日曜日, 4月 09, 2023

八幡浜街道散歩;卯之町から笠置峠を経て八幡浜へ その②

先回、八幡浜街道散歩の第一回は西予市の卯之町からはじめ、笠置峠を越え八幡浜市域、西の三瓶方面からの谷筋、また東は鳥越峠の谷筋からの水が合わさる地点の釜倉の集落までをメモした。 今回は釜倉の集落から五反田川の谷筋に沿って北へと進み八幡浜の地名の由来ともなった八幡浜市内に鎮座する八幡様までを繋ぐ。距離はおおよそ7キロ。
「愛媛県歴史の道調査報告書」にあるルート図では往昔の八幡浜街道は谷筋を走る県道25号に沿って流れる五反田川の左岸、右岸を抜けているようではあるが、時に旧路に入るも道は藪となり、あるいは崩壊し旧路をトレースすることは出来ず、結局は県道25号を進むことになった。


本日のルート;枇杷ヶ淵>若山>双岩の地蔵>夫婦岩>日ノ浦の遍路道標>布喜川橋の道標>川舞の六地蔵>元井橋を渡り五反田川左岸を祇園八尺神社前に>祇園八尺神社>四国山>明治橋>八幡神社


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釜倉集落より八幡浜へ

杷ヶ淵
釜倉集落より先のルートは、「愛媛県歴史の道調査報告書:八幡浜街道(以下「調査報告書」)」には「三瓶方面からの道(県道252 号)と合流し、釜倉橋を渡ると右手斜面の法面に細々と本来の往還が一部に残っている。法面造成時に削られ、本来の幅をとどめていない。やがてその道も途切れ、しばらくアスファルトの県道を歩くと、笠置峠下を長いトンネルで抜けていた県道25号八幡浜宇和線と合流するすぐ手前で、左側下の五反田川への降り口がある。ここは「枇杷ヶ淵」と呼ばれ、かつては五反田川を渡る飛び石があった。
細い木橋で川の左岸に渡ると、荒れてはいるものの道が残っている。途中、 警報機もない小さな踏切でJR予讃線の線路の左に渡り土道が続く。またすぐに線路の右に戻ると、道幅が広がりコンクリート舗装となるが、谷あいの長閑な道をゆっくり下っていく」とある。 先回の最終地点、釜倉出店の石造仏群の先で三瓶より来た県道252号に出る。道を進み釜倉橋を渡ると、右手に「調査報告書」にある法面が見える。法面上に上るアプローチはあるのだが、道は直ぐに切れているように見える。
法面上の細路もすぐ切れる
笠置峠越の駐車場が整備されていた
法面に上ることなく先に進むと道の左手に「国指定史跡 八幡浜街道 笠置峠越駐車場」が整備されている。「国指定史跡」とあるわりには、笠置峠越の八幡浜市域には充実した西予市域側に比べて標識の整備がほとんどされていない。整備が望まれる。 その先、県道252号を進むと笠置トンネルを抜けてきた県道25号合流する。ここから先、五反田川に沿った道は県道25号となる。
杷ヶ淵の木橋
直ぐ藪となり道は消える
合流点の少し手前、五反田川に架かる木橋が見える。「調査報告書」にある枇杷ヶ淵がそれだろう。県道を逸れ少々危うい木橋を渡り先に進む。が、直ぐ藪に阻まれる。時間に余裕があれば藪に入るのだが、時間がタイト。大人しく県道を歩くべく、引き返す。
藪が切れた辺り、線路を渡る土径が見えた
県道を歩きながら、それでも旧路が気になり五反田川筋を見遣りながら進むと、県道252号と25号が合流する直ぐ手前辺り、激しい藪が切れたところに鉄路をクロスするような土径が見えた。「調査報告書」にある、「踏み切りのない予讃線を左に渡る」とある箇所だろう。藪を進めばそこに出たのではあろうかと思う。


若山
あちこち彷徨うが薬師堂は見つからず
「調査報告書」には、五反田川左岸を進む旧路より「五反田川右岸の景色を見渡すと、双岩中学校の少し手前にこん も りとした森が見える。ここの若山薬師堂は小ぶりではあるが、精緻な組物や大きく広がる垂木が風格を感じさせる建造物で、天保10年(1839)の建立である。また、境内のイブキは高さ約17メートル、目通り幹廻り約4.8メートルで、樹齢は600年以上と推定され八幡浜市の記念物に指定されている。 地区住民から「お薬師のビャクシン」として親しまれている」とある。
その途次、いい感じの小祠
五輪塔と言った風情の石造物が祀られていた
ちょっと寄り道。双岩中学校は閉校となっているが、それらしき辺りを彷徨う。行きつ戻りつ結構探したのだが結局たどり着くことはできなかった。その代りになかなか趣きのあるお堂に祀られる石造仏に出合ったのがせめてもの慰み。しかし、薬師堂は一体どこにあるのだろう、

