月曜日, 1月 03, 2022

浅草散歩 浅草七福神巡り;そのⅢ

吉原神社・鷲神社
石浜神社を離れ、少々遅いお昼をとる、一息いれ、墨田川を見てみようと堤防に進む。少し雨模様。立派な遊歩道となっている。対岸は向島。往古、このあたりが、橋場の渡し・白髭の渡し。古代、鳥越から砂州に沿って石浜のあたりまで東海道が通り、この渡しを超え市川の下総国府につながる。武蔵野台地と下総台地のもっとも接近したところであり、交通の要衝であったのもムベなるかな。交通の要衝というだけではない。浅草観音の門前には集落もできる。人も集まる。浅草寺の北にある、今戸・橋場・石浜の村落も水陸交通の要衝としてだけでなく、多くの寺院も集まる。今回の散歩ではスキップしたが、橋場1丁目の保元寺には踊念仏・時宗の「石浜ノ道場」があった。日蓮宗も石浜道場もあった。文学作品にもこのあたりの地が登場する。『伊勢物語』然り、『更級日記』然り、また墨田散歩のときにメモした梅若伝説の梅若の母・妙亀尼がまつられている「妙亀塚」もこの地にある。言わんとするところは、平安のころには、このあたりは都の人たちにも知られた場所となっていた、ということ。
ともあれ、このあたり一帯は中世、交通・商業・宗教そして軍事上でも重要な地であった。坂東八カ国の大福長者・江戸太郎重長の治める地。当時この浅草湊は海運の一大拠点。江戸時代に江戸湊が開かれるまでは、海から、また内陸の川筋からの船が多数この地に集まっていた。その富を一手に握っていたのが江戸太郎重長。その力あなどりがたく、頼朝がこの地に上陸するまで、市川の地で待機を余儀なくされた程。石浜神社のあたりに江戸氏の出城・石浜城があったとも。最終的には一族の葛西氏、豊島氏などの説得により江戸氏も頼朝に与力した。『義経記』に;石浜と申すところは、江戸の太郎が知行なり。折柄節西国舟の着きたるを数千艘取寄せ、三日が内に浮き船を組んで江戸の太郎は合力す」、とある。で、墨田の隅田宿・寺嶋あたりから隅田川を渡り、この石浜あたりの砂州・微高地に取り付き、その先の低湿地帯は船を並べた「船橋」を渡り、三ノ輪(水の輪)から王子で武蔵の台地に上陸したわけだ。

本日のルート;大黒天(浅草寺)>恵比寿(浅草神社)>毘沙門(待乳山聖天)>福禄寿(今戸神社)>布袋尊(橋場不動院)>寿老人(石浜神社)>弁財天(吉原神社)>寿老人(鷲神社)



石浜神社を離れ三ノ輪に向かう。雨が降ってきたこともあり、三ノ輪にはバスで移動。三ノ輪にある吉原遊女の投げ込み寺・浄閑寺におまいりしよう、となった次第。明治通りを西に。この道筋は昔の「思川」の川筋。吉野通りと明治通りの交差点に「泪橋」の地名が残るほか、川筋はすべて埋められており、川の面影は何もなし。思川は「音無川」の支流。王子あたりで石神井川というか石神井用水から分流され、京浜東北線に沿って日暮里駅前に。そこから先は台東区と荒川区の境を三ノ輪まで続き、三ノ輪でこの思川と山谷掘に分かれる。

バス停の少し先の道を一筋程度南に入ったところに、平賀源内の墓がある、という。昔はこの地に曹洞宗総泉寺があり、そこにあったわけだが、この総泉寺は板橋に移り、源内のお墓だけが残っている。散歩をはじめて源内先生のゆかりの地にもよく出会う。大田区・六郷用水散歩のとき、源内先生が考案した破魔矢がはじめて売られたという新田神社、はじめて住まいをもった神田加治町などなど。江戸のダヴィンチとも、奇人変人の代名詞とも言われる。が、二人を殺傷し獄死した、という話もあるし、その場合、このお墓って、とは思いながらも、とりあえず「土用の丑の日」に鰻を食べるって習慣をはじめた人物、というあたりで矛を収めておく。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

昭和通・国際通りが合流し日光街道となり北に向かう三ノ輪に。「三ノ輪」は「水の輪」から転化したもの。往時この地は、北の低湿地・泥湿地、東・南に広がる千束池に突き出た岬といった地形であった。浄閑寺に。明治通りと日光街道の交差点を一筋北に。地下鉄入口の丁度裏手あたりにある。浄土宗のこのお寺さん、安政2年(1855年)の大地震でなくなった吉原の遊女が投げ込み同然に葬られたため「投込寺」と。川柳に「生まれては苦界 死しては浄閑寺」と呼ばれたように、吉原の遊女やその子供がまつられる。

