土曜日, 12月 31, 2005

京都散歩;黒谷金戒光明寺から哲学の道へ

年の暮れに京都を歩いた。本年の散歩の書き納めとして京都散歩のメモをしてみようと思った。少々の危惧はあった。古都京都。時間・空間が幾重にも入り組んで、視点を定めないでメモをはじめると、あれやこれやとまとまりがなくなるのでは、といった思い。案の定というか予想通りというか、の散歩メモとなった。



本日のルート;蹴上>粟田口鳥居町・南禅寺前>琵琶湖疎水記念館・南禅寺草川町>スタンフォード日本センター>白川院>二条通り>京都市動物園>岡崎南御所町>岡崎公園>平安神宮>丸太町通り>岡崎神社>黒谷金戒光明寺>真如堂(真正極楽寺)>白川>白川通り>鹿ケ谷通り>鹿ケ谷泉屋博古館>有芳園>>疎水分流>大豊神社>哲学の道>熊野和王子神社>永観堂>東山中学・高校>野村美術館>南禅寺>仁王通り>三条通り>三条大橋>川原町三条>四条川原町>木屋町通り

岡崎

岡崎のスタンフォード日本センターに仕事があった。仕事といっても、ちょっと挨拶するだけ。地下鉄東西線の、「蹴上」で下車し南禅寺の近くのセンターまで歩く。「蹴上」は「けあげ」と読む。

蹴上


蹴上げって、このメモをまとめるまで完全に思い違いしていた。明治時代に完成した琵琶湖疎水には用水と発電と水運といったいくつかの機能がある。水運では、琵琶湖と鴨川を結んだわけだが、この岡崎付近は琵琶湖との勾配が急すぎるため、船を台車に乗せて、線路を移動させたという。その船を動かす梃子の姿を勝手にイメージして、それを「蹴上げ」と呼ぶのだろうと思っていた。
実のところ、蹴上げは船とか台車とかは関係ない。源義経にその由来があった。義経、当時の遮那王が奥州に下る際、この地で美濃の侍一行とすれ違う。武者の馬が泥水を蹴り上げ遮那王の衣服を汚す。激怒した遮那王は武者と従者の9人を斬り殺したという。義経というかタッキーとのイメージと違って少々オドロオドロシイ。が、これが蹴上という地名の由来伝説。
『山城名勝志』巻第13(『新修京都叢書』第14)に、次のように書かれている。○蹴上水{在粟田口神明山東南麓土人云関原與市重治被討所}異本義經記云安元三年初秋ノ比美濃國ノ住人關原與市重治ト云者在京シタリ私用ノ事有テ江州ニ赴タリ山階ノ辺邊ニテ御曹司ニ行逢重治ハ馬上ナリ折節雨ノ後ニテ蹄蹟ニ水ノ有シヲ蹴掛奉ル義經 其無禮ヲ尤テ及闘諍重治終ニ討レ家人ハ迯去ヌ、と。
思い違いをもうひとつ。船を台車に乗せて、線路を移動させ急勾配の水位差を吸収する方法をインクラインという。これも、インク=友禅染めから来ている愛称と勝手に思い込んでいた。

左手に都ホテルを眺めながら蹴上交差点を越え、粟田口鳥居町の蹴上発電所、国際交流会館を左に見ながら南禅寺前交差点に。右折すれば南禅寺。先を急ぐ。琵琶湖疎水記念館を越え、京都市動物園の裏手、岡崎法勝寺町にスタンフォード日本センター。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

白川院

挨拶をすませ夜の食事会の段取りを終え、とっとと散歩に戻る。センターの直ぐ近くに白川院。現在は私学共済の旅館であり料亭だが、元々は白川大臣と呼ばれた藤原良房の別荘があった。で、藤原師実の時に白河天皇に献上。天皇はこの地に寺院をつくることに。それが法勝寺。

法勝寺
法勝寺は「国王の氏寺」と呼ばれ、代々の天皇家の尊崇を受ける。後にこの地には他にも次々と寺院が作られ、総称して六勝寺と呼ばれた、と。中でも法勝寺は六勝寺のうち最初にして最大のものであった。が、14世紀半ば南北朝の時代に火災で燃失しそのご再建されることはなかった、という。

ホテルに向う。平安神宮の北にある。歩く。白川院の前の二条通りを京都市動物園に沿って進み、京都市美術館手前の交差点を右折。岡崎通。岡崎南御所町を岡崎公園に沿って北に。平安神宮を左手に眺めながら丸太町通りまで進む。丸太町通り沿いのホテルにチェックイン。

荷物を降ろし、はてさてどこを歩こうか、と地図を見る。近くに金戒光明寺。このお寺、幕末の京都守護職会津容保候の本陣があったところ。結構京都に来ているけれど、未だ散歩する機会がなかった。それではと地図を眺めてルーティング。黒谷金戒光明寺>真如堂>白川通りから鹿ケ谷通り>哲学の道>熊野和王子神社>永観堂>南禅寺>そして夕刻の四条木屋町でのご接待の場所に、とのルートを設定した。

岡崎神社

黒谷金戒光明寺に向う。丸太町に面した岡崎神社の西隣あたりに黒谷金戒光明寺への参道がある。まずは岡崎神社におまいり。平安末期、京の都に疫病、天変地変。その原因は失意でなくなった人々の祟り。その御霊を鎮め、返す刀でその人々の力を頂くという御霊信仰をもとに祀られた神社。
岡崎神社は東光寺の鎮守社でもあった。東光寺って祇園・八坂神社の前身。八坂神社の祇園祭ももとは御霊信仰から生まれたお祭。両神社のつながりを納得。で、名前の岡崎、意味は「岡の先っぽ、先端」の意味。その岡にあたるのが吉田山であり黒谷栗原の岡。その南に広がる平安神宮、南禅寺あたりまでを岡崎と呼ぶ。岡崎神社は文字通り、岡の先端に位置してる、ってわけだ。

黒谷金戒光明寺
岡崎神社近くの参道を登る。黒谷南門に至る参道。表参道ではなく、直接、文殊塔下の墓地・黒谷墓地に出る。文殊塔への階段を上る。京都の町並みが眼下に広がる。標高は100m程度だが、東山の山並みを含めた京の都の眺めは素晴らしい。文殊塔には運慶 作の文殊菩薩像がある、とのことだが、この三重塔はがっちり閉じられており最近開けた雰囲気はなにもなかった。

会津小鉄
石段を下りる。途中、「会津藩士の墓」の墓標。山頂部分を歩く。道の途中にちょっとしたお堂・西雲院。中に入る。会津小鉄のお墓。会津小鉄、って昨今では暴力団・会津小鉄会で名前を聞くが、本来は幕末の侠客。本名上阪(こうさか) 仙吉。京都守護職・会津藩主松平容保の命により、家業の口入れ屋として、また、裏では新選組の密偵として活躍。会津藩が鳥羽伏見の戦いで敗れ、賊軍の汚名のもと路上に放置されていた戦死者の遺体を収容し供養し。官軍の迫害を恐れず,黒谷会津墓地を西雲院住職とともに守り続けたという。

会津藩殉難者墓地

西雲院を少し進むと「会津藩殉難者墓地」。文久2年(1862)から鳥羽伏見の戦いまでの、幕末の動乱で命を亡くした会津藩士352名が眠る。「会津藩殉難者墓地」の先には、真如堂・吉田山への道が続くが、本堂も何も見ていないので引き返す。

御影堂
石段を下り、本堂に向う。途中ちょっとした池そして橋。橋を渡り阿弥陀堂から本堂(御影堂)。御影堂には法然上人75歳の御影(坐像)が。この地は法然上人がはじめて草庵を営まれた地。これが浄土宗最初の寺院となった。ちなみに黒谷とは、法然上人が修行した比叡山西塔の庵室のあった場所。

鎧の松

本堂の脇には、熊谷直実の鎧をかけたという「鎧の松」が。一ノ谷の合戦で、平家の若武者、平敦盛を討ち取った直実。この世の無常を悟り、京に戻って、法然上人のもとで出家、敦盛の菩提を弔いながら余生を過ごしたという。そのほか、出家の折によろいを洗ったとされる「鎧池」や直実と敦盛の供養塔などもある、とのこと。

三門
本堂から三門に。本堂もそうだが、三門も堂々たる構え。三門を出て表参道に面する高麗門まで歩き、その思いをいよいよ強くする。お寺というより城砦といってもいいほど。堂々たる石垣、石段。会津候がここを本陣としたのもうなずける。徳川家康は京都に一旦事あるときに備え、知恩院とこの黒谷の寺を城構えとして造作した、とか。京都御所にも2キロ、東海道への出入り口、戦略的要衝の粟田口まで1.5キロ、4万坪の寺域、50以上の宿坊をもつこの黒谷の寺、というか城を本陣としたのは、実際目で見、歩いて全くもって実感。

真如堂

真如堂に向う。どこ でこのお寺の名前を覚えたのか定かではない。が、紅葉の名所ってことだけは覚えている。黒谷金戒光明寺の高麗門を出て、お寺に沿って進む。ゆるやかな登りを左前方に吉田山を眺めながら進む。天台宗のこのお寺、応仁の乱のときは東軍の本陣となったとか。ために堂宇ことごとく焼失。宝暦年間(1751~64)に建立と伝わる三重塔などを眺めながらブラブラ。

小林祝之助を記念する碑

紅葉の季節はハズしているので、なんともはやフォーカスなし。本堂裏手を歩いていると石碑があった。何気なく眺める。第一次世界大戦で義勇兵としてフランス空軍に所属し,空中戦で戦死した小林祝之助(おばやししゅくのすけ)を記念する碑。大正14年に建てられた、と。 
京都新聞の連載記事「岩石と語ろう」で紹介された記事;明治二十五年(一八九二)年,大豊神社(左京区鹿ケ谷宮ノ前町)宮司の長男として生まれ,錦林小,立命館中学,同大学と進んだ。大正二(一九一三)年,祝之助は伏見の深草練兵場で,初めて見た飛行機が着陸に失敗し,操縦士が死亡したのを目撃し,衝撃をうけた。これをきっかけに空を飛ぶことにあこがれ,飛行機の操縦を学ぶため,つてを頼って第一次大戦のさなかに渡仏,その後正式に仏航空兵となって空で独軍機と戦った、と。

真如堂から本堂の裏手を歩き、再び金戒光明寺の境内に。「会津藩殉難者墓地」、西雲院、文殊塔、そして再び京の町並みを眺め石段を降り、黒谷南門に。岡崎神社に下りる途中、神社裏手に沿って白川通りに抜ける小道があった。左折し坂道を下り丸太町通りと白川通りの交差点に。