双岩の地蔵
村橋を渡り左岸に移ると
双岩の地蔵
「若山地区に来ると、一旦川沿いの道が途切れる。 右折して県道に出ると、JR双岩駅はすぐである。双岩駅の北100メートルほどの所は、かつての双岩小学校跡であり、そこから本村橋を渡った所に祠があり、地蔵が祀られている。舟形の光背部分に享和三年(一八〇三)の銘があり、近隣の住民により大切に祀られている。ここはかつて往還に面していたと考えられ、下流側も五反田川の左岸に往還があって、夫婦岩の横を通過するようになっていた」と「調査報告書」に記される。
線路に沿って往還跡を進むが
沢で道が崩壊し、先に進むことはできなかった
県道を進み予讃線双岩駅の少し先、県道を左に折れ本村橋を渡ると小祠があり、地蔵尊が祀られる。地蔵尊より線路に沿って道がある。旧路が続くことを願い先に進むが、ほどなく沢がありそこで道が崩落していた。先に進めず引き返す。

夫婦岩
夫婦岩
夫婦岩の山側を抜けると
県道を進むと五反田川左岸に夫婦岩 が見える。「調査報告書」には「夫婦岩は、五反田川と中津川の合流点付近に立つ奇岩である。大きい方が高さ約11.5メートル、小さい方が約9.6メートルあり、二つの岩が向き合うように立つことからこの名がついた。旧村名の双岩村も、この岩に由来している。 本村橋からの五反田川左岸の往還は途中で途切れているが、夫婦岩の近辺には遊歩道となって往還の一部が残っている。 この近くにある予讃線のトンネルの上までは往還の痕跡が見られるため、予讃線の線路建設により往還が消滅した部分もあると考えられる」とある。
県道25号を逸れ五反田川に架かる橋を渡り奇岩を見遣りながら鉄道高架橋下を潜り五反田川左岸に移る。
夫婦岩の南は崖で道はなく進めない
北へと進む道も直ぐ急斜面の崖。引き換えす
「夫婦岩の近辺には遊歩道となって往還の一部が残っている」と「調査報告書」にあるため夫婦岩 へと向かう道を上る。が、夫婦岩 の南の土径を抜けるとその先は道が切れ崖となり先には進めない。「調査報告書」にあるように「線路建設により往還が消滅した」のだろう。
逆に夫婦岩から八幡浜方面へと続く土径もあったが、それもほどなく藪となった崖となり、敢えて進む気力もなく夫婦岩まで戻り県道を進むことにした。

日ノ浦の遍路道標
土橋のあった橋は崩落していた
日ノ浦の遍路道標
県道を進む。「調査報告書」には「往還は、日の浦団地北側の斜面で再び痕跡を確認でき、ここから土橋で五反田川を渡り、県道八幡浜宇和線の日ノ浦橋たもとに出る。日ノ浦橋東詰の法面に石造物と共に道標が立つ。「四十三番明石寺迄三里二十丁 金山出石寺四里三十ニ丁」と刻まれる。大正8年(1919)の建立」とある。
「調査報告書」に従い日の浦団地北側に向かうべく、県道を左に折れ透谷(とうや)橋を渡り日の浦団地へと進む。が、浦団地北側から五反田川に下りるアプローチは見つからない。透谷(とうや)橋まで戻り県道を進み、「調査報告書」に「日ノ浦橋たもとに出るという五反田川を渡る土橋」を県道よりチェック。土橋はなくしっかりとした橋脚は残るが橋は崩壊していた。
金山出石寺(きんざん・しゅっせきじ)
出石寺 by Wikipedia
標石にある出石寺は愛媛県大洲市豊茂乙1に所在する真言宗御室派別格本山の寺院。山号は金山(きんざん)。本尊は千手千眼観世音菩薩。山号を冠して「金山出石寺」と呼ばれる。また、地元では親しみを込めて「おいずし」と呼ばれる。
出石寺は出石山(いずしやま 812m)の山上に伽藍が広がる。山上からは宇和方面の山々や大洲盆地、久万高原方面が見渡せる。
寺伝によれば、奈良時代初期の養老2年(718年)6月18日に宇和島郷の猟師・作右衛門が鹿を追いかけて、この山に分け入った。すると鹿は消えて暗雲が垂れ込め山中に地鳴りが響き渡った。そして鹿が消えた場所の岩が割け、そこから金色に輝く千手観音と地蔵菩薩が姿を現したという。その光景を目の当たりにした作右衛門は殺生を生業とする猟師という職業を悔い改め仏門に帰依し名を道教と改めた。そして、この仏像を本尊として、この地に堂宇を建立し出石寺と称したという。
平安時代前期、この地で空海(弘法大師)が冬期に雪中修行を行ったとの伝説がある。また、後の世に本尊が粗末にされ、それによって冥罰を受ける者が出てはいけないと本尊を石で囲い密封し秘仏としたと云われる。
開山当初の山号は雲峰山と称していたが、この山に鉱山があることから空海が金山と改めたという。なお、山の北側には硫化銅石の鉱山跡があり、三菱鉱業が明治43年(1910年)から昭和20年(1945年)頃まで採掘を行っていた。
昭和16年(1941年)大火に見舞われ伽藍が焼失した。昭和31年(1956年)に復興した。
開山1300年祭の「いづしまつり」が平成29年10月8日催され、その日より17日まで、50年に一度の本尊開帳が行われた。本尊は厳格な秘仏で、頂上に立つ本堂床下にある石室内にあり地下からの湧出岩とされていた。なお、本堂内陣の中央にある厨子内の千手観音立像(地蔵菩薩はその胎内仏)は前立仏であり毎年1月3日に開帳される。

