日曜日, 4月 28, 2019

古利根川散歩;八潮から古隅田川分岐点まで

埼玉と東京の境となる八潮市から、足立区・葛飾区境を画する利根川の旧流路・古隅田川の分岐点まで歩く。
平成29年(2017)の5月、古隅田川を歩き、それが利根川東遷事業により銚子に瀬替えされる前の利根川旧流路の末であることを知った。で、どうせのことなら東遷事業前の利根川の旧流路を繋いでみようと,背替え前の南流点である埼玉県羽生市の旧利根川・会の川から歩きはじめた。
直線距離で70キロほど。曲がりくねった流路を勘案しても80キロもないとは思うのだが、6回に分け1年半ほどかかった。川筋歩きは基本、川に沿って歩けばいいわけで、なーんにも考えず、ひたすら歩きたい時の定番であり、とすれば、1年半の間になーんにも考えたくない時が6回あった、ということだろう。
それはともあれ、今回は繋ぎ散歩の仕舞。これで古利根川の繋ぎ散歩の大団円となる。距離は7キロほど。のんびりと歩き古利根川の流路をカバーし終えた。

本日のルート;つくばエクスプレス八潮駅>一号調整池>八潮南部配水場>垳川>垳川排水機場>稲荷下樋菅>神明六木遊歩道>垳川・葛西用水交差部>葛西用水水路跡>花畑運河>葛西用水親水公園>新広橋>六木水門>常善院の六面幢(どう)地蔵>飯塚橋>鹿浜線中川水管橋>中川水再生センター>中川水管橋>水元給水線・送電線鉄塔>常磐線鉄橋>古隅田川分岐点>JR小岩線送電線鉄塔>JR常磐線・金町駅

つくばエクスプレス八潮駅
先回の散歩の終点、葛西用水が垳川に合流する箇所の最寄り駅・つくばエクスブレス八潮駅に向かう。この駅が平成17年(2005)開業したことにより、埼玉で唯一鉄道駅のない市であった八潮市に鉄道駅ができ、市の発展にも大きく寄与することになったようだ。 実際、90年代の約7.5万人をピークに減少傾向にあった人口も平成30年(2018)には8.9万人に増えたという。
駅の南に出る。駅周辺は平成27年(2015)より都市計画事業の施行により、如何にもといった景観の街並みを示す。

一号調整池
国土地理院「治水地形分類図」
駅前から垳川に向かい成り行きで道を進む。大瀬5丁目に大きな調整池がある。一号調整池と呼ぶようだ。八潮市は西を綾瀬川、東を中川、南を垳川(かつての綾瀬川)に囲まれ、かつては川沿いの自然堤防上に人々が住み、後背湿地、氾濫原を開墾して開けていったわけであろうし、標高も1mから4mといった一帯。先回の散歩でも都市開発事業地域にいくつもの調整池があった。低湿地故の水対策が必要ということだろう。国土地理院の「治水地形分類図」を見れば、八潮が自然堤防・後背湿地・氾濫原からなることが一目瞭然である。
国土地理院の「治水地形分類図」
国土地理院「治水地形分類図」
八潮市の「治水地形分類図」を見ていて、ちょっと気になることが出てきた。中川筋が現在の流れとは異なり八潮市の潮止橋の上流から南に流れ、現在の大場川に合わさる旧流路が描かれる。通常行政境界は山や川筋で区切られることが多い。確認してみると、現在の中川左岸、旧流路と現在の流れに囲まれた古新田地区は八潮市となっていた。

中川旧流路の変遷
国土地理院「今昔マップ首都1944-1954」
ついでのことではあるので、この旧流路が現在の流れに変わる過程を「国土地理院今昔マップ首都」でチェックすると、「国土地理院今昔マップ1917-1924」には旧流路のみ、「今昔マップ首都1927-1939」から「今昔マップ首都1944-1954」には現の直線化工事が施された流路と旧流路が共に描かれており、「今昔マップ首都1965-1968」になって旧流路は消え、現在の中川筋のみが描かれている。
つまりは、大正13年(1924)まで中川は大場川筋に入る旧流路を流れており、それ以降昭和2年(1927)までに現在の流れである直線化工事が実施され、昭和29年(1954)から昭和40年(1965)の間のいつの頃か、旧流路が閉ざされ現在の流れだけになっている、ということだ。旧流路跡には暗渠が続くとのことである。





中川というか、古利根川の流路変遷
上にかつての中川筋は大場川に合流したとメモしたが、中川が完成したのは大正5年(1916)から昭和4年(1929)にかけて外周河川である利根川、江戸川および荒川の改修に付帯して実施された開削・整備によるものであり、江戸の頃に現在の中川筋はない。この流路はかつての利根川(古利根川)の一つの流れである。流れは東に向かい現在の江戸川(当時の太日川)に注いだ。

利根川東遷事業の頃の利根川の流れをまとめると、文禄2年(1593),利根川東遷第一次の工事として伊奈忠次は当時の会の川を川俣地点で締切り,浅間川筋に落とし、川口(加須市川口地内)の地で二流に分ける。その主流は渡良瀬川の水も合わせ東へと、現在の中川の川筋(当時中川という川は、ない)である島川・権現堂川、庄内古川を流れ、金杉で太日川(現在の江戸川)に落とした。
またもう一つの流れ、川口から南に下った古利根川(現在の大落古利根川)は西遷事業(寛永6年;1629)施行以前の荒川(現在の元荒川)と越谷で合さり、これも小合川を経て太日川に落とした。この小合川が現在の大場川から小合溜井へと向かう川筋である。川口で分かれたかつての利根の流れがこの地で合わさった。
宝永元年(1704年)、この古利根川が溢れた。江戸川(かつての太日川)の大増水により、古利根川に逆流した暴れ水が八潮市と葛飾区の境、現在の大場川と中川の合流点あたりの堰(猿ヶ俣・八潮市大瀬間の締とめ切り堰)に押し寄せ、堤防が決壊。葛西領と江戸下町一帯が大水害に見舞われた。
上に利根川の旧路は小合川(現在の大場川)筋の合流点から太日川(江戸川)に流れたとメモしたが、正確にはこの合流点から流路は東西に分かれており、太日川とは逆、現在の中川筋(当時の綾瀬川)筋とも通じていた。実際、往昔の綾瀬川の流れは南に下る流れとともに、小合川を経て太日川に注いていたとも言われる。
それはともあれ、大場川と中川の合流点あたりの堰(猿ヶ俣・八潮市大瀬間の締め切り堰)とはこの綾瀬川に設けられた亀有溜井の上流部の堰ではないだろうか。利根川東遷事業の目的のひとつは江戸に流れ込んだかつての利根川を背替えし、江戸を洪水から守ることとも言われるが、次いで、東遷事業の大きな目的のひとつでは新田開発。この目的で最初に設けられたのが「亀有溜井」であり、水源は荒川西遷事前で水量豊富な綾瀬川に求め葛飾区新宿で水を溜めて葛西領を潤すことになる。おおよその流路を現在の川に合わせると、綾瀬川>桁川>中川(昔の古利根川)>亀有ということだろう。亀有溜井の上流・下流の堰は享保14年(1729)まで締め切られていた、と言う。
太日川(江戸川)の水が古利根川・綾瀬川筋に逆流したということだが、それでは当時のそれぞれの河川の水勢はどのようなものであったのだろう。
チェックする;かつての太日川は、元和7年(1621)に開削された赤堀川により銚子への流れへと瀬替えされた利根川と結ぶべく寛永12年(1635)から寛永18年(1641)にかけ上流部を開削。洪水のおきた宝永元年(1704年)の頃には既に利根川と結ばれており、水量も多くなっていたことだろう。
一方逆流した辺り、小合川(現在の大場川筋)へと流下する旧流路は川口から南下した古利根川と元荒川の水が合わさったものであるが水量は多いとは思えない。古利根川は利根川東遷事業で廃川となった利根の川筋であり、元荒川も荒川の西遷事業(寛永6年;1629)で水量は激減している。実際、この川筋は葛西用水の溜とされるが、その水量が乏しく、元荒川に設けられた越谷の瓦曽根溜井(慶長19年(1614)完成)は寛永18年(1641)にその水源を太日川に、松伏溜井(寛永11年(1633))もその水源を太日川・江戸川に求めている。
また、現在の大場川と中川の合流点あたりに西から合流していた綾瀬川も天和2年(1683年;(延宝8年(1680)との説もある)には現在の垳川合流点から南に直線化工事がなされており、古利根川筋への水量は多くはないだろう。
要は決壊箇所あたりの流れが、逆流を押し返すほどの水量がなかったということもその一因だろうか(これは妄想)。
ともあれ、この大洪水に懲り、江戸を洪水の被害から防ぐため、将軍吉宗の命により、享保14年(1729年)井沢弥惣兵衛の手によって治水工事が開始された。井沢弥惣兵衛は見沼通船堀、見沼代用水などを差配した治水・利水工事のスペシャリストである。享保14年(1729)に小合川筋の古利根川は小合川との合流点と江戸川合流点手前に堰を設け溜井をつくった。これが「小合溜井」である。
一方、猿ヶ俣・八潮市大瀬の堰(享保14年には締切を解く)以南の川筋、古利根川の細路・流路を開削し広い川筋を設けた。垳川が古利根川(現在の中川)に合流する箇所の堰も享保14年(1729)締め切っている。
こうして江戸川に東流していた古利根川の流れが、かつての綾瀬川(現在の中川筋)へと流れるようになったわけである。

