火曜日, 11月 27, 2018

面河渓谷散歩 そのⅡ;晩秋の頃、石鎚北壁の深い谷、仁淀ブルーの源流・面河渓谷に遊ぶ

面河渓散歩の第一回は,面河への道の道すがら気になったあれこれでメモを終えた。今回は面河渓のメモ。当日は常の如く事前準備無し。成り行き面河山岳博物館手前、石鎚スカイラインが右に折れる手前の駐車場に車を停め,取りあえず歩を進め面河山岳博物館脇にある面河渓散策図でおおよそのルーティング。面河散策ルートは面河山岳博物館がスタート地点であった。
まずは面河山岳博物館から始まる「関門コース」の遊歩道を進み、次いで「面河本流コース」へ。面河本流コースを遊歩道終点まで歩いた後は折り返し、「パノラマ台亀腹遊歩道コース」へと上る山道を経由し「鉄砲石川コース」を歩くことにした。

ルートは予定通りではあったが、そのメモの主眼は当初イメージしていた「紅葉の落ち葉の中をのんびり歩く」といったものとは違ったものになった。勿論、当日は左右に斧で削られたような岸壁が対峙する景勝・関門の渓谷、巨大な一枚岩の大岸壁・亀腹やいくつもの奇岩、開けた河原に敷かれたような一枚岩とも見える白い河床。面河渓を形づくるこれら地形・地質を見ながら、「こんな景観・渓谷はどのようにできたのだろう」と思いながらも、のんびりと散歩をたのしんだのだが、メモの段階でこの面河の景観は石鎚火山活動に伴う陥没カルデラ形成時の「賜物」であることを知った。面河の案内にある結晶片岩とか凝灰岩とか石灰岩とか、何のことやらさっぱりわからなかった岩層・岩質も、今から1500万年前に起きたこの石鎚の火山活動とそれにともなう陥没カルデラ生成の各プロセスを表すものであることもわかった。
門外漢の,それも少々付け焼刃の感は否めないが、景勝面河渓の散歩を地質・地層面の視点を交えてメモしようと思う。

本日のルート;
関門コース
面河山岳博物館>猿飛谷の出合>空船橋>通天橋
面河本流コース
五色河原>亀腹岩>面河茶屋>鶴ケ背橋>蓬莱渓>紅葉河原>第二キャンプ場>下熊淵>上熊淵>石鎚山登山口入り口の鳥居>熊淵橋>休憩所>虎ケ滝>苔の桟道
パノラマ台亀腹遊歩道コース
紅葉河原>パノラマ台の木標>玉
ねぎ岩>急な上り>尾根道>馬の背>亀腹展望台・石鎚山の展望>パノラマ台>隧道入り口・下山口
鉄砲石川コース
隧道>櫃の底>鉄砲キャンプ場>千段の滝>紅葉石>お月岩>兜岩>鎧岩>布引の滝

面河渓

石鎚スカイラインに折れる手前に関門駐車場
面河川に沿って進んで来た県道12号は、前方に面河山岳博物館が見える手前で右に折れ石鎚スカイラインとなるが、面河渓は面河山岳博物館方面へと直進する。事前準備がないため、どこが面河渓のスタートラインか不明だが、県道が石鎚スカイラインへと右折する手前にあった駐車場に車を停める。そこが関門散策コースの駐車場であった。
石鎚スカイライン
石鎚陥没カルデラ(『愛媛の地質』)
昭和45年(1970)開通。当初は有料道路であったが平成7年(1995)に無料開放される。上り口の標高は650m、終点の石鎚登山口ともなっている土小屋は標高1500m。18キロほどの区間を1000mほど駆け上がる山岳道路である。
『愛媛の地質;永井浩三(愛媛文化双書刊行会)』に拠れば、石鎚スカイラインは1500万年前に石鎚の火山活動によってつくられた石鎚陥没カルデラ内を10キロに渡り走り、陥没させた環状断層を3回横切っている、とする。同書に掲載のカルデラの周囲縁線と国道地理院2万五千分の一の地図を見比べると、面河渓に入ってすぐの猿飛谷を抜け、ご来光の滝の展望ができる長尾根展望台手前の金山谷でカルデラの周縁と石鎚スカイラインが合わさっている。地質の門外漢であり確証はないが、これらの箇所がその断層部だろうか。
「岩石鉱物鉱床学会誌「四国 石鎚陥没カルデラと天狗岳火砕流」
陥没カルデラはその径が7キロから8キロの円形状になっている。「岩石鉱物鉱床学会誌(第64巻第1号;1970年7月5日:吉田武義)「四国 石鎚陥没カルデラと天狗岳火砕流」にあった地質図によれば、その域は、東は石鎚スカイラインに沿って猿飛谷から金森谷、スカイラインから離れ番匠谷を横切り、北は鶴の子の頭から石鎚山の天狗岳、二の森、堂ケ嶺に至る稜線の北(鞍瀬川の源流部)を走り、西は堂ケ森西の六部峠から坂瀬川右岸の山稜を下り、南は坂瀬川の谷筋から面河渓の関門・猿飛谷を結んだ外縁に囲まれた一帯のようである。

