土曜日, 4月 27, 2013

阿波の国散歩;忌部神社を辿る

田舎の愛媛に帰省した折に、敬愛するS先生に教えて頂いた徳島の忌部神社を辿ることにした。忌部神社を祀る古代有力氏族である忌部氏について、特段の興味・関心があるわけではないのだが、偶然ではあるが最近の散歩で忌部氏ゆかりの地を訪れていたこともあり、また、それ以上に、S先生の興味・関心があるトピックであれば、なんらかの新しい驚きに出遭えるだろうとの期待をもって忌部神社を訪れることにしたわけである。

で、最近の散歩で訪れた忌部氏ゆかりの地は出雲と下総。出雲のゆかりの地は玉造温泉で出会った玉作湯神社。昨年の神在月、全国津々浦々の神々を迎える神在祭に訪れた旅の道すがら、家族の希望で立ち寄ったもの。その神社は出雲玉作氏の祖である櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)ゆかりの神社であり、その櫛明玉命とは、忌部氏の祖である天太玉命(あめのふとだまのみこと)が天孫降臨の際に随従した五柱(五部の神)のひとりである。
「玉作の工人を率いて日向に御降りになり、命の子孫一族は所属の工人と共に出雲玉造郷に留まって製玉に従事した」と伝わる。攻玉技術をもって勾玉などの調製にあたっていた出雲の玉作部の人々は出雲の忌部の一族であった。
次いで、下総の忌部氏ゆかりの地は下総そのもの。つい最近、守谷や取手など下総相馬の地に、将門の旧跡を辿ったわけだが、その下総の地の名前の由来について『古語拾遺』には、「天富命、さらに沃壌を求め、阿波の斎部(いつきべ)を分かち。東国に率い行き、麻穀を播殖す。好麻の生ずるところ、故にこれを総国という。穀木(かじき;ゆうのき)の生ずるところ、故にこれを結城郡という。故語に麻を総というなり、今の上総下総の二国これなり」と言う。『古語拾遺』は忌部氏の後裔である斎部広成が著したものであり、斎部とは忌部と同義、天富命とは天太玉命の孫と伝わる。

で、S先生にお教えいただいた阿波の忌部氏であるが、出雲の櫛明玉命と同じく、忌部氏の祖である天太玉命(あめのふとだまのみこと)が天孫降臨の際に従えた五柱の随神のひとりである「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」をその祖とする。天日鷲命は、穀木(かじ)麻を植え製紙・製麻・紡織の諸業を創始したと伝わる。で、何故に、穀木(かじ)麻を植えることが製紙・製麻・紡織の諸業を創始であるのか?チェックすると、麻や穀(楮)は、木綿(もめん)が日本に伝わる以前の糸・布・紙の原料。そこからつくられた原料のことを「木綿(ゆう)」と呼ばれ、布を織り、神事の幣帛や紙垂などに使われたようである。
この「天日鷲命」、天照大御神が天の岩戸に隠れた際、天の岩戸開きに大きな功績を挙げた、と伝説に言う。天日鷲命の神名も天照大御神が岩戸から出てきて世に光が戻ったとき、寿ぐ琴に鷲が止まったことに由来する、とも。

斯くの如き、当時の民の世界においてもその生活基盤技術の創始者であり、また神々の世界にあっても赫々たる実績を挙げた神故か、阿波の忌部氏の祖神である天日鷲命は、天太玉命の率いる五柱のうちの第一の随神に挙げられる。そしてまた、その「第一に挙げられる神」の子孫故のことであろうか、阿波の麻殖(植)郡(おえ)郡に拠点を置く忌部氏については、単に地方の有力氏族というだけでなく、古代世界におけるその位置づけについて、諸説あるようだ。
通説では、忌部氏の本宮は奈良県樫原町忌部町にある天太玉神社(あめのふとたま)とされ、そこから各地方へ忌部氏が下って行ったとされる。それに対し、中央・地方の忌部は阿波忌部がその母体となっており、阿波忌部の全国進出とあわせて技術と文化の伝播をもたらした。つまりはヤマト王権も阿波忌部がその成立を支えた。こうした阿波忌部の起点となるのは麻植郡であるとするから、いうなれば麻植郡は日本そのものの発祥の地である、といったものである。
阿波忌部氏が大和から下った一派なのか、林博章氏がその著『日本の建国と阿波忌部』で主張するように、阿波忌部氏がヤマトを支え日本をつくりあげた氏族なのか私のような門外漢にはわからないし、また、つい最近読んだ梅原猛氏がその著である『葬られた王朝』において、数十年前、同氏が著した『神々の流竄』と真逆の論を展開していたわけだが、その論拠は、前著書の大前提を覆すような決定的証拠(発掘・発見)などがその後発見・発掘されたことによる、と。阿波忌部氏に関しても、そのうちにどちらかの論拠を決定づけるエビデンスが出てくるのではと、少々クールなスタンスで阿波忌部を想いながらの散歩とする。

斯くの如き論争はさておき、古代日本で重要な役割を果たした阿波忌部氏が祀る社が如何なるものかと社を巡るルートをつくろうと。が、徳島のどこにあるのかも見当もつかない。あれこれ検索で調べると、徳島市内と吉野川市、そして美馬郡つるぎ町にそれらしき社が見つかった。名称は忌部神社であったり、種穂神社であったり、御所(五所)神社であったりと、結構場所の特定に手間がかかったが、ピックアップしたこれらの社の内、徳島市内の社は除外することにした。その理由は、明治になり、忌部神社の本家本元(延喜式内社)を巡る争いが激しく、その妥協の産物として造られた社が徳島市内の社である、ということから。ということで、今回の阿波の忌部神社は吉野川市にある忌部神社(山川町忌部山)と種穂神社山川町川田忌部山)の2社と美馬郡つるぎ町の忌部(御所)神社の合計3社を辿ることにした。
これら3社、明治に本家本元(延喜式内社)を争った社と言うだけでなく、江戸の頃にも結構激しい本家本元争いを展開している。その主因は由緒正しきと言った正当性だけでなく、その正当性故に明治は国家から「補助金」を、江戸は藩から「社地」を得られるといった経済的メリットもありそうである。神職にはあるまじき、とは言いながら、下手なドラマより面白い、と言ったら少々不敬にあたるか、とも感じるが、それほどドラマティックな争いを起こしている。
通常、成り行き任せで事前準備無しの散歩を基本とするのだが、今回は辿るべき神社を特定するために、事前にあれこれ調べた結果、散歩の前に上にメモしたような正蹟論争など、ある程度の情報を得ることになり、結果、イントロが少々長くなってしまった。ともあれ、そろそろ忌部神社散歩のメモをはじめる。
本日のルート;
■徳島線・山瀬駅>山崎忌部神社>聖天寺>黒岩遺跡>立石>忌部山古墳>青樹杜の立石>玖奴師神社>岩戸神社
■種穂山>種穂忌部神社>のぞき岩
■つるぎ町貞光>吉良堂>東福寺>貞光忌部神社(御所神社)

吉野川
当初、列車とバスを乗り継いで、などとお気楽に考えていたのだが、事前準備により、列車とバスを乗り継いで1日で3社をカバーすることなど、とてものこと無理とわかり、レンタカーを借りて愛媛県新居浜市から徳島県吉野川市に向かう。
松山自動車道を西に向かい、川之江ジャンクションで高知自動車道に乗り替え、ほどなく川之江東ジャンクションで徳島自動車道に入る。その先はトンネルを3つほど抜け、徳島道は吉野川を渡る。

吉野川は四国山地西部の石鎚山系にある瓶ヶ森(標高1896m)にその源を発し、御荷鉾(みかぶ)構造線の「溝」に沿って東流し、高知県長岡郡大豊町でその流路を北に向ける。そこから四国山地の「溝」を北流し、三好市山城町で吉野川水系銅山川を合わせ、昔の三好郡池田町、現在の三好市池田町に至り、その地で再び流路を東に向け、中央地溝帯に沿って徳島市に向かって東流し紀伊水道に注ぐ。本州の坂東太郎(利根川)、九州の筑紫次郎(筑後川)と並び称され、四国三郎とも呼ばれる幹線流路194キロにも及ぶ堂々たる大河である。

その大河故のことではあろうが、吉野川水系の水を巡る四国四県の水争いには江戸時代からの長い歴史がある。香川、愛媛、高知県は吉野川からの分水を求めるわけだが、吉野川によって洪水の被害を受けるのは徳島だけであり、また、ただでさえ季節によって流量の変化が激しく、水量の安定確保が困難な吉野川からの分水を徳島は容易に認められない、ということである。
この各県の利害を調整し計画されたのが吉野川総合開発計画。端的に言えば、吉野川源流に近い高知の山中に早明浦ダムなどの巨大なダムをつくり、洪水調整、発電、そして香川、愛媛、高知への分水を図るもの。高知分水は早明浦ダム上流の吉野川水系瀬戸川、および地蔵寺川支線平石川の流水を鏡川に導水し都市用水や発電に利用。愛媛には吉野川水系の銅山川の柳瀬ダムや新宮ダムから法皇山脈を穿ち、四国中央市に水を通し用水・発電に利用している。
そして、池田町には池田ダムをつくり、早明浦ダムと相まって水量の安定供給を図り、香川にはこのダムから阿讃山脈を8キロに渡って隧道を穿ち、香川県の財田に通し、そこから讃岐平野に分水。徳島へは池田ダムから吉野川北岸用水が引かれ、標高が高く吉野川の水が利用できず、「月夜にひばりが火傷する」などと自嘲的に語られた吉野川北岸の扇状地に水を注いでいる。総延長70キロにもおよぶこの用水は、第二の吉野川とも呼ばれているようである。 早明浦ダムはテレビのニュースで四国の水不足のバロメーターとして、つまりは「四国の水瓶」として報道される。池田ダムは、かつて徳島道もないときには吉野川を渡った後、国道は吉野川の南岸を進み池田の町を抜けていたのだが、その途中に池田ダムがあった。当時は、そのダムは吉野川の洪水対策の水量調整の役割でも、と思っていたのだが、早明浦ダムも含め、もっとスケールの大きな計画の「装置」の一つであったわけだ。ついでのことながら、池田の地名の由来は現在は大半が埋め立てられ総合体育館が建っているところに古池という大きな池があった、ためとのこと。

