日曜日, 10月 29, 2017

伊予 歩き遍路;五十八番札所・仙遊寺から五十九番札所・国分寺へ

前回の散歩では、今治平野を横切り、高縄山地が今治平野に落ちる丘陵地帯に建つ五十七番札所・永福寺、そして五十八番札所・仙遊寺までカバーした。 今回はその丘陵地から再び平野に下り、瀬戸の燧灘近くの五十九番札所・国分寺へと向かう。
常の如く遍路道は、「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター」に記される遍路道標を目安に歩くことになるのだが、仙遊寺から国分寺まではふたつの遍路道があるとのこと。今治市新谷(にいや)の吉祥禅寺前を経由する道、そしてかつての越智郡朝倉村(現今治市古谷)にある竹林寺を経由する道がそれである。 どうせのことならと、今回は吉祥寺経由と竹林寺経由のふたつの遍路道をカバーする。


 本日のルート;仙遊寺・国分寺道分岐点>五郎兵衛坂>両手印の道標 >吉祥寺道と竹林寺道の分岐点
吉祥寺をへて国分寺へ
手印だけの道標>里道とのT字路に2基の道標>小堂と舟形地蔵道標>吉祥寺の道標>新谷集落の手印だけの道標>池田池前の道標>大野の道標2基>新谷の静道道標>旧県道155号交差箇所の道標>旧朝倉街道交差箇所の道標>松木の道標と舟形地蔵>県道156号合流点の道標>JAおちいまばり富田>頓田川・国分寺橋南詰の道標>国分の道標2基>国分の境界石>境界石傍の2基の道標 >境界石傍の2基の道標
竹林寺をへて国分寺へ
吉祥寺道と竹林寺道の分岐点に>険路>舗装された道に>舟形地蔵道標>土居上池の道標>八幡神社傍・三差路の道標>牛神古墳>竹林寺>旧県道155交差箇所の道標>宮ヶ崎の道標>登畑の道標>県道156号に合流>五十九番札所・国分寺


仙遊寺・国分寺道分岐点
仙遊寺の本堂や大師堂にお参りし、沢に沿って造作した参道を下り仁王門に戻る。仁王門から先は舗装された車道となるが、国分寺への分岐点は仁王門のすぐ近く。徳右衛門道標、真念道標が並び、台座に静道の句が刻まれたお地蔵さまが佇む箇所にある国分寺道へと車道を離れる。
国分寺へ向かうふたつの遍路道は丘陵を下り切る手前まで共通のルートである。



石燈籠・五郎兵衛坂
車道を離れた国分寺道は丘陵を下る細い土径となる。道傍に佇む2基の舟形地蔵を見遣りながら道を進むと一対の石灯籠が見え、その手前に「五郎兵衛坂」の案内があり、「昔々仙遊寺には伊予守から奉納された大きな太鼓が置いてありましたが、この大太鼓は音もたいへん大きく、桜井の海岸にまでそのたたく音が聞こえたそうです。
この大きな音に魚が逃げて漁ができないと、五郎兵衛という漁師が大層怒り、仙遊寺に上り、包丁でその大太鼓を破った上に、仏様に悪口雑言をあびせました。
その帰り道、この坂でころんで腰を打ち、その時の怪我がもとで亡くなったそうで、それ以来この坂を五郎兵衛坂と呼び、この坂を歩くときは、気をつけてゆっくり歩くようになったといわれています」とあった。

「えひめの記憶」では少々ストーリーが異なっており、「庖丁でその大太鼓を破ったうえ、仏様に悪口雑言をあびせた」までは同じなのだが、その後は「その帰り道、五郎兵衛はこの坂でころんで持っていた包丁が腹にささり、それがもとで亡くなった」とあった。こちらのほうが「庖丁」をキーにした因果応報という意味合いでは繋がりがいいのだが、少々強烈過ぎる。だれかが薄味にしたのだろうか。
舟形地蔵と石灯籠
五郎兵衛坂の由来はそれとして、「えひめの記憶」には「坂の途中右側に舟形地蔵の道標がある。やや下ると道の左右に一対の文化年間(1804~1814)建立の石灯ろうがある」と記す。この記事に従えば、五郎兵衛坂は舟形地蔵があったところであり、石灯籠の手前ということになる。
石灯籠から先はそれなりに傾斜のある坂だが、その手間はなんということもない坂である。五郎兵衛坂って実際はどのあたりか、ちょっとわからなくなってしまった。

両手印の道標
石灯籠を越え、山道を少し下ると結構立派な道標が立つ。この道標にはお地蔵さまが刻まれ、その両手は上下を指す。今まで多くの道標を見てきたが、お地蔵さまの全身が刻まれ、その両手で上下を指し示す姿は、はじめてである。一本道の山道故、指示自体に特に実用性はないのだが、なんとなく面白い。





