土曜日, 7月 01, 2023

讃岐 歩き遍路;江戸後期までの第80番札所国分寺から第81番札所への旧遍路道

先回、第80番札所国分寺から遍路転がしの急登を上り一本松ルートの遍路道が県道180号をクロスする箇所に車をデポ。そこから北東に進み19丁の打ち戻り遍路道分岐点を経て西に向かい第81番白峰寺を打ち、打ち戻って19丁の遍路道分岐点を更に東進。第82番根香寺を打ち、再度打ち戻し19丁の遍路道分岐点に戻り南に折れて車をデポした県道まで歩いた。
「19丁の打ち戻し」とは19丁遍路道分岐点に立つ茂兵衛道標に刻まれる「第八十二番十九丁打ち戻り」の文字に由来するが、この場合の打ち戻りとは「第82番札所の根香寺へ。そして再びこの道を戻って、第80番札所国分寺へ下る」とのことを意味する。その所以は元々国分寺から白峰寺に向かう遍路道(以下「旧遍路道」と呼ぶ)はあまりに急登であり、それを避けるため、江戸の後期に19丁より南に道を通し、台地より遍路転がしのある一本松ルートを国分寺へと下ることにしたためである。この場合第79番高照院を打ち終えたお遍路さんは第80番札所国分寺に向かうことなく、高屋神社のある五色台西麓より第81番白峰寺、そこから19丁の打ち戻りを越えて第82番根香寺を打った後、19丁まで打ち戻り、一本松ルートを下り第80番札所国分寺に向かうことになる。

19丁打ち戻りの地にあった「旧遍路道」ルート図

で、元々の「旧遍路道」ってどの程度の険路であたのだろうとちょっと気になった。また偶々ではあるが19丁打ち戻り箇所立つ「遍路道に立つ道標(十九丁の道しるべ)」の案内板に「旧遍路道」のルート図があり、そこには結構丁石、標石のマークが記されていた。 過日遍路歩きの途次、この「旧遍路道」の丁石を五色台の台地山裾まで辿ったことがある。その時はルート図もなく、そこで折り返したのだが、案内図にはルートが記されており目安にはなりそうだ。記録ではこの「旧遍路道」は一本松ルートが開かれた江戸後期、また明治に設けられた陸軍第11師団の演習場のため、台地上の道は分断され廃道となった。とある。
とはいうものの、先回歩いた遍路道の途次39丁石に「旧遍路道」が繋がっており、そこには「八十番国ぶん寺へ四十二丁」、「右八十番」といった「旧遍路道」への案内が手印と共に刻まれていた。「八十番国ぶん寺へ四十二丁」の標石の建立年は明治3年(1870)であり、第11師団は明治31年(1898)創設であるので廃道とはなっていないため、それはそれででいいとして、「右八十番」の標石の建立年は昭和11年(1936)。とっくに廃道となっているはすなのだが、陸軍演習場ができたこの時期にも「旧遍路道」はお遍路さんに利用されていたようにも見える。 なんとなく今でも歩けそう。ということで、「旧遍路道」を歩くことにした。メサ形状の台地上には現在陸上自衛隊の国分台演習場・高屋射撃場があるため、あれこれチェックし、香川県が公開している演習日情報ページを参照し、演習がなく、且つ実弾射撃訓練日の無い日を選び五色台に向かった。
ルーティングは過日トレースした11丁石からスタートし、「19丁打ち戻り」の案内にあったルート概要図を参考に「旧遍路道」を辿った。ルート概要は山麓に幾つかの丁石、「へんろ坂大師堂」などに出合い、「旧遍路道」らしき道筋を台地上に上る。予想に反し演習場を区切るフェンスなない。台地に上がればそこは演習場であり、敷地内に立つことになる。不法侵入では、といった感を抱きながら演習場を迂回し県道180号に。 が、今度は県道に出ようにも演習場のフェンスに阻まれ呆然。よく考えれば侵入を防ぐフェンスがあるのは当然であるのだが、ともあれ出口を探すと、19丁の案内図にあった「旧遍路道」ルートが演習場敷地境目の草深い細い道筋を進むと演習場のフェンスが現れ、フェンスに沿って進むと県道に出ることができた。 そのまま県道を進もうか、とも思ったのだが、フェンスに沿って県道を逸れるこの草深い細路にはふたつも丁石が立ち、遍路道案内もある。どう考えても演習場敷地内だとは思うのだが「旧遍路道」トレースの想いに抗することができず県道をを逸れ「旧遍路道」を進む(戻る)。しばらく歩くとゲートがありその先に県道が走る。案の定か。と、ゲート脇に人が通り抜けできるスペースがある。お遍路さんに便宜を計ってくれるのだろうか、などと自分に都合のいいように解釈し、県道に出る。そこから県道をクロスし、なんとか39丁の「旧遍路道」合流点まで繋ぐことができた。
所感としては後述する21丁石までは結構踏まれた感のある道、その先は道がはっきりせず藪漕ぎとはなったが、言われるほどの急登ではなかった。が、しかし。GPSは必携かと思う。また実際歩いてはじめてわかったのだが、上述の如く「旧遍路道」を上ると台地上の演習場にはフェンスもなく、そのまま国分台演習場、高屋射撃場の敷地内に入ることになる。北の県道側からは演習場に入れないようにフェンスで遮られているのだが、南麓側にはフェンスは無い。不法侵入ということになるのだろうか。 歩き終えた者が言うのも何だかなあとは思うが、この演習場を抜けるのはいまひとつお勧めできない。また、演習場の敷地内は遍路道は残ってはいないため、「旧遍路道」を歩くとしても、南麓を台地まで上り大師堂や丁石が残る「旧遍路道」を感じ、そこからピストンで山裾まで戻るので十分ではないだろうか。否、その先39丁の「旧遍路道」合流点までを繋ぎたいのであれば、車で「旧遍路道」が演習場を抜ける県道箇所まで進み。そこから演習場のフェンスに沿って県道を逸れる細路に入り、丁石などを見ながら道を進む。演習場敷地に入ることにはなるが「遍路道」の案内タグなどもあるのでお許し願うとして、上述ゲート脇を抜け県道をクロスし直ぐ先にある39丁の「旧遍路道」合流点に進むのがいいのではないかと思う。ここまでする必要があるのかとも思うが念のため。

