金曜日, 2月 24, 2006

高尾山・陣場山散歩

高尾山・陣場山散歩

2月のある日、会社の仲間と3人で高尾山から陣場山の尾根道を縦走することになった。もっとも縦走というほどの大層なものではなく、ハイキングというのが正しい表現ではあろう。高尾山には六号路といったびわ滝川の沢道を進む登山道、表参道コースとも呼ばれる一号路、主尾根とは別の尾根道を進む稲荷山コースなどのコースを登ったことがある。

高尾山頂から先は尾根道を歩き小仏城山から相模湖に下るコースは二度ほど歩いた。陣場山は小仏峠手前の景信山への直登ルートから明王峠を経て陣場山へ歩き、山頂から藤野へ下るコースも歩いた。で、今回は今まで歩いたルートをまとめて一筆書き。高尾山から小仏峠を経て景信山に登り、尾根道を歩き陣場山へと進む。陣馬山からは裏高尾・陣馬高原下に進み、バスで八王子に戻るコースをルーティングした。

京王線高尾山口
朝9時に京王線高尾山口で待ち合わせ。高尾山にはケーブルで登ることに。本日の行程、時間を考えるとこの高尾山の登りでの1時間余の時間と消耗は結構きつい、と衆議一決。高尾登山ケーブル・清滝口から一気に高尾山に。ケーブルに乗ったのは10年ぶりくらい。斜度は31度18分と日本最大。山頂駅手前の急峻な登りは中々の見ものではあった。

蛸杉
ケーブルを降り、のんびり歩く。蛸杉が。往時、参道開削の折、邪魔になる根っこを伐採しようとしたとき、一夜にして根っこが後方に曲折、その姿が蛸の足に似ていたので名づけられた、と。

浄心門
蛸杉を過ぎ、744年創建の浄心門をくぐる。門脇に神変堂。安置されている神変大菩薩は山伏のルーツ、とか。堂の脇を固める石像は2匹の鬼。妙童鬼、善童鬼という夫婦で神変大菩薩に従者として仕えている。結構いい表情。神変大菩薩により悪行を悔い改めて、人々の救済のために尽くしている、とか。

高尾山薬王院
神変堂の先は二つにわかれ、男坂という108段の階段か、女坂といわれるゆるやかなスロープのふたつのルート。迷うことなくゆるやか道を選ぶ。参道右手に山門・四天王門が。少々コケティッシュな持国天、増長天、多門天、広目天のお像を眺めながら高尾山薬王院に。大天狗、小天狗が迎えてくれる。

天狗は高尾の守り神。その昔、行基がこの地を訪れた。身に持つ薬師如来を安置する場所を求めて高尾の山に分け入る。疲れて眠り、目覚めると薬師如来が消えている。と、目の前に大天狗が薬師如来を捧げ、「行基さまのおいでを待っていました」と。以来、お山を知り尽くした天狗は行基を助け薬草を集める。天狗はいつしか、螺善坊と呼ばれるまでに。行基は集めた薬草を携え都に戻り、聖武天皇に献上。その故に菩薩の称号を。で、螺善坊はお山に残り、里の女性を娶り、というか略奪したそうだが、所詮は言い伝えであるので、それはそれとして高尾の守り神、自然体系の頂点にある存在として、幸せに暮らしました、とさ。と、強引にまとめておこう。

飯綱権現堂
右手に石段。仁王門をくぐり薬王院大本堂に。真言宗智山派の大本山。正式名称「高尾山薬王院有喜寺」。今から1,200年前の天平年間に行基菩薩が聖武天皇の勅命を得て薬師如来を安置し開山、と伝えられる。

おまいりを済まし、奥の院経由山頂への案内に従い、大本堂左手の石段を登る。飯綱権現堂が。飯綱(いづな)権現は高尾山のご本尊。南北朝時代、永和年間の1375年、京都・醍醐山より俊源が入山。六号登山路途中にある琵琶滝(びわたき)に打たれて修行し飯縄大権現を感得、と。飯縄大権現は、火焔を背にした不動明王の化身、そして不動明王は大日如来の化身。権現様は神でもあり、仏でもある、ってことは熊野散歩のメモに書いたとおり。