布喜川橋の道標
布喜川橋の道標
日ノ浦橋から先の八幡浜街道のルートについて「調査報告書」には「ここから旧県道は右岸を通り、現県道は川の左岸を通るが、それらの県道以前の往還がどこを通ったのかはっきりしない。 一説には、往還がここから三本木へ上がり、高神社、宝厳寺の前を通って大峠付近に下りるとされる。しかし、五反田村や布喜川村は江戸時代後半から綿織等で発展しており、三本木までの高低差をわざわざ登る往還では合理性に欠ける。本報告書ではとりあえず、 徳用バス停付近からは五反田川沿い (右岸) を通るものとする」とある。
日ノ浦橋より直ぐ下流。布喜川橋北詰に道標。「明石札所三リ廿丁 出石寺ヘ四リ三十ニ丁」と刻まれる遍路道標。ここにも出石寺。「おいずし」さんの人気のほどが示される。

川舞の六地蔵
道を進む。「調査報告書」には「五反田川右岸を進むと右岸に移ってきた県道25号に合流。旧道は川舞付近では、県道北の一段高い所に細い道が残っており、酒屋の裏手には六地蔵が祀られている。 中央の地蔵は元々別なもので、しかも台座以外は近現代に作り直されている。しかし、後方の六地蔵は「享保十二未年 七月朔日」の銘があり、かなり古い」とある。
県道25号をしばらく進むと道の右手に川亀酒造の建屋。建屋北側の細路に入り道なりに進むと石垣の上にお堂が見える。少し坂道を上りお堂に廻りこむと六地蔵が並んでいた。

