水曜日, 1月 31, 2007

新河岸川散歩 Ⅲ ; 和光を歩く

先回の散歩では、黒目川合流点で行き止まり。気持ちの張りも失せ、当初の計画であった和光市・新倉河岸行きを、あきらめた。もっとも、散歩続行を諦め、朝霞台の駅に向かう頃は日もとっぷり暮れ、とてものこと、あれ以上進むことはできなかった、とも思う。
予定未完となった距離はごくわずか。黒目川合流点から終点・新倉河岸までは3キロ弱、といったところ。電車に乗ってわざわざ行く距離としては、少々物足りない。はてさて。で、如何なる思考回路のなせる業か、自転車で行ってみよう、と「発心」した。
片道30キロ弱。行って行けない、ことはない。川崎市鶴見まで自転車で、饅頭を買いに行った、こともある。その時も片道30キロ程度。お江戸日本橋の歌にでてくる、「六郷渡れば川崎の、萬年屋 鶴と亀とのよね饅頭」と歌われる、そのお饅頭を買い求めるためである。が、祝日というのに、お店は休み。暗い多摩川の堤防を、心の中で泣きながら、帰ってきた。その、苦行再び、となることは、日を見るよりも明らかだったのだが。。。(水曜日, 1月 31,2007のブログを修正)


本日のルート;杉並区・和泉>方南通り・大宮八幡>青梅街道・阿佐ヶ谷> 早稲田通り・本天沼2丁目>西武新宿線・下井草>新青梅街道>千川通り・環八>旧早稲田通り>石神井公園駅>西武池袋線・石神井公園駅>目白通り・三軒寺>笹目通り・土支田交差点>笹目通り>和光陸橋・川越街道>白子・吹上観音>妙典寺>金泉倉新河岸川>外環道交差>越戸川>(朝霞市)>台・黒目川合流点>田島・花の木>岡・城山公園>朝霞市博物館>浜崎3丁目・武蔵野線交差>朝霞浄水場>宮戸・宮戸橋>柳瀬川合流・志木市役所>いろは橋>中宗岡・志木市郷土資料館>逆コースを家路に

自転車で成増・白子を目指す
大体のルーティングは、ともかくひたすら北に向かい、まずは成増・白子を目 指す。最初のランドマークは、先日の白子宿散歩のとき行きそびれた吹上観音。素白先生こと、岩本素白氏の「白子の宿」に、それらしき観音さまの記述があり、行かずば成るまい、と思っていたところ。その後は、新河岸川に沿って、黒目川との合流点を目指す。そして、ついで、といっては何だが、朝霞市岡にある朝霞市博物館と、志木市中宗岡にある志木市郷土資料館を訪ねることに、する。
杉並区和泉の自宅を午前10時過ぎに出発。ひたすら北に進む。最初のランドマークは土支田。光が丘団地の西、笹目通りと交差するあたり。土支田は土師田、つまりは、土師(はじ)器をつくる人達が住んでいたところである、と。白子川流域には土師(はじ)器を焼いていた遺跡が多いとか。どのようなところがちょっと見ておきたかった。
杉並区・和泉を出発。方南通り・大宮八幡を北に青梅街道・阿佐ヶ谷に。成行きに北に進み早稲田通り・本天沼2丁目を経て西武新宿線・下井草、新青梅街道を越え、千川通り・環八に交差。環八を越え旧早稲田通りから石神井公園を経て西武池袋線・石神井公園駅に。成り行きで北に進み目白通り・三軒寺をへて、土支田地区を進み最初のランドマーク笹目通り・土支田交差点あたりに。当然のこと、「土師器」をつくっていた場所、といった趣きがあるわけもない。笹目通りを更に北に進み、和光陸橋で川越街道を越え、最初の目的地、吹上観音に着く。
おおよそ2時間程度、ひたすらに自転車のペダルをこぐ。カシミール3Dでつくった地形図でもわかるように、結構なアップダウン。特に最終地点、川越街道を越え、白子川に向かって下る道筋は急勾配。武蔵野台地の端、洪積台地から沖積低地に下る坂道である。

吹上観音
坂道を下り終えたあたりに吹上観音交差点。台地上の寺域の下を東に進み、吹上観音に。正式には東明禅寺。臨済宗の古刹である。東明寺の創立は室町期。観音堂は、天平年間(729~49)に、行基菩薩が東北巡行のおり、ここに立ち寄って観音様の像を刻んだ、とか。江戸時代から、秩父観音霊場などにもひけをとらない観音霊場として盛んに信仰された、と。
どこだったか、古本屋でみつけた江戸時代の散歩エッセー、『江戸近郊ウォーク(原題;江戸近郊道しるべ;村尾嘉陵);小学館)』にも「吹上観音道くさ」という記述があった。今からおよそ200年前、暇をみては江戸近郊を歩いて廻ることを唯一の楽しみにしていた、という清水徳川家老臣・村尾嘉陵の日帰り散歩のエッセーである。
が、「吹上観音道くさ」もさることながら、この観音様が気になっていたのは、岩本素白さんの散歩エッセー『素白先生の散歩』にある、「白子の宿 独り行く(2)」での白子の観音堂のくだり。いかにも吹上観音と思える観音堂の記述に惹かれていら。
『素白先生の散歩』での「白子の宿 独り行く(2)」;「この丘陵一帯の景色は面白い。はじめてこの観音堂に登った時には、丁度前の青田に白鷺の一群が降りたところであった。田圃を隔ててこの北の丘と相対している南の丘陵を眺める景色は更に面白い。その南の丘陵というものは実に複雑な高低起伏を持っているところで、上赤塚から下赤塚に連なり、仔細に歩いて見ると、地図や案内図に無い浅い谷間、狭い坂道、まるで隠れ里にでも行くような細い村道、木曽路でも歩くような眺めの所があり、山里めいた家々も残っている」。この描写に惹かれ、この観音さまに着てみたいと想っていた。当時ほど見晴らしはよくない、にしても、台地からの眺めはなかなかのものでありました。
本堂裏手の小高い場所に並ぶ百庚申、134基の庚申塚の間をゆったり歩き、吹上観音を離れ、妙典寺に向かう。

妙典寺
妙典寺行きのきっかけは、吹上観音の入口にあった和光市の名所案内。「子安の池」がある寺として紹介されていた。名前に惹かれ、行かずばなるまい、と。で、笹目通りに戻り、少し川越街道方面に進み、北に入ると妙典寺。
「子安の池」は本堂裏手にある湧水池。鎌倉期、佐渡に向かう途中の日蓮上人が、新倉の領主であった墨田氏の妻の安産祈願をおこない、無事男子を出産。その霊力ゆえに、この湧水池を「子安の池」と呼ぶようになった、とか。

午王山(ごぼうやま)遺跡
妙典寺を離れ、道なりに進み「午王山(ごぼうやま)遺跡」に。これも、妙典寺と同じく、吹上観音前の和光市名所案内に紹介されていた。新羅からの渡来人が都から移り来て、居住したところ、とか。畠というか、住宅街というか、ともあれ平地に取り残されたような20m程度の台地。弥生から室町にかけての各時代の遺跡が発掘されている。かつての、新座(にいくら)郡志木郷の中心地、郡役所があったところではなかったか、という説もある。新羅王が居を構えたといった伝説も残る。

志木(しき)は新羅(しらぎ)が転化したものでる、ということは何度かメモした。シラギを志楽・志羅木・志楽木などと音写し、それが転じて志木になった、とか。この志木郷があったのが、和光市白子・新倉あたりではなかろうか、というわけだ。白子も新倉も、シラコはシラギの訛りであるとされるし、新倉(にいくら)はかつての新座(にいくら)の音を残している。ちなみに和光のお隣に志木市がある。が、この志木市は明治になってできた名前。舘村と引又町が合併して志木宿としたことがはじまりであり、歴史上の志木郷とは関係がない。
新座(にいくら)郡のメモ;武蔵国には新座(にいくら)郡を含めて21の郡があった。郡の厳密な設置年代は不明だが、およそのところ、天武天皇(在位673-686)のころではなかろうか、と推測されている。ここ新座郡は、はじめ新羅(しらぎ)郡として、758年に置かれた、と。 帰化した新羅(しらぎ)僧32人・尼2人・男19人・女21人を武蔵国の閑地に移住させ、新羅(しらぎ)郡としたわけだ。これがのちに名を改められて、新座(にいくら)郡となった。「午王山(ごぼうやま)遺跡」のある台地の裾に金泉禅寺。臨済宗建長寺派。入口から山門まで100mもあるような結構な構えのお寺である。