面河山岳博物館
散策図(面河山岳博物館)
石鎚スカイラインを見遣り、直進すると面河山岳博物館がある。建物の手前に面河渓の散策案内図があり、ここではじめ本日の散歩のルーティングをする。面河散策ルートは面河山岳博物館がスタート地点であった。このまずは面河山岳博物館から始まる「関門コース」の遊歩道を進み、次いで「面河本流コース」へ。面河本流コースを遊歩道終点まで歩いた後は折り返し、「パノラマ台亀腹展望台」へと上る山道を経由し「鉄砲石川コース」を歩くことにした。
行きあたりばったりで来た面河散策ルートも決まった。散歩の前に面河山岳博物館にちょっと立ち寄り。石鎚参詣の動植物や岩石・地質に関する資料が常設展示されている。
猿飛佐助の碑
博物館の前に石碑が立つ。何気なく見ると「猿飛佐助の碑」とある。猿飛佐助って、子供の頃から真田十勇士のひとりとして馴染みの忍者である。何故この地に猿飛佐助の碑が?チェックすると思わぬ話が現れた。
立川文庫は明治から大正にかけ、講談速記をもとに刊行された文庫シリーズ。猿飛佐助は200冊近いシリーズの中に登場する人物である。実在の人物をンベースにしたものか、想像上の人物か定かではないが、猿飛佐助を生み出したのが文庫本を企画した一族の池田真繭子さん。愛媛県今治の出身であり、超人的ヒーローの名前を考えたとき、この地の猿飛谷に架かる猿飛橋を想い起こし、「猿飛」の名が生まれたとする。
誕生譚としてはよくできていると思うし、実際に博物館の上流、関門遊歩道の途中に「錦木の滝」をなす猿飛谷の上流に橋はあるが、空船橋とある。猿飛橋は石鎚スカイラインが猿飛谷上流を跨ぐところに架かってはいるが、そもそも明治や大正の頃に橋があったのだろうか。




