日曜日, 5月 29, 2022

讃岐・阿波 歩き遍路;第八十八番札所大窪寺より第十番札所切幡寺へ 切幡寺道②;切幡道・白鳥道分岐点の長野の集落から切幡寺へ

前回は大窪寺よりスタートして直ぐ、2キロほど沢沿いの旧遍路道を辿り、その途次に残る舟形地蔵丁石、標石などをチェックしながら国道377号に合流。その先は国道を2キロほど歩き五名トンネルて前で国道と分かれ、そのすぐ先の長野の集落までのルートをメモした。
承応二年(1653) 巡拝の澄禅は『四国遍路日記』に、「此寺(廿二日、大窪寺) 二一宿ス。申ノ刻ヨリ雨降ル。廿三日、寺ヲ立テ谷河二付テ下ル、山中ノ細道ニテ殊二谷底ナレバ闇夜二迷フ様也。タドリタドリテ一里斗往テ長野ト云所ニ至ル、爰(私注;ここ)迄讃岐ノ分也」と記す。「山中ノ細道ニテ殊二谷底ナレバ闇夜二迷フ様也」などとあり、歩く前はどのような険しい谷底を辿るのか、少々ビビッていたのだが、実際は如何にも遍路道といった趣の残る、快適な道筋であった。
長野は切幡道と白鳥道の分岐点。白鳥道はそのまま東に進み八丁坂、中尾峠を越えた後、黒川の谷筋を進み三宝寺をへて東かがわ市の海岸傍に鎮座する白鳥神社に向かうが、今回辿る切幡道は分岐点より南下し𠮷野川の開いた広い開析谷の左岸山裾に建つ切幡寺へと進む。距離はおおよそ20キロ弱である。時に旧道もあるが、基本県道2号を辿り日開谷川の谷筋を出たあと、吉野川左岸の山裾にある切幡寺に向かうことになる。澄禅は『四国遍路日記』に「次二尾隠(私注;大影?)云所ヨリ阿州ノ分ナリ。是ヨリ一里行関所在、又一里行テ山中ヲ離テ広キ所二出ヅ。切幡迄五里也」と記すルートである。



本日のルート;切幡寺経由道・白鳥神社経由道分岐点>大影の標石>お堂に馬頭観音>大月橋>犬墓大師堂>二又に庚申塔と標石県道2号の交差点に常夜灯と地蔵尊>上喜来橋>奈良坂の標石>遍路道が二つに分かれる>庚申堂>標石>(もうひとつの遍路道>阿波用水>県道合流点に自然石の標石>原士(はらし)の里記)>切幡寺参道入口

切幡寺経由道・白鳥神社経由道分岐点
分岐点の丁石と標石
分岐左手が白鳥道
先回のメモ終点地、切幡寺経由と白鳥神社・大坂越え経由の遍路道の分岐点である長野の集落よりメモを始める。分岐点の三差路に丁石と標石、。「三十八 与之大窪 明和四丁亥」と刻まれる38丁石。その右に大きな標石。「右 きりはたミち 三里半 / 左 白鳥道 三里半 明治六癸酉」と刻まれる。 分岐点を直進すれば白鳥道。切幡道は分岐点から右に進む。



大影の標石
大影の標石
大影の標石
分岐点を離れ八丁橋を渡ると香川と徳島の県境、香川県東かがわ市五名から徳島県阿波市市場町に入る。日開谷川の左岸を南に突き出た尾根筋丘陵をぐるりと迂回し県道2号に合流する手前で県道の一筋西を走る道に入る。分岐点北の丘陵に大影神社が鎮座する。大影は地名。 澄禅の『四国遍路日記』に「尾隠」とあるのは大影であろうと思う。
大影橋の橋柱
道を少し南に進み、大影橋の少し手前、道の右手に自然石の標石。「右 しろとり 左 大くぼじ 道 十ばん 下江行」の文字が刻まれる。行く手を示す手印はほとんど消えかかっていた。 大影橋北詰の橋柱には「徳島四〇.〇粁」の銘板が埋め込まれている。
道はその先で県道2号に合流する。

お堂に馬頭観音
お堂と馬頭観音(左)
石造物が草に埋もれる
県道2号に合流して直ぐ、道の右手民家に続いて古びたお堂が建つ。お堂の左には大きな石塔。馬頭観音のようだ。草の茂ったお堂の周りには遍路墓も立つ。ひとつ結構大きな自然石があり、仏らしき姿も彫られているようだが、風化が激しく文字は読めない。このお堂に標石があるとのことであり、標石なのかもしれない。

大月橋
大月橋・橋柱はガードレールが急接近
旧道は荒れてきた
県道を少し進むと、右に逸れる道がある。旧県道のようであり右に逸れて道を進む。遅越地区をしばらく進むと県道に合流。その先で再び県道2号を逸れて大月の辺りで旧道に入る。
道を進むと大月橋。北詰の橋柱には「距市場町八.六」、南詰の橋柱には「距香川県四.〇」のサインがある言うが、橋柱とガードレールが詰まっており文字を確認することはできなかった。
大月橋の先も日開谷川右岸を大畑バス停の先まで旧道が進むのだが、道は結構荒れており、特段の遍路史跡もないようであり、大月橋の直ぐ先で県道2号に出る。
遅越
地形由来の地名。『阿波学会研究紀要』には「細越え」が音韻変化した地名。「渓谷の曲流部に突出した先太りの尾根、その頸部ないし基部を近道とする通路」とあった。
城王山(標高598m)
大畑バス停の日開谷川を隔てた対岸に城王山がある。この山には南北朝の騒乱期、新田義宗、脇屋義治らが築造した日開谷城跡があると言う。吉野川筋の秋月城(阿波市土成町秋月)の細川勢と対峙したとのこと。
土成(どなり)
土成の由来は、古代郡司があったことにあるとするが、郡司と土成がどう関係するのかの説明は見当たらない。土は万物を生み出す力の源ゆえ、その地の地神の意味をもつ、と。成は「丁」」がクギ。戊はマサカリ、オノの意。道具を用いて建物などを建てるが原義という。神聖な場所に郡司を建てた故の「土成」だろか。全くの妄想。根拠なし。

犬墓大師堂
旧道からのアプローチ口
川を背に地蔵堂
しばらく県道を進み、道の右手の大きな砕石場を越えた白水(しらみず)の辺りで先で再び旧道に入る。日開谷川右岸をしばらく進み、日開谷川が南流するのを阻まれ東へと蛇行する辺りに犬墓大師堂がある。名前に惹かれてちょっと立ち寄り。
アプローチはちょっとわかりにくい。旧道がカーブする東側、民家脇に細路がありそこから入って行く。その先県道を跨ぐ橋があり、後は地図に示される処に向けて成り行きで道を進めばいい。が、当日は、道筋にある民家の放し飼いの番犬が忠実にその務めを果たすため、田圃の畦道を迂回し大師堂に行くことになった。

地蔵堂横に大乗妙典供養塔など
お堂の左に犬を連れた大師像
日開谷川側に「地蔵堂」と書かれた小堂。その脇の供養塔などと並んで自然石の標石があった。「是与里切幡寺本堂 六十三丁 此所犬墓村 安永二癸巳(みずのとみ)三月廿一日」と刻まれる。 小堂の対面には集会所を兼ねたお堂があり、その前には犬を連れた、新しいお大師さんの立像があり、石碑には「犬墓大師」と刻まれる。
その昔、空海が愛犬を連れてこの地を歩いていたのだが、現れた猪より空海を護ろうとしたその犬が誤って道から落ちてなくなってしまった。空海は墓をたてて供養したため、この地を犬墓と呼ぶようになった、とか。

