月曜日, 3月 26, 2007

千葉 市川散歩; 元八幡から大町の谷津に遊ぶ

本八幡の「真間の入り江」から大町の「谷津」を辿る

真間、国府台に惹かれはじまった市川散歩、今回は中山、本八幡、そして、北に進み大町へと歩みを進める。中山はいうまでもなく日蓮宗の大本山・法華経寺、八幡は葛飾八幡、そして「八幡不知」がある、という。「八幡不知」は一度迷い込めば二度と出られない、といった薮であった、とか。大いに惹かれる。で、その先はどういったコースを取るか、とチェック。北の大町には深く入りこんだ谷津があるという。地形フリークとしては、これは外すべからず、ということで、このルートに決定。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


本日のルート:本八幡駅から中山駅に>中山・法華経寺>八幡不知森>葛飾八幡宮>永井荷風終焉の地>真間川>真間川から大柏川に>武蔵野線>駒形大神宮>大町自然観察園

本八幡駅から中山駅に
都営新宿線・本八幡駅に下りる。いつものように、家を出るのが少々遅いため、中山までの行きかえりを歩くと、どうしても時間が足りない。京成線・八幡から京成・中山まで往復し、時間をかせぐことに。京成線に乗り換え京成・中山に向かう。途中の駅の名前が気になった。鬼越え、と。鬼が出没するので「鬼子居」と呼ばれていたのが後世になって、鬼越となった、と。
別の説によれば、地形に由来する、と。「おおきく崩れた崖」を意味する「オークエ」とか、「鬼のようなおおきな者が崩した崖」を意味する「オニクエ」が由来、とか。鬼が居たよりは地形からの由来のほうがしっくりくる、のは言うまでもない。このあたりも昔は少々の台地であったのが、崩落を繰り返し現在の地形になったのであろう。

中山・法華経寺
京成線・中山で下車。こじんまりした駅舎。駅前から続く参道を進み黒門に。法華経寺の総門。山門の朱塗りに対し、黒塗りのため、この名前がついた。江戸時代の中ごろに作られた、と。朱塗りの山門・赤門をとおり境内に。祖師堂、法華堂、五重塔、四足門といった堂々とした堂宇が並ぶ。法華経寺は日蓮上人の遺品が多く残されていることで知られる。

この寺は、日蓮に帰依した若宮の領主・富木(とき)常忍が館内に立てた法華寺と、中山の領主・大田乗明の子・日高がおなじく館内に建てた本妙寺を合体してひとつの寺、としたもの。常忍は日蓮入滅後、出家し「日常」と号し、開山上人となる。祖師堂は特徴的な屋根をもつ大堂。ふたつ並べた比翼入母屋造りが印象的であった。このお堂は、いい。法華経寺の直ぐ傍にある塔頭のひとつ、浄光院に訪れ中山を後にする。

八幡不知森
京成電車に乗り、本八幡に戻る。駅を南に進み、千葉街道・国道14号線に。東に進み市川市役所の手前に「八幡不知森」。「やわたしらずのもり」と呼ばれ、ここに入れば再び出ること叶わず、とか、祟りがある、といわれていた。広辞苑にも「八幡の薮知らず」として「出口のわからないこと」の意味で使われている、とか。とはいうものの、現在では、街道沿いに、こじんまりとした竹薮として残るだけ。
「薮知らず」は「八幡知らず」が転じたのだろう、と言われる。

あれこれ由来はあるが、最も有名なものは、平将門の祟りがあり、この地に入るべからず、という言い伝えを馬鹿げたもの、とこの地に入った光圀公が薮に入ったところ、白髪の老人が現れ、戒めを破ることなかれ、と戒めた、とか。この話が錦絵となり、この地が一躍有名になった。
『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』にも「八わたしらず」の記述がある;「道の南側に、八わたしらずという木立がある。四方に垣根をめぐらして、人が立ち入れないようにしてある。中に少し窪んだ所がある。ここに入った人は必ず死ぬという。時として、瘴気を発することがあるためであろう。上総にもここと同じような所があり、酢を熱く煮立てて、それを藁に沁み込ませ、それを撤き散らしんがら行けば、なんの問題もないという」、と。瘴気とは、本来、熱病などを引き起こすと考えられていた毒を帯びた空気のこと。言い伝えはそれとして、人々は合理的な解釈をしていたようだ。こういった言い伝えができたのは、この地が行徳の入会地であり、そのため八幡の住民はみだりに入ることが許されず、八幡不知として、祟りに話を広めたのであろう。

葛飾八幡宮
「その道の北側に八幡宮がある。宮居を朱に塗り、神さびた雰囲気があって尊い感じがする。社頭の左に古木の銀杏の樹がある。かつてここを詣でた時にはこずえが高く立ち伸びていて、雲にかかるほどであった(中略)。石の鳥居、そして楼門がある。その東に小社がある。その傍らに桜が一本あり、春にはさぞかし華やかであろうと思われる」と『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』に描かれているのが葛飾八幡宮。
寛平年間というから、9世紀末、宇多天皇の勅願によって京都・岩清水八幡宮を勧請したもの。頼朝、道潅、家康など武人の祟敬を受けた。神木である巨樹「千本公孫樹木(せんぼんイチョウ)」は国指定の天然記念物。これて、村尾嘉陵がメモした古木の銀杏のことであろう。「江戸名所図会」には「この樹に小蛇がすみ、毎年8月15日の祭礼のとき数万の小蛇が現れる」と。はてさて。

永井荷風終焉の地
八幡不知を離れ、京成・八幡駅に向かう。駅の北、菅野の地に、永井荷風終焉の地がある、とか。それらしきところを探し回ったが結局見つけることはできなかった。散歩大好き人間としては、散歩エッセーとして有名な『日和下駄』の作者でもあるので、少々残念であった。昭和21年の借家住まいからはじまり、友人宅の間借り、そして昭和34年、買い求めた古屋で独り寂しくなくなるまでこのあたりに住まいした。浅草の歓楽地に「日参」したのも、この地からであろう。また、この菅野の地にはほかに幸田露伴などの文士が居住した、と。

真間川
市川市北部の台地と千葉街道の間は、かつては真間の入り江であったところ。この菅野も、文字とおり、「スゲ」などが一面に密生した湿地帯、だったのだろう。明治末期に、排水が悪く、すぐ氾濫するこの地を耕地に変える事業がおこなわれた。そのため、真間川の流路を改修し、原木から東京湾に流れるようにし、大いに排水が促進されるようになった、とか。
実のところ、真間川の流れに「当惑」していた。地図を見ると、西は江戸川につながり、南は東京湾に繋がっている。堀でもなければ、こんな川、って有り得ない。散歩・散策を好み、この真間川を愛した荷風も同じ思いを抱いたようだ。



数ヶ月前池袋・雑司が谷近く、明治通り沿いの古本屋で見つけた『永井荷風の東京空間;松本哉(河出書房新社)』の中にこうった記述がある;「この流のいづこを過ぎて、いづこに行くものか、その道筋を見きわめたい」とずっと辿っていった、という。そのときの有様を晩年の最高傑作と言われる随筆『葛飾土産』に書いている。「片側(東端)は江戸川に注ぎ、もう一方(南端)は海に注ぐ真間川はいったいとっちに向いて流れているのか、ボクが抱いた興味はそれでした。どちらも水の出口。北の方から流れ込んでくる支流の水を双方に流していることに気づきます。しかし、実際に辿ってみると、予想通り、そんな簡単なものではありませんでした。支流との合流点でもなんでもないところで突如流れの向きを変えているのです。やはり「川は生きもの」。こういう不思議な流れ方を見届けたのがボクの「葛飾土産」でした(『葛飾土産』)」。 荷風も疑問を抱いた、北も南も、どちらも水の出口、っていうのは、改修工事の結果であった。昔は、国分川とか大柏川といった流れを集めて江戸川に流れ込んでいたのだが、排水をよくし洪水を防ぐため、海沿いの砂州を切り開き東京湾に流れる人工の法水路をつくったわけだ。その結果、川の流れが西ではなく東と言うか南というか、ともあれ逆に流れるようになったわけだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