浄閑寺を離れ、「日本堤通り」を吉原大門に向かう。日本堤通り、って、昔の山谷堀に沿ってつくられた土手道跡。昔の「日本堤」跡、というわけだ。日本堤は元和6年(1620年)、二代将軍・家光の命により、下谷・浅草の地を隅田川の洪水から護るため築かれた。幅8m、高さ4m。今戸から三ノ輪まで続く。土は待乳山を切り崩した。日本堤の名前は、「日本全国」の諸大名が分担して工事にあたったから、とか、当時奥州街道も吉野橋から千住小塚原にかけて土手になっており、これって多分「砂尾堤」だったと思うが、ともあれ二つ目の堤=二本堤>日本堤、であったからとか、諸説あり。歌川広重の江戸名所百景『吉原日本堤』には茶屋が並び、吉原への遊客で賑わう堤が描かれている。昭和の初期に日本堤が取り崩されて道となった。
日本堤通り吉原大門交差点に。旧吉原名所のひとつ「見返り柳」とその碑が、ガソリンスタンド脇に。吉原帰りの客が、後ろ髪をひかれながら、このあたりで遊郭を振り返ったところから、この名前が。「後朝(きぬぎぬ)の別れに見返る柳かな」「もてたやつばかり見返る柳なり」「見かぎりの柳とわびる朝帰り」「見返れば意見か柳顔をうち」といった川柳も。昔は山谷掘脇の土手にあったのだが、道路や区画整備のためにここに移された。

弁財天;吉原神社
吉原大門交差点を左折。吉原地区に向かう。いわゆる風俗街ってどのあたりにあるのか、千束4丁目あたりを眺める。このあたりは昔の吉原のメーンストリート・仲之町あたり。はてさて現在の吉原、新宿の歌舞伎町っぽい雰囲気を想像していたのだが、少々さびれた感じ。客引きの黒服さんが手持ち無沙汰な感じ。規制があるためなのか、声をかけるような、そうでないような、微妙なスタンス。
千束3丁目に吉原神社。明治5年、吉原遊郭の四つの隅にあった神社など、近辺の稲荷社を合祀してできた。中でも、九朗助稲荷の創建は古く、和銅4年(711年)、白狐黒狐が天下るのを見た千葉九朗助さんの手で元吉原の地に勧請されたのがはじまり、と。元吉原って、日本橋葦町あたり。明暦3年、廓がこの地に移る。新吉原と呼ばれた所以。それにともない、神社も移ってきた。弁天さまをお祀りしている。

少し先に進むと吉原弁財天。境内の「新吉原花園池(弁天池)跡」によれば、吉原遊郭はこのあたり一帯の湿地帯、いくつもの池が点在湿地帯を埋め立てて造成したわけだが、造成に際して池の一部が残った。で、誰からともなく、いつからともなくその池、花園池というか弁天池のあたりに弁天様をおまつりする。それが吉原弁財天のはじまり、と。
境内には「花吉原名残碑」や関東大震災の時に溺死した遊女のために作られた吉原観音がある。「花吉原名残碑(台東区千束三丁目二十二番 吉原神社)」:吉原遊郭は、江戸における唯一の幕府公許の遊里で、元和三年(1617) 葺屋町東隣(現中央区日本橋人形町付近) に開設した。吉原の名称は、はじめ 葭原 と称したのを縁起の良い文字にあらためたことによるという。
明暦三年(1657) の明暦の大火を契機に、幕府による吉原遊郭の郊外移転命令が実行され、同年八月遊郭は浅草千束村(現台東区千束)に移転した。これを 「新吉原」 と呼び、移転前の遊郭を 「元吉原」という。新吉原は江戸で有数の遊興地のとして繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが昭和三十三年売春防止法の成立によって廃止された。(中略)昭和四十一年の住居表示の変更まで新吉原江戸町、京町、角町、揚屋町などの町名が残っていた」。

弁才天
大黒・恵比寿さまに続く三番目のメンバー。古代インドのサラスパティという名の豊かな川の女神。水の流れる音にちなんで音楽を司る神、弁舌さわやかな女神として知られ、妙音天とも大弁才功徳天、とも。
琵琶を弾く弁天さまの姿は、市杵島姫命(いちきしまのひめのみこと)の姿と習合した結果とも言われるが、それ以前は同系の女神・吉祥天と結びついていた。が、この吉祥天は美女ながら、少々怖い女神でもあり、吉祥天は弁才天に合体した、と(『江戸の小さな神々;宮田登(青土社)』)もともとは弁説の才と音楽を司る神。が、日本ではどうせなら金銀財宝をと、「才」が「財」にとって変わる。弁才天も弁財天と書かれるようになる。財産の神としての性格が強まった、ということだ。

