土曜日, 9月 30, 2006

杉並区散歩 そのⅢ;桃園川跡を辿る

何回かにわけて歩いた桃園川緑道散歩をまとめる。源流点というか、水源は天沼3丁目23あたりにあった弁天池、とのこと。もっとも、練馬区の関町あたりで千川上水から分かれた分水流が青梅街道に沿って進み、この弁天池に流入した、と。弁天池までは用水溝といった小さな流れで、「用水掘」とか「新堀」と呼ばれており、弁天池から下流が桃園川と呼ばれたようだ。
天沼3丁目を成行きで歩く。いかにも水路跡のような遊歩道。辿っていくと、天沼八幡神社の境内前に出る。桃園川跡に間違いなし。八幡様の参拝は後にまわし、とりあえず源流点・弁天池跡に進む。

少し西に進むと遊歩道が切れる。が、いかにも川筋跡のような道が北に続く。ちょっと辿るとお屋敷手前で道が切れる。結構な屋敷跡。屋敷「跡」というのは、更地工事をしているようであった、から。鬱蒼とした緑は未だ残っている。ここが弁天池を埋めた跡地ではなかろうか。
お屋敷の周りをぐるり一周。直ぐ西には東京衛生病院。この病院は息子と娘が生まれたところ。病院のする裏手、というか東側が源流点であった。後からわかったのだが、この弁天池跡地のお屋敷は西武の堤義明氏の荻窪御殿、と呼ばれていたところらしい。件(くだん)の事件もあり、お屋敷を売却したのだろう、か。
「天沼」という地名の由来は弁天池、から。雨でも降ると水が溢れ、一面沼沢地のようになったのであろう、か。天沼=雨沼、かもしれない。実際、この一帯の地名、井草=「葦(藺)草;水草」、であり、荻窪=荻の生える窪地、ということで湿地帯であったことは間違いないだろう。天沼の北に「本天沼」って地名がある。もとの天沼村を南北に分けるとき、北が「本天沼」と先に宣言。もともとの地名の由来にもなった地域は「天沼」に。素人目には「本天沼」のほうが本家・本元って感じがする。
『続日本紀』に武蔵国「乗潴(あまぬま)駅」って記述がある。諸説ある中でも、その場所はこの天沼あたりではないか、というのが定説になっている。「乗潴(あまぬま)駅」は、武蔵の国府のある国分寺から下総の国府のある国府台に通じる街道の「駅家」。官用の往来のため、馬などを常備していた、と。乗潴(あまぬま)駅から、武蔵にあったもうひとつの駅家・豊島(江戸城付近)を経由する官道があったのだろう。ちなみに「潴」、って「沼」の意味。


本日のルート;
天沼八幡神社(天沼2)>天沼熊野神社(天沼1)>慈恩寺(阿佐谷北3)>世尊院>阿佐ヶ谷神明宮>欅屋敷>馬橋稲荷神社>高円寺5丁目・大久保通 り>宮園橋>中野5差路>上宮橋>もみじ山公園下>堀越学園前>谷戸小学校>宝仙寺>宮下・山手通り>田替橋>末広橋>神田川合流>北新宿>新宿

天沼八幡神社

源 流点を確認し、再び桃園川緑道に戻る。少し歩くと天沼八幡神社。弁天沼跡から100m程度だろうか。天正年間(1573~92)の創建といわれる。天沼村中谷戸(なかがいと)の鎮守。弁天池はもと、この八幡様の土地。現在の社殿の建築費用をつくるため売却し、埋め立てられた、とか。弁天池の弁天様は現在境内に遷座している、と。境内末社の大鳥神社では酉の市が開かれる。


天沼熊野神社
桃園川緑道に戻り下流に向かう。天沼2丁目に「天沼熊野神社」。緑道から少し離れたところにある。旧天沼村の鎮守。明治以前には十二社権現と呼ばれた。創建年代は不明だが、社伝によると「元弘三年(1333)に新田義貞が鎌倉攻めの途次、ここに宿陣し、社殿を修め、戦勝を祈って2本の杉苗を献植した」と。伝承の杉は昭和10年に枯れた。今も伐り株が残っている。

中杉通り

桃園川緑道を下る。民家の間をくねくね進み、阿佐ヶ谷1丁目29
あたりで中野と杉並を結ぶ「中杉通り」に交差する。ここで緑道は一度途切れる。阿佐ヶ谷北1-1、JR中央線脇にある「けやき公園」の先から緑道が再びはじまるまでは、湾曲した、いかにも川筋跡といった道路を進む。

阿佐谷神明宮
緑道をちょっと離れる。阿佐谷神明宮と世尊院に。阿佐谷神明宮は丁度秋祭り。旧阿佐ヶ谷村の鎮守さま。『江戸名所図会』に、「景行天皇44年に、日本武尊ご東征の帰途、ここに休まれたので、のちに里人が日本武尊の武功を慕って神明社を建立。また、建久(1190-99年)のころ、横井兵部が伊勢五十鈴川から持ち帰った霊石をご神体とし、僧祇海が社を今の地に移した」、と。景行天皇44年って、西暦 4世紀ではある。が、そもそも景行天皇って、伝説上の天皇でもあるわけで、縁起は縁起としておこう、と。

世尊院

世尊院。永享元年(1429年)に阿佐ヶ谷にあった宝仙寺が中野に移った頃

、それを惜しんだ地元民が小寺として残したのがそのはじまりと、いう。宝仙寺は大宮八幡宮の別当寺であった、といわれる。阿佐ヶ谷に居を構えた江戸氏の庶流・「あさかや殿」の庇護のもと作られたのであろうか。「あさかや殿」が歴史に現れた記録は応永27年(1420年)の『米良文書』にある。熊野那智神社の御師が武蔵国の大檀那の江戸氏一門の苗字を書き上げた中に、中野殿などとともに登場する。「あさかや殿」はこのあたりを拠点に土地を拓きながら、戦乱の続く南北朝を生き抜いたのであろう。その衰退の時期はつまびらかではない。が、上にメモした、永享元年(1429年)頃、庇護した宝仙寺が中野に移ったころではないか、と言われている。庇護する威勢を失っていたのであろう。一般公開はしていない。観音堂にまつられている聖観音像は南北朝の作と言われる。ちなみに阿佐ヶ谷の地名の由来は「浅ケ谷」から。桃園川が流れる「浅い谷〔地〕」、であったということだろう。
JR中央線の阿佐ヶ谷駅
Jr中央線の阿佐ヶ谷駅に。JR中央線って、もとは甲武鉄道。明治22年、立川―新宿。立川―八王子が開通した。本来の路線計画では、甲州街道か青梅街道沿いに走る予定であった。が住民の反対に会い、田園・林野を一直線に走る現在の路線になった、とか。駅から少し東、「けやき公園」に。

馬橋公園

ちょっと寄り道。けやき公園から北に進んだ、馬橋公園のあたりに陸軍中野学校教場があった。本部は中野駅前。昭和2年に陸軍通信学校が建設されたことと関係あるのだろうか。なんせ。防諜と通信は切り離すこと叶わず、であろう。太平洋戦争末期には陸軍気象部がおかれ、戦後運輸省気象研究所になった。現在は公園となり、気象庁の職員住宅となっている。また、この馬橋公園の近く、阿佐ヶ谷北5丁目-3あたりには、縄文時代後期の遺跡・小山遺跡も発見されている。桃園川沿いの微高地でもあり、古くから人々が生活していたのであろ う。

馬橋稲荷神社
中央線を越えたあたりから、再び緑道がはじまる。少し歩くと「馬橋稲荷神社」。旧馬橋村の鎮守さま。馬橋村って、このあたりから高円寺にかけての昔の地名。地名の由来は、これまた例によってあれこれ。ひとつは、桃園川か馬で一跨ぎする程度の小さい川であった、という説。また、昔々、桃園川の湿地帯を馬の背を橋のかわりにして軍勢が押し渡ったため、といった説もある。真偽の程は定かならず。

