火曜日, 1月 10, 2023

伊予 大洲街道散歩 その⑤ :内子から大洲まで

大洲街道歩きもこれで最終回。内子と大洲を繋ぐ。「愛媛県歴史の道調査報告書:大洲街道」のルート図をチェックすると、いつだったか歩いた大洲から内子までの歩き遍路道とほぼ同じ。今回はそのときメモした散歩の記録を逆廻し再生、加筆・修正し作成する。
ルート概要は前回の終了点である内子城廻地区の福岡大師堂からはじめ、八日市・護国の 「国選定重要伝統的建造物群保存地区」の町並みを進み内子の町を抜け予讃線内子駅に。
大洲街道は予讃線の高架を潜り丘陵部を抜け肱川水系矢落川の谷筋に出る。矢落川谷筋を西進し肱川本流堤防まで進み、そこから南進。在郷町の常盤町を抜け、蛇行する肱川を南に渡り城下町大洲の町屋地区に。そこから西進し武家屋敷地区を抜け大洲城に至る。その距離おおよそ16キロ。キツイ坂もなく、藪に悩まされることもない至極快適なルートである。

 
 本日のルート;福岡大師堂> 常夜灯と道標 >清栄橋を渡り八日市地区に> 八日市・護国地区 >中町通り進む>郷之谷橋を渡り予讃線・内子駅の高架を潜る>思案堂>駄馬池東端の地蔵尊>舗装道から土径に入る>小川に架かる橋を渡り舗装道に>黒内坊の徳右衛門道標>二軒茶屋の大師堂>遍路休憩所>矢落橋>高柳橋>新谷の町を抜け稲田橋に>稲田橋を渡り中江藤樹の頌徳碑・標石の立つ三叉路に>>矢落左岸を西進し十夜ヶ橋に>霊場十夜ヶ橋脇の道標>霊場十夜ヶ橋 永徳寺の徳右衛門道標>若宮の子安観音>常盤町>渡場の弁財天>肱川橋>渡場対岸に>大洲の町屋>町屋より武家屋敷>大洲城

国土地理院地図

 
国土地理院地図にプロット
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 福岡大師堂
福岡大師堂に上る石段前左右に「八十一番」「八十二番」の標石が立つ。内子のミニ四国霊場を指すものだろう。が、福岡大師堂の左右に「八十一番」「八十二番」があるか、福岡大師堂に「八十一番」「八十二番」があるのかこの標石の指す意味合いがよくわからない。内子のミニ四国霊場についての情報はヒットしない。ままにしておく。お堂に祀られるお大師さんに手を合わせ福岡大師堂を離れる。
道は丘陵東端部を進み左が大きく開け中山川、その向こうに水戸森峠辺りを走る松山道が見える。
旧松山大洲街道
「一 字一石塔」石段脇の松山・大洲街道標石

福岡大師堂の横に「無妙法蓮華経奉書寫大乗妙典一 字一石塔」と刻まれた石碑に上る石段前に立つ「松山・大洲街道」標石、その傍に立つ「遍路道・松山大洲街道案内板」 。この標石、案内板が遍路歩きの途次偶々出合い今回の大洲街道歩きのきっかけともなったもの。この地が大洲から続いた大洲街道・遍路道の分岐点でもある。大洲街道は左に民家の間を進むが、遍路道は標石より右に坂を下り水戸森峠越えに進む。

常夜灯と道標
常夜灯と遍路標石
分岐点;右大洲街道/左高昌寺(八日市側から)
道を進むと大きな通りにあたる。その角に文政8年(1825)建立の常夜灯と標石がある。道標には「こんぴら道 へんろ道」と刻まれる。大洲街道は左に折れ町並みへと進むが、右手にある高昌寺にちょっと立ち寄り。





高昌寺
創建は室町の頃とされる古刹。本堂から中雀門まで回廊など、風格のあるお寺さまであった。もとは内子町松尾(現在の内子町城廻)に浄久寺として創建したのが始まりとのことだが、その後曽根城主、曽根氏の帰依深く、天文2年(1533年)現在地に移築、曽根家の菩提寺となり、弘治2年(1556年)に曽根高昌逝去の折に高昌寺と改称されたとのことである。
250年の歴史をもつ「ねはんはつり」で知られ、そのためか、平成10年(1998)に長さ20m,高さ3m,重さ約200トンといわれる巨大な涅槃仏が造られた。
曽根(曽祢)氏
涅槃仏

室町期にこの地に居を構えた国人領主。曽根城は中山川と麓川に囲まれた舌状尾根筋の突端にある。現在清栄川を境に、その北は内子町城廻となるが、この地姪は曽根城所以のものだろう。
戦国時代には境目地帯として乱世を切り抜けるも、秀吉の四国征伐の折に小早川勢により廃城となり、曽根氏は毛利を頼り、江戸期には萩藩の家臣となった、とのことである。

