水曜日, 11月 04, 2020

土佐 歩き遍路;第三十六番札所 青龍寺から第三十七番札所 岩本寺へ ②焼坂峠・添蚯蚓坂を越え岩本寺へ

青龍寺から岩本寺までのメモの2回目。須崎市安和(あわ)の焼坂峠の分岐点から焼坂を越え中土佐町の国道を歩き、久礼より添蚯蚓を越えて、窪川台地・高南台地上の道を四万十町(旧窪川町)に建つ札所・岩本寺までをメモする。
焼坂峠・添蚯蚓越えから岩本寺(Goole Earthで作成)
安和から久礼に抜けるには焼坂峠を越える5キロ、比高差200mの山越え道を1時間半ほどかけて歩く他に、安和から国道56号をそのまま進み焼坂トンネルを抜けて久礼に出るルートもある。昭和44年(1969)に整備されたこの国道を歩くお遍路さんもいるようだが、全長966mの焼坂トンネルは歩き遍路には現在の「難所」とも言える。
焼坂を下りた遍路道は国道56号に合流し中土佐町久礼の町に入る。久礼から窪川台地。高南台地の「入り口」とも言える七子峠への遍路道はふたつある。ひとつは今回歩いた添蚯蚓越えルート。距離6キロ程比高差は370mほどの山道を2時間半ほど歩き七子峠近くに下る。もうひとつのルートは山越えとは異なり、大阪谷川の谷筋を進み、窪川台地・高南台地に上ることになる。 谷筋の道は地形図で見る限り平坦ではあるが、最後の1キロほどは比高差200mほどを七子峠への急坂を這い上がることになりようだ。
七子峠からは四万十川支流の仁井田川に沿って窪川台地・高南台地の平坦な国道56号を15キロほど歩き岩本寺へと向かうが、この間国道を直接岩本寺へ向かう遍路道と、途中元37番札所であった五社・高岡神社経由の2つの遍路道がある。今回は五社・高岡神社ルートを選んだ。 メモを始める。



本日のルート;国道56号・焼坂分岐点>徳右衛門道標>安和保育園前に自然石の石碑>土讃線の高架を潜り土径に
焼坂峠越え
焼坂峠への取り付き口>竹林の中を進む>林道と合流>焼坂峠>沢の源頭部を迂回>滝>林道に出る>高知自動車道焼坂第一トンネル南口>久礼道ノ川で国道56号に合流>国道56号を左に逸れ久礼の町に>添蚯蚓道分岐点・上久礼橋>県道319号を左に逸れる>蝉ヶ谷橋東詰めに標石
添蚯蚓越え
標石と遍路小屋>添蚯蚓取り付き口>高知自動車道左の丘陵に標石>高知自動車道右の丘陵山道に入る>墓石兼標石>墓石兼標石>海月庵跡>平坦な尾根道の409mピーク付近から下り道となる>県道41号に合流
高岡神社経由岩本寺へ
県道56号合流点を右折>床鍋>お雪椿>活禅寺窪川別院>土讃線・影野駅>替坂本>平串で県道を逸れ五社(高岡神社)へ>東川角に標石2基>五社大橋分岐点に標石2基>高岡神社>第三十七番札所 岩本寺


焼坂峠越え


国道56号・焼坂分岐点
国道分岐点を右折し焼坂峠越えの遍路道に入る。峠越えを避けるお遍路さんは国道56号をそのまま進み、1キロ近くの距離があり歩道幅も十分ではないと聞く焼坂トンネルを抜けて久礼に向かう。
右折して土讃線の南を西進する里道を焼坂峠取り付き口へと向かう。


徳右衛門道標
ほどなく道の右手、消防団格納庫らしき倉庫の手前に徳右衛門道標。大師坐像と共に「是より五社迄六里」と刻まれる。また、徳衛門道標に並んで小さな標石。手印だけが刻まれている。
安和保育園前に自然石の石碑
その先、道の右手、安和保育園入り口の生垣の中に2基の自然石石碑がある。文字は読めない。






土讃線の高架を潜り土径に
舗装された道は土讃線高架前に。土讃線の左に沿って側を進む道もあるのだが、高架手前には「これより右焼坂遍路道です。登坂口まで0.5K,焼坂峠(標高228m)まで1.1K,久礼道ノ川国道合流点まで道合流点まで4.9Kの自然豊かな遍路道!」とあり、案内に従い右に折れ土讃線高架を潜り、右に折れ、土讃線右側を進む土径に入る。

焼坂峠への取り付き口;午前6時36分
道の左手に小祠、右手下に焼坂第一トンネルに入っていく土讃線線路を見遣り先に進むと道の右手に登坂口の案内。





竹林の中を進む
山道を上り沢を渡る。その先竹林の中を進む。この辺りの竹は虎斑(とらふ)竹と称される竹の産地と言う。
虎斑竹
表面に虎皮状の模様が入っているゆえの命名とのこと。命名者は世界的植物学者牧野博士。「はちく(私注;淡竹)の変種にして、高知県高岡郡新正村大字安和に産す。(現在の須崎市安和)凡の形状淡竹に等しきも、表面に多数の茶褐色なる虎斑状斑紋を有す。余は明治45年4月自園に移植し、目下試作中なるも未だ好成績を見るを得ず」と記す。大正5年(1916)の事である。
イギリスのBBC放送が取材に訪れMiracle!を連発した神秘的な竹とのことだが、情緒乏しき我が身には「神秘性」はよくわからない。もっとも道を囲む竹林が虎斑竹かどうか不明ではあるが。。。 それはともあれ、この虎斑竹はその文様以外に何が有り難いのか。チェックする。竹細工に適しているようだ。文様が独特の風合いを出すとのことである。
この虎斑竹はどうもこの地の他では生育することが困難なようで、安和の特産品となっている。