関門コース■ 

面河山岳博物館の建物下の駐車場を抜け関門コースを歩く。未だ紅葉の残る散策路を5分ほど歩くと渓谷の右手に滝が見える。錦木(にしき)の滝と呼ばれるようだ。この滝は上述の猿飛谷から落ちているように思える。 錦木の滝 このあたりの渓谷は板状の節理をもつ白い岩壁が、斧で削いたように渓谷の左右に屹立し、仁淀ブルーで名高い仁淀川源流の面河川の清流と相まって美しい渓相を呈する。岩質は石英閃緑岩と言う。
猿飛谷
猿飛佐助の誕生譚はともあれ、錦木の滝が落ちる猿飛谷は前述の石鎚スカイラインのところでメモしたように石鎚陥没カルデラの周縁部にあたる、と言う。そして『愛媛の地質;永井浩三(愛媛文化双書刊行会)』の陥没カルデラの円形周縁部の説明に「安山岩の円形分布図の周縁部のうち関門付近で安山岩とその外側の結晶片岩とが断層で接している」と記す。
関門の渓谷美を形成する岩石は石英閃緑岩。上述書籍では「関門付近で安山岩と結晶片岩が断層で接する」、との記述。地質の門外漢にはなにがなにらやわからないので『愛媛の地質』をもとにちょっと整理してみる。
石英閃緑岩は花崗岩と同じカテゴリーと考えていいだろう。花崗岩は火山活動にともなう火成岩のカテゴリーのひとつ深成岩の代表的なものであり、地下のマグマだまりから地表に貫入したもののようだ。
安山岩も火成岩のもうひとつのカテゴリーである噴出岩であり、火砕流の堆積によってできたもの(石鎚の火砕流堆積物は安山岩とも(溶結)凝灰岩とも記されている)。 一方、結晶片岩は火成岩とは異なる変成岩のグループに属する。変成岩とは海底に堆積した泥や海底火山の噴出物が、1億年前頃に起きた地殻変動によって地下で押し込まれ、高熱と圧力で変成したものと言う。
これらの岩石を石鎚のケースに即し古い順から年代順に並べると、結晶片岩(変成岩)>安山岩(火成岩の噴出岩カテゴリー)>花崗岩(火成岩の深成岩カテゴリー)となる。
これを1500万年前に起きた石鎚の火山活動とそれにともなう陥没カルデラの形成に即してまとめると;
第一フェーズ;もともと石鎚一帯には結晶片岩を主とする変成岩の地層が分布していた。地下深所にあったものが、隆起により地表に現れ、変成岩の上にかぶさっていた他の岩層が侵食作用により削られた結果、変成岩が地表に現れたのだろう。
第二フェーズ;1500万年前、石鎚で火山活動が起きその火砕流が堆積し一面が安山岩や凝灰岩などの火成岩・噴出岩の岩層で覆われた
第三フェーズ;火山活動にともない500mほどの成層火山が出現するが、その後環状の割れ目ができ陥没カルデラが形成される
第四フェーズ;陥没地塊に割れ目ができ、そこに地下からマグマが貫入し花崗岩層ができた
これからわかることは陥没カルデラ周縁部の外は結晶片岩からなる変成岩の岩層、周縁内部の陥没カルデラは安山岩・凝灰岩(火成岩・噴出岩カテゴリー)で覆われ、その中に地下より貫入した花崗岩(火成岩・深成岩カテゴリー)がある、
ということだろう。
上述関門における、安山岩・結晶片岩・花崗岩の混在は、この地が陥没カルデラの周縁部であり、かつこの地に地下からマグマが貫入し花崗岩層を残した結果ということだろう。
と、自分なりには美しく整理できたと思ったのだが、『愛媛の地質;永井浩三(愛媛文化双書刊行会)』の地質図にも、「岩石鉱物鉱床学会誌(第64巻第1号;1970年7月5日:吉田武義)「四国 石鎚陥没カルデラと天狗岳火砕流」に掲載の地質図にも、関門のあたりに花崗岩層は描かれていない。花崗岩層はもうほんの少々上流に記されている。これって誤差の範囲?と思い込む。

空船橋
昭和2年の空船橋(面河山岳博物館)
錦木の滝から先に進み、空船橋を渡り左岸に移る。渓谷の幅は6mから25mほど。底の小石が見えるような浅瀬もあれば、水深6mほどの深い淵もあり、仁淀ブルーにも濃淡のバリエーションがある。
ところでこの空船橋、「えひめの記憶」には、「当時は、道など全くなく、がけをよじ、岩から岩へ跳び渡っての観光であったが、新しい景観が眼前に開けるたびに空船橋や蓬莱渓と名をつけ、今にその名が残っている」とある。これは先回のメモで、明治43年(1910)に地元の教員であった石丸富太郎氏の熱意に応じた『海南新聞』が文人・写真家など9名のメンバーでおこなった面河探索の折の記述であるが、その当時から木橋か吊り橋かといった「橋」が架かっていた、ということだろうか。面河山岳博物館主催の講座パンフレットには。昭和2年(1927)に撮影された空船橋が掲載されている。木橋で現在より少し下流との説明があった。少なくとも昭和初期には橋が架かっていたことは間違いないようだ。それはともあれ、左岸を進み通天橋に。石門遊歩道はここで車道に出る。

