月曜日, 6月 26, 2006

江戸川区散歩 そのⅢ;平井・小松川・中央・鹿骨・小岩地区

「平井の渡し」からはじめ、旧中川・荒川から江戸川堤に
善養寺

江戸川のランドマーク、小岩からの散歩は終わった。今回は、と考える。で、前から気になっていた、それがなぜかは分からないのだが、結構気になっていた「平井」からはじめよう、と考えた。平井の渡し、といったフレーズに惹かれていたのかもしれない。で、その後は、なんとなく気になる地名や神社・仏閣、具体的には、大杉神社、鹿骨、一之江名主、そして善養寺といったところを訪ねて歩こうと思う。


本日のコース: 総武線・平井駅 ; 天祖神社 ; 安養寺 ; 荒川土手 ; 平井聖天 ; 諏訪神社 ; 浅草道石造道標 ; 平井の渡し ; 目黄不動・最勝寺 ; 大杉神社 ; 仲井掘通り ; 一之江境川親水公園 ; 第六天堂 ; 瑞江公園・大雲寺 ; 一之江名主屋敷跡 ; 鹿見塚 ; 鹿骨親水緑道 ; 善養寺 ; JR総武線・小岩駅

総武線平井駅


総武線平井駅で下車。駅前の地図で見所チェック。駅の北に、天祖神社と安養寺。とりあえずこのふたつを目指す。北に進み平井大橋西詰めで蔵前橋通りと交差。

天祖神社
さらに北に進み平井6丁目と7丁目のあたりに天祖神社。本殿はあまり見られなくなった茅葺屋根、とのことだが、よくわからない。茅葺の上に瓦屋根をかぶせているのだろうか。境内には香取神社と水神社。香取神社は荒川放水路開削工事に伴い、この地に移った。天祖神社は、もとは神明宮と呼ばれたケースが多い。伊勢信仰の社ではあったが、明治期、皇室の守り神でもある伊勢信仰 = 神明の社、とはあまりに恐れ多いと、天祖と改名した、とのことである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

安養寺
天祖神社を離れ安養寺に。ちょっと通りから入ったところでわかりにくかった。弁天様と富士塚、そして念仏講で知られている。弁天様は「平井弁天」として親しまれている、と。

荒川土手

平井荒川堤道なりに進み荒川土手に。平井大橋の西詰めに付近の名所・旧跡の案内。「平井梅屋敷跡」、「平井聖天」、「平井の渡し」の説明。平井の梅屋敷跡は、土手を北に進み、旧中川が荒川に合流する木下川水門の辺り。江戸時代は徳川家が所有。梅見見物で賑わっていたとのことだが、現在は跡を残すのみ。




平井聖天
平井聖天、平井の渡しに向かう。場所は平井6丁目。少し駅方向に戻ることになる。蔵前橋通りを西に進み、平井駅入口交差点に。交差点を北に進み平井聖天に。草創は平安の頃と伝えられる真儀真言宗の古刹。燈明寺と呼ばれる。
平井聖天埼玉県・妻沼聖天、浅草の待乳山聖天とともに関東三大聖天のひとつ。聖天さまとは夫婦和合の神様。将軍鷹狩のときの御膳所として使われたほか、幾多の文人墨客が訪れている。


諏訪神社
お寺の直ぐ横に諏訪神社。燈明寺のお坊さんの出身地が信州ということから、信州の諏訪大明神を勧請した、とか。

浅草道石造道標
道なりに平井橋に向かって進む途中に「下平井の観世音菩薩 浅草道石造道標」が。ほんとうに小さい祠。偶然見つけたが、探すとなったら大変であったろう。浅草方面から行徳道への道標でありましょう。

平井の渡し
旧中川に平井橋。このやや西に「平井の渡し」があった。平井の渡しは、行徳道が下平井村と隅田区・葛西川村の間を渡る地点にあった。平井橋ができる明治32年まで使用されていた。
平井の渡し
橋の少し南に妙光寺。慶長3年(1598年)創建のお寺さま。由来書に、元禄年間(1688 - 1704年)の津波で堂宇を消失。ために本堂は床を高くしている、と。このあたりまで影響を及ぼすような津波って、一体どんな地震であったのか、今度調べておこう。


目黄不動・最勝寺
南に下り、平井駅出口交差点で蔵前橋通りと交差。平井駅に戻り、平井駅前通を南に下る。賑やかな商店街。平井1丁目あたりで商店街の道から離れ、荒川方面に道成りに進む。先に時計台っぽい建物。どこかの私立学校かと思い、ちょっと寄り道。予想に反し、都立小松川高校。
で、後から気がついたのだが、この高校の直ぐ隣に目黄不動・最勝寺があった。江戸五色不動のひとつ。が、学生の下校時のパワーにおされ見落としてしまった。
五色不動:目黒不動(天台宗龍泉寺:目黒区目黒3丁目)、目白不動(真言宗豊山派金乗院。もとは文京区関口の新長谷寺にあったが戦災で廃寺となったため移された)、目青不動(天台宗教学院。世田谷区太子堂4丁目。もとは麻布の勧行寺、または、正善寺にあったものが青山にあった教学院に移され。その後教学院が太子堂に移った)、目赤不動(天台宗南谷寺。文京区本駒込1丁目。もともと三重県の赤目不動が本尊。家光の命で目赤に)、目黄不動(台東区三ノ輪2丁目の天台宗・永久寺とこの最勝寺。とはいうものの、目黄不動だけは複数あり、渋谷の龍眼寺など全部で六箇所あるとも言われる)

小松川橋
平井荒川荒川土手をのんびり下る。小松川橋に。京葉道路が走るこの橋を渡り荒川・中川を越える。平井・小松川地区を離れ、中央地区に入る。まずは江戸川区郷土資料室に。買い忘れた、というか、後から気になった『地名のはなし』『江戸川の治水のあゆみ』を購入


大杉神社
江戸川区役所の近くを進み、中央1丁目、2丁目から大杉1丁目に進む。途中水路跡があった。が、水路名不明。大杉神社。天祖神社の通称、とも。名前の由来は大きな杉があった、とか。旧西一之江村の鎮守。創建時期は不明。天祖将軍鷹狩の折には必ず立ち寄る由緒ある神社であった、とか。

仲井掘通り
神社の直ぐ東に仲井掘通りが走る。江戸川区を走る用水についてまとめておく。水元公園の「小合溜井」から下った「上下之割用水」が最初に分流するのは葛飾区の新宿4丁目あたり。ここからの分流は小岩用水と呼ばれる。南東に真っ直ぐ下り、京成高砂駅の東側、京成小岩駅の西側を下り、西小岩5丁目愛国学園の西沿いの道を真っ直ぐ南へ南小岩8丁目の小岩郵便局辺りまで続く。
一方、本流は水戸街道を越え、京成高砂駅の少し南で三流に別れる。一流は新小岩に向かって南西に下り、平井2丁目で旧中川に至る「西井掘」。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

「中(仲)井掘」は新中川とほぼ平行に下り、上一色町の上一色中学校西沿いの道を南に、千葉街道の菅原橋、大杉1.2丁目境を経て西一之江2丁目・一之江1・2・3丁目の中を通り。春江4丁目と一之江7丁目・一之江町の境を経て新川に流れ込む。おおまかにいって環七と今井街道、新大橋通りと交差するあたりで続くわけだ。

一之江境川親水公園
仲井掘を越え環七と交差。環七を南に下り一之江1丁目の交差点で京葉道路を過ぎ、ついで首都高速7号・小松川線と交差。一之江境川親水公園が交差点を走る。少々親水公園を歩くことにする。この親水公園は一之江境川の水路跡。東一之江と西一之江の境を流れていたのでこの名がついた。
今井街道との合流まで清流が戻った。水神宮、一之江天満宮、薬王寺、円福寺、妙音寺と続く。妙音寺には「片目の鮒伝説」がある。目が不自由なお嬢さんが、このお寺の本尊・薬師如来に願掛け。満願の日に目が見えるように。お礼に鮒を池に放つ。すべて片目。この話を聞いて願掛けをして目が治った人たちが放った鮒もすべて片目であった、とか。


第六天堂
妙音寺を離れ、東に進み環七を越え、春江橋西詰め近くの第六天堂に。第六天のエノキ、って大木がある、とのとことではあったが、現在は根元部分が残るだけ。

瑞江公園・大雲寺
春江橋を渡り春江3丁目を北東に進む。瑞江公園の北に大雲寺。寺域広大。1万平方メートルも。歌舞伎役者のお墓が多い。市村羽佐衛門(初代から16代まで)、中村勘三郎(初代から13代まで)、尾上菊五郎(初、5、5代)、松本幸四郎(4,5,6)などなど。ために、「役者寺」とも。浅草、押上、そして関東大震災後、この地に移る。椿通りを北に進み、ふたたび首都高速7号・小松川線をくぐり、春江町2丁目の一之江名主屋敷に。

一之江名主屋敷
一之江名主屋敷って、一之江新田の開拓者でもある田島図書の屋敷跡。田島図書はもと、豊臣の家臣、掘田の姓を名乗っていたとか。関が原合戦後、大杉の田島家を頼り、以降田島姓に。鬱蒼とした樹木に囲まれている。入口は長屋門。茅葺き曲がり屋造りの母屋が美しい、といいたのだが、到着したときはすでに門が閉まっていた。又の機会に。

鹿見塚
椿通りを北に進む。新掘2丁目から鹿骨1丁目に。鹿骨4丁目、5丁目あたりで鹿骨街道と交差。東に進み前沼橋交差点のところに鹿見塚。常陸の鹿島大神が大和・奈良の春日大社に移る途中、この地に。大神の杖となっていた神鹿が病気で倒れる。里人はこれをこの地に祀った。
鹿骨(ししぼね)は600年も前の文書に登場する古い土地。この塚は古墳では、とも言われている。

骨親水緑道
神社横の道を北に。交差点が「前沼橋」と呼ばれたように川筋跡。鹿骨親水緑道となっている。鹿骨3丁目が切れるあたりで鹿骨親水緑道は二手に分かれる。北西に向かうのは鹿本親水緑道、北東に向かい江戸川に至る水路が「興農親水緑道」。「興農」は名前の通り、農業を興す水路であったのだろう。


