月曜日, 8月 30, 2021

伊予 歩き遍路 仏心寺経由道;第六十番札所 横峰寺から順打ち遍路道を第六十一番札所 香園寺へ

先回の散歩で湯浪登山口から巡打ち遍路道を第六十番札所へと上った。往昔、横峰寺を打った遍路は湯浪・大頭へと打ち戻り第六十一番札所香園寺へと向かったようである。
「えひめの記憶」には、「横峰寺から香園寺への打戻りの遍路道は、貞享4年(1687年)刊の『四国邊路道指南』によると、「○しんでん村○大戸村、此所に荷物おきでよこミねまで二里。○ゆなミ村、地蔵堂有。○ふるほう村、地蔵堂。大戸より山路、谷合。(中略)是よりかうおんじまで三里、右の大戸村へもどる。<16>」と記されている。
また『四国遍礼名所図会』は、(是より大頭町迄下り支度いたし、香苑寺へ廿五丁也。明口村、香苑寺村。<17>」と記し、それぞれ大頭へ打ち戻ることを案内している。また、明治16年(1883年)刊の『四国霊場略縁起 道中記大成』では、「大戸村、此(の)所に荷物おき行(く)。是よりよこみねへ二里。ゆなみ村・ぶりほう村。(中略)横みね寺より香苑寺へ筋向(かい)道発(おく)る人多し、益なし。右の大戸へもどるをよしとす。(中略)是より香苑寺迄三里。右の大戸村へもどり、みゃうぐち村、周布郡かうおんじ村。<18>」と記して、横峰寺から香園寺への直通路は益がないとして、大戸(大頭)に戻ることを勧めている」とあり、香園寺への直通路は益がないと言っている。
が、現在は横峰寺から平野林道を少し下り、左に逸れて山道を香園寺奥の院経由で香園寺に向かう方が多いように思える。
とはいうものの、この奥の院経由の遍路道は昭和になって開かれた道であり、それほど古くない。横峰寺から尾根道を下る遍路道の途次、「香園道 奥之院ヲ経テ一里十六丁 香園寺ヘ一里二十丁」の分岐標石があり、この分岐から 「香園寺ヘ一里二十丁」が指す遍路道には古い丁石も残るようであり、こちらの遍路道がより古い遍路道と思われる。 今回は横峰寺から尾根道を下り、この分岐点から小松川の谷筋に下り岡村・仏心寺経由で繋がる 遍路道を辿ることにした。
今回も常の如くピストン往復。山道取り付き口(午前7時50分)から横峰寺・平野林道合流点(午前11時20分)とおよそ3時間半、下りは平野林道出発(午前11時33分)、山道下山が(午後15時6分)とこれもおおよそ3時間半。下りは痛めた膝を庇うあまりのヨタヨタ歩きであり普通はもう少し早く下れるのではないかと思う。 ルート概要は平野林道からの分岐点から「香園道 奥之院ヲ経テ一里十六丁 香園寺ヘ一里二十丁」の立つ分岐点までその距離大よそ2キロ強。標高658mの平野林道分岐点から標高408m辺りまで250mほど下り、緩やかなアップダウンの尾根道を少し進んだ後標高470m辺りまで高度を上げ香園寺奥の院分岐点に。分岐点からは1キロ弱の「七曲り」と称されるジグザグ道を下り標高245m辺りまで220mほど高度を下げ本谷林道に出る。印象としてはそれほど厳しい遍路道ではなかった。
今回のメモは復路平野林道からはじめ本谷林道の下山口までの遍路道を記する。下山口から岡村・仏心寺を経て香園寺までの遍路道は既述「伊予 歩き遍路;五十九番札所 国分寺から六十番札所 横峰寺を繋ぐ ③香園寺道を辿り逆打ちで横峰登山口へ」を逆回しでご覧ください。


本日のルート;横峰寺から平野林道・香園道分岐点まで>平野林道より香園寺への遍路道分岐点>15丁石・16丁石>「四国のみち」・17丁>18丁石・19丁石>「四国のみち」指導標と20丁石>「四国のみち」・21丁石>平野林道分岐・22丁石>23丁石・24丁石>25丁石・26丁石>27丁石・「四国のみち」指導標>28丁石と標石>29丁石・「四国のみち」指導標30丁石・31丁石>32丁石・奥の院との分岐点>33丁石・34丁石>35丁石・36丁石>42丁石>林道交差>本谷林道に出る>車デポ地に

