日曜日, 2月 28, 2010

八王子散歩;湧水を巡るⅡ

先日の八王子湧水散歩では日没時間切れのため、川口川脇にある清水公園、加住南丘陵の小宮公園、そして、八王子駅近くの子安神社など、いくつかの湧水ポイントが残った。湧水散歩の第二回。スタート地点は圏央道の少し手前、川口川に架かる川口橋あたりとする。近くには武蔵七党のひとつ西党・川口氏の館址がある、と言う。湧水散歩もさることながら、どうせのことなら、武蔵七党・西党が割拠した川口川流域をも辿ろう、ということに。
川口川流域の歴史は古い。流域には中田遺跡、長房遺跡、楢原遺跡、宇津木遺跡、春日台遺跡など幾多の古代住居跡が残る。川口郷の地名が記録に登場するのは承平5年、と言うから平安時代の後半の頃(935年)。源順(したがう)により撰述された『和名類聚抄』に川口郷の名が残る。
多摩は国造の抗争に勝利した笠原直使主(かさいのあたいおみ)により天皇家に献上された屯倉の地である。645年、大化の改新によって国・郡・郷が成立したわけだから、川口郷の歴史は此の頃からはじまったのだろう。旧屯倉の地域は奈良、平安時代に庄園や牧へと変わり、その地を拠点に武蔵七党と呼ばれる武士団が登場する。川口郷も、奈良・平安には藤原荘園の船木田庄へと変わり、その地に広がる由比牧には武蔵七党の西党・由比氏が入植。庄園の庄官・牧の別当(管理者)として力をつけていった。
今回訪ねる川口氏はその由比氏を祖とする、と言う。その名のとおり、川口川流域に居を構え、川口郷の地頭として鎌倉末期から南北朝、室町時代にかけて武名を残した。
大雑把なルートは、川口川中流域を清水公園まで辿り、そこから加住南丘陵へと進み、市内に戻るといったもの。さて、散歩にでかける。




本日のルート;八王子駅>川口橋>川口氏館址>鳥栖観音>法蓮寺>安養寺>都道46号線>清水公園>甲ノ原>国道16号線・谷野街道入口南>小宮公園・大谷弁天池>浅川大橋>永福稲荷神社>竹の鼻の一里塚碑>子安神社>京王八王子駅

川口橋
八王子駅からバスに乗り甲州街道を西に進む。本郷横町で甲州街道を右に折れ秋川街道に。秋川街道は川口街道とも五日市街道とも呼ばれていた。川口川に沿って西に進み、小峰峠を越えて秋川筋の武蔵五日市に至る。
元本郷町を北に進み荻原橋で北浅川を渡る。萩原橋は明治初期の実業家の名前から。一代で財をなすも、晩年は零落した、と。中野地区を進むと道脇に日本機械工業の工場。現在は消防自動車の製造工場であるがは、その昔、片倉財閥の製糸工場であった。八王子は養蚕、絹織物で名高い「桑都」であったわけだ。
中央高速をくぐり、楢原地区に入る。道の南は楢原台地。比高差20m弱の、わずかなる地形のうねりではあるが、北浅川と川口川の分水界となる。湧水のある清水公園は楢原台地の逆サイド、秋川街道の少し北を流れる川口川脇にある。後ほど、川筋を戻ってくることになる。 都道46号線・八王子あきる野線を越え更に進む。川口小学校の辺りまで進むと秋川街道は川口川に急接近。これより先、秋川街道は川口川に沿って走ることになる。このあたりが川口氏の館があったところ。川口橋バス停で下りる。

川口氏館址
バス停から辺りを見渡す。川口川もこの辺りでは川幅もささやか。川の両側に丘陵が迫る。北は川口丘陵。秋川丘陵へと続き、秋川水系との分水界となっている。滝山街道・戸吹から秋川丘陵の尾根道を進み網代、五日市へと抜ける中世の甲州道を辿ったことが懐かしい。一方、川口川の南の丘陵は南浅川との分水界。丘陵を越えた南浅川流域一帯は往古の由比牧。川口氏の祖でもある武蔵七党のひとつ、西党・由比氏が牧の別当として勢を養ったところ、である。 川口氏館址を探す。場所は川口小学校あたり、とか。秋川街道を少し戻り、小学校手前の道を折れ丘陵に向かう。道は丘陵にどんどん入っていく。これといって城址といった場所は見当たらない。道も行き止まりの、よう。引き返す。
後からわかったのだが、川口氏館址は小学校の東、調(ととのい)台という舌状台地の先端あたり。文献によれば、高尾、丹沢の山々も遠望できる場所、と言う。そこには川口氏館跡の碑が残る、とか。
川口氏は武蔵七党のひとつ西党・由比氏をその祖とする。由比氏は浅川流域、由比牧の別当として八王子市弐部方に館を構えた。甲州街道・追分の分岐から北西に一直線に進む陣馬街道が浅川に当たる手前、直角に曲がる切り通し上の日枝神社がその館址とも。この由比氏も和田合戦に横山氏共々、和田義盛に与力し戦いに敗れる。ために、牧の別当の地位も失い、子孫は八王子由木村に移り由木氏を称した、と。川口氏はこの由木氏の末裔が川口川流域に移住。川口氏と称し、代々勢力を広げていった、とのことである。

鳥栖(とりのす)観音
川口川を渡り鳥栖観音に。長福寺の西脇、山の中腹に鳥栖観音堂がある。本尊は千手観音の立像。行基の作とも伝えられる。この観音様は「火防(ひぶせ)」の観音さまとして知られる。幾度か火事に見舞われるも、この観音様は常に類火を免れたとの伝説が伝わる。鳥栖の名前の由来は、火事を逃れ飛び移ったところが鳥の巣であった、ため。長福寺は別名「萩寺」と呼ばれる。仙台の「宮城野萩」が移された、と。



法蓮寺
長福寺の少し東に法蓮寺。山門をくくり本堂へ。本堂は平成10年に再建されている。この寺は鎌倉時代、川口氏が造立したもの。往時、時宗の道場として大きな構えを誇った、と。時宗は鎌倉末期におこった浄土教の一宗派。一遍上人をその祖とする。日々を常に命終える「時」と心得、念仏を唱えるべし、と。
この法蓮寺は仁科五郎信盛の娘、督姫(小督)が出家したところ。仁科信盛は武田信玄の五男。相次ぐ重臣の裏切りの中、最後まで武田家のために奮戦し高遠城にて討ち死。その娘・督姫は信玄の娘・松姫に導かれ甲斐を逃れ、山中の難路を越えて案下の里に辿り着く。案下の金昇庵、川原宿の心源院、市内の信松院などを経て、この法蓮院で出家した、と。武田家にゆかりのこの寺にはふたりの千人同心も眠る。千人同心って旧武田家家臣である。

安養寺
丘陵の裾を成り行きで東に向かう。ほどなく安養寺。いい雰囲気のお寺様。六地蔵が佇む。このお寺には困民党・塩野倉之助の碑がある。困民党といえば秩父困民党が知られる。知られる、と言うか、それしか知らなかった。が、この川口の地もそうだが、困民党って全国規模の騒乱であった。
明治17年、世界恐慌の影響もあり明治日本は維新以来はじめての不景気に襲われる。未だ基盤の脆弱な日本経済、特に農業は深刻な不況に見舞われ、多くの農民が困窮に喘ぐ。折からの自由民権運動の影響もあり、農民が集まり結成した政治組織が困民党。活動は全国に広がったが、養蚕農家が多く生糸急落の被害を被った武蔵・相模の農民の困窮は特に深刻。武装蜂起ともなった秩父困民党事件、数千人が八王子・御殿峠に集結した武相困民党など歴史を刻む事件が起きることになる。で、この川口川流域で起きたのが川口困民党。この地の豪農・塩野倉之助のもとに集まり決起を計るも官憲の弾圧で鎮圧される。この寺の碑は昭和29年、指導者塩野倉之助の徳を称え建てられた。

清水公園
寺のすぐ南に川口川が流れる。川に沿って進み都道46号線・明治橋北詰に。この辺りの地名は犬目。なんと面妖な、とは思えども犬目は「井の目」からとの説がある。「井」は「居る」、「(水が)溜まる・集まる」。「井の目」って、「地面の裂け目から水が集まる・湧き出るところ」、と言った意味。犬目丘陵の裂け目・崖線からの湧水が多いのだろう、か。湧水に期待を抱かせるような地名である。

明治公園を越え川口川に沿って進むと清水公園。予想に反し整備された公園。池は自然の湧水を集めたもの、とのこと。公園を辿り湧水源を探すが、それらしき場所は見あたらない。チェックする。この公園は往時、井戸尻湧水跡とも呼ばれる大湧水地であった。が、昭和30年代後半からはじまった都市開発の影響を受け、大学や宅地開発に伴う道路工事、川口川の河川改修工事などにより湧水地は地下に埋没してしまった、と。昔はいざ知らず、現在も「八王子の湧水」にリストアップされているのは、ちょっと無理がある「湧水地」ではあった。