通天橋
通天橋は車道に架かる。通天橋の下流は岩壁が屹立する狭い渓谷と空船橋、上流は開けた川床に大きめの岩石が転がる。下流と対照的な渓相を呈する橋の上流で鉄砲石川が面河川に合わさる。その合流点辺りは「想思渓」と呼ばれる。
因みにこの通天橋は昭和30(1955)年頃架けられたものと言う。「えひえの記憶」に拠れば、昭和30年に石鎚山が国定公園に指定されることを受け、観光客の増加を見越しその前から面河渓周辺の自動車道及び林道の整備が急速に進んだとのこと。昭和27年(1952)に関門から五色河原(後述する)に抜ける林道工事が始まり昭和30年に完成。関門の遊歩道もこのときに造られた、と。
また昭和43年(1968)から44年にかけ、増大する観光客に対応するため関門から五色河原までの一部区間は倍の幅に広げられ、現在の車道となっている。

三つの隧道
通天橋まで歩き、先に車道が続くのを確認。峠のピストン歩きの習性故か、土径から車道に出ると即車を停めている場所に折り返す。車道を戻ると途中三つの隧道が抜けていた。昭和30年(1955)頃の林道整備に合わせ通したものだろう。

●面河渓開勝の碑
三つの隧道を抜けた先、道の山側に石碑が立つ。面河渓開勝の碑とあり、明治43年(1910)の面河渓探勝団の事績が刻まれていた。『海南新聞(後の愛媛新聞)』の後援のもと、詩人・画家・登山家・写真家からなる9名の踏査団がこの地を訪れ、その後十数回に渡り海南新聞紙上で面河の魅力を伝えた。これにより面河が世に知られるようになったと言う。
松山から黒森街道を徒歩で進み、面河渓では道なき道を崖をよじ登り、岩から岩へと飛び渡っての探査団の事績を刻んでいた。
石碑を読み終え、崖下の渓谷、岩場を進む遊歩道を見遣りながら面河山岳博物館に戻り、その先の関門駐車場で車をピックアップし、車道を通天橋方面へと走らす


面河本流コースの始点となる五色河原へと向かう。途中、通天橋を越え鉄砲石川が面河川と合流するあたりを「想思渓」と称するが、車道からは樹木に阻まれその眺めは見えない。面河本流に沿って車を走らせると、川に水路施設がちらりと見えた。

面河第一承水堰
当日は砂防堰堤かな、などと思いながらもそのまま通り過ぎたのだが、メモの段階でその施設が先回メモした面河ダムに水を送る承水堰であることがわかった。面河ダムは水の少ない瀬戸内側に、分水嶺を越えて仁淀川水系の水を 送り利水・発電に供するダムであるが、そこに貯める水は仁淀川水系の三つの支流からも水を送る。面河第一承水堰もそのひとつである。
承水堰には面河第二承水堰もあるとする。場所を特定する資料は見付けることができなかったが、国土地理院の2万五千分の一の地図には鉄砲石川にそれらしきものが見える。確証はないが、面河と言う名称からすれば鉄砲石川にあっても不思議ではないだろう。


面河本流コース

五色河原
車を進め五色河原に。岩と水と林が織りなす五色の綾がその由来だろうか。五色の綾もさることながら、一枚岩とも見える滑状の白い花崗岩の河床が広がる五色河原と、その背景に屹立する亀腹の大岩壁の眺めは誠に印象的な景観である。
車は成り行きで花崗岩の河床を跨ぐ低い五色橋を渡り面河川の左岸に移る。そこには国民宿舎面河と記した建物があったが、どう見ても営業中のようには見えない。建物前の駐車場に車を停め、散歩を再開する。因みに同宿舎は平成28年(2016)3月末をもって閉館したとようだ。