寿老人;鷲神社

少し西に進み鷲神社(おおとり神社)に。下町を代表する神社。酉の市、お酉さまで知られる。祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)と日本武尊(やまとたけるのみこと)。天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸から現れるとき、鷲がどこからともなく飛び来る。八百万の神はその光景を瑞祥(いいしらせ)として、鷲の一字を入れて天日鷲命、と。
開運・開拓の神として当地に鎮座。これが天日鷲命の縁起。東征の帰途、戦勝を記念してこの神社の松に熊手をかけて御礼。その後、日本武尊をしのんで、命日におまつり。その日が11月の酉の日。ということが日本武尊、そして酉の市の由来。江戸時代には江戸っ子の篤い信仰を受けていた、と。

江戸期は鷲大明神。鷲神社となったのは明治になってから。が、少々疑問が。お酉さまって、新宿花園神社にもあるし、渋谷でも毎年お酉さまに集まれ、って義理の母から召集がかかる。ということは、お酉様の本家本元って何処だ?調べてみた;
その起源は、武蔵野国南足立郡花又村(今は足立区花畑町)にある鷲神社のよう。祭神は日本武尊(ヤマトタケル)。東征の帰路に花又地に立ち寄り、戦勝を祝した。これが縁となり尊が伊勢の能褒野(ノボノ)で亡くなった後、神社を作りお祀りしたと伝えられる。中世になると新羅三郎義光が戦勝を祈願したことから武神として尊崇されるようになる。江戸時代になると、日本武尊の命日といわれる11月の酉の日に、武家は綾瀬川を船で、町人は徒歩か馬を使ってこの地に詣でる。が、如何せん、少々遠すぎる。ということで、千住の赤門寺に「中トリ」、浅草竜泉寺(江戸初期の古刹。現在は不明)で「初トリ」が行われることに。結果、吉原を背景とする浅草の大鳥さま、大鷲神社、そしてと隣接する鷲在山長国寺が繁昌するようになった、と。なんとなく納得。もっとも、足立の鷲神社に人が集まった理由は、当時ご禁制であった、賭場が酉の市のときだけ許されていたから、とも言われる。賭博が禁止になると、だれも足立まで行かなくなり、これは大変と浅草に出店をひらき、新人なのか吉原なのか、その動機は知らねども、浅草の大鷲神社が半畳した、と。足立の鷲神社に行ってみなければ。

矢先神社;
福禄寿が残る。が、日も暮れてきた。一応七福神を巡った、ということで、本日の予定はこれにて終了。鷲神社から成行きで道を進み、浅草ロック、というか六区を通り浅草寺方面に。浅草花屋敷脇を抜け浅草寺の西に繁華街歓楽街通称「六区」に。正確には「公園六区」というべきか。明治17年(1884年)浅草寺が「浅草公園」と指定されたとき、7つに分けられた区画のひとつ。1区...浅草寺本堂周囲。浅草神社、二天門、仁王門、五重塔、淡島堂境内2区...仲見世3区...伝法院の敷地4区...公園中の林泉地。大池、ひょうたん池のあった付近。5区...奥山と呼ばれたところで公園の北部。花屋敷から本堂にかけてのあたり。6区...見世物の中心地。旧ひょうたん池跡をのぞく現在の六区ブロードウェイ。7区...公園の東南部。浅草馬道町明治17年、田圃を掘り起こし人造の池をつくる。それが「ひょうたん池」。掘り起こした土で整地したところが6区の繁華街。1951年には今度は、「ひょうたん池」を埋め立てる。浅草寺観音本堂再建の資金調達のため。埋め立て跡地は総合娯楽センター「新世界」となった、という。今はない。

ところで、七福神といえば宝船、ってことになる。いつの頃からか船に乗るようになったのかは定かではない。が、18世紀の初めころには乗船していた、とか。この宝船&七福神のペアは上方より江戸で盛ん。もっとも、将軍家とかお公家さんとか、武家の宝船には七福神は乗船していないようであり、七福神って庶民の間に広まった信仰であったのであろう。

それと浅草七福神、よくよく数えると九社ある。これは中国の列子の宇宙論、というか故事からきている、とか。曰く;「一変じて七となり、七変じて九となる」から、とか。だから、七も九も同じ、ってこと?少々こじつけっぽいのだが、なんのことやら、よくわからん;もう少し前後をメモする;
「子列子曰く、昔者聖人、陰陽によって以て天地を統(す)ぶ。夫れ有形の者は無形に生ず、即ち天地安(いづ)れより生ずるや。故に曰く、太易有り、太初有り、太始有り、太素有り。太易は、形の始めなり。未だ気を見ざるなり。太初は、気の始めなり。太始は、形の始めなり。太素は、質の始めなり。気形質具はって未だ相離れず、故に渾淪(こんろん)という。渾淪は、万物相渾淪して、未だ相離れざるを言うなり。視れども見えず、聴けども聞こえず、循(したが)えども得ず。故に易(い)と曰ふなり。易は形埒(けいれつ)無し。易変じて一と為り、一変じて七となり、七変じて九となる。九変は究するなり。乃ち復(また)変じて一と為る。一は、形変の始めなり。清軽なる者は、上って天と為り、濁重なる者は、下って池と為る。冲和の気なる者を、人と為す。故に天地精を含み、万物化成す」。列子の宇宙論では無から気が生じ、気は形を得て万物を生じる、と。「九変」はさまざまに変化すること。