鹿ケ谷地区

交差点を渡り鹿ケ谷地区に。鹿ケ谷といえば僧俊寛たちが平家打倒の陰謀を企てた鹿ケ谷の山荘のあるところ。その山荘って何処にあるのか調べてみた。地図で見る限りでは、ノートルダム女学院と霊厳寺の間を送り火で有名な大文字山のほうに入り込み円重寺、波切不動尊を過ぎ、その名も納得の、「談合谷」の中腹にあったという。本日は時間もなく、予定もないのでパスする。が、いやはや京都は奥深い。地理と歴史が幾重にも重なり、メモが次々と分岐する。鹿ケ谷云々はこの辺でやめておこう。

哲学の道

白川を超え、鹿ケ谷下宮ノ前町にある泉屋(せんおく)博古館、住友コレクションの名で知られる中国古代青銅器の名品を展示するユニークな美術館を過ぎ、住友家の別荘・鹿ケ谷別邸とよばれる有芳園の角を右折。少し進むと疎水、そしてここが哲学の道。
慈照寺(銀閣寺)付近から南禅寺あたりまで、琵琶湖疎水分流に沿って遊歩道がある。2キロ程度のこの道、哲学者・西田幾多郎がこの道を散策しながら思索にふけったことからこの名がついたと言われる。「人は人吾はわれなり とにかくに 吾行く道を吾は行くなり」のフレーズも有名。

大豊神社

哲学の道を歩く前にスタート地点近くの大豊神社に。この地域の地主神。境内にある大国主命を祀る末社・大国社には狛犬ならぬ、狛鼠が。おなじく境内にある日吉・愛宕社は狛犬ならぬ、狛猿と狛鳶があった。洒落か?ともあれ、先を急ぐ。

熊野和王子神社
哲学の道をちょっと進むと熊野和王子神社。東大路丸太町にある熊野神社、東大路七条にある新熊野(いまくまのと読む)神社の二社と共に、京都三熊野の一社。永暦元年(1160)、後白河法皇が紀州の熊野権現を永観堂禅林寺に迎え禅林寺新熊野社・若王寺と呼ばれたこともある。その後、明治初年の神仏分離によって仏を棄てて神を取った、のは熊野散歩でメモしたとおり。
ちなみに、この神社の御神木「椰(なぎ)」の葉で作られたお守りは、あらゆる悩みをナギ倒すとして人気商品、であるとか。

疎水分流は熊野和王子神社のあたりで消える。その先に松ヶ崎浄水場。ちなみに、疎水分流はここから北に流れ、北大路通りのあたりで高野川に合流している。高野川は出町柳で賀茂川と合流し、鴨川となる。

永観堂

熊野和王子神社を越えたあたりで道なりに右折。永観堂の塀に沿って下り、再び鹿ケ谷通に。通り沿いに永観堂。聖衆来迎山禅林寺と号する浄土宗西山派の総本山。紅葉で有名。もう少々早く来て折ればと少々残念。で、時間も遅くアポイントの時間も迫ってきたので、参拝はパス。

小川治兵衛

野村證券創設者の別荘を美術館とした野村美術館を右手に南禅寺を左手に眺めながら歩く。この
あたりは京都有数の豪邸地区。スタンフォード日本センターの先生から、このあたりは別格地域。「野村美術館」、平安神宮の「神苑」の名園をつくった7代目小川治兵衛、通称「植治」の美の一端でもご堪能あれ、との言葉ではあったが、なにせ、その先生とのアポイントの時間が迫る。南禅寺前から琵琶湖疎水に沿って仁王通りを急ぎ足で歩き、東大路通りで左折し三条通りに。三条大橋を渡り、川原町三条から四条川原町。そして待ち合わせの木屋町通りに進み、本日の散歩は終了。

カシミールで地図を作る際、気がついた。手持ちの京都地区地図データは20万分の1のものしかない。これではどうしようもない、ということで西日本の5万分の1の地図データが収録されている『カシミール3D GPS応用編』を購入。通常関東地域は2万5000分の1の地図で作成しているので少々物足らない。そのうちに西日本の地図データもきちんと揃えなければ。

水曜日, 12月 28, 2005

五日市・秋川の古城跡を巡る

秋川の谷合に残る古城を訪ねる。檜原城跡と戸倉城跡である。戸倉城は大石定久の隠居地、と。大石氏とは滝山城を北条氏照に譲ったあの大石定久、である。また、戸倉から少し秋川を上り、檜原にも城があるという。戸倉城と同じく同じく甲斐・武田への押さえためにつくられた城。あまり聞いたこともないお城。それぞれ少し離れており、また、途中はバス道であり、歩道があるわけでもないのでバスを利用。城跡の残る山道に取りつくのを本日のメーンイベントとする。



本日のコース: 本宿役場バス停・口留番所 ; 吉祥寺 ; 檜原城跡 ; 戸倉バス停 ; 光厳寺 ; 戸倉城跡 ; JR五日市線・武蔵五日市

JR五日市線・武蔵五日市

JR中央線立川からJR青梅線、JR五日市線と進み武蔵五日市下車。予想外のモダンな駅舎。駅前で檜原城跡への最寄りの地・檜原村役場に行くバスを探す。駅前というかバス停近くに観光案内所。尋ねる。数馬行き、藤倉行き、小岩方面行きのどれかに乗り、本宿役場前バス停で下りればいいとのこと。数馬は秋川に沿って、檜原街道を進み武蔵・甲斐の国境・浅間峠手前を三頭山の裏手・都民の森方面へ向うルート。小岩は北秋川に沿って205号線を進む ルート。藤倉も同じルートで小岩のもっと先。


吉祥寺
小岩行きのバスに乗り、本宿役場前バス停で下車。北秋川と南秋川が合流し秋川の流れとなる交差地点に聳える山が檜原城跡。登山口を探す。あれこれ歩くがそれといった案内がない。交差点から檜原街道を少し南淺川によったところにお寺・吉祥寺。 臨済宗建長寺派の古刹で創建は応安6年(1373年)。なんとなくお寺から城山への道があるのでは、と見当をつけて境内に。本堂は工事中。土蔵に「三ツ鱗」。これって北条氏の家紋。北条ゆかり、ってことはひょっとしてこのお寺は檜原城主の菩提寺か。ということは、城につながる道があるに違いない、との推論。本堂横の山肌に「十三仏巡りの参道」。
とりあえず登る。不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観世音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閃(しゅく)如来、と参道というか山道に佇む仏様に手を合わせながらひたすら登る。結構きつい。時々仏様への参拝道は行き止まりとなる。これも修行(?)と分岐点まで引き返し、気を取り直しさらに登る。道の分岐は複雑。が、なんとなくすべてが山頂に向っているよう。息を切らしながら尾根に到着。

檜原城跡

尾根道を歩く。2箇所ほど比較的広い平坦なスペース。広さから見て、主要な曲輪への攻撃を防ぐ小さな曲輪・腰曲輪だろう。尾根の稜線にある2箇所の腰曲輪の間には空堀・堀切があり、腰曲輪の間の通路を遮断している。通路は細い土橋でつながる。頂上地点に13番目の仏さま虚空蔵菩薩が。このあたりが主郭 (曲輪)なのだろう。標高450m余り。30分程度で上り終えた。主郭の南には急斜面を下る尾根道。向いに見える最高峰への鞍部なのだろうが、いかにも危険そうでパス。しばし休憩。見晴らしはそれほど良くない。が、それなりの眺め。本宿の集落と戸倉方面が見渡せる。下りは幾筋もある道を適当に下る。急斜面を垂直に掘った空堀・竪堀(たてぼり)らしきものを見ながら、麓へと下りる。
檜原城は武州南一揆・平山氏が築いた城、というか砦。この場合の「一揆」は通常使われる一揆とは異なり、地域自衛共同体といったもの。通常は農耕に従事し、一旦事あれば「南一揆」の旗を掲げ、武器をもち戦いに赴く農耕武士集団。実力においても室町期に秋川の谷筋を守った強力な自衛集団でもあった。平山氏は戦国時代、北条氏に従属。武蔵と甲斐をつなぐ唯一の街道であった浅間峠からの道筋の戦略的抑えとして檜原の地に城を構え、甲斐・武田氏に備える。
永禄十二(1569)年の武田軍侵攻は、この街道ではなく本隊が碓氷峠越え、小山田信茂率いる別働隊は小仏峠越えで侵攻。結局のところ武田軍と檜原城の攻防戦はないままで終わる。天正十八(1590)年の小田原の役では、八王子城が1日で落城。檜原城主・平山氏重は八王子城代・横地監物ほか敗残兵を収容。前田利家、上杉景勝らの軍勢と干戈を交える。が、衆寡敵せず、七月十二日に落城、平山氏は城下で自害。家紋が北条と同じ「三ツ鱗」であることからわかるように、平山氏重は北条氏に重用されたのであろう。戦うことなく降伏した武将の多いなか、北条家に殉じた数少ない武将・土豪のひとりである。その後この城は徳川家康の関東入封と同時に廃城となる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

口留番所
バス停に。前に 神社と見まごう趣き深い民家。表札には「吉野」さんと。このあたり、吉野街道とか吉野梅郷といった地名も多く、由緒ある家柄なのだろう。調べてみた。口留番所とのこと。甲州方面から檜原を通って武蔵国へ入る場合、秋川の橘橋を渡る。で、この橋の袂に設けられたのが口留番所。『武蔵名勝図会』によると「関の険固なることは類まれなる」とある。余程厳しかったのだろう。番所の役人は地元の名主。八王子の十八代官の一人から代々委任されていた。その名主宅が吉野家、ということだった。

光厳寺

バスに乗り、戸倉城跡に戻る。1時間に1本程度のサービス。戸倉までの道は、行きのバスで見た限りでは、快適な散歩道とは言い難い。歩道があるわけでなく、車道を3キロほど恐る恐る歩くことになる。バスに乗るのが正解だろう。
戸倉で下車。戸倉城跡のある城山を確認。秋川渓谷の入口に聳え立っている。登山口を捜す。バス停近くに「戸倉小学校・光厳寺」の標識。檜原城跡の吉祥寺ではないが、お寺からのアプローチを期待して寺に向う。光厳寺に。臨済宗建長寺派の古刹。「足利二ツ引両」の家紋。足利尊氏が創建したと伝えられている。ちな みに新田家は横線が一本の「一ツ引両」。門前の急斜面に樹齢 400年もの山桜。幹周り 533センチ、枝は東西に25メートル・南北に80メートルのび、高さは22メートル。東京都下三大巨樹桜のひとつ。

戸倉城跡
お寺左手に「城山」への案内。竹林の 中を進み山道に。最初はゆったりとし上り・下り。尾根に向かう。「掘切り」を越えると尾根道に。最初はゆったり。左手は断崖。少々怖い。次第に険しくなる。殆ど直登に近いのぼり道。左手は断崖。足がすくむ。頂上付近は切立った崖・岩肌。左手は断崖。高所が苦手なわが身にとしては。、腰を浮かすのも憚られる。岩肌にすがるように登る。主郭のある頂上に。小規模な削平地。櫓台跡(武器の倉庫)とも言われている。とはいうものの、スペースとしては狼煙あげる台があった程度、ではないかとも思う。
休憩。少々怖かった。が、頂上からの眺めは素晴らしい。絶景。五日市の市街まで一望のもと。檜原城からの烽火中継点としては理想的立地。休憩も終え下ることに。この西峰から東峰に尾根道が続いているようなのだが、如何せん、怖気心が先に立つ。登ってきた道を再び下りる。谷は極力見ないように、じっくりと腰を下ろし、というか岩にへばりつくようにゆっくり下りる。岩場を越え、右手の崖を見ないように尾根道を下る。 尾根道から斜面に降りる堀切りに到着。大安心。光厳寺まで戻り戸倉城跡登り終了。