横峰寺から七曲がり坂を本谷林道に下りる

横峰寺から平野林道・香園道分岐点まで
横峰寺から香園寺への遍路道は現在横峰寺大師堂、その傍の歓喜天堂横まで繋がる平野林道を1キロ弱歩き、道の左手「香園寺 八・四粁(キロ)」と刻まれた石碑より左に逸れて山道を下る。 平野林道は「弘法大師入定千百五十年記念御遠忌」(昭和59年;1984)を記念し本堂改築工事の資材運搬用に開かれた道であり、それ以前は歓喜天堂裏より茂みに入り山道を下ったようであるが、現在は平野林道により分断されてはいるが、一部林道名残山側にその名残が残っている,と云う。

平野林道より香園寺への遍路道分岐点:午前11時33分(標高658m)
平野林道の左手、「香園寺 八・四粁(キロ)」と刻まれた石碑の手前、ガードレールが切れているところが香園寺への遍路道分岐点。「60番横峰寺1.2km 香園寺奥の院5.7キロ」と記された「四国のみち」木標や遍路タグが遍路道を指し、見落とすことはないだろう。

15丁石・16丁石
⒖丁石
16丁石
分岐点のコンクリート石段を下りるとすぐ山道となる。左手は深い崖。13分ほどトラバース気味に歩き高度を50mほど下げると舟形地蔵が立つ(11時46分;標高610m)。文字は読めないが刻まれた石仏や全体の印象から丁石のようにも思える。往路でその先に16丁石を見ていたため、15丁石かとも。
そこから数分、同じく610m等高線に沿って同じくトラバース気味にすすむと「十六丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が崖に面して立つ(11時49分:標高605m)。

「四国のみち」・17丁石
17丁石
鉄の桟道を踏み数分進むと「60番横峰寺1.7km 香園寺奥の院5.2キロ」と記された「四国のみち」の指導標が立つ。この辺りまではそれほど急な坂ではないが、この辺りから先は先尾根筋稜線をほぼ垂直に下る少し急な坂になる。
掘割道を5分ほど下ると「十七丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前11時54分;標高582m)。

18丁石・19丁石
18丁石
19丁石
等高線をほぼ垂直に高度を40mほど下げると「十八丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後12時;標高540m)。
さらに高度を30mほど下げると「十九丁」と刻まれた19丁舟形地蔵丁石が立つ(12時7分:標高510m)。

「四国のみち」指導標と20丁石
「四国のみち」標識と20丁石
「四国のみち」標識
掘割道を少し下ると「60番横峰寺1.9km 香園寺奥の院5.0キロ」の「四国のみち」指導標。その直ぐ先、掘割道が鋭角に曲がる箇所に「60番横峰寺2.1km 香園寺奥の院4.8キロ」の指導標(午後12時12分;標高506m)。
曲がった角に「二十丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ。

「四国のみち」・21丁石
21丁石
稜線部を下り切ると等高線の間隔が広くなり平坦な尾根道となる。そこに「四国のみち」と記された丸木が立つ。その傍に尾根の左手から道が合流する。地図を見るとこの分岐点を左に進むと湯浪の集落に繋がっていた。
馬の背風の平坦な尾根道を少し進むと「二十一丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ(午後12時20分;標高470m)。この辺り左手が開け、四国山地の遠景が楽しめる。

平野林道への分岐・22丁石
22丁石
北東に突き出た割と平坦な稜線部を数分進むと道が二つに分かれる(午後12時27分;標高465m)。右手には四国電力の標識、左手に遍路道案内が立つ。地図を見ると右手の道を進むと平野林道と繋がっていた。
左手の遍路道に入る。しばらく続いた平坦な道もここまで。ここから先は等高線をほぼ垂直に下ることになる。
分岐点から直ぐ「二十二丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ(午後12時31分;標高260m)。

23丁石・24丁石
23丁石
24丁石

掘割道を少し下ると「二十三丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後12時35分;標高455m)。道は石が敷かれており、スベリに注意しながら下る。その先石を削った石段状の道を下ると「二十四丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ(午後12時41分;標高435m)。

