火曜日, 3月 26, 2013

奥多摩山行;本仁田山からゴンザス尾根の根岩越え跡を経て日向へと下る

友人から本仁田山からゴンザス尾根へと抜けませんか、とのお誘い。本仁田山はともあれ、ゴンザス尾根は一度歩いてみたいと思っていたので、一も二もなく"諾"、と。 ゴンザス尾根を辿ってみたいと思ったきっかけは、「数馬の切り通し」で出合った「根岩越え」、から。いつだったか、鳩ノ巣渓谷を辿ったときJR白丸駅近くの「数馬の切り通し」に立ち寄ったのだが、江戸の頃、多摩川にせり出す岩場を穿つ、この数馬の切り通しが開削されるまで、棚沢村鳩ノ巣から奥多摩の氷川に進むには、鳩ノ巣からゴンザス尾根に這い上がり、尾根からは氷川へと逆落としの道筋を辿る急峻な山道を辿る「根岩越え」しかなかった、とか。峠越えフリークとしてはいつか、この根岩越えと呼ばれる尾根道の一端にでも触れたいと想っていたわけである。 本日のルートは平石山への尾根道を上り本仁田山からゴンザス尾根を日向へと下るもの。根岩越えを辿ることはできそうにないが、ゴンザス尾根の鞍部だろうとは思う、根岩越えの上り・下りのアプローチ点など確認し、いつか辿りたい根岩越えの予備山行との思いで、奥多摩へと向かうことにした。

本日のルート;奥多摩駅>大沢バス停>12号鉄塔>安寺沢分岐>平石山>本仁田山>大休場尾根分岐>花折戸尾根分岐>ゴンザス尾根>日向

大沢バス停_8時45分;標高396m

奥多摩駅より東日原行きのバスに乗り、10分ほどで大沢バス停にて下車。現在の日原街道は、バス停の先で日原川に架かる平石橋を渡り川の東を進むが、旧日原道は大沢から倉沢の間、現日原街道の対岸を通っていた。その道は今をさる500年の昔、天正というから16世紀後半、戦乱の巷を逃れ原島氏の一族が武蔵国大里郡(埼玉県熊谷市原島村のあたり)よりこの地に移り住み日原を開いた頃から昭和20年頃まで使用されていたとのことだが、道幅が狭く、地形はほとんどが断崖絶壁といった難路であった、と言う。因みに日原の由来は、新堀、新原といった、新しい開墾地といった説もあるが、原島氏の法号「丹原院」の音読みである「二ハラ」からとの説もある。

大沢・小菅の集落

平石橋を渡ることなく直進すると、日原川に注ぐ狩倉沢の先の山腹に集落が見える。大沢と小菅の集落ではあろう。大沢は文字通り、日原川の「大沢」の中にある。昭和7年頃、この地を訪れた高橋源一郎氏は大沢を「水面を去ることあまり遠くなく、いわば薬研の底のようなところにあるけれども、東南面せる斜面であるから、割合に日当たりはよい。人家は何分大沢の中であるから、相当に急峻な斜面を幾段にも切り開いて僅かばかりの平地を作り、そこに建ててあるので、前の家の屋根と後ろの家の土台石が相接する位込み合っている。雛段式などといえば立派なようではあるけれども、ここはまるで梯子段とでもいいたい位である。(中略)大沢の集落の上に数戸の人家が見える。(中略)あれは小菅だという。小菅には伽藍神社というのがあって。。。」と描く(『多摩ふるさと叢書 多摩の山と水 下;高橋源一郎(八潮書店)』)。
大沢・小菅の集落は標高差の大きな山腹に連なっており、大沢集落の最上部には薬師堂、小菅の集落の鎮守である伽藍神社は標高600mのところにあるそうだ。地図を見ると瑞雲寺も伽藍神社の近く、集落の最上部にある。集落には養蚕のための跳ね上げ屋根をもつ「かぶと造り」の民家も残る、とか。往昔の日原道は、この山腹の集落を経て倉沢へと進んだのではあろう。そのうちに昔し道を辿ってみたいものである。



日原線12号鉄塔_9時45分;標高681m
昭和30年架橋のトラス橋である平石橋を渡り、そこからは倉沢・日原へと向かう日原街道を離れ、日原川の東側を逆方向に続く砂利道に入る。道の下には川魚の養殖場らしき施設がある。
川に沿って緩やかな坂を上っていくと、一時簡易舗装の小径となる。数分進むと川沿いの道から山へと分岐する道が現れる。川沿いの道を進めば平石山荘へと進んだようではあるが、現在営業しているのだろう、か。
分岐点から山へと入る。東電の送電線巡視路ではないだろう、か。道を進み、「平尾尾根を経て安寺沢へ2.7Km」「平石橋0.3km」「向寺地1.1km 鍛冶屋1.8km」の標識の地点で、「平尾尾根を経て安寺沢」方面へと左後方に入る。
少し上ると落石防止柵が見えてくると、そこからは尾根に向かうジグザグの急斜面となり、植林された林の向こうに岩肌らしきものが見える。大沢・小菅地区の案内に、日原川に落ち込む山の中腹に烏帽子型をした御前石という将門伝説とも、瞽女(ごぜ;盲人女性芸能者)ゆかりの岩場があるとのことだが、その岩場だろう、か(『奥多摩;宮内敏雄(百水社)』)。

先に進むと道沿いに「日原線12号に至る」と書かれた黄色いポールが現れる。送電線の鉄塔12号に続く、と言った意味である。黄色いポールの近くには昭和21年頃、索道施設として造られた隧道の遺構が残る、と。循環式索道であり、幅1m強、高さ2。5m強、長さ100mほどの2本の隧道跡とのことだが、残念ながら見逃した。尾根の向こうの川苔谷の谷筋は500m以上もあるので、結構長大な索道が動いていたのではあろう。
道を進むと送電線の鉄塔。日原線12号鉄塔である。日原線は海沢の東京電力の氷川発電所から日原方面へと向かう送電線の12番目のもの、という意味であろう。
この送電線鉄塔で尾根に出る。鉄塔付近から西の石尾根方面には六ツ石山の東の狩蔵山が見えた。この山に黒い雲がかかると日原には、俄雨(にわかあめ)が降るとの言い伝えが、日原に残る、とか(『多摩ふるさと叢書 多摩の山と水 下;高橋源一郎(八潮書店)』)。

