月曜日, 2月 17, 2014

水戸街道散歩:若柴宿から牛久宿に

水戸街道散歩:若柴宿から牛久宿に 東海道、中山道、奥州街道など街道歩きに燃えている元の会社の監査役から水戸街道を歩いているとの話。基本、御老公こと元監査役の熊除けの露払いとして峠越えをご一緒しており、東海道の鈴鹿峠、中山道の碓氷峠和田峠越えなどを共にしているのだが、元監査役に言わせば「好いとこ取り」とのこと。 少々の異論はあるのだが、それはともあれ、話を聞くと丁度、取手辺りまで歩を進めているとのこと。私も、これも「好いとこ取り」ではあるのだが、水戸街道のうち取手から若柴宿までを切り取って歩いており、そのうちに牛久宿まで歩かねば、などと想っていたこともあり、若柴宿から牛久までご一緒することにした。
峠もないのに露払いもないだろう、とのことではあるのだが、今回は単なる老婆心。「距離を稼ぐ」を主眼に、宿から宿へと一目散の元監査役に、若柴宿で絶対にパスするであろう見所をご案内致したく若柴宿の最寄りの駅である「佐貫駅」で待ち合わせ、若柴宿を案内し牛久宿へと向かった。
本日のルート;常磐線・佐貫駅>水戸街道合流点道標>江川>若柴宿>八坂神社>加治屋坂>金龍寺>星宮神社>御手洗の池>牛めの坂>鬮神社>星宮神社>県道243号・八代庄兵衛新田線>成井一里塚>国道6号>牛久宿>下町>上町>常磐線牛久駅>得月院>愛宕神社>城中観音堂>牛久沼>根古屋不動尊>牛久城址>大杉神社>江川>常磐線・佐貫駅

常磐線・佐貫駅
御老公との待ち合わせの地である常磐線・佐貫駅に。市域は茨城県龍ヶ崎市である。御老公こと元監査役は今朝は我孫子辺りから水戸街道を歩いてくるとのこと。ほぼ定刻に駅前で合流。大変な健脚である。数年まで、いくら散歩をお誘いしても、一顧だにしなかった御仁とは思えない。駅前のコンビニで早めの昼食を取り散歩に出発。
■関東鉄道・龍ヶ崎線
この佐貫駅は関東龍ヶ崎線の駅でもある。関東龍ヶ崎線は、現存する茨城の私鉄では最も歴史が古く、明治33年(1900)に今のJR佐貫駅開業と同時に開業した。当時は762mmの軌道で、大正4年(1915)に標準の狭軌1067mmになったとのこと。当初は竜崎鉄道という名前であったが、鹿島参宮鉄道から関東鉄道になり、今の龍ヶ崎線となった。距離はわずか3,5kmで中間に駅がひとつ(入地)あるだけと言うもの。因みに「佐貫」は細長い土地の特徴を表す「狭貫」が転訛したという。い、結構楽しい一日であった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)


県道5号・馴柴小交差点
駅から水戸街道の道筋まで戻るため県道5号・訓柴小交差点に。取手宿から藤代宿を経て進む、水戸街道の道筋は、この交差点から西へと向かう。交差点脇に誠にささやかな屋根付き西碑。「右 りゅうがさき なりた 左 わかしば」と刻まれているとのことだが、摩耗し全く読めない。
■平国香の慰霊塔
この馴芝小入口交差点から少し下った、城西中学校の辺りに平国香の慰霊碑がある。御老公の好みではないだろうと今回はパスしたが、先回の散歩で立ち寄ったとき、城西中学校近くの雑草に覆われた一角に、それらしき宝塔の上部のみが置かれていた。案内も何もないので、はっきりしないが、近くにあった安楽寺にお参りすると、飛び地に平国香の宝塔が建つ、と案内あったので、間違いはないだろう。
平国香は平将門の叔父。将門が禁裏での衛士の任を終え、下総相馬御厨の下司として故郷に戻った頃、一族内紛のため、父の良将の旧領でのある下総相馬の地の大半が叔父の国香や良兼により侵食され、あれこれの経緯はあるものの、結果将門により国香は誅される。その後将門と国香の嫡子である貞盛との抗争は将門の乱が終わるまで続くことになる。

馴柴小の道標
道標の前の道を進み、関東鉄道の踏切を越える。右側に訓柴小学校を見ながら進み突き当たりの三叉路隅に石の道標。数年前この地を訪れたときは、学校の敷地内中に道標があり、柵らしきもので囲われていたのだが、現在は囲いは取り払われ見やすくなっていた。 案内板によると、「文政9年に建立され、三面に水戸16里 江戸13里 布川3里と彫られている」。
ここが取手宿を通ることなく、我孫子宿から利根川(当時は利根川の遷事業が完成していないので、正確には常陸川)右岸を下流に向かい、布佐で渡河して龍ヶ崎を経由し、若柴宿へと進んだ初期の水戸街道と、その後、取手宿を経由し藤代宿から若柴宿へ通ることになった水戸街道が合流した地点、ということであろう。
「江戸時代に江戸と水戸を結ぶ交通路は水戸街道と称され、五街道に次ぐ重要な脇街道であった。初期の水戸街道は、我孫子から利根川に沿って布佐まで下り、利根川を渡って布川、須藤堀(須藤堀町)、紅葉内(河原代町)の一里塚をたどって若柴宿に至る街道(布川道)と、取手宿、藤代宿を経て小貝川を渡り現在の小通幸谷町を経て若柴宿に入る道があった。この二つの合流点、現在の市立馴柴小の北東隅の三叉路にこの道標(里程標)が建てられ、三面に水戸十六里、江戸十三里、布川三里と通ずる方角とそれぞれへと里程が刻まれている。 裏面には「この若柴駅街道の碑は、文政九年(1826)十二月に建立した。三叉路で旅人が迷い易いので若柴駅の老人が相謀り、普門品一巻を読誦する毎に一文ずつ供えて積み立てた」とあり、十五名の村民の姓名が記されている。
明治5年(1872)に水戸街道は陸前浜街道と改称され、明治15年(1882)11月には牛久沼沿いの道路が開通した。そのため台地を通る街道はさびれ、若柴駅(宿)も宿駅としての機能を失った。この道標は若柴駅(宿)街道の碑として往昔の陸上交通の盛んであった面影を偲ばせるものである」、と案内にあった。

筑波稲敷台地前面の低地
常磐線・佐貫駅前から通る県道271号を越えると一面の田圃。その先に台地の斜面林が見える。若柴宿は小貝川や牛久沼からの河川流域の低湿地を開拓した田圃のその向こうの筑波稲敷台地上にある。
現在は豊かな田圃が広がる一帯であるが、この地が新田として開拓されたのは江戸の頃。今を遡ること1000年の昔、平安時代の頃は印旛沼は手賀沼や霞ヶ浦と一帯となった大きな水域であり、香取の海あるいは安是の海と呼ばれる広くて大きな海水の入り込む内海であった。その内海が、上流からの流される土砂や海退現象によって、次第に陸地化し、それぞれが独立した水域となったわけだが、この辺り一帯に土砂を流し陸地化を進めたのが小貝川であり小貝川に合流した鬼怒川の流れであり、一帯は上流よりの土砂が堆積された氾濫原であった。

現在は別の流れとなっているこのふたつの川であるが、かつて鬼怒川は大木丘陵の手前、寺畑(つくばみらい市)の辺りで小貝川に乱流・合流し、両川が合わさり暴れ川となり、下流一帯を氾濫原と化していたわけである。

鬼怒川・小貝川の分流事業
この暴れ川による洪水被害を防ぎ、合わせて合流点より下流一帯の氾濫原に新田開発すべく計画されたのが鬼怒川と小貝川の分流事業。鬼怒川の南流を阻んでいた大木丘陵を人工的に開削し、鬼怒の流れを南に落とし利根川と繋いだわけである。
鬼怒川の開削水路は利根川合流点まで7キロ以上。丘陵部だけでも5キロほどもある。大工事である。このような大工事をした目的はこの地域の洪水対策、新田開発だけでなく、利根川東遷事業の一環として、利根川から江戸への船運の開発、そして、古来より「香取の海」と呼ばれ、霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼などが一帯となった広大な内海を陸化して新田開発を行うといった壮大な構想のもとに行われた、とも言われる。

鬼怒川との分流工事が行われた小貝川ではあるが、こちらも流路を変え元々は取手台地から先に東に続く台地を避けて、台地の東で利根川と合流していたが、洪水対策・新田開発に役するため、台地を切り通して利根川に繋いでいる。また、利根川(常陸川)の流路も我孫子台地の東端手前を切り通し、流路を南へと移している。
ちなみに、小貝川の旧流路は現在の竜ケ崎市である旧川原代村と旧北文間村(長沖、長沖新田、羽黒、豊田、須藤堀、北方)および旧高須村(高須、大留)の東で利根川に合わさっていたのだろう。その理由は、竜ケ崎のその他の地が元来常陸国河内郡であるのだが、この村々は北相馬郡というから下総国。川が地域や国堺を決めることの多かった当時、小貝川の流路が西に移ることにより、これらの地域が下総から常陸へと移ったのではあろう。

若柴宿
筑波稲敷台地の南端にある若柴宿へと田圃の中を一直線に続く道を進む。江川など牛久沼より流れる割と大きな用水路をふたつほど越えると坂道。台地に上るこの坂道は大阪と呼ばれる。台地上にある若柴宿へは、この大阪の他、南から延命寺坂、会所坂、足袋屋坂、鍛冶屋坂といった坂が並ぶ。
若柴宿は水戸街道千住宿からかぞえて8番目の宿。常陸への入口にあたる宿場町。本陣はない。明治19年(1886)の大火により宿場は焼失し記録が残らないため詳しい宿場の規模は不明だが、10件程度の旅籠や茶店が並んだのではなかったかと推測されている、
江戸以前牛久沼は今以上に大きく、周囲は湿地帯で通行が困難なため、この若柴宿をへて牛久宿へと向かう人が多かったようだが、明治5年(1872)に水戸街道が陸前浜街道と改称され、現在の国道6号(水戸街道)が牛久沼東岸を通ることになり、明治17年(1884)その新道が明治天皇の牛久行幸に際して整備されたため、この若柴宿は取り残されることとなり、逆に静かな佇まいを今に残している。

八坂神社
坂を上がりきると街道は又定石どおり直角に曲がっているが,そのコーナーに八坂神社がある。鳥居をくぐり、石段を数段駆け上ると社殿がある。社殿は新しいもので、右手に慶応年間の年号のある庚申塔群、裏手は竹林となっている。この社は旧若柴村(下町、仲町、上町、横町、向原)の鎮守であり、若柴宿はここからはじまる。境内には三峯社も祀られている。
先回の散歩でもメモしたのだが、取手から若柴の間では八坂神社によく出合う。まず取手宿での八坂神社、次いで藤代宿の相馬神社。この神社は八坂神社を合祀したものであった。また、宮和田宿の渡しの辺りにも八坂神社、そして若柴宿のこの八坂神社。八坂神社は全国に3000ほどもある、とのことであるから、それだけのことかとも思うが、それでもこの地方と八坂神社がなんらかの関係があるのでは、と妄想を逞しくする。

八坂神社と言えば祇園祭。「祇園御霊会」とも称され疫病を防ぎ、怨霊退散をそのはじまりとする。八坂神社の祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)。素戔嗚尊は朝廷への反逆児のイメージが強い。それ故に朝廷への反逆児である将門を同一視し、その怨霊を鎮め無病息災を祈ったのであろう、か。
また、八坂神社は明治の神仏分離例により名付けられたもの。それ以前は「牛頭天王社」と称されていた。独立国をつくり「新皇」と称した将門と「天王」を同一視したものであろう、か。
それとも、野田のいくつかの八坂神社の縁起にあるように、将門が尊崇した神社というだけのことであろう、か。とは言うものの、八坂神社の中には将門に仇なす藤原秀郷ゆかりの社もある、と言う。結局のところ、あれこれの理屈は関係なく、単に疫病を防いでくれる有り難い神として祀られただけであろうか。