林道と合流;6時55分
その先で林道と合流。合流点に「これでもか」といった幾多の遍路案内。手書きの地図には遍路道は直進、左右は林道。林道を左に進むと「元の場所に」とある。地図をチェックすると等高線に抗うことなく屈曲する実線を左に辿ると登坂口に戻る。
この林道は明治時代に開削された焼坂越えの道のようだ。旧県道。県道は昭和の始め頃、焼坂越えを避け、海岸線を走り久礼に向かうルートが開かれたが、昭和44年(1969)に焼坂トンネルができると国道56号として再び焼坂を経由するルートとなった。
焼坂トンネル(966 m)は、地層は、中生代白亜紀に属する砂岩・頁岩の互層で破砕帯もあり湧水が多く難工事であったよう。
また国道56号の改築工事はこの焼坂トンネルだけではなく、後述七子峠までをカバーしたもので、ヘアピンカーブが多く標高差300mもある七子峠までを橋梁10箇所、トンネル4箇所を開削、建設して安和から久礼坂間を整備し、昭和45年(1970)供用開始した。
この整備区間は今回歩く焼坂峠と添蚯蚓越え区間に相当する。

焼坂峠;午前7時11分
林道をクロスし虎ロープの助けを受け高度を50mほど上げると切通状の鞍部、焼坂(やけざか)峠に到着する。
峠には北から林道が繋がっている。先ほどクロスした林道が等高線に抗うことなく北に大きく迂回してこの地に至る。旧県道として車を通すためにも緩やかな坂で峠に上る必要があったのだろう。 

峠から林道をちょっと北に戻ると眼下に安和の里が広がる。峠切通上から里に向かって山越えの送電線が下っている。どこにつながっているのか、チェックしてもヒットせず。
焼坂峠を境に須崎市から高岡郡中土佐村に行政区域が変わる。
焼坂
『土佐地名往来』には「須崎から久礼へ越える急坂は中村街道の指折りの難所。「土佐無双ノ大阪」。「土佐州郡志」に二つの伝承」とある。「土佐無双ノ大阪」は澄禅がその著に記す。焼坂の由来には、山越えが険阻ゆえに体が焼けるように苦しくなるゆえとの説もあるようだ。
高岡郡
現在は中土佐町、佐川町、越知町、檮原町、日高村、津野町、四万十町よりなるが、明治の頃には須崎市、土佐市も高岡郡に含まれていた。

沢の源頭部を迂回;午前7時26分
峠の先も比較的広く整備された道が続く。道筋は地図に実線で描かれており旧県道の道筋のようだ。道は切れ込んだ谷筋を迂回するため、沢の源頭部辺りまで大きく廻り込む。明治の頃ではあるが車が通れるように標高線280m線辺りを緩やかな傾斜で進む。
地図には安和から久礼への送電線が林道を横切るように描かれている。道の近くに送電線鉄塔のマークもみえる。送電線保線の保守車両を入れるために林道が整備されているようにも思える。 切り込まれた沢の最奥部には鉄製の簡易橋が整備されお遍路さんの足元を保護する。

滝;午前7時41分
沢の最奥部を回り込むと道は荒れてくる。15分ほど歩くと道の右手奥に滝が見える。その沢を渡ったあたりから、平坦な道から地図に実線で描かれた林道(旧県道)を離れ等高線を斜めに下り始める。15分ほど歩き高度を50mほど下げると林道に出る(午前7時55分)。


高知自動車道焼坂第一トンネル南口;午前8時8分
林道に下り土讃線に沿って道を進む。ほぼ平坦な道。木々に阻まれ土讃線は見えない。
林道(旧県道)を10分強歩くと前が開け高知自動車道が見えてくる。高知自動車道の須崎西I.C.~中土佐I.C.間が開通したのは平成23年(2011)のことである。

久礼道ノ川で国道56号に合流
高知自動車道の左手の道を進む。完全舗装の道はほどなく簡易舗装の道となる。草に半分埋もれたような道を進むと土讃線の高架。高架を潜り土讃線の左手に移り、国道56号との間をしばらく歩くと久礼道ノ川で国道56号にあたる。ここからは国道を歩くことになる。


久礼の町に

国道を少し進み、土讃線を高架で越える手前で遍路道は国道56号を左に逸れて旧道に入る。土讃線の東を南下し久礼川を渡り、更に長沢川に架かる上久礼橋に向かう。
久礼
『土佐地名往来』には「初出は建長2年(1250)。日の暮れやすい土地?建築用材の榑(くれ)の由来か?榑は古くからの献納品で林産物 の集積地」


添蚯蚓越え



添蚯蚓道分岐点・上久礼橋
添蚯蚓越えの遍路道は上久礼橋の北詰で右折し、長沢川左岸の道を進む。土讃線の高架を潜り、県道56号も潜りそのまま県道319号に入り西進する。

県道319号を左に逸れる
久礼変電所を越えると県道を左に逸れる道があり、その角に比較的新しい標石。「左土佐往還 そえみみず遍路道」「従是岩本寺一八七粁」と刻まれる。案内に従い国道を逸れて左の道に入る。 




蝉ヶ谷橋東詰めに標石
道を左に逸れ、長沢川・御堂岡橋を渡り先に進むと、左手の蝉ヶ谷橋詰に標石。「左土佐往還 そえみみず遍路道」、右は「ほんみみず 大野見村」と刻まれる。案内に従い道を逸れ蝉ヶ谷橋を渡り道を進む。
ほんみみず
地図でチェックすると長沢川の最奥部より、尾根筋を越えて四万十川水系の沢に繋がる破線が描かれ、「本蚯蚓」と表記されている。等高線からみてほとんど「片峠」の様相を呈する本蚯蚓の峠を越え沢を下ると中土佐市大野見に出る。