徳島線・山瀬駅
徳島道は池田ダムを見ることもなく池田の町並の南をトンネルで抜け、町の東端で吉野川の南岸に出る。徳島道は井川町の辺りで吉野川北岸に移り、脇町インターチェンジで高速を下りる。高速を下り、国道193号を南に下り、吉野川を渡り、吉野川を渡り切ったところで国道192号に乗り換え、吉野川南岸を進み、最初の目的地である山川忌部神社の最寄りの駅・徳島線山瀬駅に。駅に行けば神社までの案内でもあろうかと駅に行ったわけだが、無人の駅には何の案内もなく、少々途方に暮れる。と、カーナビを見ると忌部神社が載っている。迷うことなく地点をマークし、ナビに従うことに、とはいうものの、耕地の農道と思しき道を車が通れるものか、ハラハラものである。

山崎忌部神社
山川町忌部、山川町岩戸といった如何にも「忌部氏」ゆかりの地といった地名の耕地の農道を進み山裾に。道は山へと続くようなので、こわごわではあるが車を進めるとあっという間に忌部神社に着いてしまった。
道脇に車を停め、車道から神社に向かうのだが、古代有力氏族である忌部氏ゆかりの神社、とか、文治元年(1185)屋島の戦いに際して源義経や那須与一が戦勝祈願に太刀や弓矢を奉納したとか、文治3年(1187)源頼朝が田畑1000町を寄進した、と言った古式ゆかしき趣は全くない。第一印象は、これが忌部神社?といったものであった。社殿もそれほど古いものでもない。記録をチェックすると昭和43年(1968)に鉄筋造りの社となった、とか。もっとも、参道は山裾より石段を上るわけであり、そのアプローチであれば、少々印象は変わった、かとも。
社殿脇の案内によると、「当社の祭神は天日鷲命・神言筥女命・天太玉命・神比理能売命・津作具命・長白羽命・由布州主命・衣織比女命である、往時には黒岩と呼ばれる所にあったが応永12年(1396)秋の地震で社地が崩れ、現地に祀られるようになったと言われる。忌部神社については延喜神名帳にも記載されており明治4年(1871)には国幣中社として列せられているが其の正跡については神社間に論争もあるが忌部神社正跡考の研究資料、かく方面からの考察によってみても忌部神社の正跡は山崎の地であることは先ず正しいと考えられる。大正・昭和大嘗祭にはこの境内に識殿を建て、荒妙を織って貢進した事績や裏山一体の忌部山には古墳を始め数多くの歴史的事績を蔵している」とある。
忌部神社の正蹟論争は、どの社もその正当性を唱えるだろうから、本日の3社を巡った後にメモすることにして、ここで気になった「荒妙(あらたえ)」の貢進のことをチェックする。 「荒妙(あらたえ)」とは「麁服(布)」とも表記され、天皇が即位後初めて行う大嘗祭(だいじょうさい;おおにえのまつり;稲の初穂を祖神に供える儀式)に供される布・織物であるが、延長5年(927)の『延喜式』には阿波忌部が麁服や山野の産物を貢進したとの記録があるものの、その後連綿と続いたというわけではないようである。『郷土史と近代日本;由谷裕哉・時枝務編著(角川学術出版)』)の「神・天皇・地域;阿波忌部をめぐる歴史認識の展開(長谷川賢二)」によると、麁服の貢進の儀式は南北朝以降は確認できていないし、元文3年(1738)の記録には「昔の大嘗供進の麁服は必ず阿波国の忌部の織りたるを用う」とあるように、既に故実として伝えられている、と言う。
「神社の案内に大正・昭和大嘗祭には」と、さらりと流しているが、荒妙の貢進はその頃の政治的活動の賜物であり。境内に織殿を建て往昔の儀式を復活させ、忌部の地を当時の天皇中心の皇国史観をベースに地域アイデンティティの確立を図ったとの、上記書籍の説明は結構納得感が高かった。

因みにこの社が「山崎」との冠がつく由来は、昔はこの地は麻植(殖)郡山崎村と呼ばれていた、ため。そして、天日鷲命が、穀木(かじ)麻を植え製紙・製麻・紡織の諸業を創始されたが故の「麻植(殖)郡」と言う由緒ある地名も、平成16年(2004)に付近の3町1村が合併し吉野川市となった。現在の通称山崎忌部神社の住所は吉野川市山川町忌部山14、ということになる。

聖天寺
忌部神社から山を上ったところに忌部古墳群がある、と言う。阿波忌部氏との関連は未だ証明されてはいないようだが、ここまで来たからにはと、ちょっと寄り道。車道から離れ道標に従って山道を進むと、森の中にお寺さまが現れる。忌部古墳群はお寺さまの脇から更に600mほど山道を進むことになるが、古池や石仏といったちょっと怖そうな雰囲気の漂うお寺様に立ち寄ることに。
境内には歓喜天を祀る社が残る。




寺の由来によると、聖天寺は金峯山寺四国別院。金峰山寺修験本宗四国別院源正山聖天寺と称し、本尊は観世音菩薩と大聖歓喜天の二體。開基は不詳ではあるが、文治元年(1185年)源頼朝公阿波國に田畑寄進ありし時、源の一字を賜りたると伝わる、と。天正年中、長曾我部氏の戦火に遭い焼失するも、宝暦三年(1753年)復興。文政元年(1818年)の頃、京都嵯峨の名刹真言宗大覚寺の別院となる。太平洋戦争後終戦後、一時無住となる為、堂の内外荒廃その極に達したが、昭和27年(1957)7月本宗に転派して今日に及んでいる」、と。

黒岩遺跡
歓喜天への石段脇にある山道を上るとほどなく黒岩遺跡の案内。忌部神社の元宮のあった処と伝わる。黒岩と称される大岩や黒岩の祠が祀られる。










その黒岩遺跡より10mほど進んだ処に真立石。案内には「真立石とは、黒岩の旧社地にあり、高さ一丈(約3m)、回り8尺(約2m)ほどの巨石。上古神社の鳥居は、2個の立石を立てたものであった、と言われ、旧忌部神社の鳥居であったと思われる。平成12年(2000)2月埋もれていた片方を掘り起こし、一対の真立石として復旧された。真偽については、今後の調査研究に待たれる」と。



忌部山古墳群
山道を進むと道脇に忌部山古墳群。印象としては、ちょっと盛り上がった塚といった ものである。聖天さんのところにあった案内によると、海抜240mの一尾根を占拠した高地にされている古墳群は6世紀ころのもの。いずれも横穴式石室をもつ古墳で、1号墳のみ小竪穴式石室があわせてもつ、と。もとは5基あったが、4基は全壊している。この古墳の特徴は玄室を隅丸(奥壁部分は奥壁と側壁の角の結合部が丸くなっている)の形に築き、天井石は持ち送り(ドーム状)となり、玄室の閉塞施設を丁寧に構築している、ことにあり、それを「忌部山型石室」と呼ぶ。昭和51年(1976)の発掘により金環、銀環、須恵器などが発掘されている」と。
1号墳を見るに、直径10mほど。石室天井部も開口している。玄室は幅1.5m弱、高さ1.5mほど、玄室長2.5mほどだろう、か。あまり古墳内部を見るのも憚られるので、早々に切り上げ、元の山道を忌部神社まで戻る。

青樹杜の立石
忌部神社まで戻り、近くに忌部神社ゆかりの遺構でもないものかとチェックすると、神社の近くの林の中に「青樹杜(あおきのもり)の立石」がある、と言う。「天日鷲命(あめのひわしのみこと)の神殿跡」とも伝えられている、とか。場所は忌部谷沿いの林の中。谷と言えば、神社に車で上りはじめてすぐ、車道が左に大きく迂回する辺りの右側に谷筋らしきものを見かけた。ということで、車で車道を下り、谷筋脇の空き地に車を停める。
忌部谷、とはいっても、幅2m弱の谷。両岸はコンクリートで護岸工事されており、とりあえず谷の西側の護岸工事のコンクリートの背の上を上流に上ってゆく。が、いくら進んでもそれらしき場所に当たらない。では、ということで、谷を飛び越え逆側に移る。衰えた体力を顧みず力任せに飛び越えたのだが、ぎりぎりセーフ。もう少しで2mほどの谷筋に落ちるところであった。
逆側に移り、目をこらして少し下ると、谷筋から少し離れた高台にそれらしき風情の場所をみつけ、そこに柵に守られた、高さ約1.5mの「立石」が祀られていた。上で掲げた『日本の建国と阿波忌部』の著者である林博章氏によると、忌部氏の鎮魂や祭事に纏わる「メンヒル」であり、忌部の遺跡を代表する貴重な文化遺産とのことである。

「玖奴師(くぬし)神社」
立石の周りを少し彷徨うと、少し奥に進んだところに小祠が祀られる場所があった。ある小祠の脇には「玖奴師(くぬし)神社」と刻まれた石碑がある。「玖奴師(くぬし)神社」は「岩戸神社(岩戸地区)」「建美神社[王子社](岩戸)」「天村雲神社(流地区)」「淤騰山神社(祗園地区)」「白山比売神社(忌部山地区)」「若宮神社(忌部山地区)」とともに、忌部神社の七摂社のひとつ。古来にはお正月15日の未明から全村あげて巡礼をするならわしがあったようではあるが、「忌部神社正積蹟考」にも、「当社は何時の世よりか、社殿も荒廃してしまい、社地もおぼろげとなり、村人でも知る人は稀で、今は路傍に石を積み、その上に僅かばかりかの小祠を建てるのみであり、路行く人は、誰も問う由もない有様で誠に恐れ多いことである」と。まさしくその通りのブッシュの中にひっそりと佇んでいた
「大国主命」を祭神とし、「山王権現(山王権現)」とも称される「玖奴師(くぬし)神社」の小祠の先にも三つの小祠があったが、社の名はわからなかった。立石様まで戻り、忌部川東岸を下ると、整備された道が道路まで続いていた。

