水曜日, 9月 20, 2023

伊予 廃線歩き:愛媛鉄道の廃線後を辿る(長浜・大洲、大洲・内子線)

過日大洲街道を松山・札ノ辻から大洲まで辿ったのだが、その途次予讃線は伊予市にある向井原駅で路線はふたつに別れ、ひとつは海岸周りで長浜を経由し大洲に向かい、もう一つは犬寄峠を6,012mの犬寄トンネルで抜け、中山川の谷筋を下り、内子を経て大洲に至る。この短絡ルートは内山線と呼ばれるようだ。
で、この路線、特急が走る内山線が支線。本線は海岸廻りの路線と言う。チェックすると海岸廻りの本線は昭和10年(1935)に完成。一方の内山線の完成は昭和61年(1986)。海岸までせり出す山地裾地滑り地帯を走る本線のバイパス路線として計画されたとされるので、歴史的に見てもその計画の目的を見ても特急が走る内山線が支線であることは納得できた。
本題はここから。現在海岸廻りの本線と支線の内山線は大洲の手前、若宮信号所で合流・分岐するのだが、かつてその分岐点が肱川を少し長浜へと下ったところにある五郎駅であり、五郎駅から矢落川を内子側に少し遡った新谷駅と繋がり内子駅に向かった時代があったと言う。
何となく気になりチェックするとこの分岐点変更には、かつて長浜と大洲、大洲と内子を結んだ愛媛鉄道が関係していたことがわかった。この愛媛鉄道は後年、国有化により国鉄に組み入れられ、線路の付け替えが行われた結果、現在でも現予讃線の本線・支線に沿ってかつての愛媛鉄道の隧道、築堤といった遺構が残ると言う。
廃道・廃線に萌える我が身にとっては朗報。愛媛鉄道と国鉄予讃線延伸計画などをチェックし、五郎駅分岐が若宮信号所分岐に代わる経緯、愛媛鉄道の路線をチェックし愛媛鉄道の廃線跡歩きの計画をたてることした。

まずは愛媛鉄道の何たるかをチェック;南予に鉄道を、との想いにより伊予市郡中の資産家などにより明治28年(1895)郡中より八幡浜を結ぶ鉄道を計画し(現在の内山線のルート)、明治44年(1911)には西予軽便鉄道、大正元年(1912)に愛媛鉄道と名称を変更。大正4年(1915)には設立総会を開いた。翌大正5年(1916)、犬寄峠を穿つ建設技術・財政上等の問題によち当初の予定を長浜経由の海岸周りに変更。そのうち工事が容易な長浜・大洲間の工事に着手。大正7年(1918)、大洲-長浜間開業。長浜町駅、上老松(現在の伊予出石駅)、賀屋(現在の伊予白滝駅)、八多喜、春賀、五郎、大洲(伊予大洲)の各駅を設けた。路線は概ね肱川に沿って走ったが、加屋(白滝)から春賀の間は肱川筋を離れ内陸部へと入り、伊予白滝駅の先に河内トンネル、八多喜駅手前に八多喜トンネル、春賀駅手前に和田トンネルを穿ち春賀で肱川筋に戻り五郎駅を経由して大洲を結んだ。
次いで、大正9(1920)年には大洲-内子間が開業。当初五郎駅にて大洲・長浜線と分岐の計画であったようだが、後背湿地のため水害が予想されるにも関わらず、財政上また早期実現のため若宮連絡所(現在の若宮信号所)で分岐し内子を結んだ。路線は五十崎・新谷間を除き現在の内山線と概ね同じ。駅は大洲、新谷、喜多山、五十崎、内子。五十崎と喜多山の間に二本松トンネルを穿った。
その後経営難であった愛媛鉄道は昭和8年( 1933)国鉄に買収される。国鉄予讃線編入後も軌間は愛媛鉄道の762mmのまましばらく営業を続けるが、昭和10年(1935)に高松から長浜まで?がった予讃線の軌間に合わすべく762mmから1,067mm軌間に改軌。それに伴い、線路の付け替えが行われた。トンネル拡張工事には工費がかかりすぎるという理由である。付け替え路線は肱川に沿って走ることになり、結果八多喜駅舎は肘川筋に移されることになった。これが愛媛鉄道の長浜・大洲線の経緯。
一方の愛媛鉄道の大洲・内子線の経緯であるが、昭和8年( 1933)国鉄に買収されたこの路線は、昭和10年(1935)若宮連絡所での分岐を改め 五郎駅分岐とし、五郎・内子間を内子線と改称した。この際に、改軌がなされたが路線の付け替え工事の記録はない。上述五十崎・喜多山間にあった二本松トンネルは拡張工事をする必要がないちょっと大きなものだったのだろう。
その後、昭和61年(1986)、予讃本線の内山線のルートが開かれる。犬寄トンネルを穿ち向井原・内子間、新谷・大洲間が新たに支線として開業。この際、また五郎駅分岐・合流を改め若宮信号所で長浜方面からの路線と分岐・合流とした。そしてこのふたつの支線を繋ぐものとして従来の内子線がこの内山線のルートに組み込まれる。組み込まれる、とはあるが内子線の五十崎・新谷間では路線付け替え工事が行われている。結果、二本松トンネルを抜ける旧来の愛媛鉄道の路線は廃止された。
ということで、今回の廃線歩きは、昭和61(1986)年の内山線の開業に伴い廃線となった愛媛鉄道および内子線の内子から五郎を繋いでいた廃線跡、その途次の二本松トンネル。また、昭和10年(1935)国鉄による路線付け替え工事で取り残された愛媛鉄道の廃線、その途次にある大越トンネル、河内トンネル、八多喜トンネル、和田トンネル(春賀トンネル)を若山信号所まで辿ることにする。愛媛鉄道の大洲市内は道路や蓋をされた水路となっているようであり、今一つ廃線感が薄いため今回はパスすることにした。
ともあれ、メモを始める。