新堀用水、というか天保用水が合流

緑道を進む。緑道脇に桃園川の流路図。結構複雑に分岐している。その川筋のひとつだろう、とは思うが、昔、このあたりには新堀用水、というか天保用水が合流していた、と。中野・馬橋・高円寺の三村に灌漑用水を供給するため善福寺川から分水したもの。桃園川の湧水が減り、天水に頼らざるを得なくなった、その対策として村相互の協力によって計画したもの。

先日散歩の須賀神社の脇で見た新堀用水跡、つまりはこのあたりにあった弁天池に善福寺川から導水し、池の湧き水とともに掘割と暗渠で青梅街道を通り、区役所脇を東北に抜け、馬橋児童遊園のあたりを通り桃園川に合流していた、と。いつか、もう一度流路図をチェックし、用水流路を確認しておこう。

長仙寺
寄り道が多く、なかなか先に進めない。高円寺南3丁目を進む。民家の間を進む。高円寺駅から南に青梅街道まで続く「駅前商店街 パル」にあたる。駅の南口に長仙寺。本堂前庭に「歯神様」と呼ばれる石仏の如意輪観音が安置している、と。享保9年(1724年)の銘。「駅前商店街 パル」を越えると緑道の北に氷川神社と高円寺。

氷川神社
氷川神社は高円寺村字原の鎮守様。天文(1532-55年)の頃の創建、と。境内に小祠・気象神社。先のメモした、陸軍気象部がきちんと気象予報ができるようにと、つくられた。

高円寺

氷川神社を東に少し進むと高円寺。創立にはちょっとしたお話がある;昔、ひとりの旅人がこの地に。父娘の住む農家に一夜の宿を求める旅のもの。飢饉ゆえ食るものも無い、と断わるも、たっての頼みに断わりきれず泊めることに。で、娘が食べ物を探しに外出した後、父親はその旅の人が大金を持っていることを知り、殺害。戻ってきた娘はそのことを悲しみ尼となり、庵をたて菩提をとむらった。弘治元年(1555)建室和尚がその庵をもとにつくったのがこの高円寺、と。
『新編武蔵風土記功稿』の「高円寺村」の箇所に「当村、古は小沢村と言えるも、大猷院殿(三代将軍徳川家光)しばしば村内高円寺にお遊びありければ、世人高円寺御成りありと言いしに、いつしか高円寺村の名起これり」と。昔は小沢村と言っていたが、将軍が鷹狩に御成りのとき、ここで休憩をとった、事実お寺には御茶屋跡もあるとかで、高円寺というお寺の名前が一人歩きし、いつしか寺名が地名までも奪取した、ということか。

寺町

氷川神社や高円寺と桃園川緑道を隔てた南側は寺町がつくられている。明治末期、この地の所有者が商売に失敗し、抵当流れで安い地価となった。お寺といえば少々広い土地が必要であろうし、ということでお寺がこの地に移ってきた、とか。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


高円寺天祖神社と田中稲荷

緑道を進み、環七を越える。高円寺天祖神社と田中稲荷。高円寺村字通りの鎮守様。田中稲荷神社は高円寺天祖神社の境外末社。創建の由来は不明だが、桃園川沿いの田圃の中にあったので「田中稲荷」と。

鳥見橋

田中稲荷を越えるとすぐ中野区。少し進むと鳥見橋。名前の由来は、将軍家の「鷹場」を管理する鳥見役人の役宅に通じる道が通っていたため。役宅があったのは杉並区高円寺南5丁目あたりと言われている。御鷹場があったのは中野2丁目から5丁目にかけての広大な土地。
鷹場のあるところは、この地に限らず御鷹場禁制や御鷹場法度で農民は多くの制約を受けていた。で、村々を巡回し野鳥の保護を第一に、農民を監視していたのが鳥見役人。鳥見役人は若年寄支配下にあり格は高かったが、高円寺の役宅に常駐する役人は微禄の小役人。農民を苛め、賄賂をとるなど、代官所からも厄介者扱いされていた、とか。

であるからして、明治維新にはこの役宅、農民の怒りの矛先となり、すぐさま取り壊された、と。ちなみに、この「御鷹場」はもと、野犬の「御囲」場。綱吉による「生類憐みの令」による「お犬様」を保護・収容していたところ。綱吉の死後廃止され、鷹場となった。どちらにしろ、人々にとっては厄介このうえないものであっただろう。

桃園橋
宮園橋を越えると緑道は少し北に迂回。中野通りとの交差するところに桃園橋。そこは将軍吉宗が桃園に行くときの御成り橋。桃園は中野3丁目一帯にあった、と言われている。中野通りの一筋西を通る「桃園通り」を南に進み、下り坂となる分岐のあたりに「将軍のお立場(中野3丁目28)」。放鷹を眺めたり、桃園を眺めたりする絶好の場所であった、とか。

城山

中野五差路のあたりを越えると、緑道は「大久保通り」の南を、道に沿って進む。紅葉山公園が下る道筋を越え、大久保通りでいえば堀越学園前交差点のあたりに、太田道潅の砦跡、とも伝えられる「城山(中野1-31)」が。谷戸運動公園の北側に土塁跡が残る。
緑道は掘越学園の裏手を進み、実践学園傍を歩く。この南には宝仙寺。前にメモした「阿佐ヶ谷殿」が阿佐ヶ谷につくり、その勢力がうしなわれたころ、この中野に移

る。今回は緑道を急ぐ。お寺巡りは次回のお楽しみに残す。

先に進み、山手通りと交差。宮下交差点。南に下ると青梅街道の中野坂上。中央1丁目を進み田替橋を過ぎると大久保通り・末広橋で桃園川は神田川と合流。桃園川散歩を終える。後は、北新宿から西新宿を通りJR新宿駅に歩き自宅に戻る。

桃園川って、高円寺の商店街を歩いていたとき、いかにも路地裏、といったところでたまたま見つけた。なんということもない、小流であったのだろう、と思ったのだか、この流路に沿ってもあれこれ歴史があった。緑道もすぐ途切れる、と思っていたのだが、結局神田川まで引っ張られた。カシミール3Dでつくった地形図を見ると、なるほど、桃園川の流れに沿って、谷地が作られている。偶然見つけた川筋を、好奇心で歩き、あれこれ時空散歩が楽しめた。どこかで見かけた桃園川の案内をメモして今回はおしまい、とする。

桃園川緑道の沿革;桃園川緑道は、元来天沼の弁天池(天沼3丁目地内)を水源として東流し末広橋(中野区)で神田川と合流する「桃園川」と呼ばれる小河川でした。桃園川の名は江戸時代初期に付近の「高円寺」境内に桃の木が多かったことから将軍より地名を「桃園」とするよう沙汰があったことに由来しています(その後桃園は中野に移されています)。
江戸時代中期には千川上水から分水したり、善福寺川から「新堀用水」を開削し、導水するなどして、「桃園川」沿いの新田開発が進められました。大正末期には関東大震災を契機とした都市化の波を受け、川沿いの地区は耕地整理がおこなわれ数条に分岐していた「桃園川」も流路が整えられ、それにともない水田風景も姿を消しました」

水曜日, 9月 27, 2006

杉並区散歩 そのⅡ:永福から善福寺川に沿って荻窪へ

先日、桃園川跡を高円寺から下った。逆方向に、阿佐ヶ谷までは辿ったことがあるのだが、源流点は確認していない。ということで、今回は桃園川の源流点に向かうことに。
桃園川の水源は天沼3丁目にあった弁天沼、とか。環八と青梅街道が交差する「四面道」のすぐ近く。荻窪駅の北になる。
さて、どのコースをとるか、だが、善福寺川に沿って歩くことにした。この散歩道は何度となく歩いたことがある。善福寺川の源流まで遡ったこともある。が、川筋に沿って続く遊歩道だけ。川筋に点在する遺跡・神社は訪れていない。いい機会でもあるので、遺跡・神社を巡り、あれこれメモしてみたい。


本日のルート;
永福寺>永福稲荷>大円寺>郷土博物館>済美台遺跡>松ノ木遺跡>和田掘公園>成宗白山神社>宝昌寺>尾崎熊野神社>須賀神社>田端神社>弁天池

永福寺
自宅を出て和泉小学校脇から神田川緑道に入る。ちょっと上流に戻る。井の頭通り、京王井の頭線を越え、川筋が大きく湾曲するあたりで台地に登ると永福寺。大永二年(1522年)開山の古刹。戦国時代は北条氏家臣ゆかりの所領であった、とか。北条氏滅亡後、その家臣が帰農し当寺を菩提寺とし現在にいたる、と。 杉並最古の庚申塔がある。