当日は過日、遍路転がしのある一本松ルートを辿る途次、ちょっと寄り道し出合った「旧遍路道」に残る11丁石よりスタートしたのだが、国分寺からの「旧遍路道」を辿るというトピックの便宜上、国分寺から11丁石までのルート、更には「旧遍路道」が白峰寺・根香寺遍路に合流箇所から第81番白峰寺までのルートも再掲しておく。
 
 本日のルート;
第80番札所国分寺から11丁石まで■
第80番札所を離れ築地塀に沿って北進>地神と2丁石>3丁石>4丁石>2基の丁石と標石>6丁石>神崎池>8丁石と標石>9丁石>10丁石と標石>11丁石>
11丁石から白峰寺・根香寺遍路道への合流点まで
11丁石>12丁石>お堂前に石造物>13丁石>14丁石>林道に出る;午前8時56分>立ち入り入り禁止看板>立木にリボン>17丁石>リボンと立ち入り禁止看板>へんろ坂大師堂>遍路タグと19丁石>リボンと21丁石>藪漕ぎし踏まれた感のあるルートに復帰>国分台地南端部に出る>自衛隊演習場の周辺部を迂回し県道180号に向かう>フェンスに遮られ県道に出れない>ヘアピン細路に入ると37丁石>遍路札と35丁石>県道180号に出る>県道を逸れ来た遍路道を再び演習場敷地内に入り、ゲート脇から県道に出る>標石と39丁石>40丁石と古田廠舎>白峰寺・根香寺遍路道への合流点
白峰寺・根香寺遍路道への合流点から第81番白峰寺
旧遍路道との合流点>41丁石と標石>42丁石・43丁石>白峰寺奥の院毘沙門窟>44丁石・45丁石>46丁石・摩尼輪塔と下乗石>47丁石・48丁石>根香道案内>本堂前に茂兵衛道標と丁石>第81番札所白峯寺




第80番札所国分寺から11丁石まで

第80番札所国分寺
国分寺についてのあれこれはこちらの記事を参照してください。

築地塀に沿って北に
仁王門から少し西に戻ると直ぐに理髪店があり、その手前に北に進む細路がある。理髪店手前を右に折れ、復元された国分寺の築地塀に沿って進む。




地神と2丁石
田圃の中を進むと緑に茂る木立が前面に見える。その木立の下は塚状となっており地神の小祠と舟形地蔵、そして石仏があった。舟形地蔵は標石となっており、「二丁目」と刻まれる。


3丁石
二丁目標石を右に折れ、田圃の畦道を進み、用水路を渡ったところに舟形地蔵。標石となっており、「三丁目」と刻まれる。








4丁石
用水路に沿って先に進む。ほどなく用水路から離れ左に弧を描く道の先に車道が見える。遍路道は車道に出ることなく先に進む。と、水路に沿った道端に舟形地蔵。「四丁目」と刻まれる標石となっている。





2基の丁石と標石
遍路道はT字路に当たる。左に折れ車道に出ると、その四つ辻の少し南に3基の標石が並ぶ。「五丁目」「*丁目」、手印と共に「へん***」といった文字が刻まれる。道路整備の折、どこからか移されたものだろう。