平石山_11時10分;標高1075m
12号鉄塔から数分上がったところの、「安寺沢2.2km 平石橋0.9km」とある道標に従い安寺沢方向への尾根道を登る。分岐から先の尾根筋は道があいまい、踏み跡を拾いながら行く。
10分ちょっとで754mピーク。露岩が現れる。ここからは小さなピークをいくつか(3つほど)越えて登って行く。唐松の森も現れる。800m付近では何度か尾根はフラットになり、少し楽。840mピークは北方切り開かれ川苔谷を隔て、川苔山、蕎麦粒山方面の展望が得られる。850mのピークから、これから上る平石山を望む。木の間から西の石尾根やそれの前衛の狩倉山などが望める。






850mピークから鞍部に下り少し登り返したところから、左手の川苔山とウスバ尾根がしっかり見え、さらに進んだところ900m付近には苔蒸した山の神の石祠がある。










石の祠を過ぎ、露岩帯の少し急な上りを上る。左に広葉樹、右手に杉林などを見ながら進むと、立木に看板があり「平石山1075m」とある。ここが平石山であった。








(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

安寺沢分岐_11時15分;標高1053m
平石山から先はしばらく植林が多くなる。尾根の左手には白樺などがある。鞍部を少し下ると、安寺沢からの道との合流地点。道案内に「安寺沢方面」と書かれていたのが、この分岐点なのであろう。作業道といった道筋を確認する。とは言うものの、この肝心な分岐点にその地点を示す道標が無かったように思うのだが、単なる見落としなのだろう、か。

ところで、この「安寺沢」は「あてらさわ」と詠む。その語意は「日当たりの悪い場所」とのこと。日本各地に「あてら」と言う地名があり、「阿寺」とか「左(あてら)」と書く。『多摩ふるさと叢書 多摩の山と水 下;高橋源一郎(八潮書店)』には安寺沢ではなく、左沢と書かれてあった。
山形県には「左沢」を「あてらさわ」、「右沢」を「かてらさわ」と呼ぶ地名がある。

「左」が「あちら」、一方の「右」は「こちら」といったところであろう、か。登山口の標識にもあったように、奥多摩の安寺沢の近くに、向寺地(むこうてらち)があるようで、向寺=こう>かてら、との牽強付会にて、「あちら、こちら」説も捨てがたくはあるが、はやり「日当たりの悪い場所」というのが妥当なところであろう。因みに、安寺沢の近くに除ヶ野地区があるが、「除け(ヨゲ)」とは「通行困難な悪場」とのこと。理由はないが、「悪罵」つながりで「あてら」を「日当たりの悪い場所」と、思い込む、ことに。

杉の殿尾根と本仁田山方面への分岐点_11時42分;標高1212m安寺沢への分岐がある鞍部を越えると上りが続くあとわずかで尾根も終わりと思われる頃、尾根をモノレールの軌道が横切る。このモノレールは「安寺沢」から「大ダワ」の先まで繋がっているようである。害獣駆除された動物を処理施設まで運ぶために山から下ろすもの、との記事をどこかで見かけたことがある。
モノレールをまたぐと最後の登りになり、川苔山・大ダワ・コブタカ山方面からの「杉の殿尾根」と本仁田山方面への分岐点に合流。標識には「本仁田山0.1km 奥多摩駅4.7km」「川苔山3.5km 鳩ノ巣駅4.7km」とある。 川苔山(かわのりやま)の名前の由来は、昔、この付近の沢で良質な川苔が採れたために"川苔山"と名付けられたということだ。

本仁田山_11時45分;標高1224.5m
合流点をわずかに右へ尾根を進むと「本仁田山」頂上に着いた。亀甲山とも、高指山とも呼ばれたとの記録もある。山頂の西南の方角は林の切れ目から山稜を眺めるだけではあるが、東南方向は大きく開けており眺めはいい。
本仁田山は本荷駄山とも呼ばれる。青梅街道が往昔、この山腹を搦んで、棚沢村鳩ノ巣あたりから氷川に抜けた頃、旺んに荷馬も往来したので駄馬が通行する山ということで名付けられた、とか。また、猪や鹿の「ぬたば」から、との説も。交尾期に猪や鹿が体を冷やしたり、飲料にするための泥土を掘り起こして湿地とする「ヌタバ」がヌタ>ニタ、と転化したとの説もある(『奥多摩;宮内敏雄(百水社)』)。
駄馬が盛んに往来した、とは言ってもそれは本仁田山から尾根を下ったゴンザス尾根の根岩越えの辺りであろうし、距離が少し離れているようも思える。それよりは、本仁田山を少し下ったチクマ山(池の平の峰)の東側、西川の源頭部に有名な「ヌタバ」があるとのことであるので、「ヌタバ」由来のほうが何となくしっくりする。ともあれ、奥多摩には、ぬたくぼ、ほぬた、大荷田、といった「ぬたば」を意味する集落名が残っている。



大休場尾根分岐_12時30分;標高1200m
本仁田山頂で少し休憩し、ゴンザス尾根に向かって山稜を下る。ほどなく道標が現れ「本仁田山」「花折戸尾根」「安寺沢・奥多摩駅」とある。「奥多摩駅「4.5km」と追記もあった。ここは大休場尾根を下り「安寺沢・奥多摩駅」方面へと向かう分岐点である。
大休場(おおやすんば)尾根は急登の尾根として知られる。平均斜度が24.2°とか。それが「大休場」というのは少々皮肉ではあるが、標高差で100~150m登るごとに一息つける平らな尾根が現れることが、その名の由来、とか。

