日曜日, 10月 17, 2010

鳩ノ巣渓谷散歩

何年ぶりだろう、奥多摩の鳩ノ巣渓谷を歩くことにした。秋に会社の人たちとのハイキングに鳩ノ巣渓谷もその候補となったのだが、わずかに「数馬の切り通し」を除いて、それ以外の景観が全く以て思い浮かばない。渓谷に沿って岩場を歩き、それなりに景観を楽しんだとは思うのだが、それがハイキングデビューの皆さんにインパクトを与え、山ガール・山ボーイへのフックとなるほどのものか、今ひとつ自信がない。これはもう、もう一度歩いて判断するに莫若(しくはなし)、これが鳩ノ巣渓谷再訪の理由である。
それにしても、すっかり忘れてしまうものである。散歩の後はメモするのを基本とするのだが、鳩ノ巣渓谷はあまりにポピュラーなハイキングコースであり、「まあいいか」などとメモをしないでいた。やっぱりお散歩メモは必要である。砂時計の如く消え去る記憶に抗いながら、これからも「歩く・見る・書く」をお散歩の基本にすべし、と。



本日のコース;JR青梅線・古里駅(11時17分)>小丹波熊野神社>小丹波のイヌグズ>愛宕神社>古里附のイヌグス>寸庭橋(11時57分)>越沢>松の木尾根(12時27分)>鳩ノ巣・雲仙橋(12時38分)>玉川水神社>鳩ノ巣小橋(12時55分)>白丸ダム(13時12分)>数馬峡橋(13時30分)>数馬の切り通し(13時40分)>海沢(14時19分)>もえぎの湯(14時41分)>JR青梅線・奥多摩駅(15時26分)

青梅線日曜日、成り行きで起き、ゆったりと朝を過ごし、井の頭線、中央線、青梅線と乗り継ぎ奥多摩へ向かう。青梅線は各駅停車。しかも途中での待ち時間が結構多い。ホリデー快速であれば中央線からの直通もあり、段取りもいいのだが、のんびりゆったり青梅を進む。
青梅線は立川から奥多摩駅を結ぶ。はじまりは青梅鉄道。明治27年(1894)、立川・青梅間が開通する。翌明治28年(1895)には青梅・日向和田間が貨物区間として開通。明治31年(1898)になって青梅・日向和田の旅客サービスもはじまった。日向和田・二俣尾間が開通したのは大正9年(1920)のことである。
昭和4年(1929)、青梅鉄道は青梅電気鉄道と名前が変わる。この年に二俣尾・御嶽間が開通した。昭和19年(1944)、青梅電気鉄道は御嶽・氷川(現在の奥多摩駅)間の開通を計画していた奥多摩電気鉄道とともに国有化となる。国有化となったこの年御嶽・氷川間も開通。これで立川・氷川間(奥多摩駅となったのは昭和46年;1971年)のこと)が繋がった。
青梅鉄道が造られたのは石灰の運搬がその目的。石灰を運んだ貨車の一番後ろに1両か2両の客車がつながれていた。「青梅線、石より人が安く見え」といった川柳もある(『青梅歴史物語;青梅市教育委員会』。いつだったか青梅の山稜を辛垣城へと辿ったとき、辛垣城跡が崩れていたのだが、それは石灰をとったため、などとの説明があった。それを挙げるまでもなく青梅は往古より石灰の産地である。江戸城のお城の白壁の原料として青梅の石灰を運ぶ道、それが青梅街道の始まりでもある。
青梅鉄道が早い時期に日向和田にのばしたのは、そこが石灰の積み出し場所であったから。実際、宮の平駅と日向和田駅の間に石灰採掘場跡が残るという。全山掘り尽くし山が消えた、とか。Google Mapの航空写真でチェックすると、山稜が南に張り出し青梅線が大きく湾曲するあたりの山中に緑が消えている箇所がある。御嶽から氷川へと路線を延ばしたのは、この地の石灰を掘り尽くし、更に奥多摩の産地からの積み出しが必要となったからである。こんなことをあれこれ考えながら最初の目的地である古里につく。

JR青梅線・古里駅古里で下車。鳩ノ巣渓谷であれば鳩ノ巣駅が最寄りの駅ではあるが、渓流だけでは少々味気ないかと、途中に松の木尾根越えをコースに入れた、ため。それにしても、忘れている。古里の駅前には店などあるのか、などと心配していたのだが、民家も多く、駅前のすぐ南を国道411号線に出たところにはコンビニもあった。
古里って、なかなかいい地名。「こり」と読む。由来は御嶽参詣に水垢離(みずこり)したから、との説がある。御嶽山から大塚山を経て古里に下る御嶽裏参道があるわけで、それはそれなりに説得力をもつのだが、そもそも古里という村の名前ができたのは明治22年。近辺の村々が合併して古里村ができたとのことである。
ということで、なんとなくしっくりこない、などと思っていたのだが、たまたま読んでいた『奥多摩歴史ものがたり;安藤精一(百水社)』表2(表紙の裏)の古地図に「コリツキノ滝」があった。古地図には「調布玉川絵図;相沢伴主著・長谷川雪堤画」とのクレジットがある。相沢伴主が多摩川の水源を探索し、その上流から下流まで写生し、それを名所図会で有名な長谷川雪堤が浄書した。江戸の頃、文化6年(1809)製作されたものである。すでに名所として描かれているとすれば、水垢離説に軍配を上げる。ちなみに相沢伴主は聖蹟桜ヶ丘散歩のとき出会った。なんとなく、懐かしい。

小丹波熊野神社駅を離れて小丹波熊野神社に向かう。駅から線路を隔てて北側にある。前回この神社を訪れて、その楼門に惹かれていた。入母屋造り・茅葺屋根の楼門というか「床下」を抜け神社境内に入る。楼門を見返すと、そこには舞台がある。江戸時代から戦前にかけて農村歌舞伎が上演されていた、という。こういった農村歌舞伎の舞台は奥多摩にはいくつもあったと伝わる。本殿は御嶽の熊野神社から分祀されたとのこと。本殿右手には塩かまど神社。安産の神様として女性の体に似せた自然石が祭られている。残念なことに、楼門は現在修築工事中であった。

小丹波のイヌグズ
小丹波熊野神社から西に200mほど進むと、線路の北の斜面に巨大な樹冠が見える。これが奥多摩町指定の天然記念物である「小丹波のイヌグス」。案内によれば;目通り幹囲4.55m、元の名主原島家の屋敷林となっています。正式名を「タブノキ」といい、暖地に自生する常緑喬木で、樹皮は染色原料となり、材は装飾器具の材料として用いられます。樹勢は極めて旺盛です(奥多摩町教育委員会)」、とある。
原島家は奥多摩の旧家。16の村の内6カ村の名主であった。原島家のことを知ったのは先日、日原から仙元峠を越えて秩父に抜けたとき。今をさる500年の昔、天正というから16世紀後半、戦乱の巷を逃れ原島氏の一族が武蔵国大里郡(埼玉県熊谷市原島村のあたり)より奥多摩・日原の地に移り住む。原島氏は武蔵七党、丹党の出。日原の由来は、新堀、新原といった、新しい開墾地といった説もあるが、原島氏の法号「丹原院」の音読みである「二ハラ」からとの説もある。以来、奥多摩の地に勢をのばしていったのだ。

愛宕神社国道411号線を進む。夏休みは既に終わっているのだが、車の往来が激しい。道脇に山側へと伸びる参道と鳥居が見える。祠は山の中腹にある。急な、狭く誠に急な石段を上る。息があがる。やっとのこと到着。愛宕社と脇のお稲荷さんに。愛宕神社は火伏せの神様。修験道の道場でもある京都の愛宕神社からはじまり、修験者により全国に広まる。現在全国に1000ほどの愛宕社がある、と言う。お詣りを済まし、石段を戻る。足元が危うい。慎重に里に下り国道411号線に。

国道411号線国道411号線は東京の八王子と山梨の塩山を結ぶ。東京都八王子から青梅の谷筋を辿り、奥多摩町を経由し武甲国境の柳沢峠を越えて山梨県甲府市に至る。自動車が通行できるようになったのはいつの頃だろう。推論してみる。
大正の末には奥多摩の氷川と鳩ノ巣の間に横たわる数馬の岩壁に隧道が抜けた。この頃には奥多摩の氷川までは自動車でいけたのかもしれない。奥多摩から西は中世以来の甲州街道、所謂古甲州道が通っていた。奥多摩から小菅をへて大菩薩峠を越え塩山に下る道である。明治になって道路改修を計画するも、大菩薩越えはあまりに困難であり、柳沢峠の開削が計られる。丹波山村民など民力を結集した成果、とか。道はできたが、道幅も狭くとても車が通れるようなものではなかったようである。車道が開通したのは昭和34年頃。昭和14年から始まった東京市主導の小河内ダム建設に際し、山梨県としての協力のバーターとして、丹波山村鴨沢から柳沢峠までの24キロの工事を東京市が行うことになった。これが難工事であったようで、結局着工以来20年をかけて完成したと言う。ということで、全線開通は昭和34年あたりであろう。

古里附のイヌグス 成り行きで国道に戻り西に進む。「ウオーキングトレール;寸庭橋方面」との案内がある。案内に従えば道は国道に沿って集落の中を道が進むが、ここは古里附のイヌグスを見るためそのまま直進。入谷川を越えたところ、国道の山側に小さな祠とともに「古里附のイヌグス」があった。青梅線と国道に挟まれ少々窮屈な感じ。こちらは東京都指定の天然記念物:奥多摩街道の北側、街道と国鉄青梅線路敷との間の地で春日祠の境内にある。敷地は街路より約2メートル高く、この崖に接して立つ樹の根元約1メートルは崖の法面に露出している。地上1メートルの幹囲は約6.5メートル、樹高約23メートル。幹は地上約1.5メートルのところで南北二本に分かれ、北の枝は、さらにその上約3メートルのところで二本に分岐し、樹勢は旺盛である。イヌグスの皮は黄八丈の樺色染色の原料となる。正式名は「タブノキ」。
暖地に自生する常緑喬木。花は秋に咲き、果実は翌年の七月ごろに至って熟す(東京都教育委員会)」。とはいうものの、一見するところでは、樹勢旺盛とは見えず。

清身橋国道から離れ分岐の小径を寸庭橋へと下る。橋に向かう手前で左手から道が合流。先ほどの「ウオーキングトレール;寸庭橋方面」から続く道である。この道を左に折れ、道を少し戻り入谷川に向かう。川に架かる橋は「清見橋」。「古里附橋」とも、更に昔には垢離尽橋とも呼ばれたようだ。橋の北側に滝、というか堰があり、「清身滝」と呼ぶそうだ。下流には「古里附の滝」もあるようだが、どこかわからなかった。ともあれ、この「清身滝」あたりが古地図の「コリツキノ滝」。橋が「清見」、滝が「清身」とちょっと字が異なるが、どちらにしても「浄い>清い」であるには変わりがない。ここが古里の名前の由来となった滝であろう。





寸庭橋清身橋を離れ寸庭橋に向かう。橋のたもとに駐車場。お手洗いも容易されている。「ウオーキングトレール」の案内によれば、このあたりを「おたぎ下」と呼ぶようだ。「御滝下」のことでありましょう。「河原には多くの家族。行く夏を惜しんでか水浴びをしている。上路アーチ式の寸庭(すんにわ)橋を渡る。「寸庭」って面白い名前。「ちょっとした小庭」といった意味が庭造りでの使い方ではあろうが、この川がそんな小洒落た由来があるとは思えない。実際、大塚山から流れ出す寸庭川という川があるわけで、はてさて、どんな由来があるのだろう。



越沢橋を渡ると道は左手に曲がる。道なりに行くと多摩川南岸を丹三郎地区へと向かうようだ。丹三郎は上でメモした原島一族、原島丹三郎友連の由来の地名。この地を開き代々名主であった、とか。
遊歩道は右に折れ、多摩川に沿って上流へ進む。程なく美しい沢に当たる。これが寸庭川。さらに進むとまたまた気になる沢にあたる。これが越沢。「こいざわ」と読む。あまりにいい感じの沢筋でもあるので、ちょっと沢を上ってみる。よさげ、である。足元を沢登りスタイルとして遡行してみたくなった。後からわかったことではあるが、この沢の上流にはあことに越沢ガーデンキャンプ場とか越沢バットレスキャンプ場といったアウトドア施設もあるようだ。バットレス(buttress)は「垂直な岩壁」の意味。ロッククライミングの練習場として有名なところ。金比羅渓谷遊歩道などという美しい沢沿いの道もある、と言う。そのうちに言ってみよう。沢を戻り小橋を渡る。「ホタル橋」と呼ばれる。看板にはホタルの生息地とあった。きれいな沢のはずである。

松の木尾根橋を渡ると山道となる。杉林の中を進む。山中に民家が一軒。このあたりは小名沢と呼ばれている。山道を上ること20分弱。松の木尾根に上がる。尾根の西に鳩ノ巣の街並みが見えてくる。尾根道を進むとほどなく分岐点。左手の山道を進むと、大楢山を経て御嶽山に続く。先ほどのキャンプ場も、この道を進み途中から沢に下るようだ。ますます、行きたくなってきた。今回のルートは、この分岐を右に坂を下ることになる。分岐点にある東屋で鳩ノ巣方面の展望を楽しみながら少し休憩。