八坂神社


八坂神社はもとは「天王さま」とも「祇園さん」とも称された。それが八坂神社となったのは明治の神仏分離令以降。本家本元・京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社と改名したため、全国3,000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていたから。明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の 不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。 で、なにゆえ「天王さま」・「祇園さん」と呼ばれていたか、ということだが、この八坂の郷に移り住んだ新羅からの渡来人・八坂の造(みやつこ)が信仰していたのが仏教の守護神でもある「牛頭天王」であったから。また、この「牛頭天王さま」 は祇園精舎のガードマンでもあったので、「祇園さん」とも呼ばれるようになった。
祭神は素戔嗚尊とイナダヒメノミコトとする。これは神仏習合の結果、牛頭天王=素戔嗚尊、と同一視していた、ため。牛頭天王の父母は、道教の神であるトウオウフ(東王父) と セイオウボ(西王母)とも見なされたため、牛頭天王はのちには道教において冥界を司る最高神・タイザンフクン(泰山府君)とも同体視される。また、さらにタイザンオウ(泰山王)(えんま) とも同体視されるに至った。泰山府君の本地仏は地蔵菩薩ではあるが、泰山王・閻魔様の本地仏は薬師如来であり、素戔嗚尊の本地仏も薬師如来。ということで、牛頭天王=素戔嗚尊、という神仏習合関係が出来上がったのだろう。閻魔様=冥界=黄泉の国といえは素戔嗚尊、といったアナロジーもあったのだろう、か。
また、素戔嗚尊は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されている。「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語。牛頭または牛首を意味する。素戔嗚尊と新羅との繋がりを意味するのか、素戔嗚尊と牛頭天王とのつながりを強めるためのものなのかよくわからない。が、 素戔嗚尊と牛頭天王はどうあろうと同一視しておこうと、ということなのであろう(『江戸の町は骨だらけ;鈴木理生(ちくま学術文庫)』)。

若柴宿仲町・上町
若柴宿を仲町、上町と進む。落ち着いた、豊かな構えの集落を進む。いわゆる、宿場といった風情ではないが、長屋門を構えた旧家などが並び、豊かな農家といった雰囲気の、誠に得難い、気持ちのいい集落である。宿場町の雰囲気を感じないのは明治19年(1886)の大火の影響もあるのだろうか。

鍛冶屋坂
上町を進み、道が再びクランクに曲がる手前で台地を一度下りてみましょうと御老公に提案。台地を下りるいくつかの坂の中で最北端と言うか最西端にある鍛冶屋坂を下りる。竹林に囲まれた道筋は、それなりの雰囲気。台地と湿地の間の水源は種池と呼ばれ、農具の泥よけなどに使われた、とか。
水戸街道を進んで若柴宿に入った時はありふれた田圃が広がる、といった景観であったが、台地下を湿地に沿って通る「根柄道」脇は葦が生い茂る湿地が残るり、新田開発される前のこの辺り一帯の低湿地の原風景を見れる湧水フリークには心躍る場所ではあるのだが、御老公はどれほどのこともないようである。

金龍寺
坂を戻り上町が終わり、横町へと直角に曲がる突き当たりに金龍寺がある。数段の石段を上ると観音寺跡とか不動明王の社。右手に畑地の残る境内を進み本堂にお参り。本堂の裏手には新田義貞の墓がある。元は上州太田に会ったものを、新田義貞の後裔、と言うか、新田家を乗っ取ったとも言える由良国繁が太田から移した、とか。由良氏と新田氏、それに太田から若柴の地に移った所以など、さっぱりわからない。チェックする。
元々金龍寺は応永24年(1417)、太田(群馬県太田市)の地において金山城主・岩松氏の重臣横瀬氏(後の由良氏)によって創建された、とされる。あれこれの経緯は省くとして、岩松氏は新田宗家を継承した武将である。その後、横瀬氏(由良氏)は岩松氏を退け金山城主となるが、己が正当性を示すべく義貞戦没の地に近い越前称念寺に祀られていた義貞の遺骨を持ち帰り、義貞の法名の一部を(金龍院)用いた金龍寺を創建し、一族の菩提寺として新田義貞の墓を奉った、と。
その後天正13年(1585)、由良氏と称した横瀬一族の国繁は小田原北条に与し、小田原落城とともに窮地に陥る。それを救ったのが、その母。新田義貞の末裔である由良一族の滅亡を救い給えと前田利家に訴え、秀吉より存続が認められる。
安堵された由良氏は常陸国、岡見氏没落後の牛久城主となる。由良氏の牛久移封に伴い、金龍寺も太田から牛久に移された。当初は現在の牛久新地町にある東林寺。東林寺は牛久城主岡見氏の菩提寺であったが、廃寺となっており由良氏の菩提寺として再興された。が、由良氏の牛久城主の座は一代限りで終わり、領地は没収。主を失った金龍寺は寛文6年(1666)、幕府の庇護を受け、この若柴にあった古寺を改修し、この地に移された、とのことである。これが、由良氏と新田、太田と若柴を巡る一連の流れではあった。
本堂の裏に「新田家代々の墓」がある。左側の五輪塔が新田義貞、中が横瀬貞氏、右が由良國繁の墓とのことである。とはいうものの、由良氏が新田氏の係累というのはなんとなく収まりが良くないし、新田義貞と若柴って何らの関係も無い地であり、なんとなくしっくりこない新田義貞ゆかりのお寺さまであった。

御手洗乃池
星宮神社までは街道筋であり、御老公も成り行きで尋ねるではあろうが、その手前で少し寄り道することが今回御老公こと元監査役の露払いを申し出たコース。距離をひたすら稼ぐ御老公に、少々街道を離れたコースを案内する。 金龍寺から横町を進み、途中立派な門構えの民家などを見ながら進み、星宮神社の手前を右に折れ「牛めの坂」に向かう。先回この若柴宿を訪れたのは『関東周辺 街道・古道を歩く;亀井千歩子(山と渓谷社)』の「牛めの坂」についていたキャプション「森に迷い込んだような錯覚に」に惹かれたからである。

民家と畑の間の小径を抜け、その先に見える鬱蒼とした森というか林を目指す。 森に入ると緩やかな坂となり、坂を降りきった三叉路脇に御手洗乃池の案内。現在は大きな欅の根っこあたりが少し湿っぽくなっている、といった程度。かつて御手洗乃池があった、とか。そこには淵があったようで、次の言伝えが残る;御手洗乃池の淵には大きな欅が聳えていていが、この欅を伐ってはいけない、また枝を落とすのも、落ちている枝を拾うのもいけない。触ると運が悪くなる、と。また、この池には多くの鰻がいたが、鰻を食べると目がつぶれると云われていた。それは、星宮神社のご祭神には首に鰻が巻きついていたから、とか。
星宮神社と鰻(うなぎ)の関わりはよくわからないが、鰻は虚空蔵菩薩の眷属。また、虚空のように広大無辺の福徳をもつ虚空蔵菩薩信仰は「金星」への信仰と深い関係がある。星宮神社の妙見信仰は北極星とか北斗七星への信仰。星つながり故の「鰻伝説」であろう、か。

牛めの坂
三叉路を左に折れると森が一瞬切れ、左手に畑地などが見える。先を進み、再び森に入る手前に左に上る緩やかな坂があり、『関東周辺 街道・古道を歩く』には「牛めの坂」とあったがここには「牛女坂」と表示されていた。坂の左手は十分に開けており、「牛めの坂」についていたキャプション「森に迷い込んだような錯覚に」にはほど遠い。先に進めばキャプションのような坂があるのかと、ゆるやかな坂をのぼり先に進む。
高い杉に覆われた道を進み、宅地として開かれた辺りまで進むも、鬱蒼とした杉の建ち並ぶ小径ではあるけれど、書籍で見た坂の姿はなく、坂の上り口まで戻る。思うに、キャプションにあった写真は、御手洗乃池へと下る坂道ではなかろう、か。『関東周辺 街道・古道を歩く』には場所もそのように記している。場所は違ったにしても、民家のすぐ隣りに「森に迷い込んだような錯覚に」といった森があったわけで、森の散歩は十分楽しめる。
ところで、「牛女坂」の由来であるが、この牛め!」と鞭を打ったと伝えられている。星座で言えば「牛女」とは、牽牛星(けんぎゅうせい)と織女星(しょくじょせい)、とのことだが、この地に住んだ住井すゑ著『野づらは星あかり』に、「牛めにしてみりや、人間なんてどいつもこいつもみなちくしょうに見えるにきまってる。牛めは何も人間のために生れて来たわけじゃねえのに、むりやり鼻輪を通されて、それ、車を引っ張れの、田畑を耕えのとこき使われ、揚句の果に、この肉は硬いとか、あんまりうまかねえとか、つまらぬ文句といっしょに食われてしまうだかんなア。だからたまたま夜中に厩栓棒を外して、そのまま車もつけずに連れて行ってくれるのが居たら、″こりやア、ありがてえ。〟とのどを鳴らしてついて行っても不思議はあんめで。」「それはもっともだ。牛めにすれば、。。。」と、如何にも「牛」そのものを「牛め」と呼んでいるようにも思える。このあたりがなんとなく納得感が高い。

鬮(くじ)神社
牛女坂の三叉路を真っ直ぐ進み、高々と伸びた杉の木に覆われた森の中を進むと2本の巨木の間の奥にささやかな祠が見える。道から奥に上る石段を進むと祠には千羽鶴と杓文字が奉納されている。若柴宿では多くの屋敷神が祀られていたとのことだが、この祠も屋敷神のひとつで鬮(クジ)神社と称し、クジ(運)の神であった、とのことである。また、この社には絵馬ならぬ杓文字(しゃもじ)が願掛けとして奉られる。
杓文字は、その昔、この祠には江戸の義民として知られる佐倉惣五郎が隠れた、とか。そこに杓文字があり、その杓文字で飯をよそると風邪が治った、とか。風邪を「めしとる」ということらしい。これでは義民が召し捕られる、ということで、なにを伝えたいのかよくわからないが、ともあれ、今は願を召し捕る、ということなのか、願掛けとなっている。
御老公を含めた、元監査役軍団はたまに宝くじを買い楽しんでいるようであるので、鬮神社に寄り道したわけではあるが、その霊験のほどの結果は未だ聞いていない。

星宮神社
鬮神社から水戸街道に戻り星宮神社に。鳥居の注連縄が酒樽の形に編まれているのが面白い。酒屋衆の奉納の名残であろうか。奥に進み社殿にお参り、現在の社殿は江戸時代の再建で、平成元年(1989)に修理されている、とか。 社殿の左手には平貞盛ゆかりの「駒止の石」がある。天慶の乱の折、平貞盛の乗った馬がこの石のまえで動きを止めた。不思議に思った貞盛が辺りを見廻すと星大明神の祠があり、懇ろに参詣すると馬は動きだした、との話が残る。それもあってか、縁起によると、星宮神社は延長2年(924)、肥後国の八代神社から分霊勧請して祀ったと云われ、天慶2年(939)には平貞盛が社殿を建立寄進したと伝えられている。肥後の八代神社は能勢の妙見さん、相馬の妙見さんとともに日本三大妙見宮とも称される妙見信仰の社。北極星とか北斗七星を崇める妙見信仰は常陸・下総・上総を領した平氏、またその下総平氏の後裔である千葉宗家の守り神。かつて星大明神と称されたこの星宮神社も妙見信仰の社ではあろう。

