金曜日, 10月 27, 2023

讃岐の金毘羅参詣道 丸亀街道;丸亀から琴平まで

過日、四国遍路第75番札所善通寺から第76番札所金倉寺へと向かう途次、善通寺から金毘羅さんへと向かう参詣道(多度津道、伽藍道、魚道)に出合った。またその先、第77番札所道隆寺から第78番札所郷照寺に向かう途次、丸亀市街で金毘羅参詣道・丸亀街道に出合った。更にまた、讃岐の遍路道の途次幾度となく愛媛から金毘羅さんへと向かう参詣道とクロスした。2019年のことである。
2015年には金毘羅さんの奥の院である箸蔵寺から讃岐の財田までの阿波からの参詣道を辿った()。2014年には愛媛の松山市を離れた松山道川内ICの辺りから高輪山系の南を抜け桜三里を越えて中山川が西条市の道前平野に扇状地を形成する扇の要辺りまでの金毘羅参詣道をトレースし、その先西条市から四国中央市の遍路別れの道標まで、遍路道と道を同じくする金毘羅参詣道を辿ったこともある。2019年のことである。
このように遍路歩きのなどの途次、断片的に出合い、また一部同じ道を辿った金毘羅参詣道であるが、そのうちにルートをすべてトレースしようと思いながら数年が経ってしまった。酷暑の夏も終わり、散歩にはいい季節。何となく気になっていた金毘羅参詣道をトレースしようと思い立った。
チェックすると、すべての道はローマに続くではないけれど、讃岐の街道は多く金毘羅さんへと繋がっていた。丸亀からの丸亀街道、多度津からの多度津街道、高松からの高松街道、伊予からの土佐・伊予街道、阿波から阿讃山脈の峠を越える阿波街道(三頭越え、箸蔵道)などがそれ。とりあえずこれらの参詣道をトレースすることにする。最初は丸亀参詣道から。
なお、讃岐には丸亀と多度津を結ぶ往還も多度津街道とよぶ。、同じく高松から丸亀を結ぶ往還も丸亀街道、伊予から讃岐を抜けて阿波に向かう往還も讃岐国往還伊予街道などと同じ名称が使われる。少々紛らわしいのだが金毘羅参詣道も上述の城下を繋ぐ往還と同じく、以下丸亀街道、多度津街道などと表記することにする。



本日のルート;京極船魂神社>太助燈籠>みなと公園>河井継之助顕彰碑>JR丸亀駅北側に2基の金毘羅灯籠>法音寺>宗泉寺>寿覚院参道口の金毘羅燈篭と道標>妙法寺(蕪村寺)>県道21号の金毘羅道標>金毘羅道標>京極高朗墓所>田宮坊太郎墓所>北向地蔵と外堀跡>金毘羅灯籠>道標>田宮源八之旧跡>>五差路に丸亀街道石柱、140丁金毘羅灯籠、しこくの道の道標>常夜燈1>150丁の道標>中府の鳥居>中府三軒家の三つ角に5丁石>杵原町の金毘羅灯籠と丁石>自然石灯籠>一里屋の金毘羅灯籠と丁石>神野神社参道口の金毘羅灯籠>郡家(ぐんげ)茶堂跡>両宮の石灯籠>50丁石>角下組の金毘羅灯籠と70丁石>与北の茶堂跡・大きな金毘羅灯籠>角上組の金毘羅灯籠>道標:如意山持宝院道>90丁石と山下の道標>公文の茶堂跡>富隈神社鳥居手前に119丁石>善住木食上人の入定塔>110丁石>自然石金毘羅灯籠と124丁石>代官所跡>法然上人ゆかりの百々の辻>藤の棚跡と131丁石>若宮神社>横瀬の金毘羅灯籠と地蔵堂>金刀比羅宮北神苑の高灯籠>並び灯籠>高松街道と合流し一の橋を渡り金毘羅宮表参道へ





丸亀市
丸亀市街は縄文海進期、一面の海であった。丸亀南部は古代には開けた土地となっており、大化の改新の際に実施された条里制跡が現在も残るという。また現在高松自動車道が走る丸亀市南部の川西、郡家、三条の辺りには大化の改新時整備された古代官道である南海道が通り、中世期には多くの荘園の名が見える。
海浜の寒村であった丸亀が町となるのは江戸時代、この地に城が築かれてからである。それ以前にも現在丸亀城のある亀山には四国管領細川氏の武将が城を築くが、砦といったものであり城下町を形成するといったものではなかった。
丸亀に城が築かれたのは慶長2年(1597)。その10年前の天正15年(1587)、生駒氏が讃岐国に封じられ翌年高松に城を築いた。その後西讃統治のため亀山に城を築き丸亀城とし、その長子一正の居城とした。丸亀の名が誕生したのはこのときとされる。
築城の頃の丸亀は住む人も少なく、寂れた地であったとされる。その後城町形成に必要な瓦職人等を集めるなど次第に住民も増え、城下は賑やかになるが慶長15年(1610)、一正は高松に移り城代が治めることになるが、元和元年(1615)の一国一城令により、丸亀城は廃城となった。
丸亀が再び城下町として整備・再建されることになるのは寛永19年(1642)の頃。幕府は讃岐の統治を二分し、東讃は松平氏、西讃は山崎氏が治めることとなり、山崎氏は丸亀に築城。城下町を整備し、特に雑草が茂り住む人もいなかった城の北側を開発し、現在の通町、富屋町、本町、西本町といった新しい町を西汐入川辺りまで造ったという。生駒氏時代の古町に山崎氏の新町が加わった。
万治元年(1685)には京極高和が丸亀移封。天守閣建設など城下町の整備を行うことになる。Wikipediaに拠れば、「丸亀藩は金刀比羅宮への参道である丸亀街道、多度津街道の起点を持ち、参拝客を相手とした観光業は藩財政を大きく潤していた。
幕末になり財政が逼迫すると、江戸詰の藩士たちに隣に屋敷を構えていた大村藩の藩士たちからうちわの作り方を学ばせ、国元に返し内職で作らせ、金毘羅参りの土産物として売るなどの策をとり、財政を立て直した。その後、うちわづくりは一般町民にも広まり始め、丸亀の名物となる」とある。 京極家は7代続き明治維新の廃藩置県を迎えることになる。

京極船魂(きょうごくふなたま)神社
丸亀の港を跨ぐ現在の京極大橋橋桁南側に経つ京極船魂神社。誠にささやかな社。ここがはじめの の頃の金毘羅参詣道・丸亀街道始点とされる。
由緒案内には。「京極船魂神社由来 江戸時代京極藩初期、西汐入川の川口には藩船の船倉や会所等があって船手濱之町(俗称船頭町)と呼ばれました。ここに京極藩の海上の守り神として船魂神社(住吉三前大神)がまつられていました。
文化十年(一八一三)には鳥居が天保十二年(一八四一)には狛犬が町中、船頭中、宿屋中などにより建てられました。
大正元年付近海面の埋め立て(浜町(注;現丸亀駅を囲む一帯)と福島町が陸続きとなる) 西汐入川の本流を東から北に変える工事が行われ新町ができました。
大正六年(一九一七)船魂神社は山北八幡宮(注;丸亀城の南、山北地区)に遷されました。最近社殿の荒廃が進んだので社殿の改築を機に元の社地に近いこの場所に遷して奉斎いたしました。 平成十六年五月吉日」とあった。

江戸時代中期以降盛んになった金毘羅参詣。四国内は言うに及ばず全国から四国各地に上陸し金毘羅さんを目指した。それに伴い讃岐国内に整備されたのが高松街道、丸亀街道、多度津街道、阿波から阿讃の峠を越える箸蔵道、三頭越え、伊予からの伊予街道などであるが、その中でも主要ルートであったとされるのが丸亀街道である。
延享元(1774)年に、大坂と丸亀を結ぶ定期船が開かれ、参詣の人が飛躍的に増えることになる。ために、従来の河口を利用した船入(ふないり・湊)・内浦湛甫(土器川河口の「川口」と呼ばれる自然の浜、との記事もある)では手狭になったため、文化3(1806)年にこの付近に福島湛甫(ふくしまたんぽ)を建設した。湛甫(たんぽ)とは「船の停泊するところ」の意。役夫およそ6万名弱が投入された、と言う。
当初の京極船魂神社は現在地より少し南にあり、福島湛甫の南岸に鎮座していたようだが、福島湛甫は埋め立てられており、現在その姿を見ることはできない。