25丁石・26丁石
25丁石
26丁石
2基の石仏を見遣りながら急な稜線部を下りきった辺りに「二十五丁」と刻まれた丁石。他の丁石に刻まれた仏は立像であるのだが、この丁石は坐像となっていた(午後12時49分;標高405m)。 この辺り鞍部。その先痩せ尾根の馬の背を進むと「二十六丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後12時56分;標高412m)が立つ。

27丁石・「四国のみち」指導標
27丁石

直ぐ先で道はふたつに分かれる。右は四国電力の標識。地図を見ると上に送電線が走る。送電線保線道なのだろう。
遍路道は左を進む。稜線上の242mピークの左を巻いて進むと「二十七丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後13時2分;標高405m)。
ピークを巻き、その先の馬の背を進むと「四国のみち」の指導標。「60番横峰寺3km 香園寺奥の院3.9キロ」と記される(午後13時5分;標高405m)。

28丁石と標石
28丁石と標石
標石
馬の背を進むと道の両側に標石。右手の標石には「二十八丁」と刻まれる(午後13時8分;標高405m)。
左手の標石には正面に手印と供に「横峯寺及千足村** 小松町及香園寺」。側面には手印はないが「平野大保木ヲ経テ県**」と刻まれる。平野、大保木はこの稜線の東にある集落。地図上には特に道は描かれていないが、昔には東に下る道筋があったのだろうか。

29丁石・「四国のみち」指導標
29丁石
この先、馬の背から尾根の稜線への上りとなる。比高差は70mほど。それほど厳しい上りではない。 ?mほど上ると「二十九丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後13時11分;標高415m)。そこから数分、曲がり角に「60番横峰寺3.3km 香園寺奥の院3.6キロ」と記された「四国のみち」指導標が立つ(午後13時13分;標高420m)。

30丁石・31丁石
30丁石
31丁石
5分ほど上り高度を30mほど上げると「三十丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後13時18分;標高450m)。更に5分ほど高度を30mほど上げると2基の石仏。少し大きな石仏には「三十一丁」と刻まれる(午後13時23分;標高480m)。この31丁石がピーク。この先は緩やかな下り道となる。

32丁石・奥の院との分岐点の標石
32丁石
途奥の院との分岐点の標石
数分歩くと「三十二丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後13時25分;標高470m)。その直ぐ先は広い平坦地。「60番横峰寺3.6km 香園寺奥の院3.3キロ」と記された「四国のみち」の指導標の先に 「香園道 奥之院ヲ経テ一里十六丁 香園寺ヘ一里二十丁」と刻まれた標石が立つ(午後13時26分;標高460m)。

おこや跡

左に進めば香園寺奥の院経由の遍路道。右に折れると小松川の谷筋に下り、岡村・仏心寺経由の遍路道。ここが奥の院経由と直接香園寺に向かう遍路道の分岐点。今回はここを右に折れ直接香園寺へと向かうが、すぐ先に待つ七曲がりの下りに備えて膝を少し休ませる。
木のベンチに腰掛け小休止。ベンチの奥に結構広い平坦地。この地を「おこや」と呼ぶ。昭和20年(1945)代まではこの地に茶屋があり飴や団子が売られていたという(「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター」)。「おこや」は茶店の小屋からだろう。

33丁石・34丁石
33丁石
34丁石
木々の間から垣間見える尾根筋西側の遠景を楽しみながら少し休憩し七曲がり坂を下り始める。草に覆われた坂を下ると最初の曲がり角に「三十三丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後13時47分;標高454m)。
角を曲がり等高線を斜めに下る緩やかな坂を進むと道の左手、山側に石仏。文字は消えて読めないが形状からして舟形地蔵丁石のように思える。往路この坂を上ったときこの下の曲がり角に35丁石があった。とすれば34丁石かもしれない(午後14時9分;標高450m)。距離に比して時間がかかったのは、往路見つけたこの丁石が見つからず行きつ戻りつしたため。

35丁石・36丁石
35丁石
36丁石
等高線を斜めに進む緩やかな坂を下った2番目の曲がり角に「三十五丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後14時14分;標高420m)。
3番目の曲がり角は直進方向へも道が続く。どちらかちょっと迷うが、直進方向への道には木が並べて置かれており、如何にも「進むべからず」といった注意のように思える。 直進せず左に折れて少し下ると舟形地蔵。文字ははっきりわからないが距離からすれば36丁石ではないかと思う(午後14時20分;標高400m)。

