火曜日, 2月 05, 2013

北杜市散歩:そのⅠ・八ヶ岳南麓の湧水から始め信玄の棒道を辿る

北杜市散歩:そのⅠ・八ヶ岳南麓の湧水から始め信玄の棒道を辿る

 先日、秩父・信州往還を信州最東端の川上村からはじめ、十文字峠を越えて秩父の栃本へと辿った。その道すがら、北杜市の小淵沢に移り住んだ元同僚宅を訪ねたのだが、あれこれの話の中から、雪が降る前に北杜市にある幾多の湧水と武田信玄が信濃侵攻のために整備したと伝わる「棒道」を歩きましょう、ということになった。

話のきっかけとなったのは平成24年(2012)10月24日付けの日経新聞に掲載された「戦国武将思い 歩く古道;山梨北杜市」の記事。「雑木林の間をぬう棒道には途中、石仏が点在する」といったキャプションのついた、観音像が佇む雑木林の写真の魅力もさることながら、フックがかかったのは棒道のスタート地点辺りにある「三分一湧水」の記事。信玄が下流の三つの村に均等に流れるように三方向に水路を分ける、とあった。
湧水フリークとしては、「三分一湧水からはじめ棒道を歩きましょう」、と話を切り出したのだが、M氏によれば、この辺りには三分一湧水だけでなく大滝湧水とか女取湧水など、湧水点が多数ある。と言う。また小淵沢近辺には幾多の温泉も点在するとのこと。小淵沢と言えば、清里や八ヶ岳への通過点としてしか認識していなかったので、少々の意外感とともに、湧水フリーク、古道フリークとしては湧水・古道が享受でき、かつまた温泉にも入れる、ということで早々に小淵沢再訪を決めたわけである。
今回のメンバーは十文字峠を共に越えた同僚のT氏と幾多の古道・用水を共に歩いたS氏。スケジュールを決めるに、行程は1泊2日。初日は東京を出発し、大滝湧水を訪ねた後、清里に移住した元同僚であり山のお師匠さんであるT氏宅にお邪魔。その後、甲斐駒ケ岳山麓の尾白沢傍にある尾白の湯でゆったりしM氏宅に滞在。2日目は小海線・甲斐小泉駅近くの三分一湧水からはじめ、棒道を歩き甲斐小泉駅に戻る、といったもの。旧友との再会、山のお師匠さんへのご無沙汰の挨拶、湧水、古道、そして温泉など、ゆったりとしたスケジュールで、嬉しきことのみ多かりき、の旅となった。

初日
本日のルート;中央線小淵沢>身曾岐(みそぎ)神社>大滝湧水>川俣 川>清里>釜無川>尾白の湯

小淵沢
新宿を出て、特急あずさに乗り、2時間ほどで小淵沢に。駅に迎えに来てくれた元同僚宅で少し休憩した後に大滝湧水に向かう。途中に身曾岐(みそぎ)神社があるとことで、ちょっと立ち寄り。境内に入るに、結構な構えではあるのだが、古き社の風情とは少し異なる、曰く言い難い「違和感」を感じる。というか資金の豊かな新興宗教の施設のように思える。
如何なる由来の社であろうかと境内を彷徨と「井上神社」の石碑があった。由来書を読むと、元は東上野にあった「井上神社」を昭和61年(1986)にこの地に移し、神社名も「身曾岐(みそぎ)神社」と。
井上神社とは?チェックすると、江戸末期の宗教家である井上正鐵が伝えた古神道の奥義「みそぎ」の行法並びに徳を伝えるべく、明治12年(1879)に弟子によって建てられたもの。これだけでは今一つ神社の姿がわからなかったのだが、境内を出るときに鳥居に「北川悠仁奉納」と刻まれていた。北川悠仁さんって、歌手、というか「ゆず」の北川さんだろう。どこかで北川悠仁のご家族が宗教活動をしている、といったことを聞きかじったことがある。であれば、なんとなくすべて納得。

大滝湧水
身曾岐神社を離れ南に下り、中央高速をくぐり、道を西に折れ県道608号を少し進み、中央線を越えて大滝神社の鳥居脇に駐車。参道の先には中央線があり、神社には線路下のトンネルをくぐって向かう。
大滝神社の社は鬱蒼とした杉林の崖面に鎮座する。社殿左手にある樋から大量の水が滝となって落ちる。大滝湧水であろう。石垣上の社殿は、ほぼ南東を向き、本殿は覆屋の中に鎮座する。案内板によると「武淳別命が当地巡視のおり、清水の湧出を御覧になり、農業の本、国民の生命、肇国の基礎と賞賛し自ら祭祀し大滝神社が起こったと伝えられる」とある。祭神の武淳別命(たけぬなわけのみこと)とは、『日本書紀』にある、崇神天皇によって、北陸、東海、西道、丹波の各方面に派遣された四道将軍のうち、東海に派遣された 武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)のことであろう、か。
社殿の西側には石祠が立ち並び、石祠の脇から崖面に急な石段があり、石段上には大きな磐座が鎮座している。仰ぎ見るに、磐座の辺りは如何にも荘厳な風情。石段の上り口には注連縄が低い位置に張られており、石段に足を踏み込むには少々恐れ多い雰囲気であり、一同顔を見合わせるも。結局、石段を上るのを止めにした。
で、せめて磐座に建てられた石碑の文字を読もうと思えども、どうしても読めない。それもそのはず、後からチェックするに「蠶影太神(こかげおおかみ)」と記されている、とか。「蠶」は「蚕」の旧字体。読めるわけもなかった。蠶影太神とは養蚕の神。つくば市の蠶影神社が世に知られる、と。
社殿にお参りし大滝湧水へ。その大滝湧水は崖面下の岩の間からわき出ていた。湧水点は何カ所もあり、その水を集め、太い丸太をくりぬいた樋を通し滝となって落ちる。圧倒的であり圧巻の水量である。「延命の水」とも称される大滝湧水の湧出量は、八ヶ岳南麓に幾多ある湧水の中でも最大の22,000トン/1日を誇る。木樋から滝となって落ちる下には山葵田があり、境内を少し離れた池ではニジマス、ヤマメの養殖がおこなわれているようである。釣り堀らしき施設も見受けられた。
湧水後背地の山林は滝山と称し江戸時代は御留林となっていた。水源涵養のため甲府代官が民有地を買い上げ、湧水の保全を図ったとのこと。此の地域の井戸水が濁ったとき大滝湧水を井戸水に注げば清澄な水になる、といった言い伝えの所以である。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23業使、第631号)」)

八ヶ岳南麓高原湧水群
この大滝湧水に限らず、八ヶ岳の山麓には幾多の湧水がある。八ヶ岳の西側を除いた東側、というか南麓だけでも56箇所、名前のついている湧水だけでも28カ所もあるとのことである。これらの湧水を総称して、八ヶ岳南麓高原湧水群と称する。
何故に八ヶ岳山麓に湧水が多いのか?チェックすると、八ヶ岳の成り立ちが火山であったことにその要因があるとのこと。今は静かな山稜である八ヶ岳であるが、はるかな昔、この山は火山であった。フォッサマグナ(中央地溝帯)の東端(西端は新発田小出構造線または柏崎千葉構造線)である糸魚川・富士川構造線上にある八ヶ岳は、西端から東端までおよそ100キロにわたって8000mほど日本列島が一挙の落ち込み中央地溝帯ができたときに火山活動をはじめた火山群のひとつ。地溝帯が落ち込んだときにできた南北の断層を通り地下のマグマが上昇し火の山となったようである。八ヶ岳のひとつである阿弥陀岳など、今から20万年ほど前は富士山より高い山容であったが、大噴火で山容が一変した、とか。
火山と湧水の関係は?火山は「火の山」、と称されるのは当然であるが、同時に「水の山」とも称され、天然の貯水池ともなっている。その最大の要因は、火山は浸透力が非常に高い、ということにある。火山の山麓上部は溶岩帯であるが、この溶岩は水をよく透す。溶岩の浸透力が高いというのはちょっと意外ではあるが、溶岩の割れ目から水を透すようである。
また、火山の山麓は表土が浅く、火山礫や火山砕屑物が地表に現れている。そのため、水が地下に浸透しやすくなっている、とか。特に、八ヶ岳の山麓は氷河期と間氷期との間に巨大な湖が形成されたようであり、八ヶ岳山麓はその時に堆積した湖成層(湖ができたときにに堆積した砂層)からなっており、その浸透力は特に高い、とのことである。
こうして地表からどんどん浸透してきた水は地下水となり溶岩の中を通って火山の中に天然の貯水池をつくる。八ヶ岳の中には西側山麓に規模の大きい滞水層、東側山麓に少し規模の小さな帯水層がある、とか。山中に浸透し帯水層に溜まった水は溶岩中や泥質層の境目から地表に湧き出すことになるわけだが、八ヶ岳南麓湧水群は標高800から1,2000mと1,500mから1,600m地帯に点在する、とのこと。標高1,600m付近の湧水は浸透後2年から7年,標高1,200m付近の湧水は20年から30年、標高1,000m付近の湧水は50年60年かけて地表に湧き出る、とのことである。大滝湧水の標高は820mであるので、60年以上八ヶ岳の山中で濾過され湧き出たものではあろう。

川俣川渓谷
大滝湧水を離れ、清里に住むT氏宅に向かう。県道11号・八ヶ岳高原ライン を清里に進む途中に巨大な渓谷が現れる。渓谷は川俣川渓谷。渓谷には全長490m、谷の深さ110m、橋脚74mの八ヶ岳高原大橋が架かる。進行方向前面には八ヶ岳が聳える。
それにしても巨大な渓谷である。フォッサマグナの西端である糸魚川・富士川構造線は、このあたりを南北に続いているわけであり、フォッサマグナの断層かとも思ったのだが、それにしては渓谷の左右の段差が感じられないので断層ではないようである。チェックすると、この渓谷は今から20万年から25万年前に活発な火山活動を繰り返した八ヶ岳の噴火によってできた溶岩台地が八ヶ岳から湧き出る清流によって浸食されて形成されたもの。川俣川溶岩流と称される噴火で埋め尽くされた台地が、気の遠くなるような時間をかけて開析され、現在のような雄大化な渓谷をつくりあげたものだろう。
川俣川渓谷には渓谷に沿って遊歩道が整備されているようであり、「吐竜の滝」と称される湧水滝もあるようだ。湧水滝と言う意味合いは、湧水が透水層の下部にある岩屑流の地層との境目から滝として吐き出される、とのことである。因みに、岩屑流とは今から20万年から25万年前に火山活動の最盛期を迎えた八ヶ岳の最高峰阿弥陀岳が磐梯山のように山体崩壊を起こして発生したもの。厚さは最大200mにも達し、甲府盆地を覆い尽くして広がり,御坂山地の麓に広がる曽根丘陵にぶつかって止まるまで50㎞以上の距離を流れ下った、とのことである。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23業使、第631号)」)
釜無川
清里のT氏宅でしばし時を過ごし、本日の最後の目的地である尾白の湯に向かう。尾白の湯は八ヶ岳および茅ヶ岳山麓に広がる火山性の台地部分と南アルプス山麓の沖積平野を区切る釜無川の南、旧甲州街道・台ケ原宿の近くにある。県道28号を南に下り、中央道長坂IC辺りまで戻り、その後の道順は運転手M氏任せ故に定かではないが、ともあれ、釜無川の谷筋に向かってどんどん下る。 釜無川の両岸は大きな河岸段丘が作られている。大滝神社の標高が860m、釜無川の川床の標高が630mであるので、中央線の走る台地あたりから直線で2キロ強を200mほど下ることになる。幾層もの段丘面と段丘崖によって形作られているのであろう。緩やかに下る段丘面と釜無川の谷筋、そしてその南に広がる沖積平野と更にその南に聳える南アルプスの山稜。誠に美しい。
釜無川は南アルプス北端、鋸岳に源流を発し、当初北東に向かって流れ、その後中央線信濃境駅の西で南東へと直角にその流路を変え、甲府盆地に入って笛吹川と合流する。笛吹川と合流するまでの流長61キロを釜無川と呼ぶが、河川台帳の上では富士川となっている。専門家でもないので詳しくはわからないが、源流部から北東に向かうのは釜無川断層に沿って流れ、南東に方向を変えて甲府盆地へと向かうのは糸魚川静岡構造線に沿って下っている、とか。

「釜無」の由来については「甲斐国志」をはじめ各種の説があり、下流に深潭(釜)がないので釜無川、河が温かいので釜でたく必要がない、河川のはんらんがないので釜無など。しかし巨摩地方を貫流する第一の川という意味で巨摩の兄(せ)川がなまったと見るべきであろう。明治時代から水害が続き、1959(昭和34)年の7号、伊勢湾台風では大きな被害を受けた。韮崎市南端の舟山には舟山河岸の碑があるが、明治中期まで舟運があった証拠である。 釜無川の由来は、下流に「深い淵(釜)」が無いから、とか、巨摩地方を流れる第一の河川>巨摩の兄(せ)>釜無、など諸説ある。

