月曜日, 7月 30, 2007

千葉 手賀沼散歩; 我孫子から手賀沼を辿り利根川へ


我孫子から手賀沼を歩き、利根川に
手賀沼を歩くことにした。千葉県の北、我孫子市の南に広がる。正確には、我孫子市・柏市・印西市・白井市にまたがる沼である。
手賀沼を歩こうと思ったきっかけは、松戸や北小金で出会った「小金の牧」というキーワード。野馬の放牧地であった下総台地の原野の原風景をすこしでもイメージしたかった、から。沼の周辺であれば、「昔を偲ぶ」自然が残っているであろう、といった思惑、である。前もっての事前知識は何も、ない。沼の脇をひたすら歩き、我孫子市の北を流れる利根川との合流点まで行ければいいか、といった段取りで自宅を出る。


本日のルート:我孫子駅>楚人冠公園>志賀直哉邸跡>白樺文学館>手賀沼公園>手賀沼遊歩道・手賀大橋>水の館>高野山新田>手賀曙橋・ 手賀川>手賀川>利根川

我孫子駅
下北沢で地下鉄千代田線に。JR常磐線に乗り入れている。そのまま我孫子駅に。我孫子市は利根川と手賀沼に挟まれたベッドタウンというべき、か。我孫子の地名の由来は諸説ある。大和朝廷時代の官職にある「阿毘古」からとの説。この阿毘古って、大王に魚や鳥などの食糧を貢進する氏族であった、とか。網曳が転じたとする説もある。網曳とは朝廷に海産の魚貝を貢進する職制のことである。常陸川(現在の利根川)や手賀沼の魚貝を供していたのだろう、か。その他、「アバ(くず れた)・コ(処)」が転じたといった説もあり、これといった定まった説は、ない。
我孫子駅に下りる。常のことのように、名所案内を探す。駅前に案内が。白樺派と我孫子のかかわりを中心に紹介されている。武者小路実篤、柳宗悦、志賀直哉、杉村楚人冠、バーナード・リーチなどの名前がある。そのほかに柔道の嘉納治五郎、柳田國男なども我孫子ゆかりの人物として紹介されていた。 駅の南に手賀沼。その手前に志賀直哉邸跡、そして白樺文学館がある。折りしも、娘の文学作品鑑賞のお手伝いで漱石の『こころ』を読み直していた。この『こころ』って新聞小説であり、漱石の次の書き手が志賀直哉であったのだが、志賀直哉が「わたしゃ書けない」といったばっかりに、漱石が疲労困憊した、って記事を読んでいたところ。これも因縁であろうかと、まず手始めに志賀直哉ゆかりの地を訪ねることにした。

楚人冠公園
駅を南に下り国道356号線に。ここは昔の成田詣の街道。緩やかな坂を下る。道脇に楚人冠公園。段丘上にある。観音山という高台。杉村楚人冠の邸宅跡。明治から昭和にかけて活躍したジャーナリスト。朝日新聞の最高幹部でもあった。校正係りであった石川啄木の才能をいちはやく見出した人物。随筆家・評論家としても知られる。関東大震災後、別荘のあったこの地に移り住む。『アサヒグラフ』で手賀沼を紹介したことが、我孫子が別荘地・北の鎌倉ともよばれるようになったきっかけ、とか。近くに柳宗悦の屋敷があり、その中にバーナード・リーチが住んでいた、と。

志賀直哉邸跡
楚人冠公園脇を下り、「手賀沼ふれあいライン」に。目的の志賀直哉邸跡は、この車道の一筋北にはいったところ。緑2丁目にある。弁天山の一角。楚人冠邸とは異なり、どちらかといえば、段丘下・斜面林の中といった場所。ここは、武者小路実篤とともに白樺派を創設した直哉のはじめての持ち家。結婚後まもなくの大正4年から12年までこの地で過ごした。妻康子は実篤のいとこ。また、実篤と直哉は学習院仲間、と。
邸跡は現在公園となっている。段丘斜面、道より一段高いところにある公園には、ちいさな家屋の一部が残されている。小さな湧き水もあった。直哉はこの地で「城崎にて」、「和解」、「小僧の神様」などの作品を書く。小説の神様と呼ばれるようになった作品である。「暗夜行路」の前編刊行までこの地に住み、その後京都・山科、奈良高畑町、そして鎌倉へと移ることになる。

白樺文学館
志賀直哉邸跡を下りる。公園斜め前に「白樺文学館」。B級路線一直線の我が身には、少 々敷居が高いのではあるが、とりあえずどんなものかと中に入る。個人の篤志家が建てた記念館。入館料を200円払う。ボランティアのスタッフの方に説明していただく。
お話いただいたことのまとめ;この地に文人が多く住み始めたきっかけは、講道館柔道の創始者・嘉納治五郎。明治の頃、この地に別荘をもった治五郎は理想の学園をつくろうとしていた、とか。甥の柳宗悦を呼び寄せる。宗悦は民藝運動起こした思想家。素朴な民藝に芸術が宿る、と。志賀直哉はこの宗悦のすすめにより、この地に移る。
白樺派の同人である武者小路実篤をこの地に呼んだのは志賀直哉。直哉はここ我孫子に8年住む。実篤は2年ほどこの地に住み、理想の地を求めて九州・宮崎の地に「新しき村」を建設。大正7年のことである。しかし、この村も昭和13年にはダムのため水没。埼玉県の毛呂山に移る。先日埼玉の毛呂山町の散歩のとき「新しき村」って案内が目に入ったが、それって以上の経緯を経て移ったもの、であった。6年後実篤は「新しき村」を離村。村外会員となった。これもいつだったか、調布市仙川を散歩していたとき、国分寺崖線上に実篤公園があった。実篤の邸宅が残っていたが、それは村外会員となってからのこと、ということ、か。歩いていればあれこれ「襷」が繋がってくる。

館内には実篤、直哉の記念の作品が展示されている。いいなあ、とおもったのはバーバードリーチの絵。リーチといえば陶器が有名ではあるが、手賀沼を描いたエッチングの絵が素敵であった。また芹沢銈介氏の装丁なども素敵であった。が、よくよく考えたら芹沢銈介氏って、人間国宝。少々失礼なるコメントであったと、反省。
二階の展示の中に、漱石の書簡。新聞小説の連載を断わる志賀直哉に対して困り果てた漱石の姿が目に浮かぶ。「志賀の断わり方は道徳上不都合で小生も全く面喰らいましたが、芸術上の立場からいうと至極尤もです。今まで愛した女が急に嫌になったのを、強いて愛したふりで交際しろと傍から言うのは少々残酷にも思われます」、と。上にメモしたように、娘とともに、というか、娘のために、というか、それより、親父の威厳を示すため、というか、ともあれ、丁度漱石の作品研究をしていたところであったので、偶然の出会い驚く。予定調和、というべけんや。

手賀沼公園
白樺文学館を離れ、手賀沼の畔を目指す。手賀沼公園に。公園手前に市の生涯学習センターター。図書館もあるので、なにか郷土資料などないものかと中に入る。特になし。センターを離れ、隣の手賀沼公園に。バーナード・リーチ碑や血脇守之助の碑。血脇守之助って、明治・大正・昭和にわたる歯科医師会の重鎮。東京歯科大学の創始者。それよりなにより、野口英世の物心両面にわたるスポンサーとしてあまりにも有名。




手賀沼遊歩道・手賀大橋
公園から先は水辺に沿った遊歩道を進む。手賀沼遊歩道。遊歩道より一筋水際の土手道を進む。葦や水草を眺めながら散歩。少々の風もあり、寄せては返す波の音も。遊歩道でウォーキングを楽しむ人を眺めながら、こちらは、たらたら、と散歩。姿勢を正しく腕を振って、といったスタイルとは真逆のスタイル。1キロほど進むと我孫子高校。その先には手賀沼大橋が沼を跨ぎ柏市と我孫子市を繋ぐ。

水の館
手賀大橋を越えると手賀沼親水広場。広場と「手賀沼ふれあいライン」の間に「水の館」。手賀沼に関する歴史・自然環境に関する展示室やプラネタリウムがある。ここに来るまで、手賀沼のことなどなにも知らなかった。暢気に歩いてきたのだが、手賀沼って最近まで水質ワースト1位であった、とか。平成12年ワースト1位(COD14)、平成13年ワースト2位(COD12)、平成14年ワースト9位(COD8.2)、平成15年ワースト6位(COD8.4)といった按配だ。

水質浄化に取り組み環境は改善しつつある、と。水質汚染の要因は生活排水と産業排水。1955年頃までは水は十分澄んでいたとのことだが、急激な周辺人口の増加に汚水処理が間に合わなかった、ということ、か。沼に注ぐ川は大堀川と大津川ではあるが、どちらも地図で見る限りでは市街地に源流点があるように見える。であれば、それほど水量が多いわけではないだろうし、水源は生活排水といった時代もあったの、かも。
ともあれ、手賀沼は汚れた。その対策としては、利根川の水を導き、手賀沼の西端に注ぐ大堀川に流し水質を改善する。利根川から取水されたこの水路は北千葉導水路と呼ばれる。また沼の南にある北千葉第二機場では浄化用水を注ぐ。このような浄化計画の成果だろうか、ワースト1位からは外れるようになっている。

高野山新田
水の館を離れ再び手賀沼遊歩道に。水の館のすぐ北には鳥の博物館。皇族が勤務する山科鳥類博物館であろう。いまひとつ鳥に興味がないので今回はパス。沼の反対方向、北側は台地が続く。印旛手賀自然公園の手前、高野山新田の向こうの台地の緑の中に香取神社と水神山古墳。白樺文学館でのレクチャーで伺ったことだが、文学館があったあたりは葦原であったとか。台地の下まで沼がせまっていたのであろう。手賀沼って、もともとは、洪積台地にできた浸食谷。それが溺れ谷、有体に言えばリアス式のギザギザ谷となり、さらには常陸川(現在の利根川)の土砂にせき止められて沼となった。往古、香取海の入江。手下浦(てかのうら)と呼ばれていた、と。
このあたりの地名・高野山新田、って干拓によって開かれた新田、か。本格的に干拓工事がはじまったのは、1958年から。沼の半分が干拓された、とか。沼の北には根戸新田、我孫子新田、高野山新田、岡発戸新田、都部新田、中里新田、日秀新田など。沼の南には戸張新田、簔輪新田、大井新田、鷲野谷新田、染井入新田、片山新田、手賀新田など。これだけ新田が地名に残っているわけで、半分が干拓されたといっても違和感なし。
沼の南といえば、利根川から手賀川の東を進んできた北千葉導水菅は、手賀沼に至り南岸を進み、さらには大堀川に沿ってのぼり、流山市の野々下あたりの坂川放流口まで続いている。ここから放流された利根川の水は坂川を下り、江戸川に注ぐ。この導水路は手賀沼の汚染対策だけではなく、利根川と江戸川を結び江戸川の水量を補っている、ということだ。先般行田を歩いたとき、利根川と荒川を結ぶ武蔵水路に出合った。これは東京オリンピックのとき、汚れた隅田川が少々見苦しかろうと隅田川上流の荒川の水を少しでもきれいにしようとした、と。この北千葉導水路は、水路沿いの手賀沼の水質浄化とともに、首都圏への水の供給源としても機能している。

手賀曙橋・ 手賀川

市民農園脇を進み、滝下広場を越え印旛手賀沼自然公園がある水際を進む。岡発戸新田南の峠下公園を過ぎ、湖北集水路を越えると我孫子高校の野球場。このあたりが手賀沼の東端。植生浄化施設脇を進み、手賀沼フィッシングセンターに。手賀曙橋。水門も兼ねた橋となっている。ここで手賀沼は終わり、手賀川となる。歩きはじめて5キロ前後といった距離であった。ここから利根川との合流点までおよそ7キロ、というところ。
手賀川は、手賀沼の東端から利根川までを繋ぐ水路である。かつて手賀沼は、そのまま利根川につながっている沼だった。干拓によって沼の東半分が広大な農地となり、西半分の手賀沼はひとまわり小さくなって残された。で、その手賀沼と利根川を繋いだ水路がこの手賀川というわけだ。

