火曜日, 12月 04, 2012

秩父・信州往還散歩;その弐 十文字峠から白泰山の山稜を辿り秩父・栃本関所跡へ

秩父・信州往還散歩;その弐 十文字峠から白泰山の山稜を辿り秩父・栃本関所跡へ


「とある居酒屋で梓山村に帰りがけの爺さんと一緒になり、共にこの渓谷のつめの部落梓山村に入つた。そして明日はこの爺さんに案内を頼んで十文字峠を越ゆることになつた。(中略)
十文字峠は信州武州に跨がる山で、此処より越えて武蔵荒川の上流に出るまで上下七里の道のりだといふ。その間、村はもとより、一軒の人家すら無いといふ。暫らく渓に沿うて歩いた。もう此処等になると千曲川も小さな渓となつて流れてゐるのである。やがて、渓ばたを離れて路はやゝ嶮しく、前後左右の見通しのきかない様な針葉樹林の中に入つてしまつた。木は多く樅と見た。今日はいちにち斯うした森の中を歩くのだと爺さんは言つた。(中略)
いかにも深い森であつた。そして曲のない森でもあつた。素人眼には唯だ一二種類と見ゆる樹木が限界もなく押し続いてゐるのみであるのだ。不思議と、鳥も啼かなかつた。一二度、駒鳥らしいものを聞いたが、季節が違つてゐた。たゞ散り積つてゐるこまかな落葉をさつくり/\と踏んでゆく気持は悪くなかつた。それが五六里の間続くのである。


幸ひに登りつくすと路は峰の尾根に出た。そして殆んど全部尾根づたひにのみ歩くのであつた。ために遠望が利いた。ことに峠を越え、武州地に入つてからの方がよかつた。我等の歩いてゐる尾根の右側の遠い麓には荒川が流れてゐ、同じく左側の峡間の底には末は荒川に落つる中津川が流れてゐた。いや、ゐる筈であつた。山々の勾配がすべて嶮しく、且つ尾根と尾根との交はりが非常に複雑で、なか/\其処の川の姿を見る事は出来なかつた。
やがて夕日の頃となると次第にこの山の眺めが生きて来た。尾根の左右に幾つともなく切れ落ちてゐる山襞、沢、渓間の間にほのかに靄が湧いて来た。何処からとなく湧いて来たこの靄は不思議と四辺の山々を、山々に立ちこんでゐる老樹の森を生かした。
また、夕日は遠望をも生かした。遠い山の峰から峰へ積つてゐる雪を輝かした。浅間山の煙だらうとおもはるゝものをもかすかに空に浮かし出した。其他、甲州地、秩父地、上州地、信州地は無論のこと、香かに越後境だらうと眺めらるゝもろ/\の峰から峰へ、寒い、かすかな光を投げて、云ふ様なき荘厳味を醸し出して呉れたのである。(中略)
日暮れて、ぞく/\と寒さの募る夕闇に漸く峠の麓村栃本といふへ降り着いた。此処は秩父の谷の一番つめの部落であるさうだ。其処では秩父四百竃の草分と呼ばれてゐる旧家に頼んで一宿さして貰うた。
栃本の真下をば荒川の上流が流れてゐた。殆んど真角に切れ落ちた断崖の下を流れてゐるのである。向う岸もまた同じい断崖でかえたつた山となつて居る。その向う岸の山畑に大根が作られてゐた。栃本の者が断崖を降り、渓を越えまた向う地の断崖を這ひ登つてその大根畑まで行きつくには半日かかるのださうだ。帰りにはまた半日かゝる。ために此処の人たちは畑に小屋を作つて置き、一晩泊つて、漸く前後まる一日の為事をして帰つて来るのだといふ。栃本の何十軒かの家そのものすら既に断崖の中途に引つ懸つてゐる様な村であつた」。

若山牧水の『木枯紀行』の一節である。牧水が十文字峠を越え秩父の栃本へと辿ったのは大正12年(1923)11月10日のこと、と言う。牧水は旅を愛し、旅にあって各所で歌を詠んだ歌人と称される。実際散歩を始めると各地で牧水に会う。上越国境の三国峠でも出会った。旧中山道の和田峠越えの時にも茂田井の宿で出会った。書物に称される人物像にリアリティが積みあがる。それはそれとして、おおよそ90年後の同じ頃、我々も牧水と同じく、梓山から十文字峠を越えて秩父の栃本に向かう。

本日のルート:十文字小屋;午前6時半出発>股の沢分岐;午前7時;標高1980m>四里観音避難小屋;午前7時52分;標高1809m>東に展望が開けたところ;午前8時42分;標高1740m>林道合流点;午前8時51分;標高1752m>三里観音;午前9時17分;標高1661m>鍾乳洞入口;午前9時46分;標高1761m>岩ドヤ;午前9時58分;標高1767m>二里観音;午前11時;標高1736m>白泰山標識;12時;標高1700m>一里観音;13時;標高1377m>栃本広場分岐;13時12分;標高1301m>車道合流;13時26分;標高1146m>十二天;13時52分;標高1010m>両面神社l13時56分;標高971m>下山口;14時6分;標高878m>栃本関所跡;14時20分;標高775m>川又バス停;14時45分;標高670m

十文字小屋;午前6時半出発_標高1971m
早朝に食事を済ませ、小屋を出発。すぐに「甲武信ケ岳」「白泰山 栃本 股ノ沢 川又」の道標。「白泰山 栃本 股ノ沢 川又」方向に道をとり、先に進む。道の両側の苔が美しい。「ぶくぶくする苔深い樹間を草履もて軽くふむ気持ち」と田部重治(明治後期のイギリス文学者。北アルプスや奥秩父を中心とする日本各地の山に足跡を残す)が描く奥秩父の原生林を進む。どこかで、「十文字小屋から進む500mほどの一帯が奥秩父の原生林の中でも、最も美しいところ」といった記事を読んだことを思い出した。奥秩父の「深林(木暮理太郎の造語。明治後期の先駆的登山家)」は誠に美しい。




山道は甲武信ケ岳から北に伸びる尾根筋にある大山(標高2,220m)の山麓を東に向かって巻いて進む。一面の苔の中を20mから20mほどの比高差を30分ほど進み股の沢分岐に到着。

股の沢分岐;午前7時;標高1980m
分岐点にある「股の沢 川又」方面という標識に、沢上りフリークとしてフックが掛かりる。今回は沢を川又へと辿るわけではなく、白泰山を経る稜線を栃本・川又へと進むのであるが、木暮理太郎、田部重治などの描く奥秩父の魅力は、沢の織りなす渓谷美も重要なファクターとなっているように思える。

「秩父の奥山に一たび足を踏み入れた人は、誰でも秩父の特色は深林と渓谷にあることを心付かない者はないであろう。それほど秩父ではこの二者が密接な関係を有している。深林あるが為に渓谷はいよいよ美しく、渓谷に由りて深林はますますその奥深さを増してゆくので、二者いずれか一を欠いても、秩父の特色は失われなければならぬ(木暮理太郎『山の思い出』)」。

「秩父の山の美は深林と渓谷とのそれである。信越の山々の超越的な、高邁な姿は、秩父の山の深林の幽暗と渓流の迂曲と共に私を引きつけた。私は秩父の山において一種神秘的なまた一方伝説的なものを感ずると共に、また、宇宙存在以来その間にこもって離れない山の魂という風なものに触れたような感じがした(田部重治『新編山と渓谷』)」。

「秩父の栃本から七里の間うねうね続く十文字峠の栂の林の美はいわずとしても、荒川や中津川の渓谷の新緑の勇姿は、ここを通る旅客の心に深く印象せずには置かない。幾十となく分岐せる荒川の渓谷を、峠の上から眺めると、見渡すかぎり、約五千尺から上は針葉樹を以て濃い藍色に、それから下は闊葉樹の新緑を以て埋もれて、宛ら自然はありあまる緑を如何に処理すればよいか迷えるかのように、萌黄の焔が燃え立とうとしている色合いは、喩えることの出来ないものである(田部重治著『新編山と渓谷:新緑の印象より』)。

