木曜日, 6月 25, 2015

奥多摩 根岩越え;白丸集落からゴンザス尾根に這い上がり、奥多摩・氷川に下る

Sさんから根岩(ねえや)越えに生きませんか、とのお誘い。30年来の友人であるSさんとは奥多摩・日原から秩父に抜ける仙元峠越え、信州から秩父に抜ける十文字峠越え()、中世の甲州街道である小菅から牛ノ寝の尾根道を上る大菩薩峠越え()などをご一緒させてもらっているのだが、いつだったか、本仁田山からゴンザス尾根を下る山行をご一緒した際、ゴンザス尾根を歩きながら、尾根を横切る根岩越えの話をしたのを覚えていてくれ、声をかけてくれたわけだ。

「根岩(ねえや)越え」とは、かつての棚沢村鳩ノ巣からゴンザス尾根を越え奥多摩の氷川へと下る道。江戸の頃、多摩川にせり出す岩場を穿つ、「数馬の切り通し」が開削されるまでは、この根岩越えが青梅筋と奥多摩を結ぶ唯一の道であった。
「根岩(ねえや)越え」のこととを知ったのは鳩ノ巣渓谷散歩の折り「数馬の切り通し」を訪れたとき。往昔の人や物が往来した「峠越へ」、といったキーワードには滅法弱い我が身としては、早速トライ。が、成り行きで何とかなるだろう、などとお気楽に出かけ、青梅筋の白丸の集落からはゴンザス尾根に取り付くが踏み跡などみあたらない。仕方なく、成り行きでゴンザス尾根を這い上がり、氷川に下るアプローチ付近の尾根鞍部に辿りついた。 が、そこから先も送電線鉄塔の近くから下り道がある、といった程度の事前情報しかチェックしておらず、鞍部近くに建つ日原鉄塔4号、5号辺りから下りの道はないものかと結構探したのだが結局見つからず、根岩越えは諦めた。そんなことをSさんに話をしていたわけである。

で、今回のお誘い。Sさんの話によれば、尾根道を踏み間違い、思いもよらず「根岩越え」に出合ったとのこと、本仁田山から花折戸尾根分岐を経てゴンザス尾根を白丸に下る途中、標高750m辺りに建つTV電波塔付近で尾根道筋を読み違え、日原6号鉄塔を経て、結果、氷川に下りたとのこと。さすがに、途中でゴンザス尾根から離れてしまったことに気づき、これって話にあった「根岩越え」、というわけで早速お誘い頂いたわけである。

ということで、お誘いからから日も置かず二人で根岩越えの登り・下りを辿ることにした。ルートは白丸駅で下車し、白丸の集落を抜けゴンザス尾根鞍部のある標高705m地点へ這い上がり、日原6号鉄塔から氷川に下る。氷川に下る道は急峻とのこと。トラロープは整備されているようだが、念のためロープをリュックに入れて、念願の「根岩越え」に出かける。

本日のルート;青梅線・白丸駅>川合玉堂も愛した白丸散策コース>石畳の道>元栖神社>ゴンザス尾根へのアプローチ道>東京都水道局 白丸第三配水所>沢に沿って西に>ゴンザス尾根鞍部705m地点>日原6号鉄塔巡視路標識>TV電波受信鉄塔>鉄塔巡視路標識>巻き道合流>日原6号鉄塔>(根岩越え)>日原鉄塔巡視路標識7・6>鉄梯子>トラロープを頼りに急坂を下る>氷川の街が見えて来る>東京都氷川浄水場・大氷川配水所>青梅線・奥多摩駅

青梅線・白丸駅;10時51分
青梅線・白丸駅で下車。白丸の由来は、多摩川南岸、白丸の対面に聳える城山(じょうやま)が転じたもの、との説がある。「じょうやま」も、もとは「しろやま」であったものが代官のお達しで読みを変えた、とか。しろやま(城山)>しろまる(城丸)>しろまる(白丸)、ということだろう。また、しろ=田畑または区画を示す「しろ=代」。「その畑地が球形に区切られている」から「しろまる」との説もある(『奥多摩風土記(大館勇吉著;有峰書店新社刊』)。いつものことながら、地名の由来って、諸説あり定まることなし。
青梅線
青梅線は立川から奥多摩駅を結ぶ。はじまりは青梅鉄道。明治27年(1894)、立川・青梅間が開通する。翌明治28年(1895)には青梅・日向和田間が貨物区間として開通。明治31年(1898)になって青梅・日向和田の旅客サービスもはじまった。日向和田・二俣尾間が開通したのは大正9年(1920)のことである。 昭和4年(1929)、青梅鉄道は青梅電気鉄道と名前が変わる。この年に二俣尾・御嶽間が開通した。昭和19年(1944)、青梅電気鉄道は御嶽・氷川(現在の奥多摩駅)間の開通を計画していた奥多摩電気鉄道とともに国有化となる。国有化となったこの年御嶽・氷川間も開通。これで立川・氷川間(奥多摩駅となったのは昭和46年;1971年)のこと)が繋がった。
青梅鉄道が造られたのは石灰の運搬がその目的。石灰を運んだ貨車の一番後ろに1両か2両の客車がつながれていた。「青梅線、石より人が安く見え」といった川柳もある(『青梅歴史物語;青梅市教育委員会』。いつだったか青梅の山稜を辛垣城へと辿ったとき、辛垣城跡が崩れていたのだが、それは石灰をとったため、などとの説明があった。それを挙げるまでもなく青梅は往古より石灰の産地である。江戸城のお城の白壁の原料として青梅の石灰を運ぶ道、それが青梅街道の始まりでもある。
青梅鉄道が早い時期に日向和田にのばしたのは、そこが石灰の積み出し場所であったから。実際、宮の平駅と日向和田駅の間に石灰採掘場跡が残るという。全山掘り尽くし山が消えた、とか。Google Mapの航空写真でチェックすると、山稜が南に張り出し青梅線が大きく湾曲するあたりの山中に緑が消えている箇所がある。御嶽から氷川へと路線を延ばしたのは、この地の石灰を掘り尽くし、更に奥多摩の産地からの積み出しが必要となったからである。

川合玉堂も愛した白丸散策コース
無人駅を下り、山側の道を少し西に進むと道脇に「川合玉堂も愛した白丸散策コース」の案内。道を進むと更に「散策コース」の案内があり、
「昭和19年12月18日 白丸大澤哲治氏邸に寄宿
目ざす家に日のあたりをり霧を踏む 村長に泊めて貰うて柚子湯かな 川合玉堂」とあった。