甲の原
次の目的地は小宮公園。川口川を離れ丘陵地の中ほどを進むことになる。公園の西の端から裏手の工学院大学、隣接する戸板女子短大のグランドに沿って丘陵を上る。丘陵といっても周囲は宅地開発されており、野趣豊かな趣はまるで、なし。東西に走る道路には車の交通量も多い。
工学院キャンパスの交差点を越え甲ノ原中入口交差点に。この名のとおり、この辺りは「甲ノ原」と呼ばれる。現在は「こうのはら」ではあるが、往時は「かぶとがはら」と呼ばれていた。小田原北条軍が武田軍の追撃を避けるため、この地の桑の木に甲をかけ、あたかも大軍の備えがあるように偽装したというのが地名の由来。追撃は小田原攻めの時の上杉景勝軍、との説もある。いずれにしても、このあたりは滝山城から八王子城への往還路であった、と言うことだろう。

谷野街道入口南
甲ノ原の台地を成り行きで進み中央高速脇に。iPhoneのマップに子安神社の表示。先を急ぐあまりパスしてしまったのだが、この神社は湧水ポイントとして有名であった。中野の明神様として知られるこの神社には「明神様の泉」がある、と。後日Webでチェックするに、なかなかもって素敵な湧水。また、この神社には安養寺で出会った困民党の指導者・塩野倉之助の碑も残る、とか。塩野倉之助を先頭に農民二百数十名がこの地に集結したとのことである。機会を見つけて訪ねてみようと思う。

中央高速を交差することなく、高速に沿って少し進み、台地を下り気味に進む。開析されたような地形である。一筋北の開析谷には谷地川の支流が残っている。この道筋もその昔は川が流れていたのではないか、などと思いを巡らせながら進み、国道16号線の谷野街道入口南交差点に出る。
谷野街道は都道166号線のうち、谷野街道入口交差点から滝山城址脇の峠を抜け、あきるの市二宮に至る区間。二宮神社から高月城、滝山城へ下ったとき、この道筋を辿ったことがある。ここに続いていたのか、などと故なく懐かしい。

小宮公園・大谷弁天池
谷野街道南入口交差点から国道16号線を南に進む。道は峠の切り通しを越える。峠を越え、八王子の市街を見渡しながら下りながら、東に折れる道を探す。最初にみつけた道筋を左に折れ、再び台地へと上る。稲荷坂と呼ばれている。曲がりくねった舗装道路を進み小宮公園に。 整地された公園を進む。成り行きで進むと左手の雑木林に向かう道。谷へと下っている、よう。行き止まりの不安を抱きながらも、とりあえず進む。なんとなく谷へと続いている、よう。周囲は誠に野趣豊かな景観。浅川北岸の加住丘陵に位置するこの公園は20ヘクタール程の広さがある、と言う。確かに、歩けども歩けども雑木林が続く。
谷戸に下りるといくつもの散策路。沢に沿って木道が雑木林の中に幾筋も延びている。散策路脇の水路を辿り上流に向かい、滲みる出るが如き湧水をみて少々和む。沢を辿り源流点へ、とは思えども日暮れが近い。そのうちに、大谷沢とか、ひよどり沢といった沢を進み源流をチェックしたい、と思う。中野の子安神社共々、次回のお楽しみ、である。

木道を引き返し大谷弁天池に向かう。池は大谷沢の湧水を集めたもの、と。この池は、天明年間(18世紀の後半)、八王子千人同心頭・萩原氏が干魃に困窮する農民を助けるため掘ったもの。池の畔には弁財天をまつるお堂が佇む。

ひよどり山
弁天池を離れ公園前の道を西に、国道16号線に向かう。緩やかな坂の切り通しに橋が架かる。石造りの水道橋かとも思ったのだがクリート製の橋。1980年の頃までは吊り橋であった、というから水道橋でもないようだ。
切り通しを越えると下り坂。成り行きで進むとトンネル。全長1028mの「ひよどり山トンネル」。中央高速八王子インターなどもあり交通量の多い国道16号線の渋滞を緩和するためにつくられた。とは言うものの、このロケーションって、地元の人しかわからないのでは、とも思える。
それはそれとして、「ひよどり山」って、川口困民党の塩野倉之助を筆頭に二百数十名の農民が集結したところ。小宮公園のある丘陵地に集結したのだろう、か。雑木林とは言いながら、現在では「公園」っぽい景観の小宮公園ではあるが、かつては昼なお暗い森であった、と言う。「ひよどり山」、って別名、明神山とも呼ばれる。その場所は子安明神の北にある現在の「みつい台」の辺りとの説もある。「ヒヨドリ山」って、大雑把に「このあたり一帯」ということで、とりあえず納得しておく。

永福稲荷神社
先に進み浅川に掛かる浅川大橋を渡る。浅川大橋南交差点を越え、成り行きで左に折れる。新町を進むと道脇に永福稲荷神社。境内には松尾芭蕉の句碑や江戸中期に活躍した八王子ゆかりの力士、八光山権五郎の碑があった。江戸を代表する力士であった、とか。この神社が勝負の神様と崇められるのは、この力士の実力ゆえのことであろうか。それとも、この神社を寄進したのが八光山である、ということがその理由であろうか。この神社では9月に「しょうが祭り」が行われている。古来、生姜は邪気除けの薬味であった、よう。


竹の鼻の一里塚の碑
神社横の公園に碑がある。何気なく見やると、「竹の鼻の一里塚」、と。江戸の頃、五街道に一里おきに整備された目印の塚。通常は塚が築かれその上に木が茂るわけだが、その名残は既に、ない。
お江戸日本橋から数えて12番目のこの一里塚は、甲州街道八王子宿の入口。当時の甲州街道は大和田橋南詰めを西に折れ、現在の八王子市立第五中学校の先、市立五中交差点を左斜めに入り、この永福稲荷神社の前に進む。その先のT字路を南に下り、現在の甲州街道で西に折れ八王子三宿である横山、八日市、八幡と続いた、と。横山、八日市、八幡は滝山城にも八王子城にもあった城下町の宿。秀吉の小田原攻めの折、壊滅的被害を被った八王子城下町より、江戸開幕時にこの地に移された。
ちなみに、この八王子三宿は後に八王子横山十五宿とも呼ばれるようになる。横山宿、新町、ホ宿、八日市宿、寺町、八幡宿、八木宿、横町、島の坊宿、小門宿、馬乗宿、子安宿、久保宿、本郷宿、上野原宿など十五の宿である。大久保長安が宿の建設に取り組み、甲州街道に沿って何町も連なる街道随一の宿場町となった、ということだ。

子安神社
一里塚跡を離れ南に下り、八王子駅入口東交差点あたりで甲州街道を渡り、少し進むと子安神社。八王子最古の神社。天平宝字3年、と言うから西暦759年、淳仁天皇の皇后・粟田諸姉(あわたのもろね)の安産祈願のために、橘右京少輔が創祀したと伝えられる。多西郡(多摩川の西側一帯)の総鎮守として武将の崇敬も篤く、八幡太郎義家が奥州出兵の折、戦勝を祈念するためこの神社に参拝したとの伝説も残る。
湧水を探す。本殿脇、一段下ったところに池。池の上には建物が建っているため、全容はよくわからないが、結構大きな池である。子安大明神の池と呼ばれる。往古、この池を取り巻く欅の大樹があった、そう。木々は船の形に立ち並び、ために「船森」とも呼ばれていた。森は竹の鼻の一里塚のあたりまで続いていた、と伝わる。
本日の散歩はこれでお終い。中野の子安明神は小宮公園の湧水源流チェックと合わせ、そのうちに再訪、ということにする。

八王子散歩;湧水を巡るⅠ

先日、日野を歩いたとき、多摩川に沿って段丘面を小宮まで進んだ。で、小宮の駅から八高線に乗り家路へと向かう時、車窓から見た八王子一帯の地形がなんとなく気になった。西には遠く関東山地の山並みが並び、近くは樹枝状台地(丘陵)が迫る。東は大きく開かれ、北と南は丘陵で遮られる。東に開かれた一帯は、浅川水系の幾筋もの河川により形づくられた複合型扇状地。八王子の街はその河岸段丘面に広がる。なかなかに複雑で、地形のうねりの全体像がすぐには思い描けない。これはもう、実際歩くに莫如(しくはなし)。 さて、どこから。ふと八王子湧水巡りを想う。いつだったか八王子の古本屋を訪ねた時、今となっては何処であったかも定かではないのだが「八王子湧水マップ」を目にしたのを思い出した。湧水点は丘陵崖下とか、川筋の谷頭などである。湧水を辿れば丘陵や、その丘陵を開析した川筋、そしてその川筋がつくりだした河岸段丘など、複雑に入り組んだ八王子の地形も少しわかるだろう。ということで、冬のとある週末、八王子へと。



本日のルート;京王線めじろ台>万葉公園>真覚寺湧水>長安寺>南浅川>水無瀬橋>横川弁天池児童公園>北浅川>大沢川>中央高速>叶谷榎池>西蓮寺・薬師堂>叶谷>中央高速>三村橋西交差点>追分>京王八王子駅

京王線めじろ台駅
めじろ台で下車。駅の周辺は宅地が広がる。駅名ともなった「めじろ台」の住宅街。昭和42年、京王高尾線の開通にもとない造成された。造成前は一面の荒れ野であった、とか。駅を北に進む。前方に小高い丘陵地。南高尾から流れ出した南浅川と湯殿川の分水界となっている。

