木曜日, 3月 17, 2022

予土往還 土佐街道・松山街道;久万高原町の三坂峠から松山を繋ぐ②

先回は三坂峠から三坂峠より四国遍路道と併用してきた土佐街道・松山街道(以下「松山街道」)が四国遍路道と分岐するところ、県道194号大宮神社参道口までをメモした。
今回は松山街道と四十八番札所西林寺への遍路道の分岐点から松山城下、札の辻までをメモする。
土佐街道自体は往昔の名残を留める風情など望むべくもなかったが、途中出合った重信川や石手川では、名前と河川改修を行ったという事だけは知っていた足立重信の実際の河川改修のあらまし、西林寺傍の杖ノ渕などの清冽な湧水池と重信川流域の伏流水との関係などを知ることができ、それなりに楽しい街道歩きを楽しめた。距離はおおよそ10キロ強といったところである。


本日のルート;大宮八幡神社の金平(きんぺい)狸>重信川渡河地点>広瀬霞>金毘羅標石>二里の里程標石と標石>夫婦泉>豊島家住宅>内川に架かる高橋>椿神社>小野川・上吉木橋北詰めの「一字一石塔」>石手川の立花橋>中ノ川通り>札の辻

松山街道と遍路道分岐点の茂兵衛標石から札の辻まで

茂兵衛標石;松山街道と遍路道分岐点
久万高原町より並走してきた松山街道と四十八番札所西林寺への遍路道が分岐する県道194号大宮神社参道口の三差路に茂兵衛標石が立つ。三差路正面に「左 松山道」、その側面に手印。手印が指す県道194号一筋東の土径が遍路道。土径は直ぐ切れるが、札始大師堂を経由して次の札所西林寺に向かう。
参道口の先に立派な社叢が見える。ちょっと気になり松山道を松山城下へと進む前に、参道口を西に進み大宮神社に立ち寄る。
予土往還と遍路道
この地が松山街道と遍路道の分岐点と記したが、正確には第四十七番札所の参道口辺りから県道194号を右に逸れ月見大師堂・足跡大師堂を経由して第四十八番札所西林寺に向かう遍路道もある。
また基本、松山街道は遍路道と併用ではあるが、第四十六番札所浄瑠璃寺より第四十七番札所八坂寺を経て県道に戻るまでは松山街道と旧遍路道は別ルートとなっている。

大宮八幡神社の金平(きんぺい)狸
松山街道を離れ西へと大きな石の社号標の先にある鳥居を潜り100mほどの参道を進み大宮神社に。結構な構の社。本殿に拝礼。祭神は八幡社と言えば應神天皇と思ったのだが、その他神功皇后・仲哀天皇・武内大臣・豊玉姫命・田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命と並ぶ。往古は神明宮と称え、崇峻天皇2年小千益躬が当地に奉遷し筑紫より胸肩大神(宗像三女神;田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命)を勧請、合斎し、八町歩の神地を定めて神野大宮と称したと伝わる。
境内の大木(目通り5.2m 樹高18.5m 樹齢560年)の傍に狸の焼き物が見える。結構新しい。その傍に案内があり、「恵原の金平狸  この巨大なイブキビャクシンの樹に、金森大明神という名をもつ金平狸が鎮座している。
金平狸は、どこで学問をつんだのか文字が読め、算盤も上手な学者狸であった。それに当神社宮司大西家の代々の当主によく仕えるお使い狸であったという。
「松山の城下へ用で出かけて夜遅く帰ってくると、どこからか、ぽっと提灯の灯りがさして、道を教えてくれる。あれが金平狸の出迎えじゃった。」と何代か前の宮司が語ったと伝えられている。
御篭堂?
また金平狸は、恵原の人々にも親切で、迷子や老人の世話、病人の使いなど、いろいろと尽くしたという話が残されている。
こういったことから、大明神の位を得て、金平狸は、今も人々の厚い信心を受け、立派なお堂や御篭堂が築かれている。 松山市 松山市教育委員会」とあった。 立派なお堂や御篭堂とは狸の焼き物の傍にある建屋のことだろうか。
『松山騒動八百八狸物語』
何故に「金森大明神」?全国各地に金森大明神はあるのだが、金森大明神の由来は解消されなかったが、チェックの過程で『松山騒動八百八狸物語』が登場してきた。
Wikipediaには「隠神刑部 講談本『八百八狸 松山奇談』 隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)または刑部狸(ぎょうぶだぬき)は、伊予国(現・愛媛県)松山に伝わる化け狸。『証城寺の狸囃子』『分福茶釜』と並んで日本三大狸話の一つに数えられる。
『松山騒動八百八狸物語』とは、享保の大飢饉に際して起こったお家騒動が1805年(文化2年)に実録物語『伊予名草』と題して書き下ろされ、さらに江戸末期、講釈師の田辺南龍により狸や妖怪の要素を加えた怪談話に仕立て上げられ、これが講談として広まったものである。そのために講談師の切口次第で複数のバリエーションがあるが、話の大筋は以下の通りである。
四国は狸の民話・伝説が多いが、特に松山の狸は天智天皇の時代に端を発するほどの歴史を持ち、狸が狸を生んだ結果、その数は808匹にもなった。その総帥が隠神刑部である。
隠神刑部は久万山の古い岩屋に住み、松山城を守護し続けていたという化け狸であり、808匹の眷属の数から「八百八狸(はっぴゃくやたぬき)」とも呼ばれる。四国最高の神通力を持っていたともいう。
名称の「刑部」とは松山城の城主の先祖から授かった称号であり、城の家臣たちから信仰され、土地の人々とも深い縁を持っていた。が、松平(久松)隠岐守の時代にお家騒動が起こると、隠神刑部は謀反側に利用され、子分の狸たちに命じて怪異を起こして謀叛側に助力した。
しかし怪談『稲生物怪録』で知られる藩士・稲生武太夫が、宇佐八幡大菩薩から授かった神杖で隠神刑部を懲らしめた末、隠神刑部は808の眷属もろとも久万山に封じ込められた。その洞窟は、山口霊神として今でも松山市久谷中組に残されている」とあった。
松山市久谷中組は先回、三坂峠から八坂寺へ辿る途次、関屋集落で御坂川に架かる出口橋を渡り御坂川を左岸へと移ったが、そのちょっと上流で御坂川に注ぐ久谷川の谷筋を南に辿ったところにある。
金平狸は山口霊神のある久谷の里に近いことから、隠神刑部の直系狸とも称される、とか。
因みに、四国三代狸は伊予の隠神刑部、「屋島の禿狸」こと「屋島の太三郎」、 「阿波の狸合戦」の主役「小松島の金長」とされる。共に遍路道歩きの途次出合った。
〇狸と狐
四国には狸にまつわる伝承が多い。田舎の愛媛県新居浜市にも「お女郎狸」の話が残る。それに反して、狐にまつわる伝承はあまり聞かない。その昔、弘法大師は賢い狐を可愛がっていたのだが、次第にそれを鼻にかけるようになり人を騙しはじめたので、大師が狐を四国から追放しその替わりに狸を可愛がるようになった、といった話も伝わる。
佐渡にも「団三郎狸」が狐を佐渡から追い出したといった話もある。 真偽のほどは不明だが、四国と佐渡には狐が生息しなといった記事を見たことがある。四国と佐渡では「狸話」が優勢なのはそのあたりにも因があるのだろうか。

重信川渡河地点
この道を堤防に上る
大宮神社から県道194号に戻り、松山街道を北西に進む。御坂川に架かる宮北橋を渡りしばらく進むと県道194号は併用する県道23号と共に左に折れて西進する。 松山街道はそのまま直進。重信川手前で左に曲がる道路を離れ、建屋の間を抜け重信川の堤に出る。特段、松山街道の標識はない。
堤から川を見遣る。全長36キロほどの川にしてはその川幅は結構広い。また水は伏流水となるのか水量は乏しい。河床に下りて彷徨う。少し足を濡らす程度で対岸に渡河できそうではあった。
重信川
重信川は足立重信の名に由来すること、足立重信はこの重信川や石手川の改修に尽力したことは漠とは知っているが、詳しいことは何も知らない。いい機会でもあるのであれこれチェックする。
旧流路
重信川の旧流路
足立重信が河川改修した重信川であるが、河川改修以前の流路はどのようなものであったのだろう。護岸工事がなされているわけでもなく、洪水の度に流路を変え自在に流れていたのではあろうが、本流の流れについて伊藤博一さんの『重信川の歴史』にはその流れは三期に分けて説明されている。尚、河川改修前の重信川は伊予川と称された。
第一期;850年前から550年前頃まで
この時期の伊予川の流れは現在の新横川原橋辺りから、現在の重信川の北を西進し、中川原橋の手前で現在の重信川をクロスし、更に西進し、正木城址(伊予郡松前町筒井)のある辺りで伊予灘に注ぐ。
第二期;550年前から400年前頃まで
この時期の流路はふたつにわかれている。一つは新横川原橋辺りより、第一期の流れの南を現在の重信川右岸に沿って西進し、重信大橋辺りで重信川をクロスし砥部の赤坂和泉(伊予郡砥部町重光)に至る。もう一流は重信川の左岸の山麓近くを西進し赤坂和泉に至る。この地ので合流した伊予川は西進し正木城址の辺りで伊予灘に注ぐ。
第三期;400年前から300年前頃まで
この時期は400年前から300年前頃までの第三期前期と300年前の第三期後期に分かれるが、いずれも重信川左岸、第二期より少し北を西進し、赤坂和泉に至り、そこから第一期と第二期の流路の間を西進し正木城址の辺りで伊予灘に注ぐ。 現在の県道214号八倉松前線が微高地となっている。第二期か第三期か不詳だが往昔の伊予川自然堤防ではとも言われている。