岩戸神社

青樹杜の立石を離れ、岩戸地区にある岩戸神社に向かう。上にメモしたように、阿波忌部氏の祖である「天日鷲命」は、天照大御神が天の岩戸に隠れた際、天の岩戸開きに大きな功績を挙げた、と伝わるし、また、天日鷲命の神名も天照大御神が岩戸から出てきて世に光が戻ったとき、寿ぐ琴に鷲が止まったことに由来する、とも言われるわけで、それほどに忌部氏とのかかわりの深い「岩戸」を関する岩戸神社が如何なるものかと思った次第。
カーナビの指示に従い農道を岩戸神社に。山裾から少し離れた低地にささやかな鎮守の森に囲まれて岩戸神社があった。この社は忌部神社の上でメモした7摂社のひとつ。祭神は「天太玉命」とその子「天岩門別命」。
「天太玉命」は、天の岩戸にこもった天照大御神を外へ連れ出す方法を考えたオモイカネの手法が正しいかどうか、中臣氏(のちの藤原氏)の祖のアメノコヤネの命とともに占ったと伝わる。この忌部氏と中臣氏は交代で、天皇家の祭祀を司る役目をしていたが、天皇家の祭祀を司る役目が次第に中臣氏に移り、ために忌部氏は中央を離れ地方へ下った、との説もある。林博章氏がその著『日本の建国と阿波忌部』で主張するように、阿波忌部氏がヤマトを支え日本をつくりあげたと真逆の説ではある。真偽のほどは門外漢が評するに能わず。ともあれ、社殿にお参りし、神社の由来、旧社名などないものかとチェックするも特に何も、なし。境内には忌部神社摂社のひとつ「建美(けび)神社」も祀られる。
岩戸神社の南側には奇妙な形をした巨石が東西に並ぶ。案内には、「岩戸の甌穴」とある。説明によると、「吉野川はもと、湯立付近から川田川に合流し、山崎の山側を経て、川島城山の下へと流れていました。その頃岩戸付近は川底の緑泥岩が渦巻く流れの中の砂で削られたのが甌穴である。
ここの一番大きな石を神籠石と尊び、その上の甌穴の水は干ばつしても枯れないので霊水といい、この水を飲んで病気を治した」とあった。土御門上皇もこの地に来られたとき、この霊水で病を治したとも伝えられている。また、この神水を穢したときは風雨が起きると天日鷲宮縁起にも記されて、と。

巨石の西端にある神籠石は「麻笥岩(おごけ)」とも称され、忌部の大神である「天太玉命」が降臨し、麻を晒した御神体(岩座)と伝わる。伝説によれば、忌部族が麻を植え織物をつくるため石をえぐって石臼のような穴をつくり、これでついて糸にし、池(御神池とも麻晒池とも)で晒して岩上に干した「岩戸磐座遺跡」とも称されるようである。

種穂山
岩戸神社を離れ国道192号を次の目的地である種穂忌部神社に向かう。国道を山瀬駅の少し西に進むと、国道の南の山川町祇園地区に「淤騰山神社(おどやま)」神社とか、阿波山川駅の西の山川町村雲には「天村雲神社」など、記紀に登場する社名の神社もあるのだが、レンタカー返却の期間といった無粋な制約もあり、今回はパスして、一目散に種穂忌部神社へと。
とはういものの、種穂忌部神社の場所は、Google Mapには表示されず、あれこれチェックした結果、川田駅の南1キロほどの種穂山にある、というだけの情報。駅に行けども、案内もなく、結局近くの雑貨屋さんで昼のパンなどを調達しながら場所を尋ねると、駅前の通りが国道と合流する手前で南に曲がり、ホテルフレンドのところを左に曲がり、最初の交差を水路に沿って南に進めば種穂神社への山道へと続く、とのこと。
教えに従い山裾まで車を進める。が、そこから先は一車線の急坂で大きくカーブしている。こんな細路の旧坂を車で進む度胸もなく、結局急坂手前にあった廃屋のスペースに車を突っ込んで、そこから先は歩いて行くことにした。
急坂を上りはじめるとすぐに道は開け、結構快適な車道となってはいたのだが、種穂忌部神社は標高380mの種穂山に鎮座するとのことであるので、のんびりと歩いて上るのも、いいか、とも。
上りはじめるとぐるぐると道は曲がりくねり、結構時間がかかる。上るにつれて吉野川市山川町や吉野川、そしてその対岸の阿波市阿波町が眼下に広がってくる。「日智子王神社」へ、といった案内もあるが、どのような神さまなのだろうか、不詳である。
美しい眺めを楽しみながら先に進むと本殿までといった辺りに車止めがあり、車道はここまで。車止めの手前に木の杖がたくさん置いてあり、なんとなく手に取って進んだのだが、これが結構きつい坂道で木の杖が置いてあった理由が後になってわかった。

種穂忌部神社
結構きつい思いしながらやっと種穂忌部神社に到着。鉄筋建ての山崎忌部神社と異なり、それなりの趣はある。社殿脇の案内には「祭神は天日鷲命、天太玉命、栲機千々姫命、津咋命、長白羽命が祀られる。享保3年(1743)の「神社帳」には、種穂神社は、もと多那穂大権現と称したが、多那穂忌部神社、種穂忌部神社と改めたと記されている。これは、この神社が忌部族と深い関係があるからで、ここを忌部本宮と定めている。また。「川田村名跡史」にも、ここを本来の忌部神社としている。
昔は、川田、川田山、拝村(穴吹町)、成戸村(穴吹町)および阿波町岩津村、林村も氏子区域で崇敬者も多く、宝暦年間(1751-1763)には旧暦9月28日の例祭日には大祓の神事や神楽、相撲が始められ長い間続いた。
境内からの眺めはすばらしくでて、眼下に山川町の全景が見え遠く阿波、吉野川市をはじめ、岩津の淵から海へと連なる吉野川の流れがパノラマのように見え、遠くは淡路島方面まで望め、種穂山は歴史的事跡とともに絶景の地である」とあった。
忌部本宮か否かは3社を巡った後でメモしようとは思うのだが、説明にあるように眼下の眺めは本当に素晴らしい。中央地溝帯を流れてきた吉野川はこの種穂山の辺りで、種穂山から北に伸びた斜面にぶつかり岩津の淵をつくる。この岩津の淵の辺りは吉野川の最狭窄部となっており、この狭窄部で絞られた吉野川はこの岩津の地を扇の要とし、その下流部は扇の形におおきく広がる。数段に分かれた河岸段丘、吉野川に注ぐ支流が造った扇状地と雄大な景観を呈する。

○物知社
神社の周囲を彷徨う。案内にあった相撲の土俵跡なのだろうか、といった広場近くに「物知社」という祠があった。思兼命、手力雄命、高皇産霊命が祀られる。この神様は「天の岩戸神話」で、天の岩戸を開けた神様、とのこと。間接的ではあるが、忌部氏とのつながりを感じる。

○のぞき岩
神社脇から案内に従い少し下るとのぞき岩がある。十二、十一、と刻まれた「丁石」が続き、「十丁」のところに「のぞき岩」。高所恐怖症の身ではあるが、この岩場からの眺めは、誠に素晴らしい。また、神話の世界に詳しい人には、この「のぞき岩」から、別の風景が見えるようである。曰く、延喜式内社の「倭大国敷神社」、これはヤマトの産土神と言った意味だろう。また、全国で唯一の「土の神」の「波爾移麻比禰(ハニヤマヒメ)神社」、同じく全国で唯一の「水の神」の「 弥都波能賣神社(ミツハノメ)神社」が眼下に広がる。逆に言えば、これら神話を暗示するような神社からはこの種穂山が特別な存在に見えたのかもしれない。
こんな伝説がある:「天日鷲命は、麻と神の原料である梶と五穀の種を携えて、どこに蒔くべきかと、天の鳥船に乗って候補地を探していたら、種穂山が見つかった。天日鷲命の本名はアメノヒワシカケル矢の命と称されるように、天日鷲命は弓矢の名手で、占いの矢を高越山の上から(または高天原から)放ったら種穂山に刺さった。
種穂山の北、北に吉野川を望む小高い丘である鼓岳に天の鳥船をとめたので、そこの地を「舟戸」という。天日鷲命は、麻と神の原料である梶と五穀の種を種穂山から全国の民に分け与え、麻、梶、五穀を栽培させ、そこから種を再びとり、選りすぐりの優秀な種を種穂山に献上させた」と伝えられる。種穂山の周辺では、麻の生産が盛んで、麻掛・麻延・麻畑などの産業地名が残っているし、種穂山の土は徳島名産の藍の栽培に適した土壌でもある、と言う。

貞光
種穂山を下り、貞光の忌部神社に向かう。カーナビにも表示されており、安心。国道192号を東に美馬市穴吹を越え、貞光で国道428号に乗り換え南に向かう。貞光の町は隣家との屋根を仕切る防火壁である「うだつ」で知られるので、どんな町並みかと県道を離れ貞道市街を走る。江戸の頃、葉タバコの産地で知られ阿波藩屈指の商業の町、また藩の山間部支配のための貞光代官所が置かれた貞光の町でちょっと車を停め、「うだつ」を眺め、ヒット&ランで旧庄屋屋敷などを訪れ先に進む。因みに「うだつがあがらない」とは、「うだつ」を飾るほどの財力を持てない=ぱっとしない、ということである。

東福寺
町の北端部では一車線となっている貞光町を、逆からの車の来ないことを祈りながら県道に合流。そこから貞光川に沿って6キロほど南下し、端山(はばやま)の辺りで東福寺を目安に県道を離れ右に貞光折れ貞光川を渡る。ほどなく東福寺。なんとなく由緒ありげな感があり、神社への道を離れちょっと寄り道。急坂を上ると立派な山門が迎えてくれた。
仁王さまを見やりながら境内に。本堂は東大寺を模して造られた裳階(もこし)造り、と言う。本堂右手は庫裏(住宅)と一緒になっているため素人目には、今一つ「国登録有形文化財」」の匠の意匠はわからないが、堂々たる本堂であることは感じ取れた。
このお寺様は真言宗御室派総本山仁和寺の末。新四国曼荼羅霊場70番札所。新四国曼荼羅霊場とは平成元年(1989)に四国の寺と神社が集まり、神仏の力を集めて曼荼羅の世界を作り上げるべく始められたものである。
本尊は不動明王。寺の縁起によると、神亀元(724)年 忌部大祭主玉渕宿祢が忌部神社の法楽として、法福寺を建立、さらに、東寺、西寺を建て、後東寺を東福寺と改め、忌部別当とした。また、弘法大師が巡錫の時、南山に宝剣が下るのを見て、不動明王を刻み本尊として、弘仁3(812)年に開創したとも伝う。 天正10年(1582)長曽我部元親氏の兵火に罹り、慶長2(1597)年に中興。文化2年(1805)年焼失、同年吉良より現地に移転、天保4(1833)年再建し,現在に至る」、と。
法楽って?チェックすると、「神仏を喜ばせる行為,すなわち読経(どきよう),奏楽,献歌などを法楽と呼ぶようになった」とあった。また、地図を見ると更に山奥に進んだところに西福寺がみえるが、それが西寺のことであろう、か?