今回は股の沢ルートはパスするも、深林と渓谷の織り成す奥秩父の魅力を求め、近い将来、股の沢ルートを辿るべく沢筋をチェックする。:分岐点から股の沢を下り、入川筋に入ると赤沢出合から川又の近くまで森林軌道跡(入川森林軌道跡)が残る、と言う。また、赤沢出合いから赤沢を遡上し、今から進む赤沢山の三里観音下あたりまでも森林軌道跡(赤沢上部軌道跡)が続く、とも。この森林軌道は東京大学農学部付属秩父演習林中にあり、林道は東大が敷設するも軌道の運営は民間の会社に委託されていたよう。大正12年(1923)に入川森林軌道が着工、昭和4年(1929)には川又から竹の沢まで敷設、また昭和11年(1936)には赤沢出合いまで延伸され、昭和26年(1951)には赤沢上部軌道敷設が完成した。
この森林軌道の敷設にともない、江戸時代は「御林山」と呼ばれ徹底した山林保護政策によって護られていた奥秩父の深森は、昭和に入ると、民有林・国有林・東大演習林を問わず伐採が進むことになる。伐採は特に戦後復興期の1960年代までが激しかったようであり、1970年ころにほぼ伐り尽くし、奥秩父の森林伐採は終息することになる。
伐採のあとは、一部にカラマツなどが植林された区域もあるようだが、多くは伐られたまま放置され、奥秩父の深い森ははげ山と化した、とか。白樺の林がキャベツ畑に変わった梓山の戦場ヶ原のように、木暮・田部が愛した奥秩父の深い森が現在どのようになっているのか、入川の渓谷を辿ってみたい。自然の「治癒力」に期待すること大である。


四里観音避難小屋;午前7時32分;標高1809m
股の沢分岐を白泰山方面へと道をとる。四里観音は股の沢分岐から先に進んだところにあるようだが、見落としてしまった。道を進むとほどなく南面が開ける。雨上がりの朝霧に雁坂嶺から破風山、そして甲武信ヶ岳へと続く山稜が浮かび上がる。山稜の南は甲斐の国。甲武信ヶ岳は「甲斐」と「武蔵」、そして「信濃」を分ける故の山名ではあろう。
30分ほど歩くと四里観音避難小屋に到着。小屋はきちんと整頓されており、薪も用意されている。お手洗いもあるし、近くには水場もある。水場は登山道から少し外れるようではある。こんなきれいな山小屋なら、夏などは小屋を起点に行程を組むこともできそうである。で。維持管理は誰が?チェックすると、埼玉県秩父環境管理事務所が担当している、と。改めて感謝。
避難小屋で少し休憩をとる。因みに昨夜泊まった十文字小屋も、むかしはこの避難小屋のあるところにあったようだが、甲武信ヶ岳登山者の増加などに適すべく現在の地に移った、とか。

林道合流点;午前8時51分;標高1752m
尾根道を辿り、標高1860mの大山を南に巻いて進むと、午前8時42分;標高1740m地点で東に展望が開ける辺りに出ると、北からの林道合流点に到着する。林道は奥秩父林道。中津川の谷筋を秩父から信濃の梓山へと抜ける中津川林道から分かれ、中津川の源流である大河俣沢の左岸高くを進み、この地に至る。現在では廃道と化している箇所も多い、とか。

この林道合流地点は南と北の両方が開ける踊り場、変則的切り通し、といったところ。南面の眼下は大赤沢谷の全景、入川の谷筋を隔てて見えるのは雁坂嶺や破風山の山稜、北面は朝霧なのか雲なのかの向こうには大山沢を隔てて三国山などが聳えるのではあろう。眺めの良いところである。

大島亮吉は「「秩父の美しい特色は、その深林と渓川にあるということがすでにいわれていることは前にも言った。それはたしかにそうである。わたくしにもそのことは微かながら感じられる。けれどわたしはここでは、わたくし自らの気まぐれな、ひとつのかたよった好尚から、この山脈に於いてそれらのものとともに、またもっとほかのものにもふかい好愛をかんじている。それはなにかといえば、この山脈のいたるところに、るいるいとつけられてある、古い、善い、もの深さにとんだ、しずかな山路、林道、廃道、旧道、村道、里道、県道、国道と、それらのあいだにあって、わたしらに一夜のやどりの詩情をそそる、かずかずの簡素な山小屋、炭焼小屋、伐木小屋などである(『秩父の山村と山路と山小屋と(抄))」と描く。単なる山道だけというわけでなく、避難小屋があったり、林道が合流したりと、人の踏み跡と接するだけでなんとなく心嬉しい。

三里観音;午前9時17分;標高1661m
中津川水系と入川水系を分けるいくつかの痩せ尾根を辿り、コメツガ、シラビソの森を見やりながら進む。林道分岐から30分ほどで三里観音。この辺りには、武州、信州からの荷物の交換、交易の場があった、とのこと。
散歩で峠を越える往還を辿るとき、山中の交易の場に出会う。中世の中山道である大菩薩峠越えの時には大菩薩嶺の辺りに荷渡場があった。中山道の和田峠越えの時にも、峠を下諏訪へと少し下ったところに荷渡し場を兼ねた石小屋跡があった。『甲斐国誌』に大菩薩嶺の荷渡場について以下の説明がある。「小菅村ト丹波ヨリ山梨郡ヘ越ユル山道ナリ。登リ下リ八里、峠ニ妙見大菩薩二社アリ、一ハ小菅、ニ属シ、一ハ萩原村(塩山市)ニ属ス。萩原村ヨリ、米穀ヲ小菅村ヘ送ルモノ此、峠マデ持来タリ、妙見社ノ前ニ置キテ帰ル、小菅ヨリ荷ヲ運ブ者峠ニ置キテ、彼ノ送ル所ノ荷物ヲ持チ帰ル。此ノ間数日ヲ経ルト雖モ、盗ミ去ル者ナシ」、と。信用取引が行われていた、とか。この三里観音が同様の信用取引が行われていたかどうかは不詳ではある。

岩ドヤ;午前9時58分;標高1767m
三里観音を越え、赤沢山の北面を巻いて進むと「鍾乳洞入口」の道標があった(午前9時46分;標高1761m)。ちょっと覗いてみたいと思うのだけど、如何せん方向が示されていない。赤沢山の下に、小さいけれど,真っ白くてきれいな鍾乳洞があるとのことだが、パス。
このあたりの道は少し厄介。赤沢山の巻道は人の踏みあとが減ったためであろうか、痩せて険しい。崖道を少々怖い思いでトラバースすることになるし、巨岩が屹立する岩ドヤ付近ではアップダウンを繰り返す。木立を透かして見える山稜は両神山への連なりのようである。
険しい山道を辿りながら、秩父困民党のことを想う。秩父で官憲に破れ、敗走なのか再起への道なのか、ともあれ、秩父困民党は栃本からこの険路を辿り十文字峠を越えて信濃へと向かった。秩父を歩くと市内の秩父札所(5番札所語歌堂15番札所少林寺、23番札所音楽寺)や神社、そしてで秩父困民党=秩父事件に出合った。以下簡単に秩父困民党・秩父事件の概要をまとめておく。

秩父困民党・秩父事件
秩父事件とは明治17年(1884)10月31日から11月9日にかけて秩父の農民が決起した武装蜂起事件。当時の自由民権運動の影響もある、と言う。当時の秩父の産業の中心は生糸の生産であったが、ヨーロッパの大不況の影響で、フランス・リヨンの生糸相場が大暴落。それを引き金に、日本国内生糸価格は大暴落。生糸の売上を担保に借金をしていた秩父の養蚕農家に大打撃を与える。日本政府のデフレ政策、増税も重なり秩父の農民は困窮。窮状につけ込んだ銀行や高利貸しが農民の生活を更に悲惨なものにしていった。



こうした状況の中、明治17年(1884)11月1日、借金返済の長期猶予と税金の軽減を求める農民の一斉蜂起が起きる。秩父吉田町の椋神社には1万名が集結したとも伝わる。これに対し政府は武力弾圧で事態の鎮圧を図る。それに伴い農民も「懇請」から「武装闘争」に転換。決起を訴える部隊が上州に派遣され、また信州・佐久の北相木を中心に援軍が峠を越えて秩父に集結。しかし武力劣る農民軍は政府の警察隊・憲兵隊、鎮台兵に鎮圧され、困民党に中核部隊は11月4日に解体。残された一部急進派は信州・北相木の菊池貫平を新総裁に、十石峠を越えて佐久に向けて千曲川沿いに転戦。その動きに呼応すべく、秩父出身者を中心とする部隊は栃本から十文字峠を経て梓山と進むも、八ヶ岳山麓で鎮台兵と交戦。佐久の主力と合流する前に殲滅される。また、佐久の主力部隊も11月9日に東馬流集落で壊滅。事件は終結した。
事件後の処罰は苛烈を極め、死刑12,処罰者3,812名に上った、と言う。私は本件については不詳であるが、秩父困民党=秩父事件は、自由民権期の農民蜂起であり、「自由民権運動史上、最高の闘争形態」と評する書もある。