善養寺
北篠崎2丁目、1丁目を進み江戸川堤に。川の流れを楽しみながら北に。少し進むと天祖神社。さらに北に進み善養寺。堂々とした、雰囲気のあるお寺。真言宗豊山派・星住山地蔵院、と。星降り松、と呼ばれる枝振りのいい松があったから星住山。初代の松は枯れ、現在は二代目。地蔵院は本尊の地蔵菩薩から、か。小岩の不動尊としても知られる。16世紀のはじめ頃つくられたとされる。
善養寺
慶安元年(1648年)には将軍家より10石の御朱印を受ける。本堂わきには「びんずる尊者」。江戸の昔から「善養寺のなでぼとけ」として知られている。「びんずる尊者」って、足立散歩のとき、関原大聖寺で出会った。いつも赤ら顔の呑兵衛の仏さま。酒ゆえに、お釈迦さまから一度は破門。悔い改め、傍に控え居るだけなら、とぴうことで本堂脇に。仁王門も堂々としていうる。不動堂は、「小岩不動」である不動明王が安置されている。で、なにはともあれ、このお寺の最大の魅力は「影向の松」。樹齢600年ともいわれる、堂々とした枝ぶり。松の高さは8mだが、東西南北に30mほどの枝の広がりがある。久しぶりに、本格的な枝振りの松を見た思いがする。

土曜日, 6月 24, 2006

江戸川区散歩  そのⅡ小岩・中央部地区・東部地区

「小岩市川の渡し」から元佐倉道を下り、中央部・東部を歩く

江戸川区散歩をはじめる。とはいうものの、今回が初めてではない。実のところ、江戸川は過去2回ほど歩いたことがある。塩の道に沿って小名木川から新川・古川、そして行徳まで歩いた。また、左近川に沿って江戸川区の南部を東西に歩いたこともある。
今回はどこから、とは思うのだが、いまひとつポイントが絞りきれない。葛飾であれば柴又帝釈天、足立であれば西新井大師、といった具合に、どうといった理由はないが、なんとなくランドマークがある。が、江戸川区にはフックがかかる、というか、ランドマークが思い浮かばない。は小岩てさて。ちょっと江戸川の歴史をおさらいし、どこから歩を進めるか決めることにしてみよう。
江戸川区の大昔は海の中。これって東京下町低地はすべて同じ。およそ3000年ほど前より江戸川(昔の太日川)が運ぶ土砂により、流路に沿って砂州・微高地ができはじめる。江戸川区で人が住み始めたのはおよそ1800年前。弥生時代後期の頃、現在の JR 総武線・小岩の北、上小岩遺跡のあたりに人が住みはじめたようだ。その後、江戸川に沿った篠崎の微高地、現在の旧中川に沿った東小松川のあたりに集落が増えていく。葛飾区、足立区といった東京下町低地のメモのとき何度も登場したが、正倉院の文書に下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍にある「甲和里」は、確証はないが、どうも小岩らしい、とか。甲和里には454人の住民がいたようだ。
中世にはいると、この辺りは葛西御厨の一部。葛西三郎清重が葛西33郷(江戸川区、葛飾区など)を伊勢神宮に寄進したもの。神社に寄進することによって、国の収税システムから逃れたわけだ。体のいい節税対策。
それより少々前、寛仁四年(1020年)の頃、菅原孝標(たかすえ)の書いた、『更科日記』にも江戸川が登場する:「そのつとめて、そこをたちて、しもつさのくにと、むさしとのさかひにてある ふとゐがはといふがかみのせ、まつさとのわたりのつにとまりて、夜ひとよ、舟にてかつがつ物などわたす。 つとめて、舟に車かきすへてわたして、あなたのきしにくるまひきたてて、をくりにきつる人びと これよりみなかへりぬ。のぼるはとまりなどして、いきわかるゝほど、ゆくもとまるも、みななきなどす。おさな心地にもあはれに見ゆ」、と。任地・上総での任期が終わり、京に戻る途中、夜通しかかって下総と武蔵の国境の太日川(今の江戸川)をわたる姿が描かれている。もっとも場所は松里というから、松戸の渡しではある。
永正6年(1509年)には、連歌師・柴屋軒宗長は隅田川から川舟で行徳に近い今井に向かい、浄興寺を訪れ小岩市川の渡しから善養寺を訪ねた紀行文「東路のつと」を書いている:「隅田川の河舟にて葛西の府のうちを半日ばかり葭・蘆をしのぎ、今井といふ津(わたり)より下りて、浄土門の寺浄興寺に立ち寄りて、とあれば、はやくよりこの津のありしことしられたり」、と。
この小岩市川の渡しのあたりは、その後、小田原・北条氏と下総・里見氏の間でおこなわれた合戦の舞台。世に言う、国府台合戦。北条氏の勝利に終わり、以降北条氏が秀吉に滅ぼされるまではこのあたりは北条氏の領地となった。

江戸に入ると、盛んに新田開発がおこなわれる。宇喜新田を開拓した宇田川善兵衛。宇喜田村は新川の南。伊予新田を開いた篠原伊豫。この新田は小岩のあたり。一之江新田を開いた田島図書などが特筆すべき人物。江戸川区は二箇所の旗本の領地、一つの寺領があるほかはすべて幕府の直轄地。将軍の鷹場となっていた。八代将軍吉宗など、76回も鷹狩にこの地を訪れた、と。この鷹場があるためのいろいろな制約で農民は苦労したようだ。
河川の開削も進む。行徳の塩を運ぶため新川開削が代表的なもの。幕府の利根川東遷事業も相まって、江戸川の水運が活発化する。東北や北関東の物資は、銚子や利根川上流から関宿を経て江戸川を下り、新川・小名木川を経て江戸に運ばれることになるわけだ。
このあたりは江戸と房総を結ぶ交通の要衝でもあった。小岩市川の渡しは定船場。番所(関所)が設けられた。佐倉の掘田氏をはじめとする房総諸大名の参勤交代しかり、また庶民の成田詣でなどで街道が賑わった、とか。小岩市川の渡しのある御番所町や、逆井の渡しのある小松川新町あたりが賑わった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

街道も整備される。区内には佐倉道、元佐倉道、行徳道、岩槻道といった往来が走る。佐倉道は日本橋から足立区・千住、葛飾区・新宿(にいじゅく)から小岩を経て市川、船橋そして佐倉に続く道。元佐倉道は両国から堅川を東に進み、旧中川の逆井の渡しを越えて小岩に続き、そこで佐倉道に合流する。
行徳道は平井の渡しを渡り、東小松川・西一之江、東一之江、今井の渡しを経て下総・行徳に行く道。
岩槻道は埼玉・岩槻への道。行徳の塩を運ぶ道である、とか。現在の江戸川大橋のあたり、つまりは江戸川と旧江戸川が分岐するあたりから北に、小岩、柴又、金町、猿ケ又で中川を渡り古利根川沿いに岩槻に至る道。
幕末動乱期、この江戸川の地も幕府と官軍の戦いの場となる。場所は小岩市川の渡しのところ。江戸川の両岸に両軍対峙し戦端をひらいた、と。
なんとなくランドマークが浮かび上がった。小岩市川の渡し、つまりは現在の JR 総武線・小岩あたりが幾度となく登場する。それと、江戸川区って江戸と房総の交通の要衝。戦略上の見地から橋などない当時、「渡し」を起点に街道が整備されている。
ということで、江戸川散歩は、ランドマークの小岩を基点に、元佐倉道を下り、渡しと渡しをつなぐ街道に沿って歩くことにする。
江戸川区の大雑把な地区わけは小岩、鹿骨、東部、中央、葛西、平井・小松川の六地区。小岩から中央、東部地区、といったところである。



本日のコース: JR総武線・小岩駅 ; 上小岩遺跡 ; 上小岩親水緑道 ; 八幡神社・北原白秋の歌碑 ; 江戸川の堤 ; 真光院・遊女高尾の墓 ; 京成・江戸川駅 ; 御番所跡 ; 宝林寺 ; 千葉街道・旧佐倉道筋 ; 小松川境川親水公園 ; 江戸川区郷土資料室 ; 仲台院・将軍の御膳所 ; 善照寺 ; 白髭神社・浮洲浅間神社 ; 一之江境川 ; 都営新宿線・一之江駅

上小岩遺跡

小岩遺跡総武線・小岩駅で下車。北口から蔵前橋通りに進む。最初の目的地は「上小岩遺跡」。蔵前橋通りを東に進み、柴又街道と交差。柴又街道を北に進み京成小岩駅前交差点を東に折れる。京成小岩駅手前に「上小岩遺跡」の案内。弥生時代中期から、古墳時代前期の土器類が発見されている遺跡、とか。
最初に見つけたのは昭和27年、当時の小岩第三中学の生徒。以来30年に渡って同校の中村先生によって発掘調査がなされた。場所は現在の北小岩6,7丁目あたり。当時このあたりが、「上小岩村」と呼ばれていたのが、遺跡命名の由来。養老5年(721)の下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍にある、甲和里は、どうも小岩らしい、とメモした。甲和里には454人の住民が住んでいた、と。このあたり川沿いの自然堤防・微高地であったのだろう。
photo by harashu


上小岩親水緑道

京成小岩駅を越え東に。北小岩6丁目交差点あたりに遊歩道。上小岩親水緑道。この地に住む石井善兵衛さんが、灌漑用の水の乏しかったこのあたりに、江戸川から用水を引くことを思い立ち、明治11年に完成した水路跡。緑道に沿って北に進む。この川筋が「遺跡の銀座通り」とか。左手に小岩三中を見ながら進み、緑道の最北端に「水神碑」。石井善兵衛さんの功績をたたえた碑。

八幡神社・北原白秋の歌碑
堤防脇の道を北に進む。八幡神社。北原白秋の歌碑がある。大正5年から1年間、小岩村三谷に住む。その住居を「紫烟(しえん)草舎」と呼ぶ。紫えん草舎は現在は市川にある。が、小岩を愛した白秋を偲んで、地元の人が八幡さまの境内にこの歌碑を作った。「いつしかに 夏のあわれとなりにけり 乾草小屋の桃色の月」。北原白秋もいろんなところに顔をだす。生涯に何度引越ししたのだろう、か。