本日のルート;
■愛媛鉄道内子・大洲線;内子駅から五郎駅まで
愛媛鉄道内子駅跡>愛媛鉄道五十崎駅跡>愛媛鉄道の軌道跡アプローチ口>愛媛鉄道の軌道跡が現れる>藪で行き止まり>国道56号を逸れ愛媛鉄道廃線跡へ>二本松トンネル>二本松トンネル西口>松山自動車道とクロスし西に進む>黒内坊の内子線路線付け替え箇所>五郎駅への内子線分岐点>矢落川に内子線橋台が残る>五郎駅
愛媛鉄道長浜・大洲線;長浜駅跡から若宮連絡所(現若宮信号所)まで
愛媛鉄道長浜駅跡>愛媛鉄道と予讃線の合流点>伊予出石駅>大越トンネル>伊予白滝駅>河内トンネル>築堤上を進む>八多喜トンネル>橋台跡と築堤跡>八多喜駅跡>春賀トンネル>春賀駅>春賀のアーチ煉瓦橋>五郎駅>若宮信号所




愛媛鉄道内子・大洲線;内子駅から五郎駅まで■
大正9年(1920)開業の愛媛鉄道内子・大洲線を辿る。正確には昭和8年( 1933)国鉄に買収され内子線となり、昭和10年(1935)に愛媛鉄道長浜・大洲線と大洲・内子線の分岐点であった若宮連絡所(現在の若宮信号所)に替えて分岐点となった五郎駅までを辿ることにする。
昭和8年( 1933)国鉄に買収された当初は軌間は愛媛鉄道の762㎜軌間が使用されていたが、昭和10年(1935)に下灘・長浜間が開通し、これにより高松から大洲までが繋がり予算本線となり、そこで使用されている1062㎜に改軌されることになる。
軌間は変更されたが、路線自体は昭和10年(1935)に付け替えられた五郎・新谷間を除き、他の路線は昭和61年(1986)内山線開業に伴い五十崎トンネルを抜くなど五十崎・新谷駅間の路線付け替え工事が完成するまでは大正9年(1920)開業の愛媛鉄道の路線を使っていたようだ。 なお、現在の向井原・内子間、新谷・大洲間は予讃線の支線区間となっているが、元の内子線である内子・新谷間は国鉄での分類上、地方交通線扱い(採算がとれそうもない路線)となっており、内山線の支線に挟まれた形となって「内子線」として残っている。

愛媛鉄道内子駅跡
「国鉄 旧内子駅跡」の石碑が立つ(右)
弧を描き内子の町を南下
愛媛鉄道内子駅(昭和10年;1935以降は国鉄内子線)よりスタートする。場所は内子自治センター北側、T字路角。駅舎の名残はなく、「国鉄 旧内子駅跡」と刻まれた石碑が残るのみ。現在の予讃線支線内山線の内子駅とは結構離れた6内子の町並みの中。旅客だけでなく木材、木蝋なども運んだというから、街中のほうが便利だったのだろうか。
ここから先路線後は道路に転用され、現在の予讃線の東を緩やかに弧を描きながら県道54号、さらには現在の内子駅前を越えた先は県道56号内子河辺野村線となり南に進む。

