土曜日, 1月 22, 2011

武蔵野新田散歩そのⅡ;箱根ヶ崎から残堀川を砂川新田に

残堀川散歩;先日、何も考えず国立駅から始めた散歩で、思わず知らず、国分寺の台地に開かれた新田や分水を辿り、これまた思わず知らず立川の砂川新田まで進んだ。結果的は日没時間切れのため、五日市街道に沿って開かれた砂川新田散歩が中途で終わってしまった。砂川新田の守り神である阿豆佐味神社は、境内に入ることもできなかった。
今回は砂川新田を辿ろう、と思う。砂川新田の開拓は狭山丘陵の麓にある村山郷岸村(現在の武蔵村山市岸)の人々によってなされた。阿豆佐味神社も本家本元は岸の隣(現在の瑞穂町殿ヶ谷)にある、という。また、砂川新田開発の水は玉川上水・砂川分水ができる前は瑞穂町箱根ヶ崎を源流点とする残堀川に拠っていた、とのことである。これはもう、箱根ヶ崎からはじめ、殿ヶ谷、岸をかすめながら残堀川を下り砂川新田へと進むべし、と。江戸の頃、砂川新田が開発されていったプロセスを想いながらの時空散歩を楽しむ。



本日のルート:八高線・箱根ヶ崎>青梅街道>円福寺>狭山池>吉野岳地蔵堂>福正寺>須賀神社>阿豆佐味神社>堀川橋>伊奈平橋>日産自動車村山工場跡地>西武拝島線>玉川上水と交差>西武拝島線武蔵砂川駅>見影橋>天王橋>砂川新田>流泉寺>阿豆佐味神社

八高線・箱根ヶ崎
JR青梅線の拝島駅で八高線に乗り換え箱根ヶ崎駅に。東口に下り、残堀川の水源である狭山池に向かう。駅前には国道16号東京環状が走る。箱根ヶ崎は東京環状の他、国道16号線、青梅街道、新青梅街道、岩蔵街道(成木街道)、羽村街道と多くの道筋が交差する交通の要衝である。昔も、鎌倉街道、旧日光街道、青梅街道などが通り、9軒の宿からなる箱根ケ崎宿があった、と言う。狭山神社、須賀神社といった神社も多く、また円福寺といった堂々としたお寺様も残る。旧日光街道は、八王子から日光勤番に出かける八王子千人同心が往還した道筋。青梅街道は江戸城の漆喰塀に必要な青梅・成木村の石灰を江戸に運んだ道である。
箱根ケ崎という地名は、源義家が奥州征伐のとき、この地で箱根権現の夢を見、この地に箱根(筥根)大神を勧請したことに由来する。箱根(筥根)大神は現在の狭山神社である、と伝わる。また、瑞穂市教育委員会編「瑞穂の地名」によれば、この地の地形が箱根に似ており、また箱根より先(都より遠くはなれた)であるので、「はこねがさき」となったとの説もある。地名の由来は例によって諸説、定まること、なし。カシミールでつくった地形図を見るにつけ、地形はいかにも「箱」の姿を呈している。

青梅街道
東京環状を北に向かう。箱根ヶ崎辺りでは国道16号・東京環状は瑞穂バイパスとなり、駅の西側を迂回する。駅前を通る東京環状は都道166号・瑞穂あきるの八王子線となっている。先に進み青梅街道との箱根ヶ崎交差点の手前にささやかなる社。杉山稲荷神社とある。川崎市近辺にはその地区ローカルな杉山神社がある。まさか、その流れではないだろけれど、とチェック。杉山某さん由来の神社ではあった。

円福寺
箱根ヶ崎交差点を少し下った街道脇に円福寺がある。いつだったか狭山湖周遊の折、六道山から箱根ヶ崎に下った時、一度訪れたことがある。いい構えのお寺さまであり、今回もなんらかの発見があるものかと、再び訪れる。仁王門をくぐり大きな本堂にお参り。臨済宗建長寺派のお寺様であった。
この円福寺は幕末の動乱時、振武隊の一時駐屯地となった。振武隊は彰義隊からわかれた幕府軍の一派。上野を離れた後、隊長の渋沢成一郎に率いられ、田無をへてこの地に来たる。軍資金集めなど少々不可解な行動をとりながら、三日ほど円福寺に滞在。上野の戦い勃発の報に接し、この地をはなれて上野に赴いた。進軍途中、上野での彰義隊敗走の報を受け転進。田無を経て、飯能へ下り、その地での飯能戦争で壊滅する。

狭山池
成り行きで東京環状に戻り、残堀川を跨ぐ橋脇から川筋に下りる。護岸工事が施された川筋を少し進み狭山池に。池の畔に一九世紀中頃の馬頭観音や常夜塔。常夜灯はもとは、残堀川と日光街道が交わるあたりに建てられたものをこの地に移した。
狭山池は残堀川の水源となる池である。鎌倉時代に「冬深み 筥の池辺を朝行けば 氷の鏡 見ぬ人ぞなき」と歌われているように、昔は「筥の池」と呼ばれていた。箱根ヶ崎の地名の由来にもあるように、この地が古くから伊豆の箱根(筥 根)となんらかの関係があったのか、それとも、狭山池一帯の「箱形」の地形故のネーミングであろうか。
狭山ヶ池の案内板に「この辺一帯は、古多摩川が流れていた頃、深くえぐられ窪地となった所である。大雨が降ると、周辺の水が集まり、丸池を中心とした約18ヘクタールは水びたしになり、粘土質のため、水はけが悪く耕作できず、芝池になっていた」、とある。カシミール3Dで地形図を書いてみると、誠にそのとおり。狭山台地が青梅丘陵にその?(やじり)の尖端を差し込んだような形状となり、周囲が囲まれている。丘陵から流れ込む水のはけ口としては往古、狭山丘陵の北を流れる不老川(としとらず)に流れていた、とも言われる。江戸の頃になると、狭山丘陵からの流れを集める残堀川に堀割で通し、狭山池に溜まる水の捌け口としたようである。またそれは玉川上水の養水として機能したとのことでもある。
残堀川の名前はこの狭山ヶ池の伝説に由来する。その昔、この池に棲んでいた大蛇を蛇喰次右衛門が退治。その際に大量の血が流れ「じゃぼり」>「ざんぼり」に。また大雨の度に流路定まることなく、蛇の如くうねった、が故に「じゃぼり」となった、とも。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

残堀川
残堀川を下る。現在の流路は狭山池からはじめ、武蔵村山市西部、立川市北西部、昭島市東部、立川市南西部を経て、日野橋上流で多摩川へと合流する、流域面積34.77km2、流路延長12.7km の一級河川。瑞穂町内で狭山谷川・夕日台川・峰田川・滝田川の4河川、武蔵村山市内で横丁川、立川市内で3用水(昭和用水・昭和用水支流・立川堀分水支流)が合流する。
もともと残堀川は、狭山谷川、夕日台川といった狭山丘陵の水を集めて東南に下り砂川三番の御影橋付近に至り、曙町を経て矢川につながり、国立の青柳から谷保を抜けて府中用水に流れ込んでいたといわれる。江戸時代の承応3 (1654)年、玉川上水が開通した際、愛宕松付近(現在の伊奈平橋付近)で川筋を南に曲げ、現在の天王橋(五日市街道との交差部)付近で玉川上水につなぎ代えた。同時に掘割を通して狭山池の水を残堀川に繋ぎ玉川上水の助水として利用した。明治に入ると残堀川の水が汚れてきたため、明治26(1893)年から明治41(1908)年にかけて、玉川上水の下に交差させ、立川の富士見町へ至る工事が施された。富士見町から立川段丘の崖を落ちた水は段丘沿いに流れる根川に合流していた、とのことである。昭和に入ると、生活排水の流入を避けるため、昭和38(1963)年、水量が安定している玉川上水を下に通すことになった。
残堀川の流路は、青梅付近を頂点として東に緩く傾斜する武蔵野段丘の南側、武蔵野段丘より一段低い立川段丘面を立川断層に沿って流れる、と言う。立川段丘の上層は立川ローム層(関東ローム層)で覆われ、その下には透水性の大きい立川礫層が存在しているため、台地上は一般に地下水位が低く乏水性台地となっている。残堀川の源泉である狭山池の湧水も立川断層と小手指断層の交叉部分であることに因る、と言う(「多摩川水流実態解明キャラバン 残堀川(多摩川流域協議会)」より)。

吉野岳地蔵堂
残堀川に沿って下る。次の目的地は阿豆佐味神社。砂川新田を開発した村山郷岸村の鎮守様。しばし川筋を進み、途中で青梅街道にそれて社に辿ろう、と。東京環状を越え、先ほど訪れた円福寺の裏手を進む。進行方向左手の狭山丘陵の緑を見やり、狭山丘陵を周遊し、六道山辺りを彷徨ったことを思い出す。山麓の須賀神が記憶に残る。
道を進み青梅街道との交差点に吉野岳地蔵堂。江戸時代、この地・石畑村の名主であった吉岡某が子供の病気平癒を願って建立した。小堂ながら正確な唐様模様を残し、殿ヶ谷・福正寺観音堂と同様の仏寺建築、とのことである。地図を見ると青梅街道を少し進んだ丘陵に福正寺がある。また、その脇には須賀神社もある。先回訪れた須賀の社ではないようでもある。ついでのことではあるので、阿豆佐味神社に直行しないで、ちょっと寄り道。

福正寺
青梅街道・石畑地区を進む。細流を越えた後、成り行きで丘陵方面に向かい福正寺に。結構な構えのお寺さま。総門を入り新築の山門をくぐり本堂前に。本堂の左手の石段を上ると観音堂。品のいいお堂であった。その少し上には興福寺の五重塔を模したと言う、ミニスケールの五重塔があった。
境内から瑞穂の町を眺める。昭和15年(1940年)、箱根ヶ崎村、石畑村、殿ヶ谷村、長岡村が合わさり瑞穂町となる。瑞穂の由来は、瑞々しい稲穂の実る地、との説、また、低地で水が溜まりやすく「水保」と呼ばれていたのだ、その由来との説も。相変わらず地名の由来は諸説定まること、なし
このお寺様、武蔵七党のひとつ村山党の本拠地と言われている。桓武平氏の後裔・平頼任が村山郷(入間川流域)に住み村山氏を名乗ったが村山党のはじまり。主な一族に、金子丘陵を拠点とする金子氏、現在の川越あたりに勢を張った仙波市、狭山の山口氏などがいるが、この地の村山党は金子氏の流れと伝わる。戦国期、寺の境内あたりに村山土佐守が城を構えた、とある。本堂のあたりが腰曲輪、その上に本郭があった、と伝わる。村山土佐守は後北条、滝山城主の北条氏照に仕えていた。また、先ほど訪れた円福寺あたりに村山氏の館があった、との説もあるようだ。円福寺と言えば、幕末の振武隊の円福寺駐屯の折、部隊との交渉を引き受けた名主の村山氏は、村山党の後裔とのことである。