少々脱線するが、釜無川の川筋をチェックしていると、富士見の辺りで釜無川に合わさる支流の上流部が、宮川の支流の上流部と異常に接近している。釜無川は富士川水系、宮川は天竜川水系である。大平地区を流れる釜無川の支流の一筋北の支流と、同じく大平地区を流れる名もなき宮川支流の間は100mもないように見える。これが天下の富士川、天竜川の分水界であろうが、それにしてもささやかな分水界(平行流間分水界)である。
断線ついでに、釜無川から分水される用水路があるが、この水は宮川水系へと流れているようである。分水界を越えた水のやり取りとは、なかなか面白い。これを水中分水界と呼ぶようだが、水中分水界はここだけでなく(、釜無川の支流の立場川には山麓に「立場堰」が造られており、そこで分水された水は宮川水系へと流れている(『意外な水源・不思議な分水;堀淳一(東京書籍)』)。

旧中山道台ケ原宿
釜無川の谷筋に下り、国道20号を西に向かう。国道は釜無川とその支流である尾白川に挟まれた台地を進む。道は程なく旧中山道台ケ原宿に。国道を外れ旧道に入り、古き宿場の雰囲気を楽しむ。もう日も暮れ、時間もないので、M氏の案内で北原家と金精軒に。ふたつとも古き宿場の趣を伝える。北原家は寛延3年(1750)年創業。260年の伝統をもつ造り酒屋。「七賢」との銘柄の名前の由来は、天保6年(1835)に信州高遠城主内藤駿河守より「竹林の七賢人」の欄間一対を贈られたことによる、と。金精軒は明治36年(1903)創業。「信玄餅」は金精軒の商標登録、とか。因みに「台ケ原」の由来は「此の地高く平らにして台盤の如し」との地形より。

尾白の湯
台ケ原宿を離れ、尾白川に沿って南アルプスの山麓へと向かう。尾白の由来は「甲斐の黒駒」から。甲斐駒ケ岳東麓に産する黒駒は、馬体が黒く鬣(たてがみ)と尾が白く神馬として朝廷に献上されていた、と。
ほどなく尾白の湯。平成18年(2006)創業開始の新しい温泉。「温泉の成分は日本最高級を誇るナトリウム・塩化物強塩温泉」「イン含有量が1kg当たり31,600mgで、有馬温泉に匹敵する日本一の高濃度温泉」などとある。脱衣場には『大地ロマンの湯 本温泉は、プレート運動による大変動のドラマにより生まれた、大展望と超高濃度の温泉であり、大地の神様『ガイヤ』が授けてくれた『地球の体液』と呼んで良いような最高級の温泉相である(大月短期大学の名誉教授 田中収)』ともあった。ともあれ尾白川の地底1500mから湧き出るマグマの賜物であろう。古くから有名な有馬温泉と同じ『塩化物強塩温泉』の源泉(赤湯)は露天風呂だけあとは全て水で10倍に薄めた湯を使っているのとことであった。
有難味はよくわからないが、とりあえずゆったりと温泉に浸る。それにしても小淵沢近辺には温泉が多くある。パンフレットを見ると「フォッサマグナの湯」とか「延命の湯」とか10以上もある。なんとなく、そんなに古そうではないようではある。昨今の日帰り温泉ブームの影響だろう、か。 北杜市散歩の初日はこれでおしまい。散歩することはほとんどなかったが、湧水と八ヶ岳の関係とか、釜無川の段丘面とか、地形フリークには嬉しい一日ではあった。
北杜市散歩2日目。天候は曇天の昨日とは打って変わり快晴。南には甲斐駒ケ岳を中心に南アルプスの山稜、その東には冠雪の富士、北東の方角には奥秩父の山々、北を見やると八ヶ岳が聳える。誠に素晴らしい景観である。小淵沢に移宅したM氏に限らず、八ヶ岳山麓に移り住む友人・知人が多いのだが、その理由の一端を垣間見た思いである。








秩父・信州往還散歩;その壱 信州・梓山から十文字峠に

秩父・信州往還散歩;その壱 信州・梓山から十文字峠に


いつだったか、多分数年前になるかとは思うのだが、長き友S君と奥多摩から仙元峠を越えて秩父を結ぶ道を歩いたことがある。そのとき、「奥多摩・秩父往還(この名前が正式にあるかどうか定かではない)の次は、信州から十文字峠を越えて秩父の栃本を結ぶ秩父・信州往還を歩きましょう」という話にはなった。が、あれこれとしている間に数年がたってしまった。

で、今年こそはと、S君からの十文字峠越えのお誘い。パーティはS君と私、そして会社の仲間であるT君の3名。行程は1泊2日。計画では中央線で小淵沢駅まで進み、そこから小海線に乗り換えて信濃川上駅で下車。信濃川上駅からバスに乗り換え終点の川上村梓山に。梓山から3時間程度歩き十文字峠まで上り、初日は峠

近くの十文字小屋に泊まりその日を終える。
2日目は早朝に十文字小屋を出発し、白泰山経由の稜線を8時間程度歩き秩父の栃本集落に。栃本からは三峰口まで西武バスを利用し、三峰口からは秩父鉄道でお花畑駅へ。そこからすぐそばの西武秩父駅まで歩き、西武特急で東京に戻る、といったもの。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23業使、第631号)」)
ところで、今回の散歩で越える十文字峠って、今でこそ甲武信ヶ岳を中心とする奥秩父の登山を楽しむ人や、我々のように酔狂にも往昔の道筋を辿り、峠を越える人が踏むだけではあろう。が、古の昔より昭和初期の頃までは信州と秩父を結ぶ物流や信仰の道として人馬の往来多き峠であった、よう。石器時代にはすでに八ヶ岳山麓や和田峠でとれる黒曜石が、石器の材料として佐久盆地から秩父、そして武蔵へと運ばれた、とか。江戸の頃までは牛馬も通れぬ険しい道ではあったようだが、秩父・長瀞産の板碑が能登国輪島に運ばれてもいる。正応5年(1292)の銘を持つというから鎌倉時代のことである。戦国時代には信州の武田勢が奥秩父の山中にある金山に米や味噌などを運ぶ道として利用していた、とも。
江戸に入り、道の改修も進み庶民の生活に少しゆとりがでるにつれ、秩父の三峰の社への参詣道として、また信濃の善光寺への参詣道としてこの往還が利用された。明治には秩父での決起に敗れた秩父困民党が、佐久の主力部隊と合流すべく栃本から十文字峠を経て梓山へと辿った「敗走路」でもある。


ことほどさように十文字峠を越える信州・秩父往還は、秩父と信濃を直接結ぶ主要往還であったようである。耕地の少ない奥秩父の集落では炭をつくり、繭をつくり、和紙の材料となる楮をつくり、木材を育て、そして十文字峠を越えて信濃に運び米や穀物を秩父に持ち帰った。秩父の栃本集落では信濃で仔馬を買い秩父で育て、再び十文字峠を越えて信濃に入り馬市でそれを売った、と言う。野辺山から信濃川上の途中に「市場坂」という地名があるが、それが馬市の名残とのことである(『奥秩父 山、谷、峠 そして人;山田哲哉(東京新聞)』)。


明治の終わりの頃、奥秩父の重厚な森林、深い原生林の魅力を愛した田部重治は、その著書『秩父の山々』で、十文字峠を「この峠はそれ自身の美を持っている。蜿蜒として連なる峠道は、やがて幽邃(ゆうすい)なる樹木に蔽われ、峠の真中頃は針葉樹林ふかく、林間には苔がぶくぶくしてあたりは掃き清められたように綺麗である」と描く。頃は秋。10月27日、28日の週末であり、紅葉の美しい奥秩父の深林(明治の登山家小暮理太郎は秩父の森林を、その重厚さゆえに「深林」と敢えて呼ぶ)を楽しめそうである。

初日
中央線小淵沢駅>梓山>毛木平>狭霧橋>一里観音>水場>八丁の頭>十文字峠>十文字小屋

二日目
十文字小屋>股の沢分岐>四里観音避難小屋>東に展望が開けたところ>林道合流点>三里観音>鍾乳洞入口>岩戸屋>二里観音>白泰山標識>一里観音>栃本広場分岐>車道合流>十二天>両顔神社>下山口>栃本関所跡>川又バス停

■中央線小淵沢駅自宅を出て、中央線の小淵沢駅に。当初の予定ではここから小海線に乗り換え、信濃川上駅まで行く予定であったが、現在小淵沢に住む元同僚M君との久しぶりの再会を楽しむことになった。別荘風のお宅を訪れ、しばし近況などの話しに時を忘れる。
話の中で直近の日経新聞に載っていた山梨県北杜市の「三分の一湧水」や、武田信玄が開いた軍用道路「棒道」の話題に。M氏によればその他にも「大滝湧水」やパワースポットである大滝神社もすぐ近くにある、とのこと。今回は時間がないので寄り道できなかったのだが、近々、湧水、棒道を尋ねるべく再会を約す。

■川上村

○原集落辞するに際し、M氏が梓山集落まで愛車で送ってくれることに。感謝。清里を越え、JRの駅では最標高点(1,345m)にある野辺山駅をへて川上村に。川上村は平安時代には既に開け、徳川時代は幕府直轄地であった、よう。寒冷地故に農耕地には不向きで、年貢はカモシカの毛皮を納めていた、とか。明治23年(1890)、川上郷八か村が合併して現在の川上村になった。川上村は長野県南佐久郡。野辺山の手前で長野県に入っていた。

千曲川に沿って県道68号梓山海ノ口線を東に向かう。原集落の手前で右に山梨県の「信州峠」に続く県道106号を分ける。川上村は日本一のカラマツ苗の産地とのことだが、なかでもこの原集落は栽培面積が一番大きかったようである。北海道で防風林として植えられているカラマツのほとんどが川上村から送られて苗がもとになっている、とか。

○秋山集落
原集落の先の川上村役場手前で「馬越峠」を経て相木川に沿って南相木村を小海に下る県道2号を分け、秋山の集落に。このあたりには山梨県へと「大弛峠(おおだるみ)」を越える林道が分岐する。大弛峠の標高は2,360m。車で通れる峠としては最も高い標高点とのこと。山梨側は舗装されているようだが、長野側は砂利道のようである。峠越えフリークとしては、次々と峠名が登場するたびにフックがかかり、メモの寄り道が多くなる。

■梓山_午前11時53分;標高1,309m
秋山の集落を越えるとほどなく梓山の集落に。梓山のバス停付近で車から降り、M君とお別れ。千曲川の支流である梓川に架かる橋を渡り、県道の両側に軒を連ねる集落を歩く。梓川は金峰山や国師ケ岳にその源を発する。

梓山などの川上村の集落は千曲川によって形成された狭い河岸段丘上にある。現在では千曲川の源流へと続く行き止まりともいえる場所ではあるが、往昔秩父・信州往還の人馬往来が盛んな頃は宿場として賑わったのではあろう。

雑貨店で水や食料を買い求め、先に進むとほどなく人家が途切れ、県道の終点となる。終点部分はY字に分岐し一方は「秩父 三国街道 中津川林道」、もう一方は「千曲川源流 十文字 農道」との道路標識がある。我々は「十文字」方面へと坂を上り段丘面へと進む。

○川上犬
ところで、梓山と言えば、県の天然記念物である川上犬の元の名前は梓山犬と呼ばれていたようである。上で川上村は年貢としてカモシカの毛皮を納めたとメモした。梓山犬は十国犬や秩父犬と同じく山犬(ニホンオオカミ)の血を継ぐ、とか。カモシカ猟に使うべく、岩場でカモシカより敏捷に動ける足と体をもつ犬として秩父山塊の猟師によって飼い慣らされた、とも言われる。その梓山犬も、戦争中の食糧難の時期に数頭までに激減。その血統を継ぐ犬が川上村のほかの地区に残っていたようで、その純血度を高め、現在の川上犬となった、とか。因みに、足の治療に通う整体院に佐久出身の人がおり、その人がこの川上犬を飼っていた。貰い受けるには役場で審査を受けないといけない、とのことであった。