かつての伊予川の流れはほぼ西進している。現在の重信川は足立重信の河川改修時の流路とされるが、地図を見ると赤坂和泉辺りから瀬替えを行い、流路を北西に変える。その河川改修された流路は現在、中川原橋手前で重信川に合流する内川の流路を活用したものと言う。
その先の出合で、これも河川改修で南西に下ってきた石手川を合わせ、西進し伊予灘に注ぐ。その間12キロに渡る新川を開削し堤防を築き、流域に耕作地を開いたとのことである。
河川改修前後の伊予川・重信川の流路を見ていると、河川改修前の伊予川はすべて松前城(正木城)辺りへ流れ下っている。足立重信が藩主加藤嘉明の命により工事に着手した当時の居城は松前城(正木城)。河川改修は城下を水害から護るための目的も結構大きかったのではと思う。
加藤嘉明が居城を松前城(正木城)に転じたのが文禄 4 年(1595 )。工事着手は、慶長 3 年(1598 年)頃と推定されている。
石手川
現在重信川に合流する石手川(元の名は湯山川)も、往昔の流路は道後から南堀端、二番町といった城下を抜ける流れ、また城山の北を廻り南に折れる二つの流れに分かれ、そのふたつの流れは南江戸で合流して西進し伊予灘に注いでいたという。城山南の流れは現在の中の川、城山北の流れは現在の宮前川の流路がそれと言う。
松前城(正木城)が手狭になり、現在の松山城へと移るに際し、これまた城下町を洪水から護るため石手川(湯山川)の流路を変える命が足立重信に課され、石手村の数十メートルといった巨大な岩盤を切り崩し、流れを南西に移し重信川に繋げた。
重信川も石手川の改修工事も共に城下町普請と関係しているのが面白い。工事は、慶長 5~6 年(1600 年~1601 年)頃着手と推定されている。
広い川幅と伏流水
上述の如く、全長36キロという河川の割に川幅が結構広い。また、洪水を引き起こす川というが、川にはほとんど水がない。これってどういうこと?チェックする。
重信川(しげのぶがわ)は東温市付近を扇頂として広大な扇状地(道後平野)を形成している。その水源地である東三方ヶ森は、中生代白亜紀領家帯の花崗岩および中生代白亜紀和泉層群の頁岩・砂岩・礫岩などよりなる山地であり、これらの岩質は非常に脆く、雨風によって風化し砂礫となる。
また、重信川は典型的な荒廃型河川であり、水源地帯の山地が崩壊性の地質からなっている。中央構造線上の活発な地すべり地帯にあるということだ。 更に水源地の山地からの流路延長が短く河床勾配が急であるため、一旦大雨が降ると崩れた大量の岩や小石が急流によって押し流され堆積する。
重信川が大河の様相を呈するのは、扇状地を自在に流路を変え、大量の岩や小石を伴い繰り返された氾濫によるものであろう。
また河床にほとんど水が見えないのは伏流水となっているため。大雨で大量の岩や小石が上流域から押し流され、水が引くと河床に堆積する。また大雨時で大量の岩や小石が上流域から押し流され、水が引くと河床に堆積。このプロセスが地質年代を通じて繰り返された結果、重信川の河床は上がり、水は表面から姿を消し、粒の粗い土砂の堆積した層、つまりは、水が川の底を潜る伏流現象が発生し、伏流水として地下を流れているような状態になっているのだろう。
水が流れないため上流より押し流されてきた岩や小石がたまり、岩や小石がたまれば河床が上がり、川床が上がれば水は岩や小石の下を流れる。この繰り返しによって河床にほとんど水がみえない状態になっている、という。

広瀬霞
渡河できないこともなさそうだが、靴が濡れるのもなんだかなあ、と下流の重信橋まで堤を進み対岸に渡ることにする。
堤を少し下流に進み、堤防が一旦切れ、その先に重信橋へと続く堤防に沿った道との間の切れ目に「広瀬霞再生プロジェクト」の案内があり、河川工事で埋め立てられた広瀬霞を、かつての自然豊かな湿地環境に戻すプロジェクトの概要が示されていた。

霞堤(Wikipedia)
広瀬霞?ひょっとして霞堤のこと?チェックすると広瀬霞は足立重信の河川改修時に堤防を強化し氾濫を抑える水制工法のひとつである霞堤のことであった。 Wikipediaには「連続する堤防ではなく、あらかじめ間に切れ目をいれた不連続の堤防が主である。不連続点においては、上流側の堤防が下流側の堤防の堤外(河川側)に入れ込み、堤防が重複している」とある。


とは言い条、堤防と広瀬霞、そして道路の間の切れ目がちょっと気になる。洪水時ここから水が氾濫しそうである。往昔草地が広がっていたときは遊水地として機能するとは思うのだが、現在は建屋が多くある。大丈夫?
霞堤手前の堤防切れ目
「重信川水系河川整備計画」には、「重信川には、急流河川において用いられる歴史的な治水方式である霞堤(堤防を不連続な二重構造として開口部を存置している箇所)が 9 箇所あり特徴のひとつとなっているが、9 箇所の内、5 箇所(市坪・古川ふるかわ・井門い ど ・広瀬・中野)の霞堤は、計画高水流量規模の洪水が流下した場合には、霞堤の開口部からはん濫(重信川本川の洪水が溢れること)が生じて、家屋浸水被害の発生が想定され
る。このように不完全な霞堤については、はん濫による被害の防止に向け、上下流いずれかの堤防の延伸、あるいは堤防締切り等による対策を講じる必要がある」とあった。そうだろうな。
広瀬
広瀬の集落は重信川の左岸にあるが、藩政時代の地籍は浮穴郡浮穴というから、高井、森松、井門と同じく重信川右岸と同じ集落。現在は重信川を挟んで飛び地となっているが、昔の行政区画は川などの自然がその境であったとすれば、往昔、伊予川は広瀬の南を流れていたことになる。上述古い時代の伊予川が現在の重信川より南を流れていた証左でもある。
ついでのことながら、伊予市と砥部を跨ぐ八倉という集落は集落の中央で地籍が二分されている。西は伊予郡南伊予村分(現在の伊予市の東端)、東は伊予郡原町村分(現在の伊予郡砥部町の北部)。かつての伊予川は八倉の集落を分けて南に下っていたのだろう。
更に石手川が重信川に注ぐ先、重信川右岸の垣生、余土もかつての伊予郡。明治の頃に温泉郡に移った。ということは、伊予川は垣生、余土の北を西流していたことになる。流路から見て上述第一期の伊予川流路ではなかろうか。

金毘羅標石
重信橋を渡り重信川右岸を、渡河点辺りまで戻る。なにか目安となるものがないものかと堤を彷徨する。と、堤下に石柱が見える。
堤を下りて石柱を見ると、「上こんぴら道 文化十年*十月吉日」と読める。証左はないが、標石がある以上、この辺りが渡河地点であったのかも知れない。



二里の里程標石と標石
次の目安は重信大橋北詰近くにあると言う二里の里程標石と標石。堤防より一筋北の道を西進する。重信橋に続く県道194号をクロスし、重信大橋の北詰、国道397号の手前に二里の里程標石と標石が立つ。
里程標には「松山札の辻より弐里」と刻まれる。傍の標石には正面に「がさぬきみち川上江三里」、側面には「大洲宇和島道 郡中江百町」とある。「えひめの記憶」には「左に村中安全、世話人は夫婦泉を掘った吉良彦九郎ら六人の名があり、石工は松前の中矢又吉である。郡中江二里とせず百丁としたのは、当時大洲藩では五十丁が一里、松山藩では三十六丁を一里としたためであろう。建立は明治四年(一八七一)である」と記す。
金毘羅街道
東温高校地域研究部が著した『東温地区の旧街道』には「大洲・宇和島地方の人々が松山平野を経由して讃岐に行くのが、この金毘羅街道である。この街道は八倉と森松の間で重信川を渡り、重信川の右岸にそって横河原まで至り(中略)。 森松の街の西に夫婦泉があるが、その泉の少し東側で、松山から高知に至る土佐街道とこの金毘羅街道は交わっている。この三叉路のところには、二本の道標が立っている。一本は「松山札辻より2里」の土佐街道の里塚石であり、他は「さぬきみち 川上江3里,大洲宇和島道 郡中へ百丁Jの金毘羅街道の道標である。
この道標からして,この金毘羅街道も,一名讃岐道ともよばれ、また逆に向う場合は大洲宇和島道と、通行人の向う方向によって呼びわけられていたととがよくわかる。 旧道は森松の街村を横切ると新田の集落で重信川の堤防に出る。しばらく行くと尾海家の前に 上こんぴら道」の道標が立っている。ここは土佐街道が重信川を渡る以頼の設しのあったところであり,金毘羅街道はここから土佐街道とは別れ,一路重信町の南野田まで重信川の土手をさがのぼっていく」と記す。
上述金毘羅標石はこの地より重信川に沿って進む金毘羅街道を指すものであり、また重信川の渡船箇所であったとのメモも間違っていなかったようだ。

夫婦泉
標石の所を右折、直ぐ左折し国道のアンダーパスを抜ける。道の直ぐ南に夫婦泉がある。
中土手を挟み北泉と南泉よりなる和泉と北泉を「ひや泉」、南泉を「ぬく泉」と呼ぶ。南泉の方が2度ほど水温が高いゆえとのこと。
上述標石の銘に吉良彦九郎ら六人によって掘られたとあったように、この泉は人工的に掘られたもの。北泉は1724年、南泉は1757年に掘られたもので、人工的に掘られた泉としては最古のものと言う。
面白いのはこの泉の水は重信川を埋樋(暗渠)で横切り、対岸のかつての伊予郡松前町徳丸地区の耕地を潤したとのこと。
埋樋
川の暗渠って面白い。他にないかとチェックすると、「えひめの記憶」に「扇状地上を流れる重信川は雨季を除けば、河床に深く浸透して水無川を形成している。そのため右岸の重信町見奈良地区のかんがい用水は、川を隔てた川内町吉久地域のお吉泉や、表川(重信川の支流)に設けられた見奈良井堰に求めている。
この水は、延宝年間(1673~1681年)に築造された埋樋(暗渠)によって重信川の底をくぐって導水されている。築設された当初の埋樋は、単なる溝(みぞ)であったが、その後松板の樋(とい)となり、さらに石樋となり、現在では、松山自動車道の通過によってコンクリート製となっている」とあった。
暗渠とは言い条、当初は単なる溝であったようだ。水無川ゆえ可能となったのだろう。
杖ケ渕の湧水
重信川の流域には、南・北吉井(よしい)・平井(ひらい)・高井(たかい)・石井(いしい)・井門(いど)など)など井戸に因んだ地名が多い。井戸を掘り伏流水を汲み上げたのだろう。
それとともに自然湧出の泉も多い。遍路歩きの途次出合った、西林寺近くの杖ケ渕が記憶に残る。その地は伊予川第一期の流路上である。







豊島家住宅
国道397号を潜った土佐街道は北西に直進。正面に松山道のインターチェンジがあるが、道はインターチェンジへのアプローチ下を潜り少し進んだ後北に向きを変える。
少し進むと、道の右手に立派な構えの民家が見える。豊島家住宅と地図に載る。 Wikipediaには「豊島家住宅(としまけじゅうたく)は、愛媛県松山市にある歴史的建造物(民家)。国の重要文化財に指定されている。
中予地方の豪農で大庄屋格であった豊島家の邸宅である。1758年(宝暦8年)に建設された主屋(おもや)と表門、長屋門、長屋、米倉、衣装倉、中倉の計7棟が重要文化財に指定されている。
豊島家には、藩の軍用馬の飼育が命じられ、馬屋が設けられていた。現存する長屋は、もとの馬屋を後に居室に改造したものである。また、当家は幕府の巡見使の宿泊所にも使用され、巡検使が滞在した座敷が残されている。主屋は、奥の居室部と手前の座敷部を雁行形に配し、これらを相の間で繋いで一体化し、それぞれに入母屋造屋根を架けた複雑な構成に特徴があり「井門の八棟造り」(いどのやつむねづくり)と呼ばれる。
1970年6月17日に国の重要文化財に指定され、主屋は1972年から1974年にかけて、表門等の付属建あ物と塀は1977年から1979年にかけて、それぞれ解体修理が行われた」と記される。