星宮神社の分布を見るに、星宮神社と称する社は、福島、千葉、茨城、岐阜(郡上)に各1社、栃木には33ほどの社がある。郡上八幡は別にしてそれ以外は、下総・常陸平氏、千葉宗家の領する一帯ではある。
因みに、八代神社は平貞盛の流れをくむ伊勢平氏の郎党であり肥後守となった平貞能が上宮・中宮・下宮からなる社の中宮を建立しているわけで、貞盛と因縁浅からぬものがある。故に、この社の貞盛ゆかりの話はあまりに出来すぎであり、肥後からの勧請も含めて後付けの物語のようにも思えるが、根拠があるわけでもなく、縁起は縁起として思い込むべし、か。

県道243号・八代庄兵衛新田線
星宮神社から再び水戸街道を先に進む。誠に緩やかな上り道を進むと、道脇に民家も切れ、畑地の中をしばらく進むと県道243号・八代庄兵衛新田線に交差。牛久沼に面する竜ケ崎市庄兵衛新田町から竜ケ崎市八代町を繋ぐ。八代町にある竜ケ崎ニュータウンへのアクセスルートとして国道6号と繋がれた。
路線認定は昭和52年(1977)。竜ケ崎ニュータウンの開発も昭和52年(1977)。当初30万人規模の巨大ニュータウンを目論んだものの、あれこれの障害もあり、開発は一朝一夕には進まなかったようではある。

成井一里塚
を越え、若柴配水場手前で分岐する道を左手に入る。原新田地区を進み成井地区に入ると道脇に小高い塚。成井一里塚である。
案内によると、「一里塚は、主要な街道に一里(4㎞)毎に築かれた塚である。慶長9年(1604)、徳川幕府により日本橋を起点に全国的な街道には一里塚が築かれた。これは里程や人馬賃銭の目安を目的とし、徳川家康が徳川秀忠に命じ、大久保長安統括下で整備したとされる。由良国繁を城主と記す「牛久城絵図」にも、成井の一里塚が描かれている。
江戸時代の水戸街道は、我孫子から布佐へ廻り、布川に渡って、現竜ケ崎市の須藤堀、紅葉内(こうようじ)、若柴を経て成井に達しており、成井の一里塚は江戸日本橋からは十五番目、水戸街道の起点である千住からは十三番目にあたる(牛久市教育委員会)」、とあった。
通常一里塚は街道の両側のあり、その塚の上には榎などの木が植えられているとのことだが、この一里塚は片側はほぼ原形をとどめておらず、塚の上にも木も残っておらず、とはいうものの、千住から先の水戸街道で一里塚を見たのははじめて、かも。

国道6号
成井一里塚を離れ遠山地区に進むと台地は一旦谷戸へと下る。印旛沼方向に開ける谷戸の耕地を進み、再び台地に上り台地縁を道成りに進み台地を下ると常磐線、そしてそのすぐ先で国道6号とクロスする。
国道をクロスし国道6号に沿って道を進むと根古屋川。周囲の低地は根古屋川によって開析された谷戸の景観が楽しめる。根古屋という地名は散歩の折々に出合う。山麓に城郭をもつ城の家臣団が住む山裾一帯を「根古屋」または「根小屋」と称するわけだが、道の左手に見える台地一帯が牛久城址のようである。

牛久宿
根古屋川に架かる坂下橋を渡り、如何にも湿地といった趣の台地下の景観を眺めながら進むと道は台地に上りはじめる。道筋は国道6号に対して「くの字」となっているが、この台地上り口からはじめ、国道6号とクロスする「くの字」部分が牛久宿ということである。
牛久宿は南北1キロ、江戸側が下町、水戸側が上町。脇本陣は無く、本陣と15の旅籠からなる宿場であった。家数124軒。戦国時代の牛久城主岡見氏の頃には町の原型が造られていたようである。
寛文9年(1669)には牛久藩主山口氏によって牛久陣屋が築かれ、その支配下に置かれた牛久宿であるが、牛久藩領には牛久宿と荒川沖の二つの宿場があり、 荒川沖宿はその規模が小さいこともあり、両宿が合同で継立をおこなっていた。が、荒川沖宿は上りの牛久宿への継立のみをおこない、牛久宿からの下りは荒川沖宿を飛ばし、その次の中村宿へと継立をおこなっていたため牛久宿の負担が大きく、通行量の増大にともない、宿場だけの人馬継立は負担が大きく、近隣の村々に助郷役が賦課されるようになる。
しかし、天明の飢饉や重い年貢による疲弊に加えての助郷の負担は近隣の村々には大きく文化元年(1804)には村人の百姓一揆がおきる。牛久宿の東にある女化(おなげ)稲荷に結集したことから女化騒動と称される牛久助郷一揆は近隣53ヶ村の村人が集結し牛久問屋場を打ち壊すも、佐倉藩、土浦藩からの出兵により鎮圧される。牛久助郷一揆とは言うものの、終結した土浦藩からの村人の参加は無かった、とか。
ちなみに、ここに仙台藩とあるのは、慶長11年(1606)、伊達政宗は徳川家康より竜ケ崎市域の中心部、昔の竜ケ崎村を中心とした1万石を拝領したため。仙台藩江戸屋敷の維持管理の費用とするためであった、とか。以来、幕末まで竜ケ崎は仙台藩領として続いた。ついでのことながら、若柴村は天領であった。

下町
北浦坂をのぼり牛久宿を進む。宿場の面影はほとんど残ってはいない。先に進むと道脇に「芋銭河童碑道」。芋銭って何?チェックすると、小川芋銭という俳人であり画家に拠る。本名小川茂吉、牛久藩大目付の子として江戸藩邸で生まれた茂吉であるが、廃藩置県後、牛久に移り住み「芋を買えるくらいの銭を貰える画家になれれば」との命名である、とか。画家としては「河童の絵」で知られ。「河童の芋銭か 芋銭の河童か」とも称されたのが、この碑の所以である。この石碑を左折すると、牛久城大手門跡や小川芋銭記念館「雲上亭」へと向かうことになる。

上町
下町は石碑のある交差点のすぐ先にある郵便局辺りまで。その先は上町となる。先に進むと黒塀の旧家脇に「明治天皇牛久行在所跡」の案内。明治17年(1884)、女化原で行われた近衛砲兵大隊の演習視察の際の宿所となったことを記念したもの。
○正源寺
その先、「くの字」が国道6号に向けて曲がったところに印象的な山門が見える。曹洞宗瑞雲山正源寺である。山門前でガードする仁王様も印象的ではあるのだが、山門が気になる。楼上には格子戸がはまり風情を醸し出すこの楼上は戦前まで鐘楼であったよう。山門と鐘楼がひとつになった堂宇であった、とか。
お寺の案内によれば、開創は天正20年(1592)、小田原の役の後、この地に群馬より天封された由良国繁が牛久城に居を構えたのがきっかけ。戦乱で亡くなった将士の礼を弔うべく各地に七観音八菩薩を祀った際、この地に寺の前身となる牛久観音久宝山正源寺を建立。現在、山門脇にある建物がそれ。
江戸時代に、牛久藩が山口氏に替り牛久藩の陣屋を牛久城跡に定め、牛久宿として人馬往来が賑やかになるとこの寺には厄除けの馬頭観音が祀られ、往来の安全を見守り、寺名も現在の瑞雲山正源寺と改称。また、火事の多い宿場の防火のため火伏りに霊験あらたかな秋葉三尺坊大権現を御堂(秋葉堂)に祀り、本尊の馬頭観音を本堂に移した、と。とはいえ、このお寺様もいく度もの火災被害を蒙っているようではある。

常磐線牛久駅
道を進み国道6号に合流。道なりに進み常磐線牛久駅に。ここで本日の散歩を終えるはずではあったのだが、まだ日暮まで少々時間がある。これであれば牛久城址を廻れるかもと、朝から歩き続けている御老公を駅でお見送りし、一人牛久城跡まで引き返すことにした。
駅前交差点から、どうせのことなら牛久沼に注ぐ稲荷川筋から下ってみようかなどと進み始めたのだが、如何せん時間がかかりそう。結局、来た道を引き返し、「牛久城大手門跡」への案内のあった「芋銭河童碑道」のあった交差点まで戻る。

八坂神社

交差点から先に進むと、道の右手に八坂神社。上にもメモしたが誠にこの一帯には八坂神社が多い。昔、竜ヶ崎市域の大半をその領土とした仙台藩(伊達藩)は愛宕神社を深く信仰したと言うが、この地ゆかりの平将門や「、その討伐軍である平貞盛、藤原秀郷も八坂神社の前身である牛頭天王(=素戔嗚尊)を深く信仰したとも伝わる。平一門の後裔がその領地とした此の地一帯ゆえのことだろうか。単なる妄想。根拠なし。

牛久城大手門跡
住宅街から次第に耕地も散見するあたりとなり、交差点から700mほどで三叉路といった場所に到る。そこに「牛久城大手門跡」の案内。「牛久城は16世紀の初めの頃在地領主岡見氏によって築かれたと言われる。天正18年(1590)岡見氏滅亡後、上野金山城主であった由良国繁が入城した。元和7年(1621)、由良氏が除封となり廃城となった。城は周囲三方を沼に囲まれ、一方の北側は台地を掘り切った要害堅固な旧城中集落全域を含む大規模な城郭である。大手門は、堀切のほぼ中央に「喰違い虎口」と「枡形馬出し」を備えた、厳重なものであった(牛久市教育委員会)」、とある。
ぱっと見た目にはわからない、ごく普通の町の一隅ではあるが、カシミール3Dで造った地形図で確認するとこの大手門の辺りが、台地が低湿地に突き出す舌状台地の境目となっている。この大手門の辺りを掘り切ってしまえば、いかにも三方を沼に囲まれた要害の地となっている。

得月院
大手門跡一帯は城跡の面影はなく、普通の民家が連なる。先に進むと道の左手にお寺さま。曹洞宗の古刹である稲荷山得月院。山門をくぐり本堂にお参り。境内には閻魔堂。左に阿弥陀に如来立像、右に奪衣婆坐を配し中央に閻魔様が拝観できる。案内によれば、「得月院閻魔堂 牛久市指定文化財 木造 閻魔大王と奪衣婆坐像;地獄界の王閻魔は、死者を裁く十王の中の第五の王で、死後五七日(35日目)忌の裁判に当たる。死者の衣を奪う奪衣婆(だつえば)は閻魔の妹で、閻魔と対をなしてよく造像されている。この閻魔の首柄には宝永4(1707)年の墨書銘があり、奪衣婆も同時期の作と思われる。当地方にはこの類例はなく、閻魔の大喝し悪を懲らしめる造形も良好で、貴重な文化財と言えよう(牛久市教育委員会)」とあった。
また、このお寺さまには小川芋銭と牛久城主由良国繁の母が眠る。榧(カヤ)の大木も名高く、「小川芋銭の墓と榧(かや)と五輪塔」と記された案内によると、「牛久が生んだ近代日本画壇の巨匠であり、「河童」で知られる小川芋銭の墓は、当得月院本堂裏にある。境内本堂脇の榧(カヤ)は、市指定文化財で推定樹齢450年から500年の大木で、芋銭作品『樹下石人談』のモチーフになった。市指定文化財の五輪塔は本堂裏墓地の中心部に建っており、文禄3年(1594)に得月院を開基した牛久城主由良国繁の母、「妙院尼」の墓碑で、「文禄3年」4と刻まれている」、とあった。