鳩ノ巣休憩を終え、坂を下る。ほどなく坂下地区の集落。言いえて妙なる地名である。多摩川にかかる雲仙橋を渡り多摩川北岸に。坂を上り道なりに進めば国道411号線や青梅線の鳩ノ巣駅に向かうが、本日のお散歩コースは坂の途中、民宿雲仙屋の脇を左に折れ、鳩ノ巣渓谷のほうに進む。実のところ、後になってわかったのだが、鳩ノ巣駅の東、山塊が多く競り出し多摩川や国道が大きく湾曲するあたり、急坂を10分程度上ったところに将門神社があった。青梅・奥多摩には数多くの将門伝説が残る。そういえば青梅だけでなく五日市・あきる野の平井川流域でも将門ゆかりの地にであった。将門が青梅や奥多摩に来たことはないわけで、青梅・秋川筋に勢をはった三田氏が将門の後裔と称したことがその一因であろう、か。青梅の金剛院にはその地名の由来となった、とも伝わる「将門誓いの梅」が残る。また、鳩ノ巣の南岸に城山と呼ばれる標高750mほどの山がそびえるが、その山名の由来は、将門の館があったとの伝説から。かくほど左様に将門伝説は数多い。

玉川水神社渓谷に向かって坂を下ると、途中で双竜の滝の案内。右に折れてちょっと寄り道。国道下だろうが、岩盤から滝が落ちていた。坂道に戻り渓谷わきの
旅館一心亭に。前回来た時は川傍の休憩所で食事をとったのだが、今回は店は閉まっていた。一心亭前の小高い岩塊上に玉川水神社がある。大和国丹生川上神社の中社の祭神で水神の「みずはのめのかみ」を祀る。岩盤に鳩ノ巣の由来の案内。明暦の大火で焼け野原となった江戸の復興のため木材の切り出しがはじまる。奥多摩・青梅は秩父の名栗筋の西川材とともに、木材の一大供給地。水神社のあたりに切り出し・搬出のための木材番所ができたという。そこに祀った水神社につがいの鳩が止まり来る。そのまことに仲睦まじい姿ゆえに一同心なごみ、霊鳥として大切に扱った。地名も「鳩ノ巣のところ」ということから鳩ノ巣と呼ばれるようになった。

棚沢しばし休憩の後、散歩に出かける。渓流に沿った岩場を進む。切り立った岩場も見える。まさしく「棚沢」である。実のところ鳩ノ巣は正式な地名ではない。正確にはこのあたりは棚沢と呼ばれる。棚沢とは、「谷間が棚のような垂直な断崖になっている沢。多くの場合沢は滝となる」といった意味(『奥多摩風土記(大館勇吉著;有峰書店新社刊)』)。地形を見るにつけ、まことにもって言いえて妙である。巨岩・奇岩の間に清流が流れる。川筋は狭い。この鳩ノ巣のあたりまでは谷幅が狭いため、切り出した木材は一本一本バラバラに多摩川に流した鳩ノ巣には「魚留滝(明治の末に崩壊)」があったこともあり、多摩川の筏流しの上限は古里附の「音が淵」が上限であった、とか。

白丸ダム渓谷に沿ってアップダウンを繰り返し、次第に高度を上げていく。白丸ダムの堤防へと高度を上げダム脇に到着。ダムの堤防に降りると魚道の説明。多摩川を遡上する魚のためにダムの横に階段状の水の道がつくられている。ジグザグに続く魚の道は地下のトンネルを通りダム湖・白丸調整池に繋がる。
堤防の南側には取水口がある。水は地下を通り5キロほど下流の多摩川第三発電所に送られる。通常ダムから下流は干涸らびた河床が多い。しかし、ここは事情が異なる。鳩ノ巣渓谷の狭隘部を堰き止めるダム建設に際して鳩ノ巣渓谷の景観を守るために反対運動が起こったようだ。で、交渉の末、3月中旬から11月中旬までは渓谷の景観維持、つまりは豊かな水量確保のために放水がなされている、と。白丸ダム直下にある白丸発電所ではその放水を利用し発電を行っている。
この白丸ダムは東京都交通局の管轄という。通常ダムの管轄は水道局であり、東京電力といったものであろうが、どういった事情であろう。好奇心でチェック。昭和7年、当時の東京市水道局は水道需要に応えるため小河内ダム建設を計画。その計画を受け、東京市電気局は軌道事業(電車)だけでなく、市が必要とする電力の供給事業を計画。戦前のあれこれの経緯は省くとして、戦後になり都は発電事業を開始。所管は電気局が組織を変更し、新たにできた交通局が担当することになった。電気局は、戦時の電力事業の国家統制もあり、発電事業を廃止し軌道部門だけとなったため、交通局と改名した。発電した電気は東京電力に卸している、とか。はじめ交通局の管轄、と聞いたときは、てっきり地下鉄の電気確保のためか、などとお気楽に考えていたのだが、掘れば歴史が現れるものである。

数馬峡橋エメラルド色のダム湖湖畔を進む。湖面に遊ぶカヌーが多い。どこから入り込むのやら、などと思っていたのだが、進むにつれて数カ所湖面へのアプローチ地点があった。湖畔にカヌーの置き場もあった。緑の小径を15分ほど歩き数馬峡橋に。渡りきったところに「楓渓・数馬峡の碑」と「河合玉堂歌碑」があった。
「楓渓・数馬峡の碑」には田山花袋が数馬峡を「多摩川の楓渓は、ことにすぐれている・・・・渓もよければ谷の形もよい 水の岩にふれて瀬をなしているのも面白い 道は楓渓と相対して秋は美観である」と描く。つい最近探し求めていた田山花袋の『東京の近郊 一日の行楽』を手に入れたばかりであり、なんたる奇縁。田山花袋のほか、河合玉堂、山田早苗が「楓渓・数馬峡の碑」に描く楓渓・数馬峡も、「楓渓・数馬峡の原風景は、白丸ダムの完成で半ば失われたが、 国道411の直上約20メートルの「数馬の切り通し」(江戸時代に硅岩の岩盤を切り開いた青梅街道)からの眺望は絶景である」というフレーズで結ばれていた。
「河合玉堂歌碑」には「山の上の はなれ小むらの 名を聞かむ やがてわが世を ここにへぬべく」と書く。日本画の巨匠である河合玉堂は奥多摩の自然を愛し、昭和19年(1944)から昭和32年(1957)まで御嶽で過ごした。現在御嶽橋の袂に玉堂美術館がある。
橋を渡って数馬の切り通しに向かうのだが、先ほどの鳩ノ巣と棚沢と同じく、この地も地籍は数馬ではなく白丸と言うようだ。白丸の由来は、多摩川南岸、白丸の対面に聳える城山(じょうやま)が転じたもの、との説がある。「じょうやま」も、もとは「しろやま」であったものが代官のお達しで読みを変えた、とか。しろやま(城山)>しろまる(城丸)>しろまる(白丸)、ということだろう。また、しろ=田畑または区画を示す「しろ=代」。「その畑地が球形に区切られている」から「しろまる」との説もある(『奥多摩風土記(大館勇吉著;有峰書店新社刊』)。いつものことながら、地名の由来って、諸説あり定まることなし。

数馬の切り通し数馬の切り通しへと向かう。橋を渡り国道に向かい、手作り味噌のお店の脇から数馬の切り通しへの小径へ入る。民家の脇を通り昔歩いた切り通しへの道を進むが、どうも最近大幅な道路工事が行われている。古き良き古道へのアプローチは消えてしまった。国道からも直接上る道が造られている。切り通しにはこの車道から直接上るのが早そうだ。
車道を越えると昔ながらの小径に戻る。杉林の中を進み、沢を過ごすと切り通しに到着。前面の巨岩がきれいに穿ち抜かれている。18世紀初頭、江戸の元禄の頃、岩に火を焚き水で冷やし、脆くしたうえで石ミノやツルハシで切り抜いた。江戸のはじめまで、白丸と氷川との往来は急峻な山越えの道しかなかった。白岩の集落から根岩越えという尾根越えの道を進み、山上はるか上まで続く大岩塊・根岩を迂回し、ゴンザス尾根の鞍部、標高770mあたりで尾根を越え、逆落としの如く氷川集落の裏山へと下る道であった、よう。
で、この切り通しができることによって氷川との往来が少し容易になった。物流が盛んになった。どこで読んだか覚えてはいないが、切り通しのできる前後で氷川集落の家屋個数が200戸から300戸に増えた、とのうろ覚えの記憶がある。
切り通しの手前に「数馬の切り通し案内図」があった。切り通しを越える道は大正の頃まで四回にわたりルートが変更されている。今歩いてきたのが元禄期の道筋、その道の少し下、沢に沿って18世紀中頃の宝永の頃のルート、元禄の頃の道筋から途中で別れ沢を橋で越えて切り通しの先に続く19世紀中頃・嘉永の頃のルート。現在の国道411号線の川側を進み数馬隧道を通る大正の道。あれ?ということは、数馬の切り通しが使われたのは元禄から宝永の頃までの半世紀ということ?
切り通しを越えて先に進む。と、道は180度に近い角度で曲がる。しかも石段があり段差となっている。元禄の頃の切り通しの道跡とすれば誠に不自然。ひょっとすると先ほどの案内でみた嘉永の頃の橋を渡したルートとの繋ぎではなかろうか。であればぴったりと道筋が一致する。
先に進むと再び切り通し。その先は岩壁に沿って細路が続く。切り通しも大変だったと思うが、この岩壁を切り崩し、道を穿つのも大変だったと思う。ということは、数馬の切り通しって、イントロ部分の大岩塊の部分だけでなく、この断崖を穿った開鑿すべてを含んだ言葉なのであろう。
崖下に大正時代の道が見える。足元を抜ける数馬隧道の完成によって、奥多摩・氷川と青梅との車での往来が可能となったのではないだろう、か。大正期の道路の遙か下には多摩川の流れが見える。「楓渓・数馬峡の碑」にあった「数馬の切り通しからの眺望は絶景である」、とはこのことであろう。「楓渓・数馬峡の碑」にも名前のあった山田早苗の数馬の切り通しの描写を挙げておく; ゆく道の大厳の山をさながら切割りて、牛馬の通うばかりに道を造れる処、一町ばかりの程は石敷きたる廊(わたどの)の如くにて、入口に石の門の如く岩立ちたりし所あり(天保12年の山田早苗の『玉川訴源日記』より)。
ところで「数馬」の由来であるが、これまたはっきりしない。秋川筋に数馬の集落がある。これは中村数馬が開いたところ、とか。まさか、秋川筋から中村さんが青梅筋まで遠征したとも思えない。奥氷川神社の神官に河辺数馬藤原永義がいた。この人物が数馬の切り通しを開いたとの説もある(『奥多摩歴史物語;安藤精一(百水社)』)。由来としてはわかりやすい。そのほか、すまは「隅」、かは「かど、かき、かぎり」、の「か」であっり、かずまとは「障壁によって限られるところ」との説も紹介されている(『奥多摩風土記(大館勇吉著;有峰書店新社刊』)。例によって、定説は、ない。

氷川発電所再び遊歩道に戻る。数馬峡橋を渡り直し、橋の南詰め脇から上流へ向かう。道脇にある森のカフェ・アースガーデンの横を抜けて先に進む。岩壁に沿った遊歩道を進むと隧道があり、そこを抜けるとあたりが開ける。道なりに進むと東京電力氷川発電所と水圧鉄管が見えてくる。平成19年に東電の100%子会社である東京発電に譲渡されているので、正確には東京発電氷川発電所と言うべきか。島嶼部を除いて唯一の水力発電所であった東京電力氷川発電所も水力発電専門の東京発電に移った。東京発電の発電所は先日箱根の深良用水散歩のとき出会った。関係ないけど、なんだかうれしい。
100m強の水圧鉄管が山から下っている。水は小河内ダム直下の多摩川第一発電所で使った余水。水じょく池にたまった水は大半が多摩川に放水されるが、一部が5.3キロの隧道水路を通り氷川発電所に送られてくる。Google MAPをみていると、水圧鉄管の伸びる山中に如何にも人工的な池が見える。これって氷川発電所の調整池だろうか。

海沢氷川発電所を左にみながら海沢川にかかる小橋をわたる、上りきったところを右に折れ、多摩川にかかる海沢大橋を渡ると国道411号線に出る。左に折れ都道184号線にそって歩けば多摩川南岸を通り奥多摩・氷川に続く。
それにしても奥多摩の山中に「海沢」とは面妖な。チェックすると、往古この地には湖があったと伝わる。交差点を少し山に向かったところにある向雲寺とか海沢神社の西側一帯がそうであった、とか。いつの頃か決壊し現在の地形になったのだが、地名は残った。それが海沢の由来とのこと(『奥多摩風土記(大館勇吉著;有峰書店新社刊』)。

JR奥多摩駅あとは都道184号線を進み、もえぎの湯への案内を目安に都道から別れ、橋を渡り一風呂浴び、JR奥多摩駅に向かい家路へと。本日はポピュラーなハイキングコース。特にメモすることなど、なにもないかとお思っていたのだが、あれこれ面白そうなところが現れてきた。越沢の渓流に沿っての沢上りに備えて、早速渓流シューズを探し、防水バックを整え始めた。越沢に限らず、御嶽の周辺はなかなか面白そうである。