チクマ山_13時5分;標高1040m

大休場尾根と分岐の先は急な下りとなる。急傾斜のざれた斜面を下るとほどなく平坦な尾根道となる。本仁田山から下る山稜は懐中に凹を抱くようになっており、フラットな尾根道を進むと少し上り返すことになる。この凹部は上でメモした西川の源頭部であり、昔はこの地に塘があり、その湿潤なる平には大蛇が棲んでいた、との言い伝えもあった、とか。池ノ平などとも呼ばれていたようでもある(『奥多摩;宮内敏雄(百水社)』)。
凹部の平坦な尾根を少し上り返すとチクマ山。とは言うものの、張り紙での山名表示と、三角点があるだけではある。棚沢ではチクマ山のことを「池の平の峰」、と呼ぶようである。

ゴンザス尾根・花折戸尾根分岐_13時12分;標高1006m
チクマ山から少し下ると、花折戸尾根とゴンザス尾根との分岐点。「本仁田山」「花折戸尾根」「日向(ゴンザス尾根)」の標識がある。花折戸尾根を下ると鳩ノ巣に出る。「花折戸」は「山路を越える旅人が山霊に小枝を折って捧げ、身の安全を祈願する」ことによる。元は尾根を乗り越した青梅街道の地にあった地名のようだが、それが尾根の名前に使われるようになった、とか。奥多摩には「ヲリバサマ、ハナタテバレ、山ノ神ノ花立」、などの名前も残るようである(『奥多摩;宮内敏雄(百水社)』)。





分岐からゴンザス尾根に入ると、しばらくは、急傾斜の岩場交じりの道となる。ところで、この「ゴンザス尾根」って、どういう意味なのだろう。いつだったか、日原かヨコスズ尾根・長沢脊稜を経て仙元峠を越えて秩父の浦山へと抜けた時にも、ゴンジリ峠という峠があった。「権次入峠」と書くが、元より漢字表記は「音」に合わせたケースが多く、漢字の意味から推測するのは少々危険。あれこれチェックしていると、ゴンザスの「サス=差、指」は「焼き畑」の意味があるとこ記述があった。これって、良い線いってると思うのだが、「ゴン」の意味がわからない。「ゴン」には方角の「丑寅(北東)」、「鬼門」の意味もあるとのことだが、はてさて。そのうちにどこかで語義に出合うことを想い、妄想ゲームはここで終える。

根岩(ねえや)越え_13時52分;標高705m

細尾根の露岩や滑り易い急傾斜を過ぎ、植林地来まで下るとテレビ電波の受信アンテナが林立する。このゴンザス尾根の鞍部の辺りが棚沢の鳩ノ巣から氷川に抜ける根岩越えの尾根道とのクロスする辺りではないか、とのことである。

根岩越えは、江戸の頃、多摩川の断崖絶壁を穿つ、と言うか、絶壁を削り鳩ノ巣から氷川へと道を通した、「数馬の切り通し」ができるまでは鳩ノ巣と氷川・奥多摩を結ぶ唯一の道であった。元禄12年(1699)に独りの六部と百姓が3年かけて開削したとか、元禄16年(1703)に氷川村や栃久保村の名主が中心になって開いたとか、はたまた元禄16年頃、奥氷川神社の神官である河辺数馬藤原永義が開いたとか諸説あるが、それはともあれ、人一人かろうじて通れる多摩川に屹立する断崖絶壁の「壁道」ではあるが、それでも「平地」を通る道が開かれるまで、ゴンザス尾根を横切る難路の根岩越えが青梅から氷川・奥多摩を結ぶ唯一の道であった。

根岩越えのルートは、白丸駅裏手の老人ホーム脇から「根岩越え」の道が始まる。畑の間に挟まれて石畳の古道を進むと山道へと向かう。山道は一直線に尾根に這い上がる。道の途中には山ノ神の石祠や茶屋の跡、古い石積なども残る、とか。
急峻な尾根を越えると、日原線6号鉄塔の辺りに向かって岩混じりの尾根を下り、そこからは、氷川へと逆落としの道筋を下る。現在、6号鉄塔から先は、ケーブルに沿って下り、日原線7号鉄塔への黄色いポールの案内に従い、ケーブルが右に尾根を外れた辺りで左側の道を下る。急な斜面を据え付けのロープや鉄梯子を使って氷川の浄水場に向かって下っていく、とのことである。

ゴンザス尾根の根岩越えがクロスする辺りから東の植林帯に入り、送電鉄塔の巡視路標柱を目安に、巻き道に入り6号鉄塔へ、そこから氷川に下るのもいいか、とは思えども、山道の左手には「氷川の屏風岩」の岩頭や岩登りゲレンデなどがあるような逆落としの山道。高所恐怖症の我が身には、少々敷居の高い道筋ではあろう。それにしても、そのうちに越えてみたい道ではある。

ところで「根岩」であるが、根が生えたような大岩がその由来なのか、テレビのアンテナ群のところに岩がゴロゴロしているためなのか、急峻な岩盤地質のゴンザス尾根自体を指すのか、「納屋」の転化がその由来など、その由来は諸説ある。「納屋」は、いつだったか中世の甲州街道である大菩薩峠から牛の根尾根を越えて奥多摩の小菅へと歩いたとき、大菩薩峠に「荷渡し場跡」があったが、そこの案内に「萩原村(塩山市)から丹波、小菅まで行ったのでは1日では帰れないので途中に荷を置いて戻った。萩原村からは米、酒、塩などを、丹波、小菅側からは木炭、こんにゃく、経木などが運ばれた」、と。納屋はこのような「無言貿易」の荷を収納する小屋であり、「ナヤ」→「ナーヤ」→「ネーヤ」→「ネエヤ」になった、とする。