清栄橋を渡り八日市地区に
清栄橋
上芳我邸
常夜灯・標石が立つ分岐点まで戻り、大洲街道・遍路道を進む。直ぐに清栄橋に架かる清栄橋。この橋までが護国地区。(現在は内子町城廻)。橋を渡ると八日市の町並みに入る。八日市の町並みにはいると直ぐ国の重要文化財となっている上芳我(はが)邸がある。現在は木蝋資料館となっている。


八日市・護国地区
中芳我邸
国の重要文化財となっている中芳我邸、本芳我(はが)邸、大村邸など古き趣を伝える建屋を見遣り古き街並みを進む。
大村邸の先、道がクランクになっている桝形と呼ばれる箇所に「国選定重要伝統的建造物群保存地区」と書かれた木の標識が立つ。
「国選定・重要伝統的建造物群保存地区
内子町八日市護国伝統的建造物群保存地区
選定年月日 昭和57年4月17日
面積 約3.5ヘクタール
内子は、江戸時代の中期から、在郷町として栄えた町である。かつての市街地は、願成寺を中心にした廿日市村、現在の商店街を核にした六日市村、八日市村、小田川の対岸の知清村の4つから成り立っていた。
本芳我邸
八日市・護国地区に入ると街並みの地図とともに肱川支流に点在する集落で生産される和紙は、六日市、八日市の商家を経て阪神へ出荷され、大洲藩の財政の一端を担っていた。江戸時代の末期から明治時代には、ハゼの実から搾出した木蝋を良質の晒蝋に精製し、広く海外にまで輸出するなど、大きい地場産業として多いに繁栄したところである。
八日市・護国の伝統的な町並みは、かつてこんぴら参詣や四国へんろの旅人が往き交ったところで、蝋商芳我家を中心に、二階建て、平入り、瓦葺きの主屋が600mにわたって連続する。伝統的な建物の多くは、江戸時代末期から明治時代に建てられたもので、白あるいは黄色味を帯びた漆喰の大壁造りである。正面はしとみ戸や格子の構えで、袖壁をつけ、往時の姿をよくとどめている。
大村邸
内子町は、これらの伝統的な町並みを後世に伝えるため、積極的に保存事業に取り組んでいる。 昭和58 年3 月 愛媛県内子町」とあった。

旧街道の要衝の地また物資の集散地としても賑(にぎ)わい、遍路にとっても、また大洲街道・松山街道の山入り部に入る人達にとっても「えひめの記憶」に「此所ハ店もよし」と記されているように「ここは店もよし(「ハ」は「八」ではなく「は」だろう)」とされる、山道に入る前の食料などの用意をする地であったのだろう。
肱川支流に点在する集落で生産される和紙は、六日市、八日市の商家を経て阪神へ出荷され、大洲藩の財政の一端を担っていた。江戸時代の末期から明治時代には、ハゼの実から搾出した木蝋を良質の晒蝋に精製し、広く海外にまで輸出するなど、大きい地場産業として多いに繁栄したところである。
枡形
八日市・護国の伝統的な町並みは、かつてこんぴら参詣や四国へんろの旅人が往き交ったところで、蝋商芳我家を中心に、二階建て、平入り、瓦葺きの主屋が600mにわたって連続する。伝統的な建物の多くは、江戸時代末期から明治時代に建てられたもので、白あるいは黄色味を帯びた漆喰の大壁造りである。正面はしとみ戸や格子の構えで、袖壁をつけ、往時の姿をよくとどめている。

内子町は、これらの伝統的な町並みを後世に伝えるため、積極的に保存事業に取り組んでいる。 昭和58 年3 月 愛媛県内子町」とあった。
国の重要文化財となっている大村邸や本芳我(はが)邸・上芳我邸などを見遣り古き街並みを進むと小川に架かる橋にあたる。この内子の町は、旧街道の要衝の地また物資の集散地としても賑(にぎ)わい、遍路にとっても、「此所ハ店もよし」と記されているように、山道に入る前の要所の地であった(「えひめの記憶」)。

中町通り進む
内子座

「国選定・重要伝統的建造物群保存地区」の町並みの緩やかな坂を下り、中町通りで右折し、六日市(現在は内子町内子)の町並みを進む。道の左手には古い芝居小屋として知られる内子座などもある。


予讃線内子駅から国道56号黒内坊まで

郷之谷橋を渡り予讃線・内子駅の高架を潜る
郷之谷橋
予讃線の高架を潜り西進
中町通りを抜けると小川に架かる郷之谷橋に出る。「えひめの記憶」では遍路道は橋を渡り今辿った中町通りを直進するとあるが、遍路道シールは小川の右岸を下り本町通りを進むと指す。
川を境に二十市地区となった町並みを南西に進み予讃線・内子駅北の高架を潜る。道には遍路道の案内シールがあり、オンコースかどうかの目安となる。

思案堂
予讃線・内子駅北の高架を潜り西進。道は次第に細くなり、駄馬池の思案堂手前で脇道から車道に合流する。
駄馬池の北東端に思案堂が建つ。弘法大師が泊まるかどうか思案したと伝わるお堂の前に「右 へんろ道」「昭和十年八月」と刻まれた道標がある。また、金比羅道標、秩父・西国札所などへの巡礼供養塔も立つ。