真間川から大柏川に
はてさて、名所・旧跡巡りは終了。あとはのんびりと北の野趣豊かな谷津に向かうことにする。八幡地区を成り行きで北に進み真間川と交差。川に沿って東というか南に進むと大柏川と合流。真間川は南に下る。これが改修工事でつくられた放水路であろう。散歩は大柏川に沿って北に進む。
大柏川は鎌ヶ谷市の二和川、中沢川、根郷川といった支流を集め真間川に合流していた。市川学園を過ぎたあたりに大きな調整池がある。真間川流域では市街化の進行により、洪水被害が頻発したよう。この都市型水害を防ぐため、真間川水系には調整池が目につく。支流のひとつ国分川流域にも調整池があった。国分川の支流といった春木川には地下貯水池もある。
春木川がふたたび国分川の合流するところに春木川排水機構。北に目をやると、春木川と紙敷川が合流した国道464号の北で国分川分水路が西に進み坂川に合わさる。坂川が江戸川と合流するところには柳原排水機構。真間川と江戸川の合流点には根本排水機構。真間川が東京湾に合流するところには真間川排水機構。下総の台地にこれほどの排水施設があるとは想像外。自然に抗って人が住まいするようになった、そのための自然との戦いの結果だろう、か。

武蔵野線

さらに進む。武蔵野線の高架が目にはいるあたりから、西の台地が接近してくる。曾谷・宮久保・下貝塚・大野地区。台地上には曾谷城跡、安国寺、曽谷貝塚などがある。曽谷城は日蓮に帰依し安国寺を開いた、曽谷教信一族の城、と。
宮久保は台地が宅地開発で切り取られ弥生時代の宮久保遺跡は姿を消したが、縄文時代の遺跡とその周囲に貝塚が残っている。武蔵野線と交差するあたりは、東からの台地も迫ってくる。このあたりから樹枝状台地と谷津(戸)が複雑に交差する。


駒形大神宮

武蔵野線を越えると北というか西に迫る台地に大野城跡。平将門が下総西部を制圧するためにつくった出城との言い伝えはある。が、実際は戦国時代のものではないか、とも。台地上には浄光寺、法蓮寺、礼林寺といった日蓮宗、そして曽谷教信ゆかりの寺が集まる。曽谷教信って、日蓮に深く帰依し、富木常忍や大田乗明などとともに日蓮の初期の壇越として熱狂的なる支持者となった曽谷の領主。富木常忍と大田乗明は中山・法華経寺でメモしたとおり。
曽谷教信は、はてさて、どこかで聞いた覚えがあるのだが、どこだったか?そうそう、松戸の名刹・本土寺を開いた人だった。
台地を進む。殿台遺跡。縄文と弥生期の住居跡、さらには先史時代の石器もみつかった。その先に駒形大神宮。一度台地を下り、その先の台地の端に鎮座する。大野には将門伝説が多い。大野城もそのひとつだが、この神社も経津主命(ふつぬしのみこと)とともに、将門がまつられている。

大町自然観察園

成行きで先に進む。市川動植物園に。目的の大町自然観察園はこの敷地内にあるようだ。よくわからないながら先に進むと大町自然観察園に。市川で一番深く切り込まれた長田谷戸(津)の最奥部にあたる。2キロ弱の谷津のうち700mが、湧水・湿地・谷・斜面林という下総台地の典型的な自然を残す観察園として保全されている。隣接してバラ園やせせらぎ園なども整備されている。台地上は梨畑などの農地となっている。
現在は蛍の群生地もある自然観察園として保全されているこの大町自然観察園ではあるが、ここにいたるまでは、それなりの「歴史」を経ている。谷津の入口は市川北高のあたりであるが、S字形に曲がる2キロ弱のこの谷津は、昭和42年頃までは田圃が広がっていた。昭和46年頃には休耕地が目立つようになり、自然公園開設の準備が始まった。

最奥部には養魚場があった、とか。昭和56年頃には、S字形の中央の湾曲部から下流は霊園が整備され、上流部は孤島のような湿地帯として取り残されることになる。つまりは下流の水系から切り離された、ってこと。
昭和60年ころには動物園といった観光開発が進められる。平成元年には動物園開園。そのほかバラ園とか池が整備される。平成5年には鑑賞植物園開園。養魚場は半分湿地帯に戻ってしまう。平成13年頃には養魚場は完全に湿地帯に戻ってしまう。つまりは、田んぼや休耕地が広がっていた時期があり、ついで、S字形の屈曲点から下流が開発された時期があり、そして、観光開発が始まり、自然公園が自然観察園として現在に至る。大町自然観察園に「歴史あり」ってことか。とはいうものの、結果的に、湧き水の流れが網の目のように広がる湿地帯となり、野趣豊かな自然観察園となったのは素晴らしいことではあった。谷戸の北端から台地にのぼるとすぐに北総開発・大町駅。本日の予定はこれで終了。一路自宅へと。

木曜日, 3月 22, 2007

千葉 市川散歩 ; 国府台に遊ぶ


国府台に後北条氏と里見氏の合戦跡を辿る



とある週末。午前中は雨。散歩は無理か、などと思っていた。が、午後になって晴れてきた。とっとと家を出れば、先日歩き残した市川・国府台あたりは歩けそう。
ということで、総武線市川駅に。午後2時となっていた。日が暮れるまで3時間程度ある。国府台から総寧寺、それから「じゅんさい池」へと台地を下り、北総開発・矢切駅まで歩く、といったコースを頭に描く。



本日のルート:市川関所跡>国府台・羅漢の井>里見公園・ 紫烟草舎>里見公園・国府台城跡>里見公園・ 古墳>里見公園・ 「夜泣き石」>総寧寺>じゅんさい池


市川関所跡

駅を西に、江戸川の堤に向かう。「市川関所跡」が最初の目的地。国道14号・千葉街道に沿って歩く。市川橋の直ぐ北に関所跡。三代将軍・家光による参勤交代の制度などの影響もあり、この市川は房総と江戸の交通の要衝となる。当初は市川と小岩の間に「渡し」が設けられ、そのための番所が置かれていた。元禄10年(1697年)、江戸から佐倉に通じる街道のうち、八幡までを官道として道中奉行が直轄することになり、番所が「関所」にステータスアップとなった、とか。
とはいうものの、『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』の「下総国府台 真間の道芝」に「市川の関」の記述があるのだが、そこには、「伊那友之助という御代官の守っている所である。しかし、関とは名ばかりで、入る方も出る方も、杉の丸木で門を造ってあるだけで、留めるものはなにもない。これも現代の安泰を示すめでたいことであろう」と、ある。このエッセーが書かれたのは1807年。「入り鉄砲と、出女」を極めて厳重に取り締まっていた関所も、今は昔となっていた、ということ、か。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

国府台・羅漢の井
江戸川の堤を北に進む。国府台の台地が川堤に接近してくる。小岩散歩のとき川向こうに見える台地が気になり、しかも歴史的にも国府台合戦などの舞台となった城址があるわけで、いつか歩いてみたいと思っていた。やっとその地に足を踏み入れることになる。少々、心弾む。
遊歩道だけを残し、崖と川筋が接するように続く。遊歩道が車道にあたるところから台地の坂にとりつく。坂の途中に「羅漢の井」。弘法大師が見つけたとか、祈った結果湧き出した、とか、あれこれ由来はある。「江戸名所図会」に「総寧寺羅漢井」と紹介されているくらいなので、結構有名であった、よう。