愛媛鉄道五十崎駅跡
予讃線内子駅を越えると予讃線は五十崎トンネルへと入っていく。昭和61年(1986)、6,012mの犬寄トンネルを穿ち、伊予市の向井原から大洲を繋ぐ内山線が開業したわけだが、その際伊予市の向井原・内子間、新谷・大洲間は新設路線を開いた。内子・新谷間は、昭和10年(1935)内子線となった愛媛鉄道路線の付け替え工事が並行して行われることになる。長浜経由の海岸廻り本線に代り開業した支線の内山線には特急も走らせることになったため、既存の愛媛鉄道の急勾配、急カーブが続く路線、特に峠越えとなる喜多山・五十崎間の二本松トンネル(後述する)の前後は高速運転が不可能であり、そのため開削されたのが1,106mの五十崎トンネルである。このトンネル開通にともないトンネル西出口に五十崎駅が移設され、従来の五十崎駅は廃止されることになる。
その移設前の五十崎駅の位置であるが、路線跡である県道56号は予讃線が五十崎トンネルに入る手前辺りから弧を描いて予讃線と離れその先で松山自動車道の高架を潜り、国道56号に合流する。旧五十崎駅はWikipediaにも松山自動車道と国道56号の立体交差付近にあったとされ、あれこれチェックするとクロスする手前、またクロスした後の国道56号脇にあったといった記事が見受けられるが、駅の裏手が山の写真があったので。それから判断すると松山道クロス手前のような気がする。

愛媛鉄道の軌道跡アプローチ口
単管パイプ柵手前より廃線跡に入る
緩やかなスロープを上る
松山自動車道の立体交差を潜り、その先交差点を跨ぐ国道56号の下を抜け右折。国道56号へのアプローチ脇道に出る。交差点から直ぐ、左手の単管パイプが先に続く手前で国道56号アプローチ道を逸れ山側の土径に入る。
土径に入ると道は直ぐ二つに別れる。ひとつは右に折れる沢筋の道。農道のようだ。国土地理院地図には道として描かれている。愛媛鉄道の軌道跡へは右に折れることなく直進する。

愛媛鉄道の軌道跡が現れる
軌道跡が現れる
内子側は藪
成り行きで緩やかな坂を数分進むと平坦な地となり、そこには軌道が残っていた。これが愛媛鉄道(昭和10年以降は国鉄の内子線となっているが、以下ー愛媛鉄道」として記す)の軌道跡。やっと廃線跡らしき箇所に出た。
進行方向と逆側(交差点側)は激しい藪で先をチェックする気力なし。

藪で行き止まり
軌道跡を進むが
ほどなく藪
軌道に沿って進む。右手、時に開ける辺りから国道56号を見遣りながら快適な廃線跡を数分進む。と、突然前面が激しい藪となる。資料にはこの先で一度築堤が切れるとのこと。水路があり橋が落ちて進めないようだ。右手も国道56号との間にギャップがある。国土地理院地図には愛媛鉄道の軌道跡アプローチ口で右に折れた農道が直ぐ北を抜けているようでありエスケープはできそうだが、そこも結構な藪。下りの藪漕ぎはちょっと危険であり、仕方なく国道56号の廃線アプローチ口まで戻る。

国道56号を逸れ再び愛媛鉄道廃線跡へ
ここで国道を逸れ廃線跡に
溜池の堤を渡ると軌道が現れる
国道56号の廃線アプローチ口まで戻り、国道を先に進む。少し進むと単管パイプが切れ、沢筋へと下りる土径がある。道なりに進むと右手に溜池。沢の水を貯めている築堤を越えると平坦な箇所となり愛媛鉄道廃線跡に出る。右手に再び軌道が現れる。
内子側へチェックに向かうが
激しい藪で即撤退
左手、レールが切れて撤退したあたりの様子が如何なるものかと緩やかなスロープを先に進んだが、こちらも結構な藪。ログで確認すると両撤退地点の間はほんの僅か。落ちた水路橋跡が如何なるものか確認したい気持ちもあったのだが、最近藪漕ぎで疲れ果てることも多く、撤退することにし元に戻る。