ちなみに、長野戸隠に飯縄神社というのがある。そこでは飯縄山に住む狐をまつっている。「飯縄使い」とは「狐つかい」のこと。ということは、高尾山中興の祖・俊源が狐の妖術使いだった?!。ともあれ、高尾山は飯縄大権現を御本尊、俊源大徳をもって高尾山中輿の祖としている、とか。お堂裏手の石段を更に登って行くと、薬王院の奥の院、江戸時代初期に建立の不動堂が。雪というか、霜柱、これって関東特有、関東ローム層ならではの現象、との同行者の薀蓄を聞きながら少し進み高尾山頂に到着。

高尾山頂
高尾山頂の茶店で少々休憩し先に進む。山頂から小仏城山までは12月1日の散歩ルートと同じ。高尾山・高尾ビジターセンター>もみじ台>一丁平>小仏城山に進む。日陰は霜柱、日向はぬかるみ、と道のコンディションはよろしくない。小仏城山の茶店で少々の休憩の後、小仏峠に下る。

小仏峠
20分程度で峠に。旧甲州街道の小仏関所があったところ。高尾山の北の山麓、つまりは裏高尾を走る旧街道ルートは結構高低差がある。明治21年に現在の甲州街道・国道20号線を作る際はこのルートは通らず、大垂水峠を越えるルートに道筋を変更した、とか。とはいうものの、中央高速にしてもJRにしても旧甲州街道に沿って東西に直線に走っている。スピードを出すには直線がいいのはあたりまえ。邪魔な山はトンネルを掘ればいい、ってことだろう。峠には明治13年、明治天皇の山梨巡行の折につくられた、「明治天皇小仏峠御小休所址及御野立所」の碑があった。

景信山
小仏峠から景信山に登る。先般、小仏峠手前の景信山直登ルートから入ったときは結構きつい登りであった。で、身構えていたのだが、この小仏峠からのルートは拍子抜けするほど楽なコース。遊歩道といった雰囲気で歩けた。景信山に。景信山から陣馬山までは12月9日の散歩メモに同じ。景信山(727m)>堂所山(710m)>明王峠(710m)>陣場山(854m)と進む。陣馬山では先回お世話になった山頂の茶屋でオバーチャンに挨拶し少々休憩。

陣馬高原下のバス停に降りる
休憩の後、陣馬高原下のバス停に降りることに。和田峠から車道をおりてバス停に進む1時間10分のルートか、陣馬山から一挙に山道を下る、40分の「直滑降」ルートか、どちらか。登山靴では車道というか舗装道路は歩き難いということで、直滑降ルートに。いやはやこれがとんでもない状況に。足をとられ、滑り転げ、世の中の不幸をすべて請け負ったような汚れ具合に、笑うしかなし。

バスの時間は1時間に1本。乗り遅れないようにと心はあせれど、体がついていかず。4,5時間の山歩きで膝は笑う。ダイナミックな転倒に情けないやら、恥ずかしいやら。とはいうものの、先陣を受け持つ騎士・ナイトもかくやあるらん、といった義務感というか「ノブリス・オブリージュ」の気概で転びの場所の露払い。それにしても後に続く皆様、笑いを堪えるのが大変であったろう、な。
ともあれ、なんとかかんとか車道に到着。バス停まで1キロ強を小走りで進み4時15分のバスになんとか間に合い、八王子駅まで戻り本日の予定終了。快適な尾根道散歩でありました。

本日のルート;ルート;京王高尾山口>高尾山頂上>高尾登山ケーブル・清滝口>高尾山>仏舎利塔>薬王院>奥の院>高尾山ビジターセンター>小仏城山>小仏峠>景信山>堂所山>明王峠>陣馬山>陣馬高原下・バス停>京王八王子駅

木曜日, 2月 09, 2006

江戸の塩の道散歩 そのⅢ;新川・古川を進み行徳に

塩の道散歩の第三回は、荒川から旧江戸川に抜ける新川を進み、途中から古川に入る。もっとも、古川には、散歩の途中でほんの偶然に出会ったのだが、ともあれ、新川ができる前の古い川筋・古川に入り、行徳に至るルートを歩く。
新川・古川筋を船堀川とも呼ぶ。正確には、古川筋をすすみ、新川に合流し中川に注ぐもともとの川筋の名前が船堀川。古川・新川の合流点から東に真っ直ぐ旧江戸川に貫く新しい水路を新川。ために、それ以前の旧江戸川から新川との合流点までの、いわゆる取り残された川筋を古川、と読んでいる。(木曜日, 2月09, 2006のブログを修正)


本日のルート;新川排水機場>新川>宇喜田橋>新海橋>三角橋>新川橋>古川親水公園>環七通り>瑞穂大橋>今井水門>旧江戸川>新中川分岐>旧江戸川に戻る>常夜灯>笹屋のうどん跡>行徳駅

