火曜日, 4月 15, 2014

伊予・丹原散歩 そのⅢ;丹原の利水史跡を辿る

丹原の利水・治水史跡を巡る散歩も10箇所ほどカバーし終えた。場所の特定できる史跡は問題ないとして、特定できない史跡も運が味方してくれたのか、完璧ではないにしても、なんとかゲットできた。
今回散歩予定の史跡も「丹原町の史跡」に掲載されている情報以外に手掛かりは何もない。特に今回は関屋切抜水道という難物が控えている。沢に入り込むことになりそうだが、特段沢用の装備もしていないので、穏やかな沢であってほしいとの想いを抱き散歩に出かける。

○丹原利水史跡散歩
第一回;史跡①劈巌透水路史跡②中山川水菅橋>史跡③衝上断層>史跡④両岸分水工>史跡⑤志川堀抜隧道
第二回;史跡⑥釜之口井堰>史跡⑦掛井手(かけいで)>史跡⑧兼久の大池>史跡⑨高松の横井史跡>⑩西山興隆寺史跡>⑪古田の水路
第三回;史跡⑫関屋切抜水道>史跡⑬関屋川の堰堤>史跡⑬関屋川の堰堤>史跡⑭庄屋井手>史跡⑮中山川逆調整池>史跡⑯大頭(井)堰
(なお、史跡②中山川水菅橋、史跡④両岸分水工、史跡⑬関屋川の堰堤、史跡⑮中山川逆調整池、史跡⑯大頭(井)堰は「丹原町の史跡」に指定されているものではなく、個人の興味・関心より便宜的に史跡と表記した。また史跡⑯大頭(井)堰は丹原ではなく小松地区でもある)


今回のルート;史跡⑫ 関屋切抜水道>関屋の集落>関屋切抜水道の隧道出口>隧道出口から水路を里へと辿る>集落を下る水路を辿る>南沢を隧道入口へ向かう>取水口>隧道入口>崖を這い上がり隧道出口の道に>史跡⑬関屋川の堰堤>ウルメ川>田滝川>山之神神社>中之谷氏神神社>田滝の集落>史跡⑭庄屋井手>下千原集落>五社大明神>金比羅街道>史跡⑮中山川逆調整池>史跡⑯大頭(井)堰

関屋の集落
最初の目的地は関屋切抜水道。といっても、場所は「丹原町の史跡」にある「関屋南沢」と「中川地区」以外に手掛かりはない。中川地区は現在の地区区分では丹原町の西部の大部分を占め大きすぎるので、昔の中川村(劈巌透水路を明治に大改修した越智茂登太が中川村の村長)の範囲を調べると、1889年12月15日 - 町村制施行により周敷郡湯谷口村(ゆやぐち)、志川村(しかわ)、寺尾村(てらお)、来見村(くるみ)、石経村(いしきょう)、関屋村(せきや-)の6か村、及び明穂村(あかお)の一部が合併し周敷郡中川村として発足しているので、周桑平野が高縄山地と接する丹原の南西端一帯をカバーする。それともうひとつの手掛かりである「関屋南沢」を推測するに、地図には、田滝で北からくる田滝川に、西からの二つの沢が合流し、その下流を関屋川と記している。西から合流する二つの流れが南沢ではないかと推測。とりあえず関屋川に合流するふたつの沢の中にある関屋の集落に向かう。

実家のある新居浜を離れ国道11号を西に丹原に。湯ノ谷口交差点を右に折れ、県道48号を北に進み、関屋川手前を左に折れ県道152号を北西に向かい、関屋川の支流であるふたつの流れの間にある関屋の集会所に進む。

史跡⑫ 関屋切抜水道
■水利の悪かった中川地区には、関屋南谷の水を引用するための切抜水道がある。天保15年(1844),玉井又兵衛、渡辺伊勢八の主唱により、長さ45間(約81m),幅4尺(約1・2m)、高さ7尺(2.4m)の水路を竣工、10町歩の灌漑に充てていたが、その後改修により、現在20町歩の水田を潤している(「丹原町の文化財」より)

関屋切抜水道の隧道出口に向かう
さて、これから先どうしたものか、二つの沢の南側の沢から取水して、隧道を通り、この関屋集落へ水を通しているのだとは思うのだが、「関屋切抜水道」の場所をもう少し特定できないかと地元の方にお聞きすることに。
数人の方に聞くと、隧道出口は関屋集会所で北に向かう県道152号から離れ、窓峠へと続く道を進むべし、と。三島神社を越え、多くの幡のたつ建設資材置き場あたりが民家の切れるところであり、その先で道が大きくカーブする辺りから水路が続いているので、それを辿りクロスする沢を越えて進めば「関屋切抜水道」の出口に当たるとのこと。
水路がわからなければ、沢にかかる数メートルの橋があり、そこから水路溝といった造りが見えるので、それを目安に辿れば出口に当たるとのことでもあった。また、隧道の入口は二つの支流の南側の沢にあるとのこと。

大体の道筋はわかったので隧道探しの手順は、まずは隧道出口を確認し、状況次第で、その地点から南側の沢に向かって崖を這い上がり、そして沢に下り隧道入口をみつけることとする。

関屋切抜水道の隧道出口
車を勧め、途中三島神社にお参りし、民家が切れる資材置き場の先のカーブを回り車を進めるが、先が少々怖くなり結局バックで車を戻し、資材置き場の脇のカーブ手前に駐車し、出口探しに出発。
道を進みカーブを曲がり道脇に水路などないものかと注意しながら進むが、それらしきものは見当たらない。仕方なく沢を目安に進む。最初の沢は小さく、そこにかかる橋も小さい。次いで現れた沢は、架かる橋も結構大きく。そこかと思うがその沢には人工的な水路らしきものは見えない。
更に先に進みヘアピンカーブのターニングポイントのところが広場となっており、三角形の道がつくられ、林の中に用水施設らしきものもあるのだが、隧道出口といったものではない。
辺りを彷徨うがそれらしき手掛かりもない。ほとんど出口探しを諦めて、それでも大きめの沢になにか手掛りがないかと「ためすすがめつ」眺めるがそれらしき水路はみえない。さらに下り、最初に出合った小さめの沢を眺めると、水路ではないのだが、沢の中にコンクリートの枠がある流路が見えた。関屋の隧道からの水路ではないとは思うのだが、とりあえず沢に入ってみることに。

道から沢に下りる場所を探し、足場の悪い沢をコンクリートでつくられた「枠」を見ながら下ってゆくと、突然その沢を横断する立派な水路に出合った。これが関屋切抜水道出口からの水路に間違いなしと一安心。誠にラッキーであった。 そして、その水路を上流へと進むと今度は大きな沢を横断する。この沢が先ほどの大きめの橋のかかった沢ではあろう。沢をクロスし先に進むと関屋切抜水道出口があった。そしてその場所は、先ほど歩いたヘアピンカーブの曲がり角の東の崖下であった。

隧道出口から水路を里へと辿る
当初の予定では、水路を辿り隧道出口へ、ということであったのだが、結局成り行きでほぼ隧道出口へと出てしまった。ということで、里に続く水路を確認したく、予定を変更し、まずは水路を辿り里に下り、そこから南沢を上って隧道入口へと向かうことにした。
隧道出口からの水路に沿ってふたつの沢を横断し先に進む。水路はさきほど歩いてきた道に沿って進み、その比高差が次第に減ってゆく。そしてしばらく進むと水路が道とクロスし、そこからは水路は山側に移る。ここを歩いてきたのだが、全く気がつかなかった。
道をクロスした水路は、最初は道脇を流れているが、次第に道との比高差を上げ、またルートも道から離れ先に進む。どこに連れて行かれるのか少々不安になった頃、水路は先ほど歩いた道に向かって傾斜を持って下り、道の下を暗渠となって抜け、道の南で再び開渠となって里に下る。そしてその地点は、人家が切れて最初のカーブのところであった。山側から下る水路、道の南に下る水路を見落とさなければ、その水路に沿って辿れば隧道出口へと難なく行けたのだが、後の祭りではある。

集落を下る水路を辿る
道を離れ里への水路を辿る。左右の耕地への分水などが実感できる。また、このような標高の高い集落に水を導くに、更に標高の高い沢から、しかも間を遮る岩盤を穿って水を求める先人の努力が実際歩いて感じることができる。苦労して隧道を探すもの、書物での記述では実感できない何かを求めて歩くのかとも思う。
水路に沿って下ると萬福寺の境内前。そこから更に傾斜のある耕地を水路に沿って里に下り、今度は隧道入口探しに出かける。

南沢の隧道入口へ向かう
隧道入口の場所はわかったので入口の場所を推測。隧道入口のあったヘアピンカーブの東の崖下より標高の高い辺りを地図でチェックすると、南沢に沿って続く道を進み、道が切れた先に見える、ふたつほどの堰堤のどれかの辺りかと思う。

取水口
南沢に沿って道を進み、道が切れる辺りで沢に入る。それほど厳しい沢ではないので進むのには苦労しない。ただ、途中いくつかの堰堤を飛び出ている石を手掛り・足掛りに這い上がり、もうそろそろか、と思った辺りに現れた巨大な堰堤にウンザリしたとき、左手に人工的な石組みの水路らしきものが見えた。そこが取水口から隧道入口に続く水路であった。

関屋切抜水道の隧道入口
取水口からは川沿いの石組の水路、山中に入ると地面を掘割った水路を辿ると関屋切抜水道の隧道入口が現れた。

崖を這い上がり隧道出口の道へ
石組の隧道入口をしばし眺め、故なき達成感に一人悦にいる。しばし休憩し、隧道入口辺りから崖を這い上がる。結構急な崖ではあったが、上りきった辺りは隧道出口探しでイメージできるので怖くはない。
苦労して這い上がった先は、ペアピンカーブの回り角の辺りにあった三角形の道がつくられている平地であった。これで関屋切抜水道の隧道入口・出口をカバー。気持ちも軽く勝手知ったる山道を車の停めているところに戻る。

史跡⑬ 関屋川の堰堤
■高縄山系に源を発し、中山川に注ぐ関屋川は、普段は表流水の少ない典型的な天井川ですが、古くからひとたび大雨になると氾濫を繰り返し、流域の地区はその都度洪水の被害を受けてきました。
このため明治期から砂防工事が断続的に続けられ、階段状に砂防堤が連続する珍しい景観をもつ川となりました。特に支流のウルメ川の堰堤群は20mから30m間隔で多くの堰堤が連なっていることから(社)土木学会の近代土木遺産に指定されています。
護岸の改修と合わせたこうした河川工事により、往時のような洪水被害被害が防がれているのです。
愛媛県最大級の関屋川扇状地と、その地形を形成した川の流れ。長い時間と多くの人々の苦労によって川は姿を変えましたが、両者が織り成す扇状地の風景は、不可分な一体感も相まって、のどかながらとても印象的です(「西条市観光情報 ふるさと探訪76」より)。

予定では次の目的地は国道11号を松山方面に向かい、中山川逆貯水池近くにある千原の集落の「庄屋井手」ではあるのだが、この近辺に他に利水の史跡などないものかとWEBでチェックしていると、「西条市観光情報 ふるさと探訪76」に「関屋川の堰堤」が紹介されていた。連続する階段状の砂防堤が珍しいとのこと。関屋川水系の中でも、特に「ウルメ川の堰堤群」が名高い、と。
とはいうものの、ウルメ川がどこなのかわからない。関屋川として田滝で合流する三つの沢の内、西から注ぐふたつの流れの南側の沢は関屋切抜水道の隧道入口があった南沢、北の沢はその名称はわからない。そして残りの一つは田滝地区の上流は田滝川と称され、そこには幾つかの支流が注ぐ。そのどれかひとつではあろう。