万葉公園
丘陵に上る。丘陵南面は児童公園といった雰囲気。万葉公園と呼ばれている。旧南多摩村が八王子市に合併するとき、それを記念して公園に万葉集・東歌の記念碑を建てたのが名前の由来。「赤駒を山野に放しとりかにて多摩の横山かしゆかやらん」、というあの有名な歌である。「馬を山野に放して見失い、夫は多摩の横山を歩いていくことになった(ごめんなさい)」といった意味。防人として旅立つ夫を見送る妻が詠んだ歌。防人は馬で往来することが許されていたようである。
多摩を歩いていると、万葉集と言うか、防人の話がよく出てくる。何故に多摩=防人なのか、ちょっと考えてみる。その昔、武蔵の国造の地位を巡って笠原直使主(かさいのあたいおみ)と小杵(おぎ)が争った。直使主は大和の天皇に、一方小杵は上野(こうずけ;群馬)の豪族上野毛君小熊(小君)に助けを求める。戦に勝利した直使主は天皇家に対し、そのお礼として、横渟(よこぬ)・橘花(たちばな)・多氷(たひ)・倉樔(くらす)の地を領地(屯倉;みやけ)として献上した。橘花、倉樔は川崎や横浜、そして横渟と多氷が多摩地域である。つまりはこの八王子のあたり一帯は天皇家の東国での前進基地・戦略地域となった、とでいうこと。天皇家の直轄地であれば農民を西国警備に徴兵しやすいだろう。多摩=防人の関連は、こういったこと、か。とはいえ、単なる妄想。根拠なし。

高宰神社
万葉公園はピークを境に、広場というか公園から雑木林に変わる。眼下の広がりは南浅川によって開かれた西八王子の市街。東西に甲州街道とかJR中央線が走る。雑木林を真覚寺の甍を探しながら成り行きで下る。丘陵を下りきる辺り、寺の手前に神社がある。何気なく神社の名前をチェックする。高宰(たかさい)神社とある。なんとなく気になる名前。調べてみると、元は京王線山田駅近くの広園寺にあり、「古座主明神(おくらぬしの明神)と称していた、と。この地に遷座したのは江戸の頃。そのとき神社名を改めた。とはいうものの、ご神体ははっきりしない。一説には南北朝時代、古刹・広園寺に落ち延び落籍した南朝派貴族をまつる、と言う。
古来、広園寺あたりを御所水と呼び、南朝貴族の館とされる桜林御所があったとされる。万里小路大納言藤房卿とか、安察師大納言信房卿といった貴族がこの地に配流されたとか、流れ落ちたといった話が伝わる。そういえば、いつだったか多摩の南大沢辺りの戦車道を歩いていたとき、小山内裏公園といった地名が登場し、この「内裏」ってなんだ?と思ったことがある。そのときはよくわからなかったのだが、この南朝貴族の落人伝説となんらか関係があるか、とも。歩いていると、あれこれ襷がつながっていく。

真覚寺の心字池
高宰神社を離れ真覚寺に下る。お寺を入ったところに八王子の見所マップの案内。千人同心屋敷跡などが紹介されている。今回はいけるかどうか、成り行き次第。境内に入り本堂でお参りを済ませ池に向かう。湧水点を探すと池脇の石塔あたりから水が流れ出ている。丘陵の崖線下から湧き出た水のよう。この池は江戸の頃、蛙合戦で有名であった、とか。数万匹とも言われる蛙がこの池に集まる様が合戦さながらであった、から。現在ではめじろ台の宅地開発の影響なのか、それほどの蛙は集まらないようである。

池の畔で次の湧水点を調べる。南浅川と北浅川の合流点の少し南の横川に横川弁天池。更にその少し北、中央高速を越えたあたりに叶谷榎池がある。城山川と大沢川が合流し北浅川に流れ込む流路と北浅川に挟まれた三角州といったところ。これらの湧水は幾筋もの川筋からの伏流水なのだろう、か。距離も4キロ程度。ちょうどいい、ということでまずは横川弁天池に進む。

長安寺
成り行きで北に進み、JR中央線を越え国道20号線・甲州街道に。並木町交差点を越えると道脇に長安寺。大久保長安になんらかの関係があるのかと、境内に入る。案内はなにも、なし。あれこれチェックする。大久保長安の回向をとむらうため、なくなって13年後に建てられた、とか。
屋根の上に葵の御紋。江戸時代、御朱印10石を賜ったとの記録があるので、その証かとも思うのだが、家康の寵を失い、なくなった後は天下の罪人として一門にまで累が及んだことを考えると、さて、どういうことだろう、少々思い悩む。ま、そのうちにわかる、かと。

千人町
甲州街道を東に進む。街道の北は千人町。八王子千人同心の屋敷があったところ。千人同心のはじまりは江戸の「西門」である八王子防御であったが、太平の頃になると、その役割も変わり、日光勤番として東照宮の警護・防火にあたった、とか。町中になんらかの名残でも、とは思うのだが、これといってフックのかかるようなものは何も、なし。歩きながら、ふと信松院を訪ねようと思った。信松院は武田信玄の六女・松姫の終の棲家。寺は千人町を東に進んだ追分交差点の少し南にある。
東に進み追分交差点に。ここは甲州街道と陣馬街道の分岐点。陣馬街道は往古、案下道とも呼ばれ、浅川に沿って恩方から陣馬高原下を経て和田峠に上り上野原へと続く。江戸時代、取り締まりの厳しかった小仏の関を避ける人馬が往来したため、甲州裏街道とも称される。 追分交差点に追分道標。「左 甲州道中高尾山道 右あんげ道」とある。また、案下道・人馬街道を少し入ったところに「八王子千人同心屋敷跡記念碑」もあった。



信松院
追分交差点を過ぎ、成り行きで甲州街道を離れ南に向かう。ほどなく信松院に。お寺に近づくと結構な人波。散歩愛好家のグループにちょっと遠慮しながらお参り。信松院は武田家滅亡後、家康により召し抱えられた旧武田家臣・八王子千人同心が松姫のために開基したもの。
松姫は甲斐を逃れ、山を越え案下の里の金昇庵に辿り着く。その後、案下道脇・川原宿(河原宿)の心源院にて髪をおろし、更にこの地に移り余生を過ごす。恩方第二小学校校庭隅にある金昇庵址・碑文によれば、「信玄第六女松姫ら、勝沼開桃寺を脱し甲斐路の山谷を武州案下路の山険を踏み分け、和田峠を下り、高留金昇庵に仮の夢を結ぶ。故郷の風雪はるかに偲び肌寒きを受け、転じて河原宿心源院の高僧に参禅し、更に転じて横山(八王子)御所水に移り住み、機織りの手作りに弟妹を育つ。(中略)徳川氏江戸に入府と共に甲斐の旧臣八王子千人同心を結び、八王子守衛に来り住し、松姫の安否を尋ね、米塩の資を助く」、と。元武田家家臣であった千人同心の屋敷町近くで心安らかに余生を送ったのだろう。頼朝の娘・大姫とともに、なんとなく気になる姫である。

宗格寺
信松院を離れ、横川に向かう。再び追分交差点に。陣馬街道はどうせのこと、帰り道を歩いて戻ることになる。であれば、ということで甲州街道を少し西に進み、成り行きで北に折れる。
先に進むと南浅川の手前に宗格寺。千人同心ゆかりの寺。境内には大久保長安が築いた土手跡が残る。河岸段丘上に広がる八王子の街は水害に弱く、洪水から街を護るため八王子に陣屋をおいた大久保長安が築いたもの。石見守であった長安の名を取り石見土手と呼ばれる。
石見土手を探し境内を歩く。あれこれ探すがなかなか見つからない。iPhoneで検索。「本堂北にある」、と。本堂には隣接し庫裡というか、住職の私宅がある。誠に、誠に遠慮しながら私宅前をお邪魔し、家と塀の間にある石見土手を見つける。土手と言うより、花壇といったもの。浅川本流に築いた土手はすべて失われ、この宗格寺の土手跡は浅川の支流に築いたもの、とか。それにしても、それにしても、如何にもつつましやか。

横川弁天池
境内をはなれ通りに出る。この宗格寺前の通りは馬場横町と呼ばれる。このあたりに千人同心の馬場があった、から。南浅川を渡り北に進み陣馬街道に。水無瀬橋西詰めの少し西、南浅川に沿って北上する道を上ると道脇に横川弁天池。予想に反して児童公園といった雰囲気。どこかで写真を見たのだが、その昔は希少植物の「タコノアシ」などが繁茂し、オオサンショウウオが東京で初めて発見されたところ、といった野趣豊かな池であった、よう。北浅川からの伏流水の浸透量が減り、乾期には水がなくなるといった環境の悪化を受け、「整備」されたとのこと。相当に想像力をたくましくしなければ湧水とは見えない、かも。

南浅川・北浅川の合流点
横川弁天池の直ぐ近く、南浅川を隔てた東側に多賀神社がある。八王子の西半分の鎮守で「西の総社」と呼ばれているようだ。高宰神社を勧請したもの、と言うし、ちょっと寄りたい気もするのだが、時間が厳しそう。次回、ということに。
道を真っすぐ北に進み、団地の中を抜けると川筋にあたる。南浅川と北浅川の合流点。合流した流れは浅川となって下り、川口川を合わせ多摩川に合流する。浅川水系によって形つくられた複合型扇状地の段丘面には、その昔、桑畑が一面に広がっていたとのことだが、今はその面影はなく、一面の住宅地、となっている。

