日曜日, 1月 22, 2006

六郷用水散歩 そのⅣ;北堀を辿る

六郷用水散歩も最終回。今回は北堀ルートを巡ろうと思う。仕上げは馬込にある大田区の郷土美術館。六郷用水の資料もあるだろう。実際に歩いた道筋を思い浮かべながら六郷用水のまとめでもしてみよう、と思う。で、北堀ルートへのアプローチはどこから、と地図を眺める。東急・池上線に御嶽山(おんたけさん)駅が。名前に惹かれ、御嶽山からスタートすることにした。(日曜日, 1月 22, 2006のブログを修正)


本日のルート;
東急池上線・御岳駅>御岳神社>中原街道・環八交差>桜坂>さくら坂信号>田園調布高校>蜜蔵院>大田区図書館>台地を歩き観蔵院の裏・女塚>白山神社前交差点>白山神社>分岐地点>東急池上線・千鳥町駅>第二京浜と交差>本門寺前>養源寺橋>浄国寺橋>環七交差・春日橋>南馬込・大田区郷土博物館


東急池上線・御嶽山駅
東急池上線・御嶽山駅に。山があるわけではない。駅近くに御嶽神社がある。木曽の御嶽山ならぬ、嶺の御嶽山(おんたけさん)と呼ばれる。峰(嶺)村の代官・ 伊那半十郎忠治が17世紀中頃、木曽の御嶽山の神さまを分祀したのがはじまり、とか。伊那半十郎忠治、って確か玉川上水の指揮官では?関東郡代として何代も続く名前だけに、当の本人かどうか判別は難しいが時代から言えば、同じ人のよう。で、御嶽神社、木曽の御嶽で修行を積んだ修験者・一山が1831年に現在の本殿をつくる。江戸時代には山岳信仰がさかんとなり、富士や木曽の御岳などへの集団登山が流行った。
境内には御嶽塚跡が。散歩の折々、例えば狭山湖畔などで見かけた富士塚の御嶽バージョン、か。実際に山にお参りできない人のために、人造で塚というか山をつくり、その塚に登れば本物の木曽御岳にのぼったと同じご利益がある、ということで神社は大変な賑わいだったよう。

桜坂
御嶽神社を離れ、次はどこへ、と少々考える。そういえば、この近くにあの桜坂、福山雅治の『桜坂』で一躍脚光を浴びた坂がある。その坂は旧中原街道にあり、沼部の大坂と呼ばれていた、はず。であれば、中原街道から沼部の駅方面に下る坂であろう、とあたりをつけ進むことに。
環 八を交差。中原街道方面に向って環八から一筋中の道を、なりゆきで進む。左方向をチェックしながら、昔ながら、っぽい道筋を探す。左手の道筋はどれも下り坂。どれも皆桜坂に思える。ゆるゆる進む。中原街道と環八の交差する田園調布警察前交差点から南西にまっすぐ進み、沼部の駅に下る道筋がある。現在の中原街道は丸子橋方面へと西方向へ進んでいるが、昔は橋があったわけでもなし、この道が旧中原街道であろう、と左折。
いかにも、といった桜並木が見えてきた。桜の季節ならまだしも、今は真冬、何があるわけでもない。切り通しの坂道は結構な勾配。さぞや工事は大変だったろう、と思ったのだが、この切り通しができたのは大正12年。道路拡張の際に、切り通しを掘り進めた、と。中原街道最大の難所・沼部の大坂の急勾配もゆるやかになった。
桜坂と名づけられたのは昭和5年。御大典を記念して地元民が桜の苗50本を植えたのが始まり。御大典とは天皇の即位儀礼の3点セット;「践祚(せんそ);前天皇のなくなった後直ちに即位すること」、「即位式;国の内外に宣言すること」、「大嘗祭(だいじょうさい);新米を神と共食すること」のうち、即位式と大嘗祭をセットにした国家的大イベント。

旧中原街道

坂の中ほどに赤い橋。切り通しの両端をつないでいる。昭和38年につくられた「桜橋」。橋から桜、というよりも沼部方面に下る坂の勾配をゆっくり眺める。旧中原街道の案内があった;「中原街道は、江戸から相州の平塚中原に通じる道で、中原往還、相州街道とも呼ばれた。また中原産の食酢を江戸に運ぶ運送路として利用されたため、御酢街道とも呼ばれた。すでに近世以来存在し、徳川家康が江戸に入国した際に利用され、その後、部分改修されて造成された街道である。江戸初期には参勤交代の道としても利用されたが、公用交通のための東海道が整備されると、脇往還として江戸への物資の流通や将軍の鷹狩などにもしばしば利用された。 また、平塚からは東海道よりも近道だったため、急ぎの旅人には近道として好まれたという。中原街道の旧道の様子を残しているのは、区内ではこの付近だけである(大田区教育委員会)」

新幹線と交差
で、桜坂を離れはてさて次はどちらへ、と少々悩む。真っ直ぐ下れば先回歩いた六郷用水・東光寺脇。同じ道筋を歩くのも芸がない。それ以上に今回はできるだけ台地上を歩き、地形のうねりを少々感じるべし、ということで桜橋を左に折れ、住宅街に入る。道なりに進み稲荷坂から新幹線を跨ぐ橋を渡る。散歩と全然関係ないことだが、新幹線はもっともっと南を通っていると思った。また、多摩川を渡ると不自然なほど南にカーブしている。何でだろう?時間ができたら、その理由でもチェックしてみよう。

白山神社


散歩に戻る。田園調布高校脇を通り、坂道を下りきらないように進む。西嶺町の台地をゆっくりと下り、先回訪ねた観蔵院の裏手・女堀跡に出る。女堀跡からは水路跡を離れ、再び台地に向って少々登り、少々アップダウンを感じながら道なりに進み環八に出る。道の向こうに白山神社。御嶽神社から始めたわけで、白山を素通りするのもなんだかな、ということでおまいり。至極あっさりした神社。白山神社とはいうものの、もともとは女体権現社と呼ばれていた、とか。女体権現、ってまた大胆な名前、とは思ったが、よくよく考えれば、日光には男体山もあるわけだし、逆もあり、とは思う。
日光といえば、日光山縁起にこんな話が。都の殿上人・ 有宇中将が下野に下り土地の長者の娘・朝日の君と恋におちる。しばらくの月日がたち、都に残した母が心配で単身都に向う。途中で病死。朝日の君も後を追い旅に出てなくなる。閻魔大王が二人を蘇生させ、子をもうける。男児・馬頭御前。有宇中将は日光の男体権現、朝日の君は女体権現となる、と。山岳信仰の拠点日光でもあり、男体山には男体権現、女峰山には女体権現が宿ったとか。女体が何ゆえ白山となったのか定かではない。が、白山にしたことろで、山岳信仰のメッカであるわけで、山岳信仰繋がりゆえの、ってことにしておこう。少々立ち止まりすぎた。先を急ぐ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

北堀・南堀の分岐点

白山神社前の環八脇に立ち光明寺方面を眺める。ゆったりと下る環八に沿って南北引分と呼ばれた北堀・南堀の分岐点(千鳥3-8-2)まで歩く。藤森稲荷交差点から東に進む。北堀は環七まで池上通りとほぼ並行に進むことになる。昔、池上道とか平間(川崎中原区平間)街道とか相州鎌倉道とか呼ばれた古の東海道の道筋だ。

東急池上線・千鳥町駅

千鳥町駅を越えてすぐ遊歩道。いかにも水路跡の道筋。東急池上線の千鳥町駅の少し北で線路と交差。少し進むと遊歩道が始まる。千鳥いこい公園脇を進み千鳥1丁目あたりで第二京浜と交差。第二京浜を過ぎ、池上署の脇より遊歩道が続く。池上3丁目あたりだった ろうか、遊歩道はなくなる。が、水路跡らしき道筋、ところどころ六郷物語のマンホール、っぽい案内もある。

