」には「『四国遍礼名所図会』には、「明雲寺石燈炉より少し入あり、不自由仁峰へ登らざる人ハ爰にて札を納む、然共大方登る」と記されていて、六十番横峰寺の前札所及び石鎚登山行者の礼拝所と定められ、遍路の参詣も多く見られた」とあり、六十番前札所であったとする。
天文7年(1538年)、剣山城主黒川氏はこの寺に蔵王権現像を奉納したとある。その頃から石鎚のお山との関わりがでてきたのだろうか。藩政期には、小松藩主一柳家もこの寺を尊崇し、第3代直卿公は「蔵王宮」の額を奉納している。 『四国遍礼名所図会』には六十番前札所とあるが、現在は「六十番前札旧跡」との記載がある。
チェックすると、既にメモした明治の神仏分離令にともなう横峰寺と清楽寺と の六十番札所を巡る顛末に、この妙雲寺も関係した結果の「前札旧跡」のようである。

横峰寺・清楽寺・妙雲寺の六十番札所を巡る顛末
経緯は明治4年(1871)、神仏分離令により廃寺となった六十番札所・横峰寺はその対応策として、石鎚神社横峰社となり、明治12年(1897)に大峰寺、明治18年(1885)に六十番札所大峰寺、そして明治42年(1909)に横峰寺に復す。 六十番札所としての横峰寺が「消えた」時期は、六十番前札所である清楽寺が六十番札所清楽寺となり、横峰寺が明治18年(1885)に六十番札所・大峰寺に復したとき、清楽寺は六十番前札所に戻った。
ここに六十番前札所極楽山妙雲寺が登場する。本来であれば六十番前札所となった清楽寺とともに、妙雲寺も前札所として続いたのだろうが、明治17年(1844)火災により焼失。明治28年(1895)妙雲寺は近くにあった鶴来山大儀寺を移し、60番前札旧跡として再興。 戦後、昭和32年(1957)再び石鉄山妙雲寺と称することになる。
門前の2基の道標 
門前には、左右に2基ずつ石柱が立っている。向かって右には、「六十番前札」の石柱と「ぎゃく生木地蔵尊へ是より十八丁」と刻まれる、生木地への逆遍路道を示す道標が立っている。左には、「是ヨリ第六十番横峰寺 実測六十七丁 昭和三年」と刻まれた千足山村在郷軍人建立の道標と、横峰寺まで「是より横峰寺迄百丁」と刻まれた武田徳右衛門道標がある。
ふたつの道標の距離は違っているようだ、どちらかがどこかから移されたものだろうか。
千足山村
千足山村とは、かつて石鎚山の北西に位置した山村で、石鎚頂上社、成就社、横峰寺などを村域に含んでいた。
「えひめの記憶」には、「石鎚参拝道は、中国地方から船で参詣する人々は、氷見(ひみ)新兵衛埠頭(ふとう)(西条市)に船を横づけし、小松の町中から登山道を岡村―おこや―横峰寺(古坊)―黒川―成就(じょうじゅ)―石鎚山へと登った。松山周辺の人々は、讃岐街道(金毘羅街道)を歩き大頭―湯浪―横峰寺を経て石鎚山に登った。いずれも千足山村(せんぞくやまむら)(小松町石鎚)を経ての登拝であったという。この大頭から横峰寺を経由して石鎚山に登る道は、「お山道」と呼ばれ親しまれてきた」とある。
お山道を進むと、湯浪の手前、馬返あたりから千足山村の村域となり、岡村から上る、香園寺経由の遍路道言う逆打ち道も、林道から登山道を上りおこやの辺りから千足山村域となり、横峰寺からモエ坂を下り黒川道を成就社に上る道筋は千足山村となっている。

妙口薬師堂
石土神社から妙ノ谷川を渡り東に向かうと妙口薬師堂がある。第六十番札所横峰寺を打ち終え、湯浪に下り第六十番札所香園寺に向かうお遍路は妙雲寺から右に折れ、妙口薬師堂に向かい、そこを左折し旧国道11号・金比羅街道を香園寺へと向かったようである。




山の神地区の道標
県道147号を妙之谷川に沿って松山道の高架下を潜り、道の右手に河内八幡を見遣りながら左岸、そして右岸に移り、山ノ神地区に。妙之谷に架かる山ノ神橋の手前の三差路に、アスファルトに埋まり上部のみ出た自然石の道標がある。「左へ」と読める。