二里観音;午前11時;標高1736m
尾根道を1時間弱進んだろうか、二里観音避難小屋に到着。外側は丸太造り。内部はブロックつくりで土間と板敷からなり、薪やストーブが整備されている。この小屋も四里観音避難小屋と同じく秩父環境管理事務所の所管である。WCや水場はないようである。
道標に「のぞき岩」の案内がある。南面が開けた岩場である「のぞき岩」から奥秩父の北面の山稜が一望のもと。西に目をやれば赤沢山の両耳峰とその遥か彼方に甲武信ヶ岳への山稜が続く。東は雁坂嶺から雁坂峠方面。眼下の入川谷の紅葉が美しい。




田部重治は「白妙岩の眺め、荒川本流と大洞谷との紛糾せる渓谷の雄大さが昔に変わることなく、轟轟たる響きは遙か紅葉の渓谷をとどろかせている(『山と渓谷;信州峠より十文字峠へ』)」、と描く。白妙岩とはのぞき岩のこと、とか。

同じく田部は『峠と高原;十文字峠』で、「栃本から二里ほどにある「のぞき岩」から遠望すると、残雪で眞白い北アルプスが遙かの天涯に怒涛の如く聳え、浅間山や八ヶ岳が思はぬ手近いところに現はれ、両神山は異様な姿をもって眞近に立っている。
道の左の荒川の源流の山々のカツ葉樹の緑は燃えるように鮮やかに、平地の四月の如き若々しさをもって中腹の黒々とした針葉樹と対し、その間を幾多の白霧を吹く流れは滝の如き急下降をなして白布をかけたように見え、遠雷のように轟いている。
峠の右に中津川の渓谷は一面の緑に蔽われて、流れのさまも見えない。峠の幽林は幽林へとつづき、ときどき大木が倒れて行手をふさぎ、それを辛うじて鋸で切り開いた道が通じている。耳を傾けると、静かな風は笛の音のように幽林を通い、かなたに伐木丁々の響きが聞こえるので。こうした無人の境にもどこかに人間のはいっていることがわかる」と描く。





白泰山標識;12時;標高1700m
しばし二里避難小屋で休憩し、先に進む。10分ほどで白泰山と北の大滑沢をぐるりと囲む尾根筋の分岐を白泰山方向へと進む。白泰山の北面を巻き、20分ほどで白泰山へと上る標識に到着。時間も体力も乏しくなってきており、白泰山の頂上への上りはパス。急な上りの先の頂上は樹林に覆われ展望が乏しいとのことである。「白泰山」の山名の由来は「山の表面が白く見える台地状の山」、とある。

「その時の記憶がなぜこんなに深く脳裡にに刻まれているのか、それは自分ながらわからない。と友は言う。ある秋の半ば、それは十文字峠を梓山へとこえた時のことだった。ちょうど山々は美々しい錦繍の季節の衣装をつけていた。白泰山のところまで栃本からのぼって来た時、私は峠路で幼な児を背におぶった四十あまりの土地の人らしい男が、なにか紙をもってうろうろしているのに行き会った。彼は私らを見て、ほっとしたように安堵の面持を浮かべて、すぐさまこれから秩父大宮までの道程をたずねた。その顔には深い憂愁と不安の色が、ただよっているのがすぐにみとめられた。
私らは道程のことを話してやった。きけば、その人は金峰の下、川端下の村のものでその幼児が熱病にかかったので一刻を急いでいま医者のところへかけるというのだった。川端下からよい医者のいるところへゆくのには、千曲川沿いに佐久の岩村田へ出るよりも、この十文字をこして秩父大宮へゆく方が時間にして早いと教わって来たのだそうだ。けれど、その人はまだ一度もこの峠をこしたことがないので、村の人から半紙に絵図をかいて貰ってやって来たのだった。
背中の病児は熱にうなされてたえず低い呻きをあげていた。まさに峠は紅葉のま盛りの時だった。父親は真紅に色づいた楓の小枝を一本折とって、それを片手でたえず背中の児の眼の前に振り翳してあやしながら、挨拶をのこして足早に折り曲がりの多い峠道を降って行った。その姿はすぐに路にかくれてしまったけれどもその秋の曇り日の山路の水のようにしんかんとした静けさのなかに、次第に薄れてゆくあの病児の低い呻きの声のみはしばらくのあいだ私らの耳にのこった。小略
こんな小さなことながら私にとっても、それは十文字峠とは離れがたい印象としてまだ残っているのである」。
大島亮吉著『山ー随想ー峠、十文字峠より』の一節である。秩父・信州往還が秩父と信濃の集落の人々の生活の一部として存在していた往時が偲ばれる。

一里観音;13時;標高1377m
「緑の色濃い葉陰に白雲低迷する幽林(『峠と高原、秩父を思う;田部重治』)」の中、「樹間奥深い彼方に叫ぶ怪鳥の声、幽林がまばらになって、思はぬ前面に屹立する峯頭(『峠と高原、秩父を思う;田部重治』)」を見やりながら、尾根をひたすら進む。樹木も明るい広葉樹になってきた。標高も1,600mから1,500m辺りになると紅葉が再び現れる。北面には樹木の隙間から両神山、南面は矢竹沢、入川の谷筋を隔て雁坂峠から北東へと川又へとのびる尾根筋ではあろう。白泰山への標識から尾根道を歩くことおおよそ1時間で一里観音に。梓山から栃本から梓山までの六里六丁、江戸時代の享保年間におよそ26キロに渡り、ほぼ一里ごとに建てられたと伝わる里程観音もこの観音様でお別れ。後はひたすら栃本の集落へ下るのみ。







林道合流;13時26分;標高1146m
一里観音から10分ほどで「栃本広場分岐」の標識。時刻は13時12分(標高1301m)。栃本集落の北の山麓、標高1,000mの所にカタクリの群生地、展望台遊歩道、自由広場、民芸広場等がある。駐車場があるようで、十文字小屋でご一緒したご夫妻も、栃本広場に車を置き、ハイキングコースを経て秩父・信州往還から十文字小屋に上ってきたとのことである。







標識を見やり、高度を下げてゆく。さらに10分ほど150mほど標高を下げると林道に合流。舗装もされている。地図をチェックすると、合流点より西はほどなく途切れるが、東は栃本広場や栃本集落と連絡し、秩父湖の二瀬ダムのあたりまで続いている。

両面神社l13時56分;標高971m
往還道は林道を進むことなく、すぐ再び林へと入る。十二天(標高1,206m)の山腹を尾根筋と平行に南に下っていく。このあたりは杉林が多くなってきた。道を進むこと30分。道脇に十二天の標識が倒れている(13時52分;標高1010m)。道上にささやかな祠が見えるが、それが十二天の祠であろう、か。この辺りが十二天の尾根道との合流点のようであり、そこからさらに数分で両面神社に着く。
「そのうちに炭焼小屋が見えて来る。焼畑の煙が立ち登っている。植林が見える。両面神社に来れば栃本の村が下に見えて荒川の流れは白く岩を噛んでいる。五月の山村は養蚕に忙しく、美わしい野調を唄いながら桑の葉を摘む少女の瞳は、若葉のように色がふかい」と田部重治は描く。
両面神社にお参り。狛犬ならぬ狛狼が社を護る。この社は三峰神社の姉妹宮とのことである。三峰の社といえば、その眷属は山犬(狼)であるので、納得。また、この社は十二天とも称される。十二天とは、八方(東西南北の四方と東北・東南・西北・西南)を護る八方天に、天地の二天と日月の二天を加えて十二天とする、十二の方位を護る密教の守る十二の守護天。古来より、山道の登り口には山仕事や山越え・峠越えの安全を祈願する山口神社が祀られたが、この両面神社も十文字峠を越える旅人を護るべく祀られたものだろう。