標石と遍路小屋:午前11時10分
案内に従い橋を渡り道を進むと道はふたつに分かれ、その分岐点に標石。「これよりあん迄二十四丁 文政十二」といった文字が刻まれる。「あん」は後述する峰の庵寺・海月庵のことである。分岐点から左手が遍路道。分岐点すぐ傍に遍路小屋が立つ。
遍路小屋の中に添蚯蚓越えのイラストが掲示されている。向後のメモにはこのイラストにある説明を参考にさせて頂く。
焼坂と添蚯蚓の時刻表示について
スケジュールの都合上、難所と言われる焼坂と添蚯蚓越えをふたつまとめて越えることにし、当日は車行で焼坂の登坂口まで車を寄せ、そこにデポ。焼坂を越えて車道に出るまで歩き、車道確認後にデポ地までピストンで折り返し、次いで添蚯蚓越えの取り付き口まで車を進め添蚯蚓峠を越えて七子峠まで進んだ後、ピストンで添蚯蚓を車デポ地に戻った。
ために、添蚯蚓越えの表示時刻は実際に焼坂を越えて久礼を経て歩く時間とは当然ずれがある。 添蚯蚓越えの表示時刻は所要時間の目安として参考にしてください。

添蚯蚓越取り付き口;午前11時16分
添蚯蚓越えのイラストマップを見ながら少し休憩し遍路小屋を出る。ほどなく道の左手に大きな標石。「岩本寺一七、九粁、七子峠四、八粁」「青龍寺三九、一粁」。平成九年(1997)立てられたもの。
道の右手には「遍路道・添蚯蚓について」の案内。「この地・長沢弘岡から四万十町(旧窪川町)床鍋(とこなべ)に至る往還(おうかん:今の国道)を添蚯蚓(そえみみず)と呼んでいます。1700年頃に書かれた「土佐州郡志」という書物には「東西逶?如蚯蚓之状故名」と記されており、道の状態が左右に曲がりくねって前に進むミミズのさまに似ているので、この名がついたのではと本の作者は述べています。
すぐ近くには「此ヨリあん迄24丁須崎カコヤ増平 文政12正月吉日」(文政12年は1829年)と刻まれた道標が建っています。道中にはおなみさんと土地の人に語り伝えられる遍路墓や弘法大師が旅人のために湧出させたと伝えられる弘法清水の跡があり、峠付近の庵跡には明治時代まで茶店もありました。
今は黒竹林となっている庵跡はその昔、修行中の空海が久礼湾上の月を賞して「海月庵」という庵(いおり)をむすび、地蔵菩薩と自坐像を刻んだという空海修行伝説の地でもあります。中世以前からの幡多路への通り道であった往還・添蚯蚓も明治25年に大坂谷から七子峠(ななことうげ)に越す道が開通してからは廃道となりました。しかしこの添蚯蚓は近年、貴重な先人の足跡を残した遍路道として見直されようとしています。江戸時代の風情が残り、道中には弘法大師ゆかりの遺跡や遍路墓等が存在するこの道は、町のまた四国の財産として後世に伝えなければならない大切な文化遺産でもあります。平成15年3月 中土佐町教育委員会」とある。
遍路道は案内傍より丘陵の山道に入る。

高知自動車道左の丘陵に標石;午前11時25分
山道を10分ほど歩くと前面が開け、眼下に高速道路が走る。山道を辿った遍路道はここで一度途切れる。高速道路を見下ろす休憩椅子傍に標石。「岩本寺遍路道」「土佐往還そえみみず迂回路の遊歩道約四百米 平成弐拾年拾弐月吉日」と刻まれる。
土佐自動車道建設に際し、遍路道の続いていた丘陵を掘割り、切通しとして道路を通したようだ。
久礼坂トンネル
この切通のすぐ先に久礼坂トンネルが抜ける。全長927m、 平成21年(2009)に開通。この久礼さかトンネル、大阪谷トンネル(全長955m)、影野トンネル(全長2393m:平成22年(2010)開通)や橋梁を建設し中土佐ICから四万十ICが平成24年(2012)開通した。

高知自動車道右の遊歩道を歩き丘陵山道に入る;午後11時39分
92段の石段を下り、高速下を潜り339段の石段を上る。けっこうキツイ。眼下の高速道路や遠景で気持をまぎらせながら「遊歩道」を進む。途中平坦な箇所もあるが、最後の石段を上る遊歩道は終わり、山道へと戻る。往昔は今は消え去った尾根道を進んできたのだろう。膝を痛めているとはいえ、石段の下り・上りに結構時間がかかった。

墓石兼標石;午前11時45分(標高138m)
山道に入るとすぐ右手に立方形の石造物。最初は水路施設かとも思ったのだが、墓石兼標石であった。戒名と「行年三十 俗名なみ 播州古川」といったお墓の文字と「五社へ四里 四万十川へ十五り半 あしずりへ二十り てら山へ三十八り いよ境まで四十一り」。「てら山」は土佐最後の札所である第39番延光寺。

尾根筋を進む
尾根筋を少し巻き気味で標高200m辺りまで進み、その先は尾根筋に入り急坂を標高300m辺りまで上る。その後ゆるやかなアップダウンで尾根道を進む。馬の背となった尾根道を過ぎると木々の間から道の左手に高速道路らしき道が見える。久礼坂トンネルを出て大阪谷を越え再び大阪谷トンネルへと入る高知自動車がだろう。
この添蚯蚓越えは特段峠とか鞍部といった箇所はないようだ。

海月庵跡;午後12時54分(標高357m)
尾根筋を進むt道の右手に少し広いスペースがある。そこが空海ゆかりの海月庵跡かと思う。何もサインがなく、実のところ往路では見逃したのだが、当日は添蚯蚓をピストンしたため復路で何気なく気になり道をそれてスペースに入り数基の墓石があったためそこが庵跡であることだろうと推察。
墓石は卵塔、舟形、角柱と形を異にしているが、古木の根元に立ち、遍路道からは見えない。僧職墓と言う。
海月庵の由来は、弘法大師が巡錫の途次、久礼湾に上る十五夜の名月を賞でて草庵を結び、地蔵菩薩と自像を刻んだことによる。また添蚯蚓越えの遍路道は土佐往還でもあったため藩主巡検の道でもあり、この地で休息したと伝わる。旅人やお遍路さんのための休息所や茶屋もあったようだが、明治26年(1893 )に焼失した。