吉良堂
東福寺を離れ1・6キロほど山道を上る。カーナビに従って忌部神社として連れて行かれたところには、誠に風情のあるお堂があった。大きな屋根に吹き抜けの四足の堂宇が印象的。このお堂は「端四国88箇所霊場」の30番札所。「端四国88箇所」とはつるぎ町に点在するミニ四国霊場。お大師さんなど3像が祀られるお堂の前には古い立石が建つ。古代の祭祀遺跡とも言われる。風格のあるお堂であった。





貞光忌部神社
さて、貞光忌部は?近くで農作業をされている方に道順を案内頂き、吉良堂より少し上ったあたりにある貞光忌部神社に到着。駐車場脇の斜面には「吉良のエドヒガン」と呼ばれる桜が立っていた。樹齢約430年、幹回り4.5m。樹冠はおおよそ20mほどもある。見事な大樹である。









神社にお参り。鳥居は木で作られている。その扁額には「忌部奥社」と書かれていた。創建は不明。祭神は当然のこととして天日鷲命。社殿、本殿、境内も清潔に整備されており、気持ちがいい。社殿・本殿も新しく造り直されている。明治の正蹟論争で、一時正蹟と認定されたこの地の社が、明治18年(1995)徳島市内の二軒町に社地が移され、その摂社となったわけだが、その徳島市への遷宮百年を記念し、旧跡より200mの現地に遷宮し新築した、とのことである。






神社のある辺りは標高350mほどあり、神社から貞光川が切り開いた谷間の眺めもなかなか、いい。神社のすぐ下はゆるやかな傾斜地で広い畑地も多く、その景観も美しい。この台地全体を五所平(御所平)と呼ぶようで、神社の名を五所神社とか御所神社などとも称されるようである。



■江戸の頃の正蹟騒動
さて、忌部氏ゆかりの3社を巡った。で、イントロで明治の頃、忌部神社の正蹟を巡る論争があり、そして、この忌部の正蹟を巡る論争は明治に急に起きたわけでもなく、江戸の頃から、数百年に及ぶ正蹟争奪戦といった歴史があり、その正蹟論争は下手なドラマより格段にドラマティックな展開を見せているとメモした。「ぐーたら気延日記(重箱の隅)」に詳しく説明されてあるその展開はあまりに面白いので、そのサイトの記事を基に、少し詳しく以下まとめてみる:


ことの発端は江戸の頃、享保の末頃(1735)のことである。山崎忌部神社の神主・村雲勝太夫(社常)は阿波藩に山崎忌部神社が正蹟であることを認めてもらうよう動き始める。山崎忌部神社は当時でも式内社として知られていたようではあるが、長曽我部による破壊などにより由緒の所在が不明となったため、と言う。
同じ頃、当時の川田村多那保神社神主・早雲民部も多那保神社が式内社忌部神社であると主張し、この争いは6年にも及んだとのこと。阿波潘は、双方の訴えを放置する。その理由は、藩が正式に正蹟と認めれば社地を与えなければならず、そうすれば年貢が減るため、とのことである。
多那保神社の神主の早雲民部は藩の家老とのコネクションも強く、そのためもあり、状況不利とみた山崎忌部神社の神主村雲勝太夫(社常)は、全国の神社を管轄・支配していた吉田家に直接談判に及ぶべく、密かに京に上る。が、その動きを察知した多那保神社の神主早雲民部は村雲勝太夫の企てを阻止すべく、山崎忌部神社の神主の「密かなる」上京を関所破りと藩に上訴。ために山崎忌部神社の神主は帰国を命ぜられた上、神職を剥奪され海部郡に追放処分となる。

山崎村人は神主村・雲勝太夫の子に後を継がそうと上申するも、潘は幼い(当時6歳)が故、ということで訴えを無視し、15歳になるまで、多那保神社神主早雲民部に山崎忌部神社摂社の神職を命じる。
その8年後のこと、寛延2年(1749)、海部の配所を抜け出し子供に会いに当地を訪れた村雲勝太夫は、山崎忌部神社に立ち寄ったところを早雲一派に見つけられ、暴行を受けそれがもとで亡くなってしまう。その翌年、村雲勝太夫の子竹次郎が15歳となり、約束に従い村人は神職相続を願い出るも潘は無視。

その頃、この山崎と種穂の論争の他、また新たな火種が生まれる。場所は貞光村。その地の忌部神社の神主村雲左近が、神宝をもとに正蹟は貞光の忌部神社であると主張しはじめる。藩はこれに対して、密かに信仰してもよいが正式には公認しないと裁定するも、貞光忌部神社は本宮をつくり、鳥居に空海の額を掲げるなどの積極展開。近郷はもとより遠国までその評判が広まったため、藩は神主と子を逮捕・入獄の上阿淡両国を父子共に追放。忌部正統の証拠となるべき品々を没収する。

山崎忌部神社の竹次郎。成人しても潘より山崎忌部神社の神主相続の沙汰はなし。藩の許しを得て京に上ることになる。そのためこの地域で神事を行えるのは多那保神社神・早雲民部だけとなり、当初は村人の誰一人受け入れようとしなかった早雲民部ではあるが、次第に村人も早雲民部受け入れざるを得なくなる。
で、早雲民部は、元の川田村多那保「権現」の社を京都白川家の許しを得て「種穂忌部神社」と改め、自らも早雲より中川と氏を改めた。 同時に、山崎忌部神社に残っていた神鏡を種穂忌部神社に持ち帰り、仮にと置いてあった御霊代をも種穂忌部神社の神殿に納め、山崎忌部神社に火をつけ焼いてしまうという暴挙に出る。
山崎村の氏子たちは怒り早雲民部改め中川民部の神職剥奪と竹次郎(山崎忌部神社の神主・村雲勝太夫の子)の復職を願い出るが、藩は無視。中川民部が神事を行うたびに、奇妙な事が起こるため、神の祟りと村民氏子一同藩に訴えるも、藩の沙汰は無し。村人の再度の追願に、藩は、中川民部には身を慎むべし、との訓告を与えるも、中川民部の神主の職はそのままであったため村民は納得するはずもなし。神職が中川民部から息子の中川式部に変わるも、怪事は度々起こり、山崎村民は毎年出訴を続けるが、藩は取り合わず、結局村民は寛政7年(1795)箱訴(藩主への直訴)に及ぶ。その結果、箱訴を行った惣代六名が投獄され、獄中で死者も出ることになる。
寛政13 年(1801)になると、郡奉行が惣代と面談し、中川式部を神主と認めれば山崎村忌部神社を造営し朝廷へも奏上する旨の調停案を出す。惣代らは当然納得するわけもなかったが、その後、郡奉行より中川式部廃職の申し付けがあり、忌部公事は一応の解決を見る。
その後、文政9年(1826)二宮佐渡が山崎村の神主として迎えられた。二宮佐渡は竹次郎(後に麻生織之進む)の子の養子となっていた人物であり、村雲勝太夫と竹次郎、山崎村民の願いは三代目という形で叶えられたことになる。

■明治の正蹟騒動
で、明治の正蹟騒動。そのきっかけは、明治4年(1815)、明治政府が全国の神社の社格制度を定めることを決定したため。阿波では式内社である忌部神社 が、神祇官所管の国幣中社とされたわけであるが、上で江戸期の顛末をメモしたとおり、はっきりと式内忌部神社が確定していない。その根本は中世以降、忌部氏の存在がそれほど顕著ではなかった、とともに、土佐の長宗我部氏の四国制覇の戦いの兵火などにより神社などが破壊つくされ、所在が不明となっていたためでもあろう。それでも政府の方針もあり、忌部神社の比定が急務となり、その「座」を巡って、再び国を巻き込んでの大騒動となる。
当初、候補としては川田種穂神社・宮島村(川島町)八幡宮・西麻植村中内明神・上浦村斎明神・牛島村大宮等が挙げられていたが、阿波藩より国の官吏となっていた小杉榲邨(こすぎすぎむら)は明治7年(1874)、その建言書において、正当性を立証する古文書などを根拠に山崎忌部神社が妥当であるとした。
これに対し貞光の忌部神社が異議を唱える。明治10年(1877)貞光村は内務大臣に願書を提出し、貞光は旧麻植郡の一部であり、そこに忌部社を祭祀していたが、長曽我部の兵乱に焼かれ、また江戸の頃の騒動でメモしたように、藩により神宝などを破棄され、また明治の調査からは外されていた、として再調査を願い出た。この動きには種穂忌部神社から讃岐の田村神社の神職に異動した田村氏があれこれ動いていた、とか。
明治10年(1877)西端山村民代表は上京して内務省に陳情したが、係官小杉榲邨は了承することはなかったが、明治13年(1880)、状況は大きく動く。貞光村代表同席のもと、小杉榲邨は再度東京裁判所に呼び出され、判事より「木屋平村三木貞太郎が自首書を県に提出して、当裁判所に回送されている」旨、言い渡される。木屋平村三木貞太郎は山崎忌部神社の正当性の最大の根拠であった古文書の所有者であり、その古文書が贋造であり、そして、忌部正蹟は貞光村であると先祖から言い伝えられている、と自首したということであった。 同年再調査。高知県に対し麻植郡・美馬郡境界につき照会を行い、明治12年(1970)、高知県の答申をもとに内務省地理課は、忌部郷は、美馬郡半田村より東の穴吹村に至る間を比定し、山崎村鎮座の忌部神社を否定した。
明治13年(1880)四月内務省の担当官が徳島県へ調査に来て、調査の結果、美馬郡西端山吉良名が地形上大社の古跡と思われると発表した。明治14年(1881)忌部神社は貞光村西端山吉良名の五所平神社に決定され、御霊代は式部寮から五所に鎮座された。
しかしこの動きに対し、山崎村が異議を申し立て、数度にわたる追願を繰り返す。こうして、比定地論争が白熱し上申書の提出合戦の呈をなしてきたことから、政府も忌部神社の正蹟争いを避けるため、明治18年(1885)11月25日太政大臣三条実美名で徳島市富田浦(現、徳島市二軒屋町二丁目)に社地を選定し、明治25年(1892)遷座鎮祭し、社地論争に終止符を打った。