川合玉堂
川合玉堂は明治から昭和にかけて活躍した日本画家。太平洋戦争末期の昭和19年(1944)7月、かねてより頻繁に写生に訪れていた御岳(東京都下西多摩郡三田村御岳)に疎開、更に12月には古里(古里村白丸に)転じた。
昭和20年(1945)5月には、牛込若宮町の自宅が戦禍にあい焼失。12月に三田村町御岳に移り、住居を「偶庵」、アトリエを「随軒」と称した。現在の玉堂美術館のある場所、と言う。
日本画家である玉堂は俳句や和歌の秀作も多く、「偶庵」はその雅号。偶々(たまたま)、多摩(たま)に庵を結んだといった洒落である。

石畳の道
道なりに進むと、Y字路にあたり、ゴンザス尾根方面である左に折れると石が敷かれた細路が続く。観光案内には「石畳の道」とあった。古道、峠道など散歩の折々に石畳の道に出合うため、それほどの感慨は、ない。






元栖神社;10時56分(標高385m)
車道に出る。右手に社があり「元栖神社」とある。散歩で結構多くの社を辿っているが、「元栖神社」という名前は初めて聞く。如何なる風情、由緒の社かと、ちょっと立ち寄り。
境内に上る石段脇に案内。「元栖神社のイチョウ 元栖神社は白丸の鎮守神でご祭神は猿田彦命、祭礼は八月第三日曜日です。この日には郷土芸能の獅子舞が奉納されて賑わいます。 境内のイチョウの巨樹は四季折々に変化し参詣者を迎えています」とあった。
鳥居を潜って境内に入ると正面に舞台。その脇にイチョウが立つ。石段を上り拝殿と本殿にお参り。「元栖」が気になる。「新編武蔵風土記稿」には、「元栖明神社」と記される。祭神は「猿田彦大神」。為に「猿田彦神社」と呼ばれたこともあるようだ。創建不明。嘉永6年(1853)焼失して資料もすべて失ったと言う。
ということで、「元栖」の由来は不明。昔の「字」名だろうか。近くの「鳩ノ巣」も通称で正式名所ではないが、鳩ノ巣(=栖)があれば、その元の巣(栖)もあってもいい、かと。
なお、境内には川合玉堂の歌碑もあったようだ(昭和20年建立)。「囃子いま 調べ高まり 獅子荒るる ときしもひびく 警戒警報」、と刻まれる。
昭和20年(1945)8月1日-2日、5日には八王子の大空襲。15日は青梅も空襲を受けている。獅子舞奉納の祭礼は8月第三日曜とあるので、この空襲の時とは別の日なのか、祭礼の日が当時と今は異なっているのか不明であるが、疎開時の雰囲気が感じられる。
鳩ノ巣の由来
鳩ノ巣渓谷の岩場に玉川水神社がある。大和国丹生川上神社の中社の祭神で水神の「みずはのめのかみ」を祀る。その岩盤に鳩ノ巣の由来の案内があり、「明暦の大火で焼け野原となった江戸の復興のため木材の切り出しがはじまる。奥多摩・青梅は秩父の名栗筋の西川材とともに、木材の一大供給地。水神社のあたりに切り出し・搬出のための木材番所ができたという。そこに祀った水神社につがいの鳩が止まり来る。そのまことに仲睦まじい姿ゆえに一同心なごみ、霊鳥として大切に扱った。地名も「鳩ノ巣のところ」ということから鳩ノ巣と呼ばれるようになった」とあった。「元栖」の由来は、霊鳥が飛び来る元の巣(栖)のあった地、と妄想した所以である。

天地山遠望
車道を道なりに進み、特別養護老人ホーム前を過ぎると南に突き出した道は大きくUの字に曲がる。車道からは地元の人が“奥多摩槍”とも呼ぶ、天地山(標高981m)の尖った山容が彼方に見える。別名“高岩山”。名前の如く、結構厳しい岩場がある、とのことである。川合玉堂も、「名に負える天地岳は人知らず 奥多摩槍と言わば知らまし」と詠む。

白丸ダム湖・調整湖遠望
Uの字のカーブをを曲がり少し進むと、西に折れ、更に西側の一筋高い山肌を進む道にショートカットする細道を進み車道に。道から白丸湖の湖水が見える。
 ●白丸湖
こ白丸ダムは東京都交通局の管轄という。通常ダムの管轄は水道局であり、東京電力といったものであろうが、どういった事情であろうかと、チェック。 昭和7年(1932)、当時の東京市水道局は水道需要に応えるため小河内ダム建設を計画。その計画を受け、東京市電気局は軌道事業(電車)だけでなく、市が必要とする電力の供給事業を計画。
戦前のあれこれの経緯は省くとして、戦後になり都は発電事業を開始。所管は電気局が組織を変更し、新たにできた交通局が担当することになった。電気局は、戦時の電力事業の国家統制もあり、発電事業を廃止し軌道部門だけとなったため、交通局と改名した。発電した電気は東京電力に卸している、とか。はじめ交通局の管轄、と聞いたときは、てっきり地下鉄の電気確保のためか、などとお気楽に考えていたのだが、掘れば歴史が現れるものである。
ダム湖の水は地下を通り5キロほど下流の多摩川第三発電所に送られる。通常ダムから下流は水量の乏しい河床が多い。しかし、ここは事情が異なる。鳩ノ巣渓谷の狭隘部を堰き止めるダム建設に際して鳩ノ巣渓谷の景観を守るために反対運動が起こったようだ。で、交渉の末、3月中旬から11月中旬までは渓谷の景観維持、つまりは豊かな水量確保のために放水がなされている、と。白丸ダム直下にある白丸発電所ではその放水を利用し発電を行っている。

ゴンザス尾根へのアプローチ道;11時10分(標高421m)
車道からゴンザス尾根へと向かう道は?車道を先に進むと西に折れた辺りで切れている。もうひとつ、ショートカットで上り切った車道から山へと西に上る道もある。どちらがルートかわからない。結局、より山裾に近い所まで続く、後者の道を上る。車道から右に分岐する、手すりのある石垣のスロープを右に折れ、途中、消防用の施設らしき小屋を見遣りながら道なりに進み、森に入る。