大師堂
遍路道は橋を渡らず、妙之谷川の右岸を少し進むと、道の左手に小堂があり、地蔵と「六十丁」と彫られた舟形地蔵丁石が並んで祀られる。同には「大師堂」とあった。



馬返しからの旧遍路道

現在では湯浪に進むには県道147号を進むのが一般的ではあるが、「えひめの記憶」には、この先の遍路道として「左右に柿畑が広がる道を南進すると、県道は左に大きくカーブする。その手前で遍路道は分岐し、柿畑の中の道に入っていく。
少し登ると、左手に「四十六丁」と刻まれた舟形地蔵丁石がある。さらに登ると、柿畑から杉林への道となる。この遍路道は、県道から50mほど高い所を、県道に沿うように約1km続いている。(中略)この道は昭和20年代末ころまで生活道路として使用されていたとのことである。杉林の中を進むと、「四十四丁」「四十三丁」「四十丁」の地蔵丁石が立っている。
しばらく行くと三差路に、大江(大郷)村が建てた地蔵道標と「横峯迄五十丁」と刻まれた徳右衛門道標が立っている。このあたりには馬返(うまがえし)という字名(あざめい)が残っているが、杉林の中の隘路(あいろ)は名前の由来が実感できるほど険しい山道である。道標の左の道を進むと、「三十九丁」「三十八丁」「三十七丁」の地蔵丁石と明治34年(1901)に建てられた供養塔らしい石造物がある。そこから100mほど進むと杉林は終わり視界が開けてくる。しきみ(花柴)畑の右を通過して30mほど下ると、県道147号と再び合流する」とある。

記事に遍路道と記されている以上、とりあえず歩いてみようと。が、この記事では今一つアプローチ点がはっきりしない。それらしき辺りで農作業をされていた地元の方に尋ねると、カーブ手前の赤い屋根のある建物の先から入り込むとのこと。が、誰も歩いておらず道も消え、藪を進むことになるから止めたほうがいいよ、と。
と忠告を受けるが「記事にある」遍路道、特に徳右衛門道標が気になり、行けるところまで行ってみようとアプローチ点に。

旧遍路道入り口
赤い屋根の建物の先に山に向う細道がある。この道かしらと進むが、県道からどんどん離れ、右手は谷筋となる。これはないだろうと県道まで戻る。 で根拠はないのだが、山に登る道の左手にある柿畑の中に入ってみる。道はないが、成り行きで進むと草に隠れるようにお地蔵さまがある。

「四十六丁」の舟形地蔵丁石
最初はこのお地蔵様が「四十六丁」の舟形地蔵丁石なのかと思い、ちょっと気分を良くし先に進むと舟形地蔵が佇む。これが「四十六丁」の舟形地蔵丁石であった。
踏み込まれた道跡など何もないのだが、枝木を折り、踏みしだきひたすら県道から50mの等高線を目安に進む。




「四十四丁」の舟形地蔵丁石
成り行きで進むと、上が開けてきた、川に突き出た尾根筋に近づいたようだ。で、尾根筋に転げ込むように出ると、偶然に「四十四丁」の舟形地蔵丁石前に出た。





「四十三丁」の舟形地蔵丁石
「四十四丁」の舟形地蔵丁石の前は林道が開かれている。下に下る道は蛇行し直ぐに県道に下りているので、逆の山側に進むが、結構引っ張られた後、行き止まり。丁石も見当たらない。
「四十四丁」の舟形地蔵丁石まで戻り、林道を下ると、すぐに林道左手の少し高いところに舟形地蔵丁石が見える。「四十三丁」の舟形地蔵丁だろう。その丁石の辺りが何となく踏み込まれたような感じがする。林道からそのブッシュの中に上がり先に進むが、踏み込まれた形跡も完全に消える。斜面もきつく、ロープでもなければちょっと危ない。ということで、林道まで戻りそこから県道に下りる。

徳衛門道標
一旦は県道に下りたのだが、なんとなく「徳右衛門道標」が気になる。「えひめの記憶」の記述に、三差路とある以上、尾根筋の平坦地だろうとあたりをつけ地形図を見ると、県道に下りた先にある川に突き出た尾根筋に等高線の間隔の広い、いかにも三差路でもありそうな場所がある。
その尾根筋を這い上がろうと取りつき場所を探すが、道路に沿って法面がコンクリートで整備され、その上にフェンスがある。さてどうしたものかと道を進むと、目的とする尾根筋が川に落ちる突端に一カ所法面が開け石段が造られている。
これはいい、と石段を上るが直ぐに道は消え、その先は岩場となっている。とりあえず岩場を這い上がり尾根筋平坦部に。そこから平坦な尾根筋を進むが三差路は出てこない。
あきらめようかどうしようかと思いながら、平坦部が切れるところまで行ってみようと枝を踏みしだき進むと、前方に大きな切り通しが見えてきた。ここであろうと尾根筋から切通しに下りると、切通しの北端に徳衛門道標と舟形地蔵が建っていた。徳衛門道標には「横峰横峯迄五十丁」と刻まれた文字がはっきり読める。舟形地蔵には「峯ヨリ五十丁 大江村中」と刻まれるとのことである。
で、三差路であるが、ひとつは割と広い道が北から切通しに来るが、もうひとつの道は藪の中から切通しに続くといった、道?と感じるものではあった。 四十丁の丁石はこのどちらかの道筋のどこかにあるのだろうが、日暮も近く今回はパスすることにした。