中川
中川は羽生市を起点とし、埼玉の田園地帯を流れ東京湾に注ぐ全長81キロの河川。起点をチェック。羽生市南6丁目あたり。宮田橋のところで葛西用水を伏越で潜り、宮田落排水路(農業排水路)とつながるあたりが起点、とか。
結果としてこのような概要とはなっているが、葛西用水と同じく、中川も元からあった川ではない。利根川東遷・荒川西遷事業により「取り残された」川を治水・利水のために繋いで結果的に出来上がった川である。
ために、中川には山岳部からの源流がない。低平地、水田の排水を34の支派で集めて流している。源流のない川ができたのは、東遷・西遷事業がその因。江戸時代、それまで東京湾に向かって乱流していた利根川、渡良瀬川の流路を東へ変え、常陸川筋を利用して河口を銚子に移したこと。また、利根川に合流していた荒川を入間川、隅田川筋を利用して西に移したことによって、古利根川、元荒川、庄内古川などの山からの源流がない川が生まれた。このことは幾度か触れた。

現在の中川水系一帯に「取り残された」川筋は、古利根川筋(隼人堀、元荒川が合流)と島川、庄内古川筋(江戸川に合流)に分かれていた。幕府は米を増産するために、この低平地、池沼の水田開発を広く進め、旧川を排水路や用水路として利用した。が、これは所詮「排水路」であり「用水路」。「中川」ができたわけではない。
中川水系の水田地帯を潤し、そこからの排水を集めた島川も庄内古川も、その水を江戸川に水を落としていた。が、江戸川の水位が高いため両川の「落ち」が悪く、洪水時には逆流水で被害を受けていたほどである。低平地の排水を改善するには、東京湾へ低い水位で流下させる必要があった。そこで目をつけたのが古利根川。古利根川は最低地部を流れていた。島川や庄内古川を古利根川つなぐことが最善策として計画されたわけである。実際、江戸川落口に比べて古利根川落口は2m以上低かったという。
この計画は大正5年(1916)から昭和4年(1929)にかけて外周河川である利根川、江戸川および荒川の改修に付帯して実施された。島川は利根川の改修で廃川となった権現堂川を利用したうえで、幸手市上宇和田から杉戸町椿まで約6キロを新開削して庄内古川につながれた。庄内古川は松伏町大川戸から下赤岩まで約3.7キロして大落古利根川につながれた。こうして「中川」ができあがった。
渡良瀬川
近世以前には佐波から、江戸川が現在の利根川から分かれる辺りまで川筋はなかった。ということは、現在権現堂川辺りで利根川に合流している渡良瀬川も近世以前は利根川の支流ではなく、この河川も関東平野を南に下り江戸湾に注いでいた。 そのルートは権現堂川筋を下り、加須市川口で合わさり東に島川筋、権現堂川筋へと向かった「会の川」と「浅間川」の流れを合わせ、庄内古川筋を下り、松伏町金杉で現在の江戸川(当時の太日川)に合流したようである。

江戸川
江戸川は、もとは松伏町金杉付近に源頭部を持ち渡良瀬川の下流に合わさる流れであり太日川と呼ばれていた。旧利根川の主流のひとつとして江戸湾に流れていた。
寛永12年(1635)から寛永18年(1641)にかけ、この太日川の上流部、松伏町金杉付近の源頭部から北の関宿に向けて開削工事がはじまった。およそ18㎞に渡るこの開削工事によって、元和7年(1621)には赤堀川が開削され、銚子へと流れることとなった現在の利根川とつながり、利根川の水を取り入れることになった。太日川の呼称も江戸川となる。 享保13年(1728)には下流部も野田橋の近く、金杉あたりから18キロにわたって関東ローム層の台地を掘り割って下流部も延ばしたともいう。
この江戸川の開削は利根川・渡良瀬川水系の治水対策でもあったようだ。瀬替え、堰の締め切りなどにより、権現堂川から庄内古川に集中することになったかつての利根川・渡良瀬川水系の流れを、新たに東へと水路(逆川)を開削し江戸川と結んだ。沖積低地上の庄内古川利根川・渡良瀬川水系筋を流れていた利根川の水を、関東ローム台地の中に導水し治水につとめた、ということ、である。
寛永20年(1643)には庄内古川筋は閉じられた。この庄内古川筋は後に中川となって整備されることになる。

八潮南部配水場
偶々出合った一号調整池をきっかけに結構話が広がった。先に進む。調整池から南に延びる水路に沿って下る。大正第一幹線都市下水路と呼ばれるようだ。通りも「大正通り」とある。
水路の左手、垳川との合流点手前に八潮南部配水場。平成8年(1996)から稼働し、中央浄水場と共に水道水を供給するが、八潮市の水道水の大半は三郷市の新三郷浄水場に拠る、とのことである。

垳川
水路は垳川に合流。垳川はかつて綾瀬川の本流であった。流路定まることのない暴れ川であった綾瀬川治水のため、江戸の頃には既に垳川筋が綾瀬川本流と切り離されている。天和2年(1683年;(延宝8年(1680)との説もある)頃と言う。洪水対策のため垳川との接続部下流が直線化工事を施され、綾瀬川は南に下る。
綾瀬川との接続部は閉じられた。その後、これも江戸時代、享保14年(1729)に中川との接続部も閉じられ、垳川は川ではなく川筋のほぼ中央部で北から合流する葛西用水の「溜め」となっていたようである。往昔綾瀬川接続部からこの水門までの「溜め」を「垳小溜井」と称した。「古溜井」とも記される。
綾瀬川
Wikipediaに拠れば、「綾瀬川は戦国時代の頃、荒川の本流であった。太古の頃には荒川は利根川の支流として熊谷辺りで利根川に合わさっていたようだが、共に流路定まらぬ川筋であり、次第に別の流れとなっていったようだ。
江戸の前の頃、当時の荒川は、今の綾瀬川源流の近く、桶川市と久喜市の境まで元荒川の流路をたどり、そこから今の綾瀬川の流路に入った。現在の元荒川下流は、当時星川のものであった。戦国時代にこの間を西から東につなぐ水路が開削されて本流が東に流れるようになり、江戸時代に備前堤が築かれ(慶長年間;1596‐1615)綾瀬川が分離した。この経緯により、一部の地図には綾瀬川(旧荒川)の括弧書きが行われる事がある」とある。
地図を見ると久喜市、桶川市、蓮田市が境を接する辺りにある「備前堤」から南に綾瀬川、東に元荒川が流れ、その元荒川は東に進んだ後、久喜市飛地で星川に合流している。上述Wikipediaの説明を元に推測すると、この備前堤から東に流れる元荒川は「戦国時代に開削された西から東へつなぐ水路」であり、星川との合流地点の下流は、現在は元荒川ではあるが、かつては星川の流れであり、元来の元荒川は備前堤から南に下る綾瀬川筋であった、ということだろう。
国土地理院の「治水地形図」を見ると、いつだったか歩いた古綾瀬確川筋から毛長川合流天あたりまで、見事に乱流している。流路定まることのない、「あやし川」と呼ばれた所以である。この乱流路も古綾瀬川から下流は上述の如く、江戸の頃直線化工事がなされている。
垳川
「がけかわ」と読むこの名の由来は?垳地区を流れるからであろうが、そもそも「垳」の意味は。この漢字は本来中国からもたらされた漢字ではなく、峠などと同じく日本で造られた国字とのこと。
「土」+「行(く)」>土が行く>土が崩れる>水がカケ(捌け)る様子が起源となり、水が流れるとき「土」が流されて「行」く、といった意味があるようだ。 現在、所謂「がけ」には崖という感じがあてられるが、江戸時代中期までは一定でなく、「崖」の他、「峪」、「岨」、「碊」などの漢字があてられたという。「垳」もそのひとつであったよう。「崖」と言えば切り立った斜面のイメージがあるが、土が削り取られた結果としての形と思えばそんなに違和感はない。
垳という字は、垳川と垳という地名以外に使われることはないようだ。
「垳」がこの地に残る故、当用漢字として残されているが、「青葉」という地名に変わる可能性もあるとのこと。暴れ川の綾瀬川によって土が流された、といった地形のニュアンスを伝える地名が消え去るとすれば、ちょっと残念ではある。

垳川排水機場
垳川左岸を東に向かい中川筋に。中川との合流点に垳川排水機場がある。昭和57年(1979)に完成した。現在は「溜め」となった垳川の水を、増水時にポンプで中川に水を流している。
旧小溜井排水機場・垳川排水機場
垳川の両端、綾瀬川との接続部に旧小溜井排水機場(平成7年(1995)に閉鎖された)、中川との接続部に垳川排水機場がある。排水機場と言う以上、垳川の水を両河川に排水していたことになる。これってどういうこと?
チェックすると垳川は中程にある葛西用水の合流点あたりが最も標高が高かったとのこと。垳川の水は東西に分かれ、両排水機場を通して両河川(綾瀬川と中川)に排水されていたようだ。
平成7年(1995)に旧小溜井排水機場閉鎖された。葛西用水合流部が最も水位が高いとすれば、東に流れる垳川の水は垳川排水機場のポンプ、また排水機場近くの稲荷下樋管の自然流下により中川に排水されるだろうからいいものの。葛西用水合流部から西、旧小溜井排水機場までの間は水が滞留し水質が悪くなる。実際その滞留環境の溜井には生活排水などが流れ込み水質が悪化したようだ。
その対策として平成20年(2008)より水質改善の実験的取り組みが行われ、潮の干満による水位差を利用して綾瀬川から垳川に通水、浚渫などが実施された。平成26年度(2014)からの本格的運用に際しては、通水量の問題、またそもそもの綾瀬川の水質の問題などが取り上げられているようである。