文京区散歩そのⅢ;関口台地と小石川台地、そしてその台地を分ける音羽の谷を歩く

文京区散歩の三回目。西端の関口台地と小石川台地、そしてその台地を分ける音羽の谷を歩く。音羽の谷を形づくった川は弦巻川と水窪川。ともに池袋駅周辺の池や湿地を水源として護国寺・雑司ヶ谷の台地を西と東に別れて下り、音羽の谷で合流する。「御府内備考」には「幅九尺・・・・・水上は巣鴨村雑司ヶ谷村之内田場際より流出夫より當町(東青柳町)え入音羽町裏通り江戸川え流出申候・・・・流末に而は鼠ヶ谷下水と唱候よしに御座候」、とあるが、この鼠ヶ谷下水は水窪川だけでなく弦巻川をも含めての呼び名であり、特に最下流の人工水路を指していたようだ。
小日向の台地から音羽の谷に下る坂に鼠坂という名前の坂がある。鼠でなければとても上れないような急な坂であったが、この坂は別名水見坂とも呼ばれていたい。音羽の谷を流れる川筋がよく見えたからだろう。鼠ヶ谷下水はこの鼠坂に由来するのだろうか。それにしても音羽に鼠とはこれ如何に。それはともあれ、本日の散歩は、まずは雑司ヶ谷の西を下る弦巻川からはじめ、音羽の谷を下り関口台地に進む。その後は小石川台地をぐるりと廻って水窪川筋に戻り、護国寺の台地の東側を池袋駅近くの水源跡にもどろう、というもの。文京区散歩とは言うものの、始まりと締めが豊島区ではあるが、それはそれとして、ちょっと長い散歩に出かける。



本日のルート;JR池袋駅>丸池の碑(元池袋史跡公園)> 明治通り>弦巻通り(大鳥神社参道)> 法明寺>鬼子母神>大鳥神社>都電荒川線>首都高速5号線>護国寺西交差点>大町桂月旧居跡>目白通り>胸突き坂>水神社>関口芭蕉庵>新江戸川公園>神田川>江戸川交差点>今宮神社>服部坂>小日向神社>新渡戸稲造旧居跡>切支丹屋敷跡>蛙坂>深光寺>林泉寺>地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅 >小石川植物園>千川跡>簸川神社>不忍通り_猫又橋跡>不忍通り_春日通り交差>護国寺>東青柳下水跡>吹上稲荷神社>坂下通り>都電荒川通り交差>東青柳下水跡源流点>JR池袋駅

丸池
池袋駅を北口に下り、駅前を西へ弦巻川のあった丸池へと向かう。ホテルメトロポリタンの東脇に元池袋史跡公園というささやかなスペースがある。ここが弦巻川の水源であった丸池の跡。池袋という地名の由来ともなったところでもある。「袋」は低湿地の地勢を表すことが多いという。低湿地に湧水の湧き出る池があったのだろう。その面影は、今はない。もっとも、東京芸術劇場の地下では現在でも大量の地下水が湧き出ているようで、多くのポンプで排水しているとの話を聞いたこともある。目には見えないところで未だに自然の力が保たれている、ということか。 300坪もあったと伝わる丸池を水源とし、弦巻川はここから南西に下り明治通りに進む。池袋警察所から明治通りへと向かう道を進み、JR線、西武池袋線のガード下を通り明治通り手前に進む。道端に案内地図。如何にも水路跡といった道筋などないものか、とチェック。と、JR線と西武新宿線の間に緩やかに曲がる道筋があり、その道筋らしき続きが明治通りを渡り、その先を東へとこれも緩やかに蛇行する。しかも、その道筋は「弦巻通り」とある。これって弦巻川の川筋の、はず。偶然に川筋が見つかる。これは幸先がいい。

明治通り道を少し戻り、JR線と西武池袋線の間の最低部で信号を渡り、先に進む。道なりに進み、西武池袋線下を潜り、小料理屋など昭和の雰囲気を残す街並みを進み明治通りに。道の反対側には時に訪れる古書店・往来座。ちょっと立ち寄り数冊購入。

弦巻通り
少し先に進み弦巻通りに入る。大鳥神社参道とある。先の都電荒川線との交差するあたりに大鳥神社があるが、そこへの参道ということ、か。ビッグネームの「鬼子母神」を差し置いての「大鳥神社参道」ということは、大鳥神社ってよっぽどの由緒があるのか、はたまた地元とのつながりがめっぽう強いのか、ちょっと気になる。

法明寺
緩やかにうねる道筋を進む。と、道の北側になんとなく雰囲気のあるお寺さま。桜並木の参道を進むと法明寺とあった。開基810年という古刹。元は威光寺と呼ばれる真言宗の寺であったが、14世紀の初め日蓮宗に改め法明寺となった。江戸の頃には徳川将軍家光より御朱印を受けるなど、代々将軍家の庇護を受ける。有名な雑司ヶ谷の鬼子母神はこの寺の飛地境内にある。境内には豊島一族や小幡景憲の墓がある。豊島氏は鎌倉から室町にかけ石神井城を拠点に、このあたり一帯に覇を唱えた一族。江古田の戦いで太田道灌の軍勢に敗れ勢は衰えるも、生き延びた一族は徳川氏に仕え八丈島の代官となった。ここに眠る豊島氏はその八丈島代官であった豊島忠次の一族である。
小幡景憲は江戸時代の軍学者。徳川氏に仕えるも、大阪の陣では豊臣方に与したとされるが、その実、徳川に内通していた、と言われる。事実、戦後1500石で徳川氏に仕えている。武田の遺臣でもあった小幡景憲は甲州軍学の集大成である『甲陽軍艦鑑』をまとめた。

鬼子母神
鬱蒼たる社叢の中に鬼子母神が佇む。室町の頃、永禄4年(1561)目白台(護国寺西交差点近く、清土鬼子母神のあるところ)で鬼子母神像が見つかり、東陽坊の堂宇に納められる。東陽坊はその後大行寺となり、さらに法名寺に合併したというが、それはそれとして、人々の信仰篤く、「稲荷の森」と呼ばれたこの地に鬼子母神堂を建てた。天正6年(1578)の頃、という。古来、この地には武芳稲荷が祀られ、ために「稲荷の森」と呼ばれた、と。
鬼子母神信仰がさらに盛んとなったのは江戸の頃、加賀前田藩前田利常公の息女により本堂が寄進されてから。門前にお茶屋や料亭が建ち並び大いに賑わったとのことである。前田家との関わりは、鬼子母神が納められた大行院が加賀藩前田利家公のゆかりの寺院であったため。子授け、安産、子育ての神ということもあり、鬼子母神への篤き信仰が従前よりあったのだろう。鬼子母神はインドの仏法守護の毘沙門さまの武将の奥さま。1000人もの子どもがおり可愛がっていたのだが、他人の子供は別物。当たるを幸いに「食べ」ていた。それを改心させようとお釈迦様が、鬼子母神の子供を隠す。鬼子母神は半狂乱。頃合いをみてお釈迦様が、「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」と言った、とか。以来改心し子授け、安産、子育ての神となった、と言う。
境内を歩く。権現造りの本堂は古き趣。前田家息女の寄進のものが現在まで残っているのだろうか。本堂に向かって右手に鬼子母神像。本堂の像は柔和な表情とのことだが、こちらは結構厳しい表情。仏法護持の職務故、か。左手に法(のり)不動堂。どちらかと言えば密教系の不動堂があるのは、法明寺がもとは真言系の寺院であった名残だろう。本堂を少し離れたところに武芳稲荷。この地のもともとの地主神。脇に大きな公孫樹(いちょう)がそびえる。樹齢700年以上、とか。
境内にある駄菓子屋・川口屋は江戸の頃からの店。すすきの穂を束ねたみみずくの人形「すすきみみずく」は鬼子母神の名物。江戸の頃、夢のお告げで生まれた、と。団子屋には「おせんだんご」。簡潔なる名通信文「おせん 泣かすな 馬肥やせ」とは関係なく、1000人の子供がいた鬼子母神にちなんで、多くの子宝に恵まれることを願う。本堂裏手には妙見堂。北斗七星を神格化した妙見さまは、もともとは空海の真言宗からはじまったものだが、日蓮との結びつきも強い。伊勢において日蓮の前に妙見菩薩が現れ仏教の未来を託された、とか。そのような縁起もあり法華教の布教者は全国の妙見宮の復興に尽くしたと。そういえば大阪の能勢の妙見さん、江戸の本所や柳島、池上本門寺の妙見堂など日蓮関連の寺院に妙見さんが目につく。ちなみに鬼子母神の「鬼」の表記だが、第一画目の点がないものもある。鬼の角を外した姿と示すものであろう、とか。

大鳥神社
境内を離れ再び弦巻川跡をたどる。東京音楽大学の間を抜け、道は如何にも川筋であったがごとくゆるやかにうねりながら進む。道が都電荒川線と交差する手前に大鳥神社。明治通りの入り口よりこの道筋は大鳥神社参道とあったわけで、いかほど大振りなる社かと思ったのだが、まことに普通の神社であった。
この神社、もともとは鬼子母神の境内にあった、という。江戸の頃、松江藩主の嫡子が高田村の下屋敷にて疱瘡を患い療養。ために、疱瘡除けの神として名高い出雲の鷺明神(大社町鷺浦)を鬼子母神の境内に勧請したとされる。「我 これより鬼子母神の神籬(ひもろぎ)の内に鎮座し衆人を衛護せん 若し広前の石を拾い取りて護符とせば決して悪瘡に悩まされることなかるらん」とは鷺明神の言。なぜ鬼子母神の地かはわからない。この地に移ったのは明治になってから。神仏分離で鬼子母神の境内を離れ、少々流浪の時期を経て篤志家の支えでこの地に移った。
大鳥神社と言えば酉の市。ご多分に漏れずこの社も江戸の頃から酉の市が開かれた。江戸末期の記録に『今年より雑司が谷鬼子母神境内鷺明神へ十一月酉の祭とて詣づること始まる是より年々賑わえり(武江年表)』、とある。あれ?あれ?鷺(さぎ)?鷲(わし)じゃないの?酉の市って、足立・花畑の大鷲神社にしても、埼玉・久喜の鷲宮神社にしても、浅草の鷲(おおとり)神社にしても「鷲(わし)」のはず。「鷺(さぎ)」も鳥には違いはないのだが、何がどうなっているのだろう。鷺(さぎ)大明神は素戔嗚尊の妻女であり、その実体は十羅刹女といった神も仏も皆同じ、というか、ぐちゃぐちゃな話もあるが、『新編武蔵風土記稿』では鷺明神社の祭神を瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)としている。祭神もあまりひっかからない。酉の市で名高い浅草の鷲大明神は妙見大菩薩とも呼ばれていたようだ。鬼子母神にも妙見堂がある。こういったことが関係したのだろうか。よくわからない。

雑司ヶ谷台地
都電荒川線を越える。進むにつれ道の左手に台地の高みが感じられる。道を離れちょっと台地へと寄り道をする。成り行きで進むと宝城寺とか水仙寺。宝城寺の門前には「祈雨日蓮大菩薩」の石柱がある。その横、少し坂を上る途中の水仙寺こと御嶽山清立院青竜寺は改築されたのだろうか、新しい建物となっていた。疱瘡快癒祈願の「疱守薬王菩薩」や雨乞いの松がある、とか。「江戸名所図会」の御嶽坂には崖上に瀧清寺、御嶽堂や講雨松。崖下あたりに堂宇、これはたぶん宝城寺、そしてその脇を流れる弦巻川が描かれている。川の周囲はひたすらに畑地が続くのみである。
水仙寺前を台地に上る。雑司ヶ谷台地と呼ばれ、武蔵野台地の末端が浸食されてできたもの。台地上の雑司ヶ谷霊園は明治になってできたもの。それ以前は将軍鷹狩りのための御部屋、そして農家が点在していたとのことである。台地上から弦巻川に開析された谷地を想う。地形図を見ると法明寺から清立院を結んだあたりが崖線。関口台地との間の窪みが弦巻川の谷筋である。しばし崖線に沿って進み、成り行きで弦巻川、というか弦巻通りに戻る。

不忍通り・清戸坂
下町の雰囲気を残す道筋を歩き首都高速5号池袋線の走る都道435号線に出る。高速道路の向こうには豊島岡の台地の高みがある。道を南に下り不忍通り・護国寺西交差点に。どこで見たのか忘れたのだが、交差点近くに大町桂月の旧居跡がある、と。桂月の紀行文のファンとしては、これは一度訪れるべし、と。旧居は文京区目白台3丁目。不忍通りが目白通りに合流する清戸坂を南へと渡り目白台に。この坂が清戸坂と呼ばれるのは、清戸道に上る道であった、から。目白台2丁目で目白通り(清戸道)に合流する。
清戸道は清瀬の清戸に向かう道。始点は江戸川橋のあたり。そこから椿山荘脇を通り西に進み目白、練馬と、おおざっぱに言って目白通りの道筋を進み清瀬に向かう。清瀬での将軍の鷹狩りの道とか、近郊の野菜を江戸に運ぶ道とか、あれこれ。とまれ一度辿ってみたい古道である。清戸?清土?鬼子母神像がみつかったという「清土」鬼子母神は「清戸」坂の脇、目白台2-14-8にある。清瀬の清戸も由来では「清い土」からとのことである。清土は清戸道の元の由来を残した名前か、鬼子母神像を掘りだした清い土からのものか、はてさて。

