日曜日, 1月 19, 2014

銅山川疏水散歩 そのⅤ: 疏水東部部幹線を隧道分水工から川之江へ

銅山川疏水散歩 そのⅤ: 疏水東部部幹線を隧道分水工から川之江へ 銅山川疏水散歩も東西分水工から西に向かう西部幹線は歩き終えた。水路橋や分水口を探して藪漕ぎをしたりと大変ではあったが、宝探しのようで結構楽しくもあった。
で、今回は東西分水工から東に向かう東部幹線を辿る。ついでのことではあるので、メモの段階でわかった法皇山脈を貫いた隧道の出口まで辿り、そこから水路を探しながら歩くことにする。

本日のルート;戸川公園;疏水記念公園>疏水記念碑>減勢水槽>疏水分流点(分水工)>最初の疏水施設>二番目の疏水施設>三番目の疏水施設>四番目の疏水施設>疏水は開渠に>水圧鉄管を跨ぐ>東西分水工>東西分水工から東に水路>馬瀬谷川脇の疏水施設>赤井川水路橋>淵ヶ本池>鰻谷川水路橋>北岡山第二分水口>北岡山第一分水口>黒波瀬分水口>黒波瀬池>横山分水口>>西山口分水口>サイフォン>東山口分水口>桜木分水口>松山自動車道>水路施設>五社神社

戸川公園;疏水記念公園
もう何度目になるだろう。通いなれた「戸川公園:疏水記念公園」に。公園駐車場に車をデポし、法皇山脈を穿ち銅山川の水を宇摩地方にもたらした隧道出口に向かう。場所は上柏の馬瀬谷上、標高293m辺り。戸川公園近くの銅山川発電所へと下る2本の水圧鉄管が大きな一本線となり、その先で短い線と長い線が併設されているところが、隧道が法皇山脈を抜けたところ、とのこと(愛媛県四国中央市農林水産課 疏水担当の紀井正明氏にお教え頂いた)。Google Mapの地図を頼りに隧道出口へと向かう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

疏水記念碑
四国霊場札所66番・三角寺へと続く道を上る。途中、三角寺への道筋から分かれ、くねくねと曲がる山道を辿ると「法皇の恵水」と刻まれた銅山川疏水組合の完工記念石碑があった。
記念碑を越え、切り込む宇戸瀬川の沢筋を大きく南に迂回するとその先に切り開かれた場所が現れた。疏水施設のある広場に到着。当初、道から減勢水槽のある辺りが果たして簡単に見つかるかと危惧していたのだが、杞憂に終わった。

減勢水槽
広場の中央に四角の大きな構造物。ここは疏水を一時貯水する「減勢水槽」。その横ある施設は水利管理の建物。流量やバルブの開度、通水時間などをコントロールするコンピューターが設置されているとのこと(前述の紀井氏より)。 減勢水槽には山腹から下る一本の鉄管が繋がる。その向こうに大きな2本の水圧鉄管が見える。2本の水圧鉄管は発電用水、減勢水槽に繋がる鉄管が銅山川疏水の農業用水のためのものである。

疏水分流点(分水工)
減勢水槽から山腹を見上げ、銅山川の水が隧道から出て3本の鉄管となって下る地点に上ろうと辺りを見回す。と、農業用鉄管に沿って階段がある。階段を上り切ったところで水槽らしき構造物の上に這い上がる。ブッシュが激しく少々難儀したが疏水分流点に立ち、故なき達成感を抱く。堂々として下る鉄管、その向こうに広がる里の景観が美しい。

最初の疏水施設
階段を下り減勢水槽まで戻る。この後はできるだけ疏水水路に沿って下ることに。Google Mapの航空写真でチェックすると、減勢水槽のある広場あたりから下の森に、うっすらと一筋の切れ目が見て取れる。特に根拠は無いのだが、疏水水路の監視路か作業道ではなかろうかと、森の切れ目を探す。
切れ目は簡単に見つかり、整備された道を進むと如何にも疏水施設らしき構造物が現れた。減勢水槽からの水路はこの道の下を通っているのだろう。

二番目の疏水施設
疏水施設から先に進む。ゆっくりとカーブする道を下ってゆくと2番目の施設。コンクリート造りの構造物にはメーター類などもなくシンプル。道はこの施設から左に折れ、急な階段となって下に向かう。
地図を見ると階段下の方向には沢が切れ込んでいる。疏水水路はここで方向を変え、沢筋の上部に向かて下って行くのだろう。