駄馬池東端の地蔵尊
思案堂の直ぐ傍、駄馬池の東端土手に二基の地蔵さんが内子の町を背に立つ。横には駄馬池災害復旧の石碑も建っていた。
池に沿って道を進むと、「四国の道(四国自然歩道)案内図」の横に「旧街道からの眺め」の案内板があり、「旧街道からの眺め ここから東に広がる家々は、内子の集落発祥の地「廿日市」の町並みでこの場所は大洲からその集落に向かう旧街道の入口でした。右手には遊行上人を祀った願成寺があり、真下に見える駄馬池のかたわらには弘法大師にゆかりのある思案の堂が、その歴史を今に伝えています(後略)」とある。
この案内板のあるところからの眺めは木々に阻まれ見通すことはできないが、駄馬池東端からは二十市の眺めが楽しめる。
●願成寺
願成寺は一遍上人ゆかりの寺。「えひめの記憶」には「古くからあった寺を一遍上人の異母弟聖戒が開祖として中興し願成寺と改めたとされる。寺の縁起によると建治二年(一二七六)熊野から帰った一遍は3日間この寺に留錫したとする。またこれよりさき文永八年(一二七一)秋、二旬ばかり滞在したことになっているのは、ちょうどそのころ窪寺の閑室で長期間修業中であったから、ここまで足を延ばしていたものとも解せられる」と記す。
往時はこの辺りの寺院は願成寺を核とした時宗の寺であったが、その後曽根氏の庇護のもと禅寺・曹洞宗の高昌寺の隆盛とともに時宗の寺は衰微し、現在愛媛県内の寺宗の寺はこの願成寺と一遍上人生誕の寺である松山の宝厳寺の2つだけと言う。

舗装道から土径に入る
舗装された道も
土径になる
緩やかな坂道を上り、木の標識の立つ分岐点で泉ヶ峠への車道を左に逸れる。道を進み左手に池を見る辺りで舗装は切れ、土径となる。土径は田圃や畑地が谷奥に切れ込むちょっとした谷戸の雰囲気も感じる。

小川に架かる橋を渡り舗装道に

土径を進み
小川に架かる橋を渡ると道は舗装される
土径を進む。道は喜多郡内子町と大洲市の境を進み小川(田野々川)に架かる橋を渡る。この小川は矢落橋の辺りで矢落川に合流し、国道56号に沿って二軒茶屋、黒内坊と並走してきた川の上流域である。橋には遍路道の案内。橋を渡ると舗装された道となる。

黒内坊の徳右衛門道標
道なりに進むと黒内坊の集落で国道56号に出る。住所は内子町五十崎。その角に徳右衛門道標。「是〆菅生山迄九里 左へんろちかみち」「内之子六日市大師講中」と刻まれる。「左へんろちかみち」には追加彫りされた痕跡(こんせき)がある(「えひめの記憶」)、とのことである。
徳右衛門道標から先は国道56号を進む。国道は数回川を橋で渡るが、「えひめの記憶」には、「新谷で一宿した澄禅は『四国遍路日記』に、「此川ヲ十一度渡テ内ノ子ト云所ノ町二至。」と記す。蛇行して流れる矢落川を五十崎町の黒内坊(くろちぼう)に向かって何度も渡っていた様子がうかがえる。現在はこの辺りの道も河川改修などで消滅しているが、昔の街道の様子が少し感じられる。

二軒茶屋の大師堂
国道56号を進む。田野々川が国道を潜る辺りから西は大洲市となる。二軒国道を右に逸れる旧道をちょっと歩き、国道に戻った先、国道を左に逸れる旧道に入る。二軒茶屋の集落に入る辺りに「弘法大師尊」の額のかかるお堂があった。大師堂であろう。

遍路休憩所
国道56号を進むと道の右手に遍路案内所。 お願いすればお風呂のご接待も受けることができる旨の案内があった。
矢落橋を渡り、国道56号と合流する手前に遍路案内所。。休憩所で少し休み、国道56号を東へと進む。

矢落橋
川を渡り返し国道南を西進した(現在田圃)
遍路案内所から直ぐ先で国道から右に分岐する道がある。右に折れて先に進むと肱川支流矢落(やおち)川に架かる矢落橋。「愛媛県歴史の道調査報告書:大洲街道」のルートは矢落橋を渡ると直ぐ矢落川を渡り返し、国道56号の少し南を西進するとあるが、現在は田圃となり道は消えている。道は高柳橋辺りまで西進し矢落川を渡り返し、川の右岸に移る。