大町桂月旧居跡
道を渡り大町桂月さんの旧居跡を探す。あちらこちらとさまよいながら、住宅街の中に旧居跡の案内を見つける。奥は空き地となっていた。明治の末にこの地に住んでいた、という。詩人・随筆家・評論家として知られる、というが、散歩フリークとしては紀行文しか知らない。誠に、いい。終世酒と旅を愛し、大雪山系にはその名からとった桂月岳が残る。与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」に対して、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」などと非難し戦後は少々評価をさげてはいたようだ。が、紀行文は誠に、いい。田山花袋の紀行文に『東京の近郊 一日の行楽』がある。これも、いい。同じく桂月に明治40年に書かれた「東京の近郊」がある。これもまた、いい。「一日に千里の道を行くよりも 十日に千里行くぞ楽しき」は桂月の言。

胸突坂
ここからは弦巻川の川筋を離れ関口台地の崖線へと進むことに。目白台の台地を成り行きで進み目白台3丁目交差点あたりに出る。目白通りを少し東に戻り、関口台の崖線へと右に折れる。一度訪れた胸突坂を下るため。
道の右手には和敬塾。首都圏の男子大学生の学生寮といったもの。旧細川侯爵邸跡でもあり、細川家の発意かとも思っていたのだが、前川製作所創業者一族が創始者であった。前途有為なる学生を支援したもの、か。先に進むと永青文庫。熊本藩主細川家が収集した日本・東洋の美術品が並ぶ。和敬塾やこの永青文庫、そしてその下に広がる新江戸川公園を含め、この辺り一帯は熊本藩細川家の屋敷跡である。あまりに重厚というか静かな佇まいであり、門外漢が気楽に足を踏み入れるという雰囲気ではない。先に進む。永青文庫の名前は建仁寺塔頭である「永」源院と細川藤高の居城・「青」龍寺から。
右手に新江戸川公園の緑を見やりながら急坂を下る。胸突坂。「むなつきさか」と読む。急坂故の名前だろう。案内には、「坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である」、と。とはいうものの、「自分の胸を突くようにしなければ上れない」ってどういうこと?胸突の意味がよくわからない。「胸を突かれたように息ができない」といった定義もあり、このほうがわかりやすいのだが。はてさて。坂を通したのは元禄10年(1697)のことである。

水神社
足元をとられないように胸突坂をゆっくり下る。コンクリートで固められてはいるのだが、雨上がりでのスリップが少々怖い。下る途中に水神様。神田上水の工事の安全を祈り祀られた。大きな銀杏の木も茂り、こぶりながら祠もあり趣もそれなりに、ある。
神田上水は江戸のはじめの頃、江戸の人々、というか、中心はお武家様用であり余水を町屋の人が、といったところではあろうが、とまれ、江戸の人々に飲料用の水を供給するため設けられた人工の水路。元々あった平井川の川筋を改修し、豊かな井の頭の湧水と結んだ、とか。
神田上水を守る水神様はこの付近に二カ所ある。この関口と目白台。目白台の水神様には行ったことはないのだが、目白通りの関口フランスパンのあたりという。どちら関口水神社であり,少々わかりにくいのだが、もう一カ所のほうにはまだ湧水がわいているとも聞いた。そのうち行ってみたい。

芭蕉庵
胸突坂を隔てて水神社の向かいに関口芭蕉庵。「ご自由に」とは言われても,少々足を踏み入れにくいしっかりした構えの門を入り、野趣豊かな園内を歩く。ひょうたん池の周囲を一回りし、さみだれ塚とか芭蕉堂を辿る。
さみだれ塚は芭蕉の句である「さみだれに隠れぬものや瀬田の橋」の短冊を埋めて墓としたもの。芭蕉庵の前面に広がる早稲田田圃を琵琶湖にみたて詠んだもの。「庵の前には上水の流横たわり、南に早稲田の耕地を望み、西に芙蓉の白峯を顧みる。東は堰口にして水音冷々として禅心を澄ましめ、後は目白の台聳(そび)えたり。月の夕、雪の朝の風光もまた備われり」は江戸図会に描かれる芭蕉庵あたりの景観である。芭蕉堂は芭蕉の33回忌を記念して弟子が建てたもの。
芭蕉庵には今までに数回訪れたことがある。神田上水を井の頭の水源から下り、この地を訪ねた。また、関口台地からの湧水が芭蕉庵中にわき出ると、湧水を見るためだけにこの地を訪ねたこともある。この庵の案内を見て、芭蕉が神田上水の改修工事に参画していたことは記憶に残ってはいたのだが、俳人の芭蕉と利水技術者との関連がよくわからない。いい機会なのでチェックする。
文京区教育委員会の案内によれば、「芭蕉は延宝5年から8年(1677から1680)まで神田上水の改修に参加し、龍穏庵という庵に住む」と言う。松尾甚七郎と称する伊賀・藤堂藩の侍であった、とする説もあるが、この頃にはすでに藤堂家を致仕している。俳諧で身をたてんと江戸に下り、藤堂家時代に身につけた水利技術で身過ぎ世過ぎを過ごしていたのだろう。本拠地は日本橋。俳句仲間の魚問屋の貸家に住み、ときどきこの地に出向き後に龍穏庵とよばれるようになる「庵」で寝泊まりしていたようだ。ちなみに、俳号「芭蕉」を使い俳句で一本立ちしたのは、この改修事業の2年後のことである。

新江戸川公園
神田川を少し西に戻り返し新江戸川公園に向かう。江戸の頃熊本藩細川家の下屋敷であったが、現在は文京区が管理している。目白台の崖線を活用し、傾斜面を活かし、台地からの湧水を池に取り入れた回遊式泉水庭園として景観学の書籍などでしばしば取り上げられている名園。「明暦の大火後どの大名も中屋敷、下屋敷をもつようになると、山の手の条件のよい場所は次々と大名屋敷によって占められていった。それらは武蔵野丘陵の豊かな自然をとりこみ庭園を配した私邸あるいは別邸としての役割をもった(中略)。多くの場合、大名屋敷は高台の尾根道に面して立地する。そこでは敷地内の斜面となるところに、高低差による湧水を生かして池をつくり、回遊式の庭園を設けることができるのである。しかも、できるかぎり尾根道の南側に立地し、敷地内の北寄りに位置する高台平坦部に建物を置いて、その南の斜面に庭園をつくろうとする傾向が読みとれる(『東京の空間人類学:陣内秀秀信(ちくま学術文庫)』)、と。
園内の遊歩道も尾根道風であり誠に、いい。元は3000坪程度であったようだが、次第に拡張し最終的には38000坪といった広大な敷地となった。数年前に訪れたときは入場料が必要だったように思うのだが、今回(2010年8月)は無料で入場できた。

椿山荘
神田川を江戸川橋交差点へと折り返す。芭蕉庵前をかすめ先に進むと左手崖面には椿山荘。江戸の頃、上総・久留里藩黒田家の下屋敷であったものを明治になって元勲山形有朋が購入し、「椿山荘」と名付けた。『江戸砂子』に「椿は椿山、牛込関口の近所、水神あり。此の山の前後、一向に椿なり。此所を向ふ椿山といふ・・・』ともあるように、この地は南北朝の頃から椿山と称される椿の名所であった、よう。桜の季節の花見の宴や結婚式などの折り、その庭園は歩いているので今回はパス。

関口大洗堰跡
左手に崖面を意識しながら江戸川公園に沿って進むと関口大洗堰跡に。この地に大きな堰があり井の頭から引かれた神田上水の水を保つとともに、江戸湾からの海水を防いだ。今でこそ東京湾の渚はこの地からはるか彼方ではあるが、江戸開闢の頃は現在の日比谷あたりは一面の入り江であったわけで、この関口のあたりまで海水が押し寄せるのはそれほど不自然ではない。関口の名前の由来も堰があったことから。
神田上水はこの地で二手に分かれ、ひとつは上水として後楽園にあった水戸藩江戸屋敷に引かれ、その後水道橋で懸樋にて神田川を渡り、石樋・木樋をもって神田や日本橋へと水を導いた。もうひとつは神田川の流れとなり、お茶の水の切り通しを抜けて大川に注いだ。公園には堰跡を残す。

音羽谷
江戸川橋交差点に。護国寺から江戸川橋に下る道筋は音羽谷と呼ばれ、関口台地と向かいの小石川・小日向台地を分ける。江戸の頃は紙漉が盛んであったと言う。その昔、この音羽の谷筋には関口台地に沿って弦巻川が、小石川・小日向台地に沿って水窪川(東青柳下水とも)が流れていた。今はともに暗渠となりその名残はないが、その昔は清流がながれていたのだろう。「みずまやの 牛の腹ゆく ほたるかな」とは蛍の名所であった弦巻川を詠んだ句である。音羽谷の出口で合わさったふたつの流れは伏樋で神田上水を潜り江戸川橋の下で神田川に注いだ。現在水窪川は坂下幹線と呼ばれる雨水幹線として音羽通りの下を通り神田川に注いでいる。ちなみに、音羽の由来は奥女中の拝領地であったから。

今宮神社
次は小日向台地と小石川台地を辿ることに。小日向台地は小石川台地南端部の支尾根といったものだろうか。茗荷谷のあたり、地下鉄丸の内線の操車場あたり地形の窪みによって分けかれているのだろう。江戸川橋交差点を越え小日向の台地に向かう。
道路脇の地図を見ると、目白坂下交差点近くに今宮神社がある。別名「玉の輿神社」とも称されるように、今宮神社は将軍綱吉の生母・桂昌院とのゆかりの社。八百屋の娘から将軍生母にまで上り詰めた桂昌院が篤い信仰を寄せたが故の呼び名である。それはそれとして、護国寺も桂昌院の発願によるもの。なんらかの関係があるのか、と思い訪れることに。
こぶりな社は護国寺建立の時に京都の今宮神社を分祀したものであり、この地には明治の神仏分離令にともない移り来たとのことであった。桂昌院と大いに関係があった。境内には明治時代、製紙業者が和紙に掛けて招聘した「天日鷲の命」の社がある。鷲>わし>和紙、といった連想ゲームだろう、か。

服部坂
今宮神社を離れ、さてどこから台地に取り付こうかと思案する。道脇の地図を眺めると、小日向神社とか新渡戸稲造旧居とか切支丹屋敷跡といった案内。フックが掛かる。まずは小日向神社に。台地下に沿った道を進む。神田川から2筋ほど入ったこの道路道は昔の神田上水の水路筋。このあたりは開渠で水戸藩の江戸屋敷に向かう。この道は上水通りとも呼ばれていたようだが、上水が廃止された後に水路を石で覆ったため現在では巻石通りと呼ばれる。
大日坂下交差点を越え区立五中前を左に折れ坂を上る。服部坂とある。名前の由来はかつて坂の上に服部権太夫の屋敷があったから。永井荷風は「金剛寺坂 荒木坂 服部坂 大日坂 等はみな 斉しく 小石川より牛込赤城番町辺を見渡すによい。・・・」と書く。今は高い建物が多く、それほどの見晴らしはないのだが、少し前の昔にはよき眺めであったのだろう。それぞれの坂は巻石通りを上る坂である。先ほど通り過ごした大日坂は往時坂の上に大日堂があった、から。

小日向神社
坂を上ると小日向神社がある。ここは服部権太夫の屋敷跡。古き社とのことで訪れたのだが、これといった趣は、なし。小日向神社は氷川神社と八幡神社というふたつの古き社が合祀して明治2年にできたもの。氷川神社は天慶3年(940)、当時の常陸国の平貞盛が現在の水道2丁目の日輪寺の上の連華山に建立した。八幡神社は昔の名を「田中八幡」といい、現在の音羽1丁目に鎮座していた。どこかの古地図で見たのだが、今宮神社のところに田中八幡があったが、そこが古地だろう、か。
ところで小日向だが、日向って、てっきり「日当たりのいい南面地」」と思い込んでいたのだが、実際は人の名前。文禄の頃の文献に、このあたりを領地とする鶴高日向という人いた、とある。で、家が絶えた後このあたりを「古日向」と称していたのが、いつの頃か「小日向」となった、とか。

新渡戸稲造旧居跡
台地上の道を成り行きで進む。誠に偶然に新渡戸稲造旧居跡の案内に行き当たった(文京区小日向2-1-30)。農政学者・教育者。内村鑑三とともに札幌農学校に学び、キリスト教の洗礼を受ける。その後東京帝国大学に学び、アメリカ、ドイツに留学し帰国後は自由主義的、人格主義の教育者として活躍。国際連盟設立に際してはその事務局次長に就任。『武士道』の著者としても知られる。




切支丹屋敷跡
民家の脇に切支丹屋敷跡の石碑。この地は宗門改役井上政重の下屋敷跡(文京区小日向1-24-8)。案内をメモ;江戸幕府はキリスト教を禁止し、井上筑後守政重を初代の宗門改役に任じ、キリスト教徒を厳しく取り締まった。この付近は宗門改役を勤めていた井上政重の下屋敷であったが、正保3年(1646年)屋敷内に牢屋を建て、転びバテレンを収容し宗門改めの情報集めに用いた。主な入牢者にイタリアの宣教師ヨセフ・キアラ、シドッチがいた。享保9年(1724年)火災により焼失し、以後再建されぬまま寛政4年(1792年)に廃止された、と。
島原の乱の後、筑前に漂着したイタリア人宣教師を収容したのが切支丹屋敷の始まり、とか。宣教師の転向を強要するのが最大の目的であった、とも。神父フェレイラ、そして神父を転向させようとする井上政重を描いた小説に『沈黙』がある。また、新井白石の『西洋紀聞』は収容された宣教師のヨハン・シドッチを尋問しまとめたもの。