三番目の疏水施設
階段を下り切り。先に見える堰堤の上に回り込み沢を渡る。沢はそれほど水量も無く、踏み石を見つけ、靴を濡らすこともなく沢の左岸に渡る。
沢を渡り、沢に沿って少し進むと3番目の疏水施設があった。この施設も2番目の施設と同じくコン造りクリート造りのシンプルな施設ではあった.。

四番目の疏水施設
沢を進み開けた広場に到着。そこにはこれまでの施設とは段違いに巨大な構造物があった。施設からは暗渠が先に続いている。
当初、減勢水槽から水路を辿り、沢を渡りこの施設の辺りまでたどり着くのは結構難儀なルートだろうと思っていたのだが、予想外に楽に下りることができた。

疏水は開渠に
4番目の施設から続く暗渠の先は、ほどなく一瞬ではあるが開渠となる。金網のフェンスに囲まれた水路の先には開閉ゲートがあり、開渠はそこで途切れ再び暗渠となる。この辺りからの里の景観も美しい。

水圧鉄管を跨ぐ
開閉ゲートから再び暗渠となった水路は緩やかに坂を下り、発電用の2本の水圧鉄管とクロス。水路は上が人道橋となったコンクリート水路橋となって水圧鉄管を跨ぎ水圧鉄管の西側に渡る。
先日の散歩の時、この水路橋を見てはいたのだが、水圧鉄管を渡る跨道橋とは思ったものの、まさか疏水の水路橋とは想像できなかった。

東西分水工
水路橋から少し下ると水圧鉄管脇に水路施設。ここが東西分水工。ここを境に銅山川疏水は、西には西部幹線が土居方面へ15キロほど、東には東部幹線が川之江方面に5キロほど流れることになる。本日は、ここから東へと東部幹線を辿る。

東西分水工から東に水路
東西分水工から東を見ると水路が見える。これが東部幹線の始点部分だろう。前回この地に来たときは、この地が東西分水工ということもわかっていなかったので、見れども見えず、の態であったのだろう。
水路を辿るべく先ほど跨いだ水路橋を渡り、水圧鉄管の東側に移り、簡易な鉄の柵に囲まれた水路を進む。が、水路は民家の脇の石垣手前で暗渠となり地中に潜って行った。

馬瀬谷川脇の疏水施設
地中に潜った水路の先を想う。石垣の東には馬瀬谷課川がある。川の傍には何らかの水路施設があるだろうと、石垣の行き止まりから水圧鉄管まで戻り、水路が進むであろう馬瀬谷川筋に進む。あちこち探すと、馬瀬谷川に架かる橋の東に、敷石で覆われた疏水施設らしきものがあった。位置的には疏水と関係ありそうとは思うのだが、確証はない。

赤井川水路橋
馬瀬谷川の東には赤井川があり、そこには赤井川水路橋が架かるとのこと。Google Mapをチェックすると、馬瀬谷川の疏水施設らしき構造物から直線を伸ばした先に水路橋らしきものが見える。
馬瀬谷川の疏水構造物らしきものがある辺りから一筋下の道を右に折れ、少し坂を上り直すと、お屋敷の手前の石垣に沿って開渠が見えた。
北側に金網を張った開渠を進むと水路橋。赤井川水路橋である。水路橋を渡ろうにも、結構水が溜まっており、中を歩くことはできそうもない。橋の欄干(?)は川床までの高さにビビり、とても牛若丸の真似をすることもできない。また、川床に下りようにも、護岸工事がなされ、手ががり、足がかりが見つからず、また適当な蔓もないため、この場から川床に下りることは諦める。
が、道を下り戸川公園の北端にある水神様の辺りに来ると、川床に簡単に降りれそう。護岸工事で何故か飛び出した石を随処に埋め込んであり、そこを足がかりに川床に。水量も多くなく、落ち葉の山を選んで川を上り、橋の下から水路橋を眺める。苔むした水路橋を勝手に想い、あれこれ苦労してここまで来たのだが、橋は新しかった。ちょっと残念。

淵ヶ本池
赤井川の東詰で隧道に潜った疏水は、丘陵を潜り、丘陵東にある淵ヶ本池の北堤下で開渠となって姿を現す。その開渠を目指して、戸川公園から北に下り松山自動車道に沿って丘陵を迂回し、松山自動車道の跨道橋から南に上る道を進むと淵ヶ本谷池。池の堤下に開渠が見えた。
疏水の水路は確認できたのだが、淵ヶ本分水口の標識は見つからなかった。淵ヶ本池の堤の西端の開渠辺りが分水口なのだろうか。不明である。開渠は池の東端で再び地中に潜る。