永福稲荷

近くの永福稲荷は享禄三年(1530)永福寺の鎮守として創建。明治11年頃神仏分離令により現在の場所に移転、村の鎮守様に。

大円寺
稲荷神社の前の道筋を北に。高井戸から井の頭線・永福町永福町に通じている。この道筋は井の頭通りを越えると、一直線に方南通りまで続く商店街となっている。この道筋に大円寺。慶長2年赤坂に家康が開いた、と。延宝元年(1673年)、薩摩藩主島津光久の嫡子の葬儀をとりおこなって以来、薩摩藩の江戸菩提寺となる。庄内藩士による三田の薩摩藩焼き討ちで倒れた薩摩藩士や、戊辰の戦役でなくなった薩摩藩士のお墓がある。益満休之介の墓もあるとか。

益満休之介

益満休之介って魅力的な人物。王政復古の直前、西郷が江戸を騒乱状態に陥れるために送り込んだ工作グループの立役者。浪士500名を集め、江戸市内で佐幕派豪商からお金を巻き上げる「御用盗」や、放火、そして幕府屯所襲撃などやりたい放題。幕府を挑発。それに怒った江戸市中見巡組(新徴組)がおこなったのが、上にメモした三田の薩摩藩邸の焼き討ち。この焼き討ちの報に刺激を受け、会津・桑名の兵が「鳥羽・伏見」の戦端を開いた、という説もある。
ともあれ、休之介は庄内藩に捕らえられ、勝海舟のもとに幽閉。たが、官軍の江戸総攻撃を前に、無血開城をはかる勝は山岡鉄舟を駿府に送り西郷隆盛と直談判を図る。そのときに、山岡に同道したのが益満。西郷とのラインをもつが故。山岡が西郷との会談に成功したのも、この益満あればこそ、である。その後休之介は体を壊し、明治元年、28歳の若さでなくなった。歴史にIFは、とはいうものの、益満が生きていれば、はてさて明治の御世はどうなったのであろう、か。

新徴組
ついでに新徴組。新徴組って、墨田区散歩のとき、本所で屯所跡(墨田区石原4丁目)に出会った。本所三笠町の小笠原加賀守屋敷である。屯所はもう一箇所、飯田橋にもあった。田沼玄蕃頭屋敷(飯田橋1丁目)。新徴組はこの2箇所に分宿していた。
新徴組誕生のきっかけは、庄内藩士・清河八郎による浪士組結成。将軍上洛警護の名目で結成するも、清河の本心は浪士隊を尊王攘夷を主眼とする反幕勢力に転化すること。それに異を唱え清河と袂をわかって結成したのが「新撰組」。結局、幕命により清河と浪士隊は江戸に戻る。清河は驀臣・佐々木只三郎により暗殺され、幕府は残った浪士隊を「新徴組」とし庄内・酒井家にお預け。

当初は存在感もなかったようだが、文久3年(1863年)に新徴組は歴史の表舞台に登場する。江戸の治安悪化を憂えた幕府が、庄内藩を含む13藩に市中警護の命を下したからだ。が、幕府と命運をともにした庄内藩・新徴組は、戊辰戦役以降,塗炭の苦しみを味わうことになるのは、言わずもがな、のこと。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

大宮八幡への参道

商店街で足を捕られ歩みが止まった。先を急 ぐ。商店街を北に抜けると方南通りにあたる。大宮八幡入口交差点。交差点を渡り、方南通りの一筋北に通る、大宮八幡への参道を進む。ここは昔の鎌倉街道。『武蔵名所図会』に記述がある;「大宮八幡宮の大門路は往古の鎌倉より奥州街道なり。東へ廿町余行きて、中野街道へ出て、それより追分を北に行けば板橋宿 に行く」、と。

鞍懸の松
参道を進む。道脇に鞍懸の松(和田の曲松)。『江戸名所図会』によれば、「鞍懸の松は、大宮八幡宮の馬場先の大路、民家構えの外にあり、鬱蒼として繁茂せり。根より一丈ばかりに至りて屈曲せる故、土人和田の曲り松と称し或いは鞍懸の松共呼べり。相伝う、八幡 太郎義家朝臣奥州逆徒征伐の折、この松に鞍をかけられしより、しかと言うと」。八幡太郎は至るところで顔を出す。真偽の程定かならず。また、松は二代目、と。


荒玉水道道路
少し進み大宮神社の鳥居の手前、荒玉水道道路で参道を離れ、北に折れる。杉並郷土博物館に寄り道のため。以前メモしたが、荒玉水道道路って、荒=荒川、と玉=多摩川を結ぶ上水道。大正12年の関東大震災後、東京市に隣接した町村の人口拡大にともなう上水事情を改善すべく計画。ただ、実際は多摩川と荒川が結ばれることはなく、世田谷区砧給水所から中野区の野方給水所(江古田1-3)を経て板橋区の大谷口給水所で終わっている。
砧給水所からこの杉並の妙法寺あたりまで一直線に延びている10キロほどの道筋を荒玉水道道路、と呼ぶ。砧と大谷口あたりは以前歩いた。杉並散歩の次は中野。野方給水塔をランドマークにしておこう(後日、野方給水塔を訪ねた)。

杉並郷土博物館
荒玉水道道路を少し北に。区立郷土博物館入口の信号で水道道路を離れ、郷土博物館に。江戸時代の名主屋敷・長屋門を玄関にしたこの博物館には何回も訪れている。今回は、前々から気になっていた資料を買い求めるため。『江戸のごみ 東京のごみ;杉並から見た廃棄物処理の社会史』が目的の資料。
江戸期の 永代島の埋め立てにも市中から出る塵芥を使っている。尾篭な話ではあるが、下肥の利権争い、つまりは、大名屋敷といった大量確保できるところ、しかも栄養状態のいい下肥の獲得にしのぎを削った、といった話もある。葛西船とか川越船といった下肥運搬船の話もあった。散歩のいたるところで、「ごみ」の話が顔を出す。ということで、ちょっとまとめてお勉強を、と思った次第(つい最近『江戸の夢の島;伊藤好一(吉川好文館)』を手に入れた。)。また、思いがけず「杉並区史跡散歩地図」も手に入る。散歩のルーティングには大変役に立ちそう。

この郷土博物館は元嵯峨公爵邸跡。満州皇帝愛親覚羅傳儀の弟傳傑に嫁いだ浩(ひろ)の生まれ育ったところ。終戦後、傳傑は中国政府に捕らえられる。浩は娘二人とともに帰国。「流転の王妃」浩の長女慧生(えいせい)に悲劇が。「天城心中」「天国に結ぶ恋」などと書きたてられてはいるが、実際はストーカー男に銃で殺されたのでは、と言われている。その後の浩は釈放された傳傑のもとに戻り、北京でなくなった。

済美台遺跡

郷土博物館のあるこの台地には古墳時代の済美台遺跡がある。舌状台地に沿って善福寺川が湾曲している。善福寺川は杉並区の西端善福寺池より発し、区内の中央部を蛇行し、和田1丁目で中野区内に入り神田川に合流する全長10キロ弱の川。郷土博物館のすぐ東を流れる。

和田堀公園
郷土博物館を離れ、橋を渡り松ノ木1丁目を西に進む。すぐ南に和田堀公園。あれ、和田堀って由来は?なんとなく和田+堀ノ内=和田堀、となったように思う。 調べると、そのとおり。明治には和田堀ノ内村。が、大正の町制に移るに際し、和田堀ノ内町では少々長すぎる、ということで和田堀町となった、と。

松ノ木遺跡

和田堀運動場の北、松ノ木中学との間の道を進む。台地上に松ノ木遺跡(松ノ木1-3)。古墳時代の復原住居と土師式保存竪穴がある。30戸くらいの家族が住んでいたと想定されている。
先ほどの済美台も含め、善福寺川中流域のこのあたりの台地群は、杉並の古代人の「はじまり」の地ではないかと言われる。善福寺川を隔てて南の台地上には大宮遺跡がある。大宮八幡宮の北門を出た崖の縁がその場所である。