二道2号を右に逸れ、県道246号に
犬墓大師堂より旧県道に戻り、再び南下。しばらく進み県道2号に合流ししばらく県道を進んだ後、平地地区ので再び県道2号を右に逸れ、県道246号・仁賀木山瀬停留所線に乗り換える。
日開谷口番所
日開谷口番所跡
当日はお気楽に犬墓大師堂より日開谷川右岸の道を進んだのだが、メモの段階で澄禅の『四国遍路日記』に「次二尾隠(私注;大影?)云所ヨリ阿州ノ分ナリ。是ヨリ一里行関所在」と、関所があることを思い出した。場所をチェックすると犬墓大師堂より日開谷川右岸を走る県道3号と並行し左岸を走る県道246号が日開谷川に架かる平地橋の少し北に日開谷口番所があった。
澄禅はどのようなルートを辿ったのだろう。犬墓大師堂には標石があった。地図を見ると日開谷川を二度徒渉すれば口番所と繋がるが、橋などない当時ではあろがそれが遍路道であったのだろうか。あれこれチェックしたが当時の遍路道をチェックすることはできなかった。
史跡 日開谷口番所跡
石碑には「藩政期慶安四年(1651)この地に御番所を設けて(御番人荒井門内)明治に至るまで往来人の手形改めや物資の出入り等を取り締まった。 市場町教育委員会 昭和五十五年三月建立」と記される。
荒井門内は蜂須賀公が徳島に入府以前より、徳島に居を構えた室町幕府足利将軍家の末裔平島公方に仕えていた。が、平島公方係累のキリシタン疑惑などへの応対により公方の不興をかったのだろうか、知遇を得た蜂須賀公重臣の仲介により蜂須賀公の庇護を受け、平島家の影響下にない、日開谷口番所の番人として赴任することになった。
門内六代後の荒井九馬助 が書いた『荒井家文書』によると「申上覚 私六代以前之先祖荒井門内義,南方平嶋樣御家来二而有之処,由緒有之二付神文御書被為下置,百五拾四年程以前,慶安三年寅歳拾月一五日二忠英樣江御囉被為遊翌年卯之三月日開谷口御番所御用被仰付候
百七拾三年程以前,寬永九年二山口甚左衛門と申御番人相勤居申候,右代ニ犬墓村庄屋名之内二畝拾五歩御上江御借地二被為遊,御番所建被遊候,勿論 御上御普請所御用地私も,土地究宜敷場所御上より御見聞之上境立示被仰付,御番人へ御引渡被遊被為下,代々御番人共有地六,七畝程裁判仕来候,(中略)
日開谷御番人 荒井九馬助 印
子ノ 頭庄屋  瀬野治郎次殿  宅神五兵衛殿」とあり御番所は石碑にあった慶安四年(1651)より古い、寬永九年(1632)には既に設置され、山口甚左衛門が番人を努めていた、と記す。

二俣に庚申塔と標石
玉垣に囲まれた庚申塔
標石
しばらく南下し、北原バス停手前で県道246号を左に逸れる。更に南下し北原地区で徳島自動車道を潜り、大俣郵便局前を過ぎると二俣に玉垣に囲まれた庚申塔が立つ。天和三癸亥(みずのとい)年十月廿二日建立。そのそばに標石が立ち、「右 はしくらじ 左 きりはたじ 道 / 大窪寺 四里 大正七年四月」と彫られる。
箸蔵寺
金毘羅さんの奥の院。吉野川北岸を40キロほど上流にすすんだ三好市池田町の山腹に建つ。箸蔵道()を歩いたのはもう何年前だろう。

県道2号の交差点に常夜灯と地蔵尊
常夜灯と地蔵尊
風化した石仏
二俣より道なりに東に向かい、県道2号との交差点に自然石の常夜灯と地蔵尊。常夜灯は天保七年、地蔵尊は文政十二年の建立と言う。
遍路道は県道2号をクロスし東進。道の左手、田圃を背にした石仏(風化が激しく文字もお像も見えない)を見遣りながら日開谷川手前で右折し県道2号に合流する。

上喜来橋
県道2号に合流した遍路道は上喜来橋で日開谷川を渡る。
喜来
喜来って何だろう。由来をチェックすると「阿波学会研究紀要」に詳しい考察が記されていた。 大雑把にまとめると、喜来は徳島特有の地名。徳島に35カ所あるが、他県では香川に「師匠」と記される地名が3カ所、愛媛と淡路にそれぞれ1カ所あるだけ、と言う。
で、喜来の由来だが、地形より来たものであり、「「キライ」の原義は、「切れ合い」の意であろう。降雨出水の時、流路があふれて、旧河道と新河道のいずれにも分流し、再び本流に合流する地形―これが「切れ合い」であり、変化して「キライ」になったと考えたい」と記されていた。
またこの地、上喜来の地形について「この市場町上喜来は阿波町下喜来とともに、日開谷川の旧河道に立地している」、と。さらに、「往時、日開谷川の川床が高かった時代には、「北原」北部の曲流部から、扇状台地を南に直通した流れがあったことがわかる。これが、阿波町下喜来を通って、現在の日開谷川下流部に合流していた」と記されていた。河道一本化の河川改修など無い時代、流路定まらぬ日開谷川故の地形由来の地名であったよう。

奈良坂の標石
奈良坂の標石
奈良坂の石仏
橋を渡ると奈良坂地区。古い家並へ入ると直ぐ、道の右手に奈良坂集会所。その傍に自然石標石。手印と共に「大くぼじ 四り 左 へんろ」と刻まれる。その直ぐ先にも二基の石造物。風化が激しく文字は読めない。
難波・奈良街道
奈良坂って、なんらか謂れの感じる地名。あれこれチェック。この地から県道2号を北上し、五名の大阪峠を越え海に面したさぬき市津田を結ぶ道は、往昔、難波・奈良街道を呼ばれる往還道であったよう。奈良坂が奈良、大坂峠が大阪、津田が難波津とみなされていたようだ。
古代律令制度の時代、旧白鳥町の五名(現在東かがわ市)とその北、旧大川町(現さぬき市)全域は寒川郡難波郷と呼ばれていたようであり、この市場町の奈良坂から阿讃の嶺を越える往還道が難波・奈良街道と称されたのだろうか。
市場町
市場町は郷町と称される。農村部につくられた商業地区といったものだろうか。市場町はかつての徳島県阿波郡にあった町であり、2005年に阿波町、吉野川町、土成町と合併し現在阿波市となっている。合併以前の市場町はこの地のあたりから北は大影、その対面の日開谷の集落までを含んだ広大なものであり。それ全体が郷町とは思えない。チェックすると、明治22年(1889)市場町、輿崎村、香美村、尾開村および上喜来村の一部をもって市香村が発足。明治40年(1907)市場町となっている。郷町と呼ばれた市場町は、明治22年以前に市場町と呼ばれていた辺りかと思う。地図を見ると市場町市場といった地名が記載されている。
郷町
Wikipediaに拠れば、「在郷町(ざいごうまち)は、日本の都市の形態のひとつ。日本において中世から近世の時代に、農村部などで、中心となる施設がなく、商品生産の発展に伴って発生した町・集落。 在町(ざいまち)、郷町(ごうまち)、在方町(ざいかたまち)などとも呼ばれる 「在郷(ざいごう、ざいきょう)」とは、「田舎」「農村部」を意味する。つまり在郷町とは、農村の中に形成された町場を意味する。
主要な街道・水運航路が通る農村においては、その街道沿いに形成されている場合もある。 城郭や藩庁などを中心に栄えた城下町や陣屋町、宿場中心に形成された宿場町、寺社を中心に形成された門前町などと決定的に違うのは、町の中心となる施設(城郭・陣屋・大きな宿場・港・有力寺社など)がないことで、前述の町などまで距離がある農村部において自然発生的にできたものである。 ただし、陣屋・宿場・港・寺社があり、それを中心にした町場であっても、規模が極めて小規模な場合は在郷町に含まれることもある。
城下町などと違い、商工業者のほかに農民が多く在住していることや、都市と農村の性格を併せ持つことも特徴である。 城下町などの町などに対し、「地方都市」的な位置づけである。
こうした在郷町の発達には近世期の農村部(在方)における生業の変化があり、近世に農村では米麦栽培のほか養蚕、煙草など商品作物の生産、農閑期の行商や諸商職業の兼任など農間余業の発達による生業の多様化があり、在郷町はこうした生業の変化も要因のひとつとして成立したと考えられている」とある。
阿讃往還道の入口にあり、交通の要衝、仏師の集散地としての商業地でもあったのだろうと想像する。