切支丹坂
切支丹屋敷の辺りまで来ると小日向台地の左側の崖線もすぐそこ。谷間には丸ノ内線のヤードがある。この谷間が小石川の台地から小日向の台地をわけているのだろう。碑の前を進み左折すると坂があり、丸の内線のガードへと続く。その坂は切支丹坂と呼ばれる。
志賀直哉の小説『自転車』に切支丹坂の描写がある;恐ろしかったのは小石川の切支丹坂で、昔、切支丹屋敷が近くにあって、この名があるといふ事は後に知ったが、急ではあるが、それ程長くなく、登るのは兎に角、降りるのはそんなに六ケ(むつか)しくない筈なのが、道幅が一間半程しかなく、しかも両側の屋敷の大木が鬱蒼と繁り、昼でも薄暗い坂で、それに一番困るのは降り切つた所が二間もない丁字路で、車に少し勢がつくと前の人家に飛び込む心配のある事だつた。私は或る日、坂の上の牧野といふ家にテニスをしに行つた帰途、一人でその坂を降りてみた。ブレーキがないから、上体を前に、足を真直ぐ後に延ばし、ペダルが全然動かぬやうにして置いて、上から下まで、ズルズル滑り降りたのである。ひよどり越を自転車でするやうなもので、中心を余程うまくとつてゐないと車を倒して了ふ。坂の登り口と降り口には立札があつて、車の通行を禁じてあつた。然し私は遂に成功し、自転車で切支丹坂を降りたのは恐らく自分だけだらうといふ満足を感じた(『自転車』)。子供の頃自転車に熱中し、あちらこちらと走り回った、とか。坂の雰囲気を少し味わい、切支丹屋敷跡へと折り返し、茗荷谷駅方面へと向かう。

蛙坂
道なりに進むと茗荷谷へと下る坂に。道脇の案内によると「蛙坂」とある。メモ;「蛙坂は七間屋敷より清水谷へ下る坂なり、或は復坂ともかけり、そのゆへ詳にせず」(改撰江戸志)。『御府内備考』には、坂の東の方はひどい湿地帯で蛙が池に集まり、また向かいの馬場六之助様御抱屋敷内に古池があって、ここにも蛙がいた。むかし、この坂で左右の蛙の合戦があったので、里俗に蛙坂とよぶようになったと伝えている。なお、七間屋敷とは、切支丹屋敷を守る武士たちの組屋敷のことであり、この坂道は切支丹坂に通じている、と。

茗荷坂
坂を下りきったところに深光寺。滝沢馬琴の墓がある。『南総里見八犬伝』で知られる。深光寺と拓殖大学の間を上る坂は「茗荷坂」。案内をメモ;「茗荷坂は、茗荷谷より小日向の台へのぼる坂なり云々。」と改撰江戸志にはある。これによると拓殖大学正門前から南西に上る坂をさすことになるが、今日では地下鉄茗荷谷駅方面へ上る坂をもいっている。(中略)茗荷谷の地名については御府内備考に「・・・・・・むかし、この所へ多く茗荷を作りしゆえの名なり云々。」、と。

林泉寺
茗荷坂の途中に林泉寺。しばられ地蔵をおまいりに伺う。階段を上り本堂脇に石仏があり、縄で巻かれていた。いつだったか葛飾東水元の南蔵院の、しばられ地蔵にお参りしたことがある。本家本元はそちらか、ともおもったのだが、こちらのお地蔵様も『江戸砂子』に「小日向茗荷谷林泉寺の縛られ地蔵に願かけの時、地蔵を縛り、叶うとほどくと言われ、地蔵縁日には大変な賑わいであった」と書かれている。結構昔から人々の信仰を集めていたのだろう。
説明書きにあった「しばられ地蔵」の名前の由来をメモ;昔、呉服屋の手代が地蔵様の前で休み、居眠り。その間に反物を盗まれる。奉行は石地蔵が怪しいとして縄をかけ、奉行所に運ぶ。物見高い見物人もそれについて奉行所内へ。許しもなく奉行所内に入った者たちに対し奉行は、罰として三日以内に反物を持ってくるように、と。で、集まった反物の中に盗品を発見、犯人も逮捕したという話が「大岡政談」にある、とか。この話の元になったのは葛飾区東水元の南蔵院だが、縛られ地蔵はこのころより有名になった、と。この話はわかったようで、よくわからない、がそれはそれとして寺を離れ坂を上り茗荷谷駅に。台地上にある茗荷谷駅では、いまひとつよくわからなかった茗荷谷の「谷」たる所以がわかった小日向台の散歩であった。

東京大学付属植物園
さてと、散歩もそろそろ最終段階。池袋から護国寺の東を流れ音羽の谷に注いでいた水窪川(東青柳下水)に向かう。茗荷谷駅から台地上の春日通りを進み不忍通りの交差点へともおもったのだが、どうせのことなら小石川台地を一度下り、白山台地との境をつくる谷端川の川筋を辿ろうと。少々迂回することになるが、ここまで来たら、どうということも、なし。
茗荷谷駅から昔の東京教育大学、現在の筑波大学跡地である教育の森公園脇の坂を下り東京大学付属植物園の北西端に。植物園に沿って進む道が昔の谷端川の川筋である。(ここから谷端川を北に上り猫又橋跡までは以前歩いた谷端川散歩の記事をコピー&ペースト)。
東京大学の付属施設であるこの植物園の歴史は古い。貞享元年というから、1684年、徳川綱吉の白山御殿の跡地に、幕府がつくった薬草園・御薬園が、そのはじまりである。三代将軍家光のときに麻布と大塚につくられた薬草園をこの地に移したわけだ。園内には八代将軍吉宗のときにつくられた、小石川養生所の井戸なども残る。養生所は山本周五郎の小説『あかひげ診療譚』でおなじみのものである。台地上や崖線をゆったりと歩く。巨木、古木のなかで最も印象的であったのがメタセコイヤ。垂直に天に伸びる姿はなかなか、いい。
谷端川はこのあたりで千川と呼ばれる。その所以は、この川筋は源流点で千川用水の水を取り入れていたから。別の説もある。千川用水開削の目的がもともと、小石川白山御殿・本郷湯島聖堂・上野寛永寺や浅草寺などの御成御殿への給水のため、ということ。神田・玉川上水からの給水が地形上不可能なため、新たな上水道を開削したわけだ。 要町から先の千川上水というか用水の流路をチェックしておく。要町3丁目から北東に東武東上線・大山駅付近まで登る>その先、都営三田線・板橋区役所駅前が北端のよう>その後は、駅前通・旧中山道に沿って南東に下る>明治通りとの交差するあたりで王子への分水>さらに旧中山道を下り巣鴨駅前・巣鴨三丁目で白山通・中山道通りに>白山通りを進み白山前道から白山御殿に給水、といった段取りでこの小石川植物園あたりまで進んできている。
この用水、将軍様だけでなく、駒込の柳沢吉保の六義園といった幕府関係者への給水、また本郷地区の住民も上水の恩恵に浴した。その後白山御殿閉鎖にともない、いくつかの紆余曲折はあったものの上水の給水はなくなり、水田灌漑用の用水として機能した、と。

簸川神社
小石川植物園の脇、台地の上に簸川神社。第五代孝昭天皇の時代というから、5世紀の創建と伝えられる古社。この神社、もともとの社号は氷川神社。簸川となったには大正時代になってから。天皇自体は伝説の天皇かもしれないが、その当時から簸川=氷川=出雲族の神様をまつる部族がこのあたりに住んでいたのだろうか。氷川神社のメモ:氷川は出雲の簸川(ひかわ)に通じる。武蔵の国を開拓した出雲系一族が出雲神社を勧請して氷川神社をつくる。武蔵一ノ宮は埼玉・大宮の氷川神社。武蔵の国に広く分布し、埼玉に162社、東京にも59社ある、とは以前メモしたとおり。もとは小石川植物園の地にあったが、その地に館林候・徳川綱吉の白山御殿が造営される。ために、おなじところにあった白山神社とともに元禄12年(1699年)、この地に移った。八幡太郎義家奥州下行の折、参籠した、といったおなじみの話も伝わっている。
簸川神社坂下一帯は明治末期まで「氷川田圃(たんぼ)」と呼ばれる水田が広がっていた、とか。神社階段下に「千川改修記念碑」。白山台地と小石川台地に挟まれた谷地を流れる川筋は水はけが悪く、昭和9年には暗渠となる。「千川通り」のはじまり。千石の地名は、千川の「千」と小石川の「川」の合作。

猫又橋
民家の間を続く谷端川跡を進み不忍通りに。横切ると、歩道脇に「猫又橋の親柱の袖石」の碑。「この坂下にもと千川(小石川とも)が流れていた。むかし、木の根っ子の股で橋をかけていたので根子股橋と呼ばれた」との説明文。谷端川はこのあたりでは千川とか小石川と呼ばれるようになる。交差点の上は猫又坂。不忍通りが千川の谷地に下る長い坂。千川にかかっていた猫又橋が名前の由来。猫又とは、根子股とは別に、妖怪の一種であったという説もある。このあたりに、狸もどきの妖怪がいたとか、いないとか。

本伝寺
不忍通りを東に、千石3丁目交差点を越えゆるやかな再び小石川台地に上る。春日通りとの交差点の手前に立派なお寺様。本伝寺。何気なく入った境内に波切不動があった。池波正太郎の『鬼平犯科帳』に波切不動堂が描かれている。『鬼平犯科帳;逃げた妻』;大塚の波切不動堂は、はじめ伊勢の国の或る村に安置されてあったのを、かの日蓮上人が伊勢路を旅するうち、霖雨のため水量を増した河を渡りかねているとき、老爺に姿を変えた不動明王が河の水を切って上人を渡河せしめたという。この不動明王の本尊を東国へ運び、大塚の地に移したのも日蓮上人だそうな。 「農民、その塚上、松の木の下に一宇の草堂を営建して、これを安置したてまつる」と、物の本にある。 いまは、東京都文京区大塚仲町の内だが、当時は江戸の郊外のおもむきがあり、それでいて、新義真言宗豊山派の大本山.護国寺が近いだけに、町なみもととのい、種々の店屋も軒を連ねている、と。
昔はこの本伝寺の場所ではなかったようだが、本伝寺にしても波切不動堂にしても『江戸名所図会』にも描かれている。本伝寺は大きな境内に不忍通りとおぼしき道を人が往来している。波切不動は狭い境内ながら、多くの人が往来する。物売り、駕籠、馬子、主人と奉公人とおぼしき連れなどなど。道は春日通りであろう。

富士見坂
台地上で春日通りと交差し、今度は小石川の台地を下り東青柳下水の水路跡に向かう。この坂は富士見坂。昔はここから富士が眺められたのだろう。道脇の案内によれば、この坂上の標高は28.9m。区内の幹線道路では最高点とか。昔は、狭くて急な坂道であったようだが、大正13年(1924)10月に、旧大塚仲町(現・大塚三丁目交差点)から護国寺前まで電車が開通した時、整備されて坂はゆるやかになり、道幅も広くなった、と。また、この坂は、多くの文人に愛され、歌や随筆にとりあげられている。「とりかごをてにとりさげてもわがとりかひにゆくおほつかなかまち(会津八一)」「この道を行きつつ見やる谷越えて蒼くもけぶる護国寺の屋根(窪田空穂)」。富士が詠われていないようだが、既に富士の眺望は過去のものとなっていたのだろう、か。

護国寺
護国寺の東側、いかにも水路跡といった通りを確認し、ついでのことでもあるので、護国寺へ足をのばす。お寺の門というより、武家屋敷の門構えといった惣門を入り境内に。五万石以上の大名家の格式をもつ門構えとか。五代将軍綱吉が生母である桂昌院のために建てた寺院であれば当然、か。大名屋敷表門で現存するものは、いずれも江戸時代後期のものであるのに対して、 この門は、中期元禄年間のもので、特に重要な文化財である、と案内にあった。
境内を本堂の観音堂へと向かう。不老門に通じる石段の右手には富士塚。『江戸名所図会』にそれらしき姿があったので気にしていたのだが、疲れのためか富士塚に行くのを忘れてしまった。本堂の観音堂は国の重要文化財。お参りをすませ、八脚門・切妻造りの堂々とした仁王門をくぐり不忍通りに。

水窪川・東青柳下水跡
不忍通りを戻り直し水窪川・東青柳下水の流路跡とおぼしき地点に戻る。根拠はないのだが、北から不忍通りへと合流し、通りの南を先に続く細路がいかにも水路跡といった雰囲気であった、から。結果的にはオンコースであった。不忍通りを渡った水窪川・東青柳下水跡は大塚2丁目・旧東青柳町を小日向の台地の下を進み、弦巻川の流れと合わさり江戸川橋で神田川に合流する。水窪川跡を源流へと向かう。源流点はサンシャイン60の近くということはわかってはいるのだが、流路はそれほどきちんと残っているとも思えないので、とりあえす成り行き、ということで先に進む。
皇室の御陵である豊島が岡御陵東側の石垣に沿って進む。豊島が岡御陵は護国寺と一帯になった台地となっており、その崖下を進む。民家の軒先といった流路を進むと、吹上稲荷神社がある。吹上>吹上御所>皇室>豊島が岡御陵、といった連想ゲームで、なんらかありがたい社かと、ちょっと寄り道。