新河岸川
金泉禅寺を離れ、新河岸川に向かう。和光高校の東を北に進むと和光市清掃センターと特養老人歩ホーム和光苑。和光苑の西のちょっとした公園を抜けると新河岸川。ここからが、本来の新河岸川散歩のクロージングのはじまり。

新倉河岸
川 に沿って上流に向かって進む。逆風がきつい。新河岸川の北の堤防の向こうは荒川が流れている。荒川河川敷公園の川向こう、「彩湖」が荒川に合流するあたりに「新倉河岸」があった、よう。明治43年の大洪水被害への対策として大正期に荒川下流、新河岸川の河川改修工事が行われたため、往古の川筋は変わってしまっている。彩湖は荒川下流部の洪水予防と荒川が水不足の時に首都圏に水道用水を供給するためにつくられた貯水池・遊水地。
新倉河岸。新座郡上新倉村(現和光市)にあった。成立の年代ははっきりしない。新河岸川が荒川に注ぐ河岸場であり、曳き船の開始点でもあった、とか。荷船の上流に向かって曳くわけだが、その曳き子「のっつけ」が泊まる船宿「のっつけ宿」に駄賃稼ぎの「のっつけ」が集まっていた、と。
油槽所と川筋の間の「踏み分け道」を少し進む。が、水路が合流し行き止まり。少しもどり、下水処理施設・新河岸川水循環センター脇を進むと外環道と交差。生コン工場などがある、ひどく殺風景なところ。ダンプカーを気にしながら北に折れ、再び新河岸川堤防に。いよいよの、「踏み分け道」。なんとなく嫌な予感におびえながら、逆風に抗ってペダルをこぐ。さすがに少々きつい。で、案の定、行き止まり。越戸川が合流する。

井口河岸(江口河岸)・越戸川

新河岸川と越戸川の合流点にあったのが井口河岸(江口河岸)。河川改修によりふたつの川の合流点が変わっているので、実際の場所は不明。成立の年代も不明。周囲は砂利や廃材などの置き場、下水処理場など、これといった情緒なし。越戸川は本町3丁目の和光市市立図書館ちかくの池(広沢の池)から湧水から発し、和光市と朝霞市の境を下る5キロ弱の一級河川。

黒目川

越戸川との合流点から引き返し、新河岸川水循環センターに沿って南に下り、東和橋で越戸川をわたる。朝霞九小前を通り、しばらく行くと東橋。黒目川と交差する。先回、行き止まりとなった黒目川と新河岸川の合流点あたりを眺める。

台河岸
で、合流点の少々下流にあったのが、「台河岸」。新座郡台村(現朝霞市)。別名「大河岸」とも。ここは東橋の少し上流にある笹橋近くにあった根岸河岸への荷の積み替えをおこなった河岸。根岸河岸へ通じる黒目川が浅いため、ここで小船に荷を移し変えた、とか。根岸河岸(黒目河岸)は笹橋より少し下流の黒目川右岸、現在の積水化学の運動場のあたりにあった、のではなかろうか。新座郡根岸村(現朝霞市)。成立の時期は不詳。が、宝暦(1750年から)当時すでに盛んに利用されていた、とか。根岸河岸へは、田無、保谷あたりから「河岸街道」と呼ばれる道が通じていた。


はてさて、先回の散歩断念のところまでやってきた。自転車で、3時間弱かかった。が、なんとなく、襷がつながった。少々の達成感あり。後は、朝霞市岡の朝霞博物館と、志木市中宗岡の志木市郷土資料館を訪れ、その後、一路自宅に向かって南に下る。帰り道の辛さは、語るも涙、となってしまいそう。本当にきつかった、とだけのコメントに留める
新河岸川散歩のメモもこれで終わりとする。メモしながら気がついたことは、新河岸川って、武蔵野台地の「崖線」に沿って下っている、ということ。カシミール3Dで地形図をつくって、あらためて気づかされた。

散歩するまでは川越市は平地のど真ん中、と思っていた。が、武蔵野台地の東北端にあり、周囲を荒川・入間川・不老川といった川に、囲まれている。川を越えなければ辿りつけない、とか、川で豊か(肥)になった土質、といった地名の由来も大いに納得できる。
新河岸川舟運についてきづいたこと;はじまりは川越藩御用ではあったが、次第に商人の手に移っていった。舟運が盛んになるにつれてあれこれトラブルも起きたようだ。ひとつには舟問屋と川越商人とのトラブル。舟問屋・運送業者と商人のトラブルであり、説明するまでもないだろう。もうひとつは、舟運と川越街道・江戸街道の旅籠・運送業者との争い。これは舟運業者と陸運業者のお客の取り合い。江戸街道の旅籠・運送業者があれこれ新河岸舟運にクレームを入れている。が、安全・便利でしかも安い舟運に利があったようだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


舟には、並舟・早舟・急舟・飛切といったタイプがあったようだが、人を乗せるのは早舟。1日1回、夕方に新河岸を船出し、翌朝8時頃千住に到着。お昼には終点の浅草・花川戸に着いた、という。こんなに便利なら、舟を利用するだろう。ちなみに、並舟は不定期の貨物舟。河岸を巡りながらすすむので、7日から、20日もかかることもあった、とか。急舟は急ぎの荷物舟。2,3日での運行。飛切舟は今日下って明日戻る、といった超特急便。鮮魚の運搬に使われた、と。
新河岸川の終焉;江戸期をとおして、物流の幹線として機能した新河岸川舟運も明治になって、かげりがでてくる。鉄道輸送の開始がそのはじまり。明治23年には川越鉄道敷設運動が開始される。が、発起人には川越の商人は誰も入っていない。新河岸川舟運による利益を手放すことへの恐れが、あったのであろう。結局、明治28年川越・国分寺間の鉄道開通。翌29年には川越・大宮間に乗合馬車、39年には電車開通。明治17年に開設していた上野から高崎間の鉄道路線、明治22年に開通していた甲武鉄道開通(八王子>新宿)、と、いったように、鉄道による物流ネットワークが生まれる。大正3年には川越・池袋間に東武線が開通。これにより舟運から鉄道輸送の本格シフトがはじまることになる。

新河岸川舟運終焉の決定的要因は、新河岸川そのものの変化。明治43年の大洪水被害対策のため、九十九曲がりといった川筋をまっすぐにし排水をよくする河川改修工事。大正7年荒川の下流、大正9年には新河岸川の改修工事がスタート。通舟が難しくなる。大正12年に関東大震災。舟を失った東京湾沿岸の舟運業者の求めに応じ、新河岸川の舟主はほと
んどの舟を手放す。新河岸川舟運に見切りをつけていたのだろう。で、昭和6年には改修工事のため全流域にわたり通舟不可能となり、300年近く続いた新河岸川舟運が終わりを告げた。

日曜日, 1月 28, 2007

新河岸川散歩 Ⅱ;新河岸から朝霞に下る


先回は「新河岸」跡で日が暮れた、今回は「新河岸」跡からはじめ、和光まで下ろう、と思う。(日曜日, 1月 28, 2007のブログを修正)


本日のルート;新河岸駅>(牛子河岸)>(寺尾河岸)>白山神社>福岡河岸>大杉神社>56号・川崎橋>蓮光寺>古市場河岸>富士見川越有料道路>ふじみ野市運動公園>福岡高校>新伊佐島橋>砂川堀>南畑橋>富士見川越有料道路>富士見川合流>富士見サイクリングコース>254号・川越街道交差・岡坂橋>袋橋>志木市役所>柳瀬川合流>いろは河岸>引又河岸>宮戸橋>宮戸河岸>朝霞浄水場>朝霞第五中>武蔵野線>内間木>田島>田島公園>黒目川合流>東武東上線・朝霞台駅

東武東上線・新河岸川駅
東武東上線・新河岸川駅で下車。舟問屋・伊勢安のお屋敷に向かって進む。どっしりとした構えの屋敷に往時を偲び、川傍の日枝神社に。少々の高みから川筋を眺める。川筋から、この台地上の問屋まで運びあげるのは、少々難儀なことではなかったか、などと勝手な想像を巡らし、旭橋に。

牛子河岸

旭橋の対岸は牛子地区。「牛子河岸」があったところ。寛文4年(1664)に川越城主松平伊豆守輝綱によって開設。輝綱は信綱の子。旭橋南詰めを下ると寺尾地区。ここが新河岸川舟運のはじまりとなった「寺尾河岸」がつくられたところ。きっかけは寛永15年(1638年)の川越大火。焼失した川越の町や喜多院、東照宮再建のため建築資材を、川越・仙波に運ぶことになった。家康をまつる東照宮が燃え落ちたわけでもあるので、川越藩主・堀田正盛や天海僧正など江戸からの復旧資材を心待ちにしたこと、であろう。