都営新宿線・船堀駅

都営新宿線・船堀駅下車。線路に沿って少し戻り、荒川堤に出る。どうせなら、新川が荒川より分岐する箇所からはじめるべし、といった心持。荒川と中川の中堤上を走る高速道路を眺めながら分岐点の新川排水機場に。新川は昔、というか荒川放水路・荒川が明治末期から昭和初期にかけて建設されるまでは、荒川の西を流れる旧中川に流れ込んでいた。荒川放水路の建設によって流れが分断された中川は現在荒川を挟んで泣き別れといった状態になっているわけだ。



新川
川筋に沿って進む。遊歩道が整備されている。快適な散歩道。川幅は最大で21m。ゆったりとしている。先回の仙台堀川親水公園にしても、南十間川親水公園にしても、予想以上に環境整備が進んでいる。水質も予想外に悪くない。旧江戸川の新川東水門で取り入れられた水を新川排水機場で排水することにより、水質を保つという。
快適な遊歩道を宇喜田橋、新海橋、三角橋と進む。川沿いの遊歩道・親水テラスの下は地下駐輪場となっている、とか。


古川
新川橋を越える。左手に古川親水公園の案内。新川?古川?その関連は?上でメモしたように、新川・古川の関連はそ後からわかったのだが、この時は、「古」というわけだから、古川とはもともとの水路であろう、と新川を離れ、古川筋を歩くことにした。
古川親水公園のどのあたりだったか定かではない。古川の案内があった。「古川は江戸川から中川に通じる昔の流路。天正18年(1590)家康江戸入府の後、行徳の塩を江戸に運ぶ重要な水路でしたが、寛永6年(1629年)、現在の三角付近から東へ新たな水路が掘られ、通運の役目はそちらにうつりました。これが今の新川で、北関東や東北からの物資を運ぶルートとして、明治時代には蒸気船が就航するなど、内陸水水運網の大動脈として賑わいました」、と。


その後生活廃水などによりの汚染が進み、川としての生命を失いかけていたが、1974年、1.2キロの親水公園として復活した。これもどこだったか定かではないが、親水公園の川筋のどこかに、公園化するまえの、お世辞にも美しいとは言えない古川の写真があった。
ちなみに「親水公園」という名称。いまでこそあちこちに散見する。が、その第一号がこの古川親水公園であった、とか。汚れた河川は蓋をしたり、埋めたりといった従来の都市河川政策と真逆のこの試み、水と緑に親しめる新しい公園にするこの計画は世界的にも大きく評価される。昭和57年にナイロビで開催された国連人間環境会議で紹介され、国内外の注目を浴びた。親水公園の第二号は同じく江戸川区にある小松川境川親水公園。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

環七と交差
しばらく進むと環七との交差点。二之江神社。香取神社と八幡神社を合祀して昭和42年に二之江神社となった。境内は香取神社のもの。境内の欅(けやき)は樹齢500年以上。神社の斜め前に古川けやき公園。その横に妙勝寺。日蓮宗。中山法華経寺の末寺。区内でも古い寺院。「黒門寺」とか「ジョウジン」と呼ばれる。

寺伝によると、13世紀中旬、葛西沖に難船が漂着。童子を二之江村の漁師五郎が救う。童子は平家の末葉であるといわれ、後に僧となり古川べりに草庵を結ぶ。これが妙勝寺の始まり、と。直ぐ近くに蓮華寺。鉄筋のお寺。「虫除け不動」として信仰を集めた。






宇田川家長屋門


しばし進む。遊歩道が終わりとなる。なんだか大きな民家に沿って道なりに進む。戦国時代小田原北条の家臣であった宇田川家の屋敷。立派な長屋門が残る。江戸時代後期に再建されたもの、と言う。門の前には行徳道石造道標。先に進むと旧江戸川の堤防に。旧江戸川に合流する新中川にかかる瑞穂橋まで橋はない。






旧江戸川・熊野神社

北に進む。道脇に熊野神社。創建は18世紀初頭。この神社、「おくまんさま」と呼ばれる。神社前の江戸川は水流の関係で深い瀬となっており、その水流が堤防を壊すのを防ぐため多くの「だし杭(くい)」を打っていた。また、この近辺の水はきれいで、将軍家のお茶の水として使われていた。で、ここらあたりの水を「おくまんだしの水=熊野神社のだし杭いのあるところの水」と呼ばれたのが、その由来。
ここの水は野田醤油の製造に使われたり、本所・深川・大島あたりでもここの水を買って呑んでいた、と。境内に芭蕉の句碑;茶水くむおくまんだしや松の花。深川からこの水を求めて逍遥したときに詠ったものか。