吹上稲荷神社
社の裏手は鬱蒼とした赴き。豊島が岡御陵の社叢に連なる緑だろう。元和8年(1622)、徳川秀忠が下野国日光山より稲荷大神を勧請し、江戸城中紅葉山吹上御殿につくられた。もとは「東稲荷宮」と呼ばれた、と。後に水戸家の分家・松平大学頭家に、そして宝暦元年(1751)に大塚村民の鎮守神として現在の小石川4丁目に移遷。この頃に吹上御殿に鎮座していたことから名前も「吹上稲荷神社」と改めた。その後、護国寺月光殿から大塚上町、そして大塚仲町へと移遷し、明治45年に現在地に移った。


水窪川源流点
川筋跡に戻り先に進むと坂下通りに。根拠はないのだけれど、川筋跡とおぼしき道が坂下通りを越え、湾曲して進む。たぶんそれが川筋跡だろうと先に進む。道脇には大谷石の石垣で段差をつけた家があり、なんとなく川筋の雰囲気がある。道なりにぐるりと迂回し、再び坂下通りに。この先は流路らしき道は残っていない。崖下から離れないように先に進む。だけ、道すがらポンプ井戸などが残る。小さな商店街をかすめ先に進むと都電荒川線に当たる。成り行きで造幣局東京支局の石垣下に。幣局東京支局は戦犯を収容した巣鴨プリズンのあったところ。石垣下をかすめ、都電荒川線東池袋四丁目駅あたりに進む。近くに川筋跡らしき道が残る。
この先は川筋跡の痕跡はなにもないが、源流点とされる東池袋1丁目23の美久仁小路に向け高速5号線をくぐり、豊島岡女子学園脇を通り源流点に到着。池袋の繁華街、コンビニの脇に美久仁小路があった。
かつてはこのあたりから都電荒川線の池袋4丁目駅あたりまでは一面の湿地であったようだが、一帯の丘陵地であった「根津山」を切り崩し埋め立てられた、とか。弦巻川にしても、この水窪川にしても池袋付近にあった池や湿地を源流として護国寺の東西を下っていたわけである。今は昔、ということ、か。これにて少々長かった本日の散歩を終える。ちょっと疲れた。

文京区散歩そのⅡ;本郷台地の東端をかすめ、台地上の街道を白山台地、そして駒込に

文京区散歩の第二回。本郷台地の南端あたりの湯島聖堂からはじめ、正確には文京区ではないけれど神田明神をちょっとかすめ、湯島天神、白山神社、そして駒込の富士塚を本日のポイントと大雑把に想い描く。ポイント間のルートは成り行きで進むことにする。富士塚だけは今回がはじめて。江戸の頃には駒込の富士塚とその名を知られていたようだ。そういえば、神田明神と将門、湯島天神の「湯島」、白山神社の祭神菊理姫など、よくよく考えればその何たるかについては、ほとんど何も知らない。歩く・見る・書く、をとおして、あれこれが見えてくれば、との想を描き散歩に出かける。



本日のコース;JRお茶の水駅>湯島聖堂>神田明神>蔵前通り>妻恋神社>三組坂上>霊雲寺>湯島天神>麟祥院>切通し>講安寺>旧岩崎邸庭園>境稲荷神社>竹下夢二美術館>立原道造記念館>言問通り>弥生土器発祥の地>言問通り_本郷通り交差>追分>追分の一里塚跡>旧中山道>大円寺>白山上交差点>心光寺>円乗寺>白山下交差点>白山神社>本郷通り>吉祥寺>目赤不動(南谷寺)>天祖神社>駒込名主屋敷>駒込富士神社>上富士前交差点(本郷通り_不忍通り交差点)>六義園>千石一丁目交差点(不忍通り_白山通り交差点>白山通り>浄土寺>本念寺>地下鉄三田線・白山駅

湯島聖堂
JRお茶の水駅聖橋改札に出る。神田川に架かる聖橋を渡り、古の昔、伊達仙台藩が切り開いた神田川の水路を見やる。橋を渡りきったところに湯島聖堂への入口。孔子の銅像を眺めながら門をくぐり大成殿へと向かう。なんとなく、中国の寺院の雰囲気。孔子をおまつりする廟であるので、当然、か。
この湯島聖堂、元は忍岡(上野公園)にあった朱子学派儒学者・林羅山の別邸内に建てられた孔子廟と家塾がはじまり。儒学に重きをおく幕府は、1690年(元禄3年)、将軍綱吉の頃、廟をこの地に移し「大成殿」を建て幕府の「聖堂」とした。その後、1797年(寛政9年)には林家の家塾も幕府官立の学問所となり、昌平校とも昌平坂学問所とも呼ばれるようになる。昌平とは孔子の生まれた村の名前である。聖堂東側の昌平坂をのぼり本郷通りに。次の目的地は本郷通りを隔てた神田明神。

神田明神
鳥居をくぐり境内に向かう。参道左手にある天野屋さんでは甘酒を買ったことがある。創業以来、地下の土室(むろ)で糀をつくりそれをもとに甘酒や味噌をつくる。江戸の頃、18世紀のはじめに湯島には百件以上の糀屋があったようだ。江戸末期には味噌屋も八十軒ほどあった、とか。関東ローム層、いわゆる赤土は室をつくりやすかったのだろう。が、現在は天野屋さん1軒だけだ、とか。
随神門をくぐり境内に入る。神田明神といえば明神下の(銭形)平次でしょう、ということで、崖端に向かう。崖下を眺める場所を探すが今ひとつ、これといった場所が見つからない。江戸の頃は観月の宴も開かれたところも周囲は様変わり。結局男坂上から明神下を見下ろす。
男坂は神田の町火消「い」「よ」「は」「萬」の四組が石坂を献納。天保の頃である。脇にあった大銀杏は安房や上総から江戸に来る漁船の目印になった、と言う。江戸の頃、渚は現在の小名木川のライン、江東区の清洲橋通りに沿って東西に進む川筋あたりであったというから、それはよく見えたことだろう。ちなみに今日読んでいた『今朝の春;高田郁(ハルキ文庫)』に「仰ぎ見れば神田明神の大銀杏が見える」といった描写があった。なんとなく散歩にも小説にもリアリティを感じる。
明神さまには、一之宮には大己貴命(おおなむちのみこと)、二之宮には小彦名命(すくなひこなのみこと)、三之宮には平将門が祀られる。大己貴命や小彦名命はさておくとして、神田明神といえば平将門でしょう、とは思えども、よくよく考えると、いかなる経緯で神田明神と将門が結びついたのか、はっきりしない。そもそも神田明神に限らず江戸には将門由来の神社が多い。先日歩いた神楽坂に築土明神があったが、この神社など将門の首塚などもあり、結びつきは結構強い。将門といえば築土明神でしょう、と言いたいぐらい。地元民が将門の威徳を偲び、かつ怖れたが故に神田明神にお祀りした、との話があるが、あまりに唐突でよくわからない。あれこれと素人なりの推論・妄想をしてみることに。

社伝によれば、神田明神は天平2年(730)頃、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのに始まる、という。一之宮に祀られている大己貴命、というか大国主命・大黒様は出雲の神様であるので話は合う。もっとも、房総半島から移ってきた忌部族(海部族)が守護神である安房神社に祀られていた海神様を祀ったのが神田明神のはじまりとの説もあり、どちらにしても遙か昔のことで、よくわからない。わからないが、当時一面の入り江が広がる海辺の集落・柴崎に誰かが、なんらかの祖先神をまつったのが、そのはじまりだろう。
時代は下って10世紀前半に平将門の乱。争乱の経緯は省くとして、結局将門は武運つたなく討ち取られ首級は京の都に晒される。伝説によれば、首は天空を跳び柴崎の地、現在の大手町の三井物産の近くに飛来したとのことだが、そんなこともあるわけもなく、実際のところは、将門ゆかりの人々が密かに持ち帰ったのだろう。その首級をまつった祠・観音堂が津久戸明神=築土明神のはじまり、という。この段階では将門との関係は築土明神に大いに分があり、そもそも神田明神は姿も形も、ない。
更に時代は下った14世紀のはじめ、時宗の真教上人が柴崎の地を訪れる。当時、この地は疫病が流行しており、それは将門の祟りであると、朽ち果てていた祠を修復し供養する。と、あら不思議疫病が退散。上人を徳とした村人は近くの寺・日輪寺に留まるよう懇願。上人は天台の寺であった日輪寺に留まり、寺を時宗に改め念仏の道場とした。また、上人は近くにあった祠(安房神社との説も)を修復し、そこに将門の霊を合祀しその社を神田明神と名付ける。同時に日輪寺も神田山日輪寺と改名し、両社とも将門の霊を祀る所となった。ここで神田明神と将門が結びついた。神田の由来は、将門の胴塚をまつる茨城県岩井の地を神田山(かどやま)と呼ぶようだが、それに関係あるのだろうか。
更に更に時代が下って江戸の頃。江戸城の築城に際し津久戸神社は神楽坂に、日輪寺は浅草の柴崎、神田明神は現在の神田駿河台に移る。以降、神田明神は江戸城の鬼門の守護神として徳川家の庇護を受け大いにそのプレゼンスを高める。氏子は江戸の下町の半分以上を占めたと言う。現在で言えば、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地魚市場などなど108町会をカバーしている、とか。境内に駕籠職人の籠祖神社、漁師の水神社などなどの摂社が祀られる所以である。
それはともあれ、神田明神の祭りが天下祭りとも呼ばれるようになる。御輿、というか当時は山車のようだが、神田祭りの山車が江戸城内に入ることも許されたようだ。神田祭りが天下祭りと呼ばれる所以である。こういった神田明神のプレゼンスが大きくなったが故に、ほかの社を差し置いて、将門=神田明神、ということになったのだろう、か。素人の妄想。真偽のほどは定かならず。ちなみに祭りの山車が神輿に変わったのは、市電だか都電だかの架線に引っ掛かるため、といった話を聞いたことがある。
ついでのことながら、二之宮の「小彦名命」誕生は明治期の将門の位置づけと大いに関係がある。徳川幕府が倒れ天皇の御代となった明治には、天皇に反逆した逆賊将門を祀るのは少々具合が悪かろうと、大己貴命との国造りのパートナー小彦名命を祭神とした、との説がある。大己貴命が鎮座するのに、どうして助っ人が必要だったのだろう?大己貴命と大己貴命のペアが必要だったのだろうか?また、小彦名命を茨城の大洗神社から分祠したとのことだが、大洗神社と神田明神はどういう関係だったのだろう。将門の本拠地が茨城であったことに何か関係があるのだろうか。はてさて。

遠藤家旧店舗・住宅主屋
次の目的地である妻恋神社へと成り行きで明神様に沿って進むと、明神様脇に誠に美しい木造の日本家屋がある。案内によると戦前の商家・木材問屋「遠藤家旧店舗・住宅主屋」。もとは江戸開闢期からの町屋である古町・鎌倉河岸に店があった、とか。建物は関東大震災後の昭和2年に建築されたもの。外壁は「江戸黒」とよばれる黒漆喰で伝統的な店蔵を再現している。一時府中に移築して保存していたものが、この地に移された。本当に美しい。
遠藤さんは神田明神の氏子総代をもつとめていた。将門塚の保存につとめ、かつ将門研究家でもあった、とか。佐伯泰英さんの『鎌倉河岸捕物控え』ではじめて知ったのだが、江戸開闢期からの古町町人にはいろいろと特権が与えられていたよう。

清水坂
遠藤家旧店舗・住宅主屋がある宮元公園を抜け蔵前橋通りに下り、清水坂下交差点から清水坂を上る。坂の名前の由来は明治・大正の頃の精機会社の名前から。江戸の頃、この地には霊山寺と言う寺があった。
寺は明暦3年(1657年)の明暦の大火後、浅草へ移ったが、その敷地は妻恋坂から神田神明神にいたる広大なものであった よう。その広大な敷地は明治になり「清水」という精機会社の所有となる。で、その広い敷地が邪魔となり湯島神社と神田明神の往来が不便なったため、敷地を提供し坂道を整備した。これが清水坂となった所以である。

妻恋神社清水坂をちょっと上り、右に折れる。日本独特のホテルの前にささやかな社。社殿もコンクリート造りと少々赴きが乏しい。日本武尊ゆかりの社伝をもち、江戸の頃は王子稲荷神社とならんで稲荷社を勧請する際の惣社、総元締めであった社の雰囲気は、今はない。
日本武尊が東征の折、東京湾を渡り房総に向かう時、突然の大暴風雨。海神の怒りを鎮めるべく、妃の弟橘姫が海に身を投じる。妃を慕う日本武尊を思い、妃と尊を祀ったのが妻恋神社の始まり、とか。 「吾嬬者耶(あづまはや)」 (ああ、わが妻よ、恋しい)と言ったエピソードは散歩のいたるところで出会うので、縁起は縁起とするだけであるが、この神社の「縁起」物として名高いのは七福神を乗せた宝船の版画。「夢枕」と呼ばれ、正月2日の夜、枕の下に敷いて寝ると縁起のいい初夢が見られるとして売り出され、大いに人気を博したとのことである。
境内を離れる。日本独特のホテルには少々違和感があるも、この湯島天神の西側は明治維新後に栄えた花街・三業地。昭和のはじめには芸子置屋59軒、芸者100人以上、待合が31軒もあった、という。教育の街・文京区にこの類(たぐい)のホテルは如何に、との議論も多いが、歴史を踏まえてのホテルであろうから、「衣食足って」の後の「礼節」の話には、少々違和感あり。