須賀神社
福正禅寺前の坂を下り、道なりに須賀神社へ向かう。ほどなく崖下に小さな公園。玉林寺公園とある。奥に玉林寺遺址とあった。室町の頃、このあたりの殿ヶ谷に創建された臨済宗建長寺派のお寺さま。殿ヶ谷の人々が砂川の地に移り、殿ヶ谷新田を開発したとき、お寺も移したようだ。そういえば、先日夕闇の中、砂川四番あたりの阿豆佐味神社に向かう途中、玉林寺があった。公園前には須賀神社の道案内が出てはいるのだが、いまひとつわかりにくい。公園の辺りを少し行き来し、公園脇の小径を丘陵へと上る。気持ちのいい樹林の中を早喜に進むと道脇に鳥居。鳥居を潜り参道を進み須賀神社に。
誠にあっさりとした社が佇む。先日この近くの六道山を彷徨ったときにも須賀神社があった。この社を下った阿豆佐味神社の先にも須賀神社がある。須賀神社はスサノオを祭神として祀る。神仏習合において、スサノオ=祇園精舎の守護神である牛頭天王、とみなされ、スサノオを祀る神社はその昔、(牛頭)天王さまと呼ばれたことが多い。この地域には天王祭りがあるとのことであり、ここの須賀神社も明治の神仏分離令以前は、天王の社とでも呼ばれていたのだろう。
天王様って、その多くは人の集まるところ、市場神として祭られる、ってことをどこかで聞いたことがある。人が集まるところでの疱瘡除けの御利益の神として祭られたようではある。この地、交通の要衝として多くの人の往来があるところ故の神様であったのだろうか。単なる妄想。根拠なし。ちなみに、「**神社」という名称は明治以降の呼び名である。

阿豆佐味天神社
丘陵を下り道なりに阿豆佐味神社に。立川の砂川新田でたまたま出合い、その本家本元への想いより、今回の散歩のフックとなった社。なにも知らず訪れたのだが、誠に古い歴史を持つ社であった。社伝によると、寛平4年(892年)、桓武天皇の曽孫である常陸大嫁上総介高望王(平の姓を賜る。武家平氏の始祖)の創建とされる。平安時代の中頃,延長5年(西暦927年)に完成した『延喜式』において多摩地区八座のひとつとされる政府公認の社である。
アヅサミという名称の起源は不明。古代には梓の木で作った弓〔梓弓〕を鳴らし神意を占ったことを起源とする説、楸繁茂していたことを起源とする説などがある。また、「阿豆」は「甘い」の意であり、「佐」は味の接頭語、「味」は弥で水の意味、とし、狭山丘陵から流れる湧水を祀ったことを起源とする説もある。水に恵まれていないこの地のことを知るにつけ、結構納得感がある。神社の名前も元は阿豆佐弥と呼ばれていた、とも。実際、この社では水を崇めている、とのことである。神社の祭神は少彦名命、スサノオ命、大己貴命となっているが、それは時代とともに、出雲族の武蔵進出に伴い部族神である少彦名命・スサノオ命・大己貴命などを祭ったり、大和朝廷の勢力拡大に伴い天ッ神=天神様をまつったりと、あれこれポリテックスを織り込み変化を遂げていったのだろう。
鎌倉期には武州村山郷の鎮守として武蔵七党・村山党の篤い信仰を受ける。その後この地の支配者は関東管領・扇谷上杉氏、滝山城主・大石氏、大石氏に替わった北条氏照、そして江戸時代の代官・江川太郎左右衛門と替わるも、この社は変わることなく篤く敬われる。そして、この地の民が砂川新田を開くときも、地元民の心の支えとしてこの地より勧請し砂川に社を建てた、ということである。

堀川橋
長い参道を進み青梅街道・阿豆佐味天神社前交差点に出る。ここからは残堀川筋に戻って一路砂川新田へ下ることにする。先に進み新青梅街道を越え、橋を三つほどやり過ごすし堀川橋に。この橋に通じる道は東西に一直線に走る。この道は野山北公園自転車道。道の下には東京都水道局の羽村線という玉川と多摩湖・狭山湖を結ぶ水道管が埋められている。地形図には東京水道とある。元々は多摩湖・狭山湖を建設するときにつくられた軽便鉄道の跡地である。

伊奈平橋
先に進み新残堀橋に。橋の上が広場風に造られている。いささか趣きの乏しい都市型河川に沿って進んできた川筋も、左手前方にイオンモールの姿を認め伊奈平橋近づくにつれ、桜などが植えられ緑道っぽい感じになってくる。
伊奈平橋の名前の由来は、橋の西にある伊奈平地区から、だろう。また、その地区名は秋川筋の伊奈宿へと続く「伊奈海道」が通っていたことに由来する。現在は伊奈平と秋川筋の伊奈の間は横田基地によって分断されているが、往古、この道は五日市街道の原型ともなった道。
秋川の伊奈、といえば石工で名高い。江戸城普請の際には、伊奈の石工が江戸との間を頻繁に往来したことだろう。また、秋川筋・伊奈の石工の本家本元は信州伊那谷高遠付近。石切職人(石工)として名高い伊那の衆が秋川・伊奈の伊那石に目を付け、移住し故郷の地名を村の名とした、との説がある。

日産自動車村山工場跡地
伊奈平橋を越えると川筋はまっすぐ南下する。源頭部から伊奈平橋まで自然なカーブで南東へと下っていた流れからすれば、いかにも不自然。また、川筋は南東へと走る立川断層に沿って下るとも言うし、その点からも不自然。上でメモしたように、もともとの川筋はこの伊奈良平橋から南東に下っていた、とのことである。
その流路を変えた理由は残堀川の水を玉川上水に落とすため。旧路では玉川上水の河床より残堀川の河床が低くなる。ために、流路を標高の高いところに付け替えた、ということである。塀に沿って一路南下する。塀の向こうには日産自動車の工場があった、とか。20年近くスカイラインGT-R(32タイプ)に乗っていたのだが、昨年タクシーにぶつけられ廃車処分となってしまった。グーグルアースに今でも自宅前に残るR32GT-Rを見るにつけ、少々の感慨がよぎる。それはともあれ、このあたりになると残堀川の水はほとんど見えなくなってきた。河床に潜っているのだろう、時々浸み出すように、川床に水気が僅かに顔をのぞかせている。

西武拝島線
日産村山工場の塀に沿って進んだ川筋が、東に向かって弧を描き再び南下するあたり、川筋から少し離れたところに橋跡らしきものが残る。これって何だろう?道を少し東に進むと水路がある。先ほど見た橋の流路とは異なるが、日産村山工場敷地跡から、弧を描いて残堀川に進んでいるようだ。
川筋に戻って先に進むと、残堀川が西武拝島線に交差する手前、公園脇から水路が残堀川に合流する。先ほど見た工場跡からの流路であろう。この水路って、単なる工場からの水を逃がすためのものだろうか、それとも、残堀川の流路変遷の一過程のものだろう、か。玉川上水に水を流すため流路を変えた残堀川は、玉川上水・天王橋のあたりに流れた、と言う。現在の残堀川の流路は天王橋の数百メートル東で玉川上水と交差する。これは明治の頃、水が汚れてきたため残堀川を玉川上水の下に通すために再び付け替えられた川筋であろうから、江戸の頃の流路は現在より少し西に向かう必要がある。工場からの水路の方向は、如何にも天王橋方面へと向かっている。江戸の頃の流路の名残なのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

玉川上水と交差
西武線を越えるとほどなく残堀川は玉川上水と交差する。明治の頃は残堀川が玉川上水の下を通ったが、現在は逆に玉川上水が下を通る。もう何年前になるだろう、玉川上水を羽村の取水口から四谷大木戸まで辿ったことがある。その途中、この地で玉川が残堀川の下を潜るのを見て少々感激した。感激した、とはいっても、単に川が別の川の下を潜る、ってことに単純に驚いただけのことではあるが、その背景には、明治や昭和の頃の残堀川を取り巻く環境が大きく影響していた。明治には、残堀川の汚れのため玉川上水から切り離し、上水の下を潜る。昭和になると、残堀川の溢れ水による上水の汚れを防ぐため、逆に上を通す、といった歴史があった。物事にはすべて、それなりの理由がある、ということだろう。

西武拝島線武蔵砂川駅
今回の砂川新田散歩、どうせのことならと、箱根ヶ崎から下った散歩も、やっと砂川新田あたりに辿り付いた。さて、いまから砂川新田を、とは思えども、その前に玉川上水の見影橋あたりに下っていた、という残堀川の旧路をちょっと見ておこう、と。
玉川上水に沿って東に進む。南に立派な屋敷林が見える。砂川新田を開いた有力農家の屋敷林ではあろう。そこには後で辿る、ということで先に進む。成り行き北に折れて西武拝島線武蔵砂川駅に。駅のガードを潜り、駅北に抜け、西武線に沿って道なりに少し東に進む。西武線を潜る車道に続く道が如何にも水路跡といった雰囲気。後になってわかったのだが、その道を少し北に進んだ畑のあたりに残堀川旧路を示す案内があったようだ。