栃本集落;14時6分;標高878m
両顔神社でお参りし、10分ほど下ると集落の道にでる。白泰山の東麓の山腹に貼り付けられたような集落である。樹林の間から雲海に浮かぶ山は荒川の東に聳える和名倉山だろう(標高2,032m)。白石山とも称される。和名倉山は元は原生林の美しい山であったようだが、徹底的な森林伐採の典型の山とされる。白石山の由来は、「白い岩盤」から。また、和名倉山の由来は不詳だが、全国にある「わな」の語源は「輪奈=罠」との説がある。罠に嵌ったような曲がりくねった道無き道の続く原生林であったのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

集落の中を進むと愛宕地蔵尊。この辺りは牛蒡平と呼ばれるようである。この辺りから、雁坂峠へと向かう秩父往還との合流点、というか、分岐点あたりまでは芝桜が有名で、「芝桜街道」と呼ばれている、とか。

栃本関所跡;14時20分;標高775m
先に進み、雁坂峠へと向かう秩父往還との合流点近くに栃本関所跡。残念ながら屋敷は閉まっていた。
案内をメモ;「国指定史跡栃本関跡(昭和45年11月12日指定);江戸幕府は関東への入り鉄砲と関東からの出女を取り締まるため、主要な街道に関所を設けた。栃本関は中山道と甲州街道の間道である秩父往還の通行人を取り調べるため設けられたもので、その位置は信州路と甲州路の分岐点になっている。その始まりは甲斐の武田氏が秩父に進出したとき関所をおいて山中氏を任じたと伝えられるが、徳川氏の関東入国以後は、天領となり関東郡代伊奈忠次が慶長十九年(1614年)大村氏を藩士に任じたという。
以後大村氏は幕末まで藩士の職を代々務めた。しかし藩士一名のみでは警備が手薄であったため、寛永二十年(1643年)秩父側の旧大滝村麻生と甲州側の三富村川浦とに加番所を敷設して、警護を厳重にした。したがってその後、関を通行の者で秩父側から行くものは、まず麻生加番所で手形を示し印鑑を受けて、栃本関に差し出すことに定められた。関所の役宅は、文政元年(1818年)と文政六年(1823年)の二度にわたって焼失し、現在の母屋は幕末に建てられたもので、その後、二階を建て増しするなど、改造されたが、玄関や上段の間、外部木柵などには関所の面影をよく留めている(平成十年十一月埼玉県教育委員会)」、と。

秩父から甲斐へ出るには秩父往還を辿り雁坂峠に、信濃へ出るにはこの栃本で秩父往還から分かれ十文字峠を越えた(秩父から信濃に出るには中津川の谷筋を進み三国峠を越える道もある)。雁坂峠道は、戦国時代には武田信玄が、奥秩父の金属資源を採掘するのに頻繁に行き交った歴史を持つ。『新編武蔵風土記稿』の古大滝村の項に、「土産には山に金・銀・銅・或いは磁石・緑青・寒水石・燧石等を生ずる」とある。
江戸時代になると、甲斐善光寺や身延山への参詣、逆に甲斐から三峰参詣といった信仰の道、また生活物資を甲斐で売買するための物流の道として人々が往来した、とのこと。それは信州往還であった十文字越えと同じである。雁坂峠道は中山道と甲州街道のバイパス、十文字峠道は中山道の裏街道にあたる往還であり、その往還監視のため、この地にこの栃本関所と麻生の加番所(関所の事務を補佐し通行手形に押印する)が設けられたのであろう。

秩父往還・雁坂峠への道;日本の道百選
栃本関所跡より川又バス停へと急ぐ。川又バス発が13時51分。あまり時間がない。これを逃すと2時間近く待たなければならない。急ぎ足で栃本の集落を進む。栃本の集落は南斜面にしがみつくように点在している。斜面に耕地が開かれ、国道は眼下、遙か下に走る。
「♪ハアー私ゃ大滝だよ 粟稗そだち 米のなる木はまだ知らぬ (コラショイ) ハアー 来たら寄っとくれよ 両面神社の麓 寄れば茶も出す 酒も出す (コラショ)♪」。






栃本の民謡である。この栃本集落など、険しい山岳地帯にある秩父の大滝村や中津川、三峰といった村々には水田は無く、畑も大半が「サス」と称される焼畑であった、とか。山を焼き、養分が有る間、耕作に努め、養分が無くなると再び森に戻し地力の回復を図るといったもの。この山の中腹の畑もかつては焼畑農業がおこなわれていたのであろう、か。農作物は粟・ヒエ・大豆・そば・たばこ・インゲン豆などであった、とか。上の民謡に歌われる通りの耕地の乏しい山村の生活が偲ばれる。

集落の東、荒川を隔てた先には和名倉山(別名白石山。標高2,036m)が聳える。日本の道100選にも選ばれた、この栃本集落の秩父往還の道筋は、十文字峠越えと関係なく、前々から辿りたいと思っていた峠道である。十文字峠越えのゴールで、この美しい道筋が歩けたのは誠に嬉しい旅のエピローグとなった。

千軒地蔵尊
道を進み、集落のはずれの道脇に倒れた「千軒地蔵尊」の標識と、小高い崖上にささやかな祠がある。入川支流の金山沢・股ノ沢・真ノ沢など、荒川源流域では甲斐の武田信玄の手によって金の採掘が盛んに行われた。文政年間(19世紀初め)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には、金の採掘坑口跡が83ヶ所あり、かつて股ノ沢には「千軒屋敷」と称されるほどににぎわっていたと記されている。千軒地蔵尊は武田家滅亡に伴い、股の千軒屋敷から移された、と伝わる。

西武バス川又バス停;14時45分;標高670m
急ぎ足で川又に向かう。川又は入川と荒川の合流点故の地名である。栃本の集落からの道筋の下に国道が見える。自由乗降区間のバスを止めるべく、国道に下りる道筋を探すもひとつとして見つからない。仕方なく、更に歩みを早め千軒地蔵から10数分下ると川又バス停。発車時刻は15時51分。かろうじて間に合った。
バス停にあるお手洗い、沢水を曳いたホースから勢いよく出る水で汚れた足回りを洗い流し、バスに乗り秩父鉄道三峰口駅に。ちなみに、栃本関所前からのコミュニティバスは、この西武バスに連絡しており、慌てて歩かなくてもバスに乗ればよかった。とはいえ、コミュニティバスに乗れば道脇の千軒地蔵尊に出合うこともなかったわけで、慌ただしいエピローグの道行ではあったが、それはそれでよかった、かと。

「この古い、むかしは中仙道の裏道として峠をこす旅人のゆきかいもはげしかった峠路。その古びたもののみのもつ雅韻を帯びた、影ふかい峠路。その七里にわたる里程から、その峠の高さから、その古さから、そのうつくしいふたつの山村のあいだをつなぐことからみて、十文字峠はこの山脈のうちで、どうしてもわたくしから はなれがたいものである。
五月にそこをこえれば、渓々のどこからも若葉の層がむらむらと、それをゆする青い山風のかおりもほのかに、人の匂いもない、森閑とした深山の峠路を飾る、わびしくも、きよい石楠花と花躑躅の花の祭りを見ては、山を越える旅者の胸もその花の精神に染められてしまうだろう」。
大島亮吉『登高者;秩父の山村と山路と山小屋と』の一節である。十文字峠越えはその歴史、その自然、ともに誠に楽しい散歩であった。