手賀川
手賀川に沿って土手道を進む。すぐ先に手賀第三揚水機場・手賀第三排水機場。北千葉導水って、手賀川の南に埋設されているわけで、この施設って、どういった役割なのだろう。地図をみると、手賀川の一筋北に水路がある。通常排水機場って、支川の水をポンプで汲み出して浸水被害を防ぐもの。大雨などで支川が氾濫しはじめたら、その水を支川より水位の高くなった手賀川に放水するのであろう。
土手道を進む。1キロ単位で目印がたっており、それを目安に歩く速度を計る。1キロを10分で進む。水道橋の北詰を進み、次は浅間橋。手賀第二排水機場。手賀沼からほぼ3キロといったところ。
浅間橋の南北にはまっすぐにのびる道路がある。これは、昔の千間堤の跡。江戸時代の享保年間、千間というから、およそ1.8キロにわたって堤が築かれていた。見沼散歩の折にも登場した、伊沢弥惣兵衛の建議で干拓を計画。もともとは沼全体の干拓を計画していたようだが、計画を変更し、この千間堤を築き、沼を東西に分ける。西はそのまま残し、堤より東を干拓することにした、と。江戸の町人高田茂右衛門友清が請け負った、とか。が、完成後しばらくして堤は決壊。上でメモしたように、大規模な干拓工事が実施されたのは、第二次世界大戦後。昭和43年になって完成。500HAの水田ができあがった、ということだ。
浅間橋を越え、1.5キロ程度で手賀沼週末処理場。家庭排水を集めて浄化し川に流す。先ほど手賀第三揚水機場・手賀第三排水機場のところで、手賀川の一筋北に水路が走るとメモした。この水路は手賀沼週末処理場から出ている。ということは、少し上流まで水を運び、手賀川の水質の浄化も行っているのだろう、か。
手賀沼週末処理場。ここまでくれば、利根川の堤まで2キロ程度。川筋を離れ処理場を迂回し成行きで東に進む。JR成田線を越え先に進む。川筋に北千葉揚排水機場。大雨・台風といったとき、水位の高くなった利根川の水を水門で防ぎ、同時に水位が高くなった利根川に手賀川の水を放水できるようにしている。北千葉揚排水機場の先に国道356号線。道の向こうに土手、というか堤防。利根川に到着。

利根川
土手の上を最寄りの駅、JR成田線・木下駅に進む。木下は「きおろし」と読む。このあたりの河岸から江戸に雑木を運んでいたのが名前の由来。木下は、利根川船運の要衝の地であったよう。「木下河岸跡」の案内によれば、「寛文の頃(1661~72)、香取・鹿島神宮などへの参詣と銚子の磯めぐりを楽しむ「木下茶船」と呼ばれる、江戸町民の人気を集めた乗合船が発着するようになり、利根川下流へ向う旅客や銚子、九十九里からの鮮魚の陸揚げで賑わうようになった。最盛期には50軒余りの旅籠や飲食店が軒を連ねていた」、と。 木下河岸と市川の行徳河岸の間には「木下街道」が走る。現在の国道59号線。木下からは鮮魚が、行徳からは鹿島神宮などへの行楽客を運ぶ道として利用された。又、常陸の麻生藩、下総の高岡藩・小見川藩といった大名がこの街道を通っていた、と。 ともあれ、往時は交通の要衝であった、木下という地名を新たに記憶に刻み、本日の予定終了。それにしても、往時の交通の要衝の駅舎は、駅員の姿も見えない素朴なものでありました。

土曜日, 7月 21, 2007

高月城から滝山城へ;あきるの・八王子の丘陵と古城跡を歩く


青梅や秋川を歩いた時、折にふれて登場する武将がいる。大石氏がそれ。小田原北条氏が関東を制圧する以前、この地に覇をとなえた戦国の武将である。青梅の辛垣城とか、秋川の檜原城、戸倉城などが知られるが、八王子の北、多摩川に沿った地にもゆかりの地が点在する。東あきる駅近くの「二宮神社」、近くの高月には高月城。また、高月から尾根道を少し南に下った滝山城が、それである。
今回は、東あきる駅からスタートし、大石氏の足跡を辿る。歴史はそれはそれとしても、秋川・多摩川、草花丘陵・滝山丘陵といった、山あり川ありのハイキングが楽しめるコース、である。<



本日のルート:
JR 五日市線・東秋留駅 ; 二宮神社 ; 高月城 ; 高月城 ; 滝山街道 ; 滝山城跡 ; 東京環状・16号 ; 拝島橋 ; 拝島大師

JR五日市線・東秋留駅

JR青梅線で拝島駅に。そこからJR五日市線に乗り換え東秋留(あきる)駅に。このあたりは現在「あきる野市」となっている。秋川市と五日市町が合併してできたもの。「あきる」の由来は、秋川の氾濫のため田圃の畦がしばしば崩されていたので「畦切」。このアゼキリ>アキル、となった。「切る」は開く。畦を開く>新しい土地を開く、って説もある。また、新羅の姫「アカルヒメ」に由来する、と、あれこれ。例によって諸説あって定説はなし。




二宮神社
駅を下り観光案内を探す。しごくさっぱりとした駅前。何もなし。とりあえず駅南に進むと普門寺。北条時宗によって建てられた、と。なかなか堂々とした構え。目指す「二宮神社」は駅の北のようだ。お寺前の道を北に向かう。JR五日市線の信号を渡るとすぐに鎮守の森。道脇に台地の上に「二宮神社」が鎮座する。
神社の案内;創立年代不詳。小川大明神とか二宮大明神と呼ばれていた。小川大明神の由来は、古来この地が小川郷と呼ばれていたため。二宮大明神の由来は、武蔵総社六所宮の第二神座であった、ため。二宮神社となったのは明治になって、から。この神社には、藤原秀郷にまつわる由来がある。秀郷は天慶の乱に際し、戦勝祈願のためこの神社におまいりした、と。故郷にある山王二十一社のうち二宮を尊崇していたため、である。天慶の乱とは平将門の乱のこと。またこの神社は、源頼朝、北条氏政といった武将からも篤い信仰を寄せられていた。滝山城主となった北条氏照も、ここを祈願所としている。


武蔵一の宮である小野神社の周囲には小野牧があった。この二宮のある小川郷にも小川牧がある。因果関係は定かではないが、馬の飼育・管理と中央政府の結びつきってなんらかインパクトのある関係だったのではなかろうか。実際小野牧に栄転した小野氏も、それ以前は秩父での牧の経営で実績をあげての異動であったように思える。藤原秀郷と二宮のかかわりは、母が近江の山王権現に祈願して授かった子、であったため。山王二十一社とは、 上七社・中七社・下七社の総称。そのなかでも特に重要な位置を占める上七社は大宮・二宮・聖真子・八王子・客人・十禅師・三宮である。秀郷は二宮にお願いして生まれたのであろう、か。ちなみに武蔵六宮とは一宮・小野神社、二宮は小川・小河神社(現二宮神社、東京都あきる野市)、三宮は氷川神社(のち一宮。さいたま市)、四宮は秩父神社(埼玉県秩父市)、五宮は金鑽神社(埼玉県神川町)、六宮は杉山神社(横浜市)である。
二宮神社の地は大石氏の館があったところ、と。『武蔵野 古寺と古城と泉;桜井正信(有峰書店)』によれば、貞和年間(1345年)鎌倉幕府の命により、木曽義仲の七代の孫・大石信重が築いた、とか。信濃国佐久郡、大石郷から移ってきた、とも。正平11年(1356年)には入間・多摩郡のうち、13郷を領している。大石氏はこの二宮神社の南に館を構えた。正平11年(1356年)から至徳元年(1384年)の間の28年間である。その後、陣場山麓上恩方案下に山城を築く。甲斐の武田信玄に対して西の備えとしたわけだ。この恩方城に至徳元年(1384年)から長禄2年(1458年)までの74年間居を構え、鎌倉公方持氏の滅亡、足利成氏と長尾影春の戦いなど、戦乱の巷を乗り切った。

二宮考古館
石段を下り台地東の道に。道の東に公園。池がある。湧水池。日本武尊(やまとたけるのみこと)が国常立尊(くにたちのみこと)を祀ったところ水が湧き出た、とか。国常立尊は水の神さま。公園脇にハイキング案内図。羽村方面の「羽村草花丘陵」から南の滝山丘陵に続くハイキングコースが紹介されている。大まかなルートを頭にいれる。
その案内図を見ていると、二宮神社の裏に二宮考古館。道を少し北に進み、五日市街道に。二宮神社前交差点を西に。すこし進み石垣の間を南に折れる。神社境内脇に考古館。二宮神社周辺の遺跡や、市内で発掘された土器、石器などが展示されている。入口を入ったオープンスペース脇にスタッフの事務机。ご挨拶し、あれこれ説明を受ける。感謝。文化財地図やご紹介いただいた『五日市町の古道と地名』を購入し先に進む。

秋川
次の目的地は高月城。南に下り秋川を渡ったところにある。適当に南に下る。とりあえず秋川の土手に出て、そこを東秋川橋まで下ればいいか、といった成行きの歩み。野辺地区を下り、睦通りを交差し、小川地区を進むと秋川に。結構広い川幅。草が生い茂る。草の中に道筋が見える。堤防を折り、河川敷の中の道を進む。周りは一面の草地。「まむしに注意」といった案内に少々おびえる。川の中の道を進み東秋川橋に。橋の袂にはバーベキュー場。賑わいを眺めながら橋を渡る。川向こうに緑の丘陵が聳える。秋川を隔てた滝山丘陵の一角に高月城跡がある。

高月城跡
道路を南に下るとすぐに台地にのぼる道。舗装されている。すこしすすむと道の北側にホテル高月城。場所からすればこのホテルのあたりなのだが、如何せん足を踏み入れることを憚られる類のホテルではある。多摩川と秋川を見下ろす崖上にあり、あたりを睥睨したのではあろうが、あきらめる。
道の南に山に入る道がある。掘切の雰囲気もあるような、ないような。ともあれ、先に進む。台地にのぼる道は整地されていない。農具なども散見する。道をのぼり台地上に。そこは畑地。城の名残はなにもない。城の主郭と二郭はここにあった、とか。ちなみに先ほどのホテルのあったところは三郭跡である、と。
高月城に大石氏が移ってきたのは長禄2年(1458年)。古くからの豪族が滅び、管領山内上杉家が力を持ってきた時期。大石氏は山内上杉と誼を通じ上野国の守護代となり勢力をのばしていくことになる。城主は大石顕重。永正年間(1521年)までの60年この地を拠点とする。この城には戦国期の数奇人がしばしば訪れたよう。『廻国雑記』を書いた道興准后もこの地で城主と歌を詠んだ、とか。名城として知られたこの城も、戦術の変化などにともない加住丘陵の滝山城へと重点が移る。その後も高月城は滝山城の出城、というか砦の役割を果たす。尾根続きのふたつの城はコラボレーションを図り、秋川筋や立川・拝島・二宮方面からの敵に備えることにしたのだろう。

高月水田

高月城を離れ、次の目的地・滝山城に進む。加住丘陵に沿って南に進む。ところどころで丘陵方面に向かう道。尾根道に上りたいのだが、道案内はない。リスクは避けて山麓の道を南に。高月浄水場。この周囲は30haにわたる水田。高月水田とよばれる。東京都での最大級の水田。この浄水場で南北に分けられる。






滝山街道
高月浄水場前交差点から丘陵地帯に上る道が分岐する。車も走る道であり、これなら尾根まで進めるだろう、と山裾を進む道から離れる。峠までは、そこそこの距離。峠道を西に進む。丘陵の西側におりることになる。高月配水池の下を進み日野電工・高月病院あたりから南に。大乗寺、最教寺を道の両側に眺めながら進むと滝山街道に交差。滝山街道とは八王子から奥多摩町をへて甲府に通じる国道411号線のうち、八王子の国道16号線との交差点あたりから青梅市友田町2丁目あたりまでを指す。


谷地川

滝山街道・加住小西交差点を左折。滝山丘陵の西を下る。道に沿って谷地川が流れる。谷地川は八王子市戸吹町辺り、というから東京サマーランドの南あたりを源流とし、日野市栄町で多摩川に合流する13キロ弱の川。蛇行激しく、暴れ川であった、とか。丹木(たんぎ)町交差点。丘陵から下ってくる道は、先ほど高月浄水場で峠道に折れなければ歩いた道筋。滝山城跡への上り口は交差点のすぐ南。