内川に架かる高橋
豊島家住宅から少し北に進み内川に架かる高橋を渡る。南詰めに小祠が佇む。
内川は横川原橋の北、日吉谷を源流域とし、南西に流れた後、野田の辺りから緩やかに蛇行しながら西進し、中川原橋手前で重信川に合流する。上述の如く合流点下流は元は内川の流路であったとの記事もある。また、重信川との合流点までの内川の流路は上述、伊予川と呼ばれた元の重信川の第一期、今から850年から550年前の流路とほぼ一致するように思える。
高橋からふたつ下流の立石橋の北詰に自然石に刻まれた子規の句碑がある。「内川や 外川かけて 夕しぐれ」。外川は重信川のことと言う。

松山外環状道路を越える
昌福寺境内
松山外環状道路
高橋を渡り北進し、直ぐ右に折れ松山インターへのアプロ―チの下を潜る。アンダーパスを出ると昌福寺。その前を右折し松山インターへのアプロ―チ東側を北進し松山外環状道路を越え更に北進。その先小川にあたると川筋に沿って北西に進むと大きな鳥居が建つ。土佐街道は北進するが、椿神社にちょっと立ち寄り。

椿神社
椿神社は愛称を込めて「お椿さん」と呼ばれる。今は無き祖父母はお椿さんの例祭には欠かさず詣でていたように思う。一度ならず連れて行ってもらった記憶がうっすら残る。お椿さんより、当時は舗装もされていない山峡の道をバスでを抜けた桜三里での怖かった思いが今に残る。
それはともあれ、Wikipediaには「伊豫豆比古命神社(いよずひこのみことじんじゃ)は、愛媛県松山市居相町にある神社。式内社、旧社格は県社。神紋は十六弁八重表菊。地元では椿神社、お椿さんとも呼ばれている。
祭神;
伊豫豆比古命(男神・いよずひこのみこと)
伊豫豆比売命(女神・いよずひめのみこと)
伊与主命(男神・いよぬしのみこと)
愛比売命(女神・えひめのみこと)
愛媛県の県名は愛比売命から名づけられており、都道府県名で神名を使用しているのは愛媛のみである。
概要;
往古、神社の周は海で、津(海の意味)の脇の神社「つわき神社」が時が経るにおいて「つばき神社」に変化したという、また、神社の周りに藪椿を主に各椿が自生していることからも、そのように呼ばれるようになった。
社伝では、孝霊天皇の御代に鎮座したとされ、昭和37年(1962年)には御鎮座2250年祭が、平成24年(2012年)には御鎮座2300年祭が行われた。
延喜式神名帳所載の伊豫豆比古命神社(小社)に比定されるが、名神大社の伊豫神社に当てる説もある。ただし、伊豫神社に比定される有力な論社は伊予郡松前町の伊予神社である。
江戸時代には松山藩主・久松氏の篤い崇敬を受けた。現在では縁起開運の神として、崇敬者は全国に広がるという」とある。
因みに、孝霊天皇は欠史八代(けっしはちだい、闕史八代、缺史八代)の天皇のひとり。「初代神武に次ぐ第二代綏靖天皇から第九代開化までの天皇を指す、歴史学の用語。『古事記』や『日本書紀』にその系譜が記されている初期の天皇の系譜は、その多くが後世の創作によるものと見られ、欠史八代の天皇が実在した可能性は学術的にはほぼ無いとされる」とWikipediaは記す。

小野川・上吉木橋北詰めの「一字一石塔」
参道口まで戻り、北進する松山街道を進む。ほどなく道は小野川の堤防に当たる。堤防に沿って少し下流に進み小野川に架かる北吉木橋を渡る。橋の北詰、道の左手に「一字一石塔」が立つ。「天下泰平・当橋永久・五穀成就・往来安全」と刻まれるこの石塔が立つ地は天山。
里程石の記録には、一里の里程石は久米郡尼山村と記される。「えひめの記憶」には、「『松府古志談』に「宝暦三癸酉年、久米郡尼山、天山卜改度旨村方ノ願ニテ御免」」の記事がある。村人の願いで尼山を天山と改めたということであり、この辺りにあったのだろうが現在は喪失している。
一字一石塔
経典を小石に1字ずつ書写したもの。追善,供養などのために地中に埋め,その上に年月日,目的などを記した石塔の類を建てることが多い。江戸時代に盛行した、とコトバンクにある。

石手川の立花橋
上吉木橋より道なりに北進し松山環状線にあたる。そこから一筋西の道筋に入り更に北上し伊予鉄横川原線をクロス。軌道敷地内に小祠。その先にも小祠。三界萬霊の台座に石仏が佇む。いまひとつ情緒のない松山街道ではあるが、道端に小祠があるだけで、なんだか往昔の往還を歩いている感を得る。

石手川の立花橋
その先、石手川手前で少し広い道路に合流する。石手川に架かる橋は立花橋。立花橋を渡ると石手川緑地。道の左手緑地の中に立花橋の親柱が残されていた。「明治廿二」の文字が刻まれていた。

中ノ川通り
松山街道は立花橋を北進し河原町交差点で左折。水路のある中ノ川通りを西進。水路が切れた先末広町交差点を右折し、松山市駅で直ぐ左折し北進し南堀端交差点に出る。正面は松山城のお濠である。
既にメモしたが、往昔の石手川(湯山川)はこの南堀端辺りを西進した。お濠も瀬切れされた石手川の流れを活用したとも聞く。
中ノ川
湯渡橋から見た石手川齋院樋堰
石手川齋院樋堰で取水された中ノ川
中の川は石手川の分流。岩堰の大岩を穿ち南西へと流れるように瀬替えされた湯山川(元の石手川)の流路跡を活用し、城のお濠に導水するため足立重信が整備した河川である。
現在の流路は石手の湯渡橋のすぐ下流にある石手川齋院樋堰より取水され新立、錦町を経て河原町、湊町、永代町へと西流する。上でメモした中の川通りは、この河原町、湊町、永代町を流れる中の川に由来するのだろう。
宮前川に中ノ川が落ちる
城山北を進む宮前川
更に西流した中の川は松山市下水道中央浄化センターのある南江戸で宮前川に合流し三津浜で伊予灘に注ぐ。
中の川も宮前川も石手川が瀬替えされる以前、湯山川と呼ばれた頃の流路跡と言う。中の川は上述の通りであるが、宮前川は岩堰より現在の石手川から分かれ道後から城山北に進み、そこから西進し、伊予鉄古町駅辺りで流路を南に変え、上述浄化センターで中の川を合わす。

札の辻
南堀端交差点を左折し南堀端通りを西進。お濠が北に延びる西堀端交差点を右折し西堀端通りを北進。北に延びるお濠が東へ入り込む札の辻交差点を右折。交差点の東、お濠傍に「松山札ノ辻」「松山藩道路元標」と刻まれた石碑が立っていた。石碑は結構新しい。。昭和四六年の復旧とのことである。
札の辻とは藩の高札場(掲示板)のあったところである。
札ノ辻の石碑の傍に、札ノ辻から伸びる街道の里程が示されていた。
札ノ辻よりの各街道里程
金毘羅街道;小松まで十一里 金毘羅 三十一里
土佐街道;久万まで六里 土佐二十五里
大洲街道;中山まで七里 大洲 十三里
今治街道;北條まで四里 今治 十一里
高浜街道;三津まで一里 高浜 二里

土佐街道だけでなく、東温市の川上宿から桜三里を丹原まで辿った金毘羅街道歩き、松山から今治へと歩く遍路道を兼ねる今治街道でも里程標石に出合った。土佐街道に限らず、各街道にこの札ノ辻からの里程石が立っていたのだろう。
札之辻から延びる各街道の里程を見ながら、いつだったか内子で松山街道の標石に出合ったことがあり、この松山街道ってどういったルートなのだろうと思ったことを想い起こした。内子から見れば松山街道ではあろうが松山からみれば大洲街道かとも思う。なんとなく大洲街道を歩いてみたくなった。

ともあれ、これで予土往還 松山から向かえば土佐街道、高知から向かえば松山街道をすべて繋いだ。土佐の高知の城下から伊予の川之江を繋ぐ土佐北街道は土佐藩主の参勤交代の道でもあり、それなりに標識の整備がなされ、また山道も踏まれたところが多かったが、松山と高知を繋ぐ予土往還には少々手こずった。
久万高原町から予土の国境を越える辺りまでは街道ルートの調査がなされており、標識も整備されているのだが、如何せん人が歩いておらず、踏み跡がほとんどない藪であった。
うんざりするほど藪漕ぎを続け、予土国境を越えた先では藪に阻まれ下山途中で日没。夜間に山中を彷徨うといった体験もした。予土国境を越えた先は、整備予算のついた鈴ヶ峠から仁淀川の谷筋の横畠までは標識も整備され、一部藪を抜けることもあったが基本道も踏まれていたが、それ以外は土佐街道を証する標識は一切見当たらなかった。特に山越えをした越知の町から高知までは標識は何もなく、なんとなくそれらしき道筋を辿っただけとなった。
とはいえ、これで一応予土往還 土佐街道・松山街道のメモを終える。もう一度行こうと誘されても、躊躇する街道歩きではあった。

水曜日, 3月 16, 2022

予土往還 土佐街道・松山街道;久万高原町の三坂峠から松山を繋ぐ①

予土往還 土佐街道・松山街道歩きも、残すところ久万高原町の三坂峠から松山の城下をつなぐだけとなった。距離は20キロほどだろうか。
今回三坂峠から松山を繋ぐが、四国山地が道後平野へと落ちる片峠である三坂峠を下り、御坂川が四国山地から道後平野に出る辺り、四国遍路第四十六番浄瑠璃寺、第四十七番札所八坂寺が建つ松山市浄瑠璃町、松山市恵原町までの予土往還 土佐街道・松山街道は四国遍路道を兼ねる。
三坂峠から八坂寺までの遍路道は既に歩き終えている。三坂峠から八坂寺辺りまで、9キロ強の土佐街道はその時の遍路歩きのメモを加筆修正することとし、今回は八坂寺の少し先、土佐街道・松山街道が遍路道と分かれるところから松山城下の札の辻を目指すことにする。札の辻まで11キロほどだろうか。
この間、往昔の土佐街道の名残を残すものはほとんどなかった。重信川を渡る国道379号・重信大橋の少し北に建つ「二里」の里程標石が僅かに当時の面影を残す。また、この間に土佐街道の標識は何もなく、特段土佐街道と比定されている道筋も示されていない。今回辿ったルートも、あれこれ記事をチェックし、それらしき道を辿っただけである。
予土国境を越え、高知の城下を繋いだルートも、山間部は激しい藪ではあるが、一応比比定された土佐街道・松山街道の道筋は示されるが、里に下りてから高知の城下までは往昔の往還を示す名残は何も見当たらなかった。
往還としての役目を終えた道指ゆえ、特段今に残す必要もないのだろうが、ちょっと残念な気がする。
三坂峠と松山城下を繋ぐ予土往還 土佐街道・松山街道は2回に分けてメモする。一回目は三坂峠から遍路道を兼ねて進む予土往還が第四十七番札所の先で遍路道と分かれるところまでをメモする。