太助燈籠
丸亀街道起点の二つ目は、京極船魂神社から少し南に戻り新堀港岸壁に建つ太助灯篭。傍にあった案内には「金毘羅講燈籠  丸亀 は金毘羅参詣客の上陸地で、門前みなととして栄えてきた。金毘羅講寄進のこの青銅燈籠は、天保九年 (一八三八)の製作で、高さ五・二八メート ル、蓮華をかたどり八角形である。
ここの船溜り(新堀湛甫)を築造するとき、当地の金毘羅宿の主人柏屋団次らが発起で江戸に行き、江戸および近国で千人講を作り、江戸本所相生町の富商塩原太助の奉納金八十両をはじめ、千三百五十七人が出し合った金でできた信仰と、航路標識とかねたもので、江戸講中の代表、八十両の最商額寄附者の名をととめて、一名「太助燈籠 」とも呼んでいる。
天保の昔、対岸にニ基・福島湛甫にニ基建てられたが、戦時中の金属回収で姿を消し、この一基だけが残っている。金毘羅街道 の「一の燈籠」である。 丸亀市教育委員会」とあった。
新堀湛甫
岸壁にあった石碑、「湛甫(しんぼりたんぽ)のみち」には、「天保3(1832)年、丸亀藩主は幕府の許可を得て、西平山の海岸に湛甫を築いた。東西80間(145,44m)、南北40間(72,72m)、入口15間(27,27m)の湛甫が完成された。
この湛甫を新堀湛甫(しんぼりたんぽ)と呼び、その付近一帯の地名を新堀と呼んだ。湛甫ができると、阪神、岡山からの金毘羅参拝の船が往来し、いままでにもまして丸亀はいっそう繁栄した」とある。
上述太助灯篭は新堀湛甫築造に際し、夜間航行の標として十二基計画された灯篭の第一号。上述の説明に拠れば、太助灯篭を含め新堀湛甫には三基建てられた、ということになる。
上に丸亀街道の始点として京極船魂神社(福島湛甫)と太助灯籠(新堀湛甫)の二つを上げたが、新堀湛甫整備後も 福島湛甫は利用され、前者は大型船、後者は小型船が多く停泊したとの記事もあった。
塩原太助
Wikipediaには「江戸の豪商。裸一貫から身を起こし、大商人へと成長。「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」と歌にまで詠われるほどの成功をおさめた」とある。
塩原太助には散歩の折々に出合った。隅田区では太助ゆかりの塩原橋に出合った。足立区の東陽寺では太助のお墓に出合った。群馬と新潟を隔てる三国峠を越えたとき、途中にあった猿ヶ京温泉の辺りは塩原太助の生まれたところ、と言う。長年歩いているとあれこれと繋がってくるものである。 因みに塩原太助を一躍有名人としたのは三遊亭円朝の『塩原太助一代記』と言う。
瀬山登の銅像
太助灯篭の前に銅像があり、台座に「瀬山登」と刻まれる。台座裏面に碑文があり、「 瀬山登、名は重嘉、通称四郎兵衛、棠川(とうせん)と号し、江戸時代の天明四年(一七八四)京極藩士の家に生まれる。小姓から大目付、勘定奉行、物頭となり江戸屋敷の留守居役となる。
和漢の学に通じ、写生画を能くし、江戸在府中に金毘羅千人講を作って参詣客の誘致をはかり、その受け入れのため、港拡張の必要から新堀湛甫を築造し、また金毘羅銅灯籠(現太助灯籠)を建てたが、その多額にのぼる費用調達にあたり千人講のほか、江戸老中や豪商を動かし、藩の財政に影響を与えることなく大いに政治的手腕を発揮して完成させた。
更に、江戸の隣り屋敷九州中津藩から団扇作りの技術を家中の者に習得させて国元に拡げ、金毘羅詣りの土産ものとして販売させ、今日の全国一を誇る団扇産業を創始するなどして丸亀繁栄の基礎を築いた。
嘉永六年(一八五三)六十九歳で没したと伝えられ墓所は南条町の宗泉寺にあり、市制施行九十周年に際し顕彰のためこの像を建立した。平成二年三月吉日 瀬山登顕彰事業実行委員会」とあった。

みなと公園
太助灯籠から金毘羅参詣道・丸亀街道を辿る。直ぐ南に「みなと公園」。公園正面の石段両側には巨大な金毘羅灯籠が立つ。後述するが中府の一の鳥居傍にあったものが移されたようだ。 公園には上方と丸亀を結ぶ金毘羅参拝の定期舟船(月参船)をかたどった遊具などが造られていた。月参船は丸亀京極家の第六代藩主である京極高朗(在位1811‐1850)の頃就航した、と言う。 また「みなと公園」西側には金毘羅灯籠が建つ。


金毘羅参詣名所図会には湊の賑わいを記す。「河郡円(丸)亀湊  金毘羅参詣名所図会5 讃岐国北の海浜なり。大阪より海陸ともに行程凡そ五十余里、下津丼より凡そ五里。
当津は幾内条より南海道往返の喉口なるゆへ象頭山の参詣、大師霊場の遍路、其のほか南海に到るの旅客、摂州浪花津より乗船の徒は言ふも更なり。陸路を下向の輩も或は田の口下村(私注:田の口、下村は共に倉敷市)より渡り、又は下津丼(私注;倉敷市)より越る等何れも此方に着岸せずと言ふ事なし。
公園西側には金毘羅灯籠が建つ
されば東雲の頃より追々浪花よりの入船、向ひ路よりの着船引もきらず。又黄昏時よりは向ひ路への渡海、登船の出帆有りて船宿の賑ひ昼夜を分ず、浜辺の蔵々には俵物の水揚産物、積送の浜出し仲仕の掛声、船子の呼声藁しく湊口には縦横に石の波戸ありて紫銅の大灯籠夜陰を照し、監船所の厳重、浜々の石灯籠、魚市の群集、御城は正面の山岳に魏々として驚悟しく、内町には市邸軒をならべ交易にいとまなく、就中、籠の細工物、渋団、円座なんど名物也とて讐家多く、旅客かならず需めて家土産とするなど街の繁栄、実に当国第一の湊と言ふべし。城下の封境、寺院、神社の類ひは後編に委しく著はせばこゝに洩す」と描かれる。

河井継之助顕彰碑
「みなと公園」北西角に河井継之助顕彰碑。石碑には「河井継之助顕彰碑 丸亀湊上陸後の風景描写  少し寝ると思いしに、はや丸亀へ着く。暁七ツ前の由。晴故に、月星照りかがやきて、風景妙なり。 十里の海上、早きには感心のものなり。丸亀の船宿へ入りけれども、出来合い飯もなき様子故、支度を直して直ちに出懸ける。
廿日 晴 早き故、月はあれども、しかと湊の様子も分からず、城を左にして金毘羅さして行ける。丸亀は高の割より、城市供に宜敷様に思わる。此の辺は相応に土地も開け、左に讃岐富士 。小さき山なれども形は好。先に見る江州のぬかで山に能く似たら山なり。其の外、形の好き小山数々あり。砂糖の草、往来に植えけるを見るに、黍に似たりと聞けれども、すすきの穂なきものの様なり。
莖を取りて拵える由。(中略)
金毘羅の手前五六町此の方にで、日漸く出、新たに見る所故か風景面白く覚ゆ。さすがの街道、路幅も広く、所々に堂ありて、茶わかず処あり、其の前に必ず石籠あり。
河井継之助旅日記「塵壺」より引用」と刻まれる。
「塵壺」
河井継之助が西方遊学の際に記した旅日記。継之助は他に著書がないため、継之助の唯一の著書である。日記は安政6年(1859)6月7日の江戸出発から始まり、12月22日に備中松山で終えている。 旅の出来事を書き記すという目的以外に、長岡にいる父親に旅の経過を知らせる土産話としても書かれており、日々の出来事について思うままに書き記してある。旅の途中での出来事や継之助の心情などが飾ることなくつづられていることから、河井継之助の人物像までも読み取れる貴重な資料とされる。
継之助は生涯で2回の遊学をしており、『塵壺』を記したのは2回目の遊学。通常、遊学は公費で行われていたが、継之助の場合は私費での遊学。金銭・時間を限られた中での遊学であった。 長岡藩の富国強兵、財政建て直しを目指していた継之助は、備中松山藩の財政を立て直した山田方谷にその術を学ぶ為に遊学した。道中では、黒船の来航を目にしたり、各地方の情勢をじかに見るなど、見識を広げている。方谷の元で多くのことを学び、継之助は方谷に大変感謝し、のちに「天下の英雄方谷先生に及ぶのもなし」と評している。
このとき継之助32歳。9年後には新政府軍との戊辰戦争に心ならずも突入することになる。
山田方谷
幕末・明治前期の陽明学者。備中の人。名は球。通称、安五郎。方谷は号。幕末期に松山藩の財政整理と藩政改革に成功。明治維新後は閑谷(しずたに)学校の再興に尽力した。
「それ善よく天下の事ことを制する者ものは、事の外に立ちて、事の内に屈っせず」、「義を明らかにして利を図らず」など多くの名言を残しているが、「友に求めて足らざれば天下に求む。天下に求めて足らざれば古人に求めよ」は方谷が河井継之助に贈った言葉として知られる。