忌部神社の正蹟がどこかはわからない。忌部氏が阿波から中央へと向かったのが、中央から地方へと下ったのかもわからない。わからないが、今回の散歩で忌部神社以外にも神話時代を想起させるような古き社が多くある。また忌部古墳群だけでなく、前方後円墳の草分けでと称される鳴門の萩原古墳群にある「ホノケ山古墳」など古墳も多い(『古代日本 謎の四世紀;上垣外憲一(学生社)』)。 これから田舎に定期的にすることが多くなるが、今回の散歩で愛媛だけでなく、徳島にも興味・関心を抱くフックがかかった。

水曜日, 4月 17, 2013

草加散歩Ⅲ;草加をあれこれ彷徨い辰井川を毛長川へと下り毛長神社へ


綾瀬川も歩いた、古綾瀬川も辿った、草加宿も訪ねた。その他にどこか見所はと、地図を眺めていると、草加市の南西部、毛長川脇に毛長神社が目にとまった。いつだったか、足立区花畑の大鷲神社や毛長川に沿った伊興遺跡跡を彷徨い舎人へと向かったとき、毛長神社にまつわる伝説に出合った。美しき娘の入水自殺の伝説とその娘の髪を祀る神社に惹かれたのだが、如何せん時間がなく神社を訪れることができなかった。先回の散歩でも草加宿から伝右川を毛長川との合流点まで下ったのだが、毛長神社へと辿る気力は失せていた。
草加散歩の第三回は毛長川を訪れる。ルートは草加宿を離れ草加市域の南の谷塚辺りからはじめ、毛長川の北の瀬崎地区を彷徨う。その後、西へと折り返し辰井川を毛長川へと下り毛長神社へと進むことに。谷塚にしても、瀬崎にしても、如何にも「湿地」をイメージする地名である。もとより現在では湿地の痕跡など残るとも思えないのだが、往昔低湿地に覆われていたとされる草加の原風景の名残などないものかと、行き当たりばったりの散歩を楽しむことにした。


本日のルート;東武伊勢佐木線・谷塚駅>宝持院>大正実科学校跡>東武東上線と交差>浅間神社>善福寺>火あぶり地蔵>東武東上線と交差>辰井川>うさぎ田稲荷>山王社>大日堂>柳島氷川神社>辰井川>常福寺>細井家>毛長川と合流>毛長神社>泉蔵院>むじな大尽>いぼ地蔵>徳性寺>新里氷川神社>天王神社>西願寺>毛長川>見沼代用水親水公園>舎人諏訪神社>日暮里・舎人ライナー見沼代用水公園駅

東武伊勢佐木線・谷塚駅
」草加駅のひとつ手前の谷塚駅で下車。大正14年(1925)に開設。開設当時、付近は一面の湿地帯であったようであるが、昭和37年(1962)、地下鉄日比谷線の乗り入れが始まると、都心に30分という地の利故に開発が進み、現在駅周辺に「谷塚」の示す湿地の面影はなにも、ない。

谷塚の由来は、谷=湿地+塚、より。湿地に塚がある一帯、ということだろう。実際、毛長川に沿った谷塚から瀬崎にかけては往昔多くの古墳があったようで、江戸時代後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』や絵地図の『日光道中分間絵図』には古墳とおぼしき塚が記される。「旧跡 加賀屋敷 村の南の方畑中にあり。何人の住せしと云ことを知らず、ここに古塚あり、先年此塚下より古刀勾玉及白骨など掘出せしと云(『新編武蔵風土記稿』;瀬崎村(現草加市瀬崎町))、「小名 弁慶塚 此所の田間にかく唱ふる小塚あり。故に是を土地の小名とす(大日本地誌大系『新編武蔵風土記稿』;遊馬村(現草加市遊馬町)」、「小名 富貴塚 此所に古塚あり、来由詳ならず、塚上に稲荷を祀れり(『新編武蔵風土記稿;上谷塚村(現草加市谷塚上町)』、などとある。
足立区竹の塚の伊興古墳遺跡と毛長川を隔てた北の一帯は谷塚古墳群と称されるが、江戸末期の頃までにはすでに塚は切り崩されていたようで、現在発掘調査で古墳の存在が確認されたのは瀬崎にある蜻蛉遺跡だけであり、古墳群とは言うものの、ほとんどその名残をとどめない、とのことである。
先回の散歩でもメモしたように、毛長川は、古墳時代の入間川の流路跡、と言う。そして古墳時代の入間川は利根川水系の主流で、熊谷>東松山>川越>大宮>浦和>川口>幡ヶ谷、と下り、現在の毛長川に沿って流れ足立区の千住あたりで東京湾に注いでいた、とのことである。葛飾・柴又散歩のときにも、東京下町低地の二大古墳群は柴又あたりと毛長川流域とメモしたが、千住あたりが当時の海岸線である、とすれば、この毛長川流域は東京湾から関東内陸部への「玄関口」。交通の要衝に有力者が現れ、結果古墳ができても、なんら違和感は、ない。

宝持院
駅を下りてどこか散歩の手掛かりを探す。地図を見ると、西口を少し南西に200mほど下ったところに宝持院というお寺さまがある。文久4年(1864)に建てられた山門を、頭上の彫刻を見やりながら境内に入ると六地蔵。その先、参道の左右にお堂。右手が閻魔堂。左手が護摩(不動)堂。本堂にお詣り。真言宗のこのお寺様の創建葉不詳だが、江戸初期に建てられた、とのこと。手水舎の横に「谷塚小学校発祥の地」の案内。明治6年(1873)、谷塚小学校の前身である「下谷塚学校」が開校した。

大正実科学校跡
宝持院の前、現在は東武ストアの駐車場となっている辺りに、その昔、大正実科学校があった、とか。創立者は関藤十郎。各地で教鞭を執るも、大正6年(1917)、故郷である谷塚に戻り、村人の実務能力を養成する学校を設立した。修業年限は中学部・女学部が3年、専修化1年であった。
思うに、この大正実科学校は農家経営教育をおこなったのではなかろうか。どこかの学校での関藤十郎の祝辞に、「小生は貴校を辞して岐阜県の女子教育に従事し、在職満十年を同一学校に送り、郷里の事情と自己の素願とにより、断然退隠、大正四年故山に帰臥し、自家経営の傍ら私学を創設し」とある。また、あの「有名」なりし思想家・陽明学者である安岡正篤の日本農士学校の見学先に「北足立郡谷塚村 関藤十郎氏農家経営」、「大正護国農場設立稟吉 昭和2年 大正護国農場長 埼玉県北足立郡谷塚村大字下谷塚 正七位 関藤十郎」などとある。関藤十郎は自ら農場を経営しながら、農業経営のための学校を開いたのではなかろう、か。
この大正実科学校は昭和2年(1927)、財団法人松寿実業学校に併合される。この松寿実業学校とは大正7年(1918)、現在の谷塚上町に開校した私立中等学校である。辰井川が毛長川に合流する手前、氷川橋の辺りに跡地がある、と言う。
創立者は細井為五郎。私塾を開いていた細井は、大正6年(1917)に開校した男女別学の大正実科学校に刺激を受けたのか、切敷善吉氏とともに男子中等教育機関である松寿学館を設立。修業年数は普通科にあたる正科が3年、夜間科にあたる別科が8か月であり、定員は各50人であった。その後、公立の実業補習学校などの開設に影響を受け入学者が減少し、昭和2年(1927)には財団法人松寿実業学校と改称して大正実科学校を併合し、昭和6年(1931)年の廃止まで、近隣の中等教育を担った、と。

瀬崎
大正実科学校跡から、次はどちらへと考える。西へ進み草加バイパスを越えればすぐに辰井川につくのだが、本日はかつて湿地帯であった草加南部を辿るのも目的のひとつ。谷塚駅の東の「瀬崎」という、如何にも「水」のイメージの強い地区へと折り返すことに。因みに瀬崎の由来は、「瀬」は「流れ」、「崎」は「突き出た地形」。微高地が低湿地帯に西から東へと鏃のように突き出ていたから、とか。実際、瀬崎の境界を見るに、現在もその形状を残す。

富士浅間神社東武伊勢佐木線を越え県道49号・旧日光街道の瀬崎浅間神社南交差点を北に折れ、谷塚駅入口交差点手前に富士浅間神社。社は道より少し小高いことろに建つ。古墳の跡地ではないか、との説もある。創建年次は不詳。『新編武蔵風土記稿』には「浅間社、村の産神とす。善福寺持」とある。神仏習合の頃、この神社の別当が善福寺であった、ということである。寺伝によると、「寛永4年(1627)の開基にして、他の場所に祀られていたのを、明暦年間(1655~1657)に、現在地に移建した」と伝えられる。本殿は天保13年(1842)再建とのこと。