ウルメ川
ということで、とりあえず車を県道151号に乗せ田滝地区に向かうと、ほどなく関屋川に合流する北側の沢に架かる橋。とりあえず車を停める。なるほど連続した階段状の堰堤が見える。実のところ、この沢が「ウルメ川」であったことが後からわかったのだが、その時は知るよしもなし。とりあえず写真だけは撮り田滝川の沢へと向かう。




田滝川

ウルメ川を越え、田滝の集落で県道151号を離れ、田滝川に沿って上流へと車を走らす。田滝川も連続した堰堤が続く。「西条市観光情報 ふるさと探訪76」には明治期から造られたとのことであるが、印象としては少し新しいように思う。その時は、もっと上流の沢に行けば、「西条市観光情報 ふるさと探訪76」に掲載されている「ウルメ沢」の堰堤があるかも、との想いのみ。

山之神神社
ほどなく川脇に山之神神社。車を停めてお参り。この社には田滝川の上流の山中にある「黒滝神社」の遙拝所があるとのこと。
「愛媛の記憶」によれば、「丹原町田滝の「黒滝さん」は、桓武天皇の御代(七八八年)に三河国からの落武者神介四郎左衛門が権現谷で発見したといわれる。黒滝さんは女神とされ、兄の石鎚さんと力競べをした。黒滝さんの投げた石は石鎚さんのお庭に飛び、石鎚さんの投げた石は黒滝さんの拝殿の奥の大夫地に来た。兄妹喧嘩のため黒滝さんの氏子は石鎚さんには参詣しない」とのこと。石鎚さんの投げた石は黒滝さんの神域を侵したため、兄弟が仲違いし、そのため田滝の人は、石鎚山に登ったら石鎚大神に鎖から投げられるとの理由で参拝はしない習わし、とか。また権現山にある黒滝神社に泊まると、夜半に必ず笛や太鼓の音(カミカグラ)が間近に聞えるという言い伝えもあるそうです。
こんな縁起をパラパラ読んでいると、同じく「愛媛の記憶に」こんな記事があった;「黒滝神社の遥拝所の奥に12haの田んぼがあります。これは明和年間(1764~72年)に6ha、明治の初期に6haが開墾されたと聞いています。もともと、旧徳田(とくだ)村の田滝地区と旧中川村の関屋(せきや)地区は隣同士で、農業と林業をなりわいとしていて、境界のことでいさかいが絶えなかったようです。それで松山の殿様が仲裁に乗り出し、和解の代償として開墾された田んぼが田滝地区の農民に授けられたということです。その田んぼを奥新田といい、明治に開墾された田んぼを前新田と呼んでいます。また、関屋地区にはずい道を抜いて南谷(みなみだに)から水を引いてもらうようになったということです。昔から水の問題は深刻で、双方で傷害事件が起こるようなこともあったんです)、と。思わぬところで関屋切抜水道の「きっかけ」が登場した。とりあえず面倒がらず寄り道はするものである。

中之谷氏神神社
山之神神社から更に車を走らすと川沿いに中之谷氏神神社。集落もなにもないところに「氏神さま」って? 気になってチェックすると、これも「愛媛の記憶」の田滝集落の説明の中に「この集落は、元来現在地より一〇〇〇mほど奥地の扇頂部に立地していたものが、山津波によって明暦年間(一六五五~五八)現在地に移転してきたものと伝える。現在も奥地に集落の氏神が鎮座しているのは、その名残といえる」といった記事が目についた。明暦年間まではこのあたりに田滝の集落があったのだろう。物事にはすべからく、その拠ってたつ理由がある、ということ、か。

それはそれとして、神社にお参りし、車を神社脇に置き先に進む。と、行く手は採石場で立ち入り禁止。その先にも田滝川に注ぐ沢があるので、「ウルメ沢」の景観を求めて、川床に下り逆側の土手を進む。田滝川の堰堤は連続して続くが「西条市観光情報 ふるさと探訪76」に掲載された写真と比較すると、ちょっと新しいように思う。採石場の先でふたつに分かれる沢を確認するも、これといった趣のある堰堤群に出会うこともなく、結局引き返す。とっくに「ウルメ沢」に出合っているわけだから当然のことではあるが、その時は繰り返すが、知るよしもなし。

田滝の集落
田滝の集落まで戻り、県道151号を進むと、田滝小学校脇に「踊り子」といった石像と説明があった。気になり車を停めて案内を読むと「お廉踊り;400年以上も前から田滝地区に伝わる。村が大変な旱魃に襲われた際、雨乞いのため黒滝神社に奉納されたのが起源。村人たちが交代で連日連夜踊り続けたところ、本殿の御廉が動いたかと思うと、にわかに大雨が降り出したことから、この踊りが「お廉踊り」と呼ばれるようになった。両手に持った金銀の扇子を蝶の羽ばたきのようにひらめかせる優美な舞が特徴で、踊り場のほめ言葉「早口口上」も珍しいと言われている」といった案内があった。造られたのは平成26年とのこと。
上で「この集落(は、元来現在地より一〇〇〇mほど奥地の扇頂部に立地していたものが、山津波によって明暦年間(一六五五~五八)現在地に移転してきたものと伝える」とメモした。「愛媛の記憶」には「田滝の集落は、周桑平野の西方、関屋川の形成する扇状地の扇頂部に立地する。関屋川扇状地は扇頂部が標高二五〇m、扇端部が五〇m程度であって、その間の距離は約四㎞で、県下でも最も模式的な扇状地である。土地利用は扇頂部と扇端部に水田が開け、扇央には愛宕柿やみかんなどの果樹園が開け、扇状地の集落立地と土地利用の典型的な姿を見せている。
田滝は扇頂に立地する集落の一つであるが、その立地点は、やや扇央に寄った山麓に立地している」とある。山津波により元々は扇頂部近くにあり、その場所は水に苦労することはなかったのだろうが、現在の立地点は扇中部に近く、地下水を得るためには、二〇m以上もの深井戸を掘らなければならなかった、とのことである。昔から「田滝の火事には石投げい」といわれたのは、水不足を端的に表す言葉であった。松山藩主が田滝の住民にのみ瓦葺きを許しだのは、火災への配慮であったという(「愛媛の記憶)。こういったことが「お廉踊り」の背景にはあったのだろう。因みに、案内にあった、珍しいとされるお廉踊りの「踊り場のほめ言葉「早口口上」は「愛媛の記憶」に詳しく掲載されている。

史跡⑭ 庄屋井手
■千原部落は急傾斜で水田面積は非常にすくない。藩政時代の石高は18石5斗3升3合で、松山藩内で小屋村、関屋村、上総村に次ぎ4番目にすくない。 庄屋は村の振興に水田開発の必須を感じ、水路の設置を行ったものとおもわれる。黒河丈左衛門という水利技術に抜きん出た人がおり、水路の開発を行った。現在自動車道の傍にその水路を見ることができる。黒河丈左衛門は後、高松村に迎えられ丹原より後妻をもらい水道の建設に偉業を残した(「丹原町の文化財」より)
次の目的地である千原集落の「庄屋井手」に向かう。田滝集落から成り行きで国道11号に乗り、史跡散歩の最初に訪れた劈巌透水路のある湯谷口に。既にメモしたように「中山川が四国山地と高縄山地に挟まれた狭隘部から周桑平野へと流れ出す」湯谷口から中山川に沿って四国山地と高縄山地の裂け目を通る国道11号に沿って西へと進み、鞍瀬川が中山川に合流する文字通りの「落合」地区を越え、更に中山川に沿って進み千原集落へ。
集落とはいいながら、国道脇には「名所 桜三里」との看板はあるものの開いている気配の感じられない食堂など数件が見えるだけである。中山川を隔て急峻な千羽ヶ岳が美しい。
車を食堂脇に停め「庄屋井手」探しを始める。「丹原町の文化財」の説明に「自動車道の傍」ということである。道路の山側を注意しながら進むと、食堂から西に進み最初のカーブの先、コンクリートの壁面が切れて鉄の柵になるところに、人が辛うじて入れるスペースがあった。なんとなく「ノイズ」を感じ、鉄柵の中を進むと水路があり、朽ちた蓋のある分水口も現れた。これが説明にある「庄屋井手」の水路ではあろう。

水路は見つかったが、これはどう見ても水路の末端部、中山川への排水部分といったもののように思える。また、水量も少なく現在も使われているようにも思えないが、「丹原町の文化財」の説明にあった、急傾斜で水田面積は非常にすくない千原部落に水田を開くために開削した水路の痕跡などないものかと水路を求め国道から山肌を上る。

下千原集落
取水の場所の情報は無いため、沢からの取水かとも思い、食堂脇の沢に沿った小道を上る。しばらく沢を進み、成り行きで階段状の耕地を這い上がる。階段上の耕地には水管が下るが、それが往昔の庄屋井手とも思へない。先に進むとそこには大きく開けた平坦な地があった。学校のような建物もある。旧千原小学校で、現在は千原児童遊園となっており、災害時の一時「避難所に指定されていた。結構大きな校舎である。昔は結構は人の住む集落ではあったのだろう。その辺りは下千原地区であった。
千原の集落はその上に中千原、上千原と続く。どこまで行こうかとも思ったのだが、Google Mapの航空写真で見るに、沢から離れているようであり、また、国道から見たときには想像もできなかった、下千原地区の大きく開けた平坦地にちょっと驚き、そこで何故か満足し、それから更に上に向かうのを止めてしまった。
メモをするにあたり、「愛媛の記憶」を見ると千原の集落の説明に、「桜樹村地区の西端に千原の集落がある。集落は上千原・中千原・下千原の三つの小集落から構成されているが、その三集落は標高二〇〇~四五〇mの西向きの山腹緩斜面に連なって立地する。千原の集落の立地する緩斜面は、桜樹地区で最大のものであるが、これは地すべり地に由来するものである。集落は散村状をなして山腹斜面に展開し、また随所に水田がみられるが、これは地すべり地特有の湧水が各所にあり、それが飲料水と灌漑水を提供していることによるものである」、とあった。沢から離れすぎるということで中千原・下千原へと上るのを止めたわけだが、「湧水」が用水水源の可能性があるとすれば、もう一度水源探しに出かけようとも思う。
因みに、「日本歴史地名体系39」によると、千原村 は宝永7年(1710) 田 4反4畝であったものが、明治初年 田 6町8反余、との記載があった。先人の努力の賜であろう。

五社大明神
旧千原小学校の校舎下に立派な社。五社大明神とある、祭神は素盞鳴命(すさのをのみこと)、保食命(うけもちのみこと)、稚日女命(わかひるめのみこと)、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)。稚日女命は、日本書紀では天照大神の妹とされ、高天原で織折りをしているとき、素盞嗚尊が馬を投げ込み、それが原因で亡くなってしまう。それを悲しんだ天照大神が天岩戸に隠れたとのこと。古事記には登場しないようである(Wikipedia)。境内にはムクノキ・イチョウ・ハナゴの巨樹が残る。

金比羅街道
五社大明神の前の道を国道へと下る。この道は古の金比羅街道である。ルートは千原集落の少し西で中山川筋から現在の国道11号に上り、そこから国道を越えて山裾をこの五社大明神の少し上に出る。後日、金比羅街道を歩いたことがあるのだが、道跡もなくブッシュの藪漕ぎ道となっていた。 そしてこの五社大明神から一一旦桜三里の食堂のあったあたりの国道まで下りるが、そこから沢に沿って上り、現在の国道に沿って山裾を鞍瀬川との合流点である落合の手前まで3進む。沢を越えて東に進む辺りは竹藪など藪が激しく藪漕ぎを強いられるが、ほどなく数メートルの幅のある整備された道跡が残る。要所には石垣が組まれており、確証はないが金比羅街道と考えてもほぼ間違いないだろう。