里見公園・ 紫烟草舎
坂を登りきり、「里見公園入口」に。この公園には戦時中、高射砲陣地があった。また陸軍司令部を建設中に終戦となり、その後昭和34年に里美公園となった、とか。城址に向かう。といっても、これといった案内も見つからなかったので、成行きで崖の方に進む。
「紫烟草舎」が登場。あれ、これって、白秋の住まい跡。昨年、小岩を歩いていたとき、北小岩8丁目の八幡神社に白秋の歌碑があった。そのとき、小岩にあった住まいが江戸川の改修工事にひっかかり、市川に移した、ってことをメモした。それがこの「紫烟草舎」。ここで出会うとは予想外の展開。白秋ファンとしては望外の喜び。
ちょっと調べると、小岩に移る前にはもともと市川・真間に住んでいた、とか。大正5年、真間の亀井院の庫裏に、江口章子と暮らしていた、と。「葛飾閑吟集」には『葛飾の真間の手児奈が跡どころその水の辺のうきぐさの花』などの歌を残している。小岩に移ったのはその後のこと。1年2ヵ月ほど小岩で暮らした、よう。その住まい「紫烟草舎」が上記理由により、この地に移った。真間と小岩で暮らした生活は、白秋の人生や詩作の転機になったといわれ、『白秋小品』『童心』『雀の卵』『雀の生活』『白秋小唄集』『二十虹』などの作品として残されている。
ちょっと寄り道。江口章子と暮らしたこの時期は白秋の再生の時期だった、とも。『邪宗門』で一躍時代の寵児となった白秋が、隣家の人妻・松下俊子と恋に落ち、姦通罪で拘置され、一瞬のうちにその地位・名誉を失う。「城ヶ島の雨」はそういった、傷心の時期に詠まれたもの。そう思えば、この歌詞の味合いも、ちょっと違ってくる、かも;「雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の雨がふる雨は真珠か 夜明けの霧か それともわたしの忍び泣き船はゆくゆく 通り矢のはなを ぬれて帆上げたぬしの舟ええ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意気雨はふるふる 日はうす曇る 舟はゆくゆく帆がかすむ」。 ともあれ、松下俊子と結婚するも、それも長く続かず、その離婚をまって江口章子と結婚することになる。この真間・小岩でのふたりの関係も長くはつづかず、念願の洋館を小田原に建てたころには江口章子は白秋のもとを去ることになる。その後、谷崎潤三郎のもとに走るなど、江口章子の「人生」をメモしはじめたキリがない。このあたりで散歩に戻る。

里見公園・国府台城跡
崖のほうに進む。いかにも土塁跡といった雰囲気の地形。この土塁の外側を空堀が囲っていたようだ。これが「国府台城」跡。文明11年(1479年)、太田道潅が開いた、と。石浜城主・千葉自胤を助け、長尾景春に呼応した千葉孝胤を攻める際に着陣したのが、はじまり、とか。その後この地では第一次、第二次国府台合戦の舞台となる。
天文7年(1538年)、小弓公方・足利義明、舎弟頼基は久留里城・里見義堯ら房総勢一万余騎を従え関宿城攻撃のために北上し、国府台城に着陣。江戸城を進発した北条氏綱・氏康勢ら二万騎とこの地で対陣した。里見軍に戦意なく、足利義氏はほとんど「単騎」突撃の末に戦死、里見軍をはじめとした房総勢は義明を見殺し。安房に退却。これが、第一次国府台合戦。小弓公方は滅亡。北条は下総を手中に。里見も小弓公方の領地・上総を手中に収め、領地を拡大する。
千葉自胤と千葉孝胤の整理;千葉自胤は武蔵千葉氏。もとは千葉宗家。鎌倉公方、後の古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏の争いで上杉方についたが、成氏方についた千葉の豪族・原氏や馬加氏に破れ武蔵に逃れることになる。一方の千葉孝胤は千葉宗家を滅ぼし、千葉宗家を継いだ馬加氏の子孫。 第二次国府台合戦は永禄6年(1563)年のこと。武田信玄の攻める上州倉賀野城救援のため上杉謙信が厩橋城に着陣。岩槻城の太田資正、佐貫城の里見義弘らに兵糧調達を命じる。里見・太田軍は市河津付近で調達活動開始。その情報を入手した北条氏康・氏政・氏照・氏邦は2万の軍勢で進撃、永禄7年(1564)年、国府台城周辺で里見・太田軍八千と戦闘。北条軍は先鋒の遠山丹波守綱景、富永三郎左衛門尉康景らが渡河作戦で討ち死するなど、里見・太田軍が序盤戦有利に展開。北条方の武将140名、雑兵900名ほどが戦死した、と『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』にある。
初戦の勝利に里見方に油断が生じる。東方の真間付近に迂回した北条綱成らの急襲を受け里見・太田軍は壊滅的な損害を受けて退却した。三千名の戦没者を出した、と『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』に。これが第二次国府台合戦。北条と総越同盟の直接対決であったと言える。里見勢は下総・上総の支配権を失う危機的状況。上杉勢は身動きできず、北条勢の勝利と相成った。で、天正十八(1590)年の北条討伐後、家康の江戸入封に従い、江戸俯瞰の地にあたる国府台城は廃城となった。江戸城を見下ろす場所にある城は不可、ということであった、とか。

里見公園・ 古墳
土塁跡をぶらぶら歩いていると、小高い丘。如何にも古墳跡といった雰囲気。登っていくと、そこに2基の箱式石棺が露出してある。ここが「明戸古墳石棺」。前方後円墳の後円部に相当する。古墳時代後期、というから、6世紀後半から7世紀はじめのものと推定されている。道潅がこの地に陣を築いた際、盛り土が取り除かれて地表にあらわれた、とか。
古墳跡を離れ、土塁の「尾根道」を公園入口のほうに戻る。途中に「里見諸将群霊墓」。第二次国府台合戦で戦死した里見方将士の数は三千名以上にもなったという。200年以上も弔う者とてなかったようだが、文政12年(1829年)になって、3基の墓というか塚がつくられた。

里見公園・ 「夜泣き石」
おなじ場所に「夜泣き石」。第二次国府台合戦で討ち死にした里見広次の娘が、父の霊を弔うべくこの地に。あまりの凄惨な光景に、泣き崩れ、そのまま息絶えてしまった。
『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』にこの夜泣き石の記述がある;「東の竹垣の外に卵塔がある。その中に二尺ほどの大きさの石で、人がうづくまっているような形に蓮華座に据えてあるのが見える。夜啼の石、という。当寺(総寧寺)の某和尚の時に、山の鬼哭を聞いた。その場所を探し当ててそこを掘ってみると、この石がでてきた。それで塚を造ったら哭く声がやんだ」という。もともとは、総寧寺の境内にあったようだが、いつのころからかこの地に移された、と。

総寧寺
里見公園を離れ、総寧寺に向かう。曹洞宗のこの寺は、もともとは、永徳3年(1383)に近江源氏の佐々木六角氏頼により近江に創建された、もの。天正3年(1595)に北条氏政により、関宿宇和田(埼玉県幸手町)に移転。しかし、この地は洪水に遭うことしばしばで、寛文3年(1663年)、家綱のときこの地に移ってきた。寺領は128石あまりであるが、幕府はこの寺を関東僧録寺とし、歴代住職には十万石大名の格式をもって対処した、と。現在は小ぶりな寺域となっているが、江戸期には里見公園から真間山下にまでおよぶ広大なものであった、とか。
寺の入口にはその格式ゆえの「下馬」の碑が残る。『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』にも、「下馬の表示から大門まで1丁(110m)余り」、と書かれている。また、その大門は「故水戸の西山公(徳川光圀)が、当時の住職である、一間和尚のために建立したもの瓦葺きで、建物は黒く塗ってある」と。また、続けて、「一間は西山公の甥の縁続きの人である。この人には大計があり、曹洞一門の総本山になることを図ったが、批判を受け、戒律により処罰を受けた」とある。総本山になることはなかったようだが、関東僧録寺であった」、と。