松ノ木遺跡の案内板によれば、「昭和40年夏、ここで弥生時代末期の墓三基本発掘した。中央に墓穴を設け、周囲に溝がめぐらされていた。形が四角なので方形周溝墓と呼ばれ、墓より壷形土器五個、勾玉一個・ガラス玉十二個出土した」、と。
人々は集落を環り・区切り、区画ごとにまとまった生活集団をしていたのであろう。台地から見下ろす崖下の河川敷、和田堀運動場とか、和田堀公園であろうが、そこでは水稲耕作がおこなわれていたのだろう。川では魚を捕り、川を離れれば一面の原野。台地の奥に出かけては狩をしていたのであろう。『和名類聚抄』によれば、平安前期の武蔵野・多摩郡は10の郷からなっており、そのひとつ、「海田(あまだ)郷」に現在の杉並区が含まれる。で、この海田(あまだ)が変化し「わだ(和田)」となった、とされる。
言わんとするところは、このあたりに点在した原始期からの集落がそのまま古代に受け継がれ、古代期においても地域の中心となり、地名も「あまだ>わだ」と受け継いできたのだろう、ということ。

大宮八幡宮
寄り道のついでに大宮八幡宮のメモ。このお宮さんには幾度となく御参りに訪れている。初詣、秋祭り、子供と散歩。数限りない。あまりに身近であるので、それほど気にしていなかったのだが、散歩をはじめて各地のお宮さんにおまいりしても、これほどの雰囲気のあるお宮さんはそれほどなかった。大いに見直す。
で、メモ。『大宮八幡宮史』;「康平6年(1063年)、源頼義が奥州の豪族・安倍氏を征伐し凱旋の折り、京の石清水八幡宮の分神を勧請す。 寛治6年(1092年)に源義家が社殿を修復し、鎌倉時代には幕府より毎年奉幣使が派遣された。天正19年(1591年)に徳川氏より30石の朱印状が寄進され、幕末期には将軍・御三家が社参した」と。紀州熊野那智神社の『米良文書』に「貞治元年(1362年)に大宮住僧三人が那智神社に参拝した」という記録もある。

江戸時代の境内地は6万坪。明治維新で3万5千坪が政府に召し上げられ、現在は1万三千坪。それでも明治神宮・靖国神社に次いで都内3位の広さを誇る。

松ノ木遺跡を離れ、台地上を歩く。善福寺川の北にこんな台地があるというのは知らなかった。正確に言えば、もともと台地が平地であり、長い年月をかけ善福寺川によって開析され、川筋が谷となり、周囲より低くなった、ということではあろう。

白山神社
台 地と崖の境の道を少し進むと白山神社。旧成宗村字白旗の鎮守さま。創建の時期は不明だが、古墳時代の土器などが発見されており、大宮神社と同じ頃にできたのではないか、と言われる。地名の白幡は、またまた源氏の誰某の由来であろう、と予測。そのとおりで、源頼義が奥州征伐のおり、このあたりで空に白旗の如くたなびく雲を見て、勝利の証と慶び一社(大宮八幡)を勧請した、と。
「成宗」とは永禄2年(1559年)の「小田原衆所領役帳」に「永福、沼袋、成宗の三カ村、弐拾壱貫文、島津孫四郎」との記述がある。古くからの村であった。その後、成宗村は幕府の天領となるまでは、旗本岡部忠正氏の知行地であった。
ちなみに、「杉並」の地名はこの岡部氏に由来する。江戸時代に田端・成宗両村を領していた岡部氏が、境界の目印に植えた杉の木が杉並木となり、旅人や市場に通う百姓の道中のランドマークとなった。
で、区ができるとき、どの地区にも当たり障りなく、かつまた、この地域の俗称ともなっていた、俗称となっていた「杉並〔木〕」とした、とか。ついでのことだが、この岡部忠正って薩摩守忠度を討ち取った岡部六弥太田忠澄の末裔。薩摩守忠度(ただのり)のことは熊野散歩でメモしたとおり。

尾崎橋
白 山神社を離れ、台地上の道を善福寺川と「つかず、離れず」北西に。湾曲・蛇行する善福寺川が五日市街道と交差するところに尾崎橋。橋の袂に案内板。簡単にメモ:「上流に向かって左側の台地が「尾崎」と呼ばれる。「おざき」とは「突き出した台地の先端=小さな崎」を指す。発掘された土器などから見て、8,000年前から人が住んでいた、と想定される。
源頼義が奥州征伐の折、白旗のような瑞雲が現れ大宮神宮を勧請することになったが、その頭を白旗地区、尾の部分を尾崎とした、との説もある。このあたりは風光明媚なところで、江戸には文人墨客が訪れた、とか。橋の上流に続く善福寺川緑地公園って、春の桜は素晴らしい。今年の春も会社の仲間と花見と洒落た、場所でもある。

尾崎の七曲
「馬橋村のなかばより、左に折れて山畑のかたへのほそき道をゆく」「つつらおりめいたる坂をくだりて田面の畔を(進む)。他の中に小川ありて橋を渡る。これを尾崎橋」、といった記述も案内板に記してあった。この「つつらおりめいたる」って記述、尾崎の七曲のこと。
現在の五日市街道は工事により直線にはなっているが、昔は尾崎橋あたりはカーブの続く坂道であった、とか。そうえいば、橋の西・東に、大きく曲がる道筋が残っている。またまた、そういえば、結構最近まで、このあたりの五日市街道の道筋は曲がりくねっていたように思う。なんとなく、そういった記憶が残っている。

五日市街道

五日市街道のメモ;「地下鉄新高円寺駅あたりで青梅街道を離れ、松庵1丁目を通り、武蔵野市・小金井市を経てあきるの市に達する街道。江戸時代初期は、「伊奈道」と呼ばれ、秋川谷で焼かれた炭荷を江戸に運ぶ道。その後、五日市道・青梅街道脇道・江戸道・小金井桜道・砂川道など呼ばれ、農産物の運搬や小金井桜の花見など広く生活に結びついた道であった。
明治以降、五日市街道と呼ばれる。この街道に沿った区内の昔の村は、高円寺村・馬橋村・和田村・田端村飛地・成宗村・田端村・大宮前新田・中高井戸村・松庵村で、沿道の神社や寺院・石造物の数々に往時をしのぶことができる」、と。

尾崎橋を渡り、ほんの一瞬五日市街道を歩く。交通公園入口交差点。この交通公園には子供が小さい頃、何十回来たことであろうか。その子供も、すでに高校生。あっという間の、人生であります(現在は既に大学生)。

宝昌寺
気を取り直して、散歩を続ける。交通公園入口交差点前に宝昌寺。文禄3年(1594年)中野成願寺の葉山宗朔和尚によって創立。もとは真言宗。のちに曹洞宗。この「中野成願寺の」というフレーズ、杉並のお寺でよく目にする。中野長者・鈴木九朗が建てたお寺ではあり、大寺院ではあったのだろうが、有徳僧を輩出したのだろうか?そのうちに調べてみよう。

三年坂
お寺を離れ、尾崎熊野神社に向かう。成行きで杉並第二小学校の南の坂をのぼる。この坂は「三年坂」と呼ばれていた、と。「急坂で転倒して怪我をすると三年でなくなる」というのが名前の由来。往時、赤土の急坂で、滑って転んで怪我をする人が多かったので、くれぐれも気をつけるように、という意味で名付けられたのだろう。

尾崎熊野神社
台地上の道を北に進む。尾崎熊野神社。善福寺川低地を望む舌状台地鎮座する成宗村字尾崎の鎮守さま。正和元年(1312)頃の創建と、伝えられる。大宮八幡や村内の白山神社とほぼ同年代の創建でなないか、と言われている。
鎌倉時代末期、鎌倉から移住してきた武士が紀州の熊野権現をこの地に勧請。境内から縄文前期の住居跡が発見され、縄文・弥生・古墳時代の石器・土器などが多く出土した。ために、「尾崎熊野遺跡」と名づけられた。