○金毘羅街道のルート;松山から丹原・釜之口関まで
金比羅街道とは讃岐の金刀比羅宮への参詣道。松山から道後平野を進み東温市横河原で重信川を越え、川内まで進み、中山川沿いの山間部を越え、来見(宿場町)を通り釜之口渡に至る。
中山川沿いの山間部を越える道を往昔「中山越え」と称した。川内町から県道327号に沿って山間部に入り、松山自動車道と平行に進んだ県道327号が北に向かうあたりで県道を離れ、南に折れ九十九折れの道を檜峠に。そこから板屋、土谷集落へと舗装された道を南に下り、国道11号への合流の手前から再び山中に入る。中山川の左岸の山中1.5キロ程進むと中山逆調整池の脇に2本の源田桜。桜三里とも称され、江戸の頃は8500本近くもあった桜も千原鉱山の煙害で現在はこの2本を残すのみ。往昔はこの辺りから中山川を橋で越えていたとのことだが、現在は中山逆調整池の底に沈み、道は中山逆調整池の堰堤を越え国道11号に出る。
一旦国道11号に出た金比羅道は、すぐに国道の南の山裾に入り千原集落の五所神社の辺りに出る。そこから一度国道11号まで下り、下り切ったとことろをから再び山へと道を折り返し、国道11号に沿って山裾を進む。道は荒れており、現在は人が通る気配のない道である。
藪道を数キロ進み、鞍瀬川が中山川に合流する落合の手前、松山自動車道の唐子川が聳える山道を川に沿って進み、笹ヶ峠との間の鞍部を抜け、里道を来見に進み、そこから中山川に沿って下り釜之口に至る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)


史跡⑮ 中山川逆調整池
■五社大明神を国道まで下り、中山川逆調整池に向かう。当初、この千原集落の傍に中山川逆調整池があるとも思っていなかったのだが、国道のすぐ下が中山川逆調整池である。思いがけない利水施設の登場に心も軽く調整池への道を探す。
国道を西に進み、「庄屋井手」のあった先に「逆調整池」への案内。案内に従い道を下ると水を称えた堰堤があった。既にメモしてはあるが、「西条 水の歴史館」に「道前道後平野は瀬戸内海に面し雨量の少ない地方にあるため河川の流量が少なく、たびたび干魃の被害を受けてきました。このため、昭和32年から10年かけて面河ダムや道前道後平野に水を送る施設を国(農林水産省)がつくりました。面河ダムに貯留された水は隧道を通り中山川の逆調整池まで流下し、逆調整池で道前平野側と道後平野側に分水される。道前平野側では逆調整池で放水され、中山川を流下した面河ダム用水を、中山川取水堰から取り入れた後、両岸分水工で右岸幹線水路と、左岸幹線水路に分水しています。逆調整池で放水され、中山川を流下した面河ダム用水を、中山川取水堰から取り入れた後、両岸分水工で右岸幹線水路と、左岸幹線水路に分水しています。 一方道後平野側では逆調整池に設置されている千原取水塔より取水し、隧道を通り、南北分水口で北部幹線水路と南部幹線水路にそれぞれ分水されています」とあった。
因みに「逆調整池」とは、「ダムの上流に水力発電所がある場合、昼間と夜間の電力需要が著しく異なるため、昼間の流下水量と夜間それが大きく異なる。ために、下流への流下水量を調整し一定の水量を下流に流すためつくられるダムや堰堤のことを意味するようである。また、中山川取水口は劈巌透水路の少し上流に造られている。
また、既にメモした千原鉱山は、中山川逆調整池の下流、千羽ヶ岳が中山川に落ちる辺りにある、とのことである。

史跡⑯大頭(井)堰
■中山川逆調整池を見終え、国道を家路へと向かう。途中、「西条 水の歴史館」にあった中山川の取水堰として釜之口堰と同じく、戦国時代には既に築造されていたという「大頭堰」にちょっと立ち寄り。ここは丹原というか既に小松地区になっている。小松も古い歴史のある町であり、数年前だっただろうか『伊予小松藩会所日記;増川宏一(集英社新書)』なども面白く読んだりもしたが、今回は「丹原」ということで、あれこれはここでは省く。
国道11号を進み、明穂交差点を左に折れ、中山川に架かる「新金比羅橋」から少し上流に見える「大頭(井)堰」を眺める。この取水口は明穂・長野、小松地区の安井・大頭地区を潤す、とのことである。

○丹原の由来
これで丹原地区の利水・治水散歩のメモを終えよう、と思ったのだが、「丹原」の地名の由来のチェックをしていなかったのを思い出した。丹原の東、瀬戸内に面する地名が壬生川(丹生川)ということもあり、通常、丹=(水銀による)赤>丹原=赤い原(土地)、ということではあろう、と思いながらもチェックする。
あれこれチェックすると、壬生川はもともとは数条の川が流れる一帯であったため、「入り川(ニュウガワ)」と呼ばれていたようではあるが、川の上流で水銀が採集されだし、水銀を焼くと赤くなることから、延喜の頃(901~923)には「丹生川」と改名された、と。丹は朱砂を意味し、その鉱脈のあるところに丹生の名前があることが多い。
日本には丹(に・たん)のつく地名が各地にあるが、いずれも丹砂(タンシャ=硫化水銀)の産地であることを示している。中国の辰州が一大産地だったことで辰砂(シンシャ)とも呼ばれる水銀と硫黄の化合物で、朱砂や丹朱とも呼ばれる、とWIKIPEDIAにあった。
で、この「丹原」という地名は、江戸時代の1644年、時の藩主が代官に命じて、池田・今井・願連寺の原所と称する地を割いて新たに町を作り、商業地として免租し、他村より商家の移住を奨励して周布郡内における唯一の商業地として発展させた。これが町の始まりとされるが、この商業地として整備された土地が、赤色の砂礫の原野であったところに由来する、とのことであった。
数回にわたる丹原の利水史跡散歩もこれでほぼお終い。近くに住みながらも知らないこと多さに、改めて気付かされた。

月曜日, 4月 14, 2014

伊予・丹原散歩 そのⅡ;丹原の利水史跡を辿る

丹原の利水・治水史跡散歩の第二回は「兼久の大池」、そして、その池の近辺にある利水史跡である「高松の横井」と「古田(コタ))の水路」を目指す。
兼久の大池の位置ははっきりしているが、それ以外の史跡は「丹原町の文化財」に掲載されている史跡名、地区名、説明記事と1枚の写真のほかはなんの手掛かりもない。
「伊予・丹原散歩 そのⅠ」でメモしたように、地形を読んで目的地を予測したり、地形から感じるなんらかの「ノイズ」をもとに史跡を辿り当てたり、勘を頼りに進んだり、運を天に任せた成り行き散歩となった。


○丹原利水史跡散歩
第一回;史跡①劈巌透水路史跡②中山川水菅橋>史跡③衝上断層>史跡④両岸分水工>史跡⑤志川堀抜隧道
第二回;史跡⑥釜之口井堰>史跡⑦掛井手(かけいで)>史跡⑧兼久の大池>史跡⑨高松の横井史跡>⑩西山興隆寺史跡>⑪古田の水路
第三回;史跡⑫関屋切抜水道>史跡⑬関屋川の堰堤>史跡⑬関屋川の堰堤>史跡⑭庄屋井手>史跡⑮中山川逆調整池>史跡⑯大頭(井)堰
(なお、史跡②中山川水菅橋、史跡④両岸分水工、史跡⑬関屋川の堰堤、史跡⑮中山川逆調整池、史跡⑯大頭(井)堰は「丹原町の史跡」に指定されているものではなく、個人の興味・関心より便宜的に史跡と表記した。また史跡⑯大頭(井)堰は丹原ではなく小松地区でもある)


本日のルート;史跡⑥ 釜之口井堰>旧井堰>史跡⑦掛井手(かけいで)>厳島神社>水路橋>史跡⑧兼久の大池>史跡⑨高松の横井>八雲神社>第三横井>史跡⑩西山興隆寺>史跡⑪古田の水路>上池

最初の目的地は「兼久の大池」。そして、その水は中山川の「釜之口堰」から取水され、水路を導かれて「兼久の大池」に溜められるとのことである。ということで、「兼久の大池」へのルートは釜之口堰から始めることにする。

釜之口堰は関屋川が中山川に合流するところにある。国道11号の丹原町明穂にある明穂交差点を県道149号へと北に折れ、中山川を渡り、最初の交差点を中山川に沿って上流に向かって進み、関屋川との合流点の釜之口堰まで進む。

史跡⑥ 釜之口井堰
■水田100町歩(約100 ha)以上をかんがいする井堰(せき)の水口を「釜の口」という。丹原町長野、高松から田野を経て、東予市吉田、周布にいたる穀倉地帯をかんがいするこの水路は、道前平野南部農民の生命線であった。松山藩は、ここに「水会所」を設けてこれを管理したが、この地点はまた、松山から西条に至る「金毘羅街道」の要衝であり、幕末のころまでは、付近には茶店、旅篭(はたご)が軒を並べ、「釜の渡し」には渡船が設けられてにぎわっていたという(「丹原町の文化財」より)。

関屋川との合流点手前には水路施設と「釜之口井堰と金比羅道」の案内、それと3基の石碑があった。「釜之口井堰と金比羅道」には「釜之口は千町歩(1,000ヘクタール)を灌漑する水口のことで、田野、丹原、周布地区の千町歩にわたる水田の用水を賄ってきた。道前平野農民の生命線であり、藩財政を左右する重要な井堰であった。松山藩は、ここに『水会所』を設けてこれを管理した。 現在の新堰は2年かかって昭和29年完成し関屋川の下を暗渠とし、昔から苦しんだ用水問題が解決した。さらにその後、笠方ダム、中山川ダムの灌漑用水路の建設により、この地方の灌漑は一層完璧となった。
また松山からの金比羅道は延暦23年(804)にできた。松山から中山川沿いの山間部を越え、来見(宿場町)を通り、釜之口渡で中山川を渡り明穂に出て、大頭・小松陣屋町へと進み西条に至る。
釜之口は金毘羅街道の要所で、水会所や茶屋・旅籠などが数軒並び、『釜之口渡し』には渡船が設けられ賑わったという。金毘羅大門より二十二里の里程標、金比羅街道渡舟場跡、右金比羅街道等の里程標がある(西条市教育委員会)」とあった。

●旧井堰
案内に関屋川が中山川に合流する辺りに、「旧井堰」と「吐水余」が書き込まれている。「吐水余」は「余水吐」の表記順が逆転しているだけだろうが、これは「新堰堤」から取水され「取付水路」を通り、関屋川を暗渠でくぐり、「兼久の大池」へと流れる水路の余水を吐き出すところであろうか。「兼久の大池」へと流れる水路から中山川へと流れ出す水の流れがあった。
「旧井堰」の遺構でもないものかと土手を中山川の川床に下りる。が、余水吐の水路に遮られその先に進めない。水路の手前にもそれらしきものは見当たらない。で、関屋川左岸から入り込む。ブッシュが激しく、堰堤があり少々難儀しながら余水吐の水路辺りまで進むが、鉄筋の桁が荒れ果てたままで残るだけで、それらしき旧井堰を見つけることはできなかった。
「愛媛の記憶」には「中山川筋の各井堰の構造は、木工沈床堰か或いは続框石詰堰に限られ、セメントの使用は一切禁止された。遮水手段としては、僅かに阻水板を框の両側にうちこみ、その前部に「しだ」をあて、赤粘土で充填する程度で、井堰の方向も用水の自然流入に便利なように、斜めに設計された。しかし、その構造は貧弱で洪水のたびに流失したり破損した。しかも、釜之口堰の位置が洪水の度に関屋川からの流出土砂の埋積で、井口が閉塞され取水に支障を受けることが度々あった」との説明があった。これでは遺構が残ることはないだろう。
現在、関屋川が中山川に合流する上流にコンクリート工法の新井堰が設けられているが、これも「愛媛の記憶」に、旧堰が「昭和二五年九月三日、ジェーン台風によりおよそ五〇mを流失、さらに九月一三日のキジア台風で被害は一層増大した。これによって釜之口堰の根本的改築の必要性がおこり、同二六年関係町村との水利協定書の調印をとり、釜之口新井堰の移転改築が決定され同二七年二月に着工し、同二九年四月末に完成した」との説明があった。