吉祥寺道と竹林寺道の分岐点
道を下り、前面に丘陵下の里が大きく開ける辺りに「国分寺5.9km」の木標とともに2基の道標がある。一基は「へんろ道」と刻まれ左を指す。こちらが吉祥寺経由の遍路道。
一方、右を指す「日本三霊場 四国霊場番外 智慧文殊尊道」と刻まれた道標は竹林寺経由の遍路道である。竹林寺を地元では「智恵の文殊さん」と呼ぶ故のことである(「えひめの記憶」)。この分岐点を左に折れ、まずは「吉祥寺経由の国分寺への遍路道」を辿ることにする。


■吉祥寺をへて国分寺へ■
手印だけの道標
分岐点から少々キツイ坂を比高差40mほど下ると舟形地蔵、折れた遍路墓らしき石柱の脇に手印だけの道標がある。「えひめの記憶」に手印だけの道標とあるから、そうかと思うが、摩耗し手印もほとんどわからない状態ではあった。





里道とのT字路に2基の道標
舟形地蔵が並ぶ遍路道を下ると舗装された道に合わさる。道の右手には三島神社があり、そのT字路の遍路道の左右に道標がある。
三島神社側、仙遊寺を示す「しこくの道」の木標下には手印だけの丸石の道標、逆側は結構大きな道標であり、「遍んろ道」の文字とともに手印が刻まれる。仙遊寺方向への手印の下には「され山」らしき文字が読めた。「されやま;佐礼山」とは仙遊寺のことである。
国分寺方向を示す手印に従い道を左に折れ谷の集落へと入る。
三島神社
由緒書には「御祭神 大山積大神 上津姫 下津姫 乎致守興 大山積大神は天照大神ノ兄神 山ノ神々の親神ニアタラレ マタ和多志大神トモ云ワレテ地神・海神 兼備ノ大神霊トシテ日本ノ国全体を守護シ給ウトコロカラ古代カラ日本総鎮守と尊称サレル。
当神社ハ乎致守興 同玉澄ニヨリ神亀五年、大三島ノ大山祇神社を勧請・創建シタ後、父守興ノ霊ヲ合祀シ河野大明神トモ称サレル」とあった。

大山積大神のことは古事記と日本書記でその誕生記述が異なるなど、門外漢にはややこしくてよくわからない。御祭神に大山積大神とともに上津姫 下津姫と記されているのは、日本書記にイザナミが亡くなる因となった火の神が、大山祇神、雷神(上津姫)、高籠神(下津姫)の三神に分かれた故のことだろう。 「乎致」は「越智」のこと。玉澄は系図には河野氏初代当主とあるが、何度かメモしたように河野氏に関する記録は平安末期、頼朝に呼応し平氏打倒に挙兵した22代当主通清以前は確とした記録はない。

小堂と舟形地蔵道標
谷の集落に小さなお堂があり、その中に舟形地蔵道標がある。お地蔵さまの頭の上にはっきり刻まれた手印が見える。舟形地蔵の丁石は結構見かけたが、手印のついた道標はあまり見かけなかったように思う。

吉祥寺前の道標
谷の集落を抜け、遍路道は大きな車道と交差し、右手に池、左手に吉祥寺のある間の道を進む。寺前池の畔に石碑、舟形地蔵、地蔵菩薩が佇む。が、これがどう見ても道標とは思えない。池の辺りを右往左往すると、車道との交差点の直ぐ先に道標が見つかった。
道標には手印とともに「是より佐礼山」、また手印と「遍んろ道」文字とともに国分寺への道を指していた。道標から仙遊寺のある佐礼山を眺めると、仙遊寺の堂宇らしき建物が見えた(ように思えた)。
吉祥寺・鷹取殿
吉祥寺は臨済宗妙心寺派のお寺様。落ち着いたいい雰囲気のお寺さまであるが、それよりお寺境内にある鷹取殿と案内のある社が気になった。神仏混淆の頃は吉祥寺と共にあったであろう社であるが、「殿」という呼称にフックが掛ったわけである。
石段を上る。右手の堂宇には三島の神紋があった。更に石段を上りお堂にお参り。お堂の欄間は波形に彫られ、そこに注連縄がかかっていた。また赤ちゃんの前垂れや絵馬が多数奉納されている。チェックすると、このお堂は秀吉の四国征伐の折、このお堂のある鷹取山で小早川勢に敗れ自害した正岡氏、またその妻子を祀るお堂とのこと。
そのことと安産の関係は?さらにチェックすると、鷹取城が落ちて百年以上たった江戸の頃、吉祥寺の和尚が夢の話が登場してきた。和尚は正岡氏の奥方が夢枕に現れる。その弔いにと新しい墓石を取り寄せ、奥方の名を掘ると白い筋が現れる。いくら取り換えても白い筋が消えることがない。和尚は、その白い筋は腹帯であろうと、その石を墓として祀った、と言う。
「殿」との関連は不詳だが、なんだかおもしろい話に出合った。

新谷集落・手印だけの道標
吉祥寺前の道を道なりに少し北東に進むと、道の右手に手印だけの道標がある。「えひめの記憶」にそれと記されていなければ、道標とはわからないだろう。自然石にははっきりと手い印が刻まれていた。