川・養源寺橋
本門寺前を越えたあたりで遊歩道はなくなる。呑川の養源寺橋近くに。六郷用水物語の案内が;「六郷用水北堀は南北引き分けから東進してくると呑川に突き当たります。そこで呑川を横断させ、新井宿(現在の中央一帯)方面に流すため、「八寸」という堰が設けられました。この堰で分流された流れは、北上して旧池上道の山下橋(現存しない)をくぐり、養源寺橋の上流で呑川に一旦合流しました。。。」。案内図にしばしば登場する用水のランドマーク浄国寺橋脇を通り、池上通りに沿って東進。一筋北に走るのは古の平間街道、というか池上道だろうか。なんとなく昔の街道跡といった雰囲気が感じられる。

環七と交差
水 路跡の道は普通の道路となる。水路跡は判然としないが、ところどころに六郷物語のマークがあるのでなんとなく安心。春日橋交差点で環七と交差。道を渡り交差点脇から続く、いかにも水路跡の雰囲気の道を進む。が東海道線に当たる。地図で見る限り、線路を渡った地点から南に水路跡のような道筋がある。水路は京急・大森海岸近く、岩井神社(鈴森八幡)あたりで東京湾に流れ込んだとか。もちろん支流・分流はいくらでもあるわけで、あくまでも幹線ルート、ということではある。が、北堀散歩はここまでとする。日も暮れ始めた。一路大田区郷土博物館に。

大田区郷土博物館

環七・春日橋交差点から北に向う。環七の一筋西の道を上る。結構複雑な地形をしている。臼田坂を登る。このあたり、谷地の環七部分を台地で囲んでいる、といった地形。次の機会は地形図をもって、台地と谷を上り下りしてみようと思う。
で、郷土博物館。予想通り3階に六郷用水の資料・情報が。床一面に張り込まれた地図一面に水路跡が書き込まれている。詳しい水路情報を書き込んだコピー、六郷用水ポイントガイドなど資料も結構そろっていた。これって歩いた後だからよかった気がする。歩く前であれば少々情報量が多すぎてハンドルするのが大変だったかもしれない。やはり今後も今まで通りのスタイル、とりあえず進み、あれこれ気になったことは後から調べる、というスタイルで散歩を楽しむ、べし。

散歩を終わって感じたことだが、大田区って結構おもしい地形であった。多摩川沿いの下町低地といったイメージしかなかったのだが、凸凹、地形のうねりを十分に感じられるところであった。台地部と低地部のアップダウンが楽しかった。日が暮れて十分意歩けなかったが馬込のあたりも面白そうな地形だ。大田区の台地部は多摩川に沿った国分寺崖線、山王から池上への南北崖線、久が原台地、荏原台地などがある。これらの崖線部は台地と谷筋が複雑に入り組み地形のうねりが実感できる面白い地形。当然のこととして坂も多く、大田全体で名前のついた坂だけでも50以上ある、とか。そのうちに、何か別の切り口で大田区散歩を楽し みたい。

木曜日, 1月 19, 2006

六郷用水散歩 そのⅢ;南堀を辿る

六郷用水散歩も3回目。先回の続き、南堀跡を巡ることに。六郷用水が多摩川に注いでいたあたりも確認。南堀散歩を締めくくる。(木曜日, 1月 19, 2006のブログを修正)



本日のコース;京浜東北線の蒲田駅下車>西蒲田公園>金剛院>大田区区民センター>志茂田中学>JR交差>新宿小学校・「六郷用水新宿ミニパーク」>蒲田署>多摩川土手>六郷ポンプ所>六郷水門>六郷橋>六郷神社>雑色駅>蒲田駅

京浜東北線?・蒲田駅


京浜東北線の蒲田駅下車。西蒲田8丁目の西蒲田公園に再び。水路跡を確認。光明寺方面から環八にそって下ってきた水路は東急多摩川線と環八が交差するあたりで環八から離れ、新蒲田2丁目の金剛院脇から南東に下っている。最初のランドマークは金剛院。
線路に沿って進み環八と交差。少し下ったところに金剛院。金剛院脇に六郷用水物語の案内。南西に大田区の区民センターに下る道が水路跡。区民センターまで進む。なにか用水に関する情報がないものかとセンター内に。特に何も無し。
センターの南は、蒲田電車区。操車場だろう。用水跡の地図によれば電車区の敷地内で西・・東・南の3方向に分岐している。蛸の手、と呼ばれていた、とか。操車場を迂回し志茂田中、志茂田小の脇をとおり京浜東北線を渡る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

六郷用水新宿ミニパーク
東方向への水路のランドマークは、蒲田電車区の線路を隔ててすぐ南にある蒲田高等学校・新宿小学校。蒲田西公園の案内図によれば、そのあたりに「六郷用水新宿ミニパーク」がある。名前からすれば何らかの新たな情報があるか、とも思い歩を進める。

蒲田高等学校と新宿小学校の間に本当に言葉どおりの「ミニ」パークがあった。東方向・糀谷方面への水路跡情報があった。
環八を越え、糀谷村の南・萩中村の北を通り浜竹用水・南前堀で東京湾に下る、と。大雑把にいえば北前堀(緑地)方面に続く水路と、南前堀(緑地)方面に続く水路があったよう。これが東方向に進む水路。東方向への水路跡巡りはまたの機会、ということにして今回は南方向への水路跡を辿り、下流から逆に西方向への水路を登ることにした。ランドマークは、蒲田署、正覚寺、そして本羽田1丁目公園。

多摩川堤

蒲田署のある第一京浜に進む。道を隔てたデニーズ脇にいかにも水路跡らしき道筋。歩いていると六郷物語の案内が。道路にシンボルマークが描かれており、大体 の方向の指示もある。助かる。まったくの民家の軒先を進む。途中、どこで間違ったか正覚寺、そして本羽田1丁目公園は見逃した。が、あえて戻ることもないかと、先に進み多摩川堤に登ることにする。ガマなのかどうなのか名前は知らないけれども、川中の洲の植生が豊か。湿地の保護が進んでいるのだろう。いい雰囲気になっている。

六郷水門
土手を進む。六郷ポンプ所。ポンプ所、って大雨のときに下水管が雨水で飽和状態になり配水機能がなくなるのを防ぐためのもの。下水に充満する雨水を汲み上げ川に放水する。ポンプ所のすぐ隣に六郷水門。メモする段階で分かったのだけれど、これって六

郷用水の排水口。狛江からの水の流れの最終地点、ということになる。偶然ではあったけど、六郷用水が多摩川に流れ込む地点に至った。至極ラッキー。
水門が造られた理由は六郷用水の歴史的役割の変化による。用水は元々灌漑のためつくられた。が、昭和に入り六郷地区の宅地化による生活廃水の増加とか、田畑の減少による用水路の水量増大。灌漑用の水を必要としなくなるのだから水量が増えるのは当然か。で、大雨時に多摩川に排水しきれず浸水地域が拡大。また、多摩川の水位上昇による川の水の逆流もある。こういった被害を防ぐため配水口を拡げ、適宜多摩川と六郷用水を遮断するために水門が設けられた、ということ。また、先ほどのポンプ所は、水門からの自然排水だけでは処理できなくなったためつくられた、と。