日原線3号鉄塔

根岩越えの尾根道とのクロスする辺りを離れ、そこから植林地帯を少し上り返し、先に進むと日原線3号鉄塔の足下に出る。鉄塔の周囲は伐採されており、大岳山や御嶽山方面の眺めが楽しめる。
日原線の送電線は海沢の東京電力(現在は東京発電)氷川発電所からゴンザス尾根を一気に上り、尾根道をクロスし、日原川の東岸山腹を川苔川との合流点辺りまで進み、そこから先は日原川の西岸を倉沢谷に進み、そこにある変電所まで18の鉄塔で電力を送電する。また、氷川の先、除ヶ野の辺りから一本線を分岐させ、氷川の変電所に下りる送電線を奥工氷川線とも呼ぶようだ。奥工とは、石灰の採石・販売をおこなう奥多摩工業の略であろう、か(『東京鉄塔;サルマルヒデキ(自由国民社)』。

テレビ中継アンテナ

3号鉄塔から少し下ったところにテレビ中継施設。奥多摩テレビ中継所というこの施設で、奥多摩の氷川地域でのテレビ受信が可能となる。アナログ放送の頃はNHKとMXテレビだけであったようだが、デジタル放送となり民法各局の視聴も可能になった、とか。ということは、根岩越えの辺りで見かけたテレビアンテナ群はアナログ放送時代に視聴できなかった民放を見るために氷川の住民がつくったものであろうか。奥多摩には町内単位でテレビ視聴の共同組合なるものがある、とか聞いたこともある。単なる妄想。根拠なし。

奥多摩テレビ中継所を越えるとNHK巡視路と鉄塔の案内に従い植林地帯の九十九折れの道を進み、日向地区の登山口へと下り、本日の散歩を終える。














土曜日, 3月 23, 2013

守谷散歩そのⅡ:守谷城址から、かつての古城沼を抜けて小貝川へと

昨年秋、将門ゆかりの地を訪ねて守谷を彷徨った。基本、事前準備なし、なりゆき任せが散歩のスタイルではあるが、それでも駅を下りれば、なんらかの名所旧跡案内といったマップがあり、それなりに、なんとかなっていた。 が、守谷は思惑と少々異なり、駅を下りても全く何もなし。結局お散歩情報を求めて、5キロほど歩き中央書館で将門ゆかりの地を調べ、それなりにその跡を辿り、最後は守谷城址で散歩を締めくくった。 後日、その散歩のメモをまとめていると、その守谷城址は、守谷城全体のほんの触りの部分に過ぎないようであった。守谷城は、守山城址の案内のあった舌状台地部分(現在の城内地区)と、その先にある平台山と称する島状の台地を合したもの。平台山は鎌倉期に館が築かれた地であり、そこは守谷本城とも呼ばれる。城内地区は手狭になった守谷本城を近世なってに拡張された城域であった。 ということで、今回の守谷散歩の第二回は、守谷城址を再訪し近世の守谷城域を彷徨い、その後で守谷本城と称された平台山へと向かうことに。守谷本城のある島状の平台地の周囲には水が迫り、天然の要害であった、とか。守谷本城を彷徨った後は、城を囲む水の主因でもあった小貝川の流れまで進み、川筋から城跡の景観を楽しむことに。その後は成り行きで日暮まで散歩を楽しむべし、という段取りで守谷に向かった。

本日のルート;守谷駅>雲天寺>八坂神社>薬師寺>石神神社>天王観世音>守谷城址>川獺弁天>熊野神社>小貝川>天満宮>赤法花>常総橋>同地瑠璃光山>小貝排水路>薬師堂>守谷駅>永泉寺>松並木>守谷駅

雲天寺
成田エクスプレスで守谷駅に。慣れた道筋を近世の守谷城址のある台地に向かう。台地に上る坂の辺りに雲天寺。先日の守谷散歩では家路を急ぐあまり、パスしたお寺さま。境内に入り、本堂にお参り。創建は天正3年(1575)。この浄土宗のお寺さまの本尊の阿弥陀如来は、目黒区中目黒の祐天寺にその名を残す祐天上人が入仏供養したと伝わる。祐天上人は陸奥国(後の磐城国)磐城郡新妻村の百姓の子に生まれ、浄土宗の最高位にまで上りつめた稀代の呪術師と伝わる。
幼少の頃は暗愚と呼ばれながらも、後に成田山新勝寺の不動明王から授けられた法力をもって、怨霊を鎮め、それ故か5代将軍徳川綱吉、その生母桂昌院、そして徳川家宣の帰依を受け、幕命により下総国大巌寺・同国弘経寺・江戸伝通院の住持を歴任。正徳元年には(1711年)増上寺36世となり、大僧正に任じられた。祐天寺は隠居し晩年を過ごした草庵(現在の祐天寺)である。
享保3年(1718年)82歳で祐天寺の草庵で入寂するまで、多くの霊験を残したが、その中で最も名高い奇端は、下総国飯沼の弘経寺に居た時、羽生村(現在の茨城県常総市水海道羽生町)の累という女の怨霊を成仏させた累ヶ淵の説話。曲亭馬琴の読本『新累解脱物語』や、三遊亭円朝の怪談『真景累ヶ淵』などは、その説話がもとになっている。
寺には俳人である斎藤若雨が眠る。斎藤若雨こと斉藤徳左衛門氏は江戸初期から名主役を務めていた家柄。流山の醸造家秋元双樹の庇護を受け、しばしば下総を訪れていた小林一茶との交誼も深く、一茶も斉藤家で句会を開いていた、とのことである。
先回の守谷散歩で西林寺に一茶の句碑を見たが、その「行くとしや空の名残りを守谷まで」と刻まれた句碑は、文化7年(1810年)、一茶が西林寺を訪れたときに詠んだもので、碑は終戦後、斉藤徳左衛門(若雨)の子孫である斉藤隆三氏をはじめとする有志によって建立された、とあった。