元井橋を渡り五反田川左岸を祇園八尺神社前に
前面に八尺神社の丘陵が見えてくる
川舞の六地蔵を過ぎた八幡浜街道について「調査報告書」は「川舞の地蔵を過ぎると川沿いの平地が開け、五反田地区に入る。 五反田川左岸の旧県道沿いは、古い建物が残り落ち着いた佇まいを見せているが、「新道」の小字名が残るように明治初めに開けた地域である。
往還は元井橋付近で五反田川左岸に渡り、元城跡の麓から王子の森公園、JA神山支所の横を通って、祇園八尺神社前に出たものと思われる」とある。
元井橋を渡り五反田地区を進む。「調査報告書」にあるような古き趣きの建屋はあまり目につかない。 しばらく進むと祇園八尺神社前にあたる。
五反田
五反田には戦国時代の元城や、城主の摂津氏にまつわる話が多い。元城は摂津氏(南方氏) の本拠地で、現在の八幡浜市域の南半を支配したとみられる。
平成11年(1999)に発掘調査が行われた結果、城は六つの曲輪からなり、空堀三、竪堀6、虎口3、掘立柱建物11等の遺構を検出し、出土遺物より城が機能した時期を15世紀後半から16世紀後半の約100年間と結論付けている。現在、城跡付近は住宅団地となっている(「調査報告書」)。
五反田の柱祭
photo by八幡浜市
「五反田の柱祭」は、毎年8月14日の晩に行われる火祭りで、県の無形民俗文化財に指定されている。会場の王子の森公園には、先端に麻木籠をつけた20メートル余りの柱が立てられ、各部落から集まった若者たちが、1メートルほどの短い細綱の端に麻木を束ねて火をつけて籠に向かって投げ上げ、部落対抗で火入れの早さを競う。 夜空に尾を引いて火玉が乱舞するさまは壮観である。 元々は競技ではなく、燃え火で神霊を招き、そのもとで祭を行うのが目的であり、投げ上げた火が籠の中に燃え移るまで、幾夜でも続けられることになっている(「調査報告書」)。
五反田地区には、柱祭の起源とされる伝承がある。戦国時代、金剛院という修験者がいた。元城主摂津豊後守と萩森城主宇都宮房綱の間に戦が起こった時、金剛院は九州方面に旅に出ており、急を聞いて元城への帰途、夜中に松明を持って入城しようとした。しかし、城内ではこれを敵襲と見誤り、遠矢を射かけて殺してしまった。結局元城は落城し、その後しばらく経って、この地方に悪病が流行した。これは非業の死を遂げた金剛院のたたりであるという噂が広まり、その霊を慰めるために柱祭が始まったという(「調査報告書」)。
五反田川右岸の寺院
宮田院仙井山保安寺は曹洞宗に属し、寺伝によると永禄年間(1558-70)に元城城主摂津豊後守親安が諸堂を建立したといわれる。その後一時廃寺となっていたが、天正19年(1591)に平井左衛門九郎が新たに魚成の龍澤寺の第一六世久岳宗聞を招き復興した。江戸時代に入って、文政五年(1822)の火災によって記録等一切を焼失したが、再建されて現在に至っている。 また、保安寺の北西70メートルほどの所には、金剛院を祀る祠がある。
 
梅の堂 by 八幡浜市
梅の堂の三尊仏 by 八幡浜市
北西500メートルほどの所に、梅之堂がある。「梅之堂の三尊仏」として知られる阿弥陀如来三尊像は、もともと五尊形式のもので、平安末期に矢野荘の荘官平忠光が、忠光寺を建立した時のものと b伝わる。 その後、寺は廃絶となったが、 嘉慶2年(1388)に地頭平忠清が再興し、梅之堂に五尊仏を安置したが、時を経て再び荒廃した。 天和3年(1683)、宇和島二代藩主伊達宗利は、梅之堂五尊仏の荒廃破損に心を痛め、中尊阿弥陀如来と脇侍観世音、勢至両菩薩像の三体は竜華山等覚寺に、同脇侍竜樹、地蔵両菩薩像の二体は潮音寺にそれぞれ安置した。明治5年(1872)、地元の要請と旧宇和島藩の儒者左氏珠山や蔵福寺住職乗翁和尚らの進言により、三尊像は梅之堂に奉遷された。しかし、潮音寺の菩薩像二体は宇和島に残され、のちに県外に流出して、現在は奈良国立博物館に所蔵されている。平安末期に流行した五尊形式の現存する作例は本像が唯一のもので、昭和32年(1957)に国の重要文化財に指定された(「調査報告書」)。

祇園八尺神社
県道25号が国道378号にあたる箇所、前面に緑に包まれた小高い丘があり祇園八尺神社が建つ。国道378号を左り折れ、少し戻ったところに社に上る参道石段があり、石段を上り切り小さな独立丘陵上を進み社にお参り。
「八尺は「やさか」と読む。社の案内には「伊達家古文書や王子森古文書によれぱ、伊豫国宇和郡矢野郷の八代に「祇園牛頭天王宮」とあり、奈良朝には既に現在地八代の王子森に御鎮座坐して、古くは矢野郷の守護氏神として広く尊崇を集め、平家全盛なりし頃にその隆盛を極めたと伝えられている。 時代は降って明治初期の神仏分離による神杜名登録届にあたり、神宝の「八尺の勾玉」の八尺(やさか)より八尺神杜と登録された。正しくは「神山王子森天王宮祇園八尺神杜」と云う長い名称である。その後、神山地区、八代区民が氏子の中心となって護持運営にあたってきた」とあった。
祇園牛頭天王宮の本社は京都の祇園さん。明治期の神仏分離令に際し、 祇園牛頭天王宮を改め社のある地名の八坂神社に改名。それに伴い全国の 祇園牛頭天王宮も一斉に八坂神社と改名したとされる。この社の改名は少し異なるとするが、はてさて。。。