新中川
瑞穂大橋に。左手に今井水門を眺めながら新中川を渡り、旧江戸川の堤に。今井児童公園に沿って歩き、今井橋を渡り旧江戸川南岸に。橋を渡りきったあたりで階段を下り、堤防に向う。

行徳河岸跡

こ れといって情緒のない堤防沿いの道を相之川、湊新田、湊、押切、伊勢宿、関ヶ島、本行徳へと進む。堤防脇に水神さま。まことにささやかなる祠。祠の横に行徳河岸の案内。別名、祭礼河岸とも。貨物専用の河岸であった、とか。





行徳・常夜灯

先に進み常夜灯の碑に到着。昔の航路標といったもの。案内によれば、「寛永9年(1632)江戸幕府は下総行徳河岸から日本橋小網町に至る渡船を許可し、その航路の独占権を得た本行徳村はここに新河岸を設置しました。現在残る常夜灯は、この航路安全祈願のために、江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の講中が成田山に奉納したものです。高さ4.31m、石造り、文化9年 (1812)に建てられましたが、昭和45年、旧江戸川堤防拡張工事のため、位置が多少移動されました。この航路に就航した船は「行徳船」と呼ばれ、毎日明け六ツ(午前6時)から暮れ六ツ(午後6時)まで運航されていました。行徳特産の塩を江戸に運ぶのが目的でしたが、成田山への参詣路として文化・文政期(1804~1830)のころからは旅人の利用が多くなり、当初16艘だった「行徳船」も幕末期には62艘にも増え、江戸との往来の賑やかさがうかがえます」、と。
行徳船の数は1671年;51隻、1848年;62隻であった、とか。行徳から日本橋小網町まで3里8丁の長丁場。ために長渡船とも呼ばれた。日本橋川に行徳河岸があったが、それは行徳からの船便の荷揚げ場所だったのだろう。松尾芭蕉、十返舎一九、古林一茶、渡辺崋山といった文人・墨客も行徳船を利用した。

笹屋のうどん跡地

塩の道の散歩はこれで終了。あとは往時、行徳船の利用者で賑わったという笹屋のうどん跡地、といっても普通の民家の軒先に石碑があるだけだが、ともあれ行徳街道を少し戻り場所だけ確認。この笹屋、頼朝と深い関係がある。石橋山の合戦で破れた頼朝が安房に落ち延びる道すがら、この行徳に。当時のうどん屋の主人の接待を感謝し、後に頼朝の家紋「笹りんどう」の紋を与え、店の名前も「笹屋」となった、由。

営団東西線行徳駅

営団東西線行徳駅に。駅前の地図を見ると、本塩・塩焼・塩浜・塩場寺といった地名が残っている。西の赤穂、東の行徳というくらいかつては塩業が盛んな町であったわけだ。「塩は軍用第一の品、領内一番の宝である」、として戦略商品を産する行徳は徳川幕府の天領であった。
江戸の勝手口として繁栄した行徳は「行徳千軒、寺百軒」といわれるほどに発展。誠にお寺が多い。明治に入っても水運が盛んであった。蒸気外輪船が往復する。が、水運を有り難く思うあまり、鉄道敷設に反対。鉄道・総武線は行徳を外し、内陸部を走ることになる。
近代的交通ルートから取り残された行徳は「陸の孤島」と。それに輪をかけて、大正六年の大津波で、塩田が壊滅。広大な湿地と干潟がひろがり、雁や鴨、鷺、千鳥等が群れる鳥類生息地となる。一時さびれた行徳も埋立て事業がスタート。臨海工業地帯に。また昭和44年の地下鉄東西線が開通し、田園地域から一大住宅地帯となり、現在に至る。
行徳の地名の由来;葛飾誌略では、「行徳といふ地名は、其昔、徳長けたる山伏此処に住す。諸人信仰し行徳と云いしより、いつとなく郷名となれり」、と。土地の開発と、人々の教化に努め、徳が高く、行いが正しかったことから多くの人から「行徳さま」と崇め敬われた山伏がその名前の由来、と言われている。

