先日、秩父・信州往還を信州最東端の川上村からはじめ、十文字峠を越えて秩父の栃本へと辿った。その道すがら、北杜市の小淵沢に移り住んだ元同僚宅を訪ねたのだが、あれこれの話の中から、雪が降る前に北杜市にある幾多の湧水と武田信玄が信濃侵攻のために整備したと伝わる「棒道」を歩きましょう、ということになった。
話のきっかけとなったのは平成24年(2012)10月24日付けの日経新聞に掲載された「戦国武将思い 歩く古道;山梨北杜市」の記事。「雑木林の間をぬう棒道には途中、石仏が点在する」といったキャプションのついた、観音像が佇む雑木林の写真の魅力もさることながら、フックがかかったのは棒道のスタート地点辺りにある「三分一湧水」の記事。信玄が下流の三つの村に均等に流れるように三方向に水路を分ける、とあった。
湧水フリークとしては、「三分一湧水からはじめ棒道を歩きましょう」、と話を切り出したのだが、M氏によれば、この辺りには三分一湧水だけでなく大滝湧水とか女取湧水など、湧水点が多数ある。と言う。また小淵沢近辺には幾多の温泉も点在するとのこと。小淵沢と言えば、清里や八ヶ岳への通過点としてしか認識していなかったので、少々の意外感とともに、湧水フリーク、古道フリークとしては湧水・古道が享受でき、かつまた温泉にも入れる、ということで早々に小淵沢再訪を決めたわけである。
今回のメンバーは十文字峠を共に越えた同僚のT氏と幾多の古道・用水を共に歩いたS氏。スケジュールを決めるに、行程は1泊2日。初日は東京を出発し、大滝湧水を訪ねた後、清里に移住した元同僚であり山のお師匠さんであるT氏宅にお邪魔。その後、甲斐駒ケ岳山麓の尾白沢傍にある尾白の湯でゆったりしM氏宅に滞在。2日目は小海線・甲斐小泉駅近くの三分一湧水からはじめ、棒道を歩き甲斐小泉駅に戻る、といったもの。旧友との再会、山のお師匠さんへのご無沙汰の挨拶、湧水、古道、そして温泉など、ゆったりとしたスケジュールで、嬉しきことのみ多かりき、の旅となった。
初日
本日のルート;中央線小淵沢>身曾岐(みそぎ)神社>大滝湧水>川俣 川>清里>釜無川>尾白の湯
小淵沢
新宿を出て、特急あずさに乗り、2時間ほどで小淵沢に。駅に迎えに来てくれた元同僚宅で少し休憩した後に大滝湧水に向かう。途中に身曾岐(みそぎ)神社があるとことで、ちょっと立ち寄り。境内に入るに、結構な構えではあるのだが、古き社の風情とは少し異なる、曰く言い難い「違和感」を感じる。というか資金の豊かな新興宗教の施設のように思える。
如何なる由来の社であろうかと境内を彷徨と「井上神社」の石碑があった。由来書を読むと、元は東上野にあった「井上神社」を昭和61年(1986)にこの地に移し、神社名も「身曾岐(みそぎ)神社」と。
井上神社とは?チェックすると、江戸末期の宗教家である井上正鐵が伝えた古神道の奥義「みそぎ」の行法並びに徳を伝えるべく、明治12年(1879)に弟子によって建てられたもの。これだけでは今一つ神社の姿がわからなかったのだが、境内を出るときに鳥居に「北川悠仁奉納」と刻まれていた。北川悠仁さんって、歌手、というか「ゆず」の北川さんだろう。どこかで北川悠仁のご家族が宗教活動をしている、といったことを聞きかじったことがある。であれば、なんとなくすべて納得。
大滝湧水
身曾岐神社を離れ南に下り、中央高速をくぐり、道を西に折れ県道608号を少し進み、中央線を越えて大滝神社の鳥居脇に駐車。参道の先には中央線があり、神社には線路下のトンネルをくぐって向かう。