42丁石;午後14時54分( 標高278m )
道端の小さな遍路道案内
道に置かれた木
その先、曲がり角、道の分岐箇所では道端に置かれた小さな遍路道案内、「進むべからず」と道に敷き並べられた木を目安に道を曲がり、道に埋め込まれた遍路道案内、木に括られた遍路タグでオンコースであることを確認しながら七曲がりを下る。
道に埋め込まれた遍路道
遍路タグでオンコース確認
往路沢筋に沿って進み七曲がり坂を上ったため沢筋方向へと下ってゆく。復路は国土地理院に描かれた破線に沿って下る。往路と復路はちょっと異なり国土地理院の破線から外れたルートを辿ったようではある。



42丁石
道に置かれた木
が、ともあれ七曲がり坂の取り付き口に立つ「四十二丁」と刻まれた舟形地蔵丁石の立つところにおりてきた(午後14時54分;標高278m)。途中、三十七、三十八、三十九の丁石があるといった記事もあったが、生い茂る草木に隠れてか見付けることができなかった。

林道交差;午後15時(標高255m)
42丁石から小松川上流域の沢筋に沿って草の生い茂る道を下る。5分ほど歩くと林道と交差。沢に架かる橋がある。往路ではこの橋を渡ったのだが、「遍路道」ではないとの案内があり、橋を渡ることなく沢の左岸を進み七曲がり坂の取り付き口に着いた。

本谷林道に出る;15時6分(標高245m)
林道を交差して沢の左岸を進む。道幅も広くなる。5分ほど進むと大きな林道に出る。本谷林道だろう。山道への取り付き口に下りてきた。 林道に出ると直ぐ沢に架かる橋がある。いつだったか香園寺より岡村・仏心寺より逆打ちで横峰寺へ上る道を辿ったとき、この橋まで来たのだが橋の右岸の道が大きく崩壊しており、また時刻も夕刻に迫っていたためここで打ち留めとしたのだが、その時は遍路道は沢右岸であろうと思い込み、藪漕ぎ道を進むことになろうかと覚悟していた。今回往路で偶然橋を渡った沢の左岸に遍路道を示す案内を見付け、結構広く快適な道を七曲がり坂まで進むことができた。ラッキーだった。

車デポ地に;15時50分
本谷林道まで戻ったが車デポ地は1.3キロ先の採石工場。採石工場傍で舗装が切れたためどこに車をデポしようかと探していると、工場の方が敷地内の端にデポすることを許してくださった。 で、その地に車デポしたのだが、その先に続く広い砂利道は結構踏まれており、また一部舗装された箇所もあり、その舗装が切れた先もゆっくりと走れば本谷林道合流点まで車を寄せることが出来たように思える。 が、それは後の祭り。痛めた膝はほぼ限界に達しヨタヨタ歩き車デポ地に戻ったのが午後15時50分。ここが一番きつかった。

これで横峰寺から岡村・仏心寺経由の香園道までの遍路道のうち、横峰寺から山入道入り口までをカバーした。上述の如くここから香園寺までの遍路道は、「伊予 歩き遍路;五十九番札所 国分寺から六十番札所 横峰寺を繋ぐ ③香園寺道を辿り逆打ちで横峰登山口へ」の後半部に記した遍路道メモを逆回しでご覧ください。