水曜日, 2月 08, 2006

江戸の塩の道散歩 そのⅡ;小名木川を荒川との合流点まで

先回は日本橋川を下り隅田川まで歩いた。今回は隅田川から荒川までを小名木川を歩く。小名木川は家康が行徳の塩田地帯でつくられる塩を江戸に運ぶためにつくった川筋・運河。葛西から船橋にかけての一帯は鎌倉時代から塩の生産地。北条氏に年貢として納めていたともいう。海浜地帯であることは塩をつくる必要条件としても、十分条件は燃料である薪の確保。利根川・江戸川水系の水路のネットワークにより燃料供給が安定していたことが、この地で塩田が発達した要因という。ともあれ、清洲橋の少し北で隅田川から分岐する小名木川に向う。(水曜日, 2月 08, 2006のブログを修正)(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


本日のルート;新小名木川水門>高橋>西深川橋>東深川橋>大富橋>新高橋>(扇橋)>新扇橋>小松橋>小名木川橋>小名木川クロバー橋>横十間川親水公園>進開橋>丸八橋>番所橋>旧中川>中川大橋>大島・小松川公園>小名木川排水機場>荒川>新船堀橋>中川>船堀橋>都営新宿線船堀橋

小名木川

小名木川は、隅田川から荒川、正確には荒川の手前の旧中川まで江東区を東西に横断する長さ5キロ弱の一級河川。家康の命により小名木四郎兵衛がこの運河を開削したのが名前の由来。もっとも、これも諸説あり、うなぎがよく採れたのでうなぎ川、それがなまったという説などいろいろ。
もともとは行徳(千葉県市川市)の塩を江戸に運ぶために開削された。が、後に、関西地方から江戸に塩がもたらされるようになってからも、東北や北関東からの生活物資を江戸に運ぶ重要河川としてその役割を担った。房総、浦賀といった太平洋の海の難所を避け、茨城あたりで内陸に入り、利根川・江戸川経由で小名木川、そして江戸に続く、いわゆる奥川廻し、この内陸水路をつかった水運ネットワークの一環として機能したのだろう。ともあれ、歩をすすめることにする。

万年橋
隅田川から分岐した小名木川にかかる最初の橋が万年橋。橋の北に「川船番所跡」の案内。深川番所・川船番所・深川口人改の御番所とも呼ばれる。海の関所といったところ。水路をとおって江戸に出入りする人や荷を監視するため隅田川口に設けられた。人の通行改めはそれほど厳しくはなかったが、川船に積まれた荷物、とくに米、酒、鮮魚、野菜、硫黄、塩などの監視は極めて厳しかった、とか。万年橋は元番所橋ともよばれる。
万年橋近辺には俳人・松尾芭蕉ゆかりの地がいくつかある。常盤1-3-12の芭蕉庵跡・芭蕉稲荷。1680年にこの地に庵を結び、1694年に51歳でなくなるまで、この地から全国への旅に出た、と。「こゝのとせ(九年)の春秋、市中に住み侘て、居を深川のほとりに移す。(しばの戸)」。「深川三またの辺に草庵を侘て、遠くは士峰の雪をのぞみ、ちかくは万里の船をうかぶ(寒夜の辞」」。北斎の富嶽三十六景「深川万年橋下」の光景か。新大橋通り方面に少し上ると、芭蕉記念館もある。逆に、清澄通りを少し南に下り、海辺橋の南詰めに採茶庵跡。庵と芭蕉の銅像があった。

新小名木川水門
万年橋から少し進む。新小名木川水門。隅田川からの逆流を防ぐための水門、とか。工業化・地下水汲み上げの影響による地盤地沈下により、小名木川筋のほうが水位が低い。仙台堀を歩いていたとき、木場公園のあたりで防水工事案内を目にした。大潮の干潮時の水位をゼロとすれば、満潮時は2.1m。堤防の高さは6.4m。今立っているあたりは2.5m。昭和34年の伊勢湾台風のときは潮位5.1mまでになったという。堤防がなければ完沈である。台風などの水害防止のためにも水門が機能しているのだろう。

高橋
清澄通りに架かる高橋に進む道筋の南、清澄3丁目には大鵬部屋・北の海部屋・尾車部屋などといった相撲部屋も見られる。高橋って、もともとは橋の中央が盛り上がる、というか「高く」なっていたためつけられた名前。水運華やかなりし川ではの、名前ではあろう。