大滝神社の社は鬱蒼とした杉林の崖面に鎮座する。社殿左手にある樋から大量の水が滝となって落ちる。大滝湧水であろう。石垣上の社殿は、ほぼ南東を向き、本殿は覆屋の中に鎮座する。案内板によると「武淳別命が当地巡視のおり、清水の湧出を御覧になり、農業の本、国民の生命、肇国の基礎と賞賛し自ら祭祀し大滝神社が起こったと伝えられる」とある。祭神の武淳別命(たけぬなわけのみこと)とは、『日本書紀』にある、崇神天皇によって、北陸、東海、西道、丹波の各方面に派遣された四道将軍のうち、東海に派遣された 武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)のことであろう、か。
社殿の西側には石祠が立ち並び、石祠の脇から崖面に急な石段があり、石段上には大きな磐座が鎮座している。仰ぎ見るに、磐座の辺りは如何にも荘厳な風情。石段の上り口には注連縄が低い位置に張られており、石段に足を踏み込むには少々恐れ多い雰囲気であり、一同顔を見合わせるも。結局、石段を上るのを止めにした。
で、せめて磐座に建てられた石碑の文字を読もうと思えども、どうしても読めない。それもそのはず、後からチェックするに「蠶影太神(こかげおおかみ)」と記されている、とか。「蠶」は「蚕」の旧字体。読めるわけもなかった。蠶影太神とは養蚕の神。つくば市の蠶影神社が世に知られる、と。
社殿にお参りし大滝湧水へ。その大滝湧水は崖面下の岩の間からわき出ていた。湧水点は何カ所もあり、その水を集め、太い丸太をくりぬいた樋を通し滝となって落ちる。圧倒的であり圧巻の水量である。「延命の水」とも称される大滝湧水の湧出量は、八ヶ岳南麓に幾多ある湧水の中でも最大の22,000トン/1日を誇る。木樋から滝となって落ちる下には山葵田があり、境内を少し離れた池ではニジマス、ヤマメの養殖がおこなわれているようである。釣り堀らしき施設も見受けられた。
湧水後背地の山林は滝山と称し江戸時代は御留林となっていた。水源涵養のため甲府代官が民有地を買い上げ、湧水の保全を図ったとのこと。此の地域の井戸水が濁ったとき大滝湧水を井戸水に注げば清澄な水になる、といった言い伝えの所以である。
八ヶ岳南麓高原湧水群
この大滝湧水に限らず、八ヶ岳の山麓には幾多の湧水がある。八ヶ岳の西側を除いた東側、というか南麓だけでも56箇所、名前のついている湧水だけでも28カ所もあるとのことである。これらの湧水を総称して、八ヶ岳南麓高原湧水群と称する。
何故に八ヶ岳山麓に湧水が多いのか?チェックすると、八ヶ岳の成り立ちが火山であったことにその要因があるとのこと。今は静かな山稜である八ヶ岳であるが、はるかな昔、この山は火山であった。フォッサマグナ(中央地溝帯)の東端(西端は新発田小出構造線または柏崎千葉構造線)である糸魚川・富士川構造線上にある八ヶ岳は、西端から東端までおよそ100キロにわたって8000mほど日本列島が一挙の落ち込み中央地溝帯ができたときに火山活動をはじめた火山群のひとつ。地溝帯が落ち込んだときにできた南北の断層を通り地下のマグマが上昇し火の山となったようである。八ヶ岳のひとつである阿弥陀岳など、今から20万年ほど前は富士山より高い山容であったが、大噴火で山容が一変した、とか。
火山と湧水の関係は?火山は「火の山」、と称されるのは当然であるが、同時に「水の山」とも称され、天然の貯水池ともなっている。その最大の要因は、火山は浸透力が非常に高い、ということにある。火山の山麓上部は溶岩帯であるが、この溶岩は水をよく透す。溶岩の浸透力が高いというのはちょっと意外ではあるが、溶岩の割れ目から水を透すようである。
また、火山の山麓は表土が浅く、火山礫や火山砕屑物が地表に現れている。そのため、水が地下に浸透しやすくなっている、とか。特に、八ヶ岳の山麓は氷河期と間氷期との間に巨大な湖が形成されたようであり、八ヶ岳山麓はその時に堆積した湖成層(湖ができたときにに堆積した砂層)からなっており、その浸透力は特に高い、とのことである。