平坦な尾根道を進み409mピーク付近を巻き下り道となる
海月庵の先で尾根筋を進む遍路道はブロックされ、遍路タグ案内は左に折れるように指示がある。 案内に従い左折し道なりに進む。尾根筋から離れ、添蚯蚓越えの最高標高点409mピークを巻いて進んでいる。巻道を進むと直ぐに谷筋に出る。上りはじめて尾根筋ピークまで2時間弱。ピークから谷筋まで20分弱。比高差は50mほどだが形から言えば「片峠」っぽい姿を呈する。
通常峠とは、山稜鞍部の峠を境に左右が上り・下りとなっているのだが、片峠とは峠を境に片方が急な傾斜であるが、もう一方は平坦な地となっている峠のこと。とは言うものの、片峠って、河川争奪のドラマでもない限り、それほど珍しいものではないだろう。中山道を歩いたときの碓氷峠、旧東海道を歩いたときの鈴鹿峠も今から思えば、典型的な片峠であった。
この谷筋を下る沢は仁井田川の上流域、というか源流域となっている。

県道41号に合流;午後13時41分
谷筋に下りるとルートは409mピークから続く破線の山道に合流する。ピークに向かう林道が右手に見える。沢に沿って道を30分ほど下ると県道41号に合流。のぼりはじめておおよそ2時間半で車道に合流した。
合流点には「青龍寺 四三、七粁」「岩本寺 一二、三粁」と刻まれた標石が立つ。添蚯蚓越えの取り付口で見かけた標石と同じタイプであり、古いものではない。
県道に向かった面には「人生即遍路」の文字。山頭火の句。この「人生即遍路」の句碑は室戸岬、 14番札所常楽寺入り、87番札所長尾寺山門などにも立てられているとのことである。

県道56号合流点を右折

県道41号を左折するとすぐ県道56号に合流する。遍路道は合流点を右折し国道56号を南下することになる。
七子峠
国道合流点を少し北に戻ったところが七子峠。ちょっと立ち寄り。展望台から深く刻まれた大阪谷の眺めは美しい。

いつだったかこの七子峠を訪ねたことがある。土佐の「片峠」を辿ったときのことである。上述の添蚯蚓の「片峠」はそれっぽい姿とメモしたが、こちらは峠を境に急峻な坂と平坦な窪川盆地、というか高南台地が画され、典型的な片峠となっている。
七子峠の由来はこの地が仁井田七郷への入り口であるところから。その「七郷」が転化したものと言う。七郷は、新在家、本在家、井細川、窪川、久礼、志和、神田の七郷である。大雑把に言って、現在の四万十町窪川、かつての高岡郡窪川町(仁井田村と窪川村が合併)、四万十川の支流仁井田川の中流から上流辺りと言ったところだろうか(ちょっと乱暴な括りではあるが)

七子峠への遍路道●
久礼から七子峠への遍路道は今回歩いた添蚯蚓越えの他、展望台から見下ろす大阪谷を辿る遍路道もある。
ルートは大阪谷川に沿ってその源頭部まで詰め、最後の1キロの急坂を上り七子峠の展望台脇に上ってくるようである。
大阪谷遍路道の分岐点は県道25号が大阪谷川を渡った土讃線を潜ると直ぐ四つ角。その角に「大阪休憩所0.4km」と書かれた「四国のみち」指導標がある。遍路道はここで県道25号を左折し大阪谷川に沿って西進することになる。すぐ傍に青木五輪塔への案内と標石もある。
大阪谷左岸の道
地図を見ていると、大阪谷川の北、国道56号の南を曲がりくねって進む道筋が残る。前述添蚯蚓登坂口の案内にあった、「中世以前からの幡多路への通り道であった往還・添蚯蚓も明治25年に大坂谷から七子峠(ななことうげ)に越す道が開通してからは廃道となりました」の説明にある明治に開かれた県道。道幅2間で馬車や人力車も通れたとのこと。説明には「廃道になった」と有るがこの道は曲折が多く、近道として添蚯蚓越えや大阪谷経由の道は実際は大正の頃まで利用する人も多かったようだ。
県道は昭和38年(1963)に国道に昇格。改築工事が進められら焼坂から七子峠までの間に橋梁10箇所、トンネル4箇所を開削、建設して安和から久礼坂間を整備し、昭和45年(1970)供用開始した。七子峠に向かう国道56号がそれである。
かつての道はすべて七子峠を目指したが高知自動車道は上述の如く久礼坂トンネルを抜けると大阪谷を橋梁で一跨ぎし大阪谷トンネル(全長955m)、橋梁、そして影野トンネル(全長2393m:平成22年(2010)開通)と進み、かつての交通の要衝であった七子峠をパスし、中土佐ICから四万十ICへと抜けた、平成24年(2012)のことである。

床鍋
国道56号を右折し仁井田川に架かる床鍋橋を渡り南下。地名の由来は、弘法大師が久礼坂の北、長沢の谷に独鈷を投げたことから「独鈷投げ>とこなげ>とこなべ」とか、この地の開拓者の故郷の地名といった説もあるが、床=川床のような石の多い地、なべ=なみ>並ぶ・続く、といったことから、石の多い土地といったところが妥当ではなかろうか
仁井田川
仁井田川は、七子峠の北東、高知県高岡郡四万十町床鍋の山腹(標高556m)を源流とし、南へ下り、土讃線・影野駅辺りで奥呉地川を合わせながら仁井田地区に広がる平地部を流下。その後は四万十町中の越で東又川を合わせ、山間の平地を蛇行しながら流れを西に向け、四万十町根々崎で四万十川に合流する、流路延長17キロほどの一級河川。

