火曜日, 7月 31, 2012

旧中山道和田峠越えⅡ;中山道・望月宿から和田宿へ

旧中山道和田峠越えⅡ;中山道・望月宿から和田宿へ


散歩の二日目、岩村田宿のある佐久平からバスに乗り23番目塩名田宿、24番目の八幡宿を経て今回の散歩の出発地である中山道25番目の望月宿に向かう。おおよそ20分程度といったバスの旅である。本日の行程は翌日に控える和田峠越えの負担を軽くするため、できるだけ峠の上り口近くまで歩くことにする。望月宿からスタートし、間の宿である茂田井、26番目の芦田宿、27番目の長久保宿、28番目の和田宿を越え、和田峠に向かう谷筋を成り行きで行けるところまで進む。
地形図でルートを見る。御牧原台地の鞍部である瓜生坂から鹿曲川の川筋に下り望月宿に。そこからささやかな支尾根の裾野を越え芦田川筋に下り芦田宿に入る。芦田宿からは蓼科山麓から北に延びる「ちょっとした」幅の支尾根にある笠取峠を越え依田川筋へと下り長久保宿に。そこからはひたすら、依田川が開析した谷筋を遡上し和田宿に。後は和田峠の登山口へと依田川の谷筋を詰めてゆく、といった案配である。ともあれ、散歩のメモをはじめる。

本日のルート;望月宿>大伴神社>茂田井>武重酒造>若山牧水歌碑>大沢酒造資料館>石割坂>茂田井の一里塚>芦田宿>本陣土屋家>脇本陣山浦家>酢屋茂>津金寺>かぶと松と休み石>石打場公園>笠取峠の松並木>若山牧水の歌碑>小諸藩領界石>笠取峠>中山道笠取峠原道>松尾神社>長久保宿>長久保宿歴史資料館>旧本陣石合家住宅>釜鳴屋>長久保宿横町>四泊一里塚>落合橋>下和田集落中組>三千僧接待碑>若宮八幡宮>芹沢一里塚>和田宿>歴史の道資料館>和田宿本陣跡>翠川家脇本陣跡>鍛冶足一里塚跡>パーライトの工場>扉峠バス停

■望月宿_8時15分;標高679m
御牧原台地と蓼科山(標高2530M)の広大な裾野を区切るような瓜生坂を上り、鞍部を越えてバスは望月宿へと坂を下る。『木曾街道六十九次之内 望月 広重』の舞台は瓜生坂辺りとの説があるのだが、そこに描かれのは月夜のもとの松並木と浅間山。瓜生坂には松並木はなかったようで、世に名高い「笠取峠の松並木」をちょっと「拝借」したのでは、などとの説もある。
鹿曲川(かくま川)に架かる長坂橋を渡りバスターミナルに。バスを降りて見る望月の町並みは、山間の集落という雰囲気の村と言うより町といったもの。2005年、佐久市に合併するときの望月町の人口は1万名強であり、結構な町である。
北佐久郡の歴史を見ていると、明治22年以前に町とあるのは小諸町、峠町(軽井沢)、望月町の3町だけである。その後明治22年の町村制の制定のとき、周辺の村と合併し本牧村となり、昭和29年には本牧町、そして昭和34年に周辺の村と合併し望月町となった、とか。望月は、佐久への道、小県への道、諏訪への道、安曇郡への道が交錯する交通の要衝である、とすれば納得。

町を進むに、特に昔の面影を伝えるといった雰囲気は乏しい。蜀山人こと太田南畝は『壬戌紀行』に「今宵の宿は、土もて塗れる壁なり 木曽路のごとき板家にあらず」と、土蔵壁や塗籠壁で造られた望月宿を描く。さきほど通った塩名田宿は蜀山人に「駅舎わびしき所也」と片付けられているのに比べると、土蔵造りの豊かな宿ではあったのだろうが、多くは取り壊されたのだろう、か。現在いくつかの家並みに往昔の名残を伝えるのみである。

町を進むと、道の左手に出野屋旅館。大正時代建築の木造3階建ての洋館風。『犬神家の一族』の撮影に使われた、とか。道の右側には「旅籠山城屋」。江戸末期創業のこの建物は現在も山城屋として旅館を開いている。少し先、道の左には「望月歴史民俗資料館」があったが、朝早い時刻でもあり、未だ開いていなかった。
望月歴史民俗資料館の場所は江戸の頃、本陣のあったところ。隣にある大森小児科医院は本陣をつとめた大森家であり、玄関脇に「御本陣」と書かれた看板が下げられていた。本陣跡の斜め前には「鷹野家脇本陣跡」。江戸の頃は問屋も兼ねていた。その先に「真山(さなやま)家住宅」がある。天明3年(1783)に建てられたこの建物は望月宿に残る最古の旅籠兼問屋とのこと。国指定の重要文化財に指定されている。鷹野家脇本陣跡、真山(さなやま)家住宅には木鼻彫刻が施された出梁が残る。木鼻彫刻とは木端、つまりは、柱から出張った飾り梁のことである。

大伴神社

先に進み、道脇の急な階段を上ると大伴神社。景行天皇40年(110)遷座とも、本殿は延宝5年(1677)の建築とも伝えられる古き社。朝廷直轄の牧場を維持・管理する牧監としてこの地に土着して一大豪族となった大伴氏(望月氏の祖といわれている)を祀る神社とされる。御牧7郷の総鎮守、とか。
望月宿は慶長3年(1602)の中山道ができたときに成立。慶長5年(1600)、徳川の命により周辺の集落の住人を集めてつくった。もともとは鹿曲川の右岸にあったが、寛保2年(1742)の大洪水で町が流され、現在地の左岸に移った。寛政12年(1800)には142軒、本陣、脇本陣各1。旅籠24軒となったが、天保14年(1843)、360人、戸数82軒、旅籠9軒と少し減少している。天明の飢饉の影響、とか。





(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23業使、第631号)」)
望月氏地図を見ると、望月宿から鹿曲川を隔てた山裾に城光院というお寺さまがある。このお寺さまはこの辺りを領した望月氏の菩提寺、と。また、望月氏の居城はこのお寺様の上、御牧原台地の上にあったとのことである。
望月氏は古代から中世にかけてこの辺りを拠点に佐久郡の千曲川西部一帯を支配した豪族。信州の名家である滋野氏の流れとか、大伴神社の縁起にあった奈良時代の豪族大伴氏の分派が牧監として信濃に派遣された末裔といった説もあるが、はっきりしない。出自はともかく、望月の牧の牧監の子孫であると考えられている。
望月氏が歴史に登場するのは、鎌倉時代、木曾義仲の挙兵に際し望月一族が寄力。望月の牧で育てた良馬が義仲の騎馬として供された、とか。義仲が頼朝によって討たれた後も望月一族は鎌倉幕府の御家人として活躍。弓の名手として知られた。
鎌倉滅亡の後、南北朝の争乱の時期は望月一族は常に南朝方として参戦。佐久一帯では北朝に与した岩村田の大井氏と争う事になる。戦国時代に入り、守護の小笠原氏が力を失うとともに、信濃は北信濃の村上氏と甲斐の武田氏の草刈り場となり、望月氏も天文12年(1543)、武田の軍門に下る。
武田との争いに破れた村上氏は越後の長尾(上杉)氏を頼り、ここに上杉と武田の抗争に至り、有名な川中島の合戦となる。望月氏は武田方の重臣として合戦に参陣するも戦死。ために。武田典厩信繁の二男信雅を婿に迎えて望月氏を継がせることになる。その武田家も長篠の合戦で織田勢に破れ、天目山において武田家が滅亡。信濃に侵入した織田勢との合戦を避けるため。望月氏は一時望月城を離れたとのことであるが、その織田信長も本能寺の変で横死。望月氏は再び望月城に戻った、とか。
空白地帯となった信濃には小田原・北条勢が侵入。望月氏は城をよく防ぎ、講和を結ぶ。望月氏と講和を結んだ北条方は小諸の芦田信蕃を破り北条勢の先陣は川中島あたりまで達する。
天正10年9月、徳川家康が甲州より信濃に兵を発した。芦田・望月の両城を攻め、10月、芦田落城、北条氏も敗走。徳川軍の軍勢は望月城攻略に参集。望月氏は1ヶ月に渡り防戦するも徳川に破れ、18代、600年続いた望月氏の嫡流はその歴史から消えた、と言う。

■茂田井_9時12分;標高683m
望月宿を離れ、御桐谷(OTOYA)と呼ばれる珍しい地名の交差点を過ぎ、三井川を渡ると道は青木坂と呼ばれる野道となり、坂を上ると国道142号にあたる。
県道148号を少し進むと。右脇に分岐し下る道が現れ、そこに「中山道茂田井」の案内がある。案内には「東の望月宿と西の芦田宿の間にある日村で,現在は間の宿とも呼ばれる.ここは茂田井への入口で,坂を下りはじめると,江戸時代の面影が残る民家や造り酒屋が軒を連ねている。寛保2年の大洪水で望月新町が道ごと流されたり,本町も大きな被害を受けたため,茂田井村を望月宿の加宿にしようと江戸幕府に願い出たが却下された経緯がある.元治元年11月19日,天狗党水戸浪士の中山道通過に際しては,茂田井村が小諸藩兵士400人程の宿となっている。また文久元年11月7日には,徳川14代将軍家茂に,公武合体の犠牲となって降嫁される孝明天皇の妹和宮の大行列が茂田井をつうかするなど大きなできごとがあった。一里塚は,瓜生坂を上りきった左右に位置しているが,現在は痕跡がみられるだけである(佐久市教育委員会)」、とあった。誤植でなければ、間の宿って、昔は「日村」とよばれていたのであろうか、などと思いながら茂田井の集落へと下る。
茂田井は「良質な米と清冽な水に恵まれ信州でも有数の酒所」とある。茂田井には武重本家酒造と大澤酒造という二つの蔵元があり、武重酒造も大澤酒造も創業は元禄2年(1689)、とのこと。
集落の水路を豊かで美しい水が流れる。また、明治になっての幹線道路がこの集落を外れて通っているので、現在でも古い土蔵などが残り、誠に趣のある街並になっている。
この茂田井の地は平安時代の『和名抄』に佐久郡下七郷記載される茂理(もたり)郷か、とも。「甕(もたい)」という字も使われている、鎌倉時代初期の承久の乱に登場する望月氏の氏族の中に「甕中三」という武将がおり、幕府方東山道軍の大将である武田信光の部隊長として参陣している。江戸の頃は小諸藩領であった。因みに、「甕」とは須恵器のカメ(甕)のこと。望月の牧の牧士は渡来人がその任にあった、と言われるが、高温で焼くす須恵器も帰化人のもたらした技術であり、渡来人との関連も見て取れる。