木曜日, 11月 22, 2012

伊予 歩き遍路:第44番大宝寺から第45番岩屋寺へと遍路道を辿る

四国八十八カ所霊場散歩:第44番大宝寺から第45番岩屋寺へと遍路道を辿る 


 今年も例年の如く、田舎の愛媛県新居浜市の「新居浜太鼓祭り」に帰省。高校を卒業し、大学。そして社会人になり、還暦を大きく過ぎた現在に至るまで、祭りをパスしたのは、大学を休学して3年ほど海外を放浪していたとき、子供が祭り前日に生まれたときと、オーストラリア出張のときを除き「ほぼ皆勤賞」。日本三大喧嘩祭りなどと呼ばれているようだが、今年も派手に太鼓台の鉢合わせが行われた。
それはともあれ、祭り帰省に合わせ、「お四国さん」を辿ることにした。我々愛媛で育ったものは、四国八十八カ所やそこを辿るお遍路さんのことを、まとめて「お四国さん」と呼ぶ。こどもの頃に悪さをすると、「へんど(お遍路さんのことを「へんど」と呼んでいた)にやるぞ(連れて行ってもらう)」と叱られると、その怖さのあまり、悪戯をやめたものである。
そのお四国さんのうち、今回は前々から気になっていた第45番の岩屋寺を訪ねることにした。岩屋寺は時宗の開祖・一遍上人の「一遍上人聖絵」などにも登場し、奇岩・大岩壁に口を開けた「岩窟」に石仏が祀られる山岳修行の道場。それが如何なる風情か遍路道を辿り、実際に目にしたいと思った。
ルートを調べるに、国道33号線沿いの久万高原町役場近くにある第44番大宝寺から山道・野道を通る遍路道を12キロほど歩けば第45番・岩屋寺に着く。その先の第46番の浄瑠璃寺は国道33号の三坂峠から山道に入り、県道207号をずっと下った松山市にあり、遍路道も結局は岩屋寺からは一度第44番の大宝寺のある辺りまで戻ってこなければならないようである。
ということで、今回のルートは遍路用語では「打ちもどり」とも呼ばれる、第44番大宝寺から第45番岩屋寺間のピストンルートとした。その距離、往復で20キロ弱。5時間ほどの行程。もっとも、岩屋寺の辺りからは大宝寺方面へと1日2便。午後には1時5分発のバスがあるので、うまくゆけば帰りはバスを、との計画とする。メンバーは四国の山を歩き倒している弟と娘と私の3人。新居浜市から久万高原町の大宝寺までは2時間ほどかかるので、家を7時過ぎに出発。一路久万高原へと向かった。

本日のルート;国道33号・三坂峠>久万高原町>第44番札所・大宝寺>菅生峠・峠の御堂>有枝川・下畑野川の合流点・河合地区>>狩場地区>八丁坂>尾根道>第45番札所・岩屋寺>伊予鉄バス・岩屋寺バス停>伊予鉄バス・大宝寺バス停

三坂道路
新居浜を出て、松山自動車道で松山インターに。そこから国道33号を久万高原へと向かう。砥部焼で知られる砥部を越えると国道33号は三坂峠に向かって上ってゆく。途中、トンネルをくぐり、道がくるりと一回転した先に「三坂道路」の標識があった。
三坂道路は最近出来たものなのか、四国に住む弟も知らないとのこと。どこに続くのかわからないためパスしてしまったが、この道は屈曲・急勾配の続く国道33号三坂峠越えのバイパス道として建設されたものであり、2012年の3月に全線開通したばかり、とのこと。「三坂道路」の標識があった松山市久谷で国道33号と分かれ、ふたつのトンネル、8つの高架橋で三坂峠を迂回する。久万高原側の第一三坂トンネルは3キロ、松山側の第二三坂トンネルは1.3キロ。三坂峠の山腹を穿った全長8キロ弱の三坂道路は久万高原の東明神で国道33号に合流する。この道を通れば楽に久万高原に行くことができただろうが、後の祭りではある。

三坂峠_標高720m
「三坂道路」をパスし、国道33号の急勾配ワインディングロードを進むと三坂峠。標高720mの峠は松山市と上浮穴郡久万高原町の境にあり、瀬戸内海と太平洋水系の分水嶺ともなっている。北に流れる重信川水系の三坂川は瀬戸内海に、南に下る仁淀川水系の久万川は太平洋へと注ぐ。

ところで三坂峠、であるが、この地に限らず「みさか」を冠した峠は多い。太宰治の「富士には月見草がよく似合う」で知られる甲斐・駿河国境には御坂峠がある。昨年、信越国境・塩の道を辿ったとき、地蔵峠ルートには三坂峠があった。
御坂、三坂、神坂、見坂、美坂、深坂などと表記は様々であるが、もとは「神(かみ)の坂=みさか」とされ、古代において祭司が執り行われたところ、と言う。古代東山道の濃信国境の「神坂峠」が「科野坂・信濃坂」と呼ばれたように、古代は「峠」を使わず通常「さか(坂)」が使われていた。さ=滑りやすい、か=場所、の意味である。古代に「峠」が使われなかったのは、その言葉がなかったため。「峠」という国字(日本で独自に作られた漢字)が登場した次期は、室町時代とも鎌倉時代とも、平安時代末期とも言われ、正確にはわかっていない。「たむけ=手向け」をその語源とし、道中の安全を祈って手向け=神を拝む、の意をもつ「峠」ではあるが、「山の上、下」とは言い得て妙である。

久万高原町_標高490m
三坂峠を越え、久万高原町に向かって道は下る。標高720mの三坂峠から、東明神で「三坂道」を合わせ、西明神を経て標高490mの久万高原町の町役場辺りまで、比高差340mを下ることになる。
久万高原町は平成16年(2004)、上浮穴郡久万町、面河村、美川村、柳谷村が合併してできた町。面積は県内市町村で最大である。久万の地名は、名物「おくま饅頭」にその名を残す「おくま」婆さん、三坂峠を越えてきた旅の僧・弘法大師をお饅頭でもてなした「おくま」婆さんに由来する、とも言われる。お話としては面白いが、実際のところは、この久万高原町、仁淀川上流域一帯が室町の頃より、「久万」と呼ばれていたことに由来するのが妥当なところだろう。
「くま」とは、紀州の熊野と同じく、「山と山に挟まれた奥深いところ、隈」の意。『紀伊続風土記』によると、「熊野は隈にてコモル義にして山川幽深樹木蓊鬱なるを以て名づく」、つまり、鬱蒼たる森林に覆い隠されているためという。あるいは、死者の霊がこもる場所とも解釈される。
また、五来重氏によれば;死者の霊魂が山ふかくかくれこもれるところはすべて「くまの」とよぶにふさわしい。出雲で神々の死を「八十くまでに隠りましぬ」と表現した「くまで」、「くまど」または「くまじ」は死者の霊魂の隠るところで、冥土の古語である。これは万葉にしばしば死者の隠るところとしてうたわれる「隠国」とおなじで熊野は「隠野」であったろう。熊野は「死者の国」である、とする。
現在は道路が走り、人の往来も容易になってはいるが、往昔の久万は、山川幽深樹木蓊鬱な一帯ではあったのだろう。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23業使、第631号)」)
第44番・菅生山大宝寺_午前8時45分;標高550m
国道33号・久万中学前交差点、「おくま饅頭」の店舗を目安に左に折れる。店舗の国道を隔てた逆側に、空海にお饅頭を接待したと言う「おくま」婆さんを祀る「於久万(おくま)大師堂」があったようだが、見逃した。
少し進み、久万川手前の道を右に折れ、総門橋で左に折れ橋を渡る。橋の先にある総門をくぐると大宝寺の駐車場。駐車場脇に古びた地蔵堂が佇む。ここに車を停め、第45番岩屋寺へのピストン「歩き遍路」を開始する。
勅使橋を渡り、種田山頭火が「お山は霧のしんしん大杉そそり立つ」と詠んだ杉の大木が並ぶ参道を進む。道脇にささやかな観音堂、大師堂、地蔵堂。参道脇に「陵権現」があったようだがこれも見逃した。成り行き任せの散歩のため「後の祭り」が多いのだが、今回もさっっそくふたつの旧跡を見逃してしまった。
それはともあれ、勅使橋と陵権現は後白河法皇ゆかりのもの。12世紀中頃の保元年間、後白河法皇が病気快癒を祈願し成就。ために、その「御礼」にと伽藍を再建。勅使をたてて帝の妹宮をこの寺の住職に任じた。勅使橋の名前の所以である。また、妹宮はこの地で他界され、堂宇と五輪塔を建てた。「(姫宮の)陵権現」がそれである。写真で確認しただけではあるが、風雪に晒された古びたお堂、と見える。

参道を進み寺標石を見やりながら進むと仁王門。巨大な草鞋がぶら下がっている。「歩き遍路」を迎えるものであろう、か。百年に一度取り替えられる、とか。

仁王門をくぐり宝筐印塔や不動明王を見やりながら参道石段を上る。石段脇には山頭火の歌碑。「朝まゐりはわたくし一人の銀杏ちりしく」、と刻む。山頭火は昭和14年(1939)に巡礼に訪れたようである。
石段を登ると本堂、興教大師堂、観音堂、鐘楼、そして少し右に大師堂護摩堂が並ぶ。一段低いところに本坊と納経所、それと修行大師像がある。
興教大師とは、真言宗中興の祖である興教大師覚鑁上人(こうぎょうだいしかくばん)のことである。見逃してしまったが、境内には、寛保3年(1743)芭蕉翁50回忌に建立された芭蕉塚「霜夜塚(しもよづか)」があり、芭蕉の句「薬のむさらでも霜の枕かな」が刻まれている、とか。