戸倉城はもともと秋川渓谷周辺の武州南一揆の有力土豪・小宮氏の居城といわれる。で、後に滝山城を養子北条氏照に「渋々」譲った大石定久の隠居地に。とはいうものの、この大石氏、完全に北条氏に従ったわけではなく、青梅の谷に勢力を張る三田綱秀などと誼を通じ、北条に対する反抗の機会を伺っていたとも。定久のその後は定かではなく、八王子周辺の野猿峠で割腹したとか、 この地で天寿を全うしたとか諸説。天正十八年の小田原の役の頃は、大石氏は八王子衆として北条の家臣団に組み入れられ八王子城で戦ったといわれている。南一揆衆を一躍有名にしたのは、足利尊氏が武蔵野合戦で敗れたとき。南朝方の新田義宗軍に敗れ、羽村と拝島の中間点である牛浜の地から秋川を渡河。この秋川 の谷筋に逃げ込み、南一揆の諸将に匿われる。6日後には南一揆の諸将とともに府中に進撃。府中・国分寺・深大寺のあたりで両軍激突。南一揆が足利軍の戦陣で活躍し新田軍を追討した、と。世に言う金井原の合戦である。
戸倉バス停から五日市駅に戻り、本日の秋川古城跡散歩を終了。歩いた距離はそれほどない。が、450m程度の山登り、しかも結構厳しい直登、急峻な崖道と、散歩とは少々言い難いコースではあった。

木曜日, 12月 22, 2005

西多摩散歩 ;八王子城跡から滝山城跡へ


歴史小説などを読んでいると、八王子あたりで折に触れて登場する城跡がある。先日古本屋で買った『武蔵野 古寺と古城と泉(桜井正信;有峰書店)』にも登場する。八王子城跡と滝山城跡だ。片方はほとんど高尾、もう一方はほとんど拝島。結構離れている。直線距離でも8キロ弱ありそうだ。ちょっときついかな、などとは思いながらも、12月のはじめ、このふたつの城を歩いてみようと思った。案の定というか、予想通りというか、いやはや大変な1日となった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



本日のルート;京王高尾>(霊園前バス停)>真照寺>宗関寺>八王子城跡>高尾街道を北上>八王子四谷町で陣場街道と交差>楢原町で秋川街道交差>工学院大学>滝山街道>丹木町3丁目手前>滝山城跡>丹木町3丁目>加住市民センター前>(高月浄水場前ひとつ手前のバス停>東秋川橋・秋川橋>二宮本宿>多摩橋・多摩川>五日市街道>清岩院・清岩院橋>)福生駅

京王高尾駅
京王高尾駅に。先回京王高尾駅南口からJR高尾駅北口へと結構大廻りさせられた。で、今回はひょっとして、と改札口をチェック。南口から北口へと通り抜けできた。
駅前のバス停で八王子霊園方面行きバスに乗る。多摩御陵と多摩森林科学園の間を上り、城山大橋、新宮前橋、宮の前、中央高速を越え霊園前で下車。

八王子城跡

八王子城跡入口の案内を確認。真照寺、宗関寺といったお寺を眺めながら進む。しばし歩くと入口広場・管理事務所。案内図を確認。山頂に土塁を補強し設置した本丸、山を削り谷を埋め盛り土をした麓の居館など結構大きな縄張り。国の史跡として指定されている。麓の居館地区は平成2年に発掘・整備がなされている。

八王子城は、天正元年(1573~92年)、小田原・北条氏三代氏康の次男氏照が築城。天正18(1590)年6月23日、豊臣秀吉の小田原攻めの別働隊:前田利家(まえだとしいえ)、上杉景勝(うえすぎかげかつ)、真田昌幸ら1万5千の軍勢の予想外の来攻。城主氏照は精鋭を集めて小田原城に参陣中。残された徴集領民からなる城兵約千人の八王子城は一日で落城。埼玉・寄居の鉢形城攻防戦での「緩慢」なる攻城戦を秀吉に咎められ、面目を失った前田、上杉がこの時とばかり攻めかかった、とか。小田原攻めで唯一とも言われる大殺戮戦が行われた、とある。囚われた子女を小田原包囲陣に連れて行き、城内の士気を削いだ、とも。落城後の八王子城は、関東に入部した徳川家康により廃城され、城跡を徳川幕府の管轄地「御林山」として、立入を厳しく禁止されていた。

城山に
ともあれ、城跡を目指し本丸・金子丸方面への登山道を山頂に向う。450m程度の山。鳥居をくぐり山道に。しばらく歩くと新道と古道に分かれる。古道を上る。あまり整地されていない。ブッシュというか草茫々。結構きつい。息が切れる。

2合目あたりで新道と合流。少し緩やかに。10分ほど歩き9合目。ゆるやかな尾根道となる。素晴らしい展望の見晴台・松木曲輪跡。絶景。筑波から丹沢までが見渡せる、とか。

山頂に八王子神社
見晴台から数分で頂上。麓から30分程度で上れただろうか。休憩所が整備されている。結構古びた神社・八王子神社が。落城時、この地で切腹した城代・横地監物をまつっている、と。
頂上からの見晴らしはそれほどよくない。しばし休憩。
下りは新道を。麓近くに梅林が。結構古びた神社。神社脇から石仏巡りの案内。道なりに進むと居館地区に下りる。

御主殿跡

城山川に沿って少し歩く。大手道、御主殿跡への橋。整備された古道(?)を進む。曳橋が。発掘によりこの地に橋のあったことがわかり、それを復元。石畳・石垣からなる虎口を通り氏照の住居・御主殿跡に。結構広い。建物は残っていない。虎口は「こぐち」と読む。城の出入り口のこと。虎口の由来は「武家名目抄」にある。「城郭陣営の尤(もっとも)要(かなめ)会(あい)なる処(ところ)を、猛虎の歯牙にたとへて虎口といふなり」、と。

後は一路、滝山城跡に、というわけだが、時間は3時近い。もう少々早く家をでれば、とはいうものの、詮無し。ひたすら急ぐ。八王子城跡入口まで戻り、中央高速をくぐり、城山大橋で左折。高尾街道に入る。

陣場街道と交差
元八王子3丁目、鍛冶屋敷を過ぎ、中央高速をくぐり、元八王子2丁目、元八王子1丁目、元八王子小と歩く。日が暮れてゆく。更に早足。大沢川を渡り元八王子中から八王子四谷町で陣場街道と交差。まっすぐ進む。

秋川街道と交差
四谷中入口、並木橋、松枝橋南を過ぎ、松枝橋で北淺川を渡る。松枝橋北を過ぎ、楢原町で秋川街道と交差。楢原町の交差点を越え、適当に右折し、なりゆきで北東に向って歩く。運良く川口川にかかる橋、というほどの橋があったとも思えないのだが、ともあれ川を越え、八王子犬目地区から工学院大学角の交差点に。ほとんど日が落ちた。どうなることやら。ともあれ急ぐ。

工学院大学の交差点を左折し谷野町に入る。結構な峠道。坂道の途中に派手な美術館・東京富士美術館。このあたりに創価大学がある。その系列か。午後6時頃か。完全に日が落ちる。さらに進む。もう滝山城には登れないだろう、と思いながら足は滝山城跡方面に。行くだけ行こう、といった心境。

滝山街道と交差
谷地川を渡る。東京純真女子大学前で滝山街道と交差。左折し進む。急に歩道が切れる。何気なく歩を止める。足元は川。危うく転落・大怪我するところであった。それにしても、ガードレールも何も無し。危険。まさに九死に一生、といった状況。

滝山城址下
さらに進む。丹木町3丁目のちょっと手前。何気なく右手を見る。滝山城址下、というか入口の道案内。とりあえずアプローチだけ確認し後日、また、と右折しちょっと山道に。

滝山城跡
漆黒の闇。ヘッドライトを取り出し状況確認。少し進む。結構怖い。引き返す。が、思い直し、少々ビびりながら再び山道に。やっぱり行こう。と、性根を据える。車1台がギリギリ登って行ける道を進む。途中標識を確認しながら進む。800m程歩いた。標高はそれほど高くない。160m程度か。
頂上である本丸、中の丸、だろうと思うのだが、開けた場所に到着。ライトの彼方に神社が浮かぶ。神社裏手から街の灯が。足元に注意しながら崖際に。なんとか眼下の夜景を見ようとおもった。が、木立が邪魔し見通しよくない。それでも一応拝島方面の夜景を確認。広場から抜ける道を捜すが見当たらず。これ以上進むのをあきらめ、来た道を再び下りる。いやはや、結構しびれる滝山城跡散歩でありました。



滝山城跡。この城の城下町が八王子の原点とも言われている。武蔵国の守護代大石氏(定重・定久)と小田原北条氏の一族(氏照)の居城。永正18年(1521年)、高月城から移転した関東管領山内上杉家の重臣大石定重が築城。川越夜戦により扇谷上杉を滅ぼした北条氏康は山内上杉の勢力を上野まで退ける。その際武蔵の国人領主も多くが北条に下る。滝山城主・大石定久もそのひとり。北条氏照を養子に迎え五日市の戸倉城に隠居。永禄(1558)元年頃、北条氏照が滝山城に入城。八王子城に移るまで居城とする。

城郭は多摩川と秋川の合流点にあり、戦国時代を代表する山城。川の流れにより浸食された加住丘陵に立地し、複雑な自然地形を巧みに縄張りした天然の要害。丘陵・谷地・崖端をたくみに利用し築城されている。特に北側は多摩川との高低差50~80mの断崖。北から侵入する敵に対しては鉄壁の備えとなっている。

城内は空堀と土塁によって区画された大小30ばかりの郭群が有機的に配置。現在では、本丸・二の丸・三の丸・千畳敷跡等が残されている。規模の大きさ、繩張の複雑さ、遺構の保存状態の良さなどからみて、戦国時代の城郭遺構としては日本有数の遺跡。