霊雲寺
妻恋神社を離れ、三組坂上交差点に。家康亡き後、お付きの中間・小人・駕籠方の「三組の者」にこの地が与えられた。三組坂から湯島天神に向かう途中に大きな甍が見える。霊雲寺にちょっと寄り道。堂々たる堂宇は戦後再建されたコンクリートつくりのようだが、往時の威勢を少し感じる。チェックすると、江戸の頃柳沢吉保の帰依を受け、ために時の将軍である綱吉からこの地を得て寺を開いた。幕府から朱印状を受け元禄の頃は関八州の真言律宗の総本山であった、とか。
霊雲寺が知られるのはその結縁灌頂。出家に際してその守り本尊を決める儀式。目隠しをして曼荼羅の上に華を投げ、その落ちたところの仏と結縁する。ここで結縁した衆生の数は4万人近くいた、という。本堂の脇に灌頂堂が残る。江戸の名所図会にもこのお堂が描かれていた。

湯島天神
春日通り・湯島天神入り口を少し折り返し湯島天神に。境内に梅の木が並ぶ。紅梅、白梅併せ梅の名所となっている、と。湯島天神といえば、「♪湯島通れば想い出す お蔦 主税の 心意気♪」というフレーズを思い出す。「湯島の白梅」の歌詞の一部である。泉鏡花原作の『婦系図』、正確には原作をもとにした芝居でのお蔦と主税の別れの舞台がこの湯島天神となっている。『切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。......私にゃ死ねと云って下さい。』というあの有名なフレーズである。お蔦は後の鏡花夫人がモデル、「俺を捨てるか、婦を捨てるか」と主人公(鏡花がモデル)迫る先生は鏡花の師匠である尾崎紅葉とのことである。
梅園の脇に奇縁氷人石がある。落とし物や探し人の時は石柱の右側の「たつぬるかた」に、拾ったり見つけた人は左側には「をしふるかた」に紙に書いて貼っていた、という。氷人とは仲人の意味、とか。

湯島天神は菅原道真を祀る社として知られる。社伝によれば、雄略天皇2年(458)勅命による創建と伝えられ、天之手力雄命(あめのたじからおのみこと)を祀ったのがはじまりとか。天之手力雄命って、岩屋に隠れたアマテラスを引き戻し、世に明るさを取り戻した神様。縁起は縁起としておくとして、世が下り14世紀の前半、いかなる契機か定かではないが、菅原道真の威徳を偲ぶ郷民が京都の北野天満宮から天神様を勧請した、と。15世紀後半には太田道灌に、また徳川の御代も朱印地を受けるなど篤い庇護を受けた、とのことである。

菅原道真を祀る社を天神さまとか天満宮とか言う。どういう関係なのだろう。ちょっとチェック。天神さまとは、国津神に対する「天津神」であり、どれといって特定の神様を指すということではないようだ。天満宮は天満大自在天神を祀る社。天満大自在天神とは、怨霊として畏れられた、その魂を鎮めるために道真与えられた神号である。もともとは天神と道真は別物であったようだが、天満大自在「天神」として祀られた道真と天神が次第に同一視されるようになり、天神=道真=天満、というようになったのだろう。火雷天神を祀っていた北野の社が天満大自在天神=菅原道真を祀るようになり北野天満宮となったのはその証。
湯島天神は学問の神とはいいながら、婦系図の舞台など妙に艶めかしい。妻恋神社のところでメモしたように、花柳界が周りにあったのが大いにその遠因であろう。また、この神社は江戸の頃、富クジ発行の社としても知られる。聖俗併せ持つ社であろう、か。
それはそれとして、湯島の地名の由来。件(くだん)の如くあれこれ説がある。が、どれもしっくりこない。崖下一面は湿地であり、本郷台地の端にあるこの地が「島」のように見えた、と。それはそれでいい。が、「湯=温泉」が出たから、との説は如何にも不自然。「斎の島」からとの説もある。台地の突端にあり、昔はここに神を祀りその斎場があった、とする。「斎(いつき)の島」が、「ゆつきのしま」>「ゆしま」と転化したとする。台地の突端の斎場といった論は、よさげな気もするのだが、よくわからない。
湯島ではない表記もある。菅江真澄の「北国紀行」には由井(ゆい)島と示されている。武州豊嶋郡江戸油嶋郷と表記されているケースもある。はじめに「音」があり、それに「漢字」を被せるわけだから、表記をそのまま鵜呑みにすることはできないが、由井には「湿地」の意味がある。湿地帯に浮かぶ島、といったイメージは如何にも、いい。真偽の程は定かではないが、自分としては結構気に入っている。

麟祥院
春日通りの坂を少し上り麟祥院に向かう。坂は湯島の切通し坂と呼ばれていた。昔の奥州街道であった崖下の道を切り開き本郷台地と御徒町方面を結んだ。現在は湯島天神の逆方向にはマンションが建ち、地形がはっきりしないが、明治末期の写真を見ると崖上が緑地となっており、それなりに切り通しの雰囲気が感じられる。江戸の頃は急坂であったようだが、明治37年には上野広小路と本郷の間に電車が走るようになったため、緩やかな坂にした、という。
麟祥院は三代将軍徳川家光の乳母である春日局の菩提寺。寺の名前は春日局の法号から。境内は品のいい雰囲気。明治になって、この地には東洋大学の前身でもある哲学館が創立された。創立者である井上円了さんは中野散歩のとき、哲学堂で出会った。

講安寺
麟祥院を離れ、坂を少し下り「切通し公園」に向かう。切通しの名残でもないものか、と辿ったのだがありふれた公園でしかなかった。道なりに進み、お屋敷の塀をぐるりと一回り。趣のある坂に出る。案内に「無縁坂」と。その昔、この坂上にあった無縁寺によるとか、周囲武家屋敷が多いが故に、武家に縁がある>武縁>無縁、など例によって地名の由来はあれこれ。さだまさしの歌・「無縁坂」の舞台でもある、とか。
坂の途中に講安寺。土蔵造りの本堂が面白い。外壁が漆喰で塗り固められ防火対策を施している。住職の遺言として「類火は格別、寺内門前共に自火の用心専一に致す可き事」とある。

旧岩崎邸庭園
坂を下り、長い塀に沿って南進み旧岩崎邸庭園に。もとは越後高田藩・榊原氏の江戸屋敷跡。明治になり三菱財閥・岩崎家の屋敷となった。現在残る建物は三菱財閥三代目当主である岩崎久弥の館。洋館と撞球室の設計は英国人ジョサイヤ・コンドル。建物は重要文化財となっている。旧古川庭園の洋館や綱町三井クラブ、三菱一号館など散歩の折々にコンドルの作品に出会う。明治期のお雇い外国人として来日し、日本の近代建築の基礎をつくった人である。戦後はGHQに接収され、その後最高裁判所の司法研修所として使われていたが、現在は都立の庭園として公開されている。

境稲荷神社
東大構内東端に沿って道なりに進む。やたら朱のあざやかな小ぶりの社がある。境稲荷神社。創建時は不明。文明年間、15世紀の中頃に室町幕府の足利義尚が再建したとの伝承がある。社の名前は、この地が忍ヶ丘(上野台地)と向ヶ丘(本郷台地)の境であることによる。この社はかつての茅町(現在の池之端1,2丁目の一部)の鎮守であった、と。茅町とはいかにも茅の原というか、湿地のイメージ。昔は一帯が低湿地であったのだろう。
社の北脇には弁慶鏡ヶ井戸。義経主従が奥州に向かう途中、弁慶がこの井戸をみつけ喉を潤した、とか。江戸の頃には名水として知られ、戦中には被災者の渇きを癒したと。

言問通り
東大構内に沿って言問通りに向かう。道の途中に立原道造記念館とか弥生美術館・竹下夢二美術館がある。時空にはフックがかかるが情感にあまりに乏しい我が身としては、立ち寄るのも少々敷居が高い。素通りし言問通りに。根津に向かって少し下ると道の左手、東大農学部側に「弥生式土器発祥の地」の案内。東大農学と工学部の境(ゆかりの碑、のあるところ)、根津小学校裏の崖、東大工学部内弥生二丁目遺跡など諸説ある弥生式土器発祥の地の案内がある。いずれにしても往古一面の海を臨む本郷台地の端。そこに弥生の民が住んでいたのだろう。

弥生式土器発祥の地
更に少し根津方面に下ると、道の反対側、東大工学部側に「弥生式土器発掘ゆかりの地」の碑があった。ここも弥生土器発祥の候補地のひとつ。明治17年、東京大学の先生たちが根津の谷に面した貝塚から赤焼きの壺を発見。それがどうも従来の縄文式土器とは異なる、ということで土地の名をとり弥生式土器と名付けられた。
弥生の地名は水戸斉昭公の歌碑の詞書から。江戸の頃、このあたりは水戸藩の中屋敷。明治となり町名を決めるに際し、水戸藩の廃園にあった歌碑の詞書き、「やよひ(夜余秘)十日さきみだるるさくらがもとにしてかくは書きつくるにこそ;名にしおふ春に向ふが岡なれば、世に類なき華の影かな」の中から「やよひ(夜余秘)>弥生」を取り出し、向ヶ岡弥生町とした。

本郷追分
言問通りの弥生坂を上り返し本郷通りとの本郷弥生交差点に向かう。弥生坂は先ほど歩いてきた弥生美術館方面からの道との交差点あたりまでのよう。坂下に幕府鉄砲組の射撃場があったため、鉄砲坂とも呼ばれている。更に上り本郷弥生交差点を右に折れるとほどなく道はふたつに分かれる。そこが本郷追分と呼ばれた中山道と岩槻街道・日光御成道の分岐点。
街道が別れる角に一里塚の案内が残る。日本橋を出た中山道はこの地で1里となる。一里塚の案内がある家屋は高崎屋とあった。江戸の頃、追分には酒・醤油を商う高崎屋と青果を商う八百屋太郎兵衛という大店があったとのことである。この高崎屋はその後裔だろうか。上方からのブランド品:下り物に対抗するため、「下らない物=江戸近辺の地回り品」である定評ある野田や銚子の味噌や醤油に「江戸一」といったブランドで現金大安売りをおこない身代を築いたと言う。八百屋太郎兵衛は八百屋お七の実家、とか。

大円寺
17号線・中山道を白山に向かって進む。白山上交差点の少し手前に大圓寺。なにげなく寄り道。「ほうろく地蔵」がある。「八百屋お七」にちなむ地蔵尊であった。天和の大火(1682年)の際、避難した寺(円乗寺)で見初めた寺小姓に恋慕。火事が起これば再び会えるかと、実家に付け火。小火(ぼや)で終わったものの、付け火は大罪。火あぶりの刑を受けたお七を供養するため建立されたお地蔵さま。お七の罪業を救うため、熱した焙烙(素焼きの土鍋)を頭に被り、自ら灼熱の苦しみを受ける、その後このお地蔵さまは頭痛・眼病・耳や鼻といった首から上の病に霊験あると人々の信仰を得た。
お七が避難した円乗寺はすぐ近く。お七のお墓もあると言う。後ほど訪れる。ちなみに目黒の散歩で訪れた大圓寺は、お七の恋い焦がれた吉三が仏門に入り修行した寺。寺の名前が同じであるのは単なる偶然、か。
また、この寺には高島秋帆が眠る。高島平散歩の折り、松月院で出会った。徳丸が原(現在の高島平)で幕閣を集めて砲術の訓練をおこなったことで知られる。鳥井耀蔵に貶められ一時幽閉されるも、ペリー来航などの国難に直面し放免され海防指導に努める。高島平の名はこの人物の名前から。

旧白山通り
白山上交差点から旧白山通りを下る。この坂は薬師坂とも浄雲寺坂とも白山坂とも呼ばれる。薬師坂は坂の途中にある妙清寺の薬師堂から。浄雲寺坂はこれも坂の途中にある心光寺の寺号である浄雲院より。白山坂は坂を少し奥まったところにある白山神社から。白山神社は後ほど訪れることにして、坂を下り白山下交差点を左に折れ円乗寺に向かう。

円乗寺
路地といった雰囲気の円乗寺の入口に、お七の地蔵尊。今ひとつ寺域といった赴きに乏しい「小径」を進むと本堂横に三基の墓があった。住職や住民や、そして演じたお七が当たり狂言となった寛政年間の歌舞伎役者の岩井半四郎が建てたもの。お七の事件は世間の耳目を集めたのか、事件の3年後、貞享3年(1686)には井原西鶴によってお七が取り上げられた。お七が有名になったのもこの歌舞伎・浄瑠璃故のことではあろう。とはいうものの、そのブームもいつまで続いたのか、太田南畝が『一話一言』を書いた天明5年(1785)の頃には墓は荒れ果てていたようだ。「石碑は折れ、無縁の墓のため修繕もできない」とある。再びお七が有名になったのは、その少し後、上で目もしたように岩井半四郎の演じたお七が大人気となり、石塔を建ててからである。虚実入り乱れた八百屋お七の話は、恋い焦がれた寺小姓も吉三、とか吉三郎だとか、庄之助、とか佐兵衛とかあれこれ。