由良国繁の母・妙院尼
由良国繁が牛久城主になるに際し、「その母の功により」といった枕詞が付く説明が目につく。如何なる「功」であるのかチェックすると、誠に母の功績ゆえのエピソードが現れた。
天正18年(1590)秀吉の小田原征伐の折り、国繁は心ならずも小田原勢として小田原城に籠城させられていた。天正15年(1587年)、国繁兄弟は佐竹義重に通じ北条氏直に叛旗を翻したが、天正16年(1588年)には降伏、桐生城と足利城は破却され、兄弟は小田原に移されていたのである。
そのとき、母妙印尼は嫡男貞繁を率いて松井田城の前田利家に従い各地を転戦したと言う。また、その昔の天正11 年(1583)、国繁兄弟が厩橋城の北条氏直のもとに出仕した際、北条の佐竹攻めのため居城である金山城の借用を迫られ、兄弟は承諾するも家臣は北条に与するのを潔しとせず国繁らの母である妙院尼を擁立し籠城。ために国繁兄弟は小田原城に幽閉されている。因みにこの居城である金山城も天正14年(1586)北条氏照に明け渡され国繁は上記桐生城へと弟の長尾顕長は足利城に居城を移すことになる。
ことほど左様に、国繁は佐竹に与し北条と対抗しようにも、肝心なところでは常に幽閉されているわけで、それにかわって「反北条」の姿勢を貫き通した「母」の言動が秀吉の愛でるところとなり、国重が城主として牛久に赴いた。より正確に言えば妙印尼が秀吉から常陸牛久において5400石余の所領(堪忍分)を安堵され、国繁が跡を継いだ、ということではある。

愛宕神社
得月院を離れ道なりに進むと道の左手に鳥居。鳥居から参道を進み奥まったところに愛宕神社。小高い塚となっているが、ここは古墳跡と言う。城の土塁として利用されたため変形が著しいが円墳であったよう。
沼地を望む台地上の古墳と言えば、いつだったか印旛沼を見下ろす東北岸の台地上の「房総風土記の丘」があり、5世紀末から7世紀前半にかけての113基もの古墳が残っていたし、手賀沼北岸の台地にも100近い古墳があるという。手賀沼南岸の沼南町もしかり、そして佐倉市の印旛沼を見下ろす台地の山崎ひょうたん塚古墳群など数限り無い。往古、印旛沼も手賀沼も内海であり、水の心配もなく、かつ安全な内海を臨む台地の上には長い年月に渡って古墳がつくられていったのであろう。

小祠の木造薬師如来坐像
愛宕神社の鳥居のすぐ隣に小祠が見える。城中区民会館の敷地脇の小祠にお参りすると「木造薬師如来坐像」の案内。仏様も拝観できる。案内には「奈良時代の僧「行基」の作と伝えられており、ほぼ半等身の薬師如来坐像。檜材により寄木造りで、伏し目がちな優しい表情や穏やかな肉取り、また、衣文や東部の刻みなどすべてに、定朝様式が見られる。目は彫眼で、鎌倉時代からの玉眼になっていないことや、寄木造りの制作手法などから、実際は平安時代末期(12世紀)の作と思われる。像内背部に墨書銘があり、南北朝時代の文和4年(1355)に、大幅な修理が行われたことが知られる(牛久市教育委員会)」とあった。

牛久沼
牛久城址へと台地を進む。台地から低地というか往昔の沼地へと下るあたりに牛久城址へと向かう道もあるようだが、未だしっかりと牛久沼も見ていないので台地を下り牛久沼へと向かい沼地方向から城址に向かうことに。
台地からの坂道の左手に如何にも牛久城址といった舌状台地先端部を眺めながら牛久沼の畔に下り、しばし沼を眺める。食べてはすぐ寝る怠け者の小坊主が牛となり、入水自殺を図ったことより、牛を食う沼>牛久沼となったとも伝わる面積4平方キロ弱、最大水深3m、平均水深1mというこの沼。牛久市ではなく竜ケ崎市に属する。地図を見ながら何故なんだろうな?と疑問に思いチェックすると、牛久沼干拓計画とその失敗、そしてそれに伴う債務の引き受けといった経緯を踏まえた牛久沼の竜ケ崎市域化といった歴史が見えてきた。

牛久沼干拓計画と失敗
ことの発端は牛久沼の干拓計画。幕府財政難を改善するため新田開発を奨励した将軍吉宗の動きに呼応し、牛久沼も近世中期の享保10年(1725)に牛久藩領に住む桜井庄兵衛(下総国相馬郡平野村(藤代町)出生)が新田550ヘクタール、山屋敷72ヘクタールの造成を目指して干拓の願いを幕府に提出し認められた。
その条件としては、鍬下年季を3カ年とし、地代金3750両を支払うこと、山屋敷開発に際しては、年貢として一カ年平均永38頁九900文ずつを上納すること、このほかに冥加として年々米200石ずつを上納することとなっていた。この資金を援助したのは江戸鎌倉河岸の江戸屋七右衛門であったという。また、工事の実際の指揮にあたったのは、幕府御勘定の井沢弥惣兵衛為永である。
見沼の開発などに実績を挙げた井沢弥惣兵衛為永の起用にもかかわらず、37年に亘る工事は失敗に終わる。干拓により沼を灌漑用水としていた牛久沼南の九ヶ村(下郷)に配慮し、小貝川から用水路を開削し下郷に「代用水」を供給するといった工事も、沼と小貝川の距離が短く且つ水面の高さに著しい差がなく、小貝川からの逆流などにより、牛久沼周辺の水害被害も多発し、結局は宝暦10年(1760)の「溜沼復帰運動」となって牛久沼干拓計画は頓挫する。干拓事業失敗の原因は干拓地域累年の水害や、経済的事情、用排水の分離工事の困難、干拓に対する庄兵衛の態度が挙げられている。計画早々に見切りをつけ、工事に積極的ではなかった、とか。

で、その計画失敗の債務を代償し、年冥加米を納入することで、この沼を溜め池として利用する権利を保持することになったのが牛久沼の南、現竜ケ崎市に属する九ヶ村(下郷)である。下郷にとって牛久沼の水は九ヶ村(下郷)の溜池として利用されており農業に不可欠であり、多額の地代金や計画の際の拝借残金、牛久沼利用の諸種の運上金・冥加金を上納し「溜池」として利用する権利を保持することになったのだが、このことが牛久沼の竜ケ崎市域の因となる。

明治9年(1876)、用水溜池として復帰させたこと、そのために多額の債務を代償した事実を背景に地租改正条例に基づき、牛久沼は下郷の共有地として民有化されることになった。明治42年(1909 )以降は、下郷で牛久沼普通水利組合が設立されるにおよび、その所有へと帰した。庄兵衛の残務の処理実績が、約150年後の沼の所有権獲得につながったわけである。
これが、竜ケ崎市域から唐突に飛び出し、地里的には少々違和感のある牛久沼が竜ケ崎市に属する理由であった。ちなみに、牛久沼の干拓の失敗は、手賀沼などとならぶ井沢為永の治水・開発事業の失敗例の一つとなっている。また、干拓計画を願い出た庄兵衛であるが、県道243号・八代庄兵衛新田線の地名として牛久沼東岸にその名を残す。

根古屋不動尊
牛久沼を右手に見ながら牛久城址のある舌状台地の裾をぐるりと回り根古屋不動尊に向かう。台地が切れ、右側が根古屋川によって開析された平地に出る。平地というか、正確には根古屋川によって台地が開析され北へと、先ほど辿った牛久宿下町の筑波稲敷台地の北浦坂の常磐線の東までに食い込んだ谷筋であるが、如何にも往昔の沼地の雰囲気を今に残す。
台地を回り込むとささやかな社。根古屋不動尊とある。由来等は特に残っていないようだ。地域の地名が根古谷である。上にもメモしたが、根古谷(根小屋)は山城などの山裾にある家臣団の屋敷の地名。湿地に家臣の屋敷も無いだろうとは思うので、根古谷川所以の地名であろう、か。

牛久城址
根古谷不動尊を後に、台地裾を道なりに進み台地に上る坂道を進むと牛久城への案内。道なりに進むと道脇に「牛久城址」の案内。「牛久城は城主岡見氏によって天文後半(1550頃)に築造された。この城は戦国期に築かれた東国の城の特徴をもち、本丸がある城山には石垣や天守閣をもたない典型的な遺構を残している。ここは小田原北条氏と佐竹氏との境目にあり、三方を沼に囲まれた平山に北条流の築城技術を取り入れて造られた極めて頑強な城となっている。 下妻の多賀谷氏によって岡見氏の有力支城である矢田部城と足高城は落城したが、牛久城は同盟する布川城の豊島氏、小金城の高木氏などの援軍を得て守り切った。牛久城は天正18年(1590)に豊臣秀吉軍の東国攻めにより開城した。その後、秀吉は由良国繁を牛久城主としたが、関ヶ原合戦後の元和元年(1623)には牛久城は廃城となった」とある。

岡見氏の牛久城開城までの説明の行間を埋めると、岡見氏は南北朝時代に常陸南部を支配した筑波小田城の小田氏の一族で、その末裔が常陸国河内郡岡見郷に土着し、岡見氏として分流したと考えられている。
岡見氏は代々小田氏に従っており、常陸国にて南侵を計る佐竹勢と対立が激化。永禄12年(1569年)手這坂の合戦では小田氏が大敗。小田氏は、天正元年(1573年)頃には佐竹氏に臣従したが、岡見氏はその後独立領主として勢力を維持する。 小田氏の勢力が衰退し、佐竹勢の下妻城主多賀谷重経が勢力を拡大。岡見氏はこれに対抗することとなるが、元亀元年(1570年)には谷田部城が落城、天正8年(1580年)には一時谷田部城を取り戻すが、再び攻め取られ、天正15年(1587年)には牛久城主岡見治家の兄の居城である足高城も落城した。こうした情勢のなか、岡見氏は小田原北条氏に支援を要請し、次第にその支配下に属していくようになる。
小田原北条氏は対佐竹対策として佐竹領に隣接する牛久城を重要視し、天正15年(1587年)頃から下総国小金城主高城氏、下総国布川城(現在利根町役場)主豊島氏、上総国坂田城(千葉県山武郡横芝光町)主井田氏など近隣の国人たちに交代で牛久城を守るよう命じており、牛久番と呼ばれていた。しかしながら、天正18年(1590年)秀吉による小田原征伐により岡見氏は北条氏とともに滅亡した、ということである。
その後の牛久城であるが、上でメモしたように小田原の役の後、その母妙院尼の功もあり、新たに牛久領の領主には源氏の名門新田義貞の子孫由良国繁が金山城(群馬県太田市)から入る。由良氏は関ヶ原の合戦で徳川方に付くなど5千石から7千石へと領土を広げるも、元和7年(1621)直系が途絶え養子を迎えた事で2千石の旗本となり牛久を去る。
その後、慶長5年(1600)には、山口氏が1万5千石(後1万石)で牛久城の一画に牛久陣屋を築き牛久藩を立藩、慶長18年(1613)、私婚禁止違反で牛久藩は一時廃藩となるが、後に許されて明治維新まで山口氏一族が藩主を世襲することになる。
城址を彷徨い、土塁や堀切跡などを眺め、帰路に着くのだが、常磐線牛久駅に戻るか常磐線・佐貫駅に戻るか少し悩む。距離は同じ位ではあるので、同じ道を戻るよりは少しでも新しい道をと本日の出発点である佐貫駅に戻ることに。 城址から道を成り行きで進むと台地西側を下る坂に出た。坂を下り切ったところは城址のある舌状台地の西端というところであった。