こうして地表からどんどん浸透してきた水は地下水となり溶岩の中を通って火山の中に天然の貯水池をつくる。八ヶ岳の中には西側山麓に規模の大きい滞水層、東側山麓に少し規模の小さな帯水層がある、とか。山中に浸透し帯水層に溜まった水は溶岩中や泥質層の境目から地表に湧き出すことになるわけだが、八ヶ岳南麓湧水群は標高800から1,2000mと1,500mから1,600m地帯に点在する、とのこと。標高1,600m付近の湧水は浸透後2年から7年,標高1,200m付近の湧水は20年から30年、標高1,000m付近の湧水は50年60年かけて地表に湧き出る、とのことである。大滝湧水の標高は820mであるので、60年以上八ヶ岳の山中で濾過され湧き出たものではあろう。
川俣川渓谷
大滝湧水を離れ、清里に住むT氏宅に向かう。県道11号・八ヶ岳高原ライン を清里に進む途中に巨大な渓谷が現れる。渓谷は川俣川渓谷。渓谷には全長490m、谷の深さ110m、橋脚74mの八ヶ岳高原大橋が架かる。進行方向前面には八ヶ岳が聳える。
それにしても巨大な渓谷である。フォッサマグナの西端である糸魚川・富士川構造線は、このあたりを南北に続いているわけであり、フォッサマグナの断層かとも思ったのだが、それにしては渓谷の左右の段差が感じられないので断層ではないようである。チェックすると、この渓谷は今から20万年から25万年前に活発な火山活動を繰り返した八ヶ岳の噴火によってできた溶岩台地が八ヶ岳から湧き出る清流によって浸食されて形成されたもの。川俣川溶岩流と称される噴火で埋め尽くされた台地が、気の遠くなるような時間をかけて開析され、現在のような雄大化な渓谷をつくりあげたものだろう。
川俣川渓谷には渓谷に沿って遊歩道が整備されているようであり、「吐竜の滝」と称される湧水滝もあるようだ。湧水滝と言う意味合いは、湧水が透水層の下部にある岩屑流の地層との境目から滝として吐き出される、とのことである。因みに、岩屑流とは今から20万年から25万年前に火山活動の最盛期を迎えた八ヶ岳の最高峰阿弥陀岳が磐梯山のように山体崩壊を起こして発生したもの。厚さは最大200mにも達し、甲府盆地を覆い尽くして広がり,御坂山地の麓に広がる曽根丘陵にぶつかって止まるまで50㎞以上の距離を流れ下った、とのことである。
北杜市散歩2日目。天候は曇天の昨日とは打って変わり快晴。南には甲斐駒ケ岳を中心に南アルプスの山稜、その東には冠雪の富士、北東の方角には奥秩父の山々、北を見やると八ヶ岳が聳える。誠に素晴らしい景観である。小淵沢に移宅したM氏に限らず、八ヶ岳山麓に移り住む友人・知人が多いのだが、その理由の一端を垣間見た思いである。湧水フリークとしては、「三分一湧水からはじめ棒道を歩きましょう」、と話を切り出したのだが、M氏によれば、この辺りには三分一湧水だけでなく大滝湧水とか女取湧水など、湧水点が多数ある。と言う。また小淵沢近辺には幾多の温泉も点在するとのこと。小淵沢と言えば、清里や八ヶ岳への通過点としてしか認識していなかったので、少々の意外感とともに、湧水フリーク、古道フリークとしては湧水・古道が享受でき、かつまた温泉にも入れる、ということで早々に小淵沢再訪を決めたわけである。
今回のメンバーは十文字峠を共に越えた同僚のT氏と幾多の古道・用水を共に歩いたS氏。スケジュールを決めるに、行程は1泊2日。初日は東京を出発し、大滝湧水を訪ねた後、清里に移住した元同僚であり山のお師匠さんであるT氏宅にお邪魔。その後、甲斐駒ケ岳山麓の尾白沢傍にある尾白の湯でゆったりしM氏宅に滞在。2日目は小海線・甲斐小泉駅近くの三分一湧水からはじめ、棒道を歩き甲斐小泉駅に戻る、といったもの。旧友との再会、山のお師匠さんへのご無沙汰の挨拶、湧水、古道、そして温泉など、ゆったりとしたスケジュールで、嬉しきことのみ多かりき、の旅となった。