二本松トンネル
軌道を少し進むと
二本松トンネルが見えてきた
5分ほど進むと前面に閉塞されたトンネルが見えてきた。二本松トンネル(五十崎隧道とも)がこれ。大正7年(1918)に開業された愛媛鉄道長浜・大洲線、大正9年(1920)年に開業した大洲・内子線のトンネルの内、昭和61年(1986)まで現役であった唯一のトンネル。他のトンネルは昭和8年( 1933)国鉄に買収され、昭和10年(1935)に軌間を762mmから1,067mmに改軌。それに伴い、工費がかかりすぎるという理由でトンネル拡張工事は廃棄され、線路の付け替え作業が行われた。 
トンネルは閉鎖され、入ることはできない
で、この二本松トンネルも昭和61年(1986)、予讃本線の内山線のルートが開かれ向井原-内子間、新谷-伊予大洲間が新たに建設されるが、内子・新谷間は昭和8年( 1933に内子線となっていた愛媛鉄道がこのルートに組み込まれることになる。
組み込まれることになる、とは言いながら、長浜経由の海岸廻り本線に代り開業したこの支線の内山線には特急も走らせることになったため、既存の愛媛鉄道の路線を使っていた内子線の急勾配、急カーブが続く路線、特に峠越えとなる喜多山・五十崎間の二本松トンネルの前後は高速運転が不可能であり、1,106mの五十崎トンネルを抜く路線の付け替えが行われ、それにともない旧来の愛媛鉄道ん^の路線は廃止。二本松トンネルも廃棄されることになった。
廃棄後もトンネルは抜けていたようだが、現在は完全に閉鎖されている。トンネルの前には水抜きから流れ出た水でぬかるんでいた。
トンネル手前でトンネルの上に這い上がれるところはないものかと探したが、コンクリートで固められ手掛かり・足掛かりも見当たらない。トンネルから少し引き返した辺り、廃線跡両側のコンクリート壁面が切れる辺りからトンネル上へと進めそうな感もあったが、藪漕ぎが少々ウザったくなり、トンネル上をトレースしトンネル西口に出ることはあきらめ、国道56号まで戻り、二本松トンネル出口に向かうことにした。

二本松トンネル西口
松山自動車道を潜ると直ぐ建屋
建屋左手のスロープが埋められたトンネル跡
国道56号を進み国道を跨ぐ松山自動車道の下を抜け、その直ぐ先で左折し、松山自動車を潜る。二本松トンネル東口から直線を延ばした辺りは松山自動車道を出た直ぐの箇所に続く。坑口の痕跡はなく峠へと上る緩やかな傾斜面となっている。90年代に坑口のある堀割りの谷ごと埋め立てられたとのこと。東口坑口もこの時期に閉鎖されたようだ。

愛媛鉄道は松山自動車道とクロスし西に進んだ
松山自動車道フェンスに沿って進み
松山自動車道通路を潜り左折し道を進み
松山自動車を出て直ぐの箇所、二本松トンネル西口辺りから先、西に松山自動車道に沿って道が走る。愛媛鉄道の路線図を見ると、路線は直ぐ先で松山自動車道とクロスし国道56号との間を西に向かったようだ。が、路線は松山自動車道建設時に完全に消失している。現在は高速道路侵入防止のフェンスが張られ愛媛鉄道路線を進むことはできない。
フェンスに沿って先に進むと道の右手に松山自動車道を潜る通路があり、通路を抜けると左に折れ西へと舗装された道が続く。愛媛鉄道の路線であろうと先に進む。

愛媛鉄道は予讃線をクロスし小さな丘陵を越したのだろう
予讃線をクロスし小さな丘陵へ進んだ
現予讃線は切通しを抜けている
舗装された道を進むと予讃線にあたる。直ぐ北には国道56号が走る。その直ぐ東には路線付け替え後に移転された予讃線の五十崎駅がある。愛媛鉄道の路線図に拠れば、愛媛鉄道はこの地点で現予讃線をクロスし国道56号との間を進み、少し先で現予讃線に合流している。

予讃線とクロスするとは言いながら、クロスする地点は小さいながらも丘陵となっている。現予讃線に沿って南側を走る舗装道も切通しとなっている。愛媛鉄道はこの丘陵地をどのように抜けていったのだろう。切通部に跨道橋があり、丘陵部の藪に入ってみたのだがこれと言って愛媛鉄道の痕跡に出合うことななかった。
メモの段階で丘陵部の藪に勾配標や路盤、そしてレールも残るとの記事があったが平成7年(1995)の記録とのことで現在あるかどうか不明ではあるが、それよりなにより勾配標とは路線の勾配が変化する箇所に立てられるわけであり、また路盤があり、しかもレールも残るというのであれば、愛媛鉄道はこの小さな丘陵を上り下りしたのではないかと推測する。

黒内坊の内子線路線付け替え箇所
丘陵を西に下り
この辺りで現予讃線の路線に入ったようだ
丘陵地から先は比較的急勾配で国道面へと下りそこには民家が建つ。愛媛鉄道路線はこの民家の辺りを進み予讃線に合流する。
予讃線に合流するとしたが、正確にはここが昭和61年(1986)の内山線開通に合わせ、昭和10年(1935)に愛媛鉄道が国鉄となった内子線の路線付け替え工事をした分岐点。ここから西は現在の予讃線内子線と愛媛鉄道路線を引き継いだ内子線はしばらく同じ路線を進むことになる。
内子線の路線付け替え工事により内山線が従来の愛媛鉄道路線より別れた辺りは国土地理院地図に黒内坊と記される(正確には内子町五十崎甲とある)。黒内坊といえば遍路道が北東へと丘陵を抜け内子に入っていく箇所。国道から逸れる遍路道入口に徳右衛門道標が立っていたことが想い起される。