僧録寺って、幕府の禅宗に対する統制政策として設けられたもの。1619年、僧録が新設。金地院僧録、とも呼ばれたように黒衣の宰相・金地院祟伝が任命される。が、この制度は禅宗五山派にしか影響が及ばなかったようだし、祟伝没後は、幕府の宗教政策としては寺社奉行が設けられるなどして、僧録の権限は大幅に縮小されるようになった、と。結局は「本山・末寺制度」などの整備で仏教に対する政策を実行していった、とか。
本堂左手に大きな五輪塔。若くして逝った関宿城主・小笠原政信夫妻の供養塔。 里見公園はもともと、総寧寺の境内であった。が、明治になって、この地に大学をつくる計画があった、とか。総寧寺が現在の地に移る直接のきっかけはこの施策。が、結局は大学がつくられることはなかった。実現しておれば、東大クラスの国立大学がこの地に誕生したことであろう。で、その跡地に目をつけたのだが陸軍。都内というか東京市内に点在していた陸軍教導団、陸軍の下士官養成機関、をこの地に設置した。明治19年には兵営が完成した、と。現在のスポーツセンターのあたりは練兵場であった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
明治32年、下士官制度改正にともない教導団廃止。跡地に野砲16連隊。日露戦争では旅順や奉天の会戦に参戦し目ざましい戦果を挙げる。その後、野砲14,15連隊もこの地に移る。終戦まで国府台は軍隊の町であった。

じゅんさい池
総寧寺を離れ、次の目的地「じゅんさい池」に向かう。東に進み、松戸街道に。成行きで国府の坂を下ると、国分の台地との間に深く切り込まれた谷津、というか谷戸がある。ここに沼があり、じゅんさいが生えていたことから、この「じゅんさい池」という名前がついた。
昔は、じゅんさいを出荷したようだが、昭和の初期には沼が干上がり、じゅんさいは絶滅した、と。その後田圃となったが、汚染が激しくなり泥沼の状態となる。昭和54年、地元の人の要望をうけ、公園として整備された。現在は昔の谷津が残され、斜面林とともに、心なごむ景観をつくっている。ちなみに、じゅんさい(蓴菜)は睡蓮科の植物。澄んだ池や沼に生える水草。茎と葉は粘膜でつつまれ、ぬるぬるしている。若葉を食用にする。
じゅんさい池の遊歩道を進み、谷津の最奥部あたりで再び台地に取り付き、松戸街道に戻り、道なりに進み北総開発・矢切駅に到着。本日の予定終了とする。

日曜日, 3月 18, 2007

千葉 市川散歩 ; 真間に遊ぶ

松戸から市川へ歩く 松戸から市川に向かって歩いた。もともとは、後北条氏と里見氏が戦った国府台合戦の跡である「国府台(こうのだい)」、それと、万葉の時代から知られる「真間」を歩こうと思った、から。ともに市川市にある。では、なぜ松戸から、と言うと、まず市川の歴史博物館に行き、あれこれ資料を手に入れようと考えた、ため。博物館は、どちらかといえば、松戸からのほうが近そうに思えた。
そもそも、何故に国府台であり、真間であるか、ということだが、いつかどこかで買い求めた『江戸近郊ウォーク;小学館』がきっかけ。江戸期、清水徳川家の御広敷用人・村尾嘉陵が描いた『江戸近郊道しるべ』を現代語訳したこの本の中に、「下総国府台 真間の道芝」とか、「真間の道芝 中山国台も」などと「真間」とか「国府台」という記述があった。
国府台は、小岩あたりを散歩したとき国府台合戦のことを知り、そのうち歩いてみたいと思ってはいた。が、「真間」はこの本ではじめて知った。万葉集にも取り上げられた昔からの古い地名である、という。「まま」って音の響きにも惹かれていた。「まま」ってアイヌ語の「急な崖」の意味、とか。ちなみに、御広敷用人って、大奥の管理運営責任者としても使われるが、この場合は清水家の当主や夫人の暮らし向き一切を取り仕切る責任者のことである。さて、散歩をはじめる。


本日のルート:松戸駅>相模台>戸定が丘歴史公園・戸定邸>水戸街道>市川市歴史博物館?・堀之内貝塚>国分寺>真間の井>手児奈霊堂>真間の継ぎ橋>真間山弘法寺>下総総社跡>江戸川堤


松戸駅
常磐線・松戸駅、というか、地下鉄千代田線・松戸駅で下車。予想以上に大きな都市である。人口は48万人弱。昭和18年の人口は7千人強というから、首都圏のベッドタウンとして発展を続けているのであろう。 この地は平安の昔から交通の要衝。下総の国府(市川市国府台)から常陸の国府(茨城県石岡市)、武蔵の国府(都下府中市)への分岐点であった。
地名の由来は、例によって諸説あり、太日川(現在の江戸川)の津・渡しであったため、「馬津(うまつ)」とか、「馬津郷(うまつさと)」と呼ばれていたのが、「まつさと」となり、「まつど」になった、という説。なぜ「馬」か、というと、この松戸、というか下総台地一帯には小金牧といった放牧地があり、馬の飼育が盛んであった、から。そのこととも関連するのだが、「馬の里」から「馬里(うまさと)」となり、「まさと」、そして「まつど」となった、との説もある。更には、平安時代の「更級日記」に書かれた「松里」が地名の由来とも。こうなったらわけがわからない。

相模台
駅の東に台地が迫る。標高20m前後だろう。下総台地の西端である。開析された谷が樹枝状に入り組み、複雑な地形をつくっている。最初の目的地は市川市の歴史博物館。とりあえず南に下れば、とは思いながらも、途中に見どころはないか、と駅の案内板をチェック。線路に沿って南に下った台地に「戸定邸」がある。水戸藩最後の藩主・徳川昭武の別邸跡。ちょっと寄り道をしようと、南に下り、成行きで台地にとりつく。登りきったところは公園になっているのだが行き止まり。地図をチェック。戸定邸のある戸定台地ではなく、駅の東に迫る相模台であった。
一度台地を下りる。が、どうせのことなら、この台地の地形を楽しんでみようと再び台地に取り付く。台地上の松戸拘置支所の塀間際まで登り道。拘置所は未決囚を勾留・拘禁するところ。未決囚って被疑者・被告人ってことは知っていたが、死刑囚も未決囚。死刑執行までは未決囚扱い、となるようだ。わかったようで、よくわからない。
台地上を歩く。裁判所とか聖徳大学が並ぶ。こういった「公的施設」が集まるところは、昔の軍関係施設のあったところが多い。案の定、この相模台も陸軍工兵学校があった、とか。相模台の由来は、鎌倉時代、北条相模守長時がここ岩瀬坂に城を築いたことによる。
この相模台は第一次国府台合戦の戦場でもある。北条氏綱と里見義堯(よしたか)・足利義明が戦った。足利義明って小弓公方と呼ばれる。古河公方の分家。本家と覇権を争った、と。現在の千葉市中央区の小弓城に居を構えたのが名前の由来。江戸期の高家・喜連川として後の世に続くが、高家として優遇されたのは家康が足利家の「流れ」を重んじた、から。

戸定が丘歴史公園・戸定邸
台地の急坂を下り、南に進む。開析谷といった平地の直ぐ先に台地。この台地・戸定台の北端に「戸定が丘歴史公園・戸定邸」。「戸定」って、お城の外郭・外城の、意味である、とか。
戸定邸への緩い坂をのぼる。戸定が丘歴史公園って、松戸徳川家の敷地を公園として整備したもの。また、戸定邸は徳川昭武が明治に別邸としてつくったもの。大名の下屋敷の建築様式を今に伝える、と。邸内をひとまわりし、松戸市戸定歴史館に。幕末から明治の激動の時代を生きた昭武の事績を展示している。

 徳川昭武のメモ;最後の将軍・徳川慶喜の弟。1864年、12歳で、水戸藩兵300名を率いて京都御所警備に。1867年、将軍の名代でパリ万博に旅立つ。14歳のとき。万博終了後は、フランスに長期留学。次の将軍へと期待をかける慶喜の帝王教育であった、とか。
1868年、幕府崩壊。新政府よりの帰国命令。最後の水戸藩主となる。16歳のときのこと。1883年(明治16年)に隠居。戸定邸建設開始。翌明治17年、完成。明治天皇の傍につかえるため、通常は都内の水戸家本邸に住む。が、公職を離れ、アウトドアライフとか趣味の生活はこの地で楽しむ。多彩な趣味の中でも明治36年からはじめた写真撮影は有名、1500枚にのぼる写真が残る。