浅草七福神巡りのメモもこれで終了。恋愛強化年間の皆様のガイドとして、ひたすら歩いたことがお役に立てたのであれば少々の幸せ。

日曜日, 1月 02, 2022

浅草散歩 浅草七福神巡り;そのⅡ

待乳山聖天・今戸神社・橋場不動・石浜神社
浅草花川戸を離れ、待乳山聖天、今戸神社、橋場不動、石浜神社と、これから先は、白髭橋のあたりまで隅田川に沿って歩く。今戸、橋場、石浜といった地名は、江東区や墨田区を含めた東京下 町低地の地形や歴史を調べるときに、幾度となく目にしたところ。地形としては、白髭橋のあたりから浅草、そして鳥越あたりまで隅田川にそって砂州というか自然堤防として形つくられた微高地となっていた。それ以外はというと、浅草の西というか北というか、入谷・竜泉寺・千束一帯は「千束池」、その南上野駅の東一帯、下谷・浅草・鳥越一帯は「姫が池」が広がり、これらの池は小川でつながっているわけだから台東区一帯は沼地といったところであろう。これらの低湿地帯が埋め立てられ、現在の姿に近い地形になるのは徳川の時代になってからである。



本日のルート;大黒天(浅草寺)>恵比寿(浅草神社)>毘沙門(待乳山聖天)>福禄寿(今戸神社)>布袋尊(橋場不動院)>寿老人(石浜神社)>弁財天(吉原神社)>寿老人(鷲神社)


毘沙門;待乳山聖天
隅田川に沿った江戸通りを北に進む。吾妻橋西詰めから松屋の脇を進み、東武伊勢崎線のガードをくぐる。墨田公園を右手に眺めながら言問通り・言問橋西詰めを越え、微高地ルートの最初の目的地、待乳地山聖天(まつちやま・しょうでん)に。小高い丘になっている。昔は鬱蒼とした森であった、とか。推古3年というから595年。この地が一夜のうちに盛り上がる。推古36年の浅草観音出現への瑞兆と伝えられている。同時に龍が舞い降り、この丘を守護した、と。待乳山本龍院の由縁か。で、この「待乳山」って名前、少々艶かしい。が、もともとは「真土山」。本当の土といった意味。沖積低地部には珍しい洪積層=本当の土、の台地であるからだろう。いつのころからか、真土が待乳に変わった訳だが、聖天さまというのは夫婦和合の神様である。それはそれでなんとなく納得。

毘沙門;
毘沙門。もともと暗黒界の悪霊の主。が、ヒンズー教ではクベーラと呼ばれ財宝福徳を司る神に。で、仏教の世界では、仏教の守護神に。サンスクリット語でベイシラバナと呼ばれる。夜叉、羅刹を率いて帝釈天に従う四天王のひとり、となる。説法をよく聞いたということから、別名、多聞天とも呼ばれた、とか、同系の神として多聞天と習合された、とか諸説あり。知恵の神様としても信仰された、よう。日本では戦いの神様としても名高く、武将達の信仰が厚かった。鞍馬寺の毘沙門天が庶民の信仰を集め、七福神のメンバーとなった、とか。

聖天さまを離れ、江戸通り(昔の奥州街道)を北に進む。道路の左手には山谷掘跡。道脇に今戸橋跡。隅田川との合流点・山谷堀水門跡地一帯は、現在は埋め立てられ公園になっている。山谷堀は王子から流れる音無川の下流部。というよりも、明暦2年(1656年)浅草裏の田圃の中に生まれた新吉原に向かう川筋というか掘として知られる。猪牙舟という小さな舟を仕立て、浅草橋あたりから隅田川を上り、山谷堀を吉原に進むのが「カッコ良い」吉原通いであったよう。