初日
本日のルート;中央線小淵沢>身曾岐(みそぎ)神社>大滝湧水>川俣 川>清里>釜無川>尾白の湯
小淵沢
新宿を出て、特急あずさに乗り、2時間ほどで小淵沢に。駅に迎えに来てくれた元同僚宅で少し休憩した後に大滝湧水に向かう。途中に身曾岐(みそぎ)神社があるとことで、ちょっと立ち寄り。境内に入るに、結構な構えではあるのだが、古き社の風情とは少し異なる、曰く言い難い「違和感」を感じる。というか資金の豊かな新興宗教の施設のように思える。
如何なる由来の社であろうかと境内を彷徨と「井上神社」の石碑があった。由来書を読むと、元は東上野にあった「井上神社」を昭和61年(1986)にこの地に移し、神社名も「身曾岐(みそぎ)神社」と。
井上神社とは?チェックすると、江戸末期の宗教家である井上正鐵が伝えた古神道の奥義「みそぎ」の行法並びに徳を伝えるべく、明治12年(1879)に弟子によって建てられたもの。これだけでは今一つ神社の姿がわからなかったのだが、境内を出るときに鳥居に「北川悠仁奉納」と刻まれていた。北川悠仁さんって、歌手、というか「ゆず」の北川さんだろう。どこかで北川悠仁のご家族が宗教活動をしている、といったことを聞きかじったことがある。であれば、なんとなくすべて納得。
大滝湧水
身曾岐神社を離れ南に下り、中央高速をくぐり、道を西に折れ県道608号を少し進み、中央線を越えて大滝神社の鳥居脇に駐車。参道の先には中央線があり、神社には線路下のトンネルをくぐって向かう。
大滝神社の社は鬱蒼とした杉林の崖面に鎮座する。社殿左手にある樋から大量の水が滝となって落ちる。大滝湧水であろう。石垣上の社殿は、ほぼ南東を向き、本殿は覆屋の中に鎮座する。案内板によると「武淳別命が当地巡視のおり、清水の湧出を御覧になり、農業の本、国民の生命、肇国の基礎と賞賛し自ら祭祀し大滝神社が起こったと伝えられる」とある。祭神の武淳別命(たけぬなわけのみこと)とは、『日本書紀』にある、崇神天皇によって、北陸、東海、西道、丹波の各方面に派遣された四道将軍のうち、東海に派遣された 武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)のことであろう、か。
社殿の西側には石祠が立ち並び、石祠の脇から崖面に急な石段があり、石段上には大きな磐座が鎮座している。仰ぎ見るに、磐座の辺りは如何にも荘厳な風情。石段の上り口には注連縄が低い位置に張られており、石段に足を踏み込むには少々恐れ多い雰囲気であり、一同顔を見合わせるも。結局、石段を上るのを止めにした。
で、せめて磐座に建てられた石碑の文字を読もうと思えども、どうしても読めない。それもそのはず、後からチェックするに「蠶影太神(こかげおおかみ)」と記されている、とか。「蠶」は「蚕」の旧字体。読めるわけもなかった。蠶影太神とは養蚕の神。つくば市の蠶影神社が世に知られる、と。
社殿にお参りし大滝湧水へ。その大滝湧水は崖面下の岩の間からわき出ていた。湧水点は何カ所もあり、その水を集め、太い丸太をくりぬいた樋を通し滝となって落ちる。圧倒的であり圧巻の水量である。「延命の水」とも称される大滝湧水の湧出量は、八ヶ岳南麓に幾多ある湧水の中でも最大の22,000トン/1日を誇る。木樋から滝となって落ちる下には山葵田があり、境内を少し離れた池ではニジマス、ヤマメの養殖がおこなわれているようである。釣り堀らしき施設も見受けられた。