○水会所
案内に、釜之口堰から取水された水は、「道前平野南部農民の生命線であった」とある。「愛媛の記憶」に「和名抄に「田野郷」の名をとどめているところからみても、1,500~1,600年前に既にこの釜之口井堰は存在していたと推測される」とあるようにその歴史は古い。
また案内に「松山藩は、ここに「水会所」を設けてこれを管理した、とあるが、道前平野南部農民の生命線として各集落への分水をめぐり水争いが起こるため代官所がこれを管理したということであろう。
「愛媛の記憶」には「釜之口井堰の分水については、松山藩領主蒲生忠知の寛永九年(一六三二)すでに、村々間の差縺について(中略)記されており、一七世紀の初めころは代官所より任命された釜之口水裁許役によって分水の采配が行われ、差縫を防止していた。寛永九年の水騒動以後、水落としについて直接代官所より役人を差し向け、分水状況を見分けて裁許するよう改められたのである。
その後も各村々の間で水落としについての差縺を防ぎ、円満に分水を行うための協議がくり返され(中略)、元禄五年(一六九二)には大番落に関する細かい取り決めができた。また大番落前の諸準備をはじめ、大番落の開始時期や定法による分水方法の規定、井口番預かり番人及び井口番改役の配置などが改定された。この時の取り決めが基礎となって、文久元年(一八六一)四月の取り決めができ、その大部分が現在に及んでいる)と説明されていた。

○金毘羅街道
同じく案内にあった、3基の石碑は「金毘羅大門より二十二里の里程標」、「金比羅街道渡舟場跡」、「右こんひら道長野村中」と刻まれた道標であった。金比羅街道とは讃岐の金刀比羅宮への参詣道。松山から道後平野を進み東温市横河原で重信川を越え、川内まで進み、案内にある「中山川沿いの山間部を越え、来見(宿場町)を通り」、この釜之口渡に至るわけだが、この山間部の道筋ってどのようなルートであるのか気になりチェック。
この中山川沿いの山間部を越える道を往昔「中山越え」と称した。川内町から県道327号に沿って山間部に入り、松山自動車道と平行に進んだ県道327号が北に向かうあたりで県道を離れ、南に折れ九十九折れの道を檜峠に。そこから板屋、土谷集落へと舗装された道を南に下り、国道11号への合流の手前から再び山中に入る。中山川の左岸の山中1.5キロ程進むと中山逆調整池の脇に2本の源田桜。桜三里とも称され、江戸の頃は8500本近くもあった桜も千原鉱山の煙害で現在はこの2本を残すのみ。往昔はこの辺りから中山川を橋で越えていたとのことだが、現在は中山逆調整池の底に沈み、道は中山逆調整池の堰堤を越え国道11号に出る。
一旦国道11号に出た金比羅道は、すぐに国道の南の山裾に入り千原集落の五所神社の辺りに出る。そこから一度国道11号まで下り、下り切ったとことろをから再び山へと道を折り返し、国道11号に沿って山裾を進む。道は荒れており、現在は人が通る気配のない道である。
藪道を数キロ進み、鞍瀬川が中山川に合流する落合の手前、松山自動車道の唐子川が聳える山道を川に沿って進み、笹ヶ峠との間の鞍部を抜け、里道を来見に進み、そこから中山川に沿って下るとこの釜之口に至る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

史跡⑦ 掛井手(かけいで)
■釜之口堰から兼久の大池に向かってほぼ一直線に水路が続く。この水路のことを「掛井手(かけいで)」と呼ぶ。石積みの導水路のことである。「西条市 水の歴史館」には「掛井手(かけいで)とは、丹原町長野の末友地区にある左側の樋門から大池までの距離2.86キロメートルの水路のことをいいます。その間ほぼ一直線で幅2メートル、深さ平均2メートル(所によって約3メートル)の掘割水路を石積みで造っていましたが、昭和25年-26年の兼久の大池の樋の大改修の際に、以前より小ぶりの三方張りのコンクリート水路になりました。(中略)
掛井手の流れを見ても分かるように流れは緩やかです。大池予定地の方が高いといって反対した、古老や庄屋の意見にもうなずけるところがあります。測量技術の発達していなかった当時に、喜三左衛門の卓越した水利土木技術には目を見張るばかりです」とある。

○兼久の大池と越智喜三左衛門
なるほど、流れは穏やかである。「西条市 水の歴史館」には続けて「松山領周布・桑村両郡代官の星野七郎正直(ただなお)は、当時の釜之口用水流末の5ケ村(高松・今井・池田東西、願連寺)の水不足を補うため、貯水池を造り旱害(かんがい)に備えたいと考え、自ら池としての適地を踏査しました。 そこで天明7年(1787)11月代官の星野は、大池構築にはここが(注;兼久の大池のある場所)最適の場所であるとして藩許(松山藩の許可)を乞い、準備期間の2年間のあいだに古老や庄屋を召集し意見を求めました。
愛ノ山の麓(ふもと)に大池を造りたいという代官の星野の話を聞いた古老や庄屋たちは、一同口をそろえて、「池を造るにはもってこいの(理想的な)場所・地形であるが、大池予定地の方が中山川の水流より高い」との意見が大勢で、「中山川の釜之口から池に用水が流れていかず、疎水(そすい)の点で大いに問題があるから思いとどまったほうがいい」と難色を示しました。
これに対して水利土木に精通した大庄屋の越智喜三左衛門は、「御一同が地形の高低を議論されるのはもっともである。しかし、自分は過去数年来、この試みについての志しをもっている。釜之口辺りから土地の高低をみるに、やや下流下につく感があるから、疎水の心配には及びますまい」と自信の色を浮かべて熱心に説得をしたといいます。
その後、喜三左衛門は、測量技術の発達していない当時に、釜之口から大池予定地まで数十の提灯を配置し、高低を調べることを思いつき、村人の協力のもと、夜になるのを待って中山川の南側にある赤坂山(標高233m)へ登り、土地の高低を目測・心測するなど、およそ3ヶ月にわたって熱心に調査研究したと伝えられています。
そうして自信を得た喜三左衛門は、遂に衆議を一蹴して、断然疎水が可能であると代官の星野に進言しました。ここにおいて、代官は藩命を仰ぎ、寛政元年(1789)11月9日ついに待ちに待った藩許が下りました。同年12月7日の起工ということは間髪いれぬ速さであって、喜三左衛門がこの時を治下の農民と共にいかに待ち構えていたかが伺えます」とある。

越智喜三左衛門は劈巌透水路を掘り抜いた庄屋である。劈巌透水路が9年の歳月をかけて完成したのが元禄元年であるので、間髪を入れずこのプロジェクトに参画したことになる。

●厳島神社
長野、西長野地区の民家の間を縫うように水路は続く。掛井手(かけいで)を辿ると水路は厳島神社の境内脇を抜け先に進む。推古天皇の御宇に厳島神社の御神体が舟で中山川を逆上ってきたので、国司が現在地に奉祀したという、との縁起が残る。

●水路橋
厳島神社を越え、更に一直線に進む。県道48号とクロスする辺りでは民家の数も減り耕地が広がる。県道を越え先に進むと水路は高松川に当たり、水路橋となって川を越える。「西条市 水の歴史館」には「高松川の下を斜めに渡る石積みの暗渠は手付かずの状態でしたが、昭和29年に直径1.5メートルのコンクリート管に改修され、さらに51災(昭和51年の災害)で高松川を直角に横断するコンクリート製の水路橋に改修されています」とあった。
水路橋脇の橋を渡り、愛ノ山の山裾に沿って先に進むと、左手が開けてくる。兼久の大池はその先にあった。

史跡⑧ 兼久の大池
■松山藩代官星野七郎正直の「周布郡高松村新成池塘記」によると、寛政元年(1789)2月9日藩許を得、同年12月7日に起工、着工後わずか1年5ヶ月の寛政3年(1791)4月に完成 。
功役(人夫)85,000有余、新築堤防220間、池の周囲850間、池内蓄水18800坪(約70万立法メートル)と記されている大規模なものである。 造成決定前には、遥か南の中山川の釜之口より導水するため、水位の高低を巡り反対意見もあったが、来見村の庄屋越智喜三左衛門が夜間提燈を配列して高低を調査、疎水の可能を主張し、池の造成を決定したとつたえられる。
釜之口からの距離2860m、その間、ほぼ一直線に幅2m、深さ2mの掘割水路をつくり、全部石積みとした。受益面積は約500町歩(500ヘクタール)である(「丹原町の文化財」より)。

大池の堤防に立つ。休憩所などが整備されている。脇にあった案内には「寛政元年(1789)11月着工、時代の代官星野直正によって同3年4月完成した。池の内池とも呼ばれて面積11町7反(1170アール)、貯水量46万トン、道前第一の大池である。その受益面積は高松、今井、池田、願連寺、周布の約500町歩(500ヘクタール)におよぶ水源を釜之口に求めているが、この水路の掛井手を完成させたのは来見の庄屋越智喜佐衛門である。
測量技術の開けておらない当時に、夜提灯を配置して土地の高低、寺尾の赤坂山から目測するなど3カ月かけて調査研究、自信をもってこの断行の推進となったと伝えられる。
現在は石積みかコンクリート水路に改修され、大池は道前平野土地改良区の管理のもと、笠方ダム(注;面河ダムのこと)の調整池として有効に使用されている(平成6年 丹原文化協会)」とあった。

兼久の大池は道前平野第一の大池とのこと。 「西条 水の歴史」によれば、丹原地区や小松地区、東予地区の住民は、谷川の表流水や河川の伏流水を生活用水とし、またかんがい用水としても古くから利用してきました。
安定的なかんがい用水を確保するために、江戸時代中期ごろからため池の築造がはじまり、大正時代まで続いています。現在でも、丹原地区55ヶ所、小松地区29ヶ所、東予地区39ヶ所、西条地区70ヶ所のため池が活躍をしています。ほとんどのため池が、現在も道前平野土地改良区の「かんがい用水の調整池」として使われています」とあった。
先日四国霊場散歩の折、札所60番の横峰寺への途中に見かけた「大谷池」も明治に造られたものではあるが、その水は道前平野土地改良区の「かんがい用水の調整池」として両岸分水工で別れた「右岸幹線」の水が供給されていた。