四国山
祇園八尺神社の先に直ぐ五反田川に架かる祇園橋がある。八幡浜街道は五反田川を渡ることなく、祇園橋の南詰を左に折れ、五反田川の左岸に沿って下る。ほどなく四国山の裾を抜けてきた道と合流する。
「調査報告書」には「愛媛県立八幡浜工業高等学校を過ぎると左手に四国山がある。 四国山は、嘉永2年(1849) に吉岡屋大八ら信者の手によって開かれたミニ四国霊場である。麓には愛染堂があったが、 平成22年 (2010)に老朽化のため解体された。 往還はその前を通り、古町に入る。 古町の山裾に遍路道標がある。「扁んろ道 すがふさんへ十三里」と刻まれる。久万高原町の44番札所菅生山大宝寺のこと」とある。
愛染堂登山口の石碑
山裾の道との合流点を少し先、道の山側に「霊場お四国さん愛染堂登山口」と刻まれた石碑が建つ。この辺りに「調査報告書」にある愛染堂があったのだろう。
標高135m、周囲3キロほどの四国山は地元では「おしこくさん」と称される。嘉永2年(1849) にお山に石仏を立て、四国遍路ミニ霊場を発願するも、代官所のお咎めを受け一時中断。その後地震、大洪水、疫病などが起きたため、「おしこくさん」再興の機運が持ちあがり、藩も黙認するところとなり、発願より17年目の元治2年(1865)に「おそこくさん」の開眼供養がとりおこなわれた、と。因みに中断していた間石仏は四国山北麓に建つ萬松寺に置かれていたとのことである。
「調査報告書」にある古町の山裾にあるとする遍路道標は見つけることができなかった。

明治橋
四国山より先。「調査報告書」は「現在は明治橋で新川(千丈川の下流部の名)を渡る。現在の明治橋は昭和5 年(1930) 3月竣工で、 現役の鉄筋コンクリート製下路式アーチ橋としてはわが国最古である。ここに橋ができたのは文字通り明治時代で、それ以前には、現在の小泉酒造前または濱田橋の所で新川を徒歩で渡ったようである」と記す。
北進し道なりにクランク状に曲がり明治橋を渡る。「調査報告書」にある小泉酒造は明治橋の一筋西、濱田橋の南詰傍にある。

八幡神社
柳橋跡
千丈川下流の呼称である新川を渡った先の八幡浜街道について、「調査報告書」には、「新川を渡れば、100メートルほどで柳橋跡を通り、八幡神社の鳥居前に至る」と記す。 新川を越え、県道27号をクロスし北西に入る細路を進むと直ぐ左手、電柱脇に寄進者の名が刻まれた柳橋跡が残る。
そこから成り行きで一筋北に進むと丘陵南端部に建つ八幡神社にあたる。石段参道を上り拝殿にお参り。
「調査報告書」には「八幡神社は社伝によると、養老元年(717)に勧請されたといわれ、 「八幡浜」の地名の由来となった神社である。境内一帯は矢野神山といわれ、万葉集二一七八番の短歌「妻ごもる矢野の神山露霜に匂ひそめたり散らまく惜しも」の矢野の神山は当社一帯であるといわれている。 宇和島藩主伊達村候は社殿や祭具に家紋の使用を許し、度々参拝したといわれる。 現社殿は昭和のものだが、当社が所蔵する「八幡大菩薩愚童記」 写本は県指定有形文化財であり、境内の「延宝鳥居」 が市有形文化財となっている。 また、八幡山一帯は市指定の名勝になっている。八幡山の西麓(市民会館の辺り)は八幡浜浦の庄屋屋敷で、代々浅井氏が庄屋を務めた。その隣には現在、八幡浜市立図書館 がある。図書館には郷土資料室が併設され、八幡浜出身で「飛行機の父」と呼ばれる二宮忠八が晩年過ごした住居の一部を移築復元し、八幡浜に関する歴史・文化的資料を所蔵展示している」とある。
神社から八幡浜の町を眺める。「調査報告書」には「町を見下ろす位置には、江西山大法寺がある。 大法寺は慶安二年(1649)の創建で臨済宗妙心寺派に属し、矢野郷随一の大寺院として宇和島藩主の尊崇も篤かった」とあり、また「明治初めの八幡浜住民録」の付図によると、現在の市役所辺りは海で、そこから南へ入江が大きく入り込んで内港となっていた。 内港を囲むように南から砂州が伸びており、砂州上は新地と呼ばれ、現在の大黒町商店街付近が海岸線であった。
砂州の先端に戎堂があり、二軒の遍路宿があった。現在の恵比寿町の地名はその名残である」とある。 九州から四国遍路への行き帰りに利用したのだろう」と記す。

これで卯之町から八幡浜を繋ぐ八幡浜街道のメモはこれでお終い。次回は八幡浜から大洲を繋ぐ八幡浜街道をメモする。