遍路道が二つに分かれる
顕彰碑を越えて小川をこえると
遍路道はふたつに分かれる
道の左手に個人を顕彰する大きな石碑が立つ。その廻りには舟形地蔵やいくつもの石造物が集められていた。その先、小川を越えると道はふたつに分かれる。遍路道はここで二つのルートに分かれるようだ。
ひとつはそのまま東進。もうひとつは右に折れ、弧を描くように東に向かう。ついでのことでもあるのでふたつのルートをカバーする。まずは直進ルート。

庚申堂
しばらく進むとお堂が建ち、中に庚申塔が祀られる。
庚申(かのえさる、こうきんのさる、こうしん)
庚申(かのえさる、こうきんのさる、こうしん)は、干支の一つ。干支は十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類)と十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類)の組み合わせよりなり、甲子よりはじまり、乙丑 ,丙寅,丁卯,戊辰,己巳,庚午,辛未,壬申,癸酉,甲亥、、と十干と十二支がひとつずつずれる組み合わせで進み、、60番の癸亥で一巡する。ぱっと見には10と12であれば120のようにも思えるが、61番は最初の組み合わせに戻るため60通り。そういえば10と12の最少公倍数は60だ。
それはともあれ庚申はその57番目。60日毎にめぐるこの庚申の日には夜中、眠っている間に体内に宿す三尸(さんし)という虫が天帝にその人の行いを報告に体から脱する。それを防ぐには夜の間眠ることなく夜明けを向かえるしか術は無い。これを庚申待と呼ぶ。この民間侵攻は娯楽の少ない時代の人が庚申堂に寄合い飲みあかす楽しみの日でもあったのだろう。
庚申塔には青面金剛像が祀られることが多い。憤怒の形相の仏は三尸(さんし)をやっつけ、天帝に報告できなくすると信じられていた。青面金剛の足元には三猿が侍る像も多い。見ざる、言わざる、聞かざるの三猿の姿に、天帝に対して何も見ない、聞かない、言わないことの願いを象徴しているのだろう。

標石
その先阿波市役所前を進み、川の手前のT字路を右折し県道193号の交差点に出る。その角に自然石の標石。「右 大窪寺 左四国道五里」と刻まれる。ここが阿波用水のところで分かれたもう一つの遍路道との合流点でもある。

もうひとつの遍路道
遍路道分岐点を右に折れると直ぐ水路が現れる。上述『阿波用水」である。阿波用水は東進するが、遍路道は道なりに南東に進み県道193号に出る。
阿波用水
直進せず右に折れると用水があった。チェックすると阿波用水とのこと。『角川地名辞典』には「 吉野川中流北岸,現在の阿波郡阿波町・市場町,板野郡土成(どなり)町・吉野町の2郡4か町(旧10か町村)を灌漑した用水。現在は吉野川北岸農業用水に接続され,その一部となっている。水路延長19.84km,受益面積1,783ha。
用水の流域は讃岐山脈から吉野川に至る傾斜地であり,吉野川からの自然取水は難しく,水利施設としては溜池を中心に小規模な揚水機設置によって灌漑を行ってきていた。大正末期~昭和初期に揚水機による水利開発が積極化したが,阿波用水はその大規模な事業の1つであった。昭和14年の大旱魃を契機に期成同盟が結成され,同18年10月普通水利組合が創立,下流諸用水の同意を得た後,同20年1月より県営事業として着工された。
当用水の取水口は林町(現阿波町)岩津地先で,ここから第1揚水場(100馬力揚水機3台)まで揚水し,幹線導水路によって遊水池まで導水,さらに標高75mの十善池の第2揚水場まで40m余押し上げた。第2揚水場では当時,全国的にも有数の550馬力の揚水機3台が設置されていた。
そこから,伊沢谷・大久保谷・日開谷など7つの河川渓谷を横断送水し,土成町の宮川内谷川に放流する水路延長は19.8kmに及び,受益面積は1,798町歩であった。なお,阿波町字善池には,第1・第2揚水場への送電のための変電所(出力3,000kVA)が設置された。また,阿波町林地区には水路延長770mの排水路が設置され,市場町大俣の日開谷には日開谷導水路,また大俣には大俣揚水場が設けられた。また土成水路橋をはじめ,各渓谷の伏越や隧道等の工事は約10か年を要し,竣工は昭和31年であった。
工事費は5億4,000万円に達している。この第1期県営工事に引き続き,第1期地域上位部の阿讃山麓沿い400ha余を対象とした第2期県営工事は昭和37年着工,同43年に竣工した。並行して昭和40~43年に阿波用水土地改良区による工事も進行し,阿讃山麓地帯への灌漑用水がポンプアップされたのである。用水は昭和58年6月,吉野川北岸農業用水と接続され,吉野川からの自然取水の水が通水した」とあった。
吉野川と言う大河が流れるにも関わらず浸食により深く開析された川床ゆえ、自然取水ができず水不足に苦しんだ地域の灌漑用水として計画されたもの。現在は吉野川総合開発によって設けられた吉野川北岸用水と繋がっているようだ。
吉野川総合開発計画
吉野川は四国山地西部の石鎚山系にある瓶ヶ森(標高1896m)にその源を発し、御荷鉾(みかぶ)構造線の「溝」に沿って東流し、高知県長岡郡大豊町でその流路を北に向ける。そこから四国山地の「溝」を北流し、三好市山城町で吉野川水系銅山川を合わせ、昔の三好郡池田町、現在の三好市池田町に至り、その地で再び流路を東に向け、中央地溝帯に沿って徳島市に向かって東流し紀伊水道に注ぐ。本州の坂東太郎(利根川)、九州の筑紫次郎(筑後川)と並び称され、四国三郎とも呼ばれる幹線流路194キロにも及ぶ堂々たる大河である。
吉野川は長い。水源地は高知の山の中。この地の雨量は際立って多く、下流の徳島平野を突然襲い洪水被害をもたらす。徳島の人々はこういった大水のことを「土佐水」とか「阿呆水」と呼んだとのこと。吉野川の洪水によって被害を蒙るのは徳島県だけである。
また、その吉野川水系の特徴として季節によって流量の変化が激しく、徳島県は安定した水の供給を確保することが困難であった。吉野川の最大洪水流量は24,000m3/秒と日本一である。しかし、これは台風の時期に集中しており、渇水時の最低流量は、わずか20m3/秒以下に過ぎない。あまりにも季節による流量の差が激しく、為に徳島は、洪水の国の水不足とも形容された。
さらにその上、徳島県の吉野川流域の地形は、河岸段丘が発達し、特に吉野川北岸一帯は川床が低く、吉野川の水を容易に利用することはできず、「月夜にひばりが火傷する」といった状態であった、とか。 つまるところ、吉野川によって被害を受けるのは徳島県だけ、しかもその水量確保も安定していない。その水系からの分水は他県にはメリットだけであるが、徳島県にとってのメリットはなにもない、ということであろう。古くから吉野川水系からの分水を四国各県は嘱望したが、徳島県と各県の協議が難航した理由はここにある。
この各県の利害を調整し計画されたのが 昭和41年(1966)に策定された吉野川総合開発計画。端的に言えば、吉野川源流に近い高知の山中に早明浦ダムなどの巨大なダムをつくり、洪水調整、発電、そして香川、愛媛、高知への分水を図るもの。
高知分水は早明浦ダム上流の吉野川水系瀬戸川、および地蔵寺川支線平石川の流水を鏡川に導水し、都市用水や発電に利用。愛媛には吉野川水系の銅山川の柳瀬ダムの建設に引き続き新宮ダム、更には冨郷ダムを建設し法皇山脈を穿ち、四国中央市に水を通し用水・発電に利用している。徳島へは池田ダムから吉野川北岸用水が引かれ、標高が高く吉野川の水が利用できず、「月夜にひばりが火傷する」などと自嘲的に語られた吉野川北岸の扇状地に水を注いでいる。
そして、香川用水。池田町に池田ダムをつくり、早明浦ダムと相まって水量の安定供給を図り、香川にはこのダムから阿讃山脈を8キロに渡って隧道を穿ち、香川県の財田に通し、香川用水記念公園にある東西分水工より、東には東部幹線水路、西には西部幹線水路によりで讃岐平野を潤す。
東部幹線水路は 三豊市で高瀬支線(三豊市高瀬町まで流れる全長約11kmの水路)に分かれ、その後、琴平町、まんのう町、丸亀市、綾川町、高松市、三木町、さぬき市と経て、東かがわ市まで伸びる全長約74kmの水路。西部幹線水路 は東西分水工から、観音寺市まで流れる全長約13kmの水路が築かれている(「藍より青く吉野川」を参考にメモしました)。