武重酒造
先に進むと武重酒造。立派な門構えの建物が建っている。しなの山林美術館(大澤邦雄、神津港人の絵画を展示),民俗資料館(小諸藩より拝領した甲冑などを展示)を併設している。武重本家酒造の裏に映画「たそがれ清兵衛」のオープンセットが作られ,撮影が行われた、とか。
若山牧水歌碑
武重酒造から坂道を少し登った反対側に,若山牧水歌碑。「よき酒とひとのいふなる御園竹われもけふ飲みつよしと思へり」「しらたまの歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」「ひとの世にたのしみ多し然れども酒なしにしてなにの楽しみ」と刻む。牧水が大正11年(1922)、佐久に逗留したときにこの地の酒を愛飲したのではあろう。

大沢酒造資料館
道脇に大きな門構えの建物が現れる。茂田井村の名主を代々つとめた家柄。土塀に「下組高札場跡」の案内板が取り付けられている。案内板のによると、「江戸時代,庶民に法令を徹底させるため,ここに高札を掲げた.高札場は名主宅前に設けられることが多い。大沢家は元文2年(1737年)より明治4年(1871年)に至るまで茂田井村名主を勤め,元治元年(1864年)11月19日,水戸浪士(天狗党)中山道通過の際,それを追って来た小諸藩兵士の本陣となった」とあった。

石割坂
結構大きな馬頭観音を見やり、無量寺の案内をパスし、先に進むと坂の上り口といったところに上組高札場跡。「茂田井宿は戸数が多く,上組,下組の2人の名主がいた時代があり,ここ上組の名主宅前に上組高札場があった」、と。坂を上ると石割坂「勾配がきつく大きな石があり交通に不便だったが,その石を割り中山道を開通させたので石割坂と呼ばれている」とのことである。




茂田井の一里塚跡

茂田井の一里塚跡を通過する。塚の名残はなく、なんとなく芝生をそれっぽく盛り上げている。先に進むと中山道茂田井間の宿入口の案内柱に到着する。このあたりで今まで辿った中山道江戸道は中山道明治道・県道148号に合流する。

■芦田宿_10時;標高715m
茂田井間の宿を抜けると,長閑な田園風景が広がる.東の方にうねうねと続く山並みが連なる。緩やかな坂を下り芦田川の川筋に降り、再び緩やかな上り坂を進む。白樺湖へと道を分ける中居交差点に常夜灯を模した塔があり、「中山道阿芦田宿」とある。立科町役場交差点を越え、芦田宿に入る。茂田井よりおおよそ2キロ程度である。

本陣土屋家
坂を上り、上町の商店街を過ぎると宿場のほぼ中央に白壁の門構えの立派なお屋敷。「芦田宿本陣」とある。敷地内に入れるようであり、お庭に入る。「芦田宿は,慶長2年(1597年)に設立,江戸幕府の交通政策施行(慶長6年)より4年前で北佐久郡では一番早くできた。本陣土屋家は,問屋を兼ね,芦田宿の開祖でもあった。本陣御殿(客室)は寛政12年(1800年)に再建されたもので,イチイの木を使った京風上段の間があり,大名の宿泊を今に伝える「宿札」も残され,往時をそのまま伝える建物は,中山道唯一と言われている」と案内にあった。
お庭の左手に本陣御殿(客室)が建つ。切妻造りの屋根、幅2間、奥行き一間5尺の妻入り様式の玄関、唐破風。屋根には鯱など風格ある趣を残す。案内にあるように、土屋家は芦田宿の開祖とのこと。芦田宿は、慶長2年(1597)、と言うからは慶長6年(1601)の五街道制定以前に、岩間忠助と土屋右京衛門というふたりの浪人によって新宿として取り立てた。場所は芦田の古町のほうであったようだが、街道制定にともない。幕命により現在の芦田宿の地に宿を開く。岩間氏は宿の南、土屋氏は北側を差配したようDが、岩間氏は零落し土屋氏が問屋、名主、そして本陣を担った。

芦田宿は、元禄6年(1693)、家数75軒、天保14年(1843)、80軒、人口326人の規模であった。『前田慶次道中日記』には荒れ果てると描かれ、また、蜀山人も「芦田の駅も又わびしき所也」と記している。

脇本陣山浦家
本陣の筋向かい「脇本陣山浦家」の案内柱。往時の趣を伝える建物は見当たらない。芦田宿にあった脇本陣2軒のうちのひとつであるが、昭和52年(1977)に火災で焼失したとのことである。往時は問屋を月の半分を土屋家と両家で問屋を分ける。






酢屋茂
脇本陣と道路を挟んで反対側に趣のある木造の建物がある。「酢屋茂」とある。味噌・醤油醸造業を営んでいる。その対面にある「金丸土屋旅館」も街道風情を伝える建物であり、現在も宿屋を経営している、とか。

津金寺
芦田宿を進み芦田交差点を右に折れ、ちょっと芦田宿を離れ北に1キロ弱のところにある津金寺に寄り道。信濃の名族である滋野氏の菩提寺であり、武田家も庇護したお寺さまが如何なるものか、と先を急ぐ「ご老公」に遠慮がてらに提案し許可を得た次第。
国道142号・山部交差点を越え、水田の中を緩やかに下る県道147号を辿る。前方が開け、遠景にテーブル状の台地が広がる。御牧原台地ではなかろうか。道路脇に茅葺きの風格ある山門を目安に進み津金寺に。

山門は仁王門とあった。案内によると、「この仁王門は、芽葺単層切妻造り八脚門(三間一戸楼門)の素朴な造りであり、文化10(1813)年に再建されたもので、立川流の宮大工、上原市蔵(上諏訪)、田中円蔵(当町茂田井)両人の作である?寺の守りとして立つ仁王像は、戸隠の九頭龍権現の作といわれている。九頭龍権現がこの仁王を造る際に見ることを禁じたが、その禁を破ったものがあり、製作を途中で止めて昇天したという伝説があり。、未完成の仁王として知られている」とあった。
境内を進み観音堂に。正面・側面に円柱が4本立つ方三間堂という形式で、屋根は入母屋造り、銅板葺き(もとは茅葺き)。?この建物は江戸時代中期の元禄15(1702)年に再建されたものであるが、中世の仏堂形式を残す、と言う。本堂右手、多くの石仏の脇に津金寺妙見堂。本殿は、側面から見ると屋根が「へ」の字の形をした「流れ造り」。正面には湾曲した軒唐破風(のきからはふ)という屋根を付けたり、建物の至る所に彫刻が施されており、江戸後期の特色を示す、とか。この建物は、天保7(1836)年に、立川流二代目・和四郎富昌と地元茂田井の田中円蔵によって建てられた。立川富昌は諏訪大社上社本宮拝殿・弊殿(重要文化財)など長野県内外に多くの作品を残した諏訪の名工。?本殿には縁の下には兎・唐獅子・山羊・麒麟・犬など、階段下には鯉・千鳥などの彫刻が施されている。

津金寺は慧日山修学院(えにちざんしゅがくいん)と号し、天台宗比叡山延暦寺を本山としている。江戸時代中期の住僧長海によって著された「津金寺由来記」によると、大宝2(702)年古代東山道を通って信濃入りした奈良薬師寺の僧行基が、戸隠権現の霊験により聖観音を安置し津金寺を開いたと伝えている。

鎌倉時代に入ると、この地を領する滋野氏の庇護のもと寺運も隆盛し津金寺談義所(学問所)として知られるようになり、天台宗の信濃五山のひとつと称される。戦国時代には武田信玄に庇護され改宗に関する朱印状などが寺宝として伝わり現在でも堂宇には武田家の家紋である武田菱が掲げている。天正10年(1582)、織田信長により焼失し天正14年に再興。境内背後の裏山中腹には鎌倉時代に建立された3基の滋野氏の供養(津金寺宝塔)がある。

滋野氏滋野氏は奈良時代から東信濃に繁栄し、この地方の政治経済面で重要な地位を占めた氏族である。清和源氏の流れともするが、出自は不明。ともあれ、朝廷にいた滋野氏が信濃介、そして貞観12年(870)信濃守りに任ぜらる。天暦4年(950)には、望月牧監となり、信濃国小県郡海野荘に住し、海野姓を名乗ったともされる。この海野氏からは望月・禰津氏が別れ、信濃の小県や佐久郡を中心に栄える。鎌倉時代には信濃全域から上野国吾妻郡まで滋野の流れとする氏族が広がるが、多くの滋野家を称する氏族のうち、海野・望月・禰津氏は特に「滋野氏三家」と称された。