浅間神社とは富士山を霊山として祀る山岳信仰の社。江戸時代、冨士講が盛んになった頃、此の地の布晒業者と地元の農民の協力で建てられた、とか。富士講とは霊峰富士への信仰のための講社。 講(こう)とは、同一の信仰を持つ人々による相互扶助組織、といったもの。御師のガイドで富士への参拝の旅にでかける。境内にはいくつかの社が祀られるが、それは明治の末に、周辺の九つの社を合祀したもの。

上で、この社は布晒業者の協力によって建てられたとメモした。この草加は「ゆかた」で知られる。県の伝統的手工芸品にも指定され、「東京本染ゆかた」のブランド名でも販売されている。草加のゆかたは江戸時代中期、大火で焼け出されてこの地に移り住んだ染色業者が草加近郊で紺屋を営み始めたときに遡る。江戸に近く、舟運に恵まれかつ豊富な水が手に入るこの地に、ゆかた生産に関わる晒業、形付業、白張業、運送業者が集まり栄えた、とのことである。

手洗石の高低測几号
鳥居の右手の境内に手水舎。慶応元年(1865)の銘の入った手水舎の石には、高低測几号(水準点)が刻まれる。案内によれば、「内務省地理寮が明治9年(1876)8月から一年間、イギリスから招聘した測量技師の指導のもと、東京塩釜間の水準測量を実施したとき、一の鳥居際(現在、瀬崎町の東日本銀行草加支店近く)の境内末社、下浅間神社の脇に置かれていた手洗石に、この記号が刻まれました。
当時、測量の水準点を新たに設置することはせず、主に既存の石造物を利用していました。市域でも二箇所が確認されています。この水準点が刻まれた時の標高は、三・九五三メートルです。測量の基準となったのは霊巌島(現在の東京都中央区新川)で、そこの平均潮位を零メートルとしました。
その後、明治17年(1884)に、測量部門はドイツ仕込みの陸軍省参謀本部測量局に吸収され、内務省の測量結果は使われることはありませんでした。
以後、手洗石も明治40年代(1907~1912)と昭和7年(1932)に移動し、記号にも剥落が見られますが、この几号は、測量史上の貴重な資料であるといえます(草加市教育委員会)」とあった。そういえば、先回散歩した草加宿の北端にあった神明社にも同様の高低測几号があった。

富士塚
本殿裏手に広場があるが、ここはもと「ひょうたん池」があったところを埋め立てた跡。今となっては低湿地の面影はなにも、ない。広場の先に浅間神社ならではの富士塚がある。
散歩の折々で富士塚に出会う。葛飾(南水元)の富士神社にある「飯塚の富士塚」や、埼玉・川口にある木曾呂の富士塚など、結構規模が大きかった。富士講は江戸時代に急に拡大した。「江戸は広くて八百八町 江戸は多くて八百八講」とか、「江戸にゃ 旗本八万騎 江戸にゃ 講中八万人」といった言葉もあるようだ。
富士塚は富士に似せた塚をつくり、富士に見なしてお参りをする。富士信仰のはじまりは江戸の初期、長谷川角行による。その60年後、享保年間(17世紀全般)になって富士講は、角行の後継者ふたりによって発展する。ひとりは直系・村上光清。組織を強化し浅間神社新築などをおこなう。もうひとりは直系・旺心(がんしん)の弟子である食行身禄。食行身禄は村上光清と異なり孤高の修行を続け、富士に入定(即身成仏)。この入定が契機となり富士講が飛躍的に発展することになる。
食行身禄の入定の3年後、弟子の高田藤四郎は江戸に「身禄同行」という講社をつくる。これが富士講のはじめ。安永8年(1779)には富士塚を発願し高田富士(新宿区西早稲田の水稲荷神社境内)を完成。これが身禄富士塚のはじまり、と伝わる。その後も講は拡大し、文化・文政の頃には「江戸八百八講」と呼ばれるほどの繁栄を迎える。食行身禄の話は『富士に死す:新田次郎著』に詳しい。

善福寺
富士浅間神社から谷塚駅からの道筋を挟んだ北側に善福寺。創建年代は不詳。明治の神仏分離令により神と仏が分離されるまでは、この真言宗のお寺さまは富士浅間神社の別当寺であった。『新編武蔵風土記』には「本尊弥陀は運慶の作、長一尺八寸許り」とある。
現在はお寺と神社は別物である。が、明治の神仏分離令までは寺と神社は一体であった、神仏混淆とも神仏習合とも言われる。それは大いに仏教界の勢力拡大のマーケティング戦略、か。膨大な教義をもつが外来のものであり今ひとつ民衆へのリーチに乏しい仏教界。日本古来の宗教であり古くから民衆に溶け込んでいるが教義をもたない神道。共同でのブランドマーケティングを行えば、どちらも繁栄する、とでも言ったのではないだろう、か。
で、その接点にあるのが権現さま、であろう。権現って、「仮」の姿で現れる、ということ。神仏混淆の思想のひとつに本地垂迹説というものがあるが、日本の八百万の神は、仏が仮の姿で現れた権現さまである、とする。因みに、「神社」って名称も、明治以降のもの。それ以前は、社とか祠、などと呼ばれていた。

火あぶり地蔵

旧日光街道を北に進み瀬崎町と吉町との境・吉町5丁目交差点脇に、「火あぶり地蔵」と呼ばれる地蔵堂がある。案内によれば、「昔、瀬崎の大尽の家に千住の孝行娘が奉公していた。母親の大病を聞いて帰宅を願い出たが許されず、悩んだ娘は奉公先が火事になれば暇がもらえると思って火をつけ、捕まって火あぶりの刑に処せられた。村人は娘を供養するため地蔵堂を建立した。『武蔵国郡村誌』によれば、明治初期には敷地面積が36坪程度あったという。お堂は瓦葺き・宝形造りの形式で、1956(昭和31)年に県道松戸草加線の拡張により改築された。堂内には2体の石造地蔵立像があり、1体には1776(安永5)年の年銘がある。毎月24日の縁日には堂が開帳され、参拝者がお参りにくる。かつては近くの河内堀に火あぶり橋という橋もあった」とある。また、この地は昔の処刑場跡とも伝えられる。

先回の散歩でもメモしたが、この地、吉原の地名は昔の地名である吉笹原の「吉」から採ってつくられた。吉笹原は江戸時代初期は吉篠原村と呼ばれ、その後、吉笹原村と改められた。1もともと芦や笹の繁る「芦篠原」と呼ばれていたが、「芦」という読みは「あし(悪)」につながるということで、「芦」をめでたい「よし(吉)」に変えたもの、とか。

河内掘
吉町5丁目交差点の西に用水路が開く。これが河内掘であろう。あれこれチェックするも、正確なことはわからないが、吉町5丁目交差点を東西に走る道路(交差点から東は県道5号、西は東武伊勢佐木線から西は県道104号とある)に沿って、西は新里町の毛長川から、東は八潮市の柳之宮橋辺りの綾瀬川まで続いているようである。 辰井川用水路は東武伊勢佐木線の手前で暗渠となる。県道104号・川口草加線に沿って西に進み国道4号・草加バイパスを越えると辰井川にあたる。川に架かる辰井橋の東西には排水口が見えるが、それは辰井川で分断された河内掘ではあろう、か。




で、この辰井川であるが、この川は人工の川。洪水被害軽減のため昭和56年(1981)から6年かけて開削された。水路のもとになったのは「辰井掘」。この流路は川口市から草加の苗塚町に入り、西町を経て谷塚町で河内掘に合流していた。幅は1.8mほどの用水であった、とか。辰井川は苗塚町から東へと西町方面に進む流路を南に変え、柳島町、谷塚上町、谷塚仲町を下り毛長川に注ぐ。

兎田稲荷神社
辰井橋で、次はどちらへ、と考える。このまま辰井川を下るのも少々芸がない。地図をチェックすると、北東に500mほどのところに兎田稲荷神社がある。名前に惹かれて訪れることに。
辰井川を北に進むと、水路は草加南高校敷地で暗渠となる。高校の敷地に沿ってクランク状に道を進み、宅地開発された住宅街を成り行きで進むと畑の残る住宅街の一角に兎田稲荷神社があった。鳥居をくぐりお詣り。この社は谷塚古墳群のひとつ、とも言われるが、円墳の面影を残すようでもなく、周辺の宅地開発の折、なにか遺物が発掘されたわけでもないようではある。
で、気になっていた「兎田」の名前の由来であるが、周辺に野兎が居たとの説と、此の地が旧谷塚村の飛び地であったため、との説があるようだ。飛び地>兎が跳ねる、ということ、か。少々想像力過多とも思うが、よくわからない。

柳島治水緑地兎田稲荷を離れ、成り行きで辰井川筋へと戻る。橋の北に調整地らしき公園。少し北に進むと、川の東側に辰井川の洪水調整機能のために造られた柳島治水緑地があった。西半分が調整池、東半分が緑地(グランド)となっているようだ。

山王社
柳島治水緑地を離れ、次はどこへと考える。『埼玉ふるさと散歩 草加市;中島清治(さきたま出版会)』に県道103号沿いに三王社がある、とあった。川筋から少し東に離れ県道103号を少し北に進み、草加スカイハイツと呼ばれるマンション(草加市柳島町525-1)手前の角にささやかな山王社の祠があった。雨屋の中には明暦2年(1656)の庚申塔と寛文4年(1664)の供養塔が安置されている、とか。

此の辺りは柳島地区。柳島の由来は、『草加市史地誌材料編(明治10年代の地誌調べ)』には、「昔、泥沼ノ地ニシテ、老柳数千樹岡陸茂生シ遠ク此レヲ望ム所々蒼々トシテ柳樹ノ一島ノ如ク然ルニ何年ノ頃ニカ人民開墾シテ村落ヲ為ス故ニ村名ヲ柳島ト名付ケシト云フ」とある。