東京都水道局 白丸第三配水所;11時18分(標高482m)
森に入ると、少し先に「東京都水道局 白丸第三配水所」が見える。Sさんが準備したルート図にあった「古い水道施設」とも思えないのだが、とりあえず配水所に。踏み跡などないものかと辺りを探すが、それらしき痕跡は見あたらない。
配水所の北には幾段かになった石垣が残る。ゴンザス尾根への登りの道には石垣が残ると言うので、手掛かりでもないものかと、石垣を標高500m辺りから550mへと等高線を垂直に上る。踏み跡を探すが、なにも手掛かりがない。
このままでは目標とするゴンザス尾根鞍部705m地点から大きく外れてしまう。 GPSは持っていたのだが、軌跡のログをとるだけでいいかと、目標ポイントの登録はしていなかった。また、山地図もインポートしておらず、Sさんの用意してくれたルート図には緯度経度がなく、結局、白丸第三配水所まで戻り、一から出直すことにした。

沢に沿って西に;11時52分(標高484m)
白丸第三配水所に戻り、ルート図で見るに、岩場の北を、基本西に向かって進めば目標とするゴンザス尾根鞍部705mに辿りつけそうである。
標高500m辺りから等高線を斜めに600m辺りまで進む。踏み跡などは何も、左手に沢が見える。杣(そま)入沢だろうか。結構深く切れ込んではいるが、岩場といった雰囲気ではないのだが、その時は切れ込みの風情を「岩場」と思い込んでいた。 ゴンザス尾根の鞍部を確認したいのだが、GPS専用端末に地点登録もしておらず、ルート図には緯度経度が記されていない。電波が通じていることを祈りiphoneをオン。かすかに電波が通じる。Google Mapのゴンザス尾根の鞍部にピンを立てると、現在地の西にある。適当なところで沢を西に渡るべし、とポイントを探す。
ルート図標高600m辺り、切れ込んだ沢が少し緩やかになった地点を西に渡る。その跡は、iphoneのGoogle Mapのピンアップ地点に向かって成り行きで尾根へと這い上がる。

ゴンザス尾根鞍部705m地点;12時36分
標高600m辺りから等高線を垂直に等高線670m辺りまで這い上がり、空が開けた辺りに向けて成り行きで進むと、ドンピシャリで目的ポイントであるゴンザス尾根鞍部705mに出た。尾根に南北に伸びる平坦部には先回の「根岩越え」で彷徨った日原4号、5号鉄塔が建つ。
計画ルート
結果オーライではあるが、目的ポイントに出たのは全くの偶然である。Sさんの用意したルート図からは大きく外れていた。ルート図では尾根へと這い上がったルートより南、山地図に岩場マークの北に沿って進むルート、更に南にある沢を上るふたつのルートが記されている。
沢を這い上がった時は、その沢筋が岩場マークの地点かと想っていたのだが、まったく異なったルートを這い上がっていた。実際のルートは、里から山に入ると白丸第三配水所に向かうことなく、510m等高線に沿って西に向かい、岩場北の山塊が迫り出した辺りの平場に古い水道施設(当日は、白丸第三配水所がそのポイントと思い込んでいた)があり、そこからルートはふたつに分かれる。 一つは岩場に沿ってその北を辿り、ゴンザス尾根鞍部に出る。もうひとつのルートは岩場南の谷筋を隔てた尾根筋を上るルートである。
ルート途中には山ノ神や茶屋跡などが残ると言うのだが、その山ノ神を確認した、と言う根岩越えの記録はWEBには見あたらない。近いうちに、GPSに山地図をインストールし準備をした上で、このふたつの計画ルートを辿り、なんとか「山ノ神」を探し当てたいと思う。今も残るかどうかも不明ではあるのだが。。。
ゴンザス
この「ゴンザス尾根」って、どういう意味なのだろう。いつだったか、日原かヨコスズ尾根・長沢脊稜を経て仙元峠を越えて秩父の浦山へと抜けた時にも、ゴンジリ峠という峠があった。「権次入峠」と書くが、元より漢字表記は「音」に合わせたケースが多く、漢字の意味から推測するのは少々危険。
あれこれチェックしていると、ゴンザスの「サス=差、指」は「焼き畑」の意味があるとの記述があった。これって、良い線いってると思うのだが、「ゴン」の意味がわからない。「ゴン」には方角の「丑寅(北東)」、「鬼門」の意味もあるとのことだが、結局「ゴンザス」の意味は不詳である。


日原6号鉄塔巡視路標識;12時43分(標高720m)
標高705mゴンザス尾根鞍部から北に向かい、尾根道を等高線720mに上る。そこに日原6号鉄塔巡視路標識が建つ。そこから尾根を進むことなく、日原6号鉄塔に向かう巻き道がある。この道を進むと等高線を720mから700mに向かって緩やかに下ってゆくようだ。





TV電波受信鉄塔:12時48分(標高745m)
今回は巻道を進むことなく、Sさんが踏み間違えた地点から日原6号鉄塔に向かうことにする。標高760m地点まで上ると周囲が開け電波塔が建つ。パラボラアンテナはアナログ時代の東京MXテレビが使用していたようであるが、現在は全放送局対応のデジタル受信設備に更新されている、とか。
で、この電波受信鉄塔がある辺りは、木々が切り開かれているのだが、その開かれたところから尾根道を下るべく再び木々の中に入る辺りに踏み跡が二つある。左手は尾根道の本道であり、右手は日原6号鉄塔へと下る道である。Sさんは、ここで右に進み本来のゴンザス尾根ルートを外れ、日原6号鉄塔、そして根岩越えと進んだわけである。

鉄塔巡視路標識;12時53分(標高726m)
尾根筋を20mほど下ると鉄塔巡視路の標識「左 日原線5号 右 日原線6号」とある。先ほど出合った「日原6号鉄塔」からの巻道がここに続いているのだろうか。







巻き道合流
西に着きだした等高線700mの突端部辺りの左手に踏み跡の道が見える。Sさんの準備したルート図には尾根鞍部の北にあった日原6号鉄塔巡視路標識から、この地に巻き道が描かれている。それなら先ほどの巡視路標識は何だったのだろう?疑問。