八坂神社
台地を上り、先回場所がわからなかった八坂神社を目指す。守谷の総鎮守と称される以上、とりあえずお参りせん、との心根である。古きの趣を僅かに残す町並みを進むと、神社は先回訪れた守谷城址の案内のある守谷小学校のひとつ手前の道脇にあった。
樹齢数百年と称される銀杏の木の下の鳥居をくぐり境内に。樹齢400年とも伝わる欅を見やり社殿にお参り。祭神は素戔嗚尊(牛頭天王)。世の多くの八坂神社が元は牛頭天王宮であり、八坂神社となったのは明治の神仏分離令以降との例にもれず、この八坂神社も元は牛頭天王宮と称し、大同元年(806)、守谷の本宿(現在の高野地区。高野地区は先回の散歩で訪れた)天の窪に祀られた。 現在の地に移ったのは慶長3年(1598)。守谷城主土岐山城守によって現在の地に社殿を遷座したと伝わる。その後、寛文2年(1662)に火災により焼失、同年堀田備中守により再建されるも、寛文5年(1666)に再び火災により焼失。寛文11年(1671 )城主酒井河内守によって再建、元禄5年には関宿城牧野備後守により大修営され、その後改修をはかり現在に至る。

○八坂神社と牛頭天王
上で、その牛頭天王が八坂神社となったのは明治の神仏分離令以降とメモした。その所以は、本家本元・京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社に改名したため、全国3,000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。
八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていたから。ちなみに、明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の 不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。
で、なにゆえ「天王さま」・「祇園さん」と呼ばれていたか、ということだが、この八坂の郷に移り住んだ新羅からの渡来人・八坂の造(みやつこ)が信仰していたのが仏教の守護神でもある「牛頭天王」であったから。また、この「牛頭天王さま」 は祇園精舎のガードマンでもあったので、「祇園さん」とも呼ばれるようになった。

○守谷藩
八坂神社の修繕に幾人もの大名が登場する。この大名と守谷がどう関係するのかチェックすると、当然と言えば当然ではあるが、皆、この守谷の地の領主ではあった。とは言うものの、守谷に本格的な城があり城下町があったようにも思えないのでチェックする。
この守谷の地には鎌倉時代、千葉宗家第五代常胤の二男・帥常が館を構え「相馬氏」を称した。千葉宗家は中世下総国相馬郡を領した平良文の流れ(下総平氏)を継ぐ名門である。その名門下総相馬氏も秀吉の小田原の陣では小田原後北条の傘下として参陣。守谷城は秀吉勢の浅野弾正少弼長政、木村常陸介重滋の軍勢により落城。下総相馬家もここに絶え、下総相馬家第5代胤村の時、胤村の五男である帥胤が陸奥行方郡の領地に土着した奥州相馬氏が下総平氏の流れを後世に伝えることになる。因みに、浅野弾正少弼長政、木村常陸介重滋には先回の散歩の長龍寺で、寺が軍兵らによって荒らされることを防ぐ「禁制文書」で出合った。
後北条滅亡の後、徳川家康が関東に入府し、下総相馬氏の絶えた守谷の城には菅沼定政氏(後に土岐氏を名乗る)が1万石で入城。土岐氏はこの地で数代続くも定義の代に高槻城に転封。守谷城主を継いだ定義の子も上山に転封となり、守谷城は事実上の廃城となった。
その後、寛永19年(1642)には、守谷の一部が佐倉藩堀田氏の所領となり、堀田正俊が1万 3000 石の領主となる。寛文元年(1668)には酒井忠孝が2万石の領主となるも、天和元年(1681)には酒井忠挙の代に厩橋(前橋)へ転封となる。
城主のいなくなった守谷は元禄元年(1688)には、 関宿藩領へ編入され守谷藩は廃藩となり、以後、幕末まで関宿藩領、天領、田安領(徳川御三卿の一つ)、その他旗本領に分割されて続いた。土岐定政よりはじまる守谷藩は3万石以下の小大名で、城はなく陣屋を設け代官を置いていただけ、とのことである。

薬師堂
台地上の上町から下町へと向かう。先日の散歩で見落とした薬師堂に訪れるためである。下町を進み、道が台地を下り始めるあたりの左手に石段がありその上に誠にささやかなお堂がある。どうもそのお堂が薬師寺のようであった。案内もなく、お参りをする、のみ。

石神神社
次の目的地も先回取りこぼした石神神社。先回の散歩で訪れた乙子地区の「石上神社」は本堂の周囲に男根の石像を配した、結構立派な社であったが、こちらの石神様は鳥居にも「石神神社 稲荷神社」と併記されるといった、誠にささやかな祠ではあった。
散歩の折々で石をご神体とした社によく出合う。原初的な信仰は巨石・奇岩より起こったとも言われる。古代の遺跡からは石棒が発掘されるとも聞く。石には神が宿り、それが豊饒=子孫繁栄の願いと相まって石神信仰がひろまっていったのであろう、か。




この石神様は舌状台地の端にあり、眼下,と言っても数メートルではあるが、眼下に台地下の葦原が広がる。葦原の左右、そして前面には緑の台地が控え、なかなか美しい景観である。葦原は往昔、水に覆われていた一帯であろう。





天王観世音
台地下の崖に沿って坂を上ると、途中に13体の石碑が佇む。もっとも大きい石碑には「天王観世音」と刻まれる。結構散歩をしているのが、「天王観世音」に出合ったのはここがはじめ。
天王観世音って、何だろう?あれこれチェックしても、これといった情報が見つからない。で、妄想をするに、天王といえば牛頭天王。とすれば、この天王観世音は牛頭(天王)観世音のことではないだろう、か。もともとの牛頭天王の意味から離れ、「馬頭」観世音に対する「牛頭」として、牛を祀ったものではないだろう、か。実際、川越の高松寺には牛頭観世音と称される石碑が残る、とか。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