かぶと松と休み石
樹齢千年と伝えられる巨木の茂お寺を離れ、水田の野道脇に「かぶと松と休み石」の案内。戦国時代はこのあたりは寺域であったようで、武田信玄が川中島の合戦時、観音堂に戦勝祈願をしたときに、かぶと松に兜を掛け、休み石に腰掛けて休んだ、と。

石打場公園

芦田宿に戻り、先に進み宿場が切れる辺り、国道142号の手前に「石打場公園」。案内によれば、「石打場という地名は奈良、新潟、群馬などにあり、「石打」は当て字で「石内」が本字、とのこと。「石内」とは「境界」または「石敢当」の意味があり、「災害除け」または「防御示」のための場所というのが本来の意 味。この地は、旧芦田村と横島村の「境」にあたる」とのことであった。

芦田城址
地図を見ると、芦田宿の南1キロほどの山麓に芦田城址がある。鎌倉時代に滋野系芦田氏により築城された、との説があるが、はっきりしない。この滋野氏系の芦田氏が、北信地方より佐久に侵攻してきた村上義清に破れ滅んだ後、小県依田から移った依田氏が芦田姓を称し、居城とした。村上氏の先鋒としてこの城を落としたのが依田氏、とも言う。永享7年(1435)、芦田に要害の記述が残る。此の地は上田へと向かう上田道、諏訪へ向かう諏訪道(大門街道)の分岐点でもあり、交通の要衝ではあったのだろう。
先回の岩田宿でメモしたように、この芦田城への進出は大井氏を刺激し、芦田(依田)氏と大井氏の争いに発展。芦田氏(依田)は村上・海野・禰津氏らの国人連合の支援をえて対抗するも、信濃守護小笠原・大井勢に破れ、依田氏は大井氏の家臣となる。
その大井氏も文明16年(1484年)、村上義清により破れ大井宗家は滅亡。このときの依田(芦田)氏の動向は不明ではあるが、芦田領主として自立したのではないか、と言われる。その後、天文10年(1541)、武田信虎麾下の諏訪頼重により落城依田(芦田)信守の代に諏訪氏の傘下に入ったとされるが、天文11年には諏訪氏は武田氏に滅ぼされ、翌12年に武田氏の佐久侵攻で臣従、以後信濃先方衆として活躍することになる。
戦国期になると、武田氏の配下として芦田氏(依田氏)は本拠を春日城(望月宿の南)に移し、川中島の合戦などで戦功をあげる。武田家滅亡後は徳川家康の配下となり依田(この頃は芦田姓を改め依田姓に戻している)信蕃は、家康の先鋒として佐久地方藤一に大きな役割を果たした。

笠取峠の松並木_10時52分;標高764m
芦田信号を渡り、正明寺の山門を過ぎると芦田宿は終わる。山門の先で国道142号に合流これを渡ると上田道が右に分岐。上田道の追分があったようだが、見逃した。その上田道は先ほど訪れた津金寺の前の道筋のようである。交差点を渡ったところに常夜灯があり、中山道は石割坂の松並木がはじまる国道を渡り、国道脇に続く松並木の小径に入る。入口近くの道祖神を見やり先に進む。緩やかな上りである。
先に進むと休憩所。広場の一角に「笠取峠の松並木」の案内がある。「長野県天然記念物 笠取峠の松並木:この峠道は,近世五街道の一つ中山道の笠取峠である。徳川政権は,関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)東海道に伝馬制を実施し,翌7年には中山道などにも着手した。慶長9年幕府は諸街道の改修,一里塚の設置とともに街道筋に松や杉を植えて並木を作らせた。笠取峠は雁取峠とも呼ばれ慶長2年(1597年)に設けられた芦田宿と,およそ1里半(約6キロメートル)の距離を隔てた長窪宿の間にある。笠取峠の松並木は,小諸藩が幕府から下付された数百本の赤松を,近隣の村民とともに峠道約15町(約1.5キロメートル)にわたって植樹し,その後も補植を行い保護・管理を続けてきた。歌川広重の「木曾街道六十九次」芦田宿に描かれている中山道の名所である。長い歳月の間,風雪に傷み枯れ,大正13年(1924年)長野県の調査によると229本があった。昭和49年(1974年)長野県天然記念物に指定された。現在は110本である.立科町が笠取峠の旧街道の整備と松並木の保護に努め,往時の姿をとどめている(立科町教育委員会)」、と。笠取峠は「かりとり、雁取、狩取、苅り取り」などとも表記されたようである。
『木曾街道六十九次之内 あし田 広重』の舞台は笠取峠の松並木とも。とは言うものの、先ほどの望月宿の絵図とは逆に、この絵には松ではなく杉が描かれる。ということで、この絵図の舞台は松並木ではなく、笠取峠そのものを描いたのでは、とも。奥の山は浅間山であろう。

若山牧水の歌碑
公園の一角に石に刻まれた歌碑。「老松の風にまぎれず啼く鷹の声かなしけれ風白き峰に」「岨路のきはまりぬれば赤ら松峰越の風にうちなびきつつ 」と牧水が詠う。傍らに石つくりの水呑み場らしきものがある。金明水と呼ばれる。脇に道祖神も佇む。

小諸藩領界石

路傍の道祖神に手向けながら先進むと大きな石碑。「是より小諸領」とある。文化3年(1806)小諸藩が領境の東西に建てた境界石のひとつ。これより西は幕府領。ここから東の小諸領の東端は小田井と追分の間、追分原にある、と言う。この領界石は元は笠取峠にあったものの復刻ではある。






■笠取峠_11時30分;標高914m
笠取峠松並木の碑を過ぎると、道は国道142号に合流する。やや急な上りをすすむと笠取一里塚。道脇の少々高い場所に石碑が残る、のみ。峠の案内も、同じく道脇の高いところにさりげなく置かれている。峠は掘割りされた大きな国道にあり、峠越えといった達成感はなにも、ない。昔の中山道は国道の少し南を通っていたようではあるが、道は残ってはいないようである。




中山道笠取峠原道
笠取峠を下りはじめる。国道はやや急な下り坂である。だいぶ下った後で中山道に入る道を見落としたことに気づく。峠から二つ目の分岐道が右に折れるところ、犬のブリーダーハウスとおぼしき建物から右に別れる道と国道の間にある雑草の茂る窪地を下るのが往昔の中山道であった。
国道と旧国道のガードレールの切れ目を下る。石荒坂と呼ばれたようである。草の生い茂る林の中を少し進むと、少し道らしき道となり、少々安心。ほどなく旧国道とおぼしき道に出る。少し旧道を進み、中山道の道標に従い、ガードレールの切れ目から再び雑草の茂る山道に。中山道の道標を見逃さないように下れば、心配はない。左手には沢があるのか、川音が聞こえる。下り切ったところに「中山道笠取峠原道」と書かれた木柱があった。
しばらく旧国道を歩き、国道142号に合流。しばらく進み中山道の道筋とおぼしきところより再び山道に入り少し下ると旧國道に出る。そこは松尾神社の境内裏であった。旧国道を横切り、松尾神社境内に。境内に下る細路も旧中山道の道筋である。

松尾神社_12時17分;標高730m
本殿でお参りを済ませ、傍らの案内を見る。「この本殿は諏訪の宮大工,三代立川和四郎富重の建築で,万延元年(1860年)に再々建されたもので,総欅で三社の高床造りである。本殿の欄間には龍がまきおこす波に亀が泳ぎ,鶴が舞い遊んでいる姿や,貫の木鼻には像のはななど,実に見事な彫刻がしてある。

神社は旧郷社で,祭神は大山昨命であり,本社は京都市右京区松尾町の官幣大社松尾神社で,酒造守護の神として往古より酒造家の尊信あつく遠くより参詣する人が多かった。以前は長久保の町裏地籍にあり,その当時は大欅の森があったが小学校校庭拡張のため昭和33年5月現在地に移転した。その際略式の四神の際紀のあることが発見された」とあった。

■長久保宿_12時47分;標高693m
結構広い境内で小休止を兼ねた昼食をとる。しばしの休息の後、散歩再開。大鳥居をくぐり、五十鈴川に架かる橋を渡ると長久保宿になる。笠取峠からおおよし4キロ弱といった距離である。
長久保宿は、竪町、横町という直角に交差する二つの通りからなり、江戸側は竪町である。宿名「長久保」の本来の表記は長窪郷に含まれる「長窪」であったが,宿の人々が「窪」より,久しく保つと縁起のいい意味の「久保」に変化していった、と。1859年には宿方から代官所へ宿名変更の願書が出されたらしいが,すぐに許可はおりなかった、とか。そのため,それ以降も公文書には「長窪宿」と記されているものが多く,「長久保」と認められたのは明治になってからのこと(安政6年(1859)に永久保宿と改名との説もある)、と。

長久保宿歴史資料館
依田川に向かって緩やかに下る竪町を進むと通路に面した格子戸の前に「長久保宿」と書いた屋根付きの案内が置かれている。案内板によると,ここは「一福処濱屋の建物。明治時代初期に旅籠として建てられたが,中山道の交通量が減ったために開業には至らなかった。間口は9間と広く,総二階建で,延床面積400平方メー散る程の宿内でも大きな建物だった(中略)2000年(平成12年)建物所有者福永家から寄付された」とある。



旧本陣石合家住宅
道の反対側に旧本陣石合家。傍らに高札場跡の表示がある。案内板によると,この建物は「江戸初期の本陣建築で,上段之間,二之間,三之間,入側などが現存する.1850年(寛永3年)の本陣絵図には,上段之間ほか客室,茶之間,台所など22室が主要部分で,ほかに問屋場,代官詰所,高札場を併置し,御入門ほか幾つかの門,御番所2カ所,御湯殿4カ所,雪隠7カ所,土蔵,馬屋などがあった.(町重要文化財)」、とあった。