稲荷下樋菅
中川排水機場の南傍に稲荷下樋菅がある。中川の土手に立つ操作室は煉瓦造り。垳川の水を自然流下で中川に流すとのことだが、水門は閉じられていた。稲荷下樋管がいつの頃できたかの資料は確認できなかったが、理屈からいえば八潮市の都市化の進展に伴い、自然流下だけでの排水では洪水対策が不十分となり、垳川排水機場がつくられたのだろう。
大場川水門
中川の対岸に大場川水門が見える。かつて小合川合流点で東西に分かれた古利根川が、綾瀬川筋に注いだ箇所あたりだろうか。現在小合川筋には大場川が流れる。
大場川は吉川に源流を発し、かつては江戸川に注いでいた。天明3(1783)年の浅間山噴火以来、江戸川の河床が上昇し排水条件は年々悪くなり、二郷半領の悪水落としのため寛政4(1792)年新たな堀を開削したとのことであるから、そのころまでには大場川は現在の流れ、小合川筋へと下る流れとなっていたのだろう。

神明六木遊歩道
垳川の南岸に沿って続く神明六木遊歩道を先回の散歩の終了点、葛西用水が垳川に合流する地点に向かう。六木は中川に接する地区名、神明は綾瀬川に接する地区名である。 左手に水車公園などを見遣りながら進み、葛西用水桜通りが垳川を越える「ふれあい桜橋」を潜る。橋を見上げると東京ガスの管が通る。何気に通る橋だが、水道管やガス管といったインフラ設備が川に遮られ地下から顔を出す。

垳川・葛西用水交差部
ふれあい桜橋を潜ると北から葛西用水が流れ込む。垳川の南側から葛西用水の合流部を確認し遊歩道を進むと水路があり水門が設けられている。水門は葛西第一水門という。往昔垳川を越え南に下った葛西用水の水門である。
葛西第一水門
この水門、現在は洪水時の水量調整以外は基本閉じられており、用水には南の花畑運河の水を流している、といった記事もあったが、完全に閉じられているようにしか見えない。南に下る水路の川床は垳川の水面よりずっと高く、錆びついたように見える水門を開けたとしても水が流れようもない。かつての用水路はその機能を終えているように思える。水路には土が積り草木も茂っていた。
小溜井引入水門
葛西第一水門のすぐ傍、葛西用水が垳川に合流する地点のすぐ上流に小溜井引入水門がある。かつては現在のふれあい桜橋のところにあった葛西第二水門で堰止めた用水を、水門より西側の小溜井(綾瀬川接続部からこの水門までの呼称)へと「引き入れて」いたのだろう。現在は基本開けっ放しで水門の機能を果たしていない。撤去の話もある、との記事もあった。

葛西用水
第一フェーズ;亀有溜井戸
そもそも、葛西の地をはるか 離れた地・埼玉の行田から延々と葛西の地に下る用水を葛西用水とするのは、この用水のはじまりが葛西領を潤した亀有溜井をもってその嚆矢とする故である。
文禄2年(1593),利根川東遷第一次の工事として伊奈忠次は当時の会の川を川俣地点で締切り,浅間川筋に落とし、川口(加須市川口地内)の地で二流に分ける。その主流は渡良瀬川の水も合わせ東へと、現在の中川の川筋(当時中川という川は、ない)である島川・権現堂川、庄内古川を経て金杉で太日川(現在の江戸川)に落とした。
また西遷事業(寛永6年;1629)施行以前の荒川(現在の元荒川)の水も、川口から南に下った古利根川(現在の大落古利根川)と越谷で合さり、これも小合川を経て太日川に落とし、江戸の町を直接利根川の水害から守るという、利根川東遷事業の当初の目的は果たした。このことは幾度か述べた。
次いで、東遷事業の大きな目的のひとつである新田開発であるが、この目的で最初に設けられたのが「亀有溜井」。工事施行は文禄2年(1593)。利根川東遷事業の第一次工事が始まった年に伊奈忠次により水田開発事業もはじまったということだ。水源は荒川西遷事前で水量豊富な綾瀬川に求め葛飾区新宿で水を溜めて葛西領を潤すことになる。おおよその流路を現在の川に合わせると、綾瀬川>桁川>中川(昔の古利根川)>亀有ということだろう。
第二フェーズ;瓦曽根溜井
慶長19年(1614)には新田開発を上流に伸ばし、荒川(現在の元荒川)本流を越谷の瓦曽根で締切り瓦曽根溜井を築堤し、下流域を潤した。
寛永6年(1629)に伊奈忠治は,荒川の西遷事業を開始。これにより元荒川は水源を失い,瓦曽根溜井の水は枯渇していくことになる。このため幕府は寛永7,8年(1630、1631)頃から,元荒川の加用水として水源を太日川に求め、庄内領中島(幸手市)より中島用水を開削し、寛永18年(1641)になると、太日川を北に掘り抜いた現在の江戸川開削後は,江戸川に圦樋を移し用水を引いた。
中島用水
流路ははっきりしないが、幸手市中島で江戸川の水を取水し、椿・才場・大塚・不動院野・八丁目と下り古利根川に落ちた、とする(落口はもっと上流との記事もあり、はっきりしない)。
第三フェーズ;松伏溜井
中島用水は,現在の春日部市八丁目で古利根川(現在の大落古利根川)に落とされることになる(異説もある)が,下流松伏村に松伏溜井が造られる。ここで堰き止められた水は、その一帯を潤しながらも、その流量のほとんどは松伏溜井の末流大吉村から元荒川までの問に新たに開削された逆川用水に流され,瓦曽根溜井まで送水された。この一連の工事の完成は寛永11年(1633)とされる。
また,この一連の工事により,荒川の瀬替えにより水量が激減していた綾瀬川を水源とする亀有溜井への加用水も可能となる。瓦曽根溜井から一帯を潤していた用水・悪水落を延長し瓦曽根溜井から綾瀬川(古綾瀬川)へと落とす水路(葛西井堀)が完成し、亀有溜井は瓦曽根溜井・松伏溜井と繋がった。
第四フェーズ;川口溜井
承応3年(1654)には利根川東遷による関東平野の治水と利水が一応の安定を得る。それにともない新田開発が一層推進されることになるが,古利根川左岸から旧庄内川の右岸一帯、水源を池沼にゆだねていた幸手領(幸手市,杉戸町,春日部市,鷲宮町)においては用水不足をきたすようになる。
その水源として求めたのが東遷事業の完了した利根川である。万治3年(1660)に古利根川本川の本川俣地点に圦樋を設けて南東に水路を開削し,会の川の旧河道を流し,川口地点に川口溜井(加須市川口地内)を造り,権現堂川(島川)筋の加用水として北側用水を開削した。
この川口溜井は葛西用水の水路というわけではなく、幸手領の灌漑のためのものである。
第五フェーズ;琵琶溜井
さらに,川口溜井から水路を開削して古利根川の河道につなげられ、琵琶溜井(久喜市栗原地内)も造成された。そこに中郷用水と南側用水の2用水が開削され流域の灌漑に供する。
琵琶溜井には幸手用水の余水流しに圦樋が設けられ,青毛堀,備前堀等の悪水と一緒に古利根川(現在の大落古利根川)に落し,下流の松伏溜井への加用水として供した。これをもって幸手領用水とした。

葛西用水の成立
その後,宝永元年(1704)の大洪水の際に中島用水が埋没したため,享保4年(1719),関東郡代伊奈忠蓬は,幸手領用水の加用水として新たに本川俣の少し上流の上川俣の利根川本線に圦樋を設け,幸手領用水に接続させ,川口溜井と琵琶溜井では圦樋を増設して水量を確保した。以来,本川俣および上川俣の利根川取水から葛西井堀末端までを「葛西用水」と称するようになり,ここに関東地方切っての大用水が形成された。

以上が、葛西用水成立の経緯。葛西用水は利根川の東遷事業、荒川の西遷事業と密接に関連しながら、廃川となった荒川(元荒川)や利根川(大落古利根川)の川筋跡を活用し、上流へと延びる新田開発に伴い下流から上流へと水源を求め、最終的に利根川にまでたどり着いた、ということであろう。

葛西用水水路跡
葛西第一水門から南に延びる水路を進む。少し南に下ったあたりで水が川床から現れる。用水路跡を浄化するため南の花畑運河から水を引き入れているとの記事があった。その浄化水の噴出箇所だろう。噴出箇所が花畑運河まで3か所ほど見かけた。
この浄化のための噴出箇所を見で、花見で知られる目黒川の水が落合浄水場から送られる浄化された下水であることを想い起こした。玉川上水もそう。小川監視所より下流は昭島市の多摩川上流水再生センターで高度浄化処理された水を、玉川上水の浄化のために流している。散歩をするとあちこちで高度処理された下水で浄化がおこなわれる河川・用水に出合う。というか、東京の河川で自然湧水を源流とする河川として印象に残るのは、東久留米市の落合川、国立市の矢川などしか思い浮かばない。