当時の川越への舟運は荒川の平方河岸が使われていた。が、時期は春。渇水の時期。舟で運ぶことができない。で、外川・荒川の内を流れる「内川」に着目し、この地に河岸場を設けることにした。これが「寺尾河岸」。「寺尾河岸」をつくるに際し、荒川へ合流するまでに三箇所ほどあった古い土橋を板橋に架け替えるなどして、舟が通れるように整備した、と。ちなみにこの三箇所は川越市の古市場、富士見市の難畑(南畑)、志木市引又であった、という。板橋に反りをつけて舟が通りやすいようにしたわけだ。が、この「寺尾河岸」は所詮急場しのぎが目的。建築資材の搬入などが一段落すると、引き払われることになる。本格的に新河岸川の舟運がはじまるのは、先にメモした「新河岸」がつくられてから、である。

九十川
今は何の面影もとどめない寺尾地区を下る。川筋が蛇行するあたりに北から川筋が合流。この川は九十川。伊佐沼から下ってくる。江戸時代は九十川からの川筋が内川の本流。これより北の新河岸川の川筋って、川越台地の細流・遊女川、台地崖下から湧き出る湧水、不老川などの流れがあつまって、川筋をつくっていたのだろう。
遊女川、って少々艶かしい。が、由来は「およね」さん。姑による嫁苛めのため川に身を投げる。それを悲しんだ夫も同様に身を投げ、およねさんのもと、に。以来地元の人はこの川を「およね川」と。が、いつの間にか「夜奈川」とか「遊女川」と書くようになった、とか。

古市場河岸
川崎橋を越え、蛇行した流れに沿ってしばし南に下ると養老橋と交差。このあたりの東岸にあったのが「古市場河岸」。川越市古市場地区にある。橋のあたりが荷揚げ場であった、とか。成立時期は詳しくはわからない。が、寛延元年(1748年)以前にはできていた、よう。ここの河岸は舟問屋・橋本屋が、家業の醤油の出荷だけに使っていた、と。

福岡河岸
養老橋を渡った対岸にあったのが「福岡河岸」。入間郡福岡村、現在のふじみ野市。河岸場の成立は、天保8年(1837)に編まれた、『福岡名所図会』によれば、「古へは比地藪なりしが、享保の頃、当村民、冨田紋右衛門といふ者此処二住、始めて此河岸を始めけるより紋右衛門河岸と称しけるが、後に福岡河岸と云ふ。船多くありて、山方三ヶ嶋、勝楽寺其外飯能辺より薪炭其外木材等、並に諸荷物附出して此河岸より江戸へ積送り、入船出船日々には賑はしくぞなりにける」とある。享保というから、1716年頃には開かれていたのだろう。
福岡河岸には、3軒の船問屋があった。『武藏國郡村誌』福岡村の頃には、 「荷船廿九艘百石積四艘九十石積二十五艘」とあり、舟運が盛んであった様子が偲ばれる。現在も、このあたりは福岡河岸記念館など、屋敷や土蔵が残されている。

百目木(どめき)河岸
福 岡河岸跡から少し下り、川の西側に大日本印刷の工場があるあたりの対岸に蓮光寺。ここは川越市。立派な構えの総門をもつ曹洞宗の古刹である。しばしゆったりとした時を過ごす。蓮光寺を離れ、少し歩くと「川越富士見有料道路」と交差。このあたり、ふじみ野市中福岡に「百目木(どめき)河岸」があった。成立は明治期に入ってから。
「川越富士見有料道路」を越えると川筋はふたつに分かれる。一方は新河岸川放水路。東に進み「びん沼自然公園」、びん沼川をへて荒川に合流する。一方、新河岸川は南東に下る。





川筋を下ると、橋の手前に大杉神社。茨城県稲敷市に本社が鎮座。嵐にあった船を水難から護るという言い伝えから、船頭・船問屋に信仰されていた。関東・東北地方に分布する。名前の由来は、大杉を神体としていた、から。大杉の巨木が航海の目印となっていたの、かも。

伊佐島河岸
川筋を進む。遠くに富士山が見える。ふじみ見野市と呼ばれる所以である。カシミールDで、このあたりから眺めた富士の姿をつくってみた。まさか富士が見えるとは思っていなかったので、少々うれしい。川筋西側に富士見野市運動公園、東側に福岡高校。先に進み「新伊佐島橋」と交差。この橋の北詰にあったのが「伊佐島河岸」。入間郡勝瀬村伊佐島にあったため、「勝瀬河岸」とも呼ばれた。天保10年(1839)以前に成立したものと、考えられている。河岸場は宅地と竹林になっていて、その一角に水神祠が今も祀られている。

砂川堀
少し下ると「砂川堀」が合流する。狭山湖の北、埼玉県所沢市の早稲田大学所沢キャンパスの演習林を水源とする都市下水路。上流部は狭山丘陵北側の湿地であり自然河川。途中、調節池があったり、地下の導水管へ入ったり、人工的なせせらぎ水路を設けたり、暗渠になったり、あれこれ姿を変えながら、新河岸川に流れ込む。砂川堀と新河岸川の合流点には蛇島遊水地(西・東池)がある。

上南畑河岸
川筋の富士見サイクリングコースを下ると南畑橋。このあたりは上南畑地区。昔の入間郡上南畑村(現富士見市)。「上南畑河岸」のあったところ。上南畑河岸は、蛇木(はびき)河岸、とも呼ばれていた。

鶴馬本河岸
しばらく歩くと再び、「富士見川越有料道路」と交差。このあたりにあったのが「鶴馬本河岸」。入間郡鶴馬村(現富士見市)。成立は天明元年(1781)とされる。

富士見江川

道路を越えると「富士見江川」が合流。三芳町藤久保あたりからはじまる荒川水系の準用河川。準用河川って、市町村長の管轄。ちなみに一級河川は建設大臣。二級河川は都道府県知事の管轄。で、このあたりのあったのが「鶉(うずら)河岸」。入間郡鶴馬村鶉町(現富士見市)、現在の市立本郷中学校の東側あたり、と言われている。成立は、天明 元年の頃、と。

山下河岸
更に進み水染橋に。このあたりに「山下河岸」があった。水染橋の下流右岸、入間郡水子町(現富士見市)。河岸場の成立は、延享3年(1746)以前、と。河岸場のあったあたりは、竹やぶに変わっている。歩を進め、川越街道・岡坂橋と交差。岡坂橋の先、袋橋のあたりに旧新河岸川跡が残っている。このあたり、入間郡水子町(現富士見市)にあったのが「前河岸」。成立年代は、元禄11年(1698)、とも言われている。河岸場は新河岸川が蛇行した屈折部の先端にあり、現在の川筋とはかなり離れている。周辺には旧流路が残っているが、河岸場のあったところは埋め立てられ、宅地と道路になっている、とか。

柳瀬川と合流
袋橋を過ぎ、いろは橋を越えると柳瀬川と合流。ふたつの川がつくる三角州の突端部分から志木市となる。この突端部分に志木市役所があった。柳瀬川は所沢市の狭山湖を源流とし、ほぼ都県境を東北方向へ流れ、この地で新河岸川に合流する。

引又河岸
柳瀬川にかかる栄橋を経由し新河岸川に戻る。「引又河岸」があったのはこのあたり。新座郡志木宿。引又河岸は、明治7年(1874)引又町が志木宿と改名され志木河岸と呼ばれる。寛永年間(1624―1643)頃開業、と。新河岸川はかつて、現在の志木市役所周辺で大きく蛇行していて、柳瀬川との合流点は河岸場の上流にあった、とか。

宗岡河岸
この付近にはもう一箇所河岸があった。「宗岡河岸」が、それ。現在の「いろは橋」の上流、新河岸川左岸。入間郡宗岡村(現志木市)。「宗岡河岸」の成立は元禄期後半から享保期、と言うから、17世紀後半。「宗岡河岸」のあったところは、河川改修後に埋めたてられ、住宅地となっている。

いろは樋(とい)