釜鳴屋
脇本陣跡と書いた木杭が立っているだけの脇本陣跡を見やり、旧本陣の直ぐ近くにある釜鳴屋に。「釜鳴屋は寛永年間から酒造業を許可されていた家柄。主屋の間口が9.5間と長久保宿の中では大型な建物。江戸時代初期に建てられたとのことであるが,軒が低く1階正面を下屋で張り出し,両脇には"本うだつ"を上げるなど同じ長久保宿の町屋とは一線を画す建物となっている。建物は切妻,平入,桟瓦葺(中略)竹内家住宅(釜鳴屋)は1978年(昭和53年)に長和町指定有形文化財に指定された」、と。

先に進み濱田屋旅館で左に曲がると横町となる。街道の宿に見られる枡形、と言うかL字型の町並みである。長久保宿は元は依田川の河岸段丘下にあったようである。それが、寛永8年(1631)の大洪水で流され、現在地に移る。元の長窪村を長窪古町、移転後の町を長久保新町と呼んだ。長久保新町は中間でL字に曲がっており江戸口を竪町(たてまち)、京口を横町と呼ぶ。
元の長窪古町がどこにあったのかチェックする。笠取峠手前で国道142号と分かれた国道254号が、長久保宿の少し北で国道152号と合流するあたりの依田川右岸に古町があるが、そのあたりだろう、か。
ついでのことであるが、その古町の辺りに町役場長門庁舎とか長門小学校という建物が目についた。此の辺りは長和町とよばれるのだけど、長門って?チェックする。長和町は2005年、小県郡の長門町と和田村が合併して誕生したもの。その長門町は昭和31年、長窪古村、長久保新町、大門村が合併したものであった。
それはそれとして、長久保新町に造られた長久保宿は、天保14年(1843)には家数187軒、本陣と脇本陣が各1,宿内人口は721人、旅籠が43軒あった、とか。小田井が5軒、岩村田が8軒、塩名田7軒、八幡3軒、望月9軒、芦田6軒に比べて長久保宿が圧倒的に多いのは、和田峠や大門峠への登り口であり、また北国街道の上田・松代や中之条の陣屋へ通じる道の分岐点という交通の要衝でもあった、ため。幕末には数十名の飯盛女がいた、と言う。

交通の要衝であった長久保(元は長窪)が歴史に登場するのは古河公方である足利成氏が信濃にも覇を唱え、小県郡の村を領したときに遡る。先日のメモで岩村田の大井氏は足利成氏の臣として活躍したことと無縁ではないだろう。また、この長久保の地は武田信玄の北信濃進出の拠点でもあった。天文12年(1543)、佐久方面より侵入した武田軍は長久保より少し北、長和町にある長窪城を落とし、城主大井貞隆を生け捕り(この時貞隆に与力した佐久軍の望月氏も破れている)。
長窪城の当たりには笠取峠を越える中山道より北を通り佐久郡より入る大内(おおない)道という古道があり、信玄の侵攻路として知られる。長窪城を落とした武田勢は、北信濃の丸子へも、真田(菅平)を越えて北上州にも侵攻できる交通の要衝にある長窪城を拠点に、小県、更科(級)、埴科の三郡を支配する村上義清攻略に着手。天文22年には塩田城(上田市)の義清を破る。村上義清は越後に逃れ長尾(上杉)に助けを求める。これが後の上杉・武田の抗争の発端となり川中島の合戦へと至る。
交通の要衝であるこの地はその後も有力諸将の領地となる。織田の頃は滝川一益、豊臣から徳川初期に真田氏の支配下。元和元年(1622)から駿河大納言徳川忠長領、寛永元年(1624)から籠小諸領、寛文元年(1661)から元禄13年(1700)に徳川綱重の甲府領、それ遺構は明治まで幕府領であった。なお、先ほど訪れた本陣の石合家は、もともとは真田家の支配下、この地に赴いた代官。石合氏とともに代官であた小林氏の両名は中山道整備に際して宿役人となり、石合氏は本陣・名主・問屋、小林氏は問屋をつとめることになった、とか(『信濃路をゆく(上)(下);児玉幸太監修(学習研究社)』)。

長久保宿横町
横町を進むと古き趣の建物が数軒残る。連子の窓や格子の戸、出梁造りの大きな建物は竹重家住宅。江戸時代は「旅籠・辰野屋」といい、高級旅籠であった。現在も住宅として使われている、と。出桁造りで総2階建ての建物が見える。江戸末期に建てられた旅籠・辰野屋である。
横町を300ほど進んだところに横町防災備蓄庫脇があるが、ここが昔の京方桝形跡。長久保宿はここが京方面の宿の出入口。旧国道(名地道)は先に進むが、江戸の頃の中山道はここで右に分岐する細路となり少し進み左に折れ、所謂旧国道明治道と平行に100mほど進み、再び明治道に合流する。

四泊一里塚_13時19分;標高678m
旧国道(明治道)を先に進み長久保横町交差点で国道142号と合流。ここからは時に出入りするも、基本的には国道に沿って右手を流れる依田川の開析した谷筋を和田峠に向かって進むことになる。和田宿まで8キロ、長久保の標高は680m、和田宿は850mであるので、緩やかな上り道ではある。





600mほど進むと上田方面からの国道152号が合流。水田の中の国道を400mほど進み、長久保宿から2キロほどのところの道脇に「四泊(よとまり)一里塚」の案内。昭和35年(1960)道路改修以前は榎の大木が植えられていたとのことであるが、現在、塚の名残は何も、ない。「ある高僧が、善光寺を目指して来て、ここで四泊目を迎えたことから四泊となった、とか。旧中山道はこの一里塚のところで国道から右の細路に入る。田圃の中の道を300mほど進み四泊集落手前で再び国道142号に戻る。



落合橋_13時37分;標高695m

四泊集落を越え、落合集落に入るとすぐに国道142号(和田峠を越えて諏訪へ)と国道152号(白樺湖を通って茅野へ向かう大門街道)の分岐点である大和橋交差点に。ここは,依田川と大門川が落ち合うところである。
大門街道は武田信玄の信濃侵攻路として知られるが、この道筋は古代より諏訪と信濃を結ぶ往還路。古代の東山道は美濃から御坂峠を越えて信濃に入り、伊那をへて杖突峠を越えて諏訪郡に。その後は山浦地方から蓼科山麓の北西の雨境峠を越えて碓氷峠に向かう分けであるが、雨境峠に向かう手前から信濃の国府に向かうのが大門峠を越える道であった。この大門街道は和田峠越えの中山道ができてからも諏訪と東信濃を結ぶ重要路であった。

旧中山道はこの交差点から国道142号を離れ、一瞬、国道152号を辿り、100m強進んだところにある大門川に架かる落合橋を渡り、更に依田川に架かる和田橋を渡り、再び国道142号筋に戻る。
この大門川に架かる落合橋が、広重の『木曾街道六十九次之内 長久保』の舞台、との説がある。幅1間、長さ8間の木橋であった、とか。満月のもとの依田川に架かる依田橋。橋は影絵風になっており、手前の街道が月に照らされるこの絵は、木曾街道六十九次の絵の中でも秀逸とされる。

下和田集落中組
依田川を渡り、道標に従い依田川に沿って進み、突き当たりで国道142号に出る。国道の左手、依田川左岸に発電所の導水路が見える。中部電力青原発電所。依田川、大門川から取水し、83mの落差水路で発電する。
青原信号交差点で国道142号から離れ、国道脇の道を進む事になる。分岐点は公園として整備されており「水明の里」となった、「歴史の道」といった道標を見ながら、少し休憩。ここから和田宿まではあと4キロ強と言ったところである。


依田川の右岸の静かな道を進む。道脇の茅葺のバス停など趣きがある、先に進み中組公民館手前には石碑群がある。天王夜燈の後ろには西国三十三ヶ所碑が。宝暦2年(1752)と刻まれている。その先の下和田中組バス停裏に大きな馬頭観音。その左に「ミミズの双体道祖神」。最近造られたものではあろうが、ほほえましい。中組とは下和田集落の中組、とのこと。集落は中組と上組に分かれ集落が3キロほど続く。




三千僧接待碑_14時15分;標高729m

先に進むと水飲み場。道の左側には石碑群。馬頭観世音、大乗妙典、南無阿弥陀佛、大乗妙典、庚申、三千僧接待碑などである。三千僧接待碑とは、「信定寺(しんじょうじ、和田宿にある)別院慈眼寺境内に建立されていたものが、寛政七年(1795)この地に移された。諸国遍歴の僧侶への接待碑で一千人の僧侶への供養接待を発願して見事結願し、一躍二千を増やした。三千の僧侶への供養接待を発願したと碑文に刻まれている。碑を見れば誰の目にもわかるように一千僧の「一」の字を三千僧の「三」の字に改刻した痕が歴然としている。当時三千という僧侶への接待用の食べ物は米飯ばかりでは到底賄いきれないところから麦飯、麺類、粟飯、ひえ飯等雑穀にても賄い、更に天保年間の六年に渡る凶作続きの際にはジャガイモの粥などで賄ったことがあると言われている(和田村・長野県・文化庁)」と。

若宮八幡宮_14時29分;標高757m
下和田集落の上組に入ると道脇にトンネル。「←笠取峠 東餅屋(和田峠) 地下道をくぐる」などといった標識が少々紛らわしく、少し迷う。結局この地下道は学童の通学路。道の左手から右手へと、7m弱の通学専用地下道、といったもの。であれば、標識などないほうがいいか、とも。
地下道に入らず先に進むと、地下道入口のすぐ先、道路より一段低いところに若宮八幡神社。若宮八幡神社の祭神は仁徳天皇。本殿は1721年(享保6)建立。境内には、天文23年(1555)、矢ヶ崎の合戦で武田信玄に敗れた和田城主大井信定父子はじめ一読郎党の首級が埋葬されている、とも。元禄6年(1693)その菩提を弔うため信定寺の和尚が,この墓碑を建立した、とのことである。若宮八幡と言えば、お供の先数3万もとなった皇女和宮の行列の先頭が長久保宿を通る頃、最後尾は未だ若宮八幡の辺りであった、とか、その距離おおよそ6キロである。