六郷橋
河川敷に多摩川六郷橋緑地。六郷橋の袂に。「六郷渡れば川崎の万年屋。鶴と亀とのよね饅頭」という、お江戸日本橋の歌詞フレーズが浮かぶ。よね饅頭を復活させた饅頭屋が鶴見にある、という。散歩の帰りに鶴見駅まで行ってみた。定休日。その後、自宅から自転車で20キロ、お饅頭を買いに出かけた。またまたお休み。日曜日が休み、などと考えてもみなかったのだけれども。またまたその後、自転車で鶴見まで。三度目の正直でよ
ね饅頭をゲットした。ちなみに、お江戸日本橋の歌詞を知っている人は、周囲にほとんどいなかった。少々愕然。
「お江戸日本橋」;
お江戸日本橋 七つ立ち
初のぼり
行列そろえて
アレワイサノサ
コチャ 高輪(たかなわ)
夜あけて 提灯(ちょうちん)けす
コチャエ コチャエ

六郷(ろくごう)わたれば 川崎の
万年屋(まんねんや)つるとかめとの
米饅頭(よねまんじゅう)
コチャ 神奈川
急いで 保土ヶ谷(ほどがや)へ
コチャエ コチャエ

六郷神社
第一京浜に沿って六郷神社に。六郷地区の総鎮守である八幡宮。源氏とのつながり強く、というか八幡って源氏の守り神なので当然なのだが、源頼義・義家親子がこの地の大杉に白旗を掲げ岩清水八幡に戦勝祈願。前九年の役に勝利。お礼に神社創建。頼朝も奥州遠
征の折、戦勝祈願。お礼に社殿寄進。また、徳川家康は神領として朱印状を発行する。六郷神社が八幡宮の巴紋とともに徳川の葵紋をともに使う所以。徳川家の遠祖は八幡太郎義家、って、言ってるわけだから当然か。
六郷神社を出る。水路跡を上流に向って逆に歩く。第一京浜に沿って進む。雑色駅手前で第一京浜をこえる。第一京浜と並んで進む雑色商店街の道路を進む。しばし進み北に折れ、蒲田電車区南の分岐点に到着。本日の散歩終了

水曜日, 1月 18, 2006

六郷用水散歩 そのⅡ;南堀・北堀の分岐を越えて新田神社に

先回の散歩の最終地点、東急田園都市線・多摩川の駅から散歩を始める。一路南に下り、途中分岐する用水を南堀跡に沿って進み、多摩川の矢口の渡しのあたりまで進む。(水曜日, 1月 18, 2006のブログを修正)


本日のルート;東急田園都市線・多摩川駅>中原街道交差>東光院>新幹線交差>蜜蔵院>観蔵院裏・女堀跡>護摩堂の洗い場>増明寺>鵜の木八幡>環八・藤森稲荷交差点>光明寺>玉川の堤>新田神社

東急田園都市線・多摩川

浅間神社前に。水路が切れており、この先どうしたものやら、とは思いながら、とりあえず東急多摩川線を渡り、線路沿いの道を進む。中原街道と交差。多摩川に丸子橋が。狛江の和泉から続いた次太夫堀というか丸子川という呼び名はここまでとしよう。この先は本格的に六郷用水巡り。とはいいながら、水路は見つかるのだろうか、と少々不安であった。中原街道下のトンネル。昭和初期につくられた大田区内最初のトンネル。トンネルをくぐるとすぐ水路跡があった。大安心。 六郷用水物語という案内図も。案内図にある水路跡の地図は消えかかり、少々見えづらい。が、なんとか大枠での道筋をメモする;
1. 六郷用水は東急多摩川線に沿って下り、観蔵院脇を抜け環八近くの光明寺近くに進む
2. ここで北堀と南堀に分岐
3. 北堀は平間街道・池上通りに沿って東にすすみ、池上本門寺から環七方面に至る。で、環七を越えたあたりから東京湾に流れ込んでいる
4. 南堀は環八に沿って下り、東急多摩川線と交差。そこから環八を離れ、金剛院の脇を志茂田中学あたりに向って進みJR京浜東北線と交差
5. JR京浜東北線を越えたあたりで3方向に分岐
6. 新宿小学校のあたりから西に進み環八を越え、糀谷から東京湾に至る水路
7. 新宿小学校のあたりから南に進み萩中の正覚寺から本羽田1丁目児童公園に至る水路
8. JR京浜東北線を越え、南西方向に進み、京急・雑色駅から六郷神社、そして東に進み本羽田1丁目公園の水路と繋がる。
といった水路が、大雑把ではあるが確認できた(水路の概要図をアップ)。もとより、用水路である以上、この幹線をもとに水路は静脈・動脈・毛細血管の如く網の目の如く拡がるのではあろう。が大体のランドマークがわかった。歩を進める。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

新幹線と交差
水路に沿った遊歩道を進む。東光院。真言宗。聖観世音菩薩は北条政子の念持仏とか。これって、浅間神社の由来書にあった、政子の聖観世音菩薩と同じもの?六郷用水・遊歩道休憩所がある。東光院を越えると水路は切れる。なんとなく水路跡だろう、といった名残りを求めながら進むことにする。新幹線と交差。蜜蔵院。真言宗智山派。大田区最古の庚申塔がある、とか。道の左手は結構な台地。坂の途中にある大田区図書館には昔来たことがある。

女堀(おなぼり)跡
道なりに進む。観蔵院裏の台地に沿って急勾配の坂道が左手に登る。さて右に下るか、左に上るか。なんとなくのぼりの坂道がそれっぽい。ということで進む。坂 を登りきったあたりに六郷用水物語の案内。女堀(おなぼり)跡の説明。このあたり、岩盤も固く用水開削時の難所のひとつ。工事の景気つけに女性を交えて開削を進めた、というのが女堀の由来。今は埋め立てられ、一見すると普通の坂道。が、昔はこの坂道は切り通しの水路が通っていた。



護摩堂の洗い場跡
坂道を下るたあたりに護摩堂の洗い場跡。もともとは水田の灌漑用の水として機能した六郷用水だが、時代が下り大正時代になると出荷野菜の洗い場に。あたりの水田が宅地となってしまい、灌漑する必要がなくなった、ということか。左手に小高い丘、右側にはいかにも重厚な民家。鵜の木交差点近くで環八と交差。道向こうに、水路跡らしき道筋が。環八を渡る。水路跡の西・東にある増明寺と鵜の木八幡に寄り道。どちらも台地上。


より大きな地図で 六郷用水流路 を表示

北堀と南堀の分岐点
あてどなく台地を歩き水路跡に戻る。環八・藤森稲荷交差点に。このあたりが北堀と南堀の分岐点。下丸子への分水口跡の案内があった。これは分流。昔は石組み 
のトンネルがあり、環八の西側の下丸子1丁目方面に水を送っていた、と。道の向こうに光明寺。このお寺って、昔環八の南下を阻止していたあのお寺。結構長い間行政と争っていたような気がする。

矢口の渡し
さてと、北堀を東に進むか、南堀を南下するか少々考える。が、南下することにす る。日も傾いてきた。どこまで進めることやら。矢口の渡しの「今」の風景を見ようと、多摩川堤に進む。道なりに歩く。多摩川清掃工場脇から堤に登
り、多摩川の土手を第二京浜道路まで進む。味も素っ気もない風景を想像して

いたのだが、結構いい。のどか。豊かな自然が戻りつつあるよう。

新田神社
堤を離れ武蔵新田駅方面に。こ新田神社に向かう。立派な神 社。鎌倉幕府を倒した新田義貞の子・新田義興を祀る。南北朝時代、南朝・後醍醐天皇の武将として活躍。矢口の渡しにて足利基氏と畠山国清により謀殺される。その後、実行犯の江戸氏や畠山氏に祟り。また矢口の渡しに怪しい火が現れ住民を悩ます。で、たたりを恐れた住民が新田大
明神としてお祀りした。境内にはご神木の欅。謀殺に加担した畠山一族ゆかりの
者が近づくと雨を降らし、唸り声をあげるという狛犬。円墳も。
平賀源内がこの円墳に生える竹を使い「矢守」をつくる。これが正月名物「破魔矢」のおこり。「破魔矢」を日本で最初に売り始めたのはこの新田神社、とか。本日
の散歩は終了。