武蔵野の古城跡で滝山城ほど、戦の洗礼を受けた城も少ない。そのたびに大石一族は勝利を収め、落城の経験のない城でもある。
滝山城を巡る攻防戦;
天文5年(1536)、上杉・大石連合軍と北条氏康と戦う。甲斐の武田信玄の加勢を受け安泰。
天文21年(1552)、越後上杉の宇佐美定行が上杉憲政の支援で滝山城を攻撃。滝山軍は加住丘陵下の秋川・多摩川の河原で戦い勝利。
永禄12年(1569)、武田信玄・勝頼の侵攻。北から下ってきたこの本隊に呼応し、大月の岩殿城主・小山田信茂が小仏峠を越えて奇襲。高尾山下の背後から攻撃に対し北条氏照は淺川廿里(ととり)に陣を敷く。が、苦戦。二の丸まで攻め寄せられるほどの猛攻を受ける。氏照を中心に城方もよくこれに耐え、落城をまぬがれた。しかし、この戦闘の後、氏照は小仏方面からの武田勢に備えるべく、八王子城を築きその居を移すことになる。

加住丘陵を越える峠道

滝山城跡を下り、丹木町3丁目交差点に。バス停があり、八王子駅のバスも走っている。おとなしくここからバスに乗っておけばよかった。が、交差点の行き先表示に、「東秋川橋」。近くに多摩川が流れているのだろう。であれば、橋を渡れば直ぐに拝島ではないか、と思った。これが大きな勘違い。ちょっと地図を確認すればいいものを、夜目遠目、なにせ地図の小さい文字など、見えやしない。ということで加住丘陵を越える峠道を歩く。
峠道を下り切る。が、橋など見えやしない。対岸には車のヘッドライトが流れているのだが、如何せん橋がない。地図を確認。東秋川橋は、はるか北。あきらめて最寄りのバス停から最初に来たバスに乗り、結局福生駅に。
長い長い1日が終わった。しかしながら、滝山城跡、真っ暗でよく全体像がわかっていない。近々、近辺の高月城・戸倉城とまとめて滝山城を再び歩いてみよう、と思う。

水曜日, 12月 21, 2005

屋久島散歩

今年の連休、会社の仲間と屋久島に行った。砂時計の如く薄れ・消えゆく記憶に抗い、散歩の記録をメモしておく、と書いたことがある。最近はマジに「軽くヤバイ」。散歩の記録、キチキチとメモしなければ。
きっかけは何だったか覚えてはいない。ある日、「屋久島に行きません。縄文杉を見に行きませんか」、とのお誘い。田舎生まれの我が身としては、なにが悲しく て、またはなにが嬉しくて杉など見に行きたいのか、その心持ちは定かには分からない。しかも往復10時間も歩いて行く、という。が、その場の雰囲気で「ええよ」と言ってしまった。杉は別にしても、森を歩くのはいいものだろう、と言った程度の心持ち。結局4泊5日の旅と相成った。



屋久島空港
初日。羽田から鹿児島、鹿児島からはJAC日本エアーコミューターに乗り継ぎ屋久島に。空港で予約していたレンタカーを借りて民宿に急ぐ。森は深い。緑は豊か。山並みが聳える。九州最高峰の峰もあるという。山の姿としてはハワイの山々といった雰囲気。火山島ゆえか。

民宿・勝丸

のどかな道筋。民宿・勝丸に到着。どいうった手違いなのか、大部屋に全員一緒に、ということに。うら若き女性2名, 少々若い女性1名、少々若い男性2名、そして彼ら・彼女らの父親といった年恰好の私といった6人パーティである。

千尋の滝

ちょっと休憩。そのあと宮之浦港のあたりをブラブラと。鹿児島からのフェリー乗り場が。島一番の繁華街(?)、といったところ。観光物産センターで焼酎調達。後は夕方まで島内観光。レンタカーで島の反対側まで。千尋の滝、大川の滝などを見る。千尋の滝は花崗岩一枚岩の雄大な眺め。落差60m。大川の滝。落差80m。屋久島最大の滝。渇水期のようで、写真でみる雄大なる瀑布を堪能することはできなかった。途中、ところどころにあるガジュマルの樹を眺めながら民宿に戻る。
民宿は料理民宿といった風。海の幸・山の幸満載。これで6,000円程度の宿泊料で経営は大丈夫なのだろうか、と他人事ながら心配になる。豪華な料理であった。で、明日の登山のお弁当の予約だけをすませ宴会に。焼酎で酩酊するもの、島歌にあわせて踊り狂うもの、とっとと寝るもの、それぞれのスタイルで屋久島第一夜を。

縄文杉に

二日目。翌朝5時頃起床。時間が遅くなれば登山口までの道路が混むといったこともあり、弁当を受け取り登山口へ急ぐ。海岸線を安房まで。山方向に右折。山道に入っていく。

屋久杉ランド

尾 根に上りきったあたり、屋久杉ランドへの案内。「縄文杉まで10時間も歩くのはちょっと」、といった方にはここがいいかも。標高1,000m~1,300m。樹齢数千年の屋久杉を始め、苔・シダ類に覆われた原生林。安房川支流・荒川にそった森に30分コースから150分コースまで、いくつかの散策コースがつくられている。

荒川登山口

が、今回は縄文杉散歩。標高900m強の荒川分岐から屋久杉ランドとは逆方向に谷を下る。荒川ダムを過ぎ、午前6時頃荒川登山口に到着。標高600m程度。
すでに結構混雑していた。雨が降り始める。月に35日雨が降る、というこの地、致し方なし。トロッコ置き場の軒を借り、雨具を羽織り出発。標高差約700m、片道11km、往復時間は休憩を入れて10時間といった縄文杉日帰り散歩のスタートである。

小杉谷

トロッコ軌道のある道を歩きはじめる。すぐに軌道橋。出発し45分程度で小杉谷に。小杉谷学校跡など杉の伐採が盛んな頃の集落跡。杉伐採盛んなりし頃は500名ほどの住人が住んでいたとか。ちなみに「小杉」とは樹齢1000年以下の杉のこと。「屋久杉」と称するには1000年以上の樹齢がミニマムリクアイアメント。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

三代杉
小杉谷集落跡から30分弱で楠川歩道出会。楠川方面から登ってくる登山道との合流点。白谷雲水峡からのルートでもある。軌道のすぐ右わきに三代杉。伐採された杉の株に着生した杉が育っていく切株更新で三代目。そしてこの名前がついたとか。
初代の杉が2000年で倒れ、更新した2代目の杉が1000年に伐採、その後生長した杉が数百年たったものが、現在のこの杉であるという。

大株歩道入口
軌道左側に仁王杉。登山道より少し離れた所にある。大株歩道入口に。荒川登山口からほぼ8.4キロ。2時間半ほど歩いた平坦な道・軌道道もここでおしまい。これからが本格的な山道になる。

翁杉
しばらく進むと翁杉。幹周12m。屋久島第2の巨樹。幹は様々な寄生植物で覆い尽くされている。この付近より翁岳が望めることから、この名前がついたとか。ここから巨樹の森に踏み行っていくこととなる。

ウィルソン株

翁杉からしばらく行くとウィルソン株。大株歩道入口から30分程度。大きな切り株。幹径14メートル。1500年代末に秀吉の命による京都方向寺建立のために伐採された、とか。が、400年経った今でも、その株は朽ちていない。そしてそのことは屋久島の杉は何ゆえかくも大きくなるのか、ということと表裏一体。

一般に杉の樹齢は300年ほど。樹齢2000年、3000年にも成長するのは、月に35日雨が降る、つまりは海岸近くで年間4,000mm、山中では10,000mといった雨の恵み、それと、島の成り立ちそのものによることが大きい。
屋 久島は一枚の花崗岩からできているとも言われる。マグマが冷え固まってできた花崗岩の島の実感をつかむには、千尋の滝のあの巨大な一枚岩の花崗岩を見れば一目瞭然。屋久島の土台は花崗岩からなる。ということは、栄養分の補給が乏しい。つまりは、杉の育ちが悪い、というか遅くなる。で、年輪の幅が緻密になる。材は硬くなる。樹脂道に普通の杉の約6倍ともいわれる樹脂がたまる。樹脂には防腐・抗菌・防虫効果がある。そのため屋久杉は長い年月の間不朽せずに生き続けられる、ということだ。
ちなみに、「月に35日雨が降る」って林芙美子の『浮雲』の中で語られたフレーズ。ついでに、「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」も林芙美子の有名なフレーズ。

ウイルソン株という名前は大正時代にこの株の存在を広めた植物学者の名による。ウィルソン一行は、この株で雨宿りをしたという。我々パーティもしばし雨宿り。株の中には祠が。そのすぐわきには清水が涌きでていた。

大王杉

ウィルソン株からしばらくは急な登り。ここからがもっとも厳しい登りだろう。大王杉が。昭和41年の縄文杉発見までは、屋久島を代表する杉。樹齢は3,000年近いとか。
大王杉を越え夫婦杉。斜めの枝で二本の杉がつながっている。いわゆる連理と呼ばれるもの。森が美しい。品がある。

縄文杉

夫婦杉からしばらく歩くと縄文杉の展望台。ウイルソン株から1時間半弱、大株歩道入口から2時間半程度で着いた。標高1,280m。樹齢7200歳とか世界遺産登録などで一躍有名になった。もっとも約6,300年前の喜界カルデラ生成時の火砕流により、屋久島は甚大な被害を被っており、それが事実とすれば、そのときに屋久島の杉は壊滅的打撃を受けたはず。それ以前の杉はありえないってこと。樹齢7,200年説は怪しくなってくる。
が、そんなことはどうでもいい。勇壮なる巨木である。私はそうでもないが、パーティのひとりなど、感激のあまり、目がウルウルしていた、よう。

近くで休憩。野生の鹿・ヤクシカが挨拶に来た。人懐こい。後は来た道を逆に一路民宿に。本当に10時間程度の縄文杉への散歩であった。


白谷雲水峡
3 日目。雨。白谷雲水峡を目指す。白谷雲水峡は宮之浦川の支流、白谷川の上流にある自然休養林。宮之浦からおよそ12キロ。標高620メートルのところまでレンタカーで山に登る。アップダウンを繰り返し、ひたすらの上り。雲海の上に、といった雰囲気。標高としては、照葉樹林からヤクスギ林への移行帯にあたる。渓流の美しさはひときわ、のはず。山登りより、沢筋を歩くのが趣味のわが身ではある。が、本日は雨。沢など水であふれ、進むこと叶わず。映画「ものの け姫」の森のイメージのモデルになったとかいう、この品のいい森を歩くのが楽しみであった。少々残念。いつかの機会に、ということにしよう。

フェリーで鹿児島に

最終日;天候悪い。飛行場に。が、天候不順のため、飛行機の発着できず。待ち人の中に俳優佐々木蔵之助が。女性たちの静かなる喜び、ひとしお。結局飛行機離着陸できず。宮之浦からの水中翼船・トッピーも一杯。

結局、宮之浦からフェリーで鹿児島に。水中翼船の倍4時間程度かかるが、仕方なし。鹿児島本港着。予定外の鹿児島の夜を楽しみ、翌日は鹿児島の街を楽しみツアー終了となる。