沢一里塚その先100mほど進んだ左側に、まだ新しい一里塚跡碑。塚の名残はなにもないが、芹沢一里塚である。江戸のから49番目。およそ196キロ、というところ。芹沢一里塚からおよそ2キロ強、歩くこと30分、緩やかな長い坂道を上りつめたあたりに「是より和田宿」との大きな石碑が見える。本来の和田宿入口はもう少し先に進んだ八幡様の辺りとのことだが、ともあれ。やっと和田宿に着いた。長久保宿からおおよそ8キロといった距離である。
依田川の左岸に見える導水路は中部電力水沢発電所。依田川、そして少し上流で依田川に合流する松沢川の水を取水し、有効落差68mの水路を落とし発電する。放水は依田川と、先ほど見た青原発電所に流す。

■和田宿_15時27分;標高828m
追川を渡り、先に進むと道脇に和田小・中学校。地元に人に教えてもらった水飲み場が中学校前にあった。男女倉沢だったか、どこだったか忘れてしまったが、沢から引かれているとのことであった。

歴史の道資料館
小学校の先に八幡社。残念ながら修復中のようであり、社殿に入ることはできなかった。八幡社から100mほどで和田宿の中心に入る。最初に 「旧旅籠かわち屋」。和田宿は文久元年(1861)3月の大火で本陣・脇本陣を含め109軒全て焼失したが、その数ヶ月後には和宮が和田宿に宿泊することが決定していたため幕府の助成もあり、本陣・脇本陣等と同じく再建。和宮一行を無事に迎え入れている。




和田宿の旅籠のうちでは規模が大きい方である。出桁造りで格子戸のついた宿場建物の代表的な遺構であり、江戸末期の建築様式をよく伝えているとして歴史の道整備事業の一環として修復され、「歴史の道資料館」として公開されている。
歴史の道資料館を少し北に入ったところに、黒曜石器資料館がある、とのこと。先を急ぐ余りパスしたが、和田峠は黒曜石の産地として名高いところである。石器時代から縄文時代にかけて、黒曜石を求めて人々がこの地に訪れた。割ると鋭い断面となる黒曜石は鋭利な刃物として重宝したのであろう、か。





この先から古民家が続くが、かわち屋の斜め対面、一段高くなったところの出梁造りの建物は山木屋。問屋跡である。問屋跡の隣は「旧旅籠大黒屋」。安政年間以降は昭和初期まで穀物商を営んでいた、とのこと。なお、建物は一段高くなっているが、実際は明治になって道路を掘り下げたためであり、江戸の頃は街道が石垣の高さであったようである。斜め対面に「たかき」。江戸時代の旅籠跡。正面2階を一階より半間ほど迫り出した「出桁造り」となっている。
先に進むと「名主羽田家跡」。平入出桁の門付き旅籠の遺構、とか。明和2年(1675)より明治まで名主を務めた羽田家跡である。

和田宿本陣跡
羽田家の反対側に皇女和宮が宿泊した「和田宿本陣」がある。文久元年の大火で焼失し、和宮宿泊のために突貫工事で再建させ、無事和宮を迎え入れた、とのことは前述の通り。再建に際しては、「百年拝領」というかたちで965両(現在の1億円程度;1両が10万円程度)が本陣ご入用、370両が和田峠御小屋他の建設費として前借りされている。この他、臨時拝借金として1065両が前借りされている。ちなみに、前借り金は、明治の御一新のどさくさで、有耶無耶になった、とか。
明治になり本陣の役割が無くなると、座敷棟は丸子町の龍願寺に、御入門は同じく丸子町の向陽院に移され居室棟は役場や農協の事務所として使われていた。昭和59年には役場の移転に伴い解体される予定であったが、中山道の本陣の遺構として評価され、国の歴史の道整備事業の一環として再建された。
慶長7年(1602)中山道の制定と同時に設立された和田宿には本陣1,脇本陣2。旅籠は寛永7年(1630)に28軒、元禄13年(1700)には42軒、文化文政期には70軒となったが、天保14年(1805)には28軒と減っている。和田村は上田・甲府・小諸藩領をへて元禄15年(1702)に幕府領となっている。
宿駅の維持管理、道中荷物の輸送を担い、特に和田峠を控える和田宿では重要な役割であった問屋(往還問屋)は2軒。その他、和田宿の特徴としては木問屋があった。元々は往還問屋であったものが、江戸開府に伴う江戸城や城下町建設のため木材の需要が急増し、木を扱う専門問屋となったもの。当時は木曽川・天竜川の川運が整備されていなかったため、木曽・伊那の木材は陸路を江戸に運ばれていた。その木問屋も元禄(1687)の頃、木曽川の川運が整備され、江戸にはこばれるようになり衰退していった、とのことである。

本陣前の交差点を右に曲がると、和田城主大井信定父子の菩提を弔うために建立されたと云われている「信定寺」がある。背後の山は和田城址であるのでちょっと寄りたいとも想うのだが、如何せん本日は体力、時間ともに余裕なく、パス。この地は戦国時代、佐久の大井一族が領した。その大井氏が武田に敗れた後は武田家の長井氏が和田を治めることになる。その長井氏は武田滅亡後、真田家に仕え、本陣・問屋・名主を務めることになる。その後、往還問屋には遠藤家が加わり、木問屋は羽田家が担ようになり、長井家は往還問屋を務め本陣・名主を兼任していたようである(その後羽田家が名主となった)。
翠川(みどりかわ)家脇本陣跡
交差点を渡って1~2分、右側の奥まったところに「翠川(みどりかわ)家脇本陣跡」(左)がある。一般公開されていないが、上段の間、二の間、脇上段、次上段などのほか風呂場、厠等江戸末期の姿をよく伝えており、上田、小県地方における脇本陣唯一の遺構、とのこと。
先に進むと和田宿で唯一の卯建(火返し)と白壁土蔵の建物がある。「よろずや」(右)と看板を掲げた酒店のようだが江戸の頃は質屋と両替商であった、と言う。宿場街もそろそろ終わりというあたりにバス停があるがここは「高札場跡」(右)。幕府の法度が掲げられた高札場の大きさは正面幅2間(約3.6m)の屋根付きであった、とか。

国道142号
高札場を過ぎると旧中山道は国道142号に合流。合流点のところに「鍛冶足一里塚跡」、そして「諏訪道道標」が立っている。
旧中山道はこの先50~60mほど国道を歩いた後、左の細い道に入り、しばらく旧道を歩くと再び国道に合流。大型トラックに少々怖い思いをしながら和田峠への登山口へと進んでゆく。道の右手の山肌に水路鉄管。中部電力和田発電所の落差水路。有効落差128m。取水は上流にある唐沢発電所のすぐ下の依田川から。標高1003mのあたりから、標高870mのこの地まで2キロ以上導水し発電。放水は依田川へと戻す。発電所にフックが掛かるのは、尾瀬の水力発電所の導水路が尾瀬沼の水をトンネルで沢に落とし、沢をくだった水を再び導水管で発電所まで山を穿ち運ぶ、といったダイナミズムに惹かれた、ため。この発電所への導水も、山を穿ち運ばれているのだろう、などと妄想するだけで、なんとなく嬉しい。

牛宿上和田地区を進むと牛宿跡がある、とのこと。国道脇にあるドライブイン「杉の屋」の辺りである。和田宿から3キロ、鍛冶足一里塚跡から1.5キロ程度だろうか。昔は2軒の茶屋があったようで、その内の一軒は「塩つけ宿」と呼ばれ、牛が泊まれる宿であった。牛は馬に比べてメンテナンスが少なくてすむ動物であり、荷運びに重宝された。和田峠を越え、碓氷峠を越えて倉賀野まで木材などを運び、戻りは塩やその他の物資を持ち帰った。倉賀野からは利根川の舟運を利用し荷は江戸へと運ばれた。

パーライトの工場国道脇にパーライトの工場があった。和田峠を越える間にいくつかパーライドの工場を見かけた。根拠はないのだが、黒曜石に関係ある工場であろうと、チェックすると、『峠の歴史学;服部英雄(朝日新聞社)』に「ガラス質の黒曜石を摂氏1000度で熱すると、パーライトと呼ばれる白色粒状の発砲体ができる。それは多孔質で土壌改良材になる」とあった。と同時に、「工場下流では川の石がガラス質に覆われて、ウロ(隠れ穴)がなくなり、魚が棲めなくなる。そのため峠沢の岩魚(イワナ)は絶滅した」時期がある、と。現在では自然環境が戻り、魚の影が走る、とか。

扉峠入口_16時42分;標高962m
トラックの風圧に怖い思いをしながら国道脇をひたすら進み、美ヶ原の扉峠へと道を分ける扉峠入口バス停に。牛宿跡から1キロ、和田宿からおおよそ4キロといったところ。扉峠への道は美ヶ原の山麓を通り、松本へ抜けるルートである。これより先は電波が通らないとのことで、ここから本日の宿である「民宿みや」さんに連絡しピックアップを依頼。8時15分スタート、16時42分終了。8時間半で26,5キロ程度歩いた本日の散歩を終える。