東大下水の支流・北指ヶ谷跡
白山坂下交差点に戻り、坂を少し上り戻し、なりゆきで左に折れて白山神社に向かう。白山神社への道は一度窪み、再び上りとなる。窪んだあたりは昔の東大下水の支流のひとつ、六義園から下る通称・北指ヶ谷の流路ではなかろうか。六義園からの水路は東洋大学前交差点で旧白山通りを越え、蓮久寺や妙清寺脇を下り、白山坂下で駒込方面から下る東大下水の本流・西指ヶ谷で合流する。

白山神社
複雑なうねりの地形を眺めながら白山神社境内に。開基は古く10世紀の中頃、加賀一宮白山神社を本郷1丁目の地に勧請。時代は下って江戸の頃、二代将軍秀忠の命により巣鴨原(現在の小石川植物園)に移すも、その地を館林藩主松平徳松(後の5代将軍綱吉)の屋敷造営のため、17世紀の中頃この地に移った。この縁もあり社は綱吉とその生母・桂昌院の篤い帰依を受けた。この神社の祭神として菊理媛(くくりひめ)がいる。イザナギが変わり果てた妻のイザナミに少々恐れをなし諍いを起こしたときに仲直りをさせた神さまとか。ために、縁結びの神、最近では、はやりのパワースポットとして菊理媛におまいりする人がいるとか、いないとか。それにしても、菊理媛って、古事記には登場しないし、日本書紀にもほんの一言だけ登場する神さま。「(イザナミから一緒に帰れないとの伝言を伝える、黄泉の国の番人の台詞に続いて)その時菊理媛も語った。イザナギはそれを聞いてほめ、別れて立ち去った」、と登場するのみ。何を語ったのかも書かれていない。死者の言葉を取り次ぐ、あの世とこの世の橋渡し=仲介をする、といったことから縁結びとなったのだろうか。よくわからない。
境内には富士浅間社・稲荷社・三峰社・天満天神社・山王社・住吉社といった摂社が祀られる。富士神社には小高い富士塚が残る。富士参詣に行けない人の模擬富士登山・信仰のために塚が立つ。八幡神社は10世紀中頃、奥州征伐に向かう八幡太郎義家がこの地に御旗を掲げ京の石清水八幡を勧請。戦勝を祈念した。ということは、このあたりに奥州への古道が通っていた、ということ、か。

吉祥寺
次の目的地は吉祥寺。東大下水の支流・北指ヶ谷跡かな、と思う道筋を辿り旧白山通り・東洋大学交差点付近に上る。その後は成り行きで北に向かい本郷通り・吉祥寺前交差点に。
本郷通りに面して風格のある山門が残る。参道に入ると脇にお七・吉三の比翼塚とか二宮尊徳の墓碑などもある。榎本武揚や鳥井耀蔵もこの地で眠る。先に進むと如何にも広い境内というか駐車場。30年ほども前にこの寺を訪れたときのうっすらとした記憶では、もっと構えの小さいお寺さま、といったものであったので、少々戸惑う。境内というか駐車場脇にこれまた風格のあるお堂がある。このお堂は教蔵。檀林寺の図書館といったところ、か。それにしても広い。その昔、曹洞宗の檀林(学問所)として学僧1000名を越え、七堂伽藍を誇ったお寺ではあるが、戦災で灰燼に帰した、という。このアンバランスなほどのスペースは、そのうちに往時の堂宇の再建を考えてのことであろう、か。檀林は現在の駒沢大学の前身である。
寺の歴史は古く室町の太田道灌の頃に遡る。道灌が築城の江戸城内に開山。その後江戸時代になり、水道橋津金に移る。水道橋も当時は吉祥寺橋と呼ばれていた。この地に移ったのは明暦の大火の後。寺院を江戸の町中から周辺に移した。火の気が多い寺院は火災もとになることが多かったのだろう。ちなみに中央線の吉祥寺は、明暦の大火で罹災した水道橋脇の吉祥寺門前の住民が移り住んだことからその名が付けられた。

目赤不動
吉祥寺前交差点を少し本郷方面に戻り、道脇にある目赤不動・南谷寺に向かう。お堂は本堂脇、二間四方といった、つつましやかなもの。もとは不忍通りと本郷通りを結ぶ動坂あたりにあり、赤目不動と呼ばれていたようだが、三代将軍家光が駒込に鷹狩りの折り、府内目白・目黒不動の因縁をもって目赤不動とすべし、ということで目赤不動となった、と。江戸名所図会には「目赤不動 駒込浅香町にあり。伊州〔伊賀国〕赤目山の住職万行(まんぎょう)和尚(満行、?~一六四一)、回国のとき供奉せし不動の尊像しばしば霊験あるによつて、その威霊を恐れ、別にいまの像を彫刻してかの像を腹籠(はらごも)りとす。 すなはち赤目不動と号し、このところに一宇を建立せり、始め千駄木に草庵をむすびて安置ありしを、寛永(1624-44)の頃大樹(将軍家光)御放鷹(ごほうよう)のみぎり、いまのところに地を賜ふ。千駄木に動坂の号あるは、不動坂の略語にて、草堂のありし旧地なり。後年、つひに目黒、目白に対して目赤と改むるとぞ」とあり、家光によりこの土地を賜ったのは記録に残るも、目赤となったのは後の世、とも読めるが、それはそれとして府内五色不動のうちのひとつ、目赤不動が誕生した。
日本各地に五色不動が残るが、江戸の御府内の五色不動も知られる。目黒(目黒区下目黒の滝泉寺)・目白不動(江戸の頃は文京区関口の新長谷寺。現在は豊島区高田の金乗院)は江戸の前から存在していたようだが、江戸の頃のこの目赤不動が生まれ、明治以降に目青不動(世田谷太子堂)、目黄不動(江戸川区平井の最勝寺と台東区三ノ輪の永久寺の2つ)が登場して現在に至る。

動坂
駒込の富士神社に向かう。近くに先ほどメモした動坂がある。このあたり、現在の駒込病院のあたりは鷹場のあったところという。動坂下から天祖神社にかけては御鷹匠屋敷や御鷹部屋などもあった。目赤不動での家光の鷹狩り云々の所以である。現在その名残があるとも思えないが、とりあえずちょっと寄り道。道すがら駒込名主屋敷跡。慶長年間というから17世紀の初頭、この地を差配した名主の屋敷。趣のある門が残る。現在もお住まいのよう。
成り行きで天祖神社に進み、道坂上あたりをかすめ、このあたりに鷹場があったのだろう、とか、目赤不動のもともとの赤目不動の祠があったのだろう、などと往古を想い富士神社へととって返す。

駒込富士神社
駒込の富士塚として知られる。散歩の折々に富士塚が現れる。所沢・佐山湖脇の荒畑富士、葛飾・飯塚の富士塚、川口・木曽呂の富士塚などが記憶に残る。通常、塚と社殿が分かれていることが多いのだが、この神社は塚の上にのみ社殿がある。社殿部分は平らになっており、富士塚でよく見るお椀を伏せた、といった形状ではない。長さも40mほどもありそうで結構大きい。古墳跡とも言われるが、定かではない。元は本郷にあったとのことだが、その地が加賀藩の江戸屋敷となったため、この地に移った、とか。
富士塚は富士信仰のため富士山に見立てた造った塚。冨士講を組織し富士への参拝を本旨とするも、すべての人が富士に行けるわけもなく、その代わりとして各地の富士塚をお参りする。食行身禄などにより江戸で広まり、「江戸八百八講 講中八万人」と言われるほどになった。食行身禄の生涯は新田次郎さんの『富士に死す』に詳しい。

六義園
本郷通りを進み不忍通りとの交差点・上富士前交差点を少し先に進み六義園に。六義園は五代将軍綱吉の側用人・柳沢吉保の下屋敷として造った庭園。平坦なところに土を盛り、水は千川用水から導水し7年の歳月をかけて造り上げた。
柳沢家は甲府、大和郡山と領地は移るも、六義園は柳沢家の下屋敷として幕末まで続く。維新後は三菱財閥を興した岩崎弥太郎が入手。現在の赤煉瓦はそのときのもの。関東大震災や戦災に被害を受けることもなく現在に至る。
なお、六義園の六義とは紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来するとか。「六義」の原典は『詩経』にある漢詩の分類法。3とおりの体裁「風」「雅」「頌」という三通りの体裁と、「賦」「比」「興」からなる三通りの表現法から構成される。紀貫之はこれを借用して和歌の六体の基調を表した、と。「風」は各地の民謡、「雅」は貴族・朝廷の公事・宴席の音曲の歌詞、「頌」は朝廷の祭祀の廟歌の歌詞、「賦」は心情の吐露、「比」はアナロジー、「興」は詩情を引き出す自然を歌うさま、といったもの、とか。

本念寺
長かった散歩も次が本日最後の目的地である本念寺。蜀山人こと太田南畝が眠る。通りを進み千石1丁目交差点で左に折れ白山通りに入る。千石駅前交差点で旧白山通りと別れ白山通りを下る。この道筋は東大下水の本流・西指ヶ谷の流路ではあったのだろう。緩やかな坂道の途中、京華高等学校の通りを隔てたあたりを右に折れ、台地を上る。ほどなく本念寺に。
ささやかなお寺さま。ここに大田南畝が眠る。18世紀末、天明期を代表するこの文人・狂歌師そして能吏には散歩の折々に出会う。上野公園の蜀山人の碑;一めんの花は碁盤の上野山 黒門前にかかるしら雲 。向島百花園の扁額、赤札仁王さまで名高い北区・田端の東覚寺には蜀山人の狂歌碑;「むらすずめ さはくち声も ももこえも つるの林の 鶴の一声」。新宿・十二社の熊野神社には太田南畝の水鉢があった(2010年9月に訪れた時は水鉢は消えていた)。神田駿河台には蜀山人終焉の地の案内;南畝辞世の句、「生き過ぎて 七十五年食ひつぶし 限りしられぬ 天地の恩」。入谷の鬼子母神には「恐れ入谷の鬼子母神、どうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師様」が残る。文京区散歩では牛天神で貧乏神を描く南畝にも出会った。

都内だけでなく多摩でも出会う。国立の谷保天神は南畝によって「野暮天」のキャッチフレーズをつけられところ:「神ならば出雲の国に行くべきに目白で開帳やぼの天神」。目白で出開帳を行いお賽銭を集めたことを皮肉った。日野の安養寺は南畝の『調布日記』に「大きさ牛をかくすといひけん木々の銀杏2本並びたてり、かのちちというものあまたありて目を驚かす」と記されている。『調布日記』は南畝が玉川通勘定奉行方として多摩川地方の水害調査に訪れた時の地誌録。その折りのこと、日野の本陣では当主手作りの蕎麦を食し「ことし日野の本郷に来りてはじめ蕎麦の妙をしれり......しなのなる粉を引抜の玉川の手づくり手打よく素麪の滝のいと長く、李白が髪の三千丈もこれにはすぎじと覚ゆ」という蕎麦賞味の所感を書いている。ついでのことながら、本邦初のグルメ本『頭てん天口有(あたまてん てんにくちあり)」』を著したのも南畝と言う。
太田南畝は18世紀末、天明期を代表する文人・狂歌師。若くして四方赤良(日本橋で有名な味噌「四方の赤、から)のペンネームで活躍。有名な「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず」も四方赤良の句、とも言われるが、寛政の改革での戯作者の弾圧をみるにつけ、逼塞が得策と狂歌から離れる。その後、幕府の人材登用試験に主席で合格。とはいうものの竹橋の倉庫での文書整理。「五月雨の日もたけ橋の反故しらべ 今日もふる帳あすもふる帳」と詠んでいる。
19世紀の頭には大阪銅座に赴任。銅にちなんだペンネーム「蜀山人」を使うのはこれ以降。その後長崎奉行所に赴任。はじめてのコーヒーのテースティングを記す;紅毛船にてカウヒイといふものを飲む。豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくして味ふるに堪ず。上記多摩川巡視は60歳の頃と言う。
誠に多彩な人物。現在もっとも興味のある人物でもある。狂歌師、能吏、『調布日記』や『玉川砂利』、『向丘閑話』、。『改元紀行』等の十九冊にも及ぶ紀行文。それと水練の技を引き継ぐ家柄として、将軍家治の御前での水泳披露など、誠におもしろい。メモをはじめると終わりそうにないので、ちょっと狂歌をならべ、クロージングとする;
「雑巾も 当て字で書けば 蔵と金あちら拭く拭く(福々)こちらふくふく」。
「一刻を千金づつにつもりなば六万両の春のあけぼの」
「いまさらに何をかをしまん神武より二千年来くれてゆくとし」
「世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし」
「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」
「世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい」
なお、太田南畝を描いた小説には平岩弓枝さんの『橋の上の霜』がある。愛憎に悩む南畝の姿が描かれる。
本念寺の向かいにある浄土寺には松平忠直卿の墓がある、とのこと。それにしては少々趣に乏しい、ということで、軽くお参りし、成り行きで地下鉄三田線・白山駅に向かい、本日の散歩を終える。