大日堂
県道103号(吉場・安行・東京線)を南に下り中柳島バス停脇に享保18年(1733)の青面金剛、天保12年(1841)の出羽三山権現など3基の石塔。その奥に享保6年(1721)の六体の地蔵と文政10年(1827)の馬頭観音が並ぶ大日堂があった。大日堂とは言うものの、雨露をしのぐ屋根があるだけではある。






柳島氷川神社

大日道から少し南に下り、県道103号を少し東に入ったところにある柳島氷川神社に立ち寄る。柳島の由来に「昔、泥沼ノ地ニシテ」とあったように、道筋に水路の暗渠が目に付く。成り行きで進み、宅地に囲まれた耕地脇の如何にも暗渠跡らしき道筋の先に柳島氷川神社があった。境内で地元の子どもが遊ぶ、ささやかな社ではあった。『風土記稿』に「氷川社、村内の鎮守とす。村持ち」とある。本殿の棟札に宝永4年(1707)造立とあるので、創立はこの時期とされる。

■辰井川を下る

辰井橋まで戻り、辰井川に沿って下る。橋の上に花壇が置かれがちょっとした公園の風情がある栄橋を越えると谷塚治水緑地。谷塚治水緑地は先ほどの柳島治水緑地と同じく、辰井川の洪水調整機能のために造られたものである。その先にはレンガと花壇を組み合わせた大沼橋。欄干の意匠に工夫をこらす丸野橋。高欄にひのきを使った蜻蛉橋。人造石を欄干の上に敷いた仲町新橋。そして 擬宝珠と朱塗りの高欄の氷川橋と続く。人工的に開削された辰井川に架かる橋は、それぞれその設置段階から意匠が施されることが計画されていたようである。

氷川神社・天満宮
氷川橋の西詰めにささやかな社。氷川神社・天満宮とあった。

常福寺
氷川神社の南にお寺様。創立は天正7年(1575)と伝わる。入口右手に青面金剛、参道の突き当たりに六地蔵。境内にはそのほか地蔵堂や鐘楼堂が並ぶ。市内唯一の曹洞宗のお寺さまである。

細井家の屋敷林
常福寺の南に鬱蒼とした緑。細井家の屋敷林とのころ。屋敷林を成り行きで辰井川筋に戻る。川沿に耕地が残るが、このあたりはかつて私立松寿実業学校があったところ。
大正実科学校のところでメモを繰り返す;松寿実業学校は大正7年(1918)、現在の谷塚上町に開校した私立中等学校。創立者は細井為五郎。私塾を開いていた細井は、大正6年(1917)に開校した男女別学の大正実科学校に刺激を受けたのか、切敷善吉氏とともに男子中等教育機関である松寿学館を設立。修業年数は普通科にあたる正科が3年、夜間科にあたる別科が8か月であり、定員は各50人であった。
その後、公立の実業補習学校などの開設に影響を受け入学者が減少し、昭和2年(1927)には財団法人松寿実業学校と改称して大正実科学校を併合し、昭和6年(1931)年の廃止まで、近隣の中等教育を担った。

辰井川排水機場

張り出したバルコニーと照明灯の上町境橋、松寿実業学校から名付けられただろう松寿橋を越えると、辰井川排水機場、そして辰井川が毛長川に注ぐ水門が見える。この辰井川を含め草加を流れる河川は勾配が緩やかであり、ために洪水の際にも流下能力が低く、特に河川が合流する地点では互いの川の水位差によって流下能力は一層悪くなる。ために、合流地点に水を強制的に排水するポンプ場・排水機場を設置し、洪水被害を防ぐわけであろう。
草加にはこの辰井川排水機場(平成13年;2001年完成との記録がどこかにあった、よう)だけでなく、伝右川の神明排水機場(昭和58年;1983年完成)、古綾瀬川の古綾瀬排水機場(平成17年;2005年完成)、綾瀬川放水路(平成8年;1996年完成)の南北水門と八潮排水機場(八潮市)などの治水対策施設があるが、きっかけは昭和54年(1979)の台風20号による浸水被害。その被害をもとに、「激特事業=河川激甚災害対策特別緊急事業」が施行され平成7年(1995)まで河川の大規模改修工事がなされた、とか。

毛長川
あれこれと草加の南部を彷徨い、やっと毛長川に。毛長川は埼玉県川口市東部(安行慈林辺り)に源流点をもち、市内を南へ下り、草加市と足立区の境を東流し、大鷲神社近くの花畑で綾瀬川に合流する。
毛長川を訪れたのはこれで何度目だろう。はじめは、花畑の大鷲神社を訪れたとき。綾瀬川・伝右川・毛長川の合流点から毛長川を西に進んだ。その時は毛長川南岸にある伊興古墳遺跡、そして毛長川の一筋南を下る見沼代用水の親水公園に惹かれ、途中から毛長川を離れてしまい、毛長川の名前のと由来ともなった毛長=長い髪にまつわる伝説の残る毛長神社を訪れることができなかった。また、先日も伝右川を下り、綾瀬川・毛長川との合流点から大鷲神社まで下ったのだが、このときも毛長神社を訪れる気力・体力は失せていた。今回の散歩の目的のひとつは毛長神社を訪れること。毛長川の北岸を進み新里地区の毛長神社へと向かう。
この毛長川は、古墳時代の入間川の流路跡、そして古墳時代の入間川は利根川水系の主流で、熊谷>東松山>川越>大宮>浦和>川口>幡ヶ谷、と下り、現在の毛長川に沿って流れ足立区の千住あたりで東京湾に注いでいた、と上でメモした。千住あたりが当時の海岸線などとは、埋め立てが進んだ現在の東京下町区域の拡がりからすれば想像もつかないつかないたが、古墳時代には東京湾から関東内陸部への「玄関口」であったこの毛長川、古代の交通の要衝の地に有力者が現れ、伊興古墳遺跡や谷塚古墳遺跡などを残したであろうことを想い先に進む。

毛長神社
谷塚地区から両新田東町(昔の市左右衛門新田)を経て新里地区に入る。『地誌材料稿』によれば、新里の地名の由来は「俚伝云、本村ハ古時入海ノ地ニシテ泥沼多ク村落ナシ、常ニ水溢ノ患アリシカ何年頃ニカ此ノ地ヲ開墾シテ一ノ村落ヲ為ス。故ニ新タニ里ヲ開クヲ以テ新里村ト名ヅケシト云ウ」とある。毛長川の堤を離れ、宅地の中を成り行き進むと毛長神社があった。創建年度は不詳ではあるが、享保年間辺りとされる。御影造りの鳥居は元水戸家の屋敷内にあったもの。出入りの商人が譲り受け、隅田川・綾瀬側・毛長川を遡り境内地に建立された、とのことである。
で、この毛長神社に伝わる伝説であるが、毛長川を隔て、埼玉の新里すむ長者に美しい娘がいた。葛飾・舎人の長者の息子と祝言をあげるも婿殿の実家と折り合い悪く実家に戻ることに。その途中沼に身を投げる。その後、長雨が続くと沼が荒れる。数年後沼から長い髪の毛を見つける。娘のものではないかと、長者に届ける。長者感激。ご神体としておまつり。それ以降沼が荒れることがなくなる。その神社が現在新里にある毛長神社。沼を毛長沼と。
この話には例によって、いく通りものバリエーションがある。祝言の前に新里で疫病がはやり、破談となりそれを悲しみ身を投げたとか、娘は須佐之男命の妹と言ったものである。須佐之男命の妹は武蔵一宮が氷川神社、つまりは出雲の簸川の神からもわかるように、出雲文化圏であったが故のストーリーではあろう。
また江戸時代の地誌である『新編武蔵風土記稿』には、「毛長明神社 祭神詳ナラズ。稲荷雷神ヲ合祀ス。此社毛長沼ノ辺リニアリ。沼ヲ隔テテ舎人町ニ祀レル諏訪社ヲ男神ト称シ、当社ヲ女神ト称セリ。古ハ髪毛ヲ箱ニ納メテ神体トセシガ、何ノ頃ニヤカカル不浄ノ物ヲ神体トスルハアルマジキコトナリトテ、毛長沼ニ流シ捨シト云伝フ。神号モ是ヨリ起リシニヤ。又毛長沼ノ辺ニ鎮座アルニヨルカ」とある。手長沼を隔てた舎人の諏訪神社の男神に対し、この社は諏訪神社の女神であり、その女神は出雲の簸川に住まいする翁嫗の夫婦神の手名椎(男神は足名椎。八人の娘を八俣大蛇に奪われた夫婦神である)とする。手名椎>手長、ということであろう、か。
さまざまな説の是非などもとより門外漢にはわからないが、沼や川、そして湖を隔てた男女の神、男女の悲恋の話は散歩の折々に出合う。荒川区の「あらかわ遊園」の西隣の船方神社には、この地域の荘園主 豊島清元(清光)が、熊野権現に祈願してひとりの娘を授かる。その娘、足立少輔に嫁ぐことに。が、 心ない仕打ちを受け、荒川に身を投げる。姫に仕えていた十二人の侍女たちも 姫に殉じる、といった伝説があった。
この話は足立区側では敵役が足立氏ではなく豊島氏になっていたように思うが、それはともあれ、このような悲しみのあまり入水自殺を、といったお話のベースとなるのは市川の真間で出合った手児奈(てこな)姫の伝説ではないだろうか。『万葉集』にも詠われる絶世の美女・手児奈。ために幾多の男性から求婚される。が、誰かひとりを選べば、その他の人を苦しめることになると思い悩み、入水自殺したとされる。先日、流山の江戸川台辺りを散歩したとき、香取神社の中に手児奈塔があった。万葉の頃から都にまで知られる手児奈の話は当然武蔵の各地に伝わっていたのだろうし、そのバリエーションとして毛長の伝説ができたのかもしれない。単なる妄想。根拠なし。