湧水後背地の山林は滝山と称し江戸時代は御留林となっていた。水源涵養のため甲府代官が民有地を買い上げ、湧水の保全を図ったとのこと。此の地域の井戸水が濁ったとき大滝湧水を井戸水に注げば清澄な水になる、といった言い伝えの所以である。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23業使、第631号)」)
八ヶ岳南麓高原湧水群
この大滝湧水に限らず、八ヶ岳の山麓には幾多の湧水がある。八ヶ岳の西側を除いた東側、というか南麓だけでも56箇所、名前のついている湧水だけでも28カ所もあるとのことである。これらの湧水を総称して、八ヶ岳南麓高原湧水群と称する。
何故に八ヶ岳山麓に湧水が多いのか?チェックすると、八ヶ岳の成り立ちが火山であったことにその要因があるとのこと。今は静かな山稜である八ヶ岳であるが、はるかな昔、この山は火山であった。フォッサマグナ(中央地溝帯)の東端(西端は新発田小出構造線または柏崎千葉構造線)である糸魚川・富士川構造線上にある八ヶ岳は、西端から東端までおよそ100キロにわたって8000mほど日本列島が一挙の落ち込み中央地溝帯ができたときに火山活動をはじめた火山群のひとつ。地溝帯が落ち込んだときにできた南北の断層を通り地下のマグマが上昇し火の山となったようである。八ヶ岳のひとつである阿弥陀岳など、今から20万年ほど前は富士山より高い山容であったが、大噴火で山容が一変した、とか。
火山と湧水の関係は?火山は「火の山」、と称されるのは当然であるが、同時に「水の山」とも称され、天然の貯水池ともなっている。その最大の要因は、火山は浸透力が非常に高い、ということにある。火山の山麓上部は溶岩帯であるが、この溶岩は水をよく透す。溶岩の浸透力が高いというのはちょっと意外ではあるが、溶岩の割れ目から水を透すようである。
また、火山の山麓は表土が浅く、火山礫や火山砕屑物が地表に現れている。そのため、水が地下に浸透しやすくなっている、とか。特に、八ヶ岳の山麓は氷河期と間氷期との間に巨大な湖が形成されたようであり、八ヶ岳山麓はその時に堆積した湖成層(湖ができたときにに堆積した砂層)からなっており、その浸透力は特に高い、とのことである。
こうして地表からどんどん浸透してきた水は地下水となり溶岩の中を通って火山の中に天然の貯水池をつくる。八ヶ岳の中には西側山麓に規模の大きい滞水層、東側山麓に少し規模の小さな帯水層がある、とか。山中に浸透し帯水層に溜まった水は溶岩中や泥質層の境目から地表に湧き出すことになるわけだが、八ヶ岳南麓湧水群は標高800から1,2000mと1,500mから1,600m地帯に点在する、とのこと。標高1,600m付近の湧水は浸透後2年から7年,標高1,200m付近の湧水は20年から30年、標高1,000m付近の湧水は50年60年かけて地表に湧き出る、とのことである。大滝湧水の標高は820mであるので、60年以上八ヶ岳の山中で濾過され湧き出たものではあろう。
川俣川渓谷
大滝湧水を離れ、清里に住むT氏宅に向かう。県道11号・八ヶ岳高原ライン を清里に進む途中に巨大な渓谷が現れる。渓谷は川俣川渓谷。渓谷には全長490m、谷の深さ110m、橋脚74mの八ヶ岳高原大橋が架かる。進行方向前面には八ヶ岳が聳える。
それにしても巨大な渓谷である。フォッサマグナの西端である糸魚川・富士川構造線は、このあたりを南北に続いているわけであり、フォッサマグナの断層かとも思ったのだが、それにしては渓谷の左右の段差が感じられないので断層ではないようである。チェックすると、この渓谷は今から20万年から25万年前に活発な火山活動を繰り返した八ヶ岳の噴火によってできた溶岩台地が八ヶ岳から湧き出る清流によって浸食されて形成されたもの。川俣川溶岩流と称される噴火で埋め尽くされた台地が、気の遠くなるような時間をかけて開析され、現在のような雄大化な渓谷をつくりあげたものだろう。