池田池前の道標
県道155号を越え、さらに道なりに300mほど進むと民家ブロック塀手前に大きな道標が立つ。手印と共に「へんろみち」の文字がしっかり刻まれている。嘉永五年との年号も読めた。
「えひめの記憶」には「池田池の前」とあるのだが、道は池から離れている、というか、民家に遮られており、「池の前」の文字面をあまり気にしないほうがいいかとも思う。

大野の道標2基
新谷の集落から大野(大野も今治市新谷)の集落に入ると2基の道標がある。1基は大野の墓地の前。電柱とゴミ収集スポットの横に立つので見落とすことはないだろう。「へんろみち」の文字と共に手印が国分寺方向を指す。
また、その道標のすぐ東、生垣前に道標が立つ。「へんろみち」と共に、この道標も国分寺方向を指す手印が刻まれる。

新谷の静道道標
「えひめの記憶」には「さらに北東に約600m進むと、県道今治丹原線(155号)に出る100mほど手前左側の畑の奥隅に斜めに傾いた道標がある。この道標には、静道の「雪とけて元の山家となりにけり」という佐礼山を詠んだ句が刻まれている」とある。
ちょっと混乱。現在の県道155号は吉祥寺から池田池に向かう途中にあった。とりあえず道なりに進むと道の左手に大きな道標があった。水路脇に立つが、記事にある「畑の奥隅」とはなっていない。県道も「えひめの記憶」を作成した当時の旧県道のことだろう。周辺の景観も変わってしまったのだろう。
手印と「へんろみち」の文字は読めるが、側面に「雪」らしき文字を認めるほかは門外漢には読むこと能わず。
静道
「三好保治の研究によると、静道(1815~1872)は今治の人、尚信、のち静道尚信と称し、「金吉屋静道」「寛譽静道」「心精院静道」「静道居士」「光風亭静道」「金川堂静道」「雪霽庵静道」などの異名を持った。先祖は今治城下鍛治町に住む鍛冶職人で、屋号は金吉屋、在家仏者だと思われる。弘化2年(1845)から没年までの27年間に12種35個の石造物を今治市内外に残しているという。南光坊から五十九番国分寺に至る道筋に、連続した内容と思われる俳句が彫られた静道道標が7基ある(えひめの記憶)」と記す。

旧県道155号交差箇所の道標
静道道標から直ぐ東、旧県道と交差する手前に道標が立つ。地蔵の像と共に順路・逆路の手印。側面には「五十九番国分寺」、逆面には「五十八番」の文字が読める。



旧朝倉街道交差箇所の道標
道なりに進み松木集会所前に2基の道標がある。1基はへんろ道標。「国分寺 十八丁」と刻む。もう1基は「朝倉 不動殿 三十丁」と刻む。「えひめの記憶」には集会所傍でクロスする道筋は旧朝倉街道とある。
朝倉街道
朝倉街道の詳細は不詳だが、旧朝倉村は世田薬師から世田山城を抜け朝倉に抜けたときに出合った。北は今治平野に向かって開けるが、三方を山地で囲まれた朝倉で知らず幾多の古墳に出合った。古墳が三百以上も現存する、と。実際、地名は、斉明天皇に由来するとの説もある。斉明天皇が百済救援への出兵に際し、この地に滞在の後、九州の朝倉に兵を進めた故である。ともあれ古くから開けた地であったのだろう。
因みに「不動殿」だが、満願不動とも称される朝倉の万願寺のことだろうか。
松木と弘法大師
「えひめの記憶」には「ここ旧松木村(現今治市松木)には弘法大師にまつわる伝説が『今治夜話』に残っている。それによると、大師がけちで欲ばりな老婆を懲らしめるため井戸を金気(かなけ)水にしたという」という話が残る。全国各地に弘法大師の法力により井戸、清水などを湧出したという話が残るが、同じく、悋気の村人を懲らしめるべく清水を錆び気(金気)のある水に変えてしまったという話も多く残るようだ。この松木の伝説もそのひとつだろう。 弘法大師も有名人故に、全国各地に忙しい。いつだったか信州の千国を越えて塩の道を日本海へと抜けた山道にまで弘法水があった。

松木の道標と舟形地蔵
国道196号を越え道なりに進むと、平屋の集合住宅(松木団地)手前、道の右手に道標がある。逆路を示す手印と「へんろ」の文字は読めるが、下部は埋まっている。「えひめの記憶」に拠れば、下部は破損しているようだ。道標の道を隔てた反対側には自然石と並んでちいさな地蔵が佇む。

県道156号合流点の道標
更に道なりに進むと県道156号にT字で合わさる。その角に「国分寺道」と刻まれた比較的新しい道標がある。「えひめの記憶」には「かつて周囲が田んぼであったこの角には、今のものより大きな手印の遍路道標が立っていたそうだが、戦後松木団地造成の時にトラックに折られてしまい、その代わりに新しく今の道標が、昭和38年(1963)に建てられた。折損した道標は、その後しばらく向かいの小川に放置してあったが、いつのまにか無くなってしまったという」とあった。