江戸川の堤
神社を離れ江戸川の土手道を歩く。川向こうには国府台(こうのだい)の丘陵地。小田原北条氏綱・氏康親子が下総の小弓義明氏、安房の里見義堯氏と争った天文7年(1538年)の第一次国府台合戦、また、小弓氏が斃れた後、房総最大の勢力となった里見義弘氏(義堯の子)と北条氏康が戦った第二次国府台合戦に思いを馳せる。この合戦に北条氏が勝利を収めたことにより、関東一円が北条氏の勢力下に入った。江戸川以西が下総から武蔵になったきっかけでもあった、とか。
また、この地は幕末の小岩市川戦争の舞台でもある。江戸無血開城を潔し、としない旧幕臣が江戸を脱出。大鳥圭介の率いる2500名が市川国府台に集結。新撰組の土方歳三や幕府、会津、桑名の兵と軍議。結局日光方面へと転進する。一方、江戸を去り木更津に集結した福田八郎衛門の率いる幕府撤兵隊(さんぺいたい)1500名が大鳥軍に合流すべく市川に集結。が、既に大鳥軍は日光転戦。後に残されたこの幕府撤兵隊と官軍の津、福岡、佐土原、岡山藩との間で戦端が開かれる。市川市内での激しい市街戦、江戸川を越えての激しい砲弾の応酬があったこと、今は昔。

真光院・遊女高尾の墓
堤道を下り、天祖神社前の通りを京成江戸川駅方面に道を進む。北小岩4丁目に真光院。遊女・高尾の墓がある。この高尾太夫も散歩のあちこちに顔をだす。が、よくよく調べると、高尾太夫って一人ではない。吉原の妓楼・三浦屋お抱えの歴代遊女の総称。7人とも11人とも14人とも言われる。ここの高尾太夫は三代目。このお寺の閻魔様の坐像は高尾太夫が寄進した、とか。境内を歩いたが、どこにあるのやら。お参りはできず。ちなみに、中央区散歩のとき、豊海橋の近くで出会った高尾太夫は二代目であった。

京成・江戸川駅近くに小岩市川の渡し・関所跡
お寺を離れ京成・江戸川駅に向かう。季節柄、駅近くの小岩菖蒲園帰りの人たちが手に菖蒲を抱えて駅に入ってゆく。京成線の少し南の河川敷に関所跡。この地、小岩市川の渡しは江戸と房総を結ぶ佐倉道が江戸川を渡るところ。元和2年(1616年)に定船場となり番所が置かれる。後に関所となり往来する人や物資の出入りをチェックした。

御番所跡
駅前の通りに御番所跡。関所付近のこの界隈は旅籠や掛茶屋で賑わった、とか。この辺りはいくつかの街道が合流。日本橋からはじまり、足立区・千住、葛飾区・新宿(にいじゅく)から小岩に至る佐倉道、両国から堅川を東に進み、旧中川の逆井の渡しを越えて小岩に続く元佐倉道、江戸川と旧江戸川が分岐するあたりから北に進み、小岩をへて柴又、金町、猿ケ又で中川を渡り古利根川沿いに岩槻に至る岩槻道などがこの地で合流する。

宝林寺
道に沿って宝林寺。この地を開拓した篠原伊豫の墓。伊豫はもと里見義弘の家臣。安西伊豫守実元と名乗る武士。が、国府台合戦で里見氏が敗れたのち、この地に移り篠原と改名。農業に従事する。慶長15年(1610年)には新田開発を行い「伊豫新田」と名づける。これが伊豫田村の前身。少し先に本蔵寺。関所役人の中根平左衛門代々の墓がある。先に進むと蔵前橋通りと交差。いかにも旧道といった赴きはここで無くなり車の多い往来となる。

千葉街道・旧佐倉道筋
蔵前橋通りとの交差から先は千葉街道。この道は、おおむね昔の旧佐倉道筋。南西に一直線に下る街道を中川堤まで歩くことにする。一里塚交差点、東小岩4丁目交差点、小岩郵便局前交差点、二枚橋交差点を越え、新中川にかかる小岩大橋を渡り、鹿本中学交差点を過ぎ菅原橋交差点に。菅原橋交差点のところから小松川境川親水公園に入る。

小松川境川親水公園
川筋はほぼ千葉街道に沿って進む。整備された遊歩道が続く。さすがに親水公園発祥の区。中央森林公園を越えたあたりで北から下ってきたもう一筋の川筋と合流。この流れも小松川境川。総武線と環七の交差するあたりまで流路っぽい川筋跡が地図に見える。名前の由来は、上・下だったか、南・北だったか、ともあれふたつの小松川村の境を流れていたため。
本一色地区を進み中央1丁目と新小岩3丁目の境を進む。平和橋通りと千葉街道が交差するところが八蔵橋。八蔵の由来は、このあたりに住んでいた無頼漢の名前。江戸から来るヤクザ者を青竹で追い返すのが役目であった、とか。

江戸川区郷土資料室
少し進むと「グリーンパレス」。江戸川区の郷土資料室がある。例によって『江戸川区の史跡と名所』『江戸川区の文化財』『古文書に見る江戸時代の村と暮らし (2):街道と水運』といった資料を購入。本一色の由来は不明。本来「一色」とは免税田のこと。が、この地に免税田の記録はない、と。

仲台院・将軍の御膳所
先に進む。京葉通りにかかる境川橋の下をくぐり、今井街道、首都高速7号・小松川線を越える。左手に仲台院。将軍の鷹狩の折、食事をとったり休憩したりする御膳所。吉宗など江戸川区だけでも76回も鷹狩に訪れている。幕府直轄地である江戸川区一体は鷹場として指定されていたわけだが、鷹狩の度に農作業を止めなければならない農民にとっては迷惑なことであったの、かも。
境内に加納甚内の墓。元は牧戸甚内。代々紀州侯お抱えの綱差役。綱差役とは、鷹狩のターゲットとなる鶴の餌付けをする人。早い話が、将軍が放つ鷹は必ず獲物を取れるように段取りを組む人、ということ。吉宗が将軍になるにおよんで、紀州より召しだされ、西小松川に居えを構える。で、この甚内さん、単に綱差役だけでなく、新田開発にもつとめる。その新田は「綱差新田」と呼ばれた。



善照寺
親水公園に沿って寿光院、源法寺、永福寺、宝積院と、お寺が続く。永福寺など、結構品のいいお寺さま。親水公園が中川に合流するあたりに善照寺。威風堂々のお寺。将軍家光より六石の御朱印地を受けている。六石って多いのか少ないのか、その有り難味はわからない。が、一石というと、大人ひとりが1年間食べられるお米ということではある。このお寺、江戸川区で最初の公立学校「葛西学校」が開校された。


白髭神社・浮洲浅間神社
寺の直ぐ近くに白髭神社。もとは浮洲浅間神社。神社の古鏡に天平11年(739年)の銘もある、江戸川区最古の神社のひとつ、と言われる。昔々、漁師が潮待ち。浅間さまの札が流れてくる。その札を埋め置いたところにだんだん砂がたまってくる。で、そこにお宮を建てた、とか。中川・荒川放水路開削の折、白髭神社に合祀され、今に至る。

一之江境川から都営新宿線・一之江駅
これから先は、今井街道進み、行徳に出る予定、ではあった。今井街道は昔の行徳道。小松川3丁目を越え、船堀街道と交差し松江、一之江と進み、今井橋で旧江戸川を渡るり行徳にでる。松江の由来は小松川の「松」と一之江の「江」を足したもの。一之江ははっきりしない。が、江の意味からして「入り江」といった地形を表す一体であったのだろう。
が、成り行きで進んでいると、突然、一之江境川に交差。そして直ぐに新大橋通りに出でしまった。東に進んで行徳道に当たるはずが、どうも南東に進んでいたよう。結局、行徳道を下るのをあきらめ、新大橋通りを東に進み、春江町にある葛西工業高校前で環七を北に折れ、都営新宿線・一之江駅に。一路家路へと。

木曜日, 6月 22, 2006

江戸川区散歩 そのⅠ;葛飾地区と江戸川区全体のメモ

江戸川;葛西地区と江戸川区全体の時空散歩:

東京下町低地の散歩もとうとう江戸川区まで来てしまった。江戸川区散歩をはじめる。とはいうものの、今回が初めてではない。実のところ、江戸川は過去2回ほど歩いたことがある。少し昔になるが、ちょっとまとめておく。
江戸川区散歩のはじめは、塩の道を行徳まで歩いたとき。途中、気がつけば江戸川区に入っていた。日本橋川からはじめ、江東区の小名木川と進み、船堀橋を渡り江戸川区に入る。そこからは新川を東に進み、途中から古川親水公園に折れ、瑞穂大橋、今井橋を渡り行徳河岸に行く。2月7日あたりの散歩ブログにメモしている。
二度目は娘の陸上競技会の応援、というか、ビデオ撮影をご下命頂き、江東区・新木場・夢の島陸上競技場に行ったとき。競技種目の空き時間が2時間、3時間と2回もあるので、さて、どこを歩こうかとなった。
最初の空き時間は新木場駅から葛西臨海公園まで電車に乗り、葛西臨海公園をブラブラした。このあたりは江戸川区。二度目の空き時間は少々時間もあるので、と地図を眺める。「新左近川」。なんとなくありがたそうな名前。親水公園となっているようだし、距離もなんとなく適当そう、ということでルート決定。左近川をメモしておく。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

本日のルート;夢の島陸上競技場(江東区)>湾岸通り>荒川河口橋>水再生センター>左近川水門>マリーナ>つばさ橋>葛西かもめ橋、新左近橋・新長島川親水公園と合流>葛西中央通り・中左近橋>中葛西7丁目・海岸水門>掘江橋・海岸小水門>環七通りと交差>南葛西通り・左近橋>なぎさ公園>旧江戸川・左近川水門>葛西臨海公園に戻る>夢の島陸上競技場


左近川散歩

荒川河口橋
陸上競技場を離れ、湾岸道路を東に進み、荒川河口橋を渡る。いやはや、長い。さすが荒川河口だけのことはある。それに高い。少々の高所恐怖症の我が身としては、足がすくむ高さである。橋を渡りきる。東詰め、水再生センターのあたりの堤防沿いの道で、和太鼓の練習をしている。これって橋の中腹あたりから聞こえていた。結構な響きがあるものだ。再生センターにそって少し北に。新左近水門。美しく整備されている。先日の古川親水公園を歩いたとき、親水公園のコンセプトを最初につくったのが江戸川区。古川親水公園がその第一号である、といったことをメモした。なんとかに蓋ではなく、美しく再生する、ってやはり、衣食足って礼節を知る、って時代になったのだろうか。