JR丸亀駅北側に2基の金毘羅灯籠
京極船魂神社からの金毘羅参詣道は「みなと公園」に沿った通りの一筋西の通りを南に進み、JR丸亀駅の一筋南の富屋町商店街まで進む。また太助灯籠からの参詣道は「みなと公園」東側に沿って南に下る道を進み、J R丸亀駅の一筋南の通町(とおりちょう)商店街まで進み、そのアーケード商店街を右に折れ西進し、富屋町商店街で京極船魂神社からの金毘羅参詣道に合流。参詣道はそのまま西進し、丸亀駅を始点とする県道204号を通り抜け、県道の一筋西の道で左折する。
参詣道は上記の通りであるが、JR丸亀駅北側に2基の金毘羅灯籠が建つ。「みなと公園」のそれと同様に参詣道のどこからか移されたものだろう。「金毘羅大権現」とか「常夜灯」といった文字が刻まれる。

法音寺
少し南に下ると、道の右手にお寺の参道。参道右手に法音寺の寺石標、左手に「井上通女史墓」とある。何となく気になり参道を進む。山門手前に鎌倉時代初期の秀作である木造阿弥陀如来立像の案内とともに、「なお、同寺には京極藩士井上儀左衛門本固(もとかた)の長女として生まれ、文武に秀で新井白石、室鳩巣などとも関わりのあり、江戸時代を代表する女流文学者として、「東海紀行」、「帰家日記」など数々の作品を残した有名な井上通女の墓がある」とあった。
井上通女
井上通女は江戸期を代表する女流歌人。子供の頃より父から儒学、母から和歌を学び、長じて丸亀藩京極家2代目藩主、京極高豊の母堂に侍女として出仕するため江戸に向かう。途次、新居の関で通行手形の不備の為足止め(「女」と書かれていた道中手形を持っていたが振り袖を着ていたため。この場合は「小女」と書かなければならなかった、とか)されたエピソードで知られる、と。 この道中で『東海日記』を執筆。江戸での在住中に『江戸日記』を執筆する。江戸では、待女という本来の職のほかにも、藩主の他の大名たちとの社交場に随伴して和歌や漢詩をつくるなど、殿様ご自慢の才女として相伴役もこなしていた。30歳の時、藩候の母堂が亡くなったのを機に故郷の丸亀へ帰郷する。道中、『帰家日記』を執筆した。
江戸時代の学者である貝原益軒は、平安時代の有智子内親王以来の学富才優と絶賛した。通女の執筆した『東海日記(紀行?)』『江戸日記』『帰家日記』は、三日記と呼ばれ、「江戸文学の粋」と称された。
新居の関には、通行許可がもらえず、大坂に出した使いの者が帰ってくるのを待っていたときの心情を詠った和歌、「旅衣 あら井の関を 越えかねて 袖によるなみ 身をうらみつつ」が刻まれた歌碑が建つという。

宗泉寺
道の右手に小ぶりではあるがアプローチの美しいお寺様がある。寺名標には日蓮宗宗泉寺とある。美しい庭のような参道を進み本堂にお参り。このお寺様丸亀藩主京極氏が、出雲・隠岐、龍野(兵庫県たつの市)、丸亀と移ると共に移転し、1660年現在地に建立されたという。
宗泉寺は、丸亀初代藩主京極高和の実母、二代藩主高豊の実母、丸亀藩の支藩である多度津初代藩主京極高通の実母の墓所があり菩提寺となっている。
参道を戻る途中、歌碑に気づいた。文字を読むと「念ずれば 花ひらく  苦しいとき母がいつも口にしていたこのことばをわたしもいつのころからかとなえるようになった そうしてそのたびわたしの花がふしぎとひとつひとつひらいていった 真民」とある。仏教詩人坂村真民氏の歌碑だった。このお寺さまと歌碑の関係は不明だが、この有名な詩の歌碑は全国に600余りあると言うから、そのひとつということかも。愛媛にゆかりの深い方であり、松山の砥部に記念館があるということは知っていたのだが、未だ訪れてはいない。これを縁に一度訪れてみようと思う。
また太助燈籠前にあった銅像の主・瀬山登の墓所でもあるようだ。


寿覚院参道口の金毘羅燈篭と道標
寺町と思しき地域を少し南に進むと、道の右手に大きな金毘羅灯籠と標石が立つ。傍にあった案内板には、丸亀港の風景を描いた歌川広重の浮世絵と共に、「金毘羅奉献灯籠 この石灯籠は、金毘羅大権現へ奉献された灯籠のひとつで、寛政8年(1796) に大坂講中によって、金毘羅街道の玄関口であった福島湛甫(港)の突堤に建てられたものです。 基壇には願主、世話人、施主名のほかに金刀比羅宮や四国遍路八十八箇所霊場への距離や方向なども刻まれており、道標の役目も果たしていたことがわかります。 明治44年(1911)に寿覚院山門脇に移転されていたものを、平成6年(1994) に丸亀市が金毘羅街道景観整備事業により、この場所に移転整備しました。
道 標
2本の石柱には、 丸亀城 (亀山城)の築城者が山崎甲斐守(家治)であること、 寿覚院に丸亀城の石垣を築いたといわれる羽坂重三郎の墓(供養塔)があることや、寿覚院の十一面観音菩薩像が昔は金毘羅大権現本地仏であったことが刻まれています。指を差す手の形をレリーフ状に彫り出し、進行方向を示している点がユニークです。
また、一方には、四国遍路八十八箇所霊場77番札所道隆寺、78番札所道場寺(郷照寺)への距離と方向のほか、施主が詠んだと思われる俳句も刻まれています。 丸亀市教育委員会」とある。
基礎石には幾多の願主などの名、基壇石には「大阪講中」、竿石には「常夜灯」「金毘羅大権現」といった文字が読める。中台石(火袋石)、笠石、宝珠石も堂々とした造りとなっている。見落としたが、この灯籠には「左 金毘羅道」「本宮百五十八丁」といった文字も刻まれ道標も兼ねている。 2基の道標には手印と共に、「こんぴら せんつじ へんろみち」「往昔金毘羅大権現 當山十一面観世音 明治五年」と言った文字が刻まれる。

妙法寺(蕪村寺)
地図を見ていると、県道204号の東側に妙法寺(蕪村寺)が記される。与謝蕪村のゆかりの寺?参詣道を離れちょっと立ち寄り。県道を渡り富屋町の妙法寺に。
通りから山門に続く参道入口に「天台宗妙法寺 別名蕪村寺」「元三大師おみくじ所」と刻まれた石柱脇に説明パネルがあり「紙本墨画 蘇鉄図 妙法寺の蘇鉄図は与謝蕪村 によって描かれました。 与謝蕪村は江戸時代を代表する俳人で、絵の才能もある画家で、 中国から伝わった絵の描き方 「南画」を世に広めました。 与謝蕪村は1766年から68年にかけて丸亀・高松・琴平を訪れ、特に妙法寺では襖絵などを描きました。この「蘇鉄図」の襖絵は 屏風に作り替えられ、現在も富屋町の妙法寺に大切に保存されています。 このようなゆかりで妙法寺は別名「蕪村寺」と呼ばれ、保存されている 「蘇鉄図」をはじめ、他の5点の作品は国の重要文化財に指定されています」とあった。
山門を潜り境内に入るとそこにも案内があり、「国指定重要文化財 昭和四十六年六月二十二日 絵一六六九号 紙本墨画蘇鉄 四曲屏一双 与謝蕪村 筆