水戸街道


戸定邸を離れ、次の目的地、というか当初の最初の目的地・市川市の博物館に向かう。坂道を一度下り、台地の東端に沿って進み水戸街道と交差。再び台地に上ることになる。松戸周辺には中世の城址が多くある。48箇所もあるということから、「いろは城」などと総称される、と。代表的なものは松戸の北、北小金の大谷口歴史公園にある大谷城址であるが、この戸定台も中世の城址、とか。水戸街道との交差点の近くに「陣ヶ前(じんがまえ)」という地名が残る。小弓公方・足利義明の陣構え跡がその名の由来とも、松戸宿最初の旗本領主高木筑後守の陣屋跡がその名の由来、とも。
水戸街道を越え、南に進む。車の往来も多く、宅地が広がる。が、昔は、下総台地って、小金原とか佐倉原と呼ばれるように、湧水・湿地・斜面林など、谷津の豊かな自然が広がっていたのだろう。その台地には松戸の由来でメモしたように、江戸時代には多くの馬が放牧されていた。小金原って、松戸・野田市あたりだろう、か。そこには小金の牧という馬の放牧地があり、1500頭くらいの馬が放し飼いされていた、よう。次の機会に小金の牧の名残を求めて、松戸の北部を歩いてみよう、と思う。

市川市歴史博物館?・堀之内貝塚

「二十世紀が丘」地区に沿って南に進み。北総開発・北国分駅に。このあたりから市川市に入る。西に進み台地を下る。ちょっとした谷地の向こうにこじんまりした台地が残る。この谷地も削り取られたもの、とか。ともあれ、小島のように残った台地のうえに堀之内貝塚や考古博物館、歴史博物館がある。 貝塚は縄文後期・晩期のもの、というから、今から2000年から4000年前のもの。またここらか土器が発見されており、「堀之内土器」として知られる、と。考古博物館は先土器時代から律令時代あたりまで、歴史博物館は中世から現代までの資料が展示されている。考古専門の博物館をつくれる、ってことであるわけで、市川市が考古資料の宝庫って言われるのも、納得。
松戸から下ってきた最大の理由は、この博物館で資料を手に入れるため。『市川散歩』といった小冊子、『いちかわ 時の記録』といったいくつかの資料を買い求める。

国分寺
市川市歴史博物館を離れる。丘を下り、堀之内地区を東に進む。北国府と中国府の台地に挟まれた、ちょっと大きめの谷津といった雰囲気。中国府の舌状台地の東端を上り、国分寺に。ここは下総・国分寺跡。そのちょっと北に国分尼寺跡。現在は公園となっている。
天平13年(741年)、聖武天皇の勅願により全国に「金光明四天王護国之寺」と呼ばれた僧寺と、「法華滅罪之寺」と呼ばれた尼寺のふたつの寺が建立された。『江戸近郊ウォーク』には、「この山全体は千歳の古跡、つまりは下総国分寺跡であろうが、茅葺きの仁王門、本堂、本堂の傍らに堂」、といった国分寺の姿が描かれている。

真間の井

国分寺跡のある台地を下り、細長い谷津を経て国府台の台地の端を進み、「真間の井」に向かって歩く。下総台地の南端が低地に落ち込むところ。往古、このあたりは入り江が迫っていたのであろう。「真間の井」のある亀井院に向う。万葉集に「勝鹿(葛飾)の真間の井見れば立ち平(なら)し、水汲ましけむ手児奈し思ほゆ」と高橋虫麻呂が詠む。現在はちゃんとした井戸となっているそうだが、もとは湧水を水瓶のような受け皿で集めていただけであった、とか。そのためでもあろうか、亀井院は昔、瓶井坊と呼ばれた、とも。
『江戸近郊ウォーク』には、「今の真間の井戸は、世の中にごく普通にある堀井戸である。もとの姿ではない。(祠の方に引き籠もった所に小庵を造り、坪庭めいた所に井戸を堀り、さも意趣を凝らしたかのように井桁を組んで、石などで整えてあるのが、かえって野暮ったく見える)。昔の井戸は山際の、萩、薄のうっそうと生えている中にあった。今ではそこに行く人もいないであろう。その井戸は、山の際の窪んだ所に、山の水が自然に滴たり溜まっているものに、粘土質の土で囲いを造る程度にちょっと人の手を加えて,柄杓で汲みやすいようにしただけのものであった。実に自然のままに見えたものである」とある。あれこれ人の手が加わったことを少々嘆いているのが、実に「良い」。

手児奈霊堂
亀井院のすぐ近くに、手児奈霊堂。手古奈って、『万葉集』に詠われる女性。絶世の美女であった、とか。ために幾多の男性から求婚される。が、誰かひとりを選べば、その他の人を苦しめることになると思い悩み、入水自殺したとされる。万葉集の中で、山部赤人が詠った「吾も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児奈が 奥津城処」が有名。
全文は以下のとおり;「葛飾の 真間の手児名が奥津城(おくつき)を 此処とは聞けど 真木の葉や 茂りたるらむ 松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも吾は 忘らゆましじ吾も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児奈が 奥津城処葛飾の 真間の入江に うち靡(なび)く玉藻刈りけむ手児奈し思ほゆ(ここが葛飾の真間の手墓所だと。が、真木の葉が茂っているからか、長い年月ゆえか、その面影は、今はない。が、手児名ことは忘れることはないだろう。入り江に揺れる玉藻をみると手児名を思い出される。)

手児奈霊堂は、直ぐ北にある弘法寺の上人が手児奈の奥津城(墓)と伝えられるあたりに建立した、とされる。霊堂脇の池は水草が生い茂り、真間の入り江のありし日の姿を今に伝える。『江戸近郊ウォーク』には「畦の細道を蛇が進むようにくねくねと行き、辿り着いたところが手古奈の社の前である。(昔は)社は,蘆荻(ろてき)の生い茂った中に、5,6尺の茅葺きの祠があるだけで、鳥居などもなかった。それから多くの年月を経て詣でたときは、社は昔の面影のままであったが、鳥居が建っていた。なお年月が経て詣でたときには、もとの茅葺きの祠は取り払われ手、広さ2間ほどに造り変えられ、(中略)さらに今日、40年を経てきてみると、祠は、広さ5間ほど、太い欅柱に、瓦葺き、白壁造りのものに建て替えられていた。鳥居も大きなものを建て並べるなどして、昔の面影はどこにもない。誰がこんな社にしたのであろうか。人がなしたことなのか、知るすべもなし」とある。「昔はよかった」って、今も昔も同じである、ってことか。

真間の継ぎ橋
弘法寺に向かう。参道に「真間の継ぎ橋」。万葉集に「足の音せず行かむ駒もが葛飾の 真間の継ぎ橋止(や)まず通(かよ)はむ」の歌がある。往古、このあたりの入り江には多くの洲があり、その洲の間を継いだ橋であったため、継橋、と。別の説もある。『江戸近郊ウォーク』には、「昔は「まま」という言葉だけあって文字がなかったが、時代がたつにしたがって漢字を当てて「真間」とし、この橋も「真間橋」といったのであろう。しかし、時代が経つと「真間」という漢字を「継(まま)」と書き換えるようになり、そのうちに「継橋(つぎはし)」と呼ばれるようになってしまったのであろう」、と。
『江戸近郊ウォーク』には手児奈霊堂から継橋あたりの景色についての記述もある。昔はこのあたりから妙法経寺のある中山や(本)八幡のあたりまで見渡せたのであろう;「また、今は社の後ろ、入江にまで稲を植え、辺り一面田圃になっている。かつては社頭に背丈の高い松があって、その下枝が生い下がって入江の波に浸っていたが、その松もいつの間にか枯れてしまって今はない。(中略)社頭を去って継橋に着いて、入江を見渡せば、一里ほど東南に正中山(妙法経寺)が、その手前に八幡の宿の木立が見える。入江に小舟を浮かべて、刈り取った稲を運んでいる。その眺めに、昔見た以上の感動を覚えるのは、若いときには心もそぞろにひと渡り見ていただけだからであろう。この継橋の通りは、真間山の大門に向かう道で、継橋の下の細い流れも,入江の水も、利根川に注ぎ込む流れである」、と。

