水曜日, 5月 30, 2007

さいたま:岩槻から春日部、そして中川水系合流点の越谷に

さいたま:岩槻から春日部、そして中川水系合流点の越谷に

利根川の東遷事業や荒川西遷事業ゆかりの地を何箇所か歩いた。また、東遷・西遷事業によって取り残され、埼玉の沖積低地に取り残された昔の利根川水系、現在の中川水系ゆかりの地も巡った。で、古利根川、元荒川といった中川水系の川筋を眺めていると、越谷市と吉川市の境にある吉川橋のあたりで、古利根川(中川)と元荒川が合流している。街工場の中を流れるのか、それとも緑豊かな郊外・牧歌的風景が広がるのか、どんなところか気になった。とりあえず行くべし、ということでとある休日、中川水系合流の地に出かけた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

大体のルートは、先日の岩槻散歩の時、時間切れで行けなかった東岩槻の慈恩寺を歩く。次に春日部市経由で北越谷に電車で進み、越谷へ。そして、久伊豆神社からいくつかの川筋を辿りながら中川合流点へと歩く、といった段取りとした。

本日のルート;東武野田線・東岩槻>諏訪>表慈恩寺をへて慈恩寺>徳力を通り>東武野田線・豊春>(電車移動)>春日部駅>春日部市郷土資料館>春日部駅>(電車移動)>東武伊勢崎線・北越谷>大沢地区>葛西用水(逆川)>県道19号線>久伊豆神社>県道19号>花田>新方川>増林地区>勝林寺>古利根川>古利根川沿いを中川合流点まで>弥生橋>中川沿いを下る>新方川と合流>合流点から少し引き返す>東埼玉道路>橋を渡り元荒川まで>元荒川を中川との合流点まで下る>吉川橋を渡り>平沼>保の交差点をへて>JR武蔵野線・吉川


東岩槻駅
Jr湘南新宿ラインで大宮、それから東武野田線に乗り換え東岩槻駅に。駅を降り、のんびりした駅前を北に進み、左に団地を見ながら東岩槻小学校脇に。小学校を過ぎる頃から、畑地の中を歩くことになる。

慈恩寺
のんびり、ゆったり歩を進み、しばらく北に歩くと坂東観音霊場12番の札所・慈恩寺。駅から2キロ強といったところ、か。境内前の駐車場には幾台かの車。観音巡礼の人達であろう、か。
慈恩寺。天長年間(824~34)慈寛大師の草創という。慈覚大師・円仁。下野国の生まれ。第三代比叡山・天台座主。最後の遣唐使でもある。慈寛大師、って、いままでの散歩では、鎌倉の杉本寺、目黒不動・龍泉寺、川越の喜多院などで出合った。
慈恩寺は往時本坊四十二坊、新坊二十四坊といった大寺ではあったよう。境内も13万坪以上あった、と。このあたりの地名が慈恩寺と呼ばれているのは、その名残であろう。江戸期には徳川家の庇護も篤く家康より寺領100石を賜っている。また、本尊は天海僧正の寄進によるもの、とか。ともあれ、天台宗の古刹であった、ということだ。『坂東霊場記』に「近隣他境数里の境、貴賎道俗昼夜をわくなく歩を運び群集をなせり」、と描かれているように、昔は、門前市を成すって活況を呈していたのであろう。が、現在では、あっさり、というか、さっぱりしたもの。本堂前には南部鉄でつくられた鉄の灯篭があった。

玄奘三蔵塔
慈恩寺を離れる。のんびりした風景。慈恩寺の寺名の由来は唐の大慈恩寺から。このあたりの風景が慈覚大師の唐での学び舎・大慈恩寺の風景によく似ていたから、とか。そういわれれば、風景もありがたいものと思えてくる。そのこととも関係あるのだろうが、近くに「玄奘三蔵塔」が。玄奘三蔵法師の骨を分骨している、と。
大慈恩寺って玄奘三蔵法師が天竺・インドへの仏典を求める旅から戻り、その漢訳に従事したお寺さま。先の大戦時、南京で日本陸軍が偶然発掘し、一部をこの地におまつりした、という。ちなみに、奈良の薬師寺にはこのお寺さまから、分骨したということである。

ついでのことながら、坂東三十三観音をメモしておく;
1番 杉本寺 神奈川県鎌倉市
2番 岩殿寺 神奈川県逗子市
3番 安養寺 神奈川県鎌倉市
4番 長谷寺 神奈川県鎌倉市
5番 勝福寺 神奈川県小田原市
6番 長谷寺 神奈川県厚木市
7番 光明寺 神奈川県平塚市
8番 星谷寺 神奈川県座間市
9番 慈光寺 埼玉県比企郡ときがわ町
10番 正法寺 埼玉県東松山市
11番 安楽寺 埼玉県比企郡吉見町
12番 慈恩寺 埼玉県さいたま市岩槻区
13番 浅草寺 東京都台東区浅草
14番 弘明寺 神奈川県横浜市南区
15番 長谷寺 群馬県群馬郡榛名町
16番 水沢寺 群馬県北群馬郡伊香保町
17番 満願寺 栃木県栃木市
18番 中禅寺 栃木県日光市中禅寺
19番 大谷寺 栃木県宇都宮市
20番 西明寺 栃木県芳賀郡益子町
21番 日輪寺 茨城県久慈郡太子町
22番 佐竹寺 茨城県常陸太田市
23番 観世音寺 茨城県笠間市
24番 楽法寺 茨城県真壁郡大和村
25番 大御堂 茨城県つくば市
26番 清滝寺 茨城県新治郡新治村
27番 円福寺 千葉県銚子市
28番 龍正院 千葉県香取郡下総町
29番 千葉寺 千葉県千葉市
30番 高蔵寺 千葉県木更津市
31番 笠森寺 千葉県長生郡長南町
32番 清水寺 千葉県夷隅郡岬町
33番 那古寺 千葉県館山市

古隅田川
東武野田線・豊春駅へと向かう。徳力地区を越えると春日部市に。両市の境あたりに水路がある。古隅田川。岩槻区南平野を基点とし、春日部市梅田で大落古利根川に合流する。あれ?南流しないで、北流している。どういうことか?チェックしてみた。
近世以前、利根川東遷事業、荒川西遷事業による河川の瀬替え以前は、この川は他の川筋と同じく南流していた。流路は春日部市梅田あたりまでは古利根川筋を流れていた。梅田で現在の川筋とは異なり、南西へと流れを変え、岩槻市長宮あたりに向かって下り、現在の元荒川に合流。次いで、元荒川を流れ越谷市中島あたりで中川筋の流路となり、最後は隅田川につながっていた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

流れが逆方向になったのは、利根川・荒川の瀬替えのため。瀬替えによって水源を失った元荒川・古利根川は水位が急激に低下。そのため、岩槻市長宮あたりから春日部市梅田方面に向かって北東に逆流することになった、という。
で、古隅田川の東京都に入ってからの川筋だが、いつだったか、千代田線綾瀬駅あたりで古隅田川に出合ったような気がする。調べてみる。古隅田川は中川を下り、東京都に入る。足立区中川あたりで中川から分かれ、葛飾区小菅で綾瀬川に合流。その後は北千住あたりを経て、隅田川に通じていた、なんとなく流路を把握できた。

春日部市郷土資料館
先に進み東武野田線豊春駅に。電車に乗り、春日部方面に向かう。なんとなく春日部駅で下車してみようと思った。駅前の案内板をチェック。駅から少し東に進んだところに春日部市郷土資料館がある。ちょっと眺めて資料など集め、なにか新たな発見でもあればと歩を進める。春日部東3丁目の教育センター内に資料館。さっと館内を歩き、『春日部文化財マップ』『春日部 庄和町の歴史』といった資料を入手。
概略をまとめる;春日部の名前は、中世、春日部氏を名乗ってこの地に住みついた武士団に由来する、と。鎌倉末期から室町にかけては、春日部重行が後醍醐天皇に従い、武功をたてた、といった記録もある。江戸時代、この地は日光道中・奥州道中第四の宿場町として栄えた。粕壁宿、も書かれている。また、古利根川を利用した舟運も盛んで、米麦の集散地でもあった。さてさて、時間がタイトになってくる。とっとと、中川水系の川筋が合流する「吉川」の地に進まなければ、ということで、駅に戻り、東武伊勢崎線・北越谷に急ぐ。

北越谷駅
北越谷駅の東口に出る。最初の目的地は越谷の久伊豆神社。大雑把に言えば、東に一直線に進んだところにある。北越谷東口駅前通を東に。東大沢橋の一筋南の橋を渡る。この水路は葛西用水。逆川とも呼ばれる。越谷市大吉・大吉調整池の近くにある寿橋あたりで大落古利根川から分かれ、新方川と交差。ついで、この久伊豆神社前を通り越谷市大沢で元荒川に合流する。葛西用水の一部であり、大落古利根川と元荒川を連絡するもの。

川に沿って遊歩道がもうけられている。逆川というのは流路が逆流した、ため。先ほどメモした古隅田川と同じ。逆川の場合は、昔、松伏溜井のあった古利根川から瓦曽根溜井のあった元荒川へと送水していた逆川は、洪水時とか非灌漑期には元荒川から古利根川に水が逆流した、ということである。溜井は簡単にいえば農業用水の溜池、といったところ、か。川のところどころの川幅を広げるなどして、水を溜め灌漑に使っていた、ということだ。


久伊豆神社
逆川を越えると直ぐに久伊豆神社。岩槻の久伊豆神社と勝るとも劣らない立派な構えの神社。名前から、というか、由来のよくわからない神社ということで、小さな祠程度と思っていたのだが、とんでもありませんでした。神社の何たるか、については、先回散歩の岩槻・久伊豆神社でメモしたので、ここでは省略。ちなみに、境内で田舎饅頭を農家のおばあさんが売っていた。即購入。東京から最も近い田舎饅頭入手スポットをゲット!結構うれしい。田舎では、柴餅と言っておった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

新方川
久伊豆神社を離れ、いくつかの川筋を確認しながら、本日のメーンエベトである、中川水系の川筋が合流する吉川に向かう。まずは、久伊豆神社の北東を流れる新方川に。花田2丁目、新方川に架かる宮野橋をマークし、携帯ナビウォークで進む。1キロ程度で新方川に。「ニイガタ川」と読む。起点は春日部市増戸と岩槻の平野地区あたり。越谷市中島で中川に合流する11キロ程度の河川である。流域は元荒川、大落古利根川、古隅田川の自然堤防に囲まれた沖積低地であり、合之掘川、安之掘川、武徳用水などの用排水路として使用されてきた、ようだ。
越谷市大吉に大きな調整池・大吉調整池がある。このあたりは、大落古利根川と元荒川に挟まれ浸水常襲地域であった、とか。それも、そんなに昔のことではない。昭和57年とか昭和61年の台風によって5000戸近い家屋が被害にあった、と言う。この調整値は水害被害の再発防止を図って造られた、と。