鰻谷川水路橋
地中に潜った疏水の先をGooglhe Mapの航空写真でチェック。岡を隔てた東に水路が続く。水路は先に進み川を渡り結構大きな黒波瀬池の北に向かっている。
淵ヶ本池の東端から道を下り、松山自動車により切り取られた丘陵部を東に続く道を進み、丘陵部を迂回し川筋を目安に進むと水路橋。鰻谷川水路橋である。古き趣を感じる。

北岡山第二分水口
橋の東西には水路が続く。水路を西に、淵ヶ本池の東端で地中に潜った開渠部まで進む。水路を進み、水路にクロスする道を越えて少し進むと水路から北に分岐する箇所があり、その脇の草の中に「北岡山第二分水口」の標識があった。

北岡山第一分水口
北岡山第二分水口から更に西に進む。段差となった石垣の民家との境となる部分を進むと石の蓋があり、そこに「北岡山第一分水口」の標識があった。水路はその先で地中へと潜る。





黒波瀬分水口
疏水を鰻谷川水路橋まで戻り、黒波瀬池の北を回り込む水路に向かう。水路が黒波瀬池の西を通る道の脇に「黒波瀬分水口」の標識。分水口の先に水路が続く。






黒波瀬池
池の北を進む疏水開渠をしばし進む。池に沿って緩やかに曲がる水路の景観はなかなか美しい。しばし進むと暗渠となる。道筋も竹などのブッシュとなるが、それもすぐに開けて開渠となり、池の東を進み、池の東で突起のように東に突き出る池の手前で水路は地中に潜る。



横山分水口
池の東の道を進み、その道から右へと折れる道に進む。先を進み、南から来る道が合わさり三叉路となるところに鉄板の蓋があり、そこに「横山分水口」の標識があった。水路はこの道筋の下を進んでいるようである。
三叉路の先は民家があり、その先には川筋がある。地中を進む水路は川筋で何らかの手ががりがないものかと、道を進む。

西山口分水口
川筋の東の道を手掛かりを求めて探していると、地元の人が声をかけてくれ、疏水の流路を教えてくれた。この道筋から東に向かう道筋が流路であり、東に向かう分岐の少し北に分水口があり、そこから西に川に向かって戻れば鉄板に覆われた水路がある、と。
分水口らしき構造物は見つけることはできなかったが、資料によれば西山口分水口、ではあろう。

サイフォン
分水口あたりから、教えに従い畑地の脇を進もうと坂を上りはじめると、畑地を横切ったら、と。言葉に甘え畑地を横切り少し西に戻ると民家脇を鉄板で覆われた水路が現れ、その先には川筋を潜るサイフォンらしき構造物があった。細いながらも沢の対岸の民家の脇にもサイフォンのペアらしき構造物も見えた。

東山口分水口
元の道に戻り、東へと民家の間を進む道筋に入る。その道筋の下を水路が進んでいるとのことである。道を進み門前にいくつか石塔を飾る大きな民家脇を進み、更に東に進むと石垣で進路は止まる。石垣の下には東に向かう水路が見える。地中から現れた銅山川疏水の水路であろう。
石垣を南に迂回し水路の場所に。水が勢いよく流れている。疏水の水ではないだろうし、何だろうと地図をチェックすると、水路上流に西金川送水ポンプ場がある。そこから下る水だろう、か。
で、資料にある分水口は標識がないためはっきりしないが、勢いよく水が流れ込む金網に囲まれた水槽の東に、鉄板で覆われた構造物がある。それが東山口分水口であろう、か。

桜木分水口
「東山口分水口」らしき辺りから、鉄板に覆われた水路が桜木池の北の堤下を緩やかなカーブを描きながら進む。これが疏水流路ではあろうと先に進む。
少し進み、松山自動車道の手前に、鉄板に覆われた構造物。これまたはっきりしないが、桜木分水口のよう。

松山自動車道
疏水水路はもう一つの水路の上段を開渠となって松山自動車道を潜る。自動車道を越えると疏水水路も、それと並行して自動車道を潜った水路も地中へと潜る。
地中に潜った水路には、すぐ先に如何にも分水口といった構造物があるのだが、資料はなくよくわからない。