日原6号鉄塔:12時57分(標高669m)
尾根筋を等高線に垂直に下ると等高線680mと670mの間の平坦部に日原6号鉄塔が建つ。日原線の送電線は海沢の東京電力(現在は東京発電)氷川発電所からゴンザス尾根を一気に上り、尾根道をクロスし、日原川の東岸山腹を川苔川との合流点辺りまで進み、そこから先は日原川の西岸を倉沢谷に進み、そこにある変電所まで18の鉄塔で電力を送電する。また、氷川の先、除ヶ野の辺りから一本線を分岐させ、氷川の変電所に下りる送電線を奥工氷川線とも呼ぶようだ。奥工とは、石灰の採石・販売をおこなう奥多摩工業の略であろう、か(『東京鉄塔;サルマルヒデキ(自由国民社)』。

氷川に下る
西に着きだした等高線650の先は断崖。その手前の等高線660mと670mの平坦部を先に進み、等高線650mの南西端、その東が岩場となる手前から南に急坂を下りることになる。トラロープが張られているので、そのロープを目安にすれば、いい。
「根岩」の由来
ところで「根岩」であるが、文字からすれば、根が生えたような大岩、ゴンザス尾根の急峻な岩盤地質を指すように思えるのだが、「納屋」の転化である、との諸説あるようだ。
「納屋」は、いつだったか中世の甲州街道である大菩薩峠から牛の根尾根を越えて奥多摩の小菅へと歩いたとき、大菩薩峠に「荷渡し場跡」があったが、そこの案内に「萩原村(塩山市)から丹波、小菅まで行ったのでは1日では帰れないので途中に荷を置いて戻った。萩原村からは米、酒、塩などを、丹波、小菅側からは木炭、こんにゃく、経木などが運ばれた」、と。納屋はこのような「無言貿易」の荷を収納する小屋であり、「ナヤ」→「ナーヤ」→「ネーヤ」→「ネエヤ」になった、とする。
また、根が生えたような大岩も捨てがたい。白丸からゴンザス尾根の鞍部に這い上がるまで、多摩川に落ち込むゴンザス尾根を越える道が無かった、ということは、その鞍部までゴンザス尾根を越える道を造れなかったということであろうし、その理由は強烈な岩盤に阻まれたためであろう、かとも思う。一度「数馬の切り通し」から尾根を這い上がって、その岩場を実感してみたいものである。

日原鉄塔巡視路標識;13時8分(標高637m)
トラロープを頼りに標高を20mほど下げると、日原鉄塔巡視路の標識。「左 6号  右 7号」とある。更に急峻な坂をトラロープを頼りにゆっくり下る。標高650mから610m辺りまでは南に下る。










鉄梯子:13時16分(標高581m)
標高650mから610m辺りまでは南に、等高線に対してはすこし斜めに進むが、等高線610m辺り右に折れ、東へと向かう。標高580m辺りまで等高線を斜めに進むと岩場に鉄梯子。鉄梯子は2段になっており、途中で方向を変え南に下る。








トラロープを頼りに急坂を下る
鉄梯子を下り、トラロープを握り急峻な坂を下る。道の左手には屏風岩がある。ロッククライミングを楽しむ人には垂涎の地であろうが、高所恐怖症の我が身は岩場見物のお誘いをお断りする。










氷川の街が見えて来る
標高550m辺りから400m辺りまでは基本等高線を垂直に下る。トラロープ整備して頂いた関係者に大感謝。標高430m辺りから木々の間に氷川の栃久保が見える。








東京都氷川浄水場・大氷川配水所;13時35分(標高384m)
ほどなく東京都氷川浄水場が見えて来る。奥多摩の山稜を借景として氷川浄水場を見遣り、浄水場のフェンスに沿って下ると、右手には大氷川配水所施設。ふたつの施設の間の細路を下り、成り行きで奥多摩駅に進み、本日の散歩を終える。 今回の散歩でゴンザス尾根から氷川へ下るルートは確定した。が、白丸の集落からゴンザス尾根に上るルートは準備不足もあって、大きく外してしまった上りのルート途中にある、と言う「山の神」や「茶屋跡」。それが今もあるかどうか不明ではあるが、もう一度トライしようと思う。また、数馬の切り通しから這い上がれるものか、トラバースできるものかどうが、そのルートもチェックに行こうと思う。数馬の切通りの上に祠があり、結構な岩場だったような気もするのだが。。。



最後に「数馬の切り通し」を簡単にまとめておく。
■数馬の切り通し 数馬の切り通しには、国道411号脇にある手作り味噌のお店の脇から数馬の切り通しへの小径へ入る。民家の脇を通り切り通しへの道を進むが、近年大幅な道路工事が行われ国道からも直接上る道が造られている。切り通しにはこの車道から直接上るのが早い。

車道を越えると昔ながらの小径に戻る。杉林の中を進み、沢を過ごすと切り通しに到着。前面の巨岩がきれいに穿ち抜かれている。18世紀初頭、江戸の元禄の頃、岩に火を焚き水で冷やし、脆くしたうえで石ミノやツルハシで切り抜いた。 江戸のはじめまで、白丸と氷川との往来は、上でメモした急峻な山越えの道・根岩越えの道しかなかった。この切り通しができることによって氷川との往来が少し容易になった。物流が盛んになった。どこで読んだか覚えてはいないが、切り通しのできる前後で氷川集落の家屋個数が200戸から300戸に増えた、とのうろ覚えの記憶がある。

切り通しの手前に「数馬の切り通し案内図」がある。切り通しを越える道は江戸の頃、三回にわたりルートが変更されている。今歩いてきたのが元禄期の道筋、その道の少し下、沢に沿って18世紀中頃の宝永の頃のルート、元禄の頃の道筋から途中で別れ沢を橋で越えて切り通しの先に続く19世紀中頃・嘉永の頃のルート 切り通しを越えて先に進むと、道は180度に近い角度で曲がる。しかも石段があり段差となっている。元禄の頃の切り通しの道跡とすれば誠に不自然。ひょっとすると先ほどの案内でみた嘉永の頃の橋を渡したルートとの繋ぎではなかろうか。であればぴったりと道筋が一致する。
先に進むと再び切り通し。その先は岩壁に沿って細路が続く。切り通しも大変だったと思うが、この岩壁を切り崩し、道を穿つのも大変だったと思う。ということは、数馬の切り通しって、イントロ部分の大岩塊の部分だけでなく、この断崖を穿った開鑿すべてを含んだ言葉なのであろう。現在は人ひとり通れる断崖の道ではあるが、これは大正時代に切り通しの下に隧道を通し、道を造ったときに崩したためではあろう。