勝寺林
新方川を越え、次は古利根川。地図をチェックし、増林にある勝寺林にマーキングし、携帯ナビウォークで進む。勝林寺は渋江氏ゆかりの寺。渋江氏って、岩槻で地名にあり、ちょっと気になりチェックしていた。岩槻の地は中世、渋江郷と呼ばれたくらいであるから、渋江一族が威をとなえていたのだろう。そこに、太田道潅の父・道真(資清)が関東管領・上杉氏の家宰として岩槻に城を築く。渋江氏は太田氏の支配下に組み入れられるも、道潅の孫・資頼のとき北条氏に与し、一時太田氏を岩槻から除く。が、最終的には資頼に敗れる。で、この勝林寺は資頼との戦に破れた渋江氏が戦死者の菩提をとむらったお寺である、と。

古利根川(大落古利根川)
お寺の前に古利根川(大落古利根川)。大落古利根川は古利根川の正式名。起点は久喜市吉羽・杉戸町氏下野あたり。この地で葛西用水と青毛掘川が合流し、そこから下流が大落古利根川となる。流れは杉戸町・春日部市へと下り、越谷市増森・松伏町下赤岩で中川と合流する。地図をチェックすると、春日部から下の流れは「古利根川」と書かれている。全長27キロの中川水系に1級河川。
大落古利根川には多くの「落し」が合流する。「落し」は農業廃水路。掘とも呼ばれる。中川水系の低地に散在していた沼沢地を干拓するため江戸期につくられた排水路。この排水先が大落古利根川とされた。これらの「落し」には見沼代用水の支線である騎西領用水や中島用水から取水し灌漑に使われたあとの悪水(農業用排水)が集められている。見沼代用水の排水路となっている、ということ。大落古利根川はさまざまの「落し」から集められる水の排水路ではあるが、この川の基本は葛西用水の送水路である、と言えるだろう。

松伏溜井
大吉調整池の近くに、古利根堰がある。その上流は川幅も広くなっているが、ここは松伏溜井(ためい)と呼ばれる農業用水の貯水池。葛西用水はこの溜井に水を送水するために古利根川を利用しているといってもよい。また、松伏溜井の水は古利根堰で取水され、逆川(葛西用水)を経由して、瓦曽根溜井(元荒川、越谷市)へ送られる。瓦曽根溜井からは東京葛西用水、八条用水などに送水することになる。

中川に合流
利根川の東遷と荒川の西遷によって取り残された利根川の旧河川、現在の中川水系の河川であるが、これらの川筋は江戸時代に農業用水路として整備され、見沼代用水・葛西用水を中心にした農業用水のネットワークが確立した。で、この大落古利根川であるが、大正から昭和にわたる大規模河川改修により排水改良工事が行われ、葛西用水の送水路、また見沼代用水の排水路として現在に至っている。もちろんのこと、時代の変化にともない工場・家庭からの生活廃水をさばく都市型河川の性格を強めているのは言うまでもない。
大落古利根川の土手を進む。自然な雰囲気の残る川筋。1キロ強進むと中川に合流。合流点から1キロ強下ると新方川が合流。いつだったか、新河岸川を歩いていたとき、朝霞市で黒目川が合流。合流地点近くに橋がなく、夕暮れの中、もと来た道を引き返したことがある。この新方川との合流点でも同じ羽目に陥る。合流点から1キロ弱、新方川を西に戻り昭和橋に。昭和橋脇にまことに大きな道路。東埼玉道路。東京外環八潮インターから庄和に向けてつなげようとしている。現在は八潮インターから、庄和橋のちょっと北あたりまで開通している、よう。

元荒川に合流

昭和橋を渡り、新方川をふたたび中川合流点に。合流点から中川を600m強だろうか、南に下ると元荒川に合流する。あたりの景色は、のんびりした郊外の風景。本当の所は、町工場の密集した景色を想像していただけに、嬉しい誤算。合流点に近い中島橋を渡り、さらには中川にかかる芳川橋を渡り、南に下りJR武蔵野線・吉川駅に。中川水系の川筋巡りの散歩を終え、一路家路へと向かう。


火曜日, 5月 29, 2007

埼玉 岩槻散歩 ; 道灌ゆかりの城址を訪ねる

岩槻は上杉方・太田道灌の戦略拠点。古河公方と対峙する 

埼玉県岩槻市を歩いた。先日、古河公方関連の地、古河市あたりを歩いたのだが、岩槻にはこの古河公方に対抗する、管領・上杉方の城があった、とか。大田道潅とも、その父である大田道真の築城になる、とも言われる。
古河公方の勢力範囲は利根川以東。上杉管領方はおおむね利根川以西。昔の荒川筋、利根川筋などが乱流する低湿地帯を挟んで両陣営が対立していた、ということであろう。
地政上の説明では、古河公方に対する、上杉方の戦略的橋頭堡は江戸城・岩槻城・川越城である、と。地形上の説明では、低湿地に屹立する台地に縄張りをしている、と。
そういえば、新河岸川散歩のときに立ち寄った川越城って武蔵野台地の端にあった。岩槻城って、どんな地形のところにあるのだろう、と思ったのが岩槻散歩のきっかけである。 



本日のルート;東武野田線・岩槻駅>芳林寺>浄国寺>岩槻郷土資料館>愛宕神社の大構
>岩槻城址公園>元荒川>久伊豆神社>慈恩寺>玄奘三蔵塔>古隅田川>東武野田線・豊春駅

東武野田線?・岩槻駅
新宿から湘南新宿ラインで大宮に。大宮で東武野田線に乗り換え、岩槻駅に向かう。 岩槻 って場所もいまひとつわかっていなかったのだが、大宮に結構近い。途中、大宮台地の下に広がる沼地跡???・見沼田圃跡を横切り岩槻駅に。
駅前で案内ボードを探す。いつものスタイル。町の東、元荒川の傍に岩槻城址公園。それ以外に何処か見どころは、とチェック。駅からそれほど遠くないところに「岩槻郷土資料館」、そして、岩槻城址公園を北に進み東武野田線を越えたあたりに「久伊豆神社」がある。
久伊豆神社は利根川以東の香取神社の祭祀圏、以西の氷川神社祭祀圏に挟まれた独自の祭祀圏をもつ神社。由来などいまひとつはっきりしない、と言う。思いがけない久伊豆神社の登場。
これは行かずば、ということで、大雑把なルートは、最初に郷土資料館。次に城址公園。最後に久伊豆神社。もっとも、郷土資料館の「発見」次第では、別ルートもあり、といった成行きで進むことに。 






芳林寺
郷土資料館に向かう。といっても住所が分からない。なんとなく地図のイメージを頼りに進む。東武野田線の線路に沿って西に進むと本町1丁目の道に脇に芳林寺。寺域は広い。太田道灌が信仰した地蔵仏を本尊に道灌の曾孫・太田資正が開基したという。道灌や5代目岩槻城主・氏資の供養塔、徳川家康の腹心で岩槻城主・高力清長の長男・正長の墓がある。
本堂は明治4年に一時、埼玉県庁が置かれた場所でもある。寺名の由来は、太田氏資の母芳林尼による。 太田資正は道潅に勝るとも劣らない名将であった、とか。三楽斎(さんらくさい)と号する。扇谷上杉に仕えていたが、川越夜戦で主君上杉氏が滅びたため、北条の旗下に。その後、北条氏の家臣として武功をたてるが、1560年、上杉謙信の小田原侵攻に機を同じくして、北条より離反する。
日本最初の「軍用犬」を使った軍事連絡などを駆使し、勇名をはせるた資正だが、嫡男・氏資の離反により岩槻城は落城する。、家督相続を巡って父・資正と対立し出家していた氏資は、第二次国府台合戦で父・資正が北条に破れた時 に還俗し、北条方についたわけである。氏資の奥方が北条氏康の娘であったことも関係あるの、かも。
で、資正は常陸の佐竹氏のもとに逃れ、反北条として転戦。一方、氏資は上総国三船台の合戦に3万の北条軍の一翼を担い参戦。里見義弘の軍勢に破れ、殿軍として奮戦するも戦死した。  浄国寺 加倉地区に入る。緑の森が見える。なんとなく森に向かう。国道122号線に出るとすぐに立派なお寺さまの入り口。


浄国寺
岩槻城主・太田氏房の発願により、天正15年(1587年)に開基。また江戸期の岩槻藩主・阿部家の菩提寺でもあった。浄土宗学僧の学問の場として関東18檀林のひとつに数えられる古刹。
周囲に広がる保安林を見るにつけ、往時の威勢が偲ばれる。 太田氏房のことはどうもはっきりしない。太田の家系ではなく北条の一族。4代当主北条氏政の三男と言われている。芳林寺でメモした氏資の戦死を受け、太田の家系の女性を娶り太田姓を次いだ、とか。




岩槻郷土資料館
国道122号線を東に進む。ここは昔の日光御成道。江戸を出た日光街道は4番目の宿場町・糟壁(春日部市)で岩槻街道と分岐。この岩槻道は将軍が日光参詣の折の経路であり、ために日光御成道と呼ばれた。岩槻宿には、本陣と脇本陣が各1軒、旅籠10軒あった、とか。
日光御成道を北東に進む。岩槻郷土資料館に。ここは旧岩槻警察署庁舎。昭和5年に建てられたもの。大正期の雰囲気を今に伝えるレトロな、そしてこじんまりとした資料館。
岩槻の歴史をさっと眺める。市販の資料はなかったようだが、ここで「大宮市文化財マップ」を手に入れる。??岩槻市ではなく、さいたま市岩槻区、と。平成の市町村合併ということ、か。ともあれ、文化財マップはここ岩槻だけでなく、さいたま全域の文化財が概観できる。あれこれ先の計画もたてやすくなる。思いがけなく、ありがたい資料が手に入った
 
人形の街・岩槻

日光御成道を更に北東に進む。街道(?)筋には、人形店が軒を並べる。さすがに、人形の街・岩槻、である。
で、何ゆえ岩槻で人形造りが盛んになったか、ということが気にな った;岩槻周辺は上質の桐の生産地として有名。箪笥や下駄をつくっていた。その製造過程で大量にでるのが桐の粉。それが人形の頭をつくるのに最適であった。また、人形つくりに不可欠な胡粉(人形に塗る白い粉)の溶解と発色に適した良質の水も豊富であった。