県道に戻る
切通しから南へ道が続く。これはいい、と進むが直ぐに行き止まり。旧遍路三道には「三十九丁」「三十八丁」「三十七丁」と供養塔があるようだが、消えた道を成り行きで進んでも、はてさてと県道に下りることにした。
が、これも一苦労、適当に斜面を滑りおりて県道脇まで下ったのだが、法面の上のフェンスが邪魔しで県道に下りることができない。結局、岩場を這い上がったアプローチ地点の石段箇所まで戻り、県道に下りた。

旧遍路道の下り口
県道を進み、道を進むと法面整備された道筋に一カ所、山に入る道がある。ひょっとすればこちらから旧遍路道を辿れるかと、記事にあるしきみ(花柴)の畑脇を進むが、この道も途中で行き止まりとなり、それ以上のトレースは時刻もありパスすることにした。
正確ではないが、推定旧遍路道をブルーのトラックラインで描いておく。


尾崎八幡傍の道標
県道に下りた先の遍路道として「えひめの記憶」には「合流地点の南には、戦前まで木橋が架けられており、遍路道は妙之谷川の左岸へと続いていた。幅1mほどの道を川沿いに30mほど進み、左にある「三十四丁」の地蔵丁石を過ぎると、切通しの道を下って川を渡り、左にカーブしたのち再度川の左岸へと進んだという。
民家の裏を通り右に曲がると、小堂や六地蔵、「三十六丁」の地蔵丁石がある。小堂から50mほど進むと、遍路道は、昭和59年(1984)に県道が整備された際に削り取られ、消失している」とあるのだが、県道が整備されガードレールのある道から記事の道筋に行けそうもない。また、地図と見比べても、記載された道筋が特定できない。ということで、県道を進み尾崎八幡へ。
「えひめの記憶」には、「戦後建てられた「横峰寺右」と刻まれた道標と、「四国のみち」の標識、上部が欠けた「三十一丁」の地蔵丁石が並んで立っている」とあるが、上部が欠けた「三十一丁」の地蔵丁石は分からなかった。
尾崎八幡
妙之川の本流と支流が合流する辺りに尾崎八幡。参道鳥居の先に古き趣の拝殿、本殿。「おざき」の由来は「突き出した台地の先端=小さな崎」を指すことが多い。妙之川の本流が支流と合流する突起部分にある故の命名だろうか。

舟形丁石
「えひめの記憶」には「尾崎八幡神社前を右折し、妙之谷川を左に見ながら県道を南東に50mほど進むと、道路右のコンクリート擁壁(ようへき)の中に、手印のみの道標がある。この道標の上付近で、前述の遍路道は消失している」とあるのだが、手印道標も、遍路道跡らしき道筋もみつけることはできなかったが、船形地蔵がコンクリート擁壁にあった。丁石か否かは不明。

舟形丁石と2基の石碑
「えひめの記憶」には、続けて「「三十丁」の地蔵丁石と「御来迎所文化十四年」の年号や「横峰寺御来光出現」と刻まれた2基の石碑と地蔵がコンクリート擁壁の中にある。昭和初期に出版された『同行二人 四國遍路たより』によると、「三十一丁」の地蔵丁石辺りで飛石伝いに川を渡り、滝の音を耳にしながら登っていったようであるが、昭和59年(1984)の県道147号の整備以降、かつての遍路道は県道に吸収され消失している」とある。
舟形丁石と2基の道標は前述舟形地蔵のすぐ傍にあった。
●「横峰寺御来光出現」
「横峰寺御来光出現」には「弘法大師曰く神仏は死んでも無きものではない 生きて此世で救けるものなり 教えに従うところには自由自在に現われて救けるものなり 昭和48年9月12日 出現の時刻10時30分より40分まで」と刻まれ、その横には高知市の58才の女性と56才の男性の名前と住所、そして「同行2人拝す」と刻まれていた。妙ノ谷川の滝(現在は堰堤になっている、と)辺りで、日の光を受けたお大師さまの姿が見えた、と伝わる。