守谷城址
坂を上り、なりゆきで先回訪れた「守谷城址」の案内、土塁の残る守谷小学校脇に向かう。「守谷城址」の案内を再掲:守谷城の概観:守谷城は守谷市(城内地区)と、平台山と称する島状の台地とを 併せて呼ばれている。鎌倉時代の初期に平台山に始めて城館が構築 されたが、戦国時代になると戦闘様式等の進展に伴って城は現在の守谷小学校(本郭のあった所)周辺に増築、移転した。 平台山に最初に構造された城の事を守谷本城とも呼ばれている。この守谷本城は鎌倉時代になって、平将門の叔父に当る平良文の子孫、 相馬師常によって築城されたもので、素朴な鎌倉様式を残した名城である。師常は源頼朝の旗上げに最先かけて参陣し頼朝の重臣として幕政に 参画し、その功によって相馬郡の他に結城・猿島・豊田(一部)の諸郡を 拝領し、更には奥州相馬の地をも賜ったのであるが、守谷本城は それらの領地を統轄する本城としての役割を演じたものである。
本城の面積約21,254㎡で、それを三郭に分割し、各郭は大規模な土塁、堀等によって 区画され、その堀には満々たる水が入り込み舟着場も残されている。 なおその三郭には妙見社も建てられ、相馬野馬追いの行事はその社前で 実施されたといわれている。 なお、本城は戦国期になって本拠を現在の城内の地に遷したが、 その後は守谷城の出城として使用されていたようである。
本城は戦国時代を迎えると城内の地にその拠点を移動したが、そのことは城内第六郭の発掘調査によって判明した。この調査によってこの城は15世紀より16世紀全般に亘って その機能を発揮した城で、ここから戦国期の建造物(宿舎・事務所・倉庫・馬舎) 26棟が発掘され、それに付属して井戸・堀・食糧貯蔵庫・墓拡・製鉄加工所等 が検出され、多くの貴重な遺物が出土した。なお、図面(下の地図)によってみると、小貝川より入る一大水系は満々たる水を湛えて城域を囲み、更にはその城域の極めて広大な事、築城技術の入念な事、 それは天下の名城としての様相が偲ばれるのである。
永禄9年(1566)城主相馬治胤がこの城を古河公方に提供し関東の拠点となすべく計画を進めたのもこの城であった。この城は北条氏の 勢力下にあったので、小田原落城後豊臣秀吉軍の進攻により廃城となった」、とある。
案内によると、小学校脇の守谷城址のある「城内地区」は、戦国時代に増築、移転された城跡であり、鎌倉時代に構築されたもともとの守谷城は、平台山と称される島状の台地にある、ということ。掲載されている地図によると、小学校の右に本郭、5郭、左に6郭、その前面に左から2郭、3郭、4郭と並ぶ。小学校の辺りには大手門があったようだ。とは言うものの、現在は宅地となっており、往昔の風情は小学校脇の土塁のほか特に何も残ってはいないようである。

平将門城跡
守谷城趾の碑の真後ろ、守谷小学校の敷地内に、「平将門城跡」の石碑がある。昔から、この守谷城が東国の新皇となった将門の皇城との説があるようだ。「将門記」には上野国府を攻撃占領した後、新皇を称して、皇城を築いたとあり、その場所は「下総の国亭南」とのこと。皇城そのものの真偽及び位置は不明とされるが、「相馬日記」など、古くからこの守谷城址が将門の皇城との説もあるが、「案内板」の記述にあるように、中世以来相馬氏の居城と比定されており、将門皇城説は現在ではほぼ否定されている。

和田の出口
守谷本城に向かう前に、城内地区に近世に守谷城のなんらかの痕跡がないものかとしばし彷徨うことに。誠に大雑把な案内ではあるが、守谷小学校の北辺りに「和田の出口」とあるので、先ずはそこを目指す。地図で見るに、和田の出口は舌状台地の窪んだ辺りにある。とはいうものの、宅地開発された一帯に舌状台地の痕跡を探すのも困難であり、小学校の敷地に沿って進むと、小学校の北側の台地と崖地の交わるあたりに「和田の出口」があった。




民家の隣の小さな林の中にある案内によると、往昔守谷城二の丸(近世城郭では4郭とある??)の出口にあたり、出口は旧守谷城と結ばれていた。その下には船着場があり、軍事経済上の拠点であった。かつては「和田の出口榎の木」と称される榎の大木があったが、現在は枯れて新木が植え直されている、と。船着き場へと下りる道があればと、近辺を彷徨うも、「和田の出口」の辺りは個人の敷地のようでもあり、また崖を下りる道も見つからなかった。


舌状台地先端部
和田の出口を離れ舌状台地の先端部に向かう。往昔水で覆われていた湿地帯でも見てみようか、できれば下り口を見つけ、かつての湿地帯を横切って平台山の本守谷城に向かおう、と。台地先端部に向かうに、台地先端部近くまで宅地開発が進み、その上先端部を横切って結構広い道路が建設中であった。
守谷小学校の駐車場脇から建設中の道路に下り、工事中の道を進むに、小規模な舌状台地の窪み部分など埋め立てられているようにも思える。また、台地から湿地帯に下りるルートを探すに、一面の葦のブッシュでとても湿地部に下りることもできそうにない。眼前に平台山の緑を見ながらも、結局湿地からのアプローチはあきらめる。台地先端部を辿った唯一の成果は、建設中の道路から「和田の出口」の辺りの台地と、その下一面に広がる湿地帯を見ることができたこと。船着き場があってなんら不思議でない景観が現在でも残っていた。 建設中の道を折り返し、道路の北端部、旧来の道と建設中の道路の接点部に。そこを右に曲がると偶然にも守谷本城へと続く道筋であった。

守谷本城
鎌倉時代の初期に下総相馬氏が館を構えた守谷本城に進む。道脇の城の案内によると、台地を下った城への入口のあたりに「堀切」が造られ、城を外部から切り離している。城の入口には「枡形虎口」があり、その脇には「矢倉台」があり、次いで「御馬家台」と続く。更にその先にある「平台」とは「空堀」で区切られ、「平台」の先には空堀を跨ぐ橋があり、「土橋」と記された台地部と結ぶ。「土橋」台の先に空堀と、名称無き台地部、そして先端部に「妙見曲輪」といった構えとなっている。



「御馬家台」が小学校脇の案内で見た「二郭」、「平台」が「本郭」ではあろう。「二郭」と「本郭」の間の空堀は結構なもので、6mから7mの深さがあるように見える。「本郭」両側には高さ2mほどの土塁も残る。本郭と土橋台は木橋で繋がり、その先にある名のない台地(三郭だろうか)との間の空堀も5mほどもある。