火曜日, 1月 17, 2006

六郷用水散歩 そのⅠ;丸子川を下る

丸子川;先回の散歩で谷戸川を下り、丸子川に合流した。丸子川は次太夫堀とも六郷用水とも呼ばれる。徳川家康江戸入府早々、六郷領・35カ村というから、今の大田区の低地域の新田開発・米の増産を計画。が、当時の六郷領の水利は千束の池水溜と池上西谷水溜池に頼るだけ、という状況。ために、土木技術のエキスパート小泉次太夫を登用し用水を開削。これを六郷用水と言う。
いつだったか散歩の折、六郷用水の取水口に行ったことがある。 狛江市和泉。狛江から六郷というから東京湾まで続いている。これは行くしかないでしょう、というとこで、丸子川を下り、六郷用水を歩くことにした。とはいうものの、いまさら用水があるわけでもないし、用水「跡」を巡る・探す散歩となるのだろう。(火曜日, 1月 17, 2006のブログを修正)



本日のルート;東急田園都市線・二子玉川下車>法徳寺>上野毛自然公園>第三京浜交差>稲荷坂>覚厳寺>善養寺>六所神社>谷沢川と交差>等々力渓谷>等々力不動>八幡神社、照善寺>多摩川台公園>東急東横線交差>浅間神社>東急東横線・多摩川駅

東急田園都市線・二子玉川駅
東急田園都市線・二子玉川下車。線路に沿って少し西に戻り丸子川に。崖線下、心地よい川筋の道。坂道が魅力的。ちょっと登ってみよう、と進む。なりゆきで法徳寺に。浄土宗のお寺。由緒書に「境内にある筆塚の碑は、明治初期、寺子屋の師、大塚貞三郎のために近在の瀬田、用賀、岡本などの門弟一同がたてた記念碑である」、と。大塚貞三郎は幕末、このお寺に寺子屋・芝光塾をつくり、近辺の農村子女教育につとめる。門弟は300人を数えたという。


上野毛自然公園と稲荷坂
坂を下り、歩を進める。川筋の家々にmy bridge。雰囲気がいかにもいい。東急大井町線と交差。少し進むと野趣豊かな公園、そして急峻な坂道。上野毛自然公園と稲荷坂。いつも通る環八の風景のどのあたりだろう、と、公園に入る。国分寺崖線の斜面林を生かした自然公園。鉄製の階段を台地上に。百本近い桜。世田谷百景のひとつ、とか。
覚厳寺。真言宗智山派、京都東山の総本山智積院の末寺。おまいりを住ませ環八に出る。上野毛駅前だった。ということは、稲荷坂は上野毛通り。ちなみに、「野毛」って、崖地を意味するということをどこかで読んだことがある。ともあれ、急な坂道の途中に稲荷神社。お参り。ふたたび川筋に戻る。

第三京浜と交差

第三京浜と交差。川筋と台地の標高差20m程度だろうか。魅力的な崖。少し進むと善養寺。真言宗智山派・総本山智積院の末寺。境内にカヤの大木。都の天然記念物。寺の近くに住んでいた娘が多摩川で川遊び。沢蟹の親子が「今夜,川が氾濫し、流されてしまします。高台に逃がしてください」、と。逃がしてあげる。 その夜、多摩川が氾濫。翌日沢蟹の親子がお礼にカヤの実をもってきた。娘はその実を善養寺の境内に植える。それがこのカヤの大木になった、とか。
善養寺の北隣に六所神社。このあたりの総鎮守。境内に水神様。多摩川の安全と豊漁の神様。
川筋に戻り進む。玉堤通りと交差。しばらく進むと谷沢川と交差。等々力渓谷からの水が多摩川に流れ込む川筋だ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

谷沢川・等々力渓谷

先日等々力渓谷を散歩した。が、改めて渓谷を逆方向から歩いてみよう、ということで丸子川を離れ谷沢川・等々力渓谷に寄り道。不動の滝に。滝もさることながら、滝の両脇の崖面からの湧き出る水も魅力的。これほど勢いよく崖の岩の切れ目から湧き出る水はまことに「いい」。「とどろき」の名前の由来は、滝の音の「とどろき」から。
脇の坂を登り等々力不動尊にお参り。正面の石段の向こうに雑木林。石段を下りる。雑木林の中を進み弁天堂明王台に。弁天様をおまつりしている。その先に等々力児童遊園。右手は崖。等々力渓谷崖上を歩く。見晴らしはそれほど良くないが、渓谷を上から眺めることができた。歩きながら、改めて等々力渓谷の成り立ちについて整理しようと思った。
等々力渓谷;現在、谷沢川は用賀付近を源流点として等々力渓谷を経て多摩川に流れ込む。しかし、一説によれば、往古、谷沢川は九品仏川の上流域であり、尾山台、自由が丘、緑ヶ丘を経て呑川に合流していた、と。根拠のひとつは、谷沢川が形成してきた谷底低地。等々力渓谷で流路を急激に南に切り込んでも、谷沢川が形成したと思われる谷底低地は東に広がり、九品仏川が形成した谷底低地にスムーズにつながっている。では何故谷沢川の川筋が変わったか、ということだが、それは河川争奪によるとの説がある。河川争奪とは、ある川が別の川の流れを取り込んでしまう、ということ。このケースで言えば、元々は等々力渓谷の湧水点を源流としていた谷沢川が、谷頭侵

蝕により次第に源流点を北に延ばす。用賀付近を源流点として流れる九品仏川の流路に到達。九品仏川の水が谷沢川に切り替わる。以降、切り離された先が九品仏川と呼ばれる。流れだけでなく、名前も取り上げたってことか。

多摩川台公園
丸子川に戻り歩を進める。多摩川と逆方向に湾曲する川筋に沿って、武蔵工業大学の前を進み、尾山台1丁目を過ぎ田園調布1丁目に入る。川沿いに八幡神社、照善寺。ちょっとおまいりし、先に進む。
丸子川が多摩川に接近。左手に台地が迫る。多摩堤通と合流地点で川筋を離れ台地に登る。多摩川台公園。多摩川台古墳群と呼ばれる多数の古墳が尾根道に続いている。1号から8号までは円墳。古墳展示室の南にある亀甲山古墳は前方後円墳。全長100m。5世紀後半につくられたよう。規模から見て、国造(クニノミヤツコ)クラスの墳墓と言われている。
多摩川と台地に挟まれた多摩堤通りの脇を水路は進む。第三京浜入口近くの野毛大塚古墳。等々力渓谷の御岳山古墳。そしてこの多摩川台古墳群。直ぐ近くに蓬莱山古墳もある、という。

多摩堤通り
台地からの多摩川の眺めは素晴らしい。台地から眺めると多摩川が直ぐ下に見える。丸子川が多摩川に流れ込んだのであろうか。少々不安になる。事前に地図を見たときは、確かにこのあたりで流路が消えていた。合流点を探さねば、と台地を下る。丸子川はあった。多摩川と台地に挟まれた多摩堤通りの脇を水路が続く。 水路跡と多摩川の水位差は5mくらいだろう。狛江あたりから水を取り込まなければ六郷の村々に水を通すことができない、ということは十分納得。六郷用水プロジェクトの最初の2年間は測量期間。夜に提灯の明かりで高さを測りながら測量を進めた、とか。