JAおちいまばり富田
道標に従いT字路を右に折れ、予讃線を越えた先、道の左手にJAおちいまばり富田がある。「えひめの記憶」には「この向かい側の川上手に昭和11年(1936)建立の道標がある。この辺りから北東側(今治市上徳)にはかつて伊予の国府が、あるいは道路の南西側には南海道の越智駅があったのではないかといわれているが、明らかではない」とある。
道標を探したのだが、川筋は道路工事中。あちことさまよったのだが道標らしきものを見付けることはできなかった。
南海道・越智駅
南海道とは都と南海道諸国(紀伊国・淡路国・阿波国・讃岐国・伊予国・土佐国)の国府を結ぶ古代の官道。古代官道は古代朝廷が飛鳥時代から平安時代前期にかけて計画的に整備・建設され、7世紀中期頃に全国的に整備が進んだが、8世紀末から9世紀初頭の行政改革により次第に衰退し、10世紀末から11世紀初頭に廃絶した。
で、この南海道の愛媛のルートは、讃岐からおおよそ現在の国道11号に沿っており、30里(16キロ)毎に駅馬を配した駅家としては、近井(愛媛県四国中央市土居町中村)、新居(愛媛県新居浜市中村松木)、周敷(愛媛県西条市)、越智(愛媛県)があった、とのことである。
なお、伊予の国府の所在地は諸説あり、今治市上徳、現在の富田小学校あたりとの説が有力とのことだが未だ確定していないようだ。

頓田川・国分寺橋南詰の道標
県道156号を下り頓田川に至る。頓田川手前には天保年間の文字が読めるお地蔵さまが佇む。中央の大きなお地蔵さまを幾体かの舟形地蔵が囲む。 頓田川を渡り道の右手、奥まった木々の中に立派な道標が立つ。手印と共に「遍んろ道」の文字が読める。側面に刻まれた文字は、「えひめの記憶」に拠れば静道の句とのこと。「竹に宿る雀も見えて夏の月」と言われれば、門外漢でもそうと読める。
頓田川
川名の由来は不詳だが、富田川の転化ではあろう。「えひめの記憶」によれば、「今治平野南部には五葉ヶ森に水源を発した頓田川は大きく蛇行をしながら白地を経て上朝倉に出る。上朝倉で北流する黒谷川と合流した後、大きく湾流しながら朝倉村のやや中央部を貫流した後、進路を霊仙山西方で北進して多伎川と合流して今治平野の南部を東北に流れ唐子山独立丘陵の北山麓部を巡り燧灘に注ぎ唐子浜なる砂浜海岸を形成している。
だが現在の頓田川は宝永四年(一七〇七)に河道の付替工事を行っており、幕府領である登畑村・宮崎村への許可願いが出されていることでも明らかなごとく、河川の増水によりしばしば氾濫し町谷・本郷・高井・徳森・久積は頓田川による扇状地で形成された地域と推定される。
これら扇状端部に伏流水を集め流れる竜登川及び銅川はかつては、頓田川の旧河道と見るべきであり、頓田川の開析作用で大きく自然堤防を造りだしたと見られる町谷の堤防があり、ちなみにこの自然堤防上には弥生前期から古墳時代に及ぶ文化層が確認されている。
頓田川はかつては、霊仙山の西山麓宮崎より直進して楠谷山(六八・六メートル)の東山麓をうがって流れた後、水力は衰え扇状地を形成したが、今治平野のやや中央部を流れる蒼社川の開析作用と相まって、沖積平野や扇状地形の進行とともに頓田川の流路は次第に変化縮約されて東北へと流路を取りながら、今治平野南部での堆積作用はなされたものと見られ、これらによる旧河道が、前述の銅川、竜登川である」とあった。

国分の道標2基
予讃線と並行して走る県道156号が、東に少し離れる箇所で県道と分かれ、予讃線に沿った道を100mほど進むと左に折れ、再び県道に向かう道がある。その角に道標が立つ。「左 へんろ道」と共に手印が国分寺方向を指す。側面には「従是 国分寺」らしき文字も読める。
また、この角から少し南の民家前にも少し小振りな道標が見える。「えひめの記憶」にはこの道標は真念道標とのこと。「喜代吉榮徳氏の『四国遍路 道しるベー付・茂兵衛日記』によると、この真念道標は、源五郎地川の橋げたにしていたものを昭和58年(1983)春の河川工事の際に地元の人たちが見つけ、再建したそうである。それを喜代吉氏らが今治市内の道標調査の際、全く偶然に見い出したというもの」とあった。
なんとなく立つ場所に違和感を持ったのだが、上述記事で経緯がわかり納得。こちらも「左 へんろ道」らしき文字が読める。

国分の境界石
県道156号に戻り、少し先に進むと、道の右手に境界石がある。「従是西今治領」と刻まれた結構立派な境界石である。
ここでちょっと疑問。是より西は今治領とのことだが、それでは東は?いつだったか丹原辺りを歩いているとき、松山領とあった。松山藩かとチェックすると、この地の東、越智郡桜井村、孫兵衛作村、登畑村、旦村、宮ケ崎村、朝倉下村、朝倉上之村、長沢村は松山藩預領地の幕府領であった。そういえば、上述頓田川のメモで「幕府領」と記してあった。