○妙見曲輪
守谷本城をあてどもなく彷徨う。妙見曲輪は千葉氏の守り神である妙見信仰故の命名であろう、か。妙見信仰といえば、秩父神社が思い出されるが、秩父神社は平良文の子が秩父牧の別当となり「秩父」氏と称し妙見菩薩を祀ったことがはじまり。平忠常を祖とする千葉氏はその秩父平氏の流れをくみ、妙見菩薩は千葉家代々の守護神であった。 千葉一族の家紋である「月星」「日月」「九曜」は妙見さまに由来する。 妙見信仰は経典に「北辰菩薩、名づけて妙見という。・・・吾を祀らば護国鎮守・除災招福・長寿延命・風雨順調・五穀豊穣・人民安楽にして、王は徳を讃えられん」とあるように、現世利益の功徳を唱える。実際、稲霊、養蚕、祈雨、海上交通の守護神、安産、牛馬の守り神など、妙見信仰がカバーする領域は多種多様。お札の原型とされる護符も民間への普及には役立った、とか。
かくして、妙見信仰は千葉氏の勢力園である房総の地に広まっていった。上でメモしたように、下総相馬氏は鎌倉時代、平良文の流れ(下総平氏)を継ぐ千葉宗家第五代常胤の二男・帥常が守谷に館を構え「相馬氏」を称したものである。

川獺(かわうそ)弁天
成り行きで守谷本城を歩いていると、知らずに台地を出てしまった。守谷本城台地を囲む、かつては守谷池(沼)と称された湿地部に出たわけだが、台地から往昔の湿地帯の中に土手が造られていた。草の茂る土手を進むと、右手に人工のものらしき池があり、更に進むと微高地に出た。微高地の傍に整地された公園(守谷城址公園)があり、そこにある案内を見ると、その微高地は「川獺(かわうそ)弁天」、とあった。
微高地に上るに、川獺弁天の名にあるような弁天様の社も祠も見当たらないが、その昔はこの地に守谷城の鬼門除けの弁天様が祀られていた、と。かつて、満々と水を湛えた守谷池(沼)には多くの川獺が生息していたのではあろう。なお、その守谷池(沼)はさきほど見た如何にも人工の池が沼の痕跡。昭和43年(1968)の整備事業によって整備・縮小されたのではあろう。人工の池ではあるが、その守谷池(沼)と守谷本城址のある台地を重ね合わし、往昔の湿地に屹立していた守谷本城を想う。

同地地区
川獺弁天から小貝川方面を見やると、かつての湿地は耕地となっており、その先の小貝川との間には同地(どうち)地区、とか法花(あかぼっけ)地区といった台地があり、川筋を見ることができない。案内に、「小貝川より入る一大水系は満々たる水を湛えて城域を囲み。。。」とあった小貝川を見ないわけにはと、川筋へと向かう。


小貝川排水路を越え、同地地区の台地の緩やかな坂を上る。台地を上り切れば小貝川の堤が見えるかとも思ったのだが、道と川筋の間に畑や林があり小貝の流れを見ることができない。なんとか川筋を見ようと、成り行きで畑の畦道に入り込み先に進むが、川に沿って茂る葦のブッシュなどで遮られ流れは全く見えない。

それでも、なんとかなるかとブッシュを掻き分け一瞬だけ川筋に出るも、それより先には進めない。再びブッシュを掻き分け、畑地の端を進み、竹林を抜け、としばらく先に進むも、どうも川筋に出る可能性はない、と藪漕ぎをあきらめ、畑の畦道を抜けてまともなる道に戻る。




赤法花地区
同地地区を進み赤法花地区に出る。赤法花(元は赤法華)の由来は、本守谷城内からの眺めが「中国の赤壁」に似た景観であったため、と言う。昔は台地が削られ赤土も出ていたのだろうか。守谷本城から眺めた現在の台地は深い緑に覆われているだけではある。因みに、中国の赤壁とは、『三国志』の赤壁の戦い(せきへきのたたかい、中国語:赤壁之戰)で知られる。中国後漢末期の208年、曹操軍と孫権・劉備連合軍の間の戦いである。




天満宮
道脇に天満宮。将門と菅原一門は浅からぬ因縁で結ばれており、それ故の天満宮であろう、か。歴史に名高い両者の因縁とは、共に怨霊として天変地異を起こし、よって怨霊を鎮めるべく社に篤く祀られた、ということではない。道真流罪の後に起こった天変地異に怖れを抱いた朝廷は道真一族を遇することに。この下総の地には菅原道真の三男である景行が延喜9年(909)に下総守として下向。これを契機に当時実質上の下総介であったである良門(将門の父)を筆頭にした下総平氏一門との交誼がはじまる。そこには、下総平氏の都での良き理解者であった関白・藤原忠平が同じく菅原道真の良き理解者であったことも縁無きことではないだろう。
下総平氏一門との友好な関係のもと、延長4年(926)、常陸介となった景行は常陸大掾の源護、将門の叔父である平良兼とともに常陸国羽鳥庄に道真を祀る社を建てている。景行はこの下総平氏一門との友好関係を基盤に、飯沼の南岸の農地開拓や飯沼を活用した水運、また飯沼北岸の大草原を活用した牧場経営につとめるなど、下総・常陸に在任した24年の間に、此の地に多くの業績を残している。因みに平将門が生まれたのは菅原道真が太宰府に流された3年前であり、また道真の三男・景行が下総・常陸を離れたのが将門が都での宮廷警護の任を終え下総に戻った延長8年のことであり、将門とが菅公一門との直接コンタクトはなかったようである。