舟形丁石が続く
「えひめの記憶」には「現在の遍路道は、ここから横峰寺への登り口までの約1.3kmを登っていくが、この間に多少移動させられたと思われる8基の地蔵丁石が立っている。うち6基(「二十八丁」「二十七丁」「二十五丁」「二十四丁」「二十三丁」「二十一丁」)はこれまでと同形態のものである。コンクリート製の小堂で覆われた1基の地蔵丁石は、二つに割れた跡があり、刻字は読めない。また、「二十四丁」の地蔵丁石の反対側にあるもう1基の小さな地蔵丁石も刻字は読めない」とある。
道なりに進み、小祠の丁石、石仏と2基と並ぶ丁石、二十四、二十三、二十二の地丁石を見遣りながら進む。
地蔵丁石(24丁)
地蔵丁石(23丁)

地蔵丁石(22 丁











横峰寺登山口
正面に妙之谷川の砂防ダムが見えるところで右に曲がると四阿があり県道はここで終る。山側に横峰寺への登山口がある。「横峰寺 2.2km」の木標が立つが、訪れたときは,
台風被害のため登山口は通行止めとなっていた。

ここが逆打ちルートで横峰寺から下りてきた所。ここから先の横峰寺までの遍路道は、香園寺奥の院から横峰寺を逆打ちで辿り、この湯浪に下りた記事を参考にして頂ければと思う。

これで一応、逆打ちルートで辿った遍路道の下り口と繋いだ、ということで、次回は逆打ちルートで横峰へと登った第六十一番札所・香園寺経由の遍路道を辿ることにする。
追加
2021年、湯浪登山口から横峰寺へと辿った。横峰寺道の記事を参照してください。


伊予 歩き遍路;五十九番札所・国分寺から六十番札所・横峰寺を繋ぐ ② : 生木道を中山川まで

先回は、今治の五十九番札所・国分寺から西条市に入り、大明神川を越えたところの生木道と香園寺道の分岐点までの遍路道をメモした。

Google Earthで作成
今回から2回に分けて、六十番札所・横峰寺に向かう生木道と香園寺道のふたつの遍路道のうち、生木道を辿り、中山川を越えて旧周桑郡小松町(西条市小松町)の大頭を経て湯浪に向かい、六十番札所・横峰寺へと山道を登る登山口までの遍路道を二回に分けてメモする。
最初は生木道と香園寺道分岐点から生木地蔵を経て、中山川までの遍路道。中山川を越えて横峰登山口に向かう順打ちルートは次回メモする。

いつだったか、第六十一番香園寺奥の院から逆打ちで横峰寺に上り、湯浪の登山口へと下りてきたことがある。とりあえずこの2回のメモで、下ったところと道を繋いだ気持ちではある。その時の上り口であった第六十一番香園寺奥の院、というか香園寺遍路道から横峰へと向かう逆打ち遍路道は、香園道を進む遍路道でメモする。


本日のルート
生木道・香園道分岐点から生木道を生木地蔵へ
生木道・香園道分岐点の徳衛門道標>国安の道標>新町の道標>新町代官所跡>新町四差路の道標>県道155・150号合流点の茂兵衛道標>和霊神社脇の道標>出合橋の2基の道標>丹原町池田の道標>田圃脇に道標>丹原町商店街の道標>小松を指す道標>西条市丹原支所の道標・里程石>丹原町今井の道標>福岡八幡宮>生木(いきき)地蔵>松山道交差箇所の道標>北田野の舟形地蔵>台座に沙界霊と刻まれた地蔵>田野上方に道標2基>野中の大師



■生木道・香園道分岐点から生木道を中山川まで■

生木道・香園道分岐点の徳衛門道標
大明神川を渡った直ぐ先にある、生木道・香園道分岐点に立つ徳右衛門道標 を右に折れから生木道を生木地蔵へと向かう








国安の道標
生木道・香園道分岐点にある茂兵衛道標から道を右にとり、生木地蔵経由で六十番札所・横峰寺を目指す生木道を進む。県道150号を1キロほど進むと三叉路があり、角に自然石の道標が立つ。「此方 へんろ」と刻まれる。「へんろ道はこっち」といった意味だろう。





新町の道標
県道150号を進み、広域農道を越え、西中学校を越し郵便局手前、道の左手、民家のブロック塀の前に道標が立つ。ちょっと小さめの手印と、正面には「いきき地蔵」、側面には「こくぶんじ」と刻まれる。大正期に建てられたもの。