新高橋
川筋に沿ってつかず離れず進む。西深川橋から東深川橋三つ目通りにかかる大富橋、そして新高橋。先ほどの高橋とこの新高橋、このペアに近いものが近くの川にもあった。日本橋川が隅田川に流れ込む手前に分岐している亀島川に架かる高橋と南高橋。それがどうした、と言えば、それだけのことではあるのだが。。。

大横川と交差
新高橋を越えると小名木川は大横川と交差する。川筋には道がないので、一度清洲橋通りまで戻り扇橋を渡り、新扇橋から小松橋へと進む。小松橋は鉄骨組みのトラス橋。

扇橋閘門(こうもん)
小松橋と新扇橋の間に水門が。扇橋閘門(こうもん)。江東区の東は西と比べて地盤が低いので、水害防止のため東側地区の水位を常に低くしておく対策を実施。水門で囲えばいいわけだろうが、通船の水路確保のために閘門を設けることになる。閘門とは、京都の琵琶湖疎水のインクラインと仕組みは同じ、か。水位差のある箇所をふたつの水門で囲う。片方の水門を開けて船を入れる。このときの水位は水を入れた側と同じ。次に水門を閉じポンプで水を注入する、あるいは排水して反対側の水位と合わす。水位が合うと、出る側の水門を開き船を通す、という段取りとなる。パナマ運河の小規模版といったもの。付近に製粉会社が目に付く。新扇橋のたもとに、日本発の蒸気機関をつかった製粉工場をつくった雨宮啓次郎さんの碑があった。

小名木川橋
小名木川橋。南の東陽町から北の錦糸町を経て押上に通じる四つ目通りに架かる。この橋というか、四つ目通りを境に、東西の街の相が少々異なる。西は昔ながらの下町、東は新開地といった雰囲気。民家の多い東と団地の多い西、生活道路中心の東と幹線道路が南北に走る西、と言った感じもする。
歴史的にみても江東区はこのあたりを境に西が深川区で東が城東区。もっと歴史を遡ると、江戸の時代深川まで、つまりは四つ目通りあたりまでが江戸の内、それより東は外縁部であった、とか。川筋の遊歩道も小名木川橋より西は途中で突然道がなくなる。が、これより東は整地された遊歩道が完備、といった按配であった。歩いてわかる街の姿、ではあります。

小名木川クロバー橋

川筋をすすみ小名木川クロバー橋に。横十間川との交差点。交差点をクロスしたX型の橋。南は横十間川親水公園となっている。少し下ってみたが、結構いい雰囲気の散歩道となっている。JRの貨物駅の脇を進み進開橋に。明治通りとの交差点。川の北側は大島地区。正倉院文書に葛飾郡大嶋郷と記されている。それがこの地の名前の由来かどうか、定かならず。

中川船番所
丸八通りにかかる丸八橋を越え少し進むと仙台堀川公園が分岐。仙台堀は南に下り、葛西橋通りあたりで西に向い、小名木川のひと筋南をほぼ平行に開削されている。
旧中川の手前に番所橋。隅田川口、万年橋北詰めにあった深川口船番所・深川口人改之御番所が1661年、この地に移転し中川船番所に。中川・小名木川・新川(船堀川)が交差するこの地におかれ、人や物資の取り締まりをおこなった。ただ、通船数が多くなるにつれ、通関手続きは形骸化し「「通ります通れ葛西のあふむ石」と川柳で揶揄されてはいたようだ。

荒川ロックゲート
川筋を一筋北にのぼり旧中川にかかる中川大橋を渡り、小高い大島・小松川公園を眺めながら小名木川排水機場に。荒川ロックゲートとも呼ばれている。扇橋閘門と同じ原理での水門。荒川と中川の水位差を調節している。荒川に沿って新大橋通りに。東に向かい荒川にかかる新船堀橋を歩く。中堤に首都高中央環状線が南北に走る。高架下をくぐると中堤を隔てたほうひとつの川・中川。船堀橋を渡り都営新宿線船堀橋に到着。本日の予定終了となる。

火曜日, 2月 07, 2006

江戸の塩の道散歩 そのⅠ;日本橋川を隅田川まで


東京の下町低地,広義での利根川の河口部=沖積地、の散歩には今ひとつ意欲が湧かなかった。理由はひとつだけ。地形のうねりが感じらづないから。ゼロメートル地帯というか、マイナス3メートルのところもある、という。凸凹のない地形散歩ってポイントが絞れない。とはいうものの、深川不動とか富岡八幡に行ったり、清澄公園とか深川江戸資料館に行ったり、吉良邸とか回向院、江戸東京博物館に行ったり、錦糸町で飲み会の後夜中に新宿まで歩いたりはしていた。が、今ひとつこれといった散歩ターゲットがみつからない。はてさて、と地図を眺めていた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)