見影橋
如何にも水路跡といった道を、西武線を抜けて玉川上水に向かう。橋は見影橋。橋の脇に案内;見影橋は江戸の頃からあった。上流から四番目であったので、四の橋、とも。四番目というのは、砂川村内を流れる上水の上流から数えて、ということだろう。また、名主の屋敷が近くにあったので「旦那橋」とも。玉川上水の水見回り役も兼ねていた砂川家のために架けられた橋、とも言われる。また、その昔には、明治の頃の名主の名前にちなんだ「源五右衛門分水」もあった、とか。砂川家専用の分水である。
玉川上水が開削される前は、ここを流れていた残堀川の旧路の水をもとに、砂川新田が五日市街道に沿って開かれていった。道を南に進むと砂川三番あたりである。玉川上水からの砂川分水ができる前の砂川新田は、名主村野家(後の砂川家)を中心にしてその砂川三番、四番あたりから開発されていった、とか。ちなみに、見影橋の少し東で玉川上水が崖地を迂回する。このあたりは立川断層であり、上水は幅300メートル、比高差5メートルほどの断層を迂回して進んでいるようである。

天王橋
旧水路跡を確認し、玉川上水を西に折り返し、砂川分水の分岐点である天王橋へと向かう。現在、砂川分水はもうひとつ西の松中橋のあたりにある、という。そこから玉川上水に沿って進み、この天王橋のあたりで玉川上水を離れ五日市街道に沿って下った、と。どうせのことなら、分水口まで足を延ばしたい、とは思えども、玉川上水散歩で一度訪れたこともあるし、なにより日暮れも近い。ということで、天王橋から五日市街道に沿って下ることにする。




砂川新田
砂川新田は五日市街道に沿って開かれた。開発の時期は三期に別れる、と。最初は慶長14年(1609)~寛永3年(1626)。村山郷「岸(きし)」(現在の武蔵村山市)に住む三右衛門(村野、後に砂川)が新田の開発を幕府に願い出る。ただ、この時期は計画段階といったものであった、よう。
その次が寛永4年(1627)~明暦2年(1656)の頃。この頃にはぼちぼち開発が始まった、とはいうものの、未だ玉川上水も通っておらず、つまりは砂川分水もなく、水の確保が十分でない。開発がはじまった、といった段階だろう。新田開発に必要な水は、残堀川の水量を頼りにするしかないわけで、開発は現在の砂川三番とか四番あたり、からはじまった。そのあたりに村野家(砂川家)があるのも、その根拠のひとつではある。
そして第三段階、承応元年(1652年)玉川上水が通り、明暦3年(1657)には、玉川上水から砂川分水が許可され、砂川新田の開発が本格的に動き始める。明暦3年(1657)~元禄2年(1689)の事と言われる。
かくして開発が進んだ砂川新田は元文元年(1736年)には砂川村となる。きっかけは亨保7年(1722)、日本橋に立った新田開発の高札。八代将軍吉宗による新田開発奨励策を受け、砂川新田の一番から八番まで開発を終えていた砂川の人々が、その東、砂川九番、十番あたりに開発の手を延ばす。これら新しい新田を「砂川新田」、その東を「砂川前新田」などと呼ぶようになったため、それと区別できるように従来の新田を「砂川村」としたようである。砂川三番、四番を中心に村の母体ができて百年後のことであった。先回の散歩で出遭った川崎平右衛門が活躍したものこの頃だろう。

流泉寺
五日市街道に沿って進む。残堀川を越え先に進むと、天王橋から別れ、暗渠となっている砂川分水が砂川九小交差点の先で開渠となる。立派な屋敷林をもつ農家の中を進んでいる。ほどなく、これはまことに豪壮な農家というかお屋敷が現れる。砂川新田の開発に尽くした村野家、後の砂川家のお屋敷である。
お屋敷の道路を隔てた南に流泉寺。開発農民の心の支えとして、砂川新田開拓民の菩提寺となる。「砂川開発の節、名主、惣百姓相談仕り候おもむきは、所々方々の者共当村へまかり出で居り申しそうらえば、其の村々寺々へ付け届き難儀にござ候ゆえ、菩提寺一ヵ寺にしたきよし」、とは流泉寺から奉行へ提出された菩提寺開基を願う書面である。

阿豆佐味神社
砂川三番交差点を越え、砂川四番交番前交差点手前、先日、日没閉門のためお参りできなかった阿豆佐味神社にお参り。瑞穂の阿豆佐味神社を勧請したのは前述の通りである、頃は新年。年明けの参賀の人々で賑わっていた。お参りをすませ、先回と同じく砂川四番のバス停から立川に戻り、一路家路へ急ぐ。




武蔵野新田散歩そのⅠ;思いがけず国分寺崖線と武蔵野新田に出合う

年明けの、とある週末、特段何処と言って歩きたいところが想い浮かばない。さてどうしよう、と地図を眺める。国立駅の北東に戸倉神社が目に止まる。尾瀬散歩の折の片品村の戸倉、奥多摩散歩の倉沢など、「倉」という言葉に最近フックが掛かる。「倉」って、「険しい崖地」といった意味がある。国立の北に、崖地への入口(戸)=戸倉、があるとは思えないのだが、なんとなく気になり、出かけることに。
スタート地点は戸倉神社と決めた。さてゴールは何処に、と地図を眺める。立川の北、砂川四番あたりに阿豆佐味神社が目にとまる。散歩で結構神社を辿ったが、阿豆佐味神社とは、はじめての名前。いかなる社かと、訪ねることに。
事ほど左様に、誠にお気軽に、成り行きで決めた散歩のルートではあったのだが、終わってみれば国分寺崖線あり、たまたま古本屋で手に入れ読み始めていた、川崎平右衛門(『代官川崎平右衛門の事績;渡辺紀彦(自費出版)』)ゆかりの地あり、玉川上水や砂川分水、武蔵野新田、そして砂川新田など、といった誠に思いがけない幸運と出会う一日となった。成り行き任せの散歩の妙、セレンディピティ(serendipity;別のものを探しているときに、偶然に素晴らしい幸運に巡り合ったり、素晴らしいものを発見したりすることのできる、その人の持つ才能。)を感じる一日ではあった。



本日ルート;JR国立駅>都道222号>光町1丁目交差点>稲荷神社>富士本2丁目交差点>戸倉通り>並木町・神明社>満福寺>戸倉神社>玉川上水>妙法寺>水源>用水>鳳林寺>高木神社>西町3丁目交差点>観音寺>けやき台小前交差点>五日市街道・けやき台団地北交差点>砂川九番>砂川七番・芋窪街道・多摩モノレール>砂川五番>砂川四番交番交差点>中央南北線北詰>阿豆佐味天神社

JR国立駅
国立駅南口に下りる。駅前から南には大通りと桜並木が続く。少し下ったところには一橋大学もある。如何にも学園都市の雰囲気であるが、その昔は一面の雑木林。雑木林が拡がる谷保村北部のこの地が開かれたのは大正時代末期。1926年(大正15年)、箱根土地開発(西武グループの前身といったところ)が学園都市を構想、国立駅も開く。1927年(昭和2年)には東京商科大学(一橋大学)が移転し、学園を中心にした宅地分譲が整備された。1951年(昭和26年)には国立町、1965年(昭和40年)、国立市となる。先日歩いた練馬の大泉学園もおなじく箱根土地開発が学園都市を構想したが、そこは大学の誘致が叶わず、学園(大学)のない駅名だけが残った。
駅を下り、とりあえず駅前の古本屋に立ち寄る。ビルの通路の壁に並ぶ郷土史関係の書籍が、割と自分の趣味に近く、折に触れ立ち寄っている。今回もシュライバー著『道の文化史』を手に入れる。

崖線
散歩に出発。最初の目的地である戸倉神社は駅の北東方向。線路に沿って少し国分寺方面に戻り、成り行きで中央線のガードを潜り線路の北(国立市北1丁目交差点)に出る。
歩きはじめると、右手が小高く盛り上がっている。道を北に進んだところに「はけ通り 樹林地」といった地名もある(「はけ」とは崖、と言った意味)。何だ、これは?戸倉新田と言うくらいであるとすれば、水の便の悪い台地上にあるのは少々不可思議?このあたりは台地となっているが、戸倉新田は台地を再び下ったところにあるのだろう、などと思いながら、とりあえずそれを確かめるべく成り行きで崖の階段を上る。
結構比高差のある崖線上にのぼり、あたりを見渡す。台地は東にも北にも下る気配は、なにも、ない。どうなっているのだろう、と少々混乱。先ほどの崖下まで戻り、崖の切れ目まで進み、崖下、と言うか台地下を東に進み戸倉新田へと進むコースを想い描く。成り行きで都道222号に進み、坂を下り元の崖下辺りまで引き返す。国立市北1丁目交差点から北に延びる道を進む。住所は国分寺市光町であり、国立市ではない。地図をチェックすると、国立市はほとんどが中央線より南。中央線の北は北町という地域がちょっと飛び出しているくらいであった。国立を歩くつもりが、国分寺散歩となってしまったようだ。

稲荷神社
崖線に沿って先に進む。比高差は次第に低くなってはくるが、それでも台地はなかなか切れない。光町2丁目交差点あたりまで進んでも台地が切れる雰囲気はない。その先の五叉路に稲荷神社。江戸の頃、平兵衛新田(ひょうべい)と呼ばれたこのあたりの守り神であった、と言う。鳥居の下には橋の欄干らしきもの。崖に沿って用水が流れていたのだろう。玉川上水からの分水(後には玉川上水からの分水である砂川分水)から別れた、中藤分水の末流に平兵衛分水がある、とのことであるので、その流路であろう、か。もっとも、こういった分水とか新田は散歩を終えてメモをするときになってわかった、こと。散歩の時は、この用水跡らしきものは何だ?といった問題意識があった、だけではあった。
稲荷神社のあたりは光町と呼ばれる。光町となった由来は、町内にある旧国鉄の鉄道総合技術研究所から。東海道新幹線の技術開発に大きな役割を果たしたこの研究所故に、新幹線「ひかり」を以て町名とした、とある。

戸倉通り
五叉路を崖線に沿ってもう少々進みたい、崖の切れ目を確認したい、とは思えども、さすがにそれでは目的地の戸倉からは離れすぎる。ということで、崖を上る坂道を北東に進む。市立第二小学校脇を過ぎると、少々奇妙な交差点。江戸の頃は四軒屋と呼ばれていた、とのこと。この辺りには農家が四軒しかなかった、ため。四軒しか、とはいうものの、府中の是政新田は草分け農家が二軒しかなかったわけで、それからすれば、四軒も、とも言える、かも。