第44番菅生山大宝寺。真言宗豊山派。本尊は十一面観世音菩薩。縁起によれば、その昔、明神右京・隼人という兄弟の狩人がこの地で十一面観世音菩薩を発見し捧持、安置したのがはじまり、とか。また、大宝元年(701)百済の僧が渡来し、この地にお堂を建て、奉持した十一面観世音像を安置したのが始まり、との説もある。
何故に「狩人」が唐突にも登場するのか?少し気になりチェックすると、四国八十八カ所の縁起には「狩人」が登場するケースがいくつかある。そしてそれは、熊野権現御水垂迹縁起に関係ある、との説があった(『巡礼と遍路;武田明(三省堂選書)』)。熊野権現御垂迹縁起によると、「唐の国から、九州の弥彦、四国の石鎚などを経て熊野本宮の大湯原の大木に天下った熊野権現は、獲物を追ってきた狩人の前にその姿を現した、と言う。



熊野権現御垂迹縁起の影響なのかどうか定かではないが、弘法大師・空海にまつわる高野山開創伝承にも狩人が登場する。『金剛峯寺建立修行縁起』によれば、空海が修行の地を求めて探し歩いていたとき、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)で、犬をつれた狩人に出会う。空海は狩人に告げられるまま犬の後を追うと、紀伊国天野(現在の和歌山県かつらぎ町)で土地の神である丹生明神(にうみょうじん)が現れる、空海は丹生明神から高野山を譲り受け、伽藍を建立することになったというストーリーだが、この狩人は実は狩場明神であり、山の神である丹生明神を祀る祭祀者であった、とのこと。高野山では狩場明神(高野明神とも)と丹生明神とをその開創に関わる神として篤く敬っているとのことである。聖なる山に異国の神である仏教伽藍を創建するに際し、地元の山の神に「礼を尽くした」ということではあろう。ともあれ、狩人の「謎」は少し解決。

開基の縁起と同様、大宝寺の名前の由来も諸説ある。文武天皇の勅願寺となり、時の年号をとって大宝寺と名づけられた、との説。弘仁年間(810‐24)弘法大師がこのお寺を訪れ、密教の修法を厳修し堂塔を整え、開創された年号をとって大宝寺と号した、との説もある。
寺名の由来はともあれ、後白河法皇の勅願寺として庇護を受けるなど、その後寺運も栄え、山内には 48坊が建ち並ぶも、16世紀後半の天正年間、 長曽我部軍の兵火で 伽藍は焼失するも、松山藩主・加藤嘉明の家臣である佃次郎兵衛などの寄進もあり元禄年間に再興された。
寛永15年(1638)8月には、大覚寺の宮空性法親王が、この大宝寺から出発し、その年の11月に打ち戻る四国遍路をおこない、『空性法親王四国御巡幸記』を残している。また、寛保元年(1741)の飢饉は久万の百姓3000人 が一揆を起こし大洲に逃散。藩の依頼により時の住職の説得によって一人の断罪者もなく無事帰村させた。天明7年(1787)、土佐藩紙漉一揆の時も農民がこの寺に逃げ込み、土佐藩は住職と折衝して事態の収拾をはかるほどの名刹であった、とか。明治7年大火によって堂塔を失ったが、その後、本堂、大師堂 その他のお堂が再建された。
御詠歌 今の世は大悲のめぐみ菅生山 ついには弥陀の誓いをぞ待つ

峠の御堂_午前9時18分;標高737m
仁王堂に戻り参道脇の道標に従い、峠の御堂へと向かう。きれいに間伐された杉の林を進む。久万地方は林業が現在でも息づいているようである。最高温度32度、最低温度マイナス15度、年間平均15度、降雨量年間だ2200ミリ、と杉の生育条件に恵まれている、と言う。
道を進むと「河合2.4キロ」の標識。河合は峠を越した有枝川の谷筋の集落である。石の遍路道碑を見やりながら先に進むと次第に坂が急になる。結構きつい。峠までの直線距離500mを180mほど坂を上ることになるわけで、勾配18度弱というところだろうか。

峠にはささやかな石の祠があり、中に石の仏が佇む。これが峠の御堂だろう。仏に一礼し峠を下る。杉の林の中の道を進むと石積みの祠に仏が佇む。直線距離500mを140mほど下ると、峠御堂隧道脇に出る。道脇に「林道 菅生峠御堂線」とあった。ということは、峠は「菅生峠」、ということだろう。峠御堂隧道は全長630m。竣工1974年。開通2000年。大宝寺辺りから旧県道12号が通っていたが、大宝寺から畑野川に至る峠御堂付近は自動車通行不能区間となっていたようである。地図を見るに、この隧道ができるまでは久万の町と河合との往来は峠を歩くか、久万の町の南の宮ノ前まで下り越ノ峠を経て有枝川の谷筋に下り、そこから川筋を北上したのではあろう。隧道ができて往来は至極便利になったように思う。

河合の住吉神社_午前9時45分;標高533m
峠御堂トンネルから河合の集落までのおおよそ1キロは県道12号を歩く。河合はその名前が示すとおり、有枝川と下畑野川の二つの川が合流する地点にある集落。この集落にはかつて遍路宿が15軒もあり、一晩に300人もの客が泊まったという。第45番札所から第46番札所へはピストン順路として再びこの集落に戻ることになるため、その「打ちもどり」で賑わった、とか。
集落に立派な構えの住吉神社があった。伊予旧記には、「厳宮住吉大明神として古殿宮の称号あり」と記載されている、とか。大阪堺の神官が奉じていた住吉の神を畑野川村の鎮守として勧請し、上畑野川岩川の地に創建されたが、天文16年(1547年)に現在地に移った。一見「能舞台」の様なオープンなつくりの拝殿は印象的。比翼形神明造の本殿も壮麗なつくりである。県天然記念物に指定されているカヤをはじめ、杉や檜で覆われる境内には丸い玉に乗った狛犬が佇んでいた。

県道12号・旧土佐街道
峠御堂から辿ってきた県道12号は、現在の国道33号が開通する以前、伊予と土佐を結んでいた土佐街道・松山街道の道筋のようだ。歴史は古く、百済が滅亡した662年に開かれた久万官道に遡る。その道筋は、松山から久万まではおおよそ現在の国道33号に沿ったもの。久万からはこの県道12号筋を進み、直瀬川に沿って七鳥まで下る。そこから国道494号の道筋を東へと進み池川、そして大崎に到りて国道33号の道筋と合流。
地図を見るに、愛媛と高知の県境となる明神山、雑誌山、二箆山の東の谷筋を通のが土佐街道、西の谷筋を通るのが国道33号となっている。国道33号の道筋と合流した後は、仁淀川に沿って佐川、伊野を経て高知へと至る。
因みに、国道33号はその前身を明治に遡る。明治19年(1886)、「四国新道」計画としてスタート。香川の丸亀を起点として、多度津、琴平、池田、高知へと進み、高知より西進して佐川、三坂峠と続き松山に至る270キロの新道建設であった。四国新道は明治27年(1894)に完成。昭和20年(1945)に国道23号、昭和27年(1952)に一級国道33号となった。国道33号の最大の難所である三坂峠の改修を終えるのは昭和42年(1967)になってからである。

狩場
小川に沿って県道12号を進む。この辺りの地名は「狩場」とある。上でメモした、弘法大師・空海にまつわる高野山開創伝承に登場する「狩場明神」に関係があるのかどうか不明ではある。が、そうあって欲しいとの想いは強い。
県道12号を先に進むと、ほどなく小橋があり、その脇に「遍路道」の案内がある。橋を渡り野の小径といった風情の小径を進む。「45番岩屋寺5.4キロ 44番大宝寺3.5キロ」、「岩屋寺5.0キロ」といった道標を見やりながら畑の畦道といった野道を進むと「八丁坂 45番岩屋寺」の案内が出る。ここからは農道といった簡易舗装の道を進む。「八丁坂2.1キロ」といった道標を過ぎると一度県道をかすり、ほどなく道標が現れ山道へと入る。
沢に沿って山道を進み、直線距離500mほどを標高560mから640mまで上げる。途中には「出会う遍路びと 人生も旅の途中かな」などと書かれた短冊のような遍路札(勝手な命名)が木にいくつもぶら下げられている。ここが八丁坂かと思ったのだが、ピークから一度600m辺りまで下り、一度森が開けた先に「八丁坂0.4キロ」の道標が現れる。八丁坂はまだ先であった。林道を進むと古岩屋浄水場。そこから沢に沿って580mあたりまで下り切ったところで道は沢を離れ南に急な上りとなる。ここからが八丁坂のはじまりである。