須賀神社
台地を下り、善福寺川にかかる天王橋を渡り北に進む。須賀神社。旧成宗村字本村の鎮守さま。創建は天慶5年(942年)とも伝えられるが不詳。出雲の須賀神社にならった、とも。慶長4年(1559年)に領主・岡部氏が社殿を再興したとの伝承があるほか、詳しいことは伝わっていない。江戸時代は牛頭天王社、と呼ばれていた。
須賀神社には散歩の折々に出会う。台東区の浅草橋近くにもあった。狭山の箱根ケ崎でも出会った。この神社は島根と高知に多い。この地の須賀神社と同じく「牛頭天王社」と呼ばれていたことろが多いようだ。やまたのおろちを平らげて、「我、この地に着たりて心須賀、須賀し、」といったかどうだか、素盞嗚命(スサノオノミコト)をおまつりする。
牛頭天王って、インドで仏様のお住まいである祇園精舎の守り神。その猛々しさがスサノオのイメージとはなはだ近く、スサノオ(神)=牛頭天王(仏)と神仏習合された、と言われる。スサノオ、と言えば出雲の暴れん坊。先日の氷川神社と同様、この地を開拓した出雲族の名残であろう、か。

弁天社
須賀神社の西隣に弁天社。成宗村開村と同じころに創立。社前の石橋と掘跡は天保11年(1840年)に善福寺川の水を桃園川に引くために掘られた新堀用水路の名残り。神社の前は杉並高校。丁度学園祭。ブラスバンドの音が、いかにも青春でありましょう。

矢倉台
須賀神社を離れ、西に進む。往時、このあたりを鎌倉街道が通っていた、と。地名も「矢倉台」と言われる。中世に物見櫓があった、とか。「成宗の砦」とも呼ばれる。戦国時代に、中野左兵衛門之尉成宗が、鎌倉街道を見張るために、街道の往来が見渡せるこの高台に砦を構えた、と。成宗はこの付近の開拓者として、地名の由来ともなっている。
ちなみに、先ほど渡った「天王橋」のひとつ上流にかかる橋は「矢倉(屋倉橋)」となっている。ちなみに、ちなみに、開拓者の名前は中野左兵衛門之尉成宗ではなく、野口成宗との説も。当面はどちらでもいいか。

田端神社
さらに進むと田端神社。田端村の鎮守。社伝によれば、応永年間(1394年-1429
年)、足利持氏と上杉禅秀が戦ったとき、品川右京の家臣・良影がこの地に定住し、北野天神を勧請したことにはじまる。往時は北野神社とも、社の場所が「田の端」にあったため、田端天神とも呼ばれ、土地の産土神に。田端という地名は神社の名前に由来する。

境内は古墳であった、と。
ちなみに、このあたりの地名、成田の由来。「成」宗+「田」端>成田、との合成語。成田さんでも関係あるかと思っていたが、全く関係なし。昭和44年ごろに、もとの成宗村と田端村(西田端)一帯を成田西、成宗村と田端村飛地(東田端)を成田東と呼ぶようになった。

田端神社を離れ、本日の目的地、桃園川の源流点、天沼を目指す。成行きではあるが、まっすぐ北に進む。杉並区中央図書館前を通り青梅街道と交差。青梅街道が中央線を跨ぐ橋の東詰めで青梅街道を渡る。



天沼3丁目に桃園川の源流点・弁天池天沼1丁目に。あとは、これまた成行きで天沼3丁目23あたりの桃園川の源流点・弁天池に到着。本来はこの後、桃園川緑道を阿佐ヶ谷・高円寺方面に下るのだが、少々メモが長くなった。実際の散歩コースではないのだが、先回の高円寺から下流と本日の高円寺から上流へのメモをまとめて、次回まとめることにする。

月曜日, 9月 25, 2006

杉並区散歩 そのⅠ;和泉から妙法寺・寺町を経て高円寺に

9月のとある週末。例によって、散歩に出かけよう、とは思うのだが、これといって行き先が思い当たらない。はてさて、地図を眺める。が、決まらない。こんなときの解法の選択枝はそれほど多くない。とりあえず電車に乗り、その間に考える。これがひとつ。もうひとつは、古本屋に行く。そのくらいである。

今回は古本屋へ、ということにした。散歩をはじめて多くの古本屋に出会った。たまたま入った本屋で、探し歩いていた本を見つけたり、思わず惹かれる本に出会ったり、それはそれは、嬉しい限りである。はてさて、今回はどこに。
と、なんとなく高円寺駅前の古本屋に行こう、と思った。自宅は杉並・和泉。歩いていける距離である。で、ついでのことでもあるので、高円寺駅前商店街で見かけた桃園川跡を歩き、どこに行き着くのか、なりゆきで歩こう、ということにした。
高円寺の古本屋へは,何度も歩いている。が、メモは今まで書いていないように思う。いい機会なので、自宅まわりから高円寺まで、ついでのことなので杉並の「時空散歩」を楽しもう、と思う。



本日のルート;(神田川)和泉熊野神社>龍光寺>貴船神社>文殊院>方南通り>(善福寺川)堀ノ内熊野神社>妙法寺>高円寺>(桃園川>高円寺5丁目・大久保通り>宮園橋>中野5差路>上宮橋>もみじ山公園下>堀越学園前>谷戸小学校>宝仙寺>宮下・山手通り>田替橋>末広橋>神田川合流>北新宿>新宿)

和泉熊野神社
自宅は杉並・和泉。近くに神田川が流れる。川そばの台地に熊野神社がある。和泉熊野神社。旧和泉村の鎮守さま。創建は文永4年(1267年)、ということだ。現在の社殿は文久3年(1863年)の造営。明治4年に修復されている。境内からは縄文時代後期の土器・打石斧・石棒や,古墳時代の土師器が出土している。また,境内には,徳川家光が鷹狩りの折り、手植えした、との松の大木もある。とはいうものの、初詣、お祭りなど、折に触れてこのお宮さんに出かけているが、手植えの松などは目にしたことは未だ、ない。
この熊野神社のある台地に限らず、神田川流域の台地には縄文時代の遺跡がいくつもある。京王線・高井戸駅近くには「高井戸東遺跡」。杉並清掃工場の工事の時みつかった、とか。浜田山からの鎌倉街道が神田川と交差する鎌倉橋ちかくには「高井戸塚山遺跡」がある。杉並南部を流れるこの神田川流域に限らず、杉並北部の妙法寺川や中部を流れる善福寺川流域を合わすと、杉並区内の縄文時代の遺跡の 数は200を越える、という。水辺の台地には古くから人が住んでいた、ということ、か。

和泉の歴史は古い。宝徳3年(1451年)の「上杉家文書」には和田、堀の内とともに泉(和泉)が武蔵国中野郷に属する、との記述がある。また、永禄2年(1559年)の「小田原衆所領役帳」には高井堂(高井戸)とともに永福寺(永福町)が中野郷に属すると考えられる記述があるそうだ。つまるところ、このあたり和泉・永福は平安時代までには村、というか、ちょっとした集落が成立していた、ということ。

貴船神社
熊野神社から時空散歩が少々拡がった。先に進む。熊野神社の台地下を少し北に進んだところに貴船神社。江戸時代から和泉熊野神社の末社。創建は文永年間(1264~75)とのこと。山城国貴船神社を農作雨の神として勧請したと伝えられる。祭神は「たかおかみ神」。この神は山または川にいる雨水をつかさどる竜神。雨乞い,止雨に霊力があるとのこと。
境内に「御手洗の池」。昔は和泉が湧き出ていた。で、それが「和泉」の地名の由来、となった。神田川の改修工事や宅地化の影響で昭和40年頃に水が枯れてしまった、とか。

龍光寺
熊野神社と坂道を隔てた台地上、貴族船神社と逆方向に泉湧山医王院・龍光寺。真言宗室生寺派の寺院。本尊は薬師如来立像で平安時代末期(十二世紀後半)の造立。開創は承安2年(1172年)、と伝えられる。
山号の「泉湧」は貴船神社の泉から。院号の「医王」は、本尊の薬師如来から。寺号の「龍光」は神田川の源流・井之頭池に棲む竜が川を下り、このあたりで雷鳴をともども、光を放って昇天したことに由来する、とか。
実際のところ、除夜の鐘のとき以外、このお寺さまに出かけたことはなかった。今回寺域に入り、造作の落ち着いた雰囲気に結構惹かれた。境内裏手には四国八十八箇所巡りもある。いいお寺さまであった。