花畑運河
南に下ると葛西用水の水路跡は花畑運河に当たる。水路は花畑運河の手前で地中に潜る。葛西用水はこの運河を「伏せ越し(サイフォンの機能)」で潜るとのことだが、伏せ越しでよく見る「呑口」の施設もなく、橋の意匠を模したコンクリートの下に流れこんでいる。 花畑運河は結構広い。江戸の頃直線化工事された綾瀬川と、中川を結ぶ船運のため昭和6年(1931)に開削された運河だが、現在はその機能を終えているとのことである。
花畑運河
花畑運河は綾瀬川と中川を結ぶ、とあるが何故?また、何故その機能を終えた?Wikipediaでチェックする;花畑運河開削のきっかけとなったのは荒川放水路の開削。明治43年(1910)の荒川大洪水で東京が壊滅的打撃を被る。ために首都の治水対策として荒川が隅田川と名を変える北区岩淵の辺りで新たに水路を開削。1913(大正2年)から1930(昭和5年)にかけて、17年がかりの難工事の末に完成した。
この水路開削の結果、首都の治水は一応の安泰をみるが、中川を活用した船運に支障が出た。工事の結果、中川が分断されることになったわけである。地図を見ると、京成高砂駅の西、高砂橋下流で新中川と分かれ蛇行した流れは木根川地区で荒川放水路により分断され、対岸より旧中川として蛇行して南に下っている。かつての中川舟運は隅田川から向島、北十間川を経て旧中川筋、また隅田川から小名木川を経て旧中川筋に入り、中川本流(かつての古利根川筋)を上下していた。この船運が荒川放水路開削に伴い、放水路に設けられた木下川水門で大渋滞を引き起こすことになった。
その対策のため目をつけたのが綾瀬川と繋ぐこと。この花畑運河を開削することにより、中川(古利根川)から綾瀬川に入り南に下り、船堀の綾瀬水門から出て荒川放水路を横断し、千住曙町の隅田水門から隅田川に入れることになった。距離も16キロほど短縮され、舟運の便が飛躍的に改善されたとのことである。
で、舟運で運ばれたものは?にはWikipedia「当時の舟運は穀倉地帯からの食糧の輸送だけでなく、都心から出された大量の糞尿を農耕地帯へと肥料として送り出しており、最盛期には3,800隻近くの運搬船が行き交っていた」とある。そしてこのことが、花畑運河がその機能を終える因でもあった。
「太平洋戦争の終結でGHQが戦後日本の占領統治に乗り出すと様々な改革事業のなかで、農業の肥料に用いられてきた下肥え(糞尿)の使用が漸次化学肥料へと切り替えられていった。これにより下肥えを運搬していた船の数が激減すると花畑運河の利用価値は薄れ」とWikipediaにあった。

葛西用水親水公園
花畑運河にかかる桜木橋を渡る。花畑運河伏せ越しで越えたはずの葛西用水の水は消える。名称も「葛西用水親水公園」となる。ポンプ施設が傍にあったので、時期に応じて水を流すのだろう。その水源が葛西用水か花畑運河のものか不明だが、ともあれ「流れていた」葛西用水の行方を探し、どこで現れるかとりあえず「水気」のある所まで進むことに。
親水公園
ちなみに「親水公園」という名称。いまでこそあちこちに散見する。が、その第一号がいつだったか歩いた江戸川区の古川親水公園であった、とか。汚れた河川は蓋をしたり、埋めたりといった従来の都市河川政策と真逆のこの試み、水と緑に親しめる新しい公園にするこの計画は世界的にも大きく評価される。昭和57年(1982)にナイロビで開催された国連人間環境会議で紹介され、国内外の注目を浴びた。親水公園の第二号は同じく江戸川区にある小松川境川親水公園。

新広橋
この橋の南から突然水が流れる。花畑運河を潜った葛西用水の水は水管でここまで運ばれるのだろうか。現在も伏せ越しの機能が残っているのであればそうではあろうが、確証はない。ともあれ、「水気」を確認し中川筋に戻る。
(なお、これより下流の葛西用水の水路跡は、いつだったか歩いた曳舟川散歩の記事を参照してください。

六木水門
「水気」を確認し中川筋に戻る。ついてのことではあるので、花畑運河の中川接続部の六木水門へ。花畑運河に架かる橋は花見橋とある。綾瀬川接続部の橋名は月見橋、途中には雪見橋といった橋も架かる。
対岸、少し上流に大場水門が見える。

常善院の六面幢(どう)地蔵
中川の堤防をのんびり下る。しばらく歩くと堤防下にお寺さまがある。ちょっと立ち寄り。常善院とあった。山門前の案内に「当寺は、元和年間(1615-1624)宇田川出雲によって創建されたという。江戸時代には、将軍家の鷹狩りの際、御膳所となった由緒ある寺である。 本堂は享和元年(1801)に再建、昭和35年に修復されている。 本尊は、木造不動明王立像、その左に木造金色大日如来像、右に上品上生の阿弥陀如来坐像が安置されている。
境内には、石像物としては非常に珍しい石造六面幢六地蔵をふくむ地蔵群がある。また、高さ25mのイチョウの木は、樹齢およそ三百数十年といわれている。(後略)足立区教育委員会掲示」とあった。
境内に入り本堂にお参り。境内右手に六面幢地蔵。通常の六体並ぶ六地蔵の中央に立つ。先日讃岐の歩き遍路で石の表面に二座ずつ、三段に刻まれた六地蔵に出合ったが、この六面に地蔵名の刻まれた六地蔵もあまり見かけない。
六地蔵は六道輪廻(天道・人道・修羅・畜生・餓鬼・地獄)する衆生を救済するもの。正面に刻まれた法印地蔵は修羅道の担当地蔵さまである。
六面幢地蔵
幢は旗章(私注;旗印し)を意味し,インドではこれを石面に表してストゥーパや仏殿の前に立てた。中国へは唐・宋時代に伝わり,蓮華座の基台の上に《仏頂尊勝陀羅尼経》を刻んだ八角の長い石柱を立て,その上に中台,仏龕(ぶつがん),笠,宝珠をのせた大理石製の石造物をつくることが流行した。日本にもこの形式の石造物が導入されたが,幢柱に経文を刻まず,地蔵信仰と結び付いて幢,仏龕ともに六角につくられ,一見石灯籠に似た小型のものが多くつくられた。(デジタル大辞典)」

飯塚橋
中川筋に戻るとすぐに都道307号・飯塚橋。創架は昭和35年(1955)。現在は二代目の橋。飯塚橋が架かるまでは、この地に「飯塚の渡し」があった。3キロほど下流には中川の渡し(新宿の渡し)があり、そこが正式な佐倉街道であったため、この飯塚の渡しの道筋は、佐倉裏街道とも称された。
所説あるようだが、幕末に新選組が流山に向かう道筋として、この渡しを通った、とも。道筋は足立区綾瀬の五兵衛新田から、北三谷、大谷田を通って飯塚の渡しから水元、三郷へ出て丹後の渡しで江戸川を越えて流山へ向かったとする。流山を抵抗の拠点とするつもりであったよう。
で、飯塚といえば、いつだったかこの地の対岸を小合溜井から歩いたとき、誠に立派な富士塚(飯塚の富士塚)があった。未だにその印象が残っている。

鹿浜線中川水管橋
都道307号・飯塚橋を超えると水管橋がある。鹿浜線中川水管橋とある。葛飾区の金町浄水場から中川を越え、足立区の小右衛門給水場(給水エリアは足立区、荒川区及び台東区 )、江北給水場(整備済:給水エリア;足立区)、北区の王子給水場(整備中)へと水道水を送るようである。
これらの地域には、金町浄水場から一系統で給水していたが、給水エリアが広く、災害・事故などによる断水・濁水の影響が大であり、ために、昭和50年(1975)代から配水区域を5つに分割し、各地域に拠点となる給水所を整備するとともに二系統の受水ネットワークを整備中、とのこと。小右衛門給水場、江北給水場、王子給水場はその拠点配水場。金町浄水場だけでなく、三郷浄水場とも繋がることとなる。
因みにこの水管橋は地震対策の一環として撤去される、とも。

中川水再生センター
少し下ると中川の堤防に排水施設が見える。中川排水樋菅と呼ばれるようだ。昭和57年(1982)竣工。樋菅はどこから繋がっているのだろうと堤防内側を見ると水利施設がある。 そこには「中川水再生センター」とのプレートがあった。地図を見ると堤防端の施設の西側には大きな水再生センターの建物・敷地がある。この排水樋菅にはこの再生センターからの浄化水が流されているのだろうか。
中川水再生センター
処理区域は足立区の大部分と葛飾区の一部(ほぼ常磐線以北)。この区域の大部分は雨水と汚水を別々の下水道管で集める「分流式下水道」となっており、雨水は直接川に、汚水は再生センターで処理し中川に流す。
なお、このセンターでは雨水も集め、ごみや土砂を取り除いた後、ポンプで川に流す、とのことである。