滝山城址

滝山城へと上る。坂道、というか山道を掘切、土塁といった縄張りを眺めながら進む。結構規模の大きな構えである。三の丸跡、千畳敷跡脇を進む。道の左手は結構深い谷。複雑な地形。中の丸跡脇を進み、本丸跡に。ちょっとした公園となっている、金毘羅社脇に展望台。多摩川の眺めが美しい。
『武蔵野 古寺と古城と泉;桜井正信(有峰書店)』などを参考に滝山城のまとめ;「大永元(1521)年、武蔵国守護代・山内上杉氏の重臣、大石定重が高月城より移る。また、その子定久の築城とする説もある。天文十五(1546)年の河越夜戦で北条氏康は扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉氏の勢力を上野に後退させる。武蔵の国人 領主たちの多くは北条の幕下に。大石定久もその一人で、氏康の三男、氏照を養子に迎えて隠居し秋川筋の戸倉に移る。氏照永禄2(1559)年ごろに滝山城に入城した、と。
戸倉城に隠居した定久ではあるが、かならずしも北条に全面的に服していたわけでもなく、上杉謙信や、北条氏照に勝沼城を追われ辛垣山城で抵抗していた三田綱秀らと誼を通じていた、との説も。また、定久は天文18(1549)年に八王子周辺の野猿峠で割腹した、あるいは謀叛が発覚して柚木城に移された、などの説もある。
永禄11年(1568)、信玄の駿河侵攻。甲相駿三国同盟の破棄。氏康・氏政父子は檜原城などの秋川筋の守備を固め、甲州勢に備る。永禄12年(1569)、信玄、勝頼、そして小山田信繁の軍勢が多摩川を挟んだ対岸の拝島付近、そして高尾山下の背後に布陣。三ノ丸まで陥落するも、師岡城主・師岡山城守らの奮戦で二ノ丸を抜くことができなかった。また、城主氏照は城を出て淺川廿里(ととり)、現在の多摩御陵に陣を敷き奮戦した、と。信玄は軍を退き小田原に向かう。一方の、氏照も鉄砲使用と集団戦にはこの城も適さずと、甲斐と接する要害の地に八王子城築城を決意。天正十二(1584)年ごろ、八王子に城を移し、滝山城は廃城となる。幾多の合戦にも一度も落城することのなかった名城であった、とか

尾根道を歩き国道16号線に
本丸跡を離れ、尾根道を南に進む。滝山自然公園を通り、ずっと南のJR八高線・小宮駅方面へのハイキングコースが続く。滝山城の遺構が残る。結構大規模な縄張りである。土塁や空堀が残る。尾根道を外れると急峻なる崖となっている。堀は非常に複雑で、かつ規模も大きい。二ノ丸の食い違い虎口周辺などはS字カーブというか、非常に屈曲のきつい土橋や馬出しとなっている。両側を深い谷津に挟まれている二ノ丸あたりの地形は「地形のうねり」大好きなるものとしては、うれしき限り。起伏の激しい丘、いくつもの深い天然の浸食谷、そして、それらの自然の地形を巧みに縄張りの中に取り込んだお城となっている。
尾根道をどんどん進む。少林寺の裏手を越えたあたりで道が分かれる。JR八高線・小宮駅方面へと尾根道散歩を続ける。しばらく進むと下り道。八王子車検場あたりに下りてきた。国道16号線・東京環状が丘陵を分断している。小宮駅方面には、国道を渡り再び丘陵にとりつき尾根道を進むよう。が、次の目的地は拝島大師。国道を北に向かう。

拝島橋

拝島橋をわたる。拝島の由来は、多摩川上流から流れてきた仏像が中州に漂着し、それを村人が拝んでいたことからきている、と。このあたりは昭島市。拝島大師というくらいなので、拝島市があるのかと思っていた。がそうではないようだ。昭和町と拝島村が合併し、両方の名前を足して二で割って出来たのが昭島である、と。地名にはよくあるパターン。橋を渡りしばらく歩き、国道16号線と奥多摩街道が交差するあたりに拝島大師がある。



拝島大師
拝島大師。天台宗の大寺。北条氏照の家臣・石川土佐守が娘おねいの眼病快癒を感謝し寄進した、と。大師堂、山門、鐘楼、多宝塔などの堂宇が並ぶ。大日堂にはさきほどメモした多摩川を流れてきた大日如来を祀る。天暦6年というから952年のことである。お正月に開かれる達磨市が有名。達磨の発祥の地は高崎市の少林寺。それに対し、このあたりの達磨は多摩達磨と呼ばれる。達磨が赤いのは達磨大師の着ていた僧衣が最高位の赤色であった、とか、赤は魔除けの効果あり、といったところから。ちなみに還暦の「赤いちゃんちゃんこ」も魔除けゆえ、とも。
お大師さんをはなれ、国道16号線と奥多摩街道が交差する堂方上交差点を北に。栗ノ沢交差点を北東に進みJR八高線を越え、消防署拝島出張所交差点を渡りJR青梅線・昭島駅に到着。


木曜日, 7月 19, 2007

津久井散歩:津久井湖から相原へ

いつだったか、多摩の「よこやま」、つまりは、多摩丘陵の尾根道を歩いた。もう一年も前のことだろう、か。その尾根道は津久井湖・城山湖のほうまで続いている、と。そのうちに行ってみよう、とメモした覚えがある。
最近、八王子から多摩への散歩が続いている。その余勢をかって、というわけではないのだが、津久井湖・城山湖まで出かけよう、と思った。カシミール3Dでチェックする。確かに、多摩から続く丘陵は、国道16号線・御殿峠のあたりで南北のからの尾根道が集まり、そこから更に西に延び、津久井湖方面に向かって延びている。津久井湖・城山湖畔の散歩も惹かれるものがあるのだが、どうせのことなら、湖畔散歩だけでなく、そこから多摩に向かって尾根道を歩いてみよう、と思った。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



本日のルート;京王相模原線・橋本>(バス;三カ木行き;城山高校下車)>城山ダム管理事務所>城山大橋>津久井湖城山公園花の苑>津久井城址登山口>飯綱権現>山頂>津久井湖城山公園花の苑・刊行センター>山道>飯綱大権現>コミュニティ広場>城山発電所>川上橋>大戸>町田街道・大戸>八木重吉記念館>法政大学入口>法政トンネル>尾根道>相武カントリー倶楽部>武蔵岡中>町田街道・東京家政学院入口>東京家政学院前>峠>七国峠入口なし・引き返す>鎌倉古道>町田街道・相原十字路近くに下りる>長福寺>JR横浜線・相原駅

京王相模原線・橋本駅

京王相模原線のターミナル・橋本駅に向かう。多摩丘陵をトンネルでくぐりぬけ、多摩境を越えると車窓から多摩の丘陵が一望できる。尾根道緑道なのだろうか、町田の方角に南に向かって広がっている。先日の散歩で尾根道の乗り換えを間違い、延々と歩いた、あの尾根道である。少々の感慨に浸るまもなく電車は橋本駅に到着。駅前再開発が進んだのか、大型ショッピングセンターが目立つ。これほどの街とは想像していなかったので、少々の驚き。なんとなく、千葉・松戸の駅前の雰囲気を思い出す。

「三カ木行」バスで、「城山高校」で下車

構内でバスの案内を探す。見当たらない。西口に行けばなんとかなるか、と思い進む。バスターミナルはあったものの、津久井湖方面のバスはない。引き返し東口に。津久井湖へは「三カ木行」に乗り、「城山高校」で降りればいい、と。少し待ちバスに乗る。しばしバスの車窓からの眺めを楽しみ「城山高校」で下車。降りたら案内などあるだろう、と思っていたのだが、なにもない。前方に聳えるのが津久井城址のある山であろう、とは思うのだが、確たる自信もない。ダムの堤防のようなものが見える。とりあえず先に進む。





津久井城址登山口
国道413号線を堤防に向かって下ると城山大橋。大橋とは言うものの、実際はダムの堤防。城山ダムと呼ばれる。相模湖を堰き止めたもの。堤防を渡ると「津久井湖城山公園花の苑」。道の先に観光案内所が見える。道脇に「津久井城址登山口」の案内。誘われるように登山口に。階段を少し上る。なだらかなスロープの坂道を進むと、すぐに登山道にあたる。

「宝ケ池」湧水池。
つづら折れの登山道を進む。のぼり道は幾通りかあるよう。どちらに進めばいいのか、きちんとした案内がない。仕方なく、成行きでグングンのぼる。30分以上も歩いただろうか。山道脇に「宝ケ池」。湧水池。この城山にはこういった湧き水が数箇所あった、とか。水が確保できなければ、籠城策もできないわけであり、城郭の生命線。いつだったか小田原を歩いたとき、秀吉の一夜城跡にのぼった。そこの湧水地は規模が大きかったなあ、などと散歩の記憶に少々浸る。

飯綱権現

水場から少しすすむと尾根道に。飯綱権現がまつられてある。飯綱曲輪があった、とか。
飯綱権現、って高尾山の守り神。また、先日、信州の川中島を歩いたとき、信玄・謙信が策を競った妻女山から眺めた信州の山並みの中に飯綱山があった。これもまた、ひとしきり旅の思い出に浸る。
ちなみに飯綱権現って、飯綱山で修行する修験者が信仰したもの。白狐にまたがった天狗がシンボル。飯綱権現は軍神としても知られ、幾多の戦国武将の信仰を得た。

尾根道に「引橋」

飯綱権現を離れ、尾根道を頂上・本城跡に向かう。尾根道にはいくつか掘切跡が残る。堀切には普段、「引橋」が渡されており、一旦事が起こると、その橋を外し、敵の侵入を困難難ものにした、とか。

津久井城
烽火台跡、鐘撞堂跡などから眼下の眺め。南の方角を見下ろす。快適な尾根道を進み山頂から本城跡に。津久井城の案内。ここにくるまで、津久井城について、なにも知らなかった。津久井城のもと歴史的・地理的意味合いをちょっとお勉強;
「津久井城は地理的には、北方に武蔵国、西方に甲斐国に接する相模国の西北部に位置する。そして、八王子から厚木・伊勢原、古代東海道を結ぶ八王子道と、江戸方面から多摩丘陵を通り、津久井地域を東西に横断し甲州街道に達する津久井往還に近く、古来重要な水運のルートであった相模川が眼前に流れていることから、交通の要衝の地でもあった。
また、津久井地域は、その豊かな山林資源がら、経済的に重要な地域としても認識されていた。このように、津久井地域は中世の早い時期から、政治・経済・軍事上の要衝であり、利害の対立する勢力のせめぎあいの地でもあった」と。

何故、こんな不便な場所にお城が、などと思っていたのだが、それって、現在の大都市・東京の視点から考えているだけであって、往古、いまだ東京・江戸が一面の葦原であったころ、この辺りは陸運・水運の要衝の地であったわけだ。

「築城は鎌倉時代、三浦半島一帯に勢力を誇っていた三浦一族・津久井氏による、という。戦国時代、小田原北条氏は16世紀中ごろには相模・武蔵を領国とする戦国大名に発展。その広大な領土を支配し、外敵に対するため本城の下に支城を設け、支城領を単位とする支配体制をつくった。この津久井城は甲斐国に近く、領国経営上重視されており、津久井城(城主内藤氏)は有力支城として重要な役割を果たしていた。現在の遺構は16世紀の北条氏の時代のものである」、と。小田原北条時代の城跡であった、ということか。
「標高375m。西峰の本城曲輪、太鼓曲輪、飯綱神社のある飯綱曲輪を中心に、各尾根に小曲輪が階段状に配置されている。これらの曲輪には土塁や、一部石積みの痕跡も残っている。また、山頂尾根には敵の動きを防ぐため、3箇所の大堀切が、山腹には沢部分を掘削・拡張した長大な、堅堀が掘られている」
「津久井城は独立した山に築かれた「山城」。通常山城は平地が狭いため、城主の館や家臣の屋敷などを山麓に置いた。これが根小屋であり、山麓に根小屋を備えた山城のことを根小屋式山城という。津久井城は戦国時代の根小屋式山城の様子を伝える貴重な遺構が残る。
根小屋は根本・城坂・小網・荒久・馬込地区一帯に広がっていた、とされ。各地域で大小の曲輪が確認できる。とくに、城坂地区には、お屋敷跡、馬場、左近馬屋といった地名が残されており、根小屋の中心であったと考えられる。
お屋敷跡には建物跡や硝煙蔵跡、深さ3mにもおよぶ空堀、土塁跡などが残されており、城主館跡と考えられている」、と。根小屋とか根古屋、って散歩の折々に出合った。秩父にも根古屋があった、かと。いまになってはじめて、その由来がわかった。