福禄寿;今戸神社

今戸1丁目の今戸神社に。今戸神社は1063年、奥羽鎮守府将軍・源頼義、義家親子が勅令により奥州の安倍貞任・宗任討伐のとき、鎌倉の鶴ケ丘と浅草今之津(今戸)に京の石清水八幡宮を勧請したのがはじまり。今戸八幡と呼ばれる。その後1081年、清原武衡・家衡討伐のため源義家がこの地を通るにあたり、戦勝を祈願。勝ち戦に報いるため社殿を修復した、とか。戦火にあうたび再建が繰り返された。江戸時代には三代将軍家光も再建に尽力している。境内に沖田総司終焉の地の碑。京の地から江戸に引き上げた総司は松本良順の治療を受ける。官軍の江戸入りに際して、この地に居を構えていた良順のもと、今戸八幡に収容され治療にあたった。が、その甲斐もなくこの地で没した、と。
境内には「今戸焼」発祥の地の碑。また、この地は「招き猫」発祥の地でもある。商売繁盛の「招き猫」の登場は江戸になってから。人形の招き猫はこの地の今戸焼での人形がはじまり。浅草に住まいする老婆、その貧しさゆえに、可愛がっていた猫を手放す。夢枕に猫が現れ、「吾が姿を人形にすれば福が来る」と。で、つくった人形を浅草寺参道で売り出すと大評判になった。目出度し目出度し、ということで先に進む。

福禄寿
道教の神様、とか。が、正体は不明。星の神様であったり、仙人であったり、と諸説あり。頭が長い独特の風貌が絵柄として面白く、絵の「モデル」として室町時代に人気があった、とか。福(幸福)・禄(富)・寿(長寿)と、名前がいかにも縁起がよさそうなので、庶民の信仰の対象となり、七福神におさまった、とも。とはいうものの、あまり日本に馴染みのない神であり、七神とするための「添え物」的なものである、と『江戸の小さな神々;宮田登(青土社)』にコメン トあり。納得。

布袋尊;橋場不動院

明治通り手前、橋場2丁目に砂尾山・橋場寺不動。道からちょっと入った奥まったところにある。うっかりすると見逃しそう。こじんまりしたお不動さん。が。天平宝字四年(760)というから長い歴史をもつ古刹。江戸時代に描かれた図を見ると、おなじく道から奥まったところに本堂、いかにも草堂といった雰囲気のお堂がある。

布袋さま
三神に次いで加わった毘沙門天の後、五番目にリスティングされたのが布袋さま。布袋尊とも呼ばれるように、お坊さん。神様ではない。9~10世紀頃の中国唐代の禅僧契此(かいし)。常に大きな布袋を担いで各地を放浪し、吉凶を占い、福を施した、と。弥勒菩薩の化身とも言われ、聖人として、神格化され崇められてきた。日本には禅画の中で竹林の七賢人という図柄で伝わった、と(『江戸の小さな神々;宮田登(青土社)』)。

寿老人;石浜神社

明治通りを越え、白髭橋西詰めのちょっと先に石浜神社。後ろには大きなガスタンク。周りは広々とした公園に整備されている。お宮も予想と異なり、都市計画で整備された中にたたずむお宮さんといった雰囲気。歴史は古い。聖武天皇の神亀元年(724)勅願によって鎮座。文治5年(1189)、源頼朝が奥州・藤原泰衡征討に際して戦勝を祈願し「神風や 伊勢の内外の大神を 武蔵野のここに 宮古川かな」と詠む。で、戦に勝利しそのお礼に社殿を寄進。境内にはいくつもの神社が集まっている。
「麁香神社(あらかじんじゃ)」は家つくり、ものつくりの神様。職人さんの信仰を集める。「日本大工祖神の碑」があるのもうなずける。「江戸神社」はこの地を治める江戸太郎重長が勧請した「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」がはじまり。鈴木理生さんの『江戸の町は骨だらけ;筑摩文庫』に牛王天についての興味深い記事があった。どこかで牛王天のことをきちんとメモしようとは思うが、今日のところは、橋場の鎮守さまであったが、後に江戸神社となった、ということで止めておく。「北野神社」は言わずもがな。そのほか、妙義八幡神社とか寿老神とか。富士塚といった富士遥拝所もある。また「名にし負わば」の「都鳥歌碑」もある。

この神社には「真先神社」もある。天文年間に石浜城主となった千葉之介守胤が「真っ先駆けて」の武功を祈願した真先稲荷がはじまり。もとは隅田川沿岸にあり、門前は吉原豆腐でつくった田楽を売る茶屋でにぎわった、とか。吉原への遊びの客がこの地を訪れ詠んだ川柳;「田楽で帰るがほんの信者なり」。大正時代に石浜神社と一緒になりこの地に。この地、とはいうものの、石浜神社も真先神社も別の場所にあった。石浜神社の西隣にある大きなガスタンク・東京ガス千住整圧所。石浜神社はこの整圧所の北の方にあったらしい。真先神社は東の方墨田川寄りにあった、とか。で、工場建設に伴い現在の地に移転した、ということだ。お宮を離れる。あれ、神社の裏にお墓がある。「お申し込みは石浜神社に」、といった文句。神社にお墓ってなんとなく違和感。が、どうも都内唯一の神社霊園であるとか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