○戦場ヶ原
河岸段丘面に上る途中に「千曲川源流 十文字峠8km」の標識にならんで「開拓記念碑」が建っている。裏面に刻まれている、であろう開墾の沿革を読んだわけではないのだが、戦場ヶ原と呼ばれる段丘面の、一面に広がるレタス畑は林野を開墾していったものではないだろうか。
偶然古本屋で買い求めていた『峠と高原;田部重治(角川書店)』には「一里ほど行けば、のびのびとした梓山の戦場ヶ原に出る。あたりの山々を仰ぎ、白樺や落葉松の美しさを驚嘆しつつ一里八町を歩けば、やがて千曲川のほとりの梓山の村につく。どこを見ても白樺が目につき、流れは爽やかな音を立てている」、とある。田部重治が最初に奥秩父に足跡を残したには明治43年(1910)であるので、明治の頃は一面の白樺林であったようだ。
田部重治と同じく明治後期の近代登山家の一人、その美しい紀行文で知られる大島亮吉も、その著『登高者;秩父の山村と山路と山小屋と』において、「秩父を歩くものにとっては是非とも訪れなければならない山村は、南佐久の最奥の村、その名もうるわしい聯想をよぶところの梓山の村であろう。むかし私らにとってはこの山脈の山歩きの父と言い得べき先蹤車らがはじめてこの山村に訪れた時分に、それらの人たちにまで惑溺的に美しかったこの白樺と、落葉松との谷あい、ホトトギスと山鳩と雉子のなく山里、石をのせた屋根の低い百姓家の、自然にうずもれた牧歌の村へも、その人たちが訪れる度ごとにその美しさをこわす文明のさわがしい楽隊が乗り込んで来た。いかに愛惜の情をその人たちは感じつつこの谷、この村をすぎたことだろうか。小略。ちょうどその頃に私ははじめてこの村を訪れたのであった。けれどなおそのときに於いてもこの村、この谷は私をしてこよなく愛さしめたのである」と梓山を描く。

田部氏や大島氏が描く美しい白樺の林は、今は、ない。開拓の歴史をチェックすると、白樺林に囲まれた戦場ヶ原や梓山の一帯は、昔は馬産地として牧草地であったようだ。『峠と高原;田部重治(角川書店)』には「牧場や高原の興へる牧歌的な情緒は、峠と村との連携を詩的ならしめ和らげる。そうした意味で、十文字峠から梓山に降りる方面は、特別に美しいなごやかな、また、一層深い感じをもっている。あちこちのなごやかな牧場、白樺や落葉樹、その他、平地には余り見られない樹木は、この土地に柔らかい感じを興へると共に、美しい晴朗な色彩を興へる」と続ける。
その白樺の林も大正の頃には既に伐採がはじまっていたようである。「村外れで戦場ヶ原から霧のように炭焼きの煙が立ち迷うている。原の美しさは、闊葉樹〈注;かつようじゅ。広葉樹の古い名称〉が切られてからすっかり失われ。道の左の低地に炭焼きのかまどのいくつか煙をさかんにあげている」と、田部重治はその著『山と渓谷』で描く。大正15年(1926)の戦場ヶ原の姿である。

牧草地を利用した馬産地、また養蚕や木材・木炭等を生産、ソバの移出などを生活の中心であった川上村であるが、昭和10年(1035)の小海線の開通とともに、生活の基盤を次第に野菜の栽培に移していった、とか。戦前は白菜の栽培をおこない、キムチの材料として関西に送ったが、戦後はレタス栽培中心となる。米軍の要請によりはじめられた、とか。それもあってか、牧草地であった共有地を住民で分け農林省の補助のもと耕地として開墾されていった。その結果、レタスの出荷額は現在では100億円を超える、とか。日本有数のレタス栽培地である。

レタス畑の中を一直線に続く農道を進む。前方に今から辿る山塊が聳える。甲武信ケ岳から北に十文字峠を経て三国峠に続く、信濃・武蔵・上州を隔てる山稜である。田部重治著は『新編山と渓谷;新緑の印象より』に、「千曲川の上流では、八ヶ岳の裾野、川上の梓山及び川端下がその最も優れたものであるが、梓山の新緑は特にうるおいに充ちた色彩に映え返っている。梓山の新緑の最も鮮やかなのは、秩父から山越えして、戦場ヶ原にかかる時、右手に見える十文字峠から三国山へ連なる尾根一面を覆うている新緑の一帯がそれである。誰でもここを初めて通る人は、戦場ヶ原の落葉松や白樺が、一つは夢のようにおぼろに、他はくっきりと際立って、ところどころ悲調をかなでている時鳥が若葉に洩れて聞こえるのに、いたく心を打たれるに相違ない。梓山から1時間ほど農道を歩き、ささやかな沢を越えるあたりで農道の簡易舗装も切れ、砂利道となるとその先に駐車場が見えてきた。そこが手木平である」と描く。かつての白樺の林を想い、レタス畑を進み毛木平へと進む。

毛木平_
12時56分;標高1,464m

毛木平には駐車場がある。60台ほど停められる広いスペースである。トイレや休憩所もあり、ここで昼食をとることにする。しばし休憩を取りながら、休憩所にある案内板に目を通す。
案内には、「千曲川源流の里 川上村:千曲川源流・分水嶺[三国峠-甲武信ケ岳]  甲武信ケ岳周辺の自然に育まれ流れ出す清らかな水が千曲川。この流れは上流域を潤しながら、やがて日本最長の信濃川になり、日本海に注ぐ。三国峠、甲武信ケ岳、金峰山などの山々は分水嶺となっており、群馬県、埼玉県、山梨県に流れ出た源流は荒川や笛吹川となって太平洋に注ぐ」とある。


案内によれば、千曲川源流・水源地標の標高は2,200m。標高2,475mの甲武信ケ岳の直下といったところ。標高1400mの毛木平から上り3時間といった行程である。そのうちに辿ってみたいものである。
また、「十文字峠付近はシャクナゲの群生地として6月初旬にその群落が見れる」、とある。花鳥風月に誠に縁のないわが身であるが、十文字峠付近は石楠花(シャクナゲ)で名高い一帯であった。
「高原野菜の産地;夏季の冷涼な気候をいかして、レタスに代表される高原野菜の産地」といった川上村の特産物は既にメモしたとおりであろう。

■三峰大権現

大文字峠へと向かう。休憩所の案内によれば、おおよそ上り2時間。峠の標高は2,000mであるから比高差600mを上ることになる。標高1600mから1800mあたりが八丁坂と呼ばれ、「胸突き八丁」の急場のようである。
駐車場から先の樹林の中の道を進む。すでに紅葉が始まっており、美しい。先に進むと「三峰大権現 右山道 左江戸道」と書かれた木の標識とその脇に石仏三基。どの仏が三峰大権現か定かではないが、信州・秩父往還が、信州の人には三峰道と呼ばれたように、信州から秩父の三峰詣での名残ではあろう。

いつだったか、秩父の三峰神社を訪れたことがある。そのときの三峰信仰についてのメモをコピー&ペースト;「三峯講についての資料に惹かれる。山里では猪鹿除け、町や村では火ぶせ(火難)よけ・盗賊よけの霊験あらたか、という三峰の御眷属・「お犬さま」の霊験を信じる多くの人が講をつくり、このお山に登ってきた。三峰神社の記念館にはその道筋がパネル展示されていた。江戸からの道は、「熊谷通り」、「川越通り」、そして「吾野通り」。これら江戸からの道は観音巡礼でメモした。そのほか三峯詣でには上州、甲州、信州からの道がある。上州からの三峯詣・「上州道」は出牛峠>吉田・小鹿野>贄川>秩父大宮からの道筋にあたり、52丁の表坂(表参道)を三峯に上る。「甲州道」と呼ばれる甲斐からの道筋は秩父湖のメモのところで辿った道筋。三富村の関所>雁坂峠>武州>栃本の関所>麻生>お山に、となる。「信州道」は信州の梓山>十文字峠(長野県南佐久郡川上村と埼玉県秩父市の境、奥秩父にある峠)>白泰山の峠>栃本の関所>麻生>お山に。
三峯信仰は17世紀後期から18世紀中期にかけて秩父地方で基盤をつくり、甲斐や信濃の山国からまず広がっていった、とか。まずは、作物を荒らす猪鹿に悩まされていた山間の住人の間に「オオカミ」さまの力にすがろうという信仰が広まった、ということだろう。農作物に被害を与えるイノシシやシカをオオカミが食べるという関係から、農民にとっての益獣としてのオオカミへの信仰がひろまった、ということだ。
山村・農村に基盤をおいた三峯信仰も、次第に「都市化」の様相を示してゆく。都市化、という意味合いは、山里では重要であった「猪鹿除け」が消え去り、「火ぶせ(火難)よけ・盗賊よけ」が江戸をはじめとした都市で三峯信仰の中心となってくる、ということ。都市化への展開要因として木材生産に関わる生産・流通の進展が大きく影響する、との説もある(三木一彦先生)。江戸向けの木材伐採が盛んになった大滝村で三峯山が村全体の鎮守、木材生産に関する山の神としての機能が求められたことを契機にして、三峯信仰が浸透したと言う。秩父観音霊場の普及は秩父の絹織物の生産・流通と大いに関係ある、ともどこかで見たような気もする。信仰って、なんらかの政治・経済的背景があってはじめて大きく展開する、ってことは熊野散歩のメモで書いたとおり。

■石像一里観音菩薩_13時39分;標高1,525m

先に進むと「十文字峠方面」と「千曲川源流地標」への分岐の標識がある。千曲川源流点にはここから東沢を上り、更に上流で西沢に乗り換え標高2,200mの源流点へと進むのであろう。
「十文字峠方面」に道をとり、標識から100mほどで東沢に架かる「千曲川源流挟霧橋」を渡り、東沢の一筋東の沢に沿って先に進む。沢を覆う苔むした原生林の中を進むと「石像一里観音菩薩」。栃本から梓山までの六里六丁、26キロの十文字峠道に一里ごとに里程観音が佇む。江戸時代の享保年間のもの、と言う。通常、この観音は栃本から見て「五里観音」ではあろうが、信州側の川上村からみて「一里観音」としているのであろう。標識には「川上村教育委員会」とあった。納得。







■水場_14時32分;標高1,766m

道なのか沢の岩場なのか、いまひとつはっきりとした道筋はわからないながらも、道筋を示すリボンを頼りに先に進む。「上りあと一時間半」といった木にぶら下がった案内を見やりながら進む。苔が誠に美しい。
沢も次第に細くなり、倒木の多い一帯をクリアすると、また一層苔の美しい一帯に入る。標高1,680m辺りで沢が見えなくなってしまうが、水場はその更に上の標高1,766m地点にあった。ブルーの生地に「水」と表示されている。脇に確かに水場があった。

■八丁の頭_14時51分;標高1,917m

水場から先は勾配が急になる。険路なのだろうか残置ロープなどが残されている。この辺りが「八丁の坂」であろう。次第に空が開けてくる。もう尾根も近くなってきた。
「八丁」は「八町「」。およそ872m。「八丁」は「胸突き八丁」から。元は富士登山で頂上近くの険しい八丁の道から、とか。それが富士以外の山でも使われるようになった。先日歩いた四国札所44番の大宝寺から45番の岩屋寺に辿る山道にも「八丁の坂」と呼ばれる険しい山道があった。

■十文字峠_15時25分:標高1,963m
尾根筋に入っても、ピークを通ることなく巻いて道は進むようだ。尾根筋を30分程度進むと大文字峠に到着。奥秩父の主峰甲武信ヶ岳から北に延び、長野と埼玉を分ける尾根は三国峠で群馬に至るが、その手前の大きなたわみが大文字峠。通常の峠に見られるような切り通しや鞍部になった明瞭な峠ではなく、峠を境に下る道もない。峠はコメツガの森が覆い、わずかに明るい広場があるといったもので、峠と言うよりも尾根の少し低くなったところ、といった案配である。
x大島亮吉はその著『登高者;秩父の山村と山路と山小屋と』の中で、十文字峠を「この古い、むかしは中仙道の裏道として峠をこす旅人のゆきかいもはげしかった峠路。その古びたもののみのもつ雅韻を帯びた、影ふかい峠路。その七里にわたる里程から、その峠の高さから、その古さから、そのうつくしいふたつの山村のあいだをつなぐことからみて、十文字峠はこの山脈のうちで、どうしてもわたくしから はなれがたいものである。
五月にそこをこえれば、渓々のどこからも若葉の層がむらむらと、それをゆする青い山風のかおりもほのかに、人の匂いもない、森閑とした深山の峠路を飾る、わびしくも、きよい石楠花と花躑躅の花の祭りを見ては、山を越える旅者の胸もその花の精神に染められてしまうだろう」と描く。