高柳橋
高柳橋からの土径
高柳橋
肱川支流矢落川に架かる高柳橋を渡り右岸に移る。『四国遍礼名所図会』には「高柳橋町はなれ土橋(ばし)也、」とあり、かつては小さな土橋が架かっていたが、現在は歩行者用の小さな鉄の橋が架かっている。
「愛媛県歴史の道調査報告書:大洲街道」のルート図は高柳橋を渡ると、北西に進み帝京第五高校の西側の県道230号柳沢新谷停線(停車場線;新谷駅が
終点)に繋がる。ルートは現在帝京第五高校のグランドとなっており、高柳橋を渡って土手までは土径が残るが、その先高校敷地となり道は消えている。「えひめの記憶」には「道は新谷の町を過ぎる辺りから帝京第五高等学校の敷地を斜めに横切り、矢落川に架かる高柳橋に至る。
この高柳橋の辺りは遍路の休息する場所でもあったという。その橋のたもとには、武田徳右衛門道標と道標の2基があった(現在は2基とも帝京第五高等学校前に移設されている)」とある。
●新谷の徳右衛門道標
新谷の街を抜け、県道230号柳沢新谷停線を挟んで北に運動場、南に校舎と運動場をもつ帝京第五高校の敷地を少し超えた辺りに、お地蔵さまや常夜灯と並んで二基の道標がある。 大きな道標が徳右衛門道標である。「これより菅生山へ十里」と刻まれる。かつて高柳橋傍にあった上述標石が移されたものである。


新谷の町を抜け稲田橋に
稲田橋
帝京第五高校の敷地の間を走る県道230号柳沢新谷停線を進む。この辺りは新谷町。大洲藩の支藩である新谷藩の陣屋跡(県指定文化財;現在新谷小学校敷地)、武家屋敷跡が残る。 また商家などのたたずまいに昔の面影が偲(しの)ばれる
新谷の町は昔から遍路道の要所の一つであった。真念は『四国逞路道指南』に、「にゐやの町、調物よし、はたご屋も有。」と記し、松浦武四郎も『四国遍路道中雑誌』で、「新屋町商戸、茶店有。止宿する二よろし。)」と紹介している。
新谷の町を抜け稲田橋に。
新谷(にいや)藩
新谷藩陣屋跡石碑
新谷藩陣屋跡麟鳳閣
新谷藩は元和9年(1623年)、大洲藩2代藩主・加藤泰興が弟・直泰に大洲藩6万のうち、1万石を分与したことにはじまる。初代藩主直が泰興・直泰両兄弟のどちらを跡取りにするかを決めずに死去したため一時内紛が起こったが寛永18年(1693年)に藩内分知ということで決着した。そのためもあってか、まとまった領地とはならず大洲藩内に飛地として領地を有したが、寛永19年(1642年)、この地に陣屋が完成した。藩内分知は幕府から直接領地をみとめ本来は陪臣の扱いであるが、新谷藩は幕府より大名と認められた全国唯一の例である。
新谷藩で記憶に残るのは明治天皇の京都から東京に行幸(遷都)の下り、大洲藩とともに行幸の前衛の大命を担ったこと。大洲藩が先頭、新谷藩が行列最後尾につき行幸を警護した。これはあまたある藩のうち、藩主自らが勤王の意思を明確に示し御所警護などに尽力したことによる。
石碑には「大洲市指定史跡新谷藩陣屋跡
新谷藩は、寛永16年 (1639) 大洲藩2代藩主加藤泰興(やすおき)が弟の加藤直泰(やすひろ)に6万石の内から1万石を分与して成立した藩です。
加藤直泰は、寛永19年大洲城から約8km離れたこの新谷の地に陣屋 (3万石以下の大名が住む屋敷)と陣屋町の建設を命じました。 陣屋の建設にあたっては、 大久保川を付け替えて大規模な敷地の整備を行った可能性が発掘調査からも指摘されています。
この陣屋は、版籍奉還まで加藤家9代にわたって新谷藩1万石の拠点でありましたが、 明治以後は小学校の敷地となり新谷地区の教育の拠点となりました。
現在、 敷地内の校舎とプールの間には慶応4年(1868) に建築され、藩の評議所として使用された麟鳳閣(りんぽうかく;愛媛県指定有形文化財) が当時の陣屋をしのぶ建物として残っています。
また、校庭にはムクノキの中では市内最大で、樹齢約500年にもなるムクエノキ (大洲市指定天然記念物)があり、 新谷小学校の象徴的な樹木として親しまれています。
指定年月日 昭和31年9月30日 大洲市教育委員会」とある。

稲田橋を渡り中江藤樹の頌徳碑・標石の立つ三叉路に
「愛媛県歴史の道調査報告書:大洲街道」のルート図は、矢落橋東側から矢落川を徒河し対岸の三叉路に向かっている。「えひめの記憶」に拠れば「矢落川の川岸から木製の旧稲田橋(現稲田橋の100mほど上流)を渡って新谷の町に入っていたが、この道も消滅している」とある。
橋を渡り西詰を左折し南進すると三叉路に。そこに中江藤樹の頌徳碑、常夜灯、標石が立つ。
中江藤樹(1608~1648)
中江藤樹の頌徳碑