寿老人

福禄寿と同様、正体不詳。道教の祖・老子が神格化されたもの、との説も。福禄寿、寿老人を生み出した中国でもしばしば二人の仙人は混同されている。ともあれ、名前のとおり、長寿の神様として信仰された、よう。福禄寿と同様、七神とするための「添え物」的なものである、と『江戸の小さな神々;宮田登(青土社)』に書いてあった。

本日はここまで

土曜日, 1月 01, 2022

浅草散歩 浅草七福神巡り;そのⅠ

ちょっと昔のことになるのだけれど、お正月ということで、会社の仲間と歩いた浅草七福神巡りを再掲する。

浅草七福神散歩_1;浅草寺・浅草神社;
年明けのとある休日、浅草七福神巡りに出かけた。都内のパワースポットを訪れ、霊験あらたかなるを、体現する。もって、恋愛強年間のスタートに、との想いを巡らす会社の皆様とご一緒した次第。あれこれ歩き、各所で七福神に出会ってはいた。実際、浅草七福神の鎮座する寺社はすべて「巡り」済み。で、勝手知ったる、わが町の如く、七福神巡りのルーティングをおこなう;大黒天(浅草寺)>恵比寿(浅草神社)>毘沙門(待乳山聖天)>福禄寿(今戸神社)>布袋尊(橋場不動院)>寿老人(石浜神社)>弁財天(吉原神社)>寿老人(鷲神社)>福禄寿(矢先神社)、といった段取りで巡ることにする。

土地勘は問題なし。目を閉じても歩けそう。が、先般の散歩でも正面切って「七福神」を意識して歩いたわけでもない。「七福神」って良く聞くのだが、あまり詳しいことも知らない。で、「七福神」の何たるかについてまとめる。

七福神、って簡単に言えば、(幸)福をもたらす七人の神さま、ってこと。「福の神」という名前は中世の民間信仰の中に現れている。室町末期、応仁の乱といった戦乱により疲弊した庶民の心に、福を求める土壌があったこと、また室町以前の神様・仏様は鎮護国家、五穀豊穣といった、国や村といった共同体の「福」を願うものであったわけだが、室町になると商業活動がはじまった頃でもあり、庶民・個人の幸福への願いを託す信仰がはじまった。こうした庶民の福の神信仰の広がりを背景に、七福神信仰がはじまった。七福神といっても、はじめから七神そろっていたわけでもないようだ。また、メンバーの交代もあれこれ、おこなわれていた、と。

はじまりは、大黒天。次いで、恵比須さんとペアーとなる。が、二神で満足することなく女神・弁才天が加わり三神となる。日本古来の守神・恵比寿さんに、中国をへてインドから伝わった大黒さま・弁天さまを加えた三神信仰がはじまった。弁才天がメンバーとなるに際しては、吉祥天という女神さまとのコンペがあったよう。が、結局選ばれたのは弁才天。吉祥天は同じ美女ではあるが、少々怖い女神と思われていたから、とか。

三神が決定。が、何が物足らなかったのか、京の民人は毘沙門天を加える。多聞天との習合、とも言われる。そして、次には四神では縁起が悪いかも、ということで布袋和尚を加えて五福神となる。それでも物足らず、福禄寿と寿老人をエイヤ、とばかり付け加え、七福神を誕生させた。三神でも、五神でも 六神でもなく八神でもなく、七神としたのは、仏教経典の「七難即滅七福即生」にちなんだとか、中国の「竹林の七賢」にちなんだとか、諸説あり。

室町に興った七福神信仰も人気が大ブレークしたのは江戸時代。きっかけは、天海僧正による、七福神信仰の奨励。家康の政治指南でもあった天海は、七福神のもつ七徳によって天下を統一した家康の威徳と、その徳を拝みなさい、ということであったのだろう。江戸も中期以降、庶民が豊かになるにつれ、レクレーションを兼ねた「七福神巡り」が全国に広まることになる。先般メモした秩父観音霊場巡りが江戸庶民に広がるプロセスと同じ。メンバー交代の動きもあった、とか。
神様でもない福禄寿と寿老人がメンバーって、いかがなものか、と、福禄寿の変わりに吉祥天を加えるべし、って意見も。猩猩を寿老人の代わりに入れるべし、って説も。猩猩って、想像上の獣。福をもたらす海の霊獣と考えていたよう。また、福助とお福さんを加えるべし、との意見も。
あれこれと途中経過があったものの、インドのヒンドゥー教や中国思想などから候補が選ばれ、日本的な神さまにアレンジされ、厳しい選抜戦に勝ち残ったのが現在の七福神。現在、 全国で80箇所以上の「七福神巡り」がある、という。