葛西臨海公園
水門近くにマリーナ。つばさ橋を越え、といっても正確には「くぐる」わけだが、親水公園を進む。葛西かもめ橋、というか新左近橋で新長島川親水公園と合流。ボート乗り場などもある広場となる。葛西中央通り・中左近橋を越え中葛西7丁目あたりで、広場空間はお終いとなる。少し先に海岸水門がある。水位調節しているのだろうか。その先、掘江橋近くに海岸小水門。東に進むと環七通りと交差。少し東に進むと南葛西通り。左近橋が架かる。後はひたすら東に進み、なぎさ公園の北端をかすめ旧江戸川にあたる。左近川水門。近くに水上バスの乗り場などもある。娘の最終競技の時間も迫る。あとは、ひたすらに葛西臨海公園まで進み、電車に飛び乗り競技場に。

左近川の由来
左近川の由来。どうもはっきりわからない。区史第一巻末尾の地名の項に「葛西において河港のつとめを果たした川に左近川がある。江戸川の、かっての分流で、左近は人名であろう。近くの堀江に将監の地名があるが、これは向井将監の屋敷跡であった」と。幕府の御船奉行、向井将監に関係ありそう、とも思うがはっきりしない。向井将監って、中央区散歩のとき、霊岸島で出あった。将監が何故、左近と関係あるか、というと、将監とは近衛府の内部官職のひとつ。右近将監とか、左近将監とか、「右近・左近+将監」とペアとなっている、ため。

さてと、新川・古川、そして左近川と江戸川区の南部を東西に歩いた。今回はどこから、とは思うのだが、いまひとつポイントが絞りきれない。葛飾であれば柴又帝釈天、足立であれば西新井大師、といった具合に、どうといった理由はないが、なんとなくランドマークがある。が、江戸川区にはフックがかかる、というか、ランドマークが思い浮かばない。はてさて。ちょっと江戸川の歴史をおさらいし、どこから歩を進めるか決めることにしてみよう。
江戸川区のまとめ;江戸川区の大昔は海の中。これって東京下町低地はすべて同じ。およそ3000年ほど前より江戸川(昔の太日川)が運ぶ土砂により、流路に沿って砂州・微高地ができはじめる。江戸川区で人が住み始めたのはおよそ1800年前。弥生時代後期の頃。現在のJR総武線・小岩の北、上小岩遺跡のあたりに人が住みはじめたようだ。その後、江戸川に沿った篠崎の微高地、現在の旧中川に沿った東小松川のあたりに集落が増えていく。葛飾区、足立区といった東京下町低地のメモのとき何度も登場したが、正倉院の文書に下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍にある「甲和里」は、確証はないが、どうも小岩らしい、とか。甲和里には454人の住民がいたようだ。
中世にはいると、この辺りは葛西御厨の一部。これも何度かメモしたように、葛西三郎清重が葛西33郷(江戸川区、葛飾区など)を伊勢神宮に寄進したもの。神社に寄進することによって、国の収税システムから逃れたわけだ。体のいい節税対策。それより少々前、寛仁四年(1020年)の頃、菅原孝標(たかすえ)の書いた、『更科日記』にも江戸川が登場する;「そのつとめて、そこをたちて、しもつさのくにと、むさしとのさかひにてある ふとゐがはといふがかみのせ、まつさとのわたりのつにとまりて、夜ひとよ、舟にてかつがつ物などわたす。 つとめて、舟に車かきすへてわたして、あなたのきしにくるまひきたてて、をくりにきつる人びと これよりみなかへりぬ。のぼるはとまりなどして、いきわかるゝほど、ゆくもとまるも、みななきなどす。おさな心地にもあはれに見ゆ」、と。任地・上総での任期が終わり、京に戻る途中、夜通しかかって下総と武蔵の国境の太日川(今の江戸川)をわたる姿が描かれている。もっとも場所は松里というから、松戸の渡しではある。
永正6年(1509年)には、連歌師・柴屋軒宗長は隅田川から川舟で行徳に近い今井に向かい、浄興寺を訪れ小岩市川の渡しから善養寺を訪ねた紀行文「東路のつと」を書いている:「隅田川の河舟にて葛西の府のうちを半日ばかり葭・蘆をしのぎ、今井といふ津(わたり)より下りて、浄土門の寺浄興寺に立ち寄りて、とあれば、はやくよりこの津のありしことしられたり」、と。この小岩市川の渡しのあたりは、その後、小田原・北条氏と下総・里見氏の間でおこなわれた合戦の舞台。世に言う、国府台合戦。北条氏の勝利に終わり、以降北条氏が秀吉に滅ぼされるまではこのあたりは北条氏の領地となった。
江戸に入ると、盛んに新田開発がおこなわれる。宇喜新田を開拓した宇田川善兵衛。宇喜田村は新川の南。伊予新田を開いた篠原伊豫。この新田は小岩のあたり。一之江新田を開いた田島図書などが特筆すべき人物。江戸川区は二箇所の旗本の領地、一つの寺領があるほかはすべて幕府の直轄地。将軍の鷹場となっていた。八代将軍吉宗など、76回も鷹狩にこの地を訪れた、と。この鷹場があるためのいろいろな制約で農民は苦労したようだ。
河川の開削も進む。行徳の塩を運ぶため新川開削が代表的なもの。幕府の利根川東遷事業も相まって、江戸川の水運が活発化する。東北や北関東の物資は、銚子や利根川上流から関宿を経て江戸川を下り、新川・小名木川を経て江戸に運ばれることになるわけだ。
街道も整備される。このあたりは江戸と房総を結ぶ交通の要衝でもあり、小岩市川の渡しは定船場。番所(関所)が設けられた。佐倉の掘田氏をはじめとする房総諸大名の参勤交代しかり、また庶民の成田詣でなどで街道が賑わった、とか。小岩市川の渡しのある御番所町や、逆井の渡しのある小松川新町あたりが賑わった町。区内には佐倉道、元佐倉道、行徳道、岩槻道といった往来が走る。佐倉道は日本橋から足立区・千住、葛飾区・新宿(にいじゅく)から小岩を経て市川、船橋そいて佐倉に続く道。元佐倉道は両国から堅川を東に進み、旧中川の逆井の渡しを越えて小岩に続き、そこで佐倉道に合流する。行徳道は平井の渡しを渡り、東小松川・西一之江、東一之江、今井の渡しを経て下総・行徳に行く道。岩槻道は埼玉・岩槻への道。行徳の塩を運ぶ道である、とか。現在の江戸川大橋のあたり、つまりは江戸川と旧江戸川が分岐するあたりから北に、小岩、柴又、金町、猿ケ又で中川を渡り古利根川沿いに岩槻に至る道。
幕末動乱期、この江戸川の地も幕府と官軍の戦いの場となる。場所は小岩市川の渡しのところ。江戸川の両岸に両軍対峙し戦端をひらいた、と。
なんとなくランドマークが浮かび上がった。小岩市川の渡し、つまりは現在のJR総武線・小岩あたりが幾度となく登場する。それと、江戸川区って江戸と房総の交通の要衝。戦略上の見地から橋などない当時、「渡し」を起点に街道が整備されている。ということで、江戸川散歩は、ランドマークの小岩を基点に、渡しと渡しをつなぐ街道に沿って歩くことにする。
江戸川区の大雑把な地区わけは小岩、鹿骨、東部、中央、葛西、平井・小松川の六地区。いままでの新川・古川、左近川散歩は葛西地区。次回は小岩から元佐倉道を進み、中央、そして時間があれば東部まで進もうと思う。

火曜日, 6月 20, 2006

足立区散歩 そのⅡ;竹の塚から奥州古道を想い、西新井へと


足立散歩の2回目は竹の塚からはじめ、千住に下る散歩コース。
大雑把に言って、尾竹橋通りと旧日光街道を下るコース。曳舟川散歩で足立区の東端、先回の毛長ルートで北端・西端を歩いた、今回は中央突破ルートと言ったところ。前九年の役や後三年の役での奥州征伐に進む源義家ゆかりの地も多く、武蔵千葉氏の居城跡や神社仏閣など見どころも多い。大雑把に言って、隅田川の自然堤防・微高地上を通る古の奥州古道と言ってもいい、かも。自然堤防が残るとも思えないが、少々の想像力とともに、古道を辿る。



本日のコース:
竹の塚駅 > 実相院 > 諏訪神社 > 源正寺 > 常楽寺 > 満福寺 > 西光院 > 六月・炎天寺 > 鷲神社 > 島根・国土安穏寺 > 栗原・満願寺 > 西新井大師 > 本木・「六阿弥陀巡り」 > 中曽根神社 > 関原・関原不動尊 > 西新井橋 > 元宿神社 > 大川町氷川神社 > 北千住駅

日比谷線・竹の塚駅の西に実相院

日比谷線・竹の塚下車。先回は東口。今回は西口に下りる。最初の目的地は実相院。伊興2丁目に向かう。実相院は江戸の頃より伊興の子育て観音として知られる。寺伝によると創建は天平(729-748)の昔。行基菩薩が一本の流木から観音像を彫り上げた、と。行基菩薩もいろんなところに、顔を出す。縁起は縁起だけのこと、と思うべし。本尊の聖観世音菩薩は12年に一度開帳される秘仏。

千葉次郎勝胤の墓

寺の近くに千葉次郎勝胤の墓。家臣が主君を偲んで建てた碑であり、正確には墓ではない。あちこち歩いたが、見つけることができなかった。千葉勝胤(1471 - 1533年)は足立一帯に覇をとなえた千葉氏。
千葉勝胤は下総千葉宗家、正確には本家を滅ぼし「宗家」を名乗ったわけで、後期千葉家とも言われる分家筋の系列。1400年中頃、本家・分家で争いが起こり、戦に破れた本家筋の千葉実胤と自胤が武蔵のこの地に移り武蔵千葉氏となったはず。下総佐倉に館を構える千葉の勝胤さんが、このあたりに縁があるわけもないと思うのだが、どういうことだろう。同姓同名、ということだろう、か。実相院の近くに六万部経塚。経塚とは、末法の世まで善行を残すために書写した経典を土の中に埋納したもの、とか。