崖下に、その大正時代の道が見える。足元を抜ける数馬隧道の完成によって、奥多摩・氷川と青梅との車での往来が可能となった、と言う。大正期の道路の遙か下には多摩川の流れが見える。「楓渓・数馬峡の碑」にあった「数馬の切り通しからの眺望は絶景である」、とはこのことであろう。

「楓渓・数馬峡の碑」にも名前のあった山田早苗の数馬の切り通しの描写を挙げておく; ゆく道の大厳の山をさながら切割りて、牛馬の通うばかりに道を造れる処、一町ばかりの程は石敷きたる廊(わたどの)の如くにて、入口に石の門の如く岩立ちたりし所あり(天保12年の山田早苗の『玉川訴源日記』より)。

 ところで「数馬」の由来であるが、これまたはっきりしない。秋川筋に数馬の集落がある。これは中村数馬が開いたところ、とか。まさか、秋川筋から中村さんが青梅筋まで遠征したとも思えない。奥氷川神社の神官に河辺数馬藤原永義がいた。この人物が数馬の切り通しを開いたとの説もある(『奥多摩歴史物語;安藤精一(百水社)』)。由来としてはわかりやすい。
そのほか、すまは「隅」、かは「かど、かき、かぎり」、の「か」であっり、かずまとは「障壁によって限られるところ」との説も紹介されている(『奥多摩風土記(大館勇吉著;有峰書店新社刊』)。例によって、定説は、ない。

金曜日, 6月 12, 2015

讃岐 香川用水散歩 Ⅳ;東部幹線・高瀬支線を辿る

先回の散歩で香川用水東部幹線水路を、始点の東西分水工のある香川用水記念公園からはじめ、都市用水(上水道用水と工業用水)と農業用水の「共用区間」として進んで来た東部幹線水路から高瀬支線が分かれる神田チェック工まで辿った。
今回は、その高瀬支線を終点の高瀬町比地にある満水池まで辿る。香川用水の「共用区間」は水資源機構の管轄、この高瀬支線も途中の二宮チェック工までは「共有区間」であるが、下流部は農業用水専用区間となり香川用水土地改良区の管轄となるようだ。



先回東部幹線水路と高瀬支線の分岐点で散歩を終えた理由は、時間も遅くなったということもあるのだが、本音のところは、この分岐点から先の高瀬支線は衛星写真で見る限り、開渠がほとんど見当たらない、ということもあった。
衛星写真でそれらしき水路施設を推測し、Googleマイマップに仮ピンを立て、確認に向かうといった段取りである。当たるも八卦当たらぬも八卦の手間のかかる散歩となりそうであり、とてもではないが、支線分岐から先を辿る気力が失せていた、というのが本当のところである。日延し、「気力十分」の状態で気分も新たに「探索」を開始しようと思ったわけである。
ということで、先回から日も置かず、「気力十分」の状態で、気分も新たに「探索」を開始すべく高瀬支線の分岐点である神田チェック工に向かう。



香川用水西部幹線高瀬支線;
第一回;東西分水工>長野第一開水路>長野第二開水路>長野暗渠>本篠分水工>財田川サイフォン>伊舎那院>北原第一開水路>北の山分水工>北原第一サイフォン>北原第二開水路>北原第二サイフォン>八月谷第一開水路>八月谷第一サイフォン>八月谷第二開水路>八月谷第二サイフォン>八月谷第三開水路>開渠>和光第一サイフォン>和光第二開水路>和光第二サイフォン>和光第三サイフォン>和光第三開水路入口>和光第三開水路出口>和光第四開水路>和光第四サイフォン(神田大池分水工)>和光第四サイフォン出口>和光第五開水路>トンネルへ>山才トンネル出口>山才開水路>神田サイフォン

第二回;神田サイフォン>玉田サイフォン入口>玉田サイフォン・玉田分水工>宮川サイフォン・向谷分水工>二宮チェック工>トンネルに入る>東長谷分水工>高速を渡る用水の送水管>脇池分水工>清見池分水工>長池分水工>勝田池分水工>高室分水工・国市局>満水池


神田チェック工
神田=こうだ、と詠む。東京に住んでいる者としては神田=かんだ、ではあるが、神田を「こうだ」と詠む地名は結構おおいようだ。もっとも、音が先にあり、それに漢字をあてたのだろうから、漢字の意味から地名の由来を類推するのは少々「危険」ではあるが、観音寺の流岡町にある加麻良神社(かまらじんじゃ)に祭られている神(加麻良神)が神田(三豊市山本町)の地から流れ着いた(Wikipedia)といった伝説などがあり、何の根拠もないが、なんとなく神々しい。

散歩をはじめる。神田チェック工から先の流路に沿って、水路施設らしきものを衛星写真でチェックするに、チェック工から東に2キロ弱ほど離れた山中に2箇所ほどチェックポイントがある。水路施設かどうか現地で確認するまでわからないが、とりあえず唯一の手掛かりであり、その地に向かう、

砂川サイフォン・濁池トンネル
散歩の後で分かったことだが、左岸に分岐した高瀬支線は、神田チェック工のある丘陵から、神田川によって開析された谷下をサイフォン(砂川サイフォン;1キロ強)で潜り、対岸の丘陵に上がり、そのままトンネル(濁池トンネル;800m弱)に入る。地表には姿を現さないようだ。

二宮道標
神田チェック工の左岸に沿って丘陵を下る道があり、車もなんとか通れそう。道なりに進み、国道377号を少し西に戻り、砂川交差点を右折し用水路ラインが道路とクロスする辺りに向かう。
道が左に曲がる箇所に道標が建つ。ちょっと気になりチェック。「右 二宮道(?)」との道標。「従是二宮社 拾六丁」と刻まれているように見える。二宮社とは、この道を北に進んだところに鎮座する讃岐の二ノ宮・大水上神社のことのようである。段取りが良ければ立ち寄ってみようと思う。