儒学者。日本陽明学の始祖。近江国高島郡小川村(現、滋賀県)出身。通称は与右衛門(よえもん)。9歳の頃伊予国に来て、成長して大洲藩家臣となり、独学で朱子学を学んだ。27歳のとき、郷里に住む母への孝養と自身の持病とを理由に、藩士辞職を願い出るが許可されず、脱藩して近江に帰り、酒の小売業で生計を立てながら学問に専念した。
藤樹は朱子学の教える礼法を厳格に守ろうとしたが、やがて形式的な礼法の実践に疑問を抱くようになり、道徳的な形式よりも精神の方が重要であるとして、「時・処・位」の具体的な条件に応じ、その状況に適切な正しい行動をとること、またその状況に応じた正しい行動の在り方を自主的に判断する能力を持つことにこそ学問の目標があるとする、自由な道徳思想を唱えた。
これは、朱子学の道徳思想を日本社会に適応させようとした藤樹独自の思想である。後に『陽明全集』を手に入れてから「知行合一」を基とする陽明学を研究するようになり、我が国の陽明学の始祖となった。自宅に藤の木があったことから門人に「藤樹先生」と呼ばれた(「えひめの記憶」より)。
大洲とのかかわりは、9歳の時に伯耆米子藩主・加藤氏の150石取りの武士である祖父・徳左衛門吉長の養子となり米子に赴く。1617年(元和2年)米子藩主・加藤貞泰が伊予大洲藩(愛媛県)に国替えとなり祖父母とともに移住したことによる(「Wikipedia」)。

矢落左岸を西進し十夜ヶ橋に

三叉路から旧道に出る(大洲側から)
矢落川
次の目的地は十夜ヶ橋。道順は逆にはなるが、「えひめの記憶」には「旧街道を通る遍路道はここ(私注:十夜ヶ橋)から左折して都谷川沿いに北進し、肱川の支流矢落川に出て、その川沿いに東に向かって進んでいた。この道はJR予讃線と矢落川の間あたりを曲がりくねって東に向かっていたらしいが、河川改修や圃(ほ)場整備などで今はほとんどが消滅している。ただ、新谷(にいや)古町の三差路の周辺にかけて旧街道の一部がわずかに残り、三差路には、中江藤樹(1608~48)の頌徳(しょうとく)碑、常夜灯や道標がある」とする。大雑把に言えば、矢落川とJR予讃線の間を進むということだろう。
中江藤樹頌徳碑などのある三叉路から西進すると旧道に出る。旧道対面には理髪店。その東側から旧道を逸れフットサルコートの南を進む。

松山道の高架を潜り南側に
都谷川に出ると木標がある
道なりに松山道に沿って少し進むと松山道の高架を潜り南側に出る。「えひめの記憶」にあるように、JR予讃線と矢落川の間を進んではいるのだが、これも記述にあるように「曲がりくねった道」など何処にも見当たらない。
西進し予讃線手前で再度松山道の高架を潜り北側に移り西進。少し進むと T字路に矢落橋を示す木標がある。そこを左折し松山道、予讃線を潜るとT字路に矢落橋を指す木標。そこを右に折れ西進し松山道を潜ると都谷川にあたる。そこに「矢落橋4.3km」と記された木標。左に折れ都谷川右岸を進み国道56号線の十夜ヶ橋東詰に出る。

霊場十夜ヶ橋脇の道標
都谷橋東詰めの直ぐ上流部に道標が立つ。「へんろ道 すごう)山 十二里」「左 長濱道」と読める。道標から橋の下に。横たわるお大師さんに御布団をかけてある。
「えひめの記憶」には、「『四国遍礼名所図会』には、当時の十夜ヶ橋の面影を伝えている絵図が掲載されており、「十夜の橋大師此辺にて宿御借り給ひし時、此村の者邪見ニて宿かさず。大師此橋の下二て休足遊ばしし時、甚だ御苦身被遊一夜が十夜に思し召れ給ひし故にかく云、大師堂橋の側にあり」と弘法大師にまつわる伝承を紹介している。

十夜ヶ橋の由来については、一般的には、弘法大師にとって一夜の野宿が十夜にも思うほどであったということから起こったと伝えられているが、十夜ヶ橋は実は都谷橋(とやはし)であったのが、弘法大師の伝説と結びついて十夜ヶ橋の文字を当てるようになったという説もある」とあった。

霊場十夜ヶ橋 永徳寺の徳右衛門道標
都谷橋の西詰めに永徳寺がある。境内の国道脇に徳右衛門道標。「是〆菅生山迄拾弐里」と読める。境内にあった「弘法大師御野宿所十夜ヶ橋」に拠ると、「今を去ること一千二百有余年の昔、弘法大師が四国御巡錫中、この辺りにさしかかった時、日が暮れ、泊まるところもなく空腹のまま小川に架かる土橋の下で一晩野宿をされた。その晩大師は「生きることに悩んでいる人々を済いたい」「悟り(即身成仏)へと導きたい」という衆生済度のもの思いに耽られた。それはわずか一夜であったが十夜のように長く感じられ『ゆきなやむ 浮世の人を 渡さずば 一夜も十夜の 橋とおもほゆ』と詠まれた。
これから十夜ヶ橋(とよがはし)と名がついたと伝えられ、弘法大師の霊跡として今に至る。またお遍路さんが橋の上を通る時には杖をつかないという風習は人々を想うお大師さまに失礼にならないようにとの思いから起こったものである」とある。