お雪椿
仁井田川に沿って国道56号を進む。道の周囲は標高500mから600mほどの開析残地と思われる小さな山地と比較的広い谷底低地となっている。谷底低地は仁井田川が開析したU字谷に土砂が堆積し形成されたもののようである。河川開析のプロセスはV字谷>U字谷>準平原の順で地形が形成されるとするが、この谷底低地は開析最終プロセスの準平原状態となっているのかと思える。
影野まで進むと道の右手に木で支えられた大きな古木が立つ。傍に案内があり、「お雪椿(ヤブツバキ) ツバキ科」とある。解説には「高岡郡窪川町影野  周囲1.5m、樹高10m、樹齢350年。 ここを館屋敷といい、寛永の頃の影野新田の開拓者で地頭職の池内嘉左衛門の屋敷跡である。池内氏の一人娘お雪は影野西本寺の修業僧・順安と恋仲となったので、お雪の父は順安を還俗させてお雪と夫婦にし、地頭職をゆずり嘉左衛門の名をつがせた。
夫婦はいたって 仲睦まじく、里人たちをも愛した。二人には子供が恵まれなかったので、彼等の死後、里人達はお雪が生前好んだ椿を墓所に植え、二人の供養を毎年行なってきた。その椿が風雪三百余年の今も毎年美しい花を咲かせて二人の霊を慰めている 昭和56年 建 高知県緑化推進委員会 窪川町」とある。
椿の右側にあるお雪負債の墓石は大正2年(1913)再建のもの。

活禅寺窪川別院
お雪椿の隣に堂宇。山門前には「信州大本山 白銀大明神御法殿」と刻まれた石碑が立つ。山門には「参禅専門道場」の木札が架かる。白銀大明神の名に惹かれてとちょっと立ち寄り。 長野市の善光寺の北、長野市箱清水にある参禅専門の単立禅宗寺院活禅寺の窪川別院のようだ。活禅寺は昭和18年(1943)、徹禅無形大師により小さな無形庵として開山。戦後の混乱期に青少年の育成を主眼に青年錬成参禅道場としてはじまり、その後現在の堂宇が整備されたとのこと。
信州の参禅道場が何故窪川に?これは後でわかったことだが、国道を少し南下すると堂宇があり、その前に「信州活禅寺開山・徹禅無形大和尚御生誕の地」と刻まれた石碑があった。開山和尚さんの生まれたところであった。
白銀大明神
境内に白銀堂。縁起には霊夢に菩薩界の化身・白銀大明神が示現し、故あって地中に埋没した吾を仏縁深き汝により掘り出し安置されんことを欲す、と。霊示に従い地中を掘り出した石墓を白銀大法院を建て安置した、と。結局「白銀大明神」って?は不明のまま。

土讃線・影野駅
国道を下り影野に。七子峠の東、大阪谷を越え影野トンネルを抜けた高知自動車道が影野で現れる。
また高速の出口近くに土讃線・影野トンネルを抜けて来た線路が現れる。 山を穿ち抜いたトンネルを抜けた高速道路、鉄道が同じところで山地から現れるのは、地形的にそれなりの理由はあるのだろう。
久礼駅から影野駅までの土讃線ルート
土佐久礼駅からおおよそ10キロ。土佐久礼の標高は8.3m, 影野駅は標高252m。比高差200mもあり、ほとんどの区間は1000mで25m上がる25パーミルが連続する急勾配区間と言う。25パーミルとは国鉄が鉄路を敷設する上限の目安である。この急勾配は単独では急坂を上れない機関車を補う機関車を必要としたようである。
この間25のトンネルを掘り、中土佐町と窪川町境の四道トンネル(1,823m)を最長にトンネルの総延長は約7kmに及ぶとのことであるが、25パーミルの上限を越えないルートどりとしてはこのルートしかなかったのだろう。影野駅が広いのはこの機関車の方向転換、石炭や水を補充する給水塔などの施設があったためと言う。
この辺りの土讃線は昭和10年(1935)に土讃線の須崎~窪川間32kmが着工、昭和14年(1939)11月に須崎~土佐久礼間13kmが部分開通した。昭和17年(1942)に全線の土木工事は終了しながら土佐久礼・影野間が開通したのは昭和22年(1947)のことである。

替坂本
土佐の片峠散歩の折、仁井田川の支流、東又川へと国道を離れ県道326号に乗り換えたところである。片峠散歩とはいいながら、本来の目的は、 「海に背を向けて流れる川 四万十川の奇妙なはじまり」の地点を確認する散歩。きっかけは偶々図書館で見つけた『誰でも行ける意外な水源 不思議な分水;堀淳一(東京書籍)』にあった「海に背を向けて流れる川 四万十川の奇妙なはじまり(高知県高岡郡窪川町・中土佐町)」という記事。
そこに「四万十川は奇妙な川である。その最東部の支流である東又川は、土佐湾の岸からたった二キロしか離れていない地点からはじまっているのに、海にすぐ入らず、海に背を向けてえんえんと西へ流れる。。。」とある。
多くの支流のひとつとは言いながら、四万十川の源流が、太平洋から二キロのところから始まるとは、想像もしていなかった。てっきり山間部を流れ下ると思い込んでいたので少々驚きもした。 東又川はその地から海に落ちることなく、西に下り途中仁井田川と合わさり、土讃線窪川駅の北で、不入山(いらずやま)の源流点から南に下ってきた四万十川(幹線流路のひとつ松葉川)と合流し、西に大きく半円を描き太平洋に注ぐ。四万十川の全長は196キロと言われるが、この合流点から先だけでも80キロ弱あるだろうか。
なんらかの地形変動が起きれば、東又川は海に落ちただろうし、そうすれば四万十川の流路も今とは変わったものになっただろうと、その源流点を確認に出かけたわけである。台地端に隆起した丘陵により東又川の源流部が海へと流れ落ちることが阻まれていた。
替坂本
替坂本って、面白い地名。由来をチェックすると、この地の東、土佐湾に面したところに「上ノ加江」がある。替坂本は、その「上ノ加江への坂の本」から。 Google Street Viewでチェックすると、上ノ加江から窪川盆地に上るには急傾斜の坂道を上らなければならない。峠と言う、人為的な命名があるのかどうか不明だが、峠があれば、そこも典型的な片峠と言ってもいいだろう。 因みに、地名などの語源については、「音」が最初にあり、漢字は適宜「充てられる」といった原則を再確認した「加江>替」ではあった。