登山口に戻る
山頂から下る。道案内がいまひとつしっかりしていない。成行きで下る。小網口へと下る道。が、どこに進むのかはっきりしない。なんとなく西に向かっている雰囲気。いやいや、どんどん西に向かう。予定では、登山口のあたりに戻り、観光案内所で地図でも手に入れようと思っていた。ということは西ではなく、むしろ東に進みたいわけで、少々焦る。途中で分岐。東に向かう道に乗り換え、幸運にも登山口に下りた。「津久井湖城山公園花の苑」内にある観光案内所に進む。が、そこはお土産屋。これといった資料はない。

壁にかかった地図を眺め、大体のルートをチェック。ここから先のルートは、城山湖>町田街道>法政大学>七国峠>JR相原駅といった段取りが、尾根道筋であろうかと、仮決め。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

津久井湖記念館

国道413号線を戻る。城山大橋を渡り、城山ダム管理事務所の横を進む。道脇に「津久井湖記念館」。ちょっと寄り道。津久井湖建設の歴史、というかダム建設で水没した村々の歴史をパネル展示。相模湖で堰き止められた相模川は、途中道志川の水を合わせ津久井湖に注ぐ。そして津久井湖の下流では串川や中津川が合流し厚木、平塚、茅ヶ崎と下り相模湾に流れ込む。源流は富士山麓・山中湖。全長100キロ強の一級河川である。

都井沢交差点

記念 館を離れ、中沢中学脇を進み、都井沢交差点手前を北に折れる。都井沢交差点からは結構大きな道が山頂に続いているのだが、ここはおとなしくEZナビのガイドに従う。先に進む。小道を抜け、あろうことか竹薮の中にリードされる。だいじょうぶか?味気ない道路みちではなく、野趣豊かなルートを選んでくれたのであろうと、とりあえず進む。次第に道など無きに等しい状況に。薮を掻き分け進む。枝に足をとられ、転びつつ、まろびつつ、進む。心の中で、「勘弁してくれ」、と。大転倒数回を経て、右手に車道らしきガードレールが見える。一安心。ガードレールを乗り越え車道に。

ほっと安心。車道を進む。しばらく進み、何気なく胸に手をやる。「あれ、サングラスがない」。10年も昔になるだろうか、家族でグアムにいったときに買ったお気に入りのもの。唖然。先ほどの踏み分け道で転んだときに落としたに違いない。見つける自信はないのだが、とりあえずブッシュ道に戻る。雑草に覆われた道に目を凝らし進む。「見つからない、見つからない、あ、アッタ」。嬉しかった。思わず神さま仏様に感謝。大西滝治郎中将ではないが、神風特攻生みの親・大西中将のフレーズを使えば「深謝」。心の底から感謝、ってこんな状態を指すのであろう。喜色満面、車道に戻る。

飯綱大権現
車道東に都井沢配水地。その先で、城山町若葉台方面からの車道と合流。すぐ先に飯綱大権現。権現様は仏が神という仮の姿で現れた、って神仏習合の賜物。密教というか修験道の影響から生まれたもの。ともあれ、境内から見下ろす津久井湖はなかなかのもの。津久井城址のある小高い山も一望のもと。

城山発電所

権現様で一休みし、さらに進む。1キロ弱歩いただろうか、コミュニティ広場に。野球を楽しんでいる。広場の横は城山発電所。発電所の敷地内を通り、坂をのぼると湖畔に。湖畔といっても、擂鉢上の縁の上。水辺には下りる道はないよう、だ。

城山湖

城山湖。境川の支流・本沢渓谷を堰き止めたダム湖。本沢ダム、とも。とはいうものの、川筋が繋がっているようには見えない。なんとなく、現在では大雨などで溢れた水を放水するために境川水系を使っているようにも思える。

であれば、このダムの水はどこから?チェックした。水は津久井湖から夜間汲み上げている、と。で、電力需要の多い日中に、この城山湖から津久井湖へと落差153mで水を落とし、25万キロワット、12万世帯へ電力を供給している。湖畔に立ち入りを禁止しているのはこのため。揚水と落水の繰り返しで、水位が1日に28mも上下する、と。危なくって、近寄れないわけだ。城山湖のダムが本沢ダム。津久井湖のダムが城山ダム。少々ややこしいが、城山ダムの水を水源にしているのだから城山湖、って論法であれば、それなりに納得。

次の目的地・七国峠に向かう。ランドマークは法政大学・多摩キャンパス。地図をチェックする。城山湖の外周道からは降り口はない。この湖の周りは5キロ程度の素敵なハイキングコースとなっているようだが、時間的にちょっと無理。コミュニティ広場のところから、東に下り、町田街道に続く道筋がある。案内もなく、確信があるわけではないのだが、なんとか進めそうな気もするので、とりあえず歩を進める。 

町民の森の東を下る 
道をくだる。しばらく進み、ダムの堰堤を左手に眺める。進入禁止となっており堰堤に進むことはできない。町民の森の東を下る。大戸、本沢ダム入口、青少年センター入口といった案内を眺めながら、どんどん下る。

上大戸交差点
境川と本沢川が合流する。しばし境川に沿って進み、上大戸交差点に。近くに大戸観音。昔は立派であったのだろうが、現在はさっぱりしたもの。境内に案内:このあたりは横山之荘の相州口。大木戸番所があった。ために大木戸>大戸、と。このあたりは、鶴間から分岐して秩父、高崎方面に向かう「鎌倉街道山之道」でもあった、とか。


法政大学入口
先に進むと町田街道の大戸交差点。町田街道を下る。法政大学入口に。地図をチェックすると相武カントリークラブの中を横切る道がある。そんなはずはない、とは思いながら、多摩の唐木田にある東京国際カントリークラブでは、敷地内を小山田緑地へと進む道があったよな、などと、かすかな望みだけをたよりに進むことに。

相武カントリークラブ

法政大学入口交差点を越えてすぐ、町田街道をはずれて北に小道を進む。しばらくすすむと法政大学トンネルの出口、というか入口。キャンパスの脇を丘陵地にのぼる。竹薮の中をおっかなびっくりで尾根道に。キャンパス近くということで整地されているのかとおもったのだが、ブッシュ。野趣豊かな尾根道を東に進む。相武カントリークラブのフェンスが見える

予想通りというか、残念ながらというか、相武カントリークラブはフェンスに囲まれている。なんとか入口はないかと、フェンスに沿った外周道を北に。しばらく進むと進入禁止のサイン。こんなところに来る人もいないのか、とは思うのだが、もう少し早く案内してほしいもの。引き返す(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

大戸小学校と武蔵岡中学の間に下りる

南に下る。フェンスに沿ってどんどん下る。これで行き止まり、って洒落にならんよな、などと思いながら丘陵地を下る。突然、行き止まり、というか進入禁止。「それはないよな」、と。よっぽどゲートを乗り越えてやろうかともおもったのだが、それも大人気ない、と気持ちを鎮める。あたりを見廻す。なんとなく林の中に踏み分け道っぽい通路。とりあえず進む。前方にフェ ンス。フェンスに沿ってくだる。なんとか平地に。大戸小学校と武蔵岡中学の間に下りることができた。一安心。

東京家政学院入口交差点

南に下り、再び町田街道に。町田街道は八王子の東淺川で甲州街道から南にくだり、町田を下り、東名高速横浜町田インター近くの鶴間まで続く。
町田街道を少し進むと東京家政学院入口交差点。七国峠はこの交差点を北にすすんだ峠道のちょっと東にある。七国峠に続く道はまずもってないだろう、とは思いながらも、とりあえず先に進む。

峠道
東京家政学院前交差点を越え、峠道をのぼる。ゆったりとした上り道。峠を越えるあたりから、七国峠に抜ける道がないかとチェック。それらしき雰囲気のところはあるのだが、整地されているわけでもなく、ブッシュが生い茂る。ちょっと薮に入ってみたが、とてものこと進めるといったものではない。諦めてもとの車道に戻る。

七国峠にこだわるのは、いつかどこかで、鎌倉古道が通る道筋という記事を見た覚えがある、ため。掘割、切り通し、といった風情を楽しむことができないかと、少々残念に思いながらも、藪蛇のうち、とくに蛇が怖くて諦めた次第。

車道を家政学院前交差点に。そこで左折。相原十字路交差点へと向かう。目的地はJR横浜線・相原駅。久しぶりにEZナビをセット。なじかわ知らねど、相原十字路まで進まず、途中から山道に入れ、とのガイド。もう峠道は結構、とはおもいながらも、とりあえず案内の通り先に進む。峠道といっても車の走る大きな道ではある。

峠をこえたあたりから、「下界」が開ける。方向からすれば相原とか多摩境といった街並みではあろう。やはりこのあたりは尾根道である、といったことをあらためて実感。城山湖から結構下ったはずではあるが、大戸そして法政大学、七国峠といったあたりが尾根筋なのではあろう、か。

鎌倉古道の案内

峠を越える。この道筋であれば、ひょっとすれば七国峠へと続く鎌倉古道にあたるかも、といった淡い期待。大正解。道脇に鎌倉古道の案内があった。南の雑木林に入ることになる。北にも道筋。ひょっとすれば北に進み七国峠に続く道案内があるかと、ちょっと北に。案内はない。北に進む整地された道のほか、雑木林に入る道もある。どちらかよくわからない。日も暮れてきた。本日はやめとこうと、峠道・車道に戻る。

JR横浜線・相原駅



車道脇の鎌倉古道案内のところから、山道に入る。心持ち掘割といった雰囲気が残る。雑木林の中を進むと二股に。切り通しといった雰囲気の道を下る。ほんの、あっという間に雑木林を抜ける。畑の脇を下り、里にでる。林の縁を進むと鎌倉古道入口の案内。どうも、さきほどの分岐で違った道を歩いたようだ。とはいってもなんの案内もないわけで、致し方なし。後は一路東へと進みJR横浜線・相原駅に。一路家路に。


相原駅から乗った電車の車窓から丘陵の姿をチェック。電車後方、というから八王子方面だが、小高い台地が聳えている。その台地は東からの台地と繋がっている。相模と八王子、そして多摩はこの台地で隔てたられている。地図を見ただけでは平坦な活字情報が目に入るだけであった。が、これからはこのあたりの地図を眺めたとき、地形のうねりも共に感じることができるではあろう。それがどうした、ということではあるが、自分としては、理由なき達成感にひとりほくそ笑む。

水曜日, 7月 18, 2007

八王子散歩:里山&雑木林&尾根道を歩く


会社の同僚から散歩のお誘い。どこか丘陵地を歩きたい、と。はてさて、どこにしようか。八王子から飯能にかけての金子丘陵もいいか、はたまた多摩丘陵・よこやまの道にしようか、とあれこれ思案。で、結局は八王子・片倉駅から絹の道に下る、里山&雑木林&尾根道コースを歩くことにした。先日、絹の道散歩のとき、絹の道資料館で頂戴したハイキングマップに掲載されていた、この「由井の里山自然探索コース」に、なんとなく惹かれるものがあったからである。里山とか雑木林とか尾根道といったキーワードには、滅法弱い我が身ではある。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)




本日のルート;京王線・片倉駅>住吉神社・片倉城址公園>国道16号線・東京環状>JR横浜線交差>日本文化大学入口交差点>浅間神社>片倉高校前交差点西>雑木林の尾根道>御殿山・多摩丘陵自然公園>国道16号線>御殿峠交差点>山野美容芸術短大>多摩養育園>御殿山尾根道>道了山跨道橋>大塚山公園・道了堂跡>絹の道>絹の道資料館>鑓水>柚木街道・谷戸入口>鑓水中学・鑓水公園>小山内裏公園>戦車道>南大沢給水所>尾根道幹線道路と交差>桜美林大学野球場>上小山田町>小山田南小学校>小山田桜台>下小山田町・高齢者在宅サービスセンター>宮ノ前公園>すみよし緑地>下小山田町・大泉寺西>よこやまの道上口>大妻女子大多摩キャンパス>小田急・唐木田駅