栄橋を渡り、黒目川の堤防にそって新河岸川の合流点まで進む。途中に「いろは樋(とい)」の案内。昔、この地に、野火止用水宗岡地区に送る樋(かけひ)が架かっていた。新河岸川の北、上・下宗岡村を知行していた旗本岡部忠直の家臣・白井武左衛門は、灌漑水の乏しかった宗岡地区に、新河岸川に落ちていた野火止用水を送水しようと試みる。寛文2年(1662)、舟の運航を妨げないようにと、水面からの高さ約4mに、長さ約260mの木樋を設ける。 掛樋(かけひ)は48個の樋でつながれていたため、「いろは樋」と呼ばれた。

宮戸河岸
先に進むと宮戸橋。この橋の近くに「宮戸河岸」があった。新座郡宮戸村(現朝霞市)。成立は安永期(1773年)よりも古い、といわれる。現在、河岸場のあったところは埋め建てられ、全くその跡を留めていない。

朝霞浄水場
川脇に「朝霞浄水場」。埼玉県朝霞市にあるが、東京都水道局の施設。東日本最大。また、大阪府枚方市・村野浄水場に次ぎ、日本第二の処理能力をもつ。利根川・荒川の水を、荒川の秋ヶ瀬取水堰から取水。ここから杉並区上井草、および文京区本郷給水所に送水している。村山浄水場のとことでメモしたが、利根川・荒川の水と多摩川の水を相互に利用できるように東村山浄水場と朝霞浄水場の間には、原水連絡管を設置。利根川・荒川の水と多摩川の水を「やり取り」できるようにしている。ちなみに利根川と荒川との間は武蔵水路と呼ばれる連絡水路で結ばれている。

浜崎河岸(お台場河岸)

武蔵野線を越えると新盛橋。この橋の上流にあったのが「浜崎河岸(お台場河岸)」。新座郡浜崎村(現朝霞市)。成立時期は不明。この河岸場は、荷出しはなく、 田畑の肥料類を降ろすだけ。品川の台場の倉庫から肥料を運んだので、お台場河岸と呼ばれた。




黒目川と合流
新盛橋を越え、先に進む。日が落ちてきた。外環道の「ハープ橋」が遠くに見えてきた。外環道を越えれば和光。なんとか日が暮れる前に、和光へと、の思い。

川筋を進む。黒目川と合流。あれ?道がない。黒目川を合流点の突端部から上流に。が、道がない。愕然。戻るしかない。気力が失せる。完全に日も暮れた。残念ながら本日はここまで。最後の気力を振り絞り、新堀橋まで戻る。既に歩く気力もなく、丁度走ってきたタクシーに乗り、最寄りの駅へ、と。東武東上線・朝霞台に戻り、一路家路に。和光までの残り少々は次回のお楽しみ、とする。

土曜日, 1月 27, 2007

新河岸川散歩 Ⅰ: 川越から新河岸へ

1月の連休を利用して新河岸川を歩いた。以前荒川区を散歩したとき、岩淵水門のあたりで新河岸川に出合った。江戸と川越をつなぐ舟運路であった、とか。川筋散歩フリークとしては大いに気になる川ではあった。が、如何せん、川越は遠い。川筋も結構距離がある。
川越から岩淵水門まで34キロ弱ほどあるだろう。歩きたし、と思えども、少々腰が引けていた。
今年に入り白子から平林寺まで歩いた。昨年末にも野火止用水を歩いた。そのいずれも、知恵伊豆こと、川越藩主・松平伊豆守信綱ゆかりの地。新河岸川もこの信綱が整備し舟運を発展させた川、である。知恵伊豆つながり、というわけでもないのだが、この機を逃すべからず、と一気呵成に新河岸川散歩に進むことにした。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



本 日のルート;川越駅>埼玉医科大行バス(連雀町>松江町>大手町>市役所前>裁判所前>川越氷川神社>川越街道・氷川前>51号>伊佐沼入口)>伊佐沼>九十川>小仙波>川越街道・小仙交差点>新河岸川>(仙波河岸)>大仙波>16号交差>川越線交差>不老川合流>(扇河岸)>(上新河岸)>(下新河岸)>日枝神社>

新河岸川のメモ
新河岸川のこと、そして新河岸川の舟運のメモ;江戸の頃、新河岸川は川越・伊佐沼に源を発し、武蔵野台地の東端に沿って志木、朝霞を下り、和光市新倉のあたりで荒川に合流していた。現在の新河岸川は狭山から流れる赤間川とつながり、和光市から都内に入り、板橋区を流れ、荒川区の岩淵水門で隅田川に合流する。
新河岸川の舟運のはじまりは、寛永15年(1638年)。川越大火による街の復興のため、特に家康をまつる仙波・東照宮再興のためであろうが、当時の川越藩主・堀田正盛や天海僧正が中心になって建築資材の荷揚げ場をつくったこと、による。この河岸の名前は寺尾河岸。川越市街から4キロほど下ったところにある。当時「内川」と呼ばれたこの川筋は、現在とは異なり、伊佐沼からこの寺尾方面に下っていた。
この寺尾河岸は、あくまでも街の復興のためのもの。舟運による物流整備のために計画されたものではなかった。で、街の復旧の目処がたつと、お役御免となる。半年ほどしか使われなかった、とも言われている。
新河岸川の舟運を本格的にはじめたのは川越藩主となった松平信綱。川越と江戸を結ぶ舟運を整備するため寺尾河岸の少し上流に河岸を開いた。その河岸は「新河 岸」と呼ばれた。名前の由来は、寺尾河岸に対して新しい河岸、という意味。内川と呼ばれた川筋もこれを契機に「新河岸川」と呼ばれるようになる。
新河岸舟運は、もともとは、川越藩の公用として開かれた。が、新河岸の近くに扇河岸が開かれる頃から、川越藩にかわり、商人が中心となって新しい河岸建設、舟運をつかった商業活動がはじまる。川越近郊だけでなく、遠く信州・甲州からの荷の物流幹線として機能した。
明治になると、鉄道による影響などにより舟運にかげりが見え、昭和6年に新河岸舟運の終焉を迎える。河川改修により通船不可能になった、ため。この間300年近くこの新河岸川は物流の幹線として地域発展に大きな役割を果たした、と。(土曜日, 1月 27, 2007のブログを修正)

東武東上線
さて、本日の散歩の一応のルーティング。新河岸川の源流点である伊佐沼からはじめ和光市・新倉あたりまで下ることに。新河岸川は現在でも、ゆるやかな蛇行を繰り返しながら流れている。が、往時は九十九曲がり、といわれるほど蛇行を繰り返していた、とか。もともと曲がりくねった川ではあったようだが、舟運の便宜を図るため、信綱がより一層の「曲がり」を加えた、わけだ。水位を高め、水流をゆるやかにするため、である。もっとも、現在の川筋は明治に洪水対策のため河川改修工事が行われ、極力直線で流れるようになっている。そのため距離も当時より10キロ程度短縮されている。ということは、本日の散歩は20キロ程度の散歩となりそう、である。
東武東上線で川越駅に。この街には一度来た事がある。小江戸、などと呼ばれ江戸の雰囲気を今に留める街並みを楽しむため、などと言いたいところだが、きっかけは映画「ウォーターボーイ」。川越高校の水泳部がモデルと言われている。どんな高校か、と、足を運んだ次第。さすがに構内に入るわけにもいかず、高校の南隣にある小高い丘に登り雰囲気を楽しんだ。この丘は川越城・富士見櫓跡、であった。御岳神社、浅間神社も祀られていた。で、ついでに、といては何だが、駄菓子横丁、蔵造りの町並み、川越城の本丸御殿、天海僧正ゆかりの喜多院、その南にある家康を祀る仙波東照宮なども訪れた。
川越には蓮馨寺、三芳野神社、氷川神社、それから川越市の西・入間川を越えたところにある河越氏の館跡・常楽寺など、訪れたいところは数多い。三芳野神社のあたりって、大田道潅なのか、その父の大田道真なのか、どちらが築いたのか不明だが、川越城のあったところ。わらべ歌「とおりゃんせ」の舞台でもある。「とおりゃんせ とおりゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神さまの細道じゃ」といった路地もゆっくり歩いてみたい。が、とてもではないが、今回は時間がない。ということで、川越巡りは次のお楽しみとして、今回は、とっとと伊佐沼に向かうことにする。