本日のルート;三坂峠>見晴らし処>鍋割坂>久万街道の案内>一ノ王子社跡>洗(あらい)の観音様>久谷の里に出る>旧遍路宿坂本屋>桜集落の常夜灯>桜橋>網掛け石>榎集落の馬頭観音>「一遍上人修行の地」の案内>(一遍上人窪寺閑室跡)>(一遍上人窪寺年仏堂と歌碑)>四里・里程標>伊予鉄・丹波バス停>子規歌碑と「一遍上人窪寺御修行之旧蹟」>圓福寺>出口橋>久谷支所出口出張所の道標>大黒座>国道33号分岐点の道標と常夜灯>札所46番浄瑠璃寺>浄瑠璃町の金比羅常夜灯>札所47番・八坂寺>愛媛最古の道標>道標>文殊院>「左八塚道」の石標>八塚古墳



旧三坂峠;標高715m
国道440号脇、「右 へんろみち 左 松山道 浄るり寺へ二里 明治廿三年六月建立 鈴木覚蔵」と刻まれた遍路標石より国道を右に逸れ、土径の道を進む。右手一段高いところに佇むお地蔵さまに手を合わせ先に進むと、三坂峠から札所46番浄瑠璃寺、47番八坂寺の先辺りまでのルート案内がある。
更に先に進むと、道脇に「四国八十八カ所へんろの旅」の案内。「四国八十八カ所へんろの旅;四国八十八カ所へんろの旅は、阿波の発心の道場(1-23)に始まり、土佐の修行の道場(23―39番)を経て、伊予の菩提の道場(40-65番)に入り、讃岐の涅槃の道場(66-88番)を巡って結願となります、全行程約1440km、なだらかなみちもあれば、険しいみちもあり、あかたもわたしたちの人生に似ているようです」とある。
先日テレビの番組で、「阿波で悟りの心を思い立ち、土佐の海岸線に沿った長丁場で修行の心を鍛え、伊予の山懐を辿る遍路みちで煩悩を解き悟りの心を養う」と言った解説がされていた。

ほどなく三坂峠の案内。「標高720メートル 久万高原町 伊予と土佐を結ぶ土佐街道にある急峻な峠です。江戸初期に久万の商人山之内仰西によって拓かれました。明治27年に三坂新道(国道33号)ができるまで、この道が松山と久万を結ぶ主要道でした。峠からは松山市内が一望でき、茶屋もあり、久万山馬子や四国遍路をはしめ多くの旅人が行き交ったことが絵図からわかります」とあった。
札所45番岩屋寺からこの三坂峠までの遍路道は、44番大宝寺の方向に少し逆戻りし、有枝川の谷筋の河合から千本峠を越え、高野の集落を抜け久万高原町西明神に出る。そこからは国道33号の道筋を三坂峠まで進むおおよそ10キロ程度の行程であった、とのことである。

峠は切り通しとなっており、切り通しの上にはお地蔵様が佇むとのこと(「えひめの記憶」)。常光寺(松山市恵原町)の僧が文政9年(1826)、四国・西国霊場巡拝記念に造立したものと言うが見逃した。
で、人馬や遍路や往還したこの三坂峠、藩政時代には要害の地として幕末動乱期には砲台を据え付け、備えを固めた、と。ということは、松山の城を棄てこの地まで後退し敵に備えようとした、ということだろうか。ちょっと弱気?

久万の商人山之内仰西
三坂峠を拓いたとの案内のあった山之内彦左衛門翁(仰西は仏門に入ってからのもの)であるが、久万高原町に今も残る「仰西渠」でも知られる。久万川との川床の格差が10mもあり、豊かな久万川の水を耕地に引くことができず困っていた村人のため、私財を投げ打ち、農業用水路を開削した。岩盤を穿ち幅1.2メートル、深さ1.5メートル、途中約12メートルの隧道を通し全長さ57メートルの水路を3ヶ年の歳月をかけてつくった、と。

「えひめの記憶」に、岩を掘るときに出来る石粉1升と米1升を交換するという約束で多くの人夫を雇ったという契約があったという記述があったが、なかなか面白い。とはいうものの、岩山は安山岩という固い岩で、半日で1升の石粉が出来かねるという大変苦しい工事だった、と言う。時期は明確でないが、江戸時代の明暦年間(1655~1658年)から寛文年間(1661~73年)ころともいわれている(「えひめの記憶」より)。「仰西渠」には先回の散歩で出合った、

見晴らし処;
三坂峠の案内のあった辺りは杉林で覆われ見晴らしはよくないのだが、切り通しを過ぎ杉林の中の道を7分ほど下ると右手の視界が開け松山や瀬戸の海と島々が一望のもと。「えひめの記憶」によれば、この景観を、「真念は『四国邊路道指南』で、「此峠より眺望すれバ、ちとせことぶく松山の城堂々とし、ねがひ八三津の浜浩々乎たり。碧浪渺洋、中にによ川と伊与の小富士駿河の山の(ご)とし。ごヽ島、しま山、山島、かすかずの出船つり船、やれやれ扠先たばこ一ぷく」と描写している。また、野沢象水も『予陽塵芥集』で、「此往来の道に御坂峠と云あり 登々たる山路の絶頂にて 遠見の眺望限なし3)」と述べており、多くの旅人もここからの眺望を楽しみ、長旅の労苦をいやしていた様子がうかがえる」と描く。
真念
「えひめの記憶」をもとに真念についてまとめておく。「四国遍路が一般庶民の間に広まったのは江戸時代になってからといわれる。その功労者の一人に真念がいる。その真念の出自や活動については、「ほとんど皆目といってよいほど明らかでない。
真念の著作(『四国邊路道指南(みちしるべ)』・『四国?礼功徳記(へんろくどくき)』)や、真念たちが資料を提供して寂本が著した『四国礼霊場記』の叙(序文)や跋(ばつ)(後書き)に拠れば、『霊場記』の叙に、著者寂本は、「茲に真念といふ者有り。抖?の桑門也。四国遍路すること、十数回」と讃え、また『功徳記』の践辞でも木峰中宜なる人物が、「真念はもとより頭陀の身なり。麻の衣やうやく肩をかくして余長なく、一鉢しばしば空しく、たゝ大師につかへ奉らんとふかく誓ひ、遍礼(へんろ)せる事二十余度に及べり」と記している。
あるいはまた『功徳記』の下巻で「某もとより人により人にはむ、抖?の身」とみずから書くように、真念は頭陀行を専らとする僧であり、なかでも弘法大師に帰依するところきわめて深く、四国八十八ヶ所の大師の霊跡を十数回ないしは二十数回も回るほどの篤信の遊行僧だった。あるいは高野山の学僧寂本や奥の院護摩堂の本樹軒洪卓らとのつながりから推して高野聖の一人だったと解してもよいだろう」とある。
野沢象水
野沢象水(一七六一~一八二四)は名を弘通、通称を才次郎といい、藩の軍事師範となった。はじめ堀河学を、晩年に宮原竜山について朱子学を研究した。彼の本領は兵学にあり、剣術・槍術・弓術・兵法に精通して、その名を知られた(「えひめの記憶」)。

鍋割坂;標高666m
見晴らしのいい箇所を越えると往昔の石畳らしき面影を残す急な下りとなるが、この坂を鍋割坂と呼ぶ。旧三坂峠から10分ほど。
どかつて行商の金物屋が商売用の鍋(なべ)を石畳に落として割ったことが、坂名の由来。そのいわれを記した石碑が立っている。そこには、「仰西翁偉績」と刻まれる。仰西翁とは前述の山之内仰西翁のことである。

久万街道の案内
木々に覆われた堀割状の道を2分ほど進むと「久万街道」の案内。大きく曲がった道は石垣が残る。案内には「この道は、明治25年、旧国道(33号)が開通するまで、上浮穴郡、高知を結ぶ重要な街道で、生活に欠かせない道であり、多くの旅人が歩んだみちでもあります。そして45番岩屋寺、46番浄瑠璃寺を打ち終えた遍路たちが、次の札所へと向かったみちでもあるのです。
また、むかしは高知への最大の難所であり、三坂馬子唄にも「むごいもんぞや久万山馬子はヨー、三坂夜出て夜戻るヨー、ハイハイ」と歌われ、その往復には一昼夜もかかったそうです」とある。

一ノ王子社跡:標高424m
道を下り細い沢筋を越え20分弱を下ると四阿(あずまや)の休憩所がありそこに「一ノ王子跡」の案内があった。旧三坂峠から35分ほど。
案内には、「この休憩所には、かつて一ノ王子があったといわれています。王子とは熊野信仰に由来する三十三または九十九カ所の小さな社です。(一から順番に参詣していきます)。
中世から近世にかけて石鎚信仰に熊野信仰が結びつき、ここから石鎚山頂までの道に王子が続いていたと言われています。(現在は道は消滅、王子は所在不明です)。現在は石鎚登山道西条側にのみ三十三王子が残っています(三坂峠遍路道トレッキングコース)」とある。

いつだったか、石鎚山中、標高に建つ成就社に上ったことがある。現在はロープウエイを利用できるが、往昔の石鎚参道はロープウエイ手前の河口(こうぐち)から山麓の成就社に向かっていた。今宮王子道と呼ばれるこの参詣道は河口から尾根へと上り成就社へ向かう。距離は6キロほど、およそ3時間の行程である。尾根道の途中に今宮といった地名が残る。昔の集落の名残だろう。
復路は成就社より黒川谷へと下りた。こちらも距離は6キロほど。この黒川道は札所横峰寺より石鎚山に上る参詣道でもある。
今宮王子道にはその名の通り王子社が佇む。河口から成就社まで第七四手坂黒川王子社から第二十稚児宮鈴之巫女まで続く。第一福王子社から第六子安王子社までは既に歩いている()。そのうちに石鎚頂上に鎮座する三十六の王子社の祠まで辿っていようと思う。
ついでのことではあるが、いつだったか熊野古道を歩いたことがある。そこには九十九王子があった。『熊野古道(小野靖憲;岩波新書)』によれば、熊野参拝道の王子とは、熊野権現の分身として出現する御子神。その御子神・王子は神仏の宿るところにはどこでも出現し参詣者を見守った。
王子の起源は中世に存在した大峰修験道の100以上の「宿(しゅく)」、と言われる。奇岩・ 奇窟・巨木・山頂・滝など神仏の宿る「宿」をヒントに、先達をつとめる園城寺・聖護院系山伏によって 参詣道に持ち込まれたものが「王子社」、と。石鎚の王子社の由来もまた、同様のものであったのだろう。