浅間神社
東急東横線と交差するあたりで暗渠となる。線路の高架下を過ぎると左手に神社。浅間神社。今から800年前の創建、と伝えられる。房総より馬を進め、北区王子の滝野川・松崎に上 陸した源頼朝を追ってこの地にやってきた妻政子。足の痛みのためこの地に逗留し傷の治療。徒然に、台地の亀甲山古墳に出向き富士を臨み、富士吉田の浅間神社に向かい頼朝の武運長久を祈る。富士吉田の浅間神社は政子の守り本尊。その際身につけていた「正観世音増」をこの地に建てる。地元の人々はこの像を「富士浅間大菩薩」と呼び尊崇。これが多摩川浅間神社の由来、とか。
境内の見晴台からの多摩川の眺めはまことに素晴らしい。神社の台地を下り正面入口に戻る。川筋はここまで。はてさて、流れはどちらに?とはいうものの、日が暮れてきた。これ以降は次回の散歩といたしましょう、ということで東急多摩川線に沿って歩き、東急東横線の多摩川駅に歩き、本日の散歩は終了。

月曜日, 1月 16, 2006

谷戸川散歩;源流から丸子川合流点へ

昨年9月4日の仙川散歩で偶然谷戸川に出合った。仙川が野川に合流する手前、野川と逆方向に伸びる細長い水路。これは一体何だろう。と、何気なく水路を辿った。六郷用水というか丸子川。岡本民家園とか岡本静嘉堂緑地といった落ち着いた景観に惹かれる歩を進める。岡本静嘉堂緑地の端で丸子川に合流する川がある。それが谷戸川だった。川筋を源流に向って北上した。砧公園手前で東名高速に潜り込む。丁度日没。ということで、今回改めて源流・水源から下ることにした。(月曜日, 1月 16, 2006のブログを修正)


本日のルート;小田急線・祖師ヶ谷大蔵駅>笠森公園>荒玉水道道路>中央卸売市場・世田谷市場>砧公園>仙川>岡本の台地>静嘉堂文庫美術館>小阪家の別邸>谷戸川


小田急線・祖師ヶ谷大蔵駅
地図をチェック。小田急線・祖師ヶ谷大蔵駅近くに僅かな水路が見て取れる。とりあえず祖師ヶ谷大蔵に行き、後は成り行きという、いつものスタイルで散歩を始める。駅前の道案内をチェック。山野小学校脇から水路が続いている。駅前の城山通りを環八方面に歩く。学校脇に水路を見つける。一安心。

笠森公園
ふと通りの北を見ると公園がある。いかにも水路跡といった雰囲気。暗渠のようだが、とりあえず先を辿る。北東に進みすぐに西方向にターン。荒玉水道道路と交差。右手に笠森公園。かさもり=瘡守;ほうそう(皮膚病)の守り神、から。公園に谷戸川の説明があった。このあたりの湧水点から谷戸川が下っていった、と。案内板には北東に一直線に延びる荒玉水道道路と、それに沿って点線が描かれている。メモをまとめる段階で、その点線が源流点への案内であることがわかった。笠森公園から荒玉水道道路に沿って進み環八と交差。桜ヶ丘5丁目、船橋2丁目と進み再び環八を越え千歳台3丁目・成城警察のあたり、そこが源流点、のようである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


荒玉水道道路
荒玉水道道路。前々から気になっていた。自宅のある杉並和泉の近く、井の頭線の永福町と西永福の間から一直線で多摩川まで延びている。一体何だ?ということで調べてみた。荒玉水道とは大正から昭和の中頃にかけて、多摩川の水を砧(世田谷区)で取水し、野方(中野区)と大谷口(板橋区)に送水するのに使われた地下水道管のこと。荒=荒川、玉=多摩川、ということで、多摩川・砧からだけでなく、荒川からも水を引く計画があったようだ。が、結局荒川まで水道管は延びることはなく板橋の大谷口で計画中止となっている。
杉並・和泉の我が家はこの上水のお世話になっている、よう。思い込みというか、思い違いがあった。てっきり北の和泉方面から砧方面に送水されている、と思っていた。理由は単に北のほうが標高が高い、ということから。砧というか多摩川に水を送って何をしようとするのか、やはり下水管なのかな、などと勝手に思い込んでいた。上水道は水圧で送水。高低は関係ない。ちなみに下水道は勾配を利用して流す、とか。

中央卸売市場・世田谷市場

山野小学校脇に戻り水路脇を歩きはじめる。水路脇、とはいいながら道は川の脇にあったり、なかったり。砧4丁目あたりで荒玉水道と交差。一瞬水路途切れる。が、すぐ開渠に。大蔵1丁目で直角ターン。暗渠に。進行方向左手・小高い丘に奇妙に派手な建物。中央卸売市場・世田谷市場だった。なんという名前か忘れたが近くの神社などに足を延ばし再び川筋に。川筋は砧公園に流れ込む。




砧公園
公園内では一時地下を走る。しばらくして川筋が現れる。水量が増えている。湧水を取り込んでいる。自然の湧水とは思えない。多分人工の湧水だろう。吊橋もある。渓谷風のつくりだ。砧公園って、世田谷美術館あたりまでしか知らなかった。こんなにのんびりした緑地が広がっているとは想像もできなかった。いい公園だ。





東名高速下に潜る

川筋に沿って進み、東名高速下にもぐり込む。迂回が必要。東名高速に沿って進み、公園を出る。目の前に区立総合運動場。 案内板を見る。陸上競技場とかテニス場の先に林というか森、そして親水公園。運動場の外周に沿って歩き総合運動場の西端に。崖道。結構な高低差。台地の下に川。仙川だ。ということは、この崖は国分寺崖線、そして崖下の親水公園って、先般の仙川散歩の時に出会った親水公園。仙川散歩のとき、親水公園上の崖の向こうに何があるのか、どうなっているのか、砧公園をそのうち歩いてみたい、と思っていた、将にその場を偶然歩いていた。行き当たりばったりの散歩の妙味か。

岡本の台地
崖道を上ったり下りたり、自然豊かな崖道を堪能し総合運動公園入口に戻る。公園橋を渡り東名高速を越え岡本に。台地の尾根道。谷に下り川筋を、とは思ったが、台地からの眺め、特に仙川方面に下る急峻な坂道からの眺め、その魅力から離れがたく、台地上の尾根道を歩く。

尾根道とはいっても廻りは高級住宅地。西に広がる眺めは素晴らしい。夕暮れ時にまた訪れたいものである。

静嘉堂文庫美術館
夕焼け、独り占めの世界を岡本3丁目を進む。前方に緑。岡本民家園とか岡本静嘉堂のある緑地、というか森。静嘉堂文庫美術館裏手に当たる。静嘉堂文庫美術館は三菱財閥・岩崎家蒐集の古美術・古典籍の美術館。野趣豊かな坂道。途中に名前は忘れたが神社も。ここでも崖道のアップダウンを堪能し谷戸川が流れる大蔵通りに下りる。静嘉堂文庫美術館は残念ながら休館日。後日に楽しみを残す。

小阪家の別邸

大蔵通りが丸子川と交差する手前瀬田4丁目、左手に急峻な坂道とフェンスに囲まれた林。地形のうねりを肌で感じることが最大の興味・関心であるわが身としては、とりあえず登るしかないでしょう、ということで坂を登る。瀬田四丁目緑地との案内。民家風の建物。庭というか林を一回りして建物内に。小坂邸跡との案内。外務大臣など多くの政治家を輩出し たあの小阪家の別邸とか。邸内の展示物を見ていると、この近辺には政治家、財界人、そして政商っぽい人たちの別邸が数多くあった、よう。

谷戸川
邸内に上がり込み、少々休憩し大蔵通りに下り、谷戸川が丸子川に合流する地点を確認し谷戸川散歩は終了。後は一路、丸子川に沿った道、川沿いの家はすべて丸子川・六郷用水に架けたmy bridgeをもつ、そんな素敵なる家並みを下り246号線で右折。東急田園都市線・二子玉川駅に到着し本日の予定は終了。