玉田サイフォン
丘陵に上る道路を進み、水路ラインが道路とクロスする地点に。左手に水路施設のようなものがあるのだが、それはその脇の池の施設のようである。
水路ラインは道を横切り西へと進み、その先に衛星写真でチェックした水路施設らしきものがある。左に折れる道はあるのだが、草の茂る道であり、とても車で進む自信はない。
道を左手に入ったすぐのところにある池脇のスペースに車をデポし、衛星写真でチェックした水路施設らしき箇所を目指す。竹藪の茂る道を上ると丘陵の尾根道になり、左右の景色が開ける。左手は谷、右手は丘陵が続く。
尾根道を進み、チェック地点に。が、そこは単なる倉庫であった。少々ガックリしながら、前面に拡がる茶畑の写真を撮ろうと倉庫からほんの少し先に進むと、倉庫のすぐ下に水路施設らしきものが見える。泥濘で靴をぐちゃぐちゃにしながら、それでも少しでも乾いた箇所を見付けて水路施設に足を付ける。そこには「玉田サイフォン」と記されていた。
砂川サイフォン・濁池トンネルを抜けた鵜用水路はここに繋がっていた。チェック地点は倉庫で水路施設ではなかったが、結果オーライとする。それはそれとして、この玉田サイフォンまでの水路ラインは尾根筋を通ってきており、途中に谷などの窪地はなかった。ということは、このサイフォンは入口であり、谷筋を挟んだ丘陵にチェックしたポイントは「玉田サイフォン」の出口であろう、と推測。

玉田サイフォン出口・玉田分水工
衛星写真でチェックした次のポイント、直ぐ目の前に見える、谷筋になった対岸の丘陵にあるポイントに向かう。茶畑の道を下り、そして上り水路施設に。そこには「玉田サイフォン・玉田分水工」と記されていた。




車のデポ地点に戻る
次のポイントも衛星写真で明らかに水路施設と読めるのだが、車のデポ地点から少し離れてしまう。また、「玉田サイフォン・玉田分水工」周辺の茶畑への作業道から想像するに、次のポイントには車でも行けそうな道のように思う。ということで、今来た道を車のデポ地点まで一旦戻る。

大水上神社
次の推定水路ポイントへの道筋を思うに、車をデポした地点から県道218号に戻り北上、その先で県道225号に乗り換えて、成り行きで丘陵に上れば推定ポイントに到着できそうである。
道を進むと、ナビに大水上神社と二ノ宮釜跡の名前が現れる。これって、先ほど道標で見た、讃岐の二ノ宮ではあろうし、なにより「二ノ宮釜跡」に惹かれた。今までの散歩の経験から古代に瓦を焼く技術は貴重であり、国分寺や寺院の瓦に使われていた。二ノ宮釜跡がどのようなものが不詳であるが、とりあえず寄り道をすることに。

県道218号を進むと、県道225号の少し手前に大水上神社へと向かう道がある。車が通れるがどうか不安ではあるが、左に折れると田圃の中の道を進むと鬱蒼とした森の中を進むことになる。大丈夫かな、などと思っている頃に左手に社が見え一安心。駐車場にデポし境内に。
随神門・拝殿・本殿
随神門をくぐり、宮川に架かる苔むした石橋を渡る。鳥居から拝殿・本殿に続く参道を進み社にお参り。境内右手にあった絵馬殿らしき建屋にあった社の由緒には「太古より水霊の神として信仰が厚く、延喜式内社で、讃岐二宮と称えられている。社の鎮座する宮川流域は、弥生文化の遺跡が多く、境内は古代祭祀遺跡の宝庫。御本社の奥に夫婦岩と称する磐座がある」との説明があった。
この社、古くより皇室を初め武門武将崇敬篤く、源平屋島の戦に際しては源平両陣営より戦捷祈願があったとのこと。「建久九年二宮社領目録」には、二百町歩の大荘園を有する社とある。また、建長年中(13世紀中頃)の大造営や、応永末年(1427)に社殿大破したる時は、朝旨により讃岐一円に人別銭を、永享年間には国中の用脚を以て再建したとのこと(三代実記)。江戸時代に至っても累代藩主の信仰・庇護を受け、京極氏は社領三十石を寄進している。
時雨燈籠
境内中央拝殿正面に屋根に覆われて建つ。案内には「時雨燈籠(しぐれどうろう) 香川県県指定有形文化財(昭和38年4月9日) 建立 康永四年(1346年)南北朝時代 願主 藤原定村 大工 法橋□□ この燈籠は総高246センチ凝灰岩製である。基礎・中台は六角形で竿全面に雲龍文様を薄肉彫する。建立年代、願主などが明らかな南北朝時代制作の六角形時雨燈籠の貴重な作例である」とあった。

境内の絵馬堂の建屋に、この社の古き写真や境内の社の案内がある。その案内に従い境内を辿る。

四社宮
境内左に四社宮。源平屋島合戦の折、源平両者当社に戦捷祈願したわけだが、壇ノ浦に沈んだ平氏の四将、平教盛(平清盛の弟)、平経盛(平清盛の弟)、平資盛(平清盛の孫)、平有盛(平清盛の孫)が祀られている。
敗者を悼み祀るって、なんだか、いい、と思ったのだが、現実は、平氏滅亡後、社に災いが続いたため、その祟りを鎮めるため祀ったとのことである。




うなぎ淵(竜王淵)
本殿すぐ横。「昔から旱ばつ時、参籠潔齋の上、淵の水を桶でかいだす神事が行われた。黒白の鰻がすみ、黒鰻が姿を見せると雨。白鰻がでれば日照りが続き、蟹が出ると、大風が吹くといわれていた。明治・昭和初期齋行の折、降雨の恵みがあり、感謝祭が行われた」とある。
絵馬堂の案内には、「滝の宮神社。鰻淵の神  祭神;滝田比古命・滝田比売命 古くは三嶋龍神と称されていた。雨の神として信仰が厚く、古代から祈雨神祭遺跡で白鯰・黒鯰の伝えがある」とあった。大水上神社は、古代より水利の神(水上(源))として崇められとする所以である。

千五百皇子社
絵馬堂の案内にあった皇子社に。うなぎ淵の右の石段を上る。小祠は巨大な岩(磐座跡?)に鎮座する。この姿も、いい。絵馬殿にあった案内によれば、「子授けの神として霊験あらたか。母子平安を祈願する妊婦の参拝も多い。社名は「古事記」の「伊耶那美の段」に由来する。社殿は古代祭祀遺跡である「磐座」に鎮座」とある。
「古事記」の「伊耶那美の段」って?チェックすると、黄泉の国で伊耶那美命から逃れる伊耶那岐命が発した言葉。醜い姿に恐れをなして逃れる夫の伊耶那岐命に、「逃げるのなら一日千人殺す」との伊耶那美命に、「それなら一日千五百人を産ます」と伊耶那岐命が返した言葉のことだろう。御祭神は伊耶那岐命、伊耶那美命。