県道合流点に自然石の標石
県道合流点に自然石の標石。「右 大窪寺道 四里 左 箸蔵寺道 十里」と刻まれる。 




天満宮と原士の碑
その直ぐ先に天満宮。天満宮を少し東に進むと「史跡 原士の馬場 昭和五十四年三月 市場町教育委員会」と刻まれた石碑が立ち、その横に、「原士(はらし)の里記」とある。
原士(はらし)の里記
「原士(はらし)の里記 興崎(こうざき)は日開谷川が造成した砂礫土の扇状地の中央にあり、永い間荒地の原であって、古くは香美原と呼ばれ阿讃國境に通じる街道の要地であった。藩主蜂須賀忠英 (ただてる) 公が慶安三年(一六五〇)秋、領内巡視した時、家老長谷川貞恒に命じて筋目正しい浪人及び在郷の有力な農民から選び、長谷川の与力並みとして七町ないし三町五反の未開の地を開墾させ原士という身分を与えた。
これは阿波藩独特の制度で、農業に従事すると共に藩境警備にあたらせ、有事には軍事に服させた。 原士集団の最も多く居住していたのは興崎と広永である。原士は武士としての対面とほこりを保つため、日頃文武の修練にはげみ教養豊かな人間性を持っていた。 特に幕末の激動期には京都の警固、江戸湾沿岸の防備に出役して大活躍、郷土にあっては柔、剣道場、塾などを開き子弟を教育し、地方文化の発展に貢献するところ大であった。
建立者 原士末裔 昭和五十三年二月十一日」とあった。
遍路道はそのまま北東へと県道を進み上述標石の建つ交差点でもうひとつの遍路道と合流する。



切幡寺参道入口
交差点を左に折れ(もうひとつの遍路道は直進)県道193号を少し進むと切幡寺参道口に出る。 ここからはおおむね撫養街道に沿って東に進み一番札所霊山寺へ向かう。ルート詳細は、「阿波 歩き遍路 第一番札所 霊山寺より第六番札所安楽寺へ、また「阿波 歩き遍路:第六番札所 安楽寺から第十一番札 所藤井寺へ()」を逆廻しでご覧ください。

これで大窪寺より切幡寺経由で霊山寺へ向かう切幡道のメモを終える。次は白鳥道をメモする。








土曜日, 5月 28, 2022

讃岐・阿波の遍路道;第八十八番札所大窪寺より第十番札所切幡寺へ 切幡寺道①;大窪寺より切幡道・白鳥道分岐点の長野の集落まで

四国遍路道をトレースする散歩も「札はじめの寺」である徳島の第一番札所霊山寺から、「結願の寺」である香川の第八十八番札所大窪寺まで歩き終えた。が、旅の途次、昔のお遍路さんは四国霊場巡礼を第一番札所から始めることに、それほどこだわっていないことを知った。九州からのお遍路さんは松山の第五十二番札所太山寺からはじめるといった具合である。
『四国遍礼霊場記』で知られる真言宗の高僧寂本も「みな路次の勝手によれるならし」と記す。寂本は実際遍路を歩いたわけではなく真念の求めに応じ弘法大師の霊験や功徳話を書くことになったわけだが、「八十八番の次第、 いづれの世、 誰の人の定めあへる、 さだかならず、 今は其番次によらず、 誕生院(善通寺) 大師出生の霊跡にして(偏) 礼 (ベンロ)の事も是より起れるかし、 故に今は此院を始めとす」と書いている。真念が特段の根拠もなく、ただ本州からの交通の便がいいということで「札はじめの寺」とした霊山寺ではなく、真念が第七十五番札所とした善通寺を遍路の始まりの寺と書いているわけで、ことほどさように札所第一番霊山寺からの遍路にこだわりはない。
また、おなじく真言の僧澄禅の『四国遍路日記』には札番号の記載もなく(真念の『四国遍路道指南』より古いので当然か)、順路も現在の札所第十七番井戸寺からはじめ、十三番まで行き、十一、十二、十八番と辿り、その後は巡打ちで八十八番まで打ち終えた後、十番から一番へと逆打ちで結願している。昔のお遍路さんは第一番札所霊山寺からのスタートに拘ってはいない。
であれば、第八十八番札所大窪寺を打ち終えた後、第一番札所霊山寺へと辿るお遍路さんも多かったであろうと、その間のルートをトレースすることにした。
ルートをチェックするに真念の『四国遍路道指南』(貞享四年;1687)には、「これより阿州きりはた寺まで五里。 ○ながの村、これまで壱里さぬき分。 ○大かけ村、これより阿州分。 ○犬のはか村○ひかひだに村、番所、切手あらたむ。大くぼじ(より)これまで山路、谷川あまたあり。是よりきりはたじまで一里」と記す。
また、承応二年(1653) 巡拝の澄禅も『四国遍路日記』に、「此寺(廿二日、大窪寺) 二一宿ス。申ノ刻ヨリ雨降ル。廿三日、寺ヲ立テ谷河二付テ下ル、山中ノ細道ニテ殊二谷底ナレバ闇夜二迷フ様也。タドリタドリテ一里斗往テ長野ト云所ニ至ル、爰(私注;ここ)迄讃岐ノ分也。次二尾隠云所ヨリ阿州ノ分ナリ。是ヨリ一里行関所在、又一里行テ山中ヲ離テ広キ所二出ヅ。切幡迄五里也」と記す。 真念も澄禅も同じルート辿っており、そのルートは日開谷川水系の源流域より長野の集落をへと東に下り、長野で日開谷川本流に合流した後は、日開谷川が開く谷筋を南に下り大河??野川の段丘面に建つ第十番札所切幡寺に向かうもの。このルート、通称「切幡道」が最も多くのお遍路さんに利用されたようである。
また、長野の集落までは同じルートであるが、長野で切幡寺経由の遍路道と分かれ、北東へと東かがわ市の海沿いに建つ白鳥神社を目指し、そこより義経の壇の浦合戦での奇襲の時に越えた大阪越えを経て第三番札所金泉寺に出て、霊山寺を目指したお遍路さんもいたようである。 『四国遍礼名所図会(寛政十二年;1800)』には、「谷川 [数多あり]、五名村、此所ニて一宿。廿六日 [雨天出立]長野村[此所より右切幡寺、左白鳥道]、山坂、仁井の山村 [此所左ハ本道 大水時ハ右へ行、川側行べし]、谷川、新川村[此所より白鳥へ十六丁]馬場、白鳥町、本社白鳥大神宮末社、社家、 塩屋川、引田町、此所二て一宿。閏四月廿七日[日和吉出立]。引田町[浜辺をとふる]、通念島 [壱里斗沖に二ツ並ぶしまをいふ也]、川[小川也わたる]、馬宿村[浜辺とふる]、坂本村[是より坂に懸る]、逢坂、不動尊 [坂中に有、滝あり]。讃岐・阿波国境[坂の峠にあり]阿波板野郡、大師堂 [坂の峠にあり]。峠より徳島城・麻植郡南方一円に見ゆる。大坂村[番所有り切手改む]、大寺村、此所ニ荷物置霊山寺?行、是迄戻ル」と記される。白鳥神社までの遍路道は通称「白鳥道」と称される。
ということで大窪寺から霊山寺への道は大雑把に、「切幡道」と「白鳥道」を経て大坂越えで向かう二つのルートがあることがわかった。どうせのことなら両方のルートをトレースしようと思う。
今回は切幡寺経由のルート。ルート概要は大窪寺から長野の集落までは日開谷川支流に沿って下る。旧遍路道は途中支流沢筋に入り込み、徒渉したり岩場を進むこともあるが、それもほんの少しの距離。その先は舗装された道を長野の集落を経由して南に進むことになる。
足元が濡れるのはチョットね、標石もいいやと、旧遍路道に拘ることがなければ、後述する旧遍路道より沢筋に足を踏み入れる手前、大銀杏の辺りから国道377号に出るのがいいかとも思う。実際沢沿いの遍路道は民家のフェンスに行く手を遮られ、フェンスに沿って山側を大きく迂回するか、結構高いフェンスを乗り越え民家の敷地を歩くことになるわけで、標石を目安に旧遍路道をトレースすることに「萌えない」のであれば、国道にエスケープ(というか、このルートは「四国のみち」のようにも思うのだが)するのが無難かも。
国道にエスケープした地点から800mほど先で沢筋を進んできた遍路道と合流。そこから2キロほど国道を歩き、五名トンネルの手前で国道を離れ、長野の集落にある切幡道と白鳥道の分岐点に到着する。
全行程4キロほど。沢筋に沿った道は2キロほど。その内、丁石を探して沢に入り込めばその距離300mほど。横に舗装されあ生活道が通り、不安はない。そして国道に合流すれば上述の如くひたすら国道を下ることになる。
今回のメモは距離は短いが、切幡寺道と白鳥道トレースの段取り上、長野の両遍路道分岐点までをメモすることにする。