真間山弘法寺

真間山弘法寺(ぐほうじ)。「真間山の石段を五十段ほど登って楼門に入ると、向いに釈迦堂、祖師堂がある」と『江戸近郊ウォーク』に描かれている。立派な構えの寺院。天平9年(737年)、行基が『万葉集』に詠われる真間の手古奈の霊を慰めるため創建した、と。もとは「求法寺(ぐほうじ)」、と呼ばれる。のちに弘法大師が伽藍をつくり、ために「弘法寺(ぐほうじ)と改められた。その後、天台宗の時期もあったが、建治2年(1276年)中山・法華経寺の上人によって日蓮宗に改宗された。元亨3年(1323年)には千葉胤貞が寺領寄進、また家康からは朱印が与えられている。
江戸の頃は紅葉の名所としても知られ、「真間の紅葉狩り」として有名であった。台地からの眺めを、などと考えたのだが木立が邪魔して、見晴らしはよろしくなかった。
ところで、千葉胤貞って、中山門流日蓮宗を庇護した九州の肥前・千葉一族。大隈守である。なぜ肥前の千葉氏が?ちょっと気になり調べてみた。千葉氏は桓武平氏の一族。平安末期に、「下総権介」として千葉の地に移り、「千葉」氏を名乗った。千葉氏隆盛のきっかけは、頼朝の挙兵。平氏追討戦への貢献大で、頼朝より「師父」と呼ばれるほどに。鎌倉幕府の勢威拡大とともに、北は東北から南は九州・薩摩国へまで知行地をもち、その覇を拡大した。各地に千葉氏の流れができることになる。
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肥前・千葉氏の誕生のきっかけは元寇の役。肥前小城郡に知行地をもつ千葉宗家・頼胤に出陣命令。この宗家筋は元寇の役が終わった後も九州の警護のため、帰国叶わず大隈守護職として九州に留まる。いつまでも下総に戻ってこない、というか、戻ってこれない宗家筋に対し、宗家の弟筋が「千葉介」に就任。下総千葉氏がこれ。九州に下った「宗家筋」が肥前千葉氏となる。逆転現象である。 で、やっと大隈守千葉胤貞の登場。誕生は肥前。が、元服の頃には鎌倉に出仕していたようである。千葉宗家たる「千葉介」は弟筋が継いたわけだが、肥前千葉氏はもともとは「本家」千葉介であったわけで、父ゆかりの知行地も残っていた。八幡庄や千田庄がそれである。大隈守とはいうものの、活動の拠点は八幡庄周辺であったとされる。

千葉胤貞と日蓮宗との関わりは、その八幡庄に屋敷を構えたことからはじまる。そこに父の政務官でもあった富木常忍入道日常や、大田左衛門尉乗明といった、日蓮宗のエバンジェリストがいたわけだ。富木常忍は迫害を受けた日蓮を庇護し、その後出家し屋敷を「法華寺」としている。大田乗明の屋敷は「本妙寺」となっている。もっとも、「千葉介」を奪い取られた敵愾心から、下総千葉氏が信仰する真言宗とは別の宗派を押し立てることによって、自らの存在感を示すことにあった、との説も。下総千葉氏との確執などあれこれのストーリーはあれど、本筋からどんどん離れていきそうである。何故肥前千葉氏が弘法寺の堂宇を寄進し、日蓮宗を庇護したか少々理解できたところで鉾を収める。

下総総社跡
弘法寺を離れ、少し北にある下総総社跡に向かう。弘法寺の境内から裏に抜ける。千葉商科大学の塀にそって進む。キャンパスが切れ、運動場のあたりになり一度台地を下り、裾を進む。道成りに進み、再び台地にのぼり運動場に進む。
下総総社跡は、運動場のど真ん中といったところにある。昔はこのあたり一帯は鬱蒼とした森であった。「六所の森」とか「四角の森」と呼ばれていた、とか。ここに六所神社があった。総社というのは、国守が領内に点在する由緒ある神社をいちいち廻るのが鬱陶しい、ということで一箇所に集めたもの。国府の近くに合祀したわけだ。
和洋女子大前でバスを待ち、市川駅に戻り、本日の散歩を終えることにする。当初予定した国府台は時間切れでキャンセル。次回改めて歩き直すことにする。

江戸川堤

江戸川の堤を北に進む。東京都と千葉の境界。昔は「太日川」と呼ばれた。「太日川」の流れは江戸期における利根川東遷事業に大いに関係する。つまりは、もともとは、前橋のあたりで平野に入り渡良瀬川と合流し江戸湾に流れていた利根川を、関宿近辺で瀬替え工事をおこない、本流を銚子に流す工事をおこなった。その際、支流を人工的に開削し、この太日川に通すことになった。そのためこの流れは、「新利根川」などと呼ばれることもあった、ようだ。
「江戸川」と呼ばれるようになったのは、いつの頃からだろう、か。利根川水系を利用し、常陸那珂湊から内陸に入り、霞ヶ浦から「江戸」に物資を運ぶ、いわゆる『内川廻し』による船運が発達した頃からだろう、か。とはいうものの、『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』にはこのあたりのことを「利根の渡し」と書かれているので、少なくとも1807年頃は、「利根」と言われていたようだ。
また、たまたま今日読んでいた『郊外の風景;樋口忠彦(教育出版)』の中で田山花袋の『東京の近郊』の一部が引用されていたのだが、そこには「小利根(江戸川)」と書かれている。大正5年のことである。江戸川となったのは結構最近のことのように思えてきた。

往古、江戸川の水はとびきりきれいであった、と。『江戸近郊ウォーク;村尾嘉陵(小学館)』には、「水の重さが普通の水に比べて相当軽い、と棹をさしている男が言った」、と書かれている。いつだったか、小名木川に沿って行徳へと続く「塩の道」散歩の折り、江戸川に面した江戸川5丁目の「熊野神社」での芭蕉の句が思い出される。
「茶水汲む おくまんだしや 松の花」といった句碑があったのだが、この辺り、「おくまんだし(御熊野さま)」のあたりの清澄な水は将軍家のお茶の水として使われていた、とか。上流の野田といえば醤油だが、これもいい水を江戸川からとっていたのであろうし、ともあれ、江戸川って昔は澄んだ美しい流れであったので、あろう。


木曜日, 3月 08, 2007

伊豆 天城峠越え

伊豆の国散歩の二日目。天城峠を越え、河津七滝まで歩く。とはいうものの、どこから歩き始めるか、あれこれチェック。結局のところ、旧天城トンネルの2,3キロ程度手前、旧道が国道414号線から分岐する「水生地下」あたりからスタートすることにした。大雑把に10キロ強といったところだろう。予約してある電車・踊り子号の出発時間もさることながら、車の通行量の多い国道を峠に向かって歩くのって、今ひとつ興が乗らない。それが、水生地下からスタートと、決めた最大の理由。(木曜日, 3月 08, 2007のブログを修正)
本日のルート;湯ヶ島温泉>バスで「浄蓮の滝」>浄蓮の滝>バスで水生地下>下田街道>旧天城トンネル>河津七滝(釜滝・エビ滝・蛇滝・初景滝・カニ滝・出会滝・大滝)>大滝温泉>バスで河津駅>河津川沿い・河津桜>姫宮神社>伊豆急行線・河津駅>帰路