十文字小屋l15時26分;標高1971m

峠を離れ十文字小屋に。本日の宿泊先であるこの山小屋には、我々のパーティの他、出版社と書店勤務のご夫妻と、地衣類の研究者3名。道すがら原生林の木の根元を覆う美しく分厚い苔の景観に魅了されていたこともあり、薪のストーブを囲んだお話は誠に楽しかった。曰く、東京都では石原都知事が実施した排ガス規制で苔が蘇生してきている、曰く、北海道や白神山地の苔は危機的状況にあるが、それは中国大陸か流れてくる排ガスの影響?などなど。ランプの宿での夕食の賄いを美味しくご馳走になり、早々に寝床に入る。暖房の無い山小屋であり、寒さに震える。布団もあるようなので、寝袋は不要かと、シュラフカバーだけしか持ってこなかったことを少々後悔。それでも自身の体温で次第に暖もとれてきて、眠りにつく。

十文字峠を実際に歩くまでは、この峠道は秩父と信濃を結ぶ物流の道であり、また信仰の道として、往昔より人々の往来があった往還道であり、それゆえにその道筋を辿ってみようと思っていた。このような歴史のレイヤーを想いながら散歩をはじめたわけだが、田部重治が描いたように「蜿蜒として連なる峠道は、やがて幽邃(ゆうすい)なる樹木に蔽われ、峠の真中頃は針葉樹林ふかく、林間には苔がぶくぶくしてあたりは掃き清められたように綺麗である」、と、誠に美しい原生林の一帯であった。明治になりスポーツとしての近代登山、山旅としての登山を切り開いた木暮理太郎、田部重治、そして大島亮吉氏などが奥秩父の自然に魅了され、名文をもって描いた奥秩父の魅力の一端に触れた1日であった。

奥多摩沢上り;小川谷の支流、倉沢本流で沢登りを楽しむ

奥多摩沢上り;小川谷の支流、倉沢本流で沢登りを楽しむ


2012年9月22日、会社の仲間と倉沢の沢上りを計画した。いつだったか、倉沢谷に沿った林道を進み、魚留橋から棒杭尾根を這い上がり三ツドッケへと山行を楽しんだことがある。そのとき、倉沢谷脇の林道を歩きながら、そのうちにこの美しい沢を遡上してみたいと思っていた。
今年の夏、7月に会社の仲間と古里・寸庭橋辺りの多摩川合流点から越沢バットレスキャンプ場(現在は休業中)まで越沢の沢遡上を楽しんだ。その時、沢ガール、沢ボーイデビューをした会社の仲間が、思いのほか沢登りにフックがかかり、再びの沢登り企画と相成った。そしてその沢候補としたのが件(くだん)の倉沢である。今回のパーティは越沢で沢ガールデビューしたうら若き女性2人と沢上りの経験豊かな中年(?)男性、そして、なんちゃって沢ボーイである還暦をはるかに過ぎた私の4人パーティ。
当日はあいにくの曇り。前日の雨の影響もあり、それまで続いた猛暑と言うか、残暑とは打って変わった涼しい朝。男性陣ふたりは、水の冷たさに恐れを成し、はやくも及び腰。沢登りを止めて、高尾山から日の出山を経てつるつる温泉でのんびりと、とか、鳩ノ巣から海沢渓谷で滝を見ようか、などとそれらしき代替案を出すも、沢ガールの無言ではあるが、強烈なる「沢へ」との目力に負け、結局は倉沢谷に。もっとも、ロープやハーネス、そして沢シューズ、着替えといった沢登りグッズで一杯のリュックを背負っての山行も大変だ、というのは男性陣二人の共通した思い、でもあった。

本日のルート;奥多摩駅>倉沢停留所>入渓>八幡沢合流>鳴瀬沢合流>釜をもった美しい3mの滝で終了>倉沢停留所>

奥多摩駅
倉沢橋奥多摩駅から東日原行きのバスに乗り、倉沢で降車。そこは倉沢谷が日原川に合わさるところ。谷は深く切れ込み、谷に架かる倉沢橋は橋下の高さが61m。東京都内にある1200強の橋のうちで一番高い橋、と言う。

倉沢谷に下りる
倉沢谷に沿った林道に入る。少し進むと駐車スペースがあり2台車が止まっていた。先に進み、林道脇にある標識の少し先辺りで倉沢へと下るルートを探す。切り通しの先、ガードレールが切れている辺りに、沢へと下れそうなルートがある。林道から沢までの比高差は50mほどあるだろうか、かすかに下に倉沢の流れが見えている。

ガードレール直下は足元が危うそう。念のため、ガードレールにスリングを架けて、慎重に林道から急斜面に降りる。急斜面でもあり、杉にロープをかけて安全に、とも思ったのだが、なんとか倉沢谷まで下りることができた。








入渓

入渓準備。沢ガールには念のため、スリングをふたつ合わせカラビナで固定した簡易ハーネスをつくり装着。10時少し前に入渓する。
2段5mの滝は高巻き
入渓点は広々としていたが、その先に深そうな釜があり2m滝左岸を高巻き。その先は沢に入るも、すぐにすぐさま2段5mほどの滝となり、再び左岸を小滝もまとめて高巻き。足元が危ういこともあり、安全のため一応ロープを張ってクリア。降りたところは小さな沢が合流し沢が急角度で曲がっていた。

「ゴーロ」を進む

その先にある釜はスリングでサポートしながら右岸をへつり、やや大きめの岩がゴロゴロする「ゴーロ」を水に打たれながら進む。枝沢が注ぐ先にある2m滝は釜があり右から巻く。









大岩の間の滝を上る

先に進むと大岩の間に滝がある箇所があり、水を浴びながら岩を右から巻く。前日の雨故か、急流に耐えられず、足元を掬われ転びつ・まろびつの沢ガールではある。




S字状の岩場を抜けると釜と3m滝
左岸から注ぐふたつの枝沢を越えた先のS字状の岩場にはふたつの小滝と釜。ここは沢筋を直進する。S字状の岩場を抜けると先に釜と3m滝があり、少々厳しそう。時刻も知らずお昼となっており、休憩を兼ねて昼食をとる。いつもの散歩ではメモが結構長くなるのだが、沢のメモは、至極短い割りには時間は結構たっている。2時間近くかかっただろう、か。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

鳴瀬橋
休憩を終え、3mの滝は左岸の岩場は安全のためロープを使い、岩を這い上がる。岩場をクリアすると八幡沢が右岸から入るが、その先には2mの滝。右から巻いて進むと前方に大きな橋がみえてきた。鳴瀬沢にかかる鳴瀬橋である。

巨岩
鳴瀬橋の先で倉沢は右に曲がる。曲がるとすぐに釜があり、右岸をへつり、岩によじ登る。岩の降り場の足場は悪く、残置スリングと簡易ハーネスをカラビナで結び、慎重に降りる。降りると今度は2m滝。左岸の岩場をロープでサポートしながら這い上がる。這い上がった先には巨大な岩が現れる。






釜をもった美しい3mの滝
大岩の先の滑滝を、水を浴びながら進む。その先は左岸の岩場を、ロープを使って這い上がる。と、その前には釜をもった美しい3mの滝が現れる。釜は結構深そうである。


ここで時刻は2時前。倉沢バス停発2時50分頃のバスの便を逃すと、4時過ぎまで便はない。本日の沢遡上はここでお終いとする。沢用の上下で完全武装の中年の沢ボーイは名残にと釜を泳ぎ、滝に取り付き、残置スリングを支えに滝上に這い上がり、滝を滑り落ちて本日の締めとした。私は、眺めるだけで十分。

林道に上る
急斜面を林道に這い上がり、人目を少々気にしながら着替えを済ませ、30分弱歩き倉沢バス停でバスに乗り、一路、家路へと。



倉沢谷に沿って林道が通るので安心
倉沢遡上は、誠に楽しかった。倉沢谷は日原川に注ぐ一支流であり、合流点は深い谷を形成している。倉沢谷に沿って林道が通っており、いざという時にエスケープできるのは心強いし、通常の沢遡上では源流まで進むと、後は尾根を這い上がり、別の尾根を下ることになるが、倉沢谷は、帰路は林道を戻ればいいわけで、誠に気が楽である。








入渓地点は深い谷に下って進むが、上流に進むにつれて林道との比高差が減る

倉沢橋近くの入渓地点は深い谷に下って進む事になるが、上流に進むにつれて、倉沢谷と平行して通る林道との差がなくなってくる。今回は時間切れで辿れなかったが、魚留橋のあたりでは、倉沢谷と林道との比高差はほとんどなくなる。このことも初心者中心の我々沢登りパーティには心強い。

多くの小滝と釜で初心者でも十分楽しめた
沢自体も、それほど大きな滝はなく、多くの小滝と釜が現れ、また滝を直登しなくても左右の岩場を巻いて勧めるので、初心者でも楽しく沢上りが楽しめた。








次回は魚留橋を越え、その先の長尾谷とか塩地谷まで遡上したい
今回は当初目標としていた倉沢鍾乳洞の先にある魚留橋まで辿ることはできなかった。来夏は今回の到達点からはじめ、魚留橋を越え、その先の長尾谷とか塩地谷まで遡上してみようと思う。







讃岐 歩き遍路:80番札所から始め、81番白峯寺、82番根香寺と、讃岐路の歩き遍路を楽しむ

 四国札所散歩:80番札所から始め、81番白峯寺、82番根香寺と、讃岐路の歩き遍路を楽しむ


平成24年(2013)の初散歩。年末から田舎の愛媛県新居浜市に帰省していたこともあり、今年の歩きはじめは、四国札所の「歩き遍路」から始めよう、と。 「歩き遍路」のデビューは昨年秋のお祭り帰省のとき。愛媛の久万の山中にある44番札所大宝寺から45番札所の岩屋寺までの遍路道を辿った。ちょっとした峠や、のどかな野道など、なかなか風情のある小径が残っていた。 で、今回もどこか適当な遍路道をとあれこれ考え、当初は石鎚山への中腹にある60番札所・横峯寺を辿ろう、などと考えていたのだが、道の凍結が心配、との弟のアドバイス。四国の山を歩き倒しているエキスパートの言には「諾」と頷くのみ。その代案としてプランしてくれたのが讃岐路の遍路道。讃岐の国分寺から始まるルートは弟の地元であり、勝手知ったる散歩道とのこと。良きガイドの後に続くだけで、よさそうである。
メンバーは長崎から帰省中のもうひとりの弟を含め、還暦を過ぎた兄弟3人。弟二人は翌日、雪の石鎚山登山を控えているのだが、これも恒例の正月行事とのことで、その足慣らしに丁度いい、などと余裕のコメントで讃岐路の歩き遍路に向かった。


本日のルート;さぬき浜街道>80番国分寺>一本松の峠>十九丁の分岐点>足尾大明神>82番根香寺>81番白峯寺>崇徳上皇御陵>西行の道>青海神社>神谷神社>松山の津>高屋神社>鼓岡神社>雲井の御所跡>国府印鑰明神遺跡 柳田

さぬき浜街道
田舎の愛媛県新居浜市から松山自動車道に乗り川之江ジャンクションで高松自動車道に入り、坂出インターチェンジで高速を下り国道11号線を進み、上氏部交差点で県道187号を北に進み林田町交差点あたりで高松に住む弟の車と合流。弟の車を先導車に「さぬき浜街道」を東に進む。
「さぬき浜街道」って、なんだか歴史のある街道のような名称であるが、昭和63年(1988)に開通した産業臨海産業道路。高松と中西讃地域の工業地帯を結び、瀬戸大橋開通に伴う交通量の増大に対応すべく計画したものである。

「さぬき浜街道」をしばらく東に向かい、坂出市青海町にある青海神社脇に車を停める。ここは81番白峯寺の下山口。本日の散歩の終了地点である。ここに車を一台置き、あとの一台に乗り換えて散歩のスタート地点である国分寺に向かう。出発点と到着点が離れているときには、車2台での行動は便利である。

八十番霊場・国分寺
国分寺までの道は運転手任せであり、どこをどう走ったのか定かではないが、ともあれ国道11号に戻り、予讃線・国分駅近くの前谷東交差点で県道33号に入り、国分寺の駐車場に車を停める。
正面の仁王門の前に立つに、さすがに結構な構えである。仁王門の脇にある「縁起略記」によると、「天平13年(741)、聖武天皇の勅願、行基菩薩の開基により国ごとに建立された国分寺(金光明四天王護国之寺)。創建当時は二町四方(東西3町、南北2町、とも)あり、南より南大門を入り、東に七重の塔、中央に中門・金堂、講堂などの諸堂があった。現在古義真言宗御室派の別格本山で四国第八十番の札所である」とのこと。