洗(あらい)の観音様
一ノ王子社跡を過ぎると「伊予路のへんろ道」の案内。「伊予路のへんろ道 伊予路の春は、「おへんろ」さんの、鈴の音で始まります。800年あまりの伝統をもつ四国へんろは、わたしたちの身近な所に、すぐれた史跡やそぼくな民俗、風習を今も残しています。この「へんろ道」もそのひとつです。40-65番の26か寺を結ぶ伊予路のへんろ道は、約337kmもあります」と案内にあった。
案内板からほどなく山道は終わり、簡易舗装の道になる。空は開け、集落へと道を進む。道脇に石仏が佇む。旅の途中に倒れた遍路を供養する。元治2年(1865)のものと言う。
さらに下るとこれも道脇に小さな祠。メモの段階でチェックすると、「洗(あらい)の観音様とのこと。旧三坂峠からおおよそ45分ほどかかった。
洗の観音様の由来はわからない。わからないが、洗の観音様は全国にあるようだ。東京では巣鴨の「刺抜き地蔵」も「洗い観音」と言われる。聖観世音菩薩に水をかけ、自分の身体の悪いところを洗うと治るといった信仰からくる、と言う。
因みに、逆に「不洗観音」様もあるようだ。この観音様に安産祈願すれば三日三晩水を使わなくても身体が清潔に保たれ、かわいい子に育つ、とか。民間信仰のバリエーションの豊富さは誠に興味深い。

久谷の里に出る
洗の観音様を越えると2分ほどで民家のある里に出る。窪野町桜の集落である。木標には「46番 浄瑠璃寺 5.9km三坂峠2.6km」とある。左手に棚田を見ながら進むと、久谷地区の案内。久谷町はこの窪野町の西側にあるが、「久谷」地域は町の行政域を超えた、この辺り全般を指すのだろう。
案内には「久谷 久谷地域には、遍路文化が色濃く残っています。四国霊場四十六番浄瑠璃寺、四十七番八坂寺をはじめ、遍路発生の伝承が残る文殊院や八塚もあります。へんろ路沿いには多くの道標や遍路墓、石仏、常夜灯なども残されています。
また、時宗始祖の一遍上人が修行した窪野地区、中世城郭の遺構荏原城・新張城跡などもあります。文化と歴史、自然あふれた、久谷地区を歩いてみましょう(三坂峠遍路道トレッキングコース)」と久谷町域を超えた案内があった。 久谷とは「長い(久)谷筋」と言った意味と言う。

旧遍路宿坂本屋;標高302m
久谷の案内のすぐ先に古き家屋。旧遍路宿坂本屋とある。旧三坂峠から55分ほどかかった。
案内には「明治末期から大正初期に建てられた遍路宿。土佐街道の難所「三坂峠」の麓にあり、昭和初期まで休息・宿泊の場として賑わいをみせていたそうです。平成16年春、多くの方々の協力で修復されました。
囲炉裏やかまどもあり、閑かな風景にとけこんで、癒しの空間を創りだしています。昔、正岡子規はここを旅して区を残しています。「旅人のうた のぼりゆく 若葉かな」。この句の「うた」はご詠歌あるいは三坂馬子唄であったでは。。。(NPO地域共生研究所NORA 坂本屋運営委員会)」とあった。 お店は閉まっていた。
「えひめの記憶」には、三坂峠から浄瑠璃寺に向かう遍路道のほぼ中間にあり、険しい山道を上り下りする遍路が一息入れる場所であった窪野町桜のことが記載されていた。
記事によると;『四国邊路道指南』には、「くだり坂半過、桜休場の茶屋)」と記されているように、ここにはいくつかの茶屋や宿屋があった。現在、終戦直後まで茶屋と宿屋を兼営していたという2軒の大きな建物が残っている。

天明5年(1785)に円光寺(松山市)の住職名月は岩屋寺参詣(けい)の途次、ここからの眺めを、「櫻花息場」と題して「断崖三十戸、秋老白雲栖、後傍千重険、前臨百仭谿、鹿鳴紅葉際、猿叫翠岩西、驟雨瑶林外、還聞貸馬嘶5」と詠じている」とあった。
昭和初期には1日300人もの遍路がこの地を往来した、ともあった。『四国邊路道指南』とは上述の真念が著した往昔の遍路ガイドブックといったものである。

桜集落の常夜灯
桜の集落を数分進むと常夜灯が見える。そして、その傍らに「遍路墓」」と書かれた木標があり、その後ろに石柱が立つ。天保13年(1842)に建てられた自然石の遍路墓である。
「えひめの記憶」に拠れば、「この桜集落には、力尽きて倒れた遍路に関する史料が残っている。旧窪野村が所有していた文書(写真2-2-3)には、享保8年(1723)に窪野村まで来た備後国(広島県)の安兵衛という70歳くらいの病気の遍路が、次の久谷村へ送り届けられようとしている記述があり、「遍路送り」の様子をうかがい知ることができる。
この安兵衛は結局窪野村で死亡しているが、その史料には、遍路の所持品は往来手形のほか、杖1本・菅笠一つ・荷台一つ・木櫛二つ・木綿袋二つ・紙袋二つ・渋紙一つ・めご一つ・天目一つ・小刀1本などと、銭を15文持ち、単物(ひとえ)を着て木綿帯を締めていたとあり、当時の遍路装束を推測することができる」とあった。
先ほど「洗の観音」の祠の先にあったお遍路さんの石仏も、遍路旅の途中で倒れた人ではあろう。また集右の溜(ため)池の堤の草むらにも遍路墓と思われる5基の無縁墓があるとのことである(「えひめの記憶」)。

桜橋
常夜灯の先の坂を下ると道筋は県道207号となる。。遍路道は県道207号に沿って付かず離れず進む。県道を離れるところには木標があり、道を迷うことはない。最初の分岐は「浄瑠璃寺5.1km 三坂峠3.4km」の木標を旧道に入る。再び県道と合流するところに「三坂3.6km 46番浄瑠璃寺4.9km」の木標。 県道を進み御坂川に架かる「桜橋」を渡る。川名は三坂川ではなく「御坂川」となっていた。桜集落の常夜灯から15分。旧三坂峠から1時間10分ほどかかっていた。
三坂と御坂
ところで三坂峠、であるが、この地に限らず「みさか」を冠した峠は多い。太宰治の「富士には月見草がよく似合う」で知られる甲斐・駿河国境には御坂峠がある。昨年、信越国境・塩の道()を辿ったとき、地蔵峠ルートには三坂峠があった。
御坂、三坂、神坂、見坂、美坂、深坂などと表記は様々であるが、もとは「神(かみ)の坂=みさか」とされ、古代において祭司が執り行われたところ、と言う。古代東山道の濃信国境の「神坂峠」が「科野坂・信濃坂」と呼ばれたように、古代は「峠」を使わず通常「さか(坂)」が使われていた。さ=滑りやすい、か=場所、の意味である。
古代に「峠」が使われなかったのは、その言葉がなかったため。「峠」という国字(日本で独自に作られた漢字)が登場した次期は、室町時代とも鎌倉時代とも、平安時代末期とも言われ、正確にはわかっていない。「たむけ=手向け」をその語源とし、道中の安全を祈って手向け=神を拝む、の意をもつ「峠」ではあるが、「山の上、下」とは言い得て妙である。

桜橋を渡った遍路道は少し県道を進み、鍋釜橋で県道から離れる。県道207号は御坂川の右岸を進むが遍路道は鍋釜橋の脇にある「三坂峠4.5km 46浄瑠璃寺4.0km」の木標を目安に小径に入る。「へんろ道」と表記されている、それらしき趣の道ではある。「三坂峠4.8km 46浄瑠璃寺3.7km」ですこし大きな農道に戻り、先にを進む。


網掛け石;標高173m
15分ほど道を進むとお堂が見えてくる。旧三坂峠から1時間25分ほどのところ。昭和6年(1931)に建てられた大師堂である。
大師堂では遍路宿に泊まれない遍路が雨露を凌ぎ、自炊をしていたとのことである。またこの辺り、榎集落の共有地の草むらの中には、天保9年(1838)、嘉永6年(1853)など江戸時代の遍路墓と並んで、昭和33年(1958)の新しい遍路墓もある(「えひめの記憶」)とのこと。

大師堂の道を隔てた前には大きな石が横たわる。網掛け石と呼ばれる。案内によれば、「弘法大師の網掛け石;昔。弘法大師が大きな石を網に入れてオウク(担い棒)で担っていたところ、オウクが折れて山に飛んで行きました。落ちた所をオオクボ(松山市久谷町大久保)というようになりました。
また、石の一つは下の川に落ち、もうひとつはこの石であるといわれています。この石は、表面に無数の編み目がついていることから「網掛け石」といわれています」とあった。
この弘法大師の伝説、大岩は三坂峠にあり旅人・遍路の往来を阻害していたとの説明もある。それもあってか、遍路は岩の割れ目に納札を挟み込んだり、賽銭をあげて通過する習わしもあった(「えひめの記憶」)、とか。
また、この網掛け石のそばには、「ぢやうるり寺へ三十三丁」と刻まれた浄瑠璃寺を案内する道標と網掛け石と自然石の石碑が建つ。自然石の碑文は摩耗しても読めないが「弘法だいしあみかけい志、かたに(片荷)ハ川にあり、明治四十四年四月建之 日向国南那河郡中吋高橋満吉 仝村目井津神恵曽平」と刻まれている、と言う。

榎集落の馬頭観音
「三坂峠5.2km 46番浄瑠璃寺3.3km」と書かれた木標をみやりながら進むと道の一段高いところに右手に小祠と石碑がある。祠の名も記されていないし、石碑も摩耗し文字も読めない。手水舎に「○に金」が刻まれる。金比羅さんか? わからない。

道を進むと道の右手に馬頭観音が佇む。弘化3年(1846)に造られたものと言う。往昔の荷駄を運ぶ主要な足として使われた馬を祀るものであろう。網掛け石から8分。旧三坂峠から30分強かかっていた。