と、隅田川から荒川に繋がる川筋がある。小名木川という。名前が面白そう。一体どんな由来のある川筋なのだろう。調べてみた。江戸開幕の折、千葉・行徳の塩を江戸に運ぶため開かれた堀・運河である。江戸城の和田倉門から道三堀、日本橋川を経て隅田川、隅田川から荒川まで小名木川、荒川を越え新川(船堀川)から旧江戸川を経て行徳まで連なる塩の道。散歩のストーリーとしては美しい。ということで、道三堀・日本橋川から行徳までの川筋散歩に向うことにした。(火曜日, 2月 07, 2006のブログを修正)



本日のルート;JR水道橋駅>神田川と日本橋川の分岐点>三崎橋>新三崎橋>あいあい橋>新川橋>堀留橋>南堀留橋>俎橋>宝田橋>雉子橋>一ツ橋>錦橋>神田橋・日比谷通り交差>鎌倉橋>常盤橋>新常盤橋>一石橋>西河岸橋呉服橋>日本橋>江戸橋>鎧橋>茅場橋>豊海橋>隅田川>隅田川大橋西詰め>箱崎の東京シティエアーターミナル>半蔵門線・水天宮前

道三堀
道三堀。家康が城普請よりなにより、先ず最初に手がけたのはこの堀の開削工事。未だ天下人とはなっていない時期なので、天下に「お手伝い」の号令を出すこともできず、家康の家臣のみて工事を始めた。慣れぬ土木仕事に家康家臣は苦労した、とか。流路は和田倉門・辰ノ口、現在のパレスホテルのあたりから始まり大手町交差点を経て呉服橋門あたりまで。およそ1キロ程度の運河。後に日本橋川に合流することになる。
名前は、この運河の近くに徳川家の典医・曲直瀬道三邸があったから。とはいうものの現在は埋め立てられ跡形もない。であれば、日本橋川との合流点・呉服橋あたりからはじめるべし。とは思いながらも、どうせのことなら、日本橋川のスタート地点から歩を進めることにした。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

神田川と日本橋川の分岐・三崎橋


日本橋川は中世の平川、もともとの神田川のルートにあたる。つまりは飯田橋・水道橋のあたりから日比谷入江に注ぐ川筋である。現在の神田川は1620年頃の第三次天下普請により、御茶ノ水の台地を切り崩し直接隅田川に流れ込む川筋となっている。理由は、江戸のお城への洪水を避けるため。
日本橋川と神田川の分岐点に歩を進める。JR総武線・水道橋で下車。少し飯田橋に戻ると神田川と日本橋川の分岐・三崎橋。ちょっと昔まで、このあたりにJRの貨物駅があったような気がするのだが、今は都市開発ですっかり様変わりである。

堀留橋

目白通りと水道橋西通りの間を流れる川筋に沿って歩く。三崎橋>新三崎橋>あいあい橋>新川橋>堀留橋で専大通りと交差。堀留とは、川を上流から埋め立て下流部分を水路として残したものを言う。江戸のお城や日本橋への洪水を避けるため、御茶ノ水の台地を切り崩した瀬変えにともない、三崎町から九段までを埋め立てた。で、この堀留が海浜部から内地に最も入り込んだ水路。この湊町を基点に九段の台地上の旗本屋敷へ生活物資を送り込んだわけだ。

雉子橋
南堀留橋>俎橋>宝田橋>共立女子大脇の雉子橋と進む。江戸時代、唐国からの使者の接待に雉子にまさるものなし、ということで雉子を集めた小屋をつくる。その小屋近くにあった橋であったので、雉子橋と。
毎日新聞社と丸紅の脇に一ツ橋。家康入府の折り、大きな丸太一本の橋があったので一ツ橋。後に知恵伊豆こと松平伊豆守の屋敷があったので、伊豆橋と呼ばれたこともある、という。平川門に通じている。平川門は「不浄の門」とも呼ばれ、江戸城内の罪人などの運び出すときに使われた、と。刃傷事件を起こした浅野内匠頭もこの門から城外に出たと、言う。また、通常は大奥の通用門であった、とか。

神田橋
錦橋から神田橋に。土井大炊守利勝の屋敷があったので大炊殿橋と呼ばれたことも。神田橋門は将軍菩提寺の上野寛永寺への参詣の道筋でもあり、警護はことのほか厳しかった、と。現在は日比谷通り。