亀腹
五色橋に戻り眼前に聳える亀腹の第岩壁をゆっくりと眺める。結構な迫力である。高さ110m、幅200mと言う。岩壁の中央部に垂直に走る凹面を境に左右に分かれる大岩壁は、各中央部がビール樽のように少し膨れる。亀腹の所以であろう。
このような巨大な岸壁がどのようなプロセスで造られ、その岩層は何からできているのだろう。当日はその疑問だけが残ったが、メモの段階でその岩層について、ある人は溶結凝灰岩(火山灰や軽石といった火山噴出物の岩片が高温故に溶結したもの)と言い、またある人は花崗岩と言う。
凝灰岩とか花崗岩と言われても何のことのことかさっぱりわからず、前述『愛媛の地質;永井浩三(愛媛文化双書刊行会)』などをスキミング・スキャニングした「成果」が、既にそれらしくメモした石鎚火山活動であり陥没カルデラであり、面河周辺の結晶片岩・凝灰岩・花崗岩云々である。これら石鎚・面河の地質に関するメモのすべてのはじまりは、この奇岩・亀腹を見たときに感じた疑問からはじまった。
陥没カルデラの地層(『愛媛の地質』)
それはともあれ、前述メモの如く凝灰岩か花崗岩かによってその生成プロセスは真逆となる。凝灰岩であれば陥没カルデラに堆積した岩層が削られそして残ったものであろうし、花崗岩であればカルデラに地下のマグマが貫入しできたものとなる。
どちらが正解か門外漢には分からないが、『愛媛の地質;永井浩三(愛媛文化双書刊行会)』には亀腹は「石鎚火山活動の最後にできたカコウ岩類である。このカコウ岩類は石鎚カルデラ火山の入り込んだものである」とある。
陥没カルデラには標高500mほどの成層火山ができたとも言うし、また上述『岩石鉱物鉱床学会誌(第64巻第1号;1970年7月5日:吉田武義)』の「四国 石鎚陥没カルデラと天狗岳火砕流」に掲載されていた陥没カルデラの岩層図を見ても、この辺りは花崗岩層となっている。なんとなく亀腹の岩層が花崗岩かな、とも思えてきた。




鶴ケ背橋
五色橋を渡り面河川右岸に戻り橋詰めから面河川左岸を上流に向かう。すぐに出合う面河第一駐車場から川に沿って進むと渓泉亭・面河茶屋がある。このあたりは亀腹の真正面。改めてその迫力に魅了される。
面河茶屋の前を抜け少し進むと「鶴ケ瀬橋」が架かる。橋を右岸に渡り遊歩道を進む。橋を渡った先にも散策案内図がある。
渓泉亭
現在は食堂のみが営業しているが、「えひめの記憶」に拠れば、かつてここには昭和5年(1930)に建てられたモダンな洋館風の旅館・渓泉亭があったようだ。車も入れない「秘境」にモダンな旅館を建てたのは、後に面河村の村長(当時は杣川村)の進取の精神によるところが大きいとする。
昭和36年(1961)に伊予鉄道に買収されるなどの経緯を経て、昭和50年(1975)代に観光客数のピークを迎えるも、その後客数の減少にともない、旅館の営業はなく、現在食堂のみが残っている。

蓬莱渓
鶴ケ瀬橋の上流は蓬莱渓と呼ばれる。広い滑状の花崗岩の河床には発達した板状節理が見える。その上を清流が流れ落ちる。この辺りは「第一キャンプ場」と呼ばれるキャンプサイトとなっている。






紅葉河原
蓬莱渓から遊歩道を少し進むと「パノラマ台へ」と書かれた木標が立つ。亀腹展望台からパノラマ台へと続くハイキングコースの入口のようだ。本流コースを歩き終えこのコースに入ることにして先に進むと「紅葉河原」の木標が立つ。
紅葉の頃は少し過ぎており、足元に落ち葉として道一面に敷かれている。ちょっと残念。 渓層も五色河原や蓬莱渓の一面の滑床といった風情から少し異なり、花崗岩の河床に礫や岩が転がるものとなっていた。