川俣川渓谷には渓谷に沿って遊歩道が整備されているようであり、「吐竜の滝」と称される湧水滝もあるようだ。湧水滝と言う意味合いは、湧水が透水層の下部にある岩屑流の地層との境目から滝として吐き出される、とのことである。因みに、岩屑流とは今から20万年から25万年前に火山活動の最盛期を迎えた八ヶ岳の最高峰阿弥陀岳が磐梯山のように山体崩壊を起こして発生したもの。厚さは最大200mにも達し、甲府盆地を覆い尽くして広がり,御坂山地の麓に広がる曽根丘陵にぶつかって止まるまで50㎞以上の距離を流れ下った、とのことである。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23業使、第631号)」)
釜無川
清里のT氏宅でしばし時を過ごし、本日の最後の目的地である尾白の湯に向かう。尾白の湯は八ヶ岳および茅ヶ岳山麓に広がる火山性の台地部分と南アルプス山麓の沖積平野を区切る釜無川の南、旧甲州街道・台ケ原宿の近くにある。県道28号を南に下り、中央道長坂IC辺りまで戻り、その後の道順は運転手M氏任せ故に定かではないが、ともあれ、釜無川の谷筋に向かってどんどん下る。 釜無川の両岸は大きな河岸段丘が作られている。大滝神社の標高が860m、釜無川の川床の標高が630mであるので、中央線の走る台地あたりから直線で2キロ強を200mほど下ることになる。幾層もの段丘面と段丘崖によって形作られているのであろう。緩やかに下る段丘面と釜無川の谷筋、そしてその南に広がる沖積平野と更にその南に聳える南アルプスの山稜。誠に美しい。
釜無川は南アルプス北端、鋸岳に源流を発し、当初北東に向かって流れ、その後中央線信濃境駅の西で南東へと直角にその流路を変え、甲府盆地に入って笛吹川と合流する。笛吹川と合流するまでの流長61キロを釜無川と呼ぶが、河川台帳の上では富士川となっている。専門家でもないので詳しくはわからないが、源流部から北東に向かうのは釜無川断層に沿って流れ、南東に方向を変えて甲府盆地へと向かうのは糸魚川静岡構造線に沿って下っている、とか。
「釜無」の由来については「甲斐国志」をはじめ各種の説があり、下流に深潭(釜)がないので釜無川、河が温かいので釜でたく必要がない、河川のはんらんがないので釜無など。しかし巨摩地方を貫流する第一の川という意味で巨摩の兄(せ)川がなまったと見るべきであろう。明治時代から水害が続き、1959(昭和34)年の7号、伊勢湾台風では大きな被害を受けた。韮崎市南端の舟山には舟山河岸の碑があるが、明治中期まで舟運があった証拠である。 釜無川の由来は、下流に「深い淵(釜)」が無いから、とか、巨摩地方を流れる第一の河川>巨摩の兄(せ)>釜無、など諸説ある。
少々脱線するが、釜無川の川筋をチェックしていると、富士見の辺りで釜無川に合わさる支流の上流部が、宮川の支流の上流部と異常に接近している。釜無川は富士川水系、宮川は天竜川水系である。大平地区を流れる釜無川の支流の一筋北の支流と、同じく大平地区を流れる名もなき宮川支流の間は100mもないように見える。これが天下の富士川、天竜川の分水界であろうが、それにしてもささやかな分水界(平行流間分水界)である。
断線ついでに、釜無川から分水される用水路があるが、この水は宮川水系へと流れているようである。分水界を越えた水のやり取りとは、なかなか面白い。これを水中分水界と呼ぶようだが、水中分水界はここだけでなく(、釜無川の支流の立場川には山麓に「立場堰」が造られており、そこで分水された水は宮川水系へと流れている(『意外な水源・不思議な分水;堀淳一(東京書籍)』)。