○七重の塔跡
仁王門をくぐり参道を進む。参道の両脇には松並木と八十八箇所の石仏が並ぶ。参道の右手に幾多の礎石が残る。仁王門前の案内にあった七重の塔跡であろう。 境内にあった「国分寺由来」によれば、「心礎(中心柱が乗る礎石)」とともに合計17個の礎石があり、5間四方の塔で、京都の東寺の五重塔(高さ東洋一)以上の大塔であった」と。現在は鎌倉時代に造られた石造りの七重の塔が残る。

 ○鐘楼
先に進むと参道左手に鐘楼。奈良朝鋳造の重要文化財との案内があった。歴史のある鐘だけに、その歴史に相応しい伝説も伝わる。大蛇の伝説や高松城の時鐘の伝説がそれである。
大蛇の伝説とは、その昔讃岐のある淵に棲む大蛇が近隣の人々を苦しめていた。それを聞いた弓矢の名人が、国分寺の千手観音の御加護のもと、鐘をかぶって現れた大蛇を退治。その鐘は国分寺に奉納された、といった話である。
また、高松城の時鐘の伝説とは、国分寺の鐘の音が気に入った高松の城主生駒一正が、家臣に命じて城下に運び時の鐘とした。が、その鐘が時を告げるようになって以来、城下では怪異な出来事が起き、また殿様までが病にかかるしまつ。これは鐘の祟りかと、鐘を国分寺に戻すと元の平静な城下に戻った、といった話である。

○本堂
参道を進むと正面に本堂があるが、本堂の前はその昔、金堂があったところ。三十三個の礎石が残る。案内にあった「国分寺由来」には。「実測間口東西14間(1間=1.8m)。奥行(南北)7間の大堂」とあった。
池に架かる橋を渡ると本堂。創建当初の講堂跡に建てられたものであり、九間四面の入母屋造り、本瓦葺き。鎌倉中期の建築といわれ重要文化財に指定されている。本堂には本尊の千手観音が佇む。約5m、欅材の一本造りの観音さまは重要文化財である。
○大師堂
本堂前の池の脇には弁財天の小祠と七福神の石像が並ぶ。国分寺は「さぬき七福神」の中、弁財天を主尊としている。願かけ金箔大師像にお参りし、右手に進むと大師堂と納経所があった。多宝塔のような二重の塔が大師堂、手前の建物が納経所。堂の前には千体地蔵が群立する。

国家鎮護、社会の安定を祈願し建立された国分寺ではあるが、古代律令国家体制の崩壊とともに、国家による管理・庇護が受けられなくなり衰退する。そしてその中興の祖が弘法大師空海とも伝わる。弘仁年間(810-824)に弘法大師が訪れ、行基作の5・3mの大立像(本尊)を補修した、と。霊場に定められたものこの頃、とか。
しかしながら、中興された堂宇も、天正年間(1573-1592)、土佐の長曽我元親軍の兵火に晒され、本堂と鐘楼だけを残し全て焼失。慶長年間(1579~1614)、讃岐国主である生駒一正によって再興され、江戸時代には、高松藩主松平家代々によって庇護された、とのことである。

○中務茂兵衛


歩き遍路を始めるべく仁王門をくぐり境内を離れる。と、境内に入る時には気付かなかった石碑があり「一之宮道」と刻まれる。讃岐の一宮は高松市一宮町にある田村神社。その道標であろうかとチェック。一宮道の道筋に関する資料は見つけることができなかったのだが、チェックのプロセスで、幕末から明治・大正にかけて遍路史に足跡を残す人物が登場してきた。この石碑を建てた中務茂兵衛がその人である。
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。四国遍路はおおよそ1,400キロと言うから、高松と東京を往復するくらいの距離である。一周するのに2カ月から3カ月かかるだろうから、1年で5回の遍路行が平均であろうから、280回を5で割ると56年。人生のすべてを遍路行に捧げている。
で、件(くだん)の道標であるが、中務茂兵衛が厄年である42歳のとき、遍路行が88回を数えたことを記念して建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか)道標のひとつ。
文化遺産としても高く評価されている道標の特徴は、比較的太めの石の四角柱(道標高の平均約124cm)で、必ず建立年月と自らの巡拝回 数を刻んでいる、と。国分寺の道標には、正面に「一之宮道」、右に「明治19年3月吉祥日 / 讃州高松通り町一丁目」、左に「高松」、裏に「88度目為供養 / 行者 中司茂兵エ建之」と刻まれる。

追記;
一宮道のことを讃岐一宮としたが、これは第八十三番札所である一宮寺の誤り。このメモの当時は特段遍路のことに興味関心があったわけでもなく、八十番国分寺の次は八十一番白峰であろうから、一宮道が札所案内であるとは思わなかった。
後年、讃岐の遍路道を辿ったとき、80番・国分寺から81番・白峰寺へと向かう順路の遍路道の他、79番・天皇寺から81番・白峰寺>82番・根香寺>80番・国分寺へと進む逆路の遍路道があることを知った。国分寺から白峰寺への急登、「へんろころがし」を避けるため江戸時代中期以降に利用された遍路道とのこと。
この標石は逆打ち遍路が国分寺から一宮寺に進む遍路道の案内であった。



国分台
国分寺を離れ歩き遍路を開始。国分寺の東側を山稜に向かって進む。正面に聳える山は国分台。標高407m。遍路道はこの国分台と403mピークの間の鞍部に向かって上ることになる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23業使、第631号)」)


山道を進むと道脇にむき出しになった白い岩肌が見える。案内によるとこの白い岩肌は「ギョウカイカクレキ岩」。今から1000万年前、瀬戸内地方は激しい火山活動にみまわれ、そのときの溶岩のかけらと火山灰が積もってできた岩石とのこと。国分台は大平山(479m)とともに、瀬戸内海に張り出した巨大な溶岩台地である五色台の南に控える山稜。因みに五色台の由来は、瀬戸内海に面する北の紅峰(245m)から南に、黄峰(175m)、黒峰(375m)、青峰(449m)、白峰(335m)と続く5つの峰に拠る。

石鎚神社
坂道を進むと「石鎚神社」の案内。ちょっと寄り道。道から少し入ったところに沢があり、水かけ大師像が安置されていた。沢を越えたところにまことにささやかな石の祠があり、そこが石鎚神社であった。
石鎚信仰は愛媛県にある関西一の高山・霊峰石鎚山を神体とする山岳信仰。役の行者を開山の祖とし、中世以降山岳修験の道場として栄え、日本七霊山のひとつとして並び称された。『石鎚山と瀬戸内の宗教文化;西海賢二著(岩田書院)』によれば、『其の山高く嶮しくして凡夫は登り到ることを得ず。但浄行の人のみ登りて居住す』るしかなかった石鎚山に、一般の人びとが登拝するようになったのは、近世も中期以降に講中が組織されるようになってから。お山の大祭の頃には、講を差配する先達に導かれ幟を立て、ホラ貝を鳴らし、愛媛県下ばかりではなく岡山、広島、山口県下一円からお山に上ってきた、とある。この讃岐の地にも講中があっただろうし、その信者が祀ったものであろう、か。現在でも石鎚神社の講者活動する信者は100万人にも及ぶ、とか。

一本松の峠
先に進むと休憩所があり、そこには修行大師の石仏が佇む。修行大師とは弘法大師空海の修行中の姿ではあろう。後ろを振り返ると国分寺町が一望のもと。讃岐特有のお椀を逆に置いたような山が平地にその姿を示す。
それにしても平野の中にお椀を逆にした、と言うか、おむすび形の山が目につく。チェックすると、香川県の山はその山麓が風化されやすい花崗岩、中腹から上は硬く風化しにくい火山岩であるサヌカイト(安山岩の一種)でできている、と。で、気の遠くなるほどの時間をかけて大地が浸食される過程で、安山岩の部分が少ない大地が「おむすび山」として残り、帯状に長い安山岩がのっかった大地は屋島のような台地地形となった、とか。安山岩は火山噴火でつくられたが、それははるか昔々の話である。
「へんろ転がし」などと称される急坂、というか、整備されて階段状に造られた道を上る。四国は「へんろ転がし」ではあろうが、散歩の折々には「座頭転がし」と呼ばれる急坂によく出会う。江戸期の甲州街道の談合坂パーキングエリアのあたりにも、また、旧東海道の箱根東坂を越えるときにも「座頭転がし」と称される急坂、険路があった。
へんろ坂を上り切ると「一本松の峠」。これと言って目立つ松が残るわけでもなく、台地上をはしる県道180号(鴨川停車場五色台線:坂出市のJR四国鴨川駅近くから高松に至る一般県道)に出る。

○サヌカイト
県道180号をクロスし、再び山道に入る。ほどなく林が帯状に切り開かれている。防火帯とのことである。一本の松の峠の西側には陸上自衛隊の国分台演習場、高屋射撃場がある。善通寺は元陸軍第十一師団の司令部があったところで、現在も陸上自衛隊の第14旅団の司令部があり、これらの演習場や射撃場は隊区内の施設である。防火帯は火砲使用故のセイフティネットであろうか。
大平山の山麓道の途中に「カンカン石」の案内。案内によると、「讃岐の名石として知られるカンカン石(讃岐石)は木槌で叩くと美しい音色を響かせ、江戸の頃から謦石(がいせき;吊るして鳴らす石の楽器)として知られる。明治24年(1891)にドイツの岩石学者ワインシェンクはサヌカイト(讃岐の石)と命名し、世界に紹介した。この岩石は五色台意外に金山(坂出)、二上山(大阪府、奈良県)にも産する。今から1000万年前の激しい火山活動の産物である」、とあった。弟は途中、それらしき岩石はないものかと石ころを探し、石を叩くも、それらしき音色の石が見つかることはなかった。

十九丁の打ちもどり
落ち葉を踏みしめ林の中を進むと祠に祀られた、お地蔵様の佇む場所に出る。脇に案内があった。案内を簡単にまとめると、「遍路道に立つ道標;ここは三札所(注:80番国分寺、81番白峰寺、82番根香寺)のわかれ道。三岐路にある道標には「十九丁打ちもどり」と記される。遍路がはじまった頃には、ここから国分寺(注;今まで辿ってきた道)はなかったようで、江戸時代の後半になって80番札所の国分寺から81番札所の白峰寺への上りが厳しかったために、81番の白峰寺から82番の根香寺に進み、再びこの道を戻り国分寺に下るコースがつくれた、とのこと。「打ちもどし」とは根香寺から国分寺へと82番から80番へと札所を逆に戻りましょう、ということ。
ところで、案内にもあった「打ちもどし」と刻まれた道標であるが、お地蔵様の周囲に立つ4つの道標の中でも、ひときわ大きい石の道標に刻まれる、と言う。その石碑は国分寺で出会った中務茂兵衛さんが建てたもの、とのことだが、どうも記憶に残っていない。見逃したのか、はたまた、なんらかの事情でどこかに移されていたのだろか。はてさて。因みに「十九丁とは根香寺まで十九丁(約2キロ)ということ。

足尾大明神
十九丁の分岐点から少し進むと林を出て、県道180号に出る。ここからはしばらく県道180号を進むと道脇に足尾大明神。鳥居はあるのだが、休憩所といった風情。縁台に座り少々休憩をしながら、その前にある小祠にある足尾大明神にお参り。草鞋が吊るされるなど、アシバサンと称される足の神様の名残が残る。ここは旧吉水寺の鎮守社であったようで、清水庵と呼ばれる接待所もあったとのこと。

崇徳天皇の名が刻まれた石碑
県道281号との合流点を先に進むと道脇に「根香寺本堂775m」の道標。ここから遍路道は再び県道を離れ笹の茂る道に入る。ほどなく道脇に石碑がある。刻まれた文字を見るに「崇徳天皇御道詔地・・・」と前半だけはなんとか読めた。
崇徳天皇?折しも大河ドラマで登場し、演じた俳優の井浦新の魅力もあり印象に残っていた人物である。後白河天皇との戦い(保元の乱)に敗れ讃岐に配流されたことは知っていたのだが、この辺りが崇徳天皇配流ゆかりの地であることは全く知らなかったので少々の驚きと喜び。
後でわかったのだが、82番根香寺の次に辿る81番白峰寺には、崇徳院の御陵があるし、そもそも国分寺には崇徳院ゆかりの地が数多く残っていた。散歩の前の事前準備をほとんどしない、成り行き任せの散歩が基本であるので、こういった意外な楽しみも登場する。
で、根香寺と崇徳天皇はどういった関係があるのだろうか、とチェック。石碑に関する資料は見つからなかったのだが、江戸時代後期の儒者である中山城山がまとめた『全讃史』の「根香寺」の項に崇徳院とのゆかりを示す記述があった。
「保元中、崇徳帝 数々行幸を為し給ひて、風景の勝を愛し給へり。甞て詔して曰く、朕千秋の後は、必ず此の山に葬れよ(根来寺の景観を愛で、幾度も行幸を繰り返し、亡くなった後はこの寺に葬れ、と言った。)」、と。
が、「長寛二年八月二十六日、崩じ給ひ、従者 霊輿を奉じて 此の山に到れり。乃ち 僧徒 相議して曰く、吾が山は 即ち 大悲轉法の所、百王鎮護の場なり。豈に 凶穢の物を入るべきや と。乃ち 南嶺に出して 之を拒む(崇徳院が亡くなった時、遺言故に根香寺に棺を運び入れようとしたのだが、根香寺の僧は、崇徳院を"凶穢"として入山を拒んだ)」、と。
「是を以って、已むを得ずして 神輿を反す。時に、輿中に聲ありて曰く、何故反す、と。因って 其の地を謂つて "何故嶺" と曰ふ。遂に 白峯に奉葬せり。 此の寺の衰廃は もと、其れ之れの由る。厥(そ)の後、数々災ありき。亦、"帝の祟(たたり)" と云う」、と。
しかたなく神輿を戻すに、"何故、返すか" との声があった。「根香寺」のあたりの嶺 を、"何故嶺(なぜかれい)" と呼ぶようになった所以、とか。そして、白峯山に埋葬することになったわけだが、東西一里餘、十七檀林もあった大寺であった根香寺がその後衰退したの、崇徳帝の "祟り" によるもの、と言われる、と記される。この石碑は幾度もの行幸に関係あるものだろう、か。はてさて。