伊佐沼
駅から伊佐沼に歩こう、とは思ってはいた。が、なにせ川越についたのが午後2時頃。毎度のことながら、時間がない。駅前からバスを利用する。埼玉医大行きのバスで伊佐沼入口下車。畠というか水田のど真ん中に降ろされる。どうも、別ルートで伊佐沼の近くに行くバスがあった、よう。ともあれ、コンパスで方角を調べ、バス停から南に下る。
用水路が南北に続いている。地図でチェックすると、入間川から分水し、伊佐沼に流れ込んでいる。あたり一帯の灌漑用水として使われているのだろう。用水路に沿って下る。昔はこのあたり一面、沼沢地。弥生時代から水田が開かれ「美田地帯」になったためであろうか、伊佐沼から川越の市内北側にかけての一帯は、三芳野と呼ばれていた。意味は「すぐれた良い土地」ということ。
遮るものの何も無い水田地帯を1キロ弱歩き伊佐沼に。結構大きい沼。南北1.3キロ。東西300mといった、ところ。関東では印旛沼につぐ沼。昔はもっと大きく、南北2キロ弱、東西330m余りもあった、とか。第二次大戦時、食料増産のため北半分が干拓された。沼の案内板によれば、この沼が新河岸川の源流。この沼から九十川(くじゅう)という細流、と いうか泥川が水田を蛇行しながら流れ、寺尾地区で往時「内川」と呼ばれていた新河岸川に合流していた。
この沼がどのようにしてできたのかは不明ではある。が、入間川の流路が変更になり、取り残されたのではないか、と言われている。名前の由来も諸説。村人の名前から、とか、漁(いさり)する沼>漁り沼、が転化した、とか。往時、このあたりは雁の渡ってくる名所でもあった。川越城が別名「初雁城」と呼ばれる所以である。ちなみに、「ウォーターボーイ」のモデルとなった川越高校の徽章は「三羽の雁」である、と。

九十川
沼に沿って下る。桜並木が続く。西隣にある「伊佐沼公園 冒険の森」が切れるあたりから九十川が流れ出す。流れに沿って進むと16号線と交差。これって、あの横浜とか八王子を走る国道?チェックすると、その通り。国道16号は横浜を始点に、東京を環状にとおり埼玉から千葉の富津まで続く。
交差地点でどちらに進むか少々迷う。九十川筋に沿って4キロ程度南に歩き寺尾地区・寺尾河岸跡あたりまで下るか、はたまた16号に沿って川越市街方向に向かい、新河岸川・仙波河岸あたりに進むか、はてさて。地図をチェック。 新河岸は寺尾河岸より結構上流にある。九十川を下れば、上流に戻らなければならない。どうせのことなら、上流から下流に進もう。
ということで16号に沿って歩き、仙波地区に進むことに。小仙波交差点で川越街道を越えると「新河岸川」。これからが新河岸川散歩の始まり、となる。

小仙波
小仙波の歩道橋を渡り新河岸川脇に立つ。川筋は北から続いている。このあたりの川筋は正確には「赤間川」、と呼ぶべき、か。源流点は狭山市笹井と入間市鍵山に境を接する入間川の笹井堰。この堰より入間川の水を取り入れ、しばらくは入間川に沿って、その後は国道16号線に沿って北東に進み、舌状台地上にある川越の街をぐるっと廻り、この地・小仙波に続いている。
赤間川は昔は伊佐沼に流れ込んでいた。昭和9年になって、赤間川の瀬替え工事をおこない、新河岸川とつなげられた。1キロほど下ったところに新河岸川最上流箇所の河岸・「仙波河岸」がある。そのあたりまで掘り進み、繋いだのであろう。

仙波
川筋に沿って「仙波」地区を進む。川沿いの武蔵野台地のうえに、いくつもの貝塚がある。縄文時代の頃は、このあたりまで海が入りこんでいた、ということ。いわゆる「古東京湾」と呼ばれるもの、である。仙波の地名の由来ともなった、仙芳仙人の伝説の中にも、一面の海であったこの地を陸地にした、といった話が残る。仙(芳)+海原(波)=仙波、ということ、か。古墳時代から平安時代にかけてかなりの規模の集落があった、というし、台地上にある長徳寺は仙波氏の館があった、とも言うし、この仙波の地は、川越でも古くから開けたところの、ようだ。
ちなみに、仙波氏とは東村山から多摩丘陵一帯に勢力をふるっていた村山党の一党。平安末期に、頼朝の父・義朝の関与する保元の乱に、仙波党の仙波七郎が参陣との記述があるが、川越の歴史に登場することは、あまりない。

仙波河岸史跡公園
16号線と交差。仙波町と富士見町の境目あたりに、「仙波河岸史跡公園」がある。川筋から木の橋、というか、ちょっとした木の遊歩道を進み、仙波河岸跡に。いかにも荷揚げ場といった雰囲気の舟着場跡が残されている。この河岸は新河岸川で最も新しく、明治12年から13年頃つくられたもの。新河岸川で最も上流部にあった河岸、でもある。公園内には「仙波の滝」の碑。昭和の中ごろまで、台地上にある愛宕神社の崖下から流れ出る豊かな湧水が滝となって流れ落ちてい た、と。愛宕神社って、防火・火伏せの神様。京都の愛宕山に鎮座する愛宕神社は全国に900ほどある、とか。

不老川(としとらずかわ)
新河岸川に戻る。対岸に「新河岸川上流水循環センター」。すこし下ったところで、「不老川(としとらずかわ)」が合流する。不老川の水源は、都下西多摩郡瑞穂町にある狭山池からの伏水流とされる。入間市、狭山市をへて新河岸川に合流。全長17キロ。霞川、残堀川、野川などとともに往古の多摩川の名残である川、と。
で、この川、1983年の頃、日本一汚染された川、などと、あまりありがたくないタグ付け、を。生活排水が「水源」ともなった時期もある。現在は、浄化も進み、平成10年からは、新河岸川上流水循環センターで処理した下水をポンプで12キロほど上流に圧送。不老川放流幹線を通し、一日39000立方メートルの水を還流している。
都内では、呑川しかり、目黒川しかり、落合の「落合水再生センター」で高度処理された下水を還流するのは見慣れた光景ではあった。埼玉のこの地でも、急速な都市化の中で同じ状況が生まれた、ということか。

扇河岸
不老川との合流点あたりにあったのが「扇河岸」。天和3年(1683年)につくられた。川越五河岸のひとつ。扇河岸の名前の由来は、扇形の河岸屋敷があったから、とか。開設のきっかけは天和2年(1682年)、火事で焼け落ちた江戸の松平家・江戸屋敷復興のため。建築資材を運ぶためにこの地に河岸がつくられることになったわけだ。
が、この河岸の歴史的意義は、河岸建設が川越藩ではなく、商人の手によってつくられた、こと。内川につくられた寺尾河岸にしても、新河岸にしても川越藩の公用が主眼。一方、この扇河岸は、川越の大商人など17名が加わり資金を出し合ってつくられた。この地は、台地のはたで湧水があり、その丸池の周囲に河岸場をつくるには大量の土盛りが必要となる。ということは、多くの資金が必要。ために、商人の力が必要となった、ということだろう。
初めの頃は川越藩の公用として、藩の援助を受けてはじまった新河岸川舟運ではあるが、この扇河岸以降、次第に藩の手を離れて川越の商人を中心として運営されるようになってきた。要するに、この頃には、この新河岸川をつかっての江戸と川越の舟運が大きな利益を生むようになっていたのであろう。この河岸は明治に仙波河岸が開設されるとともに、衰えていった、と。

新河岸
扇河岸から少し下り旭橋のあたりが「新河岸」のあったところ。正保4年(1647年)、川越藩主・松平信綱によって開かれたもの。川越発展のためには、川越と江戸をつなぐ舟運路の整備が必要と考えたのであろう。ここから1キロほど下流の寺尾には、寛永15年の川越大火による町の復興のため既に「寺尾河岸」つくられていた。半年ほどで使われなくなってはいたが、、河岸を開くに際し、下流の河川整備は済んでいた。江戸から建築資材を運ぶための舟が通りやすいよう、橋の改修、具体的には、土橋を板橋に変えるなどの河川整備が行われていたわけだ。


で、信綱はこの地に注目し、新しく河岸を開き、「新河岸」と名付けた。「寺尾河岸」に対して新しく開いた河岸、といった意味である。「内川」と呼ばれていた流れも、この河岸の成立の後は、「新河岸川」と呼ばれるようになった。
「新河岸」と呼ばれていた河岸場は、元禄6年(1693)年の頃には旭橋を隔てて北が「上新河岸」、南が「下新河岸」と分かれていたようだ。ともに川越五河岸のひとつ。旭橋のそばに如何にも由緒ありげな商家。舟問屋伊勢安のお屋敷。現在は米穀業をおこなっているように見えた。実際に問屋跡など目にすると、リアリティが大きくなってきた。
伊佐沼から下った新河岸川散歩も、新河岸で日没となった。本日はここまで。東武線・新河岸駅まで歩き、残りは明日に、ということで家路を急ぐ。