鎌倉橋
外堀通りとの交差点・鎌倉橋に。家康入府の折、この河岸に建築資材である木材・石材が相模の国鎌倉から数多く運び込まれたのが名前の由来。佐伯泰英さんの『鎌倉河岸』は今は高速道路に覆われている。






常磐橋

JR京浜東北線を越えれば常盤橋。三代将軍家光の頃、大橋とも浅草口橋とも呼ばれていた。しかしその名前、よろしくない、とのことで町年寄・奈良屋市右衛門が改名案を考えるように命じられた。で、家に寄宿する浪人に相談。金葉集、太夫典侍の「色かへぬ松によそへて東路の常盤の橋にかかる藤波」、これって歌の心を松平にかけて、おめでたい名である、ということで橋の名に。
江戸城外郭の正面にあたり、常盤橋御門と呼ばれる重要な門があった。橋の傍にある公園には江戸城の威容を今に伝える4mの石塁が残っている。渋沢栄一の銅像も。

竜閑橋交差点
鎌倉橋から常盤橋に進む途中、JR京浜東北線の手前で道が二つに分かれる。その分岐点の名前が竜閑橋。JRを越えるところに今川橋という交差点もある。今は川筋とてないが、往古竜閑川が神田川へと流れていた名残だろう。

一石橋
新常盤橋を越え一石橋に。橋の南北に商人・後藤家が二軒。五斗(ごとう)+五斗=一石が名前の由来。洒落ている。西詰めに「迷い子の志るべ」。江戸時代の迷い子探しの伝言板。当時このあたり、人で賑わっていたのだろう。

西河岸橋
西河岸橋。川や海に面した町屋敷・町人の「荷揚げ」の地を河岸(かし)という。で、荷揚げだけに留まらず市が立つのは自然の成り行き。水路に沿って多くの河岸ができることになる。地名を冠したもの、扱う商品を冠したものなどさまざま。西河岸周辺だけでも魚河岸、裏河岸、米河岸、四日市河岸(木更津河岸)など。行き先の地名を冠した行徳河岸も。行徳からの船便の到着する場所であったのだろう。江戸には65もの河岸があった、とか。ちなみに同じ荷揚げ場所でも武家の場合は「物揚場」と呼ばれた。

鎧橋
呉服橋から日本橋へと進む。で、江戸橋を越え、鎧橋に。明治5年に架橋。兜町(かぶと)に鎧橋(よろい)って、出来過ぎ。米や油の取 引所、銀行や株式取引所でにぎわっていた、とのこと。当時の風景を谷崎潤一郎は「兜橋の欄干に顔を押し付けて水の流れを見ていると、この橋が動いているように見える。私は渋沢邸のお伽のような建物を飽かずに見入ったものである。。。」。対岸の小網町には土蔵の白壁が幾棟となく並んでいる、といったことが案内されていた。異国情緒の景観があったのだろう。ちなみに、橋ができるまでは「鎧の渡し」と呼ばれる渡船場があった。

亀島川分岐
日枝山王神社の御旅所などにお参りし、先に進む。茅場橋を越え、湊橋の手前に亀島川との分岐が。江戸橋付近には木更津漁師の拝領地があり、木更津・銚子方面への船便で賑わった。木更津河岸と呼ばれた所以か。

豊海橋
茅場橋から湊橋。茅場は茅を扱う商人が多く住んでいたから。そして隅田川の手前に豊海橋。橋のそばに高尾稲荷起縁の地の案内。「江戸時代この地は船手組持ち場であったが、宝永年間、下役の喜平次が見回り中に対岸になきがらが漂着しているのを見つけ、手厚く葬った。吉原の高尾太夫が仙台藩伊達綱宗候に太夫の目方だけ小判を積んで請出されたがなびかず。ために、隅田川三又の船中で吊し切りにされ河川を朱に染めたという。事実かどうかは定かではない。が、世人は高尾をまつり当時盛んだった稲荷信仰と結びつき、高尾稲荷社の起縁となった」と。

隅田川
で、隅田川に到着。川沿いを隅田川大橋まで登り、箱崎の東京シティエアーターミナルを越え、半蔵門線・水天宮前で地下鉄に乗り、本日の散歩終了。
今日、何年か振りに交換した携帯のナビおよび写真を使う。案内板など写し、ミニSDをPCに移し参考にしながらメモを取る。結構イケてる散歩になってきた。