環境はそろった。あとは人。それが、日光東照宮の造営、修築にあたった工匠たち。日光御成街道沿いのこの地に、そのまま足をとどめ、人形づくりを始めた。これが、岩槻で江戸期以来、人形作りが盛んになった理由。大消費地・江戸が近かったことも大きな要因であったことは、言うまでもない。
 


愛宕神社の大構
国道122号線・岩槻駅入口交差点を越え、ひとすじ先の交差点を線路方向に折れる。線路手前に愛宕神社。少々寂しげなお宮さま。なるほど土塁上に鎮座まします。

「愛宕神社の大構」の案内;戦国時代の末から江戸時代の岩槻城下町は、その周囲を土塁と掘が囲んでいた。この土塁と掘を大構(外構・惣構・土居)という。城下町側に土塁、その外側に掘が巡り、長さは8キロに及んだ、という。 この大構は天正年間(1580年代)頃、小田原の後北条氏が豊臣政権との緊張が高まる中、岩槻城外の町場を城郭と一体化するため、築いたものとされ、城の防御力の強化を図ったほか、城下の町場の保護にも大きな役割を果たした。
廃城後は次第にその姿を消し、現在は一部が残っているにすぎず、愛宕神社が鎮座するこの土塁は大構の姿を今にとどめる貴重な遺構となっている。 

岩槻城址公園
再び国道122号線に戻り、岩槻城址公園に向かう。渋江交差点を越え、岩槻商高入口交差点を南に折れ、諏訪神社に。城址にあるのだから結構大きな神社か、とはおもったのだが、小じんまりしたお宮さま。 神社脇を公園に。桜の頃でもあり、家族連れが目立つ。公園をふたつに分ける道路脇に岩槻城の案内。
概要をメモする;「岩槻城は室町時代に築かれた城郭。築城者については大田道潅とする説、父の大田道真とする説、そして後に忍(現行田市)城主となる成田氏とする説など様々。16世紀の前半には太田氏が城主。が、永禄10年(1567年)、三船台合戦(現千葉県富津市)で大田氏資が戦死すると小田原の北条氏が直接支配するところとなる。
 北条氏は天下統一目指して関東への進出を図っていた豊臣秀吉と対立。やがて天正15年(1590年)豊臣方の総攻撃を受けた岩槻城は2日後に落城。同年、秀吉が北条氏を滅ぼすと徳川家康が江戸に入り、岩槻城も徳川の家臣高力清長が城主となる。 江戸時代になると岩槻城は江戸北方の守りの要として重要視され、幕府要職の譜代大名の居城となる。
室町時代から江戸時代まで続いた岩槻城も、明治維新後に廃城。城の建物は各地に移され土地は払い下げられ、400年の永きに渡って続いた岩槻城は終焉の時を迎える。
岩槻城が築かれた場所は市街地の東側。元荒川の後背湿地に半島状に突き出た台地の上に、本丸・二の丸・三の丸などの主要部が、沼地をはさんで北側に新正寺曲輪、沼地をはさんだ南側に新曲輪があった。
主要部の西側は掘によって区切られ、さらにその西側には武家屋敷や城下町が広がっていた。また城と城下町を囲むように大構が建てられていた。 岩槻城の場合、石垣は造られず、土を掘って掘をつくり、土を盛って土塁をつくるという関東では一般的なもの。現在では城跡の中でも南隅の新曲輪・鍛冶曲輪(現在の岩槻公園)が県史跡に指定。どちらの曲輪も戦国時代に北条氏によってつくられた出丸で、土塁・空掘・馬出など中世城郭の遺構が良好に残されており、最近の発掘調査では、北条氏が得意とした障子構がみつかっている」、と。 

元荒川

前々から気になっていた岩槻城をやっと歩くことができた。低湿地を前に、台地に築かれた城。利根川の東に陣取る古河公方側の武将に対抗する、関東管領・上杉方の橋頭堡として東に睨みをきかせていたのであろう。さて、どの程度の台地かと、元荒川方面に下ることにする。
崖上から下を見る。結構の高さがある。確かに台地である。 崖を下り花見で盛り上がる皆様の脇を進み、元荒川に。川のすぐ脇には進めない。川道から少し離れたところに遊歩道。桜並木が美しい。満開を少し過ぎた頃ではあるが、十分に桜を堪能した。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)






川筋に沿った遊歩道を北に進む。元荒川についてまとめる。全長61キロ。埼玉県熊谷市佐谷田を基点として、おおむね南東に下り、行田市・鴻巣市・菖蒲町・桶川市・蓮田市・岩槻市をへて越谷市中島で中川に合流する。寛永6年(1629年)の荒川付替により、荒川が熊谷市久下で締め切られるまでは、この元荒川が本流であった。利根川が東遷され、荒川が西遷され、ふたつの水系は現在では別系となっているが、往古の荒川は利根川の支川であったことはいうまでもない。
ちなみに、桶川市小針あたりの備前堤で元荒川は綾瀬川と分かれるが、どうもこの綾瀬川筋がもともとの荒川の川筋でもあった、とか。
荒川の西遷事業って、元荒川の流れを締め切り、西を流れる入間川筋につなげ、現在の荒川筋を本流へと瀬替えした工事。荒川付替の主たる理由は中山道を水害から防ぐためのものであった、とか。
鴻巣市吹上地区で元荒川の上流部を見たことがある。取り立てて趣のある川筋、ってものではなかったが、ここまで下れば川幅も結構広く、野趣豊かな川筋となっている。地図だけではなかか実感できない川筋の雰囲気を味わいながら、先に進む。国道2号線を越え、本丸地区を進む。岩槻城の本丸があったあたりであろう。東武野田線を越え、鬱蒼と茂る森を目指す。その鎮守の森に久伊豆神社が鎮座する。 

久伊豆神社
前々から結構気になっていた神社。最初にこの神社の名前を知ったのは、鈴木理生さんの『幻の江戸百年:鈴木理生(ちくまライブラリー)』。関東における神社の祭祀圏がクッキリとわかれ描かれていた。利根川から東は香取神社。利根川の西の大宮台地・武蔵野台地部には氷川神社。この香取・氷川の二大祭祀圏に挟まれた元荒川の流域に80近い久伊豆神社が分布する。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
香取神社の祭神はフツヌシノオオカミ(経津主大神)。荒ぶる出雲の神・オオクニヌシ(大国主命)を平定するために出向いた神。氷川神社の祭神はスサノオ・オオナムチ(オオクニヌシ;大国主命)・クシナダヒメといった出雲系の神々。が、この久伊豆神社の由来はよくわからない、と。神社に行けば何か分かるかと、期待しながら歩を進める。 
予想に反して大きいお宮様。想像では祠程度の神社と思っていた。こんなに大きな神社であった、とは、少々の驚き。神社の由来をチェック:神社由来:御祭神:大国主命。今をさる1300年前、欽明天皇の御世、出雲の土師連の創建したものと伝えられる。その後相州鎌倉扇ケ谷上杉定正が家老太田氏に命じ岩槻に築城の際、城の鎮守として現在地に奉鎮したといわれている。江戸時代歴代城主の祟敬厚く、特に家康公は江戸城の鬼門除けとして祈願せられた、と。 大国主命(大己貴命)、ということは出雲系の神社。出雲の土師連の創建した、ってことは先日歩いた鷲宮神社の由来と同じ。鷲宮神社の祭神は天穂日命とその子の武夷鳥命、および大己貴命。
天穂日命って、アマテラスの子供。大国主を平定するために出雲に出向くが、逆に大国主に信服し家来となり、出雲国造の祖となった、とか。とにもかくにもバリバリの出雲系の神様である。 
土師氏とは、埴輪つくりの専門家集団。野見宿禰をその祖とする。埴輪って、天皇がなくなった時、殉死者の代替としてつくられたのも。古墳の周りに置かれることもあり、土師氏は古墳つくりの専門家といった性格ももつようになった、とか。元荒川流域には古墳が多い。また、上野国は埴輪のメッカ、とも言う。土師氏が祀る久伊豆神社が、この元荒川流域に多いのは、こういったことも一因、か。勝手な解釈というか、妄想。根拠はない。
ちなみに、菅原道真の菅原氏は土師氏の後裔。古墳がなくなる頃、土師氏を菅原に改めてる、と。 久伊豆神社の分布範囲は、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致している、とか。その中心地・騎西町にある玉敷神社が、久伊豆神社の「総本家」という。そのうちに訪れてみたい。

 慈恩寺
久伊豆神社を離れ、東岩槻の慈恩寺に向かう。東武野田線に沿って、元荒川に戻る。線路のすぐ上流にかかる橋を渡り、東岩槻地区に。道なりに北に北に進み、左に団地を見ながら東岩槻小学校脇に。小学校を過ぎる頃から、畑地の中を歩くことになる。
のんびり、ゆ ったり歩を進め、しばらく北に歩くと坂東観音霊場12番の札所・慈恩寺がある。駅から2キロ強といったところ。
境内前の駐車場には幾台かの車。観音巡礼の人達であろう。 慈恩寺。天長年間(824~34)慈寛大師の草創という。慈覚大師・円仁。下野国の生まれ。第三代比叡山・天台座主。最後の遣唐使でもある。慈寛大師、って、いままでの散歩では、鎌倉の杉本寺、目黒不動・龍泉寺、川越の喜多院などで出合った。
慈恩寺は往時本坊四十二坊、新坊二十四坊といった大寺ではあったよう。境内も13万坪以上あった、と。このあたりの地名が慈恩寺と呼ばれているのは、その名残であろう。
江戸期には徳川家の庇護も篤く家康より寺領100石を賜っている。また、本尊は天海僧正の寄進によるもの、とか。ともあれ、天台宗の古刹であった、ということだ。『坂東霊場記』に「近隣他境数里の境、貴賎道俗昼夜をわくなく歩を運び群集をなせり」、と描かれているように、昔は、門前市を成すって活況を呈していたのであろう。が、現在では、あっさり、というか、さっぱりしたもの。本堂前には南部鉄でつくられた鉄の灯篭があった。 