交差点から東に進む道は「戸倉通り」とある。先に進むと「内藤橋街道」。西国分寺駅の内藤町からJR中央線を跨ぐ内藤橋を経て北西に上る。江戸の頃、中央線を挟んで南の内藤町、北の日吉町一帯は内藤新田が開かれた。
"> 交差点を先に進む。道を進めども、どちらを向いても台地面が拡がるだけで、台地を下る雰囲気はみじんも、ない。ひょっとして、台地が盛り上がっているのではなく、国立駅あたりが、そもそも一段低いのではないか、ひょっとして国立駅前から南が立川段丘面であり、現在歩いているところが武蔵野段丘面ではなかろうか、などと思い始める。武蔵野台地には、遙か昔、多摩川が南へと流れを変えていく過程で武蔵野台地を削り取ってできた河岸段丘があり、その低位面が立川段丘(面)、高位面が武蔵野段丘(面)、そして立川面と武蔵野面を区切る崖線が国分寺崖線である。ということはひょっとして、先ほどの崖線って国分寺崖線?少々頭が混乱しながらも、もう少々実際に歩いて結論を出してみよう、などと思い込む。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)


満福寺
国分寺五中交差点を過ぎ満福寺の案内を目安に右に折れ、畑地の中を進む。満福寺の表の道路脇には寒念仏供養塔(「寒念仏」とは、もっとも寒さの厳しい小寒から節分までの一月に渡り、念仏を唱えながら巡回する修行のこと)、馬頭観音、地蔵菩薩を兼ねた道標が佇む。
満福寺は秋川筋、檜原村・吉祥寺の末。元は吉祥寺住職の隠居寺であったようだが、この地に戸倉新田を開いた檜原村の農民の願いに応え、檜原より引寺された。いつだったか檜原村の吉祥寺を訪れたことがある。寺の土蔵に「三ツ鱗」の紋。これって北条氏の家紋。創建は応安6年(1373年)、臨済宗建長寺派の古刹であった。寺の裏山に檜原城址、と言うか、狼煙台跡といった城址があった。

戸倉神社
満福寺の境内を抜け横にある戸倉神社に。今回の散歩のきっかけとなった神社ではある。この神社は将軍吉宗のもと、新田開発が盛んに行われた享保の頃、檜原村戸倉にある三島神社を勧請した。元は山王大権現とでも呼ばれていたのではあろうが、明治になって戸倉神社となった(「**神社」との名称は明治になってから)。戸倉神社の由来は崖の入口でも何でもなく、檜原村戸倉の農民が開いた戸倉新田から、であった。

檜原村の吉祥寺を訪れたとき、戸倉の三島神社辺りを彷徨ったことがある。戸倉にある光厳寺の裏山にある戸倉城に上ったのだが、頂上付近に岩場があり、結構怖い思いをしたことを思い出す。倉って、「切り立った岩」とは言い得て妙ではあった。戸倉とは、まさしく、切りたった岩場地帯への入口、であった。
散歩に出かけると神社仏閣を訪ねることが多い。とりたてて信仰心が深い訳でもないわけで、人に気兼ねすることなく休むことができ、かつまた、社寺の縁起や由来の案内があるわけで、事前のお勉強をすることなく、誠にお気軽に散歩を楽しむ我が身にとっては誠に重宝なるところではあるのだが、それはそれとして、神社仏閣がその地を開いた人々の心の拠り所、ってことが今ひとつ実感として感じることがなかった。古代、武蔵の国に移り住んだ出雲族が、故郷の簸川(ひかわ;現在の斐伊川)の氷川神社をその開拓の地に祀った、といっても、あまりに遠い昔のことであり、リアリティが感じられなかったのだが、この戸倉神社は江戸の頃、一度訪れたことのある檜原・戸倉の人々がこの地に新田を開き、故郷の寺や社、それも一度訪れたことのある社寺を引寺・勧請した、とあれば、ぐんと身近に、少々オーバーではあるが、「日常の風景」として感じられるようになった。

次は何処へと想いやる。最終目的地は砂川四番辺りの阿豆佐味神社ではあるのだけれど、ストレートに進むのも、何だかなあ、ということで、地図で辺りチェックする。北東方向に神明社。由来も何も知らないのだが、取り敢えず寄ってみよう、と。結果的にはこの成り行き任せのお気楽チョイスが五日市街道に出合い、用水に出合い、玉川上水に出合い、川崎平右衛門ゆかりの地に出合い、そして、そのときは、それぞれなんの繋がりもわからず、ひたすら歩いただけではあるのだが、後になってみると、玉川上水>用水=砂川分水>新田開発>川崎平右衛門、とすべてが予定調和の如くつながっていた。誠に以て、セレンディピティ(serendipity)と言うべけん、や。

五日市街道
戸倉通りを道なりに進み、戸倉四丁目で左に折れ先に進むと、車の往来の多い道に出る。五日市街道であった。五日市街道は、秋川筋の檜原や五日市の木材や炭を江戸の町に運ぶため整備されたもの。また秋川筋・伊奈の石工が江戸城の普請に往来した街道でもある。武蔵野台地の新田開発は五日市街道に沿って進んだ、と言われる。言われたとしても、先ほどの神社仏閣ではないけれど、今ひとつ実感がなかったのだが、玉川上水、そしてその分水を目にし、五日市街道に沿った新田の地を実際に歩くことにより、結構リアリティをもって感じられるようになった。もっとも、それは歩いているときではなく、メモしはじめて、なんとなくわかってきたことである。宮本常一さんの「歩く 見る 聞く」ではないけれど、「歩く・見る・書く」を以て瞑すべし。 神明社五日市街道脇に神明社。境内に水路が通る。散歩の時は、この用水って何?と思っていたのではあるが、調べてみると、このあたりは野中新田と呼ばれたようで、玉川上水の小川橋の辺りで分水された野中新田用水とのことで、あった。
少し休憩しながら地図を見る。この社の少し北に玉川上水が流れている。そのときは分水との関係とか、新田との関係とか、何にもわからず、ついでのことであるといった程度で、玉川上水まで進む事にした。

玉川上水
成り行きで北に進む。前方に東西に続く林が見える。玉川上水の堤を彩る雑木林ではあろう。先に進み玉川上水・新小川橋に。玉川上水は、もとは江戸の町に上水を供給するため造られたもの。羽村から武蔵野台地の尾根道を43キロほど、四谷の大木戸まで開削した人工の水路である。元は上水用として開削されたが、灌漑用水として分水することにより武蔵野台地の新田開発に大きな役割を果たした。玉川上水に沿って少し西に向かう。玉川上水は羽村から四谷まで三回に分けて歩いたり、立川・小平監視所から野火止用水へと進んだり、西東京・境橋から千川上水へと別れたり、とあれこれ歩いている。ということで、今回は、ちょっと雰囲気を感じるだけでほんの少し西に向かい、東京創価小学校を越えたあたりで左に折れ、五日市街道へ戻ることに。

妙法寺
成り行きで、誠に成り行きで道なりに南に進む。と、五日市街道手前にお寺さま。何げなく境内に。お参りを済ませ、そのときは足早に寺を出たのだが、このメモをするときに、国分寺北町?妙法寺?たまたま古本屋で、誠に何気なく買い求め読み始めていた川崎平右衛門(『代官川崎平右衛門の事績;渡辺紀彦(自費出版)』)ゆかりの寺であった。境内には「川崎・伊奈両代官感謝塔」がある、と言う。享保年間、武蔵野新田開発に際し、農民を保護し、農営指導に尽力した川崎平右衛門、伊奈半左衛門の両代官に感謝して造立された宝篋印塔である。
川崎平右衛門は、もとは府中押立村の名主。農民を保護し、農営指導するその力量を評価され、享保年間、大岡越前とともに武蔵野の新田開発、というか立て直しに尽力した。
武蔵野の新田開発は享保年間以前、明暦の頃より始まった。武蔵野に82の開拓村ができた、と言う。とはいうものの、入植した1320余戸のうち生活できたのはわずかに35戸しかなかった、と言う。こういった村の状況を更に悪くしたのが元文3年(1738年)の大飢饉。村は壊滅的状況になった。
その窮状を立て直すべく大岡越前守に抜擢されたのが川崎平右衛門。時の代官上坂安左衛門(この人物も何となく魅力的)の助力のもと、農民救済に成果を示し、名字帯刀を許され、1743年(寛保3年)、大岡越前守の支配下関東三万石の支配勘定格の代官になった。また、不手際・職務怠慢ということで水元役を解かれた玉川兄弟に代わり、玉川上水の維持管理にも深く携わる。桜の名所とし有名な小金井堤の桜を植えたのも川崎平右衛門である。後には美濃や石見にも代官として派遣され仁政を行った(『代官川崎平右衛門の事績;渡辺紀彦(自費出版)』、より)。誠に魅力的な人物である。散歩の時は何もわからず訪れ、なにもわからず立ち去ったが、ともあれ、思わず知らずゆかりの寺に足を運んだわけで、これまたセレンディピティ(serendipity)と言える、だろう。
名代官と称された川崎平右衛門であるが、中野散歩の時、新田開発とは全く関係のないコンテキストで現れたことがある。中野長者・鈴木九郎ゆかりの寺、中野・成願寺を訪れたとき、そのすぐ脇の朝日が丘公園(中野区本町2-32)に象小屋跡の案内があった。亨保の頃、タイより象が長崎に到着。街道を歩き、京都で天皇の天覧を拝した後、江戸に下り将軍・幕閣にお目見え。その後13年ほどは幕府が飼育するも、維持費が大変、ということで払い下げ。希望者の中から選ばれたのが川崎平右衛門。縁故者の百姓源助が象を見せ物とし、大いに賑わった、とか。
また川崎平右衛門は象の糞尿にて丸薬をつくり、疱瘡の妙薬として売り出した。幕府の宣伝もあり、大いに商売は繁盛し、観覧料や丸薬の売り上げで上がった利益で府中・大国魂神社の随神門の造営妃費として寄進された、と(『代官川崎平右衛門の事績;渡辺紀彦(自費出版)』より)。ちなみに、川崎平右衛門とともに祀られていた伊奈半左衛門。この人物も武蔵野を散歩するときに折に触れて現れる。関東郡代として、武蔵野の河川改修などに手腕を振るう。その魅力に惹かれ、馬喰町の関東郡代屋敷跡や川口・赤山の赤山陣屋跡を訪ねたことを思い出す。