相即寺
浅川の合流点を離れ川筋に沿って少し西に進む。この川筋は城山川。両浅川の合流点近くで北浅川に合流する。最初の橋を渡り成り行きで北に進む。北浅川と城山川によって形つくられた三角州といった辺りを北西に進む。中央高速をくぐり住宅街とも町工場街とも、といった風情の街並みを抜けると、道脇にお寺の甍。何気なく境内に入る。相即寺。品のいいお寺さま。本堂の姿が誠に美しい。お散歩で結構な数のお寺様を見てきたが、印象に残るお寺さまのひとつ。八王子城の北東にあり、城の鬼門除けとして城主北条氏照の祈願所であった、と言うし、江戸期には家光より朱印状を拝領したとのこと。それゆえの寺格なのであろう、か。
山門左手に延命閣地蔵堂。八王子城落城のとき、徹底的な殲滅戦でなくなった北条方将士を供養するためつくられた。地蔵は150体ほどあった、とのこと。そのなかに、「ランドセル地蔵」と呼ばれるお地蔵様がある、と言う。米軍機の機銃掃射でなくなった我が子の面影をお地蔵様に中に見つけ、そのお地蔵様にランドセルをかけて回向した、と。第二次世界大戦の八王子空襲と時のことである。
八王子合戦で豊臣方軍勢は徹底的な殺戮戦を行ったと伝わる。寄居の鉢形城攻防戦での「寛容」なる城攻めに不興であった秀吉を怖れ、この八王子では一転情け容赦のない攻撃を行った、と。秀吉の小田原攻めでの唯一の殲滅戦であった、とか。

叶谷榎湧水
住宅街を進み叶谷榎池に。名前のとおり、湧水池脇に榎の大木が斜めに生えている。樹齢200年、と。北浅川の段丘面にある低い崖線下、と言うか道路脇の池から湧き出ている。低地面に入り込んだ北浅川の支流の先端部なのだろう。大雑把に言えば、北浅川からの伏流水。榎の根元やその周辺から浸み出すように水が湧く。浅川の合流点を見た後だけに、地下を流れる支流・伏流水のイメージも容易。

住吉神社
さて、此の先は、と思う。北東2キロほど進んだ川口川脇の清水公園や、加住南丘陵の小宮公園に湧水点がある、と言う。とはいえ、もう時間切れ。この近辺の見どころをチェックしながら、八王子へと戻ることにする。
叶谷榎湧水の近くに住吉神社。平安の頃、源頼の創建とも伝えられる古い社。その昔は、このあたり一帯は鬱蒼と木々が茂り、大きな沼があった、とか。鵜が棲み、ために鵜の森神社とも呼ばれた、よう。その沼は既になく、また大火だったか洪水だったか忘れたが、木々もなくなり、周囲はなんとなく公園といったものになっている。

西蓮寺
少し南に下ると西蓮寺。昔ながらの佇まいを残す山門を入ると右に薬師堂。安土桃山期の様式を伝える。秀吉勢の八王子城攻めのときは、ここが上杉景勝軍の宿営地。西蓮寺住職は宝生寺(陣馬街道を西に、北浅川と山入川の合流点付近にある)の住職とともの八王子合戦のとき城に籠り勝利の護摩祈願。大火に包まれるもその場を離れず壮絶な最期をとげた、と。
西蓮寺は大幡宝生寺の末寺。元は少し北の四谷にあった、と言う。現在の西蓮寺の寺域は金谷寺のものであったが、廃寺となっていた。明治になって西蓮寺がここに移った、と。ということは薬師堂って金谷寺の遺構ということ、か。ちなみに、叶谷は金谷、から。

三村橋西交差点
寺を離れ山門前の道を陣馬街道・三村橋西交差点に進む。山門前の道を逆に向かえば相即寺に続く。三村橋西交差点で陣馬街道と分岐したこの道は昔の案下道。現在の陣馬街道ができる前、案下道は相即寺へと上り、そこで西に折れ四谷、諏訪へと進んだ、と。

水無瀬橋
陣馬街道を八王子へと戻る。中央高速をくぐり、城山川を越え北浅川の水無瀬橋に。この橋には弘法大師の話が残る。その昔、全国を行脚するお大師さんがこの地を訪れる。喉の渇きを覚え橋の袂にいた老婆に水を所望。が、吝嗇なるその老婆、無下に断り、川の水でも飲め、と。お大師さんは川の水で喉を潤し、杖をひと突きし、その場を立ち去る。あら不思議、川から水が消えてしまった、と。これが水無瀬の由来。とはいうものの、橋ができたのは明治39年のこと、ではある。横川と日吉をつなぐ水無瀬橋を渡り、追分交差点で甲州街道を八王子駅へとあるき、本日の散歩を終える。

八王子散歩:案下道を辿り夕焼け小焼けの里を歩く

何も考えることなく、ひたすら歩きたいと思った。さて、どこに行こうか。と、思い浮かんだのが案下道。現在の陣馬街道である。いつだったか陣馬山に登ったとき、山稜の北側、案下川の谷筋に下った。陣馬高原下から西東京バスに乗り高尾に戻る道すがら、案下とか「夕やけ小やけの里」とか恩方、といった地名が続く。何となく気になる地名だ。
案下は仏教の案下所から。修行を終え入山する僧が準備を整え出発する親元(親どり;親代わり)の家のこと。なんともいい響きの名前だ。恩方もいい地名。奥方が変化した、との説がある。山間の奥の方、と言うところだろう、か。近くに寺方とか壱分方、弐分方といった地名もあるので、なんとなく納得できる説ではある。
その奥の方から続く案下道を下り、山峡を縫ってきた浅川が開けるあたり、圏央道が南北に走る近くには浄福寺もある。この近辺に覇を唱えた大石氏の館といった城址がある。案下城とか恩方城などと呼ばれたこの城址にも前々から訪ねてみたいと思っていた。言葉の響きに魅せられたのだろう。
今回の散歩のルートは、事前準備なしの成り行き任せ。とりあえず夕焼け小焼けの里までバスで行き、後は案下川(浅川)に沿って谷間の道を行き当たりばったりで辿り、浄福寺あたりまで下ればいいか、などと想い浮かべる。誠に、誠にお気楽散歩に出かけることにした。



本日のルート:夕焼け小焼けふれあいの里>宮尾神社>薬師堂>力石>興慶寺>狐塚>黒沼田>駒木野の旧家>浄福寺>稲荷堂>松竹橋>川原宿>中小田野

夕やけ小やけの里
京王線高尾駅で下車。駅前で陣馬高原下へのバスに乗る。駅前の20号線を越え、南浅川を渡り、廿里(とどり)古戦場跡である廿里の坂を上り北に進む。中央高速と交差し、八王子城跡入口を越え県道61号線を進み、北浅川を越え川原宿交差点に。そこを西に折れ陣馬街道に入る。道は北浅川に沿って進む。川はほどなく浅川と名前を変える。蛇行を繰り返し流れる川筋を、この道を再び歩いて下るのか、などと想いながら進むと「夕焼け小やけの里」バス停に。
バスを下り、案内を探す。バス停には案内は、なし。道を少し戻ったあたりに見える建物に向かう。途中、浅川に架かる橋を渡り、先に進むと結構多くの家族連れ。建物は「夕やけ子やけ ふれいあいの里」といった農業体験型レクレーションセンター。家族連れはそこに遊びに来た人たちであった。郷土名産店をちょっとひやかし、園の入り口にある地域観光マップで見どころをチェック。「夕焼け小やけの碑」は近くに宮尾神社にある。川沿いにはいくつかのお寺が続く。「♪山のお寺の鐘が鳴る♪」わけであるから、近在のお寺を外すわけにはいかないだろうと、場所とお寺の名前を一応チェック。道すがら訪ねることにする。

「夕やけ小やけの碑」
「夕やけ小やけの ふれあいの里」の入り口近く、都道521号線の向かい側に上り口の階段。小道を進む。道脇に石の仏が佇む。ほどなく石段と鳥居。石段を登ると宮尾神社の境内に。祭神は底筒男命(そこつつおおのみこと)、中筒男命、上筒男命などの神々。これらの神々は住吉神社三神。宮尾神社が高留住吉社と呼ばれていた所以である。宮尾神社はこの山が宮尾山であるから。高留はこのあたりの地区の呼び名。境内に童謡「夕やけ小やけの碑」。この神社神官の次男であった作詞家中村雨紅(本名高井宮吉)を記念して建てられた。ペンネームの雨紅は野口雨情の門にあったから。青山師範学校で学び、日暮里第二小学校をへて日暮里第三小学校に奉職中(1919年;大正8年)にこの歌詞を創った、と。長野の善光寺にも「夕焼け小焼けの碑」がある。作曲家草川信が長野出身であった、ため。日暮里第二小学校、日暮里第三小学校にも記念碑がある、とか。
境内の端から西に開けた谷間を見下ろす。高留の集落が見える。関場とも呼ばれ、その昔口留番所があった。詮議の厳しい小仏峠・小仏の関を避け、この道筋を通り和田峠へと抜ける人馬を取り締まった。開けた谷間の北の谷筋が醍醐川、南が案下川の谷筋。ふたつの川が合わさり、夕やけ小やけバス停の少し先で浅川となる。醍醐川の川筋を先に進むと市道山をへて秋川の川筋・笹平に抜ける、とか。この道筋はその昔、秋川筋・檜原の村人が八王子方面への往来に使った峠道。そのうちに歩いてみたい。