本日のルート;大黒天(浅草寺)>恵比寿(浅草神社)>毘沙門(待乳山聖天)>福禄寿(今戸神社)>布袋尊(橋場不動院)>寿老人(石浜神社)>弁財天(吉原神社)>寿老人(鷲神社)>福禄寿(矢先神社)、


七福神散歩をはじめる。メモは七福神のコメント以外は先般歩いた台東区散歩のメモをコピー&ペースト。はてさて、集合場所は東武浅草駅。雷門通りを西に進み、「雷門」に。道を隔てて南側にある「浅草観光文化センター」で資料集め。
ところで、浅草は台東区にある。読みは、「タイトウ」区。台東区の「台」は上野の高「台」、「東」は上野の高台の東、つまりは浅草を指す、という。「台」は台覧、「東」は聖徳太子ではないが、「日の出ずるところ」であり、台も東も、どちらにしてもありがたい言葉である、と。
それにしても台東区って、少々分かりにくい。ひねり過ぎ?この散歩をするまで、浅草って隅田川の東、墨田区にあると思っていた。実際歩いてみて上野から結構近いところにあった、と改めて気づいた。区名 を決めるときは、東区とか上野区,宮戸区とかなどいろいろ案はあったよう。候補のひとつである上野浅草区でもなっていれば、少々わかりやすかった、かも。 ともあれ、最初の目的地、大黒天のある浅草寺に。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

大黒天;
浅草寺浅草寺に伝わる縁起によると、創建は推古36年というから628年。漁師の檜前浜成(ひのくま・はまなり)と竹成(たけなり)が隅田川から拾い上げた金の観音像を、村長・土師中知(はじのなかとも)の家におまつりしたのが浅草寺のはじまり、と。
その後、大化元年(645年)には勝海上人が観音堂を建立。縁起は縁起以上のものではないにしても、すくなくとも平安時代の中頃には立派なお堂ができていたようではある。頼朝も治承4年(1180年)隅田川を渡り、武蔵の国へ攻め入るとき、浅草寺で戦勝祈願をしたというし、頼朝の父の義朝も浅草観音の信者であったというし、鎌倉の地に鶴岡八幡宮を造営の際、地元の宮大工など頼むに足らず、ということで、浅草寺をたてた浅草の宮大工を呼び寄せた、ともいうし、あれやこれやで結構昔から浅草寺は賑わっていた、そのことは間違いなさそう。
それにしても、それにしても、である。仏教伝来は538年。漁師の檜前浜成(ひのくま・はまなり)と竹成が隅田川から金の観音像を拾い上げたのが628年。伝来以来、一世紀弱で川から拾い上げた「もの」が「仏像」であると、一介の漁師がわかるものであろうか。あるとすれば、わずか一世紀弱で仏教が一般市民にも広まっていた、ということであろうか。
と、あれこれ考えながら、ふと気がついた。檜前浜成(ひのくま・はまなり)と竹成っていかにも渡来系の人。墨田区の散歩でメモしたように、この浅草湊は帰化人の橋頭堡であった。とすれば渡来系帰化人って、仏教を持ち込んだ人たちであろうから、拾い上げた像が「仏像」だとすぐにわかって当然でもあろう。結論;浅草湊は帰化人によって開かれた。仲見世通りを進み、浅草寺本堂におまいり。

それにしても境内にはいろいろな神や仏がそろっている。念仏堂、涅槃堂。閻魔堂などのお堂が169、お稲荷さんが35、不動堂が11、地蔵堂が10、弁天社が7、恵比寿・大黒さまが10。権現様もある。神や仏のデパートのようなお寺さんと呼ばれていた。
秘仏のご開帳も盛ん。江東区散歩のときの回向院は出開帳(でがいちょう)のナンバーワンのお寺であったが、この浅草寺は居開帳(いがいちょう)、つまりは自分のお寺の秘仏を自分のお寺でご開帳するって催しが二年に一度の割合で開かれていた、という。秘仏ご開帳の利益は膨大。『観光都市 江戸の誕生;安藤優一郎(新潮新書)』によれば、文化4年(1807年)のご開帳では70日間(本来は60日が最大)のイベントで、儲けが今の金額でおよそ2億円。この金額は通常の浅草寺のお賽銭額の3分の2にもなるという。
それではと、これも本来は33年に一度しかできないものを、あれこれ理由をつけて頻繁にイベントを催したお寺もあったようで、成田山新勝寺など150年の間に10回というから、15年に一度出開帳をおこなっている。ビジネスマネジメントの立場からして、気持ちはわからないでもない。