紙本墨画  竹図   一幅
紙本淡彩  寿老人図 一幅
紙本淡彩  山 水 図  四曲屏風 三隻
紙本淡彩  山 水 図  四曲屏風 一隻
紙本淡彩  寒山拾得図  襖貼付   四 面
明和三年(一七六六年)から4明和五年(一七六八年)の間に数回にわたって来遊した俳人画家・与謝蕪が当寺に滞在して揮毫した大作六点があり、一名、蕪村寺とも言う」とあった。
昭和42年頃、『寒山拾得図』と『蘇鉄図』は黒の油性マジックで落書きされたが、名古屋の表具師の5年に渡る研究のすえ、油性マジックは取り除かれ元の姿に戻った、といった記事も7あった。

妙法寺は開基から約一三〇〇年を数えるとされ、丸亀藩主であった京極家の祈願寺。金剛界大日如来(秘仏)を本尊とし伝教大師御作とされる「大黒天」とおみくじの祖「元三大師降魔尊像」を奉安する。本堂に大黒天の幡が並んでいたのはその故か。
元三大師(がんざんだいし・良源)は第十八代天台座主(天台宗の最高の位)であり天台宗比叡山中興の祖。「観音様の化身」として数多くの強い霊験を顕され、厄除けの「角大師」や「豆大師」として広く信仰されている。
さらには、全国の寺社仏閣で見られる「おみくじ」を日本で初めて考案されたのも、良源上人だと言われている。
元三大師(良源)は、法然上人・親鸞聖人の師であった源信の師でもある。
元三大師とおみくじ
この元三大師が観音菩薩様に祈念し授かった、五言四句の偈文(げもん)百枚がおみくじの原型だと言われている。偈文とは、観音菩薩の言葉。元三大師は百枚の偈文の中から引いた一枚に進むべき道を読み取り、数多くの人を迷いから救ってきたとされている。
が、元三大師様がおみくじの元祖と言われるようになるのは、江戸時代のはじめ。徳川家三代にわたり仕えた慈眼(じげん)大師天海僧正が、元三大師の夢のお告げにより、信州にある戸隠(とがくし)神社で偈文百枚を発見されたことに始まる、と。これが「元三大師百籤(ひゃくせん)」となり、番号と五言四句の偈文により、的確な指針を得られたことで広まっていった。更には次第に天台宗以外でも使われるようになり、現在のお寺や神社で引くおみくじは、元三大師の偈文百枚がもとになっていると言われている。

上で太助灯篭からの参詣道は現在の「通町商店街」で右折し西進すると記したが、通町商店街で右折津することなく南進し、蕪村寺の東で右折し蕪村寺前に出た後、左に折れ現在の県道21号右折し下木の金毘羅道標へと進むルートもあったようだ。

県道21号の金毘羅道標
金毘羅参詣道に戻る。寿覚院より南に下り県道21号(旧国道11号)に合流。参詣道は道をクロスし南下する。県道21号をクロスしたところに大きな金毘羅道標が立つ。「左こんぴら道 すぐこんひら 右かわくち 明治十三」といった文字が刻まれる。「かわぐち(川口)」は丸亀湊のこと。このあたり南条町の有志により立てられたもので、もとは県道21号と204号交差点にあったようだが、道路改修などによりこの地に移された、と。
道標の直ぐ横に金毘羅参詣道のルート図と案内がある。ここが遍路歩きの途次偶々見かけ、今回の金毘羅参詣道トレースのきっかけとなったところでもある。
金毘羅道標の脇に「こんぴら湊 丸亀街道」の案内が詳しいルート図と供にある。案内には「こんぴら湊 まるがめ街道  現在こんぴらさんとして親しまれている金刀比羅宮 は、古くから金毘羅大権現として広く信仰を集めていました。 特に江戸時代後期には金毘羅参詣が一般庶民の間で人気となり多くの人々が参詣に訪れるようになりました。
主な金毘羅街道として、丸亀街道 、高松街道 、多度津街道 、阿波街道 、伊予・土佐街道 の5街道 が知られています。この中でもっとも多くの参詣客が利用し、にぎわったといわれているのが丸亀街道です。 丸亀から金毘羅までの約3里(12km)の道筋には今も、道標 、丁石 (距離を表す単位である丁数が 刻まれている石造物 )、燈籠 が多く残され、往時のにぎわいを今に伝えています」とあった。

金毘羅道標
30mほど進むと道の右手に道標。弘化4年(1847)に立てられた道標には「すぐ こんぴら道」、そして右手を指す手印と共に「金毘羅御利生田宮坊太郎墓所」と刻まれる。「御利生」は神仏のご加護の意。道標横に田宮坊太郎の案内ボードもある。田宮坊太郎の仇討ち話は子供の頃のうっすらとした記憶の中にある。
参詣道を右に折れ、ちょっと立ち寄り。

京極高朗墓所
田宮坊太郎の墓への西に少し進むと正面に玄要寺。そこに京極高朗墓所の案内。「京極高朗墓所 万治元年(一六五八) 播州竜野城主京極高和が丸亀城主になって以来、明治二年の版籍奉還まで七代二百十年余にわたり、西讃岐は京極家によって統治された。七人の藩主のうち、五人までは滋賀県坂田郡清滝の徳源院に墓があるが六代藩主高朗の墓所だけが、丸亀市南条町の玄要寺境内にある。南北約九M、東西約二十Mの土塀に囲まれた中に[従五位京極高朗之墓]と刻まれた墓石があり、その前に二対の灯籠と鳥居が建つ。門や扉には京極家の四ッ目の家紋が刻まれている。
高朗は二代藩主高豊と並ぶ名君で、文化八年(一八一一) 十四歳で丸亀藩主となり、嘉永三年(一八五〇)まで実に四十年にわたって、 丸亀発展の礎を築いた。詩文に長じ、字は季融、琴峰、陶水と号し約一万首の漢詩を創り、名著[琴峰詩集]もある。 藩主としても、新堀湛甫の築造、団扇作りの奨励をはじめ、海運、産業、文化に不滅の功績を残し、明治七年(一八七四)七十七歳で没した」とあった。 どうでもいいことなのだけど、七代城主のうち五名は滋賀の徳源院、高朗は丸亀、であと一名は?七代当主の墓は東京港区麻布の光林寺とあった。版籍奉還により東京に移ったゆえだろう。

田宮坊太郎墓所
道の突き当り玄要寺前を左折すると玄要寺の墓所。その中にブロック塀で囲まれた一画があり五輪塔が立つ。そこが田宮坊太郎墓所。参詣道の金毘羅道標傍にあった案内には「田宮坊太郎は江戸時代に歌舞伎や人形浄瑠璃、講談等により広まった仇討物語の主人公です。 この物語は現在では史実ではないといわれていますが、 江時代末に京極家によりまとめられた地誌『西讃府志』によると、次のとおりです。
坊太郎の父 源八郎は、土屋甚五左衛門という武士に仕えていた足軽で、剣術に秀でていたため、もっと高い位に取り立てられようとしていました。この噂を聞いた剣術指南役 堀源太左衛門は、源八郎のことを妬み、寛永3年(1626) 讃岐国阿野郡の国府八幡宮(一説には山北八幡宮ともいわれています)で謀略を用いて無礼討ちにしてしまいました。
源八郎の死後生まれた坊太郎は、聡明な子どもに育ち、7歳のときに江戸へ渡り、剣術の修行をおこないました。その後、寛永19年(1642)に丸亀へと帰り、父の17回忌に、父が討たれた国府八幡宮で、仇である源太左衛門を見事討ち取りました。
この横にある弘化4年(1847)に立てられた道標には、 「金毘羅御利生田宮坊太郎墓所」と刻まれ、奥の玄要寺の墓地には坊太郎の墓と伝えられる五輪塔が残されています」とあった。