玄奘三蔵塔
慈恩寺を離れる。のんびりした風景。慈恩寺の寺名の由来は唐の大慈恩寺から。このあたりの風景が慈覚大師の唐での学び舎・大慈恩寺の風景によく似ていたから、とか。そういわれれば、風景もありがたいものと思えてくる。
そのこととも関係あるのだろうが、近くに「玄奘三蔵塔」が。玄奘三蔵法師の骨を分骨している、と。大慈恩寺って玄奘三蔵法師が天竺・インドへの仏典を求める旅から戻り、その漢訳に従事したお寺さま。先の大戦時、南京で日本陸軍が偶然発掘し、一部をこの地におまつりした、という。ちなみに、奈良の薬師寺にはこのお寺さまから、分骨したということである。 

古隅田川
東武野田線・豊春駅へと向かう。徳力地区を越えると春日部市に。両市の境あたりに水路がある。古隅田川。岩槻区南平野を基点とし、春日部市梅田で大落古利根川に合流する。あれ?南流しないで、北流している。どういうことか?チェックしてみた。
近世以前、利根川東遷事業、荒川西遷事業による河川の瀬替え以前は、この川は他の川筋と同じく南流していた。流路は春日部市梅田あたりまでは古利根川筋を流れていた。梅田で現在の川筋とは異なり、南西へと流れを変え、岩槻市長宮あたりに向かって下り、現在の元荒川に合流。
次いで、元荒川を流れ越谷市中島あたりで中川筋の流路となり、最後は隅田川につながっていた。 流れが逆方向になったのは、利根川・荒川の瀬替えのため。
瀬替えによって水源を失った元荒川・古利根川は水位が急激に低下。そのため、岩槻市長宮あたりから春日部市梅田方面に向かって北東に逆流することになった、という。
で、古隅田川の東京都に入ってからの川筋だが、いつだったか、千代田線綾瀬駅あたりで古隅田川に出合ったような気がする。
調べてみる。古隅田川は中川を下り、東京都に入る。足立区中川あたりで中川から分かれ、葛飾区小菅で綾瀬川に合流。その後は北千住あたりを経て、隅田川に通じていた、なんとなく流路を把握できた。 

東武野田線・豊春駅
古隅田川を越え、東武野田線・豊春駅に到着。豊春、って名前が気になりチェック。明治22年に11の村々が合併してひとつの村ができるとき、「年々耕作の豊かに熟して春和の候の如く合併各村和熟せんことを望むにあり」ということから豊春という名前となった,と。これって、東大和市ができるとき、「大いに和するべし」ということから名付けられた、ってことと気分は同じ。地名の由来って、一定のルールもなく、ために、面白い。 
ついでのことながら、駅の近くには、梅若伝説とか在原業平ゆかりの業平橋、といった旧跡が残る。梅若伝説は墨田の墨堤にあった木母寺が「本家」。また、業平橋というか、在原業平の「都鳥...」のお話も、墨田区が「本家」。昔の隅田の流れに沿って、この地にまで伝わってきたのだろう、か。はたまた、その逆か、はてさて。

それはそれとして、今回の散歩は思いもかけず久伊豆神社に出会え、気持ちも軽やかに家路に向かう。

水曜日, 5月 23, 2007

埼玉 行田散歩:さきたま古墳群と忍城へ

先日来、数回に渡って旧利根川筋を歩いた。権現堂川とか会の川といった川筋である。東遷が終われば次は西遷、というわけでもないのだが、今回は荒川の西遷事業・付替えの地を歩くことにした。荒川の付替とは寛永6年(1629年)、関東郡代・伊那忠治によっておこなわれたもの。現在の元荒川筋を流れていた本流を、熊谷近くの久下(くげ)で人工的に開削し、武蔵野の沖積平野・低地を流れていた川筋を西側、つまり、和田吉野川から入間川筋に流れを変えた。これが、 現在の荒川となったわけだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

荒川付替の地・久下は熊谷駅から国道17号線を南東に少し下ったところにある。久下から元荒川を下るのも一興と思いながら、どうせのことなら、近辺で何か見どころはとチェックする。
近くの行田市に「さきたま古墳群」がある。前々から気にはなっていたところ。なぜこのあたりに古墳群、というか、古代豪族の本拠があったのか、よくわからなかった。実際に言ってみればなにかヒントがあるかと、まずは、古墳の地に足を延ばすことにする。その後は現地で得た情報をもとに成行きで進み、最後に荒川付替の地・久下でクロージング、といった段取りとした。


本日の散歩;JR高崎線吹上駅>県道66号線>吹上本町地区>元荒川>駅入口交差点・国道17号線>下忍地区>前谷落>JR上越新幹線>下忍交差点・国道17号線>ものつくり大学前>佐間>県道77号線>忍川・野合橋>武蔵水路・新野合橋>さきたま風土記の丘・埼玉古墳群>前玉神社>県道77号線>旭町交差点>市役所前>忍城>諏訪神社>東照宮>秩父鉄道・行田駅>秩父鉄道・熊谷駅>荒川河川敷・荒川運動公園>JR高崎線・熊谷駅>自宅

JR高崎線・吹上駅

さてと、JR高崎線・吹上駅に。現在は鴻巣市となっている。この地は中山道の熊谷宿と鴻巣宿の中間にあり、昔は「間の宿」として発展。また、日光脇往還を経て忍の城下町(行田市)へと進む分岐点でもあった。 ちなみに、「吹上」の名前の由来は、水が吹き出るように湧く地、といったことから。町の中央部を流れる「元荒川」が、昔は川底から美しい水が湧き出ていた、とか。その面影は、今はない。

元荒川・新宿橋

県道66号線・駅北口通りを北に進む。しばらく歩くと新宿橋。元荒川に架かっている。元荒川の源流は、熊谷市佐谷田あたり。もともとは、大雷神社あたりからの湧水をあつめていた、と。このあたりは、荒川扇状地の扇端部にあたり、豊かな湧水が各地から湧き出していたようではある。が、今ではそれも枯渇し、ひとつは生活排水、もうひとつは近くの県水産試験場で地下水をポンプで汲み上げ、それを源流としている、と。

元荒川
元荒川は現在、熊谷市佐谷田からはじまり、行田・鴻巣・桶川・蓮田・岩槻と進み、越谷で中川に合流する。上でメモしたように、寛永6年、荒川付替により、熊谷市久下で荒川が締め切られるまでは、この元荒川が「荒川」の本流。付替により荒川が西の入間川筋に変更されたため、本来の川筋が、「元」荒川と呼ばれるようになった。現在では荒川と利根川は別水系ではあるが、元々の荒川・元荒川は利根川水系の一派川であったことは、いうまでもない。

中山道

先に進む。国道17号線・駅入口交差点に。この国道は昔の「中山道」筋。江戸の日本橋を発し、京都の三条大橋にいたる。東京から高崎までは、国道17号線の道筋である。で、先般の古河散歩のときも取り上げた、『日本人はどのようにして国土をつくったか;学芸出版社』によれば、江戸初期の荒川付替の直接的な目的は、この中山道の洪水対策・整備である、という。以下該当箇所をメモ;
「中山道は、板橋宿から志村に。ここで関東ローム台地を下りる。戸田の渡しで荒川を渡り、蕨に。蕨から浦和に入り、台地に上がる。志村から浦和までは低湿地帯。その中で、微高地の自然堤防を見つけて進む。この地点では三角州河川であるため洪水のエネルギーはそれほど強くない。洪水に襲われても、水が引けばそのまま道路は使用できた。
浦和を過ぎ、大宮・上尾・桶川・鴻巣と大宮台地上を通る。台地上のため洪水の影響はない。その後、(鴻巣市)箕田を過ぎると再び沖積低地に下りる。ここより熊谷を過ぎ、深谷近くまで沖積低地を通る。熊谷を過ぎると熊谷扇状地の扇端近くの小高い自然堤防上を通るため洪水の危険性はない。が、(鴻巣市)箕田から吹上・熊谷までは荒川に沿った自然堤防上を進み、洪水の脅威を受けることになる。この地帯は地形上、水が集中するところ。荒川の勾配の変節点でもあり変流しやすく、洪水のたびに大量の土砂を運び込み、復旧には多大な労苦を要する地帯であった」、と。久下のあたりで、内陸部に流れる川筋を締め切り、川筋を西に迂回させ、洪水の被害が中山道に及ばないようにした、ということか。なんとなく、納得。

「下忍」って、忍藩の「忍」??

先に進む。道の東は「下忍」地区。忍って、忍藩の「忍」?じっくりと地図を見る。その通り。このあたりは行田市であった。いつものように、前もってあれこれ調べることもせず、行き当たりばったりの散歩であるがゆえの「展開」。忍藩というくらいなので、お城でもあるものか、と期待する。どこかでチェックしなければ、などと思い巡らせながら、ともあれ、先に進む。

JR上越新幹線の手間に水路。「前谷落(まえやおとし)」。行田市持田からはじまり、吹上地区で元荒川に合流する4キロ程度の農業排水路。道の北側に「ものつくり大学」。いつだったか、新聞ネタになった、かと。学校前を進む。しばらく行くとふたたび、国道17号線。熊谷バイパスとなっている。途中幾筋かの小さな農業水路と交差しながら県道66号線を進み「佐間」交差点に。ここで県道77号線と交差。ここで右折し、77号線を南東に歩く。しばらく歩くと野合橋。忍川が流れている。

忍川

忍川は全長12キロ。中川水系の河川。熊谷市に起点があり、行田市内を経て、鴻巣市の吹上地区・袋で元荒川に合流する。この川には現在、水源といったものはない。元々は、熊谷市星川の星渓園あたりでの湧水が源流としていたようだが、現在ではそれも枯渇し農業排水と都市排水を集めて流れる。
忍川はかつて、熊谷市から行田市の忍沼(現在の水城公園)までは「上忍川」、そこから下流は、「下忍川」と呼ばれていた。下忍川は野合橋の少し北を通り、東に流れ見沼代用水に合流していた、とか。昭和初期の河川改修で下忍川は廃川。替って、南に向かって元荒川に合流する川筋が開削された。これが現在の忍川の下流の名前である「新忍川」。ちなみに、下忍川は現在、「旧忍川」として流れている。

武蔵水路
忍川を越えると直ぐにもうひとつ川筋。「武蔵水路」。この水路は、利根川と荒川の連絡水路。新河岸川と隅田川の浄化用水を導入している。きっかけは東京オリンピック。隅田川があまりに汚れているから、世界の皆様にお見苦しい、ということで、突貫工事でつくられた、とか。利根川からの取入口は、見沼代用水とおなじ、行田市下中条の利根大堰。排出口は鴻巣市の糟田。荒川は、元は利根川の水系であったわけで、荒川の西遷事業で切り離された川筋が再び繋ぎあわされた、といえなくもない。