文殊院
神田川脇の遊歩道に戻り、先に進む。北に進む神田川が東に向きを変える和泉4丁目の台地のうえに文殊院。本尊の弘法大師坐像は室町末期のもの、とか。縁起によると、寺の起こりは1600年。家康が駿府に開創。1627年に浅草に移り、1696年には港区白金台に。現在地に移ったのは大正9年、とのこと。都市計画にともなうお寺の移転のモデルケース、って感じがする。
神田川はこのお寺のあるあたりから環七に交差するあたりまで、標高差のある台地下を流れることになる。環七を越えた神田川は方南通りを尾根道とし、東に突き出た舌状台地に沿って北に迂回し、台地先端部で善福寺川と合流する。

方南通り

文殊院から台地を下り、神田川を越え「方南通り」へと台地の坂を登る。方南の由来は不明。ここら一帯が和田村の南の方、であったから、という説や、幕府の鷹場である野方領の南の方、などあれこれ。


ついでのことながら、「和田」の由来。地名の由来・「東京23区辞典」によると、「和田」って一般的には和田義盛の館に関係する、ってことだが、「わだ」には「川が湾曲したところ」といった意味がある、よう。
また、区画された田を町田・角田>枡田・舛田・升田>増田というのに対して、自然のままの「丸い田」のことを、丸田・円田・輪田、という。「輪」を縁起のよい「和」に置き換え>和田、との説も。
また、古来の地名「海田(あまだ)郷」が、「わだ」に転化した、という説も。ここの和田は、はてさてどれであろう、か。

方南通りから北に台地を下る。堀ノ内1丁目。すぐに善福寺川にあたる。この善福寺川は昨年、源流から歩いた。環八より上流は川筋にさしたる遊歩道もなく、少々難儀した。源流点は杉並の北西の端。善福寺池をはじまりとし、南東に向けて流れ、途中大きく蛇行を繰り返しながら、杉並区の東端で神田川に合流する。

杉並の地形
杉並の地形についてちょいとメモ。杉並区は標高30mから50mの武蔵野台地の中にある。西から東に向かってなだらかに標高が下がる。この台地を、前出の神田川、そしてこの善福寺川が気にとおくなるような年月をかけて浸食し、複雑な地形をつくる。
カシミールでつくった地形図を見る限りでは、川筋は周囲の台地より5mから10mほど削られた開析谷となっている。つまるところ杉並の地形とは、もともとの 武蔵野台地であった「平地」と、神田川と善福寺川及びそれらに流れ込む小さな川が掘り刻んだ谷筋の低地、そして、台地と谷筋との境界にある坂と、で形成されている、ということであろう。

堀ノ内熊野神社
善福寺川にかかる堀ノ内橋を渡り北に進む。堀ノ内熊野神社。旧堀ノ内村の鎮守。創建は文永4年(1267年)。戦国時代に「北条氏綱が上杉氏を破り江戸を略するや大いに社殿を修めて祝祭を行えり(豊多摩郡神社誌)」、と。本殿は安政4年(1857年)の建築。神社の前を東西に走る道は、中世の鎌倉街道と言われる。


向山遺跡
熊野神社のすぐ近く、神田川に沿って向山遺跡。古墳時代から近世にかけての集落跡、と。神田川とおなじく善福寺川筋にも多くの遺跡がある。堀ノ内には弥生から古墳時代を

中心とする複合遺跡・済美台遺跡。堀ノ内の隣の大宮地区には弥生時代末の大宮遺跡、松ノ木地区には古墳時代の松ノ木遺跡、といったように、川筋に沿って遺跡が点在する。

杉並の遺跡
縄文とか弥生とか古墳とか、いまひとつ興味がない。あまりに「遠すぎ」、リアリティがない、ということではある。が、ちょいと杉並の遺跡をまとめておく。
縄文前期には武蔵野台地最古の局部磨製石斧(約27,000年から30,000年前)を出土した高井戸東遺跡や下高井戸塚山遺跡など、神田川流域に多くの遺跡が見られる。また、妙正寺川の水源あたりには、縄文時代早期の井草遺跡が発見されている。神田川中流域には、縄文時代早創期(約12,000年前)の遺跡も発掘されている。縄文中期には、神田川流域の上にメモした塚山遺跡、善福寺川流域では松ノ木遺跡、後期には神田川流域にいくつかの遺跡が見つかっている。弥生時代には善福寺川流域の松ノ木・済美台など、神田川流域の鎌倉橋上遺跡など。いずれも直径100mを越す環濠集落を形成していた、と。古墳時代になると善福寺川流域にある大宮台地上に円形周溝墓が発見されている。6世紀前半にこの地を治めていた権力者の墓とのこと。

妙法寺
向山遺跡を離れ、環七に沿って北にすすむと妙法寺。寛永9年(1635年)の開創。元禄5年(1692年)、目黒碑文谷の法華寺より日蓮上人の木像を移して本尊とした。む?碑文谷の法華寺、ってあの円融寺、「不受不施」で物議をかましたあの円融寺 の旧名、である。
法華寺・円融寺のおさらい;もとは天台宗のお寺としてはじまったこの寺は、弘安6年(1283)日蓮宗に改宗。「法華寺」として世田谷城主吉良氏や徳川氏の保護を受け大寺院として約400年間大いに栄えた。
が、不受不施、つまりは、他宗派からは何も受けず、何も施さず、ただ信仰を同じくする人とのみ供に生きる、ってかたくなな教義のゆえ為政者からにらまれる。秀吉しかり。また、徳川幕府から大弾圧を受ける。
結果、元禄11年に法華寺は取り潰され、円融寺、となった、と。「目黒碑文谷の法華寺より日蓮上人の木像を移して本尊とした」って、その混乱・騒乱のときに起こった出来事ではなかろうか。

で、このご本尊は厄除けに霊験あらたか、ということで江戸市民の信仰をあつめ、堀ノ内の御祖師様、として大いに繁盛した、と。堂々とした仁王門、国重要文化財指定の鉄門などが知られる。

蓮華往生
ついでのことであるが、先日、種村季弘さんの『江戸東京<奇想>徘徊記;朝日文庫』を買った。その中に、「碑文谷の蓮華往生」って記事があった。法華寺の話である。
法華寺に限らず、日蓮宗のお寺には美男僧が多く、そのアイドル僧見たさに、女性の参拝が押し寄せた、と。まあ、これはご愛嬌。参拝客が押し寄せたのは、「蓮華往生」というイベントのため、というまことしやかな話もある。

蓮華往生とは、信仰故に即身成仏を願う信者を蓮華の台にのせ、信者が周りでお題目を唱えれば、日蓮のご法力で極楽往生できるというもの。が、実際は、蓮華台の花を閉じ、周囲からわからないようにして下から槍で突き殺していた、と。悲鳴は周囲の読経や鐘・太鼓の音にかき消され、わかるはずもなく。後は火葬し家族に引き渡すので、殺人の証拠もない。逆に家族は成仏を喜び多額の喜捨をした、と。その額、百両とも二百両とも言われている。が、その悪事も露見。首謀社の坊主・日附は遠島処分となった、と。
こういったスキャンダルもあり、法華寺が取り潰された、とか、そもそもこの蓮華往生などというスキャンダルは、不受不施の教義を嫌った当局のでっち上げ、といった説もあり、その上、悪事を見つけたのは一心太助、といった説もあり、なにがなんだか、わからなくなってきた。このあたりでメモを止める。

八丈島流人帳
とはいいながら、もう少々話を続ける。本日、青山学院大学に仕事で行く途中、青山通り沿いの古本屋で『八丈島流人帳;今川徳三(毎日新聞社)』を見つけた。中に、「不受不
施僧」という記事。元禄4年、26人の不受不施僧の流人の記録。また、元禄11年には8人の不受不施僧の記録があり、その中には「碑文谷 法華寺 日附」と記されている。遠島の理由;八カ年以前、悲田派お停止の説、誓詞まで仕り候ところ、あひ背き、(中略)改派の催しに同心いたし候段、重罪につき遠島仰せつけ候」、と。あれこれ襷が繋がっていく。