八丁坂の入口_午前10時56分;標高578m
八丁坂の上り口に案内:「昔の人は、この2,800mの坂道を修行のへんろ道として選んだ。弘法大師が開いた岩屋寺は、霊場中最も修行に適した場所であるから、参道は俗界を行かず峻険な修行道として八丁坂を「南無大師遍照金剛」を唱えながら上りました」とある。

○南無大師遍照金剛
「南無大師遍照金剛」って、「南無」は「帰依し奉る」、「大師」は弘法大師・空海のこと。「遍照金剛」も空海の灌頂名であり、大日如来の別名でもある。空海が中国で真言密教の教えを受け、その最後の仕上げである灌頂と言う儀式が行われた時、目隠し・合掌した手に花を持ち、仏さま、如来さま、菩薩さまの書かれた曼荼羅の上にその花を投げ、仏さまとの縁を結ぶ「投華得佛」がおこなわれるわけだが、その儀式において空海は二回投げて、二回とも大日如来の上に投げられたのがその所以、とか。

○大師
ところで、「大師は弘法にとられ太閤は秀吉に取られ」とのフレーズがある。大師と言えば弘法大師空海との印象が強いのだが、大師号を持つ徳の高いお坊様は二十数名いるし、日本ではじめて大師号を受けたのは最澄こと伝教大師の弟子である円仁である。
大師号は入定(なくなって)して後に朝廷より与えられるもの。円仁の入定年は864年。大師号を受けたのが866年。最澄の入定年は862年。大師号を受けたのが866年。と言うことは、円仁は最澄とともに大師号を受けた、ということ。一方、空海の入定年は835年。大師号を受けたのが921年。大師と言えば、の空海が大師号を受けるのに、結構時間がかかっているのが意外ではある。どういったポリテックスが働いた結果なのだろう。また、それでもなおかつ、大師=空海となっていったプロセスなど、好奇心がくすぐられる。そのうちに調べてみたい。

八丁坂の頭_午前11時17分;標高724m
直線距離で300mほどを標高580mから724mまで一気に上る。誠、胸突き八丁といった急坂であった。20分程度坂を上り八丁坂が尾根道に上り切ったところに「八丁坂の茶屋跡」の案内。「ここは野尻から中野村を経て槇ノ谷から上がる「打ちもどり」なしのコースとの出合い場所です。槇ノ谷は、昔、七鳥村の組内30戸程の人たちが、この道こそ本来のコースでることを示そうとの意気込みをもって、延享5年(1748)に建てた「遍照金剛」と彫った大石碑が建っている」とある。
地図でチェックすると、大宝寺の南に野尻がある。そこから宮ノ前、越ノ峠(こしのとう)を経て有枝川の谷筋の中野村に出る。そこから北東へと沢を進みヌダノ峠を経て尾根道をこの地へと進むのが打ちもどり」なしの道筋のことだろう、か。
「打ちもどり」なし、と言うことであるとすれば、大宝寺と岩屋寺をピストンするコースではないのだろうから、大宝寺の前の第43番明石寺からの遍路道を見るに、番明石寺から久万には、内子を経て、小田川を進み町村で大平川筋に乗り換え、真弓峠、下坂場峠を越えて二名川筋に下り、鶸峠(ひわだとうげ)を経て久万へと下りてくる。そこから第44番の大宝寺に進むことなく、この「打ちもどり」なしの道筋を第45番岩屋寺に進み、第44番大宝寺へと「逆打ちした」、ということだろう、か。全くの想像。根拠なし。

尾根道
「遍照金剛」と彫った大石碑を見やり、八丁の頭の茶屋跡で出会った歩き遍路としばし会話し、杉の木立の中、馬の背を越え尾根道を辿る。「岩屋寺まで1.9キロ」といったところである。
アップダウンを繰り返し、時に南に開ける場所から山並みを眺めたり、道脇の木の根っこや路傍に佇む石仏を見やりながら進む。標高のピークは750m程度であるので、快適な尾根歩きではある。峠の茶屋跡からおおよそ30分で750mピークに到着。ここからは岩屋寺のある標高580m地点に向かって下ることになる。

第45番岩屋寺_ 12時15分;標高577m
○三十六童子遍路道を岩屋寺へと下り、「44番大宝寺へんろ道 せりわり(白山)行場」の案内があるあたりから、「三十六童子 行場」と書かれた青い上りが見えてくる。三十六童子とは密教の根尊である大日如来の化身である不動明王の眷属である。八大童子が従う場合もあるが、通常は八大童子のうち矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)を両脇に従えた三尊で現れることが多く、これを不動明王二童子像または不動三尊像と言う。それはともあれ、この岩屋寺には北の金剛界峰、南の胎蔵界峰と呼ばれる岩尾根に囲まれた谷筋に三十六童子が侍り不動明王を護る。




○せりわり行場
「せりわり(白山)行場」に向かって坂道を下ると、道脇に普香王童子、善爾師童子が佇む。童子だけでなく金剛夜叉明王、大威徳明王といった石仏も見える。明王とは大日如来の命を受け、民衆に仏法帰依をひろめる任を担う仏尊である。坂を下りながら見やると10体ほどの明王が見て取れた。
ジグザグに道を下ると「せり割行場」に到着。文字通り岩塊が割れている。巨大な岩場の下に立つ真っ赤な不動明王にお参り。案内によると、「開山の法華仙人が、弘法大師に通力を見せた跡と伝えられます。岩の裂け目を鎖と梯子でよじ登り頂上の白山大権現に詣でます。山岳修験者達の古くからの行場で、山岳重畳の眺望をほしいままにし、はるかに石鎚を望むこともできます」、とあった。
岩の裂け目にはロープが垂れており、如何にも岩場を上る、といった風情ではあるのだが、入口には門があり、しっかりと施錠されており中に入ることはできなかった。後からわかったことなのだが、納経所で鍵を頂けば中に入れた、とのこと。とはいいながら、鎖禅場などと称され、ロープや梯子で岩場をよじ登り尖峰にある白山権現に参るには、高所恐怖症の我が身には少々荷が重かった、かとも思う。
栗田勇の『一遍上人;新潮文庫』によれば、「巌と巌の間に、身ひとつ、やっと通れるほどの割れ目が天から生じ、「迫割(せりわり)」と言う。「その姿形は、地母神への胎内回帰の原始信仰に通じるものがある」、と。

○多羅多門
佛守護童子、法守護童子、僧守護童子などを見遣りながら坂道を下り、更に道脇の幾多の童子、孔雀明王などにお参りしながら先に進むと多くの童子に囲まれた不動明王の石仏に出会う。
岩肌の下を辿り、道脇の童子、明王に一礼しながら坂を下ると古き風情の門がある。門の手前に案内があり、「第45番岩屋寺 弘法大師以前に法華仙人という女修行者が籠っていたといわれます。鎌倉時代、一遍上人が参籠したことで有名です。四国巡拝の道筋が南予の海辺から瀬戸内の海岸へ移る転回点を占めています」、とあった。

○法華仙人
弘仁六年、弘法大師がこの地を訪れた頃、この怪岩奇峰の深山には、岩窟に籠るなどして、法華三昧を成就、空中を自在に飛行できる不思議な神通力をもった法華仙人と称する土佐の女人がいた。この法華仙人は大師に帰依し、一山を献じて大往生をとげた。そこで大師は木像と石像の二体の不動明王を刻み、木像は本堂へ、石像は奥の院の秘仏として岩窟に祀り、全山をご本尊の不動明王として護摩修法をなされた、と。先ほど歩いてきた、36童子が佇む金剛界峰、胎蔵界峰に囲まれた全山が不動明王そもののであった、ということであろう、か。
法華仙人については、『一遍上人;栗田勇(新潮社)』「仙人は又土佐国の女人なり」と女身の仙人譚が現れる。そこに、迫割の女胎回帰という原始信仰の痕跡をみることは自然であろう」、とあった。