 薬師堂
神社を離れ、バス停あたりまでも戻る。次は案内にあった薬師堂。どういった祠かも知らず、とりあえず成り行きで進む。見つからなければ、それはそれで、よし。ふれあいの里を越え、宮ノ下地区を浅川に沿って下る。薬師堂を探し、川向こうを見やる。と、お堂らしき赤いトタン屋根が目に入る。陣馬街道を離れ、成り行きで川筋に。小さな橋を渡り、少し進むと畑の傍に地蔵堂。お堂の前には十三夜塔。昔はこの里でも月待ちの行事が行われていたのだろう。お堂は里山の風景に誠によく似合っていた。
十三夜待ちは月待ち信仰のひとつ。三日月待ち,十三夜待ち,十六夜待ち,十七夜待ち,十九夜夜待ち,二十二夜待 ち,二十三夜待ち,二十六夜待ちなどがある。月待ち信仰の中で最もポピュラーなものが二十三夜待ち。満月の後の半月である二十三夜の月が「格好」よかったの、か。皆一緒 に月を待つ。十三夜待ちは9月13日の十三夜が月輪を背負う虚空蔵菩薩の縁日であった、ため。真言密教や修験道の普及とともに広まった。月待ち信仰って、庚申待ちと同じく、庶民のささやかな娯楽ではあったのだろう。

興慶寺
畑の畦道のような小径を進み、再び北浅川を渡り戻し陣馬街道に戻る。大きく湾曲する北浅川に沿って下り、狐塚地区に入る。縄文中期の住居跡が発掘されたとの記事もあるこの狐塚で思い起こすのは、横地監物。秀吉の小田原攻めの折、上杉景勝軍などの猛攻で落城した八王子城の城代家老。再起を図り城を脱出。尾根伝いに進み、この狐塚あたりで案下道に下り、その後、醍醐、市道山を越えて檜原城を目指した、と。もっとも、八王子城にて力戦の末自刃、との説もあり、その最後ははっきりしない。それはともあれ、横地監物にまつわる後日談。横地監物の奮戦を武士の鑑とした家康は、その忘れ形見を捜し出し、近習とする。その後兄は馬術指南となり、晩年は平山に宗印寺を開基。弟は、水戸藩家老として同藩創生期の礎を築いた、と。

陣馬街道を離れ、狐塚の山麓にある興慶寺に向かう。13世紀末創建の庵がはじまり。その後広園寺の住職が開基。八王子の京王線山田駅近くにある広園寺は、鎌倉幕府の創設に貢献した大江氏が寄進したもの。和田合戦で和田義盛に与力し敗れた横山党に代わり、八王子一帯を領した。京王片倉駅の南にある片倉城も大江氏の拠点である。広園寺も堂々とした構えのお寺さまであった。それはともかく、興慶寺境内から見る里の景観、陣馬山へ続く山稜は誠に美しかった。

皎月院
黒沼田(くるみた)を過ぎ、駒木野に。立派な蔵をもつ旧家が道脇に建つ。駒木野って、高麗来野から、との説もある。高麗からの渡来人が開いたところ、と。もっとも、関東全域に帰化人の開拓の跡があるわけで、この説のインパクトは今ひとつ。また、駒木戸から、との説もある。馬を飼う牧の木戸、ということだ。八王子には由比の牧とか小野の牧など、いくつかの牧もあり、此の説もそれなりの納得感がある。
それにしても、毎度のことながら、地名の由来は諸説定まること、なし。もとは「音」があり、それに「文字識り」が文字をあてる。その文字をもとに「物識り」があれこれ蘊蓄を加える。意味が広がるわけである。とすれば、それはそれで致し方、なし。

佐戸を越え次の目的地である 皎月院(こうげついん) に進む。恩方中学を越えたあたりで陣馬街道を左に折れる。中学校の傍に 皎月院。心源院の隠居寺。心源院と言えば信玄の娘・松姫が武田家滅亡の折、甲斐から脱出し安住の地となしたところ。松姫は心源院で髪を下ろし信松尼となった。陣馬街道と都道61号線が交差する川原宿近くにある。
そういえば、「夕やけ小やけの里」の少し先、案下川と醍醐川が合流する高留地区に金昇(照)庵という庵があった、と言う。松姫が甲斐からの山越えの難路を逃れたどり着いた庵。甲斐の韮崎の城を出てから50日以上たっていた、と言う。ついでのことながら八王子市内に信松院がある。武田家滅亡後、家康により召し抱えられた旧武田家臣が松姫のために開基したもの。旧武田家の家臣よりなる八王子千人同心の屋敷町のそばにあった。松姫も心やすらかに余生を送れたことだろう。恩方第二小学校校庭隅にある金昇庵址の碑文:「信玄第六女松姫ら、勝沼開桃寺を脱し甲斐路の山谷を武州案下路の山険を踏み分け、和田峠を下り、高留金昇庵に仮の夢を結ぶ。故郷の風雪はるかに偲び肌寒きを受け、転じて河原宿心源院の高僧に参禅し、更に転じて横山(八王子)御所水に移り住み、機織りの手作りに弟妹を育つ。(中略)徳川氏江戸に入府と共に甲斐の旧臣八王子千人同心を結び、八王子守衛に来り住し、松姫の安否を尋ね、米塩の資を助く」、と。皎月院自体は誠に慎ましやかなるお寺さまではあるが、心源院=松姫とのつながりで、あれこれとフックが掛かる。

浄福寺城址
陣馬街道に戻り先に進む。ほどなく大久保のバス停。「夕やけ小やけの里」へのバスはこの大久保の停留所で道脇の空き地に入り、一回転した上で、更に先に進んだ。そのときは、「意味がわからん」、とひとり呟いたのだが、どうもこの停留所はバスの乗り継ぎ地となっているようだ。高尾からのバスはこの大久保を経由して陣馬高原下まで進むが、八王子から陣馬街道を上るバスは、この大久保が終点。空き地は八王子からのバスの回転スペースであった、よう。物事には、それなりの理由はある、ということだ。 少し進むと浄福寺。道脇に「新城跡」の案内。境内脇の小径を先に進む。庵を巻き、山中へ進む。細路を進むが結局行き止まり。山頂への道を探すが、見つからず。引き返す。堀切りとか虎口といった遺構が山中に残る、とか。とはいえ、道は整備されておらず、気軽に上れるわけも、なし。
この城址、新城とも、案下城とも、浄福寺城とも、松竹(まつたけ)城とも、千手山城とも称される。新城は本城(八王子城)に対する第二の城(支城)から。案下・松竹は地名から。千手山は寺号から。築城も大石信重とも大石定久とも。信重は大石氏の中興の祖。定久は大石氏が小田原北条の軍門に下るときの当主。どちらがこの城の築城主か不明ではあるが、そのことはそれほど気にならない。信濃の大石郷を出自とし、木曽義仲の係累と姻戚関係を結び義仲の後裔と称し、上杉管領家に仕え実力を発揮。入間からはじめ次第に勢力を拡大し、二宮館、高月城、滝山城とこのあたり一帯に拠点を築く。浄福寺城は、この過程のどこかで、甲斐への抑えに築かれたものだろう。ちなみに大石定久が養子とし家督を譲った北条氏照が滝山城を棄て八王子城を築城してからは、浄福寺城はその出城(新城)となった、と。

境内に戻る。本堂前は広場となっており、その先は石垣積みの土堤。南面した広場から松竹や大久保地区が展望される。八王子城山の山中を穿った圏央道がその北浅川を跨いで南北に走る。狭い谷間を縫ってきた北浅川が台地・扇状地へと大きく開く喉口を圏央道は一跨ぎにし、再び恩方トンネルとなって山中に潜る。
境内を離れ、陣馬街道を越え北秋川筋へと進む。上れなかった浄福寺城址の山容を眺めるため。標高360m、比高差150mといったところ。大きく湾曲した北秋川を西に戻り直し、大沢町会会館あたりにあるお稲荷さんにお詣りし、再び陣馬街道に戻る。

松竹橋
圏央道をくぐり、松竹橋(まつたけ)交差点に。このあたりは八王子城の搦め手。八王子の城攻めの際、大手口からの前田利家勢と呼応し戦局に決定的打撃を与えた上杉景勝軍の進撃路。松竹橋を渡った先に八王子城へと上る道があるよう。先日八王子城の城山方面からこの松竹へと下る道を探したのだが、結局みつからなかった。いつか、この松竹口から城に上ってみたい。どうせのこと、薮漕ぎの難路ではあろう。ちなみに、松竹は昔、松嶽と表記されていた、と。松嶽稲荷神社があるのは、その名残、か。

川原宿交差点

川原宿道を進み川原宿交差点に。陣馬街道と都道61号線が交差する。この都道61号線って、その昔の鎌倉街道山の道。秩父道とも呼ばれ、高尾から川原宿を経て、川口川筋の上川橋、そして秋川筋の網代へと進む。高尾からこの秩父道を辿り、妻坂峠を越えて秩父に入ったのは何時だったのか。懐かしい。
川原宿は往古、案下道と鎌倉街道が交差する交通の要衝であり、そこに宿ができたのだろう。川原宿交差点の近く、北浅川の南に心源院がある。