大杉神社
道を進み車の多い国道6号を避け、脇道を探す。と、国道6号を越え常磐線の手前に大杉神社がある。鳥居をくぐり小祠にお参り。大杉神社も散歩をはじめるまで全く知らなかった社ではあるが、散歩の折々で出合う社ではある。最初に出合ったのは川越から江戸へと下る新河岸川の堤であった。

大杉神社
大杉神社の本社は茨城県稲敷市。その昔は霞ヶ浦、利根川下流域、印旛沼、手賀沼などを内包した常総内海に西から東に突き出た台地上の突端に位置する場所にあり、『常陸風土記』には安婆嶋として記される。くびれた地形故に島状の景観を示していたのであろう。
海から内海へと向かう突端の地に鎮座する社ははるか昔より常総内湾の交易の要衝であり、その社に屹立する巨大な杉は「あんばさま」と呼ばれ、常総内湾の人々の信仰の対象であり、且つ、海上交通の目印の役割を果たしてきたとのこと。大杉神社の社名の所以である。
古来より海上交通の守り神として船頭・船問屋に信仰された社であるが、利根川の東遷事業により銚子へと流路を変えた利根川により、水郷地方と江戸が直接繋がれ船運が急速に発展を遂げるに伴い、地域ローカルな社であった大杉神社もその祭祀圏を大きく拡大する。利根川流域の河岸や鬼怒川、小貝川、そして、それらの河川に注ぐ中小の河川、河岸、そして街道筋まで拡大していった、とか。新河岸川の大杉神社、葛西の大杉神社流山など処々で出合う大杉神社の理由が少しわかったように思う。

江川用水
大杉神社を離れ、常磐線の東側を線路につかず離れず道なりに進む。進行方向左手は筑波稲敷台地の谷戸、常磐線の右手は庄兵衛新田。牛久沼干拓を計画した桜井庄兵衛由来の新田ではあろう。台地裾を通り抜け左手に若柴宿の台地を見ながら低地を進むと江川に当たる。

印旛沼から水を引く江川は当初印旛沼の水抜堀として江川が開削された、と言う。その後江川は用水路の性格が強くなってゆくが、本来は水抜堀であった。既にメモしたように、古代 といっても、奈良・平安両時代のころ、牛久沼は、香取の海と呼ばれる内海(海跡湖)の一部であった。安土桃山時代には海水が後退し、ひと続きになっていた牛久沼から手賀沼当たりまでは、 雨期以外、 水深が浅くなり萱が自生する中州が点々とし、所々に浅瀬があり、その中を常陸川や小貝川が蛇行を繰り返していたとのこと。当時は鬼怒川が上流で合流していた小貝川により堆積された土砂によって次第に陸地化していたのではあろう。

その状況が大きく変わったのは関東郡代である伊奈忠次・忠政・忠治三代総指揮の下で、徳川第2代将軍秀忠治世の元和7年(1621) に開始された利根川の東遷事業の影響である。東遷事業の一環として鬼怒川と小貝川が分離され、小貝川の流路が変更となると、小貝川の堤と牛久沼がひと続きになり、ひとたび豪雨ともなれば牛久沼の水が氾濫し、洪水時には小貝川の水が牛久沼内に逆流することもあった。
忠治は、牛久沼の氾濫と小貝川逆流を防止するために、7年の歳月を費やし、沼内に 「かこい堤(土 手)」 を築いた。かこい堤の延長は2000間(3640m)に及んでいて、後世に通称二千間土手(牛久、 龍ケ崎、 取手市域をカバー)と呼ばれる。
そして、かこい堤築堤と同時に東側のかこい堤より、牛久沼の排水と川下村々1万石 (現龍ケ崎市域) の用水と両方の役割を持つべく開削されたのが江川である。しかし、水抜抜堀としての江川は牛久沼の水を排水するには不十分であり、伊奈忠治は、寛永四年(1627)弥左衛門新田(藤代町)から小貝川にかけての新水抜堀を開削。当初新川と呼ばれていたが、堀幅の長さが八間だったので八間堀と呼ばれるようになる(その後新しい八間堀が出来たため、古八間堀と呼ばれるようになる)。八間堀のお陰もあり牛久沼の排水能力は高まり、菅場谷原の新田開発が急速に進められたとのことである(「広報うしく;牛久市文化財審議委員 栗原功氏」より)。
江川の歴史をチェックすると、悪水と用水の鬩ぎ合いの歴史でもある。用水として豊富な水は必要だが、同時にそれは推進の浅い牛久沼では洪水や逆流による地域の水の被害の要因ともなる。江川に起因する悪水・用水を巡る利害の対立する村々の争いを解決すべく開削されたのが古八間堀であり、二千間堤の普請であろう。

常磐線・佐貫駅
日暮の江川を越え、本日の散歩の始点である常磐線・佐貫駅に到着し、一路家路へと。当初は御老公の若柴宿のご案内程度と思った散歩ではあったが、牛久沼や牛久城址など知らないことに出合

木曜日, 2月 06, 2014

相模 サバ神社散歩 そのⅡ:境川水系や引地川沿いに鎮座するサバ神社を大和市から藤沢へと辿る

先回の散歩で境川水系や引地川沿って鎮座する12社のサバ神社のうち8社を辿った。常の如く出発が遅く、最後の今田鯖神社は真っ暗。結局4社を訪ねることができなかった。
今回は先回取りこぼした4社を巡る。散歩をはじめるときは何も計画していたわけではないのだが、結果的にはサバ神社所以の源氏の源義朝や満仲ゆかりの社とともに、大庭氏や俣野氏といった平家方の武将のゆかりの地も辿ることになった。成り行き任せの散歩の妙ではあろうか。
本日の本日のルート;小田急江ノ島線・長後駅>七ッ木神社(藤沢市高倉)>東勝寺>左馬神社(下飯田)>琴平神社>東泉寺>境川遊水池公園>和泉川>鯖神社(鍋谷)>密蔵院>密蔵院弁財天>天王森泉公園>俣野神社>俣野観音堂>左馬大明神(西俣野)>伝承小栗塚跡>自性院>引地川>佐波大明神(石川)>大庭城址公園>引地川親水公園>成就院>小田急江ノ島線・善行駅

小田急江ノ島線・長後駅
最初の目的地は藤沢市高倉にある「七ッ木神社」。最寄りの駅である小田急江ノ島線・長後駅に向かう。「長後」ってなんとなく気になる地名。あれこれチェックすると、高座郡渋谷庄長郷と呼ばれていたのが小田原北条の時代に書き間違い「長後」とした説、この地から東に広がる相模一帯(綾瀬市、大和市、藤沢氏)を領した高座郡渋谷庄の庄司(領主)である渋谷重国が出家し長後坊を名乗ったとの説などいろいろ。説の是非は門外漢である私にはわからないが、ともあれ「長郷」と称されるとすれば、渋谷庄の「長=中心」の郷であったのだろうか。
長後は江戸時代には藪鼻宿と呼ばれ、八王子から藤沢を南北に結ぶ「滝山街道」と、柏尾(戸塚区)から門沢橋(海老名市戸田の渡し)を東西に結ぶ大山街道の交差する交通の要衝の地。明治には生糸を横浜に運ぶ「絹の道」として賑わった、とのことである。
なお、渋谷庄の中心とはいうものの、庄司(領主)の館は長後駅から東南の綾瀬市早川にある城山公園(早川城址)の辺りにあったようである。

渋谷重国
渋谷重国は、桓武天皇の曽孫である高望王の後裔である秩父別当武基を祖とし、後三年の役での大功により武蔵河崎荘を賜り河原冠者と称された基家の流れ。重国が渋谷を称したのは、禁裏の賊を退治したことにより堀川天皇より渋谷の姓を賜ったため。一説にはその賊の領地が相模国高座郡渋谷荘辺りであり、それ故に渋谷姓とその領地を賜ったとか。因みに東京都の渋谷区も重国の領地が武蔵国豊嶋郡谷盛(東京都渋谷区・港区)であったことによる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

七ッ木神社(藤沢市高倉; 藤沢市高倉1128)
駅から東へと境川筋へと成り行きで進み崖線を下る。崖裾に七ッ木神社。この辺りの境川両岸は宅地には成らず田圃が広がる。
鳥居を潜り石段をのぼると狛犬が迎えてくれる。拝殿前にも狛犬が佇む。拝殿にお参り。境内には道祖神や石仏、石碑が多い。「八海山神皇」、「三笠山天皇」そして 「御嶽山座皇大神」と刻まれた石碑が並ぶ。 「八海山神皇」、「三笠山天皇」とは耳慣れない名称。チェックすると、木曾の御嶽山内のある山名であり、八海山には大頭羅神王が、三笠山には刀利天、不動明王、摩利支天が祀られている、と。
境内を巡り案内を探すが、サバ神社巡りの案内以外に何も無い。神奈川県神社庁の資料によると、「文禄年中(1592~96)渋谷義重崇敬厚かりしと伝う。1826(文政9)年再建。新編相模風土記稿に七ツ木郷鯖神社と記せるは当社なり。往古より鯖神社と称せるを明治初年七ツ木神社と改称す。1873(明治6)年村社列格」とあった。渋谷義重氏って誰?あれこれチェックするが見あたらない。

○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』によって整理すると、天保12年(1841)の『新編相模国風土記稿』には「鯖明神」の記述が残る。明治になって「七ッ木」と明治の頃の村の名である「七ッ木村」とした。
江戸の領主である遠藤氏は、藤原氏の後裔であり義朝系でもなく、元の名も「七ッ木」であり、一時「鯖」を称したが、明治に「鯖」の有り難さも無くなった頃、再び元の「七ッ木」に戻したのだろう。

東勝寺
次のサバ目的地である横浜市泉区にある鍋谷の鯖神社に向かってなりゆきで南に下る。と、先回の散歩で立ち寄るも、日暮でゆっくりお参りもできなかった東勝寺が現れた。道から参道が続き石段の上に山門が建つ。境内から眺める境川両岸の田圃の景観が美しい。
境川の川筋を見下ろす台地に建つこのお寺さまは、秋雄和尚によって南北朝時代に創建され、阿弥陀仏を本尊とする臨済宗円覚寺派の禅寺。北条一族が鎌倉の東勝寺で滅亡したのを悼み、密かにこの地に建立された、とのこと。山号は点燈山と称されるのも意味深い。江戸後期寺は焼失するも、「点燈山」の額を持つ山門は残った。再建された本堂には北条氏の三つ鱗の紋がある、と言う。


鎌倉の東勝寺
鎌倉を彷徨ったとき北条一族が滅んだ東勝寺跡を訪れたことがある。そのときのメモ;「北条高時の「腹きりやぐら」 下り切ったところに北条高時の「腹きりやぐら」。新田義貞の鎌倉攻めのとき、十四代北条高時一族郎党この地で自刃。「今ヤ一面ニ焔煙ノ漲ル所トナレルヲ望見シツツ一族門葉八百七十余人ト共ニ自刃ス」、と。北条家滅亡の地である。近くに東勝寺跡地。北条一門の菩提寺。三代執権泰時が建立した臨済宗の禅寺。北条一族滅亡の折、焼失。室町に再興され関東十刹の第三位。その後戦国時代に廃絶。いまは石碑のみ」