谷戸川の「谷戸」の語義の整理;丘陵地が浸食されてできた谷間の低湿地・小川の源流域を示す環境のこと。こういった環境のことを谷戸とか谷津と呼ぶ。辞書で「やと」を引く。「やと」=「谷」>「やつ(谷)」を見ろ、と。「やつ」を見ると、「低湿地のこと。関東地方の地名に多い。やち、やと、とも言う」と。まとめると、「やと」、も、「やつ」も「谷」の一字で表し、「谷戸」「谷津」という漢字では表現しない。また、関東ローカルな地名であるよう。で、茨城、千葉は「谷津」が使われ、神奈川は「谷戸」を使う。東京は混在、ということだ。鎌倉では、亀ケ谷(やつ)と「谷」だけでの表示もあった、けど。実のところ、関係浅からぬ係累の名前に「谷津」がついている。なるほど、出身は茨城県でありました。納
得。

火曜日, 1月 10, 2006

渋谷川水系散歩 そのⅢ:宇田川の支流を辿る

渋谷川水系散歩の3回目は宇田川に流れ込む、というか流れ込んでいた支流を巡る。初台川、富ヶ谷支流そして神泉谷からの支流だ。(火曜日, 1月 10, 2006のブログを修正)



1:初台川の源流を辿る
初台川の源流点は初台2丁目14あたり。甲州街道・渋谷本町1丁目から山手通り・初台坂下交差点に抜ける急勾配の坂道からすこし奥まったところにある。すぐ上の尾根道には玉川上水が流れているので、分水か、とも思うが、どうもそうではないらしい。

初台坂下交差点で山手通りに
川筋は初台坂下交差点への道筋と平行に路地裏を下る。坂道も代々木中学あたりまで下ると、往時は一面の水田地帯。「初台たんぼ」と呼ばれ、代々木八幡まで続いていた、とか。
初台坂下に進むにしたがい川筋跡が大きくなる。初台坂下交差点近くには橋の跡が残る。初台坂下で山手通りを越える。山手通りの東、代々木八幡の台地の下を進み、代々木八幡前交差点あたりで再び山手通りの西に。半円を描きながら代々木八幡の駅前に進み宇田川本流と合流。初台川はここまで。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

代々木八幡
お正月に初台川を歩いたとき、久しぶりに代々木八幡に初詣にでかけた。神社は代々木台地と並んで南に突き出た初台台地の先端・台岬にある。標高はおよそ 32m。境内には縄文時代の遺跡もある。縄文時代、海は台地の下まで入り込んでいた。明治神宮や代々木公園のある代々木台地にも古墳があるように、このあたりの台地上では人々が竪穴式住居をつくり生活していた、という。代々木八幡は代々木村の鎮守。この地に住む鎌倉二代将軍頼家ゆかりの荒井何某が、鎌倉八幡宮にまつわる夢を見た。で、1212年、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したとのこと。作家・平岩弓枝さんはこの神社のひとりむすめ。『御宿かわせみ』はすべて読み終えた。善き人達の話はいかにも心地よい。

2;富ヶ谷支流の源流を辿る
富ヶ谷支流の水源は上原2丁目23辺り。井の頭通りの上原1丁目の交差点から斜め方向・南西に入る道筋を辿る。いかにも川筋といった道を進み、ゆるやかな台地に登りきったあたりが源流点。

結構複雑な地形の富ヶ谷
台地を歩いたことがある。結構複雑な地形。富ヶ谷、というくらいだから「谷」はあったのだろう、とは思ったが、これほど凸凹の激しい地形とは想像もしなかった。上原3丁目の谷から代々木上原駅あたりで宇田川本流に流れ込む支流とは、この上原の台地が分水嶺となる。
富ヶ谷は元々「留貝谷(とめがいや)」と呼ばれていた。谷地に大量の貝殻が堆積していたからだ。代々木八幡に縄文時代の竪穴式住居があった、とメモした。当時の人たちの残したものだろう。

三田用水からの分水も
富ヶ谷支流にはこの上原2丁目の谷筋からの流れとは別に、上原2丁目と富ヶ谷2町目の境目を南から進む水路がある。三田用水からの分水なのだろう。このふたつの川筋は上原2丁目7あたりで合流。上原1丁目交差点の少し山手通り寄り、富ヶ谷2丁目45あたりで井の頭通りを交差。北東に進み山手通りを越えて代々木八幡駅前の合流点に向う。ちなみに「代々木」の由来。村人が代々サイカチの木を植えていたから、とか。

3;神泉谷からの支流を探る

松濤公園

宇田川には神泉の谷、松濤からの支流も合流する。松濤公園は紀州徳川家の屋敷跡。明治にこの地で鍋島公爵が茶園を経営していた。池には三田用水神山口からの分水も流れ込んでいた。三田用水は世田谷区の北沢5丁目あたりで玉川上水から分水。目黒、渋谷の境の尾根筋を走り、代官山・目黒、白金・芝に進む用水路。

井の頭線神泉駅
神泉の谷からの水は井の頭線神泉駅方向の谷筋を下ってくる。円山町と松濤1丁目の境あたりで松濤公園からの川筋に合流。すべての水をあわせて宇田川に流れ込む、というか流れ込んでいた。

ちなみに、神泉の谷、松濤からの合流点より代々木八幡寄り、富ヶ谷1丁目と神山町の境を通り、宇田川に合流する支流もあるようだ。
神泉の谷や台地を歩いたことがある。井の頭線・神泉の駅は谷地を横切るようにつくられており、駅の半分は台地下のトンネルの中にある。渋谷で飲んだ後、駒場東大前に抜ける途中でこのあたりを辿ることも多い。
凸凹の地形はいつ歩いても楽しい。神泉の由来は、ありがたい水・霊泉から。江戸時代に刊行された『江戸砂子』:「此処に湧水あり、昔空鉢仙人此谷にて不老不死の薬を練りたる霊水なる故斬く名付しと言ふ」、と。江戸時代から明治20年ころまで、弘法湯という共同浴場として賑わった。で、浴場の2階に料亭がつくられ、料亭に出入りする芸者、芸者の置屋ができ、それが後の円山を中心とする盛り場のルーツ、とか。




渋谷水系の散歩は終了。水もない、水路跡もあるかないかわからない、そんな川筋跡をお正月歩き廻った。いくらでも快適な遊歩道もあるのに、何を酔狂な、と思うこともある。が、思いがけないこと、すばらしいことに出会うことも。

今回の散歩で初台川、徳川山支流跡を巡っていたとき、素晴らしい景観に出会った。甲州街道の本町1丁目から初台坂下に下る坂道の途中、初台2丁目交差点から西原1丁目の渋谷区スポーツセンター方面に向って進み、渋谷区の老人福祉施設・ケアセンタがあるあたり。せせらぎ公園という案内もあったが、ここから見る新宿副都心の光景は素晴らしい。まことにすばらしい。

月曜日, 1月 09, 2006

渋谷川水系散歩 そのⅡ;宇田川を辿る

渋谷川水系を巡る散歩の2回目は宇田川散歩。川といっても水はない。一部整備されている遊歩道はあるが、あとは暗渠道とか暗渠道っぽい川筋跡のみ。谷筋の最も低い箇所をひたすら歩き、川筋をみつけだす、そんな散歩ではあった。(月曜日, 1 09, 2006のブログを修正)




1:宇田川

宇田川は明治神宮・代々木公園の西側の谷筋を流れる。幡ヶ谷、初台、富ヶ谷一帯に複雑に広がる開析谷から流れ出る水はすべて代々木八幡駅前に集まり、ひとつになって渋谷駅近くで渋谷川と合流。後は渋谷川として南に下っていた。