「えひめの記憶」にあった説明と少々ギャップがあるが、それはいいとして、それでは歌は一体誰が詠ったものだろう。チェックすると、これはこのお寺様のご詠歌とのこと。


「えひめの記憶」に拠れば、『東海道中膝栗毛』で名高い十返舎一九は、「四国遍路旅案内」に於いて、「この御詠歌といふものは、何人の作意なるや、風製至て拙なく手爾於葉は一向に調はず、仮名の違ひ自他の誤謬多く、誠に俗中の俗にして、論ずるに足ざるものなり、されども遍路道中記に、御詠歌と称して記しあれば、詣人各々霊前に、これを唱へ来りしものゆゑ、此双紙にも其儘を著したれども、実に心ある人は、此の御詠歌によりて、只惜信心を失ふことあるべく、嘆かはしき事なるをや、と辛辣な御詠歌批評を記しているのは、遍路の普及による信仰の卑俗化への厳しい批判をこめたものとして、当を得ている」とある。弘法大師空海の作ではないようだ。
大師堂にお参りし先を急ぐ。「えひめの記憶」に拠れば、「十夜ヶ橋から内子に至る主な遍路道は大洲街道(以下、旧街道と記す)であった。しかし、明治37年(1904)に国道(以下、旧国道と記す)が開設されると、次第に遍路は旧国道を通るようになった」とある。今回いつだったか歩いた遍路道を逆廻しで加筆・編集しているが、この記事にあるように大洲街道(旧街道)は遍路道としても使われていたようであり、ほぼ正確に大洲街道をトレースできているように思う。
尚、永徳寺は平成30年7月20日の西日本豪雨水害により堂宇は床上まで浸水するなど甚大な被害を受けている。

若宮の子安観音
若宮にあったお堂。なんとなくいい感じ

子安観音堂と茂兵衛道標
十夜ヶ橋より国道56号を西進し、肱川右岸の若宮で国道を逸れ肱川の堤に。そこには子安観音があり、また茂兵衛道標が立つ。明治40年、茂兵衛217止目の巡礼の道標には「右 菅生山 / 左 明石山 為四十二才」「三角寺奥院 仙龍寺」といった文字が刻まれる。
子安観音から若宮の町を抜ける道に戻り肱川に沿って弧を描き先に進む。途中名称は分からないがなんとなく惹かれる雰囲気のお堂が道の碑左手に建つ。
先に進むと道の左手に神明社、右手に若宮大師堂。道はその先で県道43号線(県道24号並走区間)にあたる。右折すると五郎大橋に進む。大洲街道は直進し大洲駅前を南進し大洲市中村に入るが、直ぐ大洲市常盤町となる。

常盤町
「常盤町」という「町」が気になり地図を見ると、常盤町は中村地区に囲まれて、県道の両側だけの狭い範囲が町域となっている。なんとなく在郷町のつくり。
チェックすると、「えひめの記憶」に、「右岸の常磐町は、 大洲藩が中村の在郷に設けた計画的町家(長さ三〇〇間、奥行き一五間)である。 間口四間から七間、奥行き一五間の町屋が街路をはさんで両側に整然と並んでいる。 予讃線開通以後は、肱南の本町、中町などよりも発展し、 現在は肱川橋通りとともに大洲の中心商店街に成長したが、 ここにも在町当時さながらの街路や古めかしい家構えが残っている」とあった。現在は時に古き趣きの建屋が残るといった町並みとなっていた。

渡場の弁財天
渡場の弁天堂
殿町の武家屋敷風の建屋
常盤町を抜けると大洲市中村に再び入る。この辺りは昔は殿町と呼ばれていたようで、現在でも肱川堤防前の大弁財天のお堂傍には殿町集会所といった名が残る。後述するが殿町は大洲城下の武家屋敷地区であったよう。それゆえか道にそって、往昔の建屋かどうかは不明だが武家屋敷風構えの建屋があった。
大洲街道・遍路道は大弁財天のお堂に進む道の手前で左に折れ国道56号を横切りかつては渡場(現在は大洲市中村)と呼ばれたところにあった弁財天のお堂前に出る。
渡場の地名のとおり、かつてはこの辺りに渡船場があった。
肱川の渡し
「えひめの記憶」には「『四国邊路道指南』に(大ず城下、諸事調物よき所なり。町はずれに大川有、舟わたし。」と記されている肱川渡しは、明治以後、城下(しろした)渡し、桝形渡し、油屋下渡し、柚木下渡しの公認の四渡しがあった。 それぞれの渡しには、一隻の船と一人の船頭がいて、大洲町と中村側、大洲町と柚木村(菅田(すげた)方面の人の通路)を往来する人々を渡していた。
船が向こう岸で客待ちしている時は、こちらへ客を運んで来るまで川べりで待たねばならなかったので、急ぐ人の中には裸になって浅瀬を渡る者もいたという。
その後、肱川に橋をかける夢の実現を願う人々の中には、明治6年(1873)になると、油屋下渡しに13隻の川舟を杭でつないで横に並べ、洪水になると容易に取り外しのできるように板を並べた簡単な浮き橋を考案した。この橋は遠望すると形が亀の首をさしのべたように見えるところから一般に浮亀橋と言い、肱川橋が開通するまでの間、交通上の重要な役割を果たしていた。
しかし、大正2年(1913)に肱川橋が完成すると、遍路はこの新しい橋を渡るようになった。そのため中町三丁目から中町二丁目を通って国道56号に合流する中町一丁目の入ロに、大正4年建立の「すがわさんへ十三里 へんろ道」と刻んだ道標があったとされるが、現在は行方不明になっている」とある。「すがわさん」とは四国霊場第44番札所菅生山(すごうさん)大宝寺