伊予 歩き遍路 横峰寺道;湯浪登山口から順打ち遍路道を第六十番札所 横峰寺へ

先回の土佐街道歩き、伊土国境の黒滝峠を繋ぐピストン往路での日没・夜間行動に懲りたというわけでもないのだが(ちょっと参ってはいるのだが)、ひたすら藪漕ぎが続く土佐街道歩きから少し開放されたく、気分転換に伊予遍路道・横峰寺道を歩くことにした。
四国の遍路道は一応すべて歩き終えているのだが、札所第六十番 横峰寺へは札所第六十一番 香園寺からの逆打ちルートを辿っており、湯浪から上る巡打ちルートは未だ歩いてはいなかった。また、横峰寺道は平成28年(2016)10月3日に宇和島の仏木寺道、久万高原町の岩屋寺道、四国中央市の三角寺奥の院道と共に国指定史跡と指定されているようであり、であれば道はそれなりに整備されているであろうし藪漕ぎ・道迷いもなかろうと思ったわけである。
横峰寺道は湯浪登山口から横峰寺までその距離2.2キロ。標高270mの横峰登山口から標高745mの横峰まで475mほどの比高差を上ることになる。地図を見ると登山口から1キロ程は妙之谷(みょうのたに)川に沿って標高450mまで180mほどゆっくりと高度を上げ、そこからは横峰寺の建つ山稜に取り付き300mほど、等高線にほぼ垂直に上ることになる。
実際歩き終えた印象としては、遍路道に沿って古い丁石、新しい道案内・距離案内が立ち、道に迷うことはない。道筋は前半部は妙之谷川の流れに沿って渓谷を進み、後半部の山道もそれほど厳しい上りでもなかった。痛めた膝を庇いながらの散歩であるため上りに3時間ほどかかったが、普通に歩けばそんなに時間がかかるとも思えない。
それよりなにより、道があるのは誠にありがたい。道なき道を延々と藪漕ぎを続け、あまつさえ日没・夜間行動の顛末などを想うにつけ、道の有り難さを実感した一日であった。


本日のルート;湯浪休憩所>20丁石>横峰寺道標>19丁石・18丁石>16丁石・弐十丁石>15丁石・14丁石>13丁石・「四国のみち」石碑>12丁石の先で沢筋を離れ尾根筋を上る>11丁石・10丁石>大師坐像と角柱10丁石>9丁石と角柱12町石>四国のみち」木標と7丁石>8丁石と傾いた角柱7町石>6丁石と5丁石>古坊地蔵堂>4丁石・3丁石>2丁石>1丁石・山門


湯浪休憩所から横峰寺道を横峰寺へ

 

湯浪休憩所
国道11号を進み、妙之谷川を越えた先、小松の大頭(おおと)交差点を左折し県道147号石鎚丹原千を進み湯浪休憩所に。県道はその先行き止まりとなっている。
湯浪休憩所には清潔なお手洗いも整備されている。休憩所山側崖から落ちる沢水をタンクに入れて持ち帰る地元の方が目にとまる。美味しい水なのだろうか。 湯浪休憩所に車をデポし山入道に入る。

山入道アプローチ石段に20丁石;午前9時34分
湯浪休憩所山側に手摺のついたコンクリートの石段があり、その入り口に「四国のみち」の標識、横峰寺まで2.2kの表示、悪路注意といった案内が立つ。
沢水が表面を覆う石段を上り、右に曲がる角の山側に「二十丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ。 このコンくリートの石段は昭和56年(1981)以降、「四国のみち」整備事業にともない改修:整備されたもの。これから歩くかつての遍路道はこの整備事業によって歩きやすくなったとのことである。

横峰寺道石碑;午前9時37分
石段を流れる沢水が切れるあたりに「国指定史跡 伊予遍路道 横峰寺道」と刻まれた石碑が立つ。側面には「平成平成二十八年十月三日指定 文部省」とあった。 
その先、道の左手に「100m」と書かれた案内が木に括られている。その時は標高表示かと思ったのだが、その後も同様の案内が続く。湯浪休憩所からの距離を示しているようだ。
その直ぐ先、左手から妙之谷川に合流する沢に架かる木橋を渡り(午前9時41分)先に進む。

19丁石・18丁石
沢に架かる橋を渡ると直ぐ山側に「十九丁」と刻まれた丁石(午前9時43分)。数字が減ってことを考えれば丁石は横峰寺まで(から)の距離を示しているのだろう。

左手の妙之谷川の渓相はなかなか、いい。この暑い夏、軽い沢登りもいいかもしれない。
湯浪休憩所から「250m」の先に「四国のみち」の指導標。文字が見えなくなってきている。先に進むと「十八丁」と刻まれた丁石が立つ(午前9時54分)。



16丁石・弐十丁石
湯浪休憩所から「450m」、「湯浪〈休憩所」への案内を見遣りながら小さな沢に架かる木橋を渡ると「十六丁」と刻まれた丁石(午前10時4分)。

その先、左妙之川の沢筋へと左に逸れその先に見える橋に繋がる道の分岐点に「四国のみち」の標識。「湯浪 1.9km 横峰1.6km」とあり、「横峰寺参道」は道を逸れることなく直進の案内。