野中分水
五日市街道を南に渡る。街道脇の鳳林寺の手前に用水路。そもそも、この用水を見て、これって何だろう?玉川上水からの分水だろうか、などと思い始めたのが、今回の散歩で用水と新田の関係をあれこれ調べだしたきっかけ。この用水は野中新田分水の一流。玉川上水から小川橋で分かれた野中新田分水は南東に下り、五日市街道と合わさる手前で二流に分かれ、五日市街道の南北を街道に平行に進む。先ほど神明社で見た用水は、街道の北を進む分水。そしてこの用水は街道の北を進む分水であった。


鳳林寺
用水を眺め、あれこれと妄想を逞しくした後、すぐそばの鳳林寺に。道脇の馬頭観音とか庚申塔。馬頭観音は道標も兼ねており「是より八王子・ふちう道」、と。割と構えの大きなお寺さま。庫裡、書院、鐘楼、そして毘沙門堂なども並ぶ。木造だろうと思うが、本堂は趣がある。このお寺様は野中新田開発のきっかけ、となったお寺様でもある。上谷保(現在の国立市谷保)の矢沢某が出家し(異説もあるようだが)、小平に円成院を建てる。大堅和尚である。で、その大堅和尚が仲間を募り新田開発を願い出る。順調に事が運べば、矢沢新田となったはずではあるが、新田開発の冥加金、というか権利金が払えず江戸の穀物商野中六左衛門に援助を受け新田を開発。名前が野中新田と相成った所以である。
では何故に、川崎平右衛門の謝恩塔がこのお寺ではなく通りの向こうの妙法寺にあるのだろう?チェックすると、野中新田は大きく三組に分かれていた。で、名主間で少々の諍いがあり寺を分け、道を隔てたところに妙法寺を建てた、とか。宗派も鳳林寺は黄檗宗。妙法寺は曹洞宗である。

高木八幡神社
鳳林院から南に下り、新町3丁目交差点右折、西へと進む。若葉町2丁目、高木交差点を越え、けやき台団地交差点に。高木神社はその脇にある。誠にあっさりした社。昔は鬱蒼とした森があったように思える佇まいではあるが、現在はきれいさっぱり切り取られている。このあたりは東大和市高木地区の農民がこの地に移り新田開発をおこなったところ。高木八幡神社は明治になってからの名称であろうが、昔の名前はよくわからない。開発新田は高木新田とも、野中新田の三組のひとつである鳳林寺の属する野中新田六左衛門組の一部ではあった、とも。境内入口脇に子育地蔵の祠。厳しい開拓生活の中、我が子の健やかな成長を祈ったものだろう。

八小入口南交差点
高木神社を離れ西に進む。予想では、ほどなく崖線にあたるだろう、と。ゆるやかに坂を下り八小入口南交差点に。このあたりが崖線下。交差点を崖線に沿って北に進むか、南に少し下り崖線をもう少々見ようか、なとど思い悩む。と、南に崖線に沿ったあたりに観音寺。何となく名前に惹かれ、崖線見物を楽しみながら進むことに。これまた、ちょっとしたセレンディピティ(serendipity)となるのだが、それは後の話。



観音寺
崖線に沿って南に下る。左手の崖面は豊かな農家の敷地が多い。ほどなく観音寺の森。境内手前に神明社。このあたりにあった中藤新田の鎮守さま。お参りをすませ横の観音寺に。現在は神社とお寺に別れてはいるが、明治の神仏分離令までは神仏習合、一体のものではあったのだろう。
観音寺の構えは立派。この寺は北条氏照の居城である滝山城の鬼門を護る寺として武蔵村山の中藤に創建されたものではあるが、新田開発に伴いこの地に移った。朱の山門は八王子城にあったものを移した、と伝わる。北条氏照は甲州筋からの武田の攻撃への備えのため、滝山城から八王子城にその主力移したわけであるから、理にはかなっている。
この寺も川崎平右衛門ゆかりの地であった。妙法寺と同じく川崎平右衛門の謝恩塔が残る。観音寺が中藤村からこの地・中藤新田移転に尽力した、と。
日暮れも近く、足早に寺を離れ、これも先ほどの妙法寺と同じく実物を目にすることはできなかった。実物を見ることはできなかったが、それにしても成り行きで歩き、結果、この地に進んだわけで、これまた、セレンディピティ(serendipity)と言うべけん、や。

国分寺崖線
観音寺を離れ、崖線下を八小入口南交差点まで戻る。さらに北に、五日市街道へと向かう。この道筋にはその昔、中藤分水が通っていた、と。古地図でチェックすると小川橋の少し上流で分水され南へと下る水路がある。また、この水路は後には砂川分水から別れるようになった、とも。それはともあれ、進むにつれて崖との比高差は低くなってくる。けやき台小学校脇を抜け、五日市街道の一筋手前に出るあたりまでは、かすかに比高差が感じられるが、道路道に出たあたりでは差はほとんどなくなった。




国分寺崖線は太古、多摩川が武蔵野台地を浸食してできた浸食崖。上流は武蔵村山市の残堀あたり、とか、緑が丘あたりで始まり、西武拝島線と多摩都市モノレールの玉川上水駅付近を通り、国分寺市内西町5丁目、光町1丁目 、西元町及び東元町1丁目と南町の境へと続き、さらに南に野川の東岸に沿って大田区丸子橋付近まで伸びている。全長30キロほど。立川など上部ではほとんど比高差がなくなっているが、国分寺市内西町5丁目では高さ約5m、光町1丁目では高さ約11m 、西元町では高さ約12m及び東元町1丁目と南町の境では高さ約16mと結構な比高差がある。
カシミール3Dて地形図をつくってみた、国分寺から上野毛あたりまでは弧を描いてくっきりと比高差が現れているが、国分寺から上は、ほとんど境がわからない。この崖線が国分寺崖線と喚ばれるのは、比高差が国分寺あたりではっきりするため、であろう、か。
崖線は「はけ;ハケ」とも呼ばれる。ハケに沿っていくつもの湧水がある。国分寺駅近辺のお鷹の井、小金井の貫井神社の湧水、野川公園に湧水、世田谷大蔵の湧水など、国分寺崖線に沿って歩いた2005年の事をちょっと思い出す。

阿豆佐味神社
北に進み五日市街道・砂川九番交差点に。日没が近い。日暮れまでに阿豆佐味神社に着けるかどうか、少々心許ない。西に沈む太陽と競争するように、砂川八番を越え、砂川七番で多摩モノレールを見やり、ひたすら先に進む。街道に沿って屋敷林が目立つ。ゆっくりみたいとは思えども、そんな余裕はまるで、なし。後々でわかったことではあるのだが、江戸の頃の新田開発は、この五日市街道に沿って進められた。玉川上水の水を松中橋で分水し、天王橋で五日市街道沿いに流し、その水を灌漑用水として開発していった、と言う。その名残の屋敷林ではあろう。夕日の中に薄ぼんやりと樹林が浮かぶ。
跳ぶがごとく砂川四番を越え、阿豆佐味神社に。あたりは真っ暗。神社も閉まっていた。お寺が閉まることはよくあることではあるが、神社はあまりないのでちょっと油断。残念ながら暗闇向かってシャッターを押す、のみ。
これまた、あとでわかったことではあるのだが、阿豆佐味神社って、元は狭山丘陵の麓の村山郷(瑞穂町殿ヶ谷)にあったもの、その地の農民が砂川の地を開くに際し勧請された。砂川村の開発はこの阿豆佐味神社のある砂川四番あたりからはじまった。開発の当初は玉川上水が通って居らず、箱根ヶ崎から流れる残堀川の水を拠り所としたため、その旧路と五日市街道が交差する砂川四番あたりから村が始まった、と言う。
阿豆佐味神社は時間切れ、また、急ぐ余り街道沿いの雰囲気をゆっくり楽しむ余裕もなかった。次回は、砂川の阿豆佐味神社の本家でもある瑞穂町・殿ヶ谷の阿豆佐味神社からはじめ、残堀川を下り、砂川村まで、武蔵野新田開発・砂川新田への道を辿る、べし。ということで、本日の散歩を終了。砂川四番バス停よりバスに乗り立川駅に戻り、家路を急ぐ。

野田散歩;醤油醸造の文化遺産を辿る

利根運河散歩をきっかけに数回に渡って辿った柏、流山の谷津や小金牧、流山の旧市街の散歩もおおよそ気になる事跡はカバーし終え、やっと野田へと足を運ぶこととなった。みりんで栄えた流山旧市街は今では静かな街並みが残るだけであったが、醤油と言えば野田と言われるその街並みが如何なるものか、実際に訪れてみると、野田市街はいわく言い難い町ではあった。古い街並みが続くわけでもなく、かと言って、雑とした街並みでもなく、歴史を感じる醤油工場の広いプラントと民家、そしてその中に旧家が同居する、他の町では感じたことのない雰囲気を醸す町であった。
旧市街を彷徨うも、結局は醤油にかかわる事跡を辿った、との思いしか残ってなく、それでも、何か見落とし、時空散歩につながる深堀りのきっかけを求めながら散歩のメモをはじめる。

本日のコース:東武野田線野田市駅>有吉町通り>野田町駅跡>茂木本家美術館>文化通り>茂木佐公園金福宝龍金寶殿本社>野田市郷土博物館>茂木佐邸>本町通り>興風会館>須賀神社>堤>県道松戸野田線>下河岸桝田家住宅>江戸川>報恩寺>上河岸戸邊右衛門家住宅>高梨本家上花輪歴史館>上花輪香取神社>本町通り>奥富歯科医院>株式会社千秋社社屋>旧野田醤油株式会社本店初代正門>野田市立中央小学校校舎>キノエネ醤油株式界社本社社屋および工場群>愛宕神社>浪漫通り>キッコーマン稲荷蔵>茂木七左衛門邸および煉瓦塀>弁天通り>茂木七郎治邸>キッコーマン給水所>厳島神社弁財天>駐輪場>野田野田線野田市駅