左馬神社(下飯田;横浜市泉区下飯田町1389)
東勝寺を離れ、境川を渡り横浜市泉区に入る。次の目的地である鍋屋の鯖神社に向かって境川の東側を下ると、昨日訪れた左馬神社が現れた。先回のメモを再掲する。
下飯田の左馬神社の辺りはそれほど宅地化も進んでおらず、昔ながらの耕地が残る一帯の、豊かな緑の中に左馬神社。素朴な社といった趣きである。
境内には案内はない。泉区の資料などによると、伝承では飯田郷の地頭、飯田五郎家義が勧請したといい、小田原北條の時代に下飯田を治めた川上藤兵衛も武運長久の祈願をしたという。また1590(天正18)年に下飯田の領主になった筧助兵衛(かけいすけひょうえ)為春は、地域の鎮守として信仰し、社殿の修復をしたという。社殿右手前の銀杏は横浜市の名木古木に指定されている。 またこの近くの神社の近くには鎌倉古道のひとつである「上の道」または「西の道」が通っている。

○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』により整理すると、天保12年(1841)の『新編相模国風土記稿』には「鯖」の記録が残る。また、江戸初期の領主は上でメモした通り筧助兵衛為春であり、藤原氏の支流とする。今までの論から推測すれば、里神を厄除け、疫病退散のためサバ社としたのだろうが、「左馬」の表記に拘る理由はないことになる。実際、同書では「鯖」社とし、現在も「鯖社」と説明している。が、実際は現在の表記は「左馬神社」となっており、記述とは異なっていた。はてさて。

琴平神社
下飯田の左馬神社を離れ南に下る。相鉄いずみの線と横浜市の地下鉄ブルーラインが平行して走る高架を潜った先には、道の左手に宅地化が進んだ一帯が目に入る。
道を進み豊かな緑の一隅の結構な構えの社。琴平神社とある。参道の石段を上ると、鳥居前に狛犬。狛犬の台座に短歌が刻まれる。「唐獅子やみたまとともに とこしえに まもりづづけよ このみやしろを」と読める。更に石段を上り拝殿にお参り拝殿に象の木鼻。金比羅さんの「本家」である香川県の金比羅宮は「象頭山 金比羅大権現」と歌われるように象頭山の中腹に鎮座し、神仏混淆の頃より山号を「象頭山」と称する。本家の梁にも象の木鼻が刻まれており、琴平神社のすべてではないようだが、象の木鼻が社殿の梁に刻まれている。境内には八坂、白山神社、稲荷神社などの摂社が合祀されていた。
この琴平神社は天正18年(1590)、下飯田の領主となった旗本の筧助兵衛為春が境川沿いにあった菩提寺の東泉寺を境川の洪水・水害から護るためこの地に移築した際、水難守護治水の神である金比羅神を村の鎮守として勧請したのが社のはじまり。
「海上交通の神」として名高い金比羅様は、下飯田の村民だけでなく、西湘方面の漁師の信仰も篤かったとのことである。祭神は大物主神と崇徳上皇。香川の金比羅宮と同じである。
江戸期にはお隣の東泉寺が別当寺であり、金比羅様として神仏混淆にてお祀りされていたが、明治2年(1869)の神仏分離令により、琴平神社として分離された。

東泉寺
琴平神社のすぐ隣りに東泉寺。巨木山と号する曹洞宗のお寺さま。山号の由来は境内の市の名木古木に指定されている「大銀杏」故だろう。山門脇に「天明門縁起」の案内。天明3年(1783)建立のこの山門はこの年、浅間山が噴火し、この地も地震が8日間、雨天が1ヶ月にも及び、飢饉による被害が出たため、世の平安を祈って建立した、と。平成5年(1993)の解体工事の際に判明したとのこと。また、「吾唯知足而 位富楽安穏(われ ただ たるをしりて ふらく あんのんに いす)」と柱にあることにより「知足門」とも称される。
山門脇の石に刻まれた「人もかく老いて秋たつ眉毛哉」の句は芭蕉門下である美濃口春鴻の作。49歳の自筆とのことである。
山門を潜り本堂にお参り。このお寺さまのはじまりは、上の琴平神社でメモしたように、境川沿いにあったものが、度重なる水害を避けるべく天正18年(1590)、当地の領主である旗本の筧助兵衛為春が開基・創建。境内には薬師堂は相模国準四国88ヶ所の札所59番。弘法大師像が安置される。『新編相模国風土記稿』に下飯田の東泉寺の記述の中に「金比羅社」の記述があるが、神仏混淆の頃、このお寺さまが琴平神社の別当寺ことのエビデンスである。

境川遊水地公園
鍋屋の鯖神社へのルートを地図でチェック。東に進めば最短距離ではあるのだが、少し南に下ったところに「境川遊水地公園」がある。遠回りにはなるのだが、ちょっと立ち寄り。
公園に近づくと、深く掘られた遊水地にはテニスコートや野球場、多目的広場、ビオトープ、水辺が整備されている。遊水地とは河川の堤防を低くし、洪水であふれた水を一時的に溜める施設。施設の大半が横浜市泉区ではあるが、戸塚区、藤沢市の市境にあり、それぞれの市(区)域にまたがる遊水地と公園を神奈川県が整備を進めている、とのことである。

和泉川
境川遊水地公園をぐるりと廻り込むと和泉川が境川に合流する地点に出た。先回にメモしたように、和泉川は瀬谷区東端にある瀬谷市民の森に源流を発し、間に挟まれた台地によって境川の谷筋と分け、瀬谷区、泉区を南に下り、戸塚区俣野町で境川に合流する全長10キロ弱の二級河川(1級河川は国、二級は都道府県管理)である。とすれば、合流点は横浜市戸塚区ということであった。

鯖神社(鍋屋;横浜市泉区和泉町705
鍋屋の鯖神社に向かうべく、和泉川を遡る。鯖神社は鍋屋交差点の南、豊かな緑の中にある。鳥居を潜り石段をのぼると、誠にささやかな拝殿だけが残る。境内に案内はない。
「神奈川県神社誌」によると、「慶長年間(1596~1615)に当地の郷士、清水、鈴木の両氏が勧請したと伝承されている。1689(元禄2)年に氏子住民の浄財で社殿の修復が行われたと記された棟札が保存されているが、1836(天保7)年に神祇管領卜部朝臣良長(じんぎかんれいうらべあそんよしなが)が京都から参向奉弊し「鯖大明神」の額を奉納した旨を記した棟札も保存されている」とある。

○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』により整理すると、天保7年(1836)の奉額には「鯖大明神」とある祭神は「源義朝」ではなく「源満仲」とされるが、これは先回のメモで延べたように江戸期の和泉村の領主が松平勝左衛門昌吉であったことに関係する。
この松平勝左衛門昌吉は満仲>頼信>頼義>義家と続く清和源氏の系統ではあるが、義朝は義家から義親>為朝>義朝と続く系統、一方松平勝左衛門昌吉を含めた徳川一門は義家から義国>義重(新田系)の系統であり、徳川家の十八松平氏のひとつである松平勝左衛門昌吉は、彼らにとっては傍系である義朝を祀るのを本流としてのプライドが許さず、義朝の祖であり徳川松平の祖でもある清和源氏隆盛のきっかけをつくった満仲を義朝の替わりに祀ったとする。

密蔵院
鍋屋交差点の東の崖上に密蔵院。鍋屋鯖神社と続いていた丘陵を県道18号(環状4号)を通すため切り通しとなったように思う。切り通し工事の結果か、参道は石段となっている。その石段横に文政4年(1821)建立の木食観正碑。「南無大師遍照金剛木食観正」と刻まれる。
石段を上り本堂にお参り。茅葺きの鐘楼が誠に美しい高野山真言宗のお寺さま。本尊は願行作とされる不動明王。石段下には環状4号線の工事のため寺域が大きく変わってしまったようだ。

木食観正上人
木食観正上人は近世の遊行僧。江戸時代後期(19世紀初頭)、淡路に生まれ小田原を中心に関東各地を廻り加持祈祷を行い、弘法大師の再現とも称された。
木食とは木の実や果実だけを食べ、米や野菜を食しない修行のことであり、このような修行を守る遊行僧は、一般的に僧侶の資格ももたなかった、とか。水不足や疫病などに苦しむ民衆に加持祈祷をおこなう木食上人の評判は江戸にも伝わり信者が殺到しとも伝わるが、上人は文政12年(1829)、江戸大火の際の加持祈祷の科により囚われ、獄死したとのことである。

密蔵院弁財天
次の目的地は西俣野の左馬大明神社。地図で確認すると南に下ることになるが、その途中に密蔵院弁財天とか天王森泉公園とか如何にも湧水を想起させる地名とか俣野神社や俣野観音堂といった地名が目に付く。ついでのことではあるので、それぞれを辿り西俣野の左馬大明神社へ向かうことに。
密蔵院から鯖神社方向へと戻り、丘陵裾を進むと密蔵院弁財天。弁天様の裏の崖線から湧水が流れ出す。弁天様はヒンズー教の水無川(地下水脈)の神である「サラスヴァティ」がその起源。大切な湧水をお祀りしたのであろう。

天王森泉公園
和泉川の両側に広がる田圃、その縁を画す丘陵の斜面林を楽しみながら進むと天王森泉公園。園に入ると古き趣の屋敷。この建物は台地崖線から流れ出す湧水を使い、和泉川流域にあった製糸工場の本館を移築したもの、と。
天王森和泉館と名付けられたこの建物は明治44年(1911)、清水氏により興された清水製糸工場の本館。清水製糸工場は釜数128、神奈川県下45社の中でも5番目の規模。和泉川沿いには豊富な湧水を活かし20以上の製糸工場が営まれ、中和田村(泉区)には市内最古で最大規模の持田製糸工場を初め8社あったが、大正時代をピークに次第に廃れていった。
製糸工場の脇を抜け斜面林へと進むと遊水池。その源流はと先に進むと崖下かから湧水が浸みだしていた。湧水の源流点でしばしその「浸みだし具合」を眺めながら湧水フリーク故の豊かな時を過ごす。
公園内にあった湧水の説明に和泉川や下流の俣野で合流する宇田川、深谷町を流れる谷戸川沿いの湧水マップが掲載されていた。和泉川流域で17箇所、宇田川沿いに6箇所、谷戸川沿いに4箇所ほどの湧水点がある。いつだったか厚木の湧水点を辿ったように、そのうちにこれらの湧水点を探す散歩をしてみたいと思う。


横浜ドリームランド跡
台地斜面林の裾を進むと、台地上に巨大な建造物。高層ビルの屋上は日本風の屋根に覆われており、新興宗教の本部かとも思いながら歩いたのだが、メモの段階でチェックするとその建物は平成14年(2002)閉園の横浜ドリームランドにあったホテルであった。そのホテルエンパイアは現在は横浜薬科大学の図書館棟となっている。それにしてもユニークというか、なんとも形容し難い建物である。市域も横浜市泉区から戸塚区に移る。

俣野神社
県道403号からは狭い急坂を上り、鳥居から長い参道を進み鎮守の森に入る。社は俣野町と深谷町を隔てる丘陵中腹に鎮座する。本殿にはお伊勢さんの幟が立つ。大庭御厨の影響が残っているのだろうか。境内には鐘楼がある。神仏習合の名残だろうが梵鐘は無い。
神社庁によれば、正式名は「上俣野神社」。古くは欽明天皇社と称されていたが、明治初年「上俣野神社」と改称。創建時は不詳だが、安政3年(1856)社殿再建された、とある。先ほど訪れた天王泉森公園の「天王」は欽明天王社からとの説がある。
欽明天皇が祀られる所以は不明であるが、江ノ島の江島神社は、欽明13年(552)に欽明天皇の勅命で島の洞窟(岩屋)に神を祀ったのが始まりとされる。また、武相総鎮護座間神社の創建も欽明年間と伝えられる。なんらか欽明天皇とこの地を結ぶキーワードがありそうなのだが、あれこれの詮索は後のお楽しみとしておこう。