新町代官所跡
道標から少し進むと駐在所があり、その前に「新町代官所跡」の石碑が立つ。何故にこの地に代官所?チェックすると、今は静かなこの地は、往昔「新町」に行けば何でも揃う」と言われるほどの賑わいであったよう。
事の始まりは松山藩主が経済振興策として領内に三つの市場を設け、丹原、北条とともに、この新町もそのひとつであった。
「えひめの記憶」に拠れば、新町は「寛永一八年(一六四一)に松山藩が代官に命じて桑村郡の上市村、新市村のほぼ中間の「千町が原」に開かせた在町」とある、在町とは、農村に開いた交易・商業中心の地域のこと。農村部に新たに町を作り、商業地として免租し、他村より商家の移住を奨励して商業地として発展させたようである。
藩政時代は宝ヶロ(山地を下った中山川が周桑平野の扇状地に出る辺り)から山麓を経て新町に至る代官道がにぎわい、桑村郡一円を官許の商圏にしたものであったが、明治期に入ると、整備された道路網から外れ、それに伴い商圏が丹原・壬生川へと移り、新町はさびれてゆくことになる。

新町四差路の道標
少し東に進むと四つ角に。右に折れると甲賀八幡や千人塚があるが、遍路道は四つ角に立つ道標にある「左 遍んろ道」に従い道を左折する。 昔の面影を伝える家並みに沿って道なりに進み、巨大な常夜灯を越え河野通堯 供養塔の手前を右折し県道155号に出る。
甲賀八幡
元亀三年(1572)阿波讃岐の三好勢が伊予に侵入して来た時、これを迎え討ち戦勝するため、河野一族が甲賀八幡神社に誓詞祈願した願文で知られる。
千人塚
天授5年(1379)11月6日、佐々久原に於いて伊予の将河野通堯軍七千と阿波・讃岐・土佐の将細川頼之軍四万が激突。河野軍の敗北に終わった。このとき両者の戦死者を埋葬した塚跡。
河野通堯
河野通堯(第29代当主):南北朝時代、同じ武家方の細川氏伊予侵攻への対策として宮方への帰順、そして武家方への復帰と、河野家存亡の危機を脱し旧勢力を一時的ではあるが河野氏の勢を回復した当主。

県道155・150号合流点の茂兵衛道標
県道150号が155号に合流する箇所に三角地帯があり、そこに道標が立つ。摩耗して文字を読むことはできないが、正面に「生木地蔵 第六十番横峰山」、脇に「第五十九番國分寺」、建立年は「大正三年」と刻まれる。明治42年(1909)に第六十番横峰寺が復しているので、第六十番横峰山となっているわけだ。
●生木地蔵道と西山興隆寺(西山お四国山みち)
両県道合流点から県道155号へと左に折れると生木道、県道150号を南西に向かうと、古刹西山興隆寺経由の遍路道となる。
大雑把な道筋は、県道150号、県道151号と進み西山興隆寺に参拝し、久妙寺辺りを南東に下り、生木地蔵に出る

和霊神社脇の道標
生木道は県道155号を左に折れる。「えひめの記憶」には「すぐ左側に和霊神社があり、同じ敷地内には通夜堂を兼ねた大師堂がある。大師堂の前に「奉納 本尊四国八十八ヶ所霊場」と刻まれた大きな石碑がある。さらにお堂寄りには、「是より生木へ三十八丁」の道標があり、その上には灯ろうが置かれている。この大師堂と2基の石造物は和霊神社隣接の渡部家の信仰心の厚い祖父が、遍路のために建立したものである」とある。
道脇から堂宇は見えるのだが、民家の敷地内である。さすがに敷地内に入ることはできないと諦めかけた時、民家入り口で軽トラが砂地にスタックし難儀している御主人から声がかかり、トラックの荷台の重しに、といったやりとりがあり、幸運にも敷地内の道標を拝見させてもらえた。
屋敷社としてお稲荷さんを祀る家は結構見かけるが、本格的な鳥居と社、大師堂を敷地内にもつ民家にはじめて出合った。

出合橋の2基の道標
小島川に沿って南東に進む。途中で現在は西条市に合併した旧東予市と周桑郡丹原町の境を越える。1キロほど下り新川に架かる出合橋を渡ると地蔵堂があり、徳衛門道標と小さな道標が祠脇に並ぶ。摩耗が激しく徳衛門道標には「是より横峰*三里」と刻まれている、と。上下ふたつに折れていたものを修理したようにも見える。