諏訪神社

少し南に進み西伊興1丁目と西新井4丁目の境に諏訪神社を訪ねる。足立に諏訪神社って結構目に付く。諏訪神社って、御祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)。出雲の大国主命(おおくにぬし)の子供。古事記の国譲神話では、建御雷神(たけみかづちのかみ)に敗れ諏訪の地に逃げ込んだとされている。国譲りを渋る大国主命に代わり、建御雷神と一戦交えるが、武運つたなく負け戦。この科野の州羽の海まで逃れ、もうここから一歩も出ません、謹慎いたします、とした次第。
ちなみに、建御雷神って、鹿島の土着神。鹿島神宮って、中臣氏が祭祀者。中臣、って藤原鎌足・不比等の出自。不比等、って古事記・日本書紀編纂の任にあった権力者。出雲系国ツ神が、中央朝廷系天ツ神に膝を屈するストーリーを史書の中に組み上げていったのだろう。
とはいうものの建御名方命って、「水潟」に由来し、この州羽の土着の神であり、出雲とも縁もゆかりもない、という説もある。出雲族が信州を通り、秩父・武蔵に移っていったわけで、当然この地にも強い影響力をもったのであろう。そういった背景をもとに、神話が組み上げられていったの、かも。ひたすら推論、というか空想、ではある。

源正寺

少し東に進み伊興2丁目に源正寺。本堂は結構大きいのだが、アプローチが少々わかりにくい。細い路地を入りなんとか入口を見つけた。伊興七福神の恵比寿天。ちなみに伊興七福神は実相院(大黒天・弁財天・毘沙門天)・福寿院(寿老人・福禄寿)、源正寺(恵比寿天)・法受寺(布袋尊)。さらに東に進み、地下鉄の検車場の北端を進み東武伊勢崎線を陸橋で越える。

竹の塚の寺町:常楽寺
竹の塚1丁目を道なりに進む。竹の塚1丁目から六月3丁目にかけて、ちょっとした寺町。常楽寺。真言宗豊山派。竹の塚に生まれ竹の塚に骨を埋めた江戸の文人・竹塚東子(たけつかとうし)の墓。実名・谷古宇四郎左衛門(やこうしろうざえもん)。東子は今でいうマルチタレント。寛政・亨和・文化にかけて活躍した。酒屋でありながら、生け花の師匠、俳諧をたしなみ、戯作者としても名を馳せ、そのうえ落語家。東子の俳譜の師匠が、千住在の建部巣兆。俳譜師にして画家、生け花や茶道の教授もするというこの人もマルチタレント。師の巣兆もそうだが、東子も奥州を行脚し、俳画帖をものしている。洒落本「田舎談義」で戯作者としての地位を確立。この常楽寺は寛永年間(1624 - 1643年)河内与兵衛(かわうちよへえ)によって中興されたと伝えられている。河内与兵衛は16世紀末、小田原北条氏没落後、この地に土着。江戸に入り徳川家に仕え代々この地の名主をつとめた人物。

満福寺

満福寺。創建不明。文明10年(1478年)の板碑墓石がある。明和・寛政のころが中興期であったよう。明治9年(1876年)4月公立竹嶋小学校(同12年2月正矯小学校と改名)が境内に設けられた。入口にその石碑が置いてあった。

西光院

開基は、河内与兵衛。本堂前に金剛界大日如来坐像(銅造)。明治12年には、寺内に公立正矯小学校が開校された。

六月・炎天寺

六月3丁目に炎天寺。平安末期創建。天喜4年(1056年)、炎天続きの旧暦六月、奥州安倍一族追討に向かう源頼義、八幡太郎義家親子がこの地で野武士と交戦。京の岩清水八幡に祈念し勝利を収める。で、お礼に八幡宮をたてる。地名を六月。寺名を源氏の白旗が勝ったので幡勝山、戦勝祈願が成就したので成就院、炎天続きだったので炎天寺と。
前九年の役のエピソードをもつ源氏ゆかりの寺。またこの寺は江戸後期の俳人・小林一茶ゆかりの寺。一茶は千住に住んでいた俳人・建部巣兆、竹塚の作家・竹翁東子などと寺のあたりをよく歩き、いくつかの俳句を残している。「やせ蛙負けるな一茶是にあり」「蝉鳴くや六月村の炎天寺」。当時の竹塚村は一面の水田地帯。初夏ともなると、あちこちでカワズが鳴き合う、蛙合戦として江戸でも有名であった、と。一茶は全国放浪の旅に明け暮れた俳人。炎天寺主催の「一茶まつり」が開かれている。
一茶もいいのだが、境内を歩いていて無財の七施の案内を見る。いい文章。お賽銭といった、形あるお布施もいいが、言葉や心など形のないもの、無財のもので施せば施すほど心が豊かになる、とのメモ。気に入ったので写しておく。
無財の七施(雑宝蔵経)
1. 眼施:やさしい まなざし いつも澄んだ清らかな眼で人を見よう
2. 和顔悦色施:にっこりと笑顔 ほほえみのある顔こそ最高
3. 言辞施:親切なひとこと 人を傷つける言葉 いわなくてもいい言葉をつかっていないか
4. 身施:きちんとしたおじき みなりをきれいにする
5. 心施:あたたかいまごころ 真心をこめる
6. 牀坐(しょうざ)施:ここちよい憩いの場 いま自分が坐っている場所をきれいにする
7. 房舎施:ここちよいもてなし 家の周辺をきれいにする


鷲神社

少し南に進み六月2丁目の鷲神社に。鷲神社は、旧利根川水系に多く祀られている。文保2年(1318年)武蔵国足立郡島根村の地に鎮守として創建され、大鷲神社と唱えたと伝えられる。島根村は現在の島根・梅島・中央本町・平野・一ツ家などの全部または一部を含む大村。村内に七祠が点在していたが、元禄の頃、このうち八幡社誉田別命、明神社国常立命の二桂の神を合祀し三社明神の社として社名を鷲神社に定めたという。何故、「大鷲」かってことは、花畑の大鷲神社でメモしたとおり。島根の由来。古くは島畑村と。島畑とは水田の中に点在する畑のこと。また、文字通り、島、というか微高地の根っこ・水際、とも。

島根・国土安穏寺
島根3丁目に国土安穏寺。構えのいいお寺。寺門に葵の御紋。これって徳川家の紋。もとは妙覚寺。将軍の鷹狩り・日光参詣の御膳所。葵の御紋を授けられたきっかけは、あの宇都宮の釣り天井事件。三代将軍・家光、日光参拝の折りこの寺に立ち寄る。住職の日芸上人より、「宇都宮に気をつけるべし」。で、家光、宇都宮泊を取りやめる。公儀目付け役が宇都宮城チェック。将軍を押しつぶすべく仕掛けられた釣天井を発見。宇都宮城主は二代将軍秀忠の第三子国松(駿河大納言忠長)の後見役・本多正純。家光を亡きもの にして国松を将軍にしようと陰謀をはかったといわれている。日芸上人によって九死に一生を得た家光は、妙覚寺に寺紋として葵の御紋を。寺号を「天下長久山国土安穏寺」とした。ちなみに、釣り天井事件の真偽の程不明。本多正純を追い落とす逆陰謀、といった説も。

栗原・満願寺

南に下り環七と交差。環七に沿って西に進む。栗原1丁目で東武伊勢崎線と交差。栗原の由来は不明。栗原3丁目に満願寺。小野篁作と伝わる地蔵菩薩を本尊とする。ここにも狸塚。御堂に老いた和尚さんが一人で住んでいた。 寒い夜、荷物を背負った狸が,暖を求める。和尚快諾。囲炉裏で暖をとり出てゆく。数日後再び狸が現れ、暖を求める。再び和尚、諾。囲炉裏で暖をとる。で、なにを思ったか和尚、狸の荷物に囲炉裏の灰を。狸出てゆく。翌朝、和尚丸焼けの狸発見。不憫に思い、手厚く葬った、と。2mもの狸塚がある。

西新井大師

先に進み東武鉄道大師線・大師前駅に。西新井大師。真言宗豊山派のお寺。寺伝によれば、弘法大師がこの地に立ち寄り、悪疫流行に悩む村人を救わんがため、十一面観音をつくり、祈祷を。と、枯れ井戸から水が湧き出、病気平癒した。村人はそれを徳としてお堂を建てる。井戸がお堂の西にあったので「西新井」と。
川崎大師、佐野厄除大師とともに関東の三大大師のひとつ。豊山派とは奈良・長谷寺を総本山とする真言宗の一派。豊山神楽院長谷寺とよばれることが名前の由来。ついでに、真言宗派の流れ。高野山や東寺からの流れに対し、真言中興の祖・興教大師以降の根来山を中心とした流れが新義真言宗。その新義真言宗がふたつにわかれ、一派はこの豊山派、もう一派は京都・智積院を中心とした智山派に分かれる。お寺の結構渋い山門を通り、門前町のお団子やなどをひやかしながら先に進む。

本木は「六阿弥陀巡り」に由来する地名


西新井栄町、西新井5丁目と進み興野、本木地区に。興野はもともと、本木村の奥、ということで、「奥野」と呼ばれていた。崩し文字で奥を興と読み違え、「興野」と。ほんまかいな? また、「こうや:荒野・高野・興野」で文字通り、新開地といった意味から、との説もある。
本木の由来もあれこれ。気に入った説をメモする:足立小輔が熊野権現に願掛けをして得た愛娘・足立姫を豊島清光に嫁がせる。が姑との折り合い悪く里帰りの途中、行く末をはかなみ侍女5人と入水自殺。足立小輔、菩提をとむらうべく全国の霊場巡礼。熊野で「霊木を授ける。仏像を刻むべし」とのお告げ。霊木を得る。なぜかは知らねど、その木を紀伊の海に流す。足立に戻ると、霊木は足立の里に流れ着いていた。霊木を館に安置。諸国行脚の行基菩薩が立ち寄り、霊木から六体の阿弥陀如来を彫り、近隣の六ケ寺に。で、根元に近い余り木で一体を彫り館に収めた。この仏さまを「木余り如来」「本木の如来」と。これが地名となった、と。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