水路施設
松山自動車道の北にある池の東を、道と段差のある石垣の中を疏水は進んでいるようである。道を進み水路脇の道が車道とクロスするところに大きな水路施設。疏水の水路と思しき鉄板で覆われたコンクリートの先にあるので、疏水関連施設かとも思うが、資料がないのではっきりしない。上部が開かれた四角い大きな水槽といった構造物ではある。




五社神社
水路は開渠となって先に進むが、ほどなく地中に潜り姿を消す。水路が進んでいるかと思う土手脇の道を進むと五社神社。五つの神を合祀した神社が多いようだが、この社は説明もなくはっきりしない。
ともあれ、この辺りまで来るともう水路の手掛かりもなく、日も暮れてきた。五社神社にお参りし、それを区切りに本日の散歩を終え。車をデポしたところまで戻り、一路家路へと。
これで数回に渡って辿った銅山川疏水の西部幹線と東部幹線をほぼ歩き終えたように思う。次の四国の水路歩きは、吉野川総合開発の一環としてつくられた香川用水か、とも思うのだが、如何せん距離が長すぎる。春になって銅山峰の山腹を流れた別子銅山の用水でも歩こうか、とも想う。

土曜日, 1月 18, 2014

銅山川疏水散歩 そのⅣ: 疏水西部幹線を新長谷寺から東端の永田分水口まで

今回の散歩は、二度の散歩で歩き残した疏水西部幹線を、新長谷寺から始め、西端の長田分水口まで。四国中央市の寒川町から土居町まで歩くことになる。ルート及びポイントとなる水路橋や分水口は、四国中央市の疏水担当である紀井氏より情報を頂いているので迷うこともないだろうと、お気楽に実家のある新居浜市から車で出発。
車を寒川町の新長谷寺にデポ。疏水を西端まで歩き終えた後、歩いて車を取りに戻るのは少々うざったいとは思うが、バスの便があるわけもなく、距離は5キロ程度であれば「許容範囲内」と自らに言い聞かせ散歩にでかける。
本日の本日のルート;新長谷寺>妙見神社>沢に>西谷川分水口>西谷川を渡る>西谷川サイフォン>スクリーン>東谷分水口>中井出分水口>豊岡川水路橋>豊岡川分水口>耳神分水口>鎌谷川水路橋>鎌谷川分水口>中山分水口>岡銅分水口>隅田川水路橋>長田分水口

新長谷寺
これで3度目の新長谷寺。行基創建と伝わるこのお寺さま、大和の名刹である長谷寺と重なる。寒川の地名の由来でメモしたように、その昔、大和の長谷寺に納める観音さまの試作仏を、行基菩薩が浪速の浜から流すと、その観音さまがこの地の浜に流れ着いた。ために、長谷寺の前を流れる神川の名前をとり神川とし、その神川が寒川と記されるようになったとの話がある。
もっとも、暴れ川を鎮める神の名をとり「寒川」とするとの説もあるようだが、それはともあれ、観音様の縁起で捉えれば、新長谷寺は大和の長谷寺との関連で造営されたと考えても不自然ではないように思える。縁起に違わず堂々とした構えのお寺さまの駐車場に車をデポし散歩に出かける。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

妙見神社
新長谷寺が佇む豊岡山の山裾の道を、長谷川水路橋で地下に潜った疏水出口のある西谷川へと向かう。松山自動車道の南を進む山道がはじめてカーブするあたりに妙見神社。
妙見信仰といえば、秩父平氏から千葉氏へと続く一党がすぐに頭に浮かぶのだが、それは関東を中心に散歩しているためではあろう。この信仰は山口に覇を唱えた大内氏も敬い西日本にも妙見の寺社も多いようである。
それよりなりより、真言宗では妙見菩薩を重視しているようであり、大和の長谷寺の本尊である十一面観音の本地は妙見菩薩ということであるから、この社も新長谷寺と関係する社ではないだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