その「四国のみち」の直ぐ先に石の地蔵道標。「従峯 弐十丁」と刻まれ、下部には六体の小さな仏が刻まれている。今まで出合った丁石とは造りが異なる。少し古い時期の丁石のようである(午前10時10分)。 「従峯」>峯より(従)とは横峰(峯)寺より、との意だろう。

15丁石・14丁石

「横峰寺1.6km 湯浪0.6km]の案内を見遣り数分進むと「十五丁」と刻まれた丁石(午前10時13分)。 その先「650m」、土に打ち込まれた赤い木に架かれた「700m」の湯浪休憩所からの距離案内。
その先で妙之谷川に架かる橋を渡り右岸に渡る。
右岸を進むと「750m」の距離案内の先に「十四丁」と刻まれた丁石が立つ(午前10時22分)。



13丁石・「四国のみち」石碑
直ぐ先、橋を渡り左岸に。湯浪休憩所から「800m」の案内と、「横峰寺1.4km 湯浪休憩所0.8km」の案内。その直ぐ先で木橋を渡り妙之谷川右岸に移ると「十三丁」と刻まれた丁石(午前10時31分)。

湯浪休憩所から「900m」の案内を見遣りながら右岸を進み、橋を渡り左岸に移った橋詰に「四国のみち」の石碑(午前10時38分)が立つ。



12丁石の先で沢筋を離れ尾根筋を上る
左岸を少し進むと「十二丁」と刻まれた丁石(午前10時42分)。その先、木橋を渡り妙之谷川の右岸に移る。湯浪休憩所から妙之谷川筋を進んできた遍路道は、ここから妙之川の沢筋を離れ標高745m辺りの山腹に建つ横峰寺に向けて尾根筋を上ることになる。
ここまで右岸・左岸と沢を橋で渡ってきたが往昔の遍路道は沢を飛び石伝いに上っていたようである。


11丁石・10丁石
沢を右岸に渡ると前方に虎ロープ。尾根の稜線への取り付き口となる。沢筋の標高437m地点から6分ほどかけて高度を30mほど上げると、「十一丁」と刻まれた丁石(午前10時50分)。

丁石の左手には急斜面の滑の岩に水が流れる。妙之谷川に注ぐ枝沢なのだろう。一枚岩といった滑は結構距離があり這い上がるのは楽しそうだ。
更に30mほど高度を上げると「十丁」と刻まれた丁石が立つ(午前10時58分)。1丁が約109mであるから、横峰寺まで(から)約1090mとなる。

大師坐像と角柱10丁石;午前11時8分
「横峰1.0km 湯浪休憩所1.2km」の案内を見遣り、先に進むと道の左手に遍路墓(午前11時4分)。文政二年(1819)。芸州(現在の広島)との銘があると言う。遍路墓に手を合わせ少し進むと道の左手に大師坐像。その後ろに角柱丁石が立ち、「従峯 十丁」と刻まれる。
大師坐像の台座には「享保十六年十二月廿一日 千足山村 とち之川 市左ヱ門」と刻まれる、と。
千足(せんぞく)山村 
現在の西条市南西部、石鎚山北麓の加茂川上流域にあった村。明治22年(1889)、周敷郡千足山村として発足。明治30年(1897)、周敷郡と桑村郡が合併し周桑郡となる。昭和26年(1951)石鎚村に改称。昭和30年(1955)、小松村、石根村と合併し周桑郡小松町。現在は周桑郡、西条市、東予市が合併し西条市となっている。 

 9丁石と角柱12町石
少し上ると「九丁」と刻まれた丁石(午前11時14分)。そこから5分ほど上ると「従峯 十二町」と刻まれた角柱丁石(午前11時19分)。「丁」と「町」は同じ。ここに十二町があるのはちょっと違和感。後世、下流部よりここに移されものだろう。