「一遍上人修行の地」の案内;標高135m
馬頭観音から200mほどで御坂川の支流に架かる榎橋を渡り県道207号に合流する。県道から山麓方面へと向かう道隅に「窪寺遺跡」と刻まれた石碑と「一遍上人修行の地」の案内。
「一遍上人修行の地 時宗の開祖、一遍上人は延応元年(1239)二月十五日、伊予道後の地宝蔵寺に伊予の豪族河野道広の二男として生まれる。十三歳で、九州太宰府に渡り名僧聖達の元で仏堂を学び二十五歳のとき父の病死で伊予に戻る。
一遍三十三歳の春長野の善光寺で浄土教の「二河白道図」を模写し、その年の秋、当地窪野に閑地を構え東壁に「二河白道図」をかかげ、祈り続け二年の修行を重ねたのち、根本教理を確立します。
一遍は根本教理を検証するため、、岩屋寺を皮切りに、全国を「捨て聖」の旅に出る。「南無阿弥陀仏」を唱え人々に念仏札を配りました。一遍の気高さに親しむと共に「念仏踊り」に歓喜躍動しました。これが盆踊りの原型と言われている。一遍は五十一歳で神戸、観音寺で入寂されました(松山市坂本公民館事業推進委員会)」とあった。榎集落の馬頭観音から12分。旧三坂峠から1時間45分ほど。

修行の地に行ってみたいとは思うのだが、旧跡の地までの距離が書かれていない。まだ歩き遍路の最初のお寺さまにも辿りつけていない状態であり、当日は見合わせた。
以下は後日修行の地を車で訪れたときのメモ;

一遍上人窪寺閑室跡
「窪寺遺跡」の石碑があったところから上り4キロ弱だろうか、「一遍上人窪寺閑室跡」に着いた。閑室は開けた田園地帯と山地の境にあった。深山幽谷の地といった風情ではない。昔は如何なる風情であったのだろう。閑室前には彼岸花が美しく咲いていた。
「一遍窪寺遺跡」と刻まれた石碑と「一遍上人窪寺閑室跡」の碑があり、「一遍上人窪寺閑室跡」の碑文には「文永8年(1271)秋、33歳の一遍上人はこの窪寺というところに閑室を構え、善光寺で模写して持ち帰った「二河白道図」を本尊として掲げ、万事を投げ捨てて念仏を唱えつづけた。そして、三年間、勤行するうちに、「十一不二頌(じゅういちふにじゅ)」という法門に達した。 その趣意は、昔、法蔵菩薩は、衆生と共に往生しようという願がかなって阿弥陀仏になった。だから、衆生が念仏すれば。仏と共に生きながら往生することができる、というものであった。
この窪寺は一遍上人成道の地として極めて重要な場所である」とあった。
○「十一不二」
「十一不二」とは大雑把に言えば、念仏を「一」回唱えるのも、「十」」劫(十劫とはインドの時間で最大のもの。はてしなく永遠に続く時間、といったもの)の間念仏を唱えるのも「不二=同じ」といったものだろう。

一遍上人窪寺年仏堂と歌碑
閑室に向かう途中、窪野町本組公民館手前で左に入る道を進み、溜池手前で道が切れるところに一遍上人窪寺念仏堂と歌碑。一遍上人窪寺念仏堂は民家の庭端に建つ。歌碑はその右側、溜池の堤下といったことろにあり、その脇に「一遍上人和歌」の案内があった。

一遍上人和歌
「身を数(す)つる す徒累(すつる)心を寿轉(すて)つ連半(れば) 於裳日(おもひ)なき世耳(み)すみ曽(そ)めの袖
弘安3(1280)年の秋、白河の関を越えて奥州に入った一遍上人は、江刺(えさし)の郡(こおり)に祖父河野通信の墓を訪ね、その菩提を弔っています。 世を捨て、身を捨て、心を捨てた一遍上人が、その墨染の姿を祖父の墓前に見せて、祖父の浄土往生を祈るということであります。「一子出家すれば九族天に生まれる」と申します。一遍上人をはじめ従う僧尼の念仏によって通信も昔の迷いの夢を捨てて極楽へ往生したであろうと思います(一遍上人窪寺念仏堂 歌碑建立管理委員会)」。

和歌を詠みやすくメモしておく。「身を捨つる 捨つる心を 捨てつれば 思ひなき世み すみそめの袖」。「捨聖」とも呼ばれ、身を捨て 心を捨て 世を捨てた一遍上人が祖父の墓前で浄土往生を祈る姿を詠んだものだろうか。

四里・里程標石
「窪寺遺跡」の対面、御坂川の支流に架かる窪野橋手前の藪の中に「松山札の辻より四里」と書かれた里程標があった。結構新しそうである。その横に「松山札」と刻まれた古い石柱がが残る。メモする段階でチェックすると「三里・里程標」の上半分と言う。
三里の里程標を新しく建てる際、建てるスペースがないということで、下半分がない古い三里・里程標を捨てたとのことだが、それを地元の方が大切に保管していたとのこと。本来の里程標は榎橋の辺りにあったようだが、橋材に使われているうち破損流失したとのことである。
里程石の辺りから旧三坂峠方面を身返す。偶々出合った地元の方にお聞きすると、旧三坂峠は写真左手より下る尾根筋と、その先に見える三角の形をした山の稜線が交わる辺りとのことであった。旧三坂峠から1時間50分ほどで下りてきた。


伊予鉄・丹波バス停
御坂川に架かる窪野橋を渡り丹波集落に入る。橋を渡ったところに伊予鉄・丹波バス停がある。松山方面から三坂峠を上るハイキング時のバスの終点である。往昔、五軒の茶屋があり遍路や三坂往還を通る人で賑わっていたとのことであるが、今は広いバス停スペースとなっている。



子規歌碑と「一遍上人窪寺御修行之旧蹟」

バス停の対面の石垣上に石碑が見える。石段を上ると「子規の歌碑」と「一遍上人窪寺御修行之旧蹟」の石碑があった。

子規の歌碑
子規の歌碑には和歌と漢詩。案内によれば
「子規歌碑 旅人の歌登りゆく若葉かな
三坂即時
草履単衣竹杖班 孤村七月聴綿蛮
青々稲長恵原里 淡々雲懸三坂山

子規句稿「寒山落木」明治25年に「三坂」と題した句と、「漢詩稿」明治十四年「三坂即事」の漢詩。
昔の土佐街道の難所、三坂峠の風物詩。明治十四年七月と二十三年八月、子規は二度久万山に遊んだが、重信川を渡り、恵原を経て三坂峠への旧道を登った。現在も往時を偲ぶ石畳が残っている。昭和二十七年に青年団が建てた。 (俳句の里松山 松山市教育委員会)」とあった。

和歌の碑文は俳人で知られる柳原極堂の書。子規22歳の時、札所45番・岩屋寺を訪れた折の句。三坂峠への上りは既に完成していた四国新道(三坂新道)を通り、帰路は三坂峠から旧道を下った、とか。「若葉の中、お遍路さんの鈴の音を響かせ、ご詠歌を歌いながら峠道を辿る」姿を詠んだもの。
漢詩の七言絶句の概訳は「草履にありきたりな格好で杖突きながら並んで進み、村の七月は小鳥の声が聞こえる。青々と稲が育つ恵原の里、三坂の山には淡く雲が懸かっている」といったところだろう。
それはそれとして、この漢詩を発表したのは上でメモしたように明治14年(1881)とのこと。友人と三坂峠を越えて札所45番・岩屋寺を訪ねた折の作という。で、子規が生まれたのは慶応3年(1867)。ということは、子規13歳の作。あれあれ。

「一遍上人窪寺御修行之旧蹟」
一遍上人修行の地と読めるが、上でメモした「閑室跡」など、修行の窪寺の場所については諸説あるようだ。碑文は景浦浦稚桃(大正から昭和にかけて実績を残した郷土史家)。

文政の石碑
丹波バス停を離れ県道を進むと、宮方バス停のところに常夜灯。中台は平に削られ、火袋もまん丸。手掘。りとは思えない。それほど古いものではないだろう。その先で県道は二手に分かれバイパスとなるが、その二手に分かれる手前の曲がり角の辺りに路傍の石塔がある。側面には「文政二年」と刻まれているが、正面は摩耗し文字が読めない。石塔の前にはお水が供えられていた。子規の歌碑より13分。旧三坂峠よりほぼ2時間。
バイパスとの分岐点の旧道に向け「三坂峠6.9km 46番浄瑠璃寺1.6km」の木標。旧道、といっても県道207号ではあるが、道を進むと「圓福寺」の案内 真言宗豊山派。開基不詳。本尊の延命地蔵菩薩は弘法大師の作との伝えが残るようだ。女遍路の墓が無縁仏の墓石群の中に1基立つ、と言う。

出口橋の道標
古き趣の関屋の集落を15分ほど進むと御坂川に架かる出口(いでぐち)橋に。旧三坂峠から2時間15分ほどのところ。
県道は川を渡ることなく御坂川の右岸を進みバイパスと合流するが、遍路道は橋を渡り「県道194号久谷森松停車場線」に入る。
出口橋の東詰に半分埋もれたような石標があった。明治40年(1907)に立てられたもの、と。「えひめの記憶」には「昭和33年(1958)の出口橋改修の際に下半分が折れて上部だけが残っている道標」とあった。
また同じく「えひめの記憶」には「伊藤義一の『埋もれた土佐道』によると、昭和の初めころまでこの出口橋あたりに、三坂峠を下って来た旅人のため客馬車が1台待っていて、汽車の出る森松駅までを日に何回か往復していたようで、明治36年(1903)測図の地形図を見ると、出口橋から森松にかけての道は整備されており、荷馬車の行き交う当時の様子をうかがうことができる」との記事があった。
上で県道194号久谷森松停車場線の「森松停車場」って何?と思っていたのだが疑問解決。また、橋を渡れば松山市窪野町を離れ「松山市久谷町」に入る。

久谷支所出口出張所の道標
橋を渡ると直ぐに松山市役所久谷支所出口出張所。窪野地区や久谷地区の見所などを描いた大きな案配図がある。成り行き任せの散歩を旨とする我が身には誠にありがたい。その案内図の右手、道脇の駐車場の上の柵のところに自然石が唐突に立つ。道路拡張の際にここに移された、と。天保2年(1831)のものと言う。

大黒座
遍路道を5分ほど進むと道の左手に「大黒座」の幟。元は酒造業を営んだ黒田家が酒造業を廃業後、芝居小屋とした。その後映画館となったが映画館も昭和38年には閉鎖されたが、建物は維持・保存されていると言う。

国道33号分岐点の道標と常夜灯
大黒座を越えると浄瑠璃町に入る。10分ほど歩くと国道33号へと向かう農道との分岐点。旧三坂峠から2時間半。
分岐点に「三坂峠8.2km 46番浄瑠璃寺0.3km」の木標とその横に常夜灯。天保9年(1838)に造られたもの。
常夜灯の道の反対側、ガードレールの脇に自然石の道標がある。「左 へんろ道 浄るり寺へ壱丁」と刻まれる、文政2年(1819)のものであり、浄瑠璃寺を案内している。浄瑠璃寺へ壱丁というこをはおおよそ109mを残すだけとなった。
県道194号を少し進み、右手の小さな墓石の並ぶ手前を右折、民家の間を抜け直ぐに左折すると正面に浄瑠璃寺が見える。