本日のルート;札所第八十八番大窪寺>一丁石・二丁石>三丁石>旧遍路道分岐点>五丁石>六丁石>山頭火句碑>大師坐像>八丁石>支沢に架かる小さな木橋を渡る>九丁石・十丁石>遍路墓・「四国のみち」指導標>飛び石を左岸に>右岸に移ると民家横に出る>遍路墓の先で左岸に移る>13丁石と遍路墓>大銀杏と石碑・常夜灯>舗装道を逸れ日開谷川支流に下りると14丁石>沢を右岸に徒渉する>15丁石>左岸に16丁石>舗装された道を進むと先ほどの民家フェンスでブロック>17丁石>18丁石・19丁>20丁石・21丁石>22丁石と標石>牛頭天王>四つ足堂>23丁石・26丁石>27・28丁石と遍路墓>29丁石と30丁石>31丁石と33丁石>34丁石?・35丁石>三叉路に標石・37丁石>切幡寺経由道・白鳥神社経由道分岐点に

■大窪寺から切幡道・白鳥道分岐点の長野の集落まで■

札所第八十八番大窪寺
大窪寺を離れ切幡寺へと向かう。出発点は参道石段右手に立つ寺柱。「八十八番結願所」と刻まれた文字の上には、左右を示す手印も彫られている。
標高467の地に建つ大窪寺は東に下る日開谷川(ひがいたにかわ)支流と西に下る槙川(曽江谷川支流)との分水界。共に吉野川水系。遍路道は日開谷川支流に沿って下ることになる。

一丁石・二丁石
1丁石
2丁石
寺柱の直ぐ西、寺側の精緻な小堂の横に「一丁石」と刻まれた新し石碑が立つ。小堂の中に124cmの花崗岩に彫られた一丁地蔵尊が祀られる。
参道寺柱の直ぐ東、道路を隔てた土産物屋さんの前に舟形地蔵丁石と標石が立つ。舟形地蔵丁石には「二丁 宝暦十二」と刻まれる。標石には「是ヨリ切幡へ五里 白鳥へ*里半」と刻まれる。
一丁石と数メートルしか離れていない。大窪寺より先は完全舗装されており、周辺整備の折ここに移されたのだろう。

三丁石
3丁石
道なりに進みロータリーの北東、草叢の前に「三丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ。これも二丁石からそれほど離れていない。これも周辺道路整備に伴い移されたのだろう。
三丁石から先国道377号へと下る道を進むと「四国のみち」の指導標。「大窪寺 /白鳥温泉10.4km 三宝寺13.3km」と書かれる。


白鳥温泉・三宝寺
「四国のみち」指導標
以下、「四国のみち」の指導標には白鳥温泉、三宝寺の名前が示されることになる。白鳥温泉も三宝寺も上述「白鳥道」の途次にある。長野の集落で「切幡道」と分かれ八丁坂、中尾峠を越え、湊川支流・黒川の谷筋を進むと白鳥温泉がある。その先、湊川に合流する東かがわ市入野山に三宝寺。
白鳥道はここでふたつに分かれる。ひとつは、そのまま湊川の谷筋を進み直接白鳥神社を目指すもの。イントロでメモした『四国遍礼名所図会(寛政十二年;1800)』のルートがそれ。もうひとつは三宝寺から北に向かい四国霊場総奥の院とも称される與田寺を経て白鳥神社に向かうもの。「四国のみち」は概ね白鳥道を進むようだ。

沢筋から国道合流点までの旧遍路道


沢筋から国道合流点までの旧遍路道(国土地理院地図Vectori)

旧遍路道分岐点
旧遍路道分岐点
「四国のみち」指導標
国道377号に出て200m強進むと、国道右手、ガードレルが切れるところに「大窪寺 白鳥温泉 三宝寺」と書かれた「四国のみち」の指導標が立ち、そこから日開谷川水系の支流へと下る道のガードレールに「遍路タグ」が貼られている。旧遍路道は国道377号を離れ、ここから2キロほど支流沢筋に沿って歩くことになる。

五丁石
ここから藪に入る
5丁石
分岐点から舗装された道を少し下ると、道の右手に電柱を支えるようなワイヤを保護する黄色いカバーが見える。五丁石はその黄色いカバーを目安に舗装道を逸れることになる。藪を掻き分け中に入ると、木々に覆われた少し踏まれた感のある場所となり、右手崖面近くに沿って先に進むと、沢の手前に「五丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が立っていた。上部が折れた丁石には「宝暦十二 志度 願主」といった文字も読める。
と、簡単にメモしたが、実際はこの辺りに丁石が有るらしいと、藪に入りあれこれ彷徨った末に見付け、そこから道に戻る最短ルートを逆回しでメモしたのが上述ルートである。

六丁石
「四国のみち」指導標
6丁石
五丁石へのアプローチ口の電柱の直ぐ先、道がカーブしたところ、道の右手に「四国のみち」の指導標があり、その傍に「六丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ。「宝暦十三 五名 願主」といった文字がかすかに読める。