北向地蔵と外堀跡
古図に外堀の右、西に延びる堀が見える
参詣道とは離れるが、田宮坊太郎の墓所を探して彷徨していると、墓所の南を東西に抜ける道を少し東に行ったところに大木があり、その下にお堂があった。地元のかたが掃除されているようでちょっと寄ってみると北向地蔵とあり、そこに丸亀城外堀跡と刻まれた石碑があった。
古地図を見ると、城を囲む内堀の外側を更に囲む四角の外堀が見えるが、北向地蔵のこの場所はその外堀の右下より西に向かいその先で西汐入川と繋がる堀の途中のどこかであったように見える。外堀は現在埋めたてられている。

金毘羅灯籠
参詣道に戻る。田宮坊太郎墓所の道標のあった所から少し南に下ると道が少しクランク状に曲がる。その角に金毘羅灯籠。傍にあった案内には「明和元年(1764) 12月に、 南条町と農人町(現在の中府町五丁目)の人々で結成された講により建てられた常夜燈です。この燈籠南側の東西に延びる現在の道は、江戸時代は丸亀城の外堀で、 この場所には橋がかけられていました。また、ここより西には、玄要寺の広大な敷地が広がっていました。
堀は戦後に埋め立てられ道路となり、寺の敷地も住宅等に変わってしまいましたが、この燈籠は現在も建立時の場所に残り、往時の面影をいまに伝えています」とあった。

道標
外堀跡、北向地蔵へと続く道をクロスし少し歩くと三叉路。角に道標が立つ。「西 ぜんつうじことひら道」「北 汽車海岸へんろ道」「南 このさきだいせん阿波街道」と刻まれる。大正3(1914)年、鷄鳴軒という散髪屋さんが建てた道標とのこと。
「だいせん阿波街道」って?阿讃山脈に大川(だいせん)山がある。その東に阿波からの金毘羅参詣道として知られる三頭越えの道が阿波に抜ける。はっきりはしないが、「だいせん阿波街道」って、この三頭越えの参詣道のことかも知れない。単なる妄想。根拠なし。

田宮源八之旧跡
道標を右に進み、その先三叉路を道なりに南下。道の左手に案内ボード。「田宮源八之旧跡  江戸時代に歌舞伎や人形浄瑠璃、講談等で広まった、田宮坊太郎の仇討ち物語。 その坊太郎の父親が源八郎 (源八) で、生前に住んでいたのが、この中府町近辺といわれています。
坊太郎の父 源八郎は、江戸時代初期に和泉国堺浦 (現在の大阪府堺市) で、元武士の商人 田宮采女の子として生まれ、縁を頼って丸亀の養源寺というお寺に移り住みました。
傘の乗った石碑

丸亀では土屋甚五左衛門という武士に足軽として仕えていましたが、剣術に優れていたことから、より高い位に取り立てられようとしていました。しかし源八郎のことを妬んだ剣術指南役 堀源太左衛門の謀略により、無礼討ちにされてしまいました。
息子の坊太郎は、江戸へ渡って剣術の修行を積み、 後に丸亀に帰り源太左衛門への仇討ちを果たしました。


旧餌指町と刻まれた石碑
この物語は、現在では史実ではないといわれていますが、 この横には「田宮源八之旧跡」と刻まれた碑が立てられています」とある。旧跡は更地となっていた。
その先、道の右手に傘の乗った石碑、旧餌指町と刻まれた石碑を見遣りながら先に進むと五差路にあたる。




五差路に丸亀街道石柱、140丁金毘羅灯籠、「しこくの道」の標石
五差路。石柱の対面に灯籠と標石
五差路の北側に比較的新しい丸亀街道の石柱。「こんぴら湊 丸亀街道」「丸亀市」といった文字が刻まれる。平成6年(1994)年、丸亀市の「金毘羅街道景観整備事業」によって、丸亀街道が整備されたと聞くが、その際に立てられたものだろうか。
その対面、南側の角に金毘羅灯籠と「しこくの道」の石柱が並ぶ。金毘羅灯籠には南面「是れ従り金毘羅町口江百四十丁」、北面「明和四(1767)年亥九月吉日」、東面「奉政道案内立石」、石高「京大坂口仲間中」と刻まれ、丁石も兼ねている。1丁はおよそ109m。金毘羅宮への距離を示した丁石ともなっている。元々道標であったものに火袋石、笠石、宝珠石(らしきもの)を乗せて金毘羅灯籠としたようだ。傍に立つ「しこくの道」の石柱には「七十七番 道隆寺 3.6km」と刻まれ遍路道標となっている。
このあたりに中府口番所があったと言われる。城下から城外に出るところで木戸があったと言う。

150丁の道標
民家に挟まれた常夜灯
時に古き家並も
少し南に下ると、道の右側、民家に挟まれて常夜灯が立つ。その先道の右手に石柱。下部は埋まっている。正面に「奉政道案内立(石)」側面に「従是金毘羅町口江百五拾丁」「京大坂口仲間中」などと刻まれる。 「従是金毘羅町口江百五拾丁」? 先ほど140丁の道標に出合った。これって距離が増えており理屈に合わない?
百五拾丁石
百五拾丁石
チェックすると、明和4(1767)年に建立されたこの道標はもとは 川口(丸亀湊)にあり、金毘羅街道の起点を示す「起点石」であったとのこと。なんらかの事情でこの地に移されたのだろう。また、その形、刻まれた文字などからして上述140丁石と同じ講中により建立されたものだろう。
丸亀湊の参詣道の起点石、そして丸亀城下から城外に出る起点に立てるとは洒落ている。ちなみにこの地は、大正14年(1925)頃まで駕籠かきの詰所があった、と。




中府の鳥居
その直ぐ南に道を跨ぐ鳥居が建つ。扁額に「金刀比羅宮」とある中府(なかぶ)地区に建つこの鳥居は金毘羅さんの一の鳥居とのこと。明神造りで高さは明治4年建立。二十二尺(約六・七メートル)、柱の間は十五尺余(約四・五メートル)あり、もとは柱の周囲に石の玉垣があったようだが交通の邪魔ということで取り除かれた。と。
鳥居の柱には鳥居を寄進した商人達の名が読める。泉州堺の河内屋仁平、同船頭中、長州赤関の菊屋半七、奥州野辺地の野村治三郎、塩飽の尾上吉五郎、岡幸蔵、西上清蔵、藤七など。北前船で結ばれた商人達の協力で建立したのだろう。柱には丸亀の商人の名も多数刻まれていた。昭和18年(1943)に地震で倒壊したが、金刀比羅宮が修復したとのこと。ちなみに、後述する横瀬の鳥居も同じメンバーで建立していると言う。
大鳥居のすぐ南側、街道の左右にに、昭和63年(1988)まで立派な一対の燈寵が立っていたとのことだが、。現在は、どちらも福島町の公園に移されたという。福島町ってあの太助灯籠のあったところ。「みなと公園」に堂々とした一対の金毘羅灯籠が立っていたが、それが移された灯籠だろうかと推測する。
中府
旧名は那珂郡柞原郷中府村。旧城下町のすぐ西に位置する。那珂郡の府が在ったのが地名の由来。

中府三軒家の三つ角に5丁石
南に進み県道33号に接近する地点に四つ辻がある。「中府三軒家の三つ角」と呼ばれる。角に平成の丁石があり「5丁」と刻まれる。この5丁ってどこからの距離?裏面には上述150丁と刻まれた起点石と5丁の間に0.4kmの距離が刻まれる。どうも起点石からの距離のようにも思える。因みにこの五丁石、平成6年(1994)年、丸亀市の「金毘羅街道景観整備事業」によって、丸亀街道が整備されたときに立てられた「平成の丁石」のひとるだろう。
三軒家と呼ばれるのは昔この辺りには3軒ほどの家しかなかったため。実際昔の写真を見ると、この辺りから丸亀城の天守閣が見えている。また、四つ辻であるのに「三つ角」と呼ばれるのは明治までここから南に下る道がなかったため。
民家も少なく、お城の天守閣が見える
参詣道はここで左折し県道33号をクロスし東の県道204号筋まで進むことになる。何だか奇妙。チェックすると、原因は丸亀城の外堀。これは妄想ではあるが、もともとは県道204号から真っすぐ北へと道が伸びていたのではあろうが、江戸期に丸亀城の外堀が造られたため北進すすことができなくなり、いままで辿って来た迂回路を歩くことになったのではないだろうか。現在は外堀が埋められたため県道204号は北へと伸びている。