(牛子河岸)>(寺尾河岸)>白山神社>福岡河岸>大杉神社>56号・川崎橋>蓮光寺>古市場河岸>富士見川越有料道路>ふじみ野市運動公園>福岡高校>新伊佐島橋>砂川堀>南畑橋>富士見川越有料道路>富士見川合流>富士見サイクリングコース>254号・川越街道交 差・岡坂橋>袋橋>志木市役所>柳瀬川合流>いろは河岸>引又河岸>宮戸橋>宮戸河岸>朝霞浄水場>朝霞第五中>武蔵野線>内間木>田島>田島公園>黒目 川合流>
黒目(根岸)河岸>

水曜日, 1月 10, 2007

白子の宿から平林寺へ

「川はみな曲がりくねって流れている。道も本来は曲がりくねっていたものであった。それを近年、広いまっすぐな新国道とか改正道路とかいうものができて、或いは旧い道の一部を削り、或いはまたその全部さえ消し去ってしまった。走るのには便利であるが、歩いての面白みは全く無くなってしまったのである。
埼玉県白子の町は、昔は白子の宿と云った。私が初めて武蔵野の中の禅林、野火止の平林寺を訪ねたのは、実に久しい以前のことで、まだ開けない全くの田舎であった成増の方から歩いて行った。その少し先が白子なのである。。。」。
素白先生こと、岩本素白の「独り行く(二)白子の宿」の書き出しである。新年、何処から歩き始めるか、少々迷ったとき、素白先生のこの書き出し部分を思い出した。そもそも、素白先生のことを知ったのは、昨年、成増・赤塚台辺りを散歩していたときのこと。一瞬白子の町をかすめ、その名前の面白さに惹かれ、あれこれ「白子」を調べているときに、偶然素白先生の「白子の宿」の文章を見つけた。散歩の達人、散歩随筆の達人ということである。で、著書はなどと探していると、みすず書房から『素白先生の散歩(岩本素白)』が出版されており、上の随筆も収められている。早速に入手。散歩の随筆といえば永井荷風の『日和下 駄』が知られているが、私はこの素白先生の文章に大いに惹かれた。同書の帯に曰く;「愛用のステッキを友に、さびれた宿駅をめぐり、横丁の路地裏に遊ぶ素白先生。沁みるような哀感、えもいわれぬ豊かさ、ひそやかな華やぎが匂う遊行随筆の名品」。そのとおり、である。素白先生の話になると、どこまで続くか分からなくなる。このあたりで本筋に戻る。素白先生の書き出しにあるように、白子の宿から平林寺まで歩こう、ということ。素白先生の歩いた道筋を辿るって、新年の歩きはじめには慶き事なり、と思った次第。(水曜日, 1月 10, 2007のブログを修正)


本日のルート;有楽町線・成増駅>254号線・川越街道>八坂神社>旧川越街道>旧新田宿>白子川>熊野神社>県道・109号線・旧川越街道>笹目通り交差>東京外環自動車道>和光市駅入口交差点>陸上自衛隊朝霞駐屯地前>朝霞警察署前>254号線・川越街道>黒目川交差>水道道路交差点>新座警察所前交差点>新座市役所>平林寺


有楽町線・成増駅
有楽町線・成増で下車。川越街道に沿って西に進む。板橋散歩の折に歩いたところでもあり、見慣れた風景。川越街道が白子川に向かって大きく下る手前にある八坂神社まで進む。素白先生の白子の宿の一説に、「丘の上に幾筋も道の在るのは遥かに見える南の丘と同じことで、この丘陵の上には高原のように打ち開けて秋は薄の野になるところ、如何に神とはいえ淋しかろうと思われる一宇の社があり。。。」とある。勿論原文とは場所も違うだろう。薄もあるわけではなく、車の往来の激しい川越街道沿いにひっそり佇むこの小祠、なんとなく、「如何に神とはいえ淋しかろうと」、思った次第。

新田坂の石仏群

八坂神社の手前に「新田坂の石仏群」の碑。先回訪れたときは、先客があり、じっくりとなにかメモをしておられたので、気にはなっていたのだが、先を急いだ。碑文に曰く:石仏群4基。新田坂(しんでんさか)周辺から集められたもの。道祖神は、区内唯一のもので、文久三年(1869年)の建立。もともとは八坂神社の入口にあった。
常夜灯は文政13年(1830年)の建立。成増2丁目34番の角に立っていたよう。「大山」と刻まれいることから、道標も兼ねていた。川越街道と分れて南に向かう道は、土支田方面に通じる。稲荷の石祠と丸彫の地蔵の造立年代は不明。昭和59年に区の有形文化財に」、と。土支田は白子川を南に進み、笹目通りと交差するあたり。光が丘の西にある。土支田(どしだ)は土師田、つまりは、土師(はじ)器をつくる人達が昔々住んでいた。白子川流域には土師器を焼いていた遺跡が多い。貫井には土師器を焼いた窯場跡が発見されている。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


八坂神社

向いの八坂神社にちょっとおまいり。「新田宿と八坂神社」の由来書;板橋宿の平尾(板橋3丁目)で中仙道と別れた江戸時代の川越街道は上板橋宿、下練馬宿をへて白子宿へ向かう。八坂神社右手の道が当時の川越街道で、この付近、白子川へ下るための大きく曲がった急坂(新田坂という)となっていた。新田坂から白子川の間は新田宿と呼ばれた集落で、対岸の白子宿から続いて街道沿いに発達した。昭和初期には小間物屋や魚屋、造酒屋などが軒を連ねていた。八坂神社は京都の八坂神社を勧請したものといわれ、「天王さま」とも呼ばれている。御祭神は素戔嗚尊とイナダヒメノミコト。元々は現在地よりやや南にあったが、昭和8年の川越街道新道工事の際に移された」、と。
ちょっと寄り道、というか、素白先生によれば「話は少し横へ逸れるが」という表現だが、この八坂神社ってよくわからない。祇園社、とも天王社とも呼ばれる。ちょっと調べてみた。そもそも八坂神社とは京都の八坂神社を勧請したもの。正確に言えば、八坂神社という名になったのは明治の神仏分離令以降。それまで「天王さま」とか「祇園さん」と呼ばれていた。明治になって本家本元・京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社に改名したため、全国3000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていた、から。ちなみに、明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。
で、なにゆえ「天王さま」・「祇園さん」と呼ばれていたか、ということだが、この八坂の郷に移り住んだ新羅からの渡来人・八坂の造(みやつこ)が信仰していたのが仏教の守護神でもある「牛頭天王」であったから。また、この「牛頭天王さま」は祇園精舎のガードマンでもあったので、「祇園さん」とも呼ばれるようになった。上に、御祭神は素戔嗚尊とイナダヒメノミコトと書いた。どうも、牛頭天王=素戔嗚尊、と同一視していたようだ。神仏習合である。
ちょっとややこしいがメモする;牛頭天王の父母は、道教の神であるトウオウフ(東王父)とセイオウボ(西王母)とも考えられるようになった。ために、牛頭天王はのちには道教において冥界を司る最高神・タイザンフクン(泰山府君)とも同体視される。そこからさらにタイザンオウ(泰山王)(えんま)とも同体視されるに至った。泰山府君の本地仏は地蔵菩薩ではあるが、泰山王・閻魔様の本地仏は薬師如来。素戔嗚尊の本地仏は薬師如来。ということで、牛頭天王=素戔嗚尊、という神仏習合関係が出来上がったのだろう。閻魔様=冥界=黄泉の国といえは素戔嗚尊、といったアナジーもあったのだろう。
また、素戔嗚尊は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されている。「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語。牛頭または牛首を意味する。素戔嗚尊と新羅との繋がりを意味するのか、素戔嗚尊と牛頭天王とのつながりを強めるためのものなのかよくわからない。が、素戔嗚尊と牛頭天王はどうあろうと同一視しておこうと、ということなのであろう。寄り道が過ぎた。先に進む。