下熊淵
遊歩道を進む。道の左手の山塊には発達した節理を持つ大岩が続く。見飽きることがない。メモの段階であらためて写真を見ると、山塊の岩層は凝灰岩と言うより花崗岩のような気がしてきた。と言うことは亀腹もその岩層は花崗岩である、ということになりそうだ。
ほどなく「下熊淵」と書かれた木標。紅葉河原の開けた河床と異なり、下熊渕は狭い渓谷となりS字に曲がる河から滝が落ち深い淵を造っている。
熊が口を開けた姿に似た岸頭故の命名とするが、遊歩道からそれを実感することはできなかった。

上熊淵
下熊淵からおよそ30m歩くと上熊淵の木標。上熊淵は木標からの眺めより、下熊淵から上熊淵に向かう途中で左手が開けた箇所に現れる、左右が迫る渓谷と淵の景観、それが上熊淵だろうと思うのだが、その眺めのほうがいいように思う。

石鎚登山口
上熊淵からほどなく「石鎚登山口」の標識。信仰のお山故か、登山口には鳥居が建つ。登山ルートは標高1,525mの面河山の尾根道に上り、御来光の滝を下る面河川の源流域を右手に身ながら、稜線を進み標高1982mの石鎚山天狗岳に向かうようだ。 この辺りの標高は780mほどであるから、比高差およそ1,200m上ることになる。このルートは往昔、石鎚の裏参道と称されたようである。
ちなみに現在は、北からはロープウエイで石鎚中腹の成就社(標高およそ1400m)まで行きそこから上れるし、南は石鎚スカイラインの終点土小屋(標高1500mほど)から石鎚に登れる。
表参道
この地から石鎚に上る裏参道ルートに対し、表参道ルートは加茂川の谷筋の集落である河口から今宮道を成就社に上り、そこから石鎚天狗岳を目指すことになる。いつだったが、その今宮道を三十六王子社を辿りながら上ったことがある。標高200mほどの河口から標高1,400m上ることになるのでその比高差は、裏参道ルートと「ほぼ同じ1,200m。4時間半ほどかかっただろうか。結構きつかった。
成就社から石鎚天狗岳までは通常3時間ほどといったものだろうが、これもいつだったか真冬に雪の石鎚に上ったことがある。凍える寒さの記憶が残る。

熊淵橋
遊歩道は熊淵橋を渡る。橋へのアプローチ、橋の架かる渓谷の仁淀ブルーの美しい水、そして淵に水を落とす白い花崗岩の奇岩。亀腹とともに印象に残る景観であった。



水呑の獅子
左岸に渡ると「水呑の獅子」と書かれた木標。指す方向からすると、熊淵橋から見た淵に水を落とす箇所の、白く、また得も言われぬ形状を示す奇岩のようだ。獅子には見えないが誠にいい姿の岩であった。

虎ケ淵
遊歩道を進むと「虎ケ淵」と書かれた木標。少し離れた先に切り立った岸壁に挟まれた渓谷に、滝と淵が見える。そこが虎ケ淵だろう。少し遠くではあるが節理をもつ岩肌に樹木・草木が着生した大岩壁に惹かれた。




苔の桟道
遊歩道はその先のブルーシートが置かれたところで通行止め。と、右手に木が敷かれた道が崖を高巻きしている。ここが苔の桟道かと思う。桟道を少し進んだが、案内図には遊歩道としてはこの辺りが終点とあり、当日も道が荒れ気味となったところで引き返したのだが、その先もルートは続き、山肌に取り付いた桟道を経て九天の滝や霧ケ迫滝を経て御来光の滝へと向かうようだ。面河古道とも称されるよう。
今回は面河渓散策、ということで桟道を少し進んだところで「本流コース」散策を終え、「パノラマ台」への木標地点に引き返すことにした。