天城湯ヶ島

宿で朝食をとり出発。宿をとった天城湯ヶ島って、作家井上靖の育った町。自伝的小説『しろばんば』を読んでみたくなった。とはいうものの、文庫本でも結構のボリュームがあったような記憶が。また、『猟銃』もこの地が舞台、とか。そのほか湯ヶ島、といえば若山牧水の『山桜の歌』が有名。
「三月末より四月初めにかけ天城山の北麓なる湯ヶ島温泉に遊ぶ、附近の溪より山に山櫻甚だ多し、日毎に詠みいでたるを此處にまとめつ」といった詞書ではじまる23首の歌。牧水の代表作でもある。大正11年のこと。23首の歌をメモしておく;

うすべにに葉はいちはやく萠えいでて咲かむとすなり山櫻花
うらうらと照れる光にけぶりあひて咲きしづもれる山ざくら花
花も葉も光りしめらひわれの上に笑みかたむける山ざくら花
かき坐る道ばたの芝は枯れたれや坐りて仰ぐ山ざくら花
おほみ空光りけぶらひ降る雨のかそけき雨ぞ山ざくらの花に
瀬々走るやまめうぐひのうろくづの美しき頃の山ざくら花
山ざくら散りしくところ真白くぞ小石かたまれる岩のくぼみに
つめたきは山ざくらの性(さが)にあるやらむながめつめたき山ざくら花
岩かげに立ちてわが釣る淵のうへに櫻ひまなく散りてをるなり
朝づく日うるほひ照れる木(こ)がくれに水漬(みづ)けるごとき山ざくら花
峰かけてきほひ茂れる杉山のふもとの原の山ざくら花
吊橋のゆるるちさきを渡りつつおぼつかなくも見し山ざくら
椎の木の木(こ)むらに風の吹きこもりひと本咲ける山ざくら花
椎の木のしげみが下のそば道に散りこぼれたる山ざくら花
とほ山の峰越(をごし)の雲のかがやくや峰のこなたの山ざくら花
ひともとや春の日かげをふくみもちて野づらに咲ける山ざくら花
刈りならす枯萱山の山はらに咲きかがよへる山ざくら花
萱山にとびとびに咲ける山ざくら若木にしあれやその葉かがやく
日は雲にかげを浮かせつ山なみの曇れる峰の山ざくら花
つばくらめひるがへりとぶ溪あひの山ざくらの花は褪(あ)せにけるかも
今朝の晴青あらしめきて溪間より吹きあぐる風に櫻散るなり
散りのこる山ざくらの花葉がくれにかそけき雪と見えてさびしき
山ざくら散りのこりゐてうす色にくれなゐふふむ葉のいろぞよき

牧水の紀行文『追憶と眼前の風景』もこのときの作品、とか。『みなかみ紀行(中公文庫)』におさめられている、ようだ。どこかで手にはいるものであれば、詠んでみたい。

浄蓮の滝
バスに乗る。「水生地下」に行く前にちょっと寄り道。天城、といえば、「浄蓮の滝」でしょう、と、言うことである、らしい。同行者の中で、私だけ知らなかったのだが、この滝、石川さゆりの歌う「天城越え」で有名、とか。レコード大賞を受賞した大ヒット曲、と;

浄蓮の滝に下りる。高さ25m、幅7m、滝壷の深さ15m。天城山中に源を発する本谷川にかかる滝。狩野川の上流部にあたる。名前の由来は、近くに浄蓮寺があった、から。今は,無い。滝の近辺にはワサビ田が作られている。狩野川、といえば、というくらいワサビが有名。
ワサビ栽培発祥の地は静岡・安倍川沿いの山間の集落・有東木(ウトウギ)、とか。江戸期・慶長年間、有東木源流の山地に自生していたものを持ち帰った有東木の村人が、集落の遊水地で栽培したのがはじまり、と。慶長12年(1607年)駿府城の家康が食し、その味を愛で名が高まる。その故もあって、集落より持 ち出し不可、ということであった。が、この地に椎茸栽培の技術指導に赴いた天城の住人が故郷に持ち帰った、と。椎茸栽培の指導のお礼に、持ち出し不可のワサビの苗を、荷物の中にそっと忍ばせてくれた、ということらしい。

水生地下(すいちょうちした)

滝壷から戻り、バスを待つ。あまりバスの回数もないのでしばらく待つことに。乗ってわかったことなのだが、このあたりのバスは一部区間を除いて乗り降り自由。そんなことがわかっておれば、適当に歩いておけば、とも思ったがあとの祭り。ともあれ、バスに乗り、「水生地下(すいちょうちした)」で下車。「すいせい・ちか」ってなんだろう、と思っていたのだが、「水生地」の下、ってこと、であった。
バスを降り、旧道を旧天城トンネルに向かう。舗装はされていない。が、きれいに整地されている。整地されているのはいいのだが、そのためもあり車も入ってくる。土埃が少々興ざめ。少し歩くと川端康成の文学碑。川端康成のレリーフと直筆の『伊豆の踊子』の書き出しが彫られている;「道はつづら折になって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた」、と。
10分程度歩くと水生地。地名の由来は、水が生まれる地、ということだろう。この近辺にもワサビ田跡、といったものが残っているし、なにより、この沢、本谷川だろう、と思うのだが、この沢の上流には「水源の森」がある。天城山のほぼ中央、天然のブナ林が残る自然豊か な森がある。北斜面は狩野川源流に、南斜面は河津川の源流となっている。特に良質の水が得られる、ようだ。水生地(水生地)という地名は、豊かな森ではぐくまれた良質の水がこんこんと湧くところ、ということであろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



松本清張の『天城越え』の舞台・氷室園地
水生地から旧道を少し外れたところに氷室園地。大正から昭和にかけ、厳しい寒さを活用し天然の氷をつくった人工の池とその保存庫。この氷室って、松本清張の『天城越え』の舞台でもある。丁度いい機会でもあるので、読み直した。新潮文庫『黒い画集』に収められた短編。文庫サイズで42ページ程度。犯人である少年が一夜を明かし、それゆえに犯行におよぶことになるのが、ここにある氷室。
あらすじはさて置いて、読後、なんとなく、しっくり、こない。違和感が残る。多分、一人称の視点で、しかも、それが犯人の少年の回想、といったもの、であり、最後になって、というか、途中から想像はできるのだが、結局「僕が犯人でした」、って展開が、なんとなく??、と感じるのだろう。
一人称が探偵であり、犯人探し、であれば違和感はないのだろうが、一人称で語る書き手が犯人であるなら、最初から自分が犯人とわかってるわけで、いかにも事件に無関係といった風情で話が進み、最後に老刑事によって、「あんたが犯人だってことはわかってるよ」と暗示される、ってことが、それってないよな、と感じた次第。小説の作法はよくわからないのだけれども、こういった手法って有り?といったのが読後の正直な感想でありまし、た。