さきたま古墳群

武蔵水路を越えてしばらく進むと、「さきたま古墳群」。5世紀の終わりから7世紀のはじめにかけてつくられた9基の大型古墳が集まっている。入口の南に「埼玉県立さきたま資料館」。この古墳群の全体像をちょっと眺め資料を手に入れる。で、実際の古墳に向かう。入口を入ると天祥寺。忍藩・(奥平)松平家の菩提寺。家康の長女・亀姫の子・忠明を祖とする家。

丸墓山古墳
北に進み最初に「丸墓山古墳」。日本で最大の円墳。6世紀前半に造られた、と。『風駆ける武蔵野;大護八郎(歴史図書社)』によれば、1日100人が働いて500日かかるボリュームとか。当時、そのくらいの人を動員できる勢力が登場していた、ということ。単に祭祀的首長ではこのような大規模の動員はできまい。ということは、政治・経済的な権力をもった首長が既にこの地に登場していた、ということ、だろう。
頂上に向かって階段を上る。1590年、石田三成が忍城を水攻めにしたとき、この古墳に陣を張ったという。この丘が、古墳であると思っていたのだろうか。資料館で昔の写真を見たのだが、木々が茂ったその様は、単なる小高い丘といえなくも、ない。ちなみに、三成といえば、駐車場からこの古墳までの道筋は、三成が忍城水攻めの時に築いた堤防の跡。石田堤と呼ばれている。

稲荷山古墳
丸墓山古墳の東に「稲荷山古墳」。階段を上る。全長120mの前方後円墳。造られた時期は5世紀後半。さきたま古墳群で最初につくられた古墳、とか。同じく『風駆ける武蔵野』によれば、1日100人で働いて300日を必要とする、と。昭和12年に前方部が削り取られたが、現在は復元工事によって昔の姿をとどめている。

金錯銘鉄剣
この古墳は、昭和43年に発見された金錯銘鉄剣、そしてそこに刻まれた115の文字で有名。資料館で手に入れた資料によれば、鉄剣に刻まれた文字の意味は「わたしの先祖は代々杖刀人首(じょうとうじんのおびと;親衛隊長)をつとめる。わたし(ヲワケノキミ)はワカタケル(雄略天皇)に仕え、天下を治めるのを補佐。で、辛亥の年(471年)7月に、これまでの功績を刻んで記念する」と。大和朝廷との深い関係を高らかに宣言している。この時期にすでに大和朝廷の勢威がこの地に及んでいた、ということだ。

将軍山古墳

稲荷山古墳の東に「将軍山古墳」。この前方後円墳がつくられたのは6世紀後半。稲荷山より100年ほど後のこと。後円部が失われていたが、現在は復元されている。古墳の上には埴生が置かれている。複製品であることは、いうまでもない。古墳には上がれない。

二子山古墳

少し南に戻ると「二子山古墳」。武蔵の国では最も大きな古墳。6世紀初頭に作られた、とされる。周囲は水をたたえた掘となっており、上ることはできない。

愛宕山古墳

二子山古墳から天祥寺脇を抜け、入口に戻る手前に「愛宕山古墳」。古墳群の中ではもっとも小さな古墳。古墳と言われなければ、ちょっとした「丘」といった風情。


県道77号線を越え、「さきたま資料館」側に戻り、瓦塚古墳、鉄砲山古墳、などを眺める。さきたま古墳群を歩き、資料館で手に入れた資料とか、既に挙げた『風駈ける武蔵野;大護八郎(歴史図書社)』などを参考に、「さきたま古墳群」のあれこれをメモする。

古墳の主は武蔵の国造・笠原直使主(かさはらのあたいおみ)。金錯銘鉄剣をつくらせた人物ともいわれる。鉄剣に刻まれた文字の解釈によれば、「わたしの先祖は代々杖刀人首(じょうとうじんのおびと;親衛隊長)として、(ヲワケノキミ)はワカタケル(雄略天皇)に仕え、天下を治めるのを補佐した」ということで、上に述べたように、大和朝廷との関わりを宣言している。
この笠原直使主って、武蔵の国造の地位を巡って胸刺(関東南部)の小杵、それを助ける毛の(上野・下野国)の小熊と相い争い、大和朝廷の助けにより、小杵・小熊を破った人物。つまりは、大和朝廷の尖兵として、先住の豪族を打ち破り、武蔵の国を大和朝廷の完全支配下に置いた、その象徴としての人物である。言い換えれば、武蔵の国を支配していた出雲系部族を大和政権の完全支配下に置いた象徴的「存在」である、とも言える。金錯銘鉄剣の歴史的意義は、そこにある。

大和朝廷の威が及ぶ前の武蔵の地は出雲族の支配する地であった。国譲りの神話などで、粛々と天津神系の大和朝廷に下った国津神系の氏族として登場するが、実際は、大和朝廷なにするものぞ、と最後まで「まつろうことのなかった」氏族である。
武蔵の国が出雲系氏族の支配する地であったことは、氷川神社の祭祀圏の分布でもあきらか。氷川=出雲の簸川の神、スサノオ・オオナムチ・クシイナダヒメの三神を祀る氷川神社が旧利根川水系の西に数多く祀られている。また、大和朝廷によって国司が派遣される前の地方の首長、つまりは、国造であるが、東国25カ国のうち、9国の国造が出雲系であった、と言われる。
こういった地に、大和朝廷の尖兵として武蔵に君臨しようとしたのが、笠原直使主。出雲族と衝突するのは当然であり、反旗を翻した先住出雲系氏族の小杵・小熊と衝突。結局は大和朝廷の勝利に終わる。『太子伝暦』には、「従来出雲系氏族によって継承されていた武蔵国造が、聖徳太子の時に物部系に移った」とある(前出の『風駈ける武蔵野』)。笠原直使主がどういった出自のものかわからない。が、結局のところ、というか、歴史的事実としては、武蔵の国は、大和朝廷と縁戚関係にある物部氏が国造となった、ということ。このことにより、歴史的事実としても、武蔵の地が完全に大和朝廷の支配下になった、ということであろう。

で、最後に、なぜこの地に、ということだが、これも『風駈ける武蔵野』によれば、「灌漑を主とする水田耕作は、河川に臨んだ低平地への集落の集中化となり、用水利用は必然的に広域の支配者の台頭とともに、富の蓄積と文化の向上をうながした。鉄剣が出土したさきたま古墳群の地は、利根川と荒川に挟まれた肥沃な一大平野で、大首長の生まれる格好な土地であった」とする。往古、川越あたりまで古東京湾が入ってきていたわけだし、このあたりから先は、茫漠たる湿地帯であったのだろう。逆に言えば、このあたりがなんとか人の住める低平地の限界線であったということだろうか。自分勝手に納得。

さきたま古墳群を終え、次の目的地はと、行田市の案内地図をチェック。「さきたま古墳公園」の直ぐ横に、「前玉(さきたま)神社」、それと行田市内に「浮き城・忍城」がある。どちらも魅力的。両方をカバーし、その後に当初の目的地・久下に向かうことにする。

前玉(さきたま)神社
さきたま古墳公園の中を歩き、「前玉(さきたま)神社」に。「さいたま」、という地名は、この「さきたま」から生まれた、と。祭神は前玉比古(さきたまひこ)と前玉比売(さきたまひめ)。名前からすれば、さきたま古墳群と大いに関係ありそう。
神社は古墳の上に祭られている。浅間塚古墳。丘の中腹に浅間神社が祀られている、ため。近世、富士信仰が盛んになったとき、忍城内に祀られてあった浅間神社をこの地に勧請。どうも、古墳であるとは知らなかったようで、前玉神社とともに合祀した。明治になって、丘の頂上に前玉神社、中腹に浅間神社と分けられ現在に至る。

前玉神社を離れ、忍城に向かう。郷土博物館がある、という。時刻は4時過ぎ。5時まで開いていることを祈りながら、早足で進む。県道77号線を戻り、佐間の交差点を越え、一直線に秩父鉄道・行田駅方面に進む。

与野地区にある高源寺を越えたあたりで水路と交差。道の西に水城公園。ということは、この水路は昔の下忍川であろう、か。時間があれば水城公園を廻りたいのだが、如何せん時間がない。

忍城・郷土博物館

さらに北に進み国道125号線とT字交差。西に折れ、行田市役所前を越えると忍城の御三階櫓が見えてきた。櫓脇の門をくぐり場内にある郷土博物館に向かう。が、時刻は午後4時35分。開館は4時半まで、ということで残念ながら、入館叶わず。門も鐘櫓も復元されたものではあるが、落ち着いた雰囲気に出来上がっており、安っぽさは、ない。譜代幕閣の重職が城主であった城の風格であろう、か。

諏訪神社・東照宮

しばし休息し、気を取り直し、お城前にある諏訪神社、そして東照宮に歩を進める。鬱蒼とした盛の中に諏訪社が鎮座する。東照宮も門が閉じられていた。東照宮は江戸時代の忍藩主・松平家は、家康の長女・亀姫の子である忠明を祖とする、故。境内に忍城の鳥瞰図が納められていた。なるほど、水城である。四方が水で囲まれている。この水城を三成が水攻めをした、というが、果たして効果があったのだろうか。気になる。後から調べてみよう、と思う。

熊谷駅
さて、最後の目的地・久下に向かう。秩父鉄道・行田駅から電車にのり、熊谷駅に。日が暮れ始める。久下までは行けそうもない。せめてのこと、荒川堤までは行こう、ということで、熊谷駅を南に降り、荒川堤に向かう。

熊谷桜堤
成行きで南に進む。荒川運動公園。熊谷桜堤に出る。荒川の土手から、しばし南を眺め、久下に行ったつもりで本日の予定を終了する。もともとは久下が本命であったのだが、さきたま古墳とか、忍城といったインパクトのあるトピックが登場し、予定外の散歩となったが、それはそれなりに、行き当たりばったりの散歩の楽しみを満喫した1日であった。