沢に入渓
山裾の道を進む。険阻な四国山地から瀬戸内に注ぐ急流によって形成された発達した扇状地故か、山裾と海との距離が数キロであるのだが、その比高差は大きい。松山自動車道の下に広がる里を見下ろしながら先に進むと西谷川に注ぐ沢に当たる。
隧道から出た疏水はこの沢に出るのだろと、沢に降りる場所を探す。道を先に進むが沢との比高差が大きくなっていくばかりであり、しかも、この道を進んでも里に戻れそうにない。ちゃんと地図を確認して進めばよかったのだが今更新長谷寺に戻り、里からアプローチするのも面倒なので、道が沢とクロスする辺りから力任せで沢に入る。
藪漕ぎをしながら沢に降り、先に進むと数メートルの高さのある岩場。手ががり、足ががりを探りながら慎重に岩場を下り、沢を進む。しばらく進むと沢の周囲も開かれて一安心。

西谷川分水口
沢を彷徨い、分水口への手ががりを探す。と、細い水路が右手の山肌から下っているのが目に入る。何の根拠もないのだが、水路に沿って上っていく。と、石の構造物が目に入る。「西谷川分水口」との標識もあり、なんとか分水口をゲット。頂いた資料には近くにサイフォン施設もあるようなのだが、わからなかった。

西谷川サイフォン
分水口から地下を進む水路の先をGoogle mapでチェックすると、西谷川を越えたあたりで開渠となっている。開渠に向かうには一度里に下りて大きく迂回すれば開渠近くまで道が見えるのだが、それも面倒。ということで、分水口から開渠辺りに向けて一直線で進むことにする。
沢の西には西谷川が流れる。水量の少ない場所を探し、川床の石を踏み川の西岸に移る。川床から少々比高差のある川岸に木々をつかみながら這い上がる。で、分水口から河を渡る(潜る)であろう辺りまで川岸を進むが、これが猛烈な藪。藪漕ぎが嫌になるあたりに突然石の構造物。そこから西へと水路が続いていた。この構造物は西谷川を潜り抜けた疏水サイフォンの西出口であろう。



西谷川サイフォンからの開渠
開渠を進むが、ほどなく水路は地下に潜る。Google Mapで先をチェックすると、ちょっと西に開渠が見える。暗渠となった水路の道筋は石垣を乗り越えた先にあるのだが、これまた猛烈な藪漕ぎ。休耕地が荒れ果てたようにも見える一帯を何とか農道に出るが、暗渠は先まで続いている。開渠の近くまで道を辿ると結構な大回りとなるので、畑地の畦道を西へと農道まで進む。

民家脇から開渠が続く
農道まで一度出て、農道が水路とクロスする場所まで下る。水路は農道の左右に続く。道の東側を見ると、民家脇に西谷川の西で地下に潜った水路の出口が見える。その家の方が庭に出ている間、農道でちょっと休憩。家に入るのを見届け、民家の住人に遠慮しながら水路を辿り開口部をチェック。



松山自動車道手前の水路スクリーン
丸い水管からなる水路出口を確認し、農道まで戻り、そこから段々になった耕地の境を緩やかにカーブしながら続く水路に沿って進む。水路は松山自動車道手前でスクリーン柵から地中に潜る。

高野跨道橋
水路はここから松山自動車道の北に移るが、松山自動車道を跨ぐ高野跨道橋脇を水路橋となって進む。松山自動車道、通称「松山道」は現在愛媛県の東予の四国中央市から南予の宇和島までつながっているが、昭和60年(1985)、三島川之江ICと土居IC間が四国最初の高速道路として開通した。



東谷分水口
松山自動車道を渡り切ると。高速道路北に沿って水路が続く。その高野跨道橋の北詰に「東谷分水口」の標識と鉄板で覆われた構造物。眼下に広がる里と瀬戸の海が美しい。
里と言えば、現在は四国中央市と称されるこの一帯、我々の世代では宇摩郡といった地名がなじむ。「宇摩」は「馬」に拠るとの説がある。金生川などで砂金採取をおこなっていた帰化人が百済から馬を此の地にもたらし、その「巨体」故に土人へのインパクトが大きく、地名を「馬」とのこと。古墳代後記にはこの辺りは「馬評(うまのこおり)」と称されていたようである。
馬評が宇摩(宇麻)となったのは、大宝元年(701)の大宝律令による、行政単位が評から郡になったこと、それと延長5年(972)、「凡そ諸国の郷里の名は二字として、必ず嘉名でとれ」との詔により「馬」を「宇摩(麻)」とし、宇摩(麻)郡となったのだろう。
因みにその「宇摩」はどこから、ということだが、それは不詳。「宇摩」の二文字を使う神が、宇摩志(可美)葦牙彦舅尊(うましあしかびひこじのみこと)と宇摩志麻治命(うましまちのみこと)の2神に拠るとの説もあるが、定説にはなっていないようである。