五郎駅への内子線分岐点
この辺りから右に逸れ五郎駅へと向かい
肱北浄化センター左手を弧を描いて進み
黒内坊から西の内山線内子線と旧来の愛媛鉄道は同じ路線を走っている。内山線建設時に開かれた新谷・大洲の予讃線支線と繋ぐに、特段の困難もなく従来の路線が使われたのだろう。 大幅な路線付け替えする必要はなかったのだろう。を
喜多山駅、新谷(にいや)駅と進む。新谷駅を境に、内子側は内子線、大洲側は予讃線の支線扱いとなっている。また、昭和61年(1986)の内山線開業以前の新谷駅は、現在の駅舎の少し北にあったようだ。
予讃線本線の築堤にあたる
新谷駅を更に西に進み、空海の十夜伝説で知られる都谷川に架かる橋を渡ると直ぐ昭和8年( 1933)国鉄に買収された後、昭和10年(1935)にそれまでの若宮連絡所から新谷を繋いだ路線を付け替え五郎駅から新谷を繋いだ内子線が現在の予讃線と繋がる箇所がある。場所は現在ふれ愛パークの駐車場がある辺り。そこから大洲市肱北浄化センターの西側に向かって緩やかな弧を描く道が残る。
大洲市肱北浄化センターの西側に沿って進むと道は長浜から大洲に向かう海岸廻りの予讃線本線の築堤にあたる、

矢落川に内子線橋台が残る
この辺りで予讃線をクロスし
矢落川を渡る。川中に橋台跡が残る
北を流れる矢落川の堤防に体が埋まりそうな草を書き分けて這い上がり、予讃線本線柄分岐する辺りを確認。矢落川堤防は線路橋手前で行き止まりとなり、先に進めない。
仕方なく大洲市肱北浄化センターまで戻り、成り行きで予讃線本線を潜り県道24号に乗り矢落川に架かる生生橋を渡り、落川橋梁傍の内子線橋台を確認する。

五郎駅
広い構内には内子線時代の島状ホームが残る
矢落川橋梁から直ぐ先に五郎駅。駅の敷地は結構広い。本線の北側にはかつての内子線分岐点時代の島状(ホーム両側で乗降)のプラットホームらしきものも見られる。
この駅の開業は大正7年(1918)。愛媛鉄道長浜・大洲線の駅として開業した。愛媛鉄道は昭和8年(1933)国鉄となり、昭和10年(1935 )には長浜・大洲線、大洲・内子線の分岐点は従来の若宮連絡所(現在の若宮信号所)からこの五郎駅に変わった。愛媛鉄道開業時もこの五郎駅での分岐が計画されていたようだが、予算面などで肱川と矢落川に囲まれ低湿地で洪水の恐れがある少々危なっかしい若宮連絡所から新谷を結ぶルートになったという。
昭和61年(1986年)内山線の開業により、向井原駅から内子駅まで及び新谷駅から伊予大洲駅の新線が開通し、その間の内子線がこの予讃線の支線に組み込まれた。この時、海岸周りの予讃線の本線と山間部を抜けてくる短絡線である内山線の分岐点が若宮信号所に改められ、内子線の五郎駅から新谷駅までが廃止となった。


■愛媛鉄道長浜・大洲線;長浜駅跡から若宮連絡所(現若宮信号所)まで■
大正7年(1918)に開業した長浜・大洲線のうち、大正9(1920)年開業の大洲・内子線との分岐点の若山連絡所(現若宮信号所)までを辿る。
眼目は昭和8年(1933)国鉄に買収された後、昭和10年(1935 )に高松から長浜まで?がった予讃線の軌間に合わすべく762mmから1067mmに改軌された際、財政上の理由から愛媛鉄道にあったトンネルの改修・拡張工事をおこなうことなく路線付け替えとした結果取り残された愛媛鉄道路線およびそこに取り残されたトンネルを辿ること。
上老松(現在の出石駅)の先に大越トンネル、伊予白滝駅の先に河内トンネル、八多喜駅手前に八多喜トンネル、春賀駅手前に和田トンネルが残るという。このうち八多喜トンネル、和田トンネルは車道となっているが、大越トンネル、河内トンネルは往時のまま残されているようだ。大越トンネル、河内トンネルへの詳しいアプローチはWEB上で見当たらなかったが、なんとか出合うことができた。 愛媛鉄道の長浜駅からメモを始める。