寺町

妙法寺での時空散歩、結構深掘り、と相成った。先を進む。妙法寺の北、青梅街道とのあいだには寺が集まり寺町をつくっている。いずれも明治の末から大正にか けて都心から移ってきたもの。このあたりの地名、堀ノ内って、中世の武士や在地領主の館のこと

。館の周囲には堀を巡らしていたので、この名前がついたのだろう。土居、も同じ意味、と。また、梅里は梅が多くあった。というわけではなく、青梅街道に近い、というだけのこと。

青梅街道
青梅街道って、慶長11年(1605年)、大久保長安が、青梅の成木・小曾木の石灰を江戸に運ぶために整備した道。江戸城の白壁の材料につかうため、とか。 青梅というか八王子の裏手の山々で石灰を取り出すために山を切り崩した跡を目にした。実際八王子や秩父を歩いて、切り崩された山々を目にしたこともあり、 おおいに実感。

西方寺
寺町を成行きで進むと西方寺(さいほう)に。慶長10年(1605年)、家光の弟、駿河大納言忠長が創立、と。もとは新宿駅北口あたりにあったが、大正9年にここに移る。境内にはマリア観音と呼ばれる石仏・キリシタン灯籠。また、明治の政商山口(山城屋)和助の墓がある。
山県有朋の推挙で一時巨万の富を得たが、生糸の暴落で公金返還できず陸軍省内で割腹し果てた。で、忠長卿って、二代将軍秀忠の子。幼少のころ国松とよばれ、溺愛される、と。が、結局は兄の竹千代こと家光が三代将軍に。忠長は甲斐そして駿河の国を拝領。が、故なきご乱行のため、甲府での蟄居。秀忠死後は家光より高崎閉塞の命が下され、高崎城にて自害して果てる。ご乱行の真意についてはあれこれ諸説あり。

桃園川緑道
西方寺を離れ、北に進み五日市街道入口交差点に。すこし西に進み、高円寺パル商店街を北に進む。駅のすこし手前にいかにも川筋跡といった遊歩道。これが桃園川緑道。先日、この川筋跡を西に、阿佐ヶ谷方面に辿った。水源は天沼あたり。次回、この水源からもう一度阿佐ヶ谷まで下り、メモしようと思う。今回はここより下流へ歩く予定。駅前のガード下にある古本屋でのんびりした後、さてさて、緑道を歩くことにする。メモは少々長くなったので、本日はこれで終了。川筋下りのメモは後日 記す。

日曜日, 9月 10, 2006

渋谷川水系散歩 Ⅳ ; 渋谷川から古川へと下る

港区を2回に渡り歩いた。が、いまひとつ土地勘がしっくりしない。であれば、台地を刻んで流れる渋谷川・古川にそって北から歩いてみよう、と考えた。開析された谷筋と尾根道のアップダウンを辿れば、なんとなく全体の姿がわかる、かと。(日曜日, 9月 10, 2006のブログを修正)


本日のルート:JR 渋谷駅>明治通り・渋谷警察署>金王八幡宮>金王神社前>八幡坂>明治通り・氷川橋>氷川神社>国学院大学前>白根記念渋谷郷土博物館・文学館>南郭坂・広尾高校前>羽澤ガーデン>チェコ大使館>祥雲寺>外苑西通り・広尾橋>天現寺>光林寺>五の橋>三光坂>池田山公園>JR五反田駅

渋谷駅
渋谷川が開渠となるのは渋谷駅前。六本木通りと明治通りが交差するあたり。京王井の頭線・渋谷駅で下車。渋谷警察署を目安に進む。東急・東横線のガードを超えたあたりに、コンクリートで固められた渋谷川。少々窮屈そう、ではある。渋谷川はこの先、恵比寿駅近くの渋谷橋あたりまで明治通りに沿って下る。が、ビルに囲まれた開渠路。散歩には少々味気ない。で、川筋を意識しながらも、東に盛り上がる台地に向かうことに。

金王八幡社
渋谷警察から明治通りを少し進み、台地に登る。台地を登りきったところに「金王八幡社」。創建は11世紀末に遡る。平家の祖・平高望の子孫・平武綱がつくった、と。源義家に従い戦った後三年の役で武名をあげた武綱は、この渋谷一帯を領地とする。で、この地に八幡宮をまつったのが「金王八幡宮」のはじまり。その後、武綱の孫・河崎重家の代に天皇より「渋谷」姓を賜る。当時は「渋谷八幡宮」と呼ばれていた。
「渋谷」の名前を賜った由来が一風変わっている。河崎重家が御所警護の際、取り押さえた賊の名前が「渋谷何某」。その功を称えた掘河院が「以降、渋谷と名乗るべし」といった、とか。倒した敵の名前を名乗るのは名誉なことであった、そうな。
何ゆえ「金王」、ということだが、あれこれ説がある。渋谷重家の子どもの名前・金王丸に由来する、との説もある。子供を求める重家が、八幡様にお祈り。「金剛夜叉明王」が妻女の体に宿る夢。正夢となり、無事男子を授かる。「金」剛夜叉明「王」の初めと終わりの字を取って「金王」と。少々,出来すぎている感もあり。


ついでに重家のその後;源義朝に従った保元の乱で殊勲大。その後、平治の乱では、義朝討ち死の報を義朝の妻女・常盤御前に伝え、重家はこの渋谷の地で出家。義朝の菩提をとむらう重家に転機が訪れたのは、頼朝が奥州の義経征伐の折り、重家に従軍を求めた時。頼朝の強い要望に断わりきれず参戦するも、常盤御前の子である義経を討つことはできず、戦いにおいて落命した、と。
この金王八幡社付近は渋谷城があったところ。小田原北条氏の武蔵進出の際の合戦で焼け落ちた。渋谷警察の裏にあたりには、古くは堀之内という地名があった、とか。この城址は台地の西端。眼前には水量豊かな渋谷川水系の川が行く筋も流れており、その水を引いた堀があったのだろう。

氷川神社
神社を離れ金王神社前交差点に進む。この道筋は青山学院の西側を下り、六本木通り・渋谷2丁目交差点を越えてくる。台地から渋谷川に向かっては金王神社前あたりから「八幡坂」となって下る。八幡坂を下り終えると明治通り・並木橋交差点。明治通りにそって次の交差点、渋谷川に氷川橋のかかる東交番前を台地方向に折れ、坂を登る。坂の途中で南に折れ、道なりに進むと「氷川神社」参道入口。

結構広い境内。4000坪程度あるようだ。鬱蒼とした緑の中に鎮座する。境内には相撲場。江戸郊外三大相撲のひとつ、金王相撲が開催されていた、とか。渋谷最古の神社とも言われる。何度かメモしたように、氷川神社は全国で261社。そのうち埼玉に162社。東京に68社といったふうに関東ローカルなお宮さま。本社は武蔵一ノ宮である大宮の氷川神社。出雲族の武蔵氏が武蔵国造となってこの地に移ってきたとき、氷川信仰が武蔵の地に普及した。「氷川」の名は出雲の「簸川;現在の斐伊川)」に由来する。もとは、荒川を簸川に見立て、畏敬の念をもって信仰していたのであろう。
氷川神社が祀られた村々はその成立が比較的古く、多くは関東ローム層の丘陵地帯に位置している。森林を開墾し谷の湿地を水田とした人たちが生活のより所として、氷川神社を建てたのであろう。氷川神社の祭祀圏は荒川西岸。香取神社の祭祀圏は荒川東岸ときっちりと分かれている。散歩を通してこのルールをはずしていたのは、北区・赤羽あたりに香取神社があった1件のみ。

白根記念渋谷区郷土博物館・文学館

氷川神社の北に國學院大學。國學院大學前交差点を進み常陸宮邸方向に進むと白根記念渋谷区郷土博物館・文学館。館内を一廻りし、『渋谷文化財マップ』『散策マップ』などを入手。一服しながら天現寺まで、つまりは港区までのルートを探す。郷土館から日赤通りに向かい、台地上の道を進み祥雲寺を経由して広尾、そして天現寺に至るコースがよさそう。