甲斐姫
後日談。『水の城 いまだ落城せず;風野真知雄(祥伝社文庫)』という本を読んだ。忍城水攻めの攻防戦を描いたもの。主人公は成田長親、そして甲斐姫。長親は城主成田氏長の従兄弟。城主氏長が小田原北条氏直の要請により小田原城に詰めたため、忍城を託されることになった成田肥前守の嫡男。が、突然の肥前守の死により、この城を預かり、石田三成と攻防戦を繰り広げることになる。
甲斐姫は城主氏長の息女。美貌のじゃじゃ馬娘として描かれている。頃は天正17年(1589年)。秀吉による小田原征伐のとき。4月から5月にかけて、北条方諸城の大半が攻略される。6月には、北条氏邦の鉢形城、北条氏照の八王子城、伊豆韮山城も落城。残るは、小田原城と忍城のみとなる。
小田原にて秀吉の命により、石田三成に館林城、忍城攻略の下知。可愛い三成に軽く手柄をたてさせてやろう、との親心。5月に上野館林城を3日で攻略。2万の兵をもって勇躍、忍城攻略に。
が、この小城はなかなか落ちない。で、秀吉の高松城の水攻めを真似たのか、7日間の突貫工事で、全長28キロ、高さ1間から2間の土手を築く。が、堤防が自壊するなどして失敗。むしろ自軍に数百名の被害者を出す始末。昼行灯として描かれる長親の、のらりくらり戦法。そしてじゃじゃ馬姫の突っ走り攻撃など、攻略戦のあれこれが描かれる。
散歩で歩いた佐間の、通じる佐間口には、長塚正家が陣を張った、とか。浅野長政、真田昌幸の援軍。それでも城は落ちず、結局小田原城開城の後まで落ちなかった唯一の城であった、と。とは言うものの、攻防戦の期間は意外に短く、38日程度であった、よう。
で、長親と甲斐姫のその後。長親は尾州に寓居。剃髪し自永斎と名乗る。二度と成田家には戻らなかった、と。城主・氏長に敵方内通の誤解を受け、気分を害したものであろう、と。

一方の甲斐姫は波乱万丈。秀吉がその武勇、またその美貌ゆえに懸想。側室となる。淀の方のお気に入りとなり秀頼の守り役、と。が、なにがどうなったか、秀頼の子を宿す。姫を出産。大阪落城のとき娘は7歳。千姫の助けにより鎌倉・東慶寺に預けられる。東慶寺中興の祖、天秀尼がその人。
東慶寺って、鎌倉散歩で訪れた品のいいお寺さま。縁切り寺とも駆け込み寺、とも。ちなみに忍城にこもった武士たちは、その武勇ゆえに家臣へと迎えたい、とった話、引きもきらずであった、とか。

そうそう、忍城の歴史をちょっとまとめる。戦国時代、この地に土豪・忍氏の館。忍地方の西部に力をもってきた土豪・成田親泰が山内・扇谷両上杉の争いに乗じ忍氏を襲い館を攻略、築城した。荒川扇状地の末端扇端の湧水地帯と利根川中流域に挟まれた低湿地に築かれた。忍城は周囲一里ほどの沼の中にある。沼がそのまま濠の役割。沼の中の島々に二の丸、三の丸、本丸、重臣たちの屋敷がつくられているわけで、このような「水城」、利根川・荒川の氾濫に馴れきっている忍城を水攻めしたところで、なんのインパクトもない、と思うのは私だけであろうか。

土曜日, 5月 19, 2007

利根川東遷事業の川筋を歩く;中川そして葛西用水上流部

利根川東遷事業の川筋を歩く;葛西用水、会の川から中川へ 中川の上流域を歩こうと思った。先日権現堂川を歩いたとき、権現堂堤近くで合流した川である。利根川の瀬替えによって取り残された川筋をつなぎ、まとめあげた水系、とのこと。八甫(鷲宮町)、川口(加須市)、島川(栗橋町)といった地名が川筋に沿って見える。昔の舟運とか利根川東遷の際に、しばしば登場する地名である。また、鷲宮町には。関東最古の社、とも言われている鷲宮神社もある。ということで、今回の散歩は鷲宮町の鷲神宮からスタートし、中川に沿って川口、八甫へと進み、権現堂川との合流点で締め、といった段取りとした。実際は大きくコースが変わることになるのだが、それも成り行き次第の気ままな散歩の妙味でもあろう。

本日のルート;鷲宮郷土館>天王新堀>鷲宮神社>中川と葛西用水の最接近部・川口>葛西用水・川口分水工>会の川>県道125号線>川口>門樋橋>JR宇都宮線交差>行幸橋 ・行幸堤碑>幸手駅

鷲宮郷土館
湘南新宿ライン・宇都宮線直通電車で東鷲宮に。駅の西口に降り、線路に沿って北に。県道152号を西に。3号線と交差。先に進む。しばらく進むと葛西用水と交差。葛西用水に出合うとは思っていなかったので、少々流れが気になる。気にはなりながらも、本日の散歩は中川筋を歩くこと。先を急ぐ。
橋を渡ると鷲宮郷土館。しばし鷲宮の歴史を概観。縄文期からはじまり、平安期の荘園領・太田荘の頃、中世・古河公方との強い関わり、といったこと、それと、中川筋の交通の要衝であったこの地の歩みをスキミング&スキャニング。そもそも鷲宮って地名を知ったのは、古河を歩き、古河公方のあれこれを調べたとき。古河公方がこの地を物流の要衝として重視していた、ということだった。鷲宮の何たるかを再確認。

天王新堀
郷土資料館を離れ、西に進む。道の北側に水路。天王新堀である。この掘は、加須市東栄町1丁目あたりの都市排水路が基点。上流域は「六郷掘」と呼ばれる。加須市内を東武伊勢崎線に沿って下り、東北道を越え、鷲宮で東武伊勢崎線と交差する。それより下流が天王新堀と呼ばれている。この流れは葛西用水と青毛掘川の間を下り、久喜市吉羽で青毛掘川に合流。全長10キロ程度の都市排水路である。もともとは、農業用排水路であった。

鷲宮神社
道を更に西に進むと鷲宮神社。立派な構え。由来書によれば、「出雲族の草創に係る関東最古の大社。武蔵国の経営に東に下った天穂日命とその子・武夷鳥命がこの地に到着。お供の出雲族が当地に大己貴命を祀る。その後、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定の折り、この地に宮を建て天穂日命とその子・武夷鳥命(天夷鳥命、天鳥舟命;あめのひなとりのみこと)を祀った、と。大己貴命(おほなむちのみこと)は出雲の大国主命。出雲族がまつったことは理にかなっている。神話のことは、ともかくとして、境内には縄文から古墳期にかけての複合遺跡「鷲宮堀内遺跡」も残っており、古くから開けたところでは、あったのだろう。

いつだったか、足立区花畑の大鷲神社を訪ねたことがある。この神社は「お酉様」の本家、とか。大鷲神社の産土神(うぶすなかみ)は天穂日命の御子・天鳥舟命であった。この地の鷲宮神社と同じ、である。この天鳥舟命、って「土師連」の祖先。「土師(はじ)」を後世「はし」と呼ぶようになり、「はし」を「波之」とか「和之」と表記。それを、「わし」と読み違え、「鷲」となり、神社の名前が「鷲宮神社」となった、とか。





鷲宮神社は中世以降関東の総社、また関東鎮護の神。藤原秀郷や源義家といった武将から庇護を受けた。鎌倉時代には源頼朝が神馬奉献・社殿造営。北条時頼が神楽奉納。北条貞時が社殿造営。小山義政が社殿修理。室町時代には古河公方の保護を受ける。徳川期には、徳川家康により400石の御朱印地を与えられた。 この神社の近く、中川、昔は島川であり、浅間川であったのだろうが、ともあれ現在の中川筋に川口とか八甫といった河岸があり、舟運が盛んであった、とか。近辺が交通・物流の要衝として栄えていたのも、多くの武将がこの神社を崇めたことと関係ないわけではないだろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

中川と葛西用水の最接近部・川口
神社を離れ、鷲宮3丁目を成行きで中川に向かって進む。葛西用水が再び登場。気になる。水路脇の案内に、「川口分水工」とか「会の川合流点」といった記載。少々迷う。予定通り、すぐ北、というか、用水のすぐ東を流れる中川の土手に出て、八甫に向かうか、それとも、「会の川」に向かうか、少々迷う。距離も結構ある。予定とは真逆の方向。また、会の川といっても、源流は遥か彼方で、単に葛西用水との合流点であるだけではあるのだが、はてさて、の迷い。が、結局、利根川東遷事業のはじまりともなった「会の川」って言葉に惹かれて予定変更。会の川との合流点を求め、葛西用水を西に向かうことに、した。

葛西用水・川口分水工
鷲宮地区を越え、葛西用水に沿って、川口3丁目に。「川口分水工」がある。「北側用水」が分流している。川筋をチェックすると、中川に沿って下り、権現堂堤あたり、国道4号線を越えると権現堂用水となっている。そこから、中川にそって更にくだり、杉戸町・並塚で一瞬、神扇落に合わさり、すぐに中川に合流。なお、神扇落は、幸手市下吉羽で権現堂用水路から分流した用水である。
葛西用水のすぐ北に中川が流れる。このあたりが両水路の最接近地。とは言っても、昔は中川があったわけでなく、このあたりは南利根川とも呼ばれ、東遷事業以前の利根川の主流のひとつでもあった「会の川」がふたつに分かれたところ。ひとつが現在の中川筋、もうひとつが現在の葛西用水の川筋(昔の古利根川筋)であったわけで、正確には、最接近と言うより、ここが「会の川」の分岐点であった、ということである。

会の川
葛西用水、つまりは昔の「会の川」筋を活用した川筋だが、この用水に沿って西に進む。西に進むにつれて、中川との距離は開いてゆく。のんびりとした田園風景の中を進む。川面橋を越え、国道125号線に架かる新篠合橋に。この橋のすぐ西に「会の川」の合流点があった。

 「会の川」って、利根川東遷事業のはじまりとも言える、「会の川」締め切り、ということで結構気になっていた。現在は中川水系の川とはなってはいる。が、昔は中川があったわけではない。そのことは上にメモした。
近世以前の利根川は八百八筋と呼ばれるほど、派川が多く、乱流していた。「会の川」は、その利根川の「本流」のひとつであった、とか。現在の「会の川」は、羽生領上川俣で利根川からわかれ、行田市と羽生市の境界線を走り、羽生市砂山あたりで東に流れを変え、そこからは羽生市と加須市のを通り、加須市南篠崎と大利根町大桑の境界で葛西用水に合流する。その合流点が新篠崎橋近くの合流点である。

県道125号線
合流点を確認し、中川に戻ることに。125号線を東に。トラックの往来が多い。太田市を含めた北関東一帯って、「北関東工業地帯」と呼ばれていると。国内有数の工業地帯となっている、とか。そういった活発な生産活動ゆえ、ではあろうが、歩く立場からすれば、大型トラックの風圧など結構怖いものである。 北大桑の香取神宮を越えたあたりでなんとか車道から離れた野道があった。北東に進む。中川の堤に出る。中川に沿った土手道を歩く。遊歩道といった雰囲気ではない。野趣豊かな土手道である(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