愛媛鉄道長浜駅跡
愛媛鉄道長浜駅跡辺り
大正7年(1918)に愛媛鉄道の駅として開業。当時は長浜町駅と呼ばれた。場所は現在の駅の位置とは異なり、長浜港の岸壁のすぐ近く、国道378号と愛媛県道24号大洲長浜線の交点辺りにあった。 駅が岩壁近くにあったということは長浜が海運の集積地として栄えてきたことと無縁ではないだろう。大正7年(1918)に開業した鉄道、また明治36年(1903)大洲・長浜間、大正13年(1924)に大洲より更に肱川上流の鹿野川まで県道が開かれるまでは、肱川の舟運により物資が運ばれたようである。
肱川は豊かな水量により、四国の瀬戸内川では唯一の可航河川であり、明治末期から大正にかけての道路の開通までは、肱川上流と河口の長浜を結ぶ唯一の交通路として、生活物資や農林産物を運ぶ川船(帆掛け船)や木材運搬用の筏が往来し流域の生活を支えた。
肱川上流の鹿野川からはカシ、シイの用材や木炭などの林産物、中流の大洲盆地からは穀物、野菜、繭などの坊産物が長浜へ積み出され、長浜からは肥料、塩、酒、醤油、砂糖などの生活物資が川上に運ばれたという。
で、愛媛鉄道の開通により運ばれたものは、長浜からは砕石、石炭、肥料、内子・大洲方面殻は材木、炭、坑木、竹材、米などであったよう。
とはいうものの、物資の運搬の主力は以前肱川の舟運であり、長浜に集まる木材の8割は肱川の送流に頼り、列車や道路での馬車・トラックは全体の1割程度であったと言う。筏流しは昭和28年(1953)まで続いたとのことである。

愛媛鉄道と予讃線の合流点
この辺りで現予讃線の路線を進む
長浜町駅を出た愛媛鉄道は県道24号を南下し、現在の長浜駅を経て住吉神社下のトンネルを抜けてきた予讃線の路線に合わさる。場所は長浜小学校の東にある踏み切りの辺りとのことである。そこから愛媛鉄道の路線は予讃線の路線を肱川沿いに南下する。



伊予出石駅
出石駅前の道を左に入る
坂道の途中、右に下りる道へ逸れる
しばらく進み出石(いずし)駅に。愛媛鉄道開業時は上老松駅と呼ばれたようである。肱川岸に老松があり舟運の目印となっていたよう。長浜から見て上流にあったゆえの「上」と言う。国土地理院地図にはこの辺り長浜町上老松(じょうろまつ)とある。
伊予出石(いずじ)駅となったのは昭和25年(1950)のこと。この駅が登山口となっている標高812mの出石山に立つ金山出石寺よりの改名である。
坂を下り切ると耕地に
耕地端を進み森に入る
ここから先、春賀駅までの予讃線本線は上述の如く、昭和10年(1935 )に高松から長浜まで繋がった予讃線の軌間に合わすべく762mmから1067mmに改軌された際、財政上の理由から内陸部を進む愛媛鉄道にあったトンネルの改修・拡張工事をおこなうことなく、肱川に沿って路線付け替え工事が行われた。ここからが廃線トレースのスタート。
出石駅前の山側、民家の間の舗装道を東に向かう。道なりに進むと水路にあたる。直進し水路に架かる小橋を渡り少し勾配のある舗装された坂道を上る。坂道は上へと進むのだが、途中舗装道から右に逸れて線路方面へと下る土径がある。土径の坂を下り切ると耕作地に出る。
耕作地の北端に踏まれた感の道を成り行きで進むと木々の生い茂る森に入る。踏まれた感のある土径を進むと道は上りとなる。上りは理屈に合わないと左手下を見ると木々の間から堀割りが見える。何となくトンネルへ向かう路線跡のようであり、少し引き返し堀割道に入る。耕地から続いていたのだろうが藪でアプローチ口を見落したのだろう。まま、掘割道に入るのは難しかと思うが、成り行きで進んだ道が上りとなった辺りで注意して左手に堀割りを見つけるのが現実的だろう。

大越トンネル
掘割道を進むとトンネルが見えてくる
入口は半分土砂で埋まっている
掘割道を進むとトンネルが見えてくる。入口が半分土砂で埋まっている。土砂を乗り越えライトで足元を照らしながら慎重に進む。漆黒の闇ではあるが、出口の光が見えているので少し気は楽。また水で地面が泥濘状となっているかと心配したのだが、路面は少し大きな石が無数に転がっており、その心配はなかった。
東口の先は竹林
東口
5分ほどで出口に。出口の先は竹林。右手傍には予讃線の線路が見える。線路を乗り越え県道24号に出る。国道から見るとトンネル出口は肘川に突き出た丘陵部裾を走る予讃線を護るためコンクリートで固められた法面が切れる辺りであった。
出石寺
東口右手に予讃線の線路
線路を越えて県道に出る
駅名の由来ともなった出石寺は県道28号を17キロ、比高差700m弱を上った先にある。八幡浜市と境をなす出石山に建つこの寺は奈良時代初期、養老2年(712)開かれ、大同2年(802)には空海も修行に訪れたとされる古刹である。寺名の金山は空海が修行の時、鉱山を見つけたゆえの命名。因みに山名は「いずしさん」、出石寺は「しゅせきじ」と呼ぶ。