八十二番霊場・根香寺
遍路道を抜け根香寺の仁王門に。仁王様とともに大きな草鞋が吊るされる。仁王堂をくぐり、石段を下り緑の参道を進み石段を上る。踊り場の右手には「役行者の像」。手前に「牛頭天王像」、左手には「水かけ地蔵」。
先の石段を上り右手に大師堂、六角堂、左手に納経所、五大堂。五大堂には、弘法大使の開基ゆかりの五大明王である、不動明王、降三世夜叉明王、軍茶利夜叉明王、大威徳夜叉明王、金剛夜叉明王が佇む。

○白猴欅(はっこうけやき)
五大堂の脇に「白猴欅(はっこうけやき)」。智証大師が当山開基の時、この樹下に山王権現が現れ、また、白い猿が下りてきて、大師を守護し創業を助けたと云う。樹齢約1,600年。樹幹の周囲約7m。昭和50年頃枯れてしまい、平成3年に保存のため、根を切り、屋根をつけて、生えていたとおりの位置に据えた」、とあった。

○智証大師円珍
智証大師円珍は弘法大師空海の甥。社伝によれば、弘仁年間(810~824年)、弘法大師空海は、当地を訪れ、5つの峰々(紅峰、黄峰、黒峰、青峰、白峰)に金剛界曼荼羅の五智如来を感じ、ここの地を密教修行の地とし、その青峰たるこの地に花蔵院を創建し、五大明王を祀った。
その後、天長9年(832年)、智証大師円珍が訪れた際、老翁の姿をした山の鎮守である一(市)之瀬明神に出会い「この地にある毘沙門谷、蓮華谷、後夜谷に道場を作り、蓮華谷の木で観音像を作りなさい」というお告げによりを受ける。その後青峰で老僧の姿をした山王権現に出合い、開山をするにあたり、一(市)之瀬明神と山王権現を鎮守として祀り、蓮華谷の霊木をもって千手観音像を刻み千手院を創建。両大師が創建した2院を総称して、根香寺となった、と。
一(市)之瀬明神はこの地の他で登場することはないが、山王権現って、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開くとき、修行した中国天台山の山王祠を模した山王祠をつくたわけで、このお寺さまが天台宗であるがゆえの、後付けであろうか。単なる妄想。根拠なし。

閼伽井
次の目的地である81番白峰寺へと、「十九丁の打ちもどり」の分岐点まで戻る。ここからは、国分寺から辿った道ではなく81番白峰寺への道をとる。木々で囲われた「樹木のトンネル」を,落ち葉を踏みしめながら進む。「遍路頑張れ」の遍路札を見やりながら進むと、竹林に囲まれた道となる。南が開けた辺りを越え、ささやかな沢を渡り先に進む。道脇には「へんろみち」と刻まれたもの、「三十八丁目」と刻まれたお地蔵様などが佇む。
道を進むとお地蔵様の脇に「閼伽井」と刻まれた石碑。脇に「閼伽井と丁石 」の案内。簡単にまとめると;「閼伽井」とは神仏に捧げる水のわく井戸で、この付近は白峰寺の寺領で、水は枯れることなく、遠い昔からここを歩くお遍路さんが、冷水で喉をうるおし、手を清めたとされている。
また丁石とは地蔵菩薩と次の札所までの丁数を刻んだもの。丁石は約109m毎に立っており、一人山道を歩くお遍路さんが頼りとした。丁石は江戸時代後期に建てられた。これら丁石は五台山に分布しない「かんかん石」でつくられており、おそらく庵治などの石切り場からこの地まで運ばれたもの。篤き信仰心の賜物である、と。




○第十一師団
「八十一番しろみね寺 八十二番ねごろ寺」と刻まれた石碑を見やり、「三十九丁」と刻まれた丁石の辺りで森、というか林が切れ、開けた場所に出る。フェンスで囲まれた向こうは陸上自衛隊善通寺駐屯地の演習場。防衛庁の石標の脇に「陸軍用地」と刻まれた石標が建つ。陸上自衛隊善通寺駐屯地は、元陸軍11師団司令部のあったところ。初代司令官は乃木希典。日露戦争では乃木将軍率いる第三軍に編入され旅順攻略線、続いて川村景明大将の鴨緑江軍に組み入れられ奉天会戦に参加。その後も、シベリア出兵、上海事変などの戦役に参加。上海事変後は満州に駐屯。太平洋戦争では一部がグアムに派遣され玉砕するも、師団主力は昭和20年(1945)、本土防衛のため四国に戻り終戦を迎えた。


毘沙門窟
道を進むと大きな石灯籠があり、毘沙門窟の案内がある。毘沙門窟は白峰寺の奥の院、とのこと。石畳の参道を進み、急な石段を50mほど下ると岩壁を穿った四畳半ほどの空間に毘沙門天の石像が安置されていた。 

摩尼輪塔と下乗石
毘沙門窟から500mほど先にすすむと石塔と「下乗石」と刻まれた石標、そして雨露を凌ぐだけ、といった少々粗末な囲いの中に石像が建つ。脇にあった「摩尼輪塔と下乗石」の案内によると、「摩尼輪塔(県指定有形文化財)は、苦しい仏道修行の中でも特に最終の位を表す「摩尼輪」(塔の円盤部分)にちなんでこのように呼ばれています。また、この塔は、下に「下乗」と書いてあり長い遍路道もやっと聖地に近づいたことを教えています。下乗とは、ここからは聖地であるからどんな高貴な者でも乗り物からおりて、自分で歩いて参拝しなさいということです。
この摩尼輪塔は、1321年(元応三年二月十八日、鎌倉時代末期)密教の僧、金剛仏子宗明によって建てられた全国でも珍しい塔です。
一方左手にある下乗石の裏には、1836年(天保七年丙申春三月、江戸時代末)高松藩が古い摩尼輪塔を小屋でおおって保存し新しくこの碑を建てたことが刻まれています」とある。
「下乗石」と刻まれた道票が江戸の頃に建てられた「下乗石」で、その右手の笠を乗せた石像が摩尼輪塔。とは言うものの、摩尼輪塔のことを下乗石とも称されるようである。
摩尼輪塔の脇に風雨に晒された案内があり、「香川県指定建造物 石造笠塔婆」とある。案内によると「この笠塔婆は白峯参道高松道が白峯寺境内に達した地点に元応三年二月十八日、願主金剛仏子宗明(塔身在銘)によって建立されたもので、角礫質凝灰岩を用いている。
塔は基壇、基礎、塔身、蓋、宝珠と重ねられているが、塔身の正面下部に「下乗」の二字を彫付けているので、下乗石と呼ばれ、又塔身上部に金剛界大日如来の種子バンを刻んだ円盤(摩尼輪)を填込んでいるので摩尼輪塔とも呼ばれている。
摩尼輪とは仏道修行によって悟りを得た究極の位のことで、この塔はこれより白峯の聖地に入る究極地の意から建立されたもので、したがってここより内部は一切の乗物を禁ずるために「下乗」の二字が刻まれたのであろう。この形は全国にも珍しいものである。
もと南、西からの白峯参道にも同様のものが建設されていたが破損亡失していたので、高松藩は各々の地点に再建あるいは添碑を建て、その保存を図った。左側の下乗石はその中の一つで、天保七年三月建立された添碑で、碑の裏側にこの笠塔婆の由来を刻んでいる」、とある。先ほど見た「摩尼輪塔と下乗石」と同じことを書いてはあるのだが、「石造笠塔婆」などと書いてあったので、よく読めばわかるとは言うものの、少々紛らわしかった。

八十一番霊場・白峰寺

○七棟門
「摩尼輪塔と下乗石」から300mで白峰寺に。境内への入口には山門。高麗形式の左右に2棟の塀を連ねたもので、棟数合わせて7棟あるが故に「七棟門」とも。享保3年(1803)に再建。左右から中央へと盛り上がる棟の組み合わせが印象的である。

○玉章(たまずさ)の木
境内に入ると右手に客殿。延宝年間(1673~1680)に高松藩主が寄進した建物で,入母屋造,本瓦葺の建物。正面には護摩堂。護摩堂にお参りし、左に折れる参道を進むと右手に本堂に向かう石段、正面には勅額門が見える。本堂に上る前に勅額門に向かうと門の手前に「玉章の木」の案内。
案内によれば、都を追われた崇徳上皇はほととぎすの鳴き声にも都をしのばれ、「鳴けば聞く聞けば都の恋しきにこの里過ぎよ山ほととぎす」と詠じる。ほととぎすは、その意を察して、この大木の葉を巻いて嘴を差し入れ、声をしのんで鳴いた、と。その巻いた葉の形が玉章(手紙)に似ているため、ほととぎすの落とし文、玉章と呼ばれ、その葉を懐中にすれば、かならず良い便りがあるとのことで、若い男女には特に珍重された。名木玉章木は枯れ、五色台自然科学館に保管されており、現在の木は新たに植えられたもの、とのことである。 

 ○勅額門
玉章(たまずさ)の木の先に勅額門。勅額門と称される所以は、応永21年(1414)に後小松天皇が奉納した勅額(国宝)が掲げられているため。勅額は「頓証寺」と読めた。"頓証(とんしょう)"とは、通常の修行を経ずにただちに悟りを得るという意味。崇徳天皇の法名かとも思ったのだが、どうもそうではないようだ。
チェックすると、非業の死を遂げた崇徳院の没後、天変地異が起こるその因は崇徳院の怨霊故と怖れ、院の霊を鎮める願いを込めて朝廷より名付けられた寺の名前のようである。建久2年(1191)、保元の乱の政敵である後白河院の命により、崇徳院の行在所(現在の鼓岡神社の辺り)をこの地に移し仏堂を建てた。崇徳院を讃岐に配流した後白河院故に、供養をおこない、速やかに迷いを断ち、悟りを開き怨念を鎮める願いを込めて頓証寺と名付けたのではあろう。 門をくぐり境内に。通常門の左右には仁王像が定番ではあろうが、この門の左右には随神としての源為義・為朝の立像がある、とか(通常非公開。正月3が日など限定された日時に公開されている、とのこと)。保元の乱で崇徳天皇に与した武将が随神として控えるのではあろう。

頓証寺
頓証寺は白峯寺の所属仏堂であり、崇徳天皇の霊を祀る御廟所。頓証寺は多くの公家や武士から尊崇を受けた、とか。「十三重石塔」や頓証寺境内にある石燈籠、白峯陵の石塔は源頼朝が奉納した、とも伝わる。また、頓証寺が時に「頓証寺殿」と称されるのは、室町時代には後小松天皇から頓證寺の勅額を賜ったことによる。
頓証寺の拝殿は檜皮葺き・前面蔀戸、紫宸殿に擬して庭前に左近の桜、右近の橘が植えられ、中央に上皇尊霊、左に天狗の白峰大権現、右に御念持仏十一面観世音菩薩が祀られている。白峰大権現とはもとは、相模の国大山の修験の大行者。後に讃岐の白峯に入山し大先達となる。聖地白峯山の守護神(鎮守)として崇め祀られ、また崇徳天皇の守護神(謡曲 松山天狗、雨月物語、等に登場)としても知られる。
現在の建物は、頓証寺、勅額門とも江戸時代初期の延宝年間(1673~1681年)に高松藩初代藩主・松平頼重が再建したものといわれており、その後も歴代高松藩主により手厚く庇護された。