6丁石
四つ辻からほんの少し北に車道を進むと、道の右手に舟形地蔵。「六丁目」と刻まれる。





神崎池
車道を進むと神崎池。一本松ルートはここを右に折れ東進するが、「旧遍路道」はそのまま道路を北進する。








8丁石と標石
車道を少し北に進むと丁石と標石が立つ。手印と共に「右へんろ道」と刻まれた標石と、「八丁目」と刻まれた舟形地蔵標石。遍路道はここで車道を離れ、田圃の中を進む。






9丁石
田圃の畦道に小さな覆屋のついた舟形地蔵。「九丁目」と刻まれる。







10丁石
舗装された道に出る。少し左に北に進む道。その角に「十丁目」と刻まれた舟形地蔵と手印と共に「へんろ道」と刻まれる。
比較的新し目の石柱。「新へんろ道 (四国のみち)へ」とあり、手印は東を指す。
北に五色台の山塊を構成する国分台のメサ(台地形状)が近づく。




         
       ■11丁石から白峰寺・根香寺遍路道への合流点まで

11丁石;午前8時41分
北へと国分台へと進む道の右手に十一丁目と刻まれた舟形標石。過日の散歩では一本松ルートが主眼であり、ちょっと寄り道のつもりで辿った「旧遍路道」トレースは、この先は五色台を構成する国分台の北麓が迫ることもあり、ここで終えた。この時は「旧遍路道」に関する情報がこの丁石までしかなかなく、その先「旧遍路道」が続くことなど知る由もなかった。

ここからが本日の「旧遍路道」トレースのスタート。11丁石の少し先に適当なスペースを見つけ車をデポ。55正面に五色台山塊のひとつ国分台の卓上台地が見える。藪漕ぎとならないことを祈るののみ。
五色台
Wikipediaに拠れば。「五色台(ごしきだい)は、香川県の高松市と坂出市にまたがる瀬戸内海に張り出した山塊の総称で、ほぼ県の中央に位置する。複数の頂に広い平坦面が連なるメサ(卓状台地)とされている
五色台の名称は、古代中国の陰陽五行説に由来するという。五色の名の付いた紅ノ峰・黄ノ峰・青峰・黒峰・白峰山があり、地形図に記載された昭和35年以降は、山塊の総称とされている。遠方から望む山容は台形で、なだらかに広がる。最高峰の標高483メートルの猪尻山ほか複数の頂に、標高407メートルの国分台(こくぶだい)などの平坦面が連なる。東西約8キロメートル・南北約10キロメートルの山塊で、北北西方向に緩やかに標高を減じる台地の地形(メサ)である」とある。
地図をよく見ると北端は瀬戸内の海岸線まで突き出している。五色台って白峰寺から根香寺を結ぶ山嶺のことかと思っていたのだが、結構幸広大な山塊の総称であった。

12丁石
簡易舗装された道を進む。直ぐ先、左手に池がある先、墓地の前で道は少し左に折れる。その角の少し手前、道の左手の草叢に12丁石。往路では見落としたのだが、復路で出合った。今回のトレースで往路で見逃し、復路で出合った丁石は5基であった。往路で草叢などで見えなかったものが復路では見えたり、踏まれた道らしきところを一筋違う処を下ったために出合ったりとその因はさまざまだが、ピストン往復ならではの賜りものではある。

お堂前に石造物:午前8時46分
道を少し左に折れると墓地の東手にお堂。お堂横には幾つか石造物がある。どれも丁石のようではなかった。



13丁石;午前8時48分
13丁石の先で土径に入る
お堂より墓地の東側を山麓に続く簡易舗装の道を数分歩くと舟形地蔵2基。1基は「13丁目」と刻まれる。錫杖を抱く。もう一基も錫杖を抱く地蔵尊が彫られるが、丁石ではないようだ。
13丁を越えた先で簡易舗装は消え土径となる。

14丁石
道脇左手に舟形地蔵。「十四丁目」と刻まれる。この丁石も往路では見逃し、復路で出合ったもの。往路も復路も沢の左岸の踏まれた感のある道筋を辿ったのだが、往路で見逃したのか、またははっきりした道筋があるわけでもないため、一筋異なる道筋を歩いたためなのかその因は不明。ともあれ結果オーライ。


林道に出る;午前8時56分
林道に出る
踏まれた感のある山道に入る
はっきりとした踏み跡はないため、比較的木々の薄いところ、沢(といっても涸れ沢)の左岸をを成り行きで進むと林道らしき道に出る。林道は東西に結構長く続いている。
林道に出た正面は岩などのギャップがあり先に進めそうもない。道を東西に歩き上り口を探すと、少し西に振った涸沢の右岸辺りから踏まれた感のある道が山に入っている。他に選択の余地もないため、とりあえすその道に入る。