伊予白滝駅
「肱川治水碑」。賀屋駅のあった辺り。
白滝駅前から予讃線に沿って進む
大越トンネルを出た愛媛鉄道は現在の伊予白滝駅までは現在の予讃線と同じルート。伊予白滝駅は愛媛鉄道開業当初は賀屋駅と呼ばれていた。駅の位置も現在の伊予白滝駅より長浜側に300mほど戻ったところ、県道24号肱川の堤に「肱川治水碑」が建つ辺り。地区名の賀屋がその由来だろう。
昭和3年(1928)に現在地に移り、昭和8年(1933)に愛媛鉄道が国有化され愛媛線となったとき、伊予白滝駅へと改称された。国土地理院地図には白滝駅の北側に白滝の地名が記載されている。駅名の由来だろう。
ここは直進
予讃線に沿って進む
昭和10年(1935)、当時の予算本線の軌間が762㎜から1067㎜に改軌されるに際し、伊予白滝駅の先に河内トンネル、そこから内陸・山間部に入り、八多喜駅手前に八多喜トンネル、春賀駅手前に和田トンネルと続くため、コストのかかるトンネル拡張工事をすることなく肱川筋に付け替え工事が行われた。ために廃棄された元の愛媛鉄道の路線跡が白滝駅から春賀駅まで残る。 とはいえ、伊予白滝駅先の河内トンネルは愛媛鉄道当時のまま放置されているが、その先の八多喜トンネル、春賀トンネルは自動車道に改修されているようだ。ともあれ、白滝駅から予算本線から逸れる愛媛鉄道跡をトレースする。
ここで舗装が切れる
草の生い茂る道なき道。米津の民家が目安
伊予白滝駅の北側の道を線路に沿って歩く。ほどな小川を渡り、右折し予讃線の線路を右手に見ながら進む。ほどなく道は予讃線の線路下を潜るが、愛媛鉄道の路線跡はそのまま直進し線路に沿って進む。

県道から見た米津の民家。ここの北側を抜ける
狭くはなったが舗装されている道を数分歩くと民家の先から舗装は切れ草道になる。ここまでの快適な道が一変し人ひとり通れるかどうか、右手の線路への傾斜もあり足元がちょっと不安になる。前進をちょとためらうほどの草道ではある。
足元を注意しながら米津(よなず)の集落に近づく。前方にしっかりした構えの民家が目安い。



河内トンネル
掘割道を進むと
河内トンネル
民家の北側を抜けると森に入る。踏まれた感のある道を成り行きで進むと掘割道となる。トンネルへのオンコースに入った。舗装が切れた草道から8分程度であった。その先にトンネル入口が見えてきた。

泥濘を抜け東口へ
東口
石組と煉瓦造りの合さったトンネル入口から入る。擁壁は石積み、アーチ部は煉瓦で組まれている。長さは130mほどだろうか。トンネルに入ってしばらくすると膝下まで埋まるような泥濘ヘドロ。まむし対策に沢用レッグガードの上に登山用ゲーター(スパッツ)を常につけているためズボンの汚れは心配ないが、泥濘ヘドロに足をとられ、なかなか足が抜けない。泥濘ヘドロは20m程度だろうと思うのだが、この間は結構大変だった。足元の用意をしていない場合は立ち入らないのが賢明かと思う。何とか泥濘ヘドロ部をクリアしトンネルを抜けた。

築堤上を進む
築堤上を進む。左右に民家
築堤突端部
トンネルを出て、そのまま成り行きで進む。少し進むと左右、一段低い所に民家が見える。先端部まで進み草の茂る斜面を力任せに下る。民家の間を細長く続くこの高まりは愛媛鉄道の築堤跡とのことだった。
築堤はここで一旦切れる。そこは三叉路となっていた。

八多喜トンネル
西口
築堤三叉路より東に向かう道を少し進むと河内川にあたる。左折し直ぐ右折し川を渡り、材木置き場の脇を進み丘陵地に入ると掘割状の道の先に八多喜(はたき)トンネルが見えてくる。石積・アーチ煉瓦積のエントランスは往昔の名残を伝える。車高制限2.6mの標識。幅も車一台が通れるといったもの。対向車が来ると大変だろう。
トンネル内部は補強・修復工事がなされたのか石積・煉瓦積はコンクリートで覆われていた。昭和47年(1972)に道路に改修されたというから、補強工事はそのころ行われたのかと思ったのだがGoogle Sreet Viewには補強工事前の姿が残る。補強工事はそれほど昔に実施されたわけではないようだ。トンネルはは近代土木遺産に指定されている。