丹原町池田の道標
県道155号を南東に進み、県道から南西に分岐する少し手前、民家のブロック塀前に道標と破損した台座の上に地蔵が座る。「えひめの記憶」によれば、「出合橋から150m南に進むと県道155号から左に細い道が分岐している。かつての遍路道は、この細い田んぼ道を通っていたようであり、南にしばらく進むと、やや広い道と交差する。もとはこの角に道標があったが、今は南西45mの県道155号沿いの」民家前に移動している、とある。
これがその道標ではあろうと思うが、左に分岐したという道は田圃の畦道として南に続いているようである。

田圃脇に道標
次の道標として、「えひめの記憶」には@「さらに田んぼの中の遍路道を200mほど南東に進むと左側に道標があり、その上に地蔵が座っている」とある。少々わかりにくい説明だが、県道155号を少し進み、左に折れる田圃の中を進む道脇に地蔵が台座に坐る。これが道標であろう。お地蔵さまの北にも南にも田圃の畦道が続いていた。


丹原町商店街の道標
この先の遍路道として「えひめの記憶」には「その後の遍路道は田んぼや建物により通行不能になっているが、かつては整形外科病院の東を通り、丹原高等学校の農場・運動場を横切り、さらに丹原町商店街の角に立つ「きゃく遍ん路ミち」の道標のあるところまでつながっていたようである」とある。
田圃の畦道を進もうかなどとも思うのだが、途中に内川もあり、ここは大人しく県道155号を進み県道48号を越え、左折し上述丹原町商店街の道標に向かう。
道標は民家の間の狭い路地から商店街への出口にあった。道標の手印は北の路地方向を示し、文字も「きゃく遍んろ三ち」と刻まれる。
遍路道はここを右折し、下町から上町へと丹原の町を南西に進む。

小松を指す道標
道を左に折れる分岐点にも道標が建ち、手印とともに「小松町へ」と刻まれる。 小松藩一ッ柳一万石の陣屋があった小松が小松町となったのは明治31年(1891)。それ以降、平成16年(2004)に西条市と合併するまで周桑郡小松町と呼ばれた間に立てられたものだろう。

丹原
丹原は上述吉岡新町と同じく、藩政時代に農村部に開かれた商業地・在町のひとつである。正保元年(一六四四)松山藩は代官に命じ、今井村・池田村・願連寺村に接した砂礫の原野を開いた。新田も開かれており、新田在町とも称される。
丹原は周桑平野のほぼ中央に位置し、行政の中心となる代官所も在町形成時には西の町はずれの北田野福岡八幡社の南、その後17世紀後半から19世紀初頭 まで現在の田野小学校付近に移り(田野代官所)、さらにその後は明治まで桑村郡の新町代官所と統合されて久妙寺村御陣屋にある多田代官所に移った。丹原町久妙寺地区の北に御陣家の地名が残る。
代官所を挙げた理由は丹原と道路網の関係を見るため。行政の中心地へと道は整備されるはずである。実際、松山・金比羅道は宝ヶ口から石経・長野・田野を経て丹原町の町筋中央道となり、願連寺から東に向かって下り三津屋街道となり壬生川浦に至った。おおよそ県道48号の道筋に思える。
「代官道」は同じく宝ヶ口から来見、兼久の山麓を通り多田陣屋に至り、吉岡新町で太政官道と合して今治方面に通じ、また、その支線は実報寺越や椎木越を経て越智郡と結ばれていた。丹原は道路網にも恵まれ、商業地として発展したものと思われる。この道筋は誠に大雑把に言って、県道151号・県道159号筋といったものであろうか。
●実報寺・椎木越
実報寺は高縄山地から流れ出し、河原津で瀬戸内に注ぐ北川が山地から平地に出る辺り、実報寺地域の山裾に建つ、椎木越は県道154号を世田山の西を今治の朝倉に抜ける峠である。

西条市丹原支所の道標・里程石
右折し下町を進み、丹原郵便局の先を右折し、西条市丹原支所に移されたという道標・里程石を見るためちょっと遍路道を離れる。里程石は「松山札の辻より十里」と刻まれる。もとは丹原高校北浦にあったようだ。
ロータリーの植え込みに埋まるように立つ道標は摩耗が激しく文字は読めなかったが、「右へんろ道 生木地蔵八丁」と刻まれる、という



丹原町今井の道標
県道147号手前の四つ角に道標が立つ。手印の下の長い袖が珍しい。「生木地蔵尊本道 是よりうちぬけ横峰寺へ約三里 大正十五年三月」と刻まれる。ここを左折し小松町大頭から横峰寺を目指す遍路もいたようだが、今回は道を「そのまま先に進み、生木地蔵経由の遍路道を辿る。