京王線・片倉駅
京王線・片倉駅で下車。片倉の地名の由来は、「カタクリ」の群生地があったから、とか「集落の片側が崖」という地形を表す言葉であるとか、例によって諸説あり。駅前はいたって素朴。国道16号線を南に下る。

湯殿川
京王線のガードをくぐり、片倉交差点で北野街道を越え、湯殿川にかかる住吉橋を渡る。湯殿川源の流は、と地図を辿る。ほぼ西に向かう。高尾近くの町田街道沿いの拓殖大学あたりが源流点のようだ。京王線・長沼近くで浅川に合流する淺川水系の一支流である。ちなみに、住吉橋のひとつ上流に「カタクリ橋」。地形の「カタクリ説」の存在がわかっただけで、同じ地名がそれまでと違った地平に見えてくる。

住吉神社
住吉橋を渡るとすぐに西に折れる。ちょっと進むと住吉神社。片倉城の鬼門除けとしてまつられた、と。池というか湧水池というか、崖下に湿地が残る。本格的なカメラを構えた多くの人たちが池に向かって盛んにシャッターを押していた。情感乏しきわが身としては、風情よりは時空散歩へと石段をのぼり、おまいり。
室町期に片倉城主・長井某が摂津の住吉神社を勧請したとか、大江某が長門の住吉神社を勧請したとか、由来はあれこれ。定説はない。
住吉神社の祭神って、伊邪那岐大神の子供である、底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命。神功皇后が三韓征伐の際、この住吉三柱の守護により無事に目的達成。摂津国西成郡田蓑島(現 大阪市西淀川区佃)におまつりしたのがはじまり、と。
住吉三柱まつる神社は全国に2100ほどもあるそうだ。が、あれこれ散歩をしても、東京近辺ではあまりみかけない。佃島の住吉神社は有名だが、それって家康とのつながりで江戸期の話。この地の住吉神社は室町期に開かれた、とのことであるが、なんとなく「?」が残る。そのうちに調べてみよう。

片倉城址

住吉神社を離れ、片倉城址に向かう。といっても、同じ台地内。成行きで歩いていると、偶然にも「片倉城址」への案内。『新編武蔵風土記稿』によれば東南は沼地、西は高い平地。高さ20m程度の山にある、という。
坂道というか、竹林の細をのぼる。台地上に広場。本丸、二の丸、三の丸(今は畑)があったところ。空堀、縦堀、土塁、馬出などの遺構が残る。築城時期は室町前期と推定されてはいるが、よくわかっていない。鎌倉幕府別当大江広元の子孫の長井道広が築城し、その後、山之内上杉氏に属する大石氏が支配して鎌倉道を守っていたとの説が有力。大江氏がこの地に関係をもったのは建暦3年(1213年)の「和田合戦」での活躍のため。この合戦において、多摩に覇をとなえる横山時兼以下の横山党は和田義盛に組し、北条軍に戦いを挑む。が、武運つたなく戦に破れる。ために多摩の横山庄は幕府に領地没収され、結果、大江広元に所領が与えられることになった、とか。

大江広元
大江広元といえば鎌倉散歩が思い出される。頼朝のお墓の近くに眠っていた。頼朝を支えた実務型官僚といったタイプの人物であったかと思う。朝廷の下級官僚から身を起こし、初代政所(まんのどころ)別当にまでなった人物。頼朝に守護・地頭設置を献策したのは、この広元と言われている。
以下、真に勝手な想像であるが、このあたりには由井小学校とか由井中学校といった名前が残る。現在の地名にはないのだが、昔はこのあたりは由井村といった、とか。先ほどの和田合戦で横山党と北条軍が戦ったのが「由比ガ浜」。勝者大江氏がこの地に領地をもったとき、鎌倉由来の「由比>由井」をいう地名を使ったのだろうか。勝手な想像というか妄想。なんら根拠なし。が、自分では妙に納得。

兵衛川

片倉城址公園を離れ、国道16号線を南に下る。JR横浜線をくぐり兵衛川にかかる兵衛橋を渡り、日本文化大学入口交差点を過ぎる。兵衛川の源流はすこし南に下った熊野神社・福昌寺のあたり。流れはJR横浜線に沿って北に進み、横浜線を越えたところで湯殿川に合流する。

浅間神社
交差点を少し南に進み、国道16号線を離れる。少し西に進むと小さな祠。浅間神社、と。清々しく整っている。地元の人達のお世話の賜物であろう。浅間神社脇から細い道が丘に向かう。
周囲には里山の風景が広がる。散歩をはじめていくつもの美しい里山に出会った。多摩というか町田の小山田の里もよかった。埼玉・寄居の車山あたりの里山も忘れられない。狭山湖に近い野山北・六道山公園あたりの里山もいい感じであった。心休まる風景がまだまだ残っている、などと、散歩で出合った里山を思い起こし先に進む。

大きな車道。16号線・片倉高校前交差点からJR横浜線・みなみ野駅に続く。地図で見ると駅の西には「八王子みなみ野シティ」が広がる。かつての里山を切り開いた住宅地。計画では28,000人が住むことになる、とか。

雑木林の尾根道
車道を越える。ここからは雑木林の尾根道。木橋と崖に注意、といった看板もある。確かに雑木林越しに眺める谷との比高差も結構ある。雑木林を抜けるとしばらく砂利道が続く。そのあたりでは西側が開ける。広がる住宅街は「八王子みなみ野シティ」、であろう。天気がよければ、北から南にかけて大菩薩、高尾、富士山、丹沢の山々を見ることができる、とか。あいにく天気が悪い。ちょっと残念。砂利道を進むと国道16号線・東京工科大学前交差点から延びる車道。これも「みなみ野シティ」に続いている。

御殿山の山裾をぐるっと迂回
車道を横切りふたたび丘陵地に。御殿山の山裾をぐるっと迂回する道筋。このあたりは昔「多摩丘陵自然公園」と呼ばれていた、と。昭和25年の指定。片倉から多摩市の桜ヶ丘公園にかけての丘陵地が、そう呼ばれていた。カシミール3Dでチェック。

地形

聖蹟桜ヶ丘公園方面からいわゆる横山の道、そして戦車道、小山内裏公園をへて御殿峠に続く尾根道、そしてもうひとつ、平山城址公園、というか高幡不動方面から平山城址公園、長沼公園、野猿峠から大塚山をへて御殿峠に続く尾根道が見える。こういった丘陵地を「多摩丘陵自然公園」としたのだろう。景色のよい尾根道が続いていたのではあろう。が、都市開発の影響で尾根道はところどころで分断され住宅地に変わっている、と。「みなみ野シティ」もそのひとつ。また、先日歩いた野猿峠と大塚山の間にある北野団地もそういった雰囲気であった。もっとも、多摩ニュータウン全体が多摩丘陵を切り開いたものであるわけで、始めて多摩・南大沢一帯を目にしたときの、あの「近未来的空間」に迷い込んだといった感覚を思い出せば、大概のことは「普通」に思えてはしまう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

御殿峠
夢見から散歩に戻る。御殿峠を迂回するこの道筋には相原から続く昔の鎌倉道も合流している、と。地図には、日本閣の近くに鎌倉道が合流していた。が、残念ながら確認できず。
丘陵を抜けると国道16号線。自然公園前交差点。すこし東に戻り御殿峠に。名前の由来は粟飯原氏だか、藍原氏だかの館があった、とか。
が、この峠で思い出すのは明治天皇の兎狩り。明治14年のこと。その狩をことのほか愛で、急遽、もう一日兎狩りとあいなった。で、そのお狩場となったのが、聖跡桜ヶ丘の地であった。このことは聖跡桜ヶ丘散歩でメモしたとおり。

御殿山尾根道に

御殿峠からは国道を離れ、山野美容芸術短大のところを東に入る。少し進むと多摩養育園。御殿山尾根道に抜けるには、この養育園の敷地内を通ることになる。
地層観察ポイント
駐車場には土がむきだしになった崖。地層が観察できるようになっている。赤土の下に礫っぽい地層。こういったところに地下水が溜まるのだろう、などとなんの根拠もなく、ひとり納得。地層観察ポイントをはなれ園内をあちら、こちらと進み、尾根道を探す。

道了山跨道橋

なんとかかんとか尾根道に。フェンスに沿って進む。フェンスの向こうは東京工科大学であろう。尾根道はほぼ西から東に進む。尾根道はいい。尾根道というだけで、心が弾む。
しばらく進むと跨道橋。国道16号線のバイパスを跨ぐ、道了山跨道橋。橋の少し南は鑓水峠。橋の上から南北の景色を眺める。結構いい景観。

大塚山

橋を渡ると前方に小高い山。大塚山である。標高213m。山裾を時計と逆周りに歩き「絹の道碑」に。先日、この絹の道を歩いたとき、行けなかった山頂の「道了堂跡」に進む。先回は、絹の道記念館の閉館時間が気になり石段を登る余裕がなかったわけである。

道了堂跡

山頂には礎石が残る。道了堂跡だろう。「絹の道」での商売が盛んなりしとき、この地の絹商人・鑓水商人が財を誇ってか、浅草花川戸から勧請したもの。が、鑓水商人の衰えとともに、今は、ない。

尾根道緑道を経て小田急線・唐木田駅へ
石段を下りで絹の道を下る。絹の道資料館に立ち寄り、鑓水を過ぎ鑓水小山給水所のところまでは、前回の散歩と同じコース。前回はここから多摩境の駅に進んだが、今回はここから小山内裏公園を抜け尾根道緑道を経て小田急線・唐木田駅へと進むことに。

小山内裏公園

小山内裏公園って、結構ありがたそうな名前。由来についてははっきりしないが、このあたりの地名が「小山ケ丘」であり、また、小山内裏公園の北、多摩ニュータウン通りに沿って、内裏谷戸公園とか、内裏橋といった地名がある。ふたつの地名「小山」+「内裏」=小山内裏、としたのであろう。
小山内裏公園の

戦車道

中の尾根道を進む。尾根道緑道とも戦車道とも呼ばれている。これも既にメモしたとおり、昔相模原にあった陸軍造兵廠で製造された戦車の走向実験がこの尾根道でおこなれた、ため。淵野辺のあたりは戦前、陸軍兵器学校・陸軍航空技術飛行機速度検定所や原町田憲兵分隊が駐屯する陸軍の街であったわけだ。戦後は米軍が接収。米軍補給廠となる。戦車道には陸軍の戦車に替わって米軍の戦車やブルドーザーが走っていた、と。

尾根道幹線と交差

尾根道緑道を進む。ところどころに見晴らし広場。相模原の町並み、丹沢の山並みが広がる。少し進むと尾根道幹線と交差。尾根道幹線道路は、京王線の永山というか若葉台あたりから多摩を東西に横切り、唐木田、長池公園傍をへて町田街道に抜ける。ほぼ「よこやまの道」と並行して進む大きな車道。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

目的地は唐木田であり、本来ならここで尾根道を乗り換えなければならなかったのだが、うっかり。そのまま尾根道緑道を進んだ。尾根道緑道って、小山内裏公園から唐木田に続く尾根道と思い込んでいたわけだ。

桜美林学園野球場
尾根道緑道を進む。桜美林学園野球場のサイン。このあたりから、ちょっとおかしいぞ、とは思い始めてはいた。EZナビで唐木田駅までの距離をチェックすると、縮まるどころか逆に増えている。が、確認することなく歩みを続ける。なんとなく丘陵を下る雰囲気。小山田南小学校、小山田桜台、桜美林協会。住所は下小山田町。これはあまりに、ということで現在地をチェック。あらあら、とんでもない方向に進んできている。最寄の駅はJR淵野辺駅などと、なっている。唐木田までは5キロ弱、と。

町田市リサイクル文化センター

Ezナビで小田急・唐木田駅をセット。ガイドに従い進むことに。町田市のリサイクル文化センターの近くからスタート。市考古資料室などといった惹かれる施設もあるのだが、寄る気力、これなく、先に進む。もっとも時間も5時を過ぎており、閉館してはいただろう。