第四十六番札所・浄瑠璃寺
旧三坂峠より2時間35分ほどで浄瑠璃寺に到着。ちょっと立ち寄り。
このお寺さまは松山市内に八つある札所の遍路・打ち始めの霊場。参道入口の浄瑠璃寺と刻まれた石碑の手前には「永き日や衛門三郎浄るり寺」と刻まれた正岡子規の句碑が立つ。参道の前の小川の橋脇に手印の道標が見える。次の札所である八坂寺を指しているようだ。
衛門三郎
「永き日や衛門三郎浄るり寺」って、どういう意味?また衛門三郎とは? 「えひめの記憶」を参考にまとめると、衛門三郎は四国遍路の元祖とされる。元祖たる所以は、性悪にして極悪非道であった衛門三郎が弘法大師の霊験に接し発心し、弘法大師を求めて四国遍路の旅を二十一度も辿る、といった発心譚 が、元々は、特に弘法大師との関わりはなく邊路を辿り霊場訪ねると言った四国遍路が、中世期に「弘法大師を求めて=大師と共に(同行二人)」と言った弘法大師信仰を核に整備されてゆく四国遍路のモチーフにぴったりあてはまった故ではあろう。

衛門三郎の発心譚
伊予国荏原荘(現在の松山市恵原(えばら)町)に住む長者であった衛門三郎。性悪にして、ある日現れた托鉢の乞食僧の八日に渡る再三の喜捨の求めに応じず、あろうことか托鉢の鉢を叩き割る。八つに割れた鉢。その翌日から八日の間に八人の子供がむなしくなる。
子どもをなくしてはじめて己れの性、悪なるを知り、乞食僧こそ弘法大師と想い、己が罪を謝すべく僧のあとを追い四国路を辿る。故郷を捨てて四国路を巡ること二十一度目、阿波国は焼山寺の麓までたどりついたとき、衛門三郎はついに倒れる、と、今わの際に乞食僧・弘法大師が姿を見せる。大師は三郎の罪を許し、伊予の国主河野家の子として生まれかわりたいとの最後の願いを聞き届ける。
三郎を葬るにあたって、大師は彼の左手に「右衛門三郎」と記した小石を握らせた。その後、河野家に一人の男子が生まれ、その子は左手にしっかりと小石を握っており、そこには「右衛門三郎」の文字が記されていた、と。この話は松山市にある石手寺の名前の由来(安養寺から石手寺に変更)ともなり、その石は寺宝となっている、とのことである(「えひめの記憶」を参考にメモ)。
○「永き日や衛門三郎浄るり寺」
で、この衛門三郎の発心譚を踏まえ「長き日や」って、どういう意味だろう? 発心しこれから遍路をはじめ菩提に至る長い道のりなのだろうか。
四国遍路の経緯
四国に生まれ、遍路とかお大師さまは身近な存在ではある。折に触れて札所を訪れたことも結構多い。とはいうものの、そのすべては車でちょっと立ち寄る、といったもの。
で、改めて遍路について考えるに、遍路のことはあまりよくわかっていない。散歩のメモをはじめ、八十八の霊場は弘法大師が開いた真言宗だけではない、ということがはじめてわかった。真言宗の他、天台宗が4寺、臨斎宗が2寺、曹洞宗が1寺、時宗が1寺もある。その他にも浄土宗、法相宗、国分寺は華厳宗、また神仏習合のお寺もある、と言う。四国八十八の霊場=弘法大師空海=真言宗、と思い込んでいただけに、新鮮な驚きであった。それではと、四国八十八の霊場、また遍路についてちょっと整理してみようと思う。

四国遍路の始まりは、平安末期、熊野信仰を奉じる遊行の聖が「四国の辺地・辺土」と呼ばれる海辺や山間の道なき険路を辿り修行を重ねたことによる、と言われる。『梁塵秘抄』には、「われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、また笈を負ひ、衣はいつとなくしほ(潮)たれ(垂)て、四国の辺地(へち)をぞ常に踏む」とある。
とはいうものの、四国遍路が辿る四国八十八カ所霊場は霊地信仰であって熊野信仰といった特定の信仰で統一されたものではないようだ。自然信仰、道教の影響を受けた土俗信仰、仏教の影響による観音信仰、地蔵信仰などさまざまな信仰が重なり合いながら四国の各地に霊場が形成されていった。 それが、四国各地の霊場に宗派に関係なく大師堂が建てられ、遍路は大師堂にお参りする大師信仰が大きく浮上してきたのは室町の頃、と言われる。そこには遊行の僧である高野聖の影響が大きいとのことである。「辺地」が「遍路」と成り行くプロセスは、辺地を遊行する道ということから「辺路」となる。熊野の巡礼道が大辺路、中辺路と呼ばれるのと同じである。そして、辺路が「遍路」と転化するのは室町の頃、高野聖による四国霊場を巡る巡礼=辺路の「遍照一尊化」の故ではないだろうか。単なる妄想。根拠無し。

ところで、この霊地巡礼が八十八箇所となった起源ははっきりしない。平安末期、遊行の聖の霊地巡礼からはじまった四国の霊地巡礼であるが、数ある四国の山間や海辺の霊地は長く流動的ではあったが、それがほぼ固定化されたのは室町時代末期と言われる。高知県土佐郡本川村にある地蔵堂の鰐口には「文明3年(1471)に「村所八十八ヶ所」が存在した事が書かれている。ということはこの時以前に四国霊場八十八ヶ所が成立していた、ということだろう。遍照一尊化も室町末期のことであり、四国遍路の成立が室町末期と言われる所以である。
現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所は貞亭4年(1687)真念によって書かれた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。「四国邊路道指南」は、空海の霊場を巡ることすること二十余回に及んだと伝わる高野の僧・真念によって四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。

遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、と言われる。

縁起
境内に入ると正面に本堂。本堂前の老木・樹齢1000年のイブキビャクシンは松山市の天然記念物に指定されている。その横に大師堂。大師堂では修験の僧が経を挙げていた。
境内にあった案内に拠ると、「四国八十八か所の四十六番札所である。寺名は医王山浄瑠璃寺。本尊は薬師如来である。寺伝によると、和銅元(708)年、行基が開山、自ら白檀の木で本尊をつくったという。
室町時代末期、荏原城主平岡通倚(みちより)が病に苦しみ、この寺の本尊に祈願し、まもなく全快したため、土地を寄進して堂宇を建立し、深く帰依したと伝えられる。その後正徳5(1715)年、山火事で建物、本尊すべてが焼失したという。
江戸時代中期、この村の庄屋井口家から仏門に入り、この寺の住職となった尭音(ぎょうおん・1732~1820)が寺を再興したと伝えられている。尭音は、久万からの遍路道が、毎年のように出水時に流され、人々が難儀していることを知り、七十六歳で托鉢僧となった。
各地を回り喜捨を集めた尭音は、岩屋寺あたりから順に川に橋をかけ、最後に立花橋をかけた。今も、丹波橋、出口橋など、尭音がかけた八本の橋の名の幾つかが伝えられている」とあった。
荏原城主平岡通倚
荏原城址の土塁
案内にある、荏原城主平岡通倚は、室町時代後期の伊予の豪族河野氏の重臣。四国統一を目指す長曽我部氏への抑えを担った、平岡通倚は天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐では道後の湯築城に籠もるも、河野氏は降伏し荏原城も廃城となった。荏原城址は浄瑠璃寺の北におおよそ1.5キロ、県営運動公園の東、県道194号傍の平野に立つ平城である。

仏足石
境内を彷徨う。仏足石に足を置いてはみたものの、仏足石って、古代インドには偶像崇拝がなかったため、仏足石とか菩提樹で釈迦やブッダを象徴したものと言う。足を置いたりしたら不敬にあたるのではないかとも思い始めた。

九横封じ石
石の横に立つ木標には「7薬師如来は九横(九つの災難)を救う 一、不治の病の患る 二、暴力非行に会う 三、淫酒に耽れる 四、火熱傷をおう 五、水難にあう 六、獣蛇に咬まれる 七、崖から転落する 八、毒呪に中る 九、渇き飢える」とあった。
説法石
「おかけください、説法石 おしゃかさまが説法され修行されたインドの霊鷲山(りょうじゃせん)の石が埋め込んであります。」と。

網掛け石
境内に「網掛け石」があった。上に述べた「網掛け石」のところで、「石の一つは下の川に落ちた」とメモしたが、この石はその川に落ちた石と言われる。

経塚
境内には経塚もあった。経塚とは仏教経典を土中に埋納した塚のこと。もとは、末法の世に仏教経典が失われることを危惧し、弥勒菩薩が現れるまで保存するため、ということではじまったようだが、次第に個人的祈願成就(極楽往生、現世利益)と変わっていった、と言う。また、道標がふたつほどあるとのことだが見逃した。

浄瑠璃町の金比羅常夜灯;13時45分?標高84m
土佐街道・松山街道は県道194号を進むのかとも思うのだが、浄瑠璃寺から次の札所八坂寺までは旧遍路道を進むことにする。
浄瑠璃寺の北側を成り行きで進み、次の目的地である札所47番八坂寺に向かう。 「47番八坂寺0.8キロ」の木標に従い田圃の中の農道を進むと県道194号から八坂寺へ向かう参道にでる。その角に常夜灯があった。自然石の常夜灯の正面には「「奉、石/金/八、八坂組」と刻まれている。石鎚、金比羅、八坂寺、ということであろうか。


お遍路さん
常夜灯を左に折れ八坂寺への参道を進む。道脇に「お遍路さん」の案内。「四国霊場八十八カ所を巡礼することまたは巡礼する人を「遍路」といいます。お遍路さんは図のような格好をして巡礼していましたが、今は服装にこだわることはあまりないそうです。しかし行程は長く、険しい山道もあるので足固めはしっかりしておきましょう」とあり、「頭;菅笠、首;輪袈裟と納経箱、衣服;白衣、手;金剛杖、手;手甲、念珠、 足;脚絆、地下足袋又はわらじ」姿のお遍路さんのイラストがあった。

第四十七番札所・八坂寺
白い塗塀の美しい民家の立つ道筋の先に八坂寺。旧三坂¥。峠より3時間弱かかった。山門前の左手に「手印の道標」、右手にも「三十五丁」と刻まれた道標が立つ。