境界石傍の2基の道標
境界石の傍、県道右側に道標2基が並ぶ。コンクリートに下半分が埋もれている道標の手印は国分寺と逆方向を示している。また文字も1基は「へんろ」だが、もう1基は「へんど」とも読める。
「へんど」かどうか定かではないが、我々が子供の頃に「遍路;へんろ」と言った記憶はなく、「へんど」と呼んでいた。「へんど」とは「辺地・辺土」のことである。
へんど・辺土
四国遍路の始まりは、平安末期、熊野信仰を奉じる遊行の聖が「四国の辺地・辺土」と呼ばれる海辺や山間の道なき険路を辿り修行を重ねたことによる、と言われる。『梁塵秘抄』には、「われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、また笈を負ひ、衣はいつとなくしほ(潮)たれ(垂)て、四国の辺地(へち)をぞ常に踏む」とある。
「辺地」が「遍路」と成り行くプロセスは、辺地を遊行する道ということから「辺路」となる。熊野の巡礼道が大辺路、中辺路と呼ばれるのと同じである。そして、辺路が「遍路」と転化するのは室町の頃、高野聖による四国霊場を巡る巡礼=辺路の「遍照一尊化」の故ではないだろうか。
「遍照一尊化」とは特定の宗派に統一されたものでなく、様々な信仰・聖地から成っていた四国霊場が、平安末における大師信仰の一般化にともない、弘法大師空海を核としたものとなっていったことを指す。
「へんど」から少々話が広がったが、何度かメモしたように子供時代の我々にとって「へんど」とは物乞い・乞食と同義であった。悪戯をすると「へんどにやるぞ(連れて行ってもらうぞ)」と言われると、ピタッと悪戯を止めたものである。そんな「へんど」も社会が豊かになり社会福祉が整備されるとともに姿を消したように感じる。

国分寺駐車場入口の道標
境界石から少し先に、県道より分岐し国分寺に至る道がある。その入口に道標が立ち、手印の指す道を進むと駐車場がありその前には国分寺境内への石段がある。
吉祥寺経由の国分寺までの遍路道は一応ここまでとし、もうひとつの遍路道に移る。





■竹林寺をへて国分寺へ■

仙遊寺から国分寺へと向かう遍路道のひとつ、吉祥寺経由のルートは先日国分寺まで歩いた。日を改めてもうひとつの遍路道である竹林寺経由のルートを辿る。

吉祥寺道と竹林寺道の分岐点に
吉祥寺近くに車をデポし、仙遊寺から山道を下り、前面に丘陵下の里が大きく開ける辺りにあった吉祥寺道と竹林道の分岐点に向かう。 吉祥寺から先回歩いた谷の集落を抜け、三島神社手前の2基の道標から山道に入り分岐点に。
「日本三霊場 四国霊場番外 智慧文殊尊道」と刻まれた道標に従い、竹林寺経由の遍路道へと分岐点を右に折れる。

険路
地元では「智恵の文殊さん」と呼ぶ竹林寺道は、遍路も通らないのか、結構荒れている。道の中央が深く抉られ、沢登りのステミング(蟹の横這い)状態で慎重に山道を下る。距離が短いのが救いではあった。






舗装された道に
ほどなく舗装された道に出る。道なりに進むと谷の集落から吉祥寺道の2基の道標箇所を越え、三島神社を南に進む道と合わさる。吉祥寺道と竹林道は三島神社を挟んで丘陵の南北を下ることになる。






舟形地蔵道標
三島神社からの道を左に見て道なりに進むとT字路に出る。その角に舟形地蔵の道標がある。仙遊寺を指す新しい石柱道標と並んでおり見落とすことはないだろう。ここで山道から完全に里の道となる。

土居上池の道標
舟形地蔵道標から左に折れ道を下ると今治市新谷・土居の集落に入り、土居上池に。池脇の道を右に折れるとすぐ、池畔に道標がある。「五十九番」の文字と、逆打ちを示す手印が刻まれる。






八幡神社傍・三差路の道標
道なりに進み、八幡神社の少し北のT字路、民家の塀の前に道標が立つ。「文殊尊道」の文字と共に右を指す。
T字路を右に折れ、八幡神社の前を過ぎると宮下池にあたる。





「えひめの記憶」に拠れば、ここからの遍路道は、「かつての遍路道は、この池の土手を通り、山の中の道を通ったものと思われるが、今はこの道はほとんど使用されておらず、宮下池から先の道は草木が生い茂り通れる状態ではない。
現在の遍路道は、池の手前を左折して東進し、県道今治丹原線(155号)に出て山すそを通って朝倉村古谷の竹林寺へ向かっている」とある。
地図を見ても、土手から丘陵へと実線が描かれているが、山頂手前で切れている。藪漕ぎでも、と一瞬思ったのだが、台風直後のグズグズ道に躊躇い、宮下池の先に見える丘陵を眺め、歩いた気になってお終いとした。