土曜日, 7月 28, 2012

旧中山道和田峠越えⅠ;岩村田宿から望月宿へ

旧中山道和田峠越えⅠ;岩村田宿から望月宿へ

ご老公の中山道お供旅の2回目。今回は和田峠越え。先回の中山道碓氷峠越えのお供に控えた同僚は所用のため参加できず、今回はご老公と私の二人旅。峠越えフリークの私としては、和田宿から和田峠を越えるだけで十分ではあるのだが、事の成り行きから望月宿からのお供と相成った。
今回の和田峠越えの日程は2泊3日。初日は佐久平に前泊。2日目には朝、佐久平からご老公が既に辿った中山道の最終地点・望月宿にバスで移動。中山道散歩は望月宿からスタートし、和田宿を越え和田峠への登り口にできるだけ接近しておく。翌日の和田峠を越えて下諏訪までの距離を極力短縮するためである。到着点から宿までの足が心配ではあったのだが、幸い、和田宿での宿である民宿は街道の任意の地点までの送迎サービスをしてくれる。中山道を辿る人への配慮故である。この計画で歩けば、初日25キロ強、2日目は標高1600mの和田峠を越えて下諏訪宿まで20キロ程度となる。
和田峠ははるか昔、高校生か大学生の頃であるので、40年以上も前の事ではあるが、両親とともに車で越えたことがある。峠のトンネルが誠に狭く怖い思いをした、との微かな記憶が残る。当時はバイパスも出来ていない頃であろうし、トンネルも車一台が通れる程度の幅ではあったのだろう。
和田峠は数年前に買い求めた『峠の歴史学;服部英雄(朝日新聞社)』において物流の峠のケースとして紹介されており、皇女和宮や天狗党などについても、宿場の人々の立場からの労役負担などが説明されており、峠越えフリークとしてはそのうちに実際に歩いてみたいと想っていたところでもある。今回の和田峠越えは、峠を巡る人々との歴史に想いをはせるとともに、過ぎた日に対する少々の感傷を抱くものとなりそうである。
旧中山道和田峠越えメモの第一回は、前泊地である佐久平近くにあった岩村田宿と、散歩のスタート地点である望月宿までのバスの旅での所感。何気なく歩いた岩村田宿であまり聞き慣れないのだが、佐久だけではなく武蔵までもその覇を及ぼした武将の名前が登場したり、望月の駒で知られる御牧のあった御牧台が気になり、あれこれチェックしていると散歩を始める前に足止めをくらい、少々メモが長くなったためである。ともあれ、メモをはじめる。


本日のルート;長野新幹線・佐久平駅>岩村田宿>西念寺>龍雲寺>円満寺>荒宿>王城公園>鼻顔稲荷>遊郭大門跡>佐久甲州街道道分去れ>長野新幹線・佐久平駅

■前泊地・佐久平の岩村田宿

長野新幹線・佐久平駅
金曜日の午後、長野新幹線・佐久平駅に到着。駅にある観光案内所のパンフレットを見るに長野新幹線・佐久平駅にクロスする八ヶ岳高原線で一駅東に岩村田駅がある。岩村田は中山道・岩村田宿があったところ。ついでのことであるので、岩村田宿を巡ることにした。

西念寺
長野新幹線・佐久平駅より、八ヶ岳高原線に沿って南東に下る。しばらく進み、八ヶ岳高原線・岩村田駅の北に佐久長聖学園がある。陸上競技などでよく聞く学校であり、ちょっと立ち寄り外からキャンパスを眺め先に進む。
佐久警察署交差点を過ぎると道の南に西念寺。このお寺さまは、岩村田藩主・内藤氏や戦国時代の旧岩村田領主仙石秀久の菩提寺。開山は永禄3年(1560)。武田信玄が帰依し甲斐・信州に多くの浄土宗の寺を建立した岌往上人によって建てられた。本堂の屋根の構えが誠に印象的。また鐘楼、12の柱で支えられた山門など、風格を感じる構えである。
仙石秀久って、織田信長公・豊臣秀吉公・徳川家康公・2代秀忠公に仕えた小諸城初代藩主。秀吉の九州攻めのとき軍監として赴任するも、無無謀な作戦をたて大敗し、しかも誰よりも早く逃げ帰り配下の長曽我部信親など多くの武将を失った。その責めを負い一度改易になるも、小田原攻めにおいて活躍し、再び大名として復活した人物である。
岩村田宿西年寺を離れ、成り行きで進み県道9号に沿って並ぶ岩村田の商店街に出る。商店街には中山道・岩村田宿の幟が並ぶ。この辺りが岩村田宿のあったことであろう。
岩村田宿は江戸から数えて22番目の宿。先日の碓氷峠越えで歩いた追分宿が20番目であり、21番目の小田井宿は先回散歩の最終地点であるしなの鉄道・御代田駅の少し南にあったようだ。それはともあれ、この岩村田宿は本陣、脇本陣はなく、寛政6年(1784)には11軒の旅籠と、その他旅芸人や巡礼が宿泊する木賃宿があった、とか。
本陣・脇本陣がなかったから、岩村田宿がさびれた宿、というわけでもなく、それは内藤氏15千石の城下町(城はなく陣屋が岩村田小学校のあたりにあった、よう)であったがための、と言う。城下町の宿故に必要となる大名間の儀式を嫌いこの地に泊まることを避けることが多く、ために本陣・脇本陣を設置しなかった、とか。実際、鎌倉時代、大井郷と呼ばれた頃は「民家六千軒、交易四達し、賑わい国府にまされり」と記録に残る栄えた町であり、特に応永年間(14世紀末から15世紀はじめ)は関東管領足利持氏に重用された大井氏が東側の高台に居を構え、多くの人が往来する地となった。
江戸時代になり、街道が整備されると、中山道が北から下り来て西に抜け、また、北西への小諸への街道(善光寺道)、南に下って野沢を経て甲州へ抜ける街道(佐久甲州街道)、東の香坂峠を越えて上州の下仁田への街道(下仁田道)の分岐点となり、この地は米穀の集積地として物流の要衝であった、とか。寛永元年(1748)には人口2,135人。街並みの長さ9町半(およそ1キロ)を誇った宿であり、商人や善光寺参りの善男善女など多くの人々で賑わった。

龍雲寺
少々レトロな雰囲気を残す、といって往昔の宿の名残は留めない商店街を北に住吉町交差点まで進み、右に折れて龍雲寺に向かう。住吉町交差点をもう少し北に進めば住吉神社があり、そこが岩村田宿の江戸口であったようだが、今となっては後の祭りである。また、住吉交差点から北西に向かう道が往昔の善光寺道と案内にあった。
道を折れ龍雲寺に。結構なる山門が印象的。開山は正中元年(1324)、当時大井郷とよばれたこの地の地頭であった大井氏の招きにより京都五山派東福寺系臨済宗の寺として開かれた。場所は現在よりもう少し東南の地であった、とか。鎌倉・南北朝と法灯を伝えるも、室町に至り臨済宗を庇護した室町幕府の衰退により多くの臨済宗の寺とおなじくこの寺も衰退。文明15年(1483)、曹洞宗の寺として復興。明応3年(1494)には現在の地に移った。
その後戦火により寺は荒廃したが、永禄年間(1558-1570)、武田信玄が深く帰依する北高禅師を開山とし再興。その子・勝頼も寺の再興に努めた。江戸の頃は、本陣がない岩村田宿故に、大名が滞在する時の宿ともなった、とのこと、因みに家臣は先ほど訪れた西念寺に宿泊した。
この寺には武田信玄の遺骨が伝わる、とか。箴言は天正元年(1573)、京への上洛の途上伊那にて病死するも、その遺言に基づき、北高禅師によりこの寺に分骨された、と言われる。昭和6年境内より骨壺が発見され、遺骨とともに短刀・袈裟輪も出土。調査結果及び袈裟輪に記された銘文から、遺骨は信玄のものにほぼ間違いないとされている、とか。

円満寺
地図をみると、龍雲寺のすぐ近く、北東のところに円満寺が見える。ちょっと立ち寄り。康治2年(1143)開山の真言宗の古刹。大永年間(1521-1528)に兵火により焼失するも、後に武田信玄の庇護を受け再建。岩村田の東北にあり、鬼門鎮護として江戸頃の領主・内藤氏の庇護を受けた。
本堂は新たに建て直されたばかりのようであったが、本堂裏の観音堂は古き趣を今に伝えている。境内には松の巨木が並び、ちょっとした松並木の風情があるが、この寺は藤が有名であるようであった。境内を出て振り返ると「信濃成田山」と刻まれた石柱が目に付いた。

荒宿円満寺を離れ、道を南に向かう。古い土壁の土蔵などが残りなかなか風情のある街並みである。荒宿と呼ばれるこの辺りは、江戸に入り中山道が整備される以前の岩村田宿があったところ、とのことであるので納得。中山道沿いの岩村田宿が発展するにつれて、荒宿はその役割を譲ることになるが、正徳3年(1713)の「信州佐久郡岩村田宿絵図」には荒宿の通りも描かれている。少なくとも江戸中期までは、荒宿も岩村田宿として扱われていたようである。
案内地図に円満寺に沿って古道が記されていた。南に進み県道143号を左に折れ、湯川への川筋に向かって下ると途中に王城公園があった。先ほど龍雲寺でメモした大井氏の城館跡とのことであるので、ちょっと立ち寄り。