川口
古門樋橋に。このあたりから、土手道もあやうくなる。川筋東側は通行止め。西側も工事中のような、そうでないような、微妙な雰囲気。とりあえず進む。なんとか進める。自然のままの土手道。土手脇に鹿島道路栗橋テクノセンターがある。この工場がきれるあたりが、中川と葛西用水の最接近の場所。葛西用水を西に向かったスタート地点・川口地区にやっと戻った。

門樋橋
川の北側の土手道を進む。門樋橋手前では、土手道が行き止まり、となる。仕方なく少し引き返し、道なき道を力任せに押し通る、といった感じ。門樋橋を越え土手道を進む。門樋橋の南は雑木林といった有様で歩けない。

JR宇都宮線交差
北側を進む。JR宇都宮線を越える。川の北は島川、南は八甫地区。島川橋を過ぎると北から稲荷木落排水路が合流。しばらく進むと東北新幹線と交差。更に進み、昭和橋の手前には香取神社とか香取大明神、権現堂など。昔はこのあたりに河岸でもあったのだろう、か。

行幸橋 ・行幸堤碑
昭和橋を越え、高須賀池の森を眺めながら、進み東武日光線と交差。道も切れ橋の下をくぐり進む。行幸橋に。まったく道はなし。畑の端を這い上がり、ブッシュを切り抜け上に上がる。橋の東で中川は権現堂川と合流する。
合流点ちかくにあった石碑にあった、中川についてのあれこれをまとめておく。 中川;中川は羽生市を起点とし、埼玉の田園地帯を流れ東京湾に注ぐ全長81キロの河川。起点をチェック。羽生市南6丁目あたり。宮田橋のところで葛西用水を伏越で潜り、宮田落排水路(農業排水路)とつながるあたりが起点、とか。
中川には山岳部からの源流がない。低平地、水田の排水を34の支派で集めて流している。源流のない川ができたのは、東遷・西遷事業がその因。江戸時代、それまで東京湾に向かって乱流していた利根川、渡良瀬川の流路を東へ変え、常陸川筋を利用して河口を銚子に移したこと。また、利根川に合流していた荒川を入間川、隅田川筋を利用して西に移したことによって、古利根川、元荒川、庄内古川などの山からの源流がない川が生まれた。
現在の中川水系一帯に「取り残された」川筋は、古利根川筋(隼人堀、元荒川が合流)と島川、庄内古川筋(江戸川に合流)に分かれていた。幕府は米を増産するために、この低平地、池沼の水田開発を広く進め、旧川を排水路や用水路として利用した。が、これは所詮「排水路」であり「用水路」。「中川」ができたわけではない。
中川水系の水田地帯を潤し、そこからの排水を集めた島川も庄内古川も、その水を江戸川に水を落としていた。が、江戸川の水位が高いため両川の「落ち」が悪く、洪水時には逆流水で被害を受けていたほどである。低平地の排水を改善するには、東京湾へ低い水位で流下させる必要があった。そこで目をつけたのが古利根川。古利根川は最低地部を流れていた。島川や庄内古川を古利根川つなぐことが最善策として計画されたわけである。実際、江戸川落口に比べて古利根川落口は2m以上低かったという。
この計画は大正5年から昭和4年にかけて外周河川である利根川、江戸川および荒川の改修に付帯して実施された。島川は利根川の改修で廃川となった権現堂川を利用したうえで、幸手市上宇和田から杉戸町椿まで約6キロを新開削して庄内古川につながれた。庄内古川は松伏町大川戸から下赤岩まで約3.7キロして古利根川につながれた。こうして「中川」ができあがった。
また、昭和22年カスリーン台風の大洪水のあと、24年から37年にかけて放水路として新中川も開削される。都内西小岩から河口までの約7.6キロ、荒川放水路計画の中で用水路に平行して付け替えて綾瀬川を合流させた。こうして中川・新中川が誕生した。ちなみに、中川って、江戸川と荒川の「中」にあったから。とか。
大雑把に言って、利根川の東遷事業、荒川の西遷事業によって「取り残された」埼玉中央部の川筋を、まとめ直した川筋をして中川水系、と言ってもいいだろう。

幸手駅
御幸橋から権現堂桜堤を経て、幸手駅まで歩き、本日の予定終了。幸手の由来は、アイヌ語で「乾いた土地」から、とか、日本武尊が東征の折上陸した「薩手が島」に由来するとか、例によって諸説あり

水曜日, 5月 16, 2007

利根川東遷事業の川筋を歩く;権現堂川から中川に

権現堂川を歩くことにした。利根川の東遷事業にしばしば登場する川でもある。東遷事業とは、その昔、江戸に流れ込んでいた利根の流れを、銚子方面へとその流路を変えるという、誠に希有壮大な事業。先日、茨城県古河市に遊んだ折、利根川や江戸川、そして関宿といった東遷事業ゆかりの地に触れた。それに触発された、というわけでもないのだが、東遷事業に関わる川筋を実際に歩いてみよう、と思った訳だ。

最初に権現堂川を選んだ理由はとくにない。なんとなく名前がありがたそう、であったから。「権現堂川」の名前は言うまでもなく、権現様から。江戸末期に幕府によって編纂された『武蔵風土記』によれば、「村の中に、熊野権現、若宮権現、白山権現という三社を一箇所にまつった神社があり、権現堂村と名付けた」とある。権現堂村を流れていたのが名前の由来であることはいうまでもない。ちなみに「権現」って、権=仮の姿で「現われた」もの。仏が神という仮の姿で現れるという、神仏習合の考え方である。
散歩の前に、東遷事業に関わる利根川の河道の変遷をまとめておく;利根川は群馬県の水上にその源を発し、関東平野を北西から南東へと下る。もともとの利根川の主流は大利根町・埼玉大橋近くの佐波のあたりで、現在の利根川筋から離れていた。流れは南東に切れ込み、加須市川口・栗橋町の高柳へと続く。その流れは浅間川とよばれていたようだ。地図を見ると、現在は「島中(領)用水」が流れている。が、これは昔の浅間川水路に近いのだろうか。
で、ここから流れは「島川筋(現在の「中川筋」)を五霞町・元栗橋に進んでいた。ここで北方、古河・栗橋・小右衛門と下ってきた渡良瀬川(思川)と合流し、現在の権現堂川筋を流れ、幸手市上宇和田から南へ下る。上宇和田から先は、昔の庄内古川、現在の中川筋を下り江戸湾に注ぐ。これがもともとの利根川水系の流路であった。

この流路を銚子方面へと変えるのが利根川東遷事業。はじまりは江戸開府以前に行われた「会の川」の締め切り工事。文禄3年(1594年)、忍城(行田市)の家老小笠原氏によって羽生領上川俣で「会の川」への分流が締め切られることになる。利根川は往古、八百八筋と呼ばれるほど乱流していたのだが、「会の川」はその中の主流の一筋ではある。南利根川とも呼ばれていた。 会の川は加須市川口、現在川口分流工のあるあたりだろうが、ふたつに分かれる。ひとつは島川筋(現在の中川)、もうひとつは古利根川筋(現在の葛西用水の流路)。実際、現在でも中川と葛西用水は川口の地で最接近している。こういった流れの元を閉め切り、南への流れを減らすべくつとめた。これが「会の川」締め切り、である。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

ついで、元和7年(1621年)、浅間川の分流点近くの佐波から栗橋まで、東に向かって一直線に進む川筋を開削。これが「新川通り」とよばれるもの。で、この「新川」開削に合わせて、高柳地区で浅間川が締め切らた。そのため、島川への流れが堰止められ、川筋は高柳で北東に流れ伊坂・栗橋に迂回。そこから渡良瀬川筋を下り、権現堂川から庄内古川へと続く流れとなった。「新川通り」は開削されたものの、すぐには利根川の本流とはなっていない。この人工水路が、利根の流れを東に移す本流となったのは時代をずっと下った天保年間(1830年―44年)頃と言われる。
この「新川」の延長線上に開削されたのが「赤掘川」。栗橋から野田市関宿まで開削される。赤堀川も当初はそれほど水量も多くなく、新川の洪水時の流路といったものであったようだ。が、高柳・伊坂(栗橋町)・中田(古河市)へと流れてきた利根川水系の水と、北から下り、中田あたりで合流した渡良瀬川の水をあつめ、次第に東に流すようになったのであろう。
「新川通り」の開削といった、利根川の瀬替えにより、利根川水系・渡良瀬川水系の水が権現堂川筋から庄内古川(中川)に集まるようになった。結果、沖積低地を流れる庄内古川が洪水に脅かされることになる。その洪水対策として実施されたのが「江戸川」の開削。庄内古川に集まった水を江戸川に流す工事がはじまる。
江戸川は太日川ともよばれていた常陸川の下流部であった。この江戸川を庄内古川とつなぐため、北に向かって関東ローム層の台地が開削される。関宿あたりまで切り開かれた。17世紀中頃のことである。
この江戸川とつなぐため、上宇和田から江戸川流頭部・関宿まで権現堂川が開削される。同時に、権現堂川から庄内古川へ向かう流れは閉じられた。この結果、栗橋で渡良瀬川に合流した利根川本流は、栗橋・小右衛門・元栗橋をとおり権現堂川を下り、関宿から江戸川に流れることになった。こうして、南に向かっていた利根の流れを東へと移し替えていったわけである。
ちなみに、現在関宿橋のあたりから江戸川・利根川の分岐点あたりまでは寛永18年(1641年)に開削されたもの。当時、逆川と呼ばれていたようだ。関宿の少し南、江川の地まで開削されてきた江戸川と、赤堀川、というか、常陸川水系をつなぐことになる。
で、この逆川は複雑な水理条件をもっていた、と。『日本人はどのように国土をつくったか;学芸出版社』によれば、普段は赤堀川(旧常陸川)の水が北から南に流れて江戸川に入る。が、江川で「江戸川」と合流する川筋・「権現堂川」の水位が高くなると、江戸川はそれを呑むことができず、南から北に逆流し、常陸川筋に流れ込んでいた、ということである。少し長くなった。散歩に出かける。

本日のルート:JR宇都宮線・栗橋駅;静御前終焉の地>利根川>川妻給排水機場>太平橋>舟渡橋>行幸水門・行幸給排水機場>権現堂堤>行幸橋 ・行幸堤碑>宇和田公園>中川・昔の庄内古川筋>幸手放水路>江戸川