宇田川の源流は西原2丁目
源流というか水源は、西原2丁目。代々木大山公園、国際協力機構、製品評価技術基盤機構などが集まるあたり。国際協力機構の敷地内に池がある。このあたりが水源なのだろうか。とにかくこの西原2丁目、3丁目の地形は複雑。狼谷とも呼ばれている。台地と谷が複雑に入り組む。何度かこのあたりを歩いたが、いまだに土地・方向勘がつかめない。凸凹があり、しかも道筋が地形に逆らわずカーブする。うっかりするとすぐ道に迷う。どちらに向っているのかさっぱりわからなくなる。そんな谷筋の水は代々木上原の駅近くまで下る。

代々木駅前で支流が合流
代々木上原駅近くでは、井の頭通り北の大山町からの支流、そして代々木上原駅の南・上原3丁目の谷筋からの支流も合流。小田急の線路に沿った谷筋を進む。元代々木町の交差点近くでは、西原1丁目からの谷
筋、通称徳川山支流の水も集め代々木八幡の駅近くまで進む。代々木上原駅前から続く商店街を一歩入った路地に、いかにも川筋跡といった痕跡が続いていた。

宇田川遊歩道

すべての川筋が集まる代々木八幡駅前。商店街を井の頭通りに向って少し歩く。宇田川の川筋は商店街から一筋東に入る。ここからは宇田川遊歩道として暗渠道が整備されている。

井の頭通りと交差
道なりに進み井の頭通りと交差。井の頭通りは代々木公園の台地手前で右ターン。台地に沿って渋谷に向う。宇田川遊歩道は井の頭通り平行して渋谷に向う。井の頭通りの西側を進む。宇田川町に入り、東急百貨店と東急ハンズの間の三角地点BEAMで井の頭通りと合流。

渋谷の繁華街
ここから先は渋谷の繁華街で川筋ははっきり確認できない。が、成り行きから推測すれば、合流点から井の頭通りを道なりに進み、西武A館・西武B館の間を通り、井の頭通り入口で明治通りと交差、JRの高架下をくぐり、東急インの裏手あたりで渋谷川と合流する、のだろう。





2;宇田川支流・河骨川を辿る
宇田川本流に続き、支流を辿る。すべて、代々木八幡の駅近くで宇田川と合流する。春の小川で有名な河骨川から:河骨川。コウホネ、って少々無骨な名前。水生植物の名前だが、根が動物の骨に似ていることからこの名前がついた。で、この河骨が群生したのどかな小川が流れていたのだろう。






河骨川は「春の小川」のモデル
この川、小学唱歌「春の小川」のモデル。当時この川筋の参宮橋に住んでいた高野辰之氏、「朧月夜」「ふるさと」で知られる作詞者がこの川をモデルに作詞した。とはいうものの、高野さんの元歌は;
春の小川は さらさら流る 岸のすみれや れんげの花に 匂いめでたく 色うつくしく
咲けよ咲けよと ささやく如く
春の小川は さらさら流る 蝦やめだかや 小鮒の群に 今日も一日 ひなたに出でて
遊べ遊べと ささやく如く
春の小川は さらさら流る 歌の上手よ いとしき子ども 声をそろえて 小川の歌を
歌え歌えと ささやく如く
以下が我々が歌う「春の小川」;林柳波さんが文語を口語に直している;
春の小川は さらさら行くよ 岸のすみれや れんげん花に すがたやさしく 色うつくしく 咲いているねと ささやきながら 春の小川は、さらさら行くよ えびやめだかや こぶなのむれに 今日も一日 ひなたでおよぎ
遊べ遊べと ささやきながら

河骨川の源流は代々木4丁目
河骨川の源流というか水源は甲州街道・初台に近い代々木4丁目・刀剣博物館あたり。複雑な凸凹。大雑把に言えば北、西、東の台地に囲まれたすり鉢低地を川筋が通る。代々木4丁目39あたりからいかにも川筋っぽい道が現れる。
少し歩く。南に下る川筋と西方向・山手通り方面に進む川筋に分岐。西方向への道筋を辿る。山手通りで行き止まり。山手通りを越え初台あたりの玉川上水からの分水だろう、と思う。

小田急参宮橋近くで小田急と交差
南に下る川筋は代々木4丁目の民家の間を縫って進む。小田急参宮橋の少し南で小田急と交差。代々木の青少年センター前あたりで小田急の東側に出る。代々木公園沿いの道路に沿って進む。が、すぐ小田急線路に沿った細い道筋になる。

「春の小川」の記念碑
民家の軒先を進む。代々木小公園前、右折すれば代々木八幡に向う踏み切りの手前に「春の小川」の記念碑。今となっては川もなく、水もなく、人ひとり通れるかどうか、といった暗渠道。線路に沿って代々木八幡駅南に下り、道なりにすすむと駅前商店街・富ヶ谷1丁目7あたりで宇田川の川筋に合流する。

水系近辺の忘備メモ;
明治神宮
河骨川跡を歩いたのはお正月。小田急参宮橋から明治神宮に参拝した。明治神宮は私の結婚式をおこなったところ。少々奮発してお賽銭を。で、明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后をおまつりした神社。

代々木公園
初詣をすませ、代々木公園に出る。明治神宮・代々木公園の台地は江戸時代、彦根藩井伊家の下屋敷をはじめとする大名や旗本の屋敷跡。明治になり陸軍の代々木練兵場、終戦後は駐留軍・占領米軍の宿舎のワシントンハイツ、東京オリンピックを機に返還され、オリンピックの選手村になる、といったように歴史の舞台になっている。






代々木公園はしばしば歩く。このお正月も原宿からの帰り、代々木公園を抜けるコースを歩いた。
途中石碑が。「日本航空発祥の地」。1910年(明治43)、この代々木練兵場において徳川大尉が日本初の飛行。アンリ・ファルマン式50馬力複葉機、高さ70m、距離3kmを4分間飛行、 の偉業を記念したもの。歴史の舞台、といえば代々木練兵場には陸軍刑務所があった。いまのNHKのあたりだが、2・26事件に関与した軍人が、軍法会議により銃殺に処せらたところでもある。

いつだったか、代々木八幡の丘から小田急、そして代々木の台地に広がるワシントンハイツの写真をみたことがある。のどかな風景。河骨川はこの風景の中を流れていたわけで、であるとすれば「春の小川」の雰囲気は納得。

日曜日, 1月 08, 2006

渋谷川水系散歩 そのⅠ;渋谷川を辿る


今日1月8日は娘の誕生日。誕生日を記念して今年はじめての散歩メモ:正月2日、親戚一同が原宿に集まる。恒例の行事。子供たちにとっては、お年玉を一挙に手に入れるお楽しみの催しではあった。その子どもたちもひとりは大学生、そしてもうひとりは来年大学生。それはともかく、
例年、自宅のある杉並・和泉から原宿まで往復を歩くことにしている。
この原宿から和泉へのルート、お正月だけでなく頻繁に歩く。年末にも原宿で忘年会をしたときも、夜中に自宅まで歩いた。ルートはいろいろ。が、大きく分ければコースはふたつ。和泉から井の頭通りを歩き、代々木公園から原宿駅そして表参道へのコース。もうひとつは和泉から甲州街道を笹塚まで進み、そこから小田急・代々木上原駅、小田急代々木八幡駅を通り代々木公園、原宿駅、表参道に至るルート。途中いろいろと、そのときの気分に応じて、あれこれ分岐はする。が、このふたつが幹線。。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