福岡八幡宮
往昔の松山道とも金比羅道とも呼ばれた道筋を南西に進むと四尾山(しおびやま)と呼ばれる独立丘陵が見える。標高74mの丘陵には福岡八幡が鎮座する。 福岡八幡って周囲に、それらしき地名もないのだが?チェックすると、この辺りの豪族今井氏がここに福岡城砦を建てた、とあった。何故に「福岡」は不明だが、神社はその城の名前に関係あるようには思える。



この社は江戸の頃、丹原を在町として商売繁盛を願い、京都の伏見稲荷より周布・桑村両郡の鎮守の別宮として稲荷大神を勧請した、とのことである。吉岡新町の甲賀八幡にしても、丹原の福岡八幡にしても、在町の商人の寄進のためか立派な社であった。







生木(いきき)地蔵
四尾山の麓、福岡八幡の参道隣に生木(いきき)地蔵がある。境内にはお堂と、大師堂、そして屋根のついた建物に護られた、朽ちた大樹が横たわる。お堂は生木山正善寺。寺伝では弘法大師の開基。真言宗の寺で、もとはこの地から八丁ほど離れたとことにあったようだ。
生木
生木地蔵の由来ともなった朽ちた楠の前にある案内には「この霊木は「楠」です。周囲は約9~10メートル位で樹齢は定かでありませんが1200年以上だと推測されます。
元々、本堂と大師堂の間に立っておりその中に弘法大師空海が「お告げ」より一夜にて地蔵菩薩の尊像を刻まれたのであります。生きた木に刻まれたお地蔵様で「生木地蔵」と呼び親しまれております。
昭和29年の洞爺丸台風の烈風により倒れましたが、お地蔵様はいささかの傷もなく現在は本堂に安置致しております。首から上、特に耳病平癒に御利益があり各地より深く信仰されております」とある。
「えひめの記憶」には「生木地蔵については、『四国邊路道指南』に、「たんばら町、西にあたり紫尾(しび)山八幡、ふもとに大師御作生木(いきゝ)の地蔵霊異あげて計(かぞえ)がたし」と記されている。また『愛媛面影』には、「今井村の田中に小山有り。四尾(しび)山と名(づ)く。(中略)比(の)山の麓に楠の大樹あり。中朽(ち)て空虚なり。その中に地蔵の立像を彫(り)たり。生木(いきゝの)地蔵と名(づ)く。何人の所業なる事を知(ら)ず。俗に引法大師の作也と云(ひ)伝ふ。凡(そ)四国の習(ひ)にて、奇しき事は皆大師の作と称(ふ)るもの多し。固(より)信ずるに足らず」とある。

寺の縁起には弘法大師が四尾山の麓にて霊夢のお告げがあり、楠の大樹に一夜で地蔵菩薩を彫りあげるべし、と。耳を残すだけとなったとき、一番鳥が鳴き、未完の地蔵を残してこの地を立ち去った、と。この鳴き声は天邪鬼の悪戯であったとされ、ために地元民は弘法大師を憚り、鶏を飼わないという風習があった、とか。
本堂に本尊の延命地蔵菩薩が祀られるとあるが、耳の有無は不詳。上述案内に「耳病平癒に御利益」とある。寺にはカワラケ供養といい、歳の数だけのカワラケに穴をあけ願いを書いたとされるが、片耳のないお地蔵さま故とのこと。 因みに生木に尊像を彫るというのは各地にあるようで、また、弘法大師が一夜の願いを天邪鬼に悪戯されるという伝説も他にもあるようだ。「えひめの記憶」には「『丹原町誌』には、「昔、お大師様が生木のお地蔵さんを彫った時、蚊にかまれましたが、お坊様ですから、殺さないで袋に取っておき、翌朝放してやりました。それで、その子孫がふえて、今でも丹原には蚊が多いという話です」といった話も残る。生木への尊像を彫るに関しては、少々微笑ましいお大師さま話が伝わっている。