日も暮れてきた。川原宿橋を渡りその先、中小田野バス停あたりで本日の散歩を終了する。後日談ではあるが、この中小田野の少し東、北浅川と小津川・山入川が合流するあたり、陵北大橋の北にある宝生寺を訪ねたことがある。折しも夕暮れ。橋から見た陣馬の山々の夕焼けは誠に、誠に美しかった。夕焼け小焼けの作詞家・中村雨紅は夏冬の休暇には、八王子から案下道を実家のある高留へと歩いて往来した、と言う。陣馬の山陰に沈む夕日。案下の谷間に続く浄福寺、皎月院、心源院、興慶寺などの寺。その寺から打ち鳴らされる鐘の音。家路へとはやる帰郷の心。夕焼け小焼けの詩情を育んだ情景って、このような景観であったのだろう、か。

ちなみに、夕焼け小焼けの、小焼け、ってなんだろう。気になった。口調を揃えるため、との説もある。「仲良し・小よし」、「粋・小粋」、「しゃく・こしゃく」、「憎らしい・こにくらしい」などなど。また、夕焼けを描写する表現とする説も。夕焼けの空が赤く染まる「大焼け」、雲の下からあたる一瞬の赤焼けを表す「中焼け」、そして沈んだ太陽の余韻で赤く染まるのが「小焼け」とか。どちらにしても、美しい言葉ではある。

八王子散歩 湯殿川支流の谷戸を辿る

湯殿川支流の谷戸を辿る
先日八王子南郊の湯殿川を源流へと辿った。南高尾の山稜を切り開いて流れるこの湯殿川には、南高尾から多摩丘陵へと連なる丘陵地帯から寺田川や殿入川などの支流が合流する。合流といっても、ささやかな流れ、ではある。地形図を見ると、そのささやかな流れは樹枝状に入り組んだ谷戸から下っている。寺田川は鍛冶谷戸、殿入川は殿入谷戸。源流点となる谷戸や谷戸奥の丘陵って、どういう景観なのだろう。ということで、湯殿川のふたつの支流を辿り源流点の谷戸を訪ねることに。
ルートは、寺田川を辿り源流点に。そこから成り行きで丘陵を越えて殿入谷戸に向かい殿入川源流点に。そこから谷戸を湯殿川の合流点まで下る、といったもの。谷戸の風景が楽しみである。



本日の散歩;京王線山田駅>湯殿川・大橋>湯殿川・白幡橋>鍛冶谷戸>寺田川源流点>法政大学グランド>殿入谷戸>淡島神社>龍見寺>湯殿川・和合橋>京王線狭間駅

京王線山田駅
京王線に乗り、京王線山田駅に向かう。寺田川と湯殿川の合流点最寄りの駅である。京王線片倉駅を越えたあたりから、車窓より湯殿川の南に広がる丘陵が見えてくる。時には遠く富士山が姿を現すこともあるのだが、本日は雲に遮られ眺めは、なし。
山田駅で下車。駅名の由来は駅北を下ったところを流れる山田川から、だろう。川に沿って古刹・広園寺がある。それはともかく、本日の散歩は広園寺とは真逆の方向。駅前の道を南に下る。東京都道・神奈川県道506号八王子城山線。八王子市の甲州街道・横山交差点から町田市西部・相原十字路を経て相模原市北西部へと下る。相原で七国峠を越える多摩丘陵横断ルートである。

湯殿川・大橋
道なりに南に進み椚田遺跡公園通りとの分岐交差点に。丘陵下に湯殿川の流域が広がる。誠にいい眺めである。道の左手に五重塔に見えたので、ちょっと回り道。道からちょっと境内を眺め、成り行きで崖線を下る。比高差30m弱の段丘崖を下る坂道の廻りは住宅がビッシリ。
北野街道・小比企町交差点に下り、湯殿川に架かる大橋に進む。「比企=ヒキ」はハケ=崖、から。ちょっとした崖がある町、といった意味か。大橋からは湯殿川に沿って白旛橋に。

寺田町
白旗橋の先に南から寺田川が合流する。ここからは湯殿川を離れて寺田川を源流点へと辿ることになる。合流点にある公園を抜け、川筋を意識しながら道なりに進む。川筋と付かず離れず寺田町の民家の間を進む。ほどなく川筋はふたつに分かれ、ひとつは西に、もうひとつは南へと進む。今回の目的地である鍛冶谷戸は西への川筋。南に分岐した川筋は大船町の先の谷へと続き、その谷戸奥の丘陵を進むと七国峠の山稜にあたる。
七国峠には鎌倉街道が通っていた。峠から北は南のシティの宅地開発により道は断ち切れているが、峠から南、相原十字路近くから七国峠には古道跡が残る。掘割りや切り通しの道が懐かしい。それはともかく、西への水路に沿って道なりに進むとほどなく車道に出る。この道は、先ほど京王線・山田駅前から下った都道506号線であった。

めじろ台グリーンヒル通り
都道を少し南に進み、道に交差する寺田川を確認する。川筋は西へと流れるが、川筋に沿って道はない。少し北に戻り寺田橋交差点に。そこを左に折れ、めじろ台グリーンヒル通り・寺田町東交差点に進み、大きく迂回して再び川筋に合流する。
寺田川は更に西に進む。再び川筋には道がない。しばし直進し、成り行きで右に折れる。雑木林の残る丘陵の裾を回りこみ、ふたたび川筋に。川筋の向かいの丘陵には榛名神社が鎮座していたが、気付かないで通り過ぎた。川の西を進むと、ほどなく川筋に向かう道がある。小径を進み、川というか小川となった寺田川を東に移る。ゆるやかな坂の道を成り行きで進むと大恩寺の裏手の駐車場に出る。駐車場から本堂への道はあるような、ないような。本堂脇の小径を進み道路に出る。小径脇には牛舎。数頭の牛がこちらを凝視。道脇の地蔵尊を見やりながら、水路と付かず離れず進み寺田町西交差点に。

寺田川源流点
寺田町西交差点を越えると車道の東側に細路が続く。道を離れ水路に沿って進む。民家の裏、犬に吠えられながら進むと水路は再び車道下に潜る。地図では水路がここで切れているのだが、ひょっとして、と車道の西側をチェックする。ささやかな水路が先に続く。ほとんど民家の軒先といった水路脇を遠慮がちに進む。道などない。畑の畦道を浸み出すといった水路に沿って谷戸奥に向かう。谷戸の最奥部で水路は丘陵へと入り込んでいく。ブッシュの中、藪こぎでもすれば源流点まで進めないことのないのだが、これで十分。寺田川がはじまる地点から谷戸の景観を眺める。三方を丘陵で囲まれ、その間の平地には畑地が広がる。如何にも谷戸の典型といった景観である。

谷戸とは丘陵が湧水に因って削られた谷間の低地のことを言う。三方が丘陵によって囲まれた平地のとっつき、扇の要のところは小川の源流域。丘陵の湧水を集め平地へと流れ出す。人はその水を水田となし、豊穣を祈って谷神を祀る。これが小山田とか山田と呼ばれる景観である。柳田国男は「古い土着の名残を留めた昔懐かしい良風景の地(『海上の道』)」と描く。
往古、人は安住の地を求めて川を遡った。「地理測量のまだおぼつかない世の中では原は木がなくてもなお一つの障壁であり、これを跋渉することは湖をわたるほどの困難であった。その上に外界の不安面が広がるので、人は近代になるまでくだってこれにつくことをこのまず、依然として水の音を慕って川上にさかのぼった(『地名考察;柳田国男』)」、と。川を遡り、その行き止まりの地が谷戸の里である。三方を丘陵で囲まれ外敵への備えも容易。丘陵からの清浄な水も手に入る。谷戸の里を人は安住の地をとなした。谷戸の風景に惹かれるのは、終の棲家の歴史的原風景である、といったことも、その遠因であろう、か。


丘陵越え
畑の畦道を戻る。来た道を再び、というのも芸がないので、辺りを見渡すと谷戸の西側丘陵に一筋の道が見える。丘陵に上っている、よう。地図を見ても道はないのだが、成り行きで進むことに。農道を丘陵へと進む。一面に畑地が広がる丘陵地を進む。畑地が切れ雑木林がはじまる辺りに丘陵地散策コースの案内。今ひとつわかりにくい地図ではあるのだが、とりあえず先にも道が続く、ということである。ちょっと安心して雑木林の中をゆったり進む。前方は穎明館(えいめいかん)という学校の敷地の、よう。
雑木林の中を道なりに進むと館清掃工場裏に出る。その南は法政大学のグランド。野球部が練習している。道は二つに分かれる。さてどちら?と、分岐点のところに、ほとんど消えかけた道案内。なんとなく、「館町バス停」といった文字が見える。右に折れ、清掃工場のフェンスに沿って進み「館町清掃工場入口交差点」に出る。

殿入川源流点
地図を見るとこのあたりが殿入川の上流端。清掃工場のすぐ近くまで水路が続くが、どうも清掃工場の構内のようである。中には入れそうもない。どこか川筋へと道を探すと、すぐ北にある穎明館(えいめいかん)という学校付近に橋がある。橋から川筋へでも、などと思い描く。道を下り橋に向かうが、谷筋が深く辿れるような道もない。橋の上から源流あたりを眺める。
橋を渡れば穎明館(えいめいかん)。校名は、明治10年に初号を発刊した子供向けの井の投稿雑誌「穎才新誌」に因る。子供達が投稿した作文・詩・書画を掲載した。山田美妙、尾崎紅葉、大町桂月といった文学者も、この投稿誌で文才を磨いた、と。ちなみに、穎明=英明。すぐれた才能。また、その持ち主。秀才、と言うこと。