立ち入り入り禁止看板;午前8時58分
山道に入ると直ぐ立木に看板が括られている。風雨に晒され文字ははっきり読めないが「遍路道通行の皆様へ 山上に陸上自衛隊爆破訓練実施中は危険につき絶対に通行できません 引返」といった文字が書かれている。爆破を含む演習も射撃訓練もない日をWEB上の演習場スケジュールで確認しており、本日は何もない日であると自分に言い聞かせ先に進む。

立木にリボン・17丁石
踏まれた感のある道筋を進むと立木にリボンが括られている。オンコースであろうと先に進む。その先に傾いた舟形地蔵丁石。「17丁目」と刻まれている。右手に錫杖、左手に宝珠を持つように見える。実はこの丁石も往路では見つけることができず復路で出合ったもの。この丁石は岩肌がちょっと露出した箇所にあり、往路では日血筋上を進んでいたのだが、露出した岩場の下に踏まれた道がありそこに下りた。丁石はそこから少し戻ったところにあったのだが、往路ではそのまま先に進み見逃した。踏まれた感のある道といってもはっきりしているわけでもなく、一筋異なったルートを取るかどうかで丁石に出合うか否かの典型ではあった。
因みに17丁石から上述看板まで復路で16分かかっているため、おおよそ9時14分頃、17丁石辺りを通ったことになる。

リボンと立ち入り禁止看板;午前9時16分
17丁石から数分あるくと木に括られたリボンとその直ぐ先に再び看板。こちらは文字はほとんど読めない。上述の看板と同じ鉄板のようであり、ここにも「演習場であり注意、引き返し」といった文字が書かれていたのだろうと思う。

へんろ坂大師堂;午前9時23分
掘割などがあり、比較的明瞭な道筋を7分ほ度歩くと建屋があり、中に「へんろ坂大師堂跡 国分大師講中 平成七年国分寺境内に移転」と記された石碑がある。
国分寺境内に移された大師像(右の祠内)
国分寺境内の鐘楼右手にお堂がありそこに移されたお大師さんが祀られている。
「演習場につき注意」や「へんろ坂大師堂」など出合ったこともあり、ここまでは大雑排に言って「旧遍路道」らしき道筋をトレースできているように思える。



遍路タグと19丁石
比較的踏まれた感のあるルートを成り行きで進む。このふたつも往路では出合うことなく、復路で偶々見つけたもの。復路舟形をした白い石が踏まれた感のあるルートから少し離れたところに倒れているのが目に入り、起こして木を支えに立たせておいた。往路では草に阻まれみつけられなかったのかとも思う。往路19丁石から「へんろ坂大師堂跡」まで10分程、遍路タグから「へんろ坂大師堂跡」まで5分ほどのところにあった。

リボンと21丁石; 午前9時58分
何となく踏まれた感のあるルートを進むと木に括られたリボン、その先に「二十一丁目」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前9時58分)。柄香炉を持つようにも見えるがよくわからない。記録では20丁石もあるようだが、出合うことはなかった。 

 藪漕ぎし偶々踏まれた感のあるルートに復帰;午前10時32分
藪の中を台地南端を目指す
と、突然踏まれたルートにデル
21丁石の先で踏み跡がわからなくなる。怖れていた立木の茂る藪に入ってしまう。ひたすら藪漕ぎで案内ルートにあった「旧遍路道」が国分台に乗る箇所に向けて進む。比高差80mほどあるだろうか。と、突然踏まれた感のあるルートに出る(午前10時32分)。記録では24丁石が残るとあるので、この踏まれた感のあるルートを辿れば24丁石に出合えたのかもしれない。残念ながら復路でも24丁石に出合うことはなかった。山中の一筋違ったルートを歩けば出合うこともないわけで、致し方なし。

国分台地南端部に出る;午前10時45分
草藪の先は前面に草の原。
右上が台地南端部のルート目的地
踏まれた感のあるルートを7分程進むと森が開け,前面が草の生い茂る台地南端部に出る(午前10時40分)。そこからは腰まで埋まる草の中を5分ほど進み比高差20mほど上げて演習場として開かれた国分台地南端部に出る。比高差330mほどを2時間かけて上ったことになる。ここで小休止。 