○一遍上人
案内に「一遍上人が参籠したことで有名です」とあるように、今回お四国さんの歩き遍路の手始めに岩屋寺を選んだのも、「一遍上人聖絵」にあった「菅生の岩屋」の絵が印象的であった、からである。
『一遍上人;栗田勇(新潮社)』には、;大師練行の古跡であるこの菅生の岩屋こと、岩屋寺に一遍上人はおよそ6ヶ月参籠し、「いわゆる既成仏教からおおきくはみ出した、在来の日本人の原始的宗教体験に直接的に参入し」「不動や観音や権現に護られて苦行を続け」、「一宗一派を捨て、寺家を捨て」「一口にいえば、ここに行者、聖=ひじりとしての決意が固まった」、とある。遊行の聖である一遍上人再生の地がこの岩屋であったのだろう。

○大師堂・本堂・仙人堂
多羅多門をくぐると大師堂、本堂、そして大岩壁の中腹に「仙人堂」などが見える。現在の本堂は昭和2年(1927)の再建。大正9年(1920)再建の大師堂は国の重要文化財に指定されている。
大師堂、本堂にお参りをし、大岩壁の中腹にある仙人堂に架かる梯子を上る。「一遍上人聖絵」に本堂脇から峻険な巌の中腹に開く洞窟に続く梯子、そしてその洞窟にある仙人堂の絵があるが、この梯子がそれであろう。仙人堂への垂直の梯子に取り付く。怖いながらも、それでも、行きはよいよい、ではある。が、岩窟に立つも「足元がゾンゾン」し、景色を楽しむ余裕もなし。早々にお堂を引き上げようにも、高所恐怖症の我が身には、誠に「帰りは怖い」の梯子下りとはなった。

○穴禅定
大師堂、本堂から一段下りたところに「穴禅定」。中は真っ暗。上下前方の感覚はまるで、なし。奥に灯る蝋燭の明かりを頼りに手すりや岩肌に手を添えて20m程進み、なんとかお参りを済ますことができた。独鈷の霊水があったとのことだが、文字通り、見逃した。「帰り道は少しは目が暗闇に慣れたのか、行きほどの漆黒の暗闇とはならなかった。独鈷とは大雑把に言って、杖のこと。

第45番海岸山岩屋寺。真言宗豊山派。本尊は不動明王。弘仁6年、弘法大師がこの地に練行のおり、「山高き谷の朝霧海ににて松吹く風を波にたとえん」と岩屋山の景観を詠んだことが山号・海岸寺の由来。海岸の岩壁といった景観もさることながら、四国遍路の特徴である海辺の辺路、山辺の辺路の特徴をあわせもい、また、山岳・霊地信仰や観音浄土を目指して船出してゆく補陀落渡海信仰といった山と海での信仰を併せ持つ四国遍路の特徴を著す山号ではないだろう、か。
栗田勇さんの『一遍上人』には、「一遍上人聖絵」を編纂した一遍の弟子である聖戒の岩屋寺の縁起として「ここは、観音顕現の霊地、仙人練行の古跡なり」とあり、続けて「安芸の狩人がこの峰で鹿を追い、矢を放ったところ、光る古木につきささった。見ると、何やら尊いもので、仏法を知らないが、自然自得して観音ということがわかった。そこで堂をたて、狩人は後に守護神となることを誓って野口の明神となった。用明天皇の世に、随文帝のきさきが懐胎のあいだに、霊夢を感じて、三種宝物をこの観音に捧げたという。その使いが止まって白山大明神となった」とある。ここにも狩人にからむ縁起が登場してきた。 地名は七鳥。三宝鳥、恋悲声鳥(ジュウイチ)、鉦鼓鳥(ホトトギス)、皷鳥(キジバト)、慈悲心鳥(ウグイス)、鈴鳥(キビタキ)、笛鳥(ヒヨドリ)の七種の霊鳥が住んでいたと言う故事から成るとのことではある。

神仙境とも見まがうこの地には、古来より修験者の練行の場であり、13世紀の末頃までは四十九院の岩屋、三十三所の霊窟などがそのまま残っていたと伝わる。いつの頃からか、第44番大宝寺の奥の院となっていたようだが、明治7年に普山するも、明治31年(1898)には仁王門と虚空蔵洞を残し諸資料共々、全山焼失。大正9年大師堂再建。昭和2年に本堂、9年に山門、27年に鐘楼を復興した。
ご詠歌;大聖のいのる力のげに岩屋  石のなかにも極楽ぞある

岩屋寺バス停_12時45分;標高442m
納経所からお堂のある踊り場を曲がり、御手洗川という小川に架かる極楽橋を渡り、お大師さまの像を見遣りながら進むと山門。さらに石段を下り、お土産屋をひやかしながら直瀬川に架かる岩屋橋を渡り、1時少し前に「岩屋寺前バス停」。1時5分発のバスに間に合ったので、ピストンはやめて伊予鉄バスに乗り、大宝寺で下車。大宝寺駐車場に置いた車に載って一路、実家の新居浜に戻る。

四国に生まれ、遍路とかお大師さまは身近な存在ではある。折に触れて札所を訪れたことも結構多い。とはいうものの、そのすべては車でちょっと立ち寄る、といったもの。本格的、というのはおこがましいが、所謂「歩き遍路」ははじめてである。結構いいものだ、と改めて感じた。
で、改めて遍路について考えるに、遍路のことはあまりよくわかっていない。散歩のメモをはじめ、八十八の霊場は弘法大師が開いた真言宗だけではない、ということがはじめてわかった。真言宗の他、天台宗が4寺、臨斎宗が2寺、曹洞宗が1寺、時宗が1寺もある。その他にも浄土宗、法相宗、国分寺は華厳宗、また神仏習合のお寺もある、と言う。四国八十八の霊場=弘法大師空海=真言宗、と思い込んでいただけに、新鮮な驚きであった。それではと、四国八十八の霊場、また遍路についてちょっと整理してみようと思う。
四国遍路の始まりは、平安末期、熊野信仰を奉じる遊行の聖が「四国の辺地・辺土」と呼ばれる海辺や山間の道なき険路を辿り修行を重ねたことによる、と言われる。『梁塵秘抄』には、「われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、また笈を負ひ、衣はいつとなくしほ(潮)たれ(垂)て、四国の辺地(へち)をぞ常に踏む」とある。
とはいうものの、四国遍路が辿る四国八十八カ所霊場は霊地信仰であって熊野信仰といった特定の信仰で統一されたものではないようだ。自然信仰、道教の影響を受けた土俗信仰、仏教の影響による観音信仰、地蔵信仰などさまざまな信仰が重なり合いながら四国の各地に霊場が形成されていった。それが、四国各地の霊場に宗派に関係なく大師堂が建てられ、遍路は大師堂にお参りする大師信仰が大きく浮上してきたのは室町の頃、と言われる。そこには遊行の僧である高野聖の影響が大きいとのことである。「辺地」が「遍路」と成り行くプロセスは、辺地を遊行する道ということから「辺路」となる。熊野の巡礼道が大辺路、中辺路と呼ばれるのと同じである。そして、辺路が「遍路」と転化するのは室町の頃、高野聖による四国霊場を巡る巡礼=辺路の「遍照一尊化」の故ではないだろうか。単なる妄想。根拠無し。
ところで、この霊地巡礼が八十八箇所となった起源ははっきりしない。平安末期、遊行の聖の霊地巡礼からはじまった四国の霊地巡礼であるが、数ある四国の山間や海辺の霊地は長く流動的ではあったが、それがほぼ固定化されたのは室町時代末期と言われる。高知県土佐郡本川村にある地蔵堂の鰐口には「文明3年(1471)に「村所八十八ヶ所」が存在した事が書かれている。ということはこの時以前に四国霊場八十八ヶ所が成立していた、ということだろう。遍照一尊化も室町末期のことであり、四国遍路の成立が室町末期と言われる所以である。

現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所は貞亭4年(1687)真念によって書かれた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。「四国邊路道指南」は、空海の霊場を巡ることすること二十余回に及んだと伝わる高野の僧・真念によって四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、とか。
「四十九院の岩屋あり、父母のため極楽を現じ給へる跡あり、三十三所の霊窟あり、斗藪の行者霊験をいのる砌なり。おおよそ、奇厳怪石の連峰にそばだてる月法心常住のすがたをみがき、?条陽葉の幽洞にしげれる風妙理恒説の韻をしらぶ」。「一遍上人聖絵」で描かれる菅生の岩屋の情景である。実際に目にした岩屋寺は、奇峰が天を突き、巨岩壁の中腹の岩窟に堂宇が佇む山岳修験の霊場であった。