王城公園
県道から離れ公園に入る。広い公園ではあるが、遺構らしきものは見あたらない。公園の北東隅には巨大な欅が聳えている。公園から湯川を見下ろすに、結構な断崖となっている。
公園を一巡し入口に戻ると「大井城跡」の案内があった。「この城跡は鎌倉・室町時代を通じて、佐久郡の東部を中心に繁栄した大井氏宗家が城館とした場所。幅100m前後、長さ700mにおよぶ長方形をしている城域は堀切によって三区分され、中央を王城、南を黒岩城(以上が県史跡)、北を石並城といい、合わせて大井城または岩村田館と呼ぶ。
文明十六年(1484)、大井城は村上氏の攻撃により岩村田市街とともに焼亡、大井氏宗家は滅亡した。その後、支族によって再興された城は、天文年間以後は武田氏の支配下に、そして武田滅亡後は徳川家康の武将依田信蕃の支配下に置かれるが、やがて廃城となる」とある。
案内によれば、王城公園から県道156号を隔てた南が黒岩城があったところであろう。それはともあれ、案内を読むに、武田氏とか徳川氏、それに村上氏は村上義清氏であろうと推測できるのだが、大井氏とか依田氏ははじめて聞く名前。チェックする。

大井氏
大井氏の出自には諸説ありはっきりしない。一説によれば、甲斐源氏の小笠原長清が信濃国内の支配を強めるために、佐久地方にあったふたつの庄園である伴野荘(南佐久郡)と大井荘(北佐久郡)に、伴野荘には六男の時長を、大井荘には七男の朝光を地頭として、それぞれ伴野と大井姓を名乗らせた。この大井朝光氏が大井氏の祖とされる。鎌倉時代のことである。
大井荘は12郷(岩村田、耳取、与良、小諸、平原、塩野、小田井、根々井、平尾、沓掛、軽井沢、安原)からなり、その中心となったのがこの地・岩村田郷。代々大井氏はここを拠点として大井荘一帯を支配していった。南北朝の頃は、小笠原一党として足利方として活躍する。南朝方の東山道軍により大井城は一時落城するも、新田義貞の箱根・竹之下の合戦(1335年)での敗北により、戦況が変化し再び大井城を回復。その後室町の頃、鎌倉公方足利持氏と関東管領が反目し「永享の乱(1438)」において、敗れた足利持氏の遺児・永寿王を庇護。嘉吉元年(1441年)の結城合戦では足利持氏の遺児(春王と安王)を奉じて室町幕府に反旗を翻した結城氏朝に永寿王を送り届けるなど、関東の情勢にも関与することになる。大井勢も結城合戦に合力すべく東進するも、碓氷峠で関東管領方(室町幕府方)に阻まれ、結城合戦も敗れる。
結城合戦に敗れた鎌倉公方・足利持氏の遺児3名は捕らえられ護送の途中、春王と安王は殺害されるも、幼い永寿王は助命される。大井氏(持光)は再び永寿王を庇護。この永寿王が後に鎌倉公方家を再興し足利成氏となるが、そこには大井持光の力が大きく寄与していた、とのことである。その鎌倉公方・足利成氏であるが、関東管領と対立し、享徳3年(1454)これを誅殺。室町幕府・関東管領と関東を二分した大乱を引き起こす。結果、成氏は鎌倉を追われて下総古河に移座し古河公方となるも、その庇護者である大井氏の関東の所領維持が不安定となりにおける力にも翳りがではじめる。
この地においては文明年間(15世紀後半)、大井氏など信濃勢(佐久の国人衆)が甲斐国に攻め入ったり、逆に佐久に攻め込んできた甲斐勢を破るなど、未だ守護武田氏の力が弱かった甲斐と拮抗する勢力を保っていた。文明11年(1479年)、大井氏は同じ佐久郡内の同族・伴野氏との戦いに大敗し、大井政朝(持光嫡子)が生け捕りとなる。伴野氏方には甲斐の武田氏が加担していたといわれる。文明16年(1484年)、大井政朝から弟の安房丸への代替わり時に、小県郡から佐久郡に勢力を伸ばそうとしていた村上氏の攻勢を受け、大井城は落城し大井宗家は滅亡する。
宗家は滅亡するも、一説には甲斐武田氏系統の永窪大井氏が大井城を継ぎ、岩尾・耳取・芦田・相木など一門も存続した、と。これら残された一族は、村上氏の与力となった、とか。また、依田氏など、それまで大井氏に従属していた諸族の多くは村上氏の傘下に移り、実質的に佐久郡は村上氏の影響下に置かれることになる。
永正16年(1519年)、甲斐の武田信虎が佐久郡平賀城を攻める。この攻防戦を皮切りに、佐久の地は武田氏と村上氏の争いの場となり、大井氏・平賀氏・依田氏をはじめとする佐久郡の豪族も村上氏や武田氏、更に関東管領上杉氏などの間で離合集散を繰り返していき、最終的には滅亡するか武田氏に従属することになる。
戦国末期、武田氏が滅亡し、徳川氏・後北条氏・越後の上杉氏の勢力が信濃に伸び、大井氏一族も再び騒乱に巻き込まれていく。天正11年(1583年)、佐久で唯一残った北条方の岩村田大井氏(大井朝光の孫光泰が祖)・大井行吉が立て篭もる岩尾城攻めで、徳川方の依田信蕃と弟の信幸が戦死を遂げる、との記録が残っている(wikipedia,武家家伝・大井氏などを参照)。

依田氏
出自は清和源氏の流れとか、岩村田大井氏からとか、頼朝の命での地頭職がそのはじまりなど諸説。ともあれ、依田六郎為実が小県群に依田城を築き依田氏の祖とされる。為実の子は木曽義仲の平氏追討に際し、依田城を提供し、共に京に攻め上がるなど活躍するも、義仲の敗北とともに衰退。その後北条時代に勢を盛り返し依田荘を回復。鎌倉幕府滅亡に際しては足利尊氏方に属し、その後室町幕府の重臣である評定衆に列するなど幕府内で重用される。
南北朝には依田氏は依田荘全域を支配し、更に丸子郷への進出を図り、芦田古町に芦田城を築く。この頃より、依田氏は芦田氏とも称したようである。この芦田進出は前述の佐久の大井氏を刺激し芦田(依田)氏と大井氏の争いに発展。芦田氏(依田)は村上・海野・禰津氏らの国人連合の支援をえて対抗するも、信濃守護小笠原・大井勢に破れ、依田氏は大井氏の家臣となる。上でメモした結城合戦に際しては栄寿丸を結城城へと届けたのは依田氏、とのことである。文明16年(1484年)、村上義清により大井城が落城し大井宗家滅亡。このときの依田(芦田)氏の動向は不明ではあるが、芦田領主として自立したのではないか、と言われる。その後依田(芦田)信守の代に諏訪氏の傘下に入ったとされるが、天文11年には諏訪氏は武田氏に滅ぼされ、翌12年に武田氏の佐久侵攻で臣従、以後信濃先方衆として活躍することになる。
その子依田信蕃の代にその武田氏も滅亡。当時駿河国の田中城に居た信蕃は城を明渡し、徳川氏の庇護下に身を寄せる。その後、信濃には織田軍が侵攻するも、本能寺の変により信濃の織田勢力が無力化し、旧武田領は徳川・北条・上杉の争奪地となる。信蕃は当初は北条氏に属し、その後徳川氏の与し佐久地方で活躍。当初北条方であった真田昌幸を徳川方に寝返らせるなどの功績で、佐久・諏訪の二郡を与えられ小諸城代となる。王城公園にあった、「徳川家康の武将依田信蕃の支配下に置かれる」との下りは、このあたりのことであろう。しかし、上の大井氏のいところでメモしたように、佐久で唯一残った北条方の岩村田大井氏が立て篭もる岩尾城攻めで、弟の信幸と共に戦死を遂げる。
天正12年(1584年)に家康は信蕃の武功を称え、嫡男竹福丸に松平姓を許し「康」の一字を与えられ、依田康国として小諸6万石の城主とする。この康国は天正18年(1590年)の小田原征伐で上州に出陣するが、石倉城で戦死を遂げることになる。
康国の死後は、弟の康真が家督を相続。小田原の役後、家康は江戸に入部。依田氏も家康に従って関東に移り、改めて武州榛沢、上州緑野両郡において三万石を与えられ藤岡城主となる。文禄三年(1594)康真は二条城築城奉行を命じられ、井伊・榊原氏らとともに上洛し本丸・隠居郭を完成させている。慶長五年(1600)、康真は、旗本小栗氏と囲碁の勝負を巡る諍い小栗を斬り殺す。康真は大坂を出奔し高野山に上り沙汰を待ったが、結果は藤岡三万石を改易され、結城秀康のもとに食禄五千石を与えられお預けの身となった。康真は松平姓をはばかり母方の加藤姓を名乗り、子孫はのちに芦田姓に改めた、とのことである。

鼻顔稲荷

次は何処へと地図を見る。と、王城公園から湯川を少し下ったところに鼻面稲荷大明神がある。王城公園からも、崖面にせり出した社殿が見える。名前に惹かれて立ち寄ることに。
公園を離れ、湯川に向かって下り、昭和橋の手前を右に折れ、川に沿って南に下り、県道44号、香坂峠へと向かう昔の下仁田道筋に当たる。鼻顔橋を渡ると鼻面稲荷大明神の入口がある。詠みは「はなずら」。鼻面になんらかの由来があるものかとい想ったのだが、此の辺りに昔の小字名が鼻面であった、ためとのこと。それにしても、地名の鼻面の由来は残ったままだが、全国には鼻面川とか鼻面岬といった地名もあるので、それほど特異な地名というわけでもないようである。
南の参道の鳥居をくぐり、直進すると表桟道。右手には階段を上る男道がある。表参道を直進し、神楽殿や水琴窟を見やり、現在は通行禁止と成っている急な階段の先に女坂。女坂は崖面に架けられた桟道となっている。女坂を進み男坂参道と合流するところに御姿殿。二体の狐が佇む。鍵を咥えたお狐と巻物を咥えた子持ちの二体のお狐狐様が佇む。
御姿殿の先に参籠所。本来は祈願のために籠もる場所ではるが、今は地酒だけが並んでいた。参籠所の先に拝殿と本殿。この本殿や拝殿、参籠所は崖に足場を組んで造られており、懸崖造という建築方法とのこと。床板の下は崖、のはず。静かに奥に進むと、右手奥に岩に塗り込められた旧本殿。直進すると新しい本殿があり、赤い格子の奥には、同じく岩に塗り込められた本殿がある。眼下に湯川、そして岩村田の家並みを眺め少し休憩。
鼻顔稲荷神社は永禄年間(1558?1569)に京都伏見稲荷を勧請。伏見、祐徳、笠間、豊川とともに「日本五大稲荷神社」の一つとされている。もっとも、全国には「三大稲荷」または「五大稲荷」の称する稲荷は10以上ある、とのこと。「巻物」は神からの神託、「鍵」は神霊力を引出す鍵、子キツネは「子宝」を意味する、とか。因みに、眷属の狐が持つものに、「玉(宝珠)」や「稲」があるが、「玉(宝珠)」は神霊の力、「稲」は富を意味する。このお稲荷さまは、養蚕と商業の神として知られ、戦前までの初午では、養蚕の盛んな群馬県や栃木県からの参拝しにきた信者も多かった、とのことである。