中川水管橋
堤防左手に中川氷川神社を見やりながら進むと、再び水管橋がある。昭和46年(1971)にできた中川水管橋。この水管橋は工業用水を通す、と。水管とキャットウォークの間の小さな管には「おすい」と書かれている。土手傍の中川水再生センター(下水処理場)に集めているのだろうか。
東京都の工業用水
東京都の工業用水のネットワークはどうなっているのだろう?チェックすると、浄水場は板橋区高島平にある三園浄水場と世田谷区玉川の玉川浄水場しか記されていない。基本、三園浄水場で荒川から原水の約9割、玉川浄水場で多摩川から約1割を取水し、三園浄水場の配水池でブレンドし、給水する。
その給水エリアであるが、都域全部ではなく都域の北部と東部となっている。荒川沿いの墨田区、江東区、北区、荒川区、板橋区、足立区、葛飾区及び江戸 川区の8区並びに練馬区の一部であり、大雑把に言って東京の下町地区が中心のようである。
何故?チェックすると、工業用水供給のきっかけが、地下水くみ上げにともなって生じた地盤沈下防止することにあった。地下水の揚水規制に伴う代替水を供給する行政施策として工業用水を供給することになったわけである。
昭和39年(1964)に江東地区(墨田区、江東区及び荒川区の全域と江戸川区及び足立区の一部 )で給水を開始し、昭和46年(1971)には、 城北地区(北区、板橋区、葛飾区の全域と足立区の大部分)でも給水を開始した。その施策により、昭和50年(1975)代以降、地盤沈下はほぼ沈静化し所期の目的は達成された。
工業用水の需要も、昭和49(1974)年度をピークに減少傾向に転じる。国の産業立地政策や各種公害規制の強化による工場の都外への転出、水使用の合理化の進行等がその因である。
施設能力に大幅な余剰が生じたため、昭和55年(1980)に南砂町浄水場を廃止。昭和58年(1983)に三園浄水場の施設能力を縮小、昭和62年(1987)には江北浄水場を休止し、経営改善を図るも経営状況が厳しく、施設の大規模更新時期の到来が間近に迫る一方、今後も需要の増加が見通せないことから、都の工業用水事業は廃止の判断が下される。地盤沈下防止という所期の目的を達成した都の工業用水道事業は平成34年(令和4年)をもって廃止となる。
地盤沈下防止という所期の目的を達成した都の工業用水道事業は平成34年(令和4年)をもって廃止となる。工業用水のネットワークをチェックしていたら、思いがけない政策決定に出会うことになった。

水元給水線・送電線鉄塔
中川水管橋から少し下ると堤防に送電線鉄塔が立つ。川の対岸にも鉄塔。送電線はどこに延びているのだろう?空を見上げても何も見えない。送電線鉄塔も中川堤防の両岸に立つものの他、見つけることができない。どうなっているの?
チェックすると、この送電線鉄塔は水元給水線の鉄塔。送電線は両岸の鉄塔までは地下を潜り、中川に遮られ、この部分だけ架空となってその姿を現す。
中川を渡った送電線は再び地下に潜り、水元給水線(水元給水所変電所に)、葛飾清掃線(葛飾清掃工場変電所に)にわかれるようだ。
中川右岸が2号鉄塔、左岸が3号鉄塔。1号鉄塔は足立区にあり、東亀有線13号鉄塔より分岐する。東亀有線は東亀有線は東京都足立区の青井線8番鉄塔から東京都足立区の東亀有変電所を結ぶ路線であり。。。、と送電線網はとこまでも続くため、このあたりで思考停止としておく。

常磐線鉄橋
更に少し下ると常磐線の鉄橋にあたる。鉄橋が中川を渡った対岸を見ていると、ビルや民家の立て込むところに送電線鉄塔が見える。その周辺には送電線鉄塔も見えず、しかも送電線が斜め下方向に降りている。なんだこれは?民家のど真ん中に降りては危険では? なんだか気になり、古隅田川との分岐点を繋いだ後、その送電線鉄塔まで行くことにする。現場を見れば、なんらかその因がわかるかも、と。

古隅田川分岐点
常磐線鉄橋を潜り、少し堤防を下ると旧古利根川筋の古隅田川の分岐点に。接続部は埋め立てられ水路は見えない。暗渠といった水路跡の名残も見当たらない。排水施設もなく、古隅田川跡と繋いだ、といった実感には少々乏しいが、これで羽生から辿った古利根川筋散歩は終了。スタート時から1年半と結構時間が空いたため感慨もほどほど。
(古隅田川のメモは2回()にわけて歩いた記事をご覧ください)


中川左岸に
古利根川散歩を終えたが、先ほどの奇妙な送電線が気になり、中川左岸に移る。堤防沿いの民家にはMY Approachといった通路が道から玄関へとつながっているものが多い。洪水対策で堤防が高く、低地に建つ民家との高低ギャップがその因だろうか。


JR小岩線送電線鉄塔
送電線が民家のすぐ上に見える
JR新金貨物船踏切からのJR小岩線4号鉄塔
中川堤沿いの道を離れ、民家の上に時に顔を出す送電線鉄塔を追う。成り行きで進むとJR新金貨物線(金町と新小岩を結ぶ)の新宿道踏切に出た。線路の北に送電線鉄塔が見えており、送電線は線路上をまたぐ門型鉄塔に繋がっているように見える。

JR小岩線4号号鉄塔
線路上の門型鉄塔
その送電線鉄塔はどこと繋がっているのだろう。さらに民家脇に入り込み送電線鉄塔に近づくと、JR金町駅傍にある鉄塔と繋がっていた。その先にJR金町変電所があり、常磐線北側に2号、3号鉄塔が立ち、常磐線を跨いで4号鉄塔。これが最初に目にした鉄塔。そこから線路上の門型鉄塔に下り、線路上を東京都江戸川区のJR小岩変電所へと繋がっているようである。
遠くから眺めたとき送電線が斜め下に落ちていたのは、線路の上を進むため。であれば高い鉄塔の必要はない、ということだった。
金町変電所2号鉄塔
JR小岩線3号鉄塔
因みに、JR金町変電所の送電線鉄塔の先に送電線鉄塔は見当たらない。?? チェックすると、線路脇のダクトや地下を潜りJR金町変電所へと送電されているとのこと。武蔵境のJR東源,TEPCOなどの電源が戸田駅構内にある「戸田開閉所(開閉所には、送電線と発電所をつなぐ電気を入・切するスイッチ(開閉器)が設置されている)」に合流し、赤羽駅をダクトで通過し埼京線が東北線、高崎線から分かれるところでダクトから外れ地中に下りて金町へとつながっているようである。

JR常磐線・金町駅
気になった送電線鉄塔の「謎」も解決し、JR常磐線・金町駅へと向かう。金町駅は平成21年(2009)、南に柴又帝釈天に訪れ、北に小合溜井散歩に下車して以来。
金町の地名の由来ははっきりしない。『東京の地名;筒井巧(河出書房新社)』には「 金町は江戸時代の宿場町新宿(理科大の住所)を通る水戸街道が防衛上の理由で鉤の手状に曲げられていたことに端を発する。そこからその道が大工の使う曲尺(カネジャク)に似ていることで新宿の南側が曲金(マガリカネ)と呼ばれるに至る。そこで推測するに金町も曲町(カナマチ)の意から字が変わったのだろう」とある。
何となくそうかな、とも思ったのだが、室町時代1325年の「三浦和田文書」には、既に「下総国金町郷」という地名の記述があり、その由来は不詳との記事があった。江戸よりはるか昔から「金町」の地名があるとすれば、江戸時代の曲金云々由来は次期的に間尺に合わない。結局わからないということ戻ってしまった。

それはそれとして、そもそも「金町」の「町」がよくわからない。金町郷とある以上、現在われわれが抱く、村に対する町=市街といった「町」ではないだろう。Wikipediaによれば「田を区切る畔といった原義から、奈良の頃、都の一区画、職能集団の住む一画を神祇町、木工町と呼ばれ、平安末期になり「区画」から「商業地」を指して「町」と呼ばれるようになった、とのこと。
そして、鎌倉期には町人、町屋といった詞が現れ、都会的な場を「町」と呼ぶようになった」とある。
Wikipediaには「金町は金町は古くは金町郷といい、下総国香取神宮領の中心地として栄え、古利根川沿いの鎌倉街道に面した町屋が形成されていた。その後、金町屋と呼ばれていた時期を経て後に金町村になる」とある。金町の町は「町屋」に由来するように思えるが、今度は「金」の由来は不明。少し寝かしておこう。そのうちわかる、かも。

あれこれ寄り道が多くなった。長きにわたる古利根川散歩の締めくくりとしては少々収まりがよくないのだが、これも基本成り行き任せ、フックがかかったことを深堀りする散歩のスタイル故、致し方なし。とりあえずこれで古利根川散歩の大団円とする。

土曜日, 4月 13, 2019

讃岐 歩き遍路:七十一番札所 弥谷寺から七十二番札所 曼陀羅寺へ ②曼陀羅道

弥谷寺から曼陀羅寺への旧遍路道は二つある。一つは先回歩いた海岸寺経由の道。一旦曼荼羅寺と真逆の方向、瀬戸の海に面した空海生誕の地に建つ海岸寺にお参りし、そこから曼荼羅寺へと打ち戻す道である。 今回はもうひとつの遍路道、曼陀羅道を辿り曼陀羅寺へと向かう。ルートは、弥谷寺仁王門前の石段右手に立つ茂兵衛道標から右に折れ、おおよそ3キロ強、弥谷山西麓の曼荼羅道を歩くことになる