山頭火句碑
民家先で沢右岸に
山頭火句碑
民家の先で舗装は切れるが、道はよく踏まれている。直ぐ日開谷川支流の橋。右岸に移る。
右岸に移ると直ぐ道の右手に石碑がある。文字が刻まれ江いる。句碑のようだ、「夜 瀬音」といった文字が読める。この文字を頼りにあれこれチェックすると山頭火の句碑であった。「夜が長い 谷の瀬音 とほくもちかくも」と刻まれる。あまりにひっそりと佇む。句碑の案内があってもいいかとも思う。
七丁石
この句碑のあたりに七丁石があると言う。道筋には見当たらない。道を離れ日開谷川支流の沢との間に足を踏み入れ木立の藪の中を結構彷徨ったのだが見付けることはできなかった。
山頭火
自由律の俳人で知られる山頭火は2度四国遍路にでかけている。一度目は昭和2年から3年にかけての行乞をしながら88か所をすべて廻ったとされる。これは前後7年におよぶ中国、「四国、九州行く乞食のひとこま。
2度目は昭和14年(1939)の秋。この時は10月6日に松山を出発するも、11月6日、高知で挫折し松山へと渓谷を戻っている。その間、10月16日に大窪寺を訪ねている。大窪寺のある旧大川郡長尾町(現さぬき市)で22の句を読んでおり、10基の句碑が残るという。

大師坐像
踏み込まれた道を進む
左手に大師座像
よく踏まれた土径を進む。歩く前は、この沢筋の道は藪だけは勘弁と願っていたのだが、一部を除いて概ね踏まれた道であった。が、それは歩いた結果のこと。実行時は踏まれた道が続いて欲しいと願いながら歩を進めると、土径の左手にポツンと大師坐像が佇む。

八丁石
「四国のみち」指導標と8丁石
8丁石
大師坐像の直ぐ先、道の左手に「四国のみち」指導標、右手に舟形地蔵丁石。「八丁」の文字のほか、「宝暦十三年 願主 五名村 *市」といった文字が読める。このあたりまで宝暦十二、三年(1762,1763年)建立のものが多い。「*市」は願主の名前だろうか。このあたり草が茂るがよく踏み込まれ迷うことはない。

支沢に架かる小さな木橋を渡る
支沢を越える。依然右岸
その先も踏み込まれた道が続く
数分歩くと、日開谷川支流に注ぐささやかな沢に渡された木の板といった橋を渡る。橋の先は草原から一変し、木々に覆われた土径となる。よく踏まれ快適な道である。休憩用の木のベンチも置かれていた。

九丁石・十丁石
9丁石
10丁石
更に数分歩くと道の右手に「九丁」と刻まれた舟形地蔵丁石。「宝暦十三」の文字が読める。その先、道の左手、沢側に「四国のみち」の指導標が立ち、その対面・山側に舟形地蔵丁石が立つ。「宝暦十二 施主 *善」といった文字が読める。
九丁を越えたあたりは東かがわ市五名。大窪寺の建つ。さぬき市との境となっている。
五名
「日下・鈴竹・大楢・長野・払川;五名村、永禄中(一五五八ー七〇)、木村京祥阿波より来たりて開く。天正中(一五七三-九二)、その五人の子がそれぞれ五地区の名主となり、五名という」とある。

遍路墓・「四国のみち」指導標
道の左手に遍路墓
右手にも遍路墓
5分強歩くと道の左手に石碑が杉にもたれるように置かれている。よく見ると「覚心信士 安政六未四月 周防宮市惣社村**」と文字が刻まれる。遍路墓のようだ。
その対面にも大きな遍路墓と小さな遍路墓が立つ。
その直ぐ先、道の右手に「四国のみち」の指導標。「白鳥温泉 三宝寺/大窪寺」の文字が架かれるが距離は読めなかった。

飛び石を左岸に
その直ぐ先、日開谷川支流に飛び石が置かれており、その先石段が見える。六丁石の先から日開谷川支流右岸を進んだ遍路道は、ここで左岸に移る。
左岸に移り谷側に安全のために設置された擬木の手摺の間を進む。
擬木の手摺の道には「四国のみち」の指導標が立ち、「白鳥温泉8km 三宝寺11.*km」と記される。

右岸に移ると民家横に出る
橋を渡り右岸に
民家が現れる
擬木の手摺の先に朽ちた軽トラックが放置され、その直ぐ先に架かる橋を渡り今度は右岸に移る。軽トラックが放置されるということは、この辺りまで車が入れるということであり、道もそれなりにしっかり踏まれているのだろうと先の不安が少し消える
。 少し進むと民家も見えて来た。ほぼ里に下りて来たのだろう。一安心。

遍路墓の先で左岸に移る
遍路墓と「四国のみち」指導標

橋を渡り左岸に

民家傍に「四国のみち」指導標と遍路墓。その先で再び橋を渡り左岸に移る。道は舗装され里に下りたことを実感する。
大窪寺先の旧遍路道分岐点からおおよそ1時間。丁石を探しながら、それをGPSギアにプロットし写真を撮りながらの歩きであり、普通に歩けばこれほどの時間はかからないと思う、

13丁石と遍路墓
13丁石
丁石の直ぐ隣に遍路墓
舗装された道を少し進むと道の右手のフェンスの中に自然石と舟形地蔵丁石が立つ。「十三丁」と刻まれた丁石には「明和四」といった文字もかすかに読める。
作風は今まで見てきた丁石とは異なり、丁数も深く彫り込まれている。年号も今までの宝暦から明和に替わる。今まで見てきた丁石に刻まれた宝暦十二、三年は西暦1762,1763年。明和四年は1766年。 ほぼ同じ時期に建立されている。
その直ぐ先、これもフェンスのい内側にいくつもの遍路墓が立つ。

大銀杏と石碑・常夜灯
その先大きな銀杏の木の下に石碑と常夜灯。石碑は風化してかろうじて「宝暦」らしき文字が見えるのみ。手掛りはないのだが、「野牛神」を供養する石碑とも言う。阿讃の山を境に、農繁期には阿波の牛を讃岐の農家が借り受けて耕作に供する習慣が昭和30年頃まであったと聞く。
その傍の常夜灯も堂々としたものであった。
かりこ牛
「借耕牛」と書く。文字通り、牛を借りて、耕す、ということである。借り手は讃岐、貸し手は阿波の山村の農民。山間地で水田をつくることが困難であるが、牧草に事欠かない阿波の山間地の農民が育てた牛を、稲作が盛んであるが、飼料不足で十分な牛を確保できない讃岐の農民が、田植えの時期の6月と麦を蒔く11月の農繁期に牛を借りて農作業をおこなった、と言う
この習慣は江戸の中頃の文化年間(19世紀初頭)よりはじまったとのこと。その数、年に2回で8000頭を越えた、とも。阿波の美馬、三好地区を中心に、阿讃山脈のいくつもの峠を越えて讃岐に向かった。
借耕牛の対価は1ヶ月で米一石が相場であった、とか。対価の米を背中に乗せて阿波に戻ったとのこと。