鶴見川の上流

道を進み、宮ノ前公園脇を進み、水路を渡る。この水路は鶴見川の上流であろう。源流点は町田市の北部、多摩市との境でもある小山田地区。川の脇には小山田神社もある。残念ながらここにも寄ること叶わず。川を渡ってちょっと進むと車の多い、といっても、そこそこの交通量だが、ともあれ、車道に出る。道の東の緑は小山田緑地であろう。

大泉寺
道を北に。大泉寺の案内。ここはいつだったか訪れたことがある。小山田氏ゆかりの寺。鎌倉時代、この地で覇をとなえた小山田有重の館があったところ。有重が家督を行重に譲ったとき、館近くに寺をつくった。高昌寺と呼ばれた。その後、小山田氏が没落。15世紀に大泉寺が開基された。そのとき、高昌寺もこの地に移された、と。

小山田氏
小山田氏のあれこれをちょっとメモしておく。小山田氏の祖は秩父氏。桓武平氏の流れとも。小山田氏の開祖有重は秩父重弘の次男。重弘の長男重能は畠山姓を名乗る。その重能の次男が豪傑で名高い畠山重忠である。小山田氏と畠山氏は兄弟である。有重はもともとは保土ヶ谷の地で榛ケ谷御厨を治めていた。
この地に移ってきたきっかけは、小山田荘の別当に任命された、ため。別当とは馬牧の管理人ということである。上にメモしたように、大泉寺のあたりに館を構えた。有重の母が横山党・横山孝兼(小野孝兼)の娘であったため、その遺領土を継いだ、とも言われる。八王子を根拠地として相模に勢力を広げようとした横山氏は積極的な婚姻政策をとった。秩父氏と縁を結んだのも、そのひとつである。
母の遺領は小山田の地だけではなかった、よう。小野路・稲城・矢野口にもひろがっていた。ために、小野路は次男義重が、稲城は三男重成が継ぎ稲毛氏と称す。また矢野口・小沢城は稲城重成の子の小沢小次郎が領した。また、保土ヶ谷の地は棒谷重朝が継いだ。小山田氏が没落するのは、二俣川で畠山重忠が北条によって粛清された、とき。畠山氏の一族として、稲城三郎重成や棒谷四郎重朝も誅される。
小山田氏が再び歴史上に登場するのは、有重から六代目の小山田高家のとき。延元元年(1336)南北朝動乱の時である。足利尊氏・直義兄弟と戦う南朝軍の一員として名前が登場する。摂津国・湊川の合戦において、新田義貞の身代わりとして討ち死にした。これが小山田高家。湊川の美談として 後世に伝えられた。ちなみに町田市忠生の地名の由来は、この美談による。忠臣高家の生まれた村という ことから忠生村の名がつき、現在での忠生となった。

あれこれ大泉寺や小山田氏のことをメモした。今回は時間なく訪れることはなかったのだが、小山田氏の記憶をぼんやりしてきたので、ちょっと整理といった、按配。

大泉寺のあたりからは、谷戸といった道筋を北に進む。美しい里山が続く。いつだったか歩いた東京国際カントリー倶楽部脇の尾根道から小山田緑道への美しい里山の景観が思い出される。これも時間があれば寄ってみたいのだが、如何せん既に6時が近い。今回は先を急ぐ。

蛇行する坂道を進み尾根筋にのぼる。そこには、ちょっとした公園。これって、「横山の道」への上り口。京王線・永山から続く「よこやまの道」の道筋である。ここに来たのはもう1年も前だろう。ここから小山田緑地へと下ったり、西に大妻女子大の裏を進むも、建設工事のため通行止めとなった、といったことが思い出される。



小田急唐木田駅

公園でしばし休憩のあと、大妻女子大多摩キャンパスの下を進む。道の東の下方向にある小田急電鉄唐木田車庫を眺めながら尾根道幹線道路を越え、右折。小田急電鉄の跨道橋を渡り、唐木田の駅に。本日の予定はこれで終了。うっかり尾根道の乗り換えを忘れ、20キロ近い結構タフな散歩となってしまった。同僚の皆様、失礼致しました。

金曜日, 7月 13, 2007

平山城址・絹の道散歩

先日府中から国立に多摩川に沿って、また立川から府中へと立川崖線に沿って歩いた。その時気になっていたのは、多摩川を隔てて聳える多摩丘陵。あそこは聖蹟桜ヶ丘か、ということはその東の丘は米軍のレクレーションセンターのあるところか、あのあたりは高幡不動か、と、あたりをつけながら歩いた。

そのときふと、平山城址公園ってどのあたりだろう、と地図をチェック。昔南大沢から分倍河原に向かって歩いたことがあるのだが、平山城址公園のそばの道を越え、北野街道に出た。そのときは、日没時間切れのため結局、平山城址公園に行けなかった。そのことが少々心残りであったのだろう。ということで、とある日曜日、平山城址公園へとでかけることにした。

行く前に地図をチェック。平山城址公園のそばに長沼公園がある。またその西には野猿峠・野猿街道が走っている。さらにその西南には「絹の道」のマーク。横浜開港時、八王子で集めた絹を横浜まで運んだ道筋とか。絹の道って、多摩の歴史などを読んでいると、しばしば登場するキーワード。いい機会なのでそこまで足を伸ばすことにした。距離は10キロ程度。が、カシミール3Dでチェックすると、結構なアップダウン。多摩の丘陵を登ったり降りたりの散歩となりそう。少々膝に不安を覚えながらも、まずは最初の目的に京王線平山城址公園に向かう事にした。



本日のルート;京王線・平山城址駅>宗印寺>平山城址公園>北野街道>長沼公園>展望台・南陽口>長沼公園・野猿峠口>絹ヶ丘>白山神社>北野台>大塚山公園>絹の道>絹の道資料館>鑓水>小泉家屋敷>京王相模原線・多摩境駅

平山城址公園駅

平山城址公園駅に降りる。のんびりとした駅前。ローカル線の旅といった風情。駅前で案内をチェック。平山季重を巡る散歩コースといった案内がある。
さて、最初の目的地平山城址公園に行くルートを探す。穏当に歩くとすれば、北野街道をすこし東に戻り、先日南大沢から分倍河原に戻る際に歩いた峠越えの車道であろう。途中から公園に上る入り口もあった、かと。
宗印寺から丘陵に上る
が、地図を眺めていると駅の南、北野街道からすこし丘陵地に入ったあたりに宗印寺。このお寺の裏山あたりから城址公園に上る道があるにちがいない、と故なき「確信」のもと歩を進める。
お寺に着く。眼下の眺めが美しい。登り道はないものかとチェック。お寺の西脇から山に向かう細道がある。とりあえず進む。

先に続く。結局オンコース。しばらく進むと、森を離れ住宅街に出る。住宅街の西端を進む。平山京王緑地に沿ってのぼる。京王研修センターと京王グランドの間を抜け、下からのぼってくる車道を西に折れ、少し進めば平山城址公園の入口に到着。

平山城址公園

平山城址公園の案内;「この地は遠く、嘉永の昔、今より七百七十余年前、源平一の谷の合戦で、熊谷直実と武勇を誇った源氏片の侍大将平山武者所季重の居住地で、居館の跡はこの下の市立図書館あたりにある。左方に突出した丘は丸山と呼び、季重居住の頃は見張り所の置かれたところで、勇士の名に因んでこの苑地を平山城址公園と名付けた」、と。

入口脇に駐車場。尾根筋となっている。案内板をチェック。公園敷地は尾根から下るよう。谷筋に沿ってルートが書かれている。下に進み、公園内を歩いてみたい、とは思うものの、例によってあまり時間もない。次の目的地・長沼公園に進むことに。

野猿尾根道コース

尾根道は「野猿尾根道コース」となっている。長沼公園をへて野猿峠・野猿街道に続いているのだろう。が、この尾根道コース、「私有地のため通行禁止」、と。いまさらそれはない、ということで、進めるところまでは進むことにする。快適な尾根道を進む。しばらく行くと再び「通行禁止のサイン」。その先に、焼け落ちた民家跡。残念ながらこれ以上先に進むのはあきらめ、近くにあった下り道をおりる。

北野街道に戻る

道を下ると住宅街。再び山に入る道はないものか、と意識しながら歩く。が、道は見つからず。結局、北野街道まで戻ってしまった。北野街道を西に進む。適当に進み、EZナビで長沼公園をチェック。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

長沼公園
ガイドに従って、北野街道から離れ、山道に入る。山道といっても車道であり、舗装もされている。この道は北野街道・長沼公園入り口交差点から続く道であった。道は細い。車一台がかろうじて通れる車幅。
しばらく進むと車止め。そこから先は尾根道にのぼる山道だけとなる。公園というより完全な山地。長沼「公園」、という名前故に、芝生の広がる、いわゆる「公園」をイメージしていたのだが、予想外の展開。聖蹟桜ヶ丘公園にしても、平山城址公園にしても、公園とはいうものの、林そのもの、丘陵地そのものだったわけで、なにゆえ長沼公園だけ、いわゆる公園と考えていたのか自分でも理解に苦しむのだけれども、ともあれ、予想外の野趣豊かな自然に直面することになった。

霧降の道コース
しばらく進むと案内。尾根道にはいくつかのルートがある。長泉寺尾根ルート、西長泉寺尾根ルート、西尾根ルートとかとかルートもいくつか用意されている。が、文字通り「脛に傷もつ」我が身としては、あまり膝に負担がないコースと、結局は簡易舗装がされている「霧降の道コース」をとり、尾根に登る。道に沿って「柿木谷戸」が続く。柿木谷戸には西の沢が合流。西尾根の西側にはひよどり沢が下る。尾根道と谷戸が入り組む。尾根に到着。そこからは多摩の街並みが見える。南大沢のあたりだろうか。

野猿尾根道コースを東に

尾根道は「野猿尾根道コース」となっている。西に向かえば野猿口。東に向かえば向陽台口に。さきほどの平山城址公園での「通行止め」のその先など、どうなっているものやらと、ひたすらの好奇心で東に進む。
気持のいい尾根道を進む。途中に展望台。北に広がる高尾、金子丘陵などなどが一望のもと。先に進むと丘陵地の端。山はここで一度切れ、谷地となり、その先に再び平山城址公園に続く丘陵が盛り上がっている。谷地のあたりは宅地開発され、瀟洒な住宅が山裾まで続いている。
平山城址公園と長沼公園は尾根道でつながっているわけではなかった。「通行禁止」のその先の姿を眺め、なんとなく納得し、引き返す。

野猿尾根道コースを西に
尾根道をしばらく西に進むと民家、というかお休み処。先に進み、「バス停方面」といった案内に従い西に進む。住宅街を抜けると野猿街道にあたる。

野猿街道
野猿(やえん)街道は八王子市の中心部と多摩市とを結んでといる。八王子市側の起点は甲州街道。線路を南へ越えて八王子駅南口を経て東へ進み北野に。ここまでは、北野街道とも呼ばれる。北野から南東へと丘を登り、野猿峠を越えて下柚木に。そこで東進して多摩市一ノ宮で川崎街道に合流する。 現在では八王子市街と多摩ニュータウン方面を繋ぐ ルートとして交通量の多い道路だが、かつての野猿峠はかなり険しい山道であったらしい。

野猿峠の名前の由来だが、「武蔵名勝図会」によれば、大石道俊(定久)がこの峠に甲を埋めて碑を建てた、とか。で、当時は「甲山峠」と呼ばれたようだが、その後、甲を申と書き間違え、「申山峠」と。それが、猿山峠となり、江戸の末期には何故だか知らねど、「猿丸峠」となった。で、結局、野猿峠となったのはいつの頃からなのかはっきりしない。国土地理院が正式に「野猿峠」と書くようになったのは、昭和28年から。当時、京王電鉄が峠付近をハイキングコースと整備し、「野猿峠」という名前を使い始めたともいわれるが、確証はないよう。

大石定久
大石定久って滝山城とか戸倉城とか高月城とか、八王子・秋川・青梅散歩の折々に出会う。八王子一帯に覇を唱えた豪族である。そう言えば、東久留米の浄牧寺も大石氏ゆかりの寺であった。滝山城を娘婿の北条氏照に譲り、秋川渓谷の入口の地・戸倉城に隠居したといわれるが、野猿峠で割腹したとか、柚木城に移されたとか、はたまた、この峠下、下柚木にある、永林寺に住んでいた、とか、諸説あり。