平串で県道を逸れ五社(高岡神社)へ
六反地(ろくたんじ)、仁井田と国道を下る。往昔仁井田荘と称された窪川盆地・高南台地は、伊予の河野氏の一族が移り住み、土地の豪族とともに土地の開拓にあたった、とも言われる。戦国時代、長曾我部元親が仁井田窪川攻めをおこない、在地勢力は戦わず降伏したとのことであるので、その頃までは伊予の河野氏の流れの一族がこの一帯に勢を張っていたのではあろう。 国道を直進し窪川の岩本寺を目指すお遍路さんも多いが、今回は明治の廃仏稀釈以前の札所であった五社(高岡神社)経由で現在の札所である岩本寺を目指すことにした。
道を曲がるとほどなく高岡神社一の鳥居が道の右手に建つ。

東川角に標石2基
当日は見逃したのだが、メモの段階で四万十町観光協会の「のんびり遍路道周辺散策」にこの道筋に標石が2基あるとイラストにあった。チェックすると東川角に2箇所、それらしき石碑そのがGooglenStreet Viewに見える。ひとつは遍路道から南に逸れる道角にある。イラストに「渡し舟」の案内をする標石だろうか。もう1基は県道19号との四辻、電柱に並んで標石らしき石が見える。道路整備の折この地に移されたとの説明があった標石かもしれない。 とはいえ、GooglenStreet Viewで見た標石らしきものであり確証はない(この記事をお読み頂いた方で、これらの石碑が標石か否か確認できたかたはお知らせ頂ければ幸いです)。 

五社大橋分岐点に標石2基
平串で国道を逸れた遍路道は、土讃線五社踏切を渡ると五社の鳥居。丘陵裾を進み大きく蛇行する仁井田川に向かって南に突き出す丘陵鞍部を切り開いたような道を進む。道の左手に仁井田川。丘陵により南進を阻まれた仁井田川に東又川が合流し大きく蛇行し北に向かう仁井田川に架かる根々碕橋を渡る、北に蛇行した仁井田川は四万十川(渡川)と合流する。
橋を渡った遍路道は南下し五社大橋分岐点に「四国のみち」の指導標。「高岡神社500m 岩本寺2.4km」とある。その左右にに自然石の標石2基。左側は手印と「大しどう」、右側には「三十七番五社へ三丁」と刻まれる。
「大しどう」は、真念の『四国遍路道指南』に「〇六たんじ村〇かミあり村、しるし石あり。この間に小山越、うしろ川、引舟あり。これはねゝざき村善六遍路のためつくりおく。過て、大河洪水の時は手まえの山に札おさめどころあり、水なき時は五社へ詣」にある大師堂のことかと思う。
かつては四万十川を渡る渡し舟があったのだろうが、洪水のときには五社詣ではできず根々崎のごこかにあったお堂に札を納めていたようだ。

高岡神社
四万十川の五社大橋を渡ると県道322号にT字で当たる。正面、丘陵裾に鳥居が並ぶ。これが五社、高岡神社である。
一ノ宮
北端の鳥居は仕出山丘陵の支尾根山裾にあり、「高岡神社(東大宮)」とある。18段の石段を上ると社殿前に高岡神社の案内。
「 高岡神社(五社)由来記 平安時代初期、伊予豪族であった河野家の子孫がこの地に来住し、一帯を開発して祖神と崇敬神を祀ったのが仁井田大明神である。以来仁井田郷六十八ケ村の総鎮守神として崇敬せられ、特に戦国時代には仁井田五人衆の武運守護神ともされていた。 最初は一社であったが、天長三年弘法大師が境内に福円満寺を創立し四国霊場の札所とした時、 、社を五つに分け、各社に諸仏を祀り五社大明神と改称され、神仏習合の神社となった。当時、各社の神主は武家格式を有し、神社前には門前町が並んだ。神宝として、土佐二代藩主山内忠公奉納の金幣、西原紀伊守の刀、仁井田郷豪傑中西権七の所持したと伝えられる長刀、近くから発掘された古代の銅鉾などが納められている」とある。
東大宮は一の宮。大日本根子彦太迩尊=不動明王が祀られる、と。
二ノ宮
次の鳥居は一の宮(東大宮)の建つ丘陵支尾根の南の支尾根を画する細い谷筋の県道脇に建つ。鳥居には高岡神社(今大宮)とある。社は鳥居からちょっと離れてた先にある。今大神宮は二の宮。磯城細姫命=観世音菩薩が祀られる
その南、丘陵裾の鳥居には「児安花神社」とある。この社は五社とは別の社。



三ノ宮
次いで「高岡神社中ノ宮」と書かれた鳥居。中ノ宮は三の宮。大山祇命・吉備彦狭嶋命=阿弥陀如来が祀られる。鳥居右側に徳右衛門道標。「是ヨリ足すり迄廿一里 享和三」といった文字が刻まれる。
鳥居左手には「福円満寺跡」の標識も立つ。