鎌倉街道・上ッ道
かつて、この辺りには鎌倉街道・上ッ道が通っていた。道筋は先回訪れた宗川寺から境川に沿って南に下り、飯田神社辺りを経て境川と和泉川が合流するこの地俣野を通り鎌倉に続く。
鎌倉街道とは世に言う、「いざ鎌倉」のときに馳せ参じる道である。もちろん軍事面だけでなく、政治・経済の幹線として鎌倉と結ばれていた。鎌倉街道には散歩の折々に出合う。武蔵の西部では「鎌倉街道上ノ道」、中央部では「鎌倉街道中ノ道」に出合った。東部には千葉から東京湾を越え、金沢八景から鎌倉へと続く「鎌倉街道下ノ道」がある、と言う。
鎌倉街道山ノ道()、別名秩父道は鎌倉と秩父、そしてその先の上州を結ぶもの。いつだったか、高尾から北へ、幾つかの峠、幾つかの川筋を越えて秩父に向かったことが懐かしい。その山ノ道は高尾から南は、七国峠から相原十字路、相原駅へと進み、南町田で鎌倉街道上ツ道に合流し、鎌倉に向かう。

鎌倉街道といっても、そのために特段新しく造られた道というわけではないようだ。それ以前からあった道を鎌倉に向けて「整備」し直したといったもの。当然のこととして、上ノ道、中ノ道といった主要道のほかにも、多くの枝道、間道があったものと思える。
で、今回出合った鎌倉街道上ノ道の鎌倉からの大雑把なルートは以下の通り;
八幡宮>俣野>飯田>上瀬谷>町谷>町田>本町田>小野路>府中>恋ヶ窪>小平>東村山>所沢>入間>女影>町屋>苦林>笛吹峠>奈良:>塚田>花園>広木>児玉>鮎川>山名>高崎

また、今回の散歩の地の周辺に限定したルートは、いくつかバリエーションはあるものの、以下のルートもそのひとつ、とか。町田から順に南へのポイントをメモする。
町田>町谷交差点((東京都町田市鶴間))>田園都市線>鶴間公園(東京都町田市鶴間)>東京女学館(東京都町田市鶴間)>246号>東名高速>八幡神社(瀬谷区上瀬谷町)>妙光寺(瀬谷区上瀬谷町)>相沢交差点から「かまくらみち」>相鉄線>宗川寺>さくら小学校>羽田郷土資料館>新幹線>本興寺>飯田神社>左馬神社(下飯田)>相鉄いずみの線・地下鉄ブルーライン>富士塚公園>琴平神社>東泉寺>境川遊水池公園>俣野神社>明治学院グランド>龍長院(戸塚区東俣野)>八坂神社(戸塚区東俣野)>国道1号>柄沢神社(藤沢市柄沢)>慈眼寺(藤沢市柄沢)>長福寺(藤沢市村岡東3町目)>日枝神社(藤沢市渡内)>村岡城址公園(藤沢市村岡)>東海道線>町屋橋で柏尾川を渡る>上町屋天満宮(鎌倉市上町屋)>大慶寺(鎌倉市寺分)>駒形神社(鎌倉市寺分)>御霊神社(鎌倉市梶原)>葛原岡神社(鎌倉市山の内)

俣野観音堂
坂を下り県道403号脇にある俣野観音堂に。観音堂はフェンスで囲われており入れないのかと思ったが、フェンスの端にスライド式の入り口があり境内に。案内によれば、この堂宇は俣野景久の守護仏と伝わる「十一面観音」が祀られる。
俣野景久は後ほどメモする大庭御厨の主である大庭景親の弟。現在の横浜市戸塚区と藤沢市にまたがる俣野郷を領土とした。先回の散歩での飯田五郎のメモのとき、源氏に馳せ参じたい飯田五郎は、前を大庭景親、後ろを俣野景久に挟まれ、心ならずも平家方に加わった(結果として頼朝を助けることになったのだが)ことからもわかるように平家方の武将。頼朝挙兵の石橋山の戦いでは勝利をおさめるも、その後富士川の戦いで敗れ、兄の大庭景親は降服し処刑されたが、景久は敗走し平維盛に合流し、加賀の国の「倶利伽羅峠の合戦」で木曽義仲に破れで討ち死にした。この観音堂の十一面観音は死を覚悟した景久が俣野の母に送ったものと伝わる。
「俣野」の地名の由来であるが、地形図を見ると和泉川と宇田川、そして深谷町からの谷戸川が合流し「股」のような地形になっている。この地形所以のものではないだろうか。単なる妄想。根拠なし。

左馬大明神社(西俣野;藤沢市西俣野837)
次は西俣野の左馬明神社。境川を渡り、台地に上った民家脇にある小祠とのこと。両岸に田圃の広がる境川を渡ると横浜市戸塚区から再び藤沢市域に。台地を上りおおよその見当をつけて左に折れると、小さいながらも「左馬大明神」への道案内があった。案内を頼りに進むと民家の隣り。ほとんど「屋敷神」といった雰囲気の祠があり、そこが左馬大明神社であった。この社は神奈川県の神社庁には登録されていないとのことである。今までのサバ神社を巡る散歩で最もささやかな社、というか小祠が大明神と称されるのも興味深い。

○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』で整理すると、天保12年の『新編相模国風土記稿』には「鯖明神」の記述がある。元の名称は「左馬」であった、と言う。江戸の頃、この地の領主である小笠原氏は清和源氏系であり、一時期流行に抗せず「鯖」と称するも、元に戻ったということだろう。

伝承小栗塚之跡

次は今回の散歩のテーマであるサバ神社の最後、藤沢市石川の佐波大明神。小田急線を越え、台地を下った引地川の谷筋にある。結構距離があるが本日でサバ神社巡りを終えようと、もう少し歩く。
西俣野の左馬大明神社を離れ、県道403号に出る。坂を上る途中の道脇に「伝承小栗塚之跡」の石碑。小栗塚は小栗判官由来の地。判官が葬られた冥界入り口、と言う。現在は県道が一直線に通るが、その昔は九十九折れの道であった「小栗塚」の逆側には、判官が地獄から蘇り、地獄の砂を払い落ちしたとされる「土(砂)震(すなふるいづか)」があったようだが、その時は知るよしも無く、見落とした。
「小栗判官」は遊行上人が、仏の教えを上手な語りで人々に説き教える「説教節」のひとつ。中世(室町期)にはじまった口承芸能であるが、江戸期には歌舞伎や浄瑠璃の流行で廃れ今は残っていない。森鴎外の「山椒大夫」も説教節の「さんせう大夫」をもとにしたものである。
で、その「小栗判官」であるが、常陸国の小栗城主がモデルとはされるも、「小栗判官」自体は創作上の人物ではある。物語も各地を遊行した時宗の僧(遊行僧)により全国に普及し、縁のある各地にそれぞれ異なった伝承が残り、また浄瑠璃、歌舞伎などで脚色され、いろいろなバージョンがあるようだが、この地の伝わる小栗判官の物語は、各地を遊行した時宗の僧侶の総本山である藤沢市遊行寺の長生院(元は閻魔堂とも称された)に伝わる物語をベースに以下メモする。

小栗判官
その原型は室町時代、鎌倉公方と関東管領の争いである上杉禅秀の乱により滅亡した常陸国の小栗氏の御霊を鎮める巫女の語りとして発生。戦に破れ常陸を落ち延びた小栗判官。相模国に潜伏中、相模の横山家(横山大膳。戸塚区俣野に伝説が残る)に仕える娘・絶世の美女である照手姫を見初める。しかし盗賊である横山氏の知るところとなり、家来もろとも毒殺される。照手姫も不義故に相模川に沈められかけるが、金沢六浦の漁師に助けられるも、漁師の女房の嫉妬に苦しめられ、結果人買いの手に移り各地を転々とする。
閻魔大王が登場。裁定により、小栗判官を生き返らせる。そのとき閻魔大王は遊行寺の大空上人の夢枕に立ち「熊野本宮の・湯の峰の湯に入れて回復させるべし」、と。上人に箱車をつくってもらい「この車を一引きすれば千僧供養・・」とのメッセージのもと、西へと美濃へ。そこで面倒見てくれる人もいなく困っているとき、美濃の大垣の青墓で照手姫が下女として働いていた。餓鬼の姿を見ても小栗判官とはわからないながら、5日の閑をもらい大津まで車を曳いていく。その後は熊野詣の人に引かれ湯の峰の湯に浸かった餓鬼は回復し元の美男子に。やがて罪も許され常陸国の領主となり、横山大膳を討ち美濃の青墓で照手姫とも再会しふたりは結ばれた、って話。
照手姫と小栗判官が最初に出会った場所が俣野と伝えられ、下俣野には小栗判官ゆかりの地が残る。下俣野の和泉川の西には閻魔大王が安置され、名主である飯田五郎右衛門宅にあったものが移管された地獄変相十王絵図、閻魔法印、小栗判官縁起絵が残る花応院などがある。
小田急江ノ島線・六会日大前
県道403号を西に進み国道467号・藤沢街道を越え、小田急江ノ島線の「六会日大前駅の南を成り行きで進む。「 六会」は「むつあい」と詠む。明治21年(1888)の町村制の試行により六つの村(亀井野、今田、下土棚、円行、石川、西俣野)がひとつになったための地名。日大は文字通り、日本大学。昭和4年(1929)、小田急線六会駅が出来た頃は数件の農家しなない寂しい農村であったようだが、昭和16年(1941)日本大学が開校し、その後駅名も平成10年(1998)には六会日大前駅となった。また、高座郡六会村は境川流域の集落としてはやくから開け、平安末期には大庭御厨が置かれた。その六会村も昭和17年(1942)には藤沢市と合併した。

自性院
小田急線を越えると日本大学の敷地が広がる、付属高校や日本生物資源科学部のキャンパスを横切る。生物資源科学部とは農獣医学部のこと。そういえば動物をケアする学生さんが目についた。キャンパスを離れ道なりに進み天神公園で遊ぶ親子の姿を眺める。奥には社らしきものが目に入る。天神社ではあろう。
道を進み台地から引地川へと下る。坂を下り切ると引地川脇に立派な伽藍が見える。ちょっと立ち寄り。自性院と呼ばれる浄土宗のお寺さま。開基は慶長16年(1611)、地頭の中根臨太郎。境内は砂と植栽で庭園風に造られている。引地川の両岸は、自性院から南、特に川の東側に田圃がひろがる。航空写真を見るに、自性院から南の一帯が宅地化から免れ、美しい緑の景観を残している。

引地川
引地川を渡る。Wikipediaによれば、引地川は洪積台地の相模原(野)台地中央部の大和市上草柳の泉の森を源流点とし、洪積台地を侵食し谷底平野を形成しながら南に流れ、藤沢市稲荷付近から湘南砂丘地帯に流れ出て、鵠沼海岸で相模湾に注ぐ。全長22キロ弱の2級河川。
昭和58年(1983)「引地川川べり遊歩道」が整備され、昭和62年(1987)の旧建設省の「ふるさとの川モデル事業」の指定を受け、遊水地建設とともに親水護岸などが整備されている(Wikipedia)
名前の由来は諸説あるが、台地からの出口に当たる藤沢市稲荷付近で、砂丘を断ち切って川筋を付け替えたとの説が有力。そのためか、この川はかつては、場所により、長後川、大庭川、清水川、堀川などと呼ばれていた。