野猿街道からの次の目的地は「絹の道資料館」。途中に「白山神社」。どうせのことなら、ちょっと寄ってみよう、ということでEZナビをチェック。ガイドに従い先に進む。野猿街道を少し下り、絹ヶ丘2丁目の交差点西に折れる。南西に進み、白山通りで南に。右手に公園、というかゲートボール場を眺めるあたり、その先に「白山神社」。

白山神社
白山神社。成立の時期ははっきりしないようだが、平安の頃、比叡山西塔の僧、武蔵坊弁慶の血縁といわれる弁智が法華経を納めた関東七社のひとつとされる。このあたり中山村の鎮守様。参道は南から急な階段を上って続いている。北からきたのであまりわからなかったのだが、上りきった台地の端に位置しているのだろう。
比高は結構ある。普通の地図で見る限りでは、こういった地形のうねりなどわからない。最初、この神社に寄ろうと思った時のイメージは、住宅街に鎮座する少々寂しげな神様、と思っていたのだが、とんでもありません。堂々たる社でありました。

北野台

急な階段を降りる、痛めた膝が少々苦しい。台地下に降り、西に向かってすすむ。車道に出る。車道にそって先に進み大きく湾曲するあたりで車道から離れ、急な階段を台地に上る。尾根道でもあるのだろうか、と想像していたのだが、上は住宅街。北野台と呼ばれる。尾根道ではなく、南から続く台地の上に出た。周りは住宅街。西に進む。

大塚山
しばらく進むと再び急な階段。台地のその上にそびえる山といった雰囲気。なにゆえこんな山に引っ張っていかれるのか、EZナビに少々クレーム。山頂に到着。 案内版。案内版のところから里に向かって「絹の道」が続いている。遇然ではあろうが、絹の道に出た。先ほど文句を言ったナビ君に感謝。あえてこのコースを選んでくれたのか、はたまた、資料館に行くにはこのコースしかなかったのか、神のみぞ知る、ってことではあろうが、結構感謝。

この山は大塚山と呼ばれる。標高213.5m。頂上に大塚山公園がある。明治の頃、この地に生糸商人が浅草花川戸から勧請したお堂を建てた。お大尽振りを示したのも であろう。が、明治30年を境に、生糸商人は没落。それと機を同じくしてこのお堂も忘れられ、平成2年に大塚山公園として整備された。

京王片倉駅あたりからこの地までの絹の道をチェック。国道16号線>京王線片倉駅>慈眼寺・白山神社脇>釜貫>片倉台中央公園>大塚山公園、と続く。遡ってもみたいのだが、如何せん時間が足らない。

絹の道
北に向かう思いを抑え道を南に下る。絹の道、といわれるだけで、ありふれた掘割道もありがたいものに思える。時刻は四時を過ぎている。閉館が心配で走るがごとく、翔ぶが如く進む。しばし進み車道に。「史蹟絹の道」の案内。

絹の道資料館

絹の道資料館は道を下ること120m。絹の道って、幕末から明治30年頃までのおよそ50年、この地を通って生糸が横浜に運ばれた。八王子近郊はもちろんのこと、埼玉、群馬、山梨、長野の養蚕農家から八王寺宿に集められた生糸の仲買で財をなしたのが、この地の生糸商人。この地の地名にちなみ、「鑓水商人」と呼ばれた。
鑓水商人で代表的な人は、八木下要右衛門、平本平兵衛、大塚徳左衛門、大塚五郎吉など。この記念館もその八木下要右衛門さんの屋敷跡。アーネストサトウも訪れたことがある、と。
が、資料展示を見ていると、結局、このあたりの生糸商人も、横浜の大商人に主導権を握られていた、とか。その後、生糸が養蚕農家のレベルから官営工場への転換といった機械化により、養蚕農家の家内制生糸業を中心とした商いをしていたこの地の、鑓水商人は没落していった、と。また、鉄道便の発達による交通路の変化も没落を加速させたものであろう。ちなみに、当時この街道は「浜街道」と呼ばれた。絹の道とかシルクロードって名前は、昭和20年代後半になって名付けられたものである。

資料館をはなれ、帰路に。最寄りの駅をチェック。京王相模原線・多摩境まで2キロ強。鑓水地区の道を下り、柚木街道と交差。谷戸交差点を渡り、多摩ニュータウンの
西端あたりにそって南に進む。

鑓水
このあたりも鑓水の地。鑓水って、尖った竹などを崖に刺し、そこから地下水をとった、「遣り水」に由来する。岩盤の層があり、先の尖ったもので刺すと地下水が湧き出るわけだが、その水を瓶などに溜める。その瓶から水を流れるようにしたものを「遣り水」といった、とか。

小山内裏公園
道端に小泉家って昔の農家が残されている。鑓水中学、鑓水公園脇を進む。しばらく進むと、なんとなく昔見たような風景。これって先日南大沢あたりを歩いた 「戦車道」の端あたりにあった小山内裏公園。戦車道って、昔相模原にあった陸軍工廠でつくった戦車の走行実験をしていた尾根道。昔はこのあたりは、一面の丘陵地。人の心配などしなくてよかったのだろう。

多摩境
小山内裏公園の西端に沿ってちょっと台地を下る。谷戸の交差点からこのあたりまでの道筋はほぼ昔の絹の道。絹の道はここからまっすぐ進み、町田郵便局手前で現在の町田街道と平行して下っていた。日も落ち、これ以上絹の道を辿ることもできない。交差した道を西に折れ、多摩境の駅に。本日の予定はこれで終了。

日曜日, 7月 08, 2007

聖蹟桜ヶ丘散歩

京王線に乗っていると、いくつか気になる駅がある。聖跡桜ヶ丘もそのひとつ。聖跡というからには、明治天皇ゆかりの地ではあろう。きっかけがあれば一度歩いてみようと思っていた。そんなおり、古本屋で『多摩歴史散歩;佐藤孝太郎(有峰書店新社)』という本を手に入れた。その中に関戸・連光寺地区のことが書かれている。関戸の渡し、関戸合戦、武蔵一の宮、鎌倉街道、霞ヶ関、そして桜ヶ丘公園。あれこれ見どころも多い。ということで、聖跡桜ヶ丘に。



本日のルート;京王線・聖蹟桜ヶ丘駅>一宮2丁目>多摩川堤>一宮1丁目・小野神社>関戸1丁目>関戸2丁目>鎌倉街道>新大栗橋・大栗川>乞田川>対鴎荘跡公園>小野小町歌碑>(向の丘大橋)陸橋・川崎街道>乞田川脇道に戻る>行幸橋>川崎街道・向の丘交差点への道>春日神社>蓮光寺3丁目>大谷戸公園>聖蹟記念館>桜ヶ丘公園>桜ヶ丘公園管理事務所>聖ケ丘中学>団地>聖ヶ丘遊歩道>多摩養護学校>道なりに連光寺2丁目>関戸5丁目・観音寺>丘に登る・団地>阿弥陀寺>熊野神社>旧鎌倉街道>多摩市役所・図書館>永山橋>乞田>乞田新大橋>鎌倉街道は南下>多摩ニュータウン通りに>愛宕交番前>貝取大通り>乞田川遊歩道>多摩センター入口>パルテノン多摩>多摩センター駅入口>多摩モノレールに沿って北上>三本松陸橋>大塚東公園>鹿島団地>大栗川交差>大塚八幡>野猿街道>大塚帝京大入口>大塚御手観音>野猿街道>中和田神社>大栗川交差>百草地区>稲荷塚古墳跡>桜ヶ丘>寿徳寺>とりで公園>延命寺>京王線・聖蹟桜ヶ丘駅

京王線・聖跡桜ヶ丘駅
京王線・聖跡桜ヶ丘駅で下車。元々は関戸駅と呼ばれていた。どういったきかっけかはしらないけれども、桜の名所「桜ヶ丘公園」と明治天皇が足跡を残した地・「聖跡」をコンバインしたわけである。

小野神社

北口から多摩川の堤に向かう。最初に小野神社を訪ねることにした。一ノ宮地区にある。駅から北西に500m程度。小野神社の名前の由来は、このあたりの地が小野県とか小野郷と呼ばれていたから。府中に国府が出来る前のことである。小野神社はこのあたりに地主神であった、ということだ。
小野県・郷の由来は小野氏による。小野妹子や篁を出したあの小野一族である。その小野氏がこのあたりで牧、つまりは、牧場を経営していた。その後、一族の小野利春が武蔵守として府中に赴任してくる。秩父での牧の経営で実績をあげた、とか。一族のものが国司となってきたわけであるから、土着の小野氏も元気百倍。牧も市営から公営となり、武蔵権介に出世するものの現れる。町田の小野路などで、小野神社といった小野氏の足跡をみることがあるのは、こういったことであった、のか、と納得。
主祭神は「天下春命(あめのしたはるのみこと」。知々夫国造(当地方)の祖神であるというのは、小野氏が秩父から移ってきたことを考えれば、それほど異なことではない。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

ひとつ疑問がある。武蔵一の宮といえば埼玉大宮の氷川神社が知られる。一の宮がいくつもあっていいものか?と、チェック。一ノ宮って、公式に決められたものではなかった。由緒や社勢により自然発生的に決まったもの。大宮の氷川神社は在地勢力の代表として「一ノ宮」と称し、この地の一の宮は、府中の国衙勢力が自分たちの力を誇示するため、近くの小野神社を一ノ宮とした、と。
大宮の氷川神社って斐川=出雲族の代表。その勢力に対抗すべく、国府=大和朝廷側が小野神社を一ノ宮とした、って説もある。ともあれ、一ノ宮って、それなりの「納得感」があれば言ったもの勝ち、というか。

小野神社を離れ、ちょっと多摩川堤に。川向こうは府中あたりだろう、か。先日、府中の郷土の森博物館から国立に向かって多摩川の堤を歩いたわけだが、そのあたりであろう。いろいろ歩いていると、風景と地名、そしてそこの歴史が紐づいてくる。

「一ノ宮の渡し」の碑
堤近くに「一ノ宮の渡し」の碑。府中の四谷を結んでいた。昭和12年、関戸橋の開通まで使われていた、とか。ちなみに、鎌倉街道渡しとして、府中の中河原を結んでいた「関戸の渡し」は関戸橋の少し下流にあった。一ノ宮の渡しとおなじく、関戸橋が開通する昭和12年まで存続していた。

連光寺の丘に向かう
多摩川堤を離れ、次の目的地である「連光寺の丘」に向かう。昔、連光寺ってお寺があったようだが、今はない。

大栗川
聖蹟桜ヶ丘の駅まで引き返し、駅の南口から線路に沿って東に進み鎌倉街道に。大栗川にかかる新大栗橋を渡る。橋を渡ると東に折れる。大栗川は八王子鑓水地区の多摩美術大学あたりを源流とし、柚木街道・野猿街道、川崎街道につかず離れず進み、この聖蹟桜ヶ丘の東で多摩川に合流する。

乞田川
新大栗橋を渡りすぐに東に折れる。もうひとつの川筋。乞田川。小田急線・唐木田駅近くの鶴牧西公園あたりを源流点とし、多摩センターあたりを東に進み、永山あたりより、鎌倉街道にそって北に下り、聖跡桜ヶ丘で大栗川に合流する。

「対鴎荘跡」の案内

乞田川の向こうは連光寺の丘。通称「向の丘」と呼ばれる。この丘に対鴎荘とか、小野小町歌碑があるという。坂道をのぼる。整地された公園が。「対鴎荘跡」の案内。いつだったか隅田の川を歩いているとき、今戸神社近くの白鬚橋のところに「対鴎荘跡」の案内があった。三条実美の別邸であった。いつの頃からか、この地に移された、という。が、はてさて、いったいこんどはどこに移ったものだろう。チェックする。1980年頃まではこの地にあったよう。料亭として使われていた。が、その後荒れ果て、結局取り壊された、とか。

「小野小町歌碑」
公園を離れ、「小野小町歌碑」に向かう。どうも、丘の北端の尾根道にあるようだ。公園のある丘と歌碑のある丘の間には、川崎街道がとおっている。道路を跨ぐ橋・「向の丘大橋」を進むと「向いの丘公園」。対岸の眺めが美しい。桜並木の続く遊歩道の一角に歌碑はあった。ちょっとわかりにくい。「むさしのの向の丘の草なれば根をたずねてもあわれとぞ思う」、と。