杵原町の金毘羅灯籠と20丁石
中府三軒家の三つ角を左折した参詣道は県道33号をクロスし、県道204号を右折し南下する。この地の産土神、山北神社を左に見遣りしばらく進むと道は二つに別れる。その角に「二十丁」と刻まれた「平成の丁石」と金毘羅灯籠。二十丁の上のシンボルは京極家の船印とのこと。距離は起点石からのもの。 
金毘羅灯籠の竿石正面には「常夜燈」、右には「文久三年」、左に「金毘羅大権現」、台石上正面に「圓亀商人中」、台石上左に「右こんぴら道」、台石中には多くの世話人の名が刻まれる。この金毘羅灯籠は道標も兼ねたものであった。 文久三年というから1863年の建立ということだ。 参詣道はこの分岐点で県道204ッ号と別れ右の道に進む。







自然石灯籠
ほくろ地蔵堂
道をしばらく南下し国道11号・319号併用道路をクロスし道の右手の田村池を越えた先、道の右手に自然石の灯籠が立つ。「金常夜燈」といった文字がかすかに読める。万延元年(1860)の建立と言う。 その先高松自動車道の手前に小さなお堂。「ほくろ地蔵」と呼ばれるが由来などはわからなかった。

一里屋の金毘羅灯籠と丁石
高松自動車道を潜ると直ぐ五差路。ここは伊予から讃岐を抜け、大阪越えで阿波へと抜ける讃岐往還(伊予街道)との交点でもある。
角の水路傍に金毘羅灯籠と丁石が立つ。一里屋の灯籠と呼ばれるようだ。かつてこのあたりに一里塚が立っていたのがその由来、とか。灯籠は、明治7年(1874)の建立。台中石に多くの寄進者の名が刻まれる。丸亀在の商人のようだ。石工は當村札造と刻まれていた。
竿台には「東 高松 西いよ こんそうじ せんつうじ」、「南 金毘羅」、「北 丸亀」と刻まれている。また、火袋石を支える中台石は通常と異なり六角形となっており、方位が十二支で示されていた。
丁石には「是より鳥居まで百丁」。埋もれていたのを掘り起こしたものと言う。

神野神社参道口の金毘羅灯籠
県道4号の一筋西の道を進む。しばらく南下すると右手に神野神社、左手に皇子神社が建つ四つ辻がある。道の左手には水路に小ぶりな石橋が架かる。何だか、いい。
道の右手、神社参道口に金毘羅灯籠が立つ。竿石の正面に「金毘羅大権現」、右側に「常夜燈」、左側に「文政十三」、裏側に「神野神社/八幡宮」、台上石正面に「すぐこんぴら道」、台上右に「丸亀商人」、台中石には幾多の世話人、寄進者の名が刻まれる。石工泉谷金蔵の名もあった。
神野(かんの)神社・正八幡宮
雰囲気に誘われ参道を進み境内に。境内には多くの摂社が合祀されている。最大のものは今八幡とあった。本殿の扁額には「神野神社」「正八幡」と記される。境内にあった由緒の概略をまとめると「讃岐国延喜式内社の一 神野神社正八幡宮社
祭神は天照大御神野第二子天穂日命。第27代継体天皇2年この地に鎮座し、その後社殿を再造し神野神社と称す。また、国司に請いて朝廷に奏し奉り例幣の社となる。菅原道真が讃岐国司であったとき、その尊崇篤く神像を作り納めたと。
八幡宮は第24代推古天皇の5年宇佐八幡宮を勧請。祭神に応神天皇、神功皇后、 仲姫皇后を祀る。 これよりこの社を神野神社正八幡宮と称す。
今八幡宮
四国管領細川氏、この社への祈願ゆえ戦いに奇瑞あり、因って社殿を再興し神田を寄進。戦国期、土佐の長曽我部氏による兵火に社殿消失。が、神体は自ら去って難を逃れ、その地に社を建て、今八幡と称す。天正17年旧跡に神殿を再営し同年8月14日遷座する。」、といったことが書かれていた。 また由緒には記されていないのだが、この社はもとは伊予国神野郡の和気一族が当地に移住し祖先神の伊曾乃神社を勧請したとも。満濃町にも同じく神野神社があるという。神野郡(かんののこおり)って生家のある新居浜・西条の辺り。西条には伊曾乃神社あ鎮座する。なんとなく面白そうなトピックだが話が参詣道から大きく逸れそうなのでここで一旦思考停止とする。

郡家(ぐんげ)茶堂跡
この神野神社がある辺り、古代に郡衙があったところと言う。郡家の由来だろう。ここに遍路道のお接待と同じく、お接待のお茶屋があった。現在は神野神社参道口の東、丸亀街道の左手にある自転車屋さんの車庫の奥にあった。
参詣道の左手、車の置かれている奥に石碑と茶屋跡の案内。「郡家(ぐんげ)茶堂跡  江戸時代から昭和初期にかけてこの前を通る金毘羅参詣丸亀街道に面して茶堂と呼ばれる建物があった。茶堂は金毘羅参りの旅人達が休憩し接待を受けた場所で仏様も祀られていた」。
また石碑は賽祷碑(さいとうひ)。賽祷碑は、「肥後の美作九平治一族が、八幡さん(神野神社は正八幡と称す)と金毘羅さんの神恩に報いるため、雨傘千本を献じて感謝の意を表し、国家安全、商運吉祥を祈ることを記したもの。
明治の鉄道開通により街道は次第にその役目を失い昭和22年茶堂は撤去された。現在はその跡に観音堂と賽祷碑(さいとうひ)、手洗鉢が残り当時の面影が偲ばれる。丸亀市教育委員会」と。

両宮の石灯籠
四つ辻の神野神社との反対側に皇子神社があり、その途次、道の左手に石灯籠が立つ。嘉永7年(1854)、地元の方が八幡様(神野神社)と金毘羅宮の両宮に奉献したもの、と。
皇子神社
案内には、「皇子神社本殿(昭和五十二年十二月二0日)
皇子神社は、本殿、幣殿、拝殿の三棟が連なっている。本殿は入母屋・桧皮葺の神明造で、間口一九八m、奥行三・九六mの規模で、左右の廊下及びその他の彫刻などは、精巧を極めている。
天文年間(一五三二~一五五五)ごろ、 宝憧寺の鎮守神として建造されたと伝えられ、その後、寛文十二年(一六七二)、宝幢寺池・上池の築造で水没することとなったので、原型のまま現地へ移築されたといわれている」とあった。
鳥居の扁額には「皇子宮」。「神社」との呼称は明治以降のことといった記事を読んだことがある。往時は「皇子宮」と呼ばれていたのだろう。
皇子神社と神野神社は真っすぐな道で繋がっている。何となくふたつの社は関係がありそうに思える。どうも皇子神社は神野神社の境外末社であり、御旅所となっているようだ。ふたつの社は両宮とも称される、と。社を一直線に繋ぐ道は馬場であったとも言う。
伊曾乃神社
古代寺院宝憧寺は皇子神社南の宝憧池に沈んでいる。冬に水を抜く時、塔心礎の大きな石が見えると言う。

50丁石
参詣道に戻り少し進むと県道4号に合流。しばらく南下するとコンビニの駐車場端、ガードレール内側に50丁石が立つ。願主といった文字は読めるが、その他は長年の風雨に晒され表面が摩耗し文字を読むことはできなかった。
参詣道はその先左手にある宝憧寺池横を抜け、枡池の北端あたりで右に曲がる県道4号から離れ直進する道に入る。この分岐点辺りが丸亀市と善通寺市の境となっている。

角下組の金毘羅灯籠と70丁石
善通寺市の西の端、与北(よぎた)町の道を進むと道の右手に金毘羅灯籠と丁石。金毘羅灯籠は角(すみ)下組の金毘羅灯籠と呼ばれる。竿石には「永代常夜燈」、台石に「角下組」と刻まれる。国土地理院地図にこの辺りの地名として「角」が記される。
石灯籠は寛政7年(195)9月の建立。その前に「七十丁」の丁石が立つ。