橋台跡と築堤跡
清永川左岸の橋台跡
清永川右岸の橋台跡
トンネルを抜け先に進むと清永(せいえい)川にあたる。左折すると直ぐ川の両側に清永川に掛けられた愛媛鉄道橋台跡が残る。左岸、右岸とも橋は石組の橋台となっていた。


清永川右岸の築堤跡
衛星写真で築堤跡がはっきりわかる

また、清永川右岸に小高い高みがある。Google衛星写真でチェックすると八多喜トンネル出口から耕地の中を抜ける細長い堤が見える。愛媛鉄道の築堤跡だろう。築堤上には民家やミカンの木といったものが見えた。

八多喜駅跡
愛媛鉄道八多喜代駅跡
橋台手前を右折し広い道に出る。その先、広い材木置き場がある。愛媛鉄道時代の八多喜駅はこの辺りにあったようだ。「八多喜」は末広がりの「八」に「多い、喜び」と幸せを感じる駅名であるが、由来は地名の八多喜とあるだけで、それ以上はチェックできなかった。



春賀トンネル
西口
東口
八多喜駅跡を東に進む。道も二車線ほどに拡張されている。ほどなく春賀トンネル。元は和田隧道と呼ばれ、昭和62年(1987)までは改軌工事後の1,067mmの隧道が残されていたが、ようだが、この年自動車が2台通行できる現在の形に拡幅されたとのこと。

春賀駅
愛媛鉄道路線はこの辺りで現予讃線路線に
春賀トンネルを抜け道なりに進むと春賀の駅がある。愛媛鉄道の路線は付け替え工事のなされた予讃線とは春賀駅の少し西で合流していたようだ。
愛媛鉄道の春賀駅は大正8年(1919)に開業。その後国鉄に買収された後。昭和9年(1934)に廃止。昭和36年(1961)再び開業されたという。



春賀のアーチ煉瓦橋
山裾を走る予讃線が肱川沿いに通る県道24号と接近する山高地区、予讃線の高架手前に愛媛鉄道のアーチ煉瓦橋跡が残る。構狭い。どうも昭和10年(1935)に1067 mm改軌される以前の愛媛鉄道時代の762mm 軌道が走った鉄道橋のようだ。

五郎駅
内子線分岐点の名残をとどめる島状ホーム
肱川に沿って走る路線は五郎駅に。記述メモをコピー&ペーストする。駅の敷地は結構広い。本線の北側にはかつての内子線分岐点時代の島状のプラットホームらしきものも見られる。
この駅の開業は大正7年(1918)。愛媛鉄道長浜・大洲線の駅として開業した。愛媛鉄道は昭和8年(1933)国鉄となり、昭和10年(1935 )には長浜・大洲線、大洲・内子線の分岐点は従来の若宮連絡所(現在の若宮信号所)からこの五郎駅に変わった。愛媛鉄道開業時もこの五郎駅での分岐が計画されていたようだが、予算面などで肱川と矢落川に囲まれ低湿地で洪水の恐れがある少々危なっかしい若宮連絡所から新谷を結ぶルートになったという。
昭和61年(1986年)内山線の開業により、向井原駅から内子駅まで及び新谷駅から伊予大洲駅の新線が開通し、この時、海岸周りの予讃線の本線と山間部を抜けてくる短絡線である内山線の分岐点が若宮信号所に改められ、内子線の五郎駅から新谷駅までの内子線が廃止となった。

若宮信号所
矢落川の鉄橋を渡り、肱川右岸を少し上ると長浜経由の海岸廻り予讃線本線と伊予市の向井原駅で海岸周り本線と別れ、内子を経て下って来た内山線が県道24号の跨線橋手前・若宮信号所で合流する。 上述の如くこの信号所は大正7年(1918)開業の愛媛鉄道の長浜・大洲線と大正9年(1920)開業の大洲・内子線の分岐点であった若宮連絡所のあったところ。
その後、国鉄に買収された愛媛鉄道の大洲・内子線は昭和10年(1935 )、内子線となり、分岐点も上記五郎駅に変更。その後、昭和61年(1986年)内山線(支線)の開業に伴い、特急の走る内山線は山裾をカーブする五郎駅分岐を変更し現在の若宮信号所が本線と支線の分岐点となった。

これで愛媛鉄道の廃線散歩を終える。大洲街道散歩の折、偶々知った愛媛鉄道。当初は現在の内子線が改修工事される以前の廃線また五郎駅への分岐ルート程度かと想いながらも散歩を計画したわけだが、思いがけず旧内子線に残るトンネルや鉄路跡、長浜・大洲線に残るトンネルなどに出合うことができ、結構面白い廃線巡りとなった。