小野小町って、散歩のいたるところで顔をだす。生まれたところ、なくなったところ、など小町ゆかりの地は日本28都道府県にある、という。日本人の「なにか」に訴える魅力をもっているのであろう。もっとも、このあたりは小野神社でもわかるように、小野一族が覇をとなえる地。あれこれ伝説がつくられても不思議ではない。
先日歩いた国分寺の「真姿の泉」も、病により顔が崩れた小町が、その泉の水で顔を洗うと、あら不思議、もとの美しい姿にもどった、と。

行幸橋
小町の碑を確認し、今来た道を引き返し乞田川脇に戻る。少し北にすすむ。行幸橋。「聖蹟」桜ヶ丘の名前の由来ともなった、明治天皇巡幸が名前の由来、であろう。

春日神社

行幸橋を東に折れ、坂道をのぼる。この道は、川崎街道・向の丘交差点に続く道。途中、坂をのぼりきったあたりに「春日神社」。おまいりを済ませ、桜が丘公園に進む。

大谷戸公園

連光寺3丁目を北に進むと、大谷戸公園。谷戸とか谷津って、台地に切れ込んだ谷地のこと。いかにもの命名。園内には池などもある。昔は谷戸特有の湿地帯があったのだろう、か。

桜ヶ丘公園

大谷戸公園を進む。大谷戸公園の南東部には桜ヶ丘公園の雑木林が広がる。この大谷戸公園は桜ヶ丘公園の導入部といった位置付け、といってもいい、か。深い緑の中を台地に向かって、どんどん上る。桜が丘公園という名前なので、もっと、いかにも「公園」といった風情を想像していたのだが、ここは緑豊かな台地をそのまま公園とした、といったものであった。

聖跡記念館

少々息を切らせ台地上に。聖跡記念館があった。ギリシャ風柱列の建物。昭和5年、元宮内大臣伯爵・田中光顕によって建てられたもの。明治天皇は雪の連光寺の山々での兎狩り、多摩川の清流での鮎漁などを楽しみにこの地を訪れた、とか。明治14年のことである。
前日、八王子で兎狩りを楽しんだ天皇は、ことのほか、これをよろこび、もう一日遊びたい、と。急遽、この地に来ることになった、と言う。それがきっかけとなったのか、この地がお狩場となる。天皇は翌年再度行幸されただけ(4度行幸があった、とも)のようだが、皇族方はあれこれこの地に訪れたようである。

桜丘公園管理事務所

明治天皇のお立ち台跡・御立野の碑、などを歩き、丘を下る。結構広い公園であり、いくつのもルートがある。雑木林の散策路としては、とびきりの出来のよさ。 どこを進んでも、なんとかなろう、と成り行きで台地を下る。どっちに向かって歩いているのかよくわからない。台地を下り道なりにすすむと「桜丘公園管理事務所」。なんとなく居場所を確認できたので、次の目的地である鎌倉街道・霞が関に向かう。

聖ヶ丘遊歩道

公園を離れ、聖ヶ丘中学脇を通り、団地近くに。聖ヶ丘遊歩道があった。道を進むと、多摩養護学校。連光寺2丁目を道なりに進み鎌倉街道におりる。

観音寺

熊野橋を渡り、関戸5丁目。鎌倉街道を少し北に戻り、一筋西の通りに。旧鎌倉街道。近くに観音寺がある。関戸の名主、相沢伴主が眠る。江戸期、允中流という生け花をはじめた人物。生け花にはそれほどの想いはないのだが、伴主が下絵を書き、『江戸名所図会』の絵師・長谷川雪旦の子の雪堤が仕上げ、木版刷りにした、「調布玉川惣画図」は魅力的。往時の多摩川の風景が蘇る。

観音寺から丘にのぼる。城郭跡があるとか、ないとか。とりあえず、どんな地形がみておこうと丘にとりついた次第。住宅街が広がる丘を進む。住宅街の真ん中に阿弥陀寺。城跡といった雰囲気の場所も見当たらないので、丘を降り熊野神社に向かう。

熊野神社
適当におりていくと、偶然にも熊野神社の脇にでた。熊野神社におまいりをすませ街道脇に下りると、「霞が関」の碑。鎌倉街道の通じるこの地は交通の要衝であった。幾多の合戦が行われているのは、そのためでもあろう。交通の要衝であるがゆえに、この地に関が設けられた。関戸という地名はそのことによる。

関戸の歴史

関戸の歴史を簡単にまとめておく;この地が交通の要衝となったのは、大化の改新で府中に国府が設置された、ため。府中を結ぶ官道がこの関戸を通ることになったわけだ。で、平安時代に「霞ヶ関」がおかれることになる。伝説によれは、平将門によって設けられた「関戸」を追討使・藤原秀郷(俵藤太)が「霞の関」と名付けて打ち破った、と。
鎌倉期には、鎌倉街道がこの地を貫く。府中分倍(河原)から関戸、乞田、貝取をへて鶴(小野路川村=町田市)に通じていた。関戸の地は鎌倉防衛の戦略要衝であった。霞ヶ関は「小山田関」とも呼ばれる。稲毛氏の一族である小山田氏の居館があった、ため。見つけることはできなかったが、城郭は小山田義保のものといわれる。
時代は下り、建武の中興の時、この関戸は西の吉野と並び、東の重要戦略拠点。分倍河原おいて、新田義貞との合戦に敗れた北条氏は総崩れ。関戸の地を敗走する。新田方の追討戦がこの地で繰り広げられる。関戸合戦と言う。太平記などで、合戦の模様が伝えられる。
討ち死に寸前となった北条方の大将・北条泰時を守るべく、身代わりとなってこの地に踏みとどまり奮戦したのが横溝八郎であり、阿保入道父子など。が、奮戦むなしく討ち死に。この地にお墓が残る。観音寺にも横溝八郎の位牌がある、という。また、地元の人達が現在でもなくなった武将の供養をしている、と。
分倍河原の合戦が元弘年(1333年)5月15日、関戸合戦が5月16日。新田軍は17日まで関戸に滞陣。5月18日鎌倉周辺での戦闘。5月21日、有名な稲村ガ崎突破。5月22日北条滅亡。横溝八郎、阿保入道といった忠臣の奮闘むなしく、結局は義貞に鎌倉を攻められ滅亡。
戦国時代に入ると関戸宿は小田原北条氏のもと発達。市が開かれ、商業も活発になり農民から商人になるものも現れる。が、江戸になると衰退する。鎌倉街道といった南北の道がそれほど重要なルートとはならなくなった。甲州街道といった、東西の道がメーンルートになったわけである。

多摩市役所

鎌倉街道を道ひとつ隔てた旧鎌倉街道を南に進む。しばらくすすむと多摩市役所。市役所前の古道に「古市場」の案内。上でメモした小田原北条時代の交易の場であった。市役所敷地に寄り道。ここに図書館がある。多摩市には郷土館が見当たらないので、図書館になんらか郷土資料などないものか、と寄り道。残念ながら、これといった資料は手に入らなかった。

次の目的地は、大塚御手観音。コースは多摩センターまで進むそこからモノレールに沿って北に進み、野猿街道に、といった段取り。

パルテノン多摩
図書館を離れ、永山駅近くの永山橋に。鎌倉街道はここから南に下る。道を西にとり、多摩ニュータウン通りに。愛宕交番前から貝取大通りをへて、乞田川遊歩道に。しばらく歩くと多摩センター入口に。ここでちょっと寄り道。「パルテノン多摩」に。駅から「パルテノン通り」をまっすく南に進んだところにある。コンサートホールなどもあるが、目的は「歴史ミュージアム」。多摩丘陵の開発の歴史が展示されている。一種の郷土資料館といったもの。丁度、相沢伴主の企画展がおこなわれていた。「調布玉川惣画図」もゆっくり見ることが出来た。あれこれ眺め、いくつか資料を買い求め、先にすすむ。


駅に戻り、多摩モノレールに沿って進む。坂をのぼると三本松陸橋交差点。道の東に「大塚東公園」。緑が美しい。ちょっと寄り道。なりゆきで台地を登る。台地上からは東の「愛宕山緑地」に向かって道が続く。比高差が結構ある。途中で切り上げ、北に向かって台地を下りる。下りると鹿島団地。団地の中を成行きで北に進む。大栗川と交差。
先に進むと大塚八幡神社。小高い丘に鎮座する。裏手に最照寺。お寺の脇を下ると野猿街道に。どこかで既にメモしたように、野猿の由来は結構面白い。戦国武将大石某が兜(甲)を置いた峠を「甲山峠」と。で、甲が申に書き間違えられ、いつしか、申(さる)が猿、と。わかったようでわからないけれども、妙に納得する。

大塚御手観音

野猿街道を渡る。一筋北にある通りに進み、大塚帝京大学入口交差点に。北に折れ、すこし坂をのぼると道脇に清鏡寺。「大塚御手観音」とも呼ばれる。
観音の本体は千手観音。秘仏として非公開。由来によれば、このお寺の住職の夢枕に仏が現れ、朽ちた仏像に唯一残った一本の手をもとに、仏像を修復してほしい、と。翌朝、近くのお堂で仏像の手を発見、鎌倉に出向き、腕自慢の老翁に修復を願う。その翁は運慶の弟子の湛慶。断わられるも、粘り勝ち。幾年かたち、できあがった仏像が届けられる。が、その先手観音様には999本の手。1本は仏像の腹の中にあった、と。これが御手観音の由来。
いまひとつ言わんとすることがよくわからないのだが、とりあえず、よし、とする。それよりも、この観音堂、秀吉の八王子攻略戦のころ、柚木領の北条武士の砦として使われた、とか。また、昔、観音堂の東に池があった、と。その池の水は少々しょっぱい、と。山塩があったのだろう。この観音堂から西の谷戸が塩釜谷戸と呼ばれていた。塩を焼く釜があったのだろう。このお寺を塩釜山清鏡寺とよばれるのは、このことによる。

御手の観音の次の目的地は「稲荷塚古墳跡」。野猿街道脇にある中和田神社にちょっとおまいりし、稲荷古墳跡のある「百草」に向かう。ちょっとややこしいのだが、「大塚御手の観音」から北に進んだ京王線・百草園駅方面の地名は「百草」。が、今から進む稲荷古墳のある百草は、逆方向。飛び地となっている。理由などそのうちに調べてみよう。

稲荷塚古墳跡
野猿街道を渡り、南東に下る。大栗川を渡り、百草1140に。EZナビのガイドが頼り。音声の命ずるままに進む。なにもない空き地に誘導。
案内もなにもない。釈然としない。あてどもなく周囲をブラブラ。一筋西に、いかにも古墳跡、といった場所を発見。案内によると7世紀前半の古墳、と。八角墳といった珍しい形であった、よう。このあたりはこの稲荷塚古墳だけでなく和田から百草にかけて古墳が点在している。この多摩の地には結構有力な集団がいた のであろう。

現在古墳上には恋路稲荷。『多摩歴史散歩;佐藤孝太郎(有峰書店新社)』によれば、昔には、恋路が池とか恋路が原という地名があった、よう。鎌倉の頃、そのあたりに「恋路」という遊女がおり、武家とのなさぬ仲をはかなみ、池に身を投げた、と。その太夫をとむらったもの、とか。 国分寺の恋ヶ窪における畠山重忠とあさづま太夫夙妻太夫の悲恋物語のアナロジー、といった趣もある。が、伝説は伝説として楽しんでおこう。

とりで公園
稲荷神社を離れ延命寺に向かう。少し進むと大きな道。野猿街道から多摩ニュータウン通りに南北に下りる道。先に進むと深い緑。寿徳寺がある。佐伯道永が再建した寺。道永は小田原北条の家臣。台地に上る。台地上をぐるっと廻ると見晴らしのいい公園。「とりで公園」と。なんから合戦に関係があるのであろうか。このあたりを「佐伯谷」と呼ばれてるのも、納得。

延命寺
「とりで公園」を離れ、最後の目的地・延命寺に。台地上に広がる桜ヶ丘の住 宅街をゆっくりと下る。桜ヶ丘集会所あたりにロータリー。北西に進み、台地をほとんどおりきったあたりに延命寺。横溝三郎が眠っている、とか。おまいりをすませ、台地を折りきり、再び聖蹟桜ヶ丘の駅に戻る。本日の予定はこれにて終了。