「崇徳天皇御陵遥拝所 西行法師廟参の遺蹟」
寺の左手に「崇徳天皇御陵遥拝所 西行法師廟参の遺蹟」の案内。脇に回り込むと少々小ぶりな石像と「西行」の案内;仁安元年神無月の比、西行法師四国修行の砌当山に詣で、負を橋の樹にかけ法施奉りけるに御廟震動して御製あり 「松山や浪に流れてこし船の やがて空しくなりにけるかな」
西行涙を流して御返歌に
「よしや君昔の玉の床とても かからん後は何にかはせん」
御納受もやありけむ度鳴動したりけるとなん、と。
何故、このような難しげな文章の案内文を掲げるのか? 訝りながらも、意訳するに「仁安元年神無月の比(頃)、というから、1166年10月、西行法師が四国修行の途中でこの地に詣で、負(修験者(しゆげんじや)・行脚(あんぎや)僧が仏具・衣類などを入れて背に負う、脚・開き戸のついた箱)を橋の木に掛けて供養するに、廟堂が振動し、『讃岐の松山の津(注;白峰寺の近くにある)に流されてきた船(注;崇徳院自身のこと)も 今は跡形もなくかってしまった』と崇徳院が詠いかける。それに対して西行は涙を流し、『仮にわが君が素晴らしい御殿にお住になっていたとしても、お亡くなりになってしまった後は、それが何になりましょうか』、といったことだろうか。

京において崇徳院と親交を深めていた西行は、仁安元年というから、崇徳院がなくなった長寛2年(1164)の2年後、この地を訪れた。後白河院によって頓証寺が建立される23年前のことであり、当時崇徳院の御陵は荒れ果てていた、と言う。で、西行が何故に崇徳院と親密であったか、ということだが、西行は元は北面の武士として院御所に詰めて警護にあたっていたこと、和歌・管弦を通しての交流があったこと、などが挙げられる。その他、真偽のほどは定かではないが、西行こと佐藤義清が北面の武士の時に崇徳院の生母である待賢門院璋子と恋愛関係にあったたことも一因との説もある。
因みに案内にあった西行と崇徳院のかけあいは上田秋成の『雨月物語』の第一編「白峰」に描かれているもの。二つの歌は『山家集』からとられたもので、ともに西行の歌とされる。『雨月物語』では「よしや君昔の玉の床とても かからん後は何にかはせん」の後に「刹利(せつり)も須陀(しゅだ)もかはらぬものをと」と続く。「天子さまも死後の世界では皆一緒。すべてを忘れ成仏してください」と。

小ぶりな西行の石像の少し先に西行歌碑があり、「よしや君昔の玉の床とても かからん後は何にかはせん」と刻まれる。先に進むと崇徳院の白峰御陵遥拝所。木々に遮られ白峰御陵はよく見えないが、一礼し、頓証寺を離れ本堂へと向かう。

○薬師堂
勅額門を出て左に石段を上る。石段いくつかに分かれている。最初の石段を上ると、左に薬師堂(金堂)。天和元年(1681)に高松二代藩主松平頼常が再建したもの。正面須弥壇には、弘法大師作と伝える薬師如来座像。脇に日光月光菩薩、十二神将が控え、金剛界大日如来、胎蔵界大日如来(雲慶作と伝う)が合祠されている。右手には鐘楼堂がある。

○行者堂
2番目の石段を上ると左手に行者堂。安永8年(1779)の高松6代藩主松平頼真が再建したお堂。本尊は、役の小角の自作木像。雲慶作と伝えられる閻魔王など十王をはじめ、伽羅陀山地蔵尊(堪慶作と伝えられる)が合祀されている。右手には廻向堂。

○本堂
3番目の石段を上ると正面に本堂(観音堂)、左手に阿弥陀堂、右手に大師堂が建つ。白峯寺は平安時代初期の弘仁6年(815)、弘法大師が白峯山中に宝珠を埋めて閼伽井を掘り、衆生済度を祈願に堂宇を建立したのがはじまり。その後、貞観2年(860)年、弘法大師の甥の智証大師円珍が山頂できらめく光を見つけて登頂。山の神である白峯大権現の神託を受け、瀬戸内海で霊光・異香を放つ流木を引きあげて千手観世音を刻まれ安置したのが現在の本尊と伝わる。本堂は再三火災にあい、現存の建物は慶長四年(一五九九)高松城主生駒近規の再建されたものである。

○阿弥陀堂
本堂の左手にある宝形造りの阿弥陀堂は永正7年(1510)に創建され、延宝8年(1680)に高松藩主の修理した白峯寺堂塔中最古のお堂。堂内中央に阿弥陀三尊が安置される。後方に木造阿弥陀小立像千体が五段に並べ安置されているために、千体堂とも呼ばれている。
この本尊阿弥陀仏の体の中には,高松藩主松平頼重の遺髪が収められているとも云われており,万治年間高松藩は,この阿弥陀堂の供養料として十石を寄進している。本堂の北方には「勧請」がある。石を積み重ねた壇状とし、経を埋めた経塚であろうといわれる
○大師堂
本堂の右手には大師堂。弘法大師尊像を祀る。文化8年(1811)8代高松藩主松平頼儀が再建したもの。

白峯御陵
境内を離れ、頓証寺の崇徳天皇御陵遥拝所方向へ成り行きで進む。境内を出て右方向へと少し進むと右手に下りの石段があり、その先の上りの石段の先に、いかにも御陵といった風情の一隅がある。そこが第75代崇徳天皇の御陵である。敷地は1688坪ほど。石の玉垣を巡らす。

保元の乱に敗れ讃岐に配流となった崇徳院(崇徳院は死後に送られた諡号、安元三年(1177)のことである。配流前は「新院」。配流後は「讃岐院」と称されていた)は、白峯山麓林田郷での仮御所である雲井御所(綾高遠の館。讃岐国府庁の主席官人・野太夫綾高遠の隣)にて3ヶ年過ごし、その後府中の皷ヶ丘・木丸殿(現在の鼓岡神社のあたり)に移り6ヶ年、都合9年間配所の月日を過ごし、長寛2年(1164)崩御。都からの検視を経て白峯に送られ荼毘に付されその場に葬られ,その地を御陵とした。陵は,積み石の方墳であったと云われている。
御陵の玉垣の外に2基の五輪塔があるが、これは源頼朝により保元の乱において崇徳院に与し敗れた源為義、為朝のために奉納されたもの。そこ頃までは、御陵も整備されていたのではあろうが、時代が経るにつれ、また、都から遠く離れた地の御陵であったこともその要因となり,江戸時代には荒廃していた、とのことである。今日見るように整備されたのは初代高松藩主頼重,五代頼恭,十一代頼聡らにより,修復が重ねられたため。

○崇徳院
WIKIPEDIAをもとに崇徳院のことを讃岐配流の因ともなった、後白川天皇との関係を軸に少し整理しておく:崇徳天皇は鳥羽天皇の第一皇子。とは言うものの、実の父は、鳥羽天皇の父である白河法皇とも言われる。母は待賢門院璋子。後白河天皇は同母弟、近衛天皇は異母弟。子に重仁親王・覚恵がいる。
保安4年(1123)、鳥羽天皇より譲位され、5歳で即位。75代天皇となる。大治5年(1130)、藤原忠通の娘聖子を中宮とした。
保延5年(1139)、鳥羽院の室美福門院得子に躰仁(なりひと)親王が生まれると、鳥羽院は同親王を皇太子に立て、永治元年(1141)、即位させた(近衛天皇)。以後、鳥羽院を本院、崇徳院を新院と称した。
近衛天皇は久寿2年(1155)7月に崩じ、崇徳院は子の重仁親王の即位を望んだが、結局鳥羽第四皇子である雅仁親王が即位(後白河天皇)する。皇太子には後白河の皇子が立てられた。鳥羽天皇としては、白川法皇の寵愛を受けた待賢門院璋子の子であり、白川法皇の子であろうとされる崇徳上皇(新院)の血統を排除したかったのではあろう。
翌年の保元元年(1156)7月2日、鳥羽院が崩御すると、崇徳上皇・後白河天皇は互いに兵を集め、ついに内乱に至る(保元の乱)。11日未明、後白河方の奇襲に始まった武力衝突は、その日のうちに上皇方の完敗に決着した。
崇徳院は讃岐に流され、最初の3年は仮御所である雲井御所、その後の6年は府中の皷ヶ丘・木丸殿と、都合9年間配所の月日を過ごし、長寛2年(1164)崩御は上でメモしたとおり。
雲井御所での3年間は讃岐国府庁の主席官人・野太夫綾高の配慮もあり、その娘を妻にするなど比較的穏やかな日々を送ったようだが、皷ヶ丘木丸殿に移ってからは孤独感を深め、後白河上皇への恨みを募らせた、とか。きっかけは、父の鳥羽上皇を弔うため写経全190巻を都に送るも、写経には呪いが込められているという理由で受け取り拒否されたこと。
その仕打ちに激怒した上皇は、「われ魔王となり天下に騒乱を起こさん」と、舌の先を食い切り、その血で誓状を書きつけたお経を海に沈める。以来、爪も髪も切らず、髭も剃らず、衣もほころびに任せたまま、日々凄まじい形相となって、後白河上皇らに深い怨みを抱きながら亡くなった。大河ドラマの井浦新さんの演技の、まま、である。もっとも、この話も『雨月物語』などに描かれたものであり、実際は穏やかな日々を送った、とも。

十三重石塔
白峯御陵を離れ、参道を少し戻り、駐車場脇にある「十三重塔」に。東西に2基が建つ。高さはともに5m強。源頼朝が崇徳上皇の供養のために建てたと伝えられており、頼朝塔とも伝わるが、実際は鎌倉後期に作られたものの、よう。 東塔は板石を組み合わせた基壇で,基壇から七重までの内部を空洞とし,塔身の種子も不動三尊を刻んだ珍しいもので、 四国の石塔中第一のものと言われる。

西行の道
十三重石塔を離れ、白峯御陵の前を下る参道に戻る。参道の下を見るに、いかにも長い石段が続く。下るにつれて、白峰の台地とその連なりである五色台の台地に挟まれた青海の町が眼下に見えてくる。
石段参道の脇には比較的新しい歌碑が建てられており、その数八十八基。参道入口まで続く。西行の歌集である『山家集』からとられたものが多いようである。
上で、崇徳院とのエピソードでメモした西行の「松山の 波の景色は 変わらじを かたなく君は なりましにけり」の歌碑などを見やりながら石段を下る。参道入口あたりは、「ほととぎす 夜半に鳴くこそ哀れなれ 闇に惑ふは なれ独りかは」、「憂きことの まどろむ程に忘られて 覚めれば夢の ここちこそすれ」、「おもひきや 身を浮雲となりはてて 嵐のかぜに まかすべしとは」と続き、最後、と言うか参道の最初は「思ひやれ 都はるかに沖つ波 立ちへだてたる心細さを」と崇徳院の歌となっていた。意味はそれほど難しくないので省略するが、讃岐配流された直後から、少し当地での生活に慣れた時期の崇徳院の心情が垣間見える。
崇徳院は幼時から和歌を好み、歌会・歌合を頻繁に催したとのこと。在位中、百首歌を召す(崇徳天皇初度百首)。譲位後、二度目の百首歌を召し(『久安百首』)、久安六年(1150)までに完成仁平元年(1151)頃、第六勅撰和歌集『詞花和歌集』を撰進させた。詞花集初出。勅撰入集計八十一首。藤原清輔撰の私撰集『続詞花集』では最多入集歌人(十九首)。百人一首に歌を採られている。有名な崇徳院の御歌「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞおもふ」も、境内のどこかにあった石碑で見かけた。

稚児ケ嶽
西行の道の石段を振り返り白峰寺方向を見やると、急な崖面となった岩山がある。岩の間からは滝も流れ落ちている。五色台の西端、白峰山にある稚児ケ嶽の断崖絶壁から流れ落ちる「稚児の滝」である。この滝はは雨が降った後だけ目にすることができる、とか。当日は運よく滝の流れが見えた。稚児ケ嶽は讃岐院(崇徳上皇)が荼毘に付されたところ、と言うから、白峰御陵も、稚児ケ嶽の山稜の一部にあるのだろう。
稚児ケ嶽の地名は、日本武尊とその兵士を救った稚児に由来する。その昔、悪魚に苦しめられるこの地の人々を救うべく、日本武尊とその兵士が派遣される。見事に悪魚は退治したものの、毒気にあたり気を失う。その時、白峰山の方から雲に乗って神童が現れ、水を兵士たちに与えると皆、蘇(よみがえ)った、と。で、その神童が飛び帰っていった山を稚児ヶ嶽と名付けた、とか。
因みに、兵士達を蘇生させた霊水は八十場の水、と伝わる。予讃線八十場駅近く、79番札所の近くにある「八十場の清水」がそれであり、また、その清水は崇徳上皇が亡くなったとき、都からの使者の検死が終わるまで浸しておいたところ。検死を終えた後、稚児ケ嶽に運ばれた。