屋久島に来るまでは、小さい島であろうと思っていた。何時間か歩けば一周できるのではないか、などとも思っていた。結構大きな島である。周囲132キロほど。一周するには車で4時間程度走る必要があるだろう。
また、コバルトブルーの海に「聳え立つ」島である。洋上アルプスとも呼ばれる。実際、宮之浦岳は標高1,935m。九州最高峰の山である。それ以外にも1,000メートルを超える山が40あるという。山登りもよし、沢歩きもよし、森を歩くのもまたよし。今回で土地勘がわかった。次回は白谷雲水峡から楠川登山道、宮之浦岳といったコースを歩いてみたいと思う。

ちなみに、屋久島の「屋久」の語源、はっきりしない。「細長く伸びた半島」といった説もある。が、はっきりしない。そういえば東京の荒川区に屋久という地名が。「奥」といった意味らしいのだが、これもはっきりしない。
そうこうしているうちに、屋久島同行のひとりが調べてくれた。鎌田慧さんの『日本列島を往く(4)』。によれば;往時、屋久島を男島、種子島を女島と称(とな)え、其語源はアイヌ語のタンネ(細長い意-種子島)、ヤック(鹿の意-屋久島)にあると言う。はてさて。地名の語源にアイヌ語から、というのは少々食傷気味。問題意識として「屋久」の語源を温めておこう。

火曜日, 12月 20, 2005

蛇崩川緑道を歩く


休みの日と言うに、代官山でお仕事。どうせのことならと、先回の烏山川緑道のとき目にした蛇崩川緑道に沿って目黒川まで、そして代官山まで歩くことにした。
それにしても「蛇崩」って結構オドロオドロシイ名前。"大蛇が暴れ土地を崩した"、とか、"蛇行する川が大雨時に逆巻く激流となり、それが大暴れする蛇に見えたら"とか、"このあたりの土地がよく崩れたので砂崩川と呼ばれ、それがいつしか蛇崩川と呼ばれるようになった"などと、これも例によって諸説入り乱れ る。
「じゃくずれ」の意味は広辞苑によれば「蛇崩れ」と表記され、"崖などの崩れること。また、その崩れた所。山くずれ。" とある。であるとすれば、蛇とは全く関係なく、ただ単にたびたび崖崩れがあったから蛇崩と呼ばれるようになった、というのが自然ではなかろうか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
いずれにしろ、三宿病院近くの蛇崩交差点のあたりは昔、急斜面の崖があったのだろう。蛇崩川の水源は馬事公苑あたり、と。昔は溜池もあった、とか。地図でみると弦巻あたりまで水路跡っぽい筋が見える。が、緑道の最上流地点は上馬5丁目の小泉公園あたりのよう。その近く、世田谷1丁目に世田谷代官屋敷がある。 先回の世田谷散歩のおり、この井伊家の代官大場家の住まい跡に行くことができなかった。ついでのことなので本日の散歩は代官屋敷からスタートすることにした。(火曜日, 12月 20, 2005のブログを修正)


本日のルート:世田谷線上町>世田谷代官屋敷・郷土資料館>小泉公園>蛇崩川緑道>環七駒留陸橋>246号線と交差>三軒茶屋病院>三軒茶屋1丁目>明薬大 日大前>下馬4丁目・駒留中学校>駒?神社>蛇崩下橋>蛇崩川緑道を離れ(蛇崩交差点>野沢通り>東山中学)>蛇崩川緑道に戻る>東急東横線と交差>目黒川と合流

世田谷線上町・代官屋敷
下高井戸から世田谷線に乗り世田谷線上町下車。世田谷通りを越え世田谷1丁目、ボロ市通りの代官屋敷に。彦根藩世田谷領の代官であった大場氏の屋敷。都指定史跡。世田谷村20ケ村を明治4年の廃藩置県のときまで治めた。
江戸の地で代官屋敷、というのも奇異な感じがするが、当時の世田谷は「江戸朱引き外」、つまりは江戸の外。大名領があってもおかしくはない。邸内にはお裁きの白州跡も。敷地内にある郷土資料館をざっとながめ、蛇崩川源流地点近くに進む。

蛇崩川緑道

世田谷駅前交差点からの道筋・世田谷中央病院の角を右折。弦巻1丁目交差点を左折し、弦巻小学校交差点を右折。駒沢公園通り。弦巻1丁目と上馬5丁目の境の道を南に下る。なんとなく南方向の地形が凹んでいる。川筋・緑道は最も低いあたりだろう、とあたりをつけ進む。
下りきったあたりに、いかにも川筋を埋めた様子の細い緑道。小泉公園は右折か左折かよくわからない。とりあえず左折。民家の間の狭い遊歩道をちょっと歩くと、少し大きな通りに。向天神橋方面に川筋を埋めたような歩道が車道に沿って続く。この通りは弦巻通り、であった。
地図をみれば、すこし先の弦巻中学のあたりに水路跡が見える。蛇崩川って、このあたりのいくつかの湧水を集めた川であったのだろう。このまま進むと馬事公園に行ってしまいそう。代官山の約束の時間もあり、引き返すことに。蛇崩川緑川がはじまる小泉公園のあたりに戻る。
地名、「弦巻」は「水流巻(つるまき)」。水流が渦巻くという意味。水源地・湧水地・湿地を表す。昔、馬事公苑のあたりに溜池があり、それが蛇崩川の水源となっていたわけで、弦巻もその当時の地形の名残の地名なのだろう。

環七から246号線に
弦巻通りに面した小泉公園を越え、環状七号線を駒留陸橋で交差。緑道は北東に進み、三軒茶屋二丁目あたりで南東に振れる。西太子堂から下る道・世田谷警察署横を進み246号線と交差。


駒?神社
三軒茶屋病院、三軒茶屋1丁目、明薬大日大前、下馬4丁目・駒留中学校と進み駒?神社に。祭神は大物主神。緑道沿いにかかっている朱の橋が目をひく。往古、このあたりは鎌倉と地方を結ぶ鎌倉街道が通っており、源義家が奥州に向かう途中、この神社で祈願参拝をしたとも。その後、源頼朝が奥州征伐のためこの地を訪れたとき、義家参拝にならい、頼朝が自分の馬を繋ぎ参拝をした、というのが神社名の由来。
駒繋神社のある下馬や上馬の地名の由来:頼朝参詣の折り、馬の足が沢にとられたとか、沢の深みにはまってなくなってしまったとか、いずれにしても、馬を曳いていけとの命。で、この地が馬引沢村と。そして馬引沢村が後に上・中・下に分かれ、江戸中期には「上馬引沢村」「野沢村」「下馬引沢村」に。その後、昭和7年(1932年)の世田谷区成立の際、「引沢」を省略して「下馬」「上馬」という地名になったという。
とはいうものの、馬引沢村の名は全国的各地にあるよう。足場の悪い湿地帯などで、乗馬して通れないところなどで見られる名前であり、頼朝の話も少々眉唾ではあるが、言い伝えは所詮言い伝え、ということで納得。

蛇崩交差点
先に進む。246号線三宿交差点から世田谷公園にそってくだる道筋と交差。緑道は北東に振れる。三宿病院入口の近く・蛇崩交差点近くで蛇崩下橋を渡る。三宿は「水宿」から。水の宿る地であった、から。幕末の頃まではこの近くに池もあった、という。烏山川・北沢川の合流点から目黒川大橋にかけて一帯は泥沼地であったわけで、このあたりには池尻、池ノ上といった地形の名残をとどめる地名も多い。




目黒川と合流
上目黒4丁目と上目黒5丁目の境を東西に進む。東急東横線と交差。遊歩道消える、水路に蓋をしたような自転車置き場を歩く。山手通りを越え、目黒川と合流・合流地点だけちょっと開渠となっていた。蛇崩川との散歩もこれでおしまい。

戦前は陸軍の施設
それにしても本日散歩したところはその昔、というか明治から終戦までほとんどが陸軍の施設となっている。もともと東京の都心からはじまった兵営は広い土地を求め郊外へと移動する。で、注目されたのはこの地域一帯。農地・雑木林が広がり、しかも都心に近く交通の便がいい。
ということで、まずは官有地であった駒場東大前近辺の駒場野を橋頭堡として、池尻・三宿・太子堂・下馬・三軒茶屋近辺に兵営・練兵場・陸軍病院といった軍事施設が展開されるようになる。
池尻・駒場に騎兵第一連隊と近衛輜重兵大隊。続いて三宿・太子堂・下馬・池尻の一帯に野砲第一聯隊・近衛野砲連隊・駒沢練兵場,野戦重砲兵第八連隊・衛戌病院。
駒沢練兵場の広がりは南北は国土地理院跡から現在の三宿病院、東西は東山中学校から池尻小学校までの広大なものであった。其の他、下馬に砲兵聯隊,桜丘に自動車学校,用賀に陸軍衛生材料廠などが設置された。 第二次大戦のころは軍関係の施設は15(部隊8,学校2,病院2,工場・材料廠3)にまで増加した、という。

軍用地は戦後は学校や公的機関の敷地となる

終戦後、旧軍施設跡地についてメモしておく。池尻・大橋地区の兵営跡地は筑波大学付属高校等の学校や住宅地。太子堂・下馬・三軒茶屋の野砲第一連隊の跡地には,昭和女子大学その他の学校・都営住宅。駒沢練兵場跡は公園や防衛庁技術研究所・自衛隊中央病院,学校。
池尻の糧秣廠跡には食糧学校。太子堂・三宿の陸軍衛戌病院は国立小児病院。桜丘の陸軍の自動車学校-機甲整備学校敷地跡は東京農業大学。
用賀の衛生材料廠の跡地は自衛隊衛生補給所・衛生試験所・馬事公苑になっている。つまりは、軍施設の跡地はおおむね学校、病院、公務員住宅、政府関係施設などとなっている。

蛇崩交差点再訪

後日談。駒沢練兵場の東端、現在の東山中学の前の急な坂道を歩いた。蛇崩交差点あたりに、本当に崖が崩れるような急峻な坂道があるのかどうか、地形を確認するために訪れた。で、これが結構な坂道。息が切れる。蛇崩の由来は充分に納得。
それはそれとして、崖下を流れる蛇崩川をイメージしながら野沢通りを山手通り方面に向って歩いていた。なにげに入り込んだところに東山中学が。で、件の坂道の途中に馬頭観音。由緒書によれば;この地にあった近衛歩兵連隊5000名と軍馬1300頭がこの坂道をつかって急坂登坂訓練。で、力尽きてなくなった軍馬2頭をねんごろに弔うべくこの観音さまをおまつりしたとか。

ちなみに「駒沢」の地名の由来。明治に上馬引沢村、下馬引沢村、野沢村、弦巻村、世田ヶ谷新町村、深沢村を統合し新しい村をつくる際に適当な村名が見つからず、6つの村の名の間をとって「馬」=「駒」+「沢」=駒沢村と。大正昭和と一時消滅。昭和42年(1967)になって上馬から2~3丁目、新町から3~4丁目、深沢から1・5丁目をもらい再び駒沢として復活した、という。