旧中山道台ケ原宿
釜無川の谷筋に下り、国道20号を西に向かう。国道は釜無川とその支流である尾白川に挟まれた台地を進む。道は程なく旧中山道台ケ原宿に。国道を外れ旧道に入り、古き宿場の雰囲気を楽しむ。もう日も暮れ、時間もないので、M氏の案内で北原家と金精軒に。ふたつとも古き宿場の趣を伝える。北原家は寛延3年(1750)年創業。260年の伝統をもつ造り酒屋。「七賢」との銘柄の名前の由来は、天保6年(1835)に信州高遠城主内藤駿河守より「竹林の七賢人」の欄間一対を贈られたことによる、と。金精軒は明治36年(1903)創業。「信玄餅」は金精軒の商標登録、とか。因みに「台ケ原」の由来は「此の地高く平らにして台盤の如し」との地形より。
尾白の湯
台ケ原宿を離れ、尾白川に沿って南アルプスの山麓へと向かう。尾白の由来は「甲斐の黒駒」から。甲斐駒ケ岳東麓に産する黒駒は、馬体が黒く鬣(たてがみ)と尾が白く神馬として朝廷に献上されていた、と。
ほどなく尾白の湯。平成18年(2006)創業開始の新しい温泉。「温泉の成分は日本最高級を誇るナトリウム・塩化物強塩温泉」「イン含有量が1kg当たり31,600mgで、有馬温泉に匹敵する日本一の高濃度温泉」などとある。脱衣場には『大地ロマンの湯 本温泉は、プレート運動による大変動のドラマにより生まれた、大展望と超高濃度の温泉であり、大地の神様『ガイヤ』が授けてくれた『地球の体液』と呼んで良いような最高級の温泉相である(大月短期大学の名誉教授 田中収)』ともあった。ともあれ尾白川の地底1500mから湧き出るマグマの賜物であろう。古くから有名な有馬温泉と同じ『塩化物強塩温泉』の源泉(赤湯)は露天風呂だけあとは全て水で10倍に薄めた湯を使っているのとことであった。
有難味はよくわからないが、とりあえずゆったりと温泉に浸る。それにしても小淵沢近辺には温泉が多くある。パンフレットを見ると「フォッサマグナの湯」とか「延命の湯」とか10以上もある。なんとなく、そんなに古そうではないようではある。昨今の日帰り温泉ブームの影響だろう、か。 北杜市散歩の初日はこれでおしまい。散歩することはほとんどなかったが、湧水と八ヶ岳の関係とか、釜無川の段丘面とか、地形フリークには嬉しい一日ではあった。
清里のT氏宅でしばし時を過ごし、本日の最後の目的地である尾白の湯に向かう。尾白の湯は八ヶ岳および茅ヶ岳山麓に広がる火山性の台地部分と南アルプス山麓の沖積平野を区切る釜無川の南、旧甲州街道・台ケ原宿の近くにある。県道28号を南に下り、中央道長坂IC辺りまで戻り、その後の道順は運転手M氏任せ故に定かではないが、ともあれ、釜無川の谷筋に向かってどんどん下る。 釜無川の両岸は大きな河岸段丘が作られている。大滝神社の標高が860m、釜無川の川床の標高が630mであるので、中央線の走る台地あたりから直線で2キロ強を200mほど下ることになる。幾層もの段丘面と段丘崖によって形作られているのであろう。緩やかに下る段丘面と釜無川の谷筋、そしてその南に広がる沖積平野と更にその南に聳える南アルプスの山稜。誠に美しい。
釜無川は南アルプス北端、鋸岳に源流を発し、当初北東に向かって流れ、その後中央線信濃境駅の西で南東へと直角にその流路を変え、甲府盆地に入って笛吹川と合流する。笛吹川と合流するまでの流長61キロを釜無川と呼ぶが、河川台帳の上では富士川となっている。専門家でもないので詳しくはわからないが、源流部から北東に向かうのは釜無川断層に沿って流れ、南東に方向を変えて甲府盆地へと向かうのは糸魚川静岡構造線に沿って下っている、とか。