中井出分水口

水路はほどなく地中に潜るが、すぐに開渠となり西に向かう。水路脇に「中井出分水口」の標識があった。

サイフォン
中井出分水口の西は、これも瀬戸の海を借景に、しばし開渠が続き、暗渠の鉄板を境に再び地中に潜り、またまた水路が現れそして消える。頂いた資料にはその地中に潜った水路が再び開渠となって現れる手前にサイフォン施設がある、と言う。特に川はないのだが、ここのサイフォンは左右のサイフォン施設間を通る道の下を潜っている、ということだろうか。
サイフォン先で現れた水路は、スクリーンのある辺りで再び地中に潜り、豊岡川手前で姿を現すことになる。

豊岡川水路橋
道に沿って進み、豊岡川へと下る坂に。坂を下り豊岡川に架かる橋から上流を見ると水路橋が見える。Google Mapで見ると、水路橋手前から水路が見える。坂道を上り直し水路橋へと続く水路を探すと、坂脇の藪の中に水路が見える。水路へ入り込むため、坂の途中から藪に入り、これまた猛烈な藪を漕ぎながら水路に下り、農閑期で水の流れない疏水水路の中を進み豊岡川水路橋を渡る。



豊岡川分水口
豊岡川水路橋を渡り切れば、松山自動車道の高架桁。桁脇で水路は再び地中に入る。Google Mapでは水路は表示されないのだが、この辺りに、豊岡川分水口があるとのことで、畑地の中を目を凝らしてみると、僅かな幅の水路ではあるが、雑草の中を水路が見える。その水路を辿ると「豊岡川分水口」の標識があった。

水路橋
水路は豊岡川分水口の先で地中に入る。松山道に沿って進むとコンクリートで護岸改修された川筋がある。コンクリートの護岸を上に向かうと水路橋。地中から現れ、水路橋を渡ると再び地中に入っていった。
水路橋から先は耕地の畦道を水路筋らしき辺りを進むと再び水路が現れ、カーブを描きながら耕地の段差の間を進みまたまたスクリーン柵で地中に入る。



耳神分水口
スクリーンで地中に入った水路は、前を遮る小丘を潜り先に進み鎌谷川の支流を越える。頂いた資料ではサイフォンがあるとのことだが、あちこち彷徨ったが見つけることができなかった。
資料にはサイフォンの先に「耳神分水口」。松山自動車道に沿って進み、道脇の耳神様を目安に右に折れると、耳神様のすぐ上に「耳神分水口」の標識があった。
ところで、耳神様って何の神様だろう。文字通り考えれば「耳の神様」ではあろうが、それにしては耳以外の体の部位を冠する神様を聞いたことがない。 あれこれチェックしていると、神武天皇の妃に手研耳命や研耳命、御子に神八井耳命(かむやいみみのみこと) とか、神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと、神沼河耳命・綏靖天皇)といった耳を持つ神がいる。また、天照大神の御子とも比定される天忍穂耳神といった神もいる。この耳神場合の耳(ミミ)の解釈は、「実を一杯つけて頭を垂れる稲穂の姿」とか。
「稲穂説」の他にも「神に付ける接頭辞」とか、「御子」のことを意味するとか諸説あるようだ。この場合、地域の指導者を名前をつけず、一括に尊称として祀ったのが「耳神」といったこのことである。どれが正しいのかわからないが、「稲穂」>豊かな実りを願う、といった祠がなんとなく、いい。

鎌谷川水路橋
耳神分水口からの水路に沿って松山自動車道を潜り鎌谷川脇に。松山自動車道脇の車道のすぐ下に水路が見える。鎌谷川水路橋である。民家のすぐ上に架かる鎌谷水路橋を渡る。この水路橋には水が溜まっており、義経のごとく橋の欄干(?)を渡ることになった。川床までそれほど高さはないのだが、ちょっと怖い。