JR宇都宮線・栗橋駅;静御前終焉の地
Jr宇都宮線・栗橋駅に。栗橋は埼玉の西北部。利根川を越えると茨城県となる。東口はのんびりした雰囲気。例によって駅前の案内をチェック。思いがけなく、直ぐ近くに「静御前終焉の地」がある、という。静御前は、いうまでもなく源義経の愛妾。奥州へ落ちのびた義経を追って、このあたりでその死を知り、落胆のあまり命を落とした、とか。もっとも、静御前終焉の地って全国に7箇所もあるようで、実際のところはよくわからない。
ここ栗橋駅周辺の伊坂の地は往時、静村と呼ばれていたようだし、この地の静御前の墓は、江戸末期の関東郡代・中川飛騨守忠秀が建てたとも伝えられるわけで、諸説の中では信憑性は高い、とは言われている、と。「吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき」「しづやしづ賤のをだまき くり返し 昔 を今になすよしもがな」は、静御前が義経を偲んで詠んだとされる歌。




利根川
「静御前終焉の地」を離れ、道なりに東に進む。関所跡は国道4号沿いの利根川土手堤にある、という。関所跡を訪ねて、利根川堤に向かう。利根川橋の近くに香取神社と八坂神社。この近くに関所跡の碑があるとのことだが、見つけることができなかった。

利根川橋に国道4号線が走る「栗橋」この国道は昔の日光街道の道筋。日本橋からはじまり、千住宿・草加宿・越ケ谷宿・粕壁(春日部)宿・杉戸宿・幸手宿、と続き、この栗橋宿に至り、利根川を越えて中田宿・古河宿と日光に続いてゆく。
この栗橋の地はかつて、交通の要衝であり、江戸時代には東海道の箱根、甲州街道の駒木野、中山道の臼井と並ぶ関所が置かれていた。明治2年に関所が廃止されるまで栗橋は日光街道の宿場町、利根川の船運の町として栄えた、と。このあたりに渡しがあり、「房川の渡し」と呼ばれていた。ちなみに、駒木野の関跡は昨年、旧甲州街道・小仏への散歩の折りに出会った。もともとは小仏峠にあった小仏の関が、後に駒木野の地に移されたため、こう呼ばれた。高尾の駅から歩いて20分程度のところであった、かと。

川妻給排水機場
川向こうの古河の地を思いやりながら、利根川少し南に。成行きで進み、川妻給排水機場に。権現堂川の北端、といったところ。利根川堤にある権現堂樋管で取水された水は、この川妻給排水機場を経由して権現堂川に送られる。利根川と給排水機場の間は暗渠となっており、権現堂川、とはいうものの、実際のところ調整池といった雰囲気。池端を南に進むと霞橋。東北新幹線と交差する。このあたりの川筋は狭められている。

太平橋
新幹線を越えると、国道4号線・日光街道が接近。南に並走することになる。川、というか池の西側は小右衛門(こうえもん)地区。この地の開拓者の名前、とか。

少し南に下ると太平橋(たいへい)。国道4号線の交差点名が「工業団地入口」となっているように、川筋の東側には工業団地が続いている。この太平橋であるが、往時は渡船場があった。「勘平の渡し」とも呼ばれた、と。川幅が100mから200m程度あったようで、橋を架けることなどできなかった、わけである。

舟渡橋
大平橋を過ぎると、日光街道は川筋から少し離れてゆく。川の東側は五霞町元栗橋。茨城県猿島郡。そして西側は幸手市外国府間。「がいこくふかん」って何だ?とチェック。「そとごうま」と読む、という。しばらく進むと「舟渡橋」。権現堂川は舟運が盛んであり、それは昭和初期まで続いていた、と。川沿いには河岸場がいくつも作られていた。高瀬舟が往来していた河岸場は渡船場を兼ねることも多かった、とか。舟渡橋のあたりも、かつて、「外国府間の渡し」があった、よう。舟渡橋は「渡し」があった名残を留めるもので、あろう。

調整池には「スカイウォーター120」と呼ばれる、大噴水が見える。120mも噴きあげるから、とか。この調整池は御幸湖とも呼ばれている。国体カヌー会場でもあった。調整池は中川総合開発の一環として造られたもの。権現川は内務省の利根川改修事業にともない、昭和初期には廃川となっていた。このあたりは「溜井」として農業用水の水源として残されていたものが、中川総合開発の一環で調整池に生まれ変わり、1級河川として復活した。中川の洪水調整の機能、工業用水や上水の取水、また、中川への河川維持用水も供給することになったわけである。

行幸水門・行幸給排水機場
>しばし南に歩くと行幸水門・行幸給排水機場。ここで権現川は中川に合流する。この水門には中川の洪水を調整池に取り入れる堰も設けられている。現在は中川と呼ばれてはいるが、江戸時代はこのあたりは権現堂川と呼ばれていた。それでは、中川と呼ばれるようになったのは、いつの頃からか、チェック。
中川l江戸時代、中川と呼ばれていたのは元荒川・庄内古川・古利根川が合流する越谷より下流。もとより、これらの流れは利根川の東遷事業、荒川の西遷事業の結果取り残された川筋である。この川筋のうち明治になって、庄内古川・島川の流れが本流となり、この権現堂あたりもふくめて中川と呼ばれるようになった、よう。
現在、中川は江戸川の西・幸手市上宇和田から南に下る。この流れが昔の「庄内古川」である。島川筋って、利根川の本流でもあった浅間川が高柳で閉め切られ、取り残された元々の浅間川といったもの。昔の地図を見ると、水源を失った島川は古利根川へと流れる「会の川」とつながったよう、である。

権現堂堤
中川を進む。このあたりにも昭和初期まで権現堂河岸があった、とか。南の土手は桜並木で有名な権現堂堤。昔、このあたりは洪水多発地帯であった。利根川の瀬替により、本流は高柳で北東に向かい、伊坂・栗橋を通って権現堂川筋を流下することになった。この流れは北から下る渡良瀬川の水も合わせるわけであるから、大雨の時など、大変なものであったのであろう。その「巨大」な流れが北から一気にこの権現堂に押し寄せるわけで、それを防ぐものとして、この「巨大」な堤がつくられた、と。
権現堂川は自然の河川ではなく、中世に太日川とか渡良瀬川と呼ばれた川の支川として開削されたのがはじまりと言う。川辺領(大利根町)や島中領(栗橋町)の主要排水路であったが、川床の勾配が緩やかで、そのうえ年月を経るたびに堆砂が増えてきた。分岐元の赤堀川も積年の堆砂で河積が狭くなり水位が上がり、往々にして赤堀川より権現堂川のほうが流量が多くなることもあった、よう。また、権現堂川の「出口」の江戸川には、権現堂川から洪水が流入しないように工夫されていた。

そのため、権現川の水位は常に高く、水が滞留することになる。こういうことも周辺地域に水害をもたらした要因とのことである。

行幸橋 ・行幸堤碑
堤を少し西に戻り、行幸橋に。このあたりには行幸湖とか、国道4号線にかかる橋を行幸橋とか、天皇の「御成り」を想起さすような地名が多い。これは、水防に大いに関係する。権現堂堤の西端には「行幸堤碑」があるが、それは、明治8年6月起工、10月竣工した権現堂堤の修堤工事(島川の水除堤)を記念したもの。権現堂川に合流していた島川を締め切るためにほとんどを地元負担で工費が行われた。明治9年、明治天皇の巡幸は、その功績を称えるためのものであろう、か。ちなみに、桜並木、桜の時期に歩いたことがある。それはそれは立派なものでありました。




宇和田公園
堤を歩き、桜並木が切れるあたりで堤防を下り、中川というか権現堂川筋に戻る。川筋には工業団地が続く。工業団地が切れるあたりに幸手総合公園。多目的グランドや野球場が見える。公園を過ぎると、再び工業団地。
工業団地が切れるあたりに宇和田公園。設計者は本田静六氏。日本の公園設計の「父」といった人物。日比谷公園、水戸偕楽園、福岡の大濠公園、そして大宮公園などを手がけた。そうそう、先日歩いた武蔵嵐山の嵐山渓谷の名付け親でもある。小高い堤の上に緑が続く。権現堂堤の名残でもある。



中川・昔の庄内古川筋
宇和田公園辺り、上宇和田から中川は南に下る。昔の庄内古川筋である。正確に言えば、庄内古川の流頭部は杉戸町椿あたり。その下流が庄内古川であった。で、このあたりは昭和初期に開削されたもの。吉田村新水路と呼ばれていた。ともあれ、この人工水路が切り開かれ、庄内古川は権現堂川とつながることになる。
中川が南に下る少し手前に北から川筋が合流する。五霞落川。「ごかおとし」と読む。川というか、排水路というか、といったもの。合流点には中川からの逆流を防ぐための水門が見える。ちなみにこのあたり、五霞町であるが、この町だけが利根川の西にある茨城県の地。利根川の流路が変わったために、ここに取り残されたのであろう。

幸手放水路
中川が上宇和田の地から南に下るあたりに、東に進む川筋が見える。これは幸手放水路。中川の洪水を江戸川に分流する水路、である。この流れは、下流より掘り進み、赤堀川とつながった江戸川へと繋ぐために開削されたもの。寛永18年頃(1641年)頃と言われている。この江戸川への流路開削にともない、庄内古川への流入路は閉じられ、結果、栗橋で渡良瀬川に合流した利根川は、庄内古川筋ではなく、江戸川に流れになった。利根川本流は、栗橋、小右衛門、基栗橋を通って権現堂川を流れ、上宇和田、江川を経由して関宿から江戸川に流れることになったわけである。

江戸川
幸手放水路は関宿橋の上流で江戸川に合流する。もっとも、川筋が合流するわけではなく、「中川上流排水機場」で閉じられる。江戸川とは幸手樋管によってつながれることになる。昔の権現堂川の利根川からの取水口も、江戸川への流水口も現在では給排水機場で「閉じられて」いる。権現堂川は1級河川とはいうものの。実態は巨大な調整池であった。また、旧権現堂川は上流部が権現堂調整池、中流部は権現堂川の旧流路を改修した「中川」、そして、下流部は「幸手放水路」となっていた。
関宿橋に佇み、遠く関宿城博物館を眺め、本日の予定終了。橋の西詰めにあるバス停でしばしバスを待つ。東武動物公園行きのバスに乗り、家路へと急ぐ。