井の頭ルートは比較的単調な地形。唯一変化があるのは、代々木上原駅の南に広がる上原2丁目、3丁目あたりの台地と富ヶ谷の低地。地形のうねりを感じる。一方の笹塚から代々木八幡に抜けるルートは台地と谷が複雑に入り組む変化に富んだ地形。台地末端部の谷、これを開析谷と呼ぶようだが、武蔵野台地が河川によって開析された谷・開析谷が樹枝状に、至極複雑に分布する地形となっている。
台地と開析谷のコントラストは代々木八幡から先の地形がもっとはっきりする。谷筋の山手通りを越える。そこから初台台地の先端に位置する代々木八幡に登る。そして小田急線の走る谷筋に下る。更に代々木公園の台地に登る。台地と谷のコントラスト、地形のうねりをカラダで感じることができる。
で、いったいどういう凸凹になっているのか、カシミール3Dで地形図を作ってみた。いやはや、想像通り、というか想像以上の凹凸。地形図を見ながら、それぞれの谷筋を辿ってみたい、と思った。(日曜日, 1月 08, 2006のブログを修正




渋谷川水系のまとめ
ふと考えた。よくよく考えた。谷筋って、川が流れているはず。とはいうものの、川などありゃしない。が、理屈の上では川が流れていたはず。ということで、西は笹塚から東は原宿、北は幡ヶ谷、南は渋谷にかけての武蔵野台地を開析した川筋・水系跡を探し・辿る散歩をはじめることにした。

カシミール3Dでつくった地形図を見る。東から西に;
1. 新宿御苑から千駄ヶ谷にかけての台地
2. 明治通りに沿った谷筋・開析谷
3. 明治神宮から代々木公園にかけての台地
4. 参宮橋から渋谷に走る谷筋・開析谷
5. 初台から代々木八幡神社にかけての台地・初台台地
6. 山手通りの谷筋・開析谷
7. 甲州街道の幡ヶ谷・初台の中間点から山手通りに斜めに走る谷筋・開析谷
8. 笹塚・幡ヶ谷から代々木上原駅にかけての台地・幡ヶ谷台地
9. 代々木上原から代々木八幡にかけての谷筋・開析谷
10. 代々木上原から駒場にかけての台地

台地と谷が複雑に入り組みながら広がっている。そしてこの谷筋を流れる川はすべて渋谷駅前に流れ込む。正確には流れ込んでいた。東から
1. 新宿御苑、明治神宮の東の谷筋を流れる渋谷川
2. 明治神宮の西の谷筋を流れる宇田川
3. その支流の河骨川、初台川、徳川山支流、富ヶ谷支流

これらすべての川が現在の渋谷駅前に流れ込み、渋谷川に一本化される。それまで暗渠であった川筋は渋谷駅の南、246号と明治通りが交差するあたりで開渠となり、明治通りに沿って南下する。渋谷川水系、渋谷川・宇田川・その他の支流巡りをはじめる。第一回は、渋谷川。源流点から合流点まで散歩しメモする。

渋谷川の源流点・新宿御苑内の湧水
渋谷川の源流点は新宿御苑内にある湧水池。御苑は信州高遠藩・内藤家の屋敷跡。馬術の名手内藤清成が家康候が鷹狩の折、家康より「馬にて一息に駆け抜けた地を屋敷として与える」ということで手に入れたという。

多武峯内藤神社
御苑そばに多武峯内藤神社。内藤清成が乗った馬が供養されている駿馬塚(しゅんめづか)がある。この神社は内藤家の屋敷神。内藤氏の先祖があのムカデ退治・平将門討伐の藤原秀郷とか。藤原氏の氏神多武峯神社を勧請したという。ちなみに新宿の大宗寺は、内藤氏の菩提寺。

新宿御苑
御苑内を歩く。千駄ヶ谷門近くに連なる池がある。これが水源なのだろう。池の端から御苑外に向う川筋があった。ここから始まる渋谷川の流れは、御苑角にある四谷大木戸・玉川上水からの分水、御苑内にある玉藻池からの流れも集め、新宿御苑に沿って下り、大京町の交差点付近からは外苑西通りに沿って流れる。

大京町交差点
御苑に沿っては開渠というか、川筋がはっきり認められる。もっとも水の流れはなにもない。また、大京町の交差点手前で開渠が暗渠になる地点が道路脇にある。

龍厳禅寺で外苑西通りを離れる
大京町から下る川筋は外苑西通りの観音橋交差点、仙寿院前交差点を越え、龍厳禅寺あたりで外苑西通りを離れ南西方向に斜めに流れる。観音橋って、いかにも川筋。仙寿院は徳川家康の側室お萬の方(紀伊徳川家祖徳川頼宣の生母)のゆかりのお寺。江戸名所図会をみると、広大な寺域。門前に小川と橋。渋谷川だろう。江戸切絵図にも、このお寺の前を流れる渋谷川が描かれている。ちなみに、池波正太郎の鬼平犯科帳に「近くの仙寿院という寺の門前を流れる小川に架けられた橋を渡ったのはおぼえているが。。。」といった描写があった。

玉川上水原宿村分水の川筋と合流

龍厳禅寺で外苑西通りを外れた川筋は神宮前3丁目から明治通りにつながる道筋と福祉センター入口手前で交差。このあたりで渋谷川は新宿御苑の西を流れる支流・玉川上水原宿村分水の川筋と合流する。この支流・原宿村分水は文化女子大の近くで玉川上水から分水された水。

明治通りに沿って南下
代々木小学校、小田急南新宿駅、代々木駅前、明治神宮・北参道を神宮の森に沿ってくだり、千駄ヶ谷3丁目西交差点あたりで明治通りに接近。通りに平行に合流点までくだる。少々の蛇行を繰り返しながら表参道との交差点に進むこの道筋は、いかにも「暗渠」道。川筋がはっきりわかる。道の両側には小洒落たお店が並ぶ。

表参道
表参道との交差手間で、支流がもうひとつ合流。明治神宮の湧水池から流れ出し、竹下通りの南を進み明治通りと交差しながらの川筋だ。表参道と交差。参宮橋という橋の名残が残る。とはいうものの、表参道そのものは大正9年にできたわけで、それ以前、先ほどの江戸切絵図によれば、江戸時代このあたりは百姓地・畑である。
ちなみに青山通りから表参道にかけての江戸の風景は、青山通りに沿っては百人町といって御家人の家が軒を連ね、表参道の入口あたりに善光寺。信州善光寺別院。本堂手前左には勝海舟撰文の高野長英顕彰碑。表参道のあたり一帯は松平安芸守、松平近江守、それと井上英之助の屋敷で占めている。

宮下公園あたりで明治通り

散歩に戻る。表参道を越えた川筋は再び小洒落たお店の賑わいを進み、宮下公園あたりで明治通りと合流。合流点手前の神宮前5丁目27に穏田神社。江戸切絵図では第六天社と。もとこのあたりを原宿、穏田と呼ばれていたわけでその名残。明治通りを交差した川筋は、宮下公園、東急インの裏手を流れ駅南の開渠地点へと続く。
ともあれ、渋谷川水系のひとつ、というか幹線・渋谷川。新宿御苑の西の谷、東の谷、つまりは両側の谷筋から水をあつめ、明治神宮というか代々木公園の台地の東側を渋谷に流れる川筋が渋谷川である。

水系近辺の忘備メモ;甲州街道と明治通りが交差する追分の地に天龍寺。家康の側室・西郷の局の実家・戸田家の菩提寺・法泉寺が前身。西郷の局は二代将軍秀忠の生母でもあり、10万石待遇の格式ある寺であった、とか。いかにも鉄筋の本堂はいただけないが、そばにある鐘楼は「時の鐘」として有名。江戸登城にここからでは少々時間がかかるにので、少しはやめて時刻をしらせていたとか。粋な計らい。東京近郊名所図会;『時の鐘、天竜寺の鐘楼にて、もとは昼夜鐘を撞きて時刻を報せり。此辺は所謂山の手にて登城の道遠ければ便宜を図り、時刻を少し早めて報ずることとせり。故に当時は、天竜寺の六つで出るとか、市谷の六つで出るとかいいあえり。新宿妓楼の遊客も払暁早起きして挟を分たざるを得ず。因て俗に之を追出し鐘と呼べり』、と。