「四国のみち」木標と7丁石
「横嶺寺0.8km 湯浪休憩所1.4km」と記された案内を見遣り、等高線550mを越えた先に「四国のみち」の木標(午前11時24分)。「湯浪2.6km 横峯寺0.9km」と記される。「四国のみち」木標の指す「湯浪」は湯浪休憩所ではなく休憩所から少し下った湯浪の集落のようだ。
そこから5分、高度を30mほど上げると自然石の大岩の手前に「七丁」と刻まれた丁石(午前11時31分)。傍には土に埋め込まれた小さな赤い木片に「1500m」と記される。湯浪休憩所からの距離だろう。

8丁石と傾いた角柱7町石
10分弱歩き、?m高度を上げると「八丁」と刻まれた丁石(午前11時40分)。丁数が増えるのは異なことではあるが、これはよく出合うこと。道の整備の折に「テレコ」になることが多い。
昔のお遍路さんにとってはクリティカルな丁石、標石も今となっては文化的価値はあっても実用性という意味合いではその価値は大きくない。私のようなもの好きでもない限り丁石、標石に目を留めるお遍路さんがそれほどいるとも思えない。
それはそれとして、その直ぐ先に傾いた角柱丁石(午前11時43分)。「従峯 七町」と刻まれる。

6丁石と5丁石
数分進むと「六丁」と刻まれた丁石(午前11時47分)。そこからさらに5分強歩き高度を?mほど上げると道の右手に「五丁」と刻まれた丁石(午前11時53分)。その後ろ、一段高いところに小さな地蔵。傍には遍路墓がまつられる。

丁石の対面、道の左手には木造の椅子とテーブルの休憩所。その上、これも道の左手には「湯浪2.7km 横峰0.6km」と期された「四国のみち」木標と石碑が立っていた。



古坊地蔵堂;午前11時58分
5丁石の一段上、道の右手の遍路墓に手を合わせる。その直ぐ上、遍路道から少し左に入ったところに朽ちたお堂が残る。お堂の前には六地蔵が並ぶ。 このお堂は古坊地蔵堂。かつてこの辺りには古坊と呼ばれる集落があり、昭和50年(1975)頃までは住民も住んでいたとのことである(「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター」)。

沢・遍路墓
古坊地蔵堂を離れ650m等高線が西に切れ込んだところの沢(午後12時4分)に架かる橋を渡ると道の左手、少し奥まったところに墓石群(午後12時6分)。古坊集落の墓地なのかと思ったのだが、遍路墓のようである。「正徳四(1714)」「天保九(1838)」「天保十四(1843)」「嘉永元(1867)」といった年号、阿州(徳島県)、芸州(広島県)といった文字が刻まれる、と(「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター」)。

4丁石・3丁石
そこから数分、「四丁」と刻まれた丁石(午後12時8分)。標高はおおよそ650m辺り。4丁石から7分ほど歩き高度を40m弱上げ、左に曲がるコーナーに「四国のみち」の木標。「60番横峰寺0.4km」と記される。その傍に「三丁」と刻まれた丁石(午後12時15分)が立っていた。

2丁石: 午後12時23分
「横峰寺0.2km 湯浪休憩所2.9km」の案内を見遣り700m等高線を越え8分ほど歩くと「二丁」と刻まれた丁石。
数分歩くと道の左手に、「この下 車道へは行けません」と書かれた立看板と、その下、木の根元辺りに「へんろ道 横峰寺」「第六十五一番 香園寺へは大師堂**」と記された案内がある。 この案内がよくわからない。「この下」」とはどちらを指すのだろう。事をややこしくするのはこの2丁石から左に踏み跡と見えないこともない筋が残る。実際その踏み分け道を200mほど進めば、明治の神仏分離の折、横峰寺の境外にお堂を建て本尊などをそこに避け、後に大峰寺と称した場所に出るようだ。 で、案内の意は、この大峰寺跡へ向かう道を辿っても車道(平野林道)には繋がらないという注意だろうか。それとも単に湯浪から上ってきたこの坂を下っても車道(平野林道)に出ることはないという注意だろうか。
また、「第六十五一番 香園寺へは大師堂**」とは、香園寺に向かうには大師堂にお参りし、大師堂に繋がる平野林道を下り、途中から平野林道を逸れて香園寺へと下ってゆく、ということだろう。
平野林道が開かれたのは昭和59年(1984)。それ以前の遍路道はさきほどちょっと混乱した2丁石あたりから平野林道から逸れる旧遍路道へと続いていたのだろうか。よくわからない。
横峰寺・大峰寺
明治4年(1871)、神仏分離令により廃寺となった六十番札所・横峰寺はその対応策として、石鎚神社横峰社となり、その後明治12年(1897)に大峰寺、明治18年(1885)には六十番札所大峰寺となり、明治42年(1909)には旧名の横峰寺に復す。
六十番札所としての横峰寺が「消えた」時期は、六十番前札所である清楽寺が六十番札所清楽寺となり、極楽山妙雲寺が六十番前札所となる。
横峰寺が明治18年(1885)に六十番札所・大峰寺に復したとき、清楽寺は六十番前札所に戻った。本来であれば、妙雲寺も前札所として続いたのだろうが、明治17年(1844)火災により焼失。明治28年(1895)妙雲寺は近くにあった鶴来山大儀寺を移し、60番前札旧跡として再興。 戦後、昭和32年(1957)再び石鉄山妙雲寺と称することになる。