この話、先日の足立散歩の時、船方神社で出会った。もっともそのときは、侍女は12人だったよう。また、足立さんのほうに嫁ぐってことで真逆でもあった。敵役も替わっている。真偽のほどは、どちらでもいいか、とも。それより、こういった話が、江戸の六阿弥陀詣での縁起として昇華する。
足立、荒川あたりで「六阿弥陀」ってフレーズをよく耳にした。阿弥陀如来が収められた六つのお寺を巡るのが「六阿弥陀」。密教では非業の死をとげた人を鎮魂するためにおまつりするわけだが、入水したお姫さまと5人の次女といった民間伝承を、密教の信仰に組み込んでいったのであろう。六つのお寺は、豊島の西福寺、小台の延命寺・西原の無量寺・新堀の与楽寺・下谷の常樂院・亀戸の常光寺。「本木の如来」は性翁寺・「木残り如来」は西原の昌林寺にあるという。延命寺は明治9年廃寺。豊島の恵明寺に移され、常樂院は調布西つつじが丘に移転。
「六阿弥陀」は全行程6里以上。結構な距離。「六つに出て六つに帰るを六阿弥陀(川柳)」といったように一日仕事。「六阿弥陀翌日亭主飯を炊き(川柳)」、といった無理な行軍で弱った女房に代わり旦那がオサンドン。「六阿弥陀みんな廻るは鬼ババァ(川柳)」といったとんでもない句も。「六阿弥陀嫁の噂の捨て所」と言われるように、江戸の庶民のリクリエーションとして江戸の中頃広まっていった、と言う。

中曽根神社
本木2丁目に中曽根神社。中曽根城跡と言われる。中曽根城は足立区一帯を支配していた千葉次郎勝胤により築かれたとされる。が、どうもよくわからない。伊興の千葉勝胤の墓のところでメモしたように、勝胤は下総千葉氏。このあたりの武蔵千葉氏の流れにその名は無い。足立区の郷土館で手に入れた資料にも、このお城をつくったのは「千葉某」と書いてあった。
千葉での本家・庶家争いに敗れ、この地に逃れてきた本家筋の千葉実胤(さねたね)・自胤(これたね)が武蔵千葉家となる。上杉氏の重臣・太田道灌の援助を得て、武蔵国石浜(荒川区から台東区にかけての隅田川沿岸)と赤塚(板橋区)に軍事拠点を構えて下総国の奪還を期す。結局、千葉への返り咲きは叶わなかった。で、拠点としたのがこの中曽根城。地名をとり、「淵江城」とも。
其の後の千葉氏:大永4年(1524年)小田原北条氏が上杉氏の江戸城を攻略。武蔵国に進出。武蔵千葉氏もその傘下に。北条氏のもとで家格を重視され、「千葉殿」の尊称 を得る。天正18年(1590年)に北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると共に中曽根城も放棄された。

関原・関原不動尊
少し東に進む。関原2丁目に大聖寺。関原不動尊とも。関原の地名の由来は不明。木造の本堂はしっとりと美しい。境内には「おびんずる様」。赤や青の着物や紐でぐるぐる巻かれたほとけさん。苦しいところをなでると直る、とされる「なでぼとけ」。この「おびんずる様:賓頭盧尊者」はいつも赤ら顔。早い話が飲兵衛の仏様。お釈迦様のお弟子さんではあったが、内緒でちびちび。御釈迦さんに説教され禁酒を誓う。が、つい一献。ということで破門。一念発起で修行。お釈迦さんも努力を認め、本堂の外陣であれば、ということでそばにはべるのを許された、って仏様。以降、いろんなところで「おびんずる様」に出会うことになるが、ここが「おびんずる様」最初の邂逅地。

西新井橋
商店街を少しくだると八幡神社。「出戸八幡」とも。出戸は砦のこと。中曽根城主・千葉氏の守護神であった。先に進み首都高速中央環状線をくぐり、荒川堤に。西新井橋を渡り千住に進む。

元宿神社

千住元町を進む。軒先をかすめるが如くの有様。下町って感じ。道なりにすすむと元宿神社。由来書をメモする:このあたりは鎌倉時代には集落ができていた。奥州路もここを通っていたと言われる。江戸時代初期、日光道中開設とともに成立した「千住宿」に対して「元宿」と。天正の頃、甲州から移り住んだ人々によって北部の川田耕地などが開墾され、その守護神・八幡宮がこの地に祀られた。

大川町氷川神社
東に進み千住大川町。大川町氷川神社。荒川放水路工事のため大正4年(1915年)現在地に移転。「紙漉歌碑」。足立区は江戸時代から紙漉業が盛ん。地漉紙を幕府に献上した喜びの記念碑。浅草紙というか再生紙は江戸に近く、原材料の紙くずの仕入れも簡単、地下水も豊富なこの足立の特産だった。境内には富士塚も。
日も暮れてきた。千住宿は結構見所が多そう。後日ゆっくり歩く、ということで千代田線・北千住駅に進み家路へと急ぐ。これで足立区散歩は一応お終い。

土曜日, 6月 17, 2006

足立区散歩 そのⅠ;大鷲神社からはじめ、毛長川・新芝川に沿って荒川まで

いつだったか、曳舟川跡散歩のとき、足立区の神明地区から亀有まで、中川に沿って南に下った。中川は足立区の西の境、である。今回の足立区散歩は、さてどこから、と考えた。で、なんという理由はないのだが、なんとなく花畑にある大鷲神社に行こう、と思った。現在お酉さまで有名なのは浅草の大鷲神社ではあるが、元々のお酉様は足立区の大鷲神社という。
大鷲神社の場所を確認。足立区と埼玉県八潮市、草加市の境にある。綾瀬川と伝右川、そして毛長川の合流点。毛長川が埼玉・草加と足立の境になっている。毛長という名前に惹かれた。また、毛長川は、古墳の入間川の流路、である。
現在の入間川は飯能あたりを源流とし、川越とさいたま市の境あたりで荒川に注ぐ。江戸の荒川西遷事業の頃は、現在の荒川・隅田川の流路を下っていた、という。荒川西遷事業、というのは、現在の元荒川・古利根川筋を流れていた荒川の流れを、西に流れる入間川に大鷲神社瀬替した大工事のことである。で、古墳時代の入間川は、というと、これが当時の利根川水系の主流であった、よう。熊谷>東松山>川越>大宮>浦和>川口>幡ヶ谷、と下り、現在の毛長川に沿って流れ足立区の千住あたりで東京湾に注いでいた、ということだ。
葛飾・柴又散歩のとき、東京下町低地の二大古墳群は柴又あたりと毛長川流域とメモした。そのときは、それといったリアリティはなかった。が、千住あたりが当時の海岸線である、とすれば、この毛長川流域、って東京湾から関東内陸部への「玄関口」。交通の要衝に有力者が現れ、結果古墳ができても、なんら違和感は、ない。
大鷲神社がきっかけに、古墳時代の武蔵の「中心地」のひとつ、毛長川が現れた。ということで、今回の散歩は、大鷲神社からはじめ、毛長川にそって埼玉・川口市まで歩く。その後は、新芝川に沿って荒川まで進み、鹿浜橋を越え王子に出る、といったルート。つまりは、東京と埼玉との境を川にそってぐるっと一周することにした。



本日のコース: 竹の塚駅 > 竹塚神社 > 保木間氷川神社 > 花畑・正覚寺 > 綾瀬川・伝右川・毛長川合流点 > 大鷲神社 > 白山塚古墳・一本松古墳 > 花畑浅間神社 > 花畑遺跡 > 法華寺境内遺跡 > 伊興・白旗塚古墳 > 応現寺 > 伊興寺町 > 東伊興・氷川神社 > 伊興遺跡 > 毛長川・毛長橋 > 見沼代用水跡 > 諏訪神社 > 舎人氷川神社 > 入谷古墳・入谷氷川神社 > 入谷・源証寺 > 新芝川・荒川の合流点 > 鹿浜橋

地下鉄日比谷線・竹の塚
地下鉄日比谷線・竹の塚下車。近くに竹が生い茂る塚・古墳があった、とか、「高い塚」を意味する「たかきつか」が転化したもの、とか例によって諸説いろいろ。エスカレータで降り、駅の東を進む。

竹塚神社
竹塚神社。源頼義公の足跡。奥州征伐の折、この地に宿陣した、と。墨田にしても、葛飾にしても、いやはや源頼義、その息子八幡太郎義家の由来の多いこと

延命寺

北に少し進み竹塚5丁目に延命寺。総欅造りの山門はなかなか渋い。昭和51年に佐渡の円通寺から移されたもの。鎌倉とか室町の作と伝えられる聖徳太子がある。

保木間氷川神社
延命寺の東、保木間1丁目に保木間氷川神社。保木間地区の鎮守さま。もと、この地は千葉氏の陣屋跡。妙見社が祀られていた。妙見菩薩は中世にこの地で確約した千葉一族の守り神。千葉一族の氏神とされる千葉市の千葉神社は現在でも妙見菩薩と同一視されている。菩薩は仏教。だが、神仏習合の時代は神も仏も皆同じ、ってこと。後に、天神様をまつる菅原神社、江戸には近くの伊興・氷川神社に合祀。この地で氷川神社となったのは明治5年になってから。本殿の裏手に富士塚。鳥居には「榛名神社」。ということは、富士は富士でも榛名富士? 氷川神社の前を通る道は江戸時代の「流山道」。花畑の大鷲神社、成田さんへ、また、西新井大師へと続く信仰の道。

花畑・正覚寺
保木間地区をブラブラと歩き綾瀬川まで進むことに。途中の保木間4丁目には寺町っぽい地区がある。地名の保木間は、もともとは「堤や土地の地滑りを防ぐ柵のこと。山城の国からやってきた人々が一面の湿地帯を開拓し部落をつくったときにつくったこの柵のことを地名とした。「ほき」は「地崩れ」、「ま」は「場所」。
少し東、花畑3丁目に正覚寺。ここにも新羅三郎義光の伝説。兄である八幡太郎義家を助けるため奥州遠征の途中、この寺に立ち寄る。守り本尊を預け、戦勝祈願を。正覚院に凱旋帰還。住職曰く「枯れ木に花又が咲くがごとくなり」と。

花畑・綾瀬川、伝右川、そして毛長川の合流点

毛長・綾瀬合流先に進み綾瀬川の堤に。雑草が生い茂る土手道。草を踏み分けながら北に進む。途中、花畑6丁目に諏訪神社。先に進むと綾瀬川、伝右川、そして毛長川がひとつにあるまる合流点に。花畑7丁目。花畑ってなんとなく惹かれる名前。地名の由来を調べる。元は花又村。明治に近隣の村が一緒になるとき、もとの花又村の{花}と、近辺が畑地であったので「畑」を加え、「花畑」に。で、もとの花又であるが、花 = 鼻 = 岬・尖ったところ。又 = 俣>分岐点。毛長川と綾瀬川、伝右川のが合流・分岐する三角洲、といった地形を美しく表した名前である。
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大鷲神社