与北の茶堂跡・大きな金毘羅灯籠
石橋
すぐ先、黒住教の敷地内に大きな金毘羅灯籠。火袋石は6面。中台石も6面あり、1面に1文字ずつ「金毘羅大権現」と彫られている、と。竿石に「常夜燈」、上台石に「大阪」、中台石に「繁栄講」といった文字が読める。
石灯籠前に案内があり、「江戸時代、丸亀港に上陸した金毘羅参りの人々で、この街道(こんひら街道)はにぎわっていた。茶堂は旅人の楽しい憩いと交流の場であり、接待のお茶はすばらしい旅の思い出になったことであろう。
手洗石
馬乗石
入口の橋、石灯籠、丁石、馬乗石、手洗石、印瓦等に往時を偲ばせるに十分である。街道中最大の石灯籠は昭和二十一年、南海道沖地震で倒壊したが、昭和四十二年(一九六七)、有志によって復元された。現在宗教団体によって管理されている」とあった。
石燈篭は丸亀街道の中で最大のものであった。案内にあった丁石などを探したのだが、入り口の橋、手洗い水、馬乗石以外は見つけることができなかった。
馬乗石は馬に乗る時に使用した石。「備中 早嶌嶋屋仙次郎」「寛政七(1795)年九月吉祥日」と刻まれる。

角上組の金毘羅灯籠
古き趣きの屋敷前を抜け
角上組の金毘羅灯籠に
少し歩いた先、道の右手に金毘羅灯籠。角上組(すみかみぐみ)の石灯籠。竿石に「金毘羅大権現」、台石に「角上組」と刻まれる。角下組の石灯籠と一対となっており、建立も同じく寛政7(1795)。

道標
少し南に下ると道の右手に石柱がある。正面に「東讃岐八十八*」、側面に「如意山持宝院」と読める。地図には道標の南西、標高157mほどの如意山裾に如意山持宝院の名が記される。現在は廃寺といった記事もあった。








90丁石と山下の道標
南に下ると与北町のはずれで道が二つに分かれる。共に県道199号とある。その角に平成の丁石。「90丁石」とある。その横に道標があり、「右 金刀比羅道 左 大川劔山道 すぐ 丸亀」「明治拾一」読める道標が立つ。山下の道標と呼ばれるようだ。山下はこの辺りの地名。 ここに記される「大山劔山」って、上述北向地蔵辺りとでメモした阿讃山脈を越える大川山であり、劔山って、阿波の劔岳のことだろうか。

公文の茶堂跡
山裾の道を辿り
公文の茶堂跡。うどん屋裏手の空き地がそれ
分岐道を右にとり先に進むと県道4号が県道200号にあわさる変形五差路に。参詣道は右の県道4号をとり、如意山の山裾の道を進むことになる。行政域は仲多度郡まんのう町となる。
道を進み道の右手に酒店、その先に水路に水門ゲートがある。参詣道はそこを右折。その先の角を左折する手前の空地が公文の茶堂跡とのこと。結構賑わううどん店の西側裏手でもあった。

富隈神社鳥居手前に119丁石
富隈神社参道口
鳥居手前に19丁石
左折した参詣道はそのまま直進し民家の間の道に入る。少し進むと富隈神社の鳥居がある。鳥居手前石段の左手に「百十九丁」と刻まれた丁石。どこかから移されたと言う。この時は気が付かなかったのだが、境内には九十二丁石、九十七丁石、百三丁石、百六丁石、百十七丁石の丁石も移されて残ているようだ。
鳥居脇にあった案内には、「富隈神社 高隈神社は、文明六年(一四七四) 大麻神社祠官の白玖伊義が記した 「櫛梨神社名跡図」にて十社のうちに数えられる古社である。 祭神は吉備武彦命(神櫛王の悪魚退治に従った部将)である。
当社の創建年は「讃岐国名勝図会」に延喜十三年(九一三) と記される。 藩政時代には、公文の茶堂とともに、諸国からの金毘羅参詣客に親しまれていた。
本殿裏の山中には、多くの古墳が残されており、さしば形の埴輪等の貴重な文化財が出土した。また、横穴式石室を利用して造られたとされる善住木食上人の入定塔がある。正面の参道には、金毘羅参詣道から移された丁石がある。 令和三年九月 まんのう町教育委員会」とあった。
神櫛皇子
讃岐を歩くと神櫛王によく出合う。「『日本書紀』では、神櫛皇子を讃岐国造の祖とする。香川県に伝わる讃留霊王(さるれお、讃王)伝説によれば、景行天皇23年に讃留霊王は勅命を受け、讃岐入りして瀬戸内の悪魚退治を行い、同地に留まり仲哀天皇8年9月15日に125歳で薨去したという。この讃留霊王について、東讃では神櫛王のこととし(櫛梨神社社伝等)、西讃では武卵王(たけかいごのみこ:日本武尊の子)のこととしている」とWikipediaにある。

善住木食上人の入定塔
富隈神社の案内に木食善住上人の入定塔が記されてあり、また丸亀街道に沿った参道石段の上り口には木食善住上人の入定塔、その道順を示した案内もあった。
案内には、「木食善住上人の入定塔 木食善住上人は、寛政八年(一七九六)三月十一丹後国宮津に生まれた。
二十四才のとき、讃岐金毘羅神に誓って仏門に入った。名を源心と改め、箸蔵寺、高野山、金剛山等 修業を積み、江戸深川霊運寺の泰山和尚によって灌頂を受けた。
修験道をもって諸国を廻り、嘉永三年(一八五〇公文村にとどまり、金毘羅街道側に護摩堂を建て、不動尊を安置して諸入のために加持祈?を行い、暇あれば、仏像を彫刻した。
丸亀、岡山両藩にも立入を許されていた。明治三年(一八七〇)秋入定の業に入り、同年十月十六日寂滅 した。
明治三年十月十六日信徒によってこの入定塔が建立された。
昭和五十年十月 まんのう町教育委員会
(註)所在地 大字公文富隈神社境内地なるも琴平町下櫛梨 本殿後方に位置する」とある。

富隈神社にお参りし、本殿脇から本殿西側、案内にある平坦地となっている平坦地まで上り、その先案内はないのだが踏まれた感のある道を進むと石仏の後ろに五輪塔があった。正面に「木食沙門・善住上人・白峰寺弟子」、右側面に「明治三年」、左側面に「十月十六日」、台座には「丹後国産」と刻まれる。寂滅の日が10月15日とされるから、その翌日には入定塔が建てられている。事前に準備していたのだろう。丹後は上人の生地である。
注にある所在地は社の西にあり、富隈神社はまんのう町に鎮座するがそこは琴平町であるということを記している。

110丁石
富隈神社の先で県道4号に戻り、少し南に下る。県道4号は仲多度郡まんのう町と仲多度郡琴平町の境を走る。国土地理院地図に土福(どろふく)と記された地域の辺りに平成の丁石、「110丁石」が立つ。この丁石は琴平町域。
丁石横に金毘羅参詣丸亀街道の案内。「金毘羅参詣丸亀街道 金毘羅信仰が高まったのは室町時代以降で瀬戸内海の交通が開けると塩飽島民等の海上生活者から海の守護神として崇敬された。
近世以来全国各地に金毘羅講が組織されて各方面からの「こんぴら道」が発達した。この丸亀街道は京阪神や山陽方面から丸亀港に上陸した参詣道である。この街道沿いには休息のための茶堂や一里塚が設けられ、金毘羅灯籠や道しるべなどが建てられていた。
現在富隈神社の境内には金毘羅への距離を示す丁石が多く移し建てられ保存されている」とあった。 説明横に参詣道の案内、道筋の旧跡が記されいる。

自然石金毘羅灯籠と124丁石
しばらく県道4号を南下する。時に現れる古いお屋敷を見遣りながら進むと道の左手に自然石金毘羅灯籠と124丁石。金毘羅灯籠の正面には「金」の文字が刻まれていた。まんのう町と琴平町の境を通る県道だが、時にまんのう町域が県道を越える箇所があり、この丁石はまんのう町域となっていた。