東武野田線・野田市駅通いなれたるつくばエクスプレス&東武野田線に乗り東武野田線・野田市駅に。駅を下りると駅前ロータリーの向かいには巨大なプラントとその入門ゲート。キッコーマン野田工場とある。右手もテニスコートの先にはプラント、駅の裏手もプラント。キッコーマン食品の工場とある。醸造所との言葉とは程遠い巨大なプラントに囲まれた、とはいいながら工場特有の喧騒とは程遠く、また駅前商店街といったものもなく、少々さびれた感じの街並みが、他の町では感じたことのない野田の第一印象であった。
振り返り駅舎を見やる。昭和の名残を残すレトロな雰囲気が、いい。この駅舎は昭和4年(1911)に建築され、昭和61年(1986)には鉄組みを残し、全面的に改装された、とのことだが、それでも建築当時の面影を今に伝える。

野田町駅跡・有吉町通り駅を下りるも、野田散歩のきっかけとなるものは何もない。例のごとく、とりあえず郷土資料館を訪れ、なんらかの資料を手に入れることに。工場の間を通る県道46号を道なりに進む。県道46号は野田と牛久を結ぶが、利根川のあたりで一時道筋が無くなるという。
散歩をするまで、県道や国道で途中道筋がなくなるなど考えてもみなかったのだが、時としてそのような道に出合う。印象に残るのは、都道184号。都下日の出町の平井川に沿って北に上り、途中道筋がきえるのだが、御岳山から日の出山へと辿る尾根道に都道184号とあった。御嶽の集落に都道の表示もあり、馬の背の尾根道に道を通す計画があったのだろうか。御嶽の集落から先の道筋は確認できなかた。

野田町駅跡・有吉町通り県道を進むとほどなく道脇に「野田町駅跡・有吉町通り」。案内によると、「明治44年(1911)、野田・柏間に県営軽便鉄道が開通。そのころの野田町駅があったところである。また、当時の千葉県知事・有吉忠一氏の功績をたたえて新設の駅前通りを有吉町と命名した」とある。
野田に鉄道敷設の気運が出てきたのは、明治10年代のことと言われる。野田と国鉄・常磐線柏駅を結び、野田の醤油を鉄路を通じて東京や各地へ運ばんとした。しかし、従来の江戸川を使った、舟運業者との関係からその計画は進まず、結局千葉県営軽便鉄道として野田~柏間が開通したのは30年後の明治44年(1911)。建設費は全額を県債とし,野田の醤油醸造者による野田醤油組合が引き受けた。この時の千葉県知事が有吉忠一氏であり、駅がこの地に建設された。

大正11年(1922)には、野田醤油醸造組合が民間払下げ運動を起こして県から譲り受け、野田・柏間の路線を継承し、併せて柏・船橋間を開くべく北総鉄道株式会社を設立。昭和4年(1929)には愛宕、清水公園の両駅を新設、社名も総武鉄道株式会社と変更した。
先ほど下りた野田市駅は、この総武鉄道の拠点駅として建設された。単なる駅舎だけでなく、本社機能もそなえたものであり、結構大きな規模の駅舎が建設されたようである。この時に旅客業務は野田市駅へと移管されたが、貨物業務は昭和61年(1986)まで行っていたとのことである。
総武鉄道は昭和5年(1930)には大宮~船橋間の全線(62.7キロメートル)が開通。昭和19年(1944)、総武鉄道は国策により東武鉄道に合併され現在に至る。先ほど醤油プラントに囲まれたところに駅がある、とメモしたが、よくよく考えれば、そもそもが、鉄道は醤油輸送を目的として作られたわけであるから、当たり前と言えば当たり前のことではあった。

茂木本家美術館県道を少し進み、右手に折れて野田市郷土博物館へと向かう。北に進むと「茂木本家美術館」があった。茂木本家十二代当主である茂木七左衞門氏が収集した、葛飾北斎、歌川広重の浮世絵をはじめ、小倉遊亀、梅原龍三郎、横山大観、片岡球子など絵画から彫刻、陶芸などおよそ700点にも及ぶ作品を所蔵する、とのこと。情緒・情感に乏しく、美を愛でる心に欠けるわが身であるので、少々敷居が高いのだが、意を決して美術館に近づくに、予約制とのこと。故なく、ほっとして美術館を離れる。
ところで、野田と言えば醤油、醤油と言えばキッコーマン、キッコーマンと言えば茂木ということは知って入るのだが、茂木本家って?チェックすると、茂木家の始祖であり真木しげに遡る。夫の真木氏が大坂夏の陣に西軍に与し自刃を遂げたため、妻のしげが野田に逃れ来た、と言う。名も真木から茂木と改め、しげの子が茂木家の初代当主茂木七左衞門となった。本家と称する所以は、時をへて茂木家が茂木佐平治家、茂木七郎右衛門家、茂木勇右衛門家、茂木啓三郎家、茂木房五郎家といった分家ができたため、本家と称するのだろう。

茂木佐公園・金寶殿本社・手水舎

野田本家美術館脇の道を北に進む。前方に緑の森が見えてきた。郷土博物館はそのあたりであろうと先に進む。道の右手に郷土博物館らしき建物があるのだが、左手に公園があり、そこに建つ社殿がなんとなく、いい。郷土博物館を後回しにし、先に社殿に向かう。
公園内の鳥居脇に手水舎があり、この造作も、いい。社殿に向かいお参りし、脇にある案内を読む。「茂木佐平治家の稲荷神と竜神を祀るための、立川流大工・佐藤里次則壮による総欅造りの大唐破風の社寺建築(大正3年)。鳥居脇にある手水舎も豪華な大唐破風造りとなっていて、たいへん珍しい神社。堂には十六羅漢や花鳥魚類や十二支と見事な彫刻や錺(かざり)金物が約150点施されており、江戸から大正にかけての伝統的職人技が花びらいた近在屈指の建造物である。大正15年より、遊楽園内のよろこび教会釈尊堂として使用されたが、平成17年に元に戻された」、とあった。

茂木佐平治家とは茂木家の分家のひとつ。野田の醤油醸造は1661年(寛文元年)に上花輪村名主であった髙梨兵左衛門が醤油醸造を開始。その翌年(1662年) に茂木佐平治が味噌製造を開始した、とされる。茂木家はその後醤油製造も手がけ、 1800年代中頃には、髙梨兵左衛門家と茂木佐平治家の醤油が幕府御用醤油の指定を受けた、とか。ところで、キッコーマンの商標はこの茂木佐家の商標である。大正6年、高梨家、流山で関東白味醂を生産していた堀切家と、 茂木本家をはじめとする茂木家六家が大同団結して野田醤油株式会社を設立し、合併当初は各家の商標をつけた醤油を併売してたが、 やがて当時もっとも人気の高かった茂木佐家のキッコーマンの商標に統一することになった、とのことである。1877(明治10)年に開催された「第1回内国勧業博覧会」で、茂木佐平治家が「亀甲万印」の醤油で賞を獲得するなど、「亀甲万印」のブランドが一番知られていたのであろう、か。

野田市郷土博物館

公園から郷土博物館に向かう。博物館は元の茂木佐平治邸、現在は市に寄贈され市民会館となっている旧家邸内にある。公園脇に蔵に囲まれた通用門の周囲の塀の赤はベンガラ塗り。インドのベンガル地方産の赤い顔料であり、格式の高い屋敷に使われる。通用門から入ると、玄関はいかにも市民の集会所入口といった雰囲気。
塀にそって南に下り、左に折れて表門より邸内に入る。この立派な表門・薬医門は、かつては特別のゲストや行事のときだけ開けられたもの、と言う。薬医門の名前の由来は、矢の攻撃を食い止める=矢食い、とも、医師の屋敷門であるから、とも。建物は国登録有形文化財、国登録記念物に指定されている。
門を入ると邸内左手に野田市郷土博物館があった。設計は日本武道館などを設計した山田守氏。昭和34年に建設された。1階は「野田の歴史と民俗」の展示。野田貝塚・山崎貝塚や三ツ堀遺跡の土器、東深井古墳群の埴輪など、市内を中心に東葛飾地方から出土した考古遺物、野田人車鉄道に関する資料、樽職人の道具、そして昭和初期の童謡作曲家・山中直治などが展示されている。2階は「野田と醤油づくり」とのテーマで醤油醸造に関する資料が展示されていた。
郷土博物館で気になったことは、江戸の頃醤油を江戸に運んだ江戸川の上河岸と下河岸、野田人車鉄道、そして山中直治氏。上河岸と下河岸には、市内彷徨を後回しに、まずはその地に向かうことにするとして、野田人車鉄道、そして山中直治氏についてチェック。野田人車鉄道とは明治33年(1900)に野田鉄道が開通すると、大正2年(1913)には人車鉄道は野田町駅へと路線を延長。大正6年(1917)、野田醤油醸造組合が合同し野田醤油株式会社(現キッコーマン)が設立されたときは、人車鉄道は同社の運輸部門となるも、大正12年(1923)の関東大震災を契機に鉄道輸送がトラック輸送にシフトし、大正15年(1926)にはその営業を停止した。

山中直治氏は野田出身の童謡作家。童謡「かごめかごめ」を全国に広めた人としても知られる。全国に広めた、という意味合いは、童謡「かごめかごめ」は歌詞を変えながら全国で歌われていたのではあるが、昭和8年頃、山中氏が野田地方で歌われていたこの童謡を採譜し、楽譜にして広島高等師範学校(現在の広島大学)発行の『日本童謡民謡教集』に紹介。これが契機となり昭和38年に岩波文庫から『わらべうた』で野田で歌われている童謡として知られていった、ということだろう。

「かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ?」。これが昭和8年頃、野田地方で歌われていた歌詞。童謡自体は江戸の文献にも残るが、歌詞はそれぞれ異なる。特に「鶴と亀と滑った」「後ろの正面」という表現は明治以前には確認されていないようだ。意味も各人が各様に解釈している。深読みもそれなりに面白いのだけれど、単なる「語呂合わせ」や「リズム合わせ」「ことばの連想遊び」程度との話がなんとなく落ちつく。「囲め」が「籠目」に。「籠」から鳥を連想。鳥と言えば「鶴」。鶴といえば「亀」でしょう。「鶴」からつるっと「滑る」を連想。鳥が鳴くのは「夜明け」。「夜明けから逆の「晩」を連想。かくのごとく、こともたちが口調次第で自由に語り継いでいったのではないだろう、か。