八幡神社
池の土手から池を隔てた丘陵に見える社を眺め、何となくお参りをしたくなった。ちょっと道を戻り、少々アプローチがわかりずらい参道を進み拝殿にお参り。案内には「保延元年(1135)、石清水八幡宮より国司河野伊予守親清によって勧請され、当時既にお祀りされていた宗像三女神を祭神とする「姫宮」を合祀し、新谷鎮座の三島神社と同様に崇敬されている」とあった。
河野通清
河野氏の系図では、四面楚歌の中、頼朝の平氏打倒に呼応し挙兵した河野通清(第22代当主)の祖父・親経が伊予守・源頼義の四男・親清を養子に迎え第21代当主としたとされる。とはいうものの。河野氏の記録に通清以前の正確なものは残っておらず、この養子説も源氏挙兵に呼応した通清と源氏との強固な関係性を正当化するためのもの、といった説もある。実際頼義に親清という子がいるという記録もないようだ。縁起は縁起として置いおくべし、ということだろう。

牛神古墳
丘陵越えの道を諦め、県道を通る道に出る。現在(2017年10月末)、宮下池の下は現在、分断されているしまなみ海道と今治小松自動車道を接続するための高速道路工事が行われている。工事の為通子止めの道もあり、とりあえず成り行きで県道に出て竹林寺へ。
県道を少し下ると道の右手に牛神古墳がある。竹林寺へは、この牛神古墳から右に分岐する道に入るようだ。
牛神古墳にちょっと立ち寄り。案内には「古墳の里 あさくら  朝倉村の古墳は5世紀から7世紀にかけて千数百年前に造られた古墳である。かつては村内に300基以上もあったと言われるが、現在では訳50が見学可能なものとして確認される。
出土物は、朝倉村ふるさと美術古墳館に展示されている」とある、その地図とともに牛神古墳、多岐宮古墳、樹之木古墳、野々瀬古墳群、野田古墳群、禰宜屋敷古墳群、清水寺古墳群などの説明があった。
古墳へのアプローチには展示館が設けられており発掘当時の写真や土器が多数展示されていた。古墳にはコンクリートの開口部が設けられており、石室内部を見ることができた。
牛神古墳
案内には「本古墳は、直径13メートル、墳丘4メートルと推定される円墳であり、墳丘内に2つの埋葬遺構を持つ一墳丘二石室の古墳である。
古墳の造営は遺構や副葬品が6世紀後半の時代と推定される。
内部主体は横穴式の石室で、全長6メートルで玄室全長4メートル、奥壁幅2メートル、天井高2.5メートルの両袖式の石室である。
1基は全長2メートル、幅1メートル~1.3メートルの竪穴式石室であった。石室の主軸方向は北35度東と北25度東をとる。副葬品としては装飾具の他に須恵器や鉄器である」とあった。

これら多数の古墳造営の要因は蒼社川や頓田川の扇状地として形成された沖積平野による稲作の発展、それに伴う富裕豪族の出現、さらには瀬戸の開運の船泊としての立地が挙げられるようだ。来島海峡といった海の難所を乗り切る寄港地として今治の桜井あたりが古代の海運要衝の地であったのだろう。

竹林寺
牛神古墳を右に入り、成り行きで竹林寺に。丘陵を背にしたお寺さまの姿はなかなか、いい。山門を潜り境内に入ると一見すると大きな農家といった建物が見える。庫裏であり大師堂である。左手には古い堂宇があり位牌堂とあった。智慧の文殊様の風情は何処に?
境内を彷徨うと右手に石段が見え、その先に堂宇が建つ。石段を上ると古き趣のお堂があった。智慧の文殊様の本堂はここだろう。お堂から眺める今治平野の眺めはなかなか、いい。
寺伝に拠れば、今から約千三百年前、天武天皇(在位672~686)の時代に、越智大領小千守興(おちもりおき)が願主となり地元出身の三論宗の僧観量大徳が御堂を建立し、毘盧遮那仏を本尊とし、真如坊と号したのがこの寺の始まり、と言う。
後の天平七年(735)、行基が巡化の際に文殊菩薩を刻み本尊として、中国の五台山に模し五台山文殊院竹林寺と改めた。
弘仁三年(812)には弘法大師が逗留し、住職の観光上人に文殊菩薩五百万遍の秘法を伝授。今日日本三大文殊霊場と称される所以である。
以後、寺は鎌倉時代を通じて次第に整備され、竹林寺7坊を管理した。戦国時代に、吉祥寺の箇所で既にメモした鷹取山城主正岡家の祈願寺となるも、秀吉の四国征伐で正岡氏が討ち死にし、寺領も没収された。
江戸時代には今治藩寺社奉行方の支配下となり、また小松藩一柳氏の厚い信仰を受け、『智慧の文殊さん』として庶民にも親しまれた。
境内には四季桜と呼ばれる、毎年10月頃から翌年の4月頃までの長期間にわたり、次々と花を咲かせるという珍しい木も立っていた。

旧県道155交差箇所の道標
竹林寺から先に進む。「えひめの記憶」には竹林寺からの順路として、「竹林寺から東へ坂道を下って行くと三差路に至る。そこにある消防車庫の脇に地蔵堂と破損した道標がある。「□□□道」としか読めないが、国分寺を示したものと思われる」とあるのだが、道標が見つからない。消防車庫らしきものも、地蔵堂も見当たらない。あちこち彷徨ったのだが、結局見つからなかった。