大鷲神社毛長川に沿って湾曲部を進む。雑草が深い。湾曲部を廻りきったあたりで道路と交差。左に折れると直ぐに大鷲神社。大鷲神社はこの地の産土神。中世、新羅三郎源義光が奥州途上戦勝祈願。凱旋の折武具を献じたとか。
浅草酉の市の発祥の地。室町時代の応永年間(1394 - 1428年)にこの神社で11月の酉の日におこなわれていた収穫祭がお酉さまのはじまり。「酉の待」、「酉の祭り」が転じて「酉の市」になった、とか。
この地元の産土神さまのおまつりが江戸で有名になったのは、近隣の農民ばかりでなく広く参拝人を集めるため、祭りの日だけ賭博を公認してもらえたこと。賭博がフックとなり千客万来状態。江戸から隅田川、綾瀬川を舟で上る賭博目的のお客さんが多くいた、と。が、安永5年に賭博禁止。となると客足が途絶える。新たなマーケティングとして浅草・吉原裏に出張所。これが大当たり。本家を凌ぐことになった。賭博にしても、吉原にしても、信仰といった来世の利益には、こういった現世の利益が裏打ちされなければ人は動かじ、ってこと。かも。ついでに、参道で売られた熊手も、もとは近隣農家の掃除につかう農具。ままでは味気ないということで、お多福などの飾りをつけて販売した。
「大鷲」の名前の由来:この産土神さまは「土師連」の祖先である天穂日命の御子・天鳥舟命。土師(はじ)を後世、「ハシ」と。「ハシ」>「波之」と書く。「和之」と表記も。「ワシ」と読み違え「鷲」となる。ちなみに、天鳥舟命の「鳥」とのイメージから「鳥の待ち」に。この待ちは、庚申待の使い方に同じ。
鳥の話、といえば、鉄道施設と鳥のかかわり。東武伊勢崎線はこの花畑地区を通る予定だったらしい。が、この「陸蒸気」、その轟音と煤煙でにわとりが卵を産まなくなる、とか、大鷲神社の「おとりさま」に不快な思いをさせるのは畏れ多い、ということであえなく中止。電車が通っていたら、この辺りの環境は今とは違った姿に、なっていたのでは、あろう。
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毛長川:白山塚古墳・一本松古墳・花畑浅間神社
毛長川に沿って進む。川に沿って古墳が多い。大鷲神社近辺には白山塚古墳、一本松古墳。花畑大橋をすこし進むと花畑浅間神社。といっても本殿はなし。富士塚があるだけ。「野浅間」と呼ばれる。つくられたのは明治になってから。毛長川にそって点在する古墳を利用したもののよう。

毛長川:花畑遺跡・法華寺境内遺跡
さらに進む。花畑から保木間に入るあたり、日光街道に交差するあたりに花畑遺跡。草加バイパスを越え、直ぐ先、川からすこし入ったあたりに法華寺境内遺跡。
先に進む。東武伊勢崎線と交差。西清掃事務所に沿って谷塚橋に。左に折れ、次の目的地・白旗塚古墳に向かう。

伊興・白旗塚古墳
白旗古墳伊興白旗交差点。いかにも水路跡のような道筋。どうも、保木間掘跡のよう。保木間掘親水公園と呼ばれるようだが、東部伊勢崎線との交差するあたりまでは、そういった雰囲気はない。
線路手前を南に折れるとすぐ「白旗塚史跡記念公園」。白旗塚古墳がある。5世紀から6世紀につくられたもの。伊興古墳群のひとつ。直径12m、高さ2.5m、広さ60平方メートルの上段円墳。白旗塚古墳以外にも、甲塚古墳、擂鉢塚古墳などがあったよう。白旗塚の由来は、例によって、源頼義、義家が登場。これも例によって、勝利の証、源氏の白旗を掲げたところ、だとか。
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伊興寺町
伊興遺跡古墳脇に座り、一息入れる。足立って、由来は何、と考える。低湿地帯に葦が立ち並ぶ、ってことだろう、と。どうもそのとおりのよう。公園を離れ伊興寺町に。伊興町狭間と呼ばれる。北の毛長川、南の沼地に挟まれた微高地だったのが狭間の由来。お寺は関東大震災の後、浅草本所近辺のお寺がこの地に移ってきた。ちなみに、浅草の南にあったお寺は烏山に移り、烏山寺町に。
応現寺:伊興五庵と呼ばれている五つのお寺を南から進む。最初は「応現寺」。寺宝のいくつかは国立博物館に展示されている、とか。一遍上人の開いた時宗のお寺。江戸初期の建築様式が残る山門が美しい。
東陽寺:塩原太助の墓がある。江東区散歩のとき、亀戸天満宮とか塩原橋など、何回か出会った。「本所(ほんじょ)に過ぎたるものが二つあり津軽大名炭屋? 塩原」と呼ばれた本所在住の豪商。1876年三遊亭円朝が『塩原太助一代記』をつくり、噺をして以来一躍有名人に。
「河村瑞軒の墓」もある。瑞軒にも中央区霊岸島散歩のとき出会った。川村瑞賢は江戸初期の豪商。明暦の大火のとき、木曽福島の木材を買占め大儲け。その後、米を運ぶための航路開発や淀川治水工事などに貢献した。
法受院:五代将軍・綱吉の生母 桂昌院の墓がある。「怪談牡丹灯篭の碑」も。谷中に住んでいた円朝は千駄木・三崎坂の荒涼たる法住寺をモチーフに怪談を創作。怪談に出てくる寺の了碩(りょうせき)和尚は当時実在した住職。子供の頃、新東宝映画でこの手の怪談ものを良くみた。三本立て10円であった。ともあれ、怪談牡丹灯篭のあらすじ:旗本の娘お露は浪人萩原新二郎に恋。父に許されず、恋焦がれ死して幽霊となり、乳母お米の幽霊を伴い夜ごと牡丹灯寵をさげて新二郎の許へ通う。三崎坂にカランコロンと響いた下駄の音、ってストーリー。
そのほかこの寺町には常福寺。「林家三平(海老名家)」の墓がある。
易行院には花川戸助六と芸者・揚巻の墓が。団十郎の建てた「助六の碑」も。このお寺、落語家・三遊亭円楽師匠の実家とのことである。浅草・清川町から移る。
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東伊興・氷川神社

氷川神社寺町から離れ、毛長川方面に。東伊興2丁目に氷川神社。足立区最古の氷川社。淵江領42カ村の総鎮守。「淵の宮」とも呼ばれる。奥東京湾の海中にあった東京下町低地一帯が陸地化していく中で、このあたりが最も早く陸地化した。古墳時代に人々は、大宮あたりから当時大河川であった毛長川を下り移り住む。で、大宮・武蔵一ノ宮の氷川神社を勧請。
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伊興遺跡

伊興遺跡当時はこのあたりは淵が入り組んだ一帯。「淵の宮」と呼ばれた所以。付近一帯は古代遺跡。神社の直ぐ隣に伊興遺跡。縄文後期(約4000年前)から古墳時代初期の遺跡。毛長川沿いにあった遺跡のなかでもっとも繁栄した遺跡。毛長川を利用した水上交通の要衝。西日本からの須恵器なども発見されている。公園内の展示館には出土品を展示してある。伊興の地名の由来。定かならず。「吾妻鏡」に地頭で「伊古宇」の名前などが登場する。関係あるのかないのか、ともあれ不明。
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毛長川・毛長橋

毛長川毛長川に沿って西に進む。ところで、毛長川の名前の由来。地名の由来がいつも気になる、というか、地名の由来から昔の姿を想像する、それが楽しい。ともあれ、毛長川の由来:毛長川を隔て、埼玉の新里すむ長者に美しい娘。葛飾・舎人の若者と祝言。婿殿の実家と折り合い悪く実家に戻ることに。その途中沼に身を投げる。その後、長雨が続くと沼が荒れる。数年後沼から長い髪の毛を見つける。娘のものではないかと、長者に届ける。長者感激。ご神体としておまつり。それ以降沼が荒れることがなくなる。その神社が現在新里にある毛長神社。沼を毛長沼と。
毛長橋を越えると古千谷本町4丁目。「古千谷」 = こじや。古千谷の由来:江戸時代の文書にこの地を「東屋」=「こちや」。東風(こち)吹かば、匂いおこせよ、の「こち」。もともとは「荒地谷(こうちや)」だった、かも。「こうち」は「洪水のあることろ」。「や」や沢とか湿地・低地未開拓の湿地帯のこと。ちなみに、小千谷(おじや)は「落合」。水が落ち合 = 合流するところ。なんとなく音・表記が似ていたのでメモした、だけ。
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舎人・見沼代用水跡と諏訪神社

毛長川の堤を進み、舎人3丁目に。舎人の由来。これも、舎人親王に関係あるとか、「とね = 小石の多いやせ地」+「いり = 入り江」 = 「とねいり」>転化し「とねり」>「舎人」と表記、とか諸説あり定かならず。
堤からはなれ、一筋南に水路跡。見沼代用水跡。現在は親水公園になっている。親水公園脇に諏訪神社。小さい鳥居。この神社にまつわる婚姻説話:昔、この社地に夫婦杉。が、見沼代用水を掘り割るとき、水路を隔てた泣き別れに。以来、里人は縁起をかつぎ、この地を避けて通ることに。その心は、婚礼の時、難儀するほうが後々幸せに、といったこと、また、里を練り歩き、婚礼を披露するための方便に、といったこともある、とか。

舎人氷川神社

先に進み、舎人5丁目に舎人氷川神社。鎌倉初期に大宮氷川神社を勧請。現在の社殿は天保7年(1836年)のもの。総欅つくり。舎人の地も古くから開けたところ。神社近くの舎人遺跡からは古代の井戸が見つかっている。江戸時代は赤山街道の宿場として栄える。
入谷古墳・入谷氷川神社 少し南に入谷古墳・入谷氷川神社。「新編武蔵風土記」入谷古墳のメモ:「八幡社 塚上ニアリ。土人白旗八幡ト称ス。古岩槻攻ノ時、当所ニ幡ヲ立ショリ、カク称セリト云」と。昭和49年区画事業により、この塚の半分以上が削られることになっていたが、入谷氷川神社総代を中心とした住民の反対により計画変更。保存されることに。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