多くは自然・地形の特徴を生かした「ため池」ではあろうが、兼久の大池は人工的に造られたため池である。上でメモしたように、松山領周布・桑村両郡代官の星野七郎正直(ただなお)は、当時の釜之口用水流末の5ケ村(高松・今井・池田東西、願連寺)の水不足を補うため、貯水池を造り旱害(かんがい)に備えたいと考え、自ら池としての適地を踏査し、その結果最適と考えた予定地を、後方二面を愛ノ山(198.4m)に囲まれ、南境には高松川が貫流し、おおよそ三角形のくぼ地で、一部凹湿地もあり、そのほとんどは田地であったこの地とした。
「西条 水の歴史」によれば、「工事起工後は治下の農民と力をあわせ池造りに励み、機械力のない時代の大工事であったにもかかわらず、着工後1年4ヶ月余りの突貫工事を行い寛政3年(1791)4月15日に完成しました。
『大池池塘記』(おおいけちとうき)には「課するに農隙(のうげき=農作業の合間)を以ってし日事を妨ぐるなし」と記されていますが、それは治者(ちしゃ)側の理想であって、実際には賦役督励(ふえきとくれい)がかなり厳しかったようで、またそのような言い伝えもたくさん残っているようです。
延べ人数85,805人8分で、463日間でこの工事が完成していますが、この間には農繁期(田植えや稲刈り約80日)や、雨の日や嵐の日(愛媛県の降雨日年間平均約100日)もあったということからすれば、実工事日数はおおよそ278日くらいであったと思われます。すなわち1日の平均出動賦役人数は約300人くらいであったということが想像出来ます」とある。

○兼久の大池と高松川
ところで、兼久の大池の地を池建設の適地とした理由として「後方二面を愛ノ山(198.4m)に囲まれ、南境には高松川が貫流し」とある。なるほど地形図を見るとその通りではあるが、愛ノ山が独立丘陵として高縄山地から切り離れており、山地と南北に開かれた愛ノ山の谷合には川根の集落があり、その谷間を高松川は南に下り愛ノ山をぐるりと取り巻き、北へと向かう。一方、同じ南北に開かれた谷合にある川根の集落からは北に向かう水流があり、その水流は愛ノ山の北東部で合流している。なんとなく「ノイズ」を感じチェックすると、「西条 水の歴史」に「丹原地区では、元和2年(1616)の中山川の決壊で民家・田野上方の寺院(道満寺)の流失、川根谷の出水で高松川の流路変更」といった記述があった。
どのように流路が変更したのか定かではないが、普通に考えれば、高松川は、元は北へと流れていたように思える。もしそうであれば、兼久の大池は池建設の立地として選ばれていたのだろうか?どうでもいいことではあるがちょっと気になる。

○兼久の大池築造後の越智喜三左衛門
兼久の大池を完成させた越智喜三左衛門はその後謎の死を遂げている。「西条 水の歴史」によれば、兼久の大池築造にまつわる哀しい歴史として、古老の間に伝える口碑(こうひ)では、大池の落成式の祝いは丹原町北田野の願成寺(がんじょうじ)で盛大に執り行われ、喜三左衛門は帰途の石経河原(いしきょうがわら)で何者かによって刺殺されたという説があります。
また、一説では落成式ではなく、代官所からの帰途、疲れを覚えたので、現在の丹原町田野小学校前の大松の下にあった茶屋で憩い、そのとき勧められたお茶に毒が入っていたため、帰宅すると同時に絶命したともいわれています。越智喜三左衛門の墓碑には寛政9年巳6月3日と没年が記されているため、兼久の大池完成から6年を経過していることになります。したがって、落成式の帰途の刺殺は誤って伝えられたものであり、越智家においては毒殺説が伝わっているといいます。
原因は、水路構築の際の地所(じしょ=土地)の取り扱いに対する怨恨(えんこん)だともいい、また喜三左衛門の成功を妬(ねた)んでの所為(しょい=しわざ)ともいわれていますが、いずれにしても喜三左衛門の不屈の功績を讃え、死を惜しむ人々の哀情(あいじょう)に発した伝説であると思われます。喜三左衛門の村人を思う熱い心は、200年以上たった今でも村人の心の中に残っています」とのことである。

今までの史跡は場所などは特定できていたが、これからの史跡は「丹原町の文化財」に掲載されている史跡名、説明、写真以外に手掛かりがない。とりあえず記載されている地区に向かって後は成り行き、運任せの「宝探し」である。

史跡⑨ 高松の横井
■高松地区には、横井(「よこいど」とよむ)特殊水源が3本ある。水源は高松地区の西方およそ1キロ余りの芦ヶ谷池跡およびその付近50mから100mほど離れた地点で、石積み、または土管を用いた暗渠で、そのうち2本は、すぐそばを流れる高松川の川底を横断している。
横井は旱魃の時にも涸渇することなく、飲料水はもちろん、灌漑用水としても重要な役割を果たしている。
竣工の年月は詳らかではないが、施工者は高松村に入庄屋として定住した千原村庄屋黒河丈左衛門といわれる。丈左衛門の墓が山本庵の境内にあり、天保14年(1843)没と刻まれている。
横井の完成は文政(1818-1829)の終わりか、天保のはじめの頃と推測される。第三水門が最も新しい(「丹原町の文化財」より)。

次の目的地は「高松の横井」。「丹原町の文化財」の記述の中にある、「山本庵」、写真の横にあるイラストで高松川が大きくカーブし、その角に神社がある、といった手掛かりをもとにチェックするに、兼久の大池の前を流れる高松川が愛ノ山を大きく迂回しカーブする辺りに八雲神社があり、また山本庵があった。高松の横井の場所は特定できないが、とりあえず八雲神社へと向かう。 八雲神社の鳥居から少し左手の空き地に車を停めまずは八雲神社にお参り。

●八雲神社
古き趣のある参門を抜け、竹林に囲まれた石段を上り拝殿にお参り。祭神は素盞鳴尊(すさのをのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)、大己貴命(おほなむちのみこと)。神社の由緒には、往古より郷土の神として斎祀され、たまたま八坂神社の神領の地となったので祇園別宮となり神領圏を広げたが、徳川期になって産土神となり領主の護持を得て明治4年村社に列格する、とあった。八雲とは、素盞鳴尊、稲田姫命を娶り、須賀の地に居を求め、そこで雲の立つを見て詠んだ「八雲立つ 出雲八重垣  妻籠みに その八重垣 つくる その八重垣 を」からだろう。

社へのお参りを終え「横井」探しを始める。八雲神社の鳥居の脇に暗渠があり、激しい水量の音が響く。この水路が高松川の川底を横断したものか、単に高松川から取水した水なのか、近辺を彷徨うも、よくわからない。
それではと、イラストにあった水路が描かれている山本庵に向かう。社から高松川まで戻り、橋を右に見ながら川沿いの道を進むと消防団のポンプ蔵置場で道が3つに分かれる。

●第三横井
で、その分岐点の手前右側に神社の幟を建てる石柱があり、何気なくその傍を通り過ぎるとき、その下を見ると石組みの水場が見えた。その姿が「丹原町の文化財」に掲載されている「第三横井」と似ている。「ためつすがめつ」チェックするに、確かに「第三横井」であった。偶然の出合いに感謝。「第三横井」をゲットした後、消防団のポンプ蔵置場左の道を進み山本庵に。庵のあたりの水路には結構多い水が流れていた。
あてどもなく高松の集落を彷徨うが、これといって横井らしきものに当たらない。それではと水源を求め「芦ヶ谷池跡」へと思うのだが、地元の人にお聞きしてもはっきりしない。また「芦ヶ谷」の方向は高松川の上流部方向と教えてくれたが、それは高松地区の北といった方向であり、「丹原の文化財」にある「西方およそ1キロ余り」と方向が異なる。

それではと、「丹原の文化財」のイラストに遭った水路が高松川の川底を横断している高松川右岸の2ヵ所辺りを探す。橋を渡り、右に折れそれらしき構造物を探す。と、右岸を橋から少し上流に進み、高松川に沿い北に向かうと、南、そして西へと向かう道の3方向に分岐するところに分水口らしきものがあり、勢いのある水音が響く。そしてそこから川岸に進んだところで一瞬開渠となり、そこにある管に水が流れ込む。
これが高松川の川底を横断する口かとも思ったのだが、高松川に水が注がれており、その水が川を横断する用水の余水なのか、単に排水しているだけなのか素人には判断できない。ということで、もうこれ以上の詮索は困難かと、第三横井をゲットしたことで良しとして、高松の横井探しを終えることにする。


次は古田(こた)の水路。古田地区は広く、「丹原町の史跡」から大体の場所を推測するに、「区画整理のため、部落に幅8尺(2.4m)の幹線道路をつくり」とあるので、google mapで古田地区にある区画整理された集落を探すと、名刹西山興隆寺の東に山麓の傾斜地にそれらしき集落が見える。確証はないが、この集落ではないかと西山興隆寺を目指す。
高縄山地と愛ノ山を分ける川根の谷を抜ける県道151号を北に進み、西山興隆寺への案内を左に折れ、坂を上り西山興隆寺に。

史跡⑩ 西山興隆寺
■利水施史跡ではないが、ついでのことであるので、古刹をお参りすることに。駐車場に車を置き、山門をくぐり参道を進む。参道脇の千年株をみやりながら長い階段を上り、城様式で組まれた石垣を見ながら最後の石段を上り本堂にお参り。境内に沢が流れる広大なお寺さまである。
Wikipediaによれば、「西山興隆寺(にしやまこうりゅうじ)は、真言宗醍醐派の別格本山。山号は仏法山。仏法山仏眼院興隆寺と称する。本尊は千手千眼観世音菩薩。紅葉が有名で、紅葉の名所である「西山」を付して「西山興隆寺」と呼ばれている。四国別格二十霊場第十番札所、四国三十六不動尊第八番札所、四国七福神(えびす)。
創建の経緯は定かでない。寺伝によれば、皇極天皇元年(642年)に空鉢上人によって創建されたといい、その後報恩大師、空海(弘法大師)が入山し、桓武天皇の勅願寺ともなったという。源頼朝、河野氏、歴代の松山藩主、小松藩主をはじめとする地元の有力者の尊崇を得て護持されてきた。現在では、真言宗醍醐派の別格本山となっている。
興隆寺は、多数の国・県・市指定文化財を有しているが、本堂 (寄棟造、銅板葺き。文中4年(1375年)の建立。寄棟造であるが、大棟が著しく短いため、宝形造のように見える)、宝篋印塔、銅鐘は重要文化財(国指定)に指定されている」とあった。

史跡⑪ 古田の水路
■文化2年(1895)大火後、芥川源吾は画期的な防災対策として、水路をつくった。区画整理のため、部落に幅8尺(2.4m)の幹線道路をつくり、村のかみに新池を築造し上池と称し、平時は灌漑用水に、非常の時は用心水に利用することとし、上池と谷川に連絡する水路を各道路に沿って開削し、各戸に用心水を溜める1坪くらいの小池をつくった。
現在も水は常時流れているが、上水道・消火栓ができ、昔の面影は薄れている。 古田庵には、「供養永世念佛宝塔」があり、また、「古田大火災150年忌供養塔」を昭和37年建立し、先人の業績を讃えている(「丹原町の史跡」より)。

●上池
西山興隆寺でのお参りを済ませ、「古田の水路」探しを始める。「丹原町の史跡」によれば、「村のかみに新池を築造し上池と称し」とある。Google Mapでチェックすると、集落の最上部に池が見える。確証はないが、そこが上池と想定し、そこに車を停め、そこから「平時は灌漑用水に、非常の時は用心水に利用する」水路を探し集落へと下ってゆく。
区画整理された集落には斜面を下る数筋の道と、その道と直角に交差する道が整備されており、道筋に沿ってかすかな水路が残る。この溝が古田の水路かどうか全く確信はないのだが、集落を彷徨っていると、「丹原町の文化財」に記載された「古田庵」があり、また「丹原町の文化財」に掲載された「古田の水路」と同じ写真の民家石垣に出合い、やっと。ここが「古田の水路」であると判明し一安心。