大黒天;福の神として最も早く祀られたのがこの大黒さま。もとはヒンズー教の破壊の神・シバ神。が日本に仏教とともに入ってきたときはお寺の食を司る神、台所の守り神 となっていた、と。日本に持ち込んだのは、天台宗の開祖最澄である。天台寺院の厨房に大黒天が置かれるようになったことから、この信仰が庶民にも広がった。台所の神から台所を司る主婦の守護神となり、さらには家の守護神となった、とか。
大黒天人気上昇の背景に、大国主命(おおくにぬしのみこと)の存在があった。 今日丁度手に入った『江戸の小さな神々;宮田登(青土社)』によれば、「最澄が天台宗の守護神として三輪山の三輪明神を勧請したという縁起があり、大国天の姿をした三輪明神が叡山に招かれ大国主命の神霊として、天台宗の守護神となった」、と。袋を担いだ大黒天の姿と、「大きな袋を肩にかけ」の大国主命の姿、大黒=大国という語呂も、大黒天と大国主命の混同に効果的であった、かも。記紀伝説に登場する日本を代表する「大国主命」の力も大いに影響し、福の神、打出の小槌をもっての無尽蔵の財宝と富のシンボルとして全国的に信仰されるようになった。

恵比寿;
浅草神社浅草寺の本堂から 少し奥というか北に浅草神社。檜前浜成と竹成、それと土師中知の3人を祭神とする。その後、神仏習合、というか本字垂迹というか、ともあれ「神も仏も皆同じ」といった論法で村長の土師中知が阿弥陀如来、浜成と竹成がその脇時の観音菩薩と勢至菩薩であるという権現思想が生まれ、この浅草神社が三社権現と呼ばれるようになる。「三社さま」の由来である。後に東照権現(家康)もおまつりされた。
本殿、弊殿、拝殿は共に慶安2年(1649年)家光公によって再建。この神社の祭礼である三社祭りは、以来江戸の三大祭りとなって今に至る。○ 恵比須さん。大黒さまに次いで登場した福の神。七福神の中で唯一の日本の神さま。ご存知、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊邪那岐命(いざなみのみこと)の三男、夷三郎が恵比須、とか。九州・日向の里からたどり着いたのが、摂津国西宮(兵庫県西宮市)。夷神社があるところ。
「えびす」の語源は、もともとは「夷」。海の遠方から富を授けてくれる神・漁業の神さまとして信仰される。はるかかなたの地から福をもたらす恵比寿さんは、寄神(よりかみ)、客神(まろうどかみ)であるがゆえに、農民や商人にも信仰され、農村では田の神、山村では山の神としても信仰される。ために、豊作の神様と。恵比須を全国に広めたのは、西宮夷神社の神人たち。全国を回り、恵比須を神像を配ったり、年末・年始に家々を廻り「エビス舞わし」などを披露し販促にこれ務めた。その結果、恵比須は大黒天と並んで全国で商売繁盛神として信仰されるようになった、とか。熊野の御師による熊野信仰の普及はあれこれ調べたことがある。恵比寿さんの祭祀圏の拡大もそのうちに調べてみよう。

浅草神社を離れ、花川戸地区に。名前に惹かれる。由来ははっきりしない。が、旧町名由来案内、によれば、「川や海に臨む地に戸をつけることが多いという。花川戸の地は、桜の並木あるいは対岸の墨堤に咲く桜など桜と隅田川に結びついていたので、この名がついたのではなかろうか」と。結構納得。
花川戸2丁目の花川戸公園に「姥が池跡碑」と「助六歌碑」。姥ヶ池(うばがいけ)は、昔、隅田川に通じていた大池。明治24年に埋立てられた。姥ヶ池にまつわる「石枕伝説」が残る:昔、浅茅ヶ原(あさじがはら)の一軒家で、 娘が連れてくる旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がいた。ある夜、娘が旅人の身代わりになって、天井から吊るした大石の下敷きになって死ぬ。 それを悲しんで悪業を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てる。里人はこれを姥ヶ池と呼んだ。(東京都教育委員会による碑文)、と。

「助六歌碑」は「歌舞伎十八番助六」の歌碑。市川団十郎の当たり芸。あらすじは;助六は花川戸の侠客。助六は実は曽我五郎である、と。曽我物の「おきまり」。源家の家宝「友切丸」を探すため、毎夜吉原で喧嘩三昧。相手に刀を抜かし「友切丸」かどうか調べる。
吉原の遊郭三浦屋の揚巻は、人気全盛の花魁。助六といい仲。髭の意休は権力と金を嵩にきて揚巻に言い寄る。が、相手にされない。意休は助六を罵倒。刀を抜く。この刀こそ「友切丸」。意休を討ち果たして刀を奪う。助六は揚巻の助力で吉原から逃れた。代々の団十郎は曽我五郎を荒事の典型とする。助六もそのひとつ。助六の決まり文句:「江戸八百八町に隠れのねえ杏葉牡丹の紋付も桜に匂う仲の町、花川戸の助六とも、また揚巻の助六ともいう若いもの間近くよって面像おがみ、カッカッ奉れえ」