月曜日, 12月 19, 2005

目黒区散歩 そのⅠ;駒場東大前から目黒へと

休日、代官山で仕事があった。仕事といっても、「ご苦労さん」、って顔を見せるだけ。であれば、ということで、駒場東大前から代官山まで歩き、顔見世の後は、再び代官山から目黒の国立自然教育園に。しばし紅葉見物の後は時間次第で目黒不動方面に足を伸ばすことにした。(月曜日, 12月 19,2005のブログを修正)


本日のルート;駒場東大前駅>淡島通り交差>池尻大橋・246号線>目黒川>中目黒駅>旧山手通り・鎗ケ崎交差点>目黒川に戻る>茶屋坂>恵比寿ガーデンプレース>白金・庭園美術館>行人坂>大円寺>太鼓橋>大鳥神社>目黒不動>目黒駅

井の頭線駒場東大前
井の頭線駒場東大前下車。駅前の古本屋で『江戸東京学事始め;小木新造;筑摩書房』購入。散歩を始めて、地理・地形の本を結構買うようになった。
駒場の歴史は江戸時代、この地、駒場野に薬草を栽培していた御用屋敷から始まる。八代将軍吉宗が鷹狩を行って以来将軍の鷹狩場に。ちなみに鷹は必ず獲れるように演出がされており、その役職は綱差(つなさし)として代々受け継がれた、とか。幕末に徳川幕府はフランス人の軍事教官の建白に基づき、この地を軍事演習場とする計画を出した。が、周辺農民の起こした駒場野一揆により、実現せず。明治維新を迎え、駒場農学校が現在の東大駒場キャンパスの地に開校。鷹狩場がそのまま学校の用地となっている。

淡島通り

駅から淡島通りへとゆったりとした坂を登る。淡島通りと交差。先日会社のスタッフが結婚式を挙げた駒場エミナース前に。横の道を南に。都立芸術高校、駒場東邦学園、第三機動隊官舎に沿って歩く。

このあたりは昔、近衛輜重兵大隊があったところ。その西・筑波大学付属中学・高校のあたりは騎兵第一連隊、またその北には陸軍の練兵場広がっていた。ちなみに、目黒区の駒場、大橋、東山、世田谷区の池尻、三宿、下馬といったあたりは陸軍の施設が数多くあった。これらの地域に学校、病院、団地、自衛隊施設が集中しているのは軍用地を転用しているわけだ。




国道246号線・目黒川


国道246号線に向って結構下る。下ったあたりが東邦大学大橋病院。このあたり10m以上の標高差があるだろうか。246号線を渡って目黒川に。烏山川と北沢川が三宿池尻あたりで合流したものが目黒川。都の清流事 業にのっとり、落合下水処理場で高度処理された水が流れ込む。


西
郷山公園
川に沿った遊歩道を歩く。目黒橋で山手通りと交差。西郷山公園・菅刈公園下を進む。菅刈とは、往時このあたり、目黒区から世田谷区にかけて菅刈庄と呼ばれた荘園であったため。

駒沢通り
遊歩道に沿って西郷山下、千歳橋、宿山橋を越え、東横線と交差。往時、目切坂から宿山橋をとおり東西に伸びる旧鎌倉街道が続いていた、とか。日の出橋を過ぎ駒沢通りに。駒沢通りを恵比寿方面に少しのぼる。

鎗ケ崎(やりがさき)交差点

旧山手通りとの合流地点、鎗ケ崎(やりがさき)交差点手前で少々のお仕事。しばしの間歓談。再び散歩に出かける。時間は午後3時過ぎ。どこまで行けるだろうか。

目黒川・田楽橋

目黒川沿いの遊歩道に戻り田楽橋。昔の舟入場。海運物資の集積地だったのだろう。中里橋を左折。清掃工場と金属材料研究施設、防衛庁官舎の間を登る。



茶屋坂
茶屋坂、新茶屋坂。目黒区教育委員会の「茶屋坂と爺々が茶屋」の由来書;茶屋坂は江戸時代に, 江戸から目黒に入る道の一つ。大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下るつづら折りの坂で 富士の眺めが良いところであった。

この坂上に百姓彦四郎が開いた茶屋があって, 3代将軍家光や8代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄って休んだ。家光は彦四郎の人柄を愛し,「爺,爺」と話しかけたので, 「爺々が茶屋」と呼ばれ広重の絵にも見えている。以来将軍が目黒筋へお成りのときは立ち寄って銀1枚を与えるのが例であったという。また10代将軍家治が立ち寄った時には団子と田楽を作って差し上げたりしている。こんなことからこの「爺々が茶屋」を舞台に「目黒のさんま」の話が生れたのではないだろうか、と。

国立科学博物館付属自然教育園

茶屋坂脇の紅葉が結構美しい。坂を登りきり、少々雑然とした民家のあたりを通り三田橋でJRを越える。恵比寿ガーデンプレースに。ウエスティンホテル東京と三越の間を通り、社会教育館交差点、恵比寿3丁目交差点に。右折し白金6丁目から外苑西通りを上り、松岡美術館を越えたあたりの信号を右折。国立科学博物館付属自然教育園に沿って法連寺、台北駐日経済文化代表処前を進み、目黒通りに。右折し国立科学博物館付属自然教育園の入口に。4時を過ぎており閉館。幸運にも隣の庭園美術館は午後6時までオープン。この美術館、昭和3年に建てられた旧朝香宮邸。紅葉結構美しい。ゆったりとうす暗がりの中散歩。思わぬプレゼント、って感じでありました。
(後日自然教育園を訪れたことがある。江戸期は高松藩下屋敷。明治期には陸海軍の火薬庫。大正期は白金御料地。湧水や極相林など、豊かな自然が残されていた)

行人坂

時刻は5時を過ぎている。あたりは真っ暗。とはいうものの、目黒近辺の「見所」は歩き終えておこう、ということで、行人坂に向う。目黒駅を越え、JRの線路を跨ぎ、すぐ左折。行人坂へ。坂を下る手前に富士見茶屋跡の由来書。富士山の眺めを楽しめる茶屋があった、とか。「江戸名所図会」にも、富士が見えるさま「佳景なり」と。行人坂に。坂の途中にある大円寺前を太鼓橋まで下る急坂。「江戸名所」に「行人坂とは白金台町より西の方目黒に下る坂をいう。寛永のころ、羽州(出羽)湯殿山の行者(行人)ここに大日如来堂を建てたる所なり、とある。

明和9年(1772年)、大円寺から出た火が折からの強風にあおられ、白金から神田、湯島、下谷、浅草まで江戸八百八町のうち六百二十八町を焼き尽くした。特に江戸城のやぐらも延焼したので、以降80年近く大円寺は再建を許されなかった、とか。この火事は振袖火事、芝・車町火事と並んで江戸三代火事のひとつ。行人坂火事と呼ばれている。
大円寺の石仏群はこの大火の供養のために、五十年という歳月をかけてつくられた。ちなみに、大円寺は八百屋お七の恋い焦がれた吉三郎が僧となって、処刑されたお七の菩提を弔った、と言われるお寺。吉三郎は行人坂を改修、さらには太鼓橋をかけた、とも。

太鼓橋

で、坂を下りきると目黒川にかかるのが、その太鼓橋。広重の江戸名所百景「目黒太鼓橋夕日の岡」。一面の雪景色。傘をさし橋を渡る人の影。江戸の昔に思いを馳せる。ちなみにこの橋、大正時代の豪雨で流されてしまった、とか。

権之助坂

太鼓橋を渡り右折。目黒通りを権之助坂から下りてくる目黒新橋方面に。権之助坂の由来は例によって諸説あり。総じて、菅沼権之助という名主の威徳を偲んで名づけたとか。

大鳥神社

目黒通りに。左折し山手通り大鳥陸橋・大鳥神社の交差点。渡りきったところに大鳥神社。目黒最古の神社。「日本武尊の御霊が当地に白鳥としてあらわれ給い、鳥明神として祀る。」とあり、大同元年(806年)社殿が造営された、との社伝あり。

目黒不動

真っ暗の中、もうひと頑張り。最後の目的地、目黒不動に向う。大鳥神社に沿って目黒通りのちょっとした坂を登りきったあたりを左折。住宅街に入る。角には目黒寄生虫館が。進む。森というか林にそって下ると滝泉寺・目黒不動。本尊は不動明王。往古より不動信仰の地として多くの人々の信仰を得る。
開山は808年天台座主慈覚大師円仁。不動明王の夢のお告げにより建立とのこと。徳川家光の信仰篤く、諸堂宇を再興し、山岳寺院配置の伽藍が完成。戦災により大半が焼失したが、戦後は仁王門、本堂などが再建され、現在にいたっている、と。

目黒区教育委員会の解説文には;境内は台地の突端にあり、水が湧き老樹が茂り、独鈷(とっこ)の滝や庭の池が美しく、庶民の信仰といこいの場所でした、と。 境内に独鈷の瀧(とっこのたき)。江戸名所図会では次のように描かれている;『当山の垢離場(こりば)なり。往古承和十四年〔八四七〕当寺開山慈覚大師入唐帰朝の後、関東へ下りたまひし頃、この地に至り独鈷杵(とっこしょ)をもてこの地を穿ち得たまふとぞ。つねに霊泉滑々として漲(みなぎ)り落つ。炎天旱魃(かんばつ)といへども涸るることなく、末は目黒一村の水田に引き用ゆるといへり、と。台地から湧き出る水は、何処で見ても神秘を感じる。本日の予定はこれで終了。山手通りから目黒通りの権之助坂を登り目黒駅に。 


金曜日, 12月 09, 2005

陣場山散歩;秋の紅葉_5

陣場山散歩;秋の紅葉_5

秋の紅葉を求める散歩も5回目。前々から気になっていた陣場山に行くことにした。高尾に行くたびに、陣場への尾根ルートへ進もうとは思うのだが、如何せん時間切れ。単に朝起きるのが遅く、散歩開始が遅く、日暮れが怖く、これまではパスしていた。早起きがすべての始まり。

で、陣場山へのアプローチ。コースはいくつかある。どのコースにするか、あれこれ迷った。陣場へのルートは大きく分けてふたつ。陣場山に連なる尾根を境に、南側からと北側からのルート。

北側ルートはJR八王子駅からバスでおおよそ1時間、陣場高原下バス停で降り和田峠経由山頂に至る道筋。
南側ルートは高尾方面から尾根筋を縦走して陣場に行くコースと、藤野駅からバスで陣場登山口まで進み、そこからひたすら陣場の山頂を目指すコースがある。
今回は、高尾方面からの縦走ルート。それも、小仏峠経由でのアプローチを選んだ。理由は、高尾散歩の「襷」をつなぐこと。それと、小仏という、旧甲州街道・裏高尾ルートの雰囲気を感じたかったから。

JR高尾
9時頃には家を出た。画期的な早起き。小仏峠方面へのバスはJR高尾から。京王高尾線で高尾下車。午前10時過ぎ。バス停のあるJR北口への連絡はよろしくない。京王高尾・南口からは結構大回りで、踏み切りを渡り北口に(後日、京王線の改札からJRに通り抜けることができることがわかった)。