茂木佐邸

郷土博物館を出て邸内茂木佐邸・茂木佐平治氏のお屋敷に向かう。正面破風造りの正面玄関からお屋敷に足を踏み入れる。大正13年、当時の贅をつくしたと伝わるお屋敷を一巡。10もあるこの和室のどこかで吉永小百合さんのシャープAQUOSのテレビコマーシャルの撮影が行われた、とか。長い廊下から眺める庭園も誠に、いい。先ほど訪れた茂木佐公園も含めた一帯が茂木佐平治氏の敷地であり、市立中央小学校の辺りには茂木佐家の醤油醸造所があった、とか。茂木佐公園は大正の頃に一般に公開されたが、屋敷は昭和31年(1956年)市に寄贈され、同年一般公開されるようになった。

興風会館

茂木佐邸を離れ、江戸川の河岸へと向かう。西に向かい、県道17号・流山街道へと向かう。途中道の左手に琴平神社がある。二代目茂木七郎右衛門が讃岐の金毘羅神宮をこの地に勧請した、と。現在は一般公開されていない、と言う。
流山街道、野田市内では本町通りと呼ばれているようだが、その通りを南に下り県道46号と交差する野田下町交差点を目指す。道の左手にキッコーマン本社を見やりながら進むと、近代的な本社ビルの脇に、レトロなビルがある。昭和4年に竣工の「興風会館」である。ロマネスクを加味したルネサンス風の建物は竣工当時、千葉県庁に次ぐ大建築であった、とか。国登録有形文化財に指定されている。
興風会とは野田醤油株式会社が社会教育事業推進の目的で昭和3年(1928)に設立された財団法人。「興風会」は「民風作興」から。このフレーズは昭和初期に流行った言葉のようで、ライオン宰相・浜口雄幸もその随想録の中で「最後に言はしめよ。現代の青年は余りに多く趣味道楽に耽って居るのではあるまいか。之が果たして其の人を成功に導く所以であるか、之が果たして民風を作興する所以であるか」と述べる。意味するところは「一般庶民が風を起こし、町を作る」といったところである。
興風会設立の背景には、歴史に残る「野田労働争議」がある、とも。興風会が設立された昭和3年(1928)は、大正11年(1922)から連続的に起こった野田の醤油醸造所での労働争議が和解された年でもある。樽の加工をおこなう樽工170名が樽棟梁によるピンハネの撤廃を要求しおこなったストライキに端を発し、翌年には全工員が参加する大ストライキに発展。一時終息するも、再燃。会社側による暴力事件も頻発した、とか。結局は昭和3年(1928)争議団長による天皇直訴事件を契機に和解に至った、とか。

須賀神社

興風会会館の向かい、野田下町交差点脇に須賀神社がある。土蔵造りの社に惹かれてちょっと立ち寄り。境内に猿田彦の像が建つ。文政6年(1823)造立の丸彫立像。猿田彦は、天津彦火瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原から日向に天孫降臨降臨するに際して、高千穂まで道案内したという記紀神話の神。そのゆえに「導きの神」「道開きの神」とされる。道祖神や庚申信仰と結びつく所以である。
通常須賀神社の祭神は牛頭天王とか、素戔嗚命、と言っても、神仏習合で牛頭天王=素戔嗚命ではあり、同じ神であり仏ではあるのだが、この社の祭神は誰だろう。チェックし忘れてしまった。

市道の碑

野田市下町交差点から、成り行きで上花輪地区を南へと下り下河岸跡へと向かう。花輪って美しい言葉と思い由来をチェックすると、「土地の出っ張り。末端」の意味とのこと。「端+回(曲)」が転化したものだろう。端は文字通り、回(曲)は、「山裾・川・海岸などの曲がりくねった辺り」を意味する。
南へ進むと東福寺の脇道に出た。そこを少し進むと台地端となり、台地下には低地が広がり、そこに県道5号が走る。台地端の道脇に「市道」の碑。案内によると、「現在市道の土手と知られているこの道は、かつて土手下にあり、その頃道の両側には和野菜の市がたっていたことから市道と呼ばれるようになった。昭和のはじめ鹿島原(注;野田市駅の東辺り)から大量の土砂が運ばれ土手が築かれたため、旧道はその下に埋もれ野菜市も行われなくなったが、花輪道が今では市道といわれるようになった」とある。
利根川水系江戸川 浸水想定区域図(国土交通省関東地方整備局 江戸川河川事務所)を見ると、土手下あたりは洪水時2mから5mの浸水予想。その南は5m以上の浸水予想。土手の東側は0.5m未満と表示されていた。洪水予防のため高い土手を築いたのであろう、か。単なる妄想。根拠なし。

下河岸桝田家住宅

土手道のはじまるところに甲子講(きのえねこう)の石塔。甲子の日に集う民間信仰で大黒講、とも。お参りを済ませ、土手道下にキッコーマンの工場を見下ろしながら進む。土手道は緩やかな坂道となっており、下り切ったあたりで県道5号に当たる。交差点を渡り、江戸川堤防手前の下河岸桝田家住宅に。国登録有形文化財に指定されている。周囲に人家のない江戸川の堤防下にぽつんと一軒家が建つ。下河岸の船積問屋であった桝田仁左衛門家である。明治4年に建てられたたもの。1階が帳場、2階が船宿であった、とか。標識に桝田とあり、現在もお住まいのようである。



家の前には洪水除けの煉瓦塀が残る。江戸川に堤防は大正と昭和の二度にわたって築かれた。第一回は大正3年(1914)。底幅も高さも現在の半分ほどであった、と言う。二度目は昭和30年代。昭和22年のキャサリン台風の被害がきっかけで大規模改修工事が実施され、現在の姿になった、と言う。
千葉県立関宿城博物館所蔵の『回漕問屋開業広告』、枡田家がつくった広告パンフレットには江戸川に面した船積問屋・枡田家が描かれている。堤もない江戸川には高瀬舟や蒸気船・通運丸も浮かぶ。この下河岸が通運丸の発着所でもあったようだ。往昔、野田の醤油醸造所から馬車や人車で運ばれた醤油が江戸川を下り、江戸や上州に向かったのであろう。また、醤油の原料となる大豆は常陸、下総から、小麦は相模から、そして塩は赤穂など十州塩田(瀬戸内10カ国の塩田)から運ばれ、此の地で荷揚げされた。
下河岸は上河岸に対してつけられた名称であり、船積問屋の主人の名をとり「仁左衛門河岸」とも、地名をとり「今上河岸」とも呼ばれたようである。

報恩寺

下河岸跡を離れ、江戸川の堤を北に辿り、野田橋の近くにある上河岸跡へと向かう。堤防に東には醤油プラントが続く。かつてはこの辺りに宮内庁に納める醤油をつくる御用蔵があったようだが、現在は駅前のプラント内に移された、と。
堤を歩きながらiphoneをチェックすると堤下の緑の中に浄水池らしきものが見える。市の浄水場かと思ったのだが、キッコーマンの排水浄化装置のようである。
水に惹かれ、堤防を下り、成り行きで森の中に入る。行き止まりを恐れながらも進むと、前方が開け、そこにお寺さまがあった。道なりに四国八十八カ所霊場が祀られており、弘法大師がご本尊。山号も大師山報恩寺となっていた。このお寺様、もともとは此の地の北、野田市堤台にあり、堤台八幡神社の別当として、江戸の頃は末寺二十四ヶ寺をもち、幕府より朱印状を与えられた寺格であったようだが、明治の廃仏毀釈の時、この地に写った。

上河岸戸邊五右衛門家住宅

報恩寺を離れ,工場プラントの塀に沿って、ぐるっと周り県道19号に。野田橋下交差点を越えたすぐ先に、県道から左斜めに堤防方面に向かう道がある。平成食品工業というキッコーマンのグループ会社を左手に見ながら進むと趣のある邸宅があった。そこが上河岸戸邊五右衛門家住宅。上河岸(五右衛門河岸)の船積問屋跡である。この屋敷も国登録有形文化財に指定されている。
上河岸(五右衛門河岸)の船積問屋跡は現在も個人のお宅であり、塀の外から主屋や重厚な土蔵を眺める、のみ。このお屋敷は昭和の江戸川改修に伴い現在の地に曳き屋した、とのこと。地名ゆえに、中野台河岸とも呼ばれる。

高梨本家上花輪歴史館

上・下河岸を見終え、それなりに昔を偲び旧市街へと戻る。途中、上花輪にある高梨本家上花輪歴史館に訪れることに。成り行きで県道5号まで戻り、キッコーマンのプラントを左手に見ながら、下河岸桝田家住宅近くの交差点まで戻る。そこを先ほど下りてきた緩やかな土手道を上り、途中左手に折れ、国名勝のけやき並木が並ぶ公園を左手に見ながら進むと高梨本家上花輪歴史館。
国指定名勝に指定されている歴史館は、残念ながら改修工事かなにかで、邸内に入ることはできなかったが、この歴史館は江戸時代に上花輪村の名主で醤油醸造を家業として?いた高梨兵左衛門家(高梨本家)の居宅。中には醤?油醸造の道具類の展示と広壮な庭園の散歩と、贅沢な?座敷が見られる、とか。

野田における醤油生産の歴史は、戦国時代も末期の永禄年間、飯田市郎兵衛という人物がたまり醤油を製造、甲斐の武田氏に献上したことに遡る。たまり醤油って、鎌倉時代に和歌山県の湯浅で, 味噌の桶に溜まった汁(たまり)を調味料として作り出したのが最初とされる。味噌から分離された液体が「たまり醤油」と言うことだろう。江戸時代の初め頃までは 近畿地方と四国の讃岐などから たまり醤油が関東へと「下って」きていたのだが、如何せん、 たまり醤油は製造から出荷まで3年程の長期間かかり, 需要に追いつかず, 関東では 銚子・野田などで1年で製造できる「濃口醤油」が, 関西では 兵庫県(たつの)で「薄口醤油」が 開発されることになった。
濃口、薄口って、味の違いかと思っていたのだが、濃口は本醸造とも呼ばれるように、製法自体がたまり醤油と異なっている。「たまり」はその原料が大豆がほとんどで、極めて少量の小麦を加えるだけであるが、「濃口」って原料は大豆・小麦が50%、塩分16%から20%使い十分に発酵・醸造させた本醸造のこと。野田において最初にこの濃口醤油の製造を開始したのがこの高梨兵左衛門家とのこと。寛文元年(1661)のことである。
ちなみに、醤油の「醤(ひしお)」って食品に塩を混ぜて放置しておくと旨みを出したもの。中国の宋の時代にその製造がはじまった、とか。食品の種類により、草醤(くさびしお=漬物に発展)、肉醤(にくびしお)、魚醤(うおびしお=塩辛といったもの)、穀醤(こくびしお)に分けられる。このうち、穀醤が味噌となり、醤油となったようだ。