本日のルート;
曼荼羅道経由の曼荼羅寺への遍路道
弥谷寺仁王門前石段上の茂兵衛道標(100度目)>四国霊場四番札所大日寺の本尊石仏>>自然石の標石>四国霊場六番札所安楽寺の本尊石仏>十一面観音石像>六丁標石>蛇岩池>曼陀羅道の案内>法然上人蛇身石の標石>蛇岩>高松道手前に標石>石造地蔵菩薩立像>大池土手に2基の標石>大池土手上に石仏、「法然上人蛇身石」の案内と標石>茂兵衛道標(157度目)と地蔵尊坐像>旧国道11号に石仏群>七仏寺>茂兵衛道標(137度目)>西行庵分岐点の標石>茂兵衛道標(158度目)>茂兵衛道標(133度目)>茂兵衛道標(151度目)>第七十二番札所曼荼羅寺
弥谷山西麓・海岸寺経由の遍路道
県道221号の標石>津島神社>大見村道路元標>郡界石


曼荼羅道経由の曼荼羅寺への遍路道

弥谷寺仁王門前石段上の茂兵衛道標(100度目)
曼陀羅道は仁王前の石段を上がったところに立つ茂兵衛道標が始点。弥谷寺仁王門とは逆の右に折れる。
この茂兵衛道標は明治21年(1888)、茂兵衛100度目の四国遍路巡時のもの。「左本堂」、手印と共に「善通寺 金毘羅みち」と刻まれる。
通常金毘羅道は国道377号筋を伊予見峠を超えて進む道筋だろうが、この場合は高松道が通る近く、国道11号の鳥坂(とっさか)峠を超えて善通寺から金毘羅さんへと向かう道筋を案内しているように思う。
徳右衛門道標
石段から弥谷寺の仁王門への石段山側に徳右衛門道標が立ち、そこには「従是曼陀羅寺迄廿五丁」と刻まれる。一丁はおおよそ109mであるから、おおよそ3キロ程の距離となる。
この徳右衛門には徳右衛門道標によく見る、梵語も大師像もなく、背丈も常より少し高く、また、「与里これ満たらじ」と振り仮名がふられている、とのことである。

四国霊場四番札所大日寺の本尊石仏
歩き始めるとすぐ、道の左手に石仏が立つ。台座に「第四番 大日寺」とある。仏は胸の前で左手をこぶしに握り立てた人差し指を右手で包む智拳印の印相。本尊である金剛界の大日如来の像。左手は衆生、包む右手は仏を意味する。




自然石の標石
茂兵衛道標から土径を少し進み、山に向かって草の茂る中へと右に折れる辺り、道の右手に凝灰岩の自然石に刻まれた手印だけの標石がある。上部が欠け、摩耗が激しい。

2基の石仏
道の右手に2基の石仏。台座に乗った大師坐像(?)ともう一基。形式は先に見た大日寺の石仏と同じであるが、台座も壊れ寺名は読めない。




四国霊場六番札所安楽寺の本尊石仏
先に進むと「第六番 安楽寺」と台座に刻まれた石仏とその上手にも石仏が佇む。上手の石仏の寺名は読めない。
「第六番 安楽寺」と刻まれた石仏は、右手は立てた手のひらを前に向けた施無畏印、左手は手のひらを上に向け膝上に乗せた与願印を結ぶ。与願印は手のひらを前に向け下に垂らすのが如来の印相ではあるが、上に向けているのは薬壷(やっこ)を持つ薬師如来の印相。安楽寺の本尊である。
施無畏印は衆生の畏れを解きほぐし、与願印は衆生の願いを聞き届けるサインとのことである。
安楽寺石仏の横に「弥谷寺800m 曼陀羅寺 出釈迦寺3.4km」の標識が立つ。 因みに、四番と六番があったわけであり、とすれば先ほど道の右手に見た石仏は札所五番地蔵寺であろうし、石仏は本尊延命地蔵菩薩かもしれない。

十一面観音石像
道は竹林の中に入る。道の左手に石仏。台座はなく、寺名は不明だが十一面観音のように思える。石仏はここで終わる。
道は三豊市三野原大見と善通寺市碑殿町にの境を進んでるようである。





六丁標石
先に進み両側を竹林で囲まれた下り坂の左手に、倒れかけた標石があり「六丁目」と刻まれる。距離から考えれば弥谷寺からの丁数のように思える。この辺りは善通寺市碑殿町に入っているようだ。




蛇岩池
ほどなく道は開ける。左手に二つの池を見乍ら歩くと二つ目の池(蛇岩池)の畔で山道は終わり簡易舗装の道に出る。曼陀羅道スタート地点から大よそ20分程度であった。合流点には「弥谷寺」の標識が立つ。

曼陀羅道の案内
合流点を右に折れ簡易舗装の道を少し進むと「曼陀羅道」の案内があった。案内には地図と共に「四国遍路道 曼陀羅道 四国八十八ヶ所霊場を巡る遍路道は、徳島県・高知県・愛媛県・香川県の4県にまたがり弘法大師ゆかりの霊場をつなぐ、全長1400キロメートルにおよぶ壮大な巡礼道です。古来より人々の往来や文化交流の舞台となっている遍路道には数多くの石造物等の文化財や「お接待」の文化が残されています。
曼陀羅道は71番弥谷寺と72番曼陀羅寺をつなぐ遍路道で、道中には『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))の文献資料にも記された地蔵菩薩立像などの石造物や水茎の岡の西行庵、七仏大師堂なとの堂宇を見ることができ、近世以降ほとんどかわらずに遍路道の道程が残っていることが解かります。
特に、三豊市三野町の弥谷寺山門前から善通寺碑殿町の蛇谷池堤までの約0.9kmの区間は山間部を通る未舗装の道が残り、遍路が往来した昔ながらの古道の景観を留めています。
現在も昔とかわらない巡礼の風景を垣間見ることのできるこの区間は、江戸時代以降広く民間に普及した四国遍路の文化を物語る巡礼の道として歴史的価値が認められ、平成26年、国指定史跡『讃岐遍路道』に追加指定されました。善通寺教育委員会」とあった。
案内には写真も掲示され、先ほど出合った「6丁目」の標石は弥谷寺までの距離とあった。また、地蔵菩薩立像はこの先で出合うことになる。
「国指定史跡『讃岐遍路道』に追加された」とあるのでこの他にもあるようだ。チェックすると、いつだったか歩いた第81番札所白峯寺から第82番札所根香寺間にある根香寺道も国指定史跡『讃岐遍路道』となっていた。

法然上人蛇身石の標石
更に少し道を進むと車道に合流する。その合流点に標石が立ち、手印と共に「法然上人蛇身石 是ヨリ一丁 大正二年六月吉日」と刻まれる。
手印は今来た道を戻る方向を示す。遍路道が蛇岩池畔で簡易舗装道に合流する箇所まで戻り、そこを左へと池に沿って進む。池の北にある一軒の民家を見遣り少し坂を上り道が左に曲がる辺り、道の右手に口を開けたような大岩が木の間に見える。

蛇岩
案内も何もないのだが、ぽっかりとあいた口の辺りに石碑らしきものが見える。道を離れ大岩に寄ると「法然上人」の文字とともに上人立像が刻まれていた。
 ●「蛇石(じゃいし)」(法然上人蛇身石)
蛇石について、「仲多度郡史」には、「西碑殿(私注;地名)の山腹蛇谷池にあり。建永の昔法然上人當國に流されて本郡に謫居の折、 地方の靈跡を巡禮し、此の池邊に來りし時、弟子淨賀に向ひ、汝の父は蛇となりて 此の岩中に苦しめり、其の泣聲汝の耳に入らすやと云はれしも、淨賀少しも聞へ されは、疑惑の間に石工を雇ひ、其石を割らせたるに、一尾の小蛇這ひ出しと 云ふ。淨賀は信州、角割親政の二男なり。親政甞て郷里觀音寺の寺領、一町八反 歩の土地の證文を盗み取り、己か所有となしたり。其後故ありて當地に來り、 出釋迦寺に居住せしか遂に死歿す。而して生前に犯せし罪に依り、此の山裾に 蛇となりて苦しみを受けしと云ふ。是により蛇石の稱あり。地名、池名なとにも 殘りて、其の石今尚存せりと云ふ」と記される。

高松道手前に標石
蛇身石から法然上人蛇身石の標石まで戻り、道なりに下ると前方に高松道が走る。
道が高松道のアンダーパスを潜る手前の道角に標石が立つ。手印と共に「へんろみち 大正十二年六月吉日」と刻まれる。

高速道の高架下を潜り高速道に沿って東側の道を進む。道の右手には上池が見える。このあたりの地名は「碑殿」。地名の由来は「相傳フ昔行基彌谷寺ヲ開キシ時道標ノ碑ヲ立因テ名ヲ得タリト云」とある。
現在は善通寺市??原地区の碑殿町となっているが、旧名は多度郡吉原郷碑殿村。碑殿村は東碑殿と西碑殿よりなるが、両地区は天霧山を隔てて飛び地となっている。