1丁石・横峰寺山門
先に山門が見えてくる。その手前左手に「一丁」と刻まれた丁石(午後12時31分)。その横に合掌した地蔵石仏が佇む。
ステップを上り切ると横峰寺山門。「四国霊場 第六十番札所 石鎚山横峰寺」「ご本尊 大日如来蔵王権現」と記された山門をくぐり境内に。境内を進むと納経所、石段を上ると本堂、本堂から西に進むと大師堂が建っていた。 
 ●大日如来・蔵王権現
蔵王大権現、とは役の行者が感得したという神様、というか仏様。日本独自の創造物。権現って、「仮」の姿で現れる、ということ。神仏混淆の思想のひとつに本地垂迹説というものがあるが、日本の八百万の神は、仏が仮の姿で現れた権現さまである、とする。

蔵王権現は釈迦如来、観音菩薩、弥勒菩薩という三尊が「仮」の姿で現れたもの、とされる。三尊合体の、それはもう強力な神様、というか仏様。吉野の金峰山、山形の蔵王山など、役の行者が開いた山岳信仰の地に祀られる。
現在はお寺と神社は別物である。が、明治の神仏分離令までは寺と神社は一体であった、神仏混淆とも神仏習合とも言われる。
これで湯浪登山句口から横峰寺までの順打ち遍路道を繋ぐことができた。往昔、横峰寺から次の札所第六十一番香園寺には、今辿ってきた湯浪へと打ち戻ることが多かったようである。
「えひめの記憶」には、「横峰寺から香園寺への打戻りの遍路道は、貞享4年(1687年)刊の『四国邊路道指南』によると、「○しんでん村○大戸村、此所に荷物おきでよこミねまで二里。○ゆなミ村、地蔵堂有。○ふるほう村、地蔵堂。大戸より山路、谷合。(中略)是よりかうおんじまで三里、右の大戸村へもどる。<16>」と記されている。
また『四国遍礼名所図会』は、(是より大頭町迄下り支度いたし、香苑寺へ廿五丁也。明口村、香苑寺村。<17>」と記し、それぞれ大頭へ打ち戻ることを案内している。また、明治16年(1883年)刊の『四国霊場略縁起 道中記大成』では、「大戸村、此(の)所に荷物おき行(く)。是よりよこみねへ二里。ゆなみ村・ぶりほう村。(中略)横みね寺より香苑寺へ筋向(かい)道発(おく)る人多し、益なし。右の大戸へもどるをよしとす。(中略)是より香苑寺迄三里。右の大戸村へもどり、みゃうぐち村、周布郡かうおんじ村。<18>」と記して、横峰寺から香園寺への直通路は益がないとして、大戸(大頭)に戻ることを勧めている」とあり、香園寺への直通路は益がないと言っている。
が、現在は横峰寺から平野林道を少し下り、左に逸れて山道を香園寺奥の院経由で香園寺に向かう方が多いように思える。
この奥の院経由の遍路道は昭和になって開かれた道であり、それほど古くない。が、遍路道の途次、「香園道 奥之院ヲ経テ一里十六丁 香園寺ヘ一里二十丁」の分岐標石があった。この分岐から小松川の谷筋に下れば岡村から香園寺に繋がるようである。次回はこの遍路道を辿ってみようと思う。