遊郭大門
鼻顔稲荷を離れ、岩村田宿のあった商店街へと戻ることに。道は、鼻顔稲荷前の県道44号を西に向かえば相生町交差点に続く。昔の地図(駅の観光案内所にあった「信州佐久」という観光案内に掲載されていた)を見るに交差点辺りが岩村田宿の枡形の曲がり角のようである。道を少しすすんだところに遊郭大門の跡がある、と駅前の案内地図にあった。この遊郭は信越線の開通によって廃れた追分宿の遊郭が明治になって移転してできた遊郭とのこと。遊郭は現在の花園団地辺りにあったようである。

佐久甲州街道道分去れ
先に進み相生町交差点に。「信州佐久」に掲載されている古図によると、相生町交差点の西詰めにある西宮神社のところで岩村田宿を南へと下中山道は直角に曲がり、西へと進む。また、地図には、鼻面稲荷からの道筋は「下仁田道」の小径、そして西宮神社から南へと下る「佐久甲州街道道分去れ」が描かれている。佐久甲州街道は現在は県道133号・国道141号として八ヶ岳の裾野を甲州街道・韮崎へと下る。佐久甲州街道は、甲州往還と呼ばれ、東海道筋の人々にとっては甲州往還を岩村田宿に進み、更に北上して北国街道や善光寺詣りの道であり、信濃の人々にとっては富士講や伊勢講といった信仰の道であり、茶・塩などの食料や木材といった物流の重要な道であったようである。また、戦国時代は武田信玄の信濃攻略の重要な軍用道路のひとつであった、とのことである。「分去れ」という美しい響きは、本当に、いい。

佐久平駅
西宮神社脇を通旧中山道を進む。八ヶ岳高原線の手前のドーム型建物は「佐久こども未来館」。日も暮れてきた。ホテルへと急ぐことに。岩村田高校の辺りから右に折れ、成り行きで進み佐久平駅前のホテルへと戻る
後になって気付いたのだが、旧中山道をそのまま進み、浅間総合病院の脇に、「相生の松」があったようだ。皇女和宮が休憩で野点をしたとの由来の地ではあるが、それよりなにより、英泉の「木曽道中 岩田村」の舞台との説がある。座頭が喧嘩をする、といった道中絵図としては余りに大胆な絵柄故に英泉に替えて、「東海道五十三次」の絵図で人気を博した安藤(歌川)広重に「中山道」の絵図を依頼するきっかけともなったもの、とも言われる。今となっては後の祭りである。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

■2日目;佐久平から散歩の出発地・望月宿へ
塩名田宿佐久平駅前のホテルで一夜を過ごし、明朝駅前ロータリーよりバスに乗り望月宿へと向かう。バスは西へと、おおよそ中山道を進む。ほどなくバスは千曲川の川筋に向かってくだってゆくが、千曲川の東には中山道23番目の宿・塩名田宿があった。広重の「木曾街道六十九次の内 塩名田宿」には、千曲川を背景にした船着き場が描かれる。
千曲川もこのあたりは急流で、川幅も120mほどもあった、とか。川の瀬が二つに分かれていた頃は、塩名田川は平橋、逆の御馬寄側は岩を橋台にした投渡橋であったり、投渡橋が洪水で流された後は刎橋(川の両岸から刎木を何段にも重ね、それで橋桁を受ける様式。山梨県大月市猿橋町猿橋にある桂川で出合った猿橋がそれの様式であった)であったり、それも流されたときには舟渡しとなった、とか。ともあれ、塩名田宿は千曲川の川止めなどのため造られた宿、とのこと。
塩名田の名前の由来はよくわからない。塩尻などと同じく、塩の道に由来するとの説がある。また、塩名田は塩灘、塩灘太とも書かれたようで、「なだ」とは「川の平坦な浅瀬を指し、浅瀬故に急流であるところ」にある塩の道と地形を足したような説、また、「しおなだ」とは「川がしおんで(たゆんで)平坦なところ」との説などあれこれ。

御牧原台地・望月の牧

千曲川を渡ると御馬寄地区に入る。江戸の頃は御馬寄村であり、文字通り馬を寄せ集める場所であり、その馬は朝廷に献上するものであり、「御」がついていたのだろう。つまりは、朝廷に馬を献ずる勅使牧の馬寄場、ということであろう。
勅旨牧は甲斐・武蔵・上野・信濃の四か国寺に置かれ、中でも信濃が最も多く16の牧があり、その最大のものがこの御馬寄の地の北の台地、御牧原台地にひろがる「望月の牧」であった、とか。信濃全体の16の牧から80疋の馬を朝廷に献じたが、そのうり20疋は望月の牧からのものであった。
毎年八月中旬に、諸国の牧から献じた馬を天皇に御覧に入れる「駒牽(こまひき)」の儀式がにおこなわれ、天皇の御料馬を定め、また、親王、皇族、公卿にも下賜された。もともとは、国によって貢馬の日が異なっていたようだが、のちに一五日となり、諸国から献ずる馬も鎌倉末期からは信濃のこの地・御牧台だけとなった。この馬は「望月の駒」と呼ばれ、ために、牧も望月牧(もちずきまき)とも呼ばれるようになった、とか。「逢坂の関の清水に影見えて、今や曳くらむ望月の駒  ( 拾遺集 巻三 紀貫之)、「さがの山ちよの古道跡と(尋)めて 又露分くる望月の駒:藤原定家」など、多くの歌人が望月の牧を題材にした歌を80近く残してる。
御牧原台地・望月の牧は、標高2530mの蓼科山の広大な裾野が北東へ延びて千曲川にぶつかる地形で、北と東が千曲川(ちくまがわ)、西が鹿曲川(かくまがわ)、南が布施川(ふせがわ)に囲まれる。三方を井深い渓谷・川に囲まれた台地ではあるが、馬が逃げてしまうような部分には柵、土塁、溝などを造って管理た、という。現在でも数㎞の野馬除が残っている、と言う。
望月牧がいつ頃成立したのか定かではないが、『延喜式』が制作され始めた延喜5年(905)以前には存在していたようである。牧の南には近世になり中山道が通ったが、古代には古東山道が東西に走り、その道沿いに高良社(浅科村、国重要文化財)がある。元々は高麗社と呼ばれていたらしく、朝鮮半島から渡来した人々が、望月牧の牧場経営に携わり、ここに社を造った、と。
望月牧の周辺には特に馬具を副葬した古墳が多く、御馬寄、駒寄、牧寄、駒込、厩尻などの地名、駒込神社など馬にゆかりの地名や古跡・社が残っている。また、馬具に関係すると思われる鍛冶田、タタラ、吹上などの地名もあり、いずれも望月牧にゆかりの場所とされる。
中山道は望月の牧の南側の鞍部である瓜生坂を進む。この鞍部は御牧原台地の東側を流れる布施川がこの瓜生坂付近で御牧原台地の西側を流れる鹿曲川と接近したため、水の侵食作用によりで鞍部が生じた、と。鞍部を越え鹿曲川へと下り散歩のスタート地点望月宿に到着。イントロ部分であれこれ興味関心がひろがり、メモが長くなってしまった。肝心の望月宿からの散歩のメモは次回かたとして、今回はここでちょっと休憩。
和田峠ははるか昔、高校生か大学生の頃であるので、40年以上も前の事ではあるが、両親とともに車で越えたことがある。峠のトンネルが誠に狭く怖い思いをした、との微かな記憶が残る。当時はバイパスも出来ていない頃であろうし、トンネルも車一台が通れる程度の幅ではあったのだろう。和田峠は数年前に買い求めた『峠の歴史学;服部英雄(朝日新聞社)』において物流の峠のケースとして紹介されており、皇女和宮や天狗党などについても、宿場の人々の立場からの労役負担などが説明されており、峠越えフリークとしてはそのうちに実際に歩いてみたいと想っていたところでもある。今回の和田峠越えは、峠を巡る人々との歴史に想いをはせるとともに、過ぎた日に対する少々の感傷を抱くものとなりそうである。旧中山道和田峠越えメモの第一回は、前泊地である佐久平近くにあった岩村田宿と、散歩のスタート地点である望月宿までのバスの旅での所感。何気なく歩いた岩村田宿であまり聞き慣れないのだが、佐久だけではなく武蔵までもその覇を及ぼした武将の名前が登場したり、望月の駒で知られる御牧のあった御牧台が気になり、あれこれチェックしていると散歩を始める前に足止めをくらい、少々メモが長くなったためである。ともあれ、メモをはじめる。