石造地蔵菩薩立像
道が上池と大池の間を進むようになる手前、道の左手に巨大な石造りの地蔵菩薩立像が立つ。4mほどもあるようだ。地蔵菩薩は民家の建物の庭に立つ。
Wikipediaに拠れば,鳥坂の大地蔵と称され、弥谷寺へ奉納しようと運ばれる途中、あまりの重さ故に寺への奉納に替えてこの地に建てられた、と。

大池土手に2基の標石
道の右手、大池土手の草叢に2基の標石がある。傾いた標石には「左いや** 右**」と刻まれ、もうひとつには手印と共に「是ヨリ七拾一番へ十三**」と刻まれる、と。

大池土手上に石仏、「法然上人蛇身石」の案内と標石
大池の土手に「法界萬霊」と刻まれた石仏が立つ。その先、池の畔に標石が立ち、ふたつの手印が順路・逆路の遍路道を指す。
その傍に先ほど訪れた「蛇石(法然上人蛇身石)」の案内がある。地図による場所の案内と共に上述「仲多度郡史」に書かれた案内をわかりやすい言葉で説明する;「健永2年(1207年)法然の弟子が後鳥羽上皇の怒りを買い、師匠の法然は土佐へ流されることになった。その途次讃岐に留まり布教活動中、一年も経ないうちに放免となり、摂津まで帰った。その間中讃地区を中心に法然上人の足跡が多く残る。
その折、地方を巡礼し当地に来たとき、法然上人は弟子の浄賀に「汝の父は蛇となってこの岩の中で苦しんでいる。その泣き声が汝には聞こえないのか」と言われたが、浄賀には少しも聞こえず、疑惑ながらも石工を雇ってこの岩を割ると、一匹の小蛇が這い出たという。
浄賀は信州の角割親政の二男であり、親政はかつて郷里の観音寺の寺領一町八反歩の土地の証文を盗んで自分のものとした。その後当地に来て出釈迦寺に居住したが、そこで死没した。
しかし、生前の罪によって、この山裾に蛇となって苦しみを受けていたという(大正七年「仲多度郡史)などによる)。
昭和16年、片山家の世話で岩の中に法然上人の歌碑が建立されました。
さむくとも 袂に いれよ 西の風 弥陀の国より 吹くと思えば
(この歌は法然の弟子の親鸞の作との説もあります)。
法然の史跡は中讃に多くありますが、この近くでは善通寺五重塔の南側の法然上人逆修塔、まんのう町宮田の法然堂があり、それぞれ前述の歌が刻まれています」とあった。

茂兵衛道標(157度目)と地蔵尊坐像
大池を過ぎ国道11号へと向かう。道は東へ弧を描く道を分けるが、遍路道は道を横切り細路へ入る。細路入口角に茂兵衛道標と地蔵尊坐像。茂兵衛道標は手印と共に「右弥谷寺 明治三十年八月」と刻まれる。茂兵衛157度目の四国遍路巡礼の折に立てたもの。
また、屋根付きの地蔵尊座像の台座も標石となっており、「三界萬霊」の文字と共に「左へんろみち」と刻まれる。手印も見て取れる。

旧国道11号に石仏群
標石に従い細路へと入ると国道11号に沿って弧を描く道筋に出る。旧国道11号筋かと思う。その道筋、細路から出た所を少し西に戻ったあたりにいくつかの石像が並ぶ。石像を見遣り、道を東へと取って返し国道11号に出る。
大池の畔に茂兵衛道標(88度目)
国道11号に合流する手前、民家の軒先を大池へと下ると池の畔に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「弥谷寺」と刻まれるが、手印は弥谷寺とは真逆の方角を示す。国道整備の折に、どこからか移されたものだろう。「明治十一年 八拾八遍目為供養」と刻まれる。
鳥坂峠
この地から少し国道を西に戻ると鳥坂峠がある。上述、弥谷寺仁王門石段前の茂兵衛道標でメモした、金毘羅さんへ向かう峠道のひとつではあろう。
の昔は鳥となって飛ばなければ越えられないような険しい峠であったのだろうが、現在は国道整備にともない山が大きく切り開かれ、難所の名残を留めることはない。

七仏寺
国道11号を少し進むと左に入る道が分岐する。旧国道筋だろう。その道を進むと、道の左手にふたつの石碑があり、大池へと下る坂の左手に屋根付きの石造地蔵坐像、右手には標石がある。坂道の下、大池の畔に古さびた堂宇がひとつ建つ。伝承によれば、空海が五穀豊穣と疫病からの救済を祈り七体の薬師如来を刻んたことに始まると言われ、往昔七堂伽藍を誇ったと伝わる番外霊場医王山七仏寺である。西行法師も訪れたと伝わるこの大師遺跡も、昔を偲ばせるものは石碑の他に何も残らない。
お堂に乳薬師と書かれた額が見える。江戸の頃、池の堤の改修時に工事の無事を祈り工事責任者である庄屋の乳母を人柱にしたという秘話に因み、ここで祈ると乳の出がよくなるとの伝えから、とのこと。乳母の人柱と乳の出がよくなる、との関係は如何なるロジックなのかよくわからない。
西行法師歌碑
お堂への入り口にある2基の石碑のひとつが西行法師の歌碑と言う。道に向かった面には「月見よといもの子」とか「おこしに」「何か」といった文字と下端に「西行上人」の文字が見える。
全文が如何なるものか、あれこれチェックすると、江戸時代の狂歌集である「『古今夷曲集』巻第三「秋歌」 に「名月の夜畑なる芋ぬすめるをとらへけれはぬす人のよめる  月見よといもか子とものねいりたを起しにきたは何かくるしき」という歌がある。
芋盗人を捉えたときの言い訳として、「あなたの子どもが美しい月 も見ず眠り込んでいるので起こしに来たのです 、とは少々苦しい言い訳めいて感じる」と言った意味だろうか。歌の意味はそれとしてこの歌が西行の詠んだものとのエビデンスがない。もう少々チェックすると、この芋盗び譚の流れに関連し西行が登場する。
『詩学大成抄』 に;西行法師ノ八月十五日夜明月ニ芋ヲハタケエヌスミニイカレタレハ芋マフリガミツケテトラエテシバツタソユルセト云テ歌ヲヨウタレハユルイタゾ歌ニ  月ミヨトイモガフシドノソヽリコヲヲコシニキタハ何カクルシキ
トヨウタソヲカシイ事ナレトモ名誉ノ歌ナリ」とある。
ここでは「芋盗み」が「妹盗み」の色合いも帯びているようである。

それはともあれ、歌碑に刻まれる歌が西行の作かどうかはっきりしなくなってきた。更にチェックすると、小林幸夫さん(東海学園大学)の「十五夜の歌(餅と芋の昔話)」の中の「芋盗み」の昔話の項目があり、香川県には「西行芋盗み説話」がいくつか伝わり、その中の善通寺の七仏寺の昔話として「西行芋盗み説話」があった;
「西行はこの地までやってきたのだが、八月十五日に月があまりに美しいので、 芋畠へ出て月を眺めていた。ところが付近の百姓がこれはてっきり芋盗人にちがいないと思って、我が芋畠で何をするぞととがめると、西行は今夜は芋名月の晩だから芋をひとつくだされといった。
すると百姓は歌をひとつ詠んでくだされば差し上げようという。西行は
月見よと芋の子どもの寝入りしを起しにきたか何かくるしき
という歌を詠んだ。何かわけのわからぬ歌だが、百姓は喜んで、西行に芋を与えたという。この歌が七仏寺の前に刻まれて建っているのである。
語り手が 「何かわけのわからぬ歌だが」、と言うように意味さえ判然とつかめていない西行が「歌の手柄」によって許される歌徳説話であるが(中略)話者の関心はこの話の事実性にあるようだ。「この歌が七仏寺の前に刻まれて建っているのである」という語りに、それはあらわれている。その意味では、この昔話は、伝説に近づいているのだ」とあった。

以下は妄想;どうもこの歌が西行の詠んだものかどうかは、どうでもいいように思えてきた。事実前述『古今夷曲集』以外にも、ほぼ同じ歌が「新撰狂歌集」に「(前略)捕らえて縛めければ 盗人 月見よと芋が子ともの寝入りたを起こしにきたは何かくるしき」とある。要は中秋の名月に芋を供える習慣があり、芋盗みより中秋の名月を連想させる狂歌が歌われており、その中のひとつが少々のバリエーションを加えられ、西行の詠んだ歌、それも歌の力を示す昔話となって芋盗みのコンテキストで使われたのだろう。西行も芋盗みの歌を読んではいるが、それが使われなかったのは芋盗み>妹盗みを連想させる歌故であったのだろうか。
尚、歌碑の裏面には「此方 へんろ こんぴら 道」と刻まれ、標石も兼ねる。
古験松の碑
西行の歌碑横の石に大きく刻まれる文字は「古*枩」と読める。このお堂には大師お手植えの「古験松」の碑があるとのこと、枩は「まつ」のことのようであるから、「古験枩」と刻まれているのだろう。
石碑
坂の入口、右手にある石碑には「弘法大師御作 七佛薬師如来 安政八」といった文字が刻まれる。七仏寺の由来ともなった弘法大師が刻んた薬師如来の案内である。