青海神社
「西行法師の道、崇徳天皇白峯の陵」、と刻まれた大きな石碑越しに白峰を拝み、参道入口近くにある青海神社に向かう。境内に案内には「保元の乱崇徳天皇當国に遷幸あらせられ 長寛二年(西紀一一六四)8月26日府中村鼓ヶ岡に崩御遊ばさる 同年9月18日戌の刻玉躰を白峰山に荼毘し奉りし時、當地(現社地)紫煙棚引 其の中に尊遍白く顕れ暫時にして消え失せたる跡に一霊玉残れり 依って春日神社祠官 冨家安明 宮殿を造宮し天皇の霊を奉齋すと云ふ  夫れより崇徳天応煙の宮とも又文字とも奉称す。爾来里人氏神として崇敬せり 則霊玉は天皇ご所持の品にして今も殿内に奉蔵せり」、と。
崇徳上皇の遺体を白峰山の稚児ヶ嶽で荼毘に付したときの煙が,東の方にたなびいてここに溜まった。これを見た春日神社の神官が社殿を造営し,上皇の霊をお祀りしたため,青海神社は「煙の宮」とも呼ばれる。また、煙はここで輪になり,その中に天皇尊号の文字が現われ,煙の消えた後には上皇が大切にされていた玉が残った、と。「又文字」の所以だろう、か。

神谷神社
青海神社の駐車場に止めていた車に乗り、ここで散歩は終了。後は時間の許す限り地元在住の弟のガイドで崇徳院ゆかりの地や名所・旧跡を廻る。最初は神谷神社。国宝の本殿があるとのことで、如何なるものか訪れることに。
県道161号・さぬき浜街道を西に向かい、高屋町辺りで県道16号、160号に乗り換え南に折れ神谷町へと進む。少し進み県道が神谷川に交差する手前で左に折れ、川に沿って集落の中の道を進む。しばらく進むと鳥居があるが駐車場が見当たらないので少し先に進むと本殿近くに駐車場があり、そこに駐車。
車を降りて境内に。案内によれば、「御由緒 神谷の渓谷にあった深い渕から自然に湧き出るような一人の僧が現われ渕の傍にあった大岩の上に祭壇を設け天津神を祀り国家安泰五穀豊穣を祈ったのが神谷神社の創始と謂われている。其の後嵯峨天皇弘仁三壬辰年阿刀大足が大に社殿を造営再興し春日四柱の神を相殿に勧請し、益々霊験著く阿野郡北一円の守護神として人々の崇敬が深く、 又境内を流れる川の奥に深夜神々が奏する神楽の鈴の音がすると言うのでこの里を神谷と呼ばれたとも謂う」とある。
社殿前の鳥居をくぐり石段を登ると、朱色が鮮やかな「神門」。その奥には、桧皮葺きの屋根の本殿がある。鎌倉初期に建築された三間社流造のわが国最古の神社建築で国宝に指定されている。随身として安置されていた阿吽一対の木像随身立像も鎌倉風の作りの重要文化財に指定されている、と。
  その有難い国宝の本田は神門からはいまひとつ全容を見ることができない。神門の横に回り、裏に回りなどしてなんとか本殿の一部を拝観。本殿の後方100メートル位の山中に、大きな岩があり、「影向石」と称されるが、この大岩が由緒書にある徳ある僧が天津神を祀った大岩であろう、か。

松山の津
次の目的地は、と聞くと「松山の津」とのこと。場所は県道161号・さぬき浜街道沿いにある。神谷神社を離れ県道161号の合流点へと県道16号を北に向かう。途中、合流点手前の高屋町にも「高屋神社」と言う崇徳院ゆかりの社があったが、見逃した。
高屋神社は「血の宮」とも称され、崇徳院の遺骸を八十場の清水から白峯に移す際、道の途中にある高屋神社境内の石に置いたところ、おびただしい血が滴ったのがその名の由来とされる。

県道161号に合流し、さぬき浜街道を西に少し進むと、道は山稜の間をすり抜ける。道の左右の山は雄山(標高139m)と雌山(164m)。「松山の津」の案内は、その雄山を抜ける手前の道路脇にあった。案内には、崇徳院の讃岐配流までの経緯と、松山の津の説明がある。
「敗れた崇徳上皇は讃岐に配流となり、ここ松山の津に着いたとされる。津とは港のことであり、当時の坂出地域の玄関口となる場所であった。その頃は今よりも海が内陸部まで迫っており、この雄山のふもとも海であったと考えられる」、と。津=港ではあるが,松山は古くから条理制地割りの設けられているところで,海岸から府中の国府に至る重要な場所でもあったのだろう。
案内に「浜ちどり 跡はみやこへ かよへども 身は松山に 音(ね)をのみぞなく 保元物語」ともある。讃岐に到着した崇徳上皇が都を恋しく思って詠んだ歌とされるが、江戸時代に書かれた上田秋成の「雨月物語」では、讃岐配流の後、写経に勤しんだ上皇が、せめてお経の筆跡だけでも京の都に置いて欲しいと朝廷に送った歌ともされる。上で鳥羽上皇の弔いのために送った写経が都で受け取りを拒まれ、崇徳院が激怒し怨霊したとメモしたが、その写経と関係があるのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

雲井の御所
次の目的地は雲井の御所。松山の津から「さぬき浜街道」を更に西に進み、綾川の手前で左折し、綾川沿いの堤防を進む。県道16号と綾川が交差する手前に「雲井の御所」。堤防から少し離れた中川観音堂の隣に「雲井の御所」があった。 案内を簡単にまとめると;讃井配流されたとき、いまだ御所ができていなかったので、国府に勤める当地の庁官であった綾高遠(あやのたかとお)の邸宅を仮の御所としたと伝えられる。
上皇はこの御所で3年を過ごしながらも、都を恋しく思い詠んだ歌か「ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて」。月の光が雲次第で思うに任せられないように、ここも思いもよらない住処(御所)になってしまったなぁ...、と言った意味。雲井の御所の名はこの歌に由来する、と。また里の名も雲井の里とも称されるが、上皇が愛でた「うずら」をこの里に離されたが故に「うずらの里」とも。
崇徳上皇は府中鼓ケ丘木ノ丸殿の完成をもって遷御され、時代が経るにつれこの雲井の御所の場所もはっきりしなくなったが、天保6年(1835年)に,高松藩主松平頼恕(まつだいらよりひろ)公によって,この雲井御所の跡地が推定され,現在の林田の地に雲井御所之碑が建立された。

鼓岡神社
「雲井の御所」を離れ、綾川に沿って上流に進み国道11号に。綾川を渡り、県道33号を予讃線に沿って讃岐府中方面へと進む。鼓岡神社は予讃線・讃岐府中駅の少し手前にある城山(標高162m)の山裾に鎮座していた。神社入口の石碑に「鼓岡神社 崇徳上皇行在所」とある。道脇に車を停め石段を上ると、運動場のような広い境内、その奥に鳥居。鳥居から先に続く石段を上り拝殿に。
案内には、「鼓岡神社由緒 当社地は、保元平治の昔、崇徳上皇の行宮木の丸殿の在ったところで、長寛二年(1164年)八月二十六日崩御されるまでの六年余り仙居あそばされた聖蹟である。建久二年(1191年)後白河上皇近侍阿闍梨章実、木の丸殿を白峰御陵に移し跡地に之に代えるべき祠を建立し上皇の御神霊を奉斎し奉ったのが鼓岡神社の創草と云はれている。伝うるに上皇御座遊のみぎり、時鳥の声を御聞きになり深く都を偲ばせ給い。
鳴けば聞き、聞けば都の恋しきに この里過ぎよ、山ほととぎすと御製された。 時鳥 上皇の意を察してか、爾来この里では不鳴になったと云はれている。 境内には、木の丸殿、凝古堂、観音堂、杜鵑塚(ほととぎす塚)鼓岡行宮旧址碑、鼓岡文庫などがあり、付近には、内裏泉、菊塚、ワン塚などの遺跡がある」とあった。
境内には「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞおもふ」と刻まれた石碑、案内にもあった「鳴けば聞き、聞けば都の恋しきに この里過ぎよ、山ほととぎす」由来の杜鵑塚(ほととぎす塚)などがあった。 また、境内には大正2年(1913)、崇徳上皇没後750年祭を記念し、木丸殿を再現すべく建てられた「擬古堂」もあったようだが見逃した。「擬古」とは昔の様式をまねる、との意味であり、崇徳上皇住んでいた当時の粗末な「御所」を再現している、と。建物も柱は丸太、?は皮付きの木材を用いるなど当時の姿を模している。御所の名が「木の丸殿」と称される所以であろう、か。
都に送った大部の写経をおこなったのもこの場所とのこと。大河ドラマでは、都に送ったものの、無残にもつき返され、怒りのあまり「われ魔王となり天下に騒乱を起こさん」と、日々凄まじい形相となって、後白河上皇らに深い怨みを抱きながら憤死する、ということであるが、それは上でメモしたように、『保元物語』や『雨月物語』の筋書きのようであり、実際は、この地で穏やかな日々を送ったとの説もある。「鳴けば聞き、聞けば都の恋しきに この里過ぎよ、山ほととぎす」も、上皇の嘆きを察し、地元の人々がホトトギスの鳴き声が聞こえないように、追っ払っていた、とも伝わる。
擬古堂から歩いて5分程の所に、崇徳上皇が使用していた食器を埋めたとされる塚(?冢;わんづか))が残っている。また、擬古堂の北側、斜面の下に内裏泉(だいりせん)と称される水場がある。崇徳上皇はここの水を生活に使用していた、と。 地元の人は「この水を飲むと、目が悪くなる」という噂を流し、高貴な人が飲んでいた水を大切に守っていたとのこと。共に見逃した。

国府印鑰明神遺跡
次の目的地は柳田。崇徳上皇暗殺説の現場とされるところである。鼓岡神社の脇に史跡地図があり、鼓岡神社のすぐ近く、予讃線の脇にある。成り行きで進むと、水田の真ん中に石碑が見える。柳田の碑かと思い、畦道を進むに、石碑には「国府印?明神遺跡」とある。どうも「柳田」の碑ではないようだ。
後からチェックすると「国府印鑰明神遺跡」であった。印鑰(いんやく)とは国庁の印鑑や鍵の保管庫こと。印鑑や鍵の重要性に鑑み、明神として祀り、関係役人のモチベーション高揚に役した。石碑の別面には、"府中邨奨學義田" と刻まれる、と。大正4、5年の頃、"奨学義会"という組織が、この周辺の民有地を買い上げ、遺跡として、当時の府中村に寄付した、ということである、

この国府印鑰明神遺跡に限らず、この辺りの本町には帳次(ちょうつぎ:諸帳簿を扱った役所)、状次(じょうつぎ:書状を扱った所)、正倉(しょうそう:国庁の倉)、印鑰(いんやく:国庁の印鑑、鍵の保管所)、聖堂(せいどう:学問所)といった地名が残っているようであり、この辺り・本町に国府(国庁)があったものとされている。予想外の国府関連の史跡の登場であった。

柳田
再び「柳田」の碑を探す。結局、県道33号のJA香川の国道を隔てた対面にある自動車整備工場(?)の裏手の予讃線の線路脇に「柳田」の碑があった。誠にささやかなこの石碑は、崇徳上皇暗殺説にまつわる地。讃州府誌にも長寛ニ年八月二条帝陰に讃の士人に命じ弑せしめたり(二条帝は讃岐の武士・三木近安(保)というものに命じて、崇徳上皇暗殺を計画した)と記されている。
その説によると、刺客の知らせを聞いた上皇は木の丸殿から綾川方面へと逃れる。川沿いには柳が立ち並んでおり、上皇は柳の根元の穴に隠れるも、衣が川面に映り刺客に誅せられた。以来、この地では柳が育たなくなったとか、刺客が白馬の馬に跨り紫の手綱であったことから、「紫」は禁色とされた、とか。 そういえば、白峯寺の幕には五色あったにもかかわらず、頓証寺の幕には紫と白が除かれ、三色の幕となっていた。この暗殺話と関係があるのだろうか。単なる妄想。根拠なし。因みに現在の綾川は当時の流路と変わっているので、柳田の碑と川筋が離れている。

讃岐あるき遍路もこれで終了。散歩のはじめには思ってもみなかった崇徳院が登場するなど、結構内容豊かな散歩が楽しめた。弟の名ガイドに深謝。