 自衛隊演習場の周辺部を迂回し県道180号に向かう;午後10時50分
台地南端部上り口で小休止
台地南端部の平場で小休止。国分台南の遠景が楽しめる。予想に反し国分台の南麓を上ってきた台地南端部には演習場を区切るフェンスはない。小休止した台地南端部は広い砂利道とその北に平坦地が広がる。少々戸惑う。これって不法侵入?
地図にある「道」を北信するが演習場
らしきところで行き止まり
外周ルートを迂回
演習日がなく且つ射撃訓練日がない日を香川県の告知ページで確認し台地へと上ってきたため人は誰もいない。国土地理院地図には演習場に幾筋もの通路らしき点線が記されている。最短距離で演習場を横切れるかとも思ったのだが、行き止まりとなり、仕方なく演習場の外周を廻る道筋を19丁の打ち戻り箇所の地図にあった「旧遍路道」ルートが演習場を抜ける辺りまで進む。
途中第14旅団に属する第15即応機動連隊(「地上戦闘の骨幹として機動力、火力、近接戦闘能力を有し、作戦戦闘に重要な役割を果たします。尚、香川県及び徳島県北半分の災害派遣・広報を担任しています」と自衛隊資料にある)の資材置き場前などを通り、広い演習場をおおよそ50分かけて迂回し県道前に着く。
陸上自衛隊国分台演習場・高屋射撃場
迂回路途中に自衛隊資材置き場も
この陸上自衛隊の演習場・射撃場は善通寺に駐屯する陸上自衛隊第14旅団の駐屯地業務隊が管理する。 演習内容をチェックすると、自衛隊だけでなく米海兵隊との共同訓練、警察との治安維持訓練などが実施されているようである。 善通寺駐屯地には第14旅団司令部、第15即応機動連隊、第14後方支援隊、第14偵察隊、第14特殊武器防護隊(毒ガス・放射性物質等の対策部隊)、第14音楽隊、第47普通科連隊(一部)、第14通信隊がある。駐屯地指令は第14旅団の副旅団長が兼務する。 駐屯地指令とは「駐屯地の駐屯地の警備及び管理、駐屯地における隊員の規律の統一その他大臣の定める職務を行う」とある。演習場も駐屯地指令のラインに属するのだろうか。
この善通寺駐屯地には戦前まで第11師団が駐屯していた。。初代司令官は乃木希典。日露戦争では乃木将軍率いる第三軍に編入され旅順攻略線、続いて川村景明大将の鴨緑江軍に組み入れられ奉天会戦に参加。その後も、シベリア出兵、上海事変などの戦役に参加。上海事変後は満州に駐屯。太平洋戦争では一部がグアムに派遣され玉砕するも、師団主力は昭和20年(1945)、本土防衛のため四国に戻り終戦を迎えた。

フェンスに遮られ県道に出れない;午後1時40分
フェンスに阻まれ県道に出られない
何となく予感はあったのだが、案の定演習場と県道180号の間にはフェンスが設けられ県道に出ることができない。引き返す?それも芸がない。唯一の望みは、19丁にあった「旧遍路道」は演習場を出た後、県道を横切り、更にその先で再び県道をクロスし演習場方面に入っている。そしてその県道を逸れて演習場方面に入る箇所は演習場フェンスに沿って細路に入ることをGoogle Street Viewで確認していた。
当然自身は今フェンス内に居るわけで、その細路ともフェンスで遮られている可能性もあるのだが、一縷の望みをかけ地理院地図上に点線記載でされたルートへと向かった。

ヘアピン細路に入ると37丁石;午前11時49分
地理院地図の点線ルートに入る
37丁石
5分ほど歩くと演習場からヘアピン状に林へと入る道がある。地理院地図の破線部とも合致している。草の茂る道を進むと道の左手に「三十七丁目:と刻まれた舟形地蔵があった。右手に錫杖、左手に宝珠を持つ姿に見える。道の左右にはフェンスはない。これはひょっとして県道に出られるかも。

遍路札と35丁石
遍路札もある。遍路道なら県道に出れる予感
35丁石も

草の生い茂る道を進むと、道の左手に「遍路道」の札が吊るされている(午前11時53分)。その先道の真ん中、草に隠れるように「三十五丁目」と刻まれた舟形地蔵があった(午前11時54分)。真ん中から折れていたらしく修繕されて上下が繋がっている。正面に宝珠をもった姿にみえるがちょっとはっきりしない。

県道180号に出る;午前11時56分
県道出口(県道側から)。
その先道の右側(南側)にフェンスがはられ、フェンスに沿って歩くと県道180号にでた。一時はどうなることやらと思ったが一安心。19丁の打ち戻しにあった旧遍路道のルートは、この出口箇所の少し東で演習場を抜け、県道をクロスしこの出口に繋がる。ルート図には県道をクロスし土径に入った辺りに丁石のマークが記される。結構さがしたのだが見つけることはできなかった。