宝篋印塔
境内に入り、参道を進むと「宝篋印塔」。案内には「宝篋印塔 過去現在未来にわたる諸仏の全身舎利を奉蔵するために「宝篋印陀羅尼経」を納めた供養塔を宝篋印塔と言い、五輪塔とともに普遍的なものである。
宝篋印塔は平安末期から造立され、基礎(基台)・塔身・笠・相輪からなり、方柱の部分が宝である陀羅尼経を納める塔身である。本塔は190センチメートルで、石質は花崗岩である。笠の四隅の隅飾突起は直立ぎみであり、造立年銘を欠くが、像容、製作技法などが鎌倉様式であるので、鎌倉時代後期末と推定している」とあった。

句碑
参道を進むと左手に鐘楼。鐘楼の参道逆側には「お遍路の誰もが持てる不仕合わせ」と刻まれた句碑がある。案内によると、明治32年(1899)に松山に生まれ高野山金剛峯寺第406世座主となった高僧の詠んだ句。高浜虚子と知己を得、師事。子供がむなしくなり、四国巡礼の旅に出たとき、「遍路の思いにはそれそれの想いと影があることを想いよんだもの」とあった。俳号森白像。

縁起
参道を進むと正面に本堂が建つ。境内には左手に大師堂。大師堂と本堂の間には閻魔堂。その左には不動明王増。本堂右手には権現堂、その裏手に十二社権現が建つ。
お寺様の案内には、「四国八十八か所の四十七番札所である。熊野山妙見院と号し、真言宗醍醐寺の寺院である。寺伝によると、600年代に修験道の開祖役行者小角が開山、大宝元(701)年に文武天皇の勅願所として小千(越智)伊予守玉興が七堂伽藍を建てたという。
中世には、紀伊国(和歌山県)から熊野十二所権現を勧請され、熊野山八王寺と呼ばれるようになった。七堂伽藍をはじめ十二の宿坊、四十八の末寺を持つ大寺院で、修験道の根本道場として栄え、隆盛を極めたという。
戦国時代に陛下のため堂宇が灰燼に帰し、後に再興して今の地に移ったと伝えられる。この寺は修験道場のため、住職は代々八坂家の世襲であり、百数十代になるという。
本尊は阿弥陀如来坐像(愛媛県指定有形文化財)で鎌倉時代の恵心僧都源信の作と伝えられる(松山市教育委員会)」とあった。

八坂寺の寺名は、大友山に八箇所の坂を切り開いて修験の伽藍を創建し、かつ、ますます栄える「いやさか(八坂)」に由来する、とのことである。
山門に菊の御紋章があったのは、勅願寺であったためであろうか。また、弘法大師は寺の創建から百余年後の弘仁6年(815)、この寺を訪れ修法し荒廃した寺を再興して霊場と定めたと。

徳右衛門丁石
ところで、山門横に「三十五丁」と刻まれた道標は「徳右衛門丁石」として知られる。浄瑠璃寺のところで、境内にふたつの道標がある、とメモしたが、そのひとつは徳右衛門道標ということであったのだが、見逃したこともあり、徳右衛門道標とメモせず、単に道標としたのだが、ここで実際に目にし、徳右衛門丁石って何?と気になりチェックする。

徳右衛門こと武田徳右衛門は越智郡朝倉村(現在の今治市)、今治平野の内陸部の庄屋の家系に生まれる。天明元年(1781)から寛政四年(1792)までの十一年間に、愛児一男四女を次々と失い、ひとり残った娘のためにも弘法大師の慈悲にすがるべし、との僧の勧めもあり、四国遍路の旅にでる。
その遍路旅は年に3回、10年間続いた。で、遍路旅をする中で、「道しるべ」の必要性を感じ、次の札所までの里数を刻んだ丁石建立を思い立ち、寛政6年(1794)に四国八十八ヶ所丁石建立を発願し、文化4年(1807)に成就した。その数は102基に及ぶとのことである(「えひめの記憶」を参考に概要をまとめる)。
因みに、幾多の遍路道標を建てた人物としては、この武田徳右衛門のほか、江戸時代の大坂寺嶋(現大阪市西区)の真念、明治・大正時代の周防国椋野(むくの)村(現山口県久賀町)の中務茂兵衛が知られる。四国では真念道標は 三十三基、茂兵衛道標は二百三十基余りが確認されている。

愛媛最古の道標
八坂寺の山門を出ると、県道194号にもどることなく旧遍路道を進む。道標に従いすぐ左に折れる。水路に沿って小径を進み、えばら池(土用部池とも)に至る。池端にある「お遍路の里 えばらMAP」で今から訪ねる恵原町の概要を確認。
池の東側から北側の道に回り込みしばらく進み、右手へと分岐する道のある堤防下に「48番西林寺4.1km」と古い自然石。この石は愛媛で最古、四国で2番目に古い道標とのことである。「貞享二年三月吉日」と刻まれた文字と広げた掌。その下に「右 へんろ道」とある。なお、四国最古といわれる道標は、室戸市に「貞享二年二月吉日」建立のものであるという。

道標
道標に従い、池堤下の道から分かれ、左手に素戔嗚神社を見やりながら田圃の中を進み、県道194号と合流する 。立派な生垣と瓦のついた白い塗塀に囲まれた民家の脇に手印のついた道標。手印の下には「ぎゃく へんろ道」とはっきりと刻まれている。




三里・里程石
旧遍路道が県道194号に合流するこの道標がある地点のすぐ南、道の東手に「松山札の辻より三里」と刻まれた里程石がある。平成十一年と刻まれるレプリカである。
本来の里程標は、上下に分かれて折れているようで、上半分は上述「松山札の辻より四里」の里程標先に残っていた「松山札」と刻まれた古い石柱がそれ。
三里の里程標を新しく建てる際、下半分がないということで古い三里・里程標を捨てたと。それを地元の方が大切に保管していたとのこと。また、下半分も個人所有と言う

文殊院
道標から県道194号を北に進む文殊院がある。番外札所ではあるが、いくつかの名所案内に四国遍路の始祖伝説である衛門三郎の物語で知られる寺ということであるので、ちょっと立ち寄り。境内地は彼の屋敷跡であると伝えられる。
案内に拠ると、「当院は、弘法大師が衛門三郎の子供の供養と共に、悪因縁切の御修法をなさった四国唯一の、有り難いお寺であります。本堂には大師が刻まれたご自身のお姿と延命子育地蔵尊をお祀り、四国遍路元祖、河野衛門三郎の物語が記された、寛正時代の巻物も保存しております。
その昔は徳盛寺と呼ばれていましたが、弘法大師が文殊菩薩様に導かれて逗留された後、文殊院と改められました。
昭和41年松山市久谷町植樹祭の際、天皇皇后両陛下行幸にあたり、故八木繁一博物館館長により、当院を四国八十八ヶ所発祥の地であると言上なさいました。当院の文殊菩薩さまは、お大師さまをお導きなさった知恵の文殊さま(後略)」とあった。

上でメモした「えひめの記憶」では衛門三郎発心譚では、唯一の願いは「河野氏」として生まれかわることとあったが、ここでは河野衛門三郎と記されていた。四国遍路を「四国八十八ヵ所霊場」と組み上げていった真念は、『四国?礼功徳記』の中でも、「予州浮穴郡右衛門三郎事、四国にていひ伝えかくれなし。貪欲無道にて、遍礼の僧はちをこひしに、たヽかんとしける杖鉢にあたり、鉢を八つにうちわりしが、八人の子八日に頓死せり。是より驚きくやミ発心し、遍礼二十一反して、阿州焼山寺の麓にて死けり。其時大師御あひ、その願をきこしめし、石に其名を書にぎらしめ給ひければ、郡主河野氏の子にむまれ、かのにがりし石、そのまヽ手の内にありて、右衛門三郎なる事をしれり(「えひめの記憶」)」と記しているように、右衛門三郎は河野との姓はなく、所詮右衛門三郎であるのだが、この案内に「河野衛門三郎」とあるのは、伊予の豪族である河野氏の出自を聖ならしめるポリティックスが、効きすぎた結果であろう、か。

「左八塚道」の石標;14時50分
文殊院から一筋先の四つ角に手印のついた道標がある。直進方向は「へんろ道 左八塚道」と刻まれる。大正2年(1913)に建てられたもの、とか。八塚道は八つの古墳群があるとのこと。県道194号を左に折れて「八ッ塚」にちょっと立ち寄り。
ちなみに、この標石の少し南を右に折れると、上でメモした平城の荏原城がある。

八塚古墳
道を進むと、道脇に塚があり塚の上には木が茂る。塚の前には「文殊院八塚群集古墳」と刻まれた石塔と案内。「ここから西方の松山平野の南丘陵部には、土壇原(どんだばら)、西野、大下田南、釈迦面山等の古墳群が数多くあり、八ツ塚はそれらに続く平野部に位置する八基の群集古墳である。
文殊院所有の、これらの墳丘の形は、後世の開発によって変形しているが、一号・三号・五号・八号墳が円墳、二号・四号・七号墳が方墳である。円墳は直径約七メートルから十四メートル、方墳は一辺十メートルをやや超える程度で、墳丘高はいずれも約一.五メートルから三.五メートルの規模である。石室は未調査だが横穴式石室、時代は古墳時代終末、農業祭祀の歳時墳と考えられている。
この八ツ塚は、四国遍路の元祖といわれる衛門三郎の八人の子供を祀ったとの伝説も残っており、塚には小祠が置かれ、石地蔵が祀られている。古墳と伝説の関係が、いつごろから語り伝えられるようになったのかは、不明である」とあった。

その他の塚は何処に?辺りを見廻すと、塚から北に進むる水路沿いの道に木々の繁ったこんもりした塚らしきものが見える。とりあえず北に道を進み、これが古墳?などとちょっと不安になりながらも、先に進むと田圃の中に小さいけれども、如何にも古墳といった塚が幾つか続く。田圃の緑と、そこに浮かび上がる塚の緑とそこに茂る木の緑は誠に美しい。
田圃に沿って古墳を見遣りながら進み、北端にある古墳へと道を回り込み、古墳。というかちっちゃな塚に登り景観を楽しむ。

県道194号にり、遍路道との分岐点へ
八塚の古墳を見終え、ひめぎんグランドのフェンス手前に自然誌の標石が指す「右 へんろ道」の指示に従い県道194号へ戻る。少し北に進むと大宮神社参道口。県道右手に標石が立ち、「左 松山道」と刻まれ、手印は県道脇を北に向かう土径を指す。ここが遍路道と土佐街道・松山街道の分岐点。松山街道は県道を北に向かい、遍路道は県道の一筋東を進んだ後東進し、その後北進。札始め大師堂を経由して次の札所西林寺へと向かう。
遍路道
第四十七番札所八坂寺から第四十八番札所西林寺への遍路道はここで分岐する札始大師堂経由の遍路道のほか、八坂寺の参道が県道194号に合流する辺りから東進し月見大師堂・足跡大師堂経由のルートがある。ルート詳細はこちら

今回のメモはここまで。次回は遍路道を離れ松山城下へと向かう予土往還 土佐街道・松山街道のルートをトレースする。