更に、この記事に続けて「えひめの記憶」には、「三差路を左折し、多岐川に沿った遍路道を北東へ進む。川の土手を約1km行くと、県道155号と交差する。この四つ角の北西側に道標がある」とする。

県道まで1キロ?竹林寺から下りた多岐川筋から県道155号まで200mもない。考えらえることは、この県道は新しく通されたもので「えひめの記憶」の記述は旧県道のことではないか、ということ。そう言えば、上述新谷の静道道標の箇所でも県道155号に関する混乱があった。
地図でチェックすると多岐川が頓田川に合わさる手前に南北に道が通る。この道のことでは?とあたりをつけて進むと多岐川沿いの道がT字に合わさる箇所に道標があった。道標は摩耗し、文字も手印もわからなかった。

宮ヶ崎の道標
「えひめの記憶」には、旧県道から先の順路として「この道標に従い、県道を越え頓田川へ向かって進み、頓田川に架かる栄橋を渡って四つ角を左折し、頓田川に沿った土手下の道を川下へ約200m行くと三差路に至る。その角に「五十」の刻字だけが見える道標がある。この道標から三差路を右折し、三島神社のある山に向かって約200m進んで左折すると、すぐ右側に山型鋼と針金で補修された道標がある」とする。
記事に従い頓田川に架かる栄橋を渡り、記事にある少し下流の三差路辺りを彷徨うも道標を見つけることはできなかった。
三差路を右折し、正面に三島神社の鎮座する丘陵に向かって進み田圃の中の道を左折すると道標があった。三差路の道標はみつからなかったが、この道筋が遍路道のようだ。
「えひめの記憶」に既述の如く、山型鋼と針金で補修されている。側面の文殊道の文字と手印は読めるのだが、正面は摩耗文字も手印も読めなかった。

登畑の道標
田圃の中の道を道なりに進みT字路を右折すると三叉路にあたる。その角、左手の生垣の下に隠れて道標がある。「えひめの記憶」では「二つに折れた道標がある。一方が「五」、もう一方が「番」だけの刻字である」とのことだが摩耗しよくわからなかった。

県道156号に合流
道を北東に進み、国道196号を越え先に進み、予讃線の踏切を渡ると県道156号にT字で合流する。場所は吉祥寺経由の遍路道で出合った「従是西今治領」と刻まれた境界石の傍であった。ここで吉祥寺経由の遍路道と合流する。