舗装道を逸れ日開谷川支流に下りると14丁石
沢への下り口
直ぐ14丁石
大銀杏から田圃を見遣りながら日開谷川支流左岸に沿って道を少し進むと、沢側フェンスが切れる辺り右手に沢筋に下る道がある。15丁石は沢の右岸にある、ということなので、標識は何もないのだが、ほかに沢筋に下る道もないようであり取敢えず道を逸れる。
と、下り始めると直ぐ土径の左手に舟形地蔵丁石。「十四丁」と刻まれた丁石には「明和四 丁亥/ 施主」と言った文字が読める。オンコースであったよう。
明和四 丁亥 (ひのとい)
舟形地蔵丁石に刻まれた「明和四 丁亥 」の銘。明和は元号、丁亥(ひのとい)は干支(えと)。丁亥(ひのとい)は干支と呼ばれる60を周期とする数詞の12番目。古代中国にはじまる暦法上の用語であり、暦を始めとして、時間、方位、ことがらの順序などに用いられる。
干支は十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類)と十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類)の組み合わせよりなり、甲子よりはじまり、乙丑 ,丙寅,丁卯,戊辰,己巳,庚午,辛未,壬申,癸酉,甲亥、、と十干と十二支がひとつずつずれる組み合わせで進み、、60番の癸亥で一巡する。ぱっと見には10と12であれば120のようにも思えるが、61番は最初の組み合わせに戻るため60通り。そういえば10と12の最少公倍数は60だ。
で、前々から干支が元号(この場合は文政)とペアで並ぶのは?と思っていたのだが、よくよく考えればお上の都合でころころ変わる元号では経年がわからない。 例えば、文政の三つ前の元号は寛政だが、例えば、寛政五年と文政八年までは何年あるかこれだけではわからない。
が、干支と合わせると、寛政五年(1793)は癸丑(みずのとうし)で干支の50番目。文政八年(1825)は乙酉(きのととり)は干支で22番目。60-50 +22=32。1825-1793=32。これなら商人も10年でいくらといった利子をつけた商いも安心してできるかも。なんとなく納得。
因みに、干支は通常十二支とするが、本来は十干と十二支の組み合わせであり上述の60の組み合わせを言う、また還暦を61とするのは干支(暦)が一巡し元に還ることに拠る、と。

沢を右岸に徒渉する
この辺りで左岸は藪。右岸に徒渉
右岸には踏み込まれている
14丁石から直ぐ、道側から激しい水流が落ちる辺りで、左岸の道は藪となる。右手右岸を見ると比較的平坦な道のよう。とりあえずここで沢を徒渉する。靴が濡れないようにとは思えどもそれは叶わず、結局踝まで浸かり徒渉。仕方なし。
木々に覆われた右岸の道を進む。踏まれており歩きやすい。5分ほど歩くと平坦地に作業小屋なども立っていた。

15丁石
15丁石。その先草叢の道
右岸の道は沢に吸収される
作業小屋を越えると草の茂る道に変わる。数分歩くと道の右手に舟形地蔵丁石が見える。「十五丁 /明和四 丁亥」と刻まれる。地蔵菩薩も今まで見てきた正面で手を合わせる姿から錫杖を持つ姿となっていた。
その先で道は沢に吸収される。最初は靴が少しで濡れないよう(といっても徒渉時に濡れてはいるのだが)岩場を乗り越えて進むが、5分もすると、もうどうでもいいやと、沢をピチピチチヤプチャプ、ランランランの気分で歩くことにした。

左岸に16丁石
沢の右岸を這い上がると民家のフェンス
沢を少し引き返すと左岸に16丁石
10分弱沢を進む。右岸にあるという16丁石を探しながら進むが、右は崖となっており地蔵が立つような場所はない。取敢えず先に進むと右岸に民家が見える。16丁石は諦めて民家の建つところに這い上がる。
が、そこには高い金属フェンス。傍の木を支えに乗り越えることもできそうだが、その先はどう見ても民家の敷地。山側に沿ってフェンスが続く。
で、左岸に這い上がる場所はないものかと沢を少し戻る。と、左岸にそれらしきスロープがある。左岸に徒渉しスロープを上ると、そこに舟形地蔵丁石が立っていた。「十六丁 /明和四 丁亥 /講中」といった文字が刻まれていた。

舗装された道を進むと先ほどの民家フェンスでブロック
16丁石脇を這い上がると
舗装された道に出る
16丁石から短いスロープを上ると舗装された道に出る。この道は14丁石のところで沢に逸れずに左岸を進んできている。偶然にも16丁石が見つかったと、ほくそ笑みながら歩くが、その先で先ほど前進を阻止された民家のフェンス(このおかげで16丁石を見付けることができたのだが)が現れる。 当日は車行・ピストンのため、往路はフェンスに沿って山側を大回りして民家の先にでたのだが、復路は舗装された生活道を進んでも、結局このフェンスに当たることになったため(立ち入り禁止のサインもなかった)、傍の木を支えにフェンスを乗り越え舗装された道を戻ることにした。

17丁石
舗装された道を一段下に下りると
17丁石
民家を抜け舗装された生活道を少し進む。想定した場所に17丁石が見つからない。偶々出合った方に尋ねると、柿の木の北、道の一段下に有るとのこと。生活道を逸れ一段低い所を進むと舟形地蔵丁石があった。「十七 /四 亥」といった文字が読めた。

18丁石・19丁
18丁石

19丁石

17丁石から数分、道の左手に舟形地蔵丁石。「十八丁 / 明和四 丁亥 /講中」の文字が読める。その直ぐ先にも舟形地蔵丁石。風化が激しいが今までの丁石のスタイルより「十九丁 / 明和四 丁亥 /講中」といった文字が浮かび上がる。






 20丁石・21丁石
その先で旧遍路道は国道377号に合流する。大窪寺から2キロほどの距離をおおよそ2時間かけて歩いたことになる。痛めた膝を庇いながらのゆっくり・のんびり、とは言うものの少し時間がかかり過ぎだろうか。
国道に出るとその直ぐ先,「廿丁 明和四」と刻まれた20丁石と。「二十一丁 明和 講中」と読める21丁石が並ぶ。国道改修時にでもどこからから移されたのだろう。



民家フェンスブロックを回避するには
旧国道分岐点に「四国のみち」指導標
旧国道へのガードれールに遍路タグ
大銀杏の先を日開谷川の支流に沿って道を進むと、15丁石に沢筋に下りないにしても結局民家nフェンスに阻まれる。しっかり固定されており、フェンスを開けることはできず、結構高いフェンスを乗り越える、または山側をフェンスに沿って廻り込むしか術はない。
これを回避するには大銀杏の辺りから国道377号に向かう道をとり国道を800ほど進むと沢沿いを辿った旧遍路道が右から合わさる。
旧国道との分岐点に「四国のみち」指導標

ついでのことでああるが、実際国道に出ると直ぐ旧国道が残る。その分岐点に「四国のみち」と書かれた木の柱と、ガードレールには「3番札所金泉寺36.8km」と書かれた遍路タグがある。その先旧道から左に分かれる分岐点には「四国のみち」の指導標があり、「白鳥温泉 三宝寺」を示していた。ルート詳細はチェックしていないが、地図を見る限りでは、切幡寺経由の遍路道と、三宝寺・白鳥神社経由の遍路道の分岐点である長野の集落に出るように思える。
当日は見逃したのだが、大銀杏の辺りに「四国のみち」の案内があったのかもしれない。
払川
この辺りの地名は払川。『白鳥町史』には「昔、女体山を大蛇がとり巻き、民を恐怖のどん底におとしいれていた際、通りがかった行基菩薩がこの川に入水し身を清め、蛇を伏せたという一説と、空海が女体山の下の地獄谷において悪鬼を退治した後、 禊(みそぎ)をしたので 「祓川」改め「払川」という名が起こったという説がある。
女体山
大窪寺の北にふたつの女体山が「ある。西側は長尾女体山(標高774m)東側は石田女体山(標高762m)。山道途中には大窪寺奥の院胎蔵峯寺もある。長尾女体山の山頂には雨乞いの神、青木女体神社が鎮座する。雨の少ない香川ゆえだろうか。