肱川橋
肱川に架かるその肱川橋を渡る。大正2年(1913)に完成したとのこと。左手に大洲城が見える。私の子供の頃に大洲に城は建っていなかったのだが、数年前大洲に遊びに行ったとき天守が建っていたのを見て驚いたことがある。平成16年(2004)に木造で復元されたとのことである。
肱川
肱川は西予市宇和町久保の鳥坂峠付近に源流を発し南流、西予市の南部で東に向きを変え、西予市野村町北へと向きを変える。その後は蛇行しつつ四国山地を横断し中流域の大洲盆地で一気に開け、流れは緩やかになり、下流域は、大洲市北部にて両岸の山が迫る渓谷状の地形から一気に瀬戸内海(伊予灘)へと流れ込む、103kに及ぶ一級河川。
肱川(Wikipedia)
肱川に流れ込む支流は474本と多い上に、中流域に大洲盆地がある一方で、下流域は狭窄している。大洲盆地の北端である五郎(地名)から河口の長浜までの区間は、高低差が極めて小さく、両岸に山脚が迫り渓谷的な地形である。加えて大洲盆地の北東部、東大洲地区に矢落川への合流点がある。
肱川の中上流域では川沿いに点在する盆地に市街地が形成されていることから貯留型の氾濫が起こりやすい[1]。また、下流域では大洲盆地に流入する肱川の支川が多い一方で、河川勾配が緩やかで水位が下がりにくい地形になっていることから貯留型や拡散型の氾濫が起こりやすくなっている。

川名の由来は、流路が肱のように屈曲しているから、また、泥土やぬかるみを「ひじ」と呼び、「ひじ」の多い川ゆえとか諸説あるようだ。


渡場対岸に
赤煉瓦館と河原大師堂
油屋(左)と堤防水門(右)
肱川橋を渡り本町通りを左折し渡場対岸に向かう。本町通りを左に折れ肱川に向かう。途中おおず赤煉瓦館。旧大洲商業銀行であったこの建物は現在1階は土産物販売所、2階は喫茶・ギャラリーとなかわらっているようだ。
その北側に「河原大師堂」がある。地元の人の話では、この大師堂は、昔は肱川(ひじかわ)の河原にあったが、幾度か場所を変えて現在の場所に移されたもので、川の安全に関係を持つものであるという(「えひめの記憶」)。
道を挟んだ西側に大きな駐車場とその奥に白壁の蔵が見える。元は油屋旅館。現在は炉端焼きのお店となっている。「えひめの記憶」には「油屋の下にはかつて肱川の渡し場があった。大正2年(1913年)の肱川橋の完成以前から営業していた油屋は、増水のために幾日も足止めをくった人も宿泊して大変にぎわっていたとも伝えられている」とある。
道の先にはコンクリートで作られた巨大な堤防が肱川に沿って造られている。昔大洲を訪れたとき、何故にこのような巨大な堤防が?などと思ったのだが、西日本豪雨での肱川の暴れぶりを目にし、やっとその理由がわかった。
道の正面にはコンクリート堤防が切れ、鉄製のゲートが開いていた。肱川の川原に出る。対岸の渡場辺りを見る。油屋旅館が古くヵらとあったということは、上述肱川の渡しのうち、この渡し場は「油屋下渡し」と呼ばれていたのだろう。堤防の川側は武家屋敷の塀のような意匠が施されていた。
「えひめの意億」には「油屋の対岸には船着き場があり、上陸地点には「渡場」という地名が残っている。遍路道はこの「渡場」から弁財天の横を進み、すぐに国道と交差するが、国道を横断すると殿町(とのまち)、常盤町(ときわまち)の町並みを通って県道大洲長浜線(24号)を直進し、やがて古い町並の残る若宮に入る。そののち若宮を抜けると、国道に合流」 とある。おおむね正確に遍路道・大洲街道をトレースしたようである。

大洲の町屋
赤煉瓦館のある本町、その南の中町、末広町そして大洲で最初に開かれた町屋である志保町も現在は大洲市大洲となっているが、これら町家の家並みは江戸の頃、17世紀中頃の家並みとほとんど変わっていないようである。肱川と並行して東西に、丘陵部に向かって垂直に南北の通りが交わる。
江戸の終わりの頃の町屋の戸数は400戸弱。商家が軒を並べていたようだ。大洲神社参道前を南から北へと連なる志保町(塩屋町)は、藤堂高虎が、塩売買のため城下町のうち最初に建設させた町とのことであり、木蝋屋、生糸製造元、問屋、料理屋、みやげ物屋などが道路沿いに軒を並べた、と。