旧天城トンネル
旧道に戻りトンネルに進む。旧天城トンネル。1904年(明治37年)完成、全長450m・幅4.1m・高さ3.15m程度。日本でもっとも長い石造りのトンネル。2001年(平成13)4月20日、国の重要文化財に指定されている。1970年(昭和45年)に国道414号線の新天城トンネルが開通するまでは、天城越えの主要交通路、であった。
この国道414号って昔の下田街道。東海道、三島宿の三島大社を基点に、韮山・大仁・湯ヶ島を経て天城峠に。峠を越えると河津町梨本まで下り、そこから小鍋峠を越えて下田に至る。
天城越えの道はトンネルができるまでは、当然のこと急峻な峠越え。峠道も時代とともに変遷し, 新山峠, 古峠, 中間業, 二本杉峠,天城峠と変わった、よう。 このうち, 二本杉峠は幕末アメリカ領事館の初代総領事ハリスが通商条約締結のため,下田より江戸に上ったときに通った峠である。
ハリス一行の日記には, 「路は狭く,鋭角で馬の蹄を置く場所もなく. ようやく峠を越えて湯ヶ島に着く, 今日の路は道路ではなく通路とも言うべきものだ.」と記されている。結構な難所であった、よう。このトンネルの開通により、陸の孤島・南伊豆と北伊豆が結ばれることになった、とか。
旧天城トンネルを進む。トンネル内部はカンテラっぽい照明だけで、結構暗い。車も対向はできそうもない。旧天城トンネルは、川端康成著『伊豆の踊子』で有名。作品中で雨宿りをした茶屋はこの近くにあった。
「そのうち大粒の雨が私を打ちはじめた。ようやく峠の北口の茶屋にたどり着いてほっとすると同時に、私はその入り口で立ちすくんでしまった。あまりに期待が見事に的中したからである。そこに旅人の一行が休んでいたのだ。・・・私はそれまでにこの踊り子たちを二度見ているのだった。最初は私が湯ヶ島へ来ると途中だった。そのときは若い女が三人だったが、踊り子は太鼓を下げていた。私は振り返り振り返り眺めて、旅情が自分の身に付いたと思った。・・・暗いトンネルに入ると冷たいしずくがぽたぽた落ちていた。南伊豆の出口が前方に小さく明るんでいた。トンネルの出口から白塗りの柵に片側を縫われた峠道がいなずまのように流れていた。この模型のような展望のすそのほうに芸人たちの姿が見えた。六町と行かないうちに私は彼らの一行に追いついた・・・(『伊豆の踊子;川端康成』)」。
この散歩に出る前の日のことである。娘に、「明日、伊豆の天城峠、伊豆の踊子の道を歩く」、と話した。と、丁度、学校の宿題で、川端康成の『伊豆の踊子』のレポートを書く、とか。レポート提出の前日、あれこれ質問がくるであろうからと、丁度いい機会でもあるので、本棚にあった『川端康成―その美と愛と死;長谷川泉』を読み返した。

伊豆の踊り子

抜粋する;『伊豆の踊子』は、川端康成が伊藤初代との恋愛に敗れた傷心のうち、湯ヶ島に滞在して書かれた『湯ヶ島での思いで』がもとになる。この未定稿から『伊豆の踊り子』と『少年』が生まれた。大雑把に言って、『湯ヶ島での思いで』の前半が『伊豆の踊子』、後半が『少年』となる。『伊豆の踊子』は伊藤初代との恋愛に敗れた「傷心」を踊り子・薫によって純一無垢に洗い流し、『少年』はモデル小笠原義人との同姓愛の思い出を、清野少年という存在をとおして康成の心を浄化し純一にする、と。
『伊豆の踊子』の素材は伊豆の旅情のゆきずりの感傷で、ひとときの邂逅である、という。天城峠越えから、湯ケ野温泉をへて下田にいたる一高生の一人旅は、踊り子薫とその兄栄吉、栄吉の妻千代子、千代子のおふく、雇の百合子という旅芸人一行の誘いによって、旅情がなまめき潤うことになる。主人公にとっての救いは、孤児根性のひがみと、かたくなな歪みが、素朴で人間味溢れた一行によって浄化されたことにある。一行の中でも、不思議な色気を持ちながら、まだ十四歳の少女である踊り子の薫の対応が、とくに主人公の心を洗った。踊り子が一高生に言った「いい人」は「明かり」となって高校生を浄化した、とある。
川端康成にとって「いい子」は決め言葉、であった、よう。そのことは、孤児根性、と切っても切れない関係をもっている、とか。孤児根性は、両親をはじめ、肉親の死屍累々の中に投げ出された康成の感慨が根底にある。『伊豆の踊子』の中に;二十歳の私は自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に耐え切れないで伊豆の旅に出てきているのだ」と記されている。踊り子の薫たちは、一高生の川端康成、孤児根性にいじけた康成を「いい人」とすなおに描くことによって、かたくなに歪んだ心を純一無垢に洗い流す、と書かれてあった。(『川端康成―その美と愛と死;長谷川泉』より)
後日談。伊豆の旅から戻り、天城越えの実体験も交えて、娘に、さて、『伊豆の踊子』についてのレポートはどうなっている?などと聞いたところ、「お父さん、レポートは『雪国』だよ」、だって。がっくり。

八丁池への分岐

旧天城トンネルを過ぎると緩やかな下り。30分程度で寒天橋に。八丁池への道が分岐する。八丁池は標高1200m、天城原生林の中に佇む火口湖。「伊豆の瞳」とも。1時間ちょっとで行けたよう。後の祭りではあるが、歩いてみたいかった。

二階滝(にかいだる)
寒天橋あたりからは舗装。道なりに下ると寒天橋のそばに二階滝(にかいだる)。落差20m。河津川一番目の滝。八丁池からの水が二段にわけで落ちている。二階、という名前の由来でもある。滝を「たる」と呼ぶのは、「垂水」から、と。二階滝園地を過ぎさらに下る。新道への分岐案内。踊子歩道から離れ、杉などの茂る細道に。

平滑の滝
国道を横切る。小さな橋を二つ渡り、わさび田にぶつかる。コースは鉄橋を渡る。「平滑の滝」はコースからちょっとそれる。滝は幅20m・高さ4mの一枚岩。

宗太郎園地

橋を渡り、さらに下ると宗太郎園地。この先から宗太郎杉並木の林道がしばらくつづく。宗太郎園地には、太い幹の杉が立ち並ぶ。江戸時代に幕府の直轄地となっていたこの地の杉を伐採する際に、伐採の御礼にと植えた杉の苗が育ってできた森。「園地」とはいうものの、遊園地があるわけではない。美しい杉林と休憩用の東屋と水汲み場があるだけである。

河津七滝

しばし歩き河津七滝の入口に。河津七滝とは、河津川にかかる7つの滝(釜滝、エビ滝、蛇滝、初景滝、カニ滝、出合滝、大滝)の総称。河津川は、天城山を源とする河津川と天城峠の南斜面から流れる荻ノ入川が出合滝で合流し、河津平野を通り相模灘に注ぐ長さ 9.5キロの二級河川。
七滝散歩に向かう。滝方面への分岐を右に。石段は260段。まさか、また、戻るわけじゃないよね、などと少々の怖れ。小さな橋を渡ると河津七滝の第一「釜滝(かまだる)」。高さ約22m、幅約2mで、河津七滝中、大滝に次いで、2番目に高い滝。滝の周りは岩・玄武岩が柱状に規則正しく割れている。「柱状節理」。直ぐ下に「エビ滝」「蛇滝」と続く。川に沿って道があり、来た道を戻ることがない、とわかって少々安堵。蛇滝の先、階段を下りると「初景滝」。このあたりから舗装された道に。「カニ滝」。「出会滝」。ふたつの渓流が出会うこと、から。最後に「大滝」。七滝中最大の大滝。幅 7m、高さ30m。周囲には釜滝と同じく柱状節理が見える。


七滝のメモはしごく簡単になった。生来の情感の乏しさゆえか、はたまた、田舎の出身であり、美しい自然があたりまえ、故郷の自然が一番と思っている我が身には、どうしても、自然描写に気合が入らない。そのかわり、というわけもないのだが、河津の七滝にまつわる伝説をメモしておく。
その昔、この地、万三郎岳・八丁池のあたりに天狗が棲んでいた。八丁池で洗濯する天狗の美しい妻に、七つの頭をもつ大蛇が懸想。天狗は、大蛇を退治すべく策をめぐらす。八丁池のあたりに強い酒をなみなみと満たした七つの樽を置く。女性を求めてき た大蛇、酒の魅力に負け泥酔。頃もよし、と蛇を切り刻む。で、このとき使った七つのタルは河津川に捨てられ、流れ流れてそれぞれ谷に引っかかり、七滝の滝壷になった、とか。

河津駅
河津七滝散歩を終え、河津七滝バス停から河津駅までバスに乗る。30分弱。少し時間があったので、早咲き桜で名高い、河津桜が並ぶ河津川沿いを歩く。桜祭りが近々はじまるらしく、屋台の準備が大規模に行われていた。川堤を少しのぼり、姫宮神社で大きな楠を堪能。踊子号にて一路家路を急ぐ。