●古田の集落
「愛媛の記憶」によれば、「古田の集落:丹原町の古田は壬生川に注ぐ新川の一支流が山麓ぞいに形成する扇状地上に立地する集落である。この小扇状地は傾斜が急で、扇頂で一四〇m、扇端で五〇mで、この間は距離にして七五〇mである。古田の住民は第二次大戦前には池田の北の三軒屋付近まで耕作に行く者も多かったが、米・麦などの収穫物を馬や荷車で運びあげるのは難渋したといわれている。
古田の集落は西山興隆寺の門前町であったというが、現在の集落にその面影は見られない。集落は、急斜面の扇状地面に、扇頂から扇端に三列の道路が走り、その道路にそって家屋が整然と並んでいる(写真2―24)。この整然とした集落は文化二年(一八〇五)の大火の後に計画的に設定された集落であると伝えられる。古田の集落は文化二年二月一日、おりからの西風にあおられて、母屋八六戸、納屋等の附属建物を合わせると、総計一三〇余棟を全焼し、集落内の三分の二が灰儘に帰したという。このような大火が発生したのは、一つには扇状地に立地する水不足の集落の悲劇であったといえる。
村の復興は当時の庄屋芥川源吾が、松山藩主に直訴し、藩の助力を得てなしとげたという。集落内には三筋の大道を貫通し、その道路に沿って防火用水路をめぐらし、その水源として扇頂部に池を構築した。火災に際しては池の樋を抜くと、一度に三筋の水路に水が流れ、防火に役立つように設計されていた。また各戸は道路に面しては空地とし、家屋はいずれも宅地の西側に寄せて建てられていたが、これも防火への備えであった。さらに各家の門口には防火用水を満たす「掘」がみられ、防火には細心の注意が払われていた。また、大火後の家屋の再建にあたっては、興隆寺の光憧上人が寺領の木材三〇一本を提供したと伝える。

現在、古田の集落を訪ねると、往時の姿はそのまま残されている。ただ防火用水をはっていた各農家の「掘」は、近年次第に埋め立てられ、その残象をとどめるものは八個にすぎない。この集落では飲料水は井戸水に頼り、各戸井戸を掘削していた。その深さは、扇頂に近い方では三m程度、集落の下手の方では五m程度であったので、飲料水源として井戸を掘削することは、それほど困難ではなかったと思われる。洗濯場は水路の末端や集落から離れた灌漑水路ぞいにあり、汚物などはそこで洗い、集落内の環境衛生に留意することが義務づけられていた」とあった。

場所の特定できない利水史跡も一応ゲットできた。後は堀割隧道など少々難物が控えているが、運を天に任せて次回も進むことにする。






日曜日, 4月 13, 2014

伊予・丹原散歩 そのⅠ;丹原の利水史跡を辿る

西条市丹原町、私には周桑郡丹原町といったほうがしっくりくるのだが、2004年(平成16年)近隣の東予市、小松町とともに西条市に合併した丹原の利水史跡を辿ることにした。
きっかけ、ほんの偶然のこと。前職のすべての役職を退任し、この一年、毎月10日ほど田舎に戻り母親の話し相手をしているわけだが、時間を見付けては四国霊場を辿ったり、沢登り(一の谷)をしたり、銅山川疏水()といった用水路の隧道や水路探しを楽しんでいる。で、今回もどこか面白いところはないかと実家のある新居浜市の市立図書館を訪れ、あれこれ資料を探していると、「丹原町の文化財(丹原町教育委員会)」という小冊子が目に入り、ページをめくっていると、幾多の文化財の中に、劈巌透水路とか志川堀抜隧道、そして関屋切抜水道といった利水史跡が目に入った。
利水史跡の数は10カ所ほど。地区名と史跡名、史跡の写真、それとその史跡の簡単な説明だけであり、詳しい場所などどこにも記載されてはいない。これでは手掛かりとしては余りに心許ないとWEBでチェックすると、有名な史跡の数箇所はなんとか場所の特定はできたのだが、そのほかは地区名と写真、説明文以外まったく手掛かりはない。が、行けばなんとかなるだろうと、いつものようにお気楽に丹原利水史跡散歩にでかけることにした。

散歩とは言いながら、今回は地域も広く、また、交通の便などあるわけもなく、車で近くまで行き、目的地を探し出し、ピストンで戻り次に進む、といった段取りとした。ルートは、とりあえず場所のわかる利水史跡からはじめ、その後は、運を天に任せた成り行き散歩。地形を読んで目的地を予測したり、地形から感じるなんらかの「ノイズ」をもとに史跡を辿り当てたり、勘を頼りに進んだり、運を味方につけ目的地をゲットしたりと、宝探しのような「散歩」を楽しんだ。



丹原利水史跡散歩
第一回;史跡①劈巌透水路>史跡②中山川水菅橋>史跡③衝上断層>史跡④両岸分水工>史跡⑤志川堀抜隧道
第二回;史跡⑥釜之口井堰>史跡⑦掛井手(かけいで)>史跡⑧兼久の大池>史跡⑨高松の横井史跡>⑩西山興隆寺史跡>⑪古田の水路
第三回;史跡⑫関屋切抜水道>史跡⑬関屋川の堰堤>史跡⑬関屋川の堰堤>史跡⑭庄屋井手>史跡⑮中山川逆調整池>史跡⑯大頭(井)堰
(なお、史跡②中山川水菅橋、史跡④両岸分水工、史跡⑬関屋川の堰堤、史跡⑮中山川逆調整池、史跡⑯大頭(井)堰は「丹原町の史跡」に指定されているものではなく、個人の興味・関心より便宜的に史跡と表記した。また史跡⑯大頭(井)堰は丹原ではなく小松地区でもある)


本日のルート;史跡① 劈巌透水路 (へきがんとうすいろ)>4番隧道入口・3番隧道出口>中山川からの取水口>4番隧道出口>史跡②中山川水菅橋>>史跡③衝上断層>史跡④両岸分水工>史跡⑤志川堀抜隧道>上の段水路>上の段水路取水口>下の段水路・取水口>下段水路隧道入口>上の段水路隧道入口>上・下の段隧道出口へ>上の段隧道出口>下の段隧道出口

道前平野
散歩は場所のはっきりわかる「劈巌透水路 (へきがんとうすいろ)」と志「川(しかわ)堀抜隧道」からはじめる。どちらも国道11号を進み、中山川が四国山地と高縄山地に挟まれた狭隘部から、周桑平野へと流れ出す湯谷口辺りにある。まずは劈巌透水路へと国道11号を進み、湯谷口交差点へと向かう。
新居浜から西条へと進む。国道左手は石鎚山などの四国山地、右手は瀬戸内海まで一面平坦な西条平野、はるか前方には高縄山地が聳え行く手を遮る。小松町まで進むと左手の四国山地は東西に繋がるが、右手の周桑平野は東を瀬戸内に、西は南西方向へと「斜め」に山地を連ねる高縄山地によって三角形の姿を呈する。更に丹原町へと近づくと、その高縄山地に接する周桑平野は、高縄山地から緩やかな傾斜をもって形成される姿が見えてくる。
西条平野と周桑平野を道前平野と称する。「愛媛県生涯学習センター 生涯学習情報システム 愛媛の記憶(注;以下「愛媛の記憶」)」によれば道前平野を「周桑・西条平野の地形 中山川や大明神川などによって運ばれた土砂が堆積してできた周桑平野と、加茂川や室川の運搬した土砂が堆積してできた西条平野とが連続して一つの平野を形成したのが県内で第二位の面積をもつ周桑・西条(道前)平野である。東西約二〇㎞、南北約三・五㎞(東縁)~一三㎞(西縁)のひろがりをもち、西部の周桑平野はほぼ正三角形、東部の西条平野は扁平な台形を示している。
周桑平野は扇状地の発達が良好で、平野の南部を流れる中山川ばかりでなく、大明神川や中山川の支流である関屋川によっても典型的な扇状地が形成されている。扇状地を流れる河川は一般に荒れ川で、人々は洪水を防ぐため古くから堤防を築いてきた。その結果、堤防によってはさまれた河床には上流から運ばれてきた砂礫が厚く堆積し、河床が次第に上昇して天井川が形成される。周桑平野の大明神川では天井川化か特に箸しく、ここを通過する予讃線は河床の下をトンネルでくぐりぬけている。これに対して、西条平野では扇状地の規模は小さく古くから湿田地帯が広く分布している。
 両平野とも地下水が豊富で、特に西条市の市街地では地下水の自噴がみられる。また、海岸部は遠浅で、江戸時代から干拓による新田開発が進められてきたが、最近は埋め立てにより工業用地の造成がおこなわれている。」と描く。昔、予讃線が壬生川の辺りで天井川の下を潜っていたように記憶する。現在はどうなっているのだろう。ついでのことでもあるので、周桑平野の形成に大きな役割を果たした中山川のことをまとめておく。

中山川
「西条市;水の歴史館」によれば、「中山川は道前平野を代表する河川で、東西に貫流しています。石鎚山系の青滝山(あおたきさん)の北方を源流として国道11号線に沿い、千原(ちはら)を経て鞍瀬川(くらせがわ)と合流します。鞍瀬川は堂ヶ森に発し、鞍瀬渓谷の絶景となって落合に出る最大の支流です。落合からは、また、中山川渓谷を形成しながら里に出てきたところで、天ヶ峠(てんがとう)に発する志河川(しこがわ)と、北方高縄山系より表流水のない関屋川(せきやがわ)を入れ、安井谷川・妙谷川(みょうのたにがわ)・都谷川(みやこたにがわ)と合流し、東予地区との境界を形成しながら東流していきます。さらに下流域では、大日川が氷見石岡新開(ひみいわおかしんかい)で合流し、禎瑞(ていずい)に至って燧灘(ひうちなだ)に注いでいます。流路延長は約23km、鞍瀬川や関屋川など21本の支流があり、流域面積は約196km2あります」、とある。
また、「愛媛の記憶」には、「中山川は周桑平野を貫流する第一の河川で、谷口の湯谷口七〇mを頂点とするほぼ三角形の輪郭をもつ沖積平野を形成する。平野の南西隅から東北東方向へ、中山川が貫流し、平野中央の大部分はその堆積物によって形成され、東縁部は北西流して加茂川と複合デルタを形成する。 中央部の中山川流域の低地は、湯谷口を頂点に平野間に大きく扇形に広がる氾濫原をつくり、臨海低地の背後では海技○~一・五mである。現在の河道は海抜一〇~二〇m付近で周辺より、やや高い砂州のうちを流れるが、その上流はやや嵌入傾向を示し、おおむね扇状地性砂傑質氾濫原として性格づげられる。河道跡は相対的凹所となって、平地内に条状のパターンを示して分散し、直線状乱流趾を呈しやや湿地性がある」と描かれる。

史跡① 劈巌透水路 (へきがんとうすいろ)
■「中川渓谷の左岸の岩壁貫いた通水路。安永9年(1780)、時の来見村の大庄屋越智喜三左衛門(おちきさざえもん)(1743-1797)によって起工され、自らのみ握り岩を削り、9ケ年の歳月をかけ、寛政元年(1789)に完成したと伝えられる(「丹原町の文化財」より)。