22丁石と標石
22丁石と標石
22丁石と標石
少し進むと国道の切通し。切通し手前から旧国道が右に逸れる。その角に地蔵丁石と標石。丁石には 「二十二丁 明和四 講中」、標石には「ひだりへんろみち 寛延二巳*七月」と刻まれる。寛延二年とは1749年。今まで出合った丁石の宝暦、明和より少し古い時期に建立されたようだ。

牛頭天王
標石横のスロープを上る
荒れた道の左に遍路墓
丁石と標石より上りの土径がある。昔の遍路道はこの尾根筋突端部を越えたことだろうと坂を上る。荒れた道の途中に遍路墓らしきものが残る。
上った先は平場となっており、そこに牛頭天王が祀られていた。 
牛頭天王
牛頭天王と言えば京都と八坂神社の元の祭神。 明治に八坂神社と改名する以前は祇園社とも祇園感神院と呼ばれていたわけだが、 牛頭天王は祇園精舎 (釈迦が説法をおこなった聖地)の守護神。 日本では神仏混淆の代表的な神さまとなり、祇園社だけでなく全国各地に天王さんが祀られた。
平場に牛頭天王

明治元年(1868) の神仏分離令において、 権現と天王の神名が付く社はすべて改名すべしとの名指しのお達しにより、祇園さんは社のある地名より八坂神社と改名。 祭神も本地垂迹では牛頭天王を本地とするスサノオを祭神としている。 全国の祇園社も右へならえと八坂神社としたようだ。
真偽のほどは不明だが、明治期、(牛頭)天王>天皇との連想より、天皇復権の時代ゆえか不敬にあたると考えたといった記事を目にしたことがある。 また、 疫病退散の神として庶民信仰に深く根付いた天王さんが、 天皇神格化を目する新政府にとって目障りな存在であったゆえとの記事もあった。
政府の締め付けにもかかわらず地域に根付いた天王信仰が、お上の御触れなどで消えることもなく、現在でも牛頭天王を祀る社の数は稲荷、 八幡、 伊勢、 天満宮、熊野、諏訪に次いで7番目に多いという。 この社もそのひとつかも。

四つ足堂
木の鳥居を潜り下りる
四つ足堂
木の鳥居を潜り道なりに旧道へと下りる。旧道に下りて行くと、旧道より一段高いところにお堂が建つ。「地蔵堂 本尊地蔵菩薩」「長野拂川 四ッ足堂」とある。行基菩薩、弘法大師旧跡地地蔵堂、本尊の地蔵菩薩は行基作とも伝わる。四本柱に茅葺屋根であったが故の命名という。
ところで、この四ッ足堂は現在、牛頭天王が祀られていることろにあったとも言う。であれば、牛頭天王は何処にあったのだろう。WEB検索ではヒットしなかった。

23丁石・26丁石
23丁石
26丁石
旧国道を進み、現国道に合流する手前、法面の前に上部が欠けた石柱がある。エビデンスはないが、23丁と言われる。
国道377号をしばらく先に進むと国道右手の一段低いところに舟形地蔵丁石が立つ。「二十六丁 と刻まれる。その他は風化して読むことができなかった。





27・28丁石と遍路墓
27丁石
28丁石
その先、国道の左手にいくつもの遍路墓が並ぶ。その右手に27丁石と28丁石が並んで立つ。28丁石は「二十八丁」とはっきり読めるが、27丁石は上部が欠け丁数部もへこみがあり、なんとなく「七 であろうと推測できるといった状態であった。
遍路墓
これも道路整備の折、どこからから移され、ここに並び立つようになったのだろう。






29丁石と30丁石
29丁石

国道右手に29丁石。この舟形地蔵丁石は「二十九丁 明和四丁亥 / /講中」の文字がはっきり読める。30丁石は国道377を逸れ日開谷川傍にあるようだ。




30丁石はここから谷筋に入る
民家石垣を背にして30丁石
国道を逸れ川の手前にコンクリートの建物がある。そこから川に沿ってフェンスが続いている。取敢えずコンクリートの建物に向かって草叢に入り、フェンスと石垣の間の細い道を進むと、石垣を背にして傾いた舟形地蔵丁石があった。文字は「卅丁石 明和四丁亥 / 講中」とはっきり読める。

31丁石と33丁石
31丁石
33丁石
国道左手に31丁石。草に覆われ、半分埋もれたように見えるが、「三十一 明和四」といった文字ははっきり読める。
同じく国道の左手に33丁石。草も刈り取られ花が供えられて立つ。「三十三 明和四」といった文字もはっきり読める。

34丁石?・35丁石
3丁石のあるという辺り
草に埋もれた石仏はあるが34丁石は不明
34丁石は国道の少し北の土手上にあると言う。国道から離れ、草の茂る一段高い土手を彷徨う。丁石とはっきりわかるものは見つからなかったが、土に埋もれ頭の部分だけが表に現れる石造物がいくつかあった。結局34丁石は見付けることはできなかった。

35丁石
34丁石のあるとされる近くの農家に牛小屋。牛は国道脇に繋がれのんびろこちらを眺めていた。先程、かりこ牛のkところで牛は徳島から借りたと記したが、この地は未だ香川県五名。とはいえ阿讃を隔てる嶺の南であり文化圏としては徳島といったものだろうか。
因みに牛は臆病な動物と言う。往昔谷筋の道を荷を運ぶとき、木橋は隙間をしっかり目張りしなけらば牛は怖がって進めなかったといった記事をどこかでよんだことがある。
それはともあれ、その先、国道左手に35丁石。「三十五丁」とはっきり読める。

三叉路に標石・37丁石
三叉路の標石
37丁石
その先に国道から分かれる三差路。角に標石。「十番 切幡寺 十八lkm」と刻まれる。昭和50年(1975)建立。この三差路は「四国のみち」の合流点のよう。民家フェンスのブロックを回避するコースとしてメモした国道への迂回路・旧国道で出合った「四国のみち」がここに続いているようだ。推測は当たっていた。 その先、道の左手、一段高いところに舟形地蔵丁石。「三十七丁」と刻まれる37丁石であった。
堂尾庵
37丁石と堂尾庵
堂尾庵
傍にお堂が建つ。大窪寺の案内に「然るに古来大窪寺と称する所以は 行基菩薩初来の頃、渓間に大なる窪みありしより人之を大窪と呼びたり。 寺は実に其の傍に建立されたるを以てなり。
其の後四方の道俗二聖の徳風を慕ひ、此の寺に参詣する者漸く多く法益を蒙り霊験を感ずる者亦数あるに堪へず。 寺門依って栄え堂宇櫛の如く比ひ、 其の盛時に当たりては方壱百町分を以て境内とし外門四所に通じ「遺基 西は大川郡長尾町多和中山に大門の地名となりて存す 北は大川郡寒川町石田門入に門入の地名となりて存す 東は徳島県阿波郡市場町大俣大影に存す 南は徳島県美馬郡御所野に存す 中門二基は 西は大川郡長尾町多和小学校横 一夜庵となりて存す東は大川郡白鳥町五名長野 堂尾庵となりて存す 」と記されている。
このお堂は大窪寺の東中門の堂尾庵かとも思う。盛時、広大な寺域を画したものであろう。

切幡寺経由道・白鳥神社経由道分岐点に丁石と標石
切幡寺経由道・白鳥神社経由道分岐点
分点点の丁石と標石
更にその先の三差路に丁石と標石。「三十八 与之大窪 明和四丁亥」と刻まれる38丁石。その右に大きな標石。「右 きりはたミち 三里半 / 左 白鳥道 三里半 明治六癸酉」と刻まれる。
ここが切幡寺経由と白鳥神社・大坂越え経由の遍路道の分岐点。切幡道へはここから日開谷川本流の谷筋を南下する。白鳥道はこの分岐点より西に進み八丁坂に取り付くことになる。
今回はここまで。次回はこの分岐点から切幡道を進むことにする。