五十九番札所・国分寺
吉祥寺経由の道で記した境界石、その傍の2基の道標から南東に少し進み、国分寺駐車場入口の道標脇の道に入ると国分寺の石段前に出る。
石段を上り境内に。本堂、大師堂に御参り。
「えひめの記憶」には「境内には、武田徳右衛門が建てた小さな大師堂がある。これは国分寺を第一番として今治周辺の21か寺を1日で巡拝する「府中二十一ヵ所霊場」の開創と「四国八十八箇所道丁石」建立成就記念の大師像を祀(まつ)る小堂である」とあった。徳右衛門道標で知られる武田徳右衛門は旧越智郡朝倉村の生まれである。
国分寺
Wikipediaには、「天平13年(741年)、聖武天皇が発した国分寺建立の詔によって建立された諸国国分寺の一つである。寺伝では聖武天皇の勅願により行基が開創し、後に空海(弘法大師)が長期にわたって逗留し五大明王像を残したとされる。
長宗我部元親の侵攻の際に焼き討ちにあって荒廃したが、後に再興される。焼き討ちの際に焼失を免れた多くの古文書によって律令制衰退後に国分寺の多くが荒廃していく中で同寺が伊予における仏教信仰の中心地として曲がりなりにも維持されてきたことが明らかになっている。
現在の境内は伊予国府のあった所とされ、かつての境内は東へやや離れた位置にあったとされる。寺の東方100メートルほどのところに塔の礎石が残されており、かつての国分寺東塔跡と認められている」とある。
石段上の徳右衛門道標
駐車場から石段を上り切ったところに徳右衛門道標がある。「従是横峯」の文字が読める「六里二十八丁」と刻まれている、とある。
鐘楼脇の石碑
鐘楼横には、「吉野朝忠臣 従三位脇屋刑部卿源義助公霊廟道 是ヨリ二丁」という石碑がある。脇屋刑部卿源義助とは新田義貞の弟。
脇屋義助の伊予下向の経緯はこういうことである;南北朝争乱期、伊予の河野氏は武家方に与する総領家と宮方に与する庶家の得能・土居氏など、一族が分裂。中央では、延元3年(北朝建武5年;1338)、南朝の重臣である北畠顕家、新田義貞の相次ぐ戦死により武家方が優勢になるも、九州西征府を反撃の拠点とし、そのためにも瀬戸内の制海権を支配せんとする宮方は伊予を重視。新田氏をその祖とする大館氏明氏を伊予の守護として下向させ、新田義貞と共に北陸に散った伊予の宮方である得能通綱・土居通増の後を継いだ忽那・土居氏と共に伊予を一時宮方の拠点とした。
伊予の更なる体制強化のため脇屋義助(新田義貞の弟)を伊予に送った宮方であるが、脇屋義助の病死、阿讃両国を掌握した武家方細川氏の伊予侵攻による大舘氏明の世田城での戦死などにより、伊予での宮方優勢が次第に崩れることになる。
裏参道の道標
鐘楼脇の石碑脇の道を脇屋義助公霊廟に向かう。お寺さまの横には神仏混淆の歴史を残す社がある。春日神社とある。道なりに進み古の昔、幾多の古墳があったとされる国分寺の建つ丘陵をグルリと廻り里に下りるとT字路に。
このT字路は国分寺の裏参道とのこと。T字路角に道標が立つ。「左 脇屋公御御廟處 是より二丁」、手印と共に「国分寺」と刻まれる。
脇屋義助公廟堂の跡
T字路を左に曲がり、道の左手に見える緑の小丘に向かう。石段を上がり御廟に御参り。脇にあった案内には「延元元年(1336)5月、楠木正成、新田義貞らの連合軍を摂津国湊川に打ち破った足利軍は、戦勝の余勢をかって、京都に攻め入った。同年6月、京都の東寺に入った尊氏は、持明院統の光明天皇を皇位につけて政権の合法化をはかり、後醍醐天皇を洛中の花山院に幽閉して、北朝中心の体制をかためた。そこで、天皇はひそかに花山院を脱出し、大和国吉野に潜幸して吉野朝廷をひらいた。
そして尊氏追討の綸旨が諸国の武将に発せられた。ここに、尊氏が擁立した京都の北朝(光明天皇)と、吉野の南朝(後醍醐天皇)の両皇統が並び立ち、諸国の武士は南北の二派にわかれて、熾烈な抗争が各地で展開された。しかし、戦況は南朝方に不利に展開、新田義貞、北畠顕家などの有力武将が相次いで討死、後醍醐天皇も崩御されたので、南朝方の勢力は急速に衰えていった。そこで、後村上天皇は失った勢力を西国で回復するべく、新田義貞の弟脇屋義助を南軍の総帥として伊予にくだした。
興国3年(1342)5月、義助の一行は、塩飽水軍(佐々木信胤)の船団に護送されて、今張(今治)の浦に到着した。しかし義助は不運にもその直後に病に倒れ、国分寺に急逝した。薨年(こうねん)は38歳であった。 この報せをうけた阿波の守護細川頼春は、義助の死を好機とみて、総勢7千の大軍をひきいて伊予に侵入、南朝方が最後の砦とたのむ世田・笠松城を七方から包囲した。
熾烈な攻防40有余日、南朝方は衆寡敵せず、ついに世田城は落ち、大館氏明ら十七士は山中で壮烈な自刃を遂げた。
現在の義助公の廟堂は寛文9年(1669)今治藩士町野政貞らが再建したものである。また、廟堂の脇には、今治藩の儒学者佐伯惟忠が建てた表忠碑があり、貝原益軒の讃文を刻んでいる」とあった。
中央での武家方・宮方の騒乱に伊予の河野一族も分裂し、敵味方に分かれに分かれる。河野総領家は武家方に与するも、四国制覇を目する同じ武家方の細川氏対策に苦慮し、宮方に帰順、さらには武家方に復帰と御家存続のための河野氏の動向は7回に分けて歩いた河野氏ゆかりの地散歩をご覧ください(そのⅠそのⅡそのⅢそのⅣそのⅤそのⅥそのⅦ
国指定 史跡 国分寺塔跡
脇屋義助公廟堂の跡から国分寺駐車場に戻る。「えひめの記憶」に「表参道を東に少し行くと伊予国分寺塔跡(国指定史跡)があり、13個の礎石が残っている」とある。成り行きで道を進むと「史跡 伊豫国分寺塔跡」と刻まれた石柱があり、平坦地に大きな石がいくつも配されている。お堂の礎石だろう。案内に拠れば、「奈良時代 聖武天皇の勅願によって、桜井国分に国分寺が建てられたが、国分はその境内の跡で金堂の他七堂伽藍の大きな堂塔が造営されていた。この花崗岩の大きな塔礎石は1.5m~2mの自然石で表面に頭大の繰方突起があり、径50cm程度の繰方座の柱受けが刻み出され、天平時代のあらうちのみのあとも鮮やかで豪壮なものである。礎石間の間隔は約3.6mで多少傾いたもののあるが整然と並んでいる。
調査の結果、いく段にもつきかためた粘土の層の上に置かれた礎石は、創建当時の姿をそのまま残しているといわれている。この上にあった七重の塔は200尺(約60m)ともいわれ、広大な国分寺の姿をしのぶ重要な遺構である」とあった。

これで西予市卯之町の四十三番札所・明石寺から五十九番札所・国分寺までをつないだ。次は、六十一番札所・香園寺から六十番札所・横峯寺へと逆打ちで歩いた遍路道との間を繋ぐため、今治市から西条市へと向かうことにする。