上花輪香取神社

歴史館の次は、須賀神社のあった野田市下町交差点まで戻り、流山街道・本町通りを北に辿り、時間の許す限り、河岸に直行故に見残していた見どころを訪れることにする。途中香取神社が。何気なく立ち寄るに、銅葺屋根の立派な社殿。社殿の前に門を構え塀が囲む。
社殿の建築棟梁は茂木佐公園の社殿と同じく棟梁佐藤里次。監督は佐藤良吉。昭和8年の『香取神社正遷宮大祭』の写真には人力車に乗り群衆の歓喜の中を進む両名の姿があり、歴史が少々のリアリティをもって現れてくる。社殿を彩る彫刻も立派。彫工は石川三五郎信光の手によると伝わる。石川三五郎は柴又帝釈天や川越・連雀町の蓮馨寺にその名を残す

奥富歯科医院と旧奥富薬局店舗

興風会館を右手に見やり、キッコーマン本社を越えた通りの左に古き趣の家屋がある。この奥富歯科医院と旧奥富薬局店舗は大正から昭和初期に建てられたもの。大正期の出桁造の旧薬局店舗と、昭和初期のモダンな洋館である。






株式会社千秋社社屋野田市下町交差点まで戻り、奥富歯科医院と旧奥富薬局店舗の通りの反対側に陸屋根(傾斜のない平面の屋根。平屋根とも)、鉄筋2階建ての建物。大正15年(1926)に建てられ旧野田商誘銀行として使われていた。野田商誘銀行は野田醤油醸造組合の発起により明治33年(1900)に設立された。「商誘」の名称は 、醤油の語呂にちなんで名付けられた。野田商誘銀行は、太平洋戦争中の金融統制に より、千葉銀行に合同され、昭和45年まで千葉銀行野田支店として使用されていたが、その後キッコーマン系列の千秋社の所有とな っている。
千秋社は大正6年、野田の醤油醸造業者が合同し設立した野田醤油株式会社を支援する経営者団体として組織されたもの。興風会館でメモした、財団法人興風会も千秋社の寄付により設立されたものであり、現在キッコーマン株式会社の株の3.1%を所有し、主要株主となっている。

旧野田醤油株式会社本店初代正門株式会社千秋社社屋脇の道を少し入ると旧野田醤油株式会社本店初代正門が残る。キッコーマンの初代正門と言うことだ。土蔵と塀に挟まれた門の向こうはキッコーマンの敷地のようで、通り抜けはできない。







野田市立中央小学校校舎流山街道・本町通りに戻り、北に進むと、通りの右手に野田市立中央小学校の門柱。門柱の脇には煉瓦造りの塀が残る。門柱から中を見るに、民屋や商家らしきものがあり、ちょっと奇妙な感じではある。
野田市立中央小学校校舎はその奥にある。昭和3年(1928)から7年(1932)の頃建てられた校舎は当時珍しい鉄筋コンクリー3階建。外観のレリーフや校庭側のテラスがモダンな造りとなっている。







ノエネ醤油株式会社本社社屋および工場群

通りを更に北に進み、京葉銀行野田支店を左に折れキノエネ醤油株式界社本社社屋および工場群に向かう。左に折れる手前に「野田醤油発祥の地」があったようだが、見逃した。上でメモしたように戦国時代も末期の永禄年間、飯田市郎兵衛がこの地ではじめて「たまり醤油」を製造したところではあろう。
先に進むと落ち着いた佇まいの中、黒板塀に?囲まれた醸造所が見える。天保元年(1830)の創業、野田を代表する醤油工場の一つキノエネ醤油である。本社社屋は明治30年、鉄筋コンクリート造りの作業場は大正10年(1921)築とのことである。大正6年(1917)の野田の醤油醸造者の大同団結にも加わらず、独自路線を貫いた、と言われるだけで、なんとなく全体が有難く感じる。
ちなみに、このキノエネ醤油は映画監督小津安二郎氏と深い関係にある。小津安二郎監督の妹さんが山下家に嫁いだ関係から、戦時下、小津監督の母親が野田に疎開。監督も戦地より引き揚げてから鎌倉に住むまでの6年間野田に住んだ。といっても、ほとんど大船の撮影所に泊まり込みであったたようではある。

愛宕神社流山街道・本町通りに戻り、少し北に進むと愛宕神社前交差点。野田の総鎮守で、創建は延長元年(923)と伝えられ、雷神を祀り、防火を司る迦具士命を祭神とする。現在の権現造り・木造銅版葺様式の社殿は、文政7年(1824)に再建されたもので、社殿彫刻は左甚五郎を祖とし、そこから10代目の名工二代目石原常八の手になるもの。石原常八の出身地、群馬県の花輪村は「匠の里」と呼ばれ、隣の上田沢村とともに彫刻師の一派があり、上州の左甚五郎と呼ばれる関口文治郎などの名工を生み出した。
これほどの匠を招くには茂木家の力も大きくあったのではなかろうか。愛宕神社の東には茂木房五郎氏の邸宅があったとのことだし(現在は一部が割烹料亭に)、一説には愛宕神社に初代茂木房五郎が祀られる、とも。また、愛宕神社の北には、愛宕権現の本地仏である勝軍地蔵尊があるが、この地蔵尊を建立したのは初代茂木啓三郎とのことである。



キッコーマン稲荷蔵
日暮も近い、大急ぎで残りの見どころを辿りながら野田市駅へと向かう。流山街道・本町通りを南に下り、キッコーマン本社北の通りを左折。浪漫通りと呼ばれる道を進むとキッコーマン稲荷蔵。明治41年頃に建てられたもの。黒板塀が美しい。元は茂木七左衛門の仕込蔵であったが、現在は倉庫として使用されている。







茂木七左衛門邸および煉瓦塀キッコーマン稲荷蔵に続く赤い煉瓦塀は茂木本家・茂木七左衛門邸。邸宅は関東大震災の後、大正15年築。煉瓦塀は明治末期築と言う。設計は上花輪の香取神社や愛宕神社と同じく立川流宮大工の流れをくむ佐藤良吉、建築は佐藤里次則の手になるとのこと。国登録有形文化財に指定されている。






茂木七郎治邸浪漫通りを文化通りのT字路にあたり、右に折れ、すぐに左に折れると弁天通り。通りの左手に一見すると農家かと見まがう古いお屋敷。門札に茂木とありチェックすると茂木家の分家のひとつである茂木七郎治邸であった。安政7年(1854)頃に建てられた野田市内最古の木造住宅とのこと。地主農家としての長屋門と金融業としての帳場を併せ持つのが特徴、とあった。





キッコーマン第一給水所通りの右側にはキッコーマン第一給水所。大正12年(1923)から昭和50年(1975)頃まで工場および地域住民に供給された。通水までには苦労があったようで、大正10年(1921)の地下水汲み上げのための第一号削井工事では予定の水量が確保できず、第二号削井工事で予定水量の目途がたち、水道施設工事をおこない、通水、各戸給水の追加工事に着手。上記のごとく大正12年には給水をはじめ、昭和50年に野田市に移管されるまで企業が水道事業を行っていた、とのことである。なお、昔はこの地に給水塔があったようだが、老朽化のため耐震基準をみたせず取り壊しとなった。
それにしても、この給水所=水道だけでなく、銀行、病院(養生所から発展)、学校(中央小学校はキッコーマンの寄贈)、そして鉄道など、醤油会社が社会インフラの整備を行政に代わりおこなっているわけであり、企業経営上の合理性とは言うものの、その財力に少々の驚きを感じる。


厳島神社弁天通りを進み、野田市駅へと右折するところにちょっとした緑の森が見える。中に入ると厳島神社が祀られていた。この社は安永7年(1778)創建。「下の弁天さま」と称される。この辺りが下町という地名故の命名であろう。ちなみに、野田市内には古春、柳沢にも弁天さまがあり、野田の三弁天と呼ばれるようである。
社の後ろには弁天社お約束の池。弁天さまはインドの神様で、河を守る水神・農業神であり水辺に鎮座するのが普通である。昔は湧水だった、とか。

東武野田線野田市駅弁天様の脇道を進むと緩やかなカーブ。自転車置き場となっているこのカーブは工場への引き込み線の跡かとチェックする。上で、野田町駅は昭和4年(1929)に野田市駅が出来たときに旅客業務は市駅に移管されたが、貨物業務は昭和61年(1986)まで続いたとメモした。その引き込み線は市駅の南手前から分岐され、野田市駅第一、第二自転車駐輪場に沿って進み、県道46号に沿って野田町駅に結ばれていた。同じ自転車置き場ではあるが、こちらの自転車置き場ではなかった。それでも、このカーブ、なんとなく怪しい、などと思いながら東武野田線・野田駅に向かい、本日の散歩を終える。

野田散歩は結局醤油醸造に関わる文化遺産を辿る以上のものにはならなかった。日本の醤油消費量の28%ほどを製造するとも言われる野田であれば仕方なしとすべし、か。それと、散歩してはじめて知ったことは、野田は枝豆の主要生産地である、ということ。2002年には全国一の生産量を記録した、とも。醤油の主要原料は大豆であるので、当然か、などと思っていたのだが、野田で枝豆栽培が本格的にはじまったのは、それほど昔でもなく、1960年代に入ってから。もとは自家製の味噌造りのために栽培していた大豆を枝豆生産に切り替えたようである。町には「まめバス」と呼ばれる枝豆由来のコミュニティバスが走り、枝豆を核にした町おこしもはじまっているようである。とはいうものの、結局は大豆=醤油からは離れることはできないようである。