産霊(むすびめ)神
千五百皇子社の逆、古き大木を背に小さな岩が祀られる。「子孫繁栄、子授けの神。御神体は聖職崇拝の陰陽石」と絵馬殿の案内にあった。

二ノ宮窯跡

千五百皇子社の石段を下り、宮川に沿って随神門方向に少し戻ると二ノ宮窯跡。ふたつの窯があり、「大水上神社の境内を流れる宮川ぞいは古来文化の栄えたあかしとして、多くの遺跡が発見されています。なかでも、この二ノ宮窯跡は貴重な文化財として昭和7年4月25日に国の史跡に指定されました。 向かって右側が第一の釜で左側が第二の窯です。
第一の窯の中を見ると、葉脈状に火の通り道をつくり、瓦をのせる畝を放射状に配しています。 傾斜の度合いからみて、これは「登り窯」の一種と考えられます。
第二の窯は、畝の部分が水平につくられ「平窯」と呼ばれています。窯からは瓦の他、杯、硯などが出土しました。おそらく平安後期から鎌倉時代にまたがると思われる遺跡です」とあった。
宮川は、財田川の支流の一つ。この地域の延喜式内社の殆どがこの流域にあるようだ。また、この下流に、銅鐸、銅剣が同時に出土した、向谷遺跡がある(東京国立博物館に保存)。この辺りは古くから開けていたのだろう。 この二ノ宮窯跡は平安末期から鎌倉期のものであるが、三豊市三野町(JR予讃線みの駅近く)の吉宗瓦窯史跡は、日本で最初の瓦葺きの宮殿と言われる藤原宮(藤原京)の瓦の生産地とも言われている。古代よりこの辺り一帯が瓦の生産を行っていたのだろう。
それにしても、瓦は寺の屋根に葺くものであり、神社に瓦を使うことはないのだが、神社敷地内に窯跡があるのは、どういった経緯だろう。

禊場
二ノ宮窯跡から随神門へとむかうと、禊場がある。水を浴び心身を清める聖場と、絵馬殿の説明にあった。

祓戸社
その先に小祠。絵馬殿の案内によれば、「この祠は祓戸社。祭神は瀬織津比売神、速開津比女神、気吹戸主神、速佐須良比女神。人々の心身を祓い清める神々」とあった。

神輿庫と社務所の間を進んだ奥には青葉大神(たばこの神)草野姫命(野の神・草の神)大己貴神(医薬の神)少彦命(田作の神)を祭神とする豊葉神社(煙草神社)、その右に牛神神社(保食神 牛馬守護の神)、左に荒魂神社(大物主神 国土守護の神)が祀られる。
また、うなぎ淵(竜王淵)の先には夫婦岩と称される磐座、「往来は心安かれ空の海 水上清きわれは竜神」と刻まれた空海の句碑があったようだが、見逃した。

道端で偶々見付けた道標に刻まれてた「二宮社」をフックに、何気なく立ち寄った大水上神社であり、二ノ宮窯跡ではあったが、誠に良きリターンを得た。古代におけるこの社と地域の関係、三嶋龍神とは(三嶋大神=瀧神=水神=瀬織津比売神とする説もあるようだ)? また、古来の素朴な水霊の神を祀った社の祭神が大山積命 保牟多別命 宗像大神となった経緯などもう少し深掘りをしたいとは思うのだけど、今回のテーマは用水路散歩。この辺りで社を離れることにする。

宮川サイフォン・向谷分水工
宮川の清流に沿って参道を車で進み、大水神神社の鳥居をくぐり県道218号に出る。道を進み県道218号に乗り換え、衛星写真でピンアップした辺りへと続く道へと県道から左に折れる。道は茶畑の丘陵を上ってゆく。
対向車が来ないように祈りながら上り切り、茶畑の作業倉庫脇に車を停め、ピンアップの場所に向かう。底には「宮川サイフォン・向谷分水工」と記されていた。
水路施設は、この先の宮川の谷筋を越え、川を隔てた丘陵の北に衛星写真でチェックした水路施設らしき箇所まで、特にそれらしき箇所はみつからない。とりえず県道218号まで戻る。

二宮チェック工
県道を少し西に進み、向谷バス停付近から北に進む道路に乗り換え先に進む。丘陵を上り切った辺り、道の左、少し奥まったところに水路施設があり、二宮チェック工とあった。
宮川サイフォンの出口は?チェックすると、向谷分水工で分水後、羽方トンネル・二宮トンネルを通り、地表に姿を現すことなく、この二宮チェック工に繋がっているようである。距離はおおよそ1.3キロ弱といったところ。
香川用水高瀬支線は、この二宮分水工で都市用水(上水道用水と工業用水)と農業用水の「共用区間」は終了。共有区間として下った水は、チェック工の少し北にある「西部浄水場」に供給され、ここから下流は農業用水専用の用水として満水池へと向かう。また、このチェック工には記載は見あたらなかったが、共に右岸に、二宮分水工、上北谷分水工がある、とのことである。

高瀬支線農業用専用水路
二宮チェック工から先にコンクリーの蓋で覆われた水路が先に続く。これが満水池に下る用水路であろうと、水路蓋上を進むがほどなく道は切れた。






東長谷分水工
次のチェックポイントは二宮チェック工のある丘陵尾根筋の北端辺りに、航空写真で微かに見える水路跡らしき箇所。二筋の「影」といったものが見え、こんなところに水路が開けるとも思わないが、とりあえず確認に向かう。
山中であり、直接進める道はないため、二宮チェック工前の道路を北に進み、丘陵を下りきったとことで東西に走る県道24号に乗り換え、最初の交差点を左に折れてチェックポイント付近に車を停めて山中に入る。
山中に入る箇所を探すに、竹藪が行く手を阻む。適当なところはないものかと辺りを彷徨うと、山中に入る、如何にも作業道といった細路がある。用水路の保全作業道であることを祈って竹藪に入ると、水路施設があった。「東長谷分水工」とあった。
当初チェックした二筋の影から、少々疑問を感じながらも水路を予測して、山中に入ってきたのだが、水路ではなく分水工があった。結果オーライ、ということにする。よく見付けたものだと、自分を褒めてあげる。もっとも、こんな酔狂なこと、誰の役に立つとも思わないことは、よくよく自覚はしているのだが。