入谷・源証寺
少し南に下った入谷2丁目に源証寺。江戸中期の建築様式を今に伝える太子堂、梵鐘で知られる。入谷の由来。毛長掘からは「入り込んだ」湿地。

新芝川
入谷から皿沼、谷在家、加賀そして鹿浜、そして新芝川へと進む。皿沼の由来。定かならず。が、「さら」 = 「浅い」ということで、「浅い沼」>「湿地帯」。皿沼は水はけの悪い、水田地帯だった。加賀。これも由来不明。が、「かが」って「耕作地にできない草群とか岩地」。このあたり耕地になりえないようなところだったのだろうか。谷在家の由来。沼田川の谷もしくは沢に開いた農家。在家は集落のこと。「湿地の部落」って意味。どうしたところで湿地帯であったようだ。ちなみに鹿浜。「しかはま」または「ししはま」。鹿を「しし」と読むことは多い。鹿が群れていたところだったのだろう。
入谷からのルート一帯は御神領。神の領地。この場合の神は東照大権現・家康。御神領とはつまりは東叡山・寛永寺の領地のこと。家康入府以来、このあたりは天領であったが、四代将軍家綱、五代将軍綱吉が寄進した。御神領堀といった用水も道筋にあった。

新芝川から荒川との合流点に
御神領を進み、新芝川の堤を下り荒川との合流点に。合流点近くに休憩所。夕刻でもあり、眺めが素晴らしい。しばしゆったり。荒川に沿って下り、鹿浜橋を渡り新田地区に。夕刻時間切れのため、タクシーにのり新神谷橋を渡り王子の駅に。本日の予定終了。

水曜日, 6月 14, 2006

葛飾区散歩 そのⅢ:亀有から立石、そして新小岩へと

亀有から立石、そして新小岩へと
中川青戸金町・新宿町の散歩を終え、今回は昔の亀有村地区から立石、そして新小岩に下る。このあたりも、結構古くから開かれていたよう。養老5年(721年)の「下総國葛飾郡大嶋郷戸籍」大嶋郷にあった甲和里は現在の小岩、仲村里は奥戸あたりとされる。この周辺は利根川や荒川といった暴れ川の堆積作用によって嶋もしくは浮洲、微高地が点在。西暦4世紀ころには、そこに古代に人々が住み着き農業や漁業を営み、奈良時代には既に集落が形成されていた、ということだろう。
実際、今日の散歩のコースにある、立石さまの霊石、熊野神社の神体である「石」も古墳の石室であろう、と。熊野神社近くの南蔵院の裏手にも古墳跡が残る。先回歩いた、柴又八幡様の古墳も含め、このあたりは足立区の毛長川流域の古墳群とともに、東京低地にある代表的古墳群とされる。大型ではなく比較的小型のこれら古墳群は6世紀後半の群集墳の特徴を示す。
古くから開けた、この大嶋郷、当時の人口は1,191名。明治7年で16,570名。明治の頃でもその程度の人口。昭和7年の葛飾区誕生時は89,919名。そして現在は40万名強、となっている



本日のコース:R亀有駅 ; 御殿山公園・葛西城跡 ; 青砥神社 ; 中原八幡神社 ; 「立石」様 ; 熊野神社 ; 南蔵院の古墳跡 ; 奥戸の鬼塚 ; 西井掘跡 ; 於玉稲荷 ; JR新小岩駅

御殿山公園・葛西城跡

橋の西詰め、道の右手に延命寺。江戸時代初期の庚申塔がある。環七通り・青砥陸橋のある青戸交差点を南に折れる。少し進むと御殿山公園。v 環七に沿ったこの公園は葛西城跡。中川に沿った微高地に築かれた平城跡。15世紀中ごろに関東管領上杉氏が築いたと言われる。その後小田原北条氏の手に落ち、下総進出の拠点として拡張整備される。国府台合戦のときは後北条側の基地として使われたのだろう。その後もこの城を巡っての争奪戦が繰り広げられるが、天正18年(1590年)秀吉の小田原征伐による北条の滅亡とともにその使命を終える。
家康江戸入府の後は、この地に青戸(葛西)御殿が建てられ、家康・秀忠・家光の三代にわたる鷹狩の休息所として利用される。その屋敷も17世紀後半には取り壊された、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

青砥神社
青戸神社環七を隔てて中川寄りに青砥神社。もとは白髭神社と呼ばれる。天正の頃、白髭・諏訪・稲荷神社を合わせ、三社明神と。昭和18年、付近の白山神社を合わせ、青砥神社とする、と。
ここまでメモしてきてちょっと気になることが。青砥? 青戸? 地名が混在している。表記が二通りある。調べてみた。元は青戸。「戸」は「津」と同じ。津は湊を意味する。青戸を「おはつ」と読み表記している文献もある。「おはつ」>「おおつ:大津」>「おおと:大戸」>「あおと:青戸」となったのだろう。元々の意味は、「おおいに栄えた津・湊」、であったのだろう。
それが「青砥」と表記されるようになったきっかけは、高砂・極楽寺で出会った青砥藤綱、から。江戸時代、この名裁判官が一躍有名になり、その名声にあやかって「青砥」と表記するケースもでてきた、ということらしい。つまりは、地名・地形にかかわるものは「青戸」、藤綱を冠したいケースは「青砥」。とはいうものの、青砥藤綱って、実際の人物かどうか不明ではある。江戸時代、滝沢馬琴が中国の小説をモデルにして書いた『青砥藤綱模稜案』、これって大岡裁きの中世版といった読み物であるが、これがヒットして庶民のヒーローになったのが青砥藤綱ってこと、らしい。
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中原八幡神社
環七を進み、青戸5丁目で京成線と交差。少し西に青砥駅。駅前に中原八幡神社。その昔、60人あまりの近在の男衆が祭事を行っている姿を描いた絵馬が有名、らしい、が一見客の我が身が見れるわけもなし。

「立石」様
立石さま立石8丁目まで下り、「立石」様を探す。少々迷ったが、児童公園の隅っこに「立石」様を発見。立石の地名の由来ともなったもの。「根あり石」とも呼ばれ、昔、いくら掘っても、掘っても最後まで行き着かない、地中に埋没する部分が計り知れない、といわれる石。
石の下には空洞があるようで、石室をもった古墳の石室の天井、ではないかといった説もある。ちなみに石は千葉の鋸山からしかとれない房州石(凝灰岩)。柴又八幡神社遺跡の古墳の石室につかわれているものと同じ、である、
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熊野神社
熊野神社立石さまの直ぐ近くに熊野神社。陰陽師で有名な安倍清明の創建とされる。清明、花山上皇に従い熊野での山篭りを終え、熊野神社勧請の旅の途中この地を訪れる。中川、というか古利根川に沿ったこの美しい地を聖なる地と。陰陽道五行説の五行をかたどり境内を30間5角とし、五行山熊野神社とし、熊野三社権現をまつり、石棒・石剣をご神体とする。以来、人々の信仰を集める。また葛西清重の信仰も篤かった、と。江戸に入っては三代将軍家光、八代将軍吉宗は「鶴」お成りの際はこの神社参拝を常とした。
とはいうものの、安倍清明さん、って実在の人物かどうかよくわからない。平将門の息子という説も。花山天皇とともに将門の意を継いで関東に独立国をつくろう、とした、って説も。熊野散歩のときにも、鎌倉散歩のときにも、花山天皇ってよく顔をあらわす。関東に下ったって事実はないようだ、が。
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南蔵院の古墳跡
南蔵院熊野神社の南に南蔵院。裏手に古墳が残る、という。東京低地の古墳群は上にメモしたように、足立の毛長川流域。この地葛飾一帯。この二つは代表的なもの。そのほかに、荒川区南千住の素盞雄神社、台東区の鳥越神社、北区の中里遺跡など、さらに浅草寺周辺についても古墳跡ではないか、とも言われている。
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奥戸の鬼塚

奥戸川中川に沿って下り、本奥戸橋に。橋を渡ると昔の奥戸町。奥戸はもと、奥津。津は湊。奥はよくわからない。本奥戸橋東詰に。中川にそって中川左岸緑道公園。少し進むと大きな工場。森永乳業。塀にそって東から南に進む。奥戸3丁目、南奥戸小学校の南に「鬼塚」。室町、江戸に渡って築造された塚。江戸時代にはお稲荷様をまつるため土を盛り、塚をつくりなおしている。塚のあたりからはハマグリといった貝殻の堆積も見られる。
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西井掘跡
西に進むとなんとなく川筋跡っぽい道筋。西井掘。葛西用水が新中川、これって昔は無かった川だが、この新中川にかかる細田橋あたりで分岐し南西に流れる一流。もうひとつ中井掘はまっすぐ南に下る。
西井掘跡を奥戸から東小岩地区に下る。東小岩3丁目あたりから緑道になっている。蔵前橋通りと交差。巽橋交差点。南に折れ平和橋通りを歩き、総武本線の南側に進む。

於玉稲荷

最後の目的地は新小岩4丁目にある於玉稲荷。線路にそった道を進み、適当に右に入りこみなんとか到着。由緒書:「当地は「小松の里」と呼ばれ、かつては徳川将軍の鷹狩の地でした。古地図で見ると、この地に「おたまいなり」の所在が記されていますが、古くは御分社でありました。当、於玉稲荷神社はこのゆかりの地に、安政2年の大震火災で焼失した神田お玉が池の社を、明治4年に御本社として遷宮したものです。 神田時代のお玉が池の稲荷神社の沿革については「江戸名所図会」神田之部所引の「於玉稲荷大神の由来」にも述べられているように、長禄元年 太田道灌の崇 敬をはじめ、寛正元年 足利将軍義政公の祈願、さらには文禄4年 伊達政宗公の参詣などが記されております」と。
於玉稲荷の後は JR 新小岩駅に戻り、本日の散歩終了。新小岩の由来は、駅名に「新小岩」という名前がお役人によってつけられたため。小岩は大嶋郷「甲和」>こいわ、から。葛飾区散歩もほぼ完了。後は昔の南綾瀬町を残すのみ。そのうちに。