泉蔵院
毛長神社を離れ、成り行きで泉蔵院に向かう。鎌倉時代後期に草創されたと伝わるこのお寺さまは江戸時代に中興され、草加で最も古い歴史をもつ、とか。明治20年(1887年)に編集された「地誌材料稿」には、「毛長沼の辺りに昔からの万石長者が住んでいたが、ある時、天、突然として黒雲を起こし天地鳴動して長者の家宅・家族 全て悉く巻き上げられ、毛長沼に埋没してしまった。後に残ったものは御幣1箇、阿弥陀如来1尊であった。村民はこれを見て昨日まで万石長者といわれしも、一朝の天災のために、かくも無惨な状態に至れりと痛く嘆き、長者の酒造蔵跡に一字を創り残されたものを安置し、御幣山阿弥陀寺泉蔵院と名付け、長者の菩提を祈った」と、草創の縁起を説く。また、同じく「地誌材料稿」には毛長神社の縁起として「長者が天災害を受けた後、毛長沼の岸辺に毛髪数尺なるものが漂い、村民がいかに流そうとしても流れないので、これは長者の娘の毛髪に違いないとして稲荷社に合祀し神社とした」とある。泉蔵院が毛長神社の別当寺とのエビデンス強化のストーリーであろう、か。
山門の左に十三仏。なくなった人の追善供養のための石仏であり、初七日の守り本尊である不動明王から、釈迦如来(二七日の守り本尊)、文殊菩薩(三七日の守り本尊)、普賢菩薩(四七日の守り本尊)、地蔵菩薩(五七日の守り本尊)、弥勒菩薩(六七日の守り本尊)、薬師如来(七七日の守り本尊)、観音菩薩(百か日の守り本尊)、勢至菩薩(一周忌の守り本尊)、阿弥陀如来(三回忌の守り本尊)、 阿? (あしゅく)如来(七回忌の守り本尊)、大日如来(十三回忌の守り本尊)、虚空蔵菩薩(三十三回忌の守り本尊)までの十三の仏が並ぶ。境内にはその他、六道輪廻救済の六地蔵が立つ。





新里むじな公園

泉蔵院を離れ、一筋東にある通りを少し北西に進むとヴィ・シティ草加壱番館というマンション群のの道路脇に「新里むじな公園」がある。その昔、この地には吉岡家という旧家があり、その広い屋敷地内に多くの大木があり、その中のケヤキの古木に大きな洞が開いていて、そこにムジナが住み、家人がかわいがっていた、とか。そのため村人は、ここを「ムジナの森」と呼んでいた。家主も「むじな大尽」と呼ばれていたという。
家人が盗賊にあった時にかわいがっていたムジナがご主人様を助けたという「むじなの恩返し」伝説も残されている。戸締まり厳重にしたにもかかわらず、盗賊に襲われ屋敷外に逃れようにも厳重な戸締まり故に逃げ道無し。と、あら思議や、門が開きご主人さまが逃れ得た。盗賊はらんらんと光りご主人様を護る目に立ちすくんだ、とか。

いぼ地蔵

新里町交差点を東に折れ、ガソリンスタンドを越えた先で県道104号を脇に入り、耕地を右に見ながらクランク状の小径を進むと、道ばたにいくつかの石仏が佇む一隅がある。そこに「いぼ地蔵」があった。泥ダンゴを供え、願が叶った暁にはお米のダンゴを供えるとお願いし、お礼参りに際しては白ダンゴを供えたとのことである。いぼ地蔵の他の石仏は地蔵菩薩や青面金剛などである。因みにいぼ地蔵って、草加市内だけでもこの地蔵を含めて5体ある、と言う。





徳性寺

いぼ地蔵の東に徳性寺。境内に入ると右手に六地蔵、供養塔、三山大権現が並ぶ。本堂の右に近代的な3階建ての薬師堂。堂内には弘法大師の作と伝わる薬師如来があり、太田道灌の身代わりとなり危難を救った、とか。





新里氷川神社

県道104号を北に進み、県道から一筋東に入った道筋に氷川神社。歳月を経たアパートアパートなどに周囲を囲まれ、少々窮屈そうな社ではあった。『風土記稿』には、「氷川社、村内の鎮守なり 泉蔵院持ち」とあるが、創建は不詳。ただ、境内に奉納されている石灯籠と手洗石には文化、文政と刻まれるので、19世紀の前半の創建ではないか、と言われる。また、境内には牛頭天王と疱瘡神が祠に佇む。

遊馬
氷川神社を越えると新里地区を離れ、遊馬地区に入る。遊馬(あすま)の地名の由来は、奈良時代(710~784)舎人親王がこの地に別館を持ち、時々飼い馬を放畜した、との説がある。また、中世期にこの地の開発領主となった横山党の矢古宇氏の牧場があったためという説もある。

遊馬東交差点

県道を進み遊馬東交差点に。交差点東脇に2基の庚申塔など3体の石像、西脇に三王社がある。後ろに用水路の暗渠らしき水路を配して佇む庚申塔の台座には「見ざる・聞かざる・はなさざる」が彫られる。文化10年(1813)頃の作、とのことである。ささやかな祠である牛頭天王社も天明7年頃のもと、と言う。







西願寺
交差点の少し北東の西願寺に。入口参道の松並木を通り元和元年(1615)創立のお寺さまにお詣り。この西願寺は芝増上寺の流れ。それもあってか、あの二代将軍・徳川秀忠が、舎人村、遊馬村にお鷹狩に来ていた」とか。『舎人西門寺書上』に『遊馬村に鷹狩に参る』と記されていいる、と言う。遊馬の由来で、「奈良時代(710~784)舎人親王がこの地に別館を持ち、時々飼い馬を放畜した」、とメモしたが、放牧は江戸の頃も行われたようで、『新編武蔵風土記稿』には「徳川家康・駅伝馬の制を定めた1601年頃より放牧され、約70年続く」との記載がある。

見沼代親水公園

遊馬町東交差点から西に向かい、遊馬西交差点を南に折れて県道58号・尾久橋通りに。毛長川を越える日暮里・舎人ライナー見沼代親水公園駅に向かう。ここが本日の最終地点。が、駅手前にある見沼代親水公園を少し東に戻り、先ほど毛長神社の伝説にあった「男神」のおわします舎人諏訪神社に向かう。見沼代親水公園は見沼代用水を親水公園として整備したもの。

いつだったか大宮台地の下に広がる見沼田圃を歩いたことがある。そのときはじめて見沼代用水に出合った。沼と田圃、そして用水、しかも代用水とある。この遠いような近いような単語の集まりに少々混乱し、我流で筋が通るように整理した。その時のメモ;「見沼と見沼田圃。沼と田圃?相反するものである。これって、どういうこと。それと見沼代用水。代用水って何だ?沼や田圃との関係は?
見沼というのは文字通り、沼である。昔、大宮台地の下には湿地が広がっていた。芝川の流れが水源であろう。その低湿地の下流に堤を築き、灌漑用の池というか沼にした。関東郡代・伊奈氏の事績である。堤は八丁堤という。武蔵野線・東浦和駅あたりから西に八丁というから870m程度の堤を築いた。周囲は市街地なのか、畑地なのか、堤はどの程度の規模なのだろう、など気になる。その堤によって堰き止められた灌漑用の池・沼、溜井は広大なもので、南北14キロ、周囲42キロ、面積は12平方キロ。山中湖が6平方キロだから、その倍ほどもあった、と。
見沼田圃とは水田である。見沼の水を抜き水田としたものである。伊奈氏がつくった「見沼」ではあるが、水量が十分でなく灌漑用水としては、いまひとつ使い勝手がよくなかった。また、雨期に水があふれるなどの問題もあった。そんな折、米将軍と呼ばれる吉宗の登場。新田開発に燃える吉宗はおのれが故郷・紀州から治水スペシャリスト・伊沢弥惣兵衛為永を呼び寄せる。
為永は見沼の水を抜き、用水路をつくり、沼を水田とした。方法論は古河・狭島散歩のときに出合った飯沼の干拓と同じ。まずは中央に水抜きの水路をつくる。これはもともとここを流れていた芝川の流路を復活させることにより実現。つぎに上流からの流路を沼地の左右に分け、灌漑用水路とする。この水路を見沼代用水という。見沼の「代わり」の灌漑用水、ということだ。
見沼代用水は上流、行田市・利根大橋で利根川から取水し、この地まで導水する。で、左右に分けた水路のことを、見沼代用水西縁であり、見沼代用水東縁、という。上尾市瓦葺あたりで東西に分岐する」、と。この地に下った見沼代用水は地図を辿るに、見沼代用水東縁の流路のように思える。

諏訪神社
見沼代親水公園を先に進むと親水公園脇に諏訪神社。ささやかな祠と尺の少々アンバランスアンバランスに低い鳥居があった。案内によれば、 「舎人諏訪神社本殿は、一間社、流造千鳥破風付、向拝正面に軒唐破風が着く社殿形式である。屋根は総柿葺で、現在は覆舎によって囲われている石組基壇上に建立されている。身舎の大壁、小脇壁、脇障子、柱上組組物、縁腰組の間が彫刻で飾られ、竜の彫刻は見事である。牡丹の彫刻を施した手挟、向拝柱の獅子鼻、象鼻など、江戸時代末期の神社建築の特徴が如実に現れている。 身舎内部に、天保7年(1836)の建立である棟札がある。江戸時代末期の神社建築の手法を知る遺稿として注目される」、とある。
また、『新編武蔵野風土記稿』に、「諏訪社 西門寺ノ持ナリ。此社地ニ夫婦杉ト唱エテ二樹アリシガ、三沼代用水掘割ノ時、コノ二樹ノ間ニ溝ヲ開キシヨリ、土人婚嫁ノ時前ヲ過ルハ嫌イシトテ此道ヲ避ルト云。此杉今ハ枯タリ」と。見沼代用水を掘り割るとき、水路を隔て泣き別れに。以来、里人は縁起をかつぎ、この地を避けて通ることに。その心は、婚礼の時、難儀するほうが後々幸せに、といったこと、また、里を練り歩き、婚礼を披露するための方便に、といったこともある、とか。 神社の鳥居は神殿に対して、斜めに立っているのは、毛長神社の方向に向けたため、とのこと。男神と女神のペアの縁起のエビデンスを補強する。

日暮里・舎人ライナーの見沼代親水公園駅
これで本日の散歩を終える。日暮里・舎人ライナーの見沼代親水公園駅から一路家路へと。