バスは平日は1時間1便。が、休日の午前のこの時間は3便あった。10時32分に高尾出発。途中車窓から小仏関跡が目に入る。この関所もとは小仏峠にあり富士見関と呼ばれていた。16世紀末か17世紀の初頭、現在の地、甲州街道・駒木野宿に移る。関所では通行人や荷物を厳重に調べた。特に「入り鉄砲と出女」は警戒された、とか。

旧甲州街道
小仏峠に至るこのバス路線は旧甲州街道。車1台幅+αの狭い道。すれ違いの対向車待ちが必要。現在の甲州街道は八王子から南浅川上流の案内川に沿う大垂水峠を越えて甲斐国(山梨県)に通じている。そのルートになったのは明治21年(1888)のこと。
それ以前の旧甲州街道は、小仏川沿いに小仏峠を越え、中央高速・JR中央線に沿って相模湖町に続いていた。小仏峠越えの道も、通行が盛んになったのは江戸時代に入ってから。戦国時代の武田信玄の家臣、大月岩殿城主・小山田信茂が、八王子の滝山城を攻めた時に、この山路(北の景信山と南の高尾山からの尾根と鞍部)を越えて廿里の砦を急襲した。その頃から峠路として利用するようになった、よう。
室町時代末期には、北条氏照の八王子城の前進防衛基地として小仏峠の頂上に砦を設けた。その後北条が破れ、秀吉の命により関東を家康が治めるようになり、小仏峠には家康の命で関所が設けられた。
関所を守ったのは、武田や北条の残党をもとにつくられた屯田兵のような半農の人々である千人同心。で小仏峠。1寸8分の小さな仏像が峠に安置されていたのが峠の命名の由来。

小仏バス停
15分程度バスに乗り、終点小仏バス停で下車。小仏川に沿って歩く。すぐに大珠寺。境内に紅葉が見える。寄ってみる。こじんまりしたお寺。入口の階段の横に由来書;小仏のカゴノキ;幹が鹿の子模様になるところから、 漢字で「鹿子の木」と書くクスノキ科の常緑高木。 目通り(目の高さでの幹の太さ)約4m、樹高約15mで 枝が樹幹を中心に南北22m、東西17mに広がっている。

大珠寺を出て道を進む。舗装路。今でも車1台といった幅の道。昔の甲州街道はどの程度の道幅だったのだろうか。そういえば新選組、というか、勝海舟に甲州守備を命じられ甲陽鎮撫隊を組織した近藤勇・土方歳三も、この道を上りこの小仏峠を越えて進んだわけだ。重い大砲2門を引き、峠道を歩いた200余名の若者達のことを少々想像。

景信山への道標
で、曲がりくねった道を15分程度歩くと「景信山」への道標。山道に入る。後から分かったのだが、これは当初予定していた小仏峠経由ルートではなく、「直接」景信山に登るコース。小仏峠は、まだ30分程度先だった。

尾根道に
ともあれ、山道を進む。結構きつい。尾根道に。30分以上も登っただろうか、尾根道に「左:景信山,右:小下沢」の三叉路。景信山方面に。ゆるやかな尾根道。小下沢方面からの登山者も多い。走っている人も多い。マラソンの「高地トレーニングもどき」をしているのだろうか。

景信山頂
景信山頂までほぼ平坦な道。景信山頂直前は勾配がきつい。途中から木の階段が山頂まで続いている。登り始めてから1時間弱で到着。頂上には休憩所。結構多くの人が着ている。時間が気になり、休憩はパスし陣場山に向うことに。
景信山の由来は、八王子城を守った北条家の家臣、横地将監景信の砦がこの山にあった、とか、横地将監景信がこの地で討ち取られたとか、例によっていろいろ。


景信山から直ぐのところは結構きつい下り道。何度か滑った。それ以外は、それなりの尾根道。ところどころにアップダウンはあるが、「想定範囲内」。明王峠まで2キロ程度。時間が気になり、走るが如く進む。明王峠で一休み。閉鎖された休憩所の裏手に不動明王尊があったようだ。それがこの峠の名前の由来。
陣場山頂
景色が広がる。残念ながら雲が多く、見晴らしはよくない。一服し、再び歩く。陣場山までは名王峠から2キロ強といったところか。比叡山の大阿闍梨の如く進む。陣場山頂に。午後1時過ぎ。高尾駅を10時32分に出発。バスは20分寂。11時頃から上りを開始、ということは、小仏の登山口から陣場山まで2時間半程度。結構急いだ。

陣場山頂からの眺めは360度の大パノラマ。うす曇で視界はよくないのが残念。休憩所のオバーチャンに晴れた日の写真を見せてもらう。富士山、相模湖、東京都心などなどが一望のもと。機会を改めて来てみたい。

陣馬山とも陣場山とも書かれるが、もともとは、陣場山とか陣張山とか。武田軍がここに陣を張ったからとか。馬になったのは、京王電鉄が観光地として売り出すときに「馬」を当てたとか。真偽のほど定かならず。曇りで見えなかった富士山をカシミール3Dでつくり、イメージ楽しむ。

栃谷尾根からJR藤野に
しばし休憩の後、栃谷尾根からJR藤野に向って降りる。時間は1時半過ぎ。道標に従い山を下る。始まりは結構厳しい下り。木の階段にはなっているが、勾配きつい。少々膝にくる。
どんどん下る。ほとんどが杉木立の中。視界よくない。1時間弱で里に。茶畑が最初に迎えてくれる。農家の脇道を下る。庭先の紅葉美しい。くねくね道を下る。とことどころに陣谷温泉への案内看板。ちょっと前、会社の仲間と三頭山に登ったとき日帰り入浴を楽しんだ。

車道まで下る。左は陣谷温泉。ちょっと気持ちが揺らぐが、今日は我慢。川にそって下る。結構長い。途中、紅葉の美しいところが。腰を下ろし休憩。ところどころに茶畑。このあたりお茶が有名なのだろうか。
ちょっと調べた;昔このあたりは養蚕で有名。でその桑畑が今、茶畑に、ということだった。
結構大きな車道に。和田峠につながる県道だろう。ちなみに和田峠の駐車場を利用すれば、陣場まで往復1時間弱で行けるとか。ともあれ、左折するとすぐ、陣場登山口バス停に。ここから陣場に上るには2時間以上かかりそう。いままで下りてきた道を逆に進む、といったことは想像するだけでご勘弁願いたい。このルートを通っての陣場山へのアプローチはお勧めできない。事実山道の途中で出会ったのも1組だけ。それも結構プロっぽい、山男風学生集団だけであった。

JR藤野駅
先に進む。車道で、そこそこ車の往来も。藤野への最終地点はトンネル。1台通れるだけのスペース。歩く我々は少々怖い。おっかなびっくりでトンネルを抜けるとすぐJR藤野駅。到着は午後3時過ぎ。下り2時間弱かかった。山頂から里まで1時間弱。そこから駅まで1時間といったところ。尾根歩きと同じ程度の時間がかかった。全工程14キロ程度。4時間強の陣場山尾根縦走でありました。紅葉は栃谷地区の民家軒先のもの、それと栃谷地区を少し下った澤井地区・栃谷川脇の紅葉が本日の収獲。

本日のルート;小仏バス停>宝珠寺>景信山登山口(360m)>景信山(727m)>堂所山(710m)>明王峠(710m)>陣場山(854m)>栃谷>陣場登山5口バス停>JR藤野駅

木曜日, 12月 08, 2005

秩父散歩;秋の紅葉_4

秩父散歩;秋の紅葉_4

なかなか、絢爛たる紅葉に出会わない。インターネットで紅葉狩り情報など調べ、関東近辺で「今を盛りに」を探す。「秩父・長瀞は今が満開と」。どう考えても遠い。とは思うが、行かずばなるまい。ということで、家を出る。とりあえず西武・秩父線に乗ればいいか、といったお気楽さ。

西武池袋駅着。12時頃。特急の指定は1時過ぎまで売り切れのよう。仕方なし。行き当たりばったりで、電車を乗り継ぎ進むことに。
タイミング悪く、所沢行き。所沢から飯能行きと乗り継ぐことに。準急で池袋から飯能までおよそ1時間。乗り換えがあったので1時間以上かかったよう。飯能で秩父行特急レッドアローに。芦ヶ久保、横瀬を通り秩父までおよそ40分。いやはや遠い。

飯能で列車はスイッチバック、というか後先逆になる。東飯能を過ぎ、高麗のあたりから山間いをうねるように国道299号線、高麗川に沿って進む。ところどころ紅葉が。吾野、西吾野を越えると正丸峠。昨年だったか、「棒の折山」に登ったとき、登山口の名栗湖の先に「正丸峠」という名前。その向こうは一体どこに続くのだろう、と結構気になっていた地名。正丸の名前の由来は、親を背負ってこの峠道歩いた孝行息子の名前が「正丸」君だったとか。

トンネルをくぐる。正丸峠を抜け、芦ヶ久保、横瀬を通り終点、西武秩父駅に。秩父着13時47分。

秩父鉄道・御花畑駅
長瀞へは秩父鉄道に乗り換えなければ。ということで、駅に続くお土産店のアーケイドを通り抜け、秩父鉄道・御花畑駅に。駅のプラットフォームから異様な山塊が。山肌が白く削られている。秩父と言えば秩父セメント、ということで、セメントの原料になる石灰岩の採掘跡と勝手に思った。これは正しかった。石灰石岩の採掘により、峯がひとつ消え去った。標高も1,336mから1,295mとなっている、と。

この山、秩父鉄道の三峰行き方向に見えていたので、勝手に三峰山だと思っていた。これは間違いだった。山の名は武甲山。三峰はもっと西。もっとも三峰山という山はない。三峰神社の裏に聳える妙法山(1,329m)、白石山(1,921m)、雲取山(2,017m)の三つの山を指して三峰と言う。はじめて知った。 

この三峰山一帯は、詩人野口雨情が、「朝にゃ朝霧、夕にゃ狭霧、秩父三峰霧の中」とうたっている。霧の多いところなのだろう。春は桜、秋は紅葉が美しい、とか。

黒谷
御花畑駅発14時18分。御花畑>秩父>大野原>黒谷(くろや)>南野(みなの)>(おやはな)>上長瀞、と進み、長瀞着14時40分。いやはや遠い。3時近くになってしまった。ちなみに黒谷、日本ではじめて銅鉱脈が発見されたところ。ここで日本最初の銅貨、和銅開宝がつくられるまでは、中国や朝鮮の銅貨が使われていた。この慶事に年号を和銅と改元したほど。とはいえ、最近、和銅開宝よりもっと古い銅貨が見つかった、とかいったニュースを見たような気もするが。。。