県道を逸れ来た遍路道を再び演習場敷地内に入り、ゲート脇から県道に出る;午後12時16分
演習場内に入る遍路道を進むとフェンスゲート
ゲート脇より県道に出る。お遍路さんに
便宜をはかってくれているのだろうか
この先どのルートをとるかちょっと考える。県道をそのまま進み、旧遍路道が演習場敷地内から出るところに進むのが安全パイではある。が、県道に出る細路にはふたつの丁石と共に「遍路道」の案内もあった。遍路道として便宜を計ってくれ。ひょっとして演習場を抜けることができるかも、ということで、フェンスに沿った細路に再び入り込み、ふたつの丁石を見遣りながら演習場敷地内に入る。
少し歩くと正面にフェンスゲートがある。これは引き返すしかないか。と、ゲート脇に人ひとり抜けられるスペースがあった。遍路道を通るお遍路さんに特別に便宜を計ってくれているのだろうと一人納得し県道180号に出る。この間時間がかかっているのは、県道をクロスした箇所にマークのあった丁石を探す為に時間がかかったため。

標石と39丁石;午後12時19分
県道から北に逸れる分岐点に標石
39丁石
県道に出ると直ぐ対面に県道を逸れ北に入る土径がある。その角に比較的新しい標石が立ち、手印と共に「白峰寺二.二 粁 /白峰寺一.二 粁」と記される(午後12時18分)。白峰寺2.2㎞は県道190号を進むもの、白峰寺1,2kmは白峰寺と根香寺を結ぶ遍路道に合流するルートである。 県道を右(北)に逸れ砂利道を進むと直ぐ、道の右手の草叢の中に舟形地蔵・「三十九丁目」と刻まれる(午後12時19分)。柄香炉をもつように見えるがはっきりしない。

40丁石と古田廠舎
40丁石
古田廠舎のフェンスに沿って下る
直ぐ舟形地蔵(午後12時20分)。風雨に晒され摩耗が激しく文字ははっきりしないが、「四十丁目」の丁石だろう。太い針金で補強されていた。その先フェンスでかこまれた建屋がある。先回の散歩で出合った古田廠舎だ(午後12時22分)。廠舎とは、コトバンクに「屋根だけで、四方に囲いのない仮の小屋。特に、軍隊が演習場などで宿泊するための簡単な兵舎をいう。露舎。

白峰寺・根香寺遍路道への合流点;午後12時23分
フェンスに沿って下ると、先回の散歩で出合った白峰寺・根香寺遍路道に「旧遍路道」が合流する箇所に着く。
車道を示す「四国のみち」の標識の立つT字路角に3基、T字路東に2基、計5基の石碑が並ぶ。
T字路角の3基は東から
「八十番国ぶん寺」と刻む
「右八十番」と刻む
●突き合わした手印と共に「八十二番根ごろ寺へ四十二丁/八十一番志ろみね寺へ四十二丁」 、「八十番国ぶん寺へ四十二丁」、「明治三庚午」と刻まれる標石
●これも突き合わした手印と共に「昭和十一年八月 九十六度目 栗田修三」「右八十番」と刻まれる標石








39丁石。根香寺からの丁数
「陸軍用地」石柱(左)と標石(右)
●「三十九丁目」と刻まれた舟形地蔵丁石。宝珠を抱く。

T字路東
●陸上自衛隊古田廠舎のフェンスの前に「陸軍用地」と刻まれた角柱石 
●その対面に、比較的新しいこれも角柱標石。「白峰寺へ 一・一粁]と刻まれる。 

 
このうち T字路角に立つ標石に刻まれる「八十番国ぶん寺へ四十二丁」の丁石、「右八十番」と刻まれる標石はここが第八十番国分寺への分岐点、国分寺側から言えば、白峰寺への「旧遍路道」合流点となっている。
手印と共に「八十番国ぶん寺へ四十二丁」と
五色台南麓を上り、台地上をこの地まで来ていたわけだが、「八十番国ぶん寺へ四十二丁」の標石の建立年は明治3年であり、第11師団は明治31年(1898)創設であるので廃道とはなっていないのでいいとして、「右八十番」の標石の建立年は昭和十一年。とっくに廃道となっているはずなのだが、まだこの時期にも元々の遍路道はお遍路さんに利用されていたのだろうか?それよりなにより、この地で国分寺を案内するってどういうこと?白峰寺から根香寺を打ち、ここまで内戻し国分寺へと下っていったということ?よくわからない。が、ともあれ、これで国分寺からの「旧遍路道」を繋ぎ終えた。車デポ地からおおよそ3時間半かかったことになる。

車デポ地に戻る;午後15時40分 
ここで少し休憩し今来た道をピストンで車デポ地に戻る。途中往路で見逃した丁石などに出合い、大変ではあるがピストンゆえの有難さを享受し午後15時40分車デポ地到着。往復およそ7時間の散歩となった。