代官所跡
西に張り出したまんのう町域を抜けふたたび琴平町域に入る。時に見える古き趣きの建屋を見遣り道を進む。苗田町の道の右手、民家生垣に案内板。 「天領代官所跡」とあり、「寛永十九年徳川幕府は、苗田村、榎井村、五条村、五毛村を天領と定め幕府が直接治めることになりました。
そして、この天領からあがる年貢は満濃池の改修や用水路の整備等の費用にあてられました。代官所は、金毘羅参詣道の丸亀街道に沿った苗田村のこの地に設けられ、幕府からの命ぜられた初代の代官守屋与三郎がその職に当たりました。この代官所の近くには、守屋一族の墓地等があります」とあった。

法然上人ゆかりの百々の辻
代官所後から南に下りると大きな四つ辻。東西に走る道の下には香川用水の水管が埋設されている。いつだったか香川用水を東端まで辿ったことが思い出される。
その四つ辻のひとつ南の四つ辻で参詣道は右に折れる。角には石造りの小祠。この辻が法然上人ゆかりの百々(「どど」?)の辻ではないかと思う。
配流された法然上人の後を追い、讃岐に入った蓮生は、上人に会いたいと訪ね歩き、ようやくこの辻で再開でき、「百年も会わなかったように思える」と子弟が喜び合ったということから、「百々((どど?)」というようになったといわれている。
蓮生って誰?法然上人とのエピソードに登場するとすれば、それ相応の僧であろうとチェック。連生って平安末期から鎌倉時代にかけて勇名を馳せた熊谷次郎直実の出家した法名であった。源平一の谷の合戦でうら若き公達・平敦盛を情けをもって討ち取った(自分が討たなくても誰かに討たれるのは必至の状況)武将として知られるが、出家し法然の威徳に感じ、その弟子となったと言う。
出家した直実は法然のために寺を建立するなど、ふたりの関係は深いが、直実が没した年に法然が土佐配流となっており、実際にこの地での再会は?ではあるが、それはそれとしてふたりの深いつながりを示すエピソードとして聞いておくことにする。
なお、なんのう町には熊谷次郎直実のものと言われるお墓があるという。法然に従い高篠(まんのう町西部)に来て、一緒に京都に戻ったが、その後熊谷次郎直実が京都で亡くなったことを知った高篠の人が供養のためお墓を建てたと伝わる。
熊谷墓(熊谷堂)
香川県仲多度郡まんのう町高篠中分下1144。御堂の中に、蓮生供養の五輪塔がある。この供養塔は、愛弟子蓮生の死を知らされた法然上人が供養のために建てたと伝えられている。この御堂は、元は円浄寺(建永2年(1207)讃岐に流された法然上人がこの寺に留まり、念仏を広める;香川県仲多度郡まんのう町東高篠1196)の一部であったといわれる。がストーリーがそれぞれ少しづずつ異なるのが面白い。

藤の棚跡と131丁石
四つ辻を右に折れ少し西に進むと、道の一段下に「藤の棚跡」と刻まれた石碑と、その手前に「百三十一丁」と刻まれた丁石が立つ。
「藤の棚跡」の石碑はそれほと古くないように見える。藤の棚奈良出身の放浪の画家、大原東野の丹精したもの、と。大原東野は江戸時代の大坂の浮世絵師、画家。Wikipediaに「奈良の旅籠・小刀屋の次男として生まれる。大原氏、名は東野。茨木町に居住。東野、東埜、民声、如水と号して享和から文化期に主として名所図会、物産図会、読本、辞書の類に挿絵を描いている。画風は岡田玉山風であり、一時は玉山と並ぶ名声があった。山水画、花鳥画、人物画を得意とした。また博物学に通じており、晩年には讃岐国琴平に移り、昆虫を収集してすごした。天保11年7月に没す」とある。 丁石は京都の後藤八郎兵衛の寄進とか。京都の後藤八郎兵衛といえば金座・銀座の後藤家の分家だろうか。であれば刀剣金工師として知られる人物である。

若宮神社
石井神社と直線の参道で結ばれる
「藤の棚跡」より西進し、次の角を曲がると右手に若宮神社。社殿の西側に巨大な石碑があり「石井神社」と刻まれるが、それは西の鎮守の森に鎮座する石井神社を指す。ふたつの社の間に鳥居があり、上述神野神社と皇子神社と同じく、なんだか両社は関係があるように思える。
チェックすると、若宮神社は明治期に近隣の八つ社を古川の稲生神社に合祀。後に中森に社殿を建て 合祀した八つの社を稲生神社から分離し若宮神社と称した。大正期、この地に遷座し石井神社の境内社となった。境内社とはいえ、なかなか面白いロケーションだ。

横瀬の鳥居と135丁石
若宮神社を越え、次の角を右折し西進。国道319号をクロスすると道を跨ぐ鳥居が見える。扁額には丸に金の字が刻まれる。柱には、州脇惣一郎、、野崎武吉郎、鎌田弥太郎 佐藤文太郎などの名前が刻まれる。寄進した人物だろう。野崎武吉郎は、塩田王といわれた児島の豪農。発起世話塩飽、児島の文字が読める。「申の歳」といった文字も刻まれていた。
中府の一の鳥居の項で、一の鳥居の寄進者がこの鳥居も建てたとメモしたが、はっきり見たわけではないのだけれど、名前が重なる人を見つけることはできなかった。 鳥居手前には「百三十五丁」の平成の丁石があった。

横瀬の金毘羅灯籠と地蔵堂
その先、土讃線を潜り、道なりに南に進むと道の左手に金毘羅灯籠と地蔵堂がある。金毘羅灯籠は備中国酒津村・梶谷伊平治が寛永10年(1871)年に、地蔵堂は横瀬と金毘羅茶屋の人々が嘉永7(1854)年に寄進したものと言う。



金刀比羅宮北神苑の高灯籠
並び灯籠
金刀比羅宮北神苑の鳥居
地蔵堂より先、道なりに進むと道の右手に境内風の広場があり、玉垣の中には並び灯籠が立っていた。大正11年(1922)琴平駅移転に伴ってここに移された、と。そこに高灯籠が建っていた。県道207号まで進み右折。正面に鳥居があり、鳥居の左手に金刀比羅宮北神苑と刻まれた石柱が建つ。鳥居のみぎてには「一里塚舊址」と刻まれた一里毎に植えられた松や榎の一里塚を記念するもの。

高灯籠
一里塚舊址
境内に入る・高灯籠は慶応元年(1865)に建てられた高さ27mの灯籠。日本一高い灯籠であり、国の重要有形文化財に指定されている、瀬戸内海を航海する船の指標として建てられ、船人がこんぴらさんを拝む目標灯となっていた、とある。
高い石の基壇の上に木製の灯台が築かれ内部は三階建て、壁に江戸時代の人々の落書きが今も残されている、とのことだが、現在内部には入れないようだった。
神苑境内の南東端、参詣道が県道207に右折するところに「百五拾町」と刻まれた丁石がある。こちらは「丁」ではなく「町」と刻まれる。丸亀からの起点石に対し、琴平から丸亀に向かう起点石となっている。
百五拾町」起点石
百五拾町」起点石
境内には上述絵師大原東野の藤棚があるという。明治30年頃この地に移されたと。またそのすぐ横には「百三十一丁」の丁石、そして同じく大原東野が丸亀街道整備の際に犠牲となった虫を供養した虫塚などもあったようだが、見逃した。
因みに北神苑があるのなら南神苑もあるのでは?チェックすると金倉川の上流300mのところにあり、金刀比羅宮御神事場(南神苑・御旅所)とあり、御神事場西端には屋根のある珍しい橋・鞘橋が金倉川に架かっている。

並び灯籠
この先参詣道は金刀比羅宮北神苑境内東端より県道207号をクロスし少し南進。ほどなく道の左手に灯籠が並ぶ。数えると18基あった。江戸火消四十八組から寄進されたのが契機となって、嘉永四(一八五一)年から慶応三(七六)年にかけて、これら並び灯籠が奉納されたと言う。中には歌舞伎役者「市川 鰕(えび)十郎」、「江戸吉原」などと刻まれた灯籠もあった。



高松街道と合流し一の橋を渡り金毘羅宮表参道へ
その先に四つ辻。道手はアーケード商店街。この四つ辻は高松からの金毘羅参詣道である高松街道との合流点。ここを右に折れアーケード商店街を抜け一の橋で金倉川を渡り金毘羅宮表参道へと向かう。
丸亀から琴平までの参詣道である丸亀街道トレースはここで終える。次は多度津街道を辿ってみようかと思う。