最初の目的地として進んでいる劈巌透水路のある湯谷口は、上で「中山川が四国山地と高縄山地に挟まれた狭隘部から周桑平野へと流れ出す湯谷口辺り」とメモしたように、「正三角形」の形を示す周桑平野の頂点として、燧灘に向かって拡がる扇の要といった場所である。
劈巌透水路に冠する情報は数多くWEBに掲載されており、場所は迷うことはない。国道11号を松山方面に湯谷口交差点を越えてほどなく、国道が左にカーブする辺りから、右手に分岐する県道327に入り、少し下って趣のある「来見(くるみ)橋」を渡る。その来見橋を渡ると左手に「劈巌透水碑」。右手の川側にも「劈巌透水路」の石碑がある。
来見の由来は「喜多留水社と呼ぶ神社があり、喜多留を来とし、水を見として「くるみ」と呼ぶようになったと角川地名大辞典にあった。また、「劈巌透水碑」の上に「道前渓温泉」がある。湯谷口の名前の由来だろうか。

「劈巌透水碑」の傍に「劈巌透水」の案内;「伊予の青の洞門」としてその業績を讃えられている劈巌透水は安永九年(1780)時の来見村の庄屋越智喜三左衛門よって起工され、私財を投じ、自身ものみを振るい岩を削り、9ヶ年の歳月をかけて、長さ12間(21.6メートル)の井堰と20間(36メートル)の隧道及び96間(172.8メートル)の岩石堀割水路を設け、寛政元年(1789年)完成したと伝えられている。
その後、明治19年(1886年)と大正2年(1913年)に喜三左衛門の後裔で当時の中川村長越智茂登太翁が大改修を実施し、美田30町歩を潤す水路を完成させた。記念碑は、大正9年(1920年)5月に願成寺(大字北田野)の鳳快洲和尚が、来見村耕作組合員に請われて文を撰し書写した。
喜三左衛門が農民の灌漑用水の不足による窮状を見かねて起工し、苦労の末に完成した堰提が、風雨によって決壊し、その修復工事の苦労と農民の喜びを託し、さらに茂登太翁の農民を思い、村を愛する熱情によって二度にわたる大改修により、大いに水利の便を得たことが述べられている」とあった。

「西条市水の歴史館」の資料によると、この碑は「大正9年(1920)5月に来見耕作組合員により越智喜三左衛門の業績を後世に伝えるため、来見橋のたもとの西に建立された」とあり、「劈巌透水」の由来は喜三左衛門翁の戒名である「寿仙院劈巌透水居士」に拠る、とのことである。

劈巌透水路へ
「劈巌透水路」への降り口は、右手川側の「劈巌透水路」の石碑の先に「劈巌透水入口」の案内がありすぐわかる。崖道を慎重に下りる。

「←三番隧道出口 四番隧道入口」の案内に従って下ると、河床の巨大な岩盤の上に下りる。

4番隧道入口・3番隧道出口
足元を見ると岩石を打割った水路、そしてその南北に隧道が見える。北は4番隧道入口、南は3番隧道出口とのこと。

中山川からの取水口へ
とりあえず中山川からの取水口へと向かう。岩盤を乗り越え3番隧道入口、堀割水路、2番隧道出口、岩盤、2番隧道入口、堀割水路、1番隧道出口、岩盤、1番隧道入口、堀割水路と進む。
2番隧道出口から2番隧道入口に向かう時だったと思うのだが、一枚岩の岩盤があり、手掛かり・足掛かりもなく数メートルをずり落ちることになりながら、ともあれ1番隧道入口から堀割水路を辿り中山川からの取水口(劈巌透水路灌漑用水取入れ口)まで進む。

来見堰
この取水口は、来見村(現丹原町)の水田30ヘクタールを潤す来見堰があったところ、と言う。しかし、中山川は深い浸食谷のため、取水の便が悪く、来見の農民は灌漑用水の不足に苦悩した(「愛媛の記憶」)、と言う。この来見堰をつくったもの来見村の灌漑用水の不足を見かねた喜三左衛門とのことではあるが、「来見本田のかんがい用水は来見(くるみ)堰で中山川の水を取水していましたが、不完全で水不足に困っていたのを喜三左衛門がこれを嘆き、松山藩へ再三にわたり修繕改築工事を願い出ましたが許可にならず、ついに居宅や田畑を売り、その私財をもって工事に取りかかりました。
自身もノミを握り、槌を振るい隧道(ずいどう=トンネル)を造りました。中央構造線の大断層のど真ん中に隧道を抜くという難工事のため岩盤を砕き続けること9年間、気の遠くなるような苦労を重ね(「西条市水の歴史館」)」、寛政元年(1789年)に劈巌透水路を完成させた。

○劈巌透水路の改良・延長の歴史
喜三左衛門翁により完成した劈巌透水路であるが、その後も水路の改良・延長工事が実施されている。「西条市水の歴史館」によれば、「その後、出水の度に堰が破壊されたため、喜三左衛門の子孫で当時の中川村村長の越智茂登太(おちもとだ)らの主唱によって、明治19年(1886)に総工費600円(主なる地主の頼母子講による)で水路切り下げと隧道5間(約9メートル)の増築工事を行いました。




さらに大正12年(1923)に総工費800円(県補助水利組合費を之に当てる)で大亀又蔵へ工事を依頼し、根本的な改修を試み井堰の補強と、岩石打割水路(がんせきうちわりすいろ)60間(約108メートル)を中山川左岸上流へ増築し、井堰を現在の位置に改めました。この工事以降、平成16年(2004)の度重なる集中豪雨で使用不能となるまでの80年余り水路の破壊はなく、来見本田の30町歩(30ha)を潤していました」、とある。

大雑把にそれぞれ時期の水路区間を示すと、寛政の喜三左衛門が完成させた区間は南端は3番隧道辺りまで、明治の越智茂登太が施工した区間は1番隧道あたりまで(現在の松山自動車道辺りまで)、大正の区間はその先、現在の取水口までの堀割水路が比定される。また、劈巌透水路が出来る前までの取水口であった来見堰は現在の取水口辺りとのことであるが、そこからの用水路がどのようなものであったのかチェックするも資料が見あたらなかった。

越智茂登太
「西条市水の歴史館」によれば、「明治に巌透水路の改良・延長工事に尽力(大正の改良・延長事業にも貢献)した越智茂登太翁は、明治26年(1893)から48年間もの間中川村村長を務め、約1,000ヘクタールの村有林造林、周桑銀行の創立、周桑電気株式会社の設立など村民の生活向上に貢献。
多くの業績の中でも千羽ヶ獄(せんばがだけ)にあった千原鉱山の鉱害解決は、地方の小村が急速な近代化の悪影響に対峙したケースとして記録される、 千原鉱山の煙害が問題になったのは明治37年(1904)。煙害の被害地域3ヶ村(桜樹村・中川村・石根村)が団結し、国、県、鉱山側とねばり強い交渉を続けた結果、大正3年(1914)千原鉱山は製錬を中止した。
同時期に別子銅山四坂島精錬所の煙害も発生し、周桑郡の14町村が煙害調査会(会長:一色耕平壬生川町長)を発足させ、茂登太も委員として奔走した」と言う。
丁度『伊庭貞剛物語;住友近代化の柱;木本正次(朝日ソノラマ)』を読んでおり、四坂島精錬所の煙害が周桑に与えた影響をはじめて知った時でもあったので、身近に感じる。

越智喜三左衛門と兼久の大池
巌透水路を完成させた喜三左衛門翁は、この後訪れる予定の「兼久の大池」の築造にも貢献している。喜三左衛門翁は寛政9年(1797)6月3日に54歳で死去している。その死はいまだにミステリーに包まれている、と。そのことは後ほど「兼久の大池」のところでメモする。

劈巌透水路4番隧道出口
取水口で往時を偲び、ちょっと休憩の後、元に戻る。堀割水路を辿り1番隧道入口・出口を越え、2番隧道入口から2番隧道出口へと向かうに、往路は滑り下りた、というか落ちた一枚岩の岩壁に張り付くも、手掛かり・足掛かりが見あたらず、数回トライするも滑り落ちるだけ。左手の崖を大きく高巻きするか、一枚岩のすぐ隣の、これも結構な巨岩なのだが、それに取り付き這い上がるか少々考える。
で、結局は岩場にちょっとした手掛かり・足掛かりをみつけ、なんとかクリアし、「4番隧道入口、南は3番隧道出口」の間の堀割水路まで戻る。次いで、残りの4番隧道出口へと向かうが、来見橋を挟んで向こう側にある4番隧道出口には岩壁がきびしく、川に沿っては先に進めそうもない。で、道路に戻り、橋の向こうから出口を探すことにする。


道路に戻り、来見橋を越え、右手の川筋を注意しながら歩くと道から一団低いブッシュの中にかすかに水路らしきものが見える。成り行きで進むと水路へと入れそうな場所があり、ブッシュに入ると水路が流れていた。その水路を藪漕ぎしながら来見橋方向へと辿ると4号隧道出口があった。位置は入口より少し高いような気もする。サイフォンなのだろうか。
4号隧道出口を探しだし、次いで里まで辿る。ほどなく水路が大きな庭に大木のある民家の辺りで一瞬暗渠となり、そのすぐ先で水路が現れ、そこに分水口らしきものがあり、そこから里へと下ってゆく。劈巌透水路散歩はここで終える。




史跡②中山川水管橋
劈巌透水路を辿った分水口らしき構造物の右横に水色にペイントされた人道橋が見える。そして、よくみると、その人道橋の下に水管が通っている。橋の傍に案内があり、「中山川水管橋の概要 中山川水管橋は、志河(しこ)川ダムから西条市へ農業用水を供給する施設です。この施設は、衝上断層を観察できるよう西条市との共同作業により水管橋の歩道を拡幅しています。 その案内には中山川水管橋の位置づけを明確にするために「道前道後平野農業利水事業の概要」と「衝上断層」の案内もあった。

○道前道後平野農業利水事業の概要
案内によれば、「道前道後平野は瀬戸内海に面し雨量の少ない地方にあるため河川の流量が少なく、たびたび干魃の被害を受けてきました。このため、昭和32年から10年かけて面河ダムや道前道後平野に水を送る施設を国(農林水産省)がつくりました。そして、現在は古くなった施設の改修を終え、新たな水需要に対応するため、東温市に佐古ダム、西条市丹原町に志河川ダムをつくり、より安定した農業がおこなわれるようになっている」とある。

この説明だけでは今ひとつこの水管橋と「道前道後平野農業利水事業」との関係がよくわからない。チェックすると、「西条 水の歴史館」に「面河ダムに貯留された水は隧道を通り中山川の逆調整池まで流下し、逆調整池で道前平野側と道後平野側に分水される。道前平野側では逆調整池で放水され、中山川を流下した面河ダム用水を、中山川取水堰から取り入れた後、両岸分水工で右岸幹線水路と、左岸幹線水路に分水しています。逆調整池で放水され、中山川を流下した面河ダム用水を、中山川取水堰から取り入れた後、両岸分水工で右岸幹線水路と、左岸幹線水路に分水しています。
一方道後平野側では逆調整池に設置されている千原取水塔より取水し、隧道を通り、南北分水口で北部幹線水路と南部幹線水路にそれぞれ分水されています」と事業概要の全体の説明があった。
更に、その説明に続けて、古くなった施設や社会の水需要の拡大に対応するため実施された国営道前道後平野 土地改良事業(2期事業)の根幹をなす事業として「国営道前道後平野 土地改良事業(2期事業)の根幹をなす施設は、西条市丹原町志川の中山川水系志河川に建設された志河川ダムであり、平成16年度に本体工事に着手し、平成22年度に完成しました。(中略)志河川ダムに貯留された水は、中山川を横断する水管橋を通り、両岸分水 口(西条市丹原町来見)に放出され、河北地区(旧東予市三芳地区)の新規かんがい用水と、河北地区を含めた道前平野地区(旧事業の受益地)の裏作用水(10月7日~6月5日)として使用されています」とあった。