長瀞
長瀞駅前は結構混雑。紅葉見物のご同輩なのだろう。最初、川の反対側、白くて大きな長瀞の目印といった白大鳥居のある方向に歩く。宝登山神社の参堂。頂上からの眺めはいいようなのだが、如何せん時間がない。のんびりしていると日が暮れる。

ということで、荒川筋に向う。駅から荒川まではすごい混雑。お土産屋をひやかしていると、田舎まんじゅうが。炭酸まんじゅう、とも書いてある。昨年、棒の折山・登山のとき、名栗湖畔の休憩所で食べた田舎まんじゅうの味が忘れられなかった。子供のころ田舎でおばあさんがつくってくれた「膨らまし粉」を入れた柏餅、というか柏まんじゅうの味だった。名栗湖のもとの同じ味を期待し、お買い上げ。期待どおりの味だった。ちなみにお土産に持って帰ると娘が結構喜んでくれて、また満足。

岩畳
饅頭の話はさておき、長瀞といえば、といった岩畳に。隆起した結晶片岩が文字どおり岩の畳となって広がる。長瀞下りの川船も数多い。川向こうには紅葉が。色鮮やかってほどでなない。
川筋に沿って歩く。県立自然史博物館に。秩父は秩父中・古生層から新生代までの変化に富んだ地層に恵まれた地質の宝庫。近代地質学発祥の地。小さい頃から鉱物・植物・昆虫などに特別の興味を示しており、とくに鉱物が好きで「石コ賢さん」と呼ばれた宮沢賢治が大正五年、盛岡高等農林学校二年生、二〇歳の時、この地に地質調査に来ている。博物館近くの紅葉は素晴らしかった。今年初めて、紅葉らしい紅葉見物をした感じ。大いに満足。

親鼻橋
日暮れが近い。先を急ぐ。上長瀞駅近くを荒川に沿って歩く。秩父鉄道と交差。結構立派な鉄橋。鉄橋をくぐり県道と交差。左折し道なりに行けば親鼻橋。橋を渡れば紅簾片岩の露頭、紅簾片岩があるようなのだが、県道を車に気をつかいながら歩くのは勘弁してほしい、ということで交差点を直進。山裾の道を選ぶ。

南野駅
金崎地区を進む。荒川からだいぶ離れる。山に近づく。山に向って道が続いている。川筋に沿って道があるようなので、車道から離れ川に沿って歩く。先に橋が見える。少し安心。栗谷瀬橋。歩道と車道が分かれた橋。歩道専用橋を渡り、道なりに進み南野駅に。日没。時間切れ。
南野駅から西武直通の電車に乗り、一路家路に。直通電車は西武秩父をパスし御花畑から直接横瀬に出て池袋まで。今回はほとんど歩けなかった。が、今年最高の紅葉見物が楽しめた。ヨシとしよう。

「秩父地方は、荒川の上流に、武蔵の国より古くから開けた地方。古代の国造(くにのみやっこ)制の時代には、秩父の国造や埼玉(さきたま)の名でいわれる国造族が、荒川流域に古墳をつくって、現代まで高塚文化といわれる諸古墳を残している。
秩父は南の武蔵野とちがい、山地で囲まれた盆地地帯で、河段段丘や関東山地の中にひとつの特色ある文化を育てて、武蔵野の他の地域とは違ったものをつくりあげている。
秩父への入口は、荒川の玉淀や寄居からであるが、名栗の入口である飯能から旧秩父脇往還で山伏峠や妻坂峠を越えて、秩父と武蔵野の村里を連絡した古道が開かれていた。このように、秩父は他の地区と接するには、峠路を越えるが、荒川を下るところだけが自然に開かれてる。。。」。今日たまたま神田の古本屋で見つけた『武蔵野 古寺と古城と泉;桜井正信;有峯書店』の秩父の描写。気に入ったのでメモする。

で、前々から、秩父ってどんなところだろう、と想っていた。もっと山の中だろうと想っていた。実際は、予想以上に広い盆地だった。北の方に荒川が流れ出る盆地の開口部があるなどと想像もしていなかった。カシミール3Dでも盆地>荒川>開口部>寄居の地形ははっきりわかる。また、最近Google earthをダウンロードして楽しんでいる。飛行機に乗ったつもりで秩父上空を飛び回っている。いやはやすごいソフトが登場したものだ。

本日のルート;長瀞>上長瀞>秩父鉄道をくぐり>国道と交差>紅簾片岩>長興寺>金崎>栗谷瀬橋>南野

水曜日, 12月 07, 2005

仙川散歩 そのⅢ;; 仙川の下流域を歩く

京王線・仙川駅から野川との合流点まで
仙川散歩の三回目は下流域散歩。京王線・仙川駅からはじめ、川筋に沿って下り、祖師谷、砧と進む。東名高速の手前、大蔵の地には崖下から湧水が湧き出る。崖線のことを「はけ」と呼ぶ。野川「はけの道」はよく知られている。この「はけ」もところによって呼び名が変わる。国立の立川・青柳崖線では「ママ」と呼ばれている崖は「バッケ」。「はけ」とか「バッケ」は崖がなまったもの、とは思うのだが。「ママ」って由来はなんだろう。一説には「アイヌ語」とも言われるが、よくわからない。
ともあれ、崖線を横に見ながら野川との合流点まで進む。合流点の近くでは「丸子川」も登場する。六郷用水の上流部である。流路は更に南に伸びている。



本日のコース: 京王線・仙川駅 > 甲州街道 > 甲州街道・仙川崖線緑地 > 神明神社 > 祖師谷公園・つりがね池 > 砧の撮影所 > 大蔵3丁目公園 > 野川と合流 > 丸子川・六郷用水分岐点 > 岡本民家園 > 矢戸川合流点 > 砧公園バス停

神明神社
京王線・仙川下車。京王線の南側を千歳烏山方面に下り仙川に。遊歩道を進む。駒澤大学の野球場を越えたあたり、神明神社と祖師谷公園。神明社とは、伊勢信仰に由来する名前。かつて神明社と呼ばれていた社・祠は、明治期に天祖神社と名称を変更したケースが多い、とか。天皇家にゆかりの深い伊勢神宮に遠慮をしたのだろう。ちなみに、「神社」という名称がつけられたのは明治になってから。それまでは、「社」とか「祠」と呼ばれていた、と(『江戸の街は骨だらけ』鈴木理生:桜桃書房)。神社自体は今ひとつ情緒がないが、境内の木立は素晴らしい。確か保護樹林といった掲示があった。

祖師谷公園・つりがね池
神社に隣接して、祖師谷公園。川の両側に広がる。公園を一回りし進み、祖師谷5丁目あたりの遊歩道に地域の地図。つりがね池という名前の池が目にとまった。川からちょっと離れており、さてどうしたものか、とも思ったが、名前に惹かれ足をのばすことにした。道に迷いながらあちこち。またも神明社に出くわす。行き 止まりに何度も阻まれながら「つりがね池」に。
崖下からの湧水がもとになった水源池。周囲の丘の緑も美しい。昔、わが身を犠牲にし、雨乞いをおこなった和尚の話が伝わる。日照りが続き、渇水に悩まされていたとき、和尚が現れ雨乞いの儀式をおこなう。するとある日突然の大雨。日があけると和尚の姿はない。お寺から鐘がなくなっている。鐘を引きずった跡が池の辺まで。鐘ともども池に身を投げ。。。つりがね池のあるこの「窪地・谷」 = 祖師谷との説も。祖師谷とは祖師堂のある谷のこと。で、祖師とは関東では日蓮上人のこと。池に身を投げた、といっても今の池は浅そうで身投げの想像はできないが、ともあれ、わが身を犠牲 にした坊さんが日蓮宗の坊さんであったとすれば、そのとおりであろうか。

砧の撮影所
川筋に戻り、両側に成城学園コンプレックスを眺めながら小田急線をくぐる。砧の撮影所を見ながら歩く。張りぼての「岩」が転がっている。砧の由来。往古、この地は絹布の名産地。織りあがった布を小槌で打ってやわらかくするときに下に敷いていた板のことを「絹板(きぬいた)」と。このこれが「砧」の地名の由来とのこと。で、砧といえば、砧6丁目に北原白秋が住んでいた、とか。散歩をしていると白秋の住んでいた、というところにしばしば出会う。千葉の市川の国府台・里見公園には住居が「紫烟草舎」が保存されていた。「野茨に鳩」はお気に入りの詩。短い詩をちょっとメモ:

薔薇
薔薇ノ木ニ
薔薇ノ花サク。
ナニゴトノ不思議ナケレド。

他と我
二人デ居タレドマダ淋シ、
一人ニナッタラナホ淋シ
シンジツ二人ハ遣ル瀬ナシ
シンジツ一人ハ耐ヘガタシ
(白金之独楽)

大蔵3丁目公園
世田谷通りを越え、川筋から少し離れ、大蔵3丁目公園に。崖下から湧き出る湧水池。池や親水公園もいいのだけれど、その裏の崖が魅力的。崖を登ったり降りたり、気持ちのいい時を過ごす。崖をおり、川に戻る。すぐに東名高速道路と交差。砧公園の裏手の運動公園の森がある。


野川と合流
東名高速を越え、自動車教習所のあたりに、結構大きい浄水施設。「礫間接触酸化法[れきかんせっしょくさんかほう]とかいった浄化法で水を美しくし、谷戸川とか谷沢川にも水を供給しているとのこと。谷沢川って、等々力渓谷を流れる川。
少し下がったところで、仙川脇から細い水路が分かれている。気になってチェックすると六郷用水との掲示。地図で確認するとずっと南まで続いている。谷戸川とも繋がっている。
すぐ先にある多摩堤通りを越えると仙川は野川と合流。この野川との合流地点では帰るに帰れず、電車に乗るにも乗れない。どうせ最寄の駅まで歩くのならと、六郷 水路・谷戸川沿いに北上し砧公園へ。でバスに乗り、千歳船橋へとのコース設定。仙川・六郷用水の分岐まで戻る

丸子川・六郷用水分岐点
分岐点から六郷用水に沿って歩く。丸子川と呼ばれているこの六郷用水、江戸に入府した徳川家康が領内の耕作地を開発するために開削させたのがはじまり。多摩川から取水され、その左岸一帯の灌 漑用水として使われていた。多摩川治水奉行・小泉次太夫吉次の名にちなんで次太夫堀とも呼ばれる。野川・喜多見のあたりに次太夫公園がある。





岡本民家園
丸子川を下り、岡本民家園の前を通り、谷戸川が合流する場所を確認し、大きく迂回しながら矢戸川の源流地点方面に北に登る。地図で見る限り、砧公園中まで川筋が続いているようだ。時間がなくて寄れなかったが岡本民家園とか静嘉堂文庫あたりの森はいい感じ。地形のうねりも気になる。



砧公園バス停
砧公園川に沿って北に。が、東名高速道路との交差で行き止まり。川は下をくぐるが道はない。結局高速道路にそって砧公園・環八近くまで引っ張られバス停に。
photo by tarawo