佐波大明神(石川;藤沢市石川141)
引地川に架かる秋本橋を渡り、竹林を眺めながら坂を上ると佐波大明神。鬱蒼とした鎮守の森に鎮座する。鳥居脇に「佐波大明神」と刻まれた石碑がある。その神紋は「笹竜胆紋」。笹竜胆は源頼朝の紋であり、河内源氏石川家の家紋でもある。ちなみに、藤沢氏の市の紋章も笹竜胆、と言う。
脇にある鳥居を潜り参道を進む。長い参道には18世紀初頭の青面金剛が佇む。鎮守の森にはスダジイ、ヤブツバキ、シロダモ、アラカシ、ヒイラギ、山桜などの巨木が残ると言う。
拝殿にお参り。拝殿脇には鐘楼が建つ。神仏混淆の名残がこの社にも残る。案内によると、「祭神は源義朝公で、1611(慶長16)年頃創立。一説によると戦国時代末期石川に勢力のあった石川六人衆(注;入内嶋、西山、田代、伊沢、佐川、市川氏)によって勧請されたと伝えられる。社名については初め左馬頭神社、次に鯖神社と称したが、水害にあったとき再度、佐波神社と改めた。

○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』により整理すると、文化3年(1806)の鐘銘に「鯖大明神」の記述。天保12年の『新編相模国風土記稿』には「鯖明神」の記述。天保12年の『新編相模国風土記稿』には「鯖明神」の記述が残る。
江戸の領主は中根氏であり、平良文系統とのことであるので、清和源氏と直接関係がない。「佐馬」に拘る理由もなく、かといって清和源氏の後裔と称する徳川家康に配慮し、左馬頭である義朝を祀るも、社名は「左馬」にするには抵抗があり、音は同じだが地形を表す「佐波=谷川・湿地の意」を関した社名をつけたの、かと。元の名も佐波とも沢とも称される。一時期、鯖信仰に抗せず「鯖社」を称するも、水害なとの被害を避けるべく元の佐波社に戻した。

大庭城址公園
日も暮れてきた。そろそろ駅に向おうと思うのだが、地図を見ると引地川に沿って南に2キロほど下ったところに大庭城址公園が目に入った。大庭御厨の経営を基盤にこの地に覇を唱えた大庭氏の城跡ではあろうと、日没にはかかりそうとは思いながらも大庭城址公園経由で小田急江ノ島線・善行駅へのルートを選択。
急ぎ足で引地川に沿って歩を進めると、前方に独立丘陵が見えてきた。大庭城址公園である。公園の北に沿って上る坂道を進み、坂を上り切ったあたりで左に折れると公園入口があった。公園のある丘陵の東は低地となっている。地図で確認すると小糸川が開析した谷筋である。丘陵は引地川と小糸川に挟まれ、二つの川が合流する箇所に位置する独立丘陵であった。往昔は乱流し、流路定まることのない湿地を前面にした要害の地ではあったかと思う。
城址の自然を活用した公園に入る。道なりに公園の中を彷徨う。城址の縄張りといった説明はない。なんとなく空堀とか土塁の雰囲気のある箇所があったが、基本的には文字通り「公園」であった。
で、その大庭城址であるが、この地は桓武天皇の流れをくむ鎌倉権五郎景政(正)を祖とする大庭景親の拠点であったとされる。城の築城は大庭景親の父とのこと。景親は、平安時代末に鎌倉権五郎景政が開発した大庭御厨の経営を行っていたこの地の有力豪族。治承4年(1180)、源頼朝が挙兵すると平氏方につき、石橋山の戦いで頼朝を撃破するも、頼朝が安房に逃れ、東国武士団を率い鎌倉入りを果たし、富士川の戦いで平維盛が頼朝に敗れると景親は降服し処刑された。
15世紀になると、この城は関東管領に仕えた扇谷上杉の重臣、江戸城築城でも名高い太田道灌が鎌倉と糟屋にある館の中間点としてこの城を改築したとのこと。しかしその後小田原北条の手により城は落城。東相模を制圧した小田原北条氏は大庭城を大改修したが、玉縄城(鎌倉市玉縄地区)を築城したため利用価値は減り、小田原北条の滅亡とともに廃城となった。
後からチェックすると大庭城址は北から「四の郭」「三の郭」「二の郭」「主郭」南端に「小郭」、主郭西下に腰郭といった結構な構えの城址であったようであり、それぞれの郭を画する空堀などが残るとのことだが、それは小田原北条氏の頃の縄張りではないだろうか。今回は日没との時間の勝負といった状態であり、ゆっくり城址を廻ることもできず、結局四の郭の辺りを歩いただけかとも思う。

大庭御厨
大庭御厨とは相模国高座郡の南部(茅ヶ崎・藤沢氏)にあった、寄進型荘園のひとつ。御厨とは伊勢神宮領との意味である。上でメモしたように、平安末期、鎌倉権五郎景政(正)によって開拓され、伊勢神宮に寄進されたもので、のちに子孫は大庭氏と改姓し、代々この地を治めた。大庭とは「大きな土地」との意味がある。言い得て妙である。
なお、「寄進」といっても作物をすべて伊勢神宮に寄進するわけではなく、なにがしかの産物やコメを差し出すかわりに、伊勢神宮の保護下に入り、朝廷に税を納めるのを免れる、一種の税金対策といったものではある。
大庭御厨の領域は東は俣野川(境川)、西は神郷(寒川)、南は海、北は大牧崎。大牧崎が現在のどの辺かははっきりしないが、「崎」というのは洪積台地、河岸段丘の侵蝕谷合流点によく見られる地名とのことで、とすれば、引地川と蓼川合流点あたり、渋谷氏の荘園と境を接する辺りとの説もあるようだ。面積は95町。鎌倉末期には150町にまで拡大した、とのこと。海に向かって開けた平地は北部の山間地から流れ下る大小の河川によって肥沃な地となっており、周辺の豪族の垂涎の的でもあったようである。

大庭御厨と源義朝
今回の散歩のテーマであるサバ神社に祀られる源義朝であるが、大庭御厨を侵し、乱暴狼藉を行っている。都での河内源氏の凋落故か、若き義朝は東国に下る。上総氏など源義家(八幡太郎義家:義朝は義家の曾孫)を東国の棟梁として頼りにしていた源氏恩顧の武将の庇護を受け勢力を伸ばす。三浦半島に覇を唱える三浦氏とともに肥沃なる大庭御厨を狙い、二度にわたり大庭御厨を侵し、当時の大庭景宗をその傘下に収め東国を清和源氏流河内源氏の基盤とし、高祖父である源頼義(源義家の父;八幡太郎義家)ゆかりの地である鎌倉の亀ヶ谷に館を構え、特に相模国一帯に強い基盤を築いた。
保元乱では大庭景義(兄)、景親(弟)は義朝の傘下で戦に加わり。兄は矢傷を受けたため弟の景親に実権が移る。平治の乱のときの動向は不明だが、源義朝が平清盛に敗れ、東国に逃亡途中に長田氏誅殺される。相模国においては義朝と近かった三浦氏や中村氏はその勢を失うが、義朝との関係が疎遠であった景親はその後平氏と接近し、その威光を背景に大庭景親は相模に勢力拡大し、前述の頼朝挙兵時の平家方の総大将として登場するわけである。

引地川親水公園
城址公園を離れ駅へと向かう。陽は落ち、かすかに残る夕日に城址公園の丘がその影を映す。引地川沿いに向かうと一帯は引地川親水公園となっている。平成9年(1997)開設された9.7ヘクタールの公園には多目的広場、球技広場、大庭遊水地、湿性植物園、親水護岸などが広がる。

成就院
川を渡り台地の坂を上る。ついでのことではあるので地図にあった成就院への道筋を辿って駅に向かうことに。坂の途中にお寺さまがあるも、辺りは真っ暗。さすがに境内に入るのは憚られる。
お寺さまの境内に入ったわけではないのだが、一応メモ。この寺院は大庭神社の別当院。本尊は愛染明王。開山は山名時氏。創建葉文和年間、14世紀の中頃。
山名時氏とは鎌倉から南北朝の武将。新田の一族ではあるが、上杉重房の娘が母のため、新田ではなく足利尊氏に従う。観応の擾乱(かんのうのじょうらん)では尊氏の弟である直義に従い室町幕府敵対。その後も尊氏の長子の直冬(庶子であり、直義の養子となり尊氏と敵対)を奉じ京を占拠するなど幕府に敵対するが、後に帰順し領国を安堵された。

小田急江ノ島線・善行駅

成就院の坂を上り、ひたすらに真っ暗な道を、かつて在った善行院の寺名をその名の由来とする善行駅に進み、一路家路へと。


鯖信仰と七鯖参り
メモを書き終えた後、メモを読み返していると、いくつか書きそびれたことが出てきた。ひとつは鯖信仰を踏まえた鯖社の命名と七鯖参りは別物であるということ。もうひとつはその七鯖参りもいつくかのパターンがある、ということである。

鯖社の命名と七鯖参りの関係については、『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』によると、下和田の鯖社の棟札にある「鯖明神」の記述は寛文10年(1670)、上和田の左馬神社の棟札にある「鯖大明神」は宝暦14年(1760)、石川の佐波明神の梵鐘にある「鯖大明神」は文化3年(1806)、鍋谷の鯖社の奉額にある「鯖大明神」の記述は天保7年(1836)、そして天保12年(1841)『新選相模国風土記稿』には上飯田の飯田神社、中之宮の左馬神社、七ッ木の七ッ木神社、下飯田の鯖社、今田の鯖神社、西俣野の左馬社は鯖社と記されている。
しかしながら、『新選相模国風土記稿』には七鯖参りの記述はなにもない。ために、七鯖参りは、この『新選相模国風土記稿』が編纂された天保年間以降、江戸末期から明治にかけて流行し、大正中期頃まで続いた民間信仰である、とする。
鯖の薬効は江戸の中期には知られていたが、漁獲量が増えたのは昭和になってからであり、江戸の当時は貴重な魚であった。腐りやすいもの故に、逆に有難味を加える要素となったのかもしれない。現在でも鯖の効能効果として高血圧予防、ボケ予防、動脈硬化予防、眼精疲労緩和、肝機能強化が挙げられている。サバは大変脂の多い魚で、豊富な脂質は栄養面でタンパク質を補い、体力をつける働きがある、とのこと。この当時としては貴重で薬効のある「鯖」の病気退散・疫病退散の薬効を願い「鯖社」と命名したのだろう。実際西日本には徳島の鯖大師とか、鯖を抱いた僧形の石仏が「境の神(塞の神)」として村への疫病侵入を塞いでいるところもあるようだ。祭神が源義朝という御霊であり、名称が疫病退散に薬効のある「鯖」とすれば村への疫病侵入を防ぐツールとしては最高の機能をもつ社である、と考えたのだろうか。
それが七鯖参りといった民間信仰として流行していたきっかけは、七福神参りといった江戸期の民間信仰の流行にある、と言う。お伊勢参りや秩父札所参り、江戸市内の六地蔵参りなど民衆の生活が豊かになり病気・疫病退散を兼ねたリクリエーションであった、かも。単なる妄想。根拠なし。

また、七鯖参りのパターンであるがいくつかのバリエーションがある。
○左馬社案内では、
左馬(瀬谷),左馬(上和田),飯田神社(上飯田),佐婆(神田),左馬(中之宮).鯖社(下飯田),鯖社(鍋屋), ○藤沢市案内、大和市案内では 左馬(瀬谷),左馬(上和田),飯田神社(上飯田),左馬神社(下和田) 七ツ木神社(高倉),鯖社(下飯田),鯖社(今田)

○大和市叢書では
左馬(瀬谷),左馬(上和田),左馬神社(下和田)、左馬(中之宮) 七ツ木神社(高倉),鯖社(下飯田),鯖社(今田)

それぞれちょっとメンバーが変わっている。前掲『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』によると、地域の人が廻るに段取りのいい社をラインナップにしていったのだろうと説く。地域密着型の民間信仰であれば自然の成り行きか、とも。