新田宿
素白先生曰く;「僅かばかりしか家並みの無い淋しい町が、中程のところで急に直角に曲がり、更にまた元の方向に曲がっている。いわゆる鍵の手になっているのである。それと、狭い道の小溝を勢いよく水の走っているのとが永く記憶に残った。
新しく出来た平坦な川越街道を自動車で走ると、白子の町は知らずに通り越してしまう。静かに徒歩でゆく人達だけが、幅の広い新道の右に僅かに残っている狭い昔の道の入口を見出すのである。道はだらだら下りになって、昔広重の描いた間の宿にでもありそうな、別に何の風情もない樹々の向こうに寂しい家並みが見える(白子の宿・独り行く2)」、と
川越街道から一筋離れた坂をのんびり下る。素白先生の言うとおり、まっこと、車で走ると知らずに通り越すことだろう。心持ち落ち着いた家並み。このあたりは新田宿であったところ。板橋散歩のときのメモをコピーする;
白子川の手前、道の左手に細井金物店。この向いに童謡作家、清水かつらが住んでいた。かつらの代表的な歌詞は「靴がなる」。当時としては「靴」は高級品であったわけで、わらじではなく、靴に「はれやか」な思いを託していたのかも。
「靴がなる」
1.お手々つないで野道を行けば
  みんなかわいい小鳥になって
  歌をうたえば靴が鳴る
  晴れたみ空に靴がなる
2.花をつんではお頭(つむ)にさせば
  みんなかわいい兎になって
  はねて踊れば靴が鳴る
  晴れたみ空に靴が鳴る

ちなみにおなじところに「浜千鳥」や「おうちわすれて」の作者・鹿島鳴秋も住んでいた。

青い月夜の 浜辺には
親を探して 鳴く鳥が
波の国から 生まれでる
濡(ぬ)れたつばさの 銀の色

夜鳴く鳥の 悲しさは
親を尋ねて 海こえてn

月夜の国へ 消えてゆく
銀のつばさの 浜千鳥

白子川
坂を下りきったところに白子川。南大泉4丁目の大泉井頭公園を源流点とし、和光市、板橋区を流れ、板橋区三園で新河岸川に合流する全長10キロの川。かつては武蔵野台地の湧水を集めて流れる川。大泉の名前も、白子川に流れる湧水の、その豊さ故につけられた、とか。一時は汚染ワースト一位といった、あまり自慢にならないタグ付けをされたりしたが、先日白子川を源流から下ったときの印象では、川越街道あたりまでは美しい流れに戻っていた。白子川の清流を守る市民運動の賜物であろう、か。
白子の由来は、新羅(しらぎ)が変化した、と言われる。奈良時代、武蔵国には高麗郡、新羅郡が置かれた、ってことは以前メモした。新羅や高句麗、百済からの渡来人が移住したわけだが、新羅郡は平安時代の頃には新座郡と記され、大和言葉で爾比久良郡(にいくらこおり)と読まれるようになる。で、新座郡の中で、この成増の辺りは志楽木(しらき)郷と称し、のちに志未(志木)郷となる。志未は志楽の草書体からきたもの、とか。 「白子」も「しらぎ」が変化した地名と云われている。

熊野神社
以上が昨年7月にこの地を歩いたときのメモ。先に進むことにする。新田宿を越え、白子川を渡りT字路。素白先生の描く、「鍵の手」といったところか。右に折れ熊野神社に。素白先生曰く;「小家の並んだ道の右に、後ろに森を背負った社域の広い熊野の社がある。そこには、いささかの滝が落ちている。夏も冬も絶えず落ちていて、本来は信仰の上の垢離場であったのだろう(白子の宿・独り行く2)」、と。
熊野神社は白子の鎮守さま。由来書によれば、「中世、熊野信仰は全国的に武士や民衆の間に広まった。熊野那智大社に伝わる「米良文書」の中の「武蔵国檀那書立写」には多くの武蔵武士とともに「しらこ庄賀物助、庄中務*」の名があり、和光市域の武士にも熊野信仰が伝わっていたことがわかる」と。
この「庄」さんって、平安末期、練馬から和光市にかけて勢力をもっていた武蔵七党のひとつ・児玉党の流れをくむ「庄(荘)」一族であろう、か。境内には大きな富士塚があった。今まで見た富士塚の中でも最大級のもののように思える。神社脇に水が流れ落ちる。いささかの滝、といった表現がぴったり。神社の横に不動院。これって昔の記録にある白子不動さん、だろう。
素白先生の「白子の宿」への思い入れが少々強く、白子で長引いてしまった。先を急ぐ。

川越街道
白子宿の熊野神社を離れ、新座・平林寺に向かって進む。県道109号線。これって、旧川越街道。15世紀、途切れ途切れにあった古道をもとに、大田道潅が江戸と川越をつないだもの。江戸、川越、そして岩槻の城が古河公方に対する上杉管領陣営の攻撃・防御の戦略的拠点であったため、この往還を確保せんとしたのだろう。近世に入り、松平信綱が川越藩主となった寛永16年(1639)以後整備され、川越往還と呼ばれた。幅4、5間(7-9メートル)あった、というから結構広い。
川越往還は板橋宿(板橋3丁目)で中山道と分かれ、上板橋、下練馬、白子(和光市)、膝折(朝霞市)、大和田(新座市)、大井(大井町)の6宿を経て川越まで続く。その先は、道幅は半分以下になるものの、北へ進み川島、松山、大里を通って中山道・熊谷宿へと続いていた。松山から小川、寄居を通って 秩父へも行けるため、秩父参詣に行く者で往還は大いに賑わった、とか。
また、この川 越街道は公儀御用としても重要な往還であった。公儀御用の場合は、先触(人馬通知書)を出しておくことにより、宿場間に必要な人馬の数、駕籠(かご)などは無償で提供されることになる。白子宿には馬7頭、人足3人が常時用意されていた、とか。が、川越往還は川越御用、公儀鷹方御用、大名の江戸参府などの公儀往来が多く、常備だけでは間に合わず、周辺の村からの助っ人・助郷役が必要であった、とか。助郷負担って結構大変であったよう。ために、その代償として茶屋の営業権や、公儀御用の馬であっても、宿からの戻りの時には一般庶民を乗せて駄賃を稼げる、といったあれこれの便宜を受けていた、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


東京外環自動車道路
東京外環自動車道路と交差し先に進む。東武東上線・和光市駅入口交差点。和光の名前の由来だが、町制施行時に「大いに和する」ということで大和町と。これって、東大和市の由来と同じ。で、市制施行時には本来なら「大和市」、ということになるわけだが、既に東大和市などがあったため、「大和(町)に光を」ってことで、和光市となった、と。

陸上自衛隊朝霞駐屯地
109号線を進む。もちろんのこと、街道沿いの町並みに昔の面影などあるわけもなく、素白先生であっても、情景描写に難儀するのでは、などと思いながら歩を進める。陸上自衛隊朝霞駐屯地あたりで、和光市から朝霞市に入る。少し進むと膝折地区。昔は新座群膝折村と呼ばれた一帯。地名の由来は、馬が骨折したから、と。本来なら膝折町であり、膝折市となるところだが、あまりに縁起もよろしからず。ということで、昭和7年東京ゴルフ倶楽部がこの地に移るとき、その倶楽部の名誉総裁であった宮様の名を頂こう、となったわけ。その宮様が朝香宮殿下。が、そのままではあまりに畏れ多い、ということで、朝霞、となった、とか。いやはや地名の由来って、これといったルールもなく、あれこれあって興味が尽きない。

黒目川
旧川越街道を進む。朝霞警察署のあたりで旧・新川越街道が一瞬合流。このあたりから道は黒目川の川筋に向かっ て大きく台地を下る。黒目川によって開析された台地はその先で再び盛り上がっている。その台地の緑の先に平林寺があるのだろう、あってほしい、との思いが強い。年末に痛めた膝が完治しているわけでもないので、少々弱気。黒目って、先日の野火止用水散歩のときにメモしたように、黒目(くろめ)>久留米(くるめ)、と、東久留米市の名前の由来となったもの。
黒目川は水源を小平市・小平霊園内の雑木林に源を発し、東久留米市>新座市>朝霞市>新河岸川> 荒川へと続く全長15キロ弱の荒川水系・一級河川。カシミール3Dでつくった地形図を見ると、黒目川に沿って台地が大きく開析されている。正直、これほど大きく台地を切り開く川とは思ってもみなかった。そのうち源流点から一度歩いてみよう。