御来光の滝
落差100m、日本の滝100選にも選ばれている御来光の滝へは、面河渓谷を遡るルートのほかに、長尾根展望台傍のカーブミラーのところから、比高差300mの面河渓に下りるアプローチ、もある。この夏鮎釣りの知人を案内し下りたトラックログを参考のため掲載しておく。


パノラマ台亀腹遊歩道コース

「パノラマ台」の木標
紅葉河原辺りまで引き返し、「パノラマ台」の木標から山道に入る。紅葉の少し残る山道を上ると倒木が道を塞ぐ。お気楽にこのルートに入ったのだが、結構な山道。比高差200mほど上り、面河山から落ち面河川と鉄砲石川を分かつ山稜の尾根道まで引っ張られることになった。

天然ひのきの大木
15分歩き、尾根筋に。標高は920mほど。道を上り切り、下りになるところに天然のひのきの大木が立っていた。標識は何もなく、ルートはちょっとわかりにくいが、ひのきの大木辺りから成り行きで尾根に沿って道を下ると、左右に渓谷を見下ろす馬の背といった尾根筋に出る。
イメージでは展望台は山道を上り切ったところにあるだろうと思っていたので、展望台をやり過ごしたのか、ちょっと不安になる。また左右が切り立った崖となる馬の背は、高所恐怖症のわが身には少々きつい。

亀腹展望台
天然ひのきのから10分ほど尾根筋を下り、このまま山からおりてしまうのだろうかと、少し不安になった頃、道脇に「亀腹展望台」と書かれた木標が現れた。運よく見付けたものの、辿ってきたルート側からは見落としそうに思える。
標高886m辺りにある展望台からは面河山の稜線が見える。石鎚天狗岳はその稜線の向こうから顔を出しているはずなのだが、ちょっと分からなかった。
深い面河の谷も印象に残った。当日はその深い谷に御来光の滝があるのだよな、といった感慨ではあったが、メモの段階で石鎚陥没カルデラとしての面河の谷を知ることになり、同じ写真を見ても、少し違った「景色」が見えて来た。
展望台からは面河川を隔ててその先に冠山(標高1881m)らしき山、そして鉄砲石川谷筋の白い岩壁などの眺めが楽しめる。

パノラマ台
亀腹展望台の標識で、オンコースであることを確認。数分道を下ると鉄梯子が見える。特に案内はないのだが、パノラマ台へのアプローチだろうと鉄の梯子を上る。その先は岩場となり、パノラマ台はそこから左右が落ち込んだ狭い岩場の先にある。高所恐怖症の身には少々きつい。雨上がりで岩場が濡れているよな、危険だよな、と自分に言い聞かせ岩場で撤退。パノラマ台からは面河川と鉄砲石川の谷筋が見えるようである。

隧道入口に
パノラマ台を後にして道を下る。「パノラマ台」と書かれた標識も立っている。通常パノラマ台や亀腹展望台にはこちらのコースから上ってくるのだろう。
道を下ることおよそ5分で車道に下りる。下り口には「鉄砲石キャンプ場」の標識が立つ。標識の示す方向には隧道があった。
また、下り口には「パノラマ台亀腹遊歩道案内図」もあった。やはりこちらが展望台へのメーンルートだろう。
ここで「パノラマ台亀腹遊歩道コース」は終了。次は隧道を抜けて鉄砲石川コース」に向かう。

鉄砲石川コース

隧道を抜け鉄砲石川の谷筋に入る
「パノラマ台亀腹遊歩道コース」を下り、右手直ぐにある隧道を抜けて鉄砲石川の谷筋に入る。この隧道は昭和30年(1955)の石鎚山の国定公園指定に伴う観光客増加を見据え、昭和27年(1952)実施された関門から五色河原までの自動車道や林道整備の一環として行われた、と(「えひめの記憶」)。工事は昭和29年(1954)から始まり昭和36年(1961)に完成したというから隧道の開通もその間のことだろう。
なお、この工事が行われる以前、鉄砲石川筋に入るには、上述面河第一承水堰の辺りに吊り橋があり、そこを通っていたとのことである。