白峰寺・根香寺遍路道への合流点から第81番白峰寺

当日は39丁の「旧遍路道」合流点で折り返したが、その先、第81番白峰寺までは先回辿った白峰寺・根香寺遍路道と同じである。便宜上当該箇所をコピー&ペーストしておく。


41丁石と標石
旧遍路道から自衛隊古田廠舎のフェンスに沿って少し歩くと道の左手に自然石で造られた台形の祠があり、その前に「四十一丁目」と刻まれた舟形地蔵丁石がある。地蔵菩薩は宝珠を抱く。台形の自然石祠に2基の石仏らしき石造物が祀られる。
そこから少し歩くと道の左手に大きな角柱標石が見える。手印と共に「根香寺 八十二番札所是ヨリ四十二丁」「四国霊場参拝遍路道」「八十一番札所 白峰寺 是ヨリ八丁 昭和十四年四月」と刻まれる。広島講中が建立したとも伝わるが、多面を持つ珍しい形をしている。 
左に倒れた標石
その東側に倒れた標石がある。手印と共に「昭和十一年八月 九十六度目 栗田修三」ときざまれているようだ。39丁石のあった旧遍路道合流点にあった栗田修三さんの標石が続く。栗田修三氏の標石は土佐の清瀧寺参道(88度目)、伊予の大宝寺・岩屋寺の間(88度目)など四国で9か所確認されているようだ。
なお、40丁の丁石は白峰寺へのピストン往復で注意して探したのだが見つけることはできなかった(後程見つけた資料の中にも41番は記載されていなかった)




42丁石・43丁石
右、上部欠けた丁石
2基の標石の直ぐ東に「四国のみち」の標識。「白峰寺0.7km」と記される。そこから数分歩くと「四十二丁」と刻まれた舟形地蔵丁石。合掌した姿に見える。
更に数分、道の左手に大きな石燈篭とその傍に上部が欠けた舟形地蔵がある。「十三丁目」の文字が残る。








白峰寺奥の院毘沙門窟
「毘沙門天」と刻まれたおおきな石灯篭と45丁目の丁石から北に石が敷き詰められた参道らしきアプローチがある。その先に白峰寺奥の院毘沙門窟が地図に載る。ちょっと立ち寄り。
少し進むと鳥居がありそこから右に折れ急な石段を手摺に捕まりながら、また虎ロープの助けを受け10分弱下ると大岩壁を背にした洞窟がある。白峰寺奥の院毘沙門窟。四畳半ほどの洞窟中央に毘沙門天が安置される。



44丁石・45丁石
遍路道里に戻り、遍路道を東に進むと「四十四丁目」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後12時16分)。赤いエプロンが掛けられていた。そこから数分、道の右手、フェンスで囲まれた白峰寺歴代住職などのお墓などが並ぶフェンス内に「四十五丁目」と刻まれた舟形地蔵丁石。左手に宝珠を持つ姿のようだ。

46丁石・摩尼輪塔と下乗石
数分進むと「四十六丁目」と刻まれた舟形地蔵丁石。数珠をもっているようにも見えるがはっきりしない。
その直ぐ先に五輪塔、覆屋の中に石造笠塔婆、「下乗」と刻まれた笠を被った大きな角柱などがある。傍に二つの案内板。そのひとつ「摩尼輪塔と下乗石」の案内によると、「摩尼輪塔(県指定有形文化財)は、苦しい仏道修行の中でも特に最終の位を表す「摩尼輪」(塔の円盤部分)にちなんでこのように呼ばれています。また、この塔は、下に「下乗」と書いてあり長い遍路道もやっと聖地に近づいたことを教えています。下乗とは、ここからは聖地であるからどんな高貴な者でも乗り物からおりて、自分で歩いて参拝しなさいということです。 この摩尼輪塔は、1321年(元応三年二月十八日、鎌倉時代末期)密教の僧、金剛仏子宗明によって建てられた全国でも珍しい塔です。
一方左手にある下乗石の裏には、1836年(天保七年丙申春三月、江戸時代末)高松藩が古い摩尼輪塔を小屋で覆って保存し新しくこの碑を建てたことが刻まれています」とある。
よく見れば覆屋中にある摩尼輪塔の円盤(摩尼輪)石の下の角柱(塔身)に「下乗」の文字が刻まれる。 また、ほうひとつの「香川県指定建造物 石造笠塔婆」には、「この笠塔婆は白峯参道高松道が白峯寺境内に達した地点に元応三年二月十八日、願主金剛仏子宗明(塔身在銘)によって建立されたもので、角礫質凝灰岩を用いている。
塔は基壇、基礎、塔身、蓋、宝珠と重ねられているが、塔身の正面下部に「下乗」の二字を彫付けているので、下乗石と呼ばれ、又塔身上部に金剛界大日如来の種子バンを刻んだ円盤(摩尼輪)を填込んでいるので摩尼輪塔とも呼ばれている。
摩尼輪とは仏道修行によって悟りを得た究極の位のことで、この塔はこれより白峯の聖地に入る究極地の意から建立されたもので、したがってここより内部は一切の乗物を禁ずるために「下乗」の二字が刻まれたのであろう。この形は全国にも珍しいものである。
もと南、西からの白峯参道にも同様のものが建設されていたが破損亡失していたので、高松藩は各々の地点に再建あるいは添碑を建て、その保存を図った。左側の下乗石はその中の一つで、天保七年三月建立された添碑で、碑の裏側にこの笠塔婆の由来を刻んでいる」とあった。