平林寺
台地をのぼり、水道道路の交差点を越え、新座警察署交差点に。ここを南に下ると平林寺まで、あと少し。歩を進める。新座市役所のあたりから平林寺境内林がはじまる。この雑木林は武蔵野の面影を残すものとして、国の天然記念物に指定されている。
フェ ンスに囲まれた雑木林を眺めながら進むと平林寺。昨年野火止用水を平林寺まで歩いたのだが、このお寺さまに着いたときは4時過ぎ。残念ながらお寺は閉門していた。なんとなく気になっていたので、年明け初めの歩きとしてここまで来た次第。拝観料300円を払い境内に。茅葺の山門が美しい。二層の楼門。その後ろに仏殿。山門の南手には半僧坊。半僧坊のことは秩父散歩でメモしたのでここではパス。
全体に落ち着いた、いいお寺。本堂の裏手に進む。雑木林の中をのんびり歩く。野火止用水の支流・平林寺堀の跡が残る。水は流れてはいなかった。武蔵野の林を堪能し、松平伊豆守信綱の墓所に向かう。平林寺は大河内・松平家の菩提寺でもある。

松平信綱
平林寺はもともと、元和元年(1375年)、岩槻に大田氏により創建。この大田氏って、岩槻城主であった太田道潅の父・道心という説、別人という説、あれこ れ。よくわからない。寛文3年(1663年)、川越藩主・松平伊豆守信綱の遺志を受け、子の輝綱がこの地に移す。松平信綱は家康の代官・勘定奉行をつとめた大河内久綱の子。伯父である松平正綱の養子となり松平を称する。島原の乱の鎮圧や「明暦の大火」の後の江戸の復興に尽力。「知恵伊豆」とも呼ばれ、家光・家綱の二代にわたり名老中としてその職務を果たす。松平信綱の墓所のあたりは重厚な墓所が広がる。大河内家の墓所であろう。少々圧倒される。

安松金右衛門
松平家の墓所の手前に安松金右衛門、小畠助佐衛門の墓が並ぶ。安松金右衛門は野火止用水開削の功労者。もともとは新宿にあったお墓を昭和になってこの地に移した
、とか。杉本苑子さんの小説『玉川兄弟』で、伊豆守の主命を受け玉川上水への取水口を羽村にするように玉川兄弟に協力する安松金右衛門の「姿」が思い 出される。
野火止用水を構想する伊豆守としては、高低差の関係より羽村からでなければ自分の領地・野火止台地に導水できない。技術的にも、羽村からでしか分水できなかったわけだが、玉川兄弟は当初、日野あたりからの分水を試みる。が、通水に失敗。結果的に羽村からの分水に落ち着く。
信綱は、玉川上水完成の功により、玉川上水の三分の一を野火止用水に導く許しを得る。野火止用水のことは既にメモしたので、このあたりで止めておく。で、小畠助佐衛門。信綱が川越城主となったとき、原野開墾・藩財政の安定に尽力。最後には家老にまで上り詰めた人物。野火止用水もその事業の一環。

増田長盛

増田長盛の墓もあった。豊臣政権・五奉行のひとり。武人というより文官。上杉景勝との交渉や太閤検地に力を発揮。関が原の合戦時は西軍に属し大阪城の留守居役をつとめる。が、石田三成の挙兵を家康に内通するなどしたため、所領は没収されるものの命は助けられ、身柄は岩槻城主・高力清長に預けられる。その後、息子が大阪の陣で西軍に属したため自害を命ぜられる。平林寺が岩槻にあったためこのお寺にお墓があるのだろう。

見性院殿
見性院殿の墓とい うか宝篋印塔もある。見性院とはいっても、山内一豊の妻・千代とは別人。武田信玄の息女であり、信玄の武将穴山梅雪の妻。ちょっと横道にそれるが、この穴山梅雪って、なんとなく面白い人物。信玄の重臣ではあったが、信玄の息子・勝頼とは反目。諏訪氏の血を受け継ぐ勝頼より、梅雪と見性院との間に生まれた息子が信玄の正当なる後継者であると信じていたから、といった説もある。
ともあれ、武田勝頼と織田信長・家康の連合軍が戦った長篠の合戦で梅雪は無 断で戦線離脱。その後、徳川家康に降伏した。重臣・梅雪にも見限られた勝頼は天目山で自害。名門武田家は滅ぶ。家康と梅雪は安土で信長にお目見え。その後、ふたりで堺見物と洒落込む。その時起こったのが、光秀の反乱・本能寺の変。池宮彰一郎さんの小説『遁げろ家康』にあるように、伊賀の山中をさ迷いながらも家康は窮地を脱する。が、梅雪は落ち武者狩りに遭い無念にも落命。梅雪の死後、見性院は家康の庇護を受け江戸城内で暮らすことになる。
やっと見性院に戻る。見性院といえば、名君・保科正之の養い親であった、ということで有名。この保科正之は二代将軍秀忠と奥女中との間に生まれた子。正室・小督の方に隠れ、見性院が育てることになる。で、この子は信州高遠藩・保科家の養子となり元服し保科正之と名乗る。三代将軍・家光とは異母弟。側近として家光をよく補佐し、その功により会津23万石の藩主に。家光没後はその遺言により、四代将軍家綱の後見役として、その補佐役に徹する。中村彰彦さんの書いた 『名君の碑―保科正之の生涯』は面白かった。見
性院はさいたま市の清泰寺に葬られたが、平林寺の住職とも懇意であったので、ここに宝篋印塔がおかれることになった、とか。

島原の乱供養塔
大河内・松平家の墓所から本堂に戻る途中に「島原の乱供養塔」がある。島原の乱については、昨年中野区散歩のときメモした。中野の宝泉寺に島原の乱鎮圧軍の上使であった板倉重昌がねむっていた、から。が、そのときのメモの記憶もそろそろ、あやしくなってきた。おさらいをする。島原の乱:寛永14年、というから1637年、九州・島原で起こった農民を中心とした反乱。信綱が幕府鎮圧軍の上使として派遣され、知恵伊豆の名をいやがうえにも高めることになる。そもそものはじまりは、大阪の陣の功績により島原の領主となった松倉重政、その子・重家の圧政そしてキリシタン弾圧。また、関が原合戦の功により天草を加増された唐津城主・寺沢堅高の、松倉氏ほどではないにしても、圧政とキリシタンへの厳しい取締り。農民による島原の代官所襲撃をきっかけに、浪人・民衆も加わり3万名弱の勢力となる。
総大将は天草四郎。原城に立て籠もる。反乱勢力に対し、幕府は13の藩からなる鎮圧軍を派遣。そのときの総大将・上使となったのが板倉重昌。が、上使とはいうものの、重昌は三河国・深津藩1万5千石の小大名。黒田藩、細川藩といった何十万石といった雄藩・大大名の軍は重昌を軽視。軍の統制とれるはずもなく、戦線は膠着状態。業を煮やした幕閣は松平信綱を上使として派遣することに。重昌は武士の面目なしと総攻撃を下知。鎮圧軍は指揮に従うわけもなく、重昌は単騎、死を覚悟して攻撃。あえなく討ち死に。


上使として到着した信綱は攻撃を止め、兵糧攻め。さら大砲による威嚇攻撃をおこなう。で、反乱軍の士気が落ちた頃を見計らい、総攻撃。食料もなく士気の衰えの激しい反乱軍は鎮圧され、場内にいたものは婦女子を含め1名を除いて死罪となる。その数2万7000名。うち婦女子は1万2千名にのぼった、という。助命された1名は、原城内の状況を内報していた、絵師だった、とか。
知恵伊豆のイメージとはほど遠い、厳しい処置ではある。が、反乱軍側だけでなく、圧政者にも厳しい処分を下す。松沢重家は打ち首。大名であれば通常切腹であろうが、それも許さぬ厳しい処置。また、寺沢堅高は領地没収。後に自刃した、と。この「島原の乱供養塔」は、3万名にもおよぶ人々を供養するため文久元年(1861年)に大河内・松平家の家臣により平林寺に立てられたもの、とか。
先回の野火止散歩で日没のため参詣できなかった平林寺もやっとカバーし終える。素白先生へのオマージュ故に、白子の宿からはじめた今回の散歩。締めも素白先生の「白子の宿―独り行く2」の最後のパラグラフを引用する。素白先生曰く;「私は何時もこういう何の奇もない所を独りで歩く。人を誘ったところで、到底一緒に来そうもないところである。独りで勝手に歩いているから、時々人と違ったことも考える。先頃この辺りを歩きながら考えたこと、それは昔私はよく、この世間に所謂聡明な人は極めて多いが、善良な人は甚だ稀だと思っていたが、このごろ考えてみると、善良な人は案外多くして、本当に聡明な人というものは殆ど無いということである。
こんな考え方は、私の歩くつまらない道と共に、大方の人はこれ笑うであろう。(昭和三十二年)」。
なんということのないところを、ひたすらに、ぶらぶら歩く。ために、独りで歩く。こんな散歩を2年近く続けてきた。3年目の1月、次回はどこを歩こうか。