町屋(青)と武家屋敷(茶);大洲市の資料
「えひめの記憶」に拠れば、「大洲は藩政時代には加藤氏6万石の城下町として栄えていた。文化2年(1805)に土佐朝倉村の兼太郎が記した『四国中道筋日記』によると、「いろいろ売物有、宿屋・はたご(旅籠)・きちん(木賃宿)、三つニて多し」とある。
また、明治40年(1907)に遍路した小林雨峯は、『四國順禮』の中で、「此町(このまち)、肱川(ひぢかは)に臨(のぞ)みて、小繁華(せうはんくわ)の土地(とち)なり。(中略)雨合羽(あまがっぱ)の名所(めいしょ)ときヽて、鹽屋町(しほやまち)に求(もと)む。(中略)上等旅館(じゃうとうりょくわん)に泊(とま)らんとして、二三軒尋(げんたず)ね合(あは)せしも悉(ことごと)く拒絶(きよぜつ)され、合羽屋(かっぱや)の紹介(せうかい)にて、すぐ前(まへ)の北岡屋(きたおかや)と云(い)う宿屋(やどや)に陣取(じんど)る」と記している。遍路はここ大洲で諸物資を調達したり、宿泊していた模様である」と記す。

町屋より武家屋敷
伊豫大洲六万石・城下武家屋敷図(寛政11年・1799年
大洲街道は本町通りを西に戻り肱川橋を渡ってきた国道56号を越え城に至る。城の廻りは侍屋敷が連なるであろうと、町屋と侍屋敷の区割りが気になりチェック。大洲市の資料に武家屋敷と町屋の区割りを示す図があった(上に掲載)。
図を見ると、肱南(肱川の南地区)の本町、中町、末広町、塩屋町といった町屋を武家屋敷が囲んでいる。また、肱北の在郷町である常盤町を囲むように武家屋敷があったようだ。渡しがふたつ見えるが、右側が上述油屋下の渡し、左が 桝形渡しではないだろうか。
武家屋敷に関して、「えひめの記憶」には、「大洲は、戦災にあわなかったことも関係して、城下町特有のT字路、L字路、喰違、袋小路などの遺構も残存し、また桝形・西ノ門・ニノ丸・三ノ丸・鉄砲町など城下町をしのばせる地名も多い。

現在の鉄砲町・三ノ丸・西ノ門・浮舟・中島・西山根・東山根・比志町・殿町あたりは全部侍屋敷であった。侍屋敷は文化一一年(一八一四)当時で二七二戸(肱北一七六戸、肱南九六戸)で、ほかに侍長屋四か所、小姓長屋が二か所である。
侍屋敷の規模は、城郭に近いほど大きく、周辺部へいくほど小規模になっている。三ノ丸・西ノ門・鉄砲町・中島などの侍屋敷は一般に広く、上級武士が住んでいた。なかでも三ノ丸に位置する藩主加藤家の屋敷は一九七六坪余り、大手中門附近の大橋家は一七四五坪余りもあった。
それにくらべ、城下の周辺部に位置する比志町や殿町ではほとんどが二〇〇坪以下となる。周辺部でも街道に通ずる要衝に位置する屋敷は大きいようで、例えば殿町の肱川からの上陸地点にあった稲葉家は肱北でも五〇九坪余りもあった」とある。地域の広さに比して肱北に侍屋敷の数が多いのは(肱北一七六戸、肱南九六戸)、肱北が下級武士の区域ではあったのだろう。

大洲城
道なりに進むと大洲城。肱川を眼下に望む大洲城は、鎌倉時代末期、元弘元年(1331年)に守護として国入りした宇都宮豊房によって築城され、8代豊綱まで約200年間宇都宮氏が代々この城を継いだが、天正13年(1585)の秀吉の四国征伐で、小早川隆景により城は落ちた。
その後、小早川隆景、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治と領主がかわり、この時期に近世城郭としての大洲城の基礎が固められとのことだが、特に築城家として名高い藤堂高虎等によって大規模に修築がなされた、と。

大坂の陣後は、加藤貞泰が大洲6万石に封ぜられて入城し、明治の廃藩まで加藤氏13代の治めるところとなり、伊予大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は繁栄した。戦国の頃には大津とも呼ばれていたこの地を大洲としたのは大洲藩2代目藩主・加藤泰興の頃と言う。
城は明治維新に本丸の天守・櫓の一部を残し破却され、その天守も明治21年(1888)に老朽化により解体されたが、平成16年(2004)に復元された。天守は資料を基に当時の姿を正確に復元したとのことである。

松山の札ノ辻から繋いだ大洲街道散歩もこれでお終い、とは思ったのだが、散歩の途次、江戸末期までの大洲街道は前述の如く立川橋辺りから中山川の谷筋を離れ山入りし、一度藤の郷川の谷筋を永木まで上り、そこから再び山入りし中山に下りている。ついでのことでもあるので、このルートもトレースしてみようと思う。