四ノ宮
その南、「高岡神社 今宮」と刻まれた鳥居。四の宮であり、伊予二名洲小千命=薬師如来が祀られる。
五ノ宮
南端の鳥居は「高岡神社森ノ宮」と書かれる。五の宮・聖宮、伊予天狭貫尊=地蔵菩薩が祀られる。この社へは144段ほどの石段を上りお参りする。
この五つの社よりなり、「五社」さんとも称された社は室町時代後期の享禄 - 天文年間(1528年 - 1555年)には戦火に遭うなどで衰微した。 江戸時代に入り、土佐藩2代藩主山内忠義が神社を整備した。社殿の改築、金幣の奉納を行い武運長久の崇敬神とした。明治初年の神仏分離により本尊は岩本寺へ移された。
仁井田大明神の縁起
仁井田大明神とも称された「仁井田」には浦戸湾を渡る手前で出合った。そこには仁井田と呼ばれる地域があり、立派な仁井田神社が鎮座していた。その際『仁井田」の由来について調べたのだが、浦戸湾に浮かぶツヅキ島に仁井田神社があり、由緒書きには、「伊予の小千(後の越智)氏の祖、小千玉澄公が訳あって、土佐に来た際、現在の御畳瀬(私注;浦戸湾西岸の長浜の東端)付近に上陸。その後神託を得て窪川に移住し、先祖神六柱を五社に祀り、仁井田五社明神と称したという。
そのご神託とは『四万十町地名辞典』には続けて、「『高知県神社明細帳』の高岡神社の段に、伊予から土佐に来た玉澄が「高キ岡山ノ端ニ佳キ宮所アルベシ」の神勅により「海浜ノ石ヲ二個投ゲ石ノ止マル所ニ宮地」を探し進み「白髪ノ老翁」に会う。「予ハ仁井ト云モノナリ(中略)相伴ヒテ此仕出原山」に鎮奉しよう。この仁井翁、仁井の墾田から、「仁井田」となり。この玉澄、勧請の神社を仁井田大明神と言われるようになったとある」と記す。
この縁から三年に一度、御神輿を船に乗せ浦戸湾まで”船渡御(ふなとぎょ)”が行われた。この御神幸は波静かな灘晴れが続くときに行われるため、”おなバレ”と土佐では言われる。この時の高知での御旅所が三里(現在の仁井田)の仁井田神社であるといわれる。窪川の仁井田五社から勧請されたのが高知の仁井田神社であると伝えられている。(ツヅキ島の仁井田神社は横浜地区の総鎮守で地元では”ツヅキ様”と呼ばれる)」とある。
仕出原山とは窪川の高岡神社(仁井田五社明神)が鎮座する山。仁井田の由来は「仁井翁に出合い里の墾田」とする。
「投げ石」のプロット
上述神託の「投げ石」のプロットは土佐神社の「礫岩の謂れ」とほほ同じ。土佐神社の「礫岩の謂れ」を再掲すると、「古伝に土佐大神の土佐に移り給し時、御船を先づ高岡郡浦の内に寄せ給ひ宮を建て加茂の大神として崇奉る。或時神体顕はさせ給ひ、此所は神慮に叶はすとて石を取りて投げさせ給ひ此の石の落止る所に宮を建てよと有りしが十四里を距てたる此の地に落止れりと。
是即ちその石で所謂この社地を決定せしめた大切な石で古来之をつぶて石と称す。浦の内と当神社との関係斯の如くで往時御神幸の行はれた所以である」とあった。

「投げる」と言えば、空海の縁起にも独鈷杵を投げる話も多い。青龍寺縁起には空海が唐からの帰朝に際し有縁地に至るよう独鈷杵を東に投げたわけだが、その地が青龍寺の建つ地と感得し唐の青龍寺と同じ名の寺院を建立した。山号も独鈷山と称す。

第三十七番札所 岩本寺

五社さんから岩本寺に向かう。五社大橋を渡り直し分岐点標石まで戻る。「四国のみち」の指導標には岩本寺まで2.4㎞。山沿いの道を進み窪川中学前を通り窪川駅前を右折。吉見川に架かる吉見橋を渡り丘陵前を右折、西進すると岩本寺に至る

門前に並ぶ店を抜けると正面に仁王門。仁王門傍に案内。「岩本寺 四国霊場八十八ヶ所第三十七番札所
寺伝によれば、ここから北に約3.5kmのところにある高岡神社(通称五社さん)の別当寺であった福円満寺が前身。 16世紀になり、寺社を再建する際に福円満寺の法灯と別当の役目を、この地にあった岩本寺(当時は岩本坊)に移して再建したといわれています。

藤井山五智院と号し、現在の本尊は不動明王、観音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、地蔵菩薩。弘法大師にまつわる「岩本寺の七不思議」という七つの逸話が言い伝えられています。本堂の天井には、プロ、アマチュアを問わず、全国の方々から奉納された575枚の板絵が飾られ、また、清流殿の天井には沈下橋が架かる四万十川の天井絵が描かれ、それぞれ岩本寺の見所の一つとなっています」とある。
また天井井としては本坊天井には沈下橋が架かる四万十川の天井絵が描かれている、ようだ。
境内に入ると右手に大師堂、修行大師像、聖天堂、開山堂、鐘楼、本堂、左手に本坊が建つ。鐘楼傍には「文化十一」と刻まれた徳右衛門道標に似た形式の石碑が残っていた。
高田屋嘉兵衛道標
メモの段階でわかったのだが、この石碑は江戸中期の海商、高田屋嘉兵衛が立てたもの。文化11年(1814)といえば、嘉兵衛がカムチャッカを解放され、帰国した翌年。妻おふさが嘉兵衛の無事を祈って四国巡礼をした、との言い伝えもあり、無事帰朝したお礼に夫妻で四国遍路に出かけ、添蚯蚓の海月庵を修理し、その前に立てていたものと言う。それを昭和30年頃、地元の若者が荒れ果てた海月庵から岩本寺に移したとのことである。
高田屋嘉兵衛
Wikipediaには「江戸時代後期の廻船業者、海商である。幼名は菊弥。淡路島で生まれ、兵庫津に出て船乗りとなり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館(函館)に進出する。国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献する。ゴローニン事件でカムチャツカに連行されるが、日露交渉の間に立ち、事件解決へ導いた」とある。高田屋嘉兵衛は司馬遼太郎の『菜の花の沖』に詳しい。