殿入谷戸
橋から道に戻り、坂道を下る。左右を丘陵で囲まれた谷戸の景観が広がる。坂道の右下、川横の自動車や家電の廃棄工場が谷戸の風景には少々の違和感もあるが、それでも典型的な谷戸の景観を残している。なかなかに広がり感のある谷戸である。ちなみに、「殿入」の由来はなんだろう。宮中を警護する舎人(とねり)は殿入から、とも言われるが、この地を舎人と関連づけるのは違和感がある。なんだろう?ちょっと閃いた。殿って「しんがり・最後部」って意味がある。谷の最奥部、とでも言ったものであろう、か。単なる妄想。根拠なし。

淡島神社
谷戸の道を下ると道脇に小さな祠。淡島神社とある。誠に、誠に小さな祠に惹かれてあれこれ眺めていると、近くで農作業をしていた方が親切にも声を掛けてくれた。お話によると、淡島さまは享保の頃に祀られた。元々は丘陵の頂に祀られていたのだが、それではお年寄りがお参りするのに難儀だろう、ということで、この地に移した、と。
淡島神は、安産・子授けなど、女性への強力なサポーターである。淡島さまとは住吉神の妃神である、との説がある。このあたりが遠因だろうか。淡島様が全国に広まったのは淡島願人と呼ばれる半僧半人の願人坊主に負うところが大きい、とか。祠を背負い、鈴を振りお祓いをして全国を廻った。
願人坊主で思い出すのは葛飾半田稲荷の願人坊主。時は明和・安永の頃(1764 - 81年)、体中赤ずくめの衣装を着で「葛西金町半田の稲荷、疱瘡も軽いな、発疹(はしか)運授 安産守りの神よ。。。」と囃し江戸を練り歩き、チラシを配る坊主がいた。この坊主は神田在の願人坊主。半田稲荷のキャンペーン要員として雇われた。で、この販促企画が大ヒット。この坊主が来ると、景気がよくなるとまで言われ、半田稲荷への参拝者も増え、」その人気故、歌舞伎にまで取り上げられた、と言う。

湯殿川・和合橋
淡島神社を離れ、右手に殿入中央公園の丘を見やりながら道を下る。道脇に殿入川のささやかな流れを見ながら道なりに進む。時々後ろを振り返り、谷戸の景観を眺める。ほどなく道の右手に、先日訪れた龍見寺大日堂の小高い丘を眺め、先に進むと湯殿川・和合橋に出る。和合橋って各地にあるが、隣接する村々が「合い和す仲良く」しましょう、といった命名由来が多い。この橋は、さて如何に。

京王線・狭間駅
湯殿川を渡り、北野街道を越え段丘崖の坂道を上り国立東京工専前に出る。椚田遺跡公園通りを西に進み狭間駅入口を北に折れ京王線・狭間駅に。狭間は丘陵と丘陵の間に奥深く入り込んだ谷地を指すのだろう。この駅周辺は丘陵地の上であり「挟まれる」ものはないが、丘陵を下った町田街道の狭間交差点あたりは、如何にもの「狭間」であった。台地上は新開地、台地下が昔の狭間の集落だったのだろう、か。ともあれ、本日の散歩はこれでお終い。

八王子散歩:湯殿川を上流端へと

久しぶりの川歩き。八王子南郊、南高尾の山陵を切り開いて流れる湯殿川を歩く。いつだったか、京王片倉にある片倉城址を訪れたとき、その脇を流れる湯殿川を眺め、そのうちに源流まで歩いてみたいと思っていた。また、高尾に向かう途上、京王線片倉駅を過ぎた辺りの車窓から見える景観、湯殿川の南に広がる小比企丘陵、時には遠景に富士を配したその景観に惹かれていた。
湯殿川の北には高尾の山稜から舌状に張り出した子安丘陵。南浅川との分水界となる。南には小比企丘陵。樹枝状の開析谷が入り組んだ丘陵は多摩丘陵へと連なる。丘陵や谷戸、河岸段丘面や段丘崖。地形のうねりの妙に惹かれて湯殿川を源流点へと辿ることにする。



本日ルート;京王線長沼駅>浅川・湯殿川の合流点>京王線北野駅>北野街道と野猿街道>兵衛川合流点>片倉城址>松門寺>小比企町>椚田遺跡公園>御嶽社>宝泉寺>龍見寺>浄泉寺>御霊神社>町田街道>湯殿川上流端(拓殖大構内)>鎌倉街道山の道>京王線高尾駅

京王線長沼駅
京王線長沼駅で下り、浅川と湯殿川の合流点に向かう。長沼の名前の由来には浅川の伏流水による大きな沼があったから、との説がある、また、武蔵七党・西党の長沼氏から、とも。京王線稲毛駅近くに長沼五郎宗政の館もあった、とか。五郎宗政は源頼朝に仕えた武将とも伝わるが、詳しいことは不明。

湯殿川と浅川の合流点
駅を出て湯殿川が浅川に合流する地点へと向かう。合流点に長沼橋。広々とした浅川流域の段丘面のその先に豊田の段丘崖が見える。崖線に沿って黒川の湧水を辿ったことがなつかしい。それにしても広々とした浅川の段丘面である。気の遠くなるような長い年月をかけて形作られたのであろう。
浅川は浅川水系の幾筋もの河川が合流してつくられる。水系は北から川口川、山入川・小津川を集めた北浅川、そして南浅川。これらの河川が八王子中央部で合わさり、浅川となり南東に下る。この長沼の地で湯殿川を合わせた川筋は、多摩丘陵に遮られ北西へと流路を変え、高幡不動辺りで多摩川へと合流する。

京王線・北野駅
浅川との合流点から湯殿川に沿って進む。ふたつの人道橋を見ながら進み都道174号線・春日橋に。北に進めば京王線八王子駅近くの明神町向かう道。京王線の高架下を進み都道173号線・北野街道に。先に進むと八王子バイパス・打越交差点。すぐ北に京王線・北野駅がある。北野の地名は北野天神から。横山党が京都の北野天満宮を勧請した。
この北野駅前・打越交差点には東西南北から道が集まる。東西に走る北野街道には都道160号線・野猿街道が南東から合流し、南北には八王子バイパスの高架橋が走る。地形での制約でもあるのかと、地形図をチェックする。 北東から進み南西に向かう浅川の川筋、開析された谷間を西へと延びる湯殿川の川筋、北西へと下る兵衛川の川筋。道は川筋に沿って延びるわけで、その交点が北野駅あたり、ということだろう。交差点の「打越」も、打=狭い谷・崖、越=ふもと・崖、といった意味もある。谷間からの川筋=道筋が、この地で合流・交差する所以である。



東橋で兵衛川が合流
打越大橋、時見橋、八幡橋をやり過ごしJR横浜線をくぐり打越橋で北野街道にあたる。北野街道はここから西は湯殿川の北を進むことになる。先にすすむと東橋。橋の少し西で兵衛川が湯殿川に合流。御殿峠近くの源流点から、南北に深く切れ込んだ谷筋を下る。合流点を越えると新山王橋。南に下ればJR横浜線片倉駅前に出る。

片倉城址
その先、住吉橋で東京環状16号線に。住吉橋は少し南の片倉城址に鎮座する住吉神社、から。片倉城は鎌倉幕府開幕時の重臣、大江広元の子孫・長井氏の築城、と。元は此のあたり一帯は、横山党の領地であったが、和田義盛と北条の抗争に際し、和田方に与力し敗北。その地を北条勝利に貢献した大広元に与えられもの。
住吉神社は室町期、城主長井氏が摂津の住吉社を勧請したとか、大江某が領地・長門の住吉社を勧請したとか、あれこれ。片倉城の鬼門除けとしてまつられた。住吉神社の祭神って、伊邪那岐大神の子供である底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命。神功皇后が三韓征伐の際、この住吉三柱の守護により無事に目的達成。摂津国西成郡田蓑島(現 大阪市西淀川区佃)におまつりしたのがはじまり、と。住吉神社は全国に2,100ほどもあるそうだ。

松門寺
片倉城址は先日の散歩で訪れたので今回はパス。住吉川を越えると川筋の南に公園。その南に片倉城址の丘。比高差20m程度だろう。道の先には寺の甍が見える。風原橋を越え時田大橋で南に折れ、台地上のお寺様に。松門寺(しょうもんじ)。15世紀末、八王子駅近くの子安町に開基し、16世紀末には寺町に移る。第二次世界大戦の八王子大空襲で焼失。1969年、八王子の区画整理にともないこの地に移る。元は密教系の寺院であったものが、下恩方・川原宿近くの心源院から高僧を請し、曹洞宗の寺院となった。参禅会が盛んに行われている遠因だろう、か。

由井
お寺を離れ川筋に戻る。先に進むとカタクリ橋。このあたりが片倉町と小比企町の境となる。稲荷橋の脇には稲荷神社の森。少し寄り道しお参り。神社の横には由井第三小学校。そういえば、このあたりに由井と名前の付いた学校が多い。京王片倉駅の北に由井中学校、南に由井第二小学校。片倉に何故、由井?調べてみると、南北朝の頃、このあたり一帯は由井郷(由比郷)と呼ばれた。後北条の頃、由井領(由比領)となり明治の頃は由比村であった。片倉町となったのは由比村が八王子市に合併されてから。 ちなみに、「ゆい」の語源は、湧水地帯、湿地帯、清らかな水辺、といった意味、と。湯殿川と兵衛川に囲まれた低湿地であったのだろう。