櫃の底
隧道を抜けると鉄砲石川筋に。隧道を抜けた辺りでは、ありふれた河原だな、などとも思ったのだが、進むにつれ岩と水が綾なす景観、その存在だけて印象的な奇岩が現れる。それとも知らず思わずシャッターを切ったのが「櫃の底」であったようだ。
鉄砲石川に落ちる小さな滝と澄んだ淵が美しい。その先も大岩壁が連なる。岩壁上に並ぶ針葉樹林との組み合わせも面白い。

紅葉石
紅葉石((株)NTOのWeb siteより)

林道を進み鉄砲石キャンプ場に。道脇に「千段滝」、木の根元に「紅葉石」の標識。標識はあるのだが、どこを指すのか分かりにくい。とりあえず林道からキャンプ場に下り、鉄砲石川の川沿いに出る。
どこが紅葉石か不明だが、取敢えず撮った写真が紅葉石のある辺りだったようだ。「えひめの記憶」に「このあたり一帯は白色の岩石でこれにカエデの葉のように集まった黒色電気石の結晶が明りょうに現れている。それぞれ一葉の長さが一〇センチ内外で数一〇〇個ずつ二か所にあり」とある楓の葉のような結晶らしき斑点が、岩壁に着生した草木の手前に見える。それが紅葉石だろうか。学術的には非常に貴重な岩と言う。
鉄砲石
当日は見落としたが、キャンプ場あたりから山に入る道があり、そこを上ると種子島銃のような形をした石があるとのこと。鉄砲石川の由来の石だ。

千段の滝
次いで千段の滝を探して川筋を歩く。と、鉄砲川に合わさる沢が目に入る。鉄砲石川の浅瀬を飛び石で対岸に渡り沢筋に入る。が、沢に転がる大岩、強烈な倒木群に気勢を削がれ途中撤退。再び林道に戻る。
メモの段階でチェックするとこの滝は、後述する布引の滝と同様に緩傾斜の岩盤を流れ落ちる、と。千段の由来は水平に通る幾多の節理の数をもって「千段」とみなしたのだろう。沢の出合いから10分程度で滝に出合うとのことであった。

お月石
林道を進むと鉄砲石川に架かる橋があり、そこに「お月石」の標識があり、右岸を指す。橋から見るとそう言われればお月さまとも見える奇岩がある。お月さまでなくても十分印象に残る節理を持つ大岩・大岩壁であった。


兜岩
橋を渡ると今度は橋の上流左岸をさす木標がある。お月岩と似た姿を持つ多くの節理を持つ大岩壁であるが、縦に交わる割れ目と合わさり「兜」と名付けたのだろう。その直ぐ上に鎧岩があるようだが、当日は案内も見当たらずそのまま通り過ぎた。





布引の滝

橋を渡り少し進むと左手に緩やかな傾斜の岩壁があり、水平の節理を切る二条の縦の割れ目をささやかに水が流れる。おおよそ40mの滝であった。






巨大な倒木箇所で撤退
さらに先に進み、案内にある赤石河原まで行こうと思ったのだが、ほどなく誠に巨大な倒木が道を塞ぐ。潜ることもできず跨ぐこともできず、通り抜けるには河原に下りて迂回するしかない。そこまでして「河原」に行くモチベーションもなく、ここで撤退し駐車場へと戻る。



駐車場へ
林道を戻り隧道を抜けると国民宿舎脇に出る。国民宿舎と隧道の間に面河渓第二駐車場と書かれた駐車場を抜け、車を停めた国民宿舎前の駐車場に戻り、本日の散歩を終える。

常の如く、下調べをすることもなく、成り行きでの面河渓散歩。当日は不思議、疑問を抱きつつもその答えだす術もなく、とりあえずのんびり・ゆったりの景勝散策であったが、メモの段階で面河渓の成り立ちをチェックすると石鎚火山活動、それに伴う陥没カルデラといった誠に興味深い出来事が現れた。面河渓への道すがらの黒森峠や面河ダムのあれこれと相まって、思いもかけないような面河渓散歩のメモ「となった。成り行き任せの散歩は、やはり楽しい。