大師堂は奥の院を兼ね、矢負地蔵も祀られると言う。
矢負地蔵
昔この地の貧しいが信心深い猟師が、「一代にて長者にならせ給え。狩りに出ても一疋は見逃します」と観音様に近く。が、年貢を納める日が近づいても獲物が見つからず、これ以上の殺生は無益と思い自分の胸をその矢で射た。帰りを待ちわびる妻のもとに猟師が訪れ、「獲物が多いので迎えに行くように伝え、獲物のひとつと袋を置き立ち去る。現場に急いだ妻は意識を失った夫を起こすと、そばを見ると矢の刺さったお地蔵様が倒れていた、と。お地蔵様が身代わりとなって命を救ってくれたと感謝し、家に戻り仲間の置いて行った袋をあけると金銀財宝が出て来た。領主も新人ゆえと財宝を猟師に下され、一夜にして長者となった、このことから観音様を福観音、地蔵さま矢負地蔵と呼ぶようになった、とか。いつものことながら昔話は何をいいたいのかよくわからない。
本堂におお参り。本尊は不動明王、聖観世音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、地蔵菩薩の五仏。5体の本尊は四国霊場唯一のもの。五社・高岡神社それぞれのご神体の本地仏を祀った故であろう。
天井にはプロ・アマ問わず全国から寄せられた575枚の天井絵が飾られマリリン・モンローや銭形平次なども。これらは昭和53年(1978)「の本堂改築に合わせて公募し、奉納されたものとのこと。

Wikipediaには「岩本寺(いわもとじ)は、高知県高岡郡四万十町にある真言宗智山派の寺院。藤井山(ふじいざん)、五智院(ごちいん)と号す。
寺伝によれば天平年間(729年 ? 749年)に聖武天皇の勅命を受け行基が七難即滅・七福即生を祈念して開創したのが起源であるという。それは現在地より北西約2kmの仁井田川のほとりで、仁井田明神のあったことから当時は「仁井田七福」、別名「七福寺」とよばれた。
その後、弘仁年間(810年 - 824年)に空海(弘法大師)が五社・五寺からなる福円満寺を増築し、東から、東大宮が不動明王、今大神には清浄観音菩薩、中宮が阿弥陀如来、西大宮が薬師如来、聖宮が将軍地蔵菩薩とそれぞれ本尊を安置し、星供の秘法を修したという。こうして「仁井田五社十二福寺」と称し嵯峨天皇の勅願所となり栄え、別当寺の福円満寺が札所であった。 

天正年間(1573年 - 1592年)に兵火によって焼失するが、時の足摺山主・尊快親王が弟子の尊信に命じて再興した。
一方、岩本寺は、町中にあり福円満寺から足摺へ向かう途中の宿坊であった。中世末に一宿した尊海親王がこの宿坊に岩本坊の名を与え繁盛した。1652年から1688年の間に衰退した福円満寺から別当が移り、岩本寺と改称し、納経は「五社大明神 別當岩本寺」と記帳された。
明治初期には神仏分離により仁井田五社の5つの仏像は岩本寺に移されたが、しばらくして、仏像と札所権は八幡浜の吉蔵寺に移る。しかし、明治22年(1889年)岩本寺は復興して仏像と札所権を取り戻し、現在に至る」とあった。

岩本寺の七不思議
仁王門傍の案内にあった弘法大師にまつわる岩本寺の逸話とは;
子安桜
この桜に祈れば安産する。大師が五社建立のとき、桜の木の下で産気をもよおた旅の女に加持して安産させたこと由来する。現在の桜はその実生(その桜の種から発芽し成長したもの)とか。
三度栗
空海伝説による登場する話。ここでは栗を持ち帰らなければ継母にいじめられる子供のため、「うない児のとる栗三度実れかし木も小さくいがも残さずに」と歌を詠む。と、年に三度実をつけ、高さも子供が採れるほどの高さの栗の木が実るようになったとか。
口なし蛭
近くの高野の田で蛭に血を吸われ苦しむ娘を見て加持をし雄蛭の口を封じ血を吸わなくした。
桜貝
大師は御室(みむろ)の浜の景をめでて、庵をむすび桜を植えられた。年を経て花のころに庵を訪ねるに既に花は散ってしまっていた。
大師、「来てみれば御室の桜散りうせぬあわれたのみしかいもあらじな」と歌を詠むと大師の徳を感じた海神が、磯の貝殻が桜の花弁に化したという。今も花の頃には桜色した小さな貝殻が浜に打ち寄せる、と。
筆草
月を愛でながら筆を投げられたところに、翌年から筆に似た草が生えた。里人みなこれを筆草と呼び、大師の能筆にあやかるおまじないとし、また、かゆみ、痛みのところにお供えの水をしめして撫でると不思議と治ると伝わる。
尻なし貝
大師が伊与木川を渡られたときに、蜷貝がわらじを貫き足を突き刺した。これでは往来する人々が困るだろうと、呪文を唱えて貝の尖ったところを抓(つね)ってすてた。以来この川の蜷貝は尖りがとれ、尻がまるくなったと言う。
戸たてず庄屋
空海が泊めてもらったお礼に加持をしたら泥棒が入らなくなった。ために里人は、その家の柱や敷居を削って持ち帰り、盗難除けとした、とか。

また、七つの逸話には入っていないが、『四国遍礼功徳記』に記される、このあたりにまつわる弘法伝説をひとつ挙げる;。窪川村に住む弥助の女房が布を織っていた。そこにひとりの遍路の僧が托鉢喜捨を乞う。が貧しくあげるものがなく、織りかけの布を切り与えた。それからというもの女房の織る布はいくら切っても尽きることがない。さてはあのお坊さんはお大師さんに違いないと夫婦ともどもいよいよ大師を崇拝するようになったという。

平串から岩本寺へ直行する遍路道●
平串から五社を訪ねることなく岩本寺へ向かう遍路道は国道56号を直進し、仁井田川に架かる平串橋を渡り、県道19、号分岐点まで直進。分岐点で県道から右に逸れ時坂トンネルを潜り、土讃線を越えると左折し窪川駅方面へと南下、窪川駅辺りで五社経由の遍路道と合流し岩本寺へと向かう。
今回のメモはここまで。次回は第38番札所金剛福寺への道をメモする。