47丁石・48丁石
その先に「四十七丁目」と刻まれた舟形地蔵丁石。右手に錫杖、左手に宝珠をもつような姿に見える(この地蔵丁石は往路見逃し、復路ピストンで出合いたもの。往路での出合い時刻記載出来ず)。その先、補修され上下を繋いだ舟形地蔵丁石。

根香道案内
白峰寺0.1kmのと記す「四国のみち」標識を見遣りながら進むと白峰寺の建屋が見えてくる。その先きに「讃岐遍路道 根香寺道」の案内があり、「讚岐遍路道 根香寺道
Sanuki Henrouichi Rotte in Shikoku 88 Temple Pilgrimage
Negorojimichi Route (route between Shiromineji Temple and Negoroji Temple
四国八十八ヶ所を巡る遍路道は、徳島県・高知県・愛媛県・香川県の4県にまたがり弘法大師ゆかりの霊場をつなぐ、全長1,400kmにも及ぶ壮大な巡礼路です。古来より人々の往来や文化交流の舞台となっている遍路道には、数多くの石造物等の文化財や「お接待」の文化が残されています。
根香寺道は、第81番札所白峯寺と第82番札所根香寺をつなぐ遍路道で、高松市と坂出市にまたがる五色台にあり、道沿いには道標 (道しるべ)や丁石(道のりを示した石)などの石造物が多く残されるなど歴史的な面影をとどめています。 道標は、主に白峯寺から根香寺の遍路道と別の札所寺院へ遍路道が分岐する場所に設置されています。丁石も道標と同様に重要な構成要素で、白峯寺から根香寺間の遍路道沿いに約109m間隔で50基設置されていたようで、現在も41基確認できます。
承応2年(1653) の澄禅による『四国遍路日記』には「白峰ヨリ五拾町住ミテ根香寺ニ至ル、貞享4年(1687) の真念による 『四国遍路道指南』には「これより根香寺まで五十町。」とあり、現在の丁数と合致しており、少なくとも江戸時代前期には現在の遍路道が使われていたことがうかがえます。 以上のように、 讃岐遍路道 根香寺道は江戸時代前期の遍路道の様子を良好にとどめ、 今も歩くことで当時の歴史的環境を体感できる文化財として重要です」と記される。

小さな韋駄天像
少し進むと白峰寺の塀の前に誠に小さな韋駄天の像が祀られる。傍の案内には
「章駄天 (イダテン)
由来
釈釈のために駆け巡って食料を集めていたとされたことが「御馳走」の由来とも云われ、食に不自由をしないという功徳もある。 釈釈 入佛後、捷疾鬼(しょうしつき)が仏舎利を奪って逃げ去った時、これを追って取り戻したという俗伝から、よく走る神、盗難除けの仏様として知られる。
ご利益
住居の守り神にされる。また盗難・火難除け、身体健全(特に足腰)のご利益あるとされている。さらに、小児の病を除く仏様とも云われる
●ご真言
オン イダテイタ モコテイタ ソワカ」と記されていた。

本堂前に茂兵衛道標と丁石
修繕された舟形地蔵
本堂前に丁石と道標
その先、折れた上部をうまく重ねた舟形地蔵(丁石ではないよう)を見遣り進むと第81番白峰寺本堂前に出る。その前石垣角に3基の石碑。
左から 
●上部が欠け「十丁」の文字のみが見える舟形地蔵丁石。五十丁石であろうか。
●「根香寺へ五十丁」と刻まれた角柱標石
●「右本堂:、手印と共に「八十番根香寺 右納経所 明治二十七年十一月」などと刻まれた茂兵衛道標。138度目巡礼時のものである。


第81番札所白峯寺
白峰寺に到着。39丁の「旧遍路道」合流点から丁石を探しながらあるきおおよそ1時間かかった。もっとも、丁石に出合うとGPS上のウエイポイントをプロットするなど積もり積もれば結構な時間となるかとおもうため、すたすたと歩くなら30分ほどでカバーできるのではとも思う。白峰寺のあれこれは前回のメモをご覧ください。