小比企町
稲荷橋に戻り先に進む。周囲は大きく開ける。湯殿川が流路定まらなく流れた往古、気の遠くなるような時間をかけて形づくられた河岸段丘であろう。このあたりの湯殿川の川筋は一直線に進む。河川改修の結果だろうが、それって蛇行し水害の多い一帯であった、ということの証でもあろう。
川の北は崖線が続く。湯殿川の段丘崖。この辺り、小比企町と呼ばれるが、「ヒキ」は「ハケ=崖」から、と言われる。言い得て妙なる地名である。ちなみに片倉の地名も「カタクラ=集落の片方が崖」とも。カタクリの群生する地、という地名の由来説より納得感が高い。
一直線の川筋を殿田橋、釜土橋と過ごし大橋に。大橋を越えると北野街道が接近。湯殿川もだいぶ細くなる。細くなるに従い、水の汚れが気になる。実際、湯殿川に生活用水が流されなくなったのは、それほど遠い昔のことではないようだ。河床の地質なのか、汚れなのか、もやっとした水の色がちょっと気になる、

椚田町
大橋を越えると小比企町から椚田町へ入る。白旗橋の先で寺田川が合流。寺田川の源流点は鍛冶谷戸。合流点を南西に下った寺田西交差点の奥にある。丘陵から浸み出した流れは谷戸奥に集まり、開析された谷筋を下ってくる。流れを囲む丘陵には東は「グリーンヒル寺田」、西は「ゆりのき台」といった今風の名前の宅地が開発され、のどかな、というか、のどかだった寺田町も少々様変わりしている、よう。

椚田遺跡公園
先に進み船橋、椚田橋へと。次の目的地は椚田遺跡公園。ちょっと川筋を離れることになる。椚田中学の東脇を進み北野街道を渡り成り行きで北に進み段丘崖を上る。比高差30m弱といったところ。現在の湯殿川では想像できないのだが、往古の湯殿川って、どういった規模の川であったのだろう。
いつだったか、津久井湖の近くの串川を歩いたことがある。この串川流域の発達した河岸段丘には誠に魅せられた。今ではささやかな川筋ではあるが、往古、現在の相模川の川筋をも集めた大きな規模の川であった、とか。湯殿川にはどのような地形のドラマがあったのだろう、か。
段丘崖を上る。椚田遺跡通りを越え椚田遺跡公園に。1975年、区画整理の時にこの地で縄文中期から古墳時代後期の遺跡が見つかった、と。現在は埋め返され公園となっていた。ここで発掘された土器や土偶は八王子の郷土資料館に展示されているとのこと。女性の土偶では、足や腕が意図的に欠けているものが多い、とか。豊穣や多産を祈った、との説がある。
ちなみに、椚=クヌギ、そのクヌギの実(ドングリ)は縄文時代の主食のひとつ。縄文土器もドングリの灰汁抜きにも使われた、とも言われる。往古、このあたりは椚田郷と呼ばれたわけで、クヌギの群生する一帯であったのだろう。八王子には北の加住丘陵のほうには椚谷遺跡もある。

館町
公園を離れ成り行きで段丘崖を下る。坂の途中に社の屋根。坂を下りきったところから石段をのぼり御嶽社に。お参りをすませ湯殿川・境橋に。この辺りから椚田町を離れ館町に入る。南の丘陵上にトヨタ東京自動車大学校。自動車整備の専門学校。
田中橋の先には横山第一小学校。なぜ、この椚田に横山が?チェックすると、明治の頃、この辺り一帯、北の散田、長房、椚田、南の館、寺田、大船地区は横山村であった。ということは、この小学校って、この地の明治の歴史を今に伝えるってこと、か。
新田中橋を越え新関橋に進むと、その先に殿入川の合流点。殿入谷戸から開析谷を下ってくる。殿入谷戸のもつ典型的な谷戸の景観が印象に残る。

龍見寺
新関橋の先に和合橋。この辺りには神社・仏閣が点在する。北野街道脇に宝泉寺。室町後期の開基、とか。本堂を街道から見やり、湯殿川に戻り南の龍見寺に進む。木々の茂る小さな丘を目安に道を進むと道脇にお堂に向かう小径。道を上ると龍見寺の大日堂前にでる。
雰囲気のあるお堂。中には都文化財、藤原時代末期の作と伝わる大日如来座像が鎮座する。寺伝によると、横山党の横山経兼が、前九年の役に源頼義に従い奥州に出陣。湯殿山で戦利品として持ち帰った、と。湯殿川の名前の由来も、ここにあると言う。大日堂を下った本堂前に池がある。その昔、大日堂付近にも湧水があり、そこが湯殿川の水源のひとつでもあった、とのこと。その名残であろう。
この龍見寺一帯は横山氏の館があった、とも。地名が館であるだけに、妙に説得力がある。実際、椚田、高尾、初沢、東浅川一帯は横山庄椚田郷と称し、横山党をその祖とする椚田氏が館を構えた、と。高尾駅近くの初沢城は椚田氏の城、といった説もある。もっとも、八王子であれば、どこを掘っても横山氏には出会うだろう、が。

浄泉寺
龍見寺を離れ民家の間の小径を縫って進む。丘の上に浄泉寺。寺域には平安末期、桓武平氏の末裔と伝わる鎌倉五郎影政の館があった、と伝わる。影正は前九年の役、源頼義に従い出陣、また、後三年の役では八幡太郎義家に従軍し討ち死にした、と。勇猛の士として知られる。なんだか、龍見寺に伝わる横山某の縁起と良く似た話である。
時代は下って戦国末期、八王子城主・北条氏照の家臣、近藤出羽守助実がこの地に館を構える。近藤砦とも呼ばれるのは、八王子城の出城でもあったのだろう、か。出羽守は八王子城合戦の時は城に籠もり討ち死にした、と。浄泉寺は近藤出羽守助実の開基、とも。

御霊神社

寺を離れ民家の間の小径を進み御霊神社に。鎌倉権五郎影政を祀る。天正時代、八王子城の南の外郭、御霊谷戸に祀られていた御霊神社を、近藤出羽守がこの地に勧請した、と。
御霊谷戸に祀られていた御霊神社って、鎌倉時代、梶原景時が鎌倉から勧請したわけで、その祭神は鎌倉権五郎。おや??鎌倉権五郎って、ひょっとして鎌倉の地名の由来ともなった、あの鎌倉氏?梶原氏、村岡氏、長尾氏、大庭氏とともに関東五平氏とも呼ばれた、あの鎌倉氏?とすれば館は鎌倉である。浄福寺が鎌倉権五郎の館址って話には大いなる疑問符。鎌倉権五郎館伝説は、近藤出羽守が勇猛・勝利の守り神として御霊神社をこの地に勧請した結果、いつしか祭神鎌倉権五郎が一人歩きし、館址といった話ができたのでは、と思う。

ついでのことながら、御霊神社って、全国にある。大きく分けて怨霊鎮護のものと、祖先神を祀るもののふたつ。鎌倉の御霊神社は祖先神系。





もともとは五霊神社と呼ばれていたように、関東五平氏の祖先神を祀っていた。その後、名前も御霊、祭神も武勇で知られる鎌倉権五郎ひとりとなった。梶原氏が御霊神社を勧請したのは、もとの祖先神を祀るためであろう。

湯殿川上流端
神社裏手から湯殿川に出る。西明神橋。現在工事中。この辺りは水路脇には道はない。道なりに進み民家の間を進むと湯殿川に。人ひとり通れる人道橋・地蔵橋を渡ると小さい公園。上館公園。公園先を成り行きで進むと町田街道に出る。
町田街道に掛かる橋・湯島橋で湯殿川をチェックし、町田街道を離れ拓殖大学に通じる道を進む。と、道を跨ぎ巨大な橋桁が建設中。南バイパス館高架橋。圏央道に繋げるようである。 拓殖大学の構内を少し進むと石橋。山王橋と呼ばれるこの橋の脇に「湯殿川上流端」の標識があった。石橋の先は地下水路。湯殿川は地下水路をくぐり拓殖大学の構内に導かれる。地図を見ると構内とその先に調整池がある。南の調整池の先に水路が見える。源流はその水路が切れるあたりだろう。ふたつの調整池の間は水路が切れている。キャンパス造成で水路が途切れたのだろうが、暗渠で繋がっているか、とも。

源流点へ行きたしと思えども、日暮れも近い。地図を見ると、調整池から辿るか、源流点東の権現谷戸とか西の初沢川経由でも源流点に行けるような、行けないような。
『流域紀行八王子;馬場喜信(かたくら書店。1982)』に「館のバス停から車のひんぱんに行き交う鎌倉街道を渡って旧道に入る。しばらくすると「一級河川湯殿川上流端」の木標があり、 そこからいよいよ水源への道となる。T大学敷地の造成工事中だった。しばらく歩くとその騒音も背後に去って、両側からおおいかぶさるような樹林の中を、 山道が川沿いに確実に続いていた。これなら水源の山を越えて、向こうの谷に抜けられると思った。ところが流れが狭まり谷が2つに分かれる所で、道はばったり途絶えていた」、とあった。結構厳しそう。薮漕ぎ承知で、そのうちに、ということで、本日の湯殿川散歩はこれでお終い