雨气石
境内には雨气石も残る。案内には「雨气石 南無阿弥陀仏
元禄10年(西暦1697年 約280年前)
願主 保助 役人中
昔は田へ水を入れるには自然の流水にたよるより外に方法がなかった。 日照が何日もつづくと稲田はわれ畑はかわき作物が枯れてききんとなることが何十回、何百回あったか知れない程であった。
生木山縁記、慶長年間(約380年前)によっても大旱ばつがあり、地蔵尊の前に祭壇を作って雨气の祈りをした際、二、三日大降りとなって皆んな活きかえって喜んだとある。
その後の旱ばつの際、地蔵様とこの石の間で火を焚き「なむあみたぶつ」と唱えて天に雨を下さいと折ったものである。 丹原町文化協会」とあった。
道標2基
境内には2基の道標がある。1基は県道48号脇。手印は生木地蔵方向を示し「左 第六十番札所 横峯寺道 是之百十八丁 大正九年六月」とあるようだ。 もう一基は本堂と大師堂の間、山麓に沿って西側に廻る路地入り口に立ち、「生木地蔵大士 横峯寺へ三里 国分寺へ三里半」と刻まれる、という。




松山道交差箇所の道標
山麓の土径を西に廻りこむと南東へと中山川に続く舗装道路に出る。そこから少し進むと地蔵台座の道標がある。「えひめの記憶」に拠れば、ここは江戸時代の松山道(中山道)で、「この松山道は桧皮(ひわだ)峠を越えて石経(いしきょう)(丹原町)、今井、願連寺を経て壬生川(にゅうがわ)港(東予市)へ至る道であり、松山領の道前地方の物産を積み出すための道でもあった」とある。現在では、往昔の道の名残はなく、田圃の畦道が交差するだけではあった。
松山道(中山道)
桧皮(ひわだ)峠を越え、桜三里を経て周桑平野に出る道筋は金比羅街道と呼ばれた道筋と同じように思える。周桑平野の扇状地・扇の要で左右に分かれ、右は中山川を越えて金比羅道として進む。左に折れるのが上述道筋かと思う。

北田野の舟形地蔵
更に道を進むと道路四つ角に舟形地蔵が立つ。「えひめの記憶」には「文化年間(1804~1818)のころ、一人の女遍路が見事な稲穂を国に持って帰ろうとしてある百姓に打ち据えられたため死亡した。その後、女遍路を打ち据えたその百姓の家運は衰えてしまった。そこで祈祷(きとう)してみると、その女遍路の崇(たた)りであることが分かり供養のために建てたものであるという」とあった。

台座に沙界霊と刻まれた地蔵
少し進むと「沙界霊」と刻まれた台座にお地蔵様が祀られる。「沙界」とは「ガンジス川の砂のように無量無数にある世界」とあるが、それ以上の詳しいことは分からない。



田野上方に道標2基
その先、交差する道路を越えると直ぐに2基の道標。小振りな角柱道標と自然石の丸い道標である。摩耗が激しく文字も手印も見えなかった。

ほ整備事業場
道脇に「明日の担い手を育む ほ場整備事業 ほ場整備は子供たちの夢 あなたのふるさとを守ります」の看板。「ほ」は田圃の「圃」。大雑把にいえば、既存の田んぼを広く使いやすい形に直し、併せて排水や用水路の整備を一体的に行い、次の時代に向けて田んぼの整備をする事業のことのようである。

野中の大師
少し進むと石仏や石碑が並ぶ。「えひめの記憶」には「「野中の大師」と呼ばれている接待所跡がある。『丹原町の文化財』には、「石に刻まれた地蔵菩薩と、弘法大師座像の石仏及び2基の回国供養塔がある。このあたりは往時は広々とした田野(でんや)で、弘法大師の石仏も風雨にさらされていたので、『野中の大師』と名付けられ、茶堂場として、また接待所として親しまれていたと思われる」とある。
「えひめの記憶」には、この地に自然石の道標があるとのことであるが、見つけることはできなかった。
回(廻)国供養塔
六十六部回国供養塔、または六部供養塔とも呼ばれる。六十六部または六部とは、法華経を書写して全国の六十六カ国の霊場に1部ずつ納経して満願結縁する巡礼行者のこと。回国供養塔は回国の成就・満願成就の供養、廻国半ばながら何らかの結縁故に造立された中供養の塔、死没した廻国者の供養、廻国者に対する施宿・施行の供養、廻国者による作善の供養などの為に建立された塔である。

中山川・石鎚橋
野中の大師を越えた遍路道は、「ここから中山川に向かって進み四つ角で左折し、田野上方947の前で二手に分岐したうちの右の細道を進む。さらに現在は工場群の敷地となっている所を斜めに横切り、中山川に架かる石鎚橋のやや上手に出ていたようである」とある。
今一つルートは特定できないが、ともあれ工場敷地を抜けて石鎚橋の上流(手前)100m先辺りに出ていたようである。現在その跡を辿ることはできない。

今回はここまで。生木道を順打ちで横峰寺登山口に辿る遍路道のうち、中山川を越え、小松の大頭から湯浪の横峰寺登山口までのメモは次回にまわす。