鎌谷スクリーン
鎌谷川水路橋を渡った疏水はほどなく地中に入る。そこには「鎌谷スクリーン」の標識があった。資料にあった、鎌谷川分水口は見つけることができなかった。

中山分水口
鎌谷川筋から離れ、次のポイントである中山分水口に向かう。鎌谷川の西には丘陵が松山自動車道の北へと張り出しており、丘陵の中を辿ることになるので、少々ポイント探しが難しそう。
鎌谷川筋から松山自動車道沿いの坂を上り、前もって入手した地図に記載の中山分水口へと向かう。が、入手した地図に記載された辺りにはそれらしき構造物は見つからない。
付近をあれこれ彷徨うも、何となく標高から見ても、地図に記載されている辺りは釜谷川水路橋より高く、自然流水の観点からも、用水が低いところから高いところに進むのは不自然と、地図記載の場所を諦め、道に沿って下ると、道が森に入ってすぐカーブする辺りの沢のような藪の中に人工的な構造物が目に入る。標識もなにもないのだが、造りからみて、如何にも分水口。ここが「中山分水口」だろう。
やっと見つけた安心感から、あまり地図も見ず成り行きで道を下っていたのだが、思いついて確認のためGoogle Mapを見ると、この道を進んでも次の目的地であるポイントには里に下って大きく迂回することになる。で、道を折り返し松山自動車道脇の道に戻る。

山の神公園
次の目的地をGoogle Mapを見ていると、雪が激しく降ってきた。雪が激しく舞う。この地は強風の「やまじ風」で知られており、まさか山道凍結はないだろうが、念のためここから一度新長谷寺まで戻り、デポした車に乗ってこの地まで車を持ってくることに。
四国中央市の土居町辺りに「やまじ風公園」と呼ばれる公園があるが、この地は「やまじ風」と称される南よりの強風が吹く。日本三大局地風(山形県の「清川だし」、岡山県の「広戸だし」とともに)のひとつとも言われる。原因は低気圧が日本海を通過する際、四国山地に南から吹き付けた風が、石鎚山系と剣山系の鞍部となっている法皇山脈に収束し、その北側の急斜面を一気に葺き降りることにより発生するようだ(Wikipediaより)
5キロほど歩いて戻り、再び車でこの地に。で、地図で確認すると、次のポイントの手前に「山の神公園」がある。公園であれば駐車場もあるだろうと、車一台がぎりぎりの山道を対向車が来ないことを祈り、とりあえず観福寺脇の公園駐車場にデポ。
公園から北へと下る歩道脇には石仏や石碑が並ぶ。日暮も近く、道を下って確認することはできなかったが、石鎚神社と刻まれた石碑があるようだ。

岡銅分水口
次のポイントのある岡銅分水口へと、山の神公園から西に下る車道を進む。道を下り、もうひとつの道が合流した辺りに沢が現れた。事前に手に入れた地図にはその沢の中に岡銅分水口と隅田水路橋が見て取れる。
沢に降りる場所を探して先に進むが、沢との比高差が広がるばかり。結局、ふたつの道が合わさり沢とクロスする辺りが一番アプローチしやすそう、ということでクロスポイント辺りから沢に入る。
結構厳しい竹藪。竹藪の藪漕ぎをしながら先に進み、藪が落ちついた辺りの右手の崖面の方向に構造物が目に入る。それが岡銅分水口であった。

隅田川水路橋
水路橋は分水口から沢を渡るはずだが、それらしき水路橋が見当たらない。が、目を凝らして探すと、沢を跨ぐ雑草が目に入る。ハッキリとした橋の形にはなっていないが、どうみてもこれが沢を渡る疏水の水路橋である隅田川水路橋であろう。

サイフォン
本日の最終目的地は大地川手前にある「長田分水口」。隅田川水路橋と長田分水口の手前に、大地川に注ぐ支流があり、疏水はそこをサイフォンで潜るとのこと。隅田川水路橋のある沢から道に這い上がり、道なりに西に進み水路を跨ぐ橋に。橋の上か下か定かではないが、とりあえず上に向かう。と、民家の敷地といった一隅に鉄の作業橋といったものが架けられ、バルブも付いた、如何にもサイフォンといった構造物があった。

長田分水口
サイフォンのある場所から次の長田分水口に道を辿るには、一度結構坂を下り、再び大地川の東を上ることになる。小雪も乱舞している。日も暮れてきた。急ぎ足で道を進み、長田分水口に。今までみた分水口とは異なり、結構大きな構造物。どこからの水なのか勢いよく構造物から流れ出していた。冬は農閑期で銅山川疏水は流れていないので、銅山川疏水の水ではないとは思う。
銅山川疏水西部幹線もこれで一応終了。山の神公園にデポした車を取りに戻り、一路実家の新居浜に。次回は銅山川疏水東部幹線を辿ろうかと思う。