ということは、この中山川水管橋をとおし志河川ダムから送水される水は「東西分水工」に送られ、その場所は「丹原町来見」とある。この近くではあろうと思うので、案内にあった「衝上断層」を見た後で、その場所に向かうことにする。
因みに「逆調整池」って気になってチェックすると、「ダムの上流に水力発電所がある場合、昼間と夜間の電力需要が著しく異なるため、昼間の流下水量と夜間それが大きく異なる。ために、下流への流下水量を調整し一定の水量を下流に流すためつくられるダムや堰堤のことを意味するようである。では「正調整って?」とは思うけれど、ここではこれ以上考えることを止めにする。

史跡③ 衝上断層(しょうじょうだんそう=つきあげだんそう)
■中川渓谷の北見橋下流に露出しいている断層。数千年万前の地殻変動によってできた中央構造線の逆断層である。雲母片岩(黒色)のうえに和泉砂岩(赤色)が押し上げられたものであり、走行北50度西、傾斜北東40度。県下では砥部町、西条市市之川、小松町、丹原町志河川(しこがわ)等に露出度が見られる。地質学上貴重な資料である(「丹原町の文化財」より;中山川脇の説明も同じ)。

利水の史跡ではないが、丹原の史跡として知られる衝上断層を見るため、中山川水管橋から来見橋まで戻る。橋から下流左岸を見ると、いかにもそれらしき地層が見える。近くから見てみようと橋の右岸から下り口を探し、川床に。 地質の専門家でもないので、そのありがたみはよくわからないが、断層の種類をチェックすると、正断層、逆断層、水平断層、衝上断層に分かれるようである。正断層は、地層に平行に左右へ引っ張る力により、地層が断ち切られ片方が「下」にずれたもの。逆断層は、地層に平行に中央へ向かう力のため、地層が断ち切られ片方が「上」にずれたもの。平行断層は、地層と縦方向に左右に引っ張る力により、地層が縦方向に高さはそのままでずれること。
そして、衝上断層とは、地層と平行に中央に向かう力により、地層が断ち切られ片方(新しい地層)がもう一方の地層(古い地層)の上に乗り上げた状態となったもの。下流側にあった約7千万年昔に海の底に堆積して出来た和泉層群の岩が、上流側の1億年昔に地下深所で変成岩になった結晶片岩なのか雲母変岩の上に乗り上がった形の断層とのことである。形から見れば正断層ではあろうが、力のモーメントが逆ではある。

史跡④ 両岸分水工
さてと、次は両岸分水工へと、劈巌透水碑の前に停車していた車の方向転換をするため、前方の坂を上る。と、右側に水路施設と案内、そして左手の川岸上に劈巌透水路の案内がある。
上で元禄、明治、大正の水路を比定したのはこの劈巌透水路の案内を基にメモしたものである。この案内はもっと下、劈巌透水路辺りにあったほうがいいかと思うのだが、それはともあれ、もう一方の水路施設の案内には「中山川取水堰と両岸分水工」とあり、「中山川取水堰の役割;中山川取水堰は、面河ダムからの水を受ける中山川逆調整池の下流にあり、面河ダムと中山川の水を道前平野に導くための施設です。堰はコンクリートでつくられており、ここで取水された水が両岸分水口へと送られています」との説明があり、続けて「両岸分水工の役割 両岸分水工は、道前平野効率よく水を運ぶために、丹原・東予側と西条・小松側のふたつに水を分ける施設です。水は、道前左岸幹線用水路(丹原・東予側)と、道前右側幹線用水路(西条・小松側)におよそ3対1の割合で分けられています」とあった。

思いがけずではあるが、ここが今から探そうとしていた「両岸分水工」であった。そして、その説明の中に「道前右岸幹線が中山川を渡るためにつくられた水管橋。この先も管によって水が運ばれています」という説明とともに写真があり、その水管橋とともに来見橋が映っている。そういえば、劈巌透水路を辿っていたとき、下流方向の橋の手前に大きな水管が通っていた。隧道探しで精一杯で見れども見えずではあったのだろう。
が、ここでちょっとした疑問。中川橋水管橋を通る水は両岸分水口へ注がれると説明があったが、中川水管橋は、この両岸分水工の結構下流である。案内図では志河川から両岸分水工への水路は、両岸分水工から左右に分かれる左岸・右岸幹線水路の上流で中山川を渡っている。劈巌透水路を取水口まで辿っていたときも、そのような水管を見ることはなかったのだが、どうなっているのだろう。ちょっとした引っ掛かりが残る。

史跡⑤ 志川堀抜隧道
■志河川の水を三津屋村(現在の西条市三津屋)の石工(いしく)米屋三郎右衛門が銀5貫(かん)350匁(もんめ)で公儀より切抜水道工事を仰せ付けられ、同年7月竣工。長さ14間(約25m)の権現山下岩石を切り抜いた隧道と、更に21間(約38m)の岩石切割工事をし、志河川より上下2段隧道として、前面水路と東部水路とに分けた。
その後たびたび破壊していたが、明治35年(1902)、志川(現在の西条市丹原町志川)の資産家の野田峰次郎が水車を設置する際に、私費200円を投じ、従来井堰がしばしば決壊していたのを改善したいということで、延長56間(101.8m)の岩石切割水路を設け、井堰を現在の鳥越(とりごえ)の位置に変更し、災いをなくした。その結果、水掛り面積は40町(40ヘクター)となった(「丹原町の文化財」より)。

上の段水路
次の目的地は志川掘抜隧道。この利水史跡も場所ははっきりしており、志河(しこ)川右岸の松山自動車道のすぐ南あたり。両岸分水工より来見橋を渡り、11号に戻り「湯谷口交差点」を越えてすぐ、コンビニがある手前、志河川ダム方面へとの標識を頼りに右折。そしてそのまま志河川ダム方面へ進むことなく、すぐに左に折れ、松山自動車道の手前にある熊野神社裏を、志河川右岸を通る道を進み、松山自動車道を越えた辺りで道端にスペースを見付け駐車。志川堀抜隧道へのアプローチを探す。

上の段水路取水口
志河川への下り口を探し、成り行きで下ると水路が川に沿って続いている。上の段水路であろう。下には「下の段の水路」とおぼしき水路も見える。先に進むと、志河川を渡る両岸分水工からの道前右岸幹線送水管が水路とクロスしていた。道前右岸幹線の送水管の手前には「右岸2号分水工」と記された用水施設もあった。水路を辿るとほどなく取水口へ。




下の段水路・取水口
上の段水路の取水口を折り返し、水路を戻りながら、成り行きで下の段水路まで下りる。土を掘り割った水路を辿り取水口に。

取水口の場所を確認し、折り返し下段隧道入口へと向かう。










下段水路隧道入口
水路を進むと隧道入口。この水路も岩壁に近づくにつれコンクリートで補強された水路となっている。「西条市 水の歴史」によれば、「西条市丹原町の志川地区は、昔から志河川(しこがわ)の水をかんがい用水に利用しようとしましたが、地勢が不利で容易ではありませんでした。湯谷口井手下から本川に筧〔かけひ=竹や木の樋(とい)〕をかけ、水上権現山の元へわずかな水を渡し利用していました」とあり、その状況を改善するために志川堀抜隧道がつくられた分けだが、「西条市 水の歴史館」には、続けて「規模は、長さ14間(約25.4m)、高さ5尺~7尺(約1.5m~2.1m)、横2尺~3尺(約0.6m~0.9m)で、岩山切貫井口より切貫まで59間(107.3m)のうち、37間(約67.3m)が石切貫井手で、22間(約40m)が土井手組でした」とある。ということは隧道までの水路は土手部分がおよそ40m、岩盤を堀割った水路が約67.3mということではあろう。



上の段水路隧道入口
下の段入口脇に岩盤を上に上る道が整備されており、成り行きで上ると車道に出る。松山自動車道の手前のカーブする辺りであった。そこには「上の段の入口」と書かれた道標もあった。


道標の案内に従って下り水路を北に戻り隧道入口へと向かう。岩壁に近くなるにつれ水路はコンクリートで固められている。隧道入口で先は岩壁に遮られ進むことはできない。再び水路を折り返し、車道に戻る。



上・下の段隧道出口
上の段・下の段の隧道入り口は見つかった。次は志川堀抜隧道の出口に、とはいうものの、目安は「権現山の下を上下2段に切り抜いた」ということだけ。権現山とは熊野神社=熊野権現ではあろうから、熊野神社のある辺りを彷徨えば何とかなろうかと、車を動かし熊野神社の鳥居横に停車し隧道出口を探す。 鳥居の辺りには水路らしきものは見あたらない。拝殿まで進みお参りし、志河川沿いのブッシュに入り込み水路を探すがそれらしきものは見あたらない。それではと、神社裏手の崖を這い上がると、尾根の東に谷戸らしき緑が見える。とりあえず、力まかせに竹藪を下りていくと、そこは谷戸ではなく、熊野神社の鳥居から東に続く、権現山と里の「境」といったところであり、その境に沿って東西に流れるささやかな水路があった。

上の段隧道出口
とりあえず東に少しすすむが、権現山から結構離れても隧道らしきものが見あたらない。今度は逆に西に水路を辿ると東西に山裾を流れる水路が権現山の岩盤に突き当たり北へと水路が下るところに水道出口があった。事前に見ていた写真からして上の段隧道の出口である。

下の段隧道出口
次は下の段隧道出口。上の段出口よりは低い所ではあろうと、熊野神社の辺りを彷徨うが、それらしきものは見あたらない。諦めかけ、上の段隧道出口から北へ下るコンクリートで補強された水路を下ると、水路が道とクロスする辺りに「志川堀抜隧道」の案内と写真、そして「志川堀抜隧道」への道案内があった。
ここで頭の中の回路がどう結びついたか不明であるが、ひょっとして、と水路を戻り、上の段隧道出口のすぐ下、コンクリートで補強された北に下る水路が岩盤に当たるところに隧道口があり、これが下の段隧道出口であった。その出口部分は上の段隧道からの余水が上から流れ落ちていた。


「西条 水の歴史館」によれば、「この工事の完成により、前面水路と東部水路に分けてかんがいが出来るようになったため、農地の利用が進み、この地域の農業経営が安定したことはいうまでもありません」と説明があるが、上の段隧道出口から東へと向かう水路が「東部水路」であろうし、上の段水路の余水と下の段隧道出口からの水を合わせたものが「前面水路」のことだろうと思う。また、下の段隧道出口の写真キャプションに「普段は水のカーテンで遮られて見ることが出来ない」とあるが、それは上の段隧道出口からの余水が多い時の現象ではあろう。

志川堀抜隧道へのアプローチ
隧道出口探しで結構手間取ったが、結果として1番わかりやすいルートは、熊野神社の少し東にある「志川堀抜隧道」の道案内を右に折れ、水路に沿って煤済み、突き当たりに「下の段隧道出口」、そのすぐ上に「上の段隧道出口」、そして上の段出口のところから道を上ると「上の段水路入口」の標識のとことにでる。
そこから上の段、下の段水路を辿り、最後の下の段隧道入口をに向かい、下の段隧道入口から道を上ると「上の段水路入口」の標識のある車道にでる、といったもの。はじめからわかっておれば、熊野神社の裏手の藪漕ぎもしなくて住んだのだが、ともあれ、「志川堀抜隧道」の要所をすべてクリアしたということで、よしとすべし
。 なお、志川堀抜隧道は、「切貫溝」とも言われ、江戸時代初期の土地改良遺跡として有名だった、とのことであり、劈巌透水路(へきがんとうすいろ)とともに西条市指定の史跡(「西条 水の歴史館」より)となっている。 今回はこれでお終い。次回は「兼久の大池」から始める。