南郭坂

郷土館を離れ、國學院前交差点に戻る。そこからは南に折れ、広尾高校方面に進む。しばらく進むと広尾高校前交差点。台地を渋谷川方向に下りる坂は「南郭坂」。江戸中期の儒学者・服部南郭の別邸があったところ。16歳で和歌と絵画をもって柳沢吉保に仕える。荻生徂徠の高弟のひとり。経学の太宰春台に対し詩文の南郭と並び称された。古文辞学と詩を学ぶ。で、34歳で在野に下りこの地に「隠居」、とか。
古文辞学って、明の時代に流行った「文は秦漢、詩は盛唐」をよし、とする懐古主義の文学運動、とか。なんのことかよくわからんが、いまのところは、いまひとつ問題意識なし、をもって,よし、とする。とりあえず、高校時代に李白とか杜甫といった盛唐の詩歌を、わけもわからず覚えたのは、江戸期の古文辞学派が『唐詩選』を「有り難き物」とした賜物であろうか。勝手な解釈であり、正誤のほど定かならず。

いもり川
広尾高校前を東に折れ、広尾高校裏交差点を越え、坂を下る。あれ、このあたり、見覚えがある。羽澤ガーデン。元満州鉄道総裁の邸宅を使ったレストラン。結構利用した。が、どうも営業を終了したようだ。羽澤ガーデンあたりは谷地。昔は「いもり川」が流れていたよう。昔の地図には、「いもり橋」「小橋」「どんどん橋」といった名前がある。地図で見る限りでは、六本木通り・常陸宮邸あたりから、東4丁目の交差点(常陸宮邸前の五叉路)をとおり広尾2丁目、3丁目の低地を進み広尾2丁目で渋谷川に合流。合流点は渋谷川の恵比寿橋と新橋の間といったところ。

日赤通り

いもり川の谷筋から、ふたたび坂をのぼる。坂をのぼりきったところが日赤通り。日赤医療センターや聖心女子大の裏手を一直線に南に下る尾根道・台地道。このあたりは、堀田備中守(佐倉藩・千葉県)の下屋敷があったところ。
『江戸名所図会』などには、この広尾の原は一面のススキ。江戸時代の広尾は、麻布の西に広がる行楽地。将軍の鷹狩りや市民の土筆つみ・月見の里でもあった。広尾の原には「土筆が原」の別名もあった、とか。
下屋敷って、大名の別邸であったり、上屋敷への供給する菜園をもっていたり、海岸付近では荷揚げ場であったりと、その機能はいろいろ。上・中・下屋敷は江戸城からの距離をもってタグ付けされていた。お城から最も近いのが上屋敷、遠いのが下屋敷、である。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

祥雲寺

日赤通り・ チェコ大使館前を通り、しばらく進むと道は祥雲寺に阻まれ東西に分かれる。道なりに坂を西に下り、明治通り・広尾1丁目交差点、渋谷川にかかる新橋のあたりに出る。明治通りを東に少し進み祥雲寺に。
祥雲寺は黒田長政の嫡子・忠之が赤坂溜池の黒田家上屋敷内に建立した龍谷山興雲寺がもと。寛文6年(1666年)には麻布台に移り,瑞泉山祥雲寺と改める。 寛文8年(1668年)には江戸の大火により現在の地に移る。もともとは、黒田長政がなくなったとき、長政が深く帰依していた京都大徳寺の龍岳和尚を開山としたわけでもあり、境内には黒田家累代の墓とともに、墓標形として建てられた大きい長政の墓がある。
祥雲寺には、岡本玄冶の墓もある。岡本玄冶のことは中央区日本橋人形町を散歩したときにちょっとメモした。春日八郎の『お富さん』の歌に「粋な黒塀、。。。、えっさほう、玄治店(げんやだな)」がある。子供のころに覚えた歌をいまだに覚えている。その玄治店って、岡本玄冶が家主の長屋のこと。人形町の拝領屋敷を長屋にしていたのだろう。この玄冶さん、将軍秀忠・家光の侍医。千石取り、というから殿様並。家光が疱瘡を患ったとき、ものの見事に治療し評価を高めた。もっとも、玄治を今にその名を残す存在としらしめたのは、お富さんであり、切られ与三郎の登場する歌舞伎の舞台「与話情浮名横櫛」であることはいうまでもない。

広尾橋・笄川

寺を離れ、外苑西通りに出る。広尾橋交差点。広尾橋は、その昔、ここを流れていた「笄川(こうがいがわ)」にかかっていた橋。笄川は舌状台地となっている青山墓地の両脇の谷筋が源流点。途中、いく筋もの流れをあわせながら南下して天現寺橋で渋谷川に合流。渋谷川水系では宇田川に次ぐ規模の支流ではあった。1937年に大部分が暗渠に。部分的に各地に残っていた開渠も東京オリンピック前後までには完全に暗渠化されている。

天現寺橋交差点?・天現寺

少し南に進むと天現寺橋交差点。交差点脇に天現寺。臨済宗大徳寺派。天現寺橋は元々、笄川(こうがいがわ)に架かっていた橋の名前。現在の渋谷川に天現寺橋が架かっているが、元々は別の名前の橋だった、とか。
渋谷川の対岸に慶応幼稚舎ができて通学用に架け替えられた「慶応橋」と、その隣に市電用の橋梁が架けられたわけだが、二つの橋を合体した形で架け替えられるとき、天現寺橋の名が復活した、と。この橋を境に上流を渋谷川、下流を古川に分けられる。

光林寺

天現寺橋から渋谷川改め、古川を東に進む。すぐ光林寺に着く。オランダ人ヒュースケンの墓がある。安政3年(1856年)、ハリスとともに下田着。日米修好通商条約締結交渉に活躍し。渡航先のアメリカで、ドイツ語、フランス語等もできる語学力をかわれて日本に赴任。陽気闊達な性格であり、江戸滞留の外国人間で名を知られる。が、プロシア使節と日本側の通訳として通っていた「赤羽接遇所」からアメリカ公使館のあった麻布善福寺への帰途、「中の橋」のたもとで攘夷派の薩摩藩士の刃に倒れる。乗馬が好きで江戸城のあたりを闊歩していたのが、攘夷志士の気に障った、とも。1861年1月15日、28歳の若さであった。
善福寺ではなくこの光林寺に埋葬された理由は、善福寺は土葬を禁じていたため。この寺は土葬が可能であったわけだ。台地下の窪地に寺はあるが、台地も寺域となっており、境内はすこぶる広い。

池田山公園

光林寺からは東五反田の池田山公園を目指す。五の橋を渡り、白金3丁目を進み、三光坂下で大久保通りを越え、三光坂を登り、目黒通りに出る。このあたりはこれで3回目。結構土地勘ができてきた。目黒通りからは目白台3丁目の「三田用水跡」あたりを再び通り、上大崎1丁目の宅地を過ぎると、「池田山公園」にあたる。NTT東日本関東病院のすぐ裏手であった。

池田山公園は岡山藩池田家下屋敷跡。池田山公園自体は7,000平方メートルであるが、下屋敷自体は往時3.8万平方メートル。NTT東日本関東病院の敷地も下屋敷の一部であった。公園は窪地にあり、回遊式庭園となっている。三田上水を引き込んでいた、と。
ちなみに昔の大名屋敷で現在公園になっているところをメモする;戸越公園(熊本藩細川家)、白金の国立自然教育園(高松藩松平家)、小石川後楽園(水戸藩徳川家)、東京大学(金沢藩前田家)、芝離宮(小田原藩大久保家)、赤坂御所(紀州徳川家)、明治神宮(彦根藩井伊家)、戸山公園(尾張藩徳川家)、新宿御苑(高遠藩内藤家)、青山墓地(郡上藩青山家)など。
公園を離れ、公園に沿って上大崎1丁目と東五反田5丁目の境の坂道をのぼり、南に台地上を進む。「ねむの木の庭」前を通り、台地を下りJ
R五反田駅に到着。本日の予定終了。