常総橋
天満宮を離れ、豊かな農家の家並みを眺めながら県道46号に出る。挑戦すれども結局見ることができなかった小貝川を眺めるべく、県道を東に進み常総橋に。この辺りの小貝川は常陸と下総の境でもあり、両国の一字を取った橋名であろう。橋からしばし小貝川の眺めを楽しむ。橋からチェックするに、とても川に沿って進めるといった雰囲気ではなく、川筋一面がブッシュや木々で覆われていた。途中で藪漕ぎをやめて正解であった。
橋の向こうの緑の森に祀られる水神宮に少々遠くからではあるが一礼し、道を西に折り返す。赤法花の西に古城沼交差点があるが、この辺りから守谷本城のある守谷池(沼)あたりまで「古城沼」と呼ばれていたようである。湿地は埋められ現在はすべて水田となっている。
埼玉の見沼など、散歩の折々で湿地の中に排水路を通し、そこに悪水を集め湿地を新田開発を進めたケースを目にする。この地も水田の中ほどに小貝排水路があるが、沼地の水をこの排水路に集め、新田開発を進めたのではあろう。

再び川筋のブッシュに戻る
で、予定ではこの地から県道46号を西に進み、北園地区から永泉寺へと向かうつもりではあった。が、リュックのサイドポケットを見ると、田舎のお袋にもらった折り畳み傘が見当たらない。どういうことにない、ありきたりの傘ではあるのだが、何となく気になり、先に進むか、探しに戻るか少々悩むも、結局辿った道を戻り、落としものを探すことに。
県道46号から赤法花の台地の森、天神様を越え、道々折りたたみ傘がないものか目を凝らしながら進む。道には見つからず、結局畑地に戻り、竹林を抜け、ブッシュを掻き分け、来た道を戻ると、川筋脇のブッシュの中に落ちていた。場所はほとんど同地地区まで戻ってきていたので、赤法花に戻ることなく、同地の台地から元来た道を守谷本城へと進むことに。

同地の薬師堂 

成り行きで進むと同地公民館。地域の人たちが宴会を開いていた。公民館のすぐ隣には小振りながらも出来たて、といったお堂があり瑠璃光山とあった。同地に薬師堂があるというが、場所からいえば、このお堂のことであろう、か。昔は鬱蒼とした木々に覆われていたとのことだが、現在はその面影は、ない。薬師堂の中には30センチ弱の薬師様が祀られる。室町の作と伝わる。


奥山の薬師堂
お堂を見やり、台地を下り、再び水田地帯をかつての湿地を想いやりながら進む。小貝排水路を越え、再び台地に上る。先に進むと三叉路がある。同地への道、みずき野団地への道、奥山新田への道の分岐点である。
分岐点に古き趣のお堂が佇む。奥山の薬師堂と称されるこのお堂の中には、江戸時代初期に造られた32センチほどの薬師如来、日光菩薩が祀られる、とか。

エコミュージアムをつくる会の案内板
お堂で一休みしながら場所をチェックすると、守谷本城からは大きく外れ、ほとんど関東鉄道常総線の南守谷に向かっている。方向を修正し、守谷駅方面へと向かう。




台地を下り、再びかっての湿地帯に入り、葦の生い茂る一帯に続く小道を進む。本町の台地に上る手前に守谷にエコミュージアムをつくる会の案内板:「約1万年前最終氷河期が終わり、海面が上昇、このあたりは内海に面していた。大谷津田に繋がる湿地はその名残りで、緑濃い林地と生き物たちの棲息地が手つかずで残されていた。近隣の人々や小中学校の協力で熊笹に覆われた旧道を歩行可能な状態に整備しました。水鳥や水棲生物の生態が見られる自然環境を博物館に見立てたエコミュージアムであり、また、利根川、鬼怒川、小貝川を巡るサイクルロードの一部になると考える」とあった。この野道も、地域の人たちのボランティアの賜物と感謝。

永泉寺

勝手知ったる本町の台地を進みつくばエクスプレス守谷駅に。落し物を取りに戻り、その後も遠回りの道を進み、守谷駅についたのは日暮前。予定にしていた永泉寺を訪ねるか否か、ちょっと迷うも、結局は永泉を目指す。
守谷駅から北東へ伸びる大きな道を進み県道46号と交差するあたりに永泉寺への参道があった。結構長い参道である。杉並木の続く参道を進み境内に。右手に鐘楼がある。正面本堂へと進むと、足元の石畳に「九曜紋」とか「左り三つ巴紋」。九曜紋は千葉氏>下総相馬氏の紋。三つ巴紋は藤原摂関家、西園寺家や多くの大名の家紋に見られる。神社では八坂神社とか妙見社で見かけることがあるが、それらの神社に限らず「左三つ巴紋」は神社でもっとも多く使われている紋のようではある。
本堂にお参り。創建は延暦元年と言うから西暦782年。相馬政安により建てられた、と。


寺には「聖徳太子」の木造立像が残るが、「相馬(式部太夫)政安」の「聖徳太子の霊夢」との縁起が残る。「笏のみを持つ形の像」は極めて異色で、鎌倉時代の末期~南北朝時代(1300年代後半)ごろの製作と推定され、元は「常州稲田(現、笠間市)の禅房において、祖師「親鸞聖人」が彫刻され、性信房に下されたものを、仏縁によって譲られた」とも伝わる。
天慶の乱より以降に再建された、とも伝わるこの古刹にも将門伝説が残る。曰く「将門の滅亡後、遺族や残党が将門や影武者の土偶を、この地に祀った事に始まる寺」、と。縁起によると、将門は「天慶の乱」(939~940年)に敗れ、自分に似せて作った6人の土武者を安置し、堂宇を建てた。将門伝説によく登場する七騎の武者(影武者)の伝承を思い起こさせる話ではある。
時代は下り、天正元年(1573年)、常陸・下妻の多賀谷修理太夫が当寺を責める。相馬氏が小田原後北条方に与した故の、戦いであろう、か。寺の境内や墓地を囲むように、防御のために築いた土塁が残る、とか。

将門並木
境内を離れると、お寺の少し南に松並木の街道がある。古来、「内裏道」とか「将門並木」とも称された。相馬に将門の王都があった、といった伝説と被る。守谷に将門の城もなかったようだし、王都もなかったようではあるが、将門人気故の伝説ではあろう。松並木は永泉寺の辺りから北に結構続いているようではあるが、もとより、その街道を辿る体力・気力も残っておらず、最後の力を振り絞って成田エクスプレス守谷駅までたどり着き、本日の散歩を終える。