茂兵衛道標(137度目)
七仏寺を離れた旧国道はすぐに国道11号に合流。遍路道はそのまま交差点を直進し県道48号善通寺詫間線を進む。遍路道は少し東に進み三井之江東交差点の手前で右に分岐し民家の間の細路に入る。その入り口角に茂兵衛道標が立つ。順打ち・逆打ち両方向を示すふたつの手印と共に、「右多度津 丸かめ 明治廿二年」と言った文字が刻まれる。茂兵衛137度目の巡礼時に立てた道標である。

西行庵分岐点の標石
道なりに進み、道の右手に「西行庵」と書かれた石灯篭の脇に自然石の標石があり、「左 水くき道 三丁** 安永三**」と刻まれる、と言う。 「水くきの道」とは西行法師寓居の「水茎〈くき)の岡」への道を示したもの。右手にカーブして上る道を進むことになる。遍路道は道なりに更に進む。


茂兵衛道標(158度目)
ほどなく遍路道は花籠池に当たる。その西北端の道脇に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「弥谷寺 出釈迦寺 明治三十年」などと刻まれる。茂平158度目の巡礼時に立てたもの。出釈迦寺は第七十三番札所である。





茂兵衛道標(133度目)
遍路道は花籠池とその東の溜池の間を進む。花籠池の土手に茂兵衛道標があったとのことだが、訪問時(2019年3月)には土手の護岸工事のため道標は撤去され、ブルーシートに包まれて道端に置かれていた。

茂兵衛道標(151度目)
更に道なりに進むと五差路に出る。遍路道が五差路に出る正面に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「弥*寺 出釈迦寺 明治廿九年」と刻まれる。茂兵衛151度目の巡礼時に建てたもの。ここは曼荼羅寺と出釈迦寺への分岐点。道を左に折れれるとすぐ曼荼羅寺、南に進むと出釈迦寺となる。


第七十二番札所曼荼羅寺
茂兵衛道標の左に曼荼羅寺。道標を左に折れてすぐ、境内に接してうどん屋があるが、歩き遍路にはお接待で無料とのこと。お寺さまへはうどん屋横から境内へと石段を下りることもできるが、オーソドックスなアプローチとして山門からと境内に沿った緩やかな坂を東に下る。
山門へと右折する箇所に石碑があり「成田山不動明王祈念所 是より東」と刻まれる。成田山不動明王祈念所がどこを指すのか不明。
仁王門
この石碑を左折しすると仁王門が建つ。金剛力士が左右に並ぶ仁王門に「我拝師山曼荼羅寺」とある。仁王門の前、「笠松大師(不老松)」の木標の立つ左手に寺柱石、「四国七十二番 本尊大日如来霊場」と刻まれるが、裏には「左甲山寺 十丁余 明治二十四年」と刻まれた標石となっている。茂兵衛117度目巡礼時に立てたものである。

本堂
境内に入り池に架かる橋を渡ると正面に本堂。本堂には「弘法大師御母玉依御前菩提所」とある。寺伝によれば、この寺は弘法大師の先祖である多度郡の郡司であった佐伯氏の氏寺として推古四年(596)に創建され、世坂寺と称したことにはじまる、その後唐より帰朝の大師が金剛界・胎蔵界の両界曼荼羅を安置、その根本仏たる大日如来を本尊とし、世の安寧と母玉依の菩提を祈念し堂宇を建立。我拝師山曼荼羅寺と改めた、と。
鎌倉時代には、後堀河天皇から寺領を給わるほど栄えたが、永禄3年(1560年)阿波の三好実休による天霧城攻めの兵火で焼亡、さらに、慶長年間(1596~1615年)に戦火を受けた、とのこと。
天霧城は千回の海岸寺道経由曼荼羅寺の遍路歩きの途中に立ち寄った。
大師堂
本堂右手に観音堂、左手に八幡宮、境内の南側に大師堂があり、天気がよければお堂の背後に我拝師山(標高481m)の山頂近くにあるかつての曼荼羅寺奥の院、現在の出釈迦寺奥の院禅定・行場が見える、とのことである。
西行の歌碑
本堂左手に2基の石碑が立つ。大きいほうには「西行法師笠掛松 昼寝石」と刻まれ、小さいほうは「笠掛桜」とあり、文字と共に西行の歌が刻まれる、と。
昼寝石は石碑前の平たい石のことだろう。寺近くの水茎の岡に庵を結んだ西行が時にこの寺を訪れ、昼寝を楽しんだとのことと言う。
また笠松桜と刻まれた小さい石碑には、表面に多くの文字が刻まれている。何が刻まれているのかチェックすると、詞書とともに西行の詠んだ二種の歌が刻まれる、と:
「四国のかたへぐしてまかりける同行の都へかへりけるに 西行上人
帰りゆく人のこゝろをおもふにも はなれがたきはみやこなりけり
かの同行の人かたみとて此桜に笠をかけ置けるを見て
    笠はありその身はいかになりぬらん あはれはかなきあめがしたかな 」
共に(具して)四国へと歩いた西住法師が都に戻る際に詠んだ歌とのこと。「帰りゆく」の歌は「都に帰る君の心を想像してみると、切るに切れないのは同行の私との仏縁ではなくて、やはり都との血縁の方だったね(和歌文学大系21から抜粋)」の意。
笠松(不老松)
本堂左手、客殿や庫裡がある前に「笠松大師」の祠が建ち、その後ろに不老松と刻まれた石碑と「笠松(不老松)」の案内がある。「当寺の名物だった「不老の松」は平成13年から14年にかけて松くい虫のために枯死しました。この円形の場所が元あったところです」とあり、枯死前の如何にも笠の形をした大きな松の写真があった。弘法大師が寺号を我拝師山曼荼羅寺と改めた時のお手植えの松ではあったよう。
境内の標石
茂兵衛道標(180度目)
橋を渡った右手に茂兵衛道標。手印と共に「出釈迦寺 甲山寺 明治丗二年」といった文字が刻まれる。茂兵衛180度目の四国遍路巡礼時の道標である。








その反対側、鐘楼前に5基の標石が並ぶ。
仁王門側手前から
「出釈迦じに十三丁 かぶやまじに十三丁」
境内整備に際し、本堂手前右手にあったものを移したようだ。「かぶやまじ」は四国第七十四番札所甲山寺のこと。
その横に並ぶ4基の標石には
「(梵字)南大師遍照金剛 右遍ろみち願主真念」
真念道標とのこと。
「左 万たら寺 いやたに寺 道」
「いやたに 右こんひら道 左 扁ろ道
「へんろミち 南無阿弥陀仏」
などと刻まれるとのこと。境内整備前には記録にないようであり、これもどこからか移されたもののようである。

以上で弥谷寺から曼荼羅道経由の曼荼羅寺までのメモは終わり。


弥谷山西麓・海岸寺経由の遍路道

これで弥谷寺から曼荼羅寺までの遍路道として、海岸寺道と曼荼羅道をメモしたが、メーンではないものの、もうひとつ弥谷山の西麓を進み海上の小島に鎮座する津島ノ宮にお参りし、海岸寺を経て曼荼羅寺へ向かう道もあったようだ。 概要だけをメモしておく。
ルート始点は弥谷寺の山門辺りから西麓へと進む道があったようだ。山門辺りを彷徨い遍路道らしき道を探したのだが、結局見つからなかった。
県道221号の標石
山麓の道はトレースできなかったが、県道221号に標石があった。県道の東にある峠池の北、その池の先、山麓から県道221号に合流する地点に標石が立つ。 「右 もとやま寺二り半 くわんおん寺三り 左いやたに寺十三丁 せんつうじ一り 半 明治丗九年」などと刻まれるようだ。




津島神社
県道を海辺まで進むと海上250mの沖の小島に鎮座する津島神社がある。平時は島を蒸結ぶ橋は橋板が外され渡ることはできないようだ。社は子どもの守り神として信仰を集め、8月の大祭の日には津島ノ宮駅が臨時開業するとのこと。そういった折に橋板が敷かれるのだろうか。
大見村道路元標
津島ノ宮駅には「大見村道路元標」が立つ。Wkikipediaには、道路元標とは「道路の起終点を示す標識である。 日本の道路元標が国によって定められたのは、里程調査のための明治時代初期のものと、大正時代の旧・道路法施工令公布の時のものと、二つの時期にわたって道路に設置されたものがある。正確には、大正時代に設けられたものが「道路元標」とよばれるもので、明治時代に設けられたものは里程元標(りていげんぴょう)といい、大正期の道路元標の前身となるものである。
これ以外に現在、一般国道などの起終点などで見ることが出来る道路元標は、昭和時代の太平洋戦争後に設置されたもので、その設置基準については法的な根拠はなく、道路の付属物の扱いで記念碑的なものとして建てられたものである」とある。大見村ができたのは明治23年(1890)とのことであるので、この元標は大正の頃のものだろうか。
郡界石
また、津島ノ宮から県道21号・さぬき浜街道に沿って走る予讃線と海岸線の間の道を少し東に進むと「郡界是ヨリ仲多度郡 郡界 是ヨリ三豊郡」と刻まれた境界石が立つ。
遍路道は県道21号を海岸に沿って進み海岸寺へと向かう。

これで弥谷寺から曼荼羅寺への遍路道のメモ終了。次回は七十二番札所・曼荼羅寺から七十三番札所・出釈迦寺を打ち、七十四番札所甲山寺、七十五番札所善通寺へと向かう。