「釜無」の由来については「甲斐国志」をはじめ各種の説があり、下流に深潭(釜)がないので釜無川、河が温かいので釜でたく必要がない、河川のはんらんがないので釜無など。しかし巨摩地方を貫流する第一の川という意味で巨摩の兄(せ)川がなまったと見るべきであろう。明治時代から水害が続き、1959(昭和34)年の7号、伊勢湾台風では大きな被害を受けた。韮崎市南端の舟山には舟山河岸の碑があるが、明治中期まで舟運があった証拠である。 釜無川の由来は、下流に「深い淵(釜)」が無いから、とか、巨摩地方を流れる第一の河川>巨摩の兄(せ)>釜無、など諸説ある。
少々脱線するが、釜無川の川筋をチェックしていると、富士見の辺りで釜無川に合わさる支流の上流部が、宮川の支流の上流部と異常に接近している。釜無川は富士川水系、宮川は天竜川水系である。大平地区を流れる釜無川の支流の一筋北の支流と、同じく大平地区を流れる名もなき宮川支流の間は100mもないように見える。これが天下の富士川、天竜川の分水界であろうが、それにしてもささやかな分水界(平行流間分水界)である。
断線ついでに、釜無川から分水される用水路があるが、この水は宮川水系へと流れているようである。分水界を越えた水のやり取りとは、なかなか面白い。これを水中分水界と呼ぶようだが、水中分水界はここだけでなく(、釜無川の支流の立場川には山麓に「立場堰」が造られており、そこで分水された水は宮川水系へと流れている(『意外な水源・不思議な分水;堀淳一(東京書籍)』)。
旧中山道台ケ原宿
釜無川の谷筋に下り、国道20号を西に向かう。国道は釜無川とその支流である尾白川に挟まれた台地を進む。道は程なく旧中山道台ケ原宿に。国道を外れ旧道に入り、古き宿場の雰囲気を楽しむ。もう日も暮れ、時間もないので、M氏の案内で北原家と金精軒に。ふたつとも古き宿場の趣を伝える。北原家は寛延3年(1750)年創業。260年の伝統をもつ造り酒屋。「七賢」との銘柄の名前の由来は、天保6年(1835)に信州高遠城主内藤駿河守より「竹林の七賢人」の欄間一対を贈られたことによる、と。金精軒は明治36年(1903)創業。「信玄餅」は金精軒の商標登録、とか。因みに「台ケ原」の由来は「此の地高く平らにして台盤の如し」との地形より。
尾白の湯
台ケ原宿を離れ、尾白川に沿って南アルプスの山麓へと向かう。尾白の由来は「甲斐の黒駒」から。甲斐駒ケ岳東麓に産する黒駒は、馬体が黒く鬣(たてがみ)と尾が白く神馬として朝廷に献上されていた、と。
ほどなく尾白の湯。平成18年(2006)創業開始の新しい温泉。「温泉の成分は日本最高級を誇るナトリウム・塩化物強塩温泉」「イン含有量が1kg当たり31,600mgで、有馬温泉に匹敵する日本一の高濃度温泉」などとある。脱衣場には『大地ロマンの湯 本温泉は、プレート運動による大変動のドラマにより生まれた、大展望と超高濃度の温泉であり、大地の神様『ガイヤ』が授けてくれた『地球の体液』と呼んで良いような最高級の温泉相である(大月短期大学の名誉教授 田中収)』ともあった。ともあれ尾白川の地底1500mから湧き出るマグマの賜物であろう。古くから有名な有馬温泉と同じ『塩化物強塩温泉』の源泉(赤湯)は露天風呂だけあとは全て水で10倍に薄めた湯を使っているのとことであった。
有難味はよくわからないが、とりあえずゆったりと温泉に浸る。それにしても小淵沢近辺には温泉が多くある。パンフレットを見ると「フォッサマグナの湯」とか「延命の湯」とか10以上もある。なんとなく、そんなに古そうではないようではある。昨今の日帰り温泉ブームの影響だろう、か。 北杜市散歩の初日はこれでおしまい。散歩することはほとんどなかったが、湧水と八ヶ岳の関係とか、釜無川の段丘面とか、地形フリークには嬉しい一日ではあった。