道路脇に香川用水埋設の案内
東長谷分水工の先は、先ほど上ってきた道路筋の谷筋(といっても川はないのだが)を隔て、その先に丘陵があるわけで、サイフォンでもありそうな気がするのだが、それらしき施設は見つからない。
衛星写真ではわからなかったが、なにか痕跡がないものかと、水路ラインが道路とクロスする辺りを走ると、道脇に「この道路の下に香川用水幹線水路が埋設されえています」との道路工事注意の案内があった。この下を南北に用水路が進んでいるのだけは確認できた。

高松道を渡る水路管
次のポイントは高速・高松道に架かる跨道橋脇に見える水路管らしき「影」。場所は眉山トンネル手前の高松道の跨道橋である。道なりに進むと「鳶ヶ巣跨道橋」があり、橋脇に香川用水の案内と、送水鉄管が高速を跨いでいた。




脇池分水工
次のポイントは、高速を渡った水路ラインが豊中町笠岡の野津午公民館の少し北東。水路施設、というか水路を覆うコンクリート蓋らしき筋が見える。その地へと道なりに進み集落からちょっと山への道に入り込むと、野津午配水池あり、その先に明らかに水路を覆ったと思える、コンクリートで蓋のされた暗渠が奥に続く。この配水池への水路?とちょっと不安。
が、暗渠を進むと脇には香川用水の埋設案内もあり、香川用水に間違いなし。ビンゴ!と心の中で叫ぶ。暗渠がどこまでつづくのか先に進むと、暗渠が切れるあたりに水路施設があり、「脇池分水工」とあった。よく見付けたものだと、再び自分で自分を褒める。

清見池分水工
次のポイントは、この脇池分水工から北に進む水路ラインが池脇を進む地点。特に水路施設らしき「影」はみえなのだけれど、香川用水西部幹線のメモをしたとき、香川用水は溜池を調整池として繋ぐといったことを思い出し、池脇になんらかの施設があるのでは、と向かったわけである。
田圃の中の道を成り行きで目的の池まで進み、水路ラインが通る池の北側に廻る。水路施設埋設の暗渠が池に接近した辺りに「清見池分水工」があった。又々ビンゴ!

長池分水工
次のポイントは豊中六ッ松バス停辺り、国道11号東の池。水路ラインは池の真ん中を通る。国道脇にあった七義士神社に車をデポし水路施設を探す。
池の堤防をぐるりと廻ると堤防の道に香川用水埋設の案内があり、池の北東部から池に剃って少し東に進んだ付近に「長池分水工」があった。

七義士神社

権兵衛神社(七義士神社)と称されるこの社は、江戸時代中期、9代将軍家重のときに勃発した讃岐最大の一揆の首謀者として処刑された、七人の義民(義人)を祀る神社。
寛延年間(1748-1750)、数年来の風水害に加え役人の横暴な振る舞いにより、丸亀・多度津両藩の百姓は疲弊に貧していた。徳政などの願い効なく、一揆を計画。首謀者は丸亀藩の5名、多度津藩の2名の百姓。その中での指導者が丸亀藩笠岡村の大西権兵衛であった。
寛延3年(1750)年1月20日には、一揆の呼びかけに応じた多度郡・三野郡・豊田郡の百姓は財田川の本山河原に集結。22日には鳥坂峠を越えて那珂・多度郡勢と善通寺で合流。このときの一揆の総勢は6万人余に達したと言う。 この動きに対し藩側は23日に一揆勢と会合をもち、嘆願をほぼ認め、一揆勢は解散し帰村する。しかし、その後状況は一変。全国で勃発する一揆に危機感を抱いた幕府が、20日には百姓の強訴・徒党の禁令を発令していたことを知った丸亀・多度津両藩は妥協案を完全に反故にし、一揆首謀者を捕縛。7月28日には大西権兵衛他7名をい金倉河畔において打首・獄門の刑に処せられた。
鳥居右手の「此の世をば泡と見て来しわが心 民に代わりて今日ぞ嬉しき」と刻まれた大きな碑は、そのときの権兵大西権兵衛の辞世の句と言われる。 村人はこの七人を義士として密かに弔い続けたが、明治の御一新になり、七義士の威徳を偲び権兵衛ゆかりの笠田村に神社が建てられ、7人の義民は神として祀られた。

高室分水工・国市局
次のポイントは丘陵末端部に沿って進む水路ラインを辿り、水路ラインが勝田池の南東端辺りを進む地点に向かう。車をデポし、周囲を探すがそれらしき施設は見つからない。
それではと、池に向かう水路ラインに沿って田圃の中の畦道を戻り、農道に沿って東に進むと民家の脇に水路施設があり、「高室分水工・国市局」とあった。 国市局は勝田池の東にある国市池の近くにあるからの命名だろうか。
「局」
農業用水専用水区間の管理は香川用水土地改良区が担当。香川用水記念会館に親局を設け、子局から流量などの情報を把握し流量制御をおこなう。西部幹線水路では、流量制御は分水工に設けられたふたつのゲートのうち、期別に定められた分水量を、第1ゲートは管理者側(香川用水土地改良区)が、第2ゲートは受益者側が操作するとのこと。基本人の手で操作されていた。

勝田池分水工
勝田池の施設は?もう少し農道を戻ると、農道が竿川に当たる手前に名前の記載はないが、金網に囲まれた如何にも水路施設らしきものがあった。そこが「勝田池分水工」であった。







満水池
次は高瀬支線の最終地点である満水池、水路ラインに沿って衛星写真をチェックしても特にそれらしき施設は見えないため、成り行きで満水池に向かう。池の堤防に建ち、水路ラインが池に繋がる辺りを彷徨うのだが、送水管といったものは見つからない。
あれこれチェックすると送水は池敷を暗渠でくぐり、満水池の分水は池水面最末端付近で吹きあげ分水するようである。また、水位が満水面に達すると水位検知器により池への分水は止まるようになっている、とのことである(満水池の水管理;木本凱旋)。

満水池局
堤防に建屋があり、名称は記載はないのだが、満水池局かとも思う。満水池および郡池の分水量、満水池の水位を把握し親局に情報を送っているわけだ。

これで、香川用水東部幹線・高瀬支線散歩を終える。なにせ、データソースがないわけであり、途中見逃したサイフォンや分水工、局もあったかと思う。実際、高瀬支線には六ッ松局や宮池局といった子局もあったようだが見逃している。何かの